
血の中に流れるもの——ケアとアートと祈りの源へ
一 血染めの掛け軸
一枚の絵が、京都国立博物館に収められている。
梅と椿を描いた、それほど大きくはない掛け軸である。だが、それはただの絵ではない。絹の上には、黒く沈んだ染みが点々と散っている。血の痕である。慶応三年、近江屋の二階で坂本龍馬が斬られたとき、その床の間に掛かっていた一幅——それが、この「梅椿図」だ。
この絵を描いた人物は、淡海槐堂(板倉槐堂)である。幕末の京都に生きた文人であり、勤王の志士たちを支えた人物でもあった。龍馬が京を訪れるたびに会っていたというほど、親しく交わっていた。槐堂は、龍馬の誕生祝いにこの絵を贈ったと伝えられている。そして、その絵の前で、龍馬はいのちを落とすことになった。血痕を残したこの掛け軸は、およそ百六十年を生きのび、いまもわたしたちに何かを語りかけている。
わたしがこの槐堂を知ったのは、二〇〇四年の頃だった。最初の著書『患者の生き方』を準備するのを機に、自分の家系をたどってみたところ、わたしの曾祖父・江馬天江の兄として、淡海槐堂の名前が出てきた。そして、その槐堂が、龍馬暗殺の場に居合わせることになった一幅の絵を描いていたことを知った。
この事実を知ったとき、わたしの中には不思議な感覚が生まれていた。これは単なる偶然のできごとなのだろうか。あるいは、わたしが医師として働き、写真や音楽にも惹かれて歩んできたこの道のりは、どこかでこの人たちとつながっているのだろうか——。そんな思いが、心の底に沈んだまま、しばらく消えることはなかった。
その問いの答えらしきものに、わたしは近頃になって触れはじめている。それは、自分一個人の家系の話を超えて、もっと深く、もっと遠い時間へとつながっていく物語であった。
二 指先が「ここですね」と言うとき
話を、わたしの診察室に移したい。
Mさんという、線維筋痛症の患者さんがいる。全身に激しい痛みを感じる病気をかかえておられた。この病を抱える者のつらさの一つは、これほど強い痛みで苦しみながらも、一般的な検査では痛みの原因が客観的に捉えられにくく、他人に理解してもらいにくいことにある。Mさんも何カ所もの病院をめぐり、そのたびにいくつもの検査を受け、「異常はありません」と告げられてきた。痛みは確かにそこにあるのに、自分の訴えそのものまで否定されたかのように感じておられたかもしれない。その孤独は、痛みそのものに劣らず、つらいものだったのではないだろうか。
わたしがMさんの背中に手を当て、ある一点に触れたとき、自然に言葉が出た。
「痛みの場所は、ここですね」
Mさんは、はっと顔を上げた。
「どうして、わかるのですか」
わたしは答えた。「長年、たくさんの患者さんの身体に触れてきたので、指先が感じることがあるのです」と。
そのとき、診察室の空気が変わった。Mさんの表情がやわらぎ、こわばっていた肩から力が抜けていくようだった。やっと、自分の痛みをわかってくれる人に出会えた——おそらく、そう感じてくださったのだと思う。その表情からは、痛みが少し和らいでいるように見えた。
この診察室で起きたことを、医学の言葉で説明することはできる。人と人とのあいだに信頼が生まれることを、ラポールと呼ぶ。あの瞬間に、Mさんとわたしのあいだにラポールが生まれたのだ、と。けれども、そのように説明できたからといって、あの瞬間に流れたものの正体に手が届いたわけではない。
検査機器が捉えられない痛みを、なぜ他人の指先が感じ取ることができるのか。その問いが、わたしを思いがけない遠い場所へと連れていくことになった。
三 手は、はるかな昔から触れてきた
人が手で触れてケアするという行為は、どれほど古い歴史をもつのだろうか。
霊長類を研究するロビン・ダンバーは、サルやチンパンジーがたがいの毛をかきわけ、ごみを取り、皮膚をやさしくなでる毛づくろい——グルーミング——が、単なる衛生行動ではなく、仲間どうしの結びつきを保つ大切な行為であることを論じている。
触れ合うことによって関係をつくる営みは、人間だけのものではない。それは、わたしたちよりはるかに古い生命の歴史につながっているのだ。
