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微笑への代償

    県警本部捜査一課の女性刑事、媼麗華(おうなれいか)は、清掃作業員の死亡事故をきっかけに、個人情報を扱う合法的な名簿屋の存在に辿り着く。捜査を進める中で、環境事業所の担当者・利田が命を落とし、媼は自責と覚悟を胸に動き出す。利田が残した書きかけのメモが、二つの会社を繋ぐ糸口となり、やがて組織の全貌が浮かび上がってくる。派遣という立場への歪んだ思想を持つ川瀬美穂との取調室での対決、そして「たかが派遣が」という言葉が、事件の核心を突き崩す。社会の歪みと人間の業を描く、媼麗華シリーズ第二作。


    Ⅰ


    中央署を後にした媼は、そのまま県警本部に戻った。捜査一課には、多賀谷も一末もいた。媼は迷わず多賀谷に声をかけた。

    「多賀谷先輩、よくあんな報告書が書けますね」

    「俺は正直者だからな。思ったことを素直に書く主義なんだ。見習えよ、おまえも」

    媼は、時間がもったいなかったと反省していた。媼は多賀谷を見捨てて一末を見た。携帯を相変わらず見ていたので、媼は声をかけた。

    「一末さん、いつも何見ているんです?」

    「え?携帯。高かったからな。定価で買ったんだぞ?たくさん見てやらないと損をするだろ?」

    『相手にした自分が馬鹿だった』媼はそう思いなおし、席に着こうとした時だった。

    「こちら中央署、指令室、至急報。中央署管内において、パッカー車による人身事故の通報。被害者、清掃作業員1名。状態は心肺停止とのこと。直ちに現場急行し、状況確認されたし。以上」

    刑事課内の、雑音まじりのリモコン(マイクとスピーカーが一体になった無線機)がそう伝えていた。媼は多賀谷の方を向いていた。多賀谷も媼と目を合わせた。お互いに驚いた顔をしている。媼は即座にリモコンの前に行き、マイクをつかんで操作していた。

    「こちら本部。当該、神津の現況、直ちに報告されたし。以上」

    刑事課は静まり返っている。媼は返答を待っていた。

    「中央署、こちら指令室。現況を至急、報告されたし。以上」

    少し間があった。

    「こちら中央署。対象、神津、依然として家屋より出ずとの報告。以上」

    媼はまた多賀谷と顔を見合わせていた。そしてリモコンに向かって言葉を続けた。

    「了解。状況変わり次第、速やかに報告されたし。以上」

    リモコンから顔を離した媼は、多賀谷の方にまた顔を向けていた。

    「慌てるな。まだそうと決まったわけじゃない。落ち着け」

    多賀谷のその言葉で、媼は自分の顔が、相当焦っていたのだろうと、状況を確認した。しかし、落ち着けるものでもなかった。中央署から、まだ戻っていない榛葉は、この状況を知っているのだろうとは思っていた。『これは一体…』媼は、単なる事故だと一応、考えることとした。しかし落ち着かない。心臓が高鳴っている。


    Ⅱ


    …そこは、静かな職場のようだった…。何人かの男、何人かの女が、事務仕事をしている。一人の男が、誰も見ていないテレビから聞こえて来た音声に、耳目が取られた。『市内において、パッカー車による人身事故が発生し――』男はひとり、呟くように声を吐き出した。『…へまをやったな…』そして、何事もなかったようにまた、仕事を処理していた。周りの者たちには、届かない声の大きさだったのだろう。誰もその言葉に反応する者はいなかった…。


    Ⅲ


    媼は、通常業務をこなしながら、榛葉係長が戻るのを待った。それにしても落ち着かない。事故現場に駆け付けたい気持ちを、必死に抑える自分のもどかしさと、ただひたすら戦っていた。

    「係長」

    ようやく戻って来た榛葉に、媼は真っ先に声をかけた。

    「事故のことは聞いている。神津のこともだ。まあ落ち着け、中央署がすでに動いている。彼らの働きは、十分に知っているだろ?我々が動くとすれば、その報告を聞いてからだ」

    「私も現場に行きたいのですが…」

    媼は正直な気持ちを言った。

    「ダメだ。今の我々の業務ではない。何かを彼らが掴んでくれてからだ。わかったな」

    媼は頭を切り替えた。

    「では係長、神津に当たって見ても構いませんか?」

    榛葉は少し考えた。

    「今日の今日だぞ?私が釘どころか張り付けにしたぐらいだ。奴が動けるはずがない」

    「いえ、あえて確認のためです。行かせてください」

    「おい多賀谷、一緒に行ってやれ。中央署には俺が連絡を入れておく。以上だ」

    声をかけられた多賀谷は、静かに頷いていた。


    Ⅳ


    本部を後にした媼と多賀谷は、並んで歩いていた。足早の媼に、多賀谷も合わせてくれていた。

    「多賀谷さんはどう思います?」

    「思った通りであってほしいのか?」

    多賀谷に聞いた自分を反省していた。しかし、聞かずにはいられなかった。

    「参考意見として聞きたかっただけです」

    「ま、神津に当たってからだな」

    さらに足早になった媼だったが、冷静にならなければと、頭を使うことに専念した。そして2人は、神津の家の前に到着した。中央署の捜査車両の運転手に、目で合図を送っていた。媼は多賀谷の顔を見てから、インターフォンを押した。それにしても大きな家だった。ここに一人で住んでいる。ちょっとうらやましくなって、媼は多賀谷に言った。

    「ここに一人でいるなんて、羨ましいですね」

    「こんなバカでかい家がか?おまえはわかってないな~え?誰が掃除するんだ?」

    「…」

    「何かご用ですか?刑事さん」

    インターホンから、聞きたくもない声が返って来た。媼は、イラ立ちを抑えながらも、丁寧に返した。

    「確認のために来ました。少しお話を伺いたい」

    少し間があった。

    「わかりました…」

    媼は、多賀谷の顔を見た。少しだけ怖い顔をしていた。大きな家だからだろう、しばらく待たされた。わざとゆっくりしているのかと、お得意の勘繰りを媼はやっていた。玄関の扉を開けて、門のところまで神津が出てきた。しかし、格子状の門は開けなかった。

    「何ですか?またオープンカーに乗せようというんですか?私を」

    榛葉のやり口を呪っているようだった。媼は気にせず質問を始めることにした。

    「いえ、確認と言いました。先ほど、ゴミ収集車、パッカー車ですね、それに人が巻き込まれるという事故が起きました。ご存じですか?」

    気持ちが昂るのを抑えようとしていた。神津の返事が遅いと、自分勝手な思いが顔を出してもいた。

    「そういう事故があったのですか?」

    多賀谷が口を開いた。

    「ほ~、得意のニュースはどうした?確認をしないのか?」

    神津は不思議そうな顔を多賀谷に向けた。

    「確認?何をです?」

    「おまえは自分の『成果』を、確認するのが好きだったじゃないか。取調べでも、事故の確認をニュースでして、事故そのものをいつも知っていたじゃないか」

    神津は、興味が無さそうな顔をして、多賀谷から顔を背けた。媼は取調べの時と同じように、神津の表情を監視していた。

    「そうでしたか?大人なのでニュースは見るという意味でしたからね。それに、もうどうでもいい話です」

    多賀谷も少しだが驚いた顔をしていた、そして言葉を続けた。

    「どうでもいい?急に物分かりが良くなった言い方だな。どうした?」

    神津は静かに返した。

    「正直に言うと文句を言われるのですか?心外ですね」

    媼は、いつも通りの神津が帰って来たとは思っていた。ただ、雰囲気が違うという感じもしていた。神津は続けた。

    「私にはもう、その必要性が無くなったということです」

    媼は思わず口を開いた。

    「それはどういう意味ですか?」

    神津は相変わらずの笑みを保ちながら、媼を見た。媼はイラ立ちを抑えるのに必死だった。

    「キレイな刑事さん、また何か私に言い掛かりですか?一般市民を何だと思っているんですか?」

    「質問に答えていない。聞いているのはこちらだ」

    媼はもう、神津の手に乗ることはない。ため息を一つ付いた神津は、やれやれといった感じで媼に顔を戻し、絶やさない笑みと共に口を開いた。

    「あそこにいる警察車両。あれは私を監視しているのでしょう。私の動向をです。私はそれに大満足しています。あなたたちは過去に言われましたよね?私の存在を認めてもらいたいから、事故を私が引き起こしたと。そしてこうして、警察は私を見張っている。ありがたいことですね、大変。そしてご苦労様です」

    媼は握っていた手のひらが痛かった。多賀谷が静かに口を開いた。

    「俺たちは仕事だ、仕事。わかるか?え?あ、無職のおまえには無理か、悪かったな」

    多賀谷の精いっぱいの皮肉だろう。媼は、そう思うことで怒りを鎮めた。神津は多賀谷を見て答えた。

    「お互い住む世界が違うのです。お疲れ様です」

    神津は背を向けて玄関の扉に向かって行った。2人は、黙ってそれを見ることしか出来なかった。


    Ⅴ


    媼と多賀谷は、中央署の覆面に向かって歩いた。多賀谷がその運転席の男に、軽く会釈をした。その顔の広さに、媼は感心していた。2人は静かにその後部座席に乗り込んだ。多賀谷が確認のために運転席の刑事に聞いた。

    「神田、動きは無かったんだな?」

    「ええ、榛葉さんの取調べのあとから今の今までずっと見張っていましたからね。動きなしです」

    神田という名前を初めて知った媼は、一言声をかけた。

    「お疲れ様です」

    バックミラー越しに、その神田という刑事が、会釈を返していた。そして媼の方を見ながら、こう言葉を返した。

    「仕事ですからね、でも媼さん、話には聞いていましたが本当におキレイですね。なんだかこうして一緒に車に乗っているのが光栄です」

    媼は恥ずかしくなって少し顔を下に向けていた。多賀谷がすかさず声を上げていた。

    「よかったな~媼、物好きがいてな」

    殴ろうかという思いを必死に抑えていた。

    「そうですね。物分かりの良い方が近くにいてくれて本当に助かります。神田さん、ありがとうございます」

    そう歳が離れていないであろう神田に、顔を整えて、微笑で神田に言葉を返していた。神田はあわててミラーから目を外していた。

    「だってよ神田。脈があるぞ」

    ドギマギと、神田はしている。肩に力が入っているのが後部座席の媼にもわかるぐらいだった。

    「神田さん、このままドライブしましょうか」

    「いえ、私はここで神津を見張るのが任務ですから…お望みでしたら非番の日にでも…」

    「この多賀谷警部が、代わりを務めてくれます。ですよね?警部さん?」

    媼は半ば本気で思っていた、神津との短い時間の接触に、イライラもしていた。気分を切り替えたかった。媼は言葉を続けた。

    「では先輩、かわいい後輩のために、よろしくお願いします」

    多賀谷はようやく口を開いた。

    「な?神田、嫌味が凄いだろ?疲れるのはこちらだ。覚悟は出来ているか?」

    「キレイな方からの嫌味は、嫌味ではなく愛情と考えます。以上」

    「か~、じゃあな。監視を怠るなよ」

    後部座席のドアを開き、多賀谷は車から降りていた。神田は、左に少し顔と体を向けて、多賀谷に敬礼をしていた。媼は神田に声をかけた。

    「では神田さん、神津のこと、よろしくお願いします」

    「ハッ、媼警部補、お任せください」

    媼は、神田にとっておきの笑みを返しながら車を降りた。神田はその媼にも敬礼をしていた。

    「多賀谷さん、本部に戻りましょうか」

    多賀谷は背伸びとあくびをしながら答えた。

    「そうだな。係長に報告と、事故のその後も知りたいしな」

    2人はまた並んで、本部に向かって歩いていた。

    「神田さんとはどういう知り合いなんです?」

    媼は気になって尋ねていた。多賀谷はめんどくさそうに答えた。

    「え?酔いつぶれてゴミ置き場でゴミの上で寝ていた俺を、丁重に保護してくれたからな。そういう縁だ」

    どういう縁かを媼は、警察官として理解していいのか悩んでいた。

    「子供ですね、やっていることが。ドラマか何かみたいなことを本当にしているんですね、よりによってゴミ捨て場のゴミの上なんて…」

    「酔っぱらって臭いも何も感じなければ、柔らかくていい寝心地だろ?次の日が楽だ、地面で寝るよりもな」

    得意げな多賀谷に、ただただ呆れていた。

    「そのまま収集されなくて良かったですね」

    「まあな、しようとしても、さすがに朝になっていれば俺でも目が覚めるしな」

    皮肉が届かない相手に、皮肉を語る無意味さをしみじみと感じながら、媼はトボトボと歩いていた。


    Ⅵ


    本部の6階にある刑事課に戻った2人は、榛葉が席を外しているのを知って、それぞれのデスクに戻った。隣の一末が、携帯を見ながら媼に声をかけてきた。

    「2人でどこに遊びに行っていたんだ?暇だな」

    「一日中携帯しか見ていない人に言われたくないのですが…」

    「おまえ、俺が好きで見ていると思うか?」

    「好きだから見ているんじゃないんですか?」

    媼は心底驚いた。ため息を付きながら、一末は媼の方を見て言った。

    「わかってないな、全く…定価で買った携帯だから、もったいないから見ていると言ったろ?記憶力は大丈夫か?刑事失格だな」

    一末は、呆れている媼には、それこそ全く気が付いていないようだった。こいつに神津を見張らせては絶対ダメなんだなという、妙な納得感が芽生えていた。そこに榛葉が戻って来た。媼と多賀谷は席を立ち、榛葉の元に行った。

    「係長、やはり神津は関係無いようです」

    席に着いた榛葉は、『だろ?』という顔を媼に返した。多賀谷が口を開いた。

    「神津は今後、何かをしでかすというのは無さそうです。あいつの興味は、別のところに行ったようでした」

    「ん?私の取調べに反省をしていたのか?そうならそうで、私に感謝をして欲しいものだな。まあ奴からの感謝など、受け取りたくもないのだがな」

    多賀谷は報告を続けた。

    「係長の取調べで、『神津を監視する』そして『監視を続ける』と宣言しましたよね?それがたまらなく嬉しかったようです。奴自身が皮肉たっぷりに語っていましたからね」

    榛葉は軽く頷いて、多賀谷に言葉を返した。

    「ま、我々は仕事だ。それは仕方がない。だが、防犯という観点から見れば、立派な仕事の一部だ。気にする必要はない。お互い満足じゃないか気にするな」

    媼が榛葉を見ながら言った。

    「何だか釈然としませんね。あいつを喜ばせている気さえしてしまいます」

    媼の正直な感想だった。

    「警察を喜んでくれるのは、犯罪を防いでくれた人や被害に遭った人の仇を討てたときぐらいだ。あと子供だな。グレーゾーンにいる人間からも感謝してもらえて、ファンが増えてたと考えればその気持ちも収まる。だろ?考えが足りんよ」

    さすが榛葉だった。媼は言葉を無くしてしまった。しかし瞬時に榛葉の表情が変わった。

    「事故の続報だ。パッカー車に巻き込まれた男性は、『川田良治、56歳』だ。おまえ、何か聞きに行った相手じゃなかったか?」

    媼は直ぐに言葉を出せなかった。会ったし、会話も榛葉が言った通りしている。事情を聞きに行った相手だった。頭が追い付かない。多賀谷が代わりに榛葉の方を向いて答えていた。

    「確かそのはずです。10年前のパッカー車事故の運転手をしていた人物です」

    「偶然かもしれんが、会ったことがある人間が死ぬのは、さすがに驚くな。しかも事情を聞きに行った相手だというのも効いてくる。まあ、今回は神津のこともある。中央署ではおそらく、パッカー車自体も調べるだろう。課長にもあげておく。対応はそれからだ」

    媼は、榛葉の言葉を聞いて少し落ち着いていた。やはり榛葉は手抜かりはなかった。まあ、中央署がパッカー車の中身を調べるのだろう、媼はその光景を思い浮かべて、中央署の鑑識係をおもんばかり、そして自分を落ち着かせようとしていた。媼は榛葉に尋ねた。

    「何か出ますかね」

    榛葉は媼に顔を向けて言った。

    「願って出てくれれば、犯人の自首でも願っていろ。状況を把握してから動く。そういうことだ。以上。おい一末、3日前の報告書がまだだ。徹夜するか?」

    今の榛葉の言葉のどの部分に驚こうかと思いながら、媼は席に戻って行った。媼は、多賀谷に声をかけた。

    「まさか終わったと思っていた事案が、こういう形で出て来るとは思いませんでした」

    多賀谷は、やれやれという顔をした。

    「まだ何もわかっていないと係長も言っていた。神津の線も無くなった。考えるだけ無駄だな。物好きだなおまえも」

    係長の前で気を付けをしている一末を見ながら、媼は考えていた。確かに単なる事故の可能性はある。今回は神津のこともあったから、パッカー車も調べられる。榛葉係長自身もそう言っている。勘ぐり過ぎか…川田とのやり取りを、媼は思い出していた。そう、引っかかっていた。媼は、あの川田の事情聴取で確かに引っかかっていた。『長く持っていたつかえが、今取れたような気がしています』というようなことを言っていた。

    媼が話を聞きに行ったとき、川田は最初、おどおどとした態度だった。しばらく話してから、当時の事故の状況を話し始めていた。そして『長く持っていたつかえ』が取れたにしては、やはり別れ際の川田の表情は冴えなかった。少なくとも媼にはそう思えていた。

    「多賀谷さん、ゴミ処理場に行ってみようと思うのですが、ダメですかね」

    他の刑事と談笑している多賀谷に声をかけた。

    「え?俺じゃなくて係長に言ってみろ。まあ、無理だろうな。俺はめんどくさいから行かないからな」

    「一緒に行って欲しいとは言っていません」

    「言われる前に断ってやったんだよ、感謝しろ」

    訳のわからない奴は放っておくことにした。榛葉の方を見たが、まだ一末が気を付けをしていた。媼は席を立ち、榛葉のデスクに向かった。

    「係長、ゴミ処理場に行きたいのですが」

    榛葉は一末に席へ戻れと、顎で言った。

    「自費でか?」

    媼はがっくりとした。その媼に榛葉が続けて言った。

    「ま、今はそれしか出来ないということだ。わかったな?『自費で』というのが精いっぱい。以上だ」

    席に戻った媼は、時計を見た。『明日か…』定時が近付いているのを知り、報告書を書くことにした。一末がようやく報告書を書いているようだが、その報告書の隣では、スマートフォンの画面はしっかりと起動していた。

    「では一末さん、お先に失礼します」

    「おう、お疲れさん。俺はもう少しだけかかるけどね」

    「終えようとしているんですか?それで。とても終わるとは思えないのですけど…」

    「誰が終わらせると言った?」

    「じゃあどうするんですか?」

    「隙を狙って帰る。以上」

    呆れている媼は、一末のほとんど書かれていない報告書を見てため息を付いていた。多賀谷はあっという間に報告書を提出し、媼はその姿を見届け、その後本部から帰宅の途についた。


    Ⅶ


    次の日、媼はいつも通り本部に来ていた。何人かの同僚に挨拶をしながら自分の席に着き、榛葉の登庁を待っていた。

    「おはよう」

    媼はその声に反応し、榛葉が座った席の前に向かった。

    「おはようございます。その後何かわかりましたか?」

    「おう、おはよう。今来たばかりだぞ?昨日の今日だ。慌てるな」

    媼は、そりゃそうだと思いながらも、動くことを伝えようと思った。

    「係長、以前訪問したゴミ処理場、環境事業所にまた行こうと思っているのですがよろしいですか?」

    「好きだねおまえも。暇なのか?」

    「いえ、気になるだけです」

    榛葉は呆れた顔をしながら答えた。

    「まあ、今のところ何もないからな。すぐに動けるようにはしておけよ。以上だ」

    媼は一礼をして部屋を出ようとした。

    「おう、忘れ物か?家にでも取りに帰るのか」

    前から来た声を、媼は相手にしようかどうか悩んだが、まあ先輩でもある。一言返してやろうと思った。

    「ええ多賀谷さん、引っかかりを取りに行ってきます」

    媼が心の中で、今言ったセリフに自画自賛している横を、多賀谷は鼻で笑って刑事課に入って行った。

    『おそいぞ多賀谷、ゴミ捨て場でまた寝ていたのか?そのゴミを持って帰れば、良いベッドになるな』

    『係長、犯罪ですよそれ』

    『ああ、俺が直々に逮捕してやる。光栄だろ?』

    そのやり取りを背中で聞きながら、媼は微笑んでエレベーターに乗り込んだ。本部の近くにタクシーが止まっていた。お役所周辺というのはそういうものだ。媼は迷うことなく後部窓をノックしていた。


    Ⅷ


    数日前に行ったばかりの場所だから、懐かしむというのではなかったが、媼には、遠い日のことのように感じられた。実際それだけのことはあった。神津の確保、取調室での対峙、そしてコールドケース化だ。せっかく自分でお金を払うのだから、タクシーに揺られながら捜査幹部になった気分に浸ろうと思い、媼はゆったりと外の景色を眺めていた。

    環境事業所に到着した媼は、トホホな気分でお金を払い、帰りのことも考えて更に暗い気分になっていた。自分で言い出したことを、少しだけ悔いていた。媼は以前と同じように、6階建ての立派なビルに向かって歩いていた。静寂な音だけがするという矛盾を、自分の頭の中で考えていた。ロビーに到着し、2人いる受付の女性の前で手帳を提示し、利田への面会を求めた。理由は言わなかった。受付の女性同士で顔を見合わせた後、川田の事故のことだろうと理解した様子で、連絡を取ってくれた。

    媼は改めてロビーを見渡した。本当に豪華という言葉がぴったりな場所だった。前回の時も思ったのだが、やはりその言葉以外が思い付かなかった。媼と変わらない年頃の女性、顔で選ばれたのかとも言えてしまう2人が、ここで何をしているのかとも聞きたくなったぐらいだった。来訪者も、もちろん前回同様いない、現に媼以外の来客がない。そうこう考えていると、利田がエレベーターから降りて来るのが見えた。媼を見て少し笑顔になっていた。

    「媼さんでしたよね、川田の事故のことですか?ですが、他の刑事さんにお話はしたはずですが?」

    「川田さんのご冥福をお祈りいたします。大変な騒ぎでしょうね」

    媼は丁寧に、ゆっくりと話を進めることとした。

    「昨日の今日ですからね。奥さんも大変嘆いておられました。信じられないと言った状態でしたからね」

    媼は頷きながら答えた。

    「お忙しいところお邪魔して申し訳ありません。そちらでは状況はつかめていらっしゃいますか?そちらでの分析、というものをお伺いしてみたいのですが…」

    利田はちらりと受付を見た。

    「私はお客さんを焼却施設に案内する。私の部署の人間にそれを伝えておいてくれ」

    「かしこまりました」

    受付の女性の一人は表情一つ変えずそう話し、備え付けられている電話の受話器を上げていた。媼は利田の少し斜め後ろを歩き出していた。

    焼却炉の施設の通路に来ていた。見学コースだ。媼にとっては少し、かがまないといけない位置から、焼却炉内部が見えた。凄い迫力で燃えているのが見える。小さい窓ではあったが、その異常さを十分、見る者に伝える力を持っていた。媼は興奮して、その小窓と焼却炉内部を映している画面を、何度も顔を左右に振って見ていた。

    「すごい…」

    本当に子供のような感想をただただ言ってしまっていた。後ろから静かな笑い声が聞こえた。

    「誰しもが同じ反応ですよ。ですが現実にこうしてあなたの目の前で起きている。しかもこれが24時間ですからね」

    「え?本当ですか?」

    媼は、もう子供だと自覚していた。

    「ええ、でないと、処理自体が追いつきません。発電や温水プールと言ったものにもその熱は利用されています、ですから止めるわけにはいかないのです」

    ただ頷くだけだった。媼は本題を忘れそうになっていた。来訪した理由だ。息を一つ吐いて、利田の方を向いた。

    「利田さん、川田さんはどうしてパッカー車に巻き込まれたのですか?」

    利田はほんの少しだけ声を落としたように感じられた。

    「それが我々にもわかりません。10年振りという言葉で申し上げていいのかわかりませんが、起きた事実がありますが、多発しているとまでは言えないとも考えております。ですから、『事故』という言い方が、一番適切なのではないかと、我々は考えております」

    媼は、利田の反応の変化を口にしようか迷っていた。事件ではない。単に個人的に引っかかっているという段階でしかない。慎重になっている自分に笑いが起きそうになっていた。

    「御承知かと思いますが、今回は、中央署でパッカー車の中身が調べられているはずです。『何か』が出てきたとしたらと思ってしまうのですが、何か、という私の言い方で、率直に思い浮かぶものはありますか?」

    利田は、素早く目だけで周りを見た。媼は、呼吸を一つ深く吐いて、さり気なくうしろをチラリと見た。もちろん誰の気配も姿も無かった。媼は何か引っかかった気がしていた。

    「いえ、何か貴重品が入っていたという場合でも、我々が手を出すとは思えませんね。燃えるゴミの日でしたら、未回収となりますからね。その旨のシールを貼り、そのゴミは置いていかれていくことになります」

    教科書のような答えだったが、それを責める段階ではまだない。媼は言葉を変えることにした。

    「内山さんからは、ゴミの捨て方が非常に悪いということなども、以前に伺いました。利田さん自身も、昔は現場に出られていたとも直接伺いました。利田さん自身が、袋に入っていた『何か』に、思わず目が行ってしまった、または、それを思わず手で引き戻そうとした。そういう経験はありませんでしたか?」

    利田の肩の力が少し抜けたのを見た。

    「そうですね、私も現場に出たことはもちろんあります。以前、お話した通りです。そのゴミの出し主の考え、性格、社会に対する態度、そういったものが凝縮しているという見方が、自然と育って行きますね」

    媼は答えになっていない答えを聞いて、再度質問してみた。媼は利田の顔をしっかり見た。

    「酷いゴミの出し方は、私自身目にしています。そして利田さん、利田さんの目から見た、経験された『何か』を、伺いたいと思うのですが…」

    利田は軽く首を横に振った。目もその方向に動いたようだった。顔を媼に戻し、静かに話し出した。

    「実際、ゴミで出したわけじゃないだろうものを目にすることもあります。卒業アルバムが捨てられているのを見た時は驚きました。二度と買えないものなのですよ?そして自分の成長と足跡という大切な品物です。まあ、その人にとっては、文字通りゴミなのでしょう。そして、一緒に成人式の写真も入っていました。名前が入った卒業証書もです。私は勝手にですが、その人物、女性の名前でしたが、その人は成人式そのものには参加していないのではないか、ともその後考えています。しかし共に過ごしたであろう仲間が写っている写真はあった。私は、感じてはいけない、考えてはいけない他人の人生を、想像したのです。かなり古いことなのですが、今でも考えさせられます」

    媼は、利田の話に聞き入っていた。ゴミでは無いはずであろう物を、その人物はゴミとして出している。媼は、自分に何かがあったとしても、それができるかどうかは別次元な話だとも思っていた。利田が今も記憶している理由が、もっともだと思えていた。それにしても深い話だと、感心していた自分が見えてしまった。

    「なんだか壮絶な人生をその人だけではなく、その家族にも感じてしまいますね」

    素直に感想を述べている自分に、心で笑ってしまっていた。質問していたはずなのにだ。気を取り直すのが少し大変だった。

    「利田さん、作業員の方たちの仲間内だけで、今日のゴミには『何か』、変ったものが混入されていたと言い合ったりするものなのですか?今のアルバムなどの話は、誰しもが考えてしまうことかもしれませんし…」

    利田は少し表情を明るくして答えた。

    「私が現場にいたときは、やはり回収作業終了後、あそこでダイヤの指輪のおもちゃが入っていたとか、子供銀行のおもちゃの札束が入っていたとか、色々ありましたよ、本当に色々。『あれが本物ならな~』と、お互いに言い合ったものです」

    「利田さん。今目の前にいるのは刑事ですよ?お忘れなく」

    媼は笑顔で返していた。

    「そうでしたそうでした。おキレイな方なのでつい舞い上がって忘れてしまいます。勝手にですが、気が合うというか、お話が楽しくなってしまいます」

    媼は素直に喜んでいた。実際、利田の対応は媼に対してとても丁寧で、紳士的に見えていた。どこかの性格も口も悪いのとは大違いだとも思っていた。

    「ありがとうございます。ですが、あの1階のロビーにいらっしゃる女性お2人は、とてもキレイな方たちでしたよ?」

    媼は素性を聞きたくなっていた。しかし利田は、興味が無さそうに答えた。

    「私にも、彼女らがどこから来てどういう経緯であそこに座るようになっているのかは聞いておりません。知っているのは顔と名前と出社、退社時間だけですね。そういう関係です」

    媼は驚いていた。

    「本当ですか?」

    利田は少し周りを見て答えた。

    「ええ、3年、長くても5年ほどで人が入れ替わり、またキレイな方があそこに座っています。その流れも、ずっと変わっていません。慣習でしょうね」

    媼は、座っているだけのキレイな女性の能力はどれほど育って行くのかを、勝手に気にしていた。しかも、来客が無いとは言わないが、圧倒的に少ないのだから、この職場でその女性たちは、何をやりがいに感じているのかが、媼には理解が及ばなかった。

    「来客がほとんど無いということを以前も言われていましたよね?その状況であそこに座っているだけなんて、私には無理ですね」

    利田は笑顔で言った。

    「全くのゼロ、ではありませんからね。視察という名目で、お偉方がたまにいらっしゃる。しかし、だからこそ媼さんと話すのは楽しいのだと思いますよ。媼さんはイキイキとされている。私にはそう見えます。言い寄る男性の方が多いのではないでしょうか?」

    「そうですね。直近で言えば、こちらの作業員の方、奥様がいらっしゃる内山さんですかね。お気持ちだけはありがたくいただいておきましたと、お顔を合わせる機会がありましたら、利田さんの方からお伝えしていただけると助かります」

    媼は事実だけを伝えてあげておいた。これであの態度は改めて欲しいと考えていた。媼はハッとした。川田の話をしていたはずだった。しかし、頭はすぐに切り替わった。

    「利田さん、川田さんのご住所を伺いたいと思うのですが…生前の川田さんともお話しさせていただきましたし、奥様にも警察の調査にご協力もしていただきました。その旨をお伝えしたいと思っています」

    利田は不思議そうな顔をしていた。

    「それでしたら警察内部で調べられるのではありませんか?」

    媼はわかっていたが、やはり言われてしまうかと思っていた。

    「そうなのですが、『事故』となっている時点で、あまり共有される情報ではありませんからね。それに今回私がここに来たのは、あくまでも個人的な用事という扱いになっています。ですから、タクシーという贅沢品まで使っていまして…」

    「わかりました。媼さんの頼みとあっては、断れるわけがありません。私が先に戻って、連絡を入れておきます。媼さんが帰られるときに、受付に声をかけてください。お渡しできるようにしておきます。何でしたら、この前もそうでしたが、市役所に行かなければならない用事がありますので、ご一緒されますか?前回はライトバンでしたが、今回はちょっとした高級車でお送り出来ますよ?」

    媼は心から感謝していた。だから、とびっきりの笑顔を利田に向けてあげた。

    「ホントですか?助かります。薄給な私には神の声にも等しい言葉です。喜んで同乗させていただきます」

    「ええ、私もその方がありがたい。こんな美人な方と車に乗れるなんて、それだけで感謝したい気分です。では、受付にもそう伝えておきます。見学が終わられましたら、受付にお越しください」

    媼は、改めて焼却炉の映像、そして小さな小窓を覗いていた。絶えることなくひたすら燃えていた。今の自分がいる場所は、とても快適だった。暑い寒いと感じる事もなく、臭いもやはりない。そして静かだ。目の前に非日常の風景が広がっていながら、この場所はとても快適。媼は静かにその風景を感じていた。


    Ⅸ


    媼は、お昼近くになろうとしていることを知り、慌てた。しかし、利田からの呼び出しが無いのにも気が行った。役所に行くという用事ならば、時間は関係するはずではないかということだ。放送で媼を呼び出すことも出来るはずだ。でも、それがない。どういうルールでこの会社は回っているのかが本当に理解出来なかった。そう思いながら媼は、受付へと向かった。

    「お待たせしました。見学はとても楽しかったです。前回伺ったときも思ったのですが、料金を取って、収益に繋げれば良いのではありませんか?」

    媼は思っていたことを正直に言った。そして受付の女とも話をしたくなってもいた。しかし、媼の期待した反応は示さなかった。微笑を顔に貼り付かせているが、形だけだと媼は理解していた。少し間があって、右にいた女が口を開いた。

    「お気遣いありがとうございます。税金というもので運営されておりますので、軽率に収益化というわけにもいきません。ですがお客様の提案は、後で、私どもの口から上司にお伝えしておきます。それと媼様ですよね?これをお渡しするようにと申し付けられております。どうぞ」

    厚手の紙質の細長い封筒を差し出された。その経験した事も無い紙質の感触に驚きながらも、媼は試しに聞いてみた。

    「この中身は何かということは、お二人は御存じなのですか?」

    左の女が代わって口を開いた。

    「いえ、それは私どもの仕事ではございません。『媼様というお客様に、確実にこの封筒をお渡しするように』とだけ申し付けられております」

    2人とも微笑は全く崩れない。表情一つ変えないでこの言葉を吐いていた。媼は、この2人に不気味ささえ感じていた。言葉を失っている媼に、右側の女が言葉をかけた。

    「今から利田の方に連絡をいたします。あちらで少々お待ちください」

    媼は、そのキレイな女性のキレイな手のひらを見た後、その手の先の方向に顔を向けた。艶が抑えられているソファーセットが、静かにそこに存在していた。媼はその椅子に座って驚いた。経験したことが無いほどの座り心地だった。正しい税金の使い方について、是非ともあの受付女に聞いてみたいものだった。媼は、落ち着いた場所なのに、落ち着かない自分に驚いていた。受付の女性に視線を戻した。お互いに話をしている様子もない。そして今も来訪者はいない。交代でお昼は取るのだろう。漠然とそう考えていたときに、利田がエレベーターから降りてきた。媼は立ち上がって利田を迎えた。

    「では、参りましょうか」

    「はい、喜んで」

    媼はまた、チラリと受付を見た。やはり微笑だけが張り付いていた。媼を、2人は立ち上がって見送っていた。玄関を出た媼たちは、すぐ近くに止まっているクラウンに近付いて行った。媼は驚いていた。エンジンが掛けてある。媼はもしやと思い、勧められるまま車に乗り込んだ。やはりだった。エアコンもすでに付いている。ここも快適だった。太陽も出ている状況だから、車内は直ぐに暑くなるはずだった。それがこれほど完璧な状態にしてある。利田は運転席、媼はあえて後部座席に座った。一応周りの目を気にしてだ。あらぬ勘違いは未然に防がねばならない。

    「では、出発しますよ」

    少し走り出して、媼は利田に尋ねた。

    「以前利田さんは、あのビルの違和感を口にされていましたが、今日、改めてあの施設にお邪魔して、私自身も違和感がどんどん溜まっていきました。ちょっと不思議な場所ですね」

    媼はあえて抽象的に話した。利田はバックミラーをチラリとみてから話し始めた。

    「その違和感に慣れるのが、まず最初の仕事でしょうかね。疑問を持つこと自体をやめる。考えない。するとそのこと自体が常態化されていき、そして慣れていきます。それも含めて『仕事』ということです」

    「『何か』を利田さんも感じてらっしゃると…」

    車内はその後、どちらも口を開かなかった。利田は静かに車を、本部前に付けていた。媼はお礼を伝え、車のドアノブに手を伸ばしたときだった。

    「媼さん…お気を付けください」

    利田は、突然媼に声をかけた。媼は利田を見たが、利田は媼の方は見ていなかった。ただ前を向いてハンドルを握っていた。

    「お気遣いありがとうございます。ドライブ、楽しかったです。いい車を用意していただき、感激しています」

    利田は前を向いたままゆっくり、一つ頷いただけだった。車を降りた媼は、走り去る車に向かって、軽く会釈だけ送っていた。利田の言葉を、どう考えようかと考えていた。本部の入り口で手帳を提示し、奥のエレベーターに向かって行った。


    Ⅹ


    食事を取り、歯磨きを終えた媼は、榛葉の姿をずっと探していた。食堂にも居なかったから、外に行ったのだとは理解していた。しかし帰りが遅い。3バカトリオで行ったのかとも想像していた。そして通路から声が聞こえていた。

    「ね?今回こそ当たりでしたよね?ちゃんとコメント欄を読んで選びましたからね」

    一末だった。

    「おまえ、今まで見ていなかったのか?」

    不機嫌な多賀谷だった。

    「勘が鈍い奴は、何をさせてもダメだという典型だな。あきらめが悪い刑事は、見っともないだけだ」

    榛葉だった。この漫才トリオは、いつも絶妙だ。どれも無駄がない言葉と突っ込みだった。笑うというよりも感心にまで気持ちが行ってしまっていた。

    「おう、戻っていたか。『嘉市』というラーメン屋は知っているか?なかなかうまかったぞ。しかも多賀谷のおごりだ、気分までスカッとしたな」

    榛葉はつま楊枝をくわえながら媼に声をかけた。

    「いえ、あまりラーメンを食べに行きませんからね。しかも一応女性ですから。1人ではちょっと…」

    「まあ、おまえと一緒に食べに行ってくれる男はいないだろうな。そんな物好きはな」

    多賀谷を撃ち殺してやろうかという衝動を抑えるのに力を入れていた。しかしすぐ沸いてきた疑問を、榛葉にぶつけていた。

    「係長、何で多賀谷さんがおごるという状況になったんですか?その手法を是非ともご教授ください。今後も必ず役立てて見せます」

    「よし、わかった。一末が選んだ『嘉市』に行こうとしたのだが、多賀谷は隣のうどん屋にしようと言い出したからな。で、一末がせっかく事前に選んでくれていたから、私が『嘉市』にすると決めた。だが多賀谷が猛反対しだした。だから私は、不味かったら私が全額出すと言った。多賀谷は『美味しければ自分が出す』ということになった。これで意味が分かるだろ?」

    「ハッ、係長の見事な采配に感服いたしております。部下を信じることの大切さ、そしてその姿勢に、ただただ納得と感服の往復であります」

    一末が、すかさずお辞儀の敬礼を榛葉にしていた。媼は多賀谷の方を盗み見た。そして声をかけた。

    「先輩、『美味しかった』というのが唯一の救いでしたね」

    目を細めて言ってやった。多賀谷はめずらしく敗北を認めた顔だったが、すぐさま媼の方を向いて言った。

    「おまえのためにリサーチしてやっただけだと考えておく。神田とでも行ってくれば良いだろ?先輩からのせめてもの手向けだ。連絡しておいてやろうか?毎日あいつが神津に張り付いているわけじゃないだろうからな」

    「ハッ、お心遣いだけは感謝しております。勘が鈍った刑事の見っともなさもしっかりと後輩に見せるという大役、さすがです。これもまた感服以外の何者でもありません」

    媼は敬礼のお辞儀を多賀谷に返してやった。それを見た多賀谷は、携帯を取り出していた。媼はその様子をまさかと思いながら見ていた。

    「おう神田か?おまえの好きな媼警部補がな、一緒に…」

    媼はすぐさま多賀谷の携帯を取り上げた。

    「私の確認も無くなんてことをするんですか!」

    媼は携帯の画面を見たが、ただの画面だった。

    「偉そうな事を言う割には軽い奴だな。表面上のことだけで釣られる怖さを、もう忘れたのか?おめでたい奴だな」

    「防犯という、以前の合同防犯臨時本部を実践しただけです。物事を起こさせないようにすることの大切さは、前回の教訓からしっかりと心得ています」

    多賀谷は仕事に戻っていた。媼一人だけが刑事課で1人、立って声を上げていた。そんな媼に、榛葉は声をかけた。

    「で、何かわかったか?」

    媼は、多賀谷の携帯を黙ってゴミ箱に入れ、榛葉の方に向かって行った。多賀谷の慌てた声は、一切気にする必要が無いもの、ということで処理した。

    「亡くなられた川田さんのことを聞きに行っておりました。ただ、全く関係ないのですが、そのビルがある施設なのですが、施設自体が異様な雰囲気と申しますか、居心地は良いのですが、何とも言えない違和感ばかり感じてしまいました」

