
『大人』と『子供』があるとすれば。
根源的には、本当は人に『大人』や『子供』の区切りなど無いという思想を持っている。
しかし一方で、友人と酒を交わしながら「ワタシたちも大人になったなあ」と語らうことがあるし、誰かを見て「あの人は大人だなあ」と感じることもある。だからワタシは冒頭の思想を持ちつつも、どこかで『大人』『子供』の基準を設けてもいるのだろうと今になって気づいた。
どこまでが子供で、どこからが大人なのだろう。何が人を大人にさせるのだろう。大人になるって、どういうことだろう。
今からその問いに対する、今日時点のワタシなりの答えを書いていくことになるのだけれど、既に感じていることとして「ここまで子供、ここから大人」という明確な線は無いような気がしている。
きっとグラデーションなのだ。子供の心にぼんやりと大人の色が混ざり、徐々に全体の色が変わっていく。境目などなく、どこまでも曖昧に連続的に変わっていく色の中で「あ、今から大人だ!」と言える色は無い。けれどある日ふと改めて見直した時、もはや幼い頃と殆ど違う色になっているそこを見て「…あれ、大人になってる」と感じるのだろう。
◇
大人になるってどういうこと。
ワタシは、背負うものが増えることだと思う。
背負うものの多さが人を大人にさせるのだと、そのように思う。
さて。随分と長い前置きを経て、男が語ったのは「背負うものの多さ」ということでした。
少し補足させていただきますと、この『背負うもの』には沢山のことが含まれております。
例えば社会的責任。例えば別れの悲しみ。例えば大切な人たちを守る覚悟。例えば亡き家族の無念。例えば過去に抱いた信念。例えば破れた夢。あるいは、他にそのような意味合いを持ったもの全てです。
つまり年齢じゃないんだよな。
歳を取って老けている人が大人とは限らない。もちろん長く生きている方が、その時間だけ背負うものを見つける可能性は高くて、故に『大人』の割合は歳を重ねている人に多いのは間違いないと思う。
だけど、幼くても『大人』にならざるを得ないほど壮絶なものを背負った人は居るし、高齢だろうと何も背負わず、『子供』のまま生きている人もいる。
どちらが良いとか悪いとかではなく、ただこれまでの人生をどのように生きてきたか、これから先をどのように生きていくかだけだと思う。
『背負う』というのは、勝手にそうなるものではない。本人の魂が「背負うぞ」と決めなければ、何も背負わないのだ。
その意味では、そもそも何かを「背負うぞ」と魂が動くその瞬間にこそ、人は大人になるのかもしれない。
男は不意に眼前の景色を眺めますが、目に映っているのはその景色ではなく、過去のあれこれでした。
目の前に現れる色々な場面の己、己、己。
男は目に映る己と今の己を比べて、やはり「大人になったなあ」と感じております。
背負うものが増えれば増えるほど、その重さで身動きは取りづらくなっていきます。時にはそれらを一度下ろして、身軽な気分を味わいたいと思うことも確かにあります。
しかし、ものを背負い身動きが取れないその身体で、それでも笑うのが大人ということかもしれません。
何も知らない頃のあっけらかんとした笑い顔ではありませんが、多くのものを背負ったその背中で、複雑に色が混ざったその魂で笑う顔というのはきっと優しく、それこそが誰かを救うことのできる顔ではないでしょうか。
そうであるなら自分は大人になって良かった、と男は思い、一人その笑顔を見せるのでした。
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「書いてみろ!」とワタシに衝動を与えたこのテーマは、こちらから拝借させていただきました。
【哲学対話書簡】と銘打たれ、毎度興味深いテーマで皆様書かれております。参加は自由ということです。おかげさまで、この度ワタシも自分の思想が整理できました。ありがとうございます。