毛づくろいの核心は、毛のあいだに指をすべりこませ、皮膚にゆっくりと、やわらかく触れる、その手の動きそのものにあるという。わたしたちの皮膚には、そうした穏やかな触れ方に反応する神経が走っている。このやさしい接触が脳にも働きかける。心を落ち着かせ、相手への信頼感や親しさを育てる。
そう考えたとき、わたしは診察室でのMさんを思い出さずにはいられなかった。わたしが指先で触れていたことは、サルやチンパンジーの毛づくろいと、根っこのところでつながっているのではないか。最新の検査機器を使うのではなく、ただ手を当て、ゆっくりと触れる。そんな古くからある行為が、あの診察室に立ちあらわれていたのではないか。
ダンバーの研究には、もう一つ心に残る指摘があった。
毛づくろいは一対一でしかできず、時間がかかる。集団が大きくなると、直接触れることだけでは結びつきを保てなくなる。そこで人類は、身体に触れなくても、人と人との心を結びつける行為を発達させてきたのではないか、というものだ。
ダンバーは、笑うこと、歌うこと、踊ること、宴をともにすること、心を揺さぶる物語を語ること、そして宗教的な儀礼などを挙げている。
歌も、踊りも、物語も、祈りも、それらは「触れずに行う毛づくろい」として、人と人とのつながりを支えてきたものであるようだ。そう考えると、わたしたちがアートと呼び、祈りと呼んでいるものは、ケアすることと、思っている以上に深いところでつながっていることになる。
そう考えていくと、ケアとアートと祈り——三つが、かけ離れた別々のものではなく、一つの根から伸びた三本の枝のように、わたしには見えてきた。
そして、その根にあるものが、愛なのではないか。すなわち、仲間を気づかい、見捨てず、ともに生きようとする力である。
実は、そのことを物語る人骨が、北海道の入江貝塚から見つかっている。
縄文時代の青年の骨である。四肢の骨が異常に細く、ポリオや筋ジストロフィーなどによって、幼いころから手足を自由に動かせなかったのではないかと考えられている。それでも彼は、青年になるまで生き延びていたのだ。
自力だけで生きることの難しい人であっても、仲間として支え、ともに暮らしつづけた人びとがいた。誰かが、食べ物を運び、身体を支え、寒さから守ったのだろう。このようなケアは、文字に記録されるよりもはるか以前から、人の手によって受け渡されてきたことがうかがえる。
遠い生命の歴史にあるグルーミングから、縄文の手足の不自由な青年を支えた誰かの手へ。そして、その手は、現代の診察室でMさんの背中に当てられたわたしの手へとつながっている。
振り返ってみると、わたしの指先は、はるかな時間の中で受け継がれてきた記憶を、知らず知らずのうちに繰り返していたのかもしれない。
四 希望を手渡した日
指先で感じることの不思議を、わたしはもう一人の患者さんから、さらに深い体験として教えられた。
Tさんは、二十年以上にわたって外来で診てきた患者さんである。九十五歳ながら、なお気丈に暮らしていた。ある日、Tさんから、脳の手術を受けるかどうか迷っているとの相談を受けた。わたしは脳外科の専門医に意見を聞き、ご本人ともよく話し合った。最終的に、超高齢ではあるけれども、Tさんは手術を受けることになった。
ところが、手術中の出血によって、Tさんは左の手足が動かなくなり、声をうまく出すことも難しくなった。手術の翌日、そのことを、わたしはご家族からの電話で知ったが、ご本人と直接連絡をとる手立てはなかった。
手術から一ヶ月あまりが過ぎたころ、わたしの携帯電話が鳴った。Tさんからだった。
「先生、お見舞いに早く来て。先生が来てくれなければ、わたしは治らないのだから」
悲痛な声で懇願された。
病室を訪ねると、Tさんは動かない側の手足を見つめて、ぽつりと言った。
「こんな状態になっちゃった」
わたしの手は、その動かない左手に触れていた。そのとき、ふいに何かを感じ、こう言っていた。
「いや、きっと、左の手足はまた動くようになりますよ。筋肉を保つためにも脳から手足に、動け、動けという信号を送りつづけてください」