    榛葉は、ポカンとした顔をしていた。その榛葉に、媼は言葉を続けた。

    「対応していただいた利田という職員なのですが、その方自身も、その施設に対する違和感をお持ちのようでした。運よく本部前まで車に同乗させていただいたのですが、その利田さんから、車から降り際に『気を付けるように』と言われました」

    榛葉は真剣な表情になっていた。

    「まあ、本部前に堂々とおまえが男と表れたのだから、その忠告だろう。勘違いされる可能性もあるからな」

    媼は、報告自体が無駄だったと反省した。しかし、自分の行動の軽率さも、反省していた。言われてみれば確かにそうだと思った。榛葉が続けた。

    「何を報告しているのかさっぱりわからん報告だな。サボっていたのか?」

    媼は焦った。

    「いえ、ちゃんと領収書も取ってあります。行きのタクシーのです」

    「多賀谷の病気でもうつったか?経費としては認められんよ、自腹だな」

    媼は心の中で、『もともとはあなたの病気でしょ?』と、密かに突っ込んでいた。媼は榛葉に答えた。

    「もともと覚悟して動きました。それは考えていません。大丈夫です。ですが、何もかもが贅沢な物、状態で備えられています。あの異空間は、味わってみたら気味が悪くなります」

    榛葉は、顔を歪めて言った。

    「異空間を体験しに行ったと。よかったな、仕事中に。俺も今度行ってみようか」

    媼は思わず身を乗り出していた。

    「是非そうしてください!行ってみれば私の言っていることの意味を、理解してもらえると思っています」

    「皮肉も通じんとはな。中央署からの報告だ。パッカー車の中には、異物などは存在していなかったそうだ。まあ、多少の燃えないゴミが混入などはあったようだが、分別が悪いだけで、ゴミということには変わりないようだ。ただし、住所と名前が記載されている請求書の切り離した紙やはがき、それらがそのまま入っているのを見て、とても驚いたとの報告もあった。以上だ」

    「住所…『名簿屋』ですか…?」

    媼は思わずつぶやいていた。

    「決めつけるな。第一、どうやってそれを手に入れて、どうやってそれを運ぶ?作業は1人でやっていたわけじゃないと、おまえも知っているのだろ?」

    媼はじっとしながら考えていた。

    「グルなら…」

    「そうあってほしいのか?」

    「いえ、そう考えてみただけです。軽率でした」

    榛葉は一つ、頷いていた。

    「まあ、めぼしいものは無し。事故として終わるしかないな」

    媼は肩を落としていた。あ…忘れていた。

    「係長、明日、川田さんの自宅に行ってみようと思います。事情を聞いたこともありますし、奥さんに警察にご協力をしていただいたことがあると話せば、慰めにもなるかと思います」

    「構わんが、余計な詮索はするなよ。あくまでも事故の遺族だ」

    「ハッ」

    媼は、礼をして榛葉の前から離れた。席に着いた媼は、捜査方法を慎重に組み立てていた。榛葉にまともな報告が出来ていない時点で、それなりの覚悟はしていた。だが媼は、感じていた違和感だけは、大切にしたいと思っていた。媼は、多賀谷に声をかけた。

    「聞いていただいていたと思っています。今の話、どう考えますか?」

    多賀谷の考えを聞きたかった。

    「おまえが引っかかった、ということだけは覚えておく。だが、係長と一緒だな。俺には引っかかりが弱い。おまえが何かを感じているのはわかるが、それでも説得材料としては弱過ぎるな。それぐらいしか言えない」

    媼は、茶化してこない多賀谷の反応を、大切にすることに決めた。媼はふと、一末を見た。

    「一末さん、私の報告は聞いていましたか?」

    「ああ、つまらん報告だったな。俺なら受付の女の子たちに質問攻めだな。もうな、質問から逃げることが出来ない状態を、俺なら楽しむかな」

    聞いたこと自体を後悔していた。しかし媼は、一末なりのヒントがあるとも思っていた。自分の攻めの弱さを知ってしまった。通常業務をこなして、今日を終えることとした。川田の家への訪問は、今日は避けるべきだと判断した。通夜からのお葬式だ。そこに押し掛けるだけの度胸は、媼には無く、そして理由も足りなかった。


    Ⅺ


    次の日、朝一で本部に顔を出し、すぐに本部を出た。利田から渡された厚手の封筒の中身の住所の紙を見て、そこまで遠くはないと判断した媼は、徒歩で川田の住んでいた家に向かっていた。近くではないが、遠くもない。川田の妻への質問を、頭で整理しながら歩いていた。街の景色、すれ違う人々の感情、遠くに見える山を、媼は楽しむように目で追っていた。人々の心を、媼は勝手に決めつけて、勝手に想像していた。そして、質問の内容は何も考えないで、川田が住んでいた家に向かおうと心の中で決めてしまった。媼は、それができるようになっていた自分を、静かに褒めていた。

    媼は、お葬式が終わったばかりであろう妻に相対することを、慎重にせねばと考えていた。川田の自宅に到着した今、後戻りすることは出来なかった。媼は戸惑いながらもチャイムを押した。

    「はい」

    借家の室内から、返事が媼に届いた。川田の妻だろうという予想は、変ることはなかった。開いた扉から、その妻であろう女性が顔を出した。媼は手帳を出し、『媼麗華』と名乗った。

    「この度は大変な事故となりまして…実は生前に川田さんには、警察の調査で、大変お世話になりました。突然の知らせに、私自身が驚いている次第です。奥様も心の整理がなかなかついていらっしゃらないのではないでしょうか。心中お察しします」

    媼は言葉を発しながら、まとまっていない文章に、今の今まで何をしていたのかと自分を責めていた。川田の妻はおしとやかな雰囲気だった。顔立ちも美しく感じられた。そしてその美しい顔の口の部分から、声が発せられた。

    「そうでしたか。警察の方のお役に立つことをしていたのですね。そう言っていただけると、心が少し安らぎます。この度はわざわざありがとうございます。主人に焼香をあげていただけると、川田も喜ぶと思います。さ、どうぞ」

    媼は、頭を下げながらも室内に目を走らせていた。玄関にある川田の妻の靴、前を歩いている妻の服装、川田の遺骨が置いてある祭壇の後ろのカーテン、カーペット、リビングにあるソファやダイニングにある椅子とテーブル。媼は明らかにおかしいと感じていた。そのどれもが高価なものだと感じていた。自分の部屋にあるものとは明らかに質感が違っていた。媼は、その反応が表に出ないように気を付けていた。しかし、環境事業所と同じように、媼はまたもや、この場所でも違和感しか感じられなくなっていた。静かに焼香を挙げた後、媼は苦手な正座のまま、川田の妻に向かい合った。

    「ご主人には、ある事案の時に、とても貴重な証言をしていただきました。こちらとしてもそれを参考にし、我々がしっかりと行動に繋げることが出来ました。そのお礼をと思い、この度は伺った次第です。この度は本当にご愁傷様です」

    「そうでしたか。主人が聞いたら、さぞ胸を張ったでしょう。わざわざありがとうございます」

    川田の妻は、悲しげな表情のままゆっくりと頭を下げていた。室内には、この妻以外の人間はいなかった。2階建てではあるが、人の気配、靴がそもそも無かった。媼はわざと聞くこととした。

    「お子さんはいらっしゃらないのですか?」

    「ええ、どちらかの原因かは知りませんが、なるがままということで、そうなりました」

    媼は、その妻の発言は、何となく引っかかってしまった。暗い表情という感じでもなかったのも、見逃してはいなかった。

    「今の時代、パートナーと一緒に過ごす時間が一番大切だという考え、理想ですよね。私自身もそう思います」

    媼は相手に合わせて口を動かした。

    「ですからこの調度品や、お家にある品々の質の高さに、私はご夫婦のこだわりが感じられます。ご趣味がしっかりお合いになられていたんでしょうね」

    川田の妻は、サッと媼の方に顔を向けた。媼はにこやかにして、それを受け流すことにしていた。表情の変化は、見逃していない。焦っている感情が、瞬間だが見て取れた。

    「主人の趣味でしたからね。私はただ、それを黙認していただけです。働いてくれていた主人に、物を言うことが出来るとは思っていませんでしたから」

    媼は、素直にその言葉を真に受け取るほど素直ではない。

    「川田さんの静かな性格は、私の勝手な推測でしたでしょうか。丁寧な方だったという印象がありました。もちろん、一度だけの対面でしたので、私の勝手な憶測も混じていたのでしょう。ですが、10年前のパッカー事故、その記憶されていたお話を伺ったとき、とても信頼できるお方だとは、私は感じました」

    川田を立てているように見えて、何も言っていない。媼はその手法を使っていた。

    「自分勝手なところはもちろんありました。男ですからね。ですが、こうして生活して来られたのも、川田のおかげだと思っております」

    媼は、大仰に頷きながら次の言葉を発した。

    「男の人のわがままは、女性は受け入れるしかありませんよね。好きな相手ならなおさら…」

    川田の妻は、顔を少し背けて答えた。

    「生活が安定していたのなら、受け入れるしかないのが女ですものね。あなたのようにおキレイで自立されている方でしたら違っていたでしょうね、私も」

    媼は戸惑った。この相手の真意が測りかねていた。こうした豪華なものに囲まれていながらも、納得はしていなかったと言っている。この人間はどういうものなのかが、媼にはわからなかった。媼は、一末の言葉を思い出していた。『ああ、つまらん報告だったな。俺なら受付の女の子たちに質問攻めだな。もうな、質問から逃げることが出来ない状態を、俺なら楽しむかな』媼は覚悟を決めた。

    「奥様、何かおありのようですね。一つ一つの言葉に含みが感じられます。私は刑事です。お忘れではありませんよね?」

    川田の妻は、媼にしっかりと顔を向けた。

    「良い生活が出来ているのと、良い生活が送れているのとは別の次元だということです。それがおわかりになる日も、いずれあなたにも来ることでしょう、刑事さん。おキレイなあなたです。後悔が無いことを私は願っています」

    媼は直ぐに次の言葉が浮かばなかった。経験の浅さから来ているものだと勝手に思うこととした。

    「奥様、失礼な物言いに聞こえたのでしたら謝ります。申し訳ありませんでした。ですが、家具などからは、ずいぶんなお暮しだったと感じられましたもので…」

    川田の妻は、つまらなそうな顔をした。

    「何か欲しいものがあるのでしたら、お持ち帰りいただいても構いません。私には執着もありません」

    媼は焦ったと同時驚いていた。どう判断していいかわからなかった。

    「物にこだわるのは若い時だけなのです。女は、本当はそんな物は欲しがっていません。あなたもそれを忘れないで、今後生きて行かれたらいいと、一言申し上げておきます」

    「お気に障ることを申し上げてすみませんでした」

    媼は素直に謝った。川田の妻の真意は、今の媼にはわからなかった。自分の年齢から来る経験の無さだと思いたかった。

    「おキレイな顔立ちのあなたに、言い寄って来る男の方も多いのでしょうね。でも、好きになっていい男と、結婚していい男とは違うということは、覚えておいて損は無いはず。若くはないでしょうが、私よりも凄く若いのですから、今のことは忘れない方があなたのためになります」

    媼は、『?』となりながらも、参考にはしておくことにした。そして気が何となくだが口を開かせた。

    「奥様はご主人のことがとてもお好きだったのですね?何となくそう感じました」

    川田の妻は、少しだがにこやかな表情になった。媼はそれを見て確信していた。そうして川田の妻の言葉を待った。

    「女なら、好きになった相手のことを、よっぽどのことが無ければ嫌いにはなれないものよ」

    そう口にした川田の妻は、それ以上の言葉を受け付けようとしていないように感じられた。媼は、川田とこの妻とのすれ違いを、まざまざと見せられている気がしていた。

    「この度は御消沈のところ、大変お邪魔しました。ですが、女として、たくさんのことを教えていただいたと感じています。奥様、ありがとうございました」

    媼は、その言葉を合図に引き上げることとした。


    Ⅻ


    川田の家を辞した後、媼はトボトボと本部に向かっていた。刑事としての頭ではなく、女としての感情が頭を支配していた。愛していた男に愛されていなかった。というわけでもなさそうだった。愛していた妻に良い暮らしをさせたかった。でも、妻は望んでいなかった。そちらの方がしっくり来ていた。刑事としてではなくと言いながら、しっくりくる考えを持ち出している時点で、笑うしかない。媼は、職業病だと感じていた。

    本部の刑事課の前に来た媼は、入り口で多賀谷に目線を向けて、目があった多賀谷を手招きしていた。めんどくさそうに席を立ちながら、多賀谷は廊下に出て来てくれていた。

    「川田の奥さんに会ってきました。借家の中の調度品、家具などは、明らかに豪華なものだと感じました。奥さんは、何かを知っているものと思います」

    媼は、感じたことを感情を入れないで報告した。多賀谷の意見を聞きたかったから、まず多賀谷に言うことにしようと決めていた。多賀谷は、目を横に流し、報告を分析しているようだった。端正な顔立ちはそれだけでも絵になっていた。媼は、目線を逸らして多賀谷の答えを待った。

    「おまえが感じた通りだろうな。何かは知っているだろう。でも、愛していた相手だ。どうあろうと守りたくなるのが女なのだろうな」

    男なのに女性を語る多賀谷に反発を感じながらも、媼自身もそれを否定出来なかった。何より、媼自身が川田の妻にそれを感じていた。少なくとも、多賀谷は媼を肯定してくれていた。多賀谷の後を追って、刑事課の席に向かって行った。榛葉の姿が無かったのが気になっていた。

    「係長はどこに行かれたのです?」

    媼は、隣の席の一末に聞いた。

    「ああ、俺たちの賭博疑惑が持ち上がってな。課長に呼ばれている。多賀谷さんがチクった」

    媼は呆れていた。自分が負けた腹いせだろうと思っていた。すぐさま多賀谷の方に顔を向けた。

    「一末、人聞きが悪いことを言うな。課長に事情を聞かれたから、正直に答えただけだ」

    一末が、それに対して言葉を返した。

    「その課長に、匿名電話が来たとの報告が入っております。以上」

    媼は多賀谷を白い目で見ていた。

    「おまえまで疑うのか?かわいくない後輩を持つとどうなるかがこれでわかるな」

    多賀谷は、やれやれと言う顔をしていた。そこに榛葉係長が戻って来た。媼は座ったまま榛葉に声をかけた。

    「係長、大丈夫なのですか?」

    榛葉は歩きながら媼に顔を向けていた。

    「え?ああ、問題無い。次は課長も参加したいと言っていたぐらいだからな」

    媼は呆れていた。しばらく見ていない浅見刑事課長の顔を思い浮かべていた。硬そうなイメージが崩れていった。

    「一末さん、課長は意外と大胆ですね。前回の『合同防犯臨時本部』も、課長は係長の意向をすんなり聞いていたみたいですし…」

    一末は携帯から目を逸らさずに媼に答えた。

    「ああ、係長の言いなりに近いところがあるからな、課長は。何か弱みでも握っているんじゃないか?」

    一末の横顔が、ニヤケているのはわかった。組織を意識しなければいけない媼は、キャリアの立場からそれ以上聞くのをためらわれた。榛葉の顔を盗み見たが、いつも通り書類書きをしていた。榛葉が顔を上げ、こちらを見て驚いた。が、

    「一末、ちょっとこい」

    いつも通りの光景に、媼は心を落ち着かせていた。媼は、ある考えが頭に閃いていた。それは、税務署だった。川田の税務関係を当たろうと思った。それこそ、税務署が把握していてもおかしくはないのではないかと考えるようになった。午後、そこに出向こうと心に決めていた。


    XIII


    食事を終えた媼は、いつも通りトイレの洗面台で歯磨きを終わらせ、税務署に向かった。業務はある程度終わらせていたから、榛葉には何も言わず本部を後にした。税務署の受付で手帳を提示した。少し驚いた顔をしていた中年の女性は、顔と気持ちを整えて、媼に要件を聞いていた。

    「税務官の方とお話ができないかと思いまして…」

    含みを持たせた言い方にしてみた。その女性は、いぶかしがりながらも受話器を取り上げ、どこかに電話をしている。媼はすこし離れた場所で、返答を待った。

    「税務官の飛騨という者が間もなく参ります。その者とお話しください」

    中年の女性は、それだけ伝えると媼が来た時の表情に戻っていた。誰しもが、自分の役割を終えれば、それで終わりだという考えなのだろう。ちょっと媼は悲しかった。そう思っている媼の場所に、きょろきょろと見渡しながら近付いてくる、多賀谷ぐらいの男が歩いてきた。媼はわかってはいたが、声をかけなかった。受付の女にその男が話しかけ、その男が媼を見ながら近付いてきた。何でかはわからなかったが、もじもじとしていた。少なくとも媼にはそう感じていた。

    「あなたが刑事さんですか?」

    「はい、県警本部の刑事課の媼麗華と申します。お忙しいところ申し訳ありません」

    「税務官の飛騨俊則です。おキレイな方ですね…刑事さんにしておくにはもったいないぐらいです」

    媼は戸惑った。刑事課では聞きなれないことを言われると、こうなってしまう。そもそも返事自体を持ち合わせていない。苦笑いを仕方なく返しておいた。

    「それで、何の御用でしょう。刑事さんが来られるというのは、ただごととは思えませんね」

    助かったという気持ちと、仕事の話しができるという喜びで、媼は笑顔を返してしまっていた。飛騨と名乗ったその男は、媼から目を逸らしていた。

    「お伺いしたいことがあります。ある人物の財務状況を知りたいと思いまして…」

    飛騨の目付きが少し変わった。媼をしっかりと見ていた。

    「個人情報です。お答え出来ることには制限があります。刑事さんでしたらおわかりですよね?」

    媼も予測していたことだ。だからあまり気にしていなかった。

    「もちろんです。お互い役所の人間です。知らないでは済まないということです」

    「では、令状か何かお持ちで?」

    媼は落ち着いて答えた。

    「いえ、何も持ち合わせてはいません。ですが、ある男、亡くなってしまわれたばかりなのですが、そのある男性の税務状況が気になったものですから」

    飛騨はさらに厳しい表情になった。

    「媼さんでしたよね?我々の仕事に落ち度があると、そう言いに来られたのですか?」

    「落ち度までとは言っておりません。私は、知りたいというのと、気になっていると申し上げただけです」

    「同じことのように聞こえますが?完璧なものなどこの世にはありません。もちろん、それを言い訳にするつもりもありません。ですが、我々はできる範囲内のことはこなしているつもりです。お互いそれは御承知と思いますが?」

    媼は、笑みと頷きを飛騨に渡していた。

    「もちろんです。その言葉を私は歓迎します。ですが、完璧ではないとあなたは言われた。ですから、その部分を補えないかと思って、こうして顔を出したわけです」

    笑みを絶やすことなく、飛騨に丁寧に話しかけた。言っている内容とはかけ離れた表情を飛騨に送っていた。

    「どういったことでしょうか?」

    媼が待っていたセリフを、飛騨がようやく口にしたところで、媼は環境事業所からの川田の住所が書かれた紙が入っている、上質な封筒を飛騨の前に差し出した。飛騨は手にすることを躊躇していた。

    「こちらの中に入っている紙には、ある特定の人物の住所と名前が書かれています。その人物のことを、そちらのやり方でお調べしていただけないか、というご相談で参りました。もちろん、正式な依頼ではないことは、キャリアである私自身が、1番よく存じ上げております」

    媼は、挑むような顔で飛騨を見ていた。飛騨の目が見開いていた。『キャリア』というのに、心底驚いていたのだろう。しかも自分より若い。

    「上の者に相談しませんと、私だけの一存では決められません」

    「お互い二度手間は面倒です。これはお渡しします。お返事をいただければその後のことは私がこうして足を運べば終わることです。どう判断なさるかは、ご自由にお決めください」

    媼は飛騨の眼前に封筒を差し出し、それを手に取った飛騨を一目見て、さらに名刺も手渡し、即座にその場を立ち去った。媼は、税務署の玄関をくぐりながら、自分の立場の危うさを少し、感じていた。


    XIV


    歩いて本部に戻った媼は、自分のデスクに向かおうとしていた。

    「媼、ちょっと来い」

    榛葉だった。刑事課の空気も、入る前から妙だとは感じていた。理由はわかっていたが、媼は気にせずに入ろうとしていたところだった。榛葉の前に媼は立った。

    「何を言われるかわかっている顔だな」

    「税務署からですね?」

    「せめて俺に一言、事前に言うべきだったな、行く前に」

    「申し訳ありません。ですが、反対されるかと思い、独断専行をしてしまいました」

    媼は、素直に言うことにしていた。嘘ではないからだった。

    「まあ、相手を脅したわけじゃないからな。そこは褒めておく」

    媼は意外な気がしたが、それでも素直に言った。

    「ありがとうございます。それで、税務署は何と言って来たのです?」

    榛葉はニヤリとしてから答えた。

    「飛騨という税務官からの連絡だ、『情報の提供には感謝する。気が向いたら調べておく』それだけだ」

    媼は、飛騨に心の中で感謝していた。動いてくれた。それだけでも嬉しかった。

    「全く…税務署からの連絡なんて、こっちの心臓がやられる。もう勝手に動くなよ」

    榛葉の心臓をおもんばかる必要性を、この日初めて知った。お辞儀の敬礼をした媼は、自分のデスクに戻って行った。

    「一末さん、何をしているんですか?」

    「え?何をしようかとスマホを見て考えているんだよ。わからないのか」

    わかりたくなかった媼は、返事を返すのをやめようかとも思った。

    「で?その何かは、スマホは教えてくれたんですか?」

    半ば呆れながら媼は一末を見ずに言ってあげていた。

    「俺に向かって勝手に話し出したら気味が悪いだろ。そんな携帯はいらないな」

    妙に納得してしまって、媼は頷いていた。媼は一末の言葉に引っかかった。思い出そうとした。『勝手に話し出す』媼は必死に考えた。『媼さん…お気を付けください』静かな車、会話も無かった。そう、車からの降り際に、利田が突然話しかけたあの言葉が、媼の頭によみがえっていた。あの警告とも言える言葉を、媼は怖く感じていた。


    XV

    その男は、街の外れの目立たない、個人営業のリサイクルショップに入って行った。

    「いらっしゃいませ」

    若い声が狭い店内に響いていた。その男は慣れた体の動きで、若い声の方へ向かって行った。持っていた手提げカバンから、布にくるまれている何かを取り出した。布をめくり、あきらかに壊れていると一目でわかるものを若い男の目の前であらわにしていた。

    「これを」

    そう一言声に出し、若い男の顔を見た。若い男は、それを手袋をはめて調べ出した。その男は、店内を意味も無く歩いていた。興味も無さそうだった。

    「お客さん、こ…」

    「ああ、お久しぶり」

    年老いている店主であろう人物が、その男に向かって声をかけていた。顔見知りなのだろう。その男は顔だけ店主に向けて、また視線を他に向けていた。

    「では、今回はこれぐらいで…」

    その店主は、持ち込んだ製品とは釣り合わない金額をその男に提示していた。男は静かに頷き、黙って手にした後、真っすぐ店から出て行った。

    「これ、挟まっていましたけど…」

    若い男は、何枚かの紙の束を、年老いた店主に手渡した。何度か頷いてそれを受け取り、首を傾げる若い男を店番にまた残し、店主は奥に下がっていった。その奥の場所にある受話器を取り上げ、静かな場所に電話をかけていた。


    XVI


    ブルーシートが張られた一角があった。それらは並んでいるようで、少しずつお互いが遠慮するように、一定の間隔があいていた。その一つの家らしきものから、争いの声が聞こえていた。大きな声が何度か響いた後、静かになった。

    そして、そこから出てくる人影があった。隣のブルーシートに何事もなかったように、その人影は戻って行った。


    XVII


    次の日の朝、媼は定時に本部にやってきていた。昨日の今日で、全てが思い通りに動かないのはわかっているのだが、それでもやはり、媼にはもどかしかった。税務署からでも第一報でも入らないかと、1人焦れていた。その時だった。

    『各局、こちら通信指令。中央署101(ヒト・マル・ヒト)、応答せよ』

    『こちら中央署101、応答。どうぞ』

    『中央署101、緊急指令。変死体発見の疑い、殺人容疑事案。 場所は、市内川、新田大橋下流、右岸河川敷。 通報によれば、河川敷に遺体らしきものを認めたとのこと。 ただちに現場へ急行し、状況を現認せよ。 到着後、直ちに周囲を立ち入り規制し、現場保存を徹底せよ。 後続の捜査員が到着するまで現状を維持し、不審者の接近を阻止せよ。以上』

    『中央署101、了解。現場へ急行する。以上』

    ボーっとしていた媼は、スピーカーから流れている内容の把握が遅れていた。一末は地図を携帯で確認しているのが目に入った。多賀谷は榛葉を見ている。榛葉は浅見課長のデスクがあるガラス張りの一角に、即座に足を進めていた。殺人事件という響きが、ようやく実感として出て来ていた。

    「多賀谷、媼、おまえたちは現場へ出向いてくれ。まず情報だ。中央署にそのまま現状を任せておいていい。必要があれば我々も動く。課長の読みだ」

    媼と多賀谷は席を立ち、榛葉の前に歩み寄った。多賀谷が口を開いた。

    「中途半端な命令ですね」

    「今、課長自身が現場と連絡を取り合っているが、我々も一応は出さないとな。その先遣隊がおまえたちということだ」

    媼は、緊急と言いながら、緊急に聞こえてこない自分の感覚は正しいのだろうと思っていた。だから榛葉に尋ねていた。

    「係長、なんだか緊急に聞こえないのですが」

    榛葉は鋭い目を媼に向けた。

    「人が亡くなっているのを何とも思わない人間なのか?」

    「失礼しました。ただ、係長のおっしゃり方だと、私はそう受け取ってしまう感覚がありました」

    榛葉は普段の顔に戻った。

    「それも含めて現場を見て来い。動くのはそれからだ。予断はいらん。後、中央署の邪魔はするな。本部から人が若干名行くというのは、課長からすでに現場に連絡が行っているはずだ。以上だ、行ってこい」

    2人同時に頷いて、本部を後にした。覆面の運転席を、多賀谷は媼に譲った。サイレンと赤色灯を始動させた媼は、本部の駐車場からスポーティーなセダンを出動させた。

    「どうして運転しないんですか?」

    「昨日、飲み過ぎたからな。念のためにだ。お昼過ぎには抜けるだろ」

    多賀谷の顔をチラリと見た。その多賀谷はおもむろに無線のマイクに手を伸ばした。

    『緊急車両通過、緊急車両通るぞ!前のダンプ、でかくて邪魔だ、聞こえているか!』

    媼は、多賀谷が助手席に座りたがった理由がわかった気がした。運転席でアクセルを踏み込みながら、絶望的な気分になっていた。

    『よ~しいい子だ』

    多賀谷はダンプの運転手にだろう、手を振っている。

    「その部分までマイクで言う必要ないのでは?」

    「警察機構の人間として、協力してくれた市民に感謝を述べただけだ。前見て運転してろ」

    そう言い返しながらも、多賀谷はマイクを手放していなかった。

    『はいどいてね~、邪魔だよ~』

    まだやっていた。急ブレーキをかけてやろうかと、媼は不謹慎ながら考えてしまっていた。

    『本部の多賀谷警部、こちら指令室、苦情が入っている。無駄なスピーカー使用を直ちにやめるように。以上』

    媼は前を見ながら言った。

    「名指しですね。県内全ての警察の施設で、今のが流れましたよ…」

    『了解、スピーカーの利用を控える。前のタクシー、どこを見ている、どくんだよ』

    『ここで言っても意味がありませんよ!』

    媼はしまったと思った。無線マイクが媼の声を拾い、今の声もスピーカーに流れていた。朝の時間、ただでさえ注目されているのに、その目線がさらに増えただろうと、勝手に想像してしまった。このまま本部に帰りたくなった。多賀谷はニヤニヤしていた。賑やかな覆面パトカーは、体感だけが長く感じられるこの空間からの脱出を、媼にようやく許してくれていた。


    XVIII


    中央署の地域課であろう制服が、媼たちが乗る車両を誘導してくれていた。所定の位置に車両を止め。媼と多賀谷は車を降りた。媼も多賀谷も、制服に敬礼をしながら規制線をくぐった。制服がにこやかだった理由は、媼は考えないようにしていた。

    現場となった場所から少し離れたところに、中央署の面々がいた。中央署の刑事課係長の平田もいた。そして、ベテランの佐島、神津の取調べで取調官を務めてくれた谷、そして神津を見張っていた神田もいた。媼たちは会釈をして彼らに近寄った。

    「多賀谷、まったくよくやるなおまえ。うちの署の課長もあきれていたぞ?」

    中央署の平田係長が、呆れた顔をしていた。

    「正直なことをしっかりと伝えたまでですよ。何かあったらもっと大変なことになりますからね」

    媼は、殺人現場で全く関係の無い話をするのもどうかとは思っていた。媼は状況を聞こうと思った。

    「平田係長、状況はどうなっていますか?」

    「この近所を犬の散歩に来ていた第一発見者が通報してくれた。昨日は夜中から風が強くなっていたからな。ホレ、ブルーシートが一枚あそこにあるだろ?向こうからあそこまで飛ばされたようだ。他の住人のブルーシートは飛ばされていない。で、あそこの道を歩いていた第一発見者が、ホームレスの被害者を見付けたということだ。あおむけで倒れている、動いていないのと、赤い血のようなものが大量に見えるとの通報だった」

    媼はメモを取りながら、状況を整理していった。

    「その第一発見者の方は…」

    媼は一応聞いていた。神田が横から声をかけて来た。

    「第一発見者なら私が話を聞いて、もうお引き取り頂きました。係長も了承済みです」

    多賀谷が口を開いた。平田に顔を向けていた。

    「問題は無いと判断されたんですね?」

    「ああ、第一発見者は田畑雄一67歳。犬の散歩は日課だということだ。わざわざ手を出す理由も無いだろ。この距離でこの臭いだからな。そして関わり合うのも嫌だろうしな。私も仕事だから来ているだけだ」

    媼も、臭いはもちろん感じている。ホームレス特有の臭いだ。至近距離なら耐えられるものではない。媼は、鑑識の人達をおもんばかっていた。そうしているうちに、鑑識の作業が終わったようだった。平田の方に、鑑識の主任が歩み寄って行った。入れ替わって、中央署の刑事たちは現場に近付いて行った。

    「刃物による刺殺ですね。ナイフが刺さったままです。一突きで仕留めていますね。被害者の体の左側、体の側面のことですが、右手でナイフを持った人物に、横から刺されています。指紋も検出されています。ホームレスの家なので、どう表現したらいいのかはわかりませんが、まあ整理はされていましたね」

    平田は一つ頷いた。

    「わかった。ご苦労だった」

    鑑識の主任は、敬礼をして鑑識車両に向かって行った。媼はその後ろ姿を見送りながら多賀谷に声をかけた。

    「我々はどうしましょう。一緒に現場に行きますか?」

    「係長からは手を出すなというようなことを言われている。俺の勘だが、もうすぐ捕まるな」

    媼は驚いて多賀谷の顔を見ていた。

    「え?どういうことです?」

    「いや、言ってみただけだ。気にするな」

    多賀谷は佐島たち中央署の刑事たちを目で追っていた。その時だった。神田が腰から手錠を取り出し、ホームレスの1人にそれを使用していた。簡単な防護服とマスクをした制服が、そのホームレスに消臭スプレーを吹きかけていた。恐らくこの後、護送されるのだろうと媼は離れたところで見ていた。

    多賀谷の勘にも驚かされたが、中央署は何となくだが、こうなることがわかっていたのではないかという気がしてきていた。榛葉が言っていた。『課長の読みだ』と、だから媼と多賀谷だけが送られた。そういうことだった。多賀谷と共に、中央署の平田係長の元に行った。離れた場所では、先ほどのホームレスの周りはブルーシートで目隠しされていた。その中で着替えが行われているのだろうと、媼は想像していた。多賀谷が平田係長に声をかけた。

    「平田さん、こうなることがわかっていらしたんですよね?」

    平田はとぼけた顔をした。

    「さあな、予断は禁物だ。だろ?」

    「また始末書ですよ、俺。本部からの臨場を断ってくれれば良かったのに…」

    平田は鼻で笑ってから言った。

    「美人な警部補さんとドライブなんて、俺だったら大歓迎だがな。多賀谷」

    「あのホームレスの隣に座らせたら、詳細な自供をしだすんじゃないですか?」

    媼は、ワッパの存在を確認していた。多賀谷の首にかけてやれるほどのワッパが、ほしかった。中央署の佐島と谷が、媼たちがいる場所に向かって来た。佐島が報告した。

    「特にこれといった争いの形跡はありませんが、争っていた声は聞こえたということです。ブルーシートのご近所さんたちの証言です。口論がエスカレートしていったと」

    平田が佐島を見て言った。

    「内容は?」

    「それがですね、『俺がそれを持って行く』『いや、おまえにはやらん』だそうです。それが、『よこせ!』『嫌だ!』となっていったそうです」

    「そして刺した」

    平田が付け足した。谷が話を続けた。

    「突然静かになったから、もしやと薄々周りの人間たちもわかっていたようです」

    平田が谷の顔を見て言った。

    「市民の義務ぐらい果たして欲しいものだがな」

    媼は、その隔離された空間で生きている人間たちの内面を想像していた。好きでその生活を送っている者ではない者と、好きで送っている者もいる、という話も聞いたことがある。住む所、服、お金、食事、仕事を与えても、いつの間にかホームレスという生活に戻る者たち…。媼は思考を止める以外に、自分への答えの出し方が無いと思っていた。

    「平田係長!」

    1人残って、逮捕、連行されたホームレスの家を調べていた神田が、大きな声を上げていた。平田は何かを手に持って、媼たちの元に走って来た。

    「これです」

    紺色の厚手のビニール袋の中身を見せていた。札束が、輪ゴムで束ねられて入っていた。媼も覗いていた。結構な額だった。

    「これはどこから…」

    平田は即座に言った。

    「おまえたち、他のホームレス住民にも聞いてみろ。ただし、あくまでも慎重にな。ホームレスの家だからと言って、むやみやたらに家宅捜索は出来んぞ。人権がどうのという奴らがうるさいからな。あくまでも『何か知らないか』程度にしておけ」

    多賀谷は携帯を取り出し、媼を一目見てから電話をかけていた。相手は榛葉のようだった。媼は、佐島たちがバラバラに、残りの数人のホームレスの家に向かって歩き出していた。媼は、一緒に行こうかとも思ったが、さすがに臭いに耐えられる自信がなかった。榛葉の忠告を守ったということで、自分をごまかしていた。

    媼は頭をフル回転させた。そのお金がどこにあったか、というよりも、どこから来たのか、そして、どうしてそこにあるのか。お金がありながらホームレスをするという人間がいるというのもわかる。そういう人間なのだろうと。ただ、そのお金の出所が、媼にはまだ理解出来なかった。佐島たちを目で追いながら、1人立って考えていた。

    「帰るか」

    多賀谷が後ろから声をかけていた。平田もいつの間にか佐島たちに加わっていた。媼は驚いて多賀谷を見た。

    「え?いいんですか?でもなんだか中途半端な気がしますし…」

    「じゃあお前だけ残るか?俺はクサいのは嫌いだからな。相変わらず物好きだな、おまえ」

    媼は即座に多賀谷をにらみつけていた。そうこうしているうちに、平田たちが媼たちの元に戻って来ていた。彼らからの臭いを、媼が我慢する番となってしまった。バレないようにすこ~しだけ、後ずさりした。平田が言った。

    「捜査用の端末で、容疑者の家の中は撮影しておいた。我々も引き上げる」

    多賀谷が答えた。

    「お疲れ様でした。鮮やかな逮捕劇、非常に勉強になりました」

    そう言うと、多賀谷は見事な敬礼を、平田係長以下、佐島、谷、神田たちに送っていた。媼も慌てて彼らに敬礼した。平田たちも、媼たちに敬礼を返していた。媼は聞いていた。

    「すぐに口を割りますかね」

    「時間がかかるな」

    媼は驚いていた。あっさり逮捕だったから、全面自供だと思っていた。平田は続けた。

    「奴を清潔にせんとならんからな。取調べはその後だ。じゃあ」

    それぞれが軽く会釈をして、媼たちの元から離れていった。媼たちも、覆面の方へと足を向けた。規制線の外に立っている制服に軽く会釈をして、制服の敬礼を受け取りながら、車に乗り込んだ。


    XIX


    媼は、多賀谷に運転席を譲った。助手席で自由にされるのは、もうコリゴリだった。媼は多賀谷に尋ねた。

    「あのお金の出所、ということですよね。持っていること自体は現実にあることだとは思います」

    「何束かあっただろ?何かをやるたび、やるごとにその束が増えていったとも言えるかもな。まあ、憶測だ、忘れろ」

    あの容疑者が几帳面な性格なら、10万円単位で束ねたりしていてもおかしくはない。その可能性もある。多賀谷の言うこともわかる。何かの報酬として受け取り、大して使う事もなくあの袋に入れていったとも言える。そう考えているうちに、本部に到着した。媼は唖然とした。行きの時間があまりにも長く感じた。やはりあの車内は地獄だったのだと改めて思い出していた、そして身震いしていた。

    刑事課に戻った媼たちは、部屋に入るなり白い目を向けられた。『多賀谷にだよな』媼はそう思うことにしていた。榛葉が目で合図をし、顎で行き先を言っていた。課長のデスクに行けということだった。榛葉も席を立っていた。浅見課長の前に、3人が並んでいた。右から媼、多賀谷、榛葉の順番だった。媼は勝手に緊張していた。そしてそれぞれが一礼した。開口一番、浅見が突然言い出した。

    「な?俺の言う通りだっただろ?読みが当たるとやはりうれしいもんだな、え?榛葉よ」

    媼はズッコケそうになった。榛葉が口を開いた。

    「私の進言があったじゃないですか、お忘れですか?」

    「最終的な判断、決断を下したのは私だ。部下の手柄は上司の手柄だろ?え?」

    媼は、どこかで聞いた榛葉の言葉を、浅見課長から直々に聞かされていた。そして多賀谷への言及も現場の説明も求められていない。何しにここに来て立っているのかわからなくなった。そして榛葉が言った。

    「多賀谷…おまえマイクが好きだな~。マイクマンというあだ名でもつけてやろうか?」

    多賀谷は平然と前を向いていた。そして口を開いた。

    「私はアロハデカで行きたいと、以前の合同防犯臨時本部の会議中に申し上げました。以上」

    媼は、ここがどこかわからなくなっていた。浅見が口を開いた。

    「中央署からの報告では、現場で即逮捕だったのだな?」

    媼が口を開いた。

    「はい課長。聞き込みを中央署が開始してすぐに逮捕しました。被害者の向かって右隣りの隣人の犯行でした。中央署は、元々わかっていたようなニュアンスでしたが…」

    榛葉がそれに答えた。

    「ああ、第一報のあとそれとなく伝えておいた。『現場周辺を即時封鎖しておけ』とな。中央署なりに、何となくわかってくれたのだろう。さすがだった」

    浅見がそれを聞いて立ち上がった。

    「おい榛葉係長、それは私も言ったはずだ、君の横で伝えたろ?『近くにいるかもしれない』と」

    榛葉が負けじと言った。

    「それじゃあ弱いですよ。私の言い方の方が的確です」

    媼は、椅子に座りたくなっていた。多賀谷が口を開いた。

    「いえ、課長も係長もまだまだです。私は現場にいて、中央署の連中が聞き込みを開始した直後に、逮捕されると読みましたからね。そしてその後すぐですよ。これが刑事というものです」

    それに榛葉が返した。

    「マイクを使わないときは黙っていろ」

    そして課長も返した。

    「おまえ、無線マイクは禁止だな。課長命令だ。おまえにとっては、拳銃と同じ扱いとする。わかったな。以上だ、さがれ」

    媼たちは浅見刑事課長に礼の敬礼をし、浅見の元から離れた。歩きながら榛葉が言った。

    「多賀谷、私のところへ来い。お土産だ」

    「ありがとうございます。いただきたくて仕方がありませんでした」

    媼は、ただただ多賀谷に呆れていた。榛葉が後ろから声をかけて来た。

    「後おまえたち、クサいな」

    媼は絶望的な気分になっていた。ガックリと下を向いて、自分の椅子に座っていた。多賀谷はスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツも脱ぎだした。そして自分の机の引き出しを開け、アロハシャツを用意していた。媼は即座に席を立ち、コンビニへ消臭スプレーを買いに出かけた。


    XX


    おそいお昼を終えた媼はお手洗いに行き、歯を磨いてから席に戻った。服の臭いをまだ気にしながら書類を整理していた。3時になったところで、課長の元から席に戻った榛葉に、媼と多賀谷が呼ばれた。

    「中央署からの報告だ。取調べは容疑者の体の洗浄後、道場で実施されたそうだ」

    多賀谷は笑っていた。

    「ホントですか係長?」

    媼は思わず声を出していた。

    「おまえ、得意の取調べで面と向かい合いたいか?」

    媼は思わず後ずさっていた。もう臭いはごめんだった。

    「容疑者の名前が山田太一、42歳だ。動機はまだ口にしていないようだが、金については刺殺した相手から盗ったということだ。殺された方の名前は不明だ。『ケンちゃん』と呼んでいたということだ」

    「それで幾らだったんです?あの札束」

    多賀谷が聞いていた。榛葉は来たかという顔をしていた。

    「おまえが目に行くところはそこだわな。233万だということだ。羨ましいもんだな、え?」

    「俺に八つ当たりしないでくださいよ。せめてどこかに落としてくれていたらな…」

    お金の話になるとこれだ。榛葉も多賀谷も変わらない。もしかしたら、浅見課長も…。恐らくそうなのだろうと、媼は覚悟することにした。榛葉が更に口を開いた。

    「あ、おまえの中央署での保管庫接近禁止令が、本部課長命令で中央署に発令されている。半径5メートルに近付けば、射殺は無いにしても拘束だな。奥川巡査にも厳命がくだったそうだ。多賀谷、おまえのルートはこれで壊滅された。残念だったな」

    「係長…穴というのはですね、自然に開くものなのですよ。自然に…」

    多賀谷が達観した表情で、榛葉の背後の窓の外に目を向けていた。

    「上司の口をポカンとさせてしまうおまえのことだ、別に今更気にもせん。防弾チョッキを装備するか?」

    媼は吹き出していた。そして言葉を続けた。

    「係長、中央署は厳戒態勢ですね」

    「ああ、気の毒だな。保管庫前にまで立ちん坊だ。多賀谷、宅配で差し入れでもしたらどうだ?全く…国庫に入るまでの半年が、長いな…」

    榛葉の不穏な発言に、媼は言葉を無くしていた。榛葉の話のどこまでが本当か、もうわからなくなっていた。媼は気を取り直して榛葉に尋ねてみた。

    「係長はそのお金の出所はどこだと?」

    少し顔を上げて、少し榛葉は考えてから言葉を吐いた。

    「今なら出し子などと言えるが、何せあの匂いだ。ツルみたくもないだろう。地道な空き缶集めで貯められるのかどうかということも、まあ現実的では無いな」

    「盗み、という線も薄いですね」

    多賀谷だった。媼は自分でも欲しいそのお金の流れが全く読めなかった。お金を追うから…媼は顔を上げた。

    「係長、お金じゃないものから生み出されたとしたらどうでしょう」

    多賀谷も身を少しだけ乗り出していた。榛葉が媼に言った。

    「神津のような奴が沢山いるのか?俺の家にも来てほしいと前から言っているのだがな、え?」

    「神津は物でしたよね。この前亡くなった川田の家には、生活水準には合わない調度品などがあったと媼が言っていましたよね。川田が神津の代わりをしていたというのは現実的ではありません」

    多賀谷だった。榛葉が多賀谷に向かって言った。

    「質屋か?身分証明書が今は必ず求められる。そしてコピーと書類が残るように法律上はなっている。まあ、それは表面上の真っ当な取引の場合だがな」

    媼は榛葉に言った。

    「川田さんの奥さんに、もう1度当たらせてください。何か引き出せるかもしれません。夫の何かを知っていながら、黙認していたように感じていました」

    「係長、今回は俺も同行します」

    榛葉は多賀谷を見た。

    「説得の材料になっていないな、特に多賀谷の部分はな」

    媼は、笑いをこらえるのに必死だった。多賀谷が媼をチラリと見て榛葉に言った。

    「人生経験が豊富な私が同行することにより、まだ未熟の塊のような媼警部補の指導、管理、注意項目を確認させることが出来ます。以上」

    榛葉は小さくため息をついていた。

    「車は使うなよ、多賀谷。おまえはしばらく乗車禁止だ。整備課から苦情が来ている。マイクとスピーカーがやられているとな。全く…1度くらいおまえが謝ってこい」

    「係長のお仕事の邪魔など出来ません。以上」

    榛葉は媼の方を見た。

    「媼、領収書を忘れるなよ。以上だ。課長には俺から言っておく」

    またため息を付いていた榛葉に、2人そろってお辞儀の礼をしていた。


    XXI


    席に戻った媼は、多賀谷に声をかけていた。

    「多賀谷さん、消臭スプレーを貸しましょうか?」

    「お、良い部下だな。使ってやる」

    媼は声をかけたことを後悔したが、タクシーの運転手のことと、自分自身が疑われることを天秤にかけて、渡すことにした。頭から始めた多賀谷を見て、媼は言葉を失った。媼は一末に声をかけた。

    「どうしたんですか今日は、なんだか静かですね」

    「ああ、さすがに報告書を貯め過ぎたからな。課長のためにも対応しないといけないと思ってな。スマホの履歴を調べてる。何をしたかを思い出すところからだな、うん」

    媼は、永久に放っておこうと思った。媼は準備を整えて刑事課を後にした。多賀谷は、消臭スプレーをズボンにかけながら付いてきていた。二人でエレベーターに乗り込み、1階を目指した。本部近くで止まっていたタクシーに乗り、川田の妻が住んでいる家に向かった。多賀谷が手帳を出そうとしたのを、媼がすかさず多賀谷を制圧し、その油断していた男の後頭部を睨んでいた。運転手が小さな声を上げていたが、媼はとっておきの笑顔で対応していた。


    XXII


    夕暮れ時に、川田が住んでいた家に到着した。多賀谷はまだ肩を押さえていた。

    「本気で決めることはないはずだ。過剰な暴力だな」

    「少しは回りの痛みをわかってもらおうと思いまして。これでも手加減したつもりです」

    「10分以上も関節技を決められたら、立派な傷害罪だ」

    多賀谷を無視して、媼は川田が住んでいた家のインターホンを押した。少し間があったが、声が聞こえてきた。媼は身分と名前を名乗った。川田の妻はちゃんと覚えてくれていたようだった。そしてドアを開けてくれた。媼が口を開いた。

    「夕暮れ時にお邪魔してすみません。少し伺いたい事がありまして参りました。こっちも同僚の刑事ですのでお気になさらずに」

    めんどくさいので、最短で多賀谷の説明を終わらせた。川田の妻は、アロハシャツと多賀谷の顔とを、目が往復していた。

    「ご近所の目がありますので、中へどうぞ」

    前回と同様、家の中に入れてくれた。川田の妻は、何か吹っ切れたのだろうか。媼はそう感じていた。キッチンのテーブルセットに、多賀谷と並んで座った。川田の妻は、向かい側に座っている。媼は、余計な説明を省くことにした。

    「奥さん、御主人のことで御存じなことを我々に教えてください。それを伺うために本日は参りました」

    多賀谷の反応が無かったのが意外だった。こっちを見て驚くぐらいのことをするのかと思っていた。その動きも空気も、隣からは感じられなかった。川田の妻は、少し目を伏せていた。媼も、そして多賀谷も、川田の妻の声を待っていた。長い沈黙があった。

    「主人の給料が悪いわけではありません。世の中の、それこそ文字通りの汚れ仕事をやっています。清掃作業員です。感謝している人はいるでしょうが、感謝されていると感じられる仕事ではないように、私は思っていました…。主人もそう感じていたかもしれません」

    媼も多賀谷も、口を全く挟まなかった。媼自身の経験から、川田の妻の言っている意味が分かった気がしていた。川田の妻の次の言葉を、静かに待っていた。

    「主人は自分の仕事が好きなようでした。誰かが必ずやらなくてはいけない仕事ですしね。ですが、適当に分別されているゴミ、真新しい状態なものが入れてあるゴミ袋。どの収集場所に行っても、毎回毎回、決まった曜日に嫌でも出会ってしまう。大切な仕事に就いているのに、その仕事に従事している人間たちの感情を、まるで知ろうとしない。ロボットか何かだと思っているのかと言っていたこともありました」

    媼は待つことに決めていた。思いを受け止めようと思っていた。

    「その反動でしょうか…『特別ボーナスが出た』そう言って、ちょっとした高級品を買うようになってきました。私にネックレスをくれたこともあります。私たちが座っている椅子、そしてこのテーブルも、この借家の家には不釣り合いでしょ?媼さんでしたよね?それが気になったから、今日またいらしたんでしょ?」

    媼は、目に涙をためていた。川田の気持ちが少しだが、わかった気がしていた。

    「奥さん、亡くなられたご主人に愛されていたのでしょうね。人の嫌な部分が目に付いてしまうお仕事だと思います。ゴミという、出した人間の性格が1番出る場面です。日々、御主人はそれに耐えていたのでしょう。そして、御主人は奥様にも贈り物をされている。どういう手段で手に入れたかは聞かれなかったのでしょう。私もそうすると思います。大切な人からの贈り物です。女性なら、そんな嬉しいことはありません。ですが奥さん。我々は警察であり、私と隣の男は刑事なのです。最初に話した通り、お知りになっていることをまずおっしゃってください」

    多賀谷の変な空気を媼は感じていたが、無視することにした。川田の妻は考えていた。言おうかどうしようかを迷っているように見えた。媼と多賀谷はただ、待っていた。

    「…仕事場で…何かを抜き取っていたのだと…薄々思いながら、私は、それでも何も言いませんでした。2人のこの生活を、大切にしたかった…それだけです」

    多賀谷が優しい声で、川田の妻に話しかけた。

    「奥さん、奥さんにとっては大切な旦那さんだったんですね…」

    川田の妻の目から涙がこぼれ落ちていた。下を向き、小さな声を上げて泣いていた。多賀谷が席を立った。媼に静かに頷きかけ、川田の家を後にした。媼は、外に出て多賀谷に尋ねた。

    「あれ以上のことを聞き出せない雰囲気でしたけど、あそこでやめて良かったんですか?」

    多賀谷は静かに前を向いて歩いていた。そして穏やかに媼に語りかけた。

    「あの奥さんは、自首してくるかもな」

    媼は目を大きく開けて多賀谷を見ていた。媼自身は、それを考えた事も無かったからだ。多賀谷はもしかしたら、川田の奥さんの反応を見て、あの言葉、『奥さん、奥さんにとっては大切な旦那さんだったんですね…』これを言ったのだろうと、媼は理解した。媼は胸が熱くなった…やはり敵わない。

    「どうしてわかるんですか?そうあって欲しいんですか?」

    媼は、わざと言ってみた。多賀谷の反応を見たかった。しかし多賀谷は、優しい目を媼に返しただけで、何も言わなかった。タクシーをつかまえるために、大きな通りまで2人で静かに歩き出していた。


    XXIII


    会計を済ませタクシーを降り、本部刑事課に戻って来た。終業時間間際の、皆の期待している雰囲気が媼には感じられていた。まっすぐに榛葉係長の元に向かっていた。多賀谷が報告した。

    「係長、川田はゴミから何かを盗み、それを換金していたと思われます。入れば何かが出てくると思いますが、その必要性は感じられません。待つというのが最善の方法だと思われます。以上」

    媼は静かにそれを聞いていた。榛葉は多賀谷を見てから、媼に目を向けた。そしておもむろに目線を外し、あらぬ人物に声をかけた。

    「一末、どう考える」

    一末は報告書を相変わらず書いていた。しかし顔を榛葉の方に向けて口を開いた。

    「多賀谷さんがそう感じられたのでしたら、そうすべきと考えます。ですが、もしやのこともありますので、夜遅い時間になったら、神津のマークを一旦外し、川田の妻の方に配置しておくのも手かと考えます。以上」

    榛葉は一つ頷いた。媼は、一末のこの仕事が出来るのか出来ないのかの判断が、全くわからなくなった。得手不得手があるにしても、極端すぎる。一末をチラリと見た。報告書を書こうとしているだけで、書いている雰囲気は一切なかった。

    「中央署には私から伝えておく。神津の生活パターンも、もう掴んでいる頃だろう。24時間監視は必要ない頃合いだな」

    媼は一応聞いてみた。

    「神津はマークを外して大丈夫でしょうか。また動く可能性もあります」

    「おまえが行くか?まあそれは冗談として、神津は寝ている時も見ているのか?起きている時にマークがあれば、それだけで満足だろ?大丈夫だ」

    媼は頷いていた。榛葉は言葉を続けた。

    「さて、今週も今日で終わりだ。土日しっかり休んで、また来週だ。ま、何事もなければだがな、一末、おまえは休みを無くしたいのか?」

    榛葉のその一言で、ようやく一末が動き出していたようだ。

    「おまえたちも、報告書を出してもう帰れ。おまえたちが終わらんと私も帰れない。余計なことで俺を苦しめようとするな。以上だ」

    媼は苦笑いしながら席へ戻って行った。そして報告書を書いていた。明日からの土日を、普通に過ごせるかどうか。それが気にはなっていた。そうこうしているうちに多賀谷は報告書を提出し、帰って行った。媼も、負けじと報告書を出し、一末に嫌味っぽく挨拶をして帰った。


    XXIV


    媼は、いつも通り定時に本部に到着して刑事課に来ていた。月曜という少しめんどくさい雰囲気が、職場に蔓延していた。媼は気になることがあった。昨日の夜に、榛葉から連絡があったからだ。川田の妻『君枝』が、中央署に出頭してきたということだった。実際には、君枝を張っていた覆面に、君枝が声をかけたということだった。夜だったため、事実関係を多少聞いて、送り返したということだった。媼は、榛葉の登庁を待っていた。

    「あそこのモーニングは混んでいるけど、何がおいしいのか俺にはわかりません」

    「雰囲気だよ雰囲気、あそこの店に行く、行っている自分というのを味わうために行く店なんだよ」

    見なくてもわかる様な2人の会話が聞こえて来ていた。多賀谷と一末が、挨拶をしながら部屋に入ってきていた。媼は、隣の一末に声をかけた。

    「一末さん、係長から連絡はありました?」

    「いや、無い。かかってきても出ないかな」

    媼は、どこまでが本気かわからなかった。そこに、榛葉があいさつをしながら部屋に入って来た。開口一番、

    「あそこのモーニングは時間がかかって仕方が無いな、全く…」

    媼は、まさかと思っていた。多賀谷が口を開いた。

    「え?係長、あそこに行かれたんですか?俺は行く必要性さえ感じないと思っていましたけど…」

    「係長、多賀谷さんが、あの店に行くのは自分に酔った人間だけだという発言をしておりました。以上」

    媼は一末のチクリを聞いて、榛葉の方を見て反応を待った。

    「自分に酔っていないと自信が付かないだろ?え?誰が自信を俺に与えてくれる?そう考えるのが合理的だな」

    意外な返しに、媼は驚いて多賀谷を見た。一末に向かって無言で文句を飛ばしていた。媼は席を立って、榛葉の前に来た。

    「係長、川田の奥さんの君枝さんについてですが…」

    「今日から本格的に調べるだろう。中央署からの連絡が来た時点で、税務官の飛騨という名前は出しておいた。事情を多少知っているとな。今日、中央署からそちらに連絡が行くだろう。連携だ。報告があるまで待て。以上だ」

    媼は感動していた。自分の知らないところで、こうして物事が動いていた。

    「どうした?土日ボケか?しっかりしろよ」

    いつの間にか横に立っていた多賀谷に、顔を見られていた。多賀谷も今の話が聞きたいと思ったということは、榛葉からの連絡ももちろんあったということだった。一末には無かった。媼は榛葉に言った。

    「ありがとうございます。君枝さんの様子は、何か聞いていますか?」

    「覆面に声をかけたときは、暗い顔だったということだった。まあ、周りが暗いからな文字通り。とにかく今日だ。慌てるな」

    「はい」

    媼は席に戻ることにした。媼は気になって、一末に声をかけた。

    「金曜はあれからすぐ終わったんですか?」

    「ああ。8時には終わらせた。なかなか早いだろ?」

    媼は、係長に凄まじく同情していた。媼は思い付いたことがあった。榛葉の方には行かず、自分の席から榛葉に声をかけた。

    「係長、中央署に行っても構いませんか?」

    周りの刑事たちが驚いていた。媼は、何か不味い事を言ったのかと思ってしまうくらいだった。榛葉が渋い顔をしていた。

    「用もないのに行く馬鹿がいるか。来られても迷惑だろ。おまえもあの空気を知っているだろ?」

    媼は席を立ち、榛葉の元にまた歩み寄った。

    「ですが、担当した人に会いたいなと思いまして…」

    「ま、今から行ってもまだ何もないだろう。君枝を呼ぶにしても10時前後だ。行くのなら連絡は通しておくが、連絡自体が向こうからあるかもな。待つのも刑事の仕事だ。周りを信頼しろ」

    「了解しました」

    媼は、じれったい思いをしていながらも、榛葉の言うことを聞くしかなかった。用もなしに所轄に本部の刑事が現れること自体が、迷惑ということなのだ。媼は、ふと気が付いた。廊下にでて携帯を取り出した。中央署の刑事課に掛けようと思ったのだった。媼は静かに席を立ち、通路の隅まで歩いていた。

    「はい中央署刑事課」

    「お疲れ様です。こちらは本部捜査一課の媼と申します。刑事課の神田さんはいらっしゃいますでしょうか」

    電話の相手が絶句したようだった。少しだけ間があった。

    「あの、本部の方が何用で…」

    「あ、すみません。神田さんとお話がしたかったものですから…」

    「…わかりました」

    電話が保留になった。相手の焦り様が、媼に伝わってきてしまっていた…。しばらく待たされた。

    「あ、媼警部補、その節はどうも」

    「突然電話いたしましてすみません。ちょっと伺いたいことがありまして…」

    「あの…言えないことの方が多いと思いますが…」

    神田の周りには相当な耳が張り付いているのだろうと、媼は想像していた。

    「こちらの係長、榛葉の方からも連絡が行っているとは思います。『川田君枝』さんのことです。自首されてきた様子などだけでも知りたいと思いまして…」

    「それでしたか。あの時に身柄をこちらに移送したのが私です。その後談話室を使って話を聞きました。そうですね、思い詰めた、という言葉がぴったりな状況、雰囲気でしたね。もうすぐ別の担当の者が、また川田さんを移送してくると思います」

    「そうでしたか。お話が終わった後はどうでしたか?」

    「そうですね。少しだけでしたが、落ち着いたというか、出したお茶にも少し手を付けられていましたからね」

    「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。今度ゆっくりお話でも…」

    「ホントですか?それは楽しみです。ありがとうございます」

    神田の声がとても大きくなっていた。最初とは大違いだった。媼は、自分の罪深さをそっと詫びるしかなかった。

    「では、失礼します」

    媼は、無表情で席に戻ることにした。


    XXV


    媼は、通常業務をしながら中央署からの報告を待っていた。じれったい気持ちを一生懸命に抑えていた。時間が過ぎるのが早いのか遅いのかわからないような感覚になっている自分に、戸惑っていた。

    食堂で昼食を取り、いつも通りお手洗いで歯を磨いていた。席に戻った媼は、榛葉に呼ばれた。

    「媼…あのな、俺たちが所轄の刑事課に連絡することの意味がわかっているのか?まあ、神田という巡査部長は、喜んでいたようだけどな。感激していたようだっと平田係長が言って来たぞ?色仕掛けか?」

    「いえ、少しお話がしたかっただけです」

    媼は悪びれることなく言っていた。ただ、神田への後ろめたさだけは感じていた。

    「川田君枝は、自分が知っている範囲のことを全て供述したようだ。夫が何かをやっているは思っていた。ただし、夫の気持ちはとても嬉しく思っていた。夫も、そういう自分を見て嬉しそうにしてくれていた。だから、何も口を出せなかったし、そもそも口を出そうとも思わなかった、と」

    多賀谷がまた、いつの間にか媼の隣に来て立っていた。その多賀谷が口を開いた。

    「この前のホームレスと、もしかしたら何か繋がるかもしれませんね」

    「まだ何もない。例の逮捕されたホームレスは、なにも謳っていない」

    媼は思わず口を開いた。

    「ですが、繋げて考えるのが合理的ではありませんか?」

    「繋がるのと繋がって欲しいのとは違う。危ない考えだ。まだ動けんよ」

    「しかし…」

    「まあ待て。何をそんなに焦る?知りたいだけの好奇心からか?それは素人だ。我々は起きた事案に対処するのが仕事だ。疑わしいことは起きている事実は認めてやる。だが、何か間違っていることを我々がしているか?現にホームレス殺しは逮捕し、川田君枝は自主という形になった。動きが遅いのは仕方がない。我々はちゃんとやっている」

    媼は下を向くしかなかった。そしてまた榛葉に顔を向けた。

    「係長、ちょっと出て来て良いですか?」

    「業務中にどこに行くんだ?」

    「『調査』です」

    「何の調査だ?」

    「個人経営のリサイクルショップというのを、何件か当たってみるというか見てみるというか…」

    「まあ、今のところ何も事件が起きてないからな。行きたいなら行ってこい。多賀谷、おまえも行ってこい。この前のめりをしっかり押さえておくんだぞ」

    「了解です」

    珍しく同行すると言った多賀谷に、媼は驚いていた。しかも歩きなはずなのに。媼は榛葉に礼をし、席に戻って出かける準備をした。

    「お、2人でどこ行くんだ?デートか?」

    ワッパをこいつにかけてやろうかと思っている自分を抑えるのに必死だった。

    「ちょっとした調査です。一緒に行きますか?」

    「俺はこいつの相手をしないとな」

    スマホを持ち上げて笑っている一末を、最大限見下した表情で見てあげた。一末はまったく気にしていないようだった。媼たち2人は、本部を後にした。


    XXVI


    「多賀谷さん、係長にはああ言いましたけど、行くだけで何かわかりますかね」

    「何も見付からないだろうな」

    媼は驚いていた。

    「それなのに同行すると言ったんですか?ホントに驚きました」

    「どういう物を買い取っているか知りたくてな。ちょっと興味があるだけだ」

    媼は、出る前に調べておいた本部から1番近いお店にまず行ってみることにした。到着したお店は、外からはキレイに見えた。まだ比較的新しいという感じがしていた。建て替えられたのかとも思えた。媼はお店に中に入って行った。

    色々な物が置かれていた。お約束のクマの彫り物、振り子のついた時計、怪しげな雰囲気の人形、使えるのか疑わしいアンティークなラジオ、古いお皿、大きくて重そうなテーブル、大木の切株。必要性がないから値段を確かめなかったが、確かめたら、誰が買うのかと聞きたくなるような切株の値段だった。店の外からはわからなかったが、店内には所狭しと、様々なものが置かれていて、それこそうっかりすると、物を倒してしまう危険性もあった。

    「いらっしゃい」

    店の奥にいた年配の男性に、ようやくたどり着けた。媼は手帳を提示した。

    「本部の刑事課の媼と言います。お話を聞きたいのですがよろしいですか?」

    その年配の男は、客じゃないとわかって、興味が失せたようだった。あから様なその態度の変わり様に、媼は苦笑いするしかなかった。

    「どんな物が高く売れるんですか?」

    多賀谷だった。後ろからのいきなりの質問に、媼は驚いていた。その年配の店主は、チラリとだけ多賀谷を見た。座っているその状態は、今もずっと同じだった。

    「あそこに結構大きな石があるだろ。ああいうのも意外だろうが高く買い取る。そのお姉ちゃんの足元にある切株なんかもな。後は希少性だよ」

    「同じ人間が売りに来ることが多い、という言い方は正しいでしょうか?」

    媼は、慎重に聞いてみた。店主はチラリと媼を見た。ただしそれは一瞬だった。

    「色んな人がいるさ。切り売りする人間、一気に手放す人間。人それぞれだ」

    「定期的に来る人間はいます?」

    多賀谷だった。

    「うちにはそういう人間はいないな。持ち物を少しずつ手放すお客もいるが、常連かと聞かれたら違うという答えになるね」

    「そうですか、ありがとうございました」

    媼は、この店を離れることにした。左手を少し上げて、店主はあいさつ代わりとしていた。

    「なかなか質問の仕方がむずかしいですね」

    媼は多賀谷に言った。

    「まあな。何かのグルかと目を付けられるかもしれないからな。ガードが固くなるのが自然だ。何かあっても素直には認めないだろうしな」

    多賀谷の言葉を聞きながら、確認したいことを聞いてみた。

    「では、今のお店も?」

    「真っ白で真っ当な商売なんていうものは理想論だ。どんな仕事だってグレーな部分もある。俺たちだって例外じゃない。信号無視の車を、俺たち刑事が現行犯で捕まえるか?」

    媼は、納得はしていたが、後半の部分には引っかかった。

    「話がズレてません?」

    「さあな」

    多賀谷は短く返しただけだった。媼は歩きながら今の言葉を考えていた。多賀谷はもしかしたら、その信号無視の車も捕まえたいと思っているのではないか、と、だった。2軒目のお店に向かっていた。

    そのお店の前に到着した。全面ガラスの引き戸で、その真ん中2つが左右に引かれていて、店の中が外から丸見えとなっている。媼たちはさっきと同じような状態のお店の中に、静かに入って行った。銅でできた観音様、キレイな彫金の雪洞、何となく凄そうな扇子、実用性を一切感じさせない絵が描かれた大皿も目に付いた。ここでも、障害物に感じられるその物たちに気をつけながら、媼たちは店の奥に入って行った。媼は先ほどと同じように、手帳をまず見せた。

    「すみません、少しお話を伺いたいのですがよろしいでしょうか」

    ここでも年配の男性、しかも、かなりの高齢だった。手帳を見ると、少し驚いた反応をしていた。

    「何か?」

    「常連の方はいらっしゃるのですか?常連という言い方も変ですけどね」

    「買いもしない常連なら、たくさん近所にいるな」

    媼は苦笑いしていた。

    「おじいちゃん、特定の人間がよく来ていたというのでもいいのだけどね」

    多賀谷だった。

    「鑑定してくれと物を見せに来る人間もいるからね。価値は無いと言うと、残念がってそのまま帰ってく人も多い」

    パイプ椅子に座ったままの店主は、手を頭の後ろに組んで、足を延ばしている体勢のままだった。

    「この人を見たことはありますか?」

    媼は、動画サイトで川田の事故を探し、顔写真を乗せているニュースの画面を止め、川田の顔を携帯に入れていた。それを見せていた。

    「さあ…見たような見ていないような。憶えとらんね」

    「来たかもしれないと?」

    媼は慎重に言った。

    「わからんと言っている。売り買いが終わればもう客でもないからな」

    多賀谷が突拍子の無い質問をした。

    「おじいちゃん、ちょっと聞きたいのだけどね、ここに並んでいない『物を買っていく人間』は、いるのかな?」

    媼は横で驚いていた。一気に核心に迫ろうとしている。現にこの店主は、両足をしっかりと地面に付けて、頭の後ろで組んでいた両手を、腕組みに変えていた。

    「質問の意味がよく分からんな。歳だからかな」

    多賀谷が続けた。

    「おじいちゃんか、または買取相手のどちらかが、物が入ったことを伝える。または、定期的に連絡が来る、とかね。どうなのかな?」

    媼はその老人の反応を見ていた。

    「何のことを言っているのかはわからないが、少なくともそんなことはワシはしておらんな。残念だったかな?」

    最後は少しだが、微笑を浮かべているようだった。媼が聞いてみた。

    「おじいさん。では、そういうことをしている同業のお店を、知っている。どうですか?」

    年寄りの店主は、上体だけを背もたれに預けるようにして、腕を組んだまま媼を見た。

    「さあな。自分の店以外のことなんて、気にして何になる?」

    そういうとまた、元々の体勢に戻っていた。媼は多賀谷を見た。多賀谷は頷いて背を向けていた。

    「おじいさん、ご協力ありがとうございました。今度はお客として伺いますね」

    「おお、キレイなお姉ちゃんが来てくれれば、その日は良い日となる。楽しみにしているよ」

    媼はそう言って、お店を出た。媼は多賀谷に言った。

    「ちょっと歩きますけど、もう1軒行ってみたいのですが…」

    「暇だからな。当たればいいだろ」

    「珍しいですね、何か言うのかと思ってましたけど」

    「だから暇だと言った。別に帰ってもいいのだけどな」

    「ハイハイ、ではかなり歩きますからね」

    「おまえ、ちょっと歩くじゃなかったのか?」

    媼は放っておいてツカツカと歩き出していた。歩くのは好きだった。途中多賀谷はまだかと言って来たから、あえて場所も教えなかった。そうすれば、余計に長く歩いている感覚になるからだ。そして、目的の店の前に来ていた。その店は、ガラスの引き戸が1枚の店の入り口だった。中が見えそうで見えない、薄茶色の扉だ。媼はその取っ手を持って開き、中に体を入れた。

    先ほどまでのお店と、雰囲気は似ていた。が、並んでいる物が現代的というか、確かに『使われなくなったものが置かれているな』という感覚があった。今までの店と違い、棚が置かれ、その上に品々が置かれていた。携帯型ラジオ、液晶が割れている携帯、小さな仏像や大きな彫り物の動物などは、お約束のように置いてあった。だが、電化製品が多いなという印象を持った。使えるのか怪しい炊飯器、誰が買うのか分からない電池を入れたら動くであろう壊れたプラスチック製のおもちゃの数々。媼は奥に進みながら、商品を確認する癖がついていた。

    「いらっしゃいませ」

    若い男が店番をしているような雰囲気だった。媼は拍子抜けした。だから手帳を見せる前に、媼は確認をした。無駄話はしたくない。

    「あなたが店の責任者ですか?」

    「いえ、私はバイトです。今、社長は外出しています」

    媼は困ってしまった。せっかく歩いてきたのに…突然多賀谷が声をかけた。

    「お兄さん、よく来るお客はいるかな?顔を覚えてしまうくらいなものを売る、とか、覚えてしまうほどよく来た、来ていたお客とかね」

    「何人かいますね。何人かというか結構常連さんが多いですね」

    媼は驚いた。そうだった、このバイト君は雇われているだけだ。責任も何もない。これはチャンスだったんだ。媼は川田の写真を見せることにした。

    「この男性は記憶にありますか?」

    「ああ、川田さんですね。お亡くなりになられたとか…ニュースを見たとき驚きました」

    媼は携帯を持っていない手で、ガッツポーズを静かに取っていた。そして言葉を続けた。

    「では、どんなも…」

    「いらっしゃいませ」

    レジの奥から、60代後半の男が出てきた。手にはコンビニの袋を持っていた。少し慌てた様子が見られた。別の入り口があるということもこれでわかった。

    「こら、お客さんのことをペラペラ話すことは感心せんな。店の信用に関わる」

    「すみません…」

    媼は悔しがった。この一言は、警察に対する完全なガードの言葉だ。思わず唇をかんでいた。

    多賀谷が代わりに口を開いた。

    「社長さんでよろしいですね?お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

    「断れば話さないで許してくれるのですか?」

    反抗的な態度と見た。これは過剰だ。素直に言えばいいだけだ、バイト君のいるうしろの壁に、古物商の掲示があるからだ。名前もそこに入っている。

    「吉田です…吉田英敏。これでよろしいですか?お店の営業中なのですけどね」

    「では吉田さん、この男性をご存じですか?」

    媼は改めて川田の写真を見せた。

    「さあ…私はあまり店番に立ちませんからね。私の場合は品物ばかり見ておりますからね。長年の癖で、そうなってしまいました」

    媼は引かなかった。

    「ですがこちらのバイトの方は、名前までご存じでしたが?」

    「若いから私より記憶力があるのでしょう。若い人の接客なんてそんなものです。顔に目が行くのも若い証拠。そう考えております」

    媼はもどかしかった。答えているけど答えじゃない。多賀谷が、後ろから声をかけて来た。

    「川田さんが来ていたということなので伺いますが、どういうものを売りに来ましたか?一つでもいいので答えてくれたら助かります」

    吉田は大げさにため息を付いた。

    「お店の信用に関わると、先ほど申し上げたのですがね。意味がわかりますでしょ?」

    媼が言った。

    「買取の場合、盗品売買防止のためと、照合照会用に、記録が取られるはずです。その記録を調べることになりますよ?」

    「脅しですか?我々が盗品を捌いていると」

    吉田は、あきらかに敵対的だ。今までのお店側の反応とは大違いだ。媼はバイト君を見た。帰りたいオーラが全開だった。

    「あなたの名前は?」

    媼はバイト君に聞いた。

    「佐藤と言います。学生です」

    「さ…」

    「佐藤君、休憩の時間だ。奥の更衣室で休んでいなさい」

    バイト君は、戸惑いながらもホッとした様子で奥に下がっていた。媼はまた悔しがった。吉田が尋ねた。

    「お話は終わりですか?」

    多賀谷が言った。

    「このお店の品物を買う人がいるんですか?価値があるとも思えない」

    吉田は平然と返して来た。

    「そうですか、それはお客さんの感性と合わない、そして合わないお店だっというだけです。私は合わせてほしいとも思っていませんよ」

    無表情の吉田を見て、媼は引くしかないと思った。令状も何も無かったからだ。媼は多賀谷を見た。多賀谷が吉田に言葉を返した。

    「ご協力ありがとうございます。我々はこのお店を知ることが出来ました。それだけでも十分価値のある『捜査』となりました。では、また来ます。客としてか刑事としてかは、わかりかねますが、客としてではなさそうなのは、あなたが今言われた言葉であなた自身が覚悟しているはずですよね?では、お邪魔しました」

    久しぶりの多賀谷節だった。真似は一生できないだろうなと思っていた。多賀谷の後を追って、店を出ることにした。多賀谷は営業時間を見ていた。

    「ガードされましたね…。ですが、嫌疑濃厚という反応ですね」

    「当たり前のことをいちいち言うな。わかっていることだ」

    「確認したまでです。メタメッセージというやつです。人と意志疎通をするための言葉という意味ですからね、覚えておいて損はないですよ?」

    「頭の悪い奴相手なら大事だろうな。俺がそう見えたか?」

    「…」

    返す言葉のない自分に、イラついた。媼は何とか口を開いた。

    「何を確認されていたんです?」

    「営業時間だ。夜6時までの営業だ。今日でもいいし明日でもいい。バイトを当たるのが定石だ」

    媼は忘れていた。吉田に店の裏に下げられた佐藤の存在だった。吉田を崩すことばかりに頭が行っていた。

    「係長への報告がありますが…」

    「二つのやり方がある。今日の今日で当たる。ガードが堅いだろうが、固い理由を問い詰めるというやり方もある。日を置いて当たる。多少ガードが下がるかもしれないが、それは一時的なものだ。ガードがまた固くなる。バイトに来る時に当たるのも手の一つに入れたいが、バイトに遅れると言われて逃げられるから、一番弱い。ま、日を置いて当たるが良いだろうな。ただ、そうなるとまた一つ厄介なことが起こる可能性もある。バイトを首にする。名前しか聞いていないから、我々には雲をつかむような話になる。どうする?