もしわたしがその病院に勤務する医師であれば、そんな言葉を口にすることはできなかっただろう。けれども、そのときのわたしは、かつての受け持ち医としてお見舞いに来た面会者であった。だからこそ、そんなことが言えたのだと思う。
病室を出るとき、わたしの胸には、医学的な根拠とは別の、不思議に揺るがない感覚があった。
どうか、この願いが届いてくれますように——そう祈った。
実は、その翌日から、Tさんの左手の指が、ほんのわずかではあったが動きはじめた。そして、その喜びを伝える電話が、わたしのもとにかかってきた。それ以降も、お見舞いに行くたびに、左手足の動きは少しずつ改善していった。足に力が入るようになった。手が顎まで届くようになった。膝を立てられるようになった。やがて、自分の足で立ち、支えがあれば歩き、装具をつければ一人で歩けるまでになった。
九十五歳を超えた身でありながら、毎日五時間ものリハビリに、ひたむきに取り組んでこられた結果である。
もちろん、わたしが投げかけた言葉や祈りがTさんの身体を回復させた、と言いたいのではない。回復の中心にあったのは、Tさん自身の生命力と、懸命なリハビリである。けれども、人は希望を失ったままでは、五時間のリハビリに向かうことも難しい。
あの日、わたしの言葉がけが、Tさんの中に眠っていた力を呼び起こすきっかけになったのだとしたら——わたしにとって、嬉しいことだし、それで十分だった。
精神科医ヴィクトール・フランクルの言葉を、わたしはこう受け取っている。
愛とは、相手の中にある可能性を見ることだ。
フランクルは、ナチスの強制収容所を生き抜き、極限の状況の中で、人が生きる意味を問いつづけた。
わたしは中学生のころ、フランクルの『夜と霧』を手に取っては、読むのがつらくなって閉じ、また開いては閉じるということを繰り返していた。結局その時には最後まで読み通すことができなかった。けれども、あのとき出会った問いが、長い時間をへて、わたしの中で静かによみがえってくる。
五 沈黙の三分間
Mさんの痛みの場所を指先で感じ取れたことも、Tさんに「きっと手足は動くようになる」と言えたことも、わたしは「そう感じた」という言葉でしか表すことができない。そして、この感じる力を、わたしは六十五歳のとき、ある決断をすることによって、少しずつ取り戻していったように思う。
その年、大学を定年で退職したのを機に、専門医であることをやめようと決めた。医師になって以来、消化器を専門とする内科医として肝臓や胃腸の病気を診てきたが、専門医資格を更新しないことにしたのである。
専門を深く究めることには、もちろん大きな意味がある。けれども、わたしの場合、専門性を追ううちに、知らぬ間に目の前の人を「肝臓の病気をもつ患者」「胃の病気をもつ患者」として見るようになっていたのかもしれない。だが、そこにあるのは肝臓でも胃でもない。病をかかえ、苦しみ、家族を思い、明日を心配している、一人の人間なのだ。
専門医をやめてから、わたしは「よろず相談医」と名乗って診療をしている。どんな悩みであっても相談にのる。現在のクリニックでは、一人の患者さんに、少なくとも二十分をかけることができる。大学病院で専門医として、午前中に五十人、七十人と診ていたことを考えると、考えられないほどの贅沢な時間を持てることになったのだ。
二十分かけて話を聴くと、その人の暮らしが見えてくる。何を食べ、誰と暮らし、何を恐れ、何を大切にしているのか。病気を抱えた臓器ではなく、暮らしのなかで病に苦しんでいる一人の人間が見えてくる。
そして何よりも、沈黙の時間を意識的に過ごせるようになった。
患者さんが言葉を探して黙りこむとき、わたしはじっと待つ。少なくとも三分間は、こちらから急かすことなく待てるようになった。
専門医であったころ、沈黙は時間の無駄だと考えていた。目の前の患者さんの後には、大勢の人が待っている。少しでも早く的確な診断をし、治療方針を決めなければならない。その焦りの中で、わたしは患者さんの言葉をさえぎり、診察室から追い出すような診療をしてしまっていた。だから、沈黙時間を待つことなど、考えられなかった。