    多賀谷にしては長々しい話だった。媼はすこし考えたが言った。

    「係長に電話で報告して、ここでバイト君を待つのが1番の選択ですね。それ以外にないでしょう」

    「だな。じゃあな。俺は帰る。若い子だから、おまえ一人で大丈夫だろ?自慢のキレイな顔を存分に使え。で、いざとなったら俺をタクシーで20分も関節技をかけ続けたその自慢のテクニックで乗り切れ。あ、人の流れのあるところまで誘導してから質問するのを忘れるなよ。今度こそ本当にじゃあな」

    媼は、協力してくれているのかそうじゃないかがよくわからなかったが、アドバイスの部分は役立つなと感じていた。久々の張り込みに、何だか、刑事になった気がしていた。媼は、『吉田古物商』という看板が見えるお店の前を、もう一度見た。一軒家だった。道路に面している薄茶色の引き戸が見えている。媼は思い出していた。吉田は別の場所から入って来た。その店舗兼住宅周辺に自転車は置いていない。自転車置き場というのも無い。ということは、バイト君は徒歩、またはここまでは徒歩、となる。張り込みの位置を考え直さないといけない。媼は移動して、家の玄関が見える位置まで動いてみた。そして左右に首を振って、今いる位置が、その両方が視界に入る位置だと確認できた。媼はホッとしていた。


    XXVII


    媼は腕時計を見た。5時半になっていた。夕方の状態なのは見ればわかる。この距離なら顔の識別もできると判断した媼は、ワクワクとしていた。刑事を味わっていた。佐藤はおそらく、お店の出入り口から出るだろうと考えていた。そして、お店のカギを吉田が締める。ということは、6時過ぎに出て来るだろうと、シミュレーションをして遊んでいた。しかし媼は焦った。この最高の場所が、人々にとって邪魔になる場所だった。ちょっと広めの商店街の角に吉田の家はあった。十字路だ。この最高の場所は、商店街の通りのど真ん中となった。媼は、自分の浅はかさを呪った。一気にハードモードになった気がしていた。これはマズイ…。

    媼は人々の邪魔になりながら時計を見ていた。後15分。媼は、店の角にへばりつくことにした。多賀谷がいないのも呪っていた。怪しくはない場所だが、監視対象の真ん前だった。人の流れもそこそこあるから、店から出るバイト君を見失う可能性を考えれば、見せの反対側の場所に立つ選択肢は選べなかった。媼は、あきらかにこの場で浮いている自覚をしっかり持っていた。どうせバイト君だ、そしてそのバイト君は店から出るまでは、媼の様子に気が付かない。しかもバイトが終わったのなら、帰りたいだろう。店から出て来ない選択肢も無いはずだ。媼は、もはや自分を落ち着かせるためにわざわざ思っているのかとさえ感じ出していた。心臓が高鳴る。時計を見る。後10分。これは厳しい戦いになる。周りを見た、学生たちやおばちゃんたちがみんな楽しそうな顔で歩いている。媼は明らかに異質な空気を出している自分を、しっかり自認していた。焦って来る…。

    『早く出て来い、バイト!』媼は心で叫んでいた。脂汗が出ているかもしれない。暑い季節ではないからだ。しかし汗の感覚があった。高鳴る心臓との戦いだった。『大丈夫だ、必ず出て来る。奴はここにいるのを、先ほど確かめたはずだ』媼がここまで考えたときだった。『あ…もう帰っていたとしたら…』お店の後ろに下がる=帰宅ということだとしたら…。媼は本当に焦っていた。自分の迂闊さを呪った。体の感覚がおかしくなっていった。この張り込みは何だったのか。本当に成功するのか。奴はいるのかいないのか。店の真ん前にいるのに、店が見えなくなった。

    時計を見た。6時になっていた。まだ出て来ない。『まだか!早く出て来い。私は待っている。ここにいるぞ、バイト』媼は出て来ないバイトの佐藤にイラ立っていた。ふと思った。佐藤は容疑者でも何でもないことに気が付いた。自分の馬鹿さ加減に笑えた。とりあえず、見っともない脂汗を拭くことから始めた。

    「お疲れ様でした~、ではまた明日」

    佐藤の声だった。媼は即座に左を見た。やはりお店から出てきた。媼は落ち着こうと思った。こちらに来るか向こうに行くか。ここで事情を聞くわけにはいかない。吉田に見られたらマズイ。だが吉田は店からは出て来ないはずだ。鍵は店内から掛けられる。わざわざ出る必要性が無い。媼は焦った。『甘い!』どこかに外出する可能性があった。『マズイ…』シミュレーションが甘かった。バイトは店から出て、見せの向こう側、媼から見て左側に歩いて行った。媼は尾行を開始した。店から離れて接触という決断をした。ワクワクが戻って来た。刑事をやっている。

    媼は、対象を見失わないように慎重に追った。近過ぎず離れすぎず。鉄則だ。媼は、他の人間が見たら驚くだろうという目付きになっている自覚が、あった。周りの人間が、チラチラ見てくるのは気になっていたし気付いていた。『まだあの動画の影響が…』多賀谷を呪った。媼自身の顔立ちに責任があるのは、本人だけが気付いていなかった。『キレイ過ぎている』その自覚を持っていたが、捜査に利用し過ぎてしまい、何も考えなくなっていた。

    長く尾行を続けながら媼は気が付いた、人気が無くなっていた。ここまで歩く意味がそもそも無かったのだった。呆れて足が止まっていた媼は、対象を見失っていた。媼は駆けだした。『これはマズイ!』多賀谷からの嫌味が怖すぎた。媼は心底焦った。白いTシャツだった。色の濃いジーパンだった。肩から黒いベルトの掛けかばん下げていた。『どこだ、どこに隠れた』媼は、そう設定することにした。『あれ…』媼は何かに気が付いた。既視感のある何かとすれ違ったというか、追い越した感があった。『いた!』媼は自分の勘の鋭さを祝っていた。

    足を止め、隠れていたバイトを見付けた。『勝った…』媼は、多賀谷の恐怖を追い払って、対象にゆっくり足を向けた。奴はしゃがんで靴ひもを結び直していた。まだこちらのそん…

    「あ、さっきの刑事さん。先ほどはどうも」

    あっさり立ち上がった佐藤に、いきなり声をかけられた媼は、思わず立ち尽くしていた。媼は会釈をしながらも、なかなか言葉が出て来ない自分を不思議がっていた。相手に先手を取られたからだ。『やるなバイト』なかなかの手強さを、勝手に感じ取っていた。

    「さっきはお邪魔したね。ごめんなさい」

    「いえ、もう気にしていません。何の用ですか?」

    媼はもう、頭が切り替わった。

    「あなたはお店で、川田という男性のことを知っていた。そうだよね?」

    媼は武器を使った。笑顔だった。バイトは落ち着かなくなっていた。

    「え、ええ…ですけど社長の言う通りだと思いますので、ちょっと言いづらいですね。社長に聞いた方が良いと思うのですけど」

    「これは一応調査なんだけど、協力してくれると助かるんだけど…」

    武器は継続中だ、そして懇願というのに切り替えている。バイトはさっきより困った顔になっている。『もう少しで落ちる…』

    「では、本部に行きたい?私はそこまでとは思うのだけど、もう一人の男の刑事がいたでしょ?今その刑事がいないのは、私があなたを連行するのに反対したから、怒って本部に帰ったからなの。そこに行きたい?」

    「あの…私から聞いたと言わないでくださいね」

    『落ちた…』媼は勝ったという気分になっていた。微笑みをバイト君に送っていた。

    「1か月に1回か2回ぐらいかな。もうちょっとあったこともあるかな」でも、ガラクタばかりだった、置いて行った物は。後、だいたい社長が出てきたから、僕はその後のことはあんまり知りません」

    「もう1度聞きます。頻度は高かった。あなたが顔を覚えるぐらいに。手続きは通常通り行われていたんだよね?」

    「そこは変わりありませんよ。一緒です」

    「最後に一つ。他にも常連という人はいたかな?」

    「はい、そういうものなんじゃないですか?僕は知りませんけど」

    「ありがとう。でね、これ、私の名刺。何か思い出したりしたら、掛けて良いからね。それと、あなたの名前が知りたいのと、携帯の番号を私と交換しましょう。嫌かな?」

    あきらかにそのバイト君は照れていた。『完落ちか…」媼は余韻に浸っていた。携帯の番号を伝え、バイトの佐藤に掛けてもらった。

    「名前は佐藤勝也と言います」

    「ご協力、ありがとうございました」

    媼は、挙手の敬礼をビシッと決めていた。照れている佐藤と、驚いている周りの雰囲気の余韻を、媼は自分への称賛だと思うことにした。


    XXVIII


    媼は、本部に急いで歩いていた。早く帰りたいのは多賀谷と同じではある。それにさすがに今日は疲れた。聞き込みは慣れてはいるから平気だったが、張り込みからのミス、自分の迂闊さとバイトの手強さを味わった。先手を取られると厄介だというのも理解した。媼はどっと来た疲れと、脂汗がさらに追い討ちとなっていた。

    本部の刑事課に戻った媼は、榛葉の前に立っていた。多賀谷は帰っていた。一末は報告書と遊んでいた。

    「係長、『吉田古物商』というお店、何かありますね」

    「多賀谷からも聞いている。商売上、グレーな部分が広いだろうな。だが、今追っているものと相性がいいというのもある。決めつけて動くなよ」

    「はい。亡くなった川田さんですが、吉田古物商には月に1、2度来ていたという証言が取れています。もっと多いときもあったとも聞きました。他の古物店との違いは、常連という概念がそもそも無い、ということでした。もちろん、他のお店が正直に話していない可能性もあります。今回の証言は、バイトである佐藤勝也という人物からの証言でした。電話番号も手に入れてあります。いつでも話が聞けます」

    「そうか。どうだった?張り込みは。楽しかったか?」

    榛葉がにやけながら媼に言った。

    「ハッ、その両方を味わい、堪能した次第であります。以上」

    榛葉は顎で席を指し、雰囲気で報告書を早く出せと語っていた。媼は一礼をして席に戻った。一末に声でもかけようと思ったが、疲れているからやめようと思った。しかし、相手にしなければと思い一言かけることにした。

    「一末さん、1日中そうしていたんですか?」

    「まさかな。俺はそれほど暇じゃない」

    「じゃあ、今日何かあったんですか?係長からのお呼びはありませんでしたよ?」

    「何も無いということがあったということを書いて、報告書が認められないかということを考えるのに、とても忙しかった。これは難敵だぞ、おまえ」

    媼は、絶句とはこのことかというのを堪能してしまった。一末の表情がいきなり変わった。報告書を書きだしていた。

    「どうしてたんですか?一末さん…突然」

    一末は、報告書を書きながら言っていた。しかもかなりの早さだった。

    「おまえへの指導だな。報告書の書き方というな。よし出来た」

    媼は驚いていた。静かに席に座り、一末を目で追った。榛葉係長が報告を受け取り、頷いて、一末が礼をして、戻って来た。ニコニコしている。

    「じゃあな。おまえも見習えよ。お疲れ」

    媼は驚きながらも報告書を書き始めた。少し時間がかかったが、何とか書き上げて榛葉に提出した。

    「よし、疲れただろ。上がれ」

    媼は榛葉の話を実行しようとしたのだが、一末の報告書が気になっていた。

    「一末さんが、あっという間に報告書を仕上げて帰りましたけど…」

    「ああ、あいつには珍しいな。見るか?」

    「はい」

    媼は短く返して、一末の報告書を見た。

    『媼警部補に、報告書の書き方、望み方を指導。係長の苦労を分かち合うことが出来たと考えております。以上』

    媼は、倒れそうになった。榛葉に何とか礼をして、席に戻り、帰り支度を始めた。そして帰った。今日はよく眠れそうだった。


    XXIX


    次の日の朝、媼は走っていた。『やっば、間に合うか…』腕時計を見ながら、筋肉痛の体にムチを打っていた。昨日少し走っただけでこの筋肉痛。28歳という年齢を考えれば、これはマズイ。媼は人をうまく避けながら、軽くヒールのある革靴から音を立てて走り続けていた。本部前に着き、手帳を提示してエレベーターにたどり着いた。汗が浮いている媼は、エレベーターの中でも浮いていた。思いっ切り息を切らしている。白い眼を感じていたが、表情だけは無表情にしておいた。

    「おはようございます」

    媼は、声をかけながらデスクに向かった。榛葉も多賀谷も、一末も揃っている。あと数分で遅刻だった。筋肉痛の足を称えていた。隣の一末が、声をかけて来た。

    「朝から運動とは、暇だなおまえ」

    「運動不足を痛感しましたからね、そのために自分を追い込んだまでです」

    媼は息をまだ切らしながら、そう返していた。

    「追い込まれる状況を作ってしまったと認めたらどうだ?」

    「そうじゃありません」

    「みんなそう言うんだよ、違うと。それは違うんじゃない、認めたくないだけだ、違うか?」

    媼はハッとした。

    「あの~、朝から取調べを受けなくてはいけないんだですか?」

    「まだまだだなおまえも。俺の追求からは逃れられないな、それじゃあ」

    媼は、事実を隠しているから追い詰められたということにしておいた。媼はまたハッとしていた。事実を隠そうとするから認めないようにする、または認めようとしない。何か大事なことを聞いたような気がしていた。一末には感謝の言葉を述べる気にはなれなかった。

    媼は、書類を片付けながらも、昨日の吉田のことを思い出していた。怪しさはもう疑う余地はない。ただ、何を隠しているのか。2軒目での多賀谷の発言『ここに並んでいない物を買っていく人間』・『おじいちゃんか、または買取相手のどちらかが、物が入ったことを伝える。または、定期的に連絡が来る』これについて考えていた。多賀谷は何かを匂わせていた。古物商のお店のさらに裏側ということなのだろう。書類を整理しながら、それぞれの報告を待っていた。

    「多賀谷、媼、ちょっと来い」

    榛葉が声をかけて来た。

    「税務官の飛騨、それと中央署からの報告が来た。川田君枝の供述だと、『給与以外の収入を何で稼いでいたかは詳しくは知らない。家に無い何かを、お金に換えていたのだろうとは想像していた。そのことを尋ねたことは無い。自分自身の予測としては、ゴミから何かを取り出し、換金していたのだろうと想像していた』ということだ。飛騨の方は、川田の申告は会社からのみとなっていて、他の収入に関しての届け出はなされていない」

    媼は自分たちが聞いてきたこととほぼ同じ内容のその供述を聞いていた。税務署は、これから動き出すのだろう。川田の妻君枝に、それが耐えられるのだろうかと心配になった。大切にしてくれていた夫と、大切に思っていた相手の暗部を、これから知ることになって来る。

    「係長、昨日多賀谷さんが2軒目に行ったお店で、古物商店のさらに後ろの買取の存在を聞いていました。その店主は『知らない』と言っていましたが、店主自身がその繋がりが無い、利用していない、という意味だと感じました」

    媼は榛葉の言葉を待った。榛葉は媼に目を向けた。

    「多賀谷、ストレートに言ったらどうだ?」

    多賀谷が榛葉を見た。

    「あくまでも予測ですが…名簿屋というところですね」

    「必然的にそうなるな。ただし、証拠はまだない。それにことは大掛かりになるかもしれんな」

    「3軒目の店主、吉田古物商の社長ですが、我々に対しあきらかに敵対的な態度でした」

    媼が榛葉に言った。榛葉が少し考えてから口を開いた。

    「課長に挙げておく。本部としてまだ動くわけにはいかんな。だがな媼、『調査』を、続行するか?」

    媼は意外だった。榛葉の方から言われるとは思っていなかったからだ。媼の頭に、『利田』が浮かんでいた。古物商は、税務署が動くかもしれない。いや、動かせばいい。媼は即座に榛葉に声をかけた。

    「係長、税務署を動かしましょう。川田が出入りしていたのは確実です。そのことを税務官の飛騨さんに伝えて、情報を共有したらいかがでしょうか」

    多賀谷が口を出して来た。

    「さすがだな。人使いの荒いおまえが考えそうなことだ。ま、同じ相手を2つの組織が追う方が効率が悪い。係長、我々は裏の存在とやらをまず見つけねばなりません」

    「口で言うのは簡単だが、どうやる?」

    媼は思っていることを言おうと思った。

    「ゴミ処理場、環境事業所の利田という人物に当たろうかと思っています。あの事業所が裏だとは思っていません。しかし、繋がりがあってもおかしくはないとは思います」

    榛葉は直ぐに言葉を返してきた。

    「吉田の方は放っておくのか?」

    媼も言葉を返した。

    「税務署にとりあえず任せるのが良いのではないでしょうか。不自然なお金の流れを追うのは、あちらの方が専門です。そう考えます」

    「何だか警察組織としては、弱腰に映るな。まあいい、後でいくらでも引っ張れるからな。わかった、おまえたちでやってみろ」

    媼は笑顔になった。

    「多賀谷、おまえも行ってこい。その施設の異常さを味わいたいだろ?」

    「受付の女性とやらを、拝見したいですね」

    「失礼のないようにな」

    媼と多賀谷は目を合わせてから、それぞれの席へ戻って行った。そして準備を整えて本部を出た。


    XXX


    多賀谷の運転で、環境事業所に向かっていた。

    「先輩、ワクワクしてません?」

    「お?わかるか。おまえの話でしか聞いていないからな。もてなされてみたいものだな」

    「何か勘違いしてません?」

    媼は、あの空気を味わったらどういう反応を多賀谷がするのか、楽しみにしていた。そういう意味でも、媼自身もワクワクしていた。道が混むこともなく、すんなりと目的地に到着した。パッカー車が数台残っていたが、やはり他全ては出払っていた。

    「静かだな…」

    「さすがですね。でも、ゴミ処理場では、24時間ほぼ休むことなくゴミが処理されているんですよ」

    媼と多賀谷は、ビルに入って行った。媼はもう慣れっこだった。だから、多賀谷の反応だけを楽しみにしていた。

    「凄いな…」

    媼は多賀谷の反応を耳で聞きながら、ピカピカなホールを歩きながら、受付に向かって行った。この前と同じ女性が2人、並んでいた。媼を見て、座ったままで礼をしていた。前回と同じように手帳を提示して利田への面会を求めた。向かって右にいる女性が答えた。

    「かしこまりました。あちらでお待ちください」

    媼は勧められたソファーに向かって行った。多賀谷はホールを歩き回っている。受付の女性のところにとうとう向かって行った。何か言葉を交わしている。女性は頷いているが、微笑は変わらない。多賀谷は何事かあきらめたような様子で、媼の座っているソファーのところに来て、腰を下ろした。

    「何を話していたんですか?」

    「業務に関係無いことは話せないってよ」

    「何を聞いたんです?」

    「名前と年齢。こっちは警察だぞ?全く…」

    媼は呆れていた。

    「今から会う利田さんと言う方も、彼女たちの名前と勤務時間ぐらいしか知らないそうですから、気にしなくて良いんじゃないですか?」

    多賀谷を慰めてやった。

    「本当に誰もいないんだな、受付以外」

    「人がいるのでしょうけど、感じられないですよね」

    「あの受付の後ろにある、でっかい額縁にはなんて書いてあるんだ?」

    「さあ…気にはなりますが、聞いたことはありませんね」

    エレベーターが到着し、人の好さそうな利田が出てきた。

    「媼さん、またお会いできてうれしいです。こちらの方は、同僚の方ですか?」

    多賀谷は手帳を提示した。

    「ええ、本部刑事課の多賀谷と言います。お仕事中にすみません」

    「いえいえ、外部からのお客様の対応も、私の仕事の一つです。ご安心ください」

    「少し伺いたいことがまた出て来まして…」

    利田はチラリと受付を見た。

    「わかりました。ではまたゴミ処理場を見学しながら話しましょうか」

    「私、またあの巨大なUFOキャッチャーのようなものが見たいんです。感動ものでしたからね」

    「ええ、では参りましょう。多賀谷さんでしたよね。驚かれると思いますよ」

    多賀谷もワクワクしているというような表情をしていた。少し歩いて、目的の見学場所に到着した。

    「おお、これは凄いなオイ。おまえの言う通り凄い迫力だ」

    「多賀谷さん、これがずっと稼働しているんですよ?私たちが寝ている時も」

    媼は得意げに説明していた。

    「ええ、媼さんの言われる通りです。気圧も外より低くしてありますから、臭いも、そして音も漏れにくくしてあります」

    「おいおい媼、これは1日中見ていられるなオイ、え?、あ、ゴミを落とした。下手くそなんだな。俺なら絶対に落とさない自信があるな」

    媼は恥ずかしくなった。33歳というのが信じられなかった。

    「あのね先輩、あれはわざと落としているんですよ。袋の中の水分を、均一にするためなんですって。

    「違うな、操縦者の言い訳だな。もうちょっと上手い言い訳を考えられないのか。俺なら、隣のゴミの方が気になったとか言って誤魔化すだろうな」

    媼は、多賀谷と共に来たのを後悔していた。こちらがひたすら恥ずかしい。

    「素晴らしい言い訳ですね。それぐらい図太い考えで行かないと、やはり社会では駄目ですよね」

    「ですよね?おまえはわかっちゃいないんだよ、媼。まだまだ『ねね』だな」

    「何ですそれ?」

    「赤ちゃんという意味だ」

    呆れて言葉も出て来なかった。

    「何か伺いたいことがあるとか…」

    利田が気を使ってくれた。媼は利田に向かい直した。

    「利田さんが現場に出ておられた時代の話を伺いに来ました」

    あえて今のことには、まず触れなかった。多賀谷は全くこちらに耳を貸そうとしていなかった。ガラスにへばりついている。

    「どういうことです?」

    「少し言いにくいのですが、当時の同僚の中で、何かを取り出していた。というのを見た、または耳にされた。それかそういう噂があった。ということはありますか?」

    利田があきらかに動揺しているようだった。さり気なくだが、周りを気にしているように、媼には見えた。

    「いえ…そういうのは知りませんが…」

    言っていることというよりも、利田の反応がすでにおかしい。この変わり様に、媼はどうしようかと思った。利田という人物に、近付き過ぎてしまったということだった。質問対象者と仲良くなり過ぎたということだ。媼は困った。

    「利田さん、噂程度でもいいのです。昔から言われていたとか、語り継がれていることなどでも構いません」

    多賀谷がいつの間にかこちらを向き、媼の代わりに質問をしてくれていた。利田は目線を下に向けている。そしておもむろに顔を上げ口を開いた。

    「では、応接室へ移動しましょう」

    媼たち3人は、見学場所を離れた。到着した場所はこじんまりとはしていたが、棚に飾られている鷲の彫刻品や金色をした観音様、置時計さえも高級品のように見えていた。最新鋭と思われる大型テレビ、3人掛けのソファーが一対、一人掛けのソファーが一つ。真ん中に置いてあるテーブルそのもの、重厚な感じがあった。そして、綺麗だった。ソファーもだ。使われた形跡は少ないのだが、手入れがしっかりとしてあり、部屋のどこにもホコリが溜まっている場所が無さそうだった。使われないのにだ。媼はまた違和感が顔を出して来ていた。

    「どうぞ、お掛けください」

    3人掛けのソファーに媼たちが座り、1人掛けのソファーに利田が座った。多賀谷が口を開いた。

    「先ほどの質問の答えをいただきたいのですが」

    利田はドアをチラリと見た。

    「噂話程度でしたら、あると言えます」

    慎重な物言いだと感じた。

    「冗談半分に言い合うことが大半でしょうがね。以前、媼さんに申し上げた通りです。『あのおもちゃが、本物の宝石ならな』程度です」

    「そうですね、以前そう伺いました。そのほかの噂が無いか、というのを我々は聞いているのです」

    媼は丁寧に聞き直した。利田はあきらかに困惑していた。媼は待つことにした。そして、利田は媼に体を少し近付けて話し出した。利田に近いところに座っていたのが媼だった。

    「ええまあ…仲間同士では、お金に換えている…そういうことをしている者がいる。程度…」

    『トントン』ノックの音がした。その直後の利田の反応に、媼は驚いた。影から出てきた人に、びっくりさせられたような驚き方だったからだ。その反応の仕方に媼自身も驚いていた。

    「はい」

    落ち着きを取り戻そうとしながら、利田は声をかけた。

    「失礼します」

    受付の女性とは違う、美人な女性が入って来た。手にはお盆を持ち、お茶が入っているであろう湯飲み茶わんが、3つ載っていた。受付の女性と同じ服を着ている。ドレスではないにしても、上品な作りであるのはわかる。受付でない女性もそれを着ているに、媼は驚いた。接客…これに引っかかっていた。来客がそもそも無いに等しい。

    「どうぞ」

    媼たちにお茶を配り、最後に利田の前に置いた。

    「失礼します」

    美人な女性は一礼をした後、媼たちではなく利田を見てから出て行った。媼は利田を見た。小さな声が聞こえた。

    『お茶なんて…」

    媼は意味がわからなかった。来客の媼たちに、ただお茶が運ばれてきたというだけだ。それにこれだけの反応。普通の会社なら普通の景色でもある。

    「利田さん?どうかされました?」

    媼は聞いてみた。

    「あ、ええ、いえ、どうぞ、喉が渇かれましたでしょう」

    利田はお茶を勧めた。

    「先ほどのお話の続きが聞きたいのですが…」

    多賀谷が声をかけた。

    「えっ、ええ、まあ、噂だということです。男所帯ですからね。たわいもない話なだけですよ。ですから忘れてください。それだけですね、私から言えるのは。さ、どうぞどうぞ。良いお茶の葉を使っていますから、お口に合うはずです。冷めないうちにどうぞ」

    媼は、これ以上は無理だなと感じた。あきらかに空気が変わってしまっている。多賀谷を少し見た。軽く頷いて、多賀谷はお茶を口にしていた。続けて媼も、それに倣った。

    「おぉ…これは美味しいですね…」

    多賀谷だった。

    「うそ…」

    媼だった。香りといい、風味といい文句のつけようがないくらいだった。しかもこんなお茶を飲んだことも無かった。それなのにわかるくらいの美味しさだということだ。

    「そうでしょう。私も職場で飲んでいますよ」

    媼は何か引っかかったが、お茶の美味しさに、頭が奪われていた。

    「さて、ご用はお済でしょうか?そろそろ私も戻らないといけない時刻ですので…」

    媼は首を傾げた。以前、利田は市役所に行くという用事がありながら、媼が声をかけるまで出掛けるという素振りが無かったからだ。媼自身に声をかけていないのだ。媼が声をかけて始めて市役所に行くという状態になったからだ。予定なのに具体的な時間の指定がない。それなのにこの言葉。さっきの女性の登場だけで、色んなものが一瞬で変わってしまっていた。媼は多賀谷を見た。『まさか!』

    「あの~、差し出がましいのですが、あのですね、お替わりをいただきたく…」

    媼はこうべを垂れていた。媼は、即座にこの場から消えたくなった。しかも多賀谷の場合は、本当にただお茶が飲みたいのだろうという様子だった。

    「そうしてあげたいのはやまやまなのですが…予定がありまして…申し訳ありません」

    媼はとっくにあきらめていたが、多賀谷は別の意味で、名残惜しそうに媼が残したお茶を見ていた。媼は立ちあがってお礼を口にした。

    「今日はありがとうございました。突然の来訪にも関わらず、受け入れてくださり助かりました」

    媼はお辞儀の敬礼をした。利田も立ち上がっていた。

    「いえいえ、また遊びにいらしてください。媼さんにお会いできるのは私にとっても、大変ありがたいことですからね。何せ美人さんなのですから」

    媼は、わざと『突然』と入れた。刑事なのだから関係ない。突然であるのが刑事だ。そうとさえ思っている。また来るという風に受け取ってくれればと考えていた。多賀谷も渋々立ち上がり、寂しそうな足取りで部屋を出て行った。


    XXXI


    利田は施設の外まで出て来てくれた。媼は改めて言葉を掛けた。

    「お邪魔してすみませんでした。お茶、本当においしかったです。施設も何度見ても飽きませんね」

    利田はにこやかにしていた。

    「それはですね、ここはお2人にとって特別な空間だからです。我々には普通、または通常なのです」

    多賀谷が口を開いた。

    「あのお茶の美味さは、通常とは思えませんでしたけどね」

    利田の表情が少し暗くなった。

    「そうですね。ここの通常は、やはりおかしいのでしょう。何かが狂っているという感覚さえも、おかしくなっていくのでしょうね。私から言えるのはこれぐらいです」

    媼は、利田が外にまで見送りに出た理由が、わかった気がした。

    「また、今度は非番の日にでも遊びに来ます」

    利田の表情が明るくなった。

    「ええ、ぜひ」

    短く答えた利田は、会釈をしてビルに戻って行った。

    「あ、利田さん」

    媼は利田に声をかけた。利田が振り向いてくれた。

    「あのロビーの巨大な額縁の文字、何というものなんですか?」

    「ああ、あれはですね、あの一文字で『南無阿弥陀仏』という意味を表すものなんだそうです」

    そう言うと、また利田はビルに向かって歩いて行った。媼と多賀谷は顔を見合わせ、覆面に乗り込んだ。多賀谷の運転で、本部に戻っていた。

    「多賀谷さん、率直にどう感じました?」

    「そうだな、あの巨大なUFOキャッチャーのところで、あのお茶が飲めたら最高だな。お替わり自由なら言うことなしだな。あの冷たいバージョンも飲んでみたい。甘くして甘茶でもいいな。氷を入れるのはもったいないか。濃くしてから氷を入れれば良いだけだな。それにしても、あんなお茶がこの世にあったとはな。いつも飲めるんならまた行きたくなる」

    こいつと来たのが間違いではなかったかとさえ思えてきた。お茶のことしか言っていない。

    「係長にそれを報告するんですか?」

    「そうだな。今度は係長も連れてくればいい。応接室で話がしたいと言えば、向こうも受け入れざるを得ないだろう。早々に飲み干してからのお替わりだな。それを飲み干した後は、濃い、冷やしたのを頼もう」

    媼はため息を付いていた。

    「利田さんの様子の変わり様のこともです」

    「口止めしに来たんだろ。しゃべるなと。もしかしたら、お茶を出す、という習慣さえも、元々無いのかもしれない。あの応接室は、どれもキズが無いとは言わないが、あまりにも調度品に使用感が無い。テーブルもきれいだった。使わないのに、そこにある。で、俺たちが使った。でも、まず使われることは無い」

    「私もそれは感じていました。ソファーだって、ロビーのものとそん色ないものでしたよ。以前、ロビーで初めて座ったとき、本当に驚きました」

    「誰も来ないのにだぜ?しかも税金で、という言葉も付け加えられる」

    媼も頷いていた。

    「ええ、前に受付の人に言ったことがあります。『見学料を取って、収益化したら』と。簡単にはそれは出来ないというようなことを返されましたけどね」

    「入ってくるからな。予算という形で」

    頷きながらもおかしいと思っている。お茶にしてもそうだ。そのお茶である必要性は無いはずだ。値段を聞いたら驚くだろという自信は、確実に持っている。断言さえできる。何もかもがお金が掛かり過ぎている。そうこう話しているうちに、車は本部に到着した。


    XXXII


    媼は、多賀谷と2人、榛葉係長の前に立っていた。

    「で?どうなった?」

    「いや係長、最高でしたね。まず女性がキレイ。もうね、驚きますよ?写真はさすがに遠慮しましたからね、私は、大人ですからね。ツンデレ具合も良かったですね。あとゴミ処理場の迫力が満点でしたね。もうね、一日中いても飽きませんよ。係長、一緒に行きましょう。そして出されたお茶。驚きましたよ~、あんなものがこの世に存在するとは思えませんでした。お替わりをするタイミングがもう少し早ければ、おそらくもう一杯は、せめていただけたらと思いましたね。いや~、もったいない」

    呆れた顔を榛葉は媼に向けた。そして多賀谷に顔を戻した。

    「で?お茶の銘柄ぐらいは聞いたのか?どうせなら買ってみたいからな。お茶なら何とか手が届きそうだ」

    「…」

    2人とも無言になった。多賀谷がまた口を開いた。

    「そうか!さすが係長、その鋭さに感服いたしました。自分自身のわきの甘さに、反吐が出る思いであります。以上」

    媼は、報告の必要性さえも疑い出していた。報告する相手もこれだったからだ。ニヤ付いている2人をどうしようかと本気で思っていた。

    「ですが係長、あのお茶を飲めたこと自体が幸運なようですね」

    多賀谷だった。

    「どういうことだ?」

    「施設を回って、利田に話を聞いていたのですが、周りを気にする素振りが何度か見られました。深く追求しようとしたとき、利田から応接室への変更を求められました。そこで話を再開したのですが、核心的なところに入ったときに、そのお茶が出されたのです。そして利田の様子が1番おかしかったところでもあります。お茶が出てきたことにも驚いていましたしね。その後、利田の態度は一変して、口を閉ざしてしまいました。それと今思えば、あの湯飲み茶わんと、その台座も恐らく高価なものが使用されたと考えます」

    多賀谷が全部説明していた。

    「そこまで見ておきながら、肝心な銘柄を逃すとはな…おまえも偉そうなことを言いながら、抜けている。反省しておけ」

    「はっ、面目次第もありません」

    「媼、おまえは確かもう四度目だったか?あそこに行ったのは」

    「はい、6度行っていますが、ビルの方には4回目ですね。後の2回は、清掃作業員がいる事務所の方です」

    「そんなに行っていたのか。そこまで行っておきながら、ようやくお茶一杯とはな。常連と認めてもらうには長い道のりだな。多賀谷」

    「ええ、私なりに考えておきました。係長と私で、『話が聞きたい』と訪れましょう。ここではなんだからということで、応接室を暗に促すのです。そして長時間居座りましょう。お茶を出さざるを得ないという状況を作り出すのです。係長という肩書もこの際利用しましょう」

    媼は二人をにらんでいた。

    「真面目に言っているようにしか聞こえないのですが」

    「真面目に考えないでどうする?おまえは職務を何だと思っている」

    榛葉の言葉に、呆れるしかなかった。

    「嫌がらせにしか聞こえないのは私だけでしょうか?」

    「係長、そこで考えがあります。受付の女性2人のほかに、お茶を持って来た女性もいました。その人物も美人でしたね。お茶が美味しかったのはそのせいもあるかもしれません。ですから、我々なりの嫌がらせを使ってみても良いかもしれません」

    「なんだ?」

    多賀谷の先ほどの作戦を、媼は頭で追っていた、そして榛葉に話していた。

    「尾行ですね。その中の女性の1人を尾行して、家に着いてから話を聞くと」

    「おいおい、違法捜査とはならないが、やり過ぎだな。あとから問題になるぞ」

    「いえ、意味の持たせ方でどうにでもなるかもしれません。我々が目をつけだしているというのを相手に感じさせるということです。そうすれば、何か動きが見えてくるかもしれません」

    媼は、動きを作り出すという考えになっていた。

    「よし、課長にはまだ早いな。俺止まりだが、おまえたちで動け。これからは単独では行動するな。いいな」

    榛葉は2人を順に見て言った。

    「一末、おまえはどう思う?」

    一末は立ち上がって答えた。

    「はい、動きを見るのは良いのですが、危ない、または危ういという感じがします。予想外のことが起こらないといいのですが…」

    媼は思った。一末の分析にしては、今までで一番歯切れが悪いと感じていた。一末は続けた。

    「我々はある程度対処できますが、それ以外の対象となるとちょっと…」

    媼にはわからなかった。何の『対象』なのだろう。榛葉はそれを聞いて覚悟を決めたようだった。

    「一末、おまえにしては先読みだな。褒めておく。では具体的に誰が危ないか言ってみろ」

    一末は答えだした。

    「その利田ですね。狙われる可能性が一番高いはずです。媼と何度も接触しているという前科者です。次は今から接触を試みる受付の女性。余計な事を言わなかったとしても、接触された時点で対象となる可能性が高い。次は古物商の吉田、薄いでしょうがバイトの佐藤、それら全員です。もちろん、我々がまだ接触していない者も含まれるかもしれません」

    媼は、一末の今の分析に焦っていた。完全に把握していた。しかも、今回の動きの報告の部分までも含めて、すべて把握している。媼は、一末が報告書が苦手な理由がわからなくなっていた。そして、自分が考えた捜査方法が、実際に行動に移して良いのかも考え出していた。媼は榛葉を見た。

    「多賀谷、警察の仕事は何だ?」

    「社会悪の逮捕です」

    「『何か』があったとして、それは警察の責任か?」

    多賀谷に一瞬間があった。

    「それは、立証不可能です。逆に、そういうことをする者たちの検挙が大切だと考えます。以上」

    榛葉は媼と多賀谷をまた見た。

    「受付の女に当たるのならそれならそれで構わない。ただし、手帳は出さずにやれ。求められたらサッと出して名前は見せないようにやれ、旭日章さえ見えれば良い。手帳を完全に広げるな。名刺も渡すなよ。相手のことだけを聞け。もし相手の質問が始まったら携帯に出て、緊急連絡が入ったということにしてその場を立ち去れ。厳命だ。以上」

    媼たちは礼をして、その場を離れた。媼は、遅い昼食を取ろうと、刑事課から出た。


    XXXIII


    媼は、書類仕事を終わらせる傍ら、環境事業所の業務時間を調べていた。『午前9時から17時』16時半にここを出れば良いと判断した。ラッシュが始まる時間にはまだ早い。急いで仕事を片付けていた。

    そろそろだ。そう思った媼は、多賀谷の方を向いた。多賀谷が媼を見て頷いた。二人とも席を立ち、榛葉の元に行った。

    「では係長、行ってまいります」

    「よし、さっき言ったことを忘れていないだろうな。改めて厳命だ。一末、おまえも行け。報告書が書きやすいだろ」

    「え?もう書き終わりましたよ。媼や多賀谷さん、係長の暴走を、私が一刑事として鮮やかにかつ大胆に、ブレーキを掛けたと臨場感も添えておきました」

    「俺が認めると思うか?そんな報告書を」

    「え~、職権乱用とはこのことであります。以上」

    「いいから行け」

    一末は、渋々席を立ち、媼たちのあとを追った。午前中に使った覆面とは違うものに変えた。あくまでも慎重にやらないといけない。多賀谷の緊張感も伝わってきていた。一末が運転、多賀谷は助手席、媼は後部座席に座った。緊急ではないので、通常走行で環境事業所に向かって行った。17時前には到着した。施設内の駐車場には入らず、環境事業所の社員駐車場付近に車を停めていた。社員用の通用口が見えるところだった。まだ、誰1人出て来てはいない。媼は、張り込みに興奮していた。

    「この張り込みというのは、興奮しますね。こう、見てはいけないものを見ている気がします」

    媼は、正直な感想を言った。

    「覗きが趣味か?現行犯だな」

    多賀谷だった。

    「俺は帰りたい」

    一末だった。

    「全員逮捕ですね。誰の手柄にします?」

    媼は、平然と答えていた。恐らく、1人ではないというのが一番なのだろうと思っていた。何せ前回の張り込みは、独りぼっちだったからだ。結果的に上手く行ったものの、褒められた状況ではなかった。前の2人の様子を、後部座席でそっと見守った。雰囲気が刑事だった。

    「お2人とも、刑事みたいな雰囲気が出ていますね」

    思わず媼は言ってしまった。

    「まあな、肩書がそうなっているからな」

    一末だった。

    「そうだな。その仕事に就いてしまったからな」

    多賀谷も、振り返ることなく言った。媼は、遠足に来ている気持ちになっていた。媼自身も通用口は見ている。無言の前の2人に聞いてみたくなった。

    「あの~、こういう時は仕事の愚痴とか、係長への愚痴とか、そういうものを話しながら張り込むものなんじゃないんですか?」

    「話したきゃ話していいぞ。聞いてないけどな」

    一末だった。多賀谷は無言だった。媼は時計を見た。17時15分。一末がエンジンを掛けた。通用口から、人がどんどん出て来ていた。止まっている車の台数は、結構ある。公共交通機関が通ってない場所だから、自家用車でしか来られない。媼ぐらいの女性が多いと感じていた。20代中盤から後半ぐらいだろう。その誰もがキレイだった。

    「アレにしよう。あの赤いゴルフの女だ。お茶を出しに来た。一末、出せ」

    車はそっと発車した。媼は緊張していたが興奮もしていた。運転していないというのが、良かったのだろう。傍観者なような気がしていた。もちろん、前を走る赤い、左ハンドルのゴルフのナンバーは、すでに覚えていた。

    「荒い運転ですね」

    一末が言った。媼から見ても、結構スピードを出している。

    「左ハンドルに乗るぐらいだ。見て欲しいんだろうよ、自分を。自分に酔っているのかもな」

    多賀谷が、達観したような物言いだった。

    「言われていた通り、出てきた女性が皆、美人ぞろいでしたね。俺もここに勤めたいですね」

    「行けばわかるぞ。帰りたいとしか思えなくなる。感情を出している人間というものが感じられない」

    楽しんでいたと思っていた媼は、多賀谷のその言葉に驚いていた。制限速度をかなり上回っていた。対象が、それだけのスピードを出しているということだった。媼は気になって聞いた。

    「尾行とは言え、こちらも相手に合わせてしまっていいんですか?」

    「流れだ。流れに乗っていれば違反として捕まえにくい。まあ、あのゴルフがあれ以上にスピードを出せば別だがな」

    多賀谷が言ってくれた。郊外から街中に近付いて行く。まだ明るいが、夕方の雰囲気が出て来ていた。対向車線に、数珠つなぎの車が並んでいる。その運転手に女性が多いのにも、1人勝手に驚いていた。

    中心部の少し手前のあたりで、前の赤いゴルフは脇道に入った。自宅が近いのだろうと、媼は勝手に想像していた。時刻は、17時半を回っていた。住宅街のいくつか道を曲がり、その女性は、自分が契約している駐車場であろう場所に入った。多賀谷が即座に動いた。緊急走行用のサイレンを鳴らし、そして赤色灯を点灯させた。媼は心底驚いた。隠密とまでは言わないが、目立つなという命令だったと考えていたからだ。多賀谷は無線マイクをスピーカーに切り替えて手にしていた。

    「そこの赤いハッチバック、動くな。停車しろ」

    大声で言った。

    「多賀谷さん!」

    媼は思わず声を出していた。そもそも今まさに、バックで駐車しようとしている車だ。止める必要性も無い。その女性はあきらかに驚いていた。焦っていたのだろう。ワイパーを動かしていた。そして表情を戻して車を駐車スペースに入れて停車させた。多賀谷はサイレンだけを切り、車から降りていた。媼もそれに倣った。一末は、車が少しでも通行の邪魔にならないようにと、車を道の端に移動させていた。多賀谷は女性に近付き、車から出るように促した。女性はエンジンを止め、車から降りた。ベージュのスーツを着こなしている。媼から見ても、その女性にはとても似合っていた。

    「会社にいらしていた警察の方ですね。何か?」

    多賀谷に微笑をしながらその女性は聞いていた。相手が警察だということを知っていると判断したからだろう。多賀谷は手帳の提示をしなかった。まあ、覆面パトカーから降りて来たのだから、警察だと思わない者はいないだろうと、媼は思っていた。そしてハッとした。そう、手帳の提示の必要性を、消したということだった。

    「運転が荒いですね。私が交通課の人間なら、迷わずに切符を切ります。外車で加速性が良いのはわかりますが、運転が荒いという自覚はおありで?」

    「そうでしたか?1人で運転すると、注意してくれる人もいないですから。これから気を付けます。スピード違反ということですね?」

    「運が良かったですね。私は交通の者ではありません。ですから、今回はお咎めは無しです。ですが、交通課に知らせて、あなたの通勤経路を、張らせてもいい」

    女性の微笑みは変わらない。余裕さえ感じられる。媼は、不気味な気がしていた。警察に、しかも覆面パトカーから降りて来た、少なくとも刑事であろうことは予測しているはずだ。それでもこの表情。媼は不思議に思っていた。そして周りの住宅から、人が出て来ていた。先ほどのサイレンと、多賀谷のスピーカーを使ったせいだと媼は思っていた。そして、赤色灯はそのままにしてある。一末が車から降りて近付いてきた。

    「わかりました。これからは制限速度に気を付けます。これでよろしいですか?」

    多賀谷は女性から目を離さず言葉を返した。

    「あなたはお茶くみがお仕事なのですか?」

    その女性は、ほんの少しだが目を大きくした。そして即座に表情を戻した。

    「それをする時もある、と思っていただければと。今日もお出ししたはずです」

    「美味しいお茶でした」

    媼が言った。女性は媼を見た。

    「ええ、私もそう思います」

    「失礼ですがお名前と住所を」

    女性は免許証をカバンから取り出して多賀谷に渡した。

    「榊しのぶ、さんですね。お住まいはこのマンション」

    多賀谷はその免許証を素早く見て答えた。

    「ええ」

    「あの事業所にお勤めになられて何年になります?」

    多賀谷が続けた。

    「1年目ですね。ようやく慣れてきたというところです」

    「その前は?どちらに」

    媼が聞いた。

    「それを話す必要性は?」

    多賀谷がそれに答えた。

    「いえ、聞いてみただけです。お気になさらずに」

    その女性は一瞬だが目付きが鋭くなった。媼は不思議に思っていた。

    「そんなことを言いにわざわざここまで私をつけて来たのですか?一体何の用だったのです?ご用件を言ってください。近所迷惑です。私自身に対しても失礼でしょ?」

    静かな物言いだが、少なくとも先ほどまでの余裕は、消えていると媼は感じていた。

    「いえ、ここまでです。お時間を取らせてしまい、申しわけありません。では、我々は失礼します」

    多賀谷はここで引き上げると言った。媼はどう判断していいかわからなかったから、軽く会釈をし、榊しのぶから離れようとした。

    「あの~、そのお出しされたお茶の銘柄はなんでしょう」

    一末だった。媼は驚いて一末の顔を見ていた。一末は榊の顔を見ていた。多賀谷も振り返って、榊の顔を見ていた。榊しのぶは、一末に一瞥をくれて、無言でその場を離れていった。媼たちは、その後ろ姿を黙って見送っていた。覆面に戻った媼たちは、しばらくその場にいた。赤色灯だけ付けていた。それは多賀谷の指示だった。近所の人は、何事かと見ている人もまだいた。

    「あの~、もういいんじゃないですか?帰らないんですか?」

    媼は思わず聞いてしまった。

    「一末、後5分したら帰るぞ」

    「了解」

    「多賀谷さん、スピーカーは、銃と同じ扱いだと言われませんでした?」

    一末が言った。

    「適正に使用した。以上だ」

    平然と言う多賀谷に、媼は思わず笑っていた。そして時間が経ち、赤色灯を消してから本部に戻った。


    XXXIV


    本部に戻った3人は、榛葉の前に並んでいた。その榛葉が口を開いた。

    「多賀谷…おまえたちが尾行した女の近所からだろうな、中央署に問い合わせの電話が何件か来ていたという報告があったぞ。中央署はそれを知らないから、パニックになっていた。全く…」

    媼は笑いをこらえるのに必死だった。

    「身の安全を最優先にしました。以上」

    「まさかだが、スピーカーの使用は無いよな?」

    榛葉が、一末と媼を順番に見た。一末と媼は、多賀谷を見た。

    「適正に適正を重ねた上で、現場で適正に処置しました。以上です」

    小さなため息を多賀谷に向けた後、榛葉は言葉を続けた。

    「まあいい。それで?反応はどうだった?」

    媼が答えることにした。

    「何だか余裕が感じられました。我々を何とも思っていない。そういう雰囲気でしたね」

    榛葉は多賀谷に顔を向けた。

    「多賀谷、おまえが話を聞いたんだろ?」

    「ええ、媼の言う通りですね。全く動じなかったという言葉がぴったりです。名前と住所はわかりましたが、前歴は話しませんでしたね。ほぼすることも無いお茶くみをして、マンション暮らしで外車、おそらく独身でしょうが、なんともまあ…という感覚になりますね」

    「苦しい思いをして自分を成長させるのが人生だと?おまえがそれを言うのか?」

    「係長、それは無いでしょ?私だって一生懸命にやってますよ」

    媼は、笑いをこらえるのが限界に来ていた。一末がおもむろに口を開いた。

    「警察を恐れない連中、という見方をしてはいかがでしょうか。組織とまで言っていいかはわかりませんが、ヤクザだって我々を少なくとも気にします。ですがそうではない、ということになります」

    「犯罪に関わることをしていないか、その意識が著しく乏しい場合はそうなると言えるな」

    榛葉は慎重な言い回しだった。多賀谷が口を開いた。

    「警察への意識が、『下がっていった』という考え方でしょうか。断定はできませんが、名簿屋という名前自体、知らないのは子供ぐらいでしょう。社会が、ある意味認めてしまっているという状況です」

    「存在していることと、あっても良いものとは違うがな。我々は動いた。今後の予測は付かん。一末が言っていたように、不測の事態が起こるかもしれんが、それは我々が狙われるということにはならんだろう。ただし、ある程度気を付けて、それぞれ行動してくれ。以上だ」

    榛葉が報告の了解を告げた。それぞれが自分の席に戻り、報告書を書き始めた。相変わらずの早さで多賀谷は書き上げ、挨拶をして一番乗りで帰って行った。一末は、媼より早く書き終わらせていた。媼は驚いていた。

    「一末さん、早いですね。しかも書き直しなのに…」

    「ああ、今日は動いただろ?だからだ」

    一末はそれだけ言うと、榛葉の元に行っていた。

    「何だおまえ、お茶のことしか書いてないじゃないか。『銘柄を聞き出せず、係長に対して非常に心苦しい?』何を書いている、全く…仕方がない、書き直す前のは取ってあるだろ?それを出して上がれ」

    「だからもう書いたと言ったのに…」

    媼は笑っていた。媼も報告書を書き上げ、本部を後にしていた。


    XXXV


    次の日も、媼は朝から書類仕事をしていた。警察はとにかく書類書類だった。午後3時を過ぎたときだった。見たことあるような名前が携帯に表示されていた。『佐藤勝也』媼は思い出そうと思ったが、出た方が早いと思って出た。

    「はい、媼ですけど…」

    「俺、学生で吉田古物商でバイトしている佐藤です」

    「ああ佐藤君、どうしたの?」

    焦っている声に聞こえた。媼はわざと明るい声で返した。

    「あの…社長が…社長が首を吊って…今目の前にいて…あの…あの…」

    「佐藤君、連絡をありがとう。周りは社長が首を吊った状態でいるということなんだね?」

    「え、ええ…今目の前でぶら下がって…」

    「周りには誰かいる?それとも誰もいない?」

    媼はスピーカーに切り替えて、多賀谷の方を見て、多賀谷に手を振って呼んだ。

    「いないと思います…」

    「そっか、お店の中ということだよね?」

    「はい…」

    「じゃあ、思い切ってお店の外に出ようか」

    媼は、動き回られるより良いだろうと判断し、そう伝えた。多賀谷は刑事課のリモコン(マイクとスピーカーが一体になった物)の前に行き、指令室に無線連絡を入れていた。係長が席を外していたからだ。一末が課長のところに走って行った。

    「…外に出ました…」

    「そのまましばらく待てるかな?今そちらに出動しているからね、大丈夫だからね。落ち着いて。お店の外には人は歩いているかな?」

    「はい…かなりの人がいます」

    「うん、じゃあそこで落ち着いて待っていてね。警察の人間以外に声をかけられても、何も答えない。それと、ついて行ったりしてもダメよ」

    媼は、自分を落ち着かせるためにも、話し続けていた。

    「どうかな?少し落ち着いたかな?」

    「え…ええ…少しだけですけど…」

    「すぐに通報してくれてありがとう」

    電話越しに、サイレンの音が聞こえて来ていた。救急車とパトカーのサイレンだった。

    「警察官が到着したら電話を切って、その警察官に、佐藤君が見たこと、お店に来てからの行動をしっかり説明するんだよ?出来るよね、学生なんだし」

    「はい、大丈夫です」

    サイレンの音で安心したのだろうと、媼は思っていた。

    「警察官の姿が見えました」

    佐藤が言った。

    「そっか、じゃあ切っていいよ。また不安なことがあったら電話を遠慮なくかけてきていいからね」

    「はい、ありがとうございます。じゃあ切ります」

    そう言って佐藤が電話を切った。媼はすぐに多賀谷を見た。

    「中央署が動いてくれている。報告待ちだな」

    媼はゆっくり頷いていた。一末が来ていた。

    「課長もそう言われていました。係長は?」

    一末が聞いていた。多賀谷が答えた。

    「俺の尻ぬぐいだ」

    媼が聞いた。

    「中央署に謝りに行ったんですか?」

    「たぶんな」

    媼は、榛葉の心情をおもんばかった。ただ、今のタイミングとしては、悪くはないと思っていた。吉田の自殺が起きた。まだ何もわからないが、事情を知っている榛葉が、偶然ではあるが中央署に行っている。何かを説明しているのかもしれない。それ以上誰も言葉を発しないまま、媼たちは、それぞれの席に戻って行った。榛葉の本部への帰還は、その2時間後だった。榛葉が戻るなり、媼たちは呼ばれた。

    「中央署の見立てでは今のところ、自殺だということだ。何も出て来ていない以上、私もそう判断するしかないとは思う。だが、一末の言ったことも考えておかねばならん。動きが出たと心にとどめておくのがいいだろう」

    榛葉の慎重な言い方に、媼は何とも言えなかった。

    「税務署が悔しがっているでしょうね」

    多賀谷が言った。

    「だろうな。自分たちのせいで死んだと思っているのかもしれない。まあ、追い詰められて死ぬ人間は、何も吉田が初めてじゃないはずだから、案外気にしていないかもな」

    媼は榛葉の一言に引っかかった。わかってはいるのだが納得していいものかどうかは別だと感じた。

    「我々の動きで人が死んだとお考えですか?」

    榛葉は厳しい目を媼に向けた。

    「警察が動いて、何かを知っている者が消されたとする。そういうものを警察が放置するのが正しいのか?おまえの覚悟はそんな安っぽいものだったのか?多賀谷の言葉を忘れたのか?」

    『社会悪の逮捕です』
    『『何か』があったとして、それは警察の責任か?』
    『それは、立証不可能です。逆に、そういうことをする者たちの検挙が大切だと考えます。以上』

    この、多賀谷と榛葉のやり取りを思い出していた。この時点で、榛葉と多賀谷、そして一末さえも、覚悟を決めていたということなのだろう。媼は、自分の情けなさを知ってしまった。

    「失礼しました。警察というものへの自覚が欠けていました」

    榛葉はいつもの顔に戻り、状況の説明を始めた。

    「バイトの佐藤が、午後3時少し前、バイト先の吉田古物商に到着した。店の中に入り奥にある前掛けを取りに行こうとしたら、レジがあるところで首を吊っていたということだった。現場に不審な点はないとのことだった。以上だ」

    榛葉はそれを言うと、浅見課長のところへ向かって行った。媼たちはそれぞれの席に戻って行った。媼は多賀谷に声をかけた。

    「利田さんは…大丈夫でしょうか」

    「わからん。吉田の死の原因自体もわからないんだ。税務署からの追及が怖くなったのかもしれないからな。断定はできない」

    「ですがこのタイミングで…」

    「タイミングなんて、見方1つだ。一々気にしていたら、それこそ夜も眠れなくなる。今回は何も出て来なかった。以上だ」

    媼は書類仕事を黙々と処理していた。隣の一末を見た。珍しく、おとなしく報告書を書いていた。媼は気になって声をかけた。

    「どうしたんですか?素直に報告書を書くなんて珍しいですね」

    「ああ、暇になったからな」

    「定価で買った自慢の携帯は見ないんですか?」

    「恐らく、元は取ったと言えるだけ見たからな」

    媼は、その訳のわからない理論に、眉をひそめるしかなかった。

    「じゃあ、これからは何を見るんですか?」

    「それをまたこれから、スマホに聞くんじゃないか。まだまだだなおまえは」

    どう返していいのかわからなくなった媼は、相手にするのをやめた。その日は、そのまま報告書を提出し、帰宅することとなった。


    XXXVI


    媼は、また朝から走っていた。『目覚まし時計め…私に恨みでもあるのか?』媼は全力に近い状態で走っていた。ヒールのある革靴が、良い響きを周囲に伝え、人々が振り返っていた。媼の顔をずっと見る者もいた。媼は相手にしている暇はなかった。靴音で人がよけてくれるのがありがたかった。『そこをどけ!邪魔だ!』心の中で、どこぞのアロハ先輩のまねをしていた。

    本部に無事到着した媼は、呼吸を整えるのを最優先とした。ハンカチで汗を拭きながら息を切らしている媼は、一緒にエレベーターに乗っている者たちには、不審者に見えたかもしれない。

    『セーフ』媼は平然として部屋に入って行ったつもりだった。

    「やはりおまえか。朝から全力で走るとは、力が有り余っているな。所轄の道場でも行くか?」

    榛葉だった。『なぜ!!』媼は驚いていた。その榛葉が続けた。

    「驚いたか?一末にコンビニに買い物に行ってもらってな、多賀谷と一緒に上から見張っていたら、凄いスピードで走ってくる者がいた。で、下あたりで見えなくなった。ここに来たおまえを見たら、人着が一致したということだ」

    「俺のように、遅刻しても平然と入ってくるぐらいにならないと、大物として見てもらえないぞ?」

    多賀谷だった。

    「係長、どうぞ」

    一末が戻って来た。その一末が媼に言った。

    「おまえ、他の部署で噂になっていたぞ。メロスデカと言っている人もいたな」

    「犯人に逃げられたという想定で走っていただけです。訓練の一環です。最近の皆さんは、危機意識が足りないのではありませんか?」

    媼は、苦しい言い訳を平然と言ってのけた、という自覚があった。

    「危機を自ら作り出す奴に言われたくないな、俺は」

    一末だった。『このパシリ!』媼は、心の中でそう毒づいていた。そして黙って席に着いた。吉田の死には驚いた。税務署に任せたのにこれだという感覚があった。警察は、一度話を聞きに行っただけだった。吉田の反抗的な態度を思い出していた。もう一押ししたら、何か口を割っていたのではないかとさえ思えて来る。そこが歯痒かった。媼は、通常業務をこなしながらも、思考は止めなかった。お昼が過ぎ、トイレで歯を磨き終えた媼が、席に戻ろうとしたときだった。携帯に着信があった。『佐藤勝也』媼は電話に出た。

    『佐藤君、どうかした?』

    『あの…昨日の刑事さんたちには言ってないんですけど、以前、媼さんたちがお店にいらしたときに、川田さんのことを話されましたよね?』

    『佐藤君、ちょっと場所を変えるから待ってくれる?私からかけ直す』

    媼は即座に電話を切った。刑事課を見渡して、多賀谷がいるのに驚いていた。媼は迷うことなく多賀谷に声をかけた。

    「多賀谷さん、吉田の店で働いていたバイト君からです。川田のことについて話してくれるそうです」

    「向こうの会議室に行くぞ」

    多賀谷は素早く立ち上がり、媼の前を歩いた。近くの椅子に座り、媼は佐藤に電話をかけた。もちろん、スピーカーにしてだ。

    『はい』

    『お待たせ。それでどんなことかな?』

    『川田さんが帰った後、社長はどこかに電話をしていたようです。お店じゃなくて、奥、自分の家の方に行ってかけていたようです。私がたまたまトイレに行ったときに、電話をしていたのを見たことがありました。見たのはその1回だけでしたけど、川田さんが来たあとは、奥に行くのが決まりでしたからね』

    媼と多賀谷は顔を見合わせた。

    『佐藤君、ありがとう。重要なことだから確認するね?』

    媼は、佐藤が緊張した瞬間を感じたが構わなかった。

    『川田さんが来店、そして取引が終了した後、社長の吉田さんが必ず奥に下がっていった。奥で電話をしていたのを1度見たことがある。間違いないね?』

    少し間があった。自分の証言というものがどういう扱になるのかを気にしているようだった。

    『はい。間違いありません』

    『うん、わかった。ありがとう。勇気を出してよく言ってくれたね。あと、このことは警察以外には言わないこと、わかった?』

    『はい』

    『よし、じゃあ後は、必要性が無いときは、バイト先だったそのお店に、もう近寄らないこと。その近辺にはそうだな~、一か月ぐらいは用も無いのに行かないこと。美人なお姉さんからのお願いだよ?聞いてくれるよね?』

    隣にいる多賀谷の顔が、歪んでいた。

    『そうでした。美人さんな刑事さんで、照れていましたよ、あのとき。はい、約束します』

    『うん、じゃあね』

    媼は電話を切った。多賀谷が呆れた顔をしていた。

    「自分で言うとはな、うぬぼれが激しいな」

    「うぬぼれている自覚はありません。武器としてしか認識していません。以上です」

    平然と言ってやった。やれやれという表情になった多賀谷に、媼は続けた。

    「バイト君は大丈夫でしょうか」

    「佐藤の情報は掴めないだろうな。税務署がそもそも来ている。警察も一度だが俺たちが接触している。電話だけの付き合いだろうからな。断言は出来んが、可能性は低いと言える。係長に報告だな」

    媼は静かに頷いた。媼と多賀谷は会議室を出た。そのまま榛葉のデスクの前に並んで立っていた。媼が声をかけた。

    「係長、今、自殺した吉田の店でバイトをしていた佐藤から連絡があり、川田が店に来て帰った後、吉田は奥に下がり、どこか、または誰かと連絡を取り合っていたという証言を得ました」

    榛葉は目を媼に向けた。

    「信頼できる情報か?」

    「佐藤に、嘘を言う必要性はありません」

    「おまえが目当てでかけて来たんじゃないか?」

    媼は、榛葉が慎重なのかからかっているのかがわからなくなった。多賀谷が口を開いた。

    「私も電話を隣で一緒に聞いていました。内容も把握しております。佐藤からの情報提供は、信頼できると思われます。ただし、媼警部補は、その佐藤に売り込みをしていた部分があり、そこは慎重に対処すべきかと。捜査と個人感情が混同している部分も見受けられました。以上」

    媼は、多賀谷を睨んでいた。

    「ま、色で仕掛けたのだから仕方がない部分もある。私もその情報に嘘は混じっていないと考える。そして、重要な情報提供だったと思える。ようやく何かが掴めるかもしれんが、まあ、望み薄だろうけどな」

    媼は榛葉に顔を戻していた。令状があれば、通話履歴で追えると考えていたからだった。

    「係長、令状は無理でしょうか」

    媼は榛葉を見て言った。

    「無理だろうな。自殺として処理されている。だが…やり方はある」

    榛葉がニヤリとした。多賀谷が口を開いた。

    「税務署からですね?」

    「そうだ。金の流れの捜査は終わっていないはずだ。本人が死んでも、税を納めていないなら、納めさせるのが国だ。逃げられん。吉田は独り身だが、それは関係ない」

    「媼、おまえが飛騨とやらに連絡をするか?」

    「私から…話を聞いてくれるでしょうか?」

    「私が動くのなら、正式な要請となる。ということは、要請は出来ないとなる。それでいいのか?」

    「はっ、圧力ではなく、情報提供で行こうと思います」

    「ん、単独行動は禁止としたはずだ。多賀谷、おまえも行け。提供には見返りが付き物だ。わかったな?」

    「了解です。係長にそう言われたと伝えます。以上」

    多賀谷が礼をして榛葉の前を去った。刑事課から出て行く多賀谷の背中を、媼は急いで追いかけた。


    XXXVII


    媼は、多賀谷と歩きながら税務官の飛騨の元へと向かっていた。連絡も無しにだったが、それも作戦の1つだと考えることにした。いようがいまいが関係ない。刑事とはそういうものだと思っていた。

    「飛騨という税務官は、多賀谷さんと同じぐらいに見えましたけどね」

    「俺のようにかっこ良かったか?」

    媼は情報のとらえ方の違いに、呆れるばかりだった。

    「顔は関係ありません」

    「顔を武器と認識している奴の嫌味か?嫌な奴だね~おまえ」

    痛いところを突かれた媼は、返す言葉も無かった。調子に乗っている右隣りの男をどうしてやろうかと、ただひたすら考えて歩いていた。

    税務署に到着した。二人とも受付で手帳を提示し、飛騨を呼び出してもらった。近くにあるソファーに座って、飛騨が来るのを待った。媼は、環境事業所のソファーを思い出していた。あれを知ってしまった媼からすれば、このソファーも硬い椅子としか認識できなくなっていた。エレベーターから飛騨が降りて来た。

    「お忙しいところ突然申しわけありません」

    媼も多賀谷も、立ち上がって飛騨に歩み寄った。

    「媼さんでしたよね?情報提供のおかげで、上司から褒められました。川田という男性は、完全にやってますね。黒です。奥さんが協力してくれていますから、調査がスムーズに進んでいます」

    飛騨が饒舌に言った。

    「それは何よりです。ですが、川田君枝さんは、存じ上げなかった。そういうことです。厳しい追及は、私個人としては望むところではありません」

    媼は、慎重な言い回しをしなければいけないと思った。協力体制の維持と、情報提供を今後、受けなければならないと考えていたからだった。飛騨は媼を見て言った。

    「本人は他界していますからね。奥さんが協力的ですから、追及という立場は我々は取りません。ご安心ください。しかも、警察の方が言われるということは、そういう事実があると言いう認識です。これでよろしいですか?」

    媼は嬉しかった。ただただ嬉しかった。

    「ありがとうございます。私とこの多賀谷で、しっかりと調査しましたから、そう受け取っていただいて構いません」

    飛騨が多賀谷を見て言った。

    「お2人が『調査』をされた後、奥さんが我々の元に来たということですね?」

    多賀谷は、静かに首を縦に振った。そして口を開いた。

    「奥さんは、夫の川田が拠り所でもあり。そして何よりお互いがお互いを大切に思い合っていたということです」

    飛騨は頷いた。媼は、この多賀谷の心のどの部分から、今のような言葉が出て来るのか不思議で仕方がなかった。頭を切り替えた媼は、吉田の話をすることに決めた。

    「そちらにお伝えしてある『吉田古物商』は、どれだけ調査が進んでいますでしょうか?」

    とたんに飛騨は渋い顔になった。

    「そちらの情報提供で、その店も調べていますが、残念ながら、帳簿や銀行口座などはやはり怪しいところは今のところ、見付かっていません」

    「そうですか。でしょうね」

    多賀谷だった、飛騨は驚いてから口を開いた。

    「あやふやな情報提供だったのですか?」

    「こちらは疑うのが仕事です。罰することはできませんからね。ですが新しい情報です」

    多賀谷は媼を見た。媼は飛騨を見て言った。

    「吉田の店でバイトをしていた人物から、貴重な証言が取れました。その川田がお店に来て帰った後、吉田は奥に下がり、どこかへ電話連絡をしていた。ということです。証言という形ですが、確認は取れています」

    飛騨は状況を理解したようだ。背後の大きさを想像しているのかもしれない。

    「我々に何を期待されているのですか?」

    飛騨の慎重な言い回しだった。多賀谷が口を開いた。

    「期待だなんてとんでもない。情報提供です。以前と同じですよ」

    「ですが、今回はあなたまで来ている」

    多賀谷を見ながら飛騨が返した。媼は警戒を解くように話した。

    「お互い仕事です。我々には我々の、飛騨さんには飛騨さんの。ですが、協力してお互い効率よく動くことが出来れば、良い結果が得られると考えますが…違いますか?」

    「私の一存では決められませんね。ですから、そちらからの正式な要請という形が無いと…」

    多賀谷が遮るように口を挟んだ。

    「飛騨さん、人は社会でも『お礼』というものを使っています。我々はまだ何も受け取っておりません。この媼警部補も、そしてこの私、多賀谷警部もです。『社会人』という言い方にしましょうか。我々にも少しは期待させてください」

    媼は、多賀谷の圧を勝手に感じていた。飛騨はバツの悪そうな顔をしていた。多賀谷が続けた。

    「我々は公式にではありませんが、こうして裏で動いています。そろそろそちらも、部署として動く時が来ているのではありませんか?あなた自身が気が付かれているはずだ。『組織』があるのではないか、ということですよ」

    圧が続いていた。媼はそう思っていた。飛騨の目が鋭くなった。

    「わかりました。あなたたちはそうやって、ご自分たちの上司を動かしたのでしょう。今度は私の番ですね。期待しておいてください。どなたに連絡をいたしましょう」

    媼は笑顔になっていた。それを見た多賀谷が言った。

    「こっちにどうぞ。気に入ったのなら持って行っても構いませんよ」

    媼は、多賀谷を睨みつけながら、ワッパを持ってくれば良かったと後悔していた。

    「おキレイな方と同じ職場で羨ましいですね。多賀谷さんでしたっけ。仕事場に来るのが楽しみなんじゃないですか?」

    「邪魔ですから、お渡ししようとしたのですけどね」

    照れと怒りが交互に来て、媼は銃を持ってくれば良かったと思っていた。気を取り直して媼は飛騨に言った。

    「では飛騨さん、連絡をお待ちしております」

    短く飛騨にそう伝え、税務署を後にした。

    「俺の方がかっこいいな、うん」

    媼は、相手にもしたくなかった。だが多賀谷に聞いた。

    「動いてくれますよね?」

    「おまえの色仕掛けが効いたんだろ?大丈夫だ。言ったことはやるのが俺たち公務員だ」

    媼は、静かに微笑んでいた。街中の空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。空を軽く見上げてから、本部へと足を向けていた。


    XXXVIII


    媼たちは刑事課に戻って、榛葉の前に立っていた。榛葉が口を開いた。

    「で?どうだった?」

    媼が答えた。

    「はい、吉田の話を伝えました。その話のニュアンスから、裏に続く組織を感じ取っていたと思われます。多賀谷さんが圧をかけていました」

    「本当か?それは問題だな、な?多賀谷」

    全く問題がありそうに聞こえてこないのは、聞いている人間全員だろうなと、媼は思っていた。

    「税務署の懐の広さと、媼警部補の色仕掛けにより、今回は税務署が組織として動いてくれるとの言葉を残して、会話が終了したと私は認識しております。以上」

    「イテテテ」

    媼は、またもや多賀谷に肩に関節技を決めていた。今の今まで我慢してきた分思いっ切りやってやった。多賀谷がタップをしてもやめなかった。榛葉とタッチして、ツープラトンに持ち込めないかと思っていた。

    「媼、それぐらいで相殺だ」

    「ちっ」

    そう言って媼は、多賀谷を解放してやった。多賀谷は肩をさすっている。ざま見ろと思っていた。多賀谷が媼を睨んでいたが、無視していた。

    「それはさておき係長、川田の奥さん、君枝さんは、税務署の調査にとても協力しているようです。あの日、君枝さんに会いに行ってよかったと、私は考えます」

    媼は、榛葉にも一応伝えた。

    「推測だが、奥さんの心が、本当の意味で楽になるかもしれんな。好きな人に嫌疑を持ちながら生きるという、複雑な感情だったのだろうと思う。旦那はいなくなったが、心が晴れたという矛盾だ。思い出を大切にしていれば、下を向く必要はないと私は考える。以上だ」

    「オイ媼、おまえに言っている話じゃないぞ?」

    多賀谷だった。全部ぶち壊した多賀谷の腕をまた掴もうと思ったが、逃げられた。

    「ちっ」

    多賀谷を見ながら小さく舌打ちをして、榛葉に礼をして自分の席に戻って行った。多賀谷がまだ肩をさすっているのを見て、媼の留飲はまた少し下がっていった。媼は、隣にいる一末が、窓の外をずっと眺めているのが気になった。

    「どうしたんです?珍しく外なんて」

    「ん?明日雨だっていうから、傘を持ってこようかどうかとね」

    媼は、一瞬意味がわからなかった。

    「降っていたら差してくればいいじゃないですか」

    「降ってなかったらどうする?そして最後まで降らなかったら?」

    「賭けですね。天気予報で判断すれば良いのではありませんか?」

    「天気予報は適当だからな。間違えたら、天気予報士かキャスターが、頭を丸めるぐらいな覚悟は欲しいな。いつも俺たちを叩くのであればな」

    媼は、いつもと違う一末を見た気がしていた。

    「世論が変われば、そうなるかもしれませんね。そしてAIが代わりに天気を読み上げ、AIに責任を擦り付けようとするところまで行って、AIの反乱までがセットですね」

    媼は、一末に付き合ってやった。

    「コンセントを抜かれて、俺たちの勝ちだが、コンセントを入れ直して謝って終わりまでがセットだな。AI無しで、今の社会が成り立つか?おまえが生まれるはるか前からAIは実用されてきたんだぞ?AIと名前が付けられただけだということだ。知らなかったのか?」

    媼は知らなかった。考えてもなかった。そういえば、『コンピューター制御』という言葉自体は、使われなくなったと感じていた。代わりに言われるのがAI。置き換わっただけだということか。考えてみれば、信号もそうだったと思い返していた。媼はハッとしていた。一末に付き合う必要はない。報告書に手を付けるために、媼は頭を切り替えていた。

    『吉田の方が先だったか…』

    つぶやきにも似た一末の独り言が、静かに耳に届いていた。媼は報告書を書き上げ、帰ることにした。一末はまだ、暗くなってきた夕方を1人見つめていた。


    XXXIX


    媼は、規定の時間通りに出勤ができた。目覚まし時計に感謝していた。
    朝の挨拶をしながら、自分の席に向かっていた。媼自身も感じている。それぞれの組織がそれぞれのやり方で動いている。そう実感していたし、そうあって欲しいとも思っていた。通常業務をこなしながら、報告が入ってくるのを待っていた。そんな媼だったが、小さな事故に気が付くはずもない。県内では毎日事故が起きる。交通事故なら何件もだった。本部刑事課の媼に、その全てを把握できるわけはない。

    「管轄、単独事故発生。直ちに現場臨場されたし。以上」

    媼は、それを耳にしても、いつもの風景と感じていた。事故が起きるのは当たり前だと思っていた。人がこれだけいる。事故が無い方が異常だとも思っている。媼は気にも留めていなかった。いつも通りに書類仕事を片付けていた。

    『事故当事者の確認が取れた。男性、年齢54歳、名前は利田俊彦。現在詳細を確認中。以上」

    媼は顔を多賀谷に向けていた。媼はリモコンに向かって叫んでいた。

    『こちら本部刑事課。状況を詳細に知らされたし、以上』

    『現在、事故の詳細を調べ中、しばらく待たれたし。以上』

    指令室からの応答に、媼はイラ立っていた。

    「事故現場を知らされせたし。以上」

    「本部から約400m。北川交差点と確認されている。以上」

    媼は刑事課を飛び出していた。現場に全速力で向かっていた。間違いであって欲しいと願っていた。とても優しかった。媼に対しても紳士だった。媼のことを気に病んでくれていた。それだけでも嬉しかった。その利田が…媼は信じたくなかった。規制線が張られている現場に、媼は来ていた。手帳を静かに提示し、規制線を越えた。媼はゆっくりと現場に近寄って行った。近寄って来た鑑識作業員は、媼の前に立とうとしたが、他の作業員がそれを止めていた。雨が降ってきていた。一末の勘は、どっちなのだろうかと考えていた。媼は行きたくなかったが、行かないといけないと思っていた。役目だとも思っていた。

    媼は利田の遺体を見た。涙があふれていた。

    「どうしてー!」

    媼は天を仰いだ。そして泣いていた。誰も媼に声をかけることもなく、それぞれが自分の仕事をこなしていた。媼はただひたすら泣いていた。媼の背後から誰かの足音が聞こえた。

    「遺失物保管庫から借りて来たものじゃないから安心しろ。一末のだ」

    雨が止んだわけじゃなかった。多賀谷だった。媼は振り返って多賀谷を見た。そして抱き着いて泣いていた。多賀谷は静かにそれを受け取ってくれていた。


    XL


    媼は、びしょ濡れのまま本部に向かって歩いていた。榛葉たちの覚悟が、自分にはできていなかったというのもわかっていた。戻らない命…媼はひたすら泣いていた。多賀谷は静かにうしろにいてくれていた。何も声をかけて来なかった。

    「多賀谷さん。これはいいのでしょうか?私たちの行動が、この事故に繋がっていた可能性があります。私は耐えられません」

    「おまえの覚悟はその程度だったのか?係長も一末も、俺も、こうなる可能性はわかっていた。おまえ自身にも伝えてあったはずだ。こういう手段に出た組織を、おまえは見過ごすという考えなのか?おめでたい頭をしているな!」

    媼は振り返っていた。

    「利田は何かを俺たちに教えてくれていた。違和感をあの男なりに俺たちに伝えようとしてくれていた。俺なら、それをくみ取ろうと動く。利田が何を言いたかったのかを考える。おまえにできないとは言わせない。やれ」

    多賀谷は厳しかった。でも媼には、優しいと感じていた。今の媼には、目標が必要だった。媼の中で、覚悟ができていた。それを持って、榛葉がいる本部に向かって行った。


    XLI


    本部に戻った媼は、榛葉の前に立った。

    「係長、利田は殺されたと私は思っています。吉田、利田さんと続いた今、私は明確に、背後の組織が動いたと考えております」

    榛葉は媼の顔を見て、横に声をかけた。

    「一末、タオルを持ってきてやれ」

    「はい」

    短いやり取りがなされた。媼は微動だにしていなかった。

    「媼、これからという時に風邪を引きたいのか?受け取れ」

    一末からタオルを受けとった媼は、顔を拭いていた。そのまま泣き崩れた。ただただ泣いていた。

    「媼…泣くだけ泣いたら行くぞ」

    一末だった。媼は、利田への危険性を口にしていた一末が、もしかしたら一番心に思うことがあるのではないかとも思った。媼が重苦しくしている雰囲気を、榛葉が追い払うように声を出した。

    「ようやく向こうが動き出したと考えよう。俺たちが動く時が来たと思っている。一末、おまえはどう考える?」

    「まだ不十分のところがありますが、手を付けられるのは環境事業所だと考えます。そこの人事に当たるのも一つの手です。次は税務署の報告待ちです。吉田の店の通話履歴です。望み薄な部分もありますが、たどれない所へ連絡を取っていたという事実が、そもそも疑わしいとなります。その積み重ねが大事かと」

    多賀谷が口を開いた。

    「係長。俺たちの大事な刑事が泣かされました。どうしましょうか?」

    榛葉はニヤリと笑った。

    「そうさせたことを後悔させんとな。以上だ」

    榛葉は言葉を続けた。

    「一末、俺と環境事業所だ」

    「多賀谷、税務署と連絡を取って飛騨と共に動いて構わん。媼、体を温め直したら命令を出す。それまでおとなしくしていろ」

    媼は静かに頷いた。皆がそれぞれの役目に動き出していた。それを見届けた媼は、ひとまず自宅へ向かった。着替えようと考えていた。ずぶ濡れだった。風邪を引くかもと考えていた。だから着替えようと思った。そう思っていても、一末の傘を差しながら、ゆっくり歩くことしか出来なかった。


    XLII


    媼はまたまた走っていた。直近で何度目だろう。昨日は帰ってシャワーを浴びてそのまま寝てしまった。それにしても、土日に誰も連絡をくれないとは…八つ当たりをしていた。この前より早く長く走れている気がしていたのは、気のせいではない気がしていた。本部に無事時間内に到着した媼は、刑事課の雰囲気を感じていた。榛葉も多賀谷も一末もまだいなかった。媼は、自分の微妙な立場を感じながら、通常業務に手を付けようとしていた。

    「今回も俺の予想通りになりましたね」

    一末だった。

    「偶然が二回続いただけだ」

    多賀谷だった。

    「俺の決断力が決定的だったな」

    榛葉だった。

    「私の最終決定だろ?」

    浅見刑事課長だった。媼は、椅子から滑り落ちそうになった。刑事課に戻って来た面々を見て、媼は言った。

    「皆さんでどこに行かれていたのですか?」

    榛葉が答えた。

    「近くにできたサンドイッチ屋だ。一末が一押しと言うからな。付き合ってやった。美味かった。な?多賀谷」

    そのやり取りで、媼は全てを察した。媼は思わず口を開いた。

    「また多賀谷さんが負けたと…しかも課長まで行かれるとは…」

    浅見が不思議そうに言った。

    「何だ媼、おまえも行きたいなら行きたいと先に言えばよかったんだ。今から勝ち馬に乗ろうとするのは感心せんな」

    媼はめまいがした。考えるのをやめて、事実を確認しようと思った。

    「浅見課長、どこまで捜査が進んだのですか?」

    浅見はチラリと榛葉を見た、榛葉が頷いたようだった。

    「媼、係長と一末が、おまえたちが言っていた違和感を存分に味わったそうだ。居心地がいい設備がありながら、居心地の悪さを存分にな。多賀谷は税務署の飛騨と話をしてきた。向こうは動いてくれたが、吉田の連絡相手は特定できなかった。使い捨ての古いプリペイド携帯をいまだに使っているらしい。今のところここまでだ」

    「はっ、ありがとうございます」

    媼は、失礼を悔いていた。

    「それにしても人のおごりは余計に美味しく感じるな」

    浅見課長だった。

    「単純なんですよ」

    榛葉だった。

    「部下を信用しないからですよ」

    一末だった。

    「…」

    多賀谷だった。全てを察した媼は、静かに席に向かって行った。席に着いた媼は、多賀谷に向かって言った。

    「課長の接待、お疲れ様でした」

    朝一で言ってやった。多賀谷は静かに笑っていた。媼も一緒に、声を出さずに笑っていた。


    XLIII


    お昼が過ぎ、食事から歯磨きと終わらせた媼は、席に戻った。媼は、多賀谷、一末と共に榛葉に呼ばれた。榛葉のデスク前に立った3人は、榛葉を見ていた。

    「吉田がいなくなり、利田も存在しなくなった。これをどう思う?」

    媼は即座に答えた。

    「消したと考えるということですか?」

    「そう考えたいのか?」

    「いえ…そう聞こえただけです」

    媼はそう返した。ただ、榛葉の意図することは何となく理解していた。

    「俺と一末が、環境事業所へ行ってきた。おまえたちだけに相手の目を向けさせるわけにはいかんからな。これで我々の組織が、向こうに目を付けたと思わせることが出来たと考えている」

    そして一末が感心したように口を開いた。

    「お茶、本当にうまかったですね。ね?係長」

    「そのおまえたちの証言だけは本当だったな、な?一末」

    「福岡県の八女伝統本玉露というものらしいです。調べましたが高級品でした」

    媼は、一末の言葉を無視して榛葉に聞いた。

    「利田さんが亡くなったことに対してのあの事業所の反応はどうだったのですか?」

    「『貴重な人材が事故ということで失われてしまい、非常に遺憾だ』と言っていた。どこぞの役所だな」

    榛葉が答えてくれた。媼は、その言葉自体が、利田の必要性が無くなったという表現に感じていた。怒りが込み上げていた。

    「しかし係長…」

    「落ち着け媼。俺を誰だと思っている?」

    榛葉が遮って言った。

    「遺憾に思うことが立て続いていることに釘は刺しておいた。川田のことだ。事故として処理はしたが、いつでも蒸し返すことはできる。そういうことだ」

    媼は静かに頷いた。榛葉は続けた。

    「あそこの従業員を洗う。女性だけでいい。経歴を調べる。あそこに勤める前にどこにいたかだ。これは管轄の北署に当たってもらう。その報告を待て。以上だ」

    媼は驚いていた。自分自身がいない間に、驚くほどのことが進んでいるように感じていた。媼自身が、全て自分でやらなくてはいけないと思い過ぎていた。それが無理だとも今思えてきた。榛葉や多賀谷、一末に、とても感謝していた。