だが、人が黙っている時間には、言葉にならないものが一杯つまっている。不安、恐れ、悲しみ、恥ずかしさ、誰にも言えなかった本音、医師にこんなことを話してもよいのだろうかというためらい。そんなときに、医師に急かされてしまうと、そこまで出ようとしていた言葉が引っこんでしまう。けれども、静かに待っていると、やがて、ぽつりぽつりと言葉が紡がれはじめる。
この沈黙の中に秘められた力を、わたしは上智大学グリーフケア研究所で、傾聴のための人材養成講座の演習に関わるなかで学んだ。
演習のはじめに、参加者が車座になり、その日の自分の気持ちを話すチェックインと呼ばれる時間がある。ところが、誰もすぐには口を開くようなことはしない。沈黙の時間が流れる。そして三分ほど過ぎたころ、ようやく一人がぽつりと話しはじめる。またしばらくの沈黙があり、別の人の言葉が聴かれる。その沈黙は、自分の心の中をのぞきこみ、まだ形になっていない思いを言葉にするための、かけがえのない準備の時間だった。
哲学者シモーヌ・ヴェイユは、純粋な注意を祈りに重ね合わせた。自分の思いこみや欲をいったん脇に置き、ただ目の前の存在に全身で注意を向ける。三分間の沈黙の中で、わたしがしていることも、それに近いのかもしれない。沈黙の三分間は、祈りとよく似たかたちをしているように、わたしには思える。
知識で考えるだけではなく、感じること、感覚や感情を大切にする。沈黙の中で、ただ相手とともにいること。Tさんに希望を手渡したことも、Mさんの痛みに触れたことも、その根の部分は一つの場所から出ている。
知識でわかるより前に、その人の存在を丸ごと受けとめること——それが、ケアのいちばん奥深いところにあるのだと、いま、わたしは考えている。
六 ふたたび、血脈の話
ここで、はじめの掛け軸の話に戻りたい。
槐堂は龍馬に絵を贈った人物であり、わたしの曾祖父・江馬天江は、その弟である。蘭学を修め、適塾で医を学びながら、書や漢詩をよくした文人でもあった。西園寺公望が創設した私塾・立命館では、西園寺公が馬に乗って三度請いに訪れたと伝えられるほどの信任を受け、塾長も務めた。医を学ぶこと、芸術をたしなむこと、人を育てることが、天江の中では自然に溶けあっていた。
そのことを知り、わたしは、心の底に沈んでいた問いの答えに触れたような気がした。
わたしは内科医として働き、仕事の中心に人をケアすることがある。
四十六歳でカメラを手にして以来、取り憑かれたように写真を撮った時期がある。五十歳代の半ばからは、千年以上も昔の形を伝える篳篥という笛を習い、ボイストレーニングを経て、ジャズも歌うようになった。それらは、わたしの中にあるアートへの憧れによるものだった。
そして、宗派をこえて「信仰をもつ医療者が連帯するための会」を立ち上げ、いのちをめぐる問いを、医療者、宗教者、哲学者とともに考える場「いのちの研究会」を開いてきた。現代の医療を、いのちをケアする医療へと転換する一助になりたい。それが、わたしにとって魂の奥から湧いてくる願いである。
ケアとアートと祈り。この三つに、わたしはそれぞれの時期に、別々の道を通って出会ってきた。その都度、それぞれに対して、わたしは真剣に向き合い取り組んできた。けれども今振り返ってみると、曾祖父の中で一つの生き方として結ばれていたものと、どこか深いところで響き合っていたように感じられる。百年あまりの時をへだてて、一つの泉から別々の枝が伸びてきたようにも思える。
これは単なる偶然なのだろうか。いや、わたしには、血脈の中に何かが流れていると感じずにはいられなかった。
しかし今となって、さらによく見えてくる。それは、わたしの先祖から流れる血だけの話ではない。はるか遠い昔から続いてきた触れ合いの記憶であり、縄文の青年を支えた誰かの手であり、曾祖父が筆を持った手にあり、そして、いま患者さんの背中に触れるわたしの手にある。それらは全体として一つの大きな流れの中にあり、わたしの家系はそのほんの一筋にすぎない。