    「それにしてもキレイな受付だったな」

    榛葉だった。

    「俺は左が良いと思いましたね」

    一末だった。

    「俺は、俺が行ったときにお茶を運んだ姉ちゃんだな」

    多賀谷だった。媼は、瞬時に感謝の気持ちを消していた。この連中には、油断をしてはいけないことを今、学んでいた。媼は榛葉に言った。

    「吉田が死に利田さんが亡くなりました。これからどうすれば良いのでしょうか…」

    榛葉はニヤリと笑った。

    「繋がりというものはな、一点だけとは限らない。関係の無いような部分でも繋がっていたりする。多賀谷おまえならどう読む?」

    「女でしょうね。あそこの従業員は異常です。ハーレムというものは、現代には似合いませんからね」

    「一末。おまえはどう思う?」

    「そうですね、あそこで働いている女性と、働かせている者たちの思惑が一致しているということでしょうね」

    媼は引っかかっていた。

    「係長、女性を追えるのでしょうか?」

    「追えばいいんじゃないか?北署には女性の経歴を当たってもらうと言った。おまえたちは、その後を当たれ」

    単純な答えに、媼は驚いていた。『聞け』榛葉はそう言っている。媼は迷わなかった。

    「では、行ってまいります」

    「多賀谷、行ってこい。おまえも選んできたらどうだ?」

    多賀谷はニヤリと笑って言った。

    「その裏を取ってきます。以上」

    媼と多賀谷は覆面に乗り込み、多賀谷の運転で本部を後にしていた。

    「あの女性たちは、あの事業所からいなくなった後、どこに行くんでしょうか」

    「さあな。部署の配置換えか、それとも退職か。座っているだけでお金がもらえるんなら、俺もやりたいぐらいだ」

    媼はその考えが不思議といつも感じていた。

    「そうでしょうか?人として何も成長しないんですよ?何かの技術を習得するというわけではないでしょうし…」

    「皆が皆、おまえと同じな考えなわけじゃない。男と女の違いもあるが、現に俺は羨ましいと思った」

    媼はそれでも反論した。

    「ですが、歳をとったときに、出来ることや知っていることが少ないと、寂しくなりません?私はそう考えます」

    多賀谷が静かに返した。

    「そう、『おまえが』そう思うだけだ。あそこにいる連中は、そう思っていないと考えればいいんだろ?」

    媼は納得はしていなかった。ただ、言葉を返すこともできなかった。そして車は、環境事業所に到着した。

    「同じ女に当たろう。榊しのぶだ。一点突破で行く」

    多賀谷は媼にそう告げ、媼も頷いた。媼と多賀谷は受付けで手帳を提示し、榊しのぶを呼び出してもらった。来るたびに居心地が悪くなってきた。目の前にいる微笑を浮かべた2人から離れたくなり、媼はソファーの場所に行って、静かに腰を下ろした。多賀谷も向かいのソファーに座っていた。お互い無言だった。エレベーターから、見覚えのある女性が降りて来た。榊しのぶだった。媼と多賀谷は立ち上がり、榊しのぶに会釈をした。まず媼が口を開いた。

    「お仕事中にすみません。伺いたいことがありまして、よろしいですか?」

    「何でしょうか?この施設については、私が存じていることは少ないのですけどね」

    多賀谷が次に聞いた。

    「この職場では、女性が3年から5年でいなくなられる方が多いと聞いています。ここから移動されるということでしょうか?」

    榊しのぶは平然として答えた。

    「契約が切れる。そう考えていただければと思います」

    媼はとても気になったことを、聞いてみることにした。

    「この仕事場で、榊さんは何かを学んだり、技術的な何かを得たり出来たのでしょうか?ここに来られて1年が過ぎたと以前おっしゃいましたね?慣れてきたと。では、ご自分がここで成長出来たというのはあるのでしょうか?」

    榊しのぶは、媼に強い目を向けていた。

    「それは個人の問題です。あなたはそれを否定するのですか?私もあなたのような考えにならないといけないと?押し付けはご自分の中だけでおやりください」

    そう言い終わって、榊しのぶは元の表情に戻っていた。媼は確信した。ここにいる全ての女性とは言わないが、この考えでここにいるのだろうと思うことにした。でなければ、媼自身が耐えられないと感じるように、ここにいられたものじゃない。媼は質問を変えることにした。

    「失礼しました。確かにそうですね。私はここで働くには不向きだというのがわかりました。では、もう一つ伺います。ここから離れた後、あなたはどうされるのですか?それと、ここを退職というのでしょうか、契約が切れた方で、親しかった方を1人で構わないので、教えていただきたいのですが」

    媼は、榊に話した後、多賀谷を見た。多賀谷は媼を見て頷いていた。榊しのぶは、少し笑みが増したように見えた。そして話し始めた。

    「まず私のことですが、近々婚約いたします。早ければ来年、遅くとも再来年までには、残念ながらここから退職ということになるでしょう。上司にもその旨を伝えてあります。社内での友人という言い方も変なのですが、親しい者は少ないですね。学校とは違いますので。ですが過去に退職された方で、今もお付き合いさせていただいている方はいます。『大河内沙織』さんです。休日のときには、たまに一緒に食事をしに出掛けたりしております」

    媼は、携帯の画面を確認してから質問を続けた。

    「お手数なのですが、榊さんの方から、我々がお話を伺いたいと言っているとお伝えしていただけると助かるのですが…」

    榊しのぶは微笑を浮かべているが、目付きが変わったように媼は思えた。

    「構いませんが、お2人に会ってくれるかどうかは保証できませんよ?」

    多賀谷が口を開いた。

    「それは一体なぜですか?」

    榊は挑むような顔になっていた。

    「大河内県議の御子息、秘書をされている方とご一緒になられました」

    多賀谷の顔が一瞬だが歪んだ。媼は、多賀谷のその表情の意味がわかった。だから聞いてみることにした。

    「榊さん、ご婚約間近ということで、おめでとうございます。よろしければ教えて欲しいのですが、お相手はどのような…榊さんのようなお顔でしたら、素晴らしい方と巡り会えると思いまして…」

    榊は媼にその微笑を向けた。

    「市議会議員の鳥羽雄一です。来年の選挙で忙しいという状況です、ですから少し先延ばしになるかも知れません」

    多賀谷が聞いた。

    「来年というと県議選ですね?そこに出馬されると」

    「あくまでそう聞いているというだけです」

    「そうですか。では我々は帰ります。お忙しいであろうところ、お邪魔をしてすみませんでした」

    媼は、軽い嫌味を込めて挨拶をした。榊は、貼り付けた微笑を、媼たちに返し、軽く会釈をして戻って行った。媼はチラリと受付を見た。会話をするでもなく、手を動かしてもいないその2人は、そこで何かをただ待っている人形だと思ってしまっていた。多賀谷と顔を見合わせ、本部に戻ることにした。後ろでは静かに、女性が立ったであろう音と、頭を下げているであろう服の擦れた音が聞こえてきた。媼は、見る気さえもう起きなくなっていた。

    媼の運転で、車は始動した。

    「困った繋がりが出て来たな。最低でも課長案件だな」

    「それであんな表情をしていたのですね」

    「まあな、俺たちだけでは分が悪すぎる。手順を間違えれば、ずっと留置所番になるぞ」

    「多賀谷さんでも恐ろしいことはあるんですね」

    「嫌味を言っていられるのも今のうちだな。おまえ1人で鳥羽市議のところに行くか?」

    媼は『やっべ』と思いながらも言葉を返した。

    「行きたいのはやまやまですが、単独行動は禁止なはずです。残念ながら」

    多賀谷は鼻で笑った。媼も笑顔で運転していた。突然多賀谷が無線用のマイクを手にした。そして瞬時にスピーカーに切り替えた。

    「右から来るBM!一時停止線を越えたな?え?捕まりたいのか!!」

    媼の目に、ビクついた年配の男の姿が見えた。

    「多賀谷さん、スピーカーは銃と同じ扱いのはずですよ?いいんですか?」

    「適正使用だ、問題無い」

    「前の車!俺を後ろにおいていい度胸だな、え?そのスピードが許されると思っているのか」

    媼は慌てた。前の車が急減速したからだった。

    「多賀谷さん、危ないですよ逆に」

    「あのまま前の車が行っていたら、もっと危なかったかもしれん。おまえも車間に気をつけろ」

    ノロノロ運転になった周辺に、媼はイライラしていた。媼たちは、ようやく本部にたどり着いていた。

    「市民に対しては強気なんですね」

    それを多賀谷は無視して、本部に入っていた。媼は、ストレス発散のためにやったのではないかとさえ思っていた。


    XLIV


    媼たちは、まっすぐに榛葉の元に向かった。

    「係長、あそこで働く女性たちが、美女ぞろいの理由は、女性と力のある人物たちとの繋がりを作る場所だからじゃないでしょうか」

    多賀谷が話を始めた。そして続けた。

    「榊しのぶを呼び出してもらって、話を聞きました。婚約することと、近々それにより退職するというのを言っていました。上司に報告済みだとか。過去に退職し、今も繋がりがあるという女性を紹介してもらおうと思いましたが、何とその女性は、大河内県議の息子で秘書をやっている人物と一緒になっています。名前は『大河内沙織』です」

    媼が続いて話した。

    「2人聞いただけでこの確率。どちらも政治家絡みです。どうしましょう」

    話を聞いていた榛葉が、口を開いた。

    「すぐに本部に戻って来たのは褒めてやる。それ以上突っ込んでいたら、俺も課長もやばかったな」

    媼が言った。

    「ですが係長、この調べの続行は大丈夫でしょうか」

    「そっち方面を突かなきゃいいだけだ。女たちの行先を突き止めるのが目的だったんだろ?わかったじゃないか。違法性も無いが、繋がりという意味では何とも言いがたい違和感は生まれただろ?」

    榛葉の強気に、媼は驚いていた。榛葉が続けた。

    「北署がそこの女たちの前歴を洗ってくれている頃だろう、どこで彼女らを拾ってくるのか。ここがカギになるかもな。顔で選んではいるのだろうがな」

    媼は、思っていることを榛葉にぶつけることにした。

    「私から見ると、あそこで働く女性には、何かを身に付けたり成長するという思考性が感じられません…」

    榛葉がニヤリとした。

    「いらないんだろ?そもそも。恐らく、元々そこそこの家柄。そしてそれなりの大学を出ている。もうこれで十分なんじゃないのか?後は適当に良い家柄の男と一緒になり、終了だ。後は遊んで暮らすわけじゃないだろうが、暮らしに困ることが無い暮らしをするという、最大の目的を果たすということだ。おまえとは、最初から見ているところが違っているんだよ」

    媼は、住む世界が違うのだろうなと考えておくことにした。

    「女性たちがどこから来るのか、誰が用意しているのかが、気になりますね」

    多賀谷だった。媼は納得していた。あれだけのレベルの女性たちだ。組織的にどこかが用意していると見るのも良いかもしれない。

    「係長…」

    「北署に任せてある。一末からの報告待ちだ。以上だ」

    媼の言葉を遮るように、榛葉は報告を終わらせた。媼たちは、それぞれの席に戻って行った。一末がいないことは、刑事課に戻ってから気がついていた。媼は自分の業務を再開していた。しばらく没頭していたが、一末ののろまさにイライラしていた。

    「係長、戻りました」

    一末だった。媼は席を立ち、榛葉の元に行った。

    「『株式会社 レディーセミナーパートナー』という会社からの派遣の様です。早い話が派遣社員ですね。条件が大卒以上で、登録費が50万円ですよ?驚きましたよ」

    媼も驚いた。理屈はわからないではないが、それをまず納めないと、登録してもらえないという仕組みにもだ。その上で面接でさらにふるいに掛け、絞るということか。媼が口を挟んだ。

    「芸能事務所のようなやり方に見えますね」

    「良い読みだな、媼」

    榛葉が褒めてくれたが、媼は慣れていない、薄気味悪く感じた。

    「俺も登録してもらえれば、『アロハデカ』で、代表作でも作ってもらえるようなところに派遣してもらえるな」

    媼は呆れながら返した。

    「レディーとありますからね」

    「例外があるかもしれんからな。50万貸してくれ」

    媼はめまいがしていた。榛葉も呆れていた様子だった。

    「その程度の調べではないんだろ?一末」

    一末は榛葉に顔を戻して話を続けた。

    「北署は良い調べをしていました。抜けが無いという感じでしたね。ですが、一応その今の会社『株式会社 レディーセミナーパートナー』の関連会社、または親会社の存在も調べましたが、ありませんでしたね」

    「簡単には見付からんか。一末、おまえはどう感じた?」

    「ま、相手も馬鹿では無いということでしょう。巧妙に何かが行われているようですからね。税務署でも、吉田のところで止まっていますからね」

    飛騨からの連絡もまだ無い。媼は行き詰っていると感じていた。ここにいる誰もということだろう。媼たちはそれぞれ席に戻って行った。媼は、多賀谷が前に言っていたことを思い出していた。

    『真っ白で真っ当な商売なんていうものは理想論だ。どんな仕事だってグレーな部分もある。俺たちだって例外じゃない。』

    個人のリサイクルショップを回っていた時の言葉だった。『俺たち』媼はまた席を立った。榛葉の前に来ていた。

    「係長、飛躍を元にしていますが、私の考えがあります。よろしいでしょうか」

    「構わん。今は想像で動いても良い。言ってみろ」

    媼は驚いていた。いつもなら違う答えが返ってきたはずだったからだ。榛葉も手詰まり感を感じているのだろうと思っていた。

    「合法的な名簿屋というのがあるのではないでしょうか?」

    榛葉は驚いた顔をした。媼は一末に声をかけた。

    「一末さんどうです?」

    媼は、一末がいつも聞き耳を立てていることをようやく理解していた。だから話を榛葉のように振ってみた。

    「ああ、あるな。『オプトアウト届出事業者』という制度だな。よく気が付いたな、媼」

    一末が褒めたので、媼はまた居心地が悪かった。

    「一末、説明してみろ」

    榛葉が言った。一末は、自分の席で立って話し始めた。

    「今調べましたが、『国が認めている名簿屋』というのがわかりやすいですね。届け出をして、その業者の管理体制などの審査後に、問題が無ければ、国のお墨付きがもらえるということです」

    媼は驚いていた。一末が続けた。

    「自分で言ってみて驚いていますが、そんな合法な会社があるなんて…」

    「そうだな、俺も知らなかった。しかし、それとこれらの一連の事故か事件かはわからんが、どう結び付く?」

    榛葉も正直に言っているようだった。

    「繋がりを探すしかないということですね」

    多賀谷だった。榛葉は慎重に言い返した。

    「願望で動くな。何かの動き、繋がり、共通項が無いかということだ」

    それぞれが静かに頷いた。

    榛葉が皆に声をかけた。

    「今日は上がりだ。報告書を出して、もう帰れ。俺も帰りたい」

    媼は微笑みながら席に戻り、報告書を書き、本部を一番最初に出ていた。


    XLV


    今日の媼は、ゆっくりと本部に向かって歩けていた。朝さえちゃんと起きるということさえすれば、全力疾走という情けない事態にはならない。媼は、目覚まし時計に文句を言わなくて済んだと考えていた。

    6階の刑事課に入り、挨拶をしながら席に向かった。書類整理をしながら、事件のことを考えていた。環境事業所の女性たち、高額な登録料の派遣会社であるレディーセミナーパートナーズ、そして政治家と女性たちの婚姻の事実、リサイクルショップと合法的な名簿屋。繋がっていそうで繋がっているようには見えない。どこをどう叩けばいいのかもわからなくなっていた。

    多賀谷、一末、榛葉が、それぞれ刑事課に顔を出して来た。挨拶を返しながらも頭の中は、そのままにしておいた。昨日の帰り際は、進展したと思ったが、こうして見れば、やはり何も掴めていないに等しい。媼は自分一人で焦っている気がしていた。そのまま通常業務を続けていた、その時だった。

    「媼、下に彼氏が来てるぞ?」

    榛葉のその言葉に、媼は驚いた。心当たりは全く無い。

    「飛騨と名乗ったそうだ」

    榛葉はニヤニヤとしていた。他の刑事課の連中も、そういう目をしていた。セクハラとはどいうものかを理解していない刑事たちに、暗い気分になっていた。媼はトボトボと歩き出した。エレベーターに乗り、1階のロビーに向かった。

    「飛騨さん、わざわざお越しいただきありがとうございます」

    媼は会釈をして伝えた。

    「こちらこそ、またお顔を見たくなりましてね。というのは冗談で、こちらです。この封筒をお返しに参りました」

    媼が、川田のことを調べてもらうために、税務官の飛騨に渡した物だった。

    「ああ、ありがとうございます。この情報を渡してくださった方が、先日事故で亡くなりました。私に大変良くしていただいた方でしたから、すごくショックでした」

    「媼さんにそう言われるその方は、相当な方なのですね」

    「いえ、仕事上で知り合っただけでしたが、お話を聞きに行くと、とても丁寧に対応してくれて、本当に助かったのです」

    飛騨が改まった感じで媼を見た。

    「我々も全力で動いたつもりですが、やはりすでに壁に当たっています」

    飛騨が捜査状況を話しだしたので、媼は驚いていた。しかも媼たちと同じ状態だというのだ。どう答えようか迷ったが、正直に言うことにした。

    「我々も、一進一退という感じですね。進んだと思ったらまた…という状態です。ですが、諦めたわけではありません」

    飛騨は即座に返した。

    「それは我々も同じです」

    媼は笑顔を返していた。飛騨が照れているようだった。媼は飛騨が持ってきた封筒を、何気なく覗き、紙を取り出してみた。川田の住所が書いてある紙に、別の紙が挟まれていた、そしてそれが床に落ちた。媼はそれを拾った。飛騨がそれを見て口を開いた。

    「ああ、その紙というかメモは我々も見ましたが、何のことかわかりませんでした。そこでも、力及ばずということです」

    媼は不思議に思いその紙、メモを見た。

    『オプトアウト届出事業者の株式会社 AアンドRジャパンと株式会社 レディーセミナーパートナー  共通の過去を』

    そう書いてあった。元々そのメモは入っていて、それに気がつかなかった。媼の目から、涙が流れていた。『利田さん…』媼はただ泣くしか出来なかった。利田が重大なことを教えてくれている気がした。やはり利田は、命を狙われ、そして奪われていた。自身よりも、媼のことを気にしながらだった。目の前でオロオロする飛騨をよそに、媼は落ち着かない心のまま、泣いていた。媼は震える声で飛騨にお礼を言い、動きがあれば情報をまた伝えると言って別れた。媼は涙を拭き、強いまなざしでエレベーターに乗っていた。


    XLVI


    その女は若いかと言われれば若いかもしれないが、若い人から見れば、若くはなかった。手には、さほど大きくない、茶色い高そうな革のバッグを提げていた。厚みもさほどない。落ち着いた、気品のあるモスグリーンのスーツを着ている。スーツだけでも目立つが、本人はそれを気にしていないようだった。朝の通勤時間を少し過ぎたぐらいの時間だった。ハイヒールを履きこなしている。色はネイビー。センスも抜群と言えた。

    あるお店の前に着いた。まだ開店する時間ではないことは、時計を見なくてもわかる。シャッターが下りているからだ。その女性はそのお店のシャッターにある郵便受けに、少し厚みのある茶色い封筒を、そっと差し込んでいた。その郵便受けの稼働するふたの部分に、革のバッグから取り出した赤い、丸いシールを貼っていた。そして静かにその場から離れた。

    すぐさまバッグからスマホを取り出し、地図を起動させていた。


    XLVII


    ある男は、ブルーシートの一角の男に、静かに声をかけた。年配の男のように見えた。散歩にでも出かけているという言葉が似あっている。中から、人が動く音が聞こえた。ある男はもうそこから離れていた。別の男がブルーシートの『自分の家』から出てきた。そして離れたところで立っている、ある男に近づいて行った。ある男は挨拶を軽くした。ブルーシートから出てきた男に向かってだった。出てきた男は挨拶ではなく、軽く手を挙げていた。

    ある男は、くるりと背を向けてあっさりと去っていった。出てきた男は、その場の足元にある何かの束を、そっと拾っていた。そして両手をお腹の前で重ね合わせ、大事そうに抱えて歩き出していた。そして何事もなかったように、『自分の家』に戻って行った。


    XLVIII


    媼は、刑事課に到着していた。そしてまず多賀谷に声をかけて、榛葉の場所へと促した。

    「係長、税務官の飛騨さんからの報告です。現在の我々と同じような状況でした。壁に当たっていて、捜査が進んでいないようです」

    榛葉は眉をひそめていた。媼は続けた。

    「係長、これです」

    媼は、封筒から出てきたメモを、榛葉のデスクにそっと置いた。榛葉は手に取って媼を瞬時に見た。

    「…利田さんは…私にこれを…」

    媼はまた泣いていた。1人で抱えて我慢できるものではなかった。榛葉は深く頷いた。

    「これが同封されていたんだな?」

    榛葉は確認のために聞いていた。

    「はい、飛騨さんからその封筒を返されたとき、私は川田の住所が書いてある紙を取り出しました。そのときに封筒から落ちました。飛騨さんの方で、その内容を調べたらしいのですが、結局意味がわからなかったそうです。利田さんが、私に残したメッセージだと考えられます」

    榛葉は媼に言った。

    「おまえ1人で何を責任を感じる必要がある?おまえが主人公なのはおまえの中だけだ。私もいれば、隣に多賀谷もいる。あそこで携帯を見ている一末もいる。おまえはいつから1人だった?そうじゃないはずだ。だから落ち着いて周りを見るんだ。いいな?」

    媼は、泣きながらも前を見た。榛葉の優しさも感じていたが、覚悟を決めるときが来ていると思っていた。

    「係長、その2つの会社の共通項ですよね?」

    媼は横を見て言葉をかけた。

    「一末さん、お願いします」

    「ああ、過去にハッキングされているな、2つの会社共にだ。関連が無い以上、共通項は事件ですね、係長」

    「一末、その事件の状況を洗い直せ。日時と状況だ。まだ何もわからんが、共通項があるからな。課長に動いてもらおう。サイバー課に連絡を入れてもらう」

    「了解しました」

    「多賀谷、媼、おまえたちはどちらから当たる?」

    榛葉がニヤリとして聞いてきた。

    「オプトアウト届出事業者の株式会社 AアンドRジャパンにしましょうか」

    多賀谷が即座に言った。

    「やり方は任せるが、合法な会社だ。わかっているな?」

    「合法なのはわかりましたが、どういう会社かわかりませんからね」

    多賀谷もニヤリとして榛葉に言葉を返した。

    「自重しろよ?」

    「はっ」

    多賀谷は短く答えた。

    「よし、2人とも行ってこい」

    媼は多賀谷と並んでエレベーターに向かっていた。事故として処理されてしまっている利田の仇を取りたいと思っていた。刑事としては危険な考えだとも思ったが、覚悟としてそう思うことにしていた。媼は多賀谷に運転を譲った。媼が助手席なら、多賀谷の問題行動を防げるとも考えていた。それこそまた、関節技でも決めてやろうかと、危うい手段も頭の隅に置いていた。

    「多賀谷さん、何か出ますかね」

    「恐らく、何も出ない」

    媼は驚いて多賀谷を見た。多賀谷は涼しい顔で運転している。

    「我々は、どういう体で訪問すればいいのですか?」

    「その会社の仕事内容をまず聞けばいい。そこから適当に聞きたいことを聞く。疑問が湧いたらその都度聞く」

    「その会社に就職するわけじゃないんですよ?」

    「転職先だと考えて、今の仕事を利用して聞き出せる。こちらも合法だな。お互い様のやり方だ。憶えておけ」

    久しぶりの多賀谷節に、媼は大きく笑っていた。そして車は、AアンドRジャパンに到着した。


    XLIX


    10階建ての大きなビルだった。その8階に目当ての会社があった。媼たちは1階の受付で手帳を出し、訪問する会社を警備員に告げた。首からそれぞれ入館証をかけて、エレベーターに乗り込んだ。豪華ではないが、今どきの一般的なオフィスという感じを、媼は持っていた。『エリート』自然とそういう言葉が、頭に浮かんできた。自身が『キャリア』なのに、媼は目に入る人たちにそう思っていた。

    いかにもテナントの一角という作りで、衝立で奥まで見えなくしている。入口にベルがあり、媼はそれを鳴らした。なんともまあ安っぽい音がして、受付担当であろう媼ぐらいの年齢の男が出てきた。媼と多賀谷はそろって手帳を提示した。多賀谷は、相手の顔の真ん前まで手帳を出していた。媼は、顔をしかめていた。その男は、顔を後ろに引きながら声を出した。

    「警察の方が、どういう用事でしょうか?」

    媼は、この会社員のためにも、本題に入ることにした。

    「ある事件が起きていまして、そのために、『オプトアウト届出事業者』というものがどういうものかというのを、調べて来いという命令を受けまして、検索をかけて見ましたら、こちらの会社が1番上に載っていた。そういう意味での来訪と捉えてください」

    男は、媼の話を静かに頷きながら聞いていた。

    「つまり、業務内容ということですね?」

    「はい、そういうことです」

    媼が答えた。

    「わかりました。ではあちらへどうぞ。手前の部屋です。その部屋でお待ちください」

    媼たちは、どの所轄にもありそうな部屋に通された。応接室ではなく、会議室のようなところだった。多賀谷は窓側によって、外を見ていた。媼は、部屋のあちこちに目をやっていた。何かを確認するためだった。多賀谷が突然声をかけて来た。

    「小姑か?おまえ。女から嫌われるぞ?」

    多賀谷の勘を呪った。

    「いえ、環境事業所以来、癖が付いているだけです」

    「自意識無しか。もっと嫌われるな」

    部屋の扉がノックされた。薄い扉のノックの音は、甲高い。媼はそう思った。40代の男が入って来た。

    「川崎と言います、事業内容について聞きに来られたと伺いましたが…」

    「県警本部の刑事、多賀谷と、媼と言います。お忙しいところ申し訳ありません」

    媼が紹介した。相手は少しだが驚いた顔をしていた。

    「さ、どうぞお掛けください」

    媼と多賀谷は、近くにあったパイプ椅子に座った。長机がコの字型に配置されている。媼たちは部屋の右側に、川崎は媼たちの右側に座った。窓を背にしている。

    「さっそくですが、こちらではどういうお仕事がなされているのでしょうか?」

    媼が聞いた。

    「簡単に、とは行かないかもしれませんが、ざっと説明しますね。まず、Webサイト、企業登記、官報、公的なアンケートなどから、「企業データ」や「個人情報」を大量に集めます。これを「収集、インプット」ですね。そして次に、集めたデータを、業種、地域、年齢、ターゲット層ごとに分類・更新し、検索しやすいシステムにします。これを「整理、データベース化」と呼びます。最後に、新規顧客を開拓したい企業へ、マーケティング用のリスト(テレアポ用、DM用)として有料で提供する。これが「販売・提供、アウトプット」というところですね」

    多賀谷が口を開いた。

    「個人情報を大量にですか…なんだか身震いしてしまいますね」

    川崎は、慣れた表情で答えた。

    「そうですね。その方たちの『顔』はわかりませんが、どこの誰かは見ることが出来てしまいますからね。ですが、国から許可を得てやっているのです。ご安心ください」

    川崎の顔を見ながら、媼が口を開いた。

    「セキュリティには、気を使わなくてはいけませんね」

    「万全という言葉が正しいのか当てはまるのかがわかりませんが、そこは大事なことだと我々も考えて、そして取り組んでおります」

    「静かな会社内ですね」

    多賀谷だった。

    「そうですね。ひたすら入力というのもありますが、今は情報を、プログラミングされたソフトを使って、ネットから企業情報などをかき集める、というのが主流になっています。自動化という言い方がわかりやすいでしょうかね」

    それを聞いた多賀谷が続けた。

    「それにしても、我々がベルを押さなければ、さっきの若い子は出て来ませんでしたね」

    媼は多賀谷を見てから、川崎に顔を向けた。川崎はバツが悪そうにしてから答えた。

    「お見せは出来ませんが、あのすぐ裏には会社の者がすぐにいます。ご心配になられる必要はありません」

    媼には、苦しい言葉だとしか感じられなかった。今までの説明が丁寧だった分、一気に信用が飛んだとも感じていた。多賀谷が背もたれに持たれるように体を倒しながら言葉を吐いた。

    「そうですか、まあどこも人手不足、ですからね」

    「そうですね…」

    川崎は自分の会社なのに、居心地が悪くなっているようだった。少なくとも媼には、そう見えた。多賀谷が続けた。

    「こちらの会社では、過去にハッキングされた過去がありますね」

    川崎は、やはりそこかという表情をしていた。媼の来訪説明で、自分たちのことではないと、警戒が下がっていたのだろう。媼は川崎の顔を見ていた。

    「先ほども申し上げましたが、万全にしているつもりでも、やはり穴と言いますか、そこを突かれてしまいます。ネット社会とは恐ろしいと、しみじみ感じます。ですが我々としては、出来る限りの対策ということで、誠意を表しているつもりです。情報漏洩による被害が確認されていないのが、救いと申しますか…まあ、私が口にする言葉ではありませんが…」

    媼には、開き直っている態度にも映った。情報漏洩が、その漏れた中に入っている人、会社などが既に被害者だからだ。多賀谷がさらに続けた。

    「そうですね、何万件、何十万という漏洩があったとしても、データでしか知りませんよね?もちろん顔も知らない。記号、文字という実態が、問題を軽くしてくれていますね。我々からすれば羨ましいくらいです」

    媼は、多賀谷の理論的でありながら、この執拗な絡みが、個人的に何かあるのではないかと勘繰っていた。

    「わが社としましては、謝罪会見と今後の対策と対等という形で、お許し願いたいという思いです。そして、警察の方たちに頑張っていただくという願いを持っています」

    川崎のこの軽い反撃に、媼は油断ならない相手だと感じていた。多賀谷の顔を見た。渋い表情になっていた。

    「では伺いますが、被害者に保証をしたことはあるのですか?」

    媼は、気になって聞いてみた。

    「実害が出れば、ということになります」

    「例えば、どのような補償を?」

    媼も執拗とまでは言わないが、食い下がってみた。

    「前例がありませんので何とも…その被害に乗じてそれなりの保障となるでしょうね。現時点で申し上げられるのはこれぐらいです」

    媼は続けた。

    「『被害』というものがどういう経緯で起こるかの証明がむずかしいですよね?例えば、資産を持つ人物の情報が漏洩した。数万件の中の一つのデータにすぎません。ですが、それを取得した人物、またはグループが、その家に強盗、または泥棒に入ったとします。あなた方は自分たちの責任と考えますか?」

    少し間を取ってから、川崎が答えた。

    「そうですね、昨今のトクリュウでしたでしょうか。その強盗事件も、我々と全くの無関係だと胸を張ることはできませんが、我々の責任かどうかも含めて、警察の方々の捜査次第、ということとなります」

    媼はわかっていた。この川崎を問い詰めたところで、これ以上の答えは期待できない。この人物は通常業務をこなしているにすぎないからだ。多賀谷の言葉、どの仕事にもグレーな部分はあるというその言葉を、媼は思い出していた。そしてハッとした。そう、『グレーの部分を担っている者がいる』という風に考えてみた。その媼の横で、多賀谷が口を開いた。

    「一応お聞きしますが、まさかその繋がりがあるわけではありませんよね?」

    「ありません。そこだけは断言させていただきます」

    「あくまでも確認です。気分を害してしまい申し訳ありません。我々の『仕事』ですからね、ご理解いただいていると思っていたのですがね」

    媼は、多賀谷の嫌味に笑いをこらえるのに必死だった。川崎は、自分の言葉を自分で否定する形になっていたからだった。媼は多賀谷を見た、目を合わせた多賀谷が、軽く頷いた。

    「では川崎さん、お忙しいところお時間を取らせて申し訳ありませんでした。またお話を伺いに来る事があるかもしれませんが、そのときはまた、よろしくお願いします」

    媼は、恐らくまた来るだろうと思っていた。この会社の中に、グレー担当がいる。そう考えていた。川崎は、無言で会釈をし、部屋の扉を開け媼たちを見送った。


    L


    媼たちは、『株式会社 レディーセミナーパートナー』に向かっていた。ここでも媼は、多賀谷に運転をさせていた。

    「あの、先ほどの会話の途中で思ったことがあります。川崎が知らないところで、しかしあの会社内で、何か知っている者がいるのではないでしょうか。私の推測では、セキュリティ担当という読みです。一末さんとサイバー課が動いてくれているとは思いますが、何か出ますかね」

    多賀谷が前を見ながら答えた。

    「お互い自分の仕事以外のことは、知らない方が楽だからな。川崎が言ったトクリュウなんて、その典型だな。分業制だ。秘密の漏洩が、皮肉にも自分たちには強硬になるしな。漏洩の被害者が聞いたら、怒りが湧くだろうな」

    媼は、多賀谷の先ほどの執拗な質問を思い出していた。

    「過去に何か多賀谷さんの情報が漏れたとかあったんですか?個人的な感情の憂さ晴らしに聞こえましたが…」

    「報道を見れば自然と湧いてくる感情だ。『今のところ漏洩による被害は確認されて…』何て言葉を聞いて、『そうですか』としか思えない人間に、刑事が務まると思うか?今起きるわけ無いだろ?今後起きて来るんだよ。だから逃げられるんだ」

    媼は長い多賀谷の話を聞きながら、妙に納得していた。そして、『そうですか』と思っていた自分のことは、内緒にしておいた。媼は、中心部から少し離れた郊外に向かう車の中で、周りの景色を見ながら、利田の優しかった態度を静かに1人、思い出していた…


    LI


    覆面は、レディーセミナーパートナーに到着した。ハッチバックの外車が多く駐車してあるのに驚いた。後はワンボックスカーだ。そう、軽四が無い。媼は瞬時にそう気がついた。多賀谷は、来訪者用駐車スペースに覆面を止めていた。

    「多賀谷さん、軽四が全く見当たりませんね」

    「榊しのぶを思い出してみろ。乗るような玉か?」

    媼は納得していた。あの微笑と態度に、軽四は似合わない。軽四を乗る人物に、あの態度は取れないという言い方でも良いかもしれない。媼たちは、コンクリート造りの2階建ての、横に広いビルの入り口、自動ドアをくぐった。受付に、女性が一人いた。媼は手帳を提示し、声をかけた。

    「本部刑事課の媼と申します。ある事件を捜査しているのですが、参考にと思いましてお話を伺いに来ました、どなたか対応できる方はいらっしゃいますか?」

    受け付けの女性は、媼よりは若く見えた。少しだけだと媼は思うことにした。その女性も漏れなく美形だった。

    「それはご苦労様です。どのようなことでしょう、それによって取次先が変わります。おっしゃれる範囲内で、お伺いしてもよろしいでしょうか?」

    媼は焦っていた。出鼻をくじかれるとはこのことかと理解というよりも、体験してしまった。言葉が出るまで少し間があった。多賀谷があきれた様子で口を開いた。

    「マスメディアなどの対応に当たる方でも構いませんし、警察対応専門の方がいるとは思えませんからね、お任せします」

    女性は会釈で多賀谷に理解を示していた。白い目を向けている多賀谷の方を見るのはやめておいた。

    「では、少々お待ちください」

    洗練された手付きで、女性はどこかに連絡を取っていた。媼はロビーを見まわした。『セミナー会場はあちら』という矢印の看板が立てられていた。だから横幅があるビルなのかと、1人納得していた。多賀谷は、派遣先の一部が紹介されている一覧を、じっと見ていた。媼も近づいて見てみたが、名の通った会社が当たり前だが多かった。来訪者の目に付く場所なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、あの受付の女性自体を、採用したいと考える会社がいても、おかしくないだろうと思っていた。

    ロビー自体も豪華に作られている。木製の受付、近くにあるベンチも、落ち着いた色とデザイン。媼は、環境事業所を思い出してはいたが、居心地が悪くなるような気味の悪さは伝わっては来なかった。少なくともここにはセミナー会場があるのだから、人が来ることが無いあの事業所の豪華さの方が異常と言えた。媼が1人で想像を膨らませていると、1人のラフな格好の40代に届くか届かないかの男前が現れた。黒のスラックスで白い綿のボタンダウンのシャツを着ている、というか、着こなしていた。多賀谷を見た。挑むような顔を一人でしていた。

    「お待たせしました。刑事さんということで…何用でしょうか?」

    女性が出て来るであろうと思っていた媼は、またもや出遅れた。

    「ええ、ある事件の参考のためにお話を伺おうと思いまして。偶然こちらの会社が検索でヒットしたものですから…」

    多賀谷が横から答えていた。少し目を細めている。相手の男に、対抗意識を持っているようだった。媼は呆れていた。

    「それでしたら私がお話を伺います。どうぞこちらへ」

    媼たちは、そう離れていない場所の、応接室に通された。無駄な物はないと瞬時に感じた。何よりセンスが良いと思っていた。調度品があったとしても、違和感の無い、部屋に馴染んでいるという言い方があっているとも思えた。媼は、当然そうだろうと思いながら、進められたソファーに座った。その通りの座り心地だった。松井と名乗ったその男は、改めて質問してきた。

    「参考にしたいというのは、どのようなことでしょう」

    「女性の方が出て来られると思っていましたから、意外な気がしました」

    松井は苦笑いをしていた。

    「そうですね、会社名がすでにそうですからね。ですが、女性だけの職場をご想像されれば、その何と言いましょうか、難しい状況は理解出来ると思いますが…」

    男に囲まれて日々を過ごしている媼には、全くもって理解ができなかった。媼は多賀谷を見ていた。やれやれといった感じで、多賀谷が答えた。

    「まあ、男社会の我々が体感することはありませんが、その、ギスギスと言いましょうかね。それは社会経験という意味では、耳にしますからね」

    松井は苦笑いをしながら頷いていた。媼は1人女でありながら、男同士で語られる女性だらけの職場というものが、理解出来ていなかった。媼は気を取り直して聞いた。

    「こちらで派遣登録されている女性は、おキレイな方ばかりですね」

    媼は、松井が何て返すか気になった。

    「今の時代、問題な発言になるかもしれませんが、やはりそこはわが社としましても、会社の売り、または強みということにしようと、社長とも相談して、方針を決定しました」

    多賀谷が口を開いた。

    「では、顔も基準の一つなんですね」

    「隠しても仕方が無いことですから申し上げますが、そう受け取っていただいても構いません」

    「登録料50万円とあったのを拝見しました。これはどういうことなのでしょうか。一般的なことなのですか?」

    媼が聞いていた。松井は媼を見て答えた。

    「他社様のことはわかりませんが、我々の会社に登録していただいた方は、無料でわが社が開催するセミナーに参加できます。まあ、そのためのお金だと思っていただければと。他にも、マナーなどの講習も受けられますからね」

    媼は続けることにした。

    「こちらに登録されている方々は、産まれ持ったというか、元々そういうものをお持ちの方が多いと感じました。いかがですか?」

    松井は、何かを理解したかもしれなかったが、それは放っておくことにした。その松井が口を開いた。

    「そうですね、おかげさまで良いおうちの出、と申しましょうか、登録していただいた方の多くが、そういう方になりますね。相乗効果と申しましょうか、おかげで、そういう方たちが自然と集まるようになりました」

    松井は、何となくだがその言葉からも態度からも、自慢というのが漏れ出していた。媼はそれが気に入らなかった。

    「松井さん、過去にハッキングを受け、情報が抜き取られましたよね?」

    媼はここに来た理由を言ってやったという気持ちになっていた。態度が利田とは段違いなのが、媼をイラ立たせていた。

    「あの事件ですか。我々も非常に困りました。会社の看板に傷をつけられたようなものですからね」

    「被害者なのはわかりますが、何だか謝罪というのとは違うという印象を持ちましたが」

    媼はさらにイラ立った。もしかしたら、好きな顔のタイプではないという単純な理由から来ているのかとも考えていた。

    「ハッキングされて、情報を抜き取られた我々が悪いと、そう言われるのですか?申し訳ないとは思っていますが、被害者が謝罪をしなければならないというのは、そもそもおかしなことです」