そして同じ流れは、これを読んでくださっているあなたの中にも、きっと流れている。人が誰かに手当てをし、ともに笑い、歌い、物語を分かち合い、祈ろうとするとき、その人もまた、長い生命の流れの中で生きているのだ。
七 AIは、沈黙の三分をともに生きられるのか
ここまで、人が触れ、歌い、物語を分かち合い、祈ることの意味をたどってきた。では、AIの時代に、これらはどんな意味をもつのだろう。
AIには何ができて、人間にしかできないことは何か。
AIは、膨大な医学知識を学び、一部の診断課題では人間に匹敵し、あるいは上回る成果を示しはじめている。これからAIが、医療者の多くの仕事を支えてくれる時代になることは間違いないだろう。
では、AIは三分間、黙っていることができるだろうか。もちろん、できる。だが、その沈黙を、目の前の人とともに生きることはできるだろうか。言葉にならない悲しみが立ち上がってくるのを待ち、自分もまた傷つき、老い、やがて死ぬ存在として、その沈黙の重さを引き受けることができるだろうか。
AIは、自らの死を予感しながら生きる存在ではない。歌も、舞踊も、物語も、祈りも、いつかは死ぬことを知る人間が、限りあるいのちの中から生み出してきた。終わりがあるからこそ、人は誰かと結びつこうとし、何かを手渡そうとする。槐堂の絵が、血痕を残して百六十年近くたった今も語りつづけているのは、それが、限りある一人の人間から、別の一人の人間へと手渡されたものだからではないだろうか。
AIが人間の仕事を多く引き受けてくれる時代になるほど、人間として生きられることの輪郭は、かえってくっきりと見えてくるのかもしれない。ケアし、表現し、祈ること。わたしには、それらが、愛という一つの根から伸びた三本の枝のように思えてならない。
八 愛は、前へ前へと手渡されていく
愛という一つの根——そう書いたところで、わたしは立ち止まる。その愛は、どこから来たのだろうか、と。
わたしにとって、その原点は母から受け取ったものである。晩年の母を看ているなかで、認知症が進み、もう人の名前さえ思い出せなくなっても、なお、わたしにミカンをむいて手渡そうとした。皮をむく力も衰え、差し出されたミカンはぐちゃぐちゃになっていた。それでも、わたしはそのミカンに、変わることのない母の愛を感じた。ただ、ただありがたかった。
そして、幼いころ母の腕のなかで受け取った無償の愛が、自分の人生を底から支えてきたことに、あらためて気づかされた。人を信じる力も、見えないものへの信も、もとをたどれば、あの腕のなかで感じた母の愛から始まっていたのだ。
もう一つ気づいたことがある。愛とは、お返しされることを期待せず、ただ前へ前へと手渡されていく贈りものなのではないか。誰かに渡す愛も、もともと自分だけのものではない。それ自体が、かつて誰かから受け取ったものである。さらにさかのぼりつづければ、その奥にある、いのちの源から受け取った贈りもののように、わたしには感じられる。
わたしにスピリチュアルケアを教えてくださったキッペス神父は、異なる宗教をもつ人たちと神について語るとき、「命の源」という言葉を使っていた。宗教や文化によって呼び名は違っても、人が祈りのなかで向き合ってきたものは、同じ深みを指しているのかもしれない。母の腕のなかで受け取った愛も、いのちの源から流れてくる愛も、その根源は一つのものだったのではないだろうか。
母から子へ。人から人へ。そして、まだ見ぬ誰かへ。愛は、そのように手渡されつづけてきたのである。
はるかな昔、一匹の生きものが、仲間の背にそっと手をのべた。その手は、縄文時代に自力で立つことのできなかった青年を支えた誰かの手にも、曾祖父・天江が筆をとる手にも、槐堂が龍馬へ絵を贈る手にもつながっている。そしていま、診察室で患者さんの背に触れる、わたしの手にも。
人類の血の中に流れているもの。それは、触れ合いのなかから育ってきたケアであり、いのちへの気づかいであり、誰かとともに生きようとする愛なのではないか。
その長い旅は、いまここに連なり、わたしの指先に現れている。そして、これを読んでいるあなたの手のひらでも、たしかに続いている。
——愛の手渡しの輪に、あなたも、もう加わっているのである。