    媼は、こいつが嫌いなんだと確信していた。

    「それを、抜き取られた方に言えますか?被害に遭った登録者の方々に。もちろん言われましたよね?」

    多賀谷だった。さすがだと媼は勝手に褒めていた。

    「社内のことは社内で処理してありますので、ご安心ください」

    媼はこいつを信用していなかった。嘘だと即座に思っていた。

    「セキュリティーは、万全にしてあったと…」

    媼は聞いた。

    「我々はネットのセキュリティーは、どれだけやれば万全なのかというのがわかりかねます。専門の者も会社にはおりません。せいぜいパソコンのセキュリティーソフトが精一杯というところでしょうかね」

    「情報漏洩に気がつかれたのはどうしてですか?専門の部署が無いと伺いました」

    多賀谷が聞いていた。松井は多賀谷を見て答えた。

    「情報提供という言い方は警察の方に言うのも変ですが、会社に連絡が入りました。『登録されている人の経歴が、ネットに出ている』と。うちの会社の名前も出ていましたからね。それで通報ということになりました」

    媼は、おかしな点は無いと感じていた。媼は多賀谷に視線を移した。

    「そうですか。さぞご自慢の信用にヒビが入りましたでしょう?」

    多賀谷は、全く心配する素振りをしていないのが、媼から見てもバレバレだった。松井は言葉を一瞬詰まらせていた。

    「被害者ですからね、あくまでも。先ほども申し上げました」

    多賀谷は平然と答えた。

    「ええ、伺いました。ですから心配したまでです」

    「ありがとうございます」

    媼は、松井が少し気の毒になった、が、どうでもいいかと感じていた。この男に興味も無かった。特権意識を持っている者は好きになれなかった。媼は多賀谷を見て軽く頷いた。多賀谷が席を立った。媼もそれに合わせた。そして媼が言った。

    「松井さん、大変参考になりました。本部に戻り、捜査の参考にさせていただきます」

    媼たちは、松井に軽く会釈をし、腹を少し立てているであろう松井を残して部屋を出た。媼たちは受付の前を通ったとき、その先ほどの女性が立ちあがり、会釈をしながら見送っていた。人間味を求めてしまう媼には、嬉しくもない動作にしか見えなかった。媼たちは車に戻り、本部へ戻ることとした。媼は助手席を死守した。


    LII


    「どうもあの男は好きになれませんでした」

    媼は素直に言った。

    「年増が好きなのか?」

    媼はイラっとしていた。多賀谷が続けた。

    「まあ、かっこよさで言えば俺の圧勝だな。格の違いはあいつもわかっただろうな。かわいそうな奴だ」

    1人、次元の違う話をしている隣の男に、媼はなんて声をかけようか考えていた。

    「特に疑わしいとは感じませんでした。隠していることも無さそうです。まあ、被害者意識を持つのは勝手ですが、あの態度というか、姿勢はどうかとは思いますけどね」

    「ま、言っていることに間違いはない。日本人の悪いところだな、被害者が責められるという。この意識は、なかなか変えられるものじゃないからな」

    媼もそこは納得していた。特に女性は責められるなと、思ってもいた。本当に悪いのは犯罪を犯した者だと、意識が変わってくれないかと願ってもいた。理不尽過ぎる。被害に遭い、そして周囲から責任を問われるということが、だった。媼は静かに車に揺られていた。


    LIII


    媼と多賀谷は、真っすぐに榛葉の元に向かった。一末も立ち上がって、榛葉の元に来た。

    「 AアンドRジャパンは、何かありますね。」

    多賀谷が榛葉に伝えた。

    「川崎という男が対応しましたが、奴自身は何も知らないと思います。ですが、あの会社のセキュリティーの低さは、ちょっと気になりました」

    「レディーセミナーパートナーは、不審な点というのは感じられませんでした」

    榛葉がその多賀谷の言葉に意外な顔をした。

    「おまえにしては追及が甘かったんじゃないか?女の対応で後手に回ったとかな」

    「係長、出てきたのは男です。遠慮する必要はありませんでした。まあ、私の方が顔は圧倒していましたからね。ご安心ください」

    榛葉が口を開いた。

    「一末からの報告で、サイバー課がようやく本腰を入れたということだ。個別の事案だったから、別々に捜査していたようだ。当然これでは、捜査に熱も生まれない」

    一末が続けた。

    「一応ハッパは掛けましたが、三年前の事案ですからね。難しいかもしれません。ですが、同じなんです。両社とも、被害の発覚というか、発見が同じ三年前です」

    榛葉の目が鋭くなった。

    「これは俺の勘だが、その前は発覚は無かったのか?」

    一末が口を開いた。

    「いえ、それ以外の事件については通報はありません」

    「同じ3年前か…時期は?」

    「警察の認知ですが、6月と7月です。近いと言えば近いですね。レディーセミナーパートナーの方が後ですね」

    媼は反応した。

    「レディーセミナーパートナーは、自分たちでその漏洩事件を見付けていません。外部からの連絡で、その事実を知ったと言っていました」

    榛葉は多賀谷を見た。

    「私もそれを一緒に聞いています。大丈夫です」

    多賀谷がそれに答えた。

    「よし、ほぼ同時期ということでよさそうだな」

    榛葉は確認するように言った。

    「一末、おまえはしばらくサイバー課に詰めるか?報告は送る。おまえからの報告は電話で構わない」

    「命令ならばそうします。以上」

    榛葉は頷いた。

    「ネットのログのデータは、捜査に入った時点で残してあるか、取ってあるはずだ。サーバーに問い合わせて照合してもらう。まあ、私よりも専門家がやるだろうから、任せよう。課長に、一末、おまえのことは挙げておく、以上だ。後、そろそろ上がる時間だ。続きは明日とする。俺は帰りたい」

    媼は、榛葉の言葉に笑っていた。それぞれ自分のデスクに戻り、報告書に取り掛かった。一末が一番早く帰り支度を始めた事実に、媼は素直に認められなかった。多賀谷と競うように張り合ったが、多賀谷の涼しい背中を、媼は悔しみながら見送っていた。


    LIV


    媼は、また朝から走っていた。携帯の電池が切れていたのを呪っていた。普段からあまり使わないから、自然とこうなることが多い。媼は、携帯の根性の無さを走りながら罵っていた。1人、また1人と抜きながら、媼は、『ランニングデカ』というネーミングを考え出していた。『メロスデカ』というあだ名よりも、優しい響きがあると思っていた。走るたびに、俊敏さと持久力が上がっていることにも気がついていた。媼は、毎日走って通勤しようかと思っていた。ヒールでこんなに走る女もいないだろうとも思っていた。本部に到着した媼は、息が上がっていなのに気がついた。そして、平然とエレベーターに乗っていた。

    課の前に着いた媼は、澄ました顔で部屋に入っていた。挨拶をしながらだった。

    「媼、メロスが好きだなおまえ」

    『なに!』媼はまたみられたかと思って、榛葉の顔を思いっきり振り返った。

    「課長が下にいて、俺に緊急で問い合わせが来たからな。おまえが血相を変えて走っているから、事件が起きたかと言われたぞ?」

    媼は苦笑いしながら席に着いていた。周りの嘲笑が、うるさく感じられた。一末は、サイバー課に行っているようだった。本部内でも特殊な場所にあることは知っていた。今更現場も無いだろうから、データとの戦いをしているのだろうと、媼は勝手に思っておいた。一末も、刑事課からの連絡事項を伝えたら、そのうち戻ってくるのだろう。まあ、いてもいなくてもいいかと、気にしないことにした。

    『中央、こちら神田。マルタイに動きあり、現在、自宅前を南方向へ移動中。これより追尾する。以上』

    媼は、スピーカーとマイクが一体になったリモコンを、ぼんやりと聞いていた。聞き覚えのある名前が出て来てはいた。媼は瞬時に多賀谷を見た、そして榛葉を見た。榛葉は、ノイズまじりのリモコンの音量を上げた。

    『こちら中央署、了解』

    『中央、車両の回収人員を出せ。以上』

    中央署の神田と、中央署とのやり取りが、雑音まじりに聞こえていた。媼に緊張が走った。それかは静かになっている。報告が無いといことは、順調と考えるべきなのだが、媼自身はイラ立っていた。

    「落ち着け媼。動いただけで、『動き』があったわけじゃない」

    多賀谷だった。多賀谷自身も、気になっているはずだった。媼は、そう思うことにした。書類仕事をしながらも、媼は耳と頭が持って行かれていて、ほとんど進んでいなかった。榛葉を見たが、書類を書きながらも、耳だけはそちらに向けているように感じられた。多賀谷は、偉そうなことを言いながらも、何も手を付けていなかった。媼は榛葉をまた見た。

    「手がお留守だぞ媼、聞きながらこなせ。以上だ」

    媼は軽く吹き出してしまったが、それもそうだと思うことにした。媼は榛葉のまねをしようとしたが、なかなか難しかった。媼は時計を見た。

    『中央、マルタイ帰宅。以上』

    『中央署、了解』

    媼は、緊張の空気が少し解けた気がしたのを感じていた。45分間の外出ということだったようだ。特に何か特筆すべき無線は入らなかったということは、何も無かったということなのだろうと、媼は理解した。神津自身は、もしかしたら警察との散歩だと思っているのかもしれない。歪んだあいつの考えを思い浮かべるだけでも、媼は気分が悪くなる思いがしていた。多賀谷を見た、何事もなかったようにもう仕事に戻っていた。媼もそれに倣うことにした。一末が、部屋に戻って来た。榛葉の元に、媼も多賀谷も集まっていた。一末が口を開いた。

    「係長、両社ともに、『業務効率化』という名目で、一時的にログ取得機能が停止されています。その痕跡が出ていました。そのタイミングを突かれていたということです」

    榛葉が反応した。

    「それは、内部の犯行とも読めるがどうなんだ?」

    一末が即座に答えた。

    「時期も係長の読み通りです。6月と7月にハッキングの記録が出ています。タイミングが合い過ぎというか、時期が近いですね。内部の者がそれを意図的に行い。そのタイミングでハッキングが起きた。そう考えるのが自然かもしれません」

    「それをやったものが誰かというのを調べればわかるということになりますね」

    多賀谷は榛葉に言った。榛葉は一末に視線を戻した。

    「一末、当時の捜査記録には、担当者の名があるはずだ、どうだ?」

    「ハッ、もう1度行ってきます。以上」

    媼はズッコケそうになりながらも、捜査が大幅に進展したと感じていた。雲どころではない状態からの捜査開始だったからだ。榛葉は、一つため息を付いてから、力強い目付きで言った。

    「媼、よくここまでたどり着いたな。多賀谷、よく媼に協力してくれた。課長からは私が挙げておく。課長の命令で令状の請求もでるだろう。準備をおまえたちもしておけ。以上だ」

    そのとき、榛葉のデスクの電話が鳴った。

    「よし、わかった」

    媼は、その短いやり取りで理解した。

    「一末からだ。当時の担当者は『川瀬美穂、33歳』レディーセミナーパートナーからの派遣だ。俺は課長に報告してくる。別命があるまで待機だ。以上」

    媼は興奮していた。『利田さんの仇を討つ』そう誓った。そして媼は、榛葉に言った。

    「係長、その『川瀬美穂』を抑えたいと思います」

    榛葉がニヤリとした。

    「だとよ多賀谷、朝から忙しいな、え?一緒に行ってこい。令状が出たら端末に送る。忘れるな。以上だ」


    LV


    媼と多賀谷は急いで本部を出た。媼は運転席を奪った。

    「お?珍しいな」

    媼は無言だった。慣れた手付きでエンジンを掛け、即座に赤色灯、サイレンを始動させた。迷いはなかった。多賀谷の驚いている空気は感じ取っていたが、無視した。そして本部から出動した。走行しながら、媼はおもむろに無線マイクをスピーカーに切り替えた。

    「前の車、どきなさい!邪魔するなら逮捕します!」

    多賀谷の気持ちが少しわかった気がした。

    「おい!やりすぎだぞ。緊急性も無いのにサイレンまで鳴らしている。

    「先輩?散々私に手本を見せてくれましたよね?それに報いるためです」

    媼は、無線マイクを使って答えていた。

    「もういい。ぶっ飛ばせ!」

    「了解!」

    媼はここでようやくマイクを置いた。前が開いたからだ。怒りだけが媼に渦巻いていた。


    LVI


    覆面は、ド派手にAアンドRジャパンのビルの前に到着した。媼は、エンジンと赤色灯をそのままにした。

    「おい、消さないのか?」

    「たくさんの人に見てもらいましょう。影でコソコソ動いて来た女なのでしょう。花道を作ってあげれば、感謝されるかもしれませんからね。ほら、どんどん観客が増えてきましたよ」

    媼は多賀谷を見ながら答えた。多賀谷の表情は歪んでいたが、すぐに鼻で笑って、頷いていた。

    「行くぞ、媼麗華」

    媼はゆっくり頷き、ビルに入って行った。


    LVII


    媼は怒りがあったが、落ち着いてもいた。自分でも不思議だった。運転中も、見境が無くなることもなかった。始末書のことは考えないことにした。そして目的のフロアにエレベーターが到着した。媼たちはAアンドRジャパンの一角に向かった。そして媼は、置いてあるベルを鳴らし、人を呼んだ。

    「はい、ご用は何でしょう」

    「警察です。川瀬美穂さんを呼んでください」

    媼は手帳を提示しながら、若い男に言った。男は目を見開いていた。サイレンは聞こえていただろうが、まさか自分たちのところに来るとは考えてもいなかったのかもしれない。媼はそう思うことにした。

    「聞こえませんでしたか?呼べと言った」

    多賀谷の微妙な空気は感じていたが、媼は構わなかった。若い男は戸惑いながら頷き、奥へ走って行った。代わって川崎が出てきた。

    「刑事さん、何かありましたか?」

    「あなたに応える義務が、我々にあると?」

    媼は、当たり前のこと言った。

    「しかし、一応私は責任者の1人でもありますので…」

    「なるほど、ではその責任を負う覚悟がおありと…なかなか殊勝な考えですね。人間、そうありたいものですよね?」

    媼は思いっ切り皮肉ってやった。情報漏洩の話をしに行ったときは、散々警察に対して嫌味を言ってくれたからだ。許せなかった。媼はチラリと多賀谷を見た。ニヤリと笑った。

    「川崎さんでしたよね?一緒に行きますか?覆面パトカーには、そう乗れたものじゃないですからね。責任と覚悟があるということですからね」

    多賀谷が言ってくれた。

    「脅しですか?私は会社の人間として、意見を述べただけです」

    「その意見も、警察で伺いますよ?」

    多賀谷が続けた。そして、川瀬美穂らしき女がゆっくりと出てきたように、媼には感じられた。まるでスローモーションだった。美人だった。そして大人の女性の雰囲気をしっかりと纏っていた。来ているスーツは薄い青のスカートタイプの上質な生地で、それは媼にもわかるぐらいだった。媼は一瞬、気圧されていた。あまりにも美しく、そしてその場を支配するような何かを持っている気もしていた。媼は、『手強い…』そう感じていた。

    「刑事さん、何か御用がおありとか…何でしょう」

    「忙しいとは思いますが、こちらも仕事です。伺いたいことがありますので、同道願いたい」

    多賀谷が言った。媼は、多賀谷がこの女性をどう思っているか聞きたかったが、我慢した。川瀬美穂は、少し考えているようだった。

    「ここでのお話で済むのでしたら、お答えしますが…その方が、お互いに効率的だと思いますけど?」

    媼は、さすがセキュリティー担当だと、1人で関心していた。

    「表のパトカーの中で話を伺ってもいいのですが?」

    媼は挑発してやった。川瀬は困ったという表情を見せた。川崎を見たが、川崎は少しだが、あとずさりしていた。川瀬の困った顔も、とても絵になっていた。

    「わかりました。ですが、何のことで呼ばれるのか教えていただいてからですね。私自身が納得してからご一緒したいと思います」

    『移動中に考えるつもりか?』媼はそう思っていた。

    「3年前の情報漏洩についてです。ご協力くださいますよね?」

    多賀谷だった。媼は、美人さんだから丁寧なのかと、1人勘繰ってしまった。川瀬は微笑の美女になっていた。媼は見とれそうになるぐらいだった。

    「かしこまりました。私は当時も担当でしたからね。ご一緒いたします」

    「ありがとうございます」

    媼は、白い目で多賀谷を見ていた。『こいつ…』媼は1人、そう思っていた。エレベーターの場所に到着し。ボタンを押した多賀谷は、開いたドアの前で、『どうぞ』と言わんばかりに手を差し出していた。媼は、殺意を覚えていた。川瀬美穂は、多賀谷に軽く会釈をして乗り込んだ。乗り込もうとした多賀谷を押しのけて、媼は先に乗った。媼は『閉』のボタンを連打していた。エレベーターが動き出した中で、背後にいる川瀬のクスッと笑う声が聞こえた。

    「私の緊張をほぐそうとしてらっしゃるんですか?お優しい刑事さんたちで、嬉しいですね。ありがとうございます」

    隣にいる多賀谷を、媼は睨んでいた。多賀谷は挟まれた肩をさすりながら、媼を睨んでいた。エレベーターが1階のロビーに到着した。ビルの中にも外にも、仕事時間だというのに人が集まっていた。皆、携帯を掲げている。媼は、先頭を歩いた。多賀谷が一番後ろを歩いた。あえてゆっくり、媼は歩いてやった。『晒す』そう決めていた。多賀谷に運転を譲った。媼は助手席に座った。車が走行を始めた瞬間、媼はサイレンを始動させて、ボリュームを上げた。

    「多賀谷さん、緊張をほぐすためです。ゆっくり本部に行きましょう」

    媼は笑顔を多賀谷に見せた。多賀谷の顔が引きつっていたが、戸惑いながらも頷いていた。媼はスピーカマイクを手にしていた。

    「こちら警察です。緊急車両が通りますが、通常走行、そして安全運転しております。皆さんも、心がけてください。こちら警察です…」

    媼は、そう言って本部到着までやってやった。川瀬の表情をミラーで見た。最初は困惑したようだったが、それも一瞬だった。微笑が、にこやかになっていた。媼は気に入らなかった。本部の駐車場に覆面を止め、本部内の取調室に案内をした。本部内のロビーにいた男たちは、水色のスーツを着こなしている川瀬に、目が行っていた。媼は、自分の評価が低かったことに、敗北を初めて感じていた。利田や飛騨、中央署の神田の言っていることが嘘ではないかとさえ思えていた。彼らは『おキレイな方』という言い方をしてくれていたのに…武器として使って来たものが、無効化されて気になっていた。

    エレベーターのボタンを押し、開いた扉の前で、また多賀谷が例のしぐさをした、川瀬の後に乗り込もうとした多賀谷にタックルをして媼は乗り込み、すぐさま『6』のボタンを押し、続けて『閉』ボタンを連打した。成功した。

    「いつもそうして遊んでいらっしゃるんですか?仲もよろしいのですね。刑事さんたちのそのご様子でしたら、街も平和ですよね。私たちも嬉しくて、安心できます」

    背後から聞こえた、優しく笑みが感じられる声に、媼はどう責めていくかを真剣に考えなければならないと思っていた。だからその声は無視した。エレベーターが、刑事課のあるフロアに到着した。驚いたのは、息を切らした多賀谷が、エレベーターの前で媼たちを待っていた。媼を待っていたのではないのだから、媼はその考えを打ち消した。先に媼が降りた後、川瀬にまた例のしぐさをしていた。

    「どうぞ」

    まさかの多賀谷の言葉を聞いた媼は、多賀谷の背後に回り、お尻に膝蹴りをしていた。

    「ありがとうございます」

    落ち着いた川瀬の声に、多賀谷はお尻をさすりながら笑顔で会釈をしていた。回し蹴りにすべきだったと、媼は後悔していた。多賀谷を先頭に、媼たちは刑事課に入って行った。榛葉や他の刑事たちまで、立ち上がって川瀬を見ていた。浅見刑事課長は、ガラス張りのデスクから飛び出して来ていた。媼は、マシンガンを配備すべきではないかと考えていた。そして、榛葉の前に来た。多賀谷が報告を開始した。

    「係長、AアンドRジャパンの川瀬美穂さんをお連れしました」

    「よしご苦労だった。粗相は無かっただろうな?」

    榛葉の表情に、媼たちを送り出したときの締まった顔が消えていた。係長にも膝蹴りが必要なのではないかと思ったが、浅見課長を見て絶望していた。川瀬は、静かに、そして洗練された無駄のない所作で、榛葉に軽く礼をした。媼自身さえも、真似をしたいと思えるくらいな優雅さだった。『さすが登録料50万だな』そう心の中で毒ずくのが精一杯だった。

    「一末、川相、川瀬さんを3番のお部屋にお通ししろ」

    榛葉の言葉に耳を疑った。『お部屋?』取調室の3番部屋だった。お茶とお茶菓子でも買いに行かされるのではないかと心配していた。一末と女性刑事の川相が、川瀬を案内した。一末だけは、普段と変わらないようだった。媼は少し落ち着いた。

    「おまえたちはちょっと来い」

    刑事課を出て、小会議室に榛葉を先頭に入って行った。

    「まあ座れ」

    媼たちは近くのパイプ椅子にそれぞれ座った。

    「中央署から問い合わせがあったぞ。AアンドRジャパンにド派手に乗り込んだそうだな、え?中央署の高坂巡査長から無線連絡が入ったそうだ。本部に問い合わせがあったぞ。全く…多賀谷、何枚書いたら気が済むんだ?」

    「か、係長、私ではありません。媼です」

    「は~…多賀谷、さすがに大好きな始末書は、書き過ぎて嫌いになったか?な?媼」

    「そうみたいですね、今回もいつものノリでしたね」

    多賀谷は目を見開いて媼を見ていた。

    「係長、濡れ衣です。証言を集めてもらえば、女の声だったというのも集まるはずです」

    「媼を銃で脅したのか?」

    媼は吹き出しそうになりながらも、この会話を放っておくことにした。多賀谷の今までの川瀬への態度が悪いからだと、そう思うことに決めていた。放っておきながらも、媼は川瀬美穂への対抗策を考えていた。かなりの状況証拠は積み重なっている。媼にはあの川瀬の余裕が不思議だった。そう、余裕という不自然。そこを突いてみようと、密かに考えていた。

    「もういい、その話は後だ。おまえたち、川瀬さんを何とか落とせ。以上だ」

    川瀬『さん』?媼は目を見開いていた。たまらず媼は、声を上げていた。

    「係長、まがりなりにも容疑者ですよ?」

    「まだ参考人の段階だ、容疑者ではない」

    「さん付けもおかしいですし、参考人と言っておきながら、『落とせ』なんて…」

    媼は食い下がった。

    「細かいところはいい、さっさとおまえたちでやってこい」

    媼は、白い目で榛葉を見ていた。多賀谷が媼を睨んでいるのは知っていたが、無視していた。


    LVIII


    媼たちは、川瀬美穂が待っている『お部屋』に向かっていた。

    「あの川瀬の余裕が気になりますね、多賀谷さん…多賀谷さん?」

    「…」

    多賀谷が無言でまだ媼を睨んでいた。

    「もう済んだことじゃないですか、気にしない気にしない。日頃の行いの大切さが、身に沁みますね」

    「証人を確保してあるからな、問題無い」

    媼は、完全に忘れていた。今から取り調べる相手が、多賀谷にとっての証人となる。『多賀谷も敵か…』それにしても、高坂サヤ巡査長が現場復帰してくれていたのは嬉しかった。神津との取調室での証言依頼だった、名前を聞くのは。媼は、3番取調室の前へ来た。一末と川相が出てきた。

    「いや~、美人過ぎて拍子抜けするな」

    一末だった。

    「一末さんは、ず~っと川瀬のことを褒めていたんですよ?取調室で落とされる刑事は初めて見ました」

    川相だった。媼は、一末に期待した自分を馬鹿にしていた。一末は29だから、大人の女性に映ったのかもしれない。あきらめに近い感情で、取調室に足を踏み入れた。川瀬が会釈と笑みを、媼たちに送って来た。媼は川瀬の前に座った。多賀谷は媼の右の机の横に立った。書記官として、川相が残ってくれていた。媼は深呼吸をしてから川瀬の目を見た。とても優しく、そして美しい顔立ちだった。媼は、余計な考えを断ち切るように言葉を出した。

    「お待たせしました。では聴取を開始します」

    「はい、どうぞ」

    「3年前に起きた情報漏洩事件、AアンドRジャパンのデータ、個人情報が、ハッキングという手口で、盗まれましたね?その事件は覚えていらっしゃいますか?」

    「はい、私が担当を、当時から現在も請け負っております。ですので、存じ上げております」

    微笑を絶やすことなく、媼を優しく見つめている。媼は表情を今回も見ることにした。突破口にもしたかった。

    「あなたは、どういう経緯でAアンドRジャパンに派遣されることになったのですか?」

    「レディーセミナーパートナーの方から、AアンドRジャパンを紹介いただきました。お話を直接伺いに行き、採用との運びとなりました。技術職ですので、運良く、ということでしょうね」

    自分の才能をひけらかさないのがさすがだと媼は思った。

    「では、また話を変えますが、レディーセミナーパートナーに登録しようと思われた経緯について伺います。いつ頃だったと記憶されていますか、登録された日は」

    「大学を卒業後ですから、23歳の頃ですね。ちょうど10年前となります」

    「22歳では無かったのですか?」

    多賀谷が、ようやく口を開いた。媼は多賀谷を見た、川瀬に見とれていた。媼はあきらめて、川瀬に目を戻した。

    「在学中に、1年、シンガポールに留学しておりました。合理性の塊のような国と、友人から聞いておりました。ですから、どうしても行ってみたいと思うようになりました。そしてその内情も、知りたいと思いましたものですから」

    「なるほど…」

    多賀谷の感心した声が、取調室に虚しく聞こえていた。媼は、左うしろにいる川相書記官をチラリと見た。多賀谷を見ながら同じく、呆れていた。媼は顔を戻して続けた。

    「そうでしたか。ちなみに、登録料はご自分で?」

    「学生時代に多少のバイトはしておりました。ですが所詮、多少です。親のすねかじりと言われてしまいますね」

    媼はまた興味が湧いて聞いてみた。

    「川瀬さんがされていたそのバイトは、どういったものでした?」

    川瀬は少しだけ驚いた表情になった。そこまで聞くのかと思ったのかもしれない。

    「司会ですね。結婚式やパーティーなどでの司会進行役をやっておりました」

    そこに多賀谷が口を挟んできた。

    「へ~、それは意外です。今のご職業とは全然違いますね」

    川瀬が多賀谷を見た。媼も多賀谷を見た。にやけた顔つきがイラつかせる。媼は多賀谷の足を踏んでやった。小さなため息が、左後ろから聞こえていたのを、媼は聞き逃さなかった。

    「大学ではITを専攻しておりました。合理的な国、シンガポールに興味が湧いたのも、そのせいかもしれませんね」

    媼は川瀬に顔を戻しながら、その余裕を何とか出来ないかと思っていた。

    「レディーセミナーパートナーに登録されている方々の中では、あなたは少し年上の方のようですね?」

    嫌味がてら言ってやった媼が勝てるのは、持っていて使える武器がこれだけだというのが情けなかった。

    「そのようですね。私の職種、といいますか、エンジニアというのは、やはりインフラやこれからの社会をもっと支えていかなければならない仕事ですからね。おかげでまだ独身です」

    媼は多賀谷を見て、部屋を出た。多賀谷が後についてきた。

    「先輩、やる気あるんですか?ニヤニヤとして…」

    「ただであれだけの女性を目の前で見られるんだぞ?良い男なら、おまえも同じようになる」

    「なりません!女と男では、考え方が違います」

    「女性のストーカーも増えて…」

    「ハイハイ、また今度にしてください。多賀谷さん、あの余裕の笑みを消したいと考えます」

    「それは困る。俺が1番困る」

    媼は、迷わず足を踏んでいた。

    「まあ、あの余裕は異常だな。普通の人間なら、態度や言葉遣いがおかしくなるからな。やましいことが無くても、少しは落ち着かない状態になる、というのが当たり前だ。まあ、まだ始まったばかりだ。落ち着いてやれ」

    「はい」

    媼と多賀谷は取調室に戻った。媼は先ほどと同じように、川瀬の前に座った。多賀谷も同じ場所に立っていた。

    「お仕事にやりがいと、責任感をお持ちなのですね?素晴らしいことだと私も感じています」

    多賀谷が口を開いた。媼は、今の多賀谷の言葉の意味を考えていた。『責任…」媼は瞬時に川瀬に向かって言葉をかけた。

    「3年前の情報流出についてはどうお考えで?担当でもあり、責任者でもあったようですが」

    「はい、大変心苦しく思っております。派遣契約を解除してほしい旨をお伝えしたのですが、慰留されまして…今もこうして置いていただいております」

    完璧な受け答えに感じられた。やはり手強かった。媼はそう思い直した。そう、媼の勘は当たった。少しだがなぜか余裕ができた気がした。

    「AアンドRジャパンでのセキュリティーの担当者は、あなたお1人ですか?」

    「そうですね。少人数で運営されております。人手不足というより、必要最低限の人数で、と言った方が合っていると思います」

    媼は続けた。

    「そうですか、川瀬さんがやりがいと責任を感じられる、そしてそれを重圧だとは思われていない。素晴らしいハートの持ち主ですね。羨ましいくらいです」

    川瀬は、何かに気がついたのか、少しだけだが、『キョトン』とした顔になった。だがすぐに頷いて、元の微笑に戻っていた。媼はさらに続けようと思った。

    「女性でありながら外国に留学をされるという決断は、さすがですね。私にはそんな度胸は無いものですからね」

    「いえ、私以外でも、女性1人での留学は、もう普通の時代です。媼さん?でしたよね?媼さんほどのおキレイな方でしたら、ある意味ちょっと危ないかもしれませんね」

    川瀬は少し、いたずらっぽく笑いながら話していた。媼は無視した。

    「お仕事に不満は無さそうですね。私と違って」

    媼はチラリと多賀谷を見た。多賀谷は目をすぐさま媼から逸らした。

    「そういうことは考えないようにしております。不満がない会社など存在しないと考えることで、気持ちを落ち着かせる。そういうやり方ですね」

    媼は頷きながら言葉を出していた。

    「私もこれから使わせていただきますね、その方法」

    「占有しているつもりはございません。どうぞ」

    川瀬美穂は、にこりとした笑顔で余裕で返す。パターンとも言っていいくらいだった。

    「川瀬さんこそそれだけの美貌です。派遣先の会社でも、さぞ重宝されていらっしゃるでしょうね。雰囲気が女優さんのようです」

    「好きでこの顔で生まれてきたわけではありません。産まれたらこの顔だった、ただそれだけです」

    媼は、また質問を変えることにした。

    「川瀬さんは、なぜレディーセミナーパートナーにご登録を?エンジニアというのは引く手数多と聞いています。そしてそのお美しさでしたら、この隣にいる多賀谷が会社を持っていたら、迷わず採用したでしょう」

    多賀谷が深く頷いていた。媼は、靴を蹴飛ばしていた。川瀬は微笑をやめ、少しきつい目を媼に向けた。そして口を開いた。

    「派遣を通して、でないと、身元の保証がされないような世の中です。おかしいと思っていても、従うしかありませんからね」

    媼は、厚遇されている今があるのだから、それでいいじゃないかと勝手に思ってもいた。ただ、川瀬の表情の変化に、何か引っかかっていた。

    「何かおっしゃりたいことがありそうですね」

    媼は聞いていた。川瀬はすでに元通りの微笑に戻っていた。

    「先ほど申し上げました。不満の無い会社などは無いという考え方です。世の中を変えられるわけではありませんからね」

    媼は多賀谷を見た。多賀谷は首振っていた。3人で取調室を出た。媼は、同期だが歳はまだ1つ下の川相に聞いた。

    「どう思う?」

    「凄いね、あの受け答え。私が取り調べられた時に使えるね、手本にしようと思う」

    媼は聞いた自分を呪っていた。多賀谷に顔を向けた。

    「今日は無理だな。今のままでは堂々巡りだ。何も進展は無いな」

    媼は、頷くしかなかったが、さっきの引っかかりだけは覚えておこうと思っていた。媼たちは取調室に戻り、元通りの配置に着いた。

    「川瀬さん、お話を今日はありがとうございました。本日はここまでにします。お送りしますので少しお待ちください」

    川相が席を立ち、恐らく榛葉の元に報告に行ったのだろうと想像していた。背後に人の気配がした。振り返った媼は、椅子から転げ落ちそうになった。

    「課長まで、何してるんですか」

    思わず声を上げていた。

    「媼、失礼は無かっただろうな!え?」

    浅見刑事課長は、ペコペコ頭を下げている。驚くべき光景だった。媼は呆れることさえ忘れていた。

    「一末、川相、川瀬さんをおうちまでお連れしろ、失礼の無いようにな。厳命だ。川瀬さん、会社の方に連絡をいたしましたら、本日はこのまま御帰宅していただいて構わないというおことだそうですので、係の者に送らせます」

    「ハッ、光栄であります。以上」

    一末だけが返事をしていた。媼は、立ちあがっていた。川瀬の表情を見た。微笑が笑顔になっていた。媼は1人、悔しい思いをしていた。準備ができたのだろう、一末と川相が刑事課から出ようとしていた。おもむろに多賀谷は立ち上がり、部屋から一足先に出て行った。媼は不思議な気持ちでそれを見ていた。一旦自分の席に戻り、媼は立ちあがって榛葉のところに行った。

    「係長、何ですかあのVIP待遇は。容疑者になるかもしれない相手ですよ?」

    「問題発言だな媼、参考人で呼んだはずだ」

    媼は、声をかけたこと自体を後悔していた。

    「報告ですが…」

    「後でいい。多賀谷たちが戻ってからだ」

    媼は頷きながら気がついていた。

    「?多賀谷さん?え?まさか同乗して行ったんですか?」

    榛葉は媼を見て頷いていた。

    「さすがだな。俺のやり方をしっかり学んでいるな、褒めておく。おまえもあれぐらいの機転を利かせるぐらいにならんとな」

    媼は、呆れながらも、サイレンと、スピーカー使用のことはずっと黙って、そして多賀谷に罪を擦り付けようと決めていた。

    「おまえは報告書でも書いていろ」

    そう言われた媼は、黙って席に戻って行った。『全く…何て会社だここは』ただただ呆れていた。そして30分もしないうちに、多賀谷たち3人が戻って来ていた。媼は書類書きの手を止め、榛葉の前に行った。4人並んでいた。

    「一末、無事任務完了か?」

    「ハッ、係長、厳命最後の瞬間まで忠実に守り、そして実行いたしました」

    「よし、ご苦労」

    媼は、席に戻ろうかと考えてしまった。榛葉が口を開いた。

    「川相、川瀬をどう感じた?」

    「はい、手強過ぎますね。媼でも難しいくらいですからね、私では無理でしょうね」

    榛葉は頷いた。

    「一末、車内での様子はどうだった?」

    「ハッ、大変美しい笑顔で、我々は十分に癒された思いであります。以上」

    「羨ましい限りだな、え?」

    榛葉だった。

    「多賀谷、おまえは?」

    「ちょっとどころではない異常さですね。平然としていられますか?取調室で、今回はまだ普通でしたが、媼の追及はなかなかではありました。まあ、向こうが何枚も上手ですね。私でも厳しいですね」

    榛葉は少し考えてから媼に聞いた。

    「媼、おまえは容疑者という言葉を口にした。何かをやったということだ。情報漏洩のためにだ。セキュリティーの解除、またはそれに繋がる何かをした。では聞く、何のためにだ?」

    「川瀬美穂は、今の派遣先でも厚遇されているようです。ハッキング被害に遭っても、退職を自ら申し出たようですが、引き留められたと言っています。動機が見当たりませんね…」

    「まあ落ち着け。供述で、何か気が付いたことはあるか?川相」

    「いえ、調書を取りましたが、完璧という言葉に近いと感じております。一点の隙もありません。しかも、何かを想定していたというようには感じませんでした。その場で考え、自分の言葉としてしゃべっていたと思っています」

    「揃いも揃ってこれか…情けないな」

    媼は、あんたもだろうと、心の中でまた毒づいていた。媼は、人…何かが頭をよぎったようだった。登場人物が足りない。『…飛騨税務官…』

    「係長、AアンドRジャパンのことを、飛騨税務官に伝えましょう。税務関係から責めて、何とか糸口を見つけましょう」

    榛葉はニヤリとしていた。

    「よく言った媼。課長に動いてもらう。おまえは俺の部下ということにしておく」

    媼は、遠慮しようかと思ったが黙っておいた。

    「報告書を出せ。終わった者から上がれ、私も早く帰りたいからな」

    媼たちは、それぞれ自分のデスクに向かって行った。席に着いた媼に、一末が尋ねてきた。

    「媼、おまえが川瀬さんを引っ張ったとき、サイレンとスピーカーを使ったのか?」

    媼は多賀谷を見た。

    「いえ?そんなことをする刑事課の人間は、一人しかいませんからね」

    媼は平然と答えていた。一末が多賀谷を見て言った。

    「多賀谷さん、言い逃れとは見苦しいですね。川瀬さんを翻弄しようとしてましたよね?後ろで。見っともなかったですよ。こっちが恥ずかしくなるぐらいでした」

    「なに!おまえまで俺を疑うのか。か~、薄情な後輩だな。俺はやったらやったと言うはずだ」

    川相が離れた席から言った。

    「中央署の高坂巡査長が、現場復帰したんですね」

    多賀谷は川相の方を向いた。

    「川瀬さんはなぜ俺の味方になってくれなかったんだ…川相、ナイスだ。証言者がもう一人出るな」

    多賀谷は勝ち誇った顔を媼に向けている。そしておもむろに多賀谷は携帯を取り出し、高坂にかけているようだった。スピーカーの状態にしていた。呼び出し音3回で高坂が出たようだった。

    『はい、何でしょうか多賀谷さん』

    『おう、現場復帰したんだってな。よかったな、無事に退院出来て』

    『はい、お見舞いをありがとうございました』

    『そうかそうか、そう思うなら証言をして欲しい、今俺は非常に危うい立場だ』

    『それは日頃の行いのせいではありませんか?』

    『なに!今感謝の気持ちを言っていた奴がなんてことを言うんだ』

    『はい、ですからそれでその話は終わりです。それはそれ、これはこれ。以上です」

    媼たちは、声を上げて笑っていた。

    『おまえが中央署へ問い合わせたということを聞いた』

    『あああれですか、多賀谷さんの覆面だったんですか?』

    『俺も乗っていたが、運転は媼警部補だ。その車から何か人の声を聞いていなかったか?』

    『どういうことです?』

    『搭載されているスピーカーから、女の声が聞こえて来ただろ?』

    「多賀谷さん、誘導はいけませんね。後で問題になりますよ」

    川相だった。高坂も電話越しに笑っている。

    「おまえは黙っていろ。俺の名誉にかかわる問題だ」

    『どうなんだ?高坂巡査長、女の声が聞こえたな?』

    『はっ、女性らしかったような気はしますが、私は事故に遭い、頭を打っております。証言としては弱く、参考になりません。以上。では』

    虚しい、電話の切れた電子音が響いていた。多賀谷が微動だにしないのに、媼は笑っていた。そして、多賀谷を残して、皆上がった。


    LIX


    次の日、媼はわざと走っていた。もちろん間に合う時間。問題無い。走るのが楽しくなっていた。『ランニングデカ』として自称できるなと、媼は自負していた。ダイエットをする必要性は無いとも思っていた。ただ単に走りたくなっただけだった。嫌ならやめればいいという気持ちもあったから、やってみているだけ。革のヒールで走るという異常性は、なかなかの味わいだ。

    「あ…」

    嫌な音と共に、ヒールのかかとが取れていた。転びそうになった媼は何とかこらえ。トボトボと周りの同情と嘲笑を集めながら、本部に入って行った。今日でランニングを当分控えようと、心に決めていた。本部6階に到着した媼は、挨拶をしながら不自然な歩きをして榛葉の元に行った。

    「係長、出勤したばかりで申し訳ないのですが、ちょっと出て来て良いですか?ヒールの踵が取れてしまいまして…」

    「ヒールで走るからじゃないのか?ヒールじゃない革靴を履けばよかっただけだろ?私の部下失格だな。以上だ」

    媼は、朝から本部を後にしていた。媼は本部から出ようとして気がついた。まだ9時にもなっていなかった。お店が開いているわけがないと判断した媼は、トボトボと本部に戻って行った。受付にいる制服が、怪しんだのか声をかけて来た。

    「あの~、どうかされましたか?メロ…いえ、媼警部補」

    「いえ、よく声をかけたわね。さすがです。不審と思ったら遠慮無くそうやって声をかけること。わかった?」

    「はっ、メ、媼警部補」

    大笑いしながら近付いてくる声があった。見るまでもなかった。

    「朝から忙しいなおまえ、何してるんだ?しかも壊れたヒールを履いて」

    「ヒールの踵がどうやったら外れて、そしてどれほど走れるかを見極めようとしただけです」

    「片方だけ外してか?特殊な訓練だな、感心してやるよ」

    媼は、手で追っ払うようにして追っ払った。気の毒そうな目が、媼の横を流れていった。

    「何してんのここで?」

    川相だった。ロビーの端っこに連れて行き、事情を説明した。

    「足いくつ?」

    「24.5」

    「引き出しにスニーカーがあるから履く?」

    「おお~助かる」

    「じゃあ、お昼おごりね。ありがとう」

    媼を置いて、川相は去って行った。刑事課にまともな人間がいるのかと、自分を差し置いて、真面目にエレベーターの中で考えていた。


    LX


    川相から借りた靴を履きながら、通常業務を続けていた。書類との格闘だ。この言葉が似合うと媼は思っていた。榛葉が声を上げた。

    「媼、多賀谷、一末、川相、ちょっと来い」

    4人は、榛葉を先頭に浅見課長のガラス張りの部屋に入って行った。

    「税務署の税務課の課長から連絡があった。AアンドRジャパンに、特捜としてではないが、税務署として調査が入る。何かに期待するしかない。そうだな榛葉」

    「ええ、私もそこに期待しております。あの川瀬美穂は、相当な玉のようです。媼でも厳しいとなると、別の方面からの材料が無ければ厳しいですね」

    「今日ということですね?」

    媼が聞いていた。浅見が媼を見て答えた。

    「事後報告だったからね。今日の9時からということだろうな。早ければお昼前には何か出るかもしれんがな」

    川相がつぶやくように言った。

    「組織立っての犯行ということなのかな…」

    榛葉が川相を見て言った。

    「決めつけるな。事実のみで判断するんだ。多賀谷、媼、会社に行ったのはおまえたちだけだ。どう感じた?」

    「川崎というものと最初話しましたが、特に何か引っかかる感じはありませんでしたね。だろ?媼」

    「はい、私も少なくとも川崎には何も感じませんでした。オプトアウト届出事業者という仕事を、ただ回しているという感じですね」

    「今日は仕事が回らないな」

    一末だった。媼は一末に言ってやった。

    「AI ではないのですが、プログラミングされたソフトで、ネットから企業情報を集めるんだそうです。パソコンさえ動いていれば、業務が回りますね」

    「おい、羨ましいな榛葉。え?」

    「課長…我々の相手にするのは人ですよ『ひと』ですから無理ですよ、変えはいません」

    浅見は榛葉に言った。

    「しかし音声入力で報告書が自動で生成出来ればな。楽になる」

    榛葉が媼たちに声を上げた。

    「何か出ればすぐに川瀬美穂を迎えに行く。準備を怠るな。で、よろしいですか?課長」

    浅見は頷いていた。そして口を開いた。

    「刑事課が浮足立つようではだめだ。何があっても落ち着いて対処しろ。以上だ」

    媼は、思いっ切り反論してやろうかとも思ったが、やめてあげた。媼は、川相に引きずられながら、食堂に向かって行った。


    LXI


    「いつもお替わりしてるの?」

    媼だった。

    「まさか、太るでしょ?」

    川相だった。

    「じゃあ今日は?」

    媼だ。

    「おごりだからに決まってるでしょ?聞く必要がある?聞いてどうするの?無駄な抵抗はやめた方が良いということ、わかった?」

    媼は、素直に抵抗をやめた。川相との食事で『メロスデカ』としてあだ名が決まっていることを媼は知ってしまった。走るのは当分やめようと誓った。

    席に戻った媼たちは、仕事を再開していた。川瀬のことが、やはり頭から離れない。美貌もある、お金にも困っていない、疑いではあるが、動機が見えない。男なら『名誉』というものを最後に欲しがると言われている。媼はそう思いながらも、手を動かすことはやめなかった。

    「おい、税務署からの連絡だ。裏帳簿が出た。こちらは川瀬を引っ張る口実ができた。榛葉、頼んだぞ」

    浅見課長が、ガラス張りの部屋のドアから顔を出し、榛葉に声をかけた。その榛葉が、媼たちに声をかけた。

    「ということだ、誰が迎えに行く?」

    「私が」

    多賀谷だった。だが、媼は声を上げなかった。

    「では、私が代わりに行きます」

    川相だった。榛葉も多賀谷も一末も、不思議そうな顔をしていたが媼は川相に、両手を合わせて無言で謝っていた。そして多賀谷たちが刑事課を後にした。一末が声をかけて来た。

    「どうして行かなかったんだ?」

    「何となくですけど、会いたくない気がしてしまいました」

    「おい、この後取調べだぞ」

    「それは平気です。ですが、何となくです、何となく…」

    媼自身もわからなかった。川瀬と会うと、何かがあって欲しいと思ってしまっている自分に気がついたのかもしれなかった。媼は冷静に昨日の取調べを思い出していた。完璧な受け答えとそして表情、場を支配するような存在感。自分を卑下してしまうわけではないのだけど、媼は、川瀬の欠点を探そうとしている気がしていた。だから、冷静でいるために、迎えに行くのをやめた。それは捜査とは違ってしまう。媼は、1人の女として相対することを決めていた。媼は、書類仕事を片付けながら、川瀬の到着を待った。媼は、おもむろに席を立ち、榛葉の元に向かった。

    「係長、裏帳簿が出たということは、何かしらも不正なお金があったということですね?」

    「詳細はまだだが、そう考えるのが自然だな」

    「では、会社ぐるみということになりますかね」

    「おまえがさっき否定しただろ?まだわからんよ。だが、川瀬を責める材料にはなる。あと、税務署からまた連絡があるかもしれん。追加で引っ張る人間も、出て来るだろうな」

    「川瀬1人だけの犯行ではないと…」

    「女1人でやるにしては、ちょっとな。組織的ではあるが、まとまりというより、繋がりの犯行という感じはある。どうだ?」

    「抜き取った情報のやり取り…そういうことになりますね」

    「川田の事故から始まったこの一連の露見。全体像がまだ掴めんが、少しずつだがあぶり出されてきた。そう考えることはできないか?」

    媼は、雲をも掴むようだった今回の捜査を思い出していた。単なる事故を不審に思い。人物を調べていってここまで来た。どこが最終地点なのかはわからない。吉田が死に、利田も死んだ。利田のメモが、捜査を前に進める力になった。そう、利田のためにも最終地点まで行かないといけない。媼は礼をして、自分の席に戻って行った。多賀谷が、微笑を浮かべた川瀬を連れて、刑事課に戻って来た。多賀谷を見て、媼は静かに立ち上がった。


    LXII


    川相と一末が、川瀬を昨日と同じ取調室に連れて行った。川瀬が来ただけで、刑事課の雰囲気が今日も変わっていた。媼と多賀谷は、榛葉の前に立っていた。その2人に、榛葉が声をかけた。

    「よしおまえたち、裏帳簿が出たという事実から入れ、本人も目の前でそれを見ていただろうが、もう一度突き付けてやれ。反応を見て叩け。以上だ」

    「はい」

    2人揃って返事をした。媼は多賀谷に聞いた。

    「川瀬の様子はどうでした?」

    「見た通りだ。余裕の笑み、あの紺のパンツスーツも決まっている。非の打ちどころがない美人だ。歩いているだけで、誰しもが足を止めるか、振り返るだろうな」

    「良かったですね、一緒にドライブができて」

    「まあな、だがな、今日で終わらせるんだろ?」

    ニヤリとした多賀谷は、媼を見た。

    「もちろん、そのつもりです」

    2人は並んで、川瀬が待つ取調室に向かった。一末がデレデレした顔を引っ提げて、取調室から出てきた。媼は呆れてはいたが、これも今日で最後にすると、改めて誓った。昨日と同じ配置だ。媼が取り調べる。多賀谷は媼の右側にいる。書記官は川相。『今日こそ…』柔らかい笑みを浮かべている川瀬に、媼は声をかけた。

    「また来ていただくことになりました、何度もすみません」

    「いえ、警察に協力するのが、市民の義務とも言われますもの。仕方の無いことです」

    相変わらずだった。媼は言葉を続けた。

    「ですが、それも今日で終わりにさせます。もう来ていただくことも無いようにいたします」

    「そうですか、それは助かります」

    媼は、表面的な話をやめることにした。

    「会社で、裏帳簿が出たというのは御存じですね?」

    「はい、先ほどまで会社におりましたし、税務官の方々が、それを見つけたと聞いております」

    「どことの取引だと思われますか?」

    川瀬は、困惑した表情を見せた。

    「一派遣に、わかるものではありません。私はセキュリティー担当です。知ろうとも思いません」

    「あなたが担当するそのセキュリティー、あなたは意図的に何かをしたのではありませんか?」

    多賀谷だった。川瀬に初めて問うている。

    「何かとは何でしょう?」

    川瀬はさらに優しい顔で、多賀谷を見つめた。多賀谷は目を逸らした。媼が代わって聞いた。

    「こちらのサイバー課を甘く見てもらっては困ります。『業務効率化』という名目で、一時的にログ取得機能が停止されていたというのは、突き止めてあります。どうですか?」

    「今、媼さんが言われた通りです『業務効率化』を、ただ行っただけです。そのときに起きてしまった、または狙われてしまったということなのでしょう。心苦しく思っています」

    「レディーセミナーパートナーでも、近い時期に同じようなことが起きています。あなたは、レディーセミナーパートナーにも行かれる機会はあるはずです。違いますか?しかも、レディーセミナーパートナーには、セキュリティーの担当部門もなければ担当者自体もいない。あなたは、アドバイスを求められませんでしたか?」

    媼は憶測で語っていたが、間違いはないだろうと思っていた。

    「そうですね。レディーセミナーパートナーに行くことはありますね。派遣の面倒なところ、ということですね。二つの会社に属すという状態ですからね」

    媼は、少し笑みが弱くなったのを見逃さなかった。『派遣に何か…』引っかかったが、媼は続けた。

    「答えになってはいませんね。調べればわかることですが、レディセミナーパートナーで、何かしたのではありませんか?」

    「何をお聞きになりたいのです?」

    媼も見とれそうな微笑を向けて、柔らかに川瀬は聞いて来る。これが厄介だった。それでも言葉を続けた。

    「レディーセミナーパートナーで、何をされたかを伺っているのです」

    「3年も前のことですので、しっかりとした記憶はありません。日々の業務に追われております。レディーセミナーパートナーに所属はしておりますが、私の職場はAアンドRジャパンです。派遣とはそういうものですので…」

    少しだけだが、また笑みが引いた気がした。媼は、『派遣』というのに、何かがあるのではないかと思っていた。

    「派遣というお立場に、何か思うことがおありのようですね」

    思わず媼は聞いていた。そして多賀谷を見た。軽く頷いていた。

    「いえ、派遣先でも大切にしていただいておりますし、それは、レディーセミナーパートナーの後ろ盾があってのことだとも思っております」

    媼は、嘘だと直感した。

    「川瀬さん、あなたの経歴、容姿、エンジニアという立場、そしてご自身がお持ちのその雰囲気。そのどれもが、派遣という手順を踏む必要性が感じられないのです。何か思うところがあるのではありませんか?」

    媼は、思っていることをそのままぶつけてみた。そして川瀬は、少し悲しそうな顔をしたように感じた。

    「身元引受人、みたいなものですね。保証人と言い換えましょうか。先ほども申し上げました通り、レディーセミナーパートナーの後ろ盾、その言葉通りです」

    「川瀬さん、書記官の川相です。ご自分の言葉でお話されてはいかがですか?」

    媼は驚いて川相を見た。川相は川瀬を見つめていた。

    「私の口から出ているのですから、私の言葉ですよ、川相さん」

    媼は、顔を川瀬に戻していた。『やはり手強い』気持ちや考えを口にしない相手は、やり辛い以外の何者でもなかった。そう思いながらも、媼は川相の意図することは理解していた。だから質問が止まるということは無かった。

    「いえ、川瀬さん、あなたなりの派遣に対する考え、それを川相は聞きたかったのだと思います。どうお考えで?」

    川瀬から笑みが引いた。ただ、その顔は今までよりもさらにキレイだった。

    「派遣に登録しなければ、信用されないという世の中が、本当にいい世の中なのか。そう思うことはあります。ですが、そういう世の中なのですから、そうして生きていくのが正しいのでしょうね」

    そう口にして、また微笑を貼り付かせた。媼は多賀谷を見た。多賀谷が顎で、部屋を出ることを促した。川相を残して、部屋を出た。

    「多賀谷さん、『派遣』というのに反応していますね、昨日から」

    「だな、突破口が見付かったようだ」

    榛葉が駆け寄って来た。

    「AアンドRジャパンの専務、稲垣純也が、もうすぐこっちに到着する。人を送った。経理担当の者は、税務署にくれてやった。どうも裏帳簿の命令は、稲垣が出していたようだ。そこからも当たってみろ」

    多賀谷が驚いて口を開いた。

    「税務署がよく納得しましたね、係長」

    媼も驚いていた。そして榛葉の顔を見た。

    「事件の端緒に触れたのが我々だ。その一点突破だ。経理は奴らにやった。悔しく思ったとしても、最初から動きもしなかった組織に、偉そうな口は叩けんよ。稲垣が来たら、俺と一末で当たる。一気に片を付けるぞ」

    媼と多賀谷は、同時に頷いて、川瀬が待つ取調室に戻った。そして媼は、川瀬に言った。

    「派遣というお立場に、ご自身は納得されていないと。そういうことでよろしいのですね?」

    「派遣先で厚遇していただいていると申し上げました。重大なミスをしでかしましたのに、引き留めてもいただきました。そういう立場です」

    川瀬は微笑のまま答えてはいるが、答えになっていないと媼は感じた。

    「その立場、に、納得していないということですね?」

    多賀谷が川瀬に言葉を投げかけた。それに川瀬が答えた。

    「いえ、人間でしたら、頼りにされる、引き留めていただけるというのは、ありがたいと感じるのが当たり前です」

    さらに多賀谷が続けた。

    「あなたはありがたいと感じなかった。そうですか?」

    「あなたは私なのですか?一言もそんなことは申し上げておりませんが…」

    媼は、初めて川瀬の感情から来る言葉を聞いた気がしていた。言葉を正面から受け取り、真っすぐに返してきた川瀬が、理屈を返してきた気がした。

    「もうすぐこちらに、あなたの派遣先の専務、稲垣純也という人物が連行されてきます」

    媼はそこで言葉を止めた。反応を見たいと思った。

    「それが何か?」

    全く動じなかった。川瀬の笑みがさらに強くなって、柔らかな声と共に、その言葉が媼に届いていた。媼は、驚きしか出て来なかった。しかし、何かが見えた気がした。

    「『裏帳簿』そのことはご存じでしたか?」

    多賀谷が媼に代わって聞いていた。

    「いえ、私は経理担当ではありません。セキュリティー担当です。しかも派遣となれば、なおさらです」

    「川瀬さん、あなたの目的は何ですか?」

    媼は聞いた。この段階でのこの突然の言葉に、相手がどう反応するか見たかった。媼は、川瀬だと断定してみることにした。川瀬の表情が一瞬困惑に変わったが、すぐに表情を戻した。

    「社会人でしたら、お仕事をし、お給料をいただき、人間らしい生活を営む。それが目的といいましょうか、目標といいましょうか…」

    媼は繰り返した。

    「いや違う。あなたには何か目的が感じられる。そのために何かをした、または企んだ。そうではありませんか?」

    川瀬の顔から笑みは引いた。しかし別の顔、喜びのような表情に感じられた。

    「刑事さん、媼さんですね、何がおっしゃりたいのですか?」

    媼は即座に答えた。

    「聞いているのはこちらですよ?美人さん。あなたは、何か明確な目的があって『何か』をした。我々はハッキング事件だと踏んでいる。どうです?」

    「『何か』と申されましてもね…ハッキングは確かに私の落ち度ですが、会社としての謝罪も終わっていますし、私も一応は、派遣先から身を引こうとしたのです。これ以上どうしろと?」

    媼は聞いているようで聞いていなかった。

    「美人さん、答えになっていない答えを聞くほど、我々はお人好しじゃない。無駄話の時間は終わったということだ。意図的にハッキングしやすくした。違うか?」

    媼は、主導権を握る時だと考えた。

    「何か証拠でも出て来ましたか?」

    「時間の問題だ。本部サイバー課を甘く見ているのか?川瀬美穂、もうおまえは白日の下にさらされた。昨日、私たちが連行した時点で、勝負はついている。後はおまえの目的を聞くだけだ」

    媼は畳みかけるつもりで言った。川相と多賀谷が驚いているのも感じていたが、無視した。川瀬は、喜びの表情のまま媼をしっかりと見ていた。そして答えた。

    「どういう目的があるとお思いですか?」

    媼は先ほどの言葉を返そうとしたがやめた。そして断定することにした。

    「おまえは『派遣』というものに嫌気、または嫌悪感があったのだろう。そういうものが当たり前に存在して定着までしてしまった。そこ経由でなければ、自分が持つスキルを評価してもらえないという歪んだ世界だ。それに対して恨み、または世の中を揺さぶるためにこの事件を起こしたのではないか。違うか?」

    「刑事さん、そうあって欲しいのですか?」

    「そう読み取って欲しかったはずだ。違うか?」

    川瀬のその問いに、媼は即座に答えた。川瀬は、目を見開き、口元は喜びに満ち溢れていた。媼はわかった。そして悲しくなった。

    「なぜこんなことを?」

    「こうするのが自分の役割だと思ったからですね」

    「自分が世の中に不満を持つのは構わない。おまえ自身も言っていたはずだ。『不満のない会社は無い』と。『社会』も、そうだと考えなかったのか?たくさんの人がいる、それぞれが自分の意思で動いている。同調してくれる者もいればそうじゃない者もいる。それが世の中だ。世の中を変える?おまえのための世の中か?たくさんの人の漠然とした意志の中で、動き、作られて来た。おまえ一人のため世の中が動いてきたわけじゃない」

    「では刑事さんは、今が正しいと?」

    「何様だ?川瀬、おまえは何様のつもりだ?おまえの言う通りにすれば、世の中が良くなり、誰も困らず、泣かず、全てが上手く行くと?ふざけるんじゃない!たかが派遣が。おまえはちゃんと、派遣先でも評価されていたはずだ」

    媼は許せなかった。そして言葉を続けた。

    「おまえたちが売った情報は、すぐには利用されない。分析され、ふるいに掛けられ、そして目標に合った対象者が選ばれる。その手助けをしてきたかもしれないということを、おまえは考えたことがあるのか?無ければケダモノと同じだ。その微笑は、情報を抜き取られ、おまえたちによってお金に換えられ、強盗の被害で亡くなったかもしれない人々を、あざけ笑うためのものか?答えてみろ!」

    媼は川瀬を見た。その表情はとても自然で、とても美しく晴れやかだった。媼はそう感じてしまった。初めて会ってから今日のこの時までで、一番の美しさだった。

    「刑事さん。申し訳ありませんでした」

    それだけだった。媼はまた、泣いていた。多賀谷がそっと、肩を掴んでくれていた。

    「後は私が」

    川相が、短く媼に声をかけた。媼はゆっくり立ち上がり、取調室を出た。榛葉と一末が、稲垣を取調室に連れて行こうとしていた。

    「おまえ、川瀬を利用したな?派遣という立場の女を、都合よく使ったな?違うか!」

    媼は稲垣に詰め寄っていた。榛葉は、媼に頷いた。

    「わかった。落ちたんだな?後は任せろ。俺を誰だと思っている?」

    媼は、涙が止まらなかった。榛葉は、稲垣を連れて1番取調室に入って行った。媼は、2番の取調室に入って、窓の引き戸を開き、1番取調室の様子を見た。スピーカーの電源も入れ、声も拾っていた。


    LXIII


    「株式会社AアンドRジャパン専務、稲垣純也49歳。間違いはないか?」

    榛葉が稲垣に対している。一末が書記官だ。

    「はい、間違いありません」

    「裏帳簿は、あなたの指示で間違いはありませんか?」

    「…はい、私が指示いたしました」

    榛葉は一つ頷いていた。

    「金は、どこから?」

    「それは…まあ、色々と…」

    「いいですよ。時間はたっぷりあります。な?一末」

    「…」

    榛葉が気になって、後ろを見ていた。媼も見た。一末が嫌な顔をしていた。恐らく、残業になるのが嫌なのだろうと、媼は思っていた。榛葉は、表情一つ変えず、稲垣に顔を戻していた。

    「なぜこのようなことを?個人情報の横流しです」

    「欲しいという声が大きかったもので…それに、ルートと申しますか、流れというのは、はるか前からありましたから、自分たちが特別なことをしていたという感覚はありませんでした」

    「国から許可を貰い、合法的に個人情報、企業情報も集める。後ろめたいとは思わなかったのか?」

    「今申し上げた通り、昔から行われてきたことです。私だけこうして連れて来られることに納得はできません」

    「そうですよね~、納得したいと。良いですよ?どうぞ、お互いそうしましょう。一末、やはり今日は残業だな。これからこの稲垣が、仲間を全部吐いてくれるそうだ。やりがいがあるな」

    媼は、一末を見ないことにした。榛葉が続けた。

    「稲垣、川瀬美穂に何をやらせていた?ハッキングだけじゃないな?」

    「何もありません」

    「その言葉がここに残るぞ?書いたか一末?一言一言が、おまえの味方になるか、敵となるか考えて話せ」

    媼は、神津のときに感じた圧倒的な榛葉の圧にビビっていた。何も言っていないに等しい。川瀬のことを聞いただけだ。それでこの追い詰め方。相変わらずの榛葉だった。

    「もう一度聞く、川瀬に何をさせていた?」

    「川瀬が何か言ったんですか?」

    「呼んで欲しいか?隣の隣にいるぞ?」

    稲垣の顔が少し引きつっている。媼はそう見ていた。無理やり強がっているようにも見えていた。稲垣が口を開いた。

    「ここは警察ですよね?脅しをかけられていると私は感じているのですが」

    榛葉の表情は一切変わらない。

    「おい一末、私がおまえたちを脅したことはあるのか?」

    「いえ、その手口は使っていませんね、普段は」

    榛葉が続けた。

    「川瀬美穂に何と言って仲間に引き入れた?」

    「何も言っていません」

    そのとき、多賀谷が3番取調室から出てきたようだった。媼がいる2番取調室の前を通り過ぎ、1番取調室に入って来た。榛葉の耳に、何か言伝をしている。榛葉は、体を斜めにしながら、多賀谷の報告を聞いて頷いている。稲垣は平然としようとしている。手のひらを組んではいるが、指はしきりに動いていた。

    「稲垣、川瀬は吐いたぞ」

    稲垣が固まっている。榛葉も動かない。

    「わ、私は知らない。彼女が独断でしたことだ」

    多賀谷は、榛葉の後ろに立ったまま、稲垣を見ている。榛葉が口を開いた。

    「何を独断でしたんです?川瀬は」

    「会社で集めた情報を、抜き取った」

    「それはおまえの指示か?」

    多賀谷だった。榛葉は稲垣を見ている。

    「今言った通り、彼女が勝手にやった」

    「で?裏帳簿は何のために作った?おまえの言っていることに、辻褄が合っていない。自分で何を話しているのかわかっているのか?」

    榛葉が、おもむろに後ろにいる多賀谷を見て、手招きした。多賀谷の耳元で手を当て、何事かつぶやいていた。多賀谷は頷き、刑事課から出て行った。

    「さて稲垣さん、どこまで言い逃れできるか見ものですね。派遣という弱い立場の彼女を脅したのか?、それとも、彼女から提案されたのか?そんなわけは無いよな?長年の慣習だと言っていたからな」

    稲垣は焦りの色を見せていると、媼は感じていた。後はどこまでしゃべるかだった。

    「…私が指示しました…長年の習慣から、そうするのが当たり前となっていました」

    「社長は?社長の石田公康は知っていたのか?」

    「いえ、所詮天下りのぶら下がり社長です。お飾りに何も権限はありませんからね」

    榛葉が、質問を続けざまに浴びせている。

    「AアンドRジャパンとの関りは?」

    「あそこには、いい人材がいるという評判でしたからね。使わない手はありません。実際に、川瀬君は優秀でしたし、あの美貌です。会社に置いておくだけでも価値があります」

    「肉体関係はあったのか?」

    「それは断じてありません。彼女はなぜか、この話を持ち掛けたとき、協力的でした。すんなりと納得してくれました」

    媼は、自分の取調べは間違っていなっかったと思った。川瀬の歪んでしまった思想と、稲垣の思惑が一致しただけだった。媼は、川瀬が留学したシンガポールという国のことを考えていた。川瀬は『合理的な国』そう言っていた。だからこそ、川瀬美穂は、自分の思想や思いをぶつけるために、稲垣に手を貸したのだろう。媼は、川瀬を憎み切れなかった。

    「どこまでがこのことを知っている?」

    榛葉の声がまた聞こえて来た。

    「私と、他数名の役員だけです」

    「ネット、パソコン経由でだけか?情報を抜き取っていたのは」

    媼は驚いた。そうだ、『ホームレスの刺殺事件』も…媼は緊張しながら聞いていた。稲垣は黙っていた。ここに来ても往生際が悪いと感じた。榛葉は稲垣を平然と見ている。余裕さえ感じる。媼は、またもや格の違いを見せつけられている気がした。

    「川瀬に何をやらせていた?」

    榛葉は、同じ質問をまた繰り返していた。稲垣はあきらめたように話し始めた。

    「報酬を…届けに行かせていました…」

    「だろうな。個人店の古物商、吉田は知っているのか?」

    榛葉は確認するように聞いていた。稲垣が即答した。

    「細かい人物については私は知らない。やり取りや、流れがあるとだけしか知らない」

    「まあ、そうだろうな。かなりのネットワークだったろうからな。おまえが一々関与するのは不自然だ。どこの世界も分業制だ。そうだな?」

    「結果的に、そういうことになりますかね」

    「他人事のように語っているが、それで罪が軽くなると思うほど、おつむが弱いのか?」

    媼は、榛葉の嫌らしい責めを見た気がしていた。逃げ道を塞ぐやり方だ。これはきつい。稲垣に同情する気は無いが、あの絡みつくような責めは、聞いているだけでも居心地が悪くなる。

    「レディーセミナーパートナーの情報は、相当高く売れたろ?え?稲垣」

    稲垣は目を見開いていた。突然の言い方だったのだろう。媼も驚いた。値段、価値が違う。榛葉はそう言っている。

    「どうした?正直に言えば、心証も変わってくるってところだ。散々稼がせてもらった方たちだ。最後ぐらい正直に答えたらどうだ?」

    媼は注目していたが、稲垣はまだ耐えていた。

    「レディーセミナーパートナー、良い着眼点だったな。褒めてやる。だがな、悪いことをしていれば、こうやってバレる。長い慣習?正当性がそれで生まれると思うのが悪党の頭の中だ。おめでたいんだよ。まあ、被害者であるレディーセミナーパートナーも、これで終わりだな。何せ登録者たちの、あの家柄が相手だ。おまえも、そしてあの派遣会社も終わりだな」

    媼は稲垣を窓越しに見ていた。睨んでいた。稲垣はオロオロしていた。首を左右に振り、肩だも落ち着かない。堂々としていて、晴れやかな表情を媼に向けていた川瀬とは、正反対だった。媼は、こぶしを壁に叩きつけていた。稲垣が一瞬驚いた顔をしてこっちを見た。

    「…認めます…私の指示で、川瀬君、そして裏帳簿の作成を行っておりました…」

    「遅かったな。おまえにとって最悪な状況を添付して、検察に送る。覚悟しておけ。以上だ、取調べを終了する」

    『落ちた…』媼はまた泣いていた。嬉しいのか悔しいのか…悲しいのか。媼自身も、それがわからなかった。媼は2番取調室を出て、その取調室から出て来た榛葉の前に立った。

    「どうだ?俺の取調べは、容赦ないだろ?おまえとは年季が違うぞ」

    媼にはわかっていた。榛葉は媼のためにやってくれていた。『もしかしたら川瀬のため…』媼にはそうも思えていた。榛葉の後ろ姿を見るのを、涙が邪魔をしていた。


    LXIV


    媼は本部で朝から書類仕事と格闘していた。めんどくさい日々は変わらない。多賀谷を見た。書類仕事は相変わらず早いようだ。昨日の報告書も、1番に提出して帰って行った。羨ましいその才能を、何とか奪取できないものかと、真剣に考えていた。

    午後からは、川瀬の取調べが予定されている。媼は、取調べという気持ちはもう持っていなかった。川瀬と、『お話し』がしたかった。彼女なりの強い思いがあったのだろうとは思う。もちろん、被害が生まれた可能性は否定できない。だからそれは、取調室で問い詰めた。それ以上出来ることは無いと、媼は感じていた。だから、1人の人間として、ただ話してみたくなっていた。書類をやっつけながら、媼は川瀬との対話を、ただただ、楽しみにしていた。


    LXV


    「午後1時、川瀬美穂、取調べを開始する」

    媼は、川瀬と対峙していた。晴れやかな表情は昨日と変わっていない。もっと自然な顔に、媼は見えていた。後ろにいる川相も同じことを考えているだろうと、勝手に思っていた。右にいる多賀谷は、ただ川瀬に見とれているだけだった。媼は足を踏んづけてやった。

    「昨日の供述、罪を認めることに間違いはありませんか?」

    にこやかに媼を見て、そして答えた。

    「媼さん、間違いはありません。そして、媼麗華さんでしたよね?ありがとうございました」

    媼の目から、もう涙が出ていた。

    「川瀬さん、なぜこんなことを…」

    「刑事さんが昨日言われた通りです。私の考え方が、間違っていたのかもしれませんね」

    「いえ、あなたは今も間違っていないと考えていらっしゃいます。あなた1人で戦えることではないことも、あなた自身はわかっていらっしゃいます。あなたはなぜ…」

    川瀬の顔には、微笑は無かった。笑顔だった。ただただ、笑顔だった。

    「意地、でしょうかね。私なりの。容姿を褒めていただいている。多くの人がそう言ってくれている。それなら、『私の力で変えられることができるのではないか』そう勘違いしてしまったのでしょうね」

    媼もつられて笑顔になっていた。

    「川瀬さん、いつか一緒にご飯でも食べに行きましょうね。面白い話を、たくさんしてください。そのときを楽しみに待っています」

    「ありがとう。刑事のあなたの方が、面白い話はできるのではなくて?こちらの刑事さんとコンビなら…」

    多賀谷が照れていた。チラリと多賀谷を見て、媼は口を開いた。

    「川瀬さんを見て舞い上がっている程度です、相手にする必要はありませんよ」

    多賀谷が無言で威嚇してきた。川瀬美穂は、口に手を当てて、静かに笑っていた。


    LXVI


    媼たち4人は、榛葉の前に立っていた。榛葉から見て右から、媼、川相、多賀谷、一末だった。多賀谷が口を開いた。

    「係長、稲垣の方はどうでした?」

    「私に手抜かりがあると思うか?3つの会社を吐いた。忙しいくなるぞ。中央署には、課長に連絡を入れてもらう。多少は文句が来るかもな。事前に言って欲しかったとな。多賀谷、おまえが出かけて来るか?」

    多賀谷がそれに答えた。

    「それもいいんですが、媼を行かせて、懐柔を測るという手も使えます。おまけとして川相も添えてやれば、向こうが喜ぶかもしれません。以上」

    榛葉は媼と川相を見た。

    「媼、神田と会いたいのか?川相、行ってみるか?」

    媼は、首をブルブルと犬のように振っていた。川相が口を開いた。

    「その神田という人は、面はいかほどかと…」

    榛葉が口を開いた。

    「後学のためだ、媼、川相、課長の伝令として中央署に行ってこい、神田もおまえの目で確認しろ。命令だ」

    「大丈夫ですか?係長」

    一末だった。榛葉は一末を見て答えた。

    「中央署からの信頼が厚い媼だ。問題無い。おまえよりもよほど信用があるぞ。多賀谷、忘れていた。おまえは保管庫接近禁止令があるから、本部待機だ。以上」

    媼たちはそれぞれのデスクに戻ろうとしたが、媼だけは榛葉の前に戻った。

    「中央署へ出向くのは、まだですよね?少し出かけたいのですが…」

    「どこだ?」

    「税務官の飛騨さんに、一言お礼をと思いまして…私が出向いたのですから、私自身が、それこそ伝えに行きたいと思います」

    「お?税務官の方が良いと。わかった、行ってこい」

    媼は、言い返そうと思ったがあきらめていた。そして1人で、本部を後にした。税務署への道は、午後の落ち着いた雰囲気の空気だった。ゆったりとした時間だと感じていた。媼は、川瀬と話せて良かったと思った。利田のことはあったけど、それはそれ、これはこれだ。そう思うことにした。

    「飛騨税務官にお会いしたいのですが…」

    税務署の受付で手帳を提示し、媼は飛騨を呼んでいた。電話連絡をしてもらったが、終わったと思ったらすぐさま飛騨が現れた。媼は驚いていた。

    「わざわざありがとうございます」

    挨拶も無いまま、飛騨が話し出した。

    「いや~、AアンドRジャパンからの他への繋がりのご報告、ありがとうございました。かなりのネットワークでした。ここからは我々の番です。金の流れをしっかりと追って行きます。そちらの浅見課長さんにも、しっかりとお礼をお伝えください」

    媼は圧倒されたが、笑顔を返していた。飛騨は照れているようだ。

    「我々もこれから追って行きますが、行き詰った場合は、お互い協力ということで…」

    「もちろんです。今の状況で、それを否定できるものがいるとしたら、出来の悪い税務官ですね」

    媼と飛騨は、笑っていた。

    「川田君枝さんはどうですか?」

    「調べはほぼ終わりですね。元々協力的でしたし、何より、奥さんが少しずつ明るくなっていかれましたからね。不思議には思いましたけどね」

    「ちょっと心配ですね…」

    「え?そうですか?私は、夫のことは、振り切れた、それか立ち直ったと思ったんですけどね」

    「そちらのお邪魔はしません。この後、顔を出してこようと思います。今回のこと、本当にありがとうございました」

    媼は、挙手の敬礼をしていた。飛騨はそれを受け取り、深く頷いていた。媼は振り返り、川田君枝の家に、歩いて向かって行った。携帯を取り出し、出てくれるかどうかわからないが、情報提供をしてくれた佐藤勝也に電話をした。何回かコールされて、講義を受けているのだろうと切ろうとしたとき、佐藤の慌てた声が聞こえて来た。息を少し切らしている。

    「はい、佐藤です」

    媼は一瞬驚いたが話をすることにした。

    「今電話大丈夫だった?講義中じゃないの?」

    「ええ、しっかりと抜け出してきました。大丈夫です。ご安心ください」

    媼は、何を安心するのかわからなかったが、電話を続けた。

    「佐藤君のおかげで、悪いことをしていた人たちが捕まった。これからもっと捕まっていくからね。勇気を持っての貴重な証言、ありがとう」

    「いえ、媼さんのためですから…」

    「もう、街中に出ても大丈夫だからね。私たちがこれから、片っ端から退治していく。佐藤君は、もう普通の生活に戻っていいから」

    「はい、ありがとうございます。媼さん、麗華さんでしたよね?お仕事頑張ってください。僕も応援しています」

    「うん、じゃあバレないように講義に戻ってね。以上」

    媼はそっと電話を切り、必要の無くなった情報をそっと消した。係長に小言を言われると思いながら、媼は、君枝の家に急いでいた。家の前に到着したが、チャイムを鳴らすのが怖く感じていた。思い過ごしであって欲しいと思いながら、ベルを押した。少し間があって、家の中から返事が聞こえて来た。

    「あら、媼さん、よく来てくれましたね。上がって上がって」

    媼は、とても驚いた。別人のようになっていると感じてしまっていた。

    「こんにちは。お元気そうですね。とても明るくなられたと感じます。旦那さんのこと、もう大丈夫ですか?」

    媼は、椅子に腰かけながら聞いていた。

    「多賀谷さん、でしたっけ?お優しい方なのですね。あの方の一言で、私は自首と申しましょうか、自分から動こうという気になれました。お戻りになられたら、私が感謝していたとお伝えください」

    媼は困った。多賀谷の電話番号を教えるか、ここでかけて直接言ってもらった方が良いような気がしていた。まあ、任務だと考えることにした。

    「奥さん、うちの榛葉という係長が言っていました。『思い出を大切にしていれば、下を向く必要はない』と、奥さんはもうそれが出来ていらっしゃるのだと感じます。お強い方だったのですね」

    「良いお言葉ですね。係長さんも、お優しい方なのですね。媼さんは、素晴らしい方々に囲まれていらっしゃいますね」

    媼は返事をためらってしまった。苦笑いで返すことにした。君枝が続けた。

    「媼さん、私、来週からパートに出るんです。働く必要はないのですけど、媼さんや多賀谷さん、係長さんのような素晴らしい方に、もしかしたら会えるかもしれませんから」

    媼は、自分以外の人物は、頭から排除していた。媼が口を開いた。

    「やはり奥さんは、元々お強い方だったのですね。大丈夫です。気楽にお勤めください」

    「媼さんの素敵な笑顔を見られて良かった。わざわざ来てくれてありがとう」

    媼は、川瀬の雰囲気を君枝にも感じていた。そして涙は、我慢していた。


    LXVII


    君枝の家を辞した媼は、ゆっくりと本部に向かって歩いていた。本当に小さな点から始まった捜査だった。存在するのに見えてこない点だった。色々なことを思い出しながら、静かに歩いていた。携帯が鳴った。川相だった。

    「媼、係長が怒っているわよ?さぼってるの?」

    「今、本部に向かっているから大丈夫」

    「何が大丈夫なんだ?大丈夫じゃないから連絡が行っているんだろ?」

    急ぎ足になった媼に、多賀谷の声が届いた。スピーカーにしてあるのだろう。

    「税務署に行っても良いとは言ったが、さぼっていいとは言っとらんぞ。ああ媼、所轄の北署が、利田の事故を洗い直すそうだ」

    榛葉がそう伝えてくれた。媼は驚いていた。

    「もしかしてあいつ、コソコソ過去もさぼってたんじゃないですかね?」

    一末だった。『あいつ…』媼はそう思った。

    「ああ、俺も付き合わされたことがあったからな」

    多賀谷だった。この前の仕返しをしているなと、媼は思っていた。冤罪返しだった。

    「だってさ。媼、早く帰らないとこういう扱いになるよ?」

    川相が笑いながら言っていた。

    「ランニングデカが、もうすぐ到着します。以上」

    媼は言いながら走り出した。

    「ランニングシャツでも買いに行っていたんじゃないのか、あいつ」

    多賀谷の声が聞こえて来たが、迷わず通話をやめた。媼はヒールを履いていたが、つま先を意識して走るようにした。今の気分と青空が、今の自分にはとても合っている気がしていた。利田への感謝の気持ちと共に、力強く走っていた。


















     
     
    サスペンスものを書き始めました。昔話を、原作を一切変えることなく、解釈を変えるとどうなるかもやっております。なるほどと思っていただければ嬉しいですね。

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