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赦す人

許すという行為がどういう行為なのか、多くの人はただ「我慢する」ことだと思っているのではないだろうか。

妥協すると言ってもいいかもしれない。つまり、相手方の主張を受け入れて、自分の希望を殺してしまう。それを「許す」ことだと認識している人は多いのではないかと思う。

それはもちろん、許す行為の一部ではある。
けれども本質的に、許すという行為に他人は関係ない。

僕はその本質を理解しているわけではないし、たまたま読んだ本に書いてあったことをインプットし、自分の中で解釈してアウトプットしているに過ぎない。
そもそも読書とはそういうものだ。
読書だけでなく、すべてのインプットを自分の中に取り入れて解釈し、吐き出す。その繰り返しによって人格が形成される。

話を戻すと、許すという行為についてその本に書いてあったのは、「許すことにより、そのことを考えなくてよくなる」ということだ。
だから「我慢する」とは程遠い概念なのである。

どう折り合いをつけるか、どう妥協するかということは当然出てくるし、我慢する行為も伴ってくるだろう。
許すとは、人間の営みの中の「総合庁舎」のようなものだ。あらゆる要素を詰め込んで、吐き出し、あるいは抑えつける。
それが「許す」である。

人は言われなくても様々なことを考える。その「考える」あるいは「思う」行為は、人の営みの中で必要不可欠なものである。
許す行為の前には何らかの出来事があり、その一連の動きを許すことになる。その出来事は、もしかすると非常に辛いものであったかもしれない。あるいは、受け入れがたく法律を犯すものであったのかもしれない。その点に関しては法律に従い、罰せられるべきであり、そこに介入することはほとんどできない。

思いの中には「復讐をする」という選択肢もあるかもしれない。現実に理不尽なことをされ、復讐するという構図は古代からあった。だが法治国家である現在、それを実現することは大きなリスクを伴う。だから、みんな法律に従って動いているのだ。

その一連の社会的な動きとはまた別に、「許す」は並行して存在する。
たとえ争っていたとしても、許す必要があるのだ。

「許されざる行為であり、その思いを永遠に持ち続けなければならない。それが傷つけられた人に対する、せめてもの救いなのだ」と思い込んでいつまでも引きずることは、傷つけられた相手にとっても、そして何よりあなた自身にとっても、自らの体を痛めつける行為なのである。

人は、半分ぐらいは「思うこと」によって成立している。「我思う、ゆえに我あり」である。
だから「思う」という行為が、その性質のほとんどを占めていると言っても過言ではない。

自動的に動く部分はある。生活習慣によって、何も考えなくとも動ける時間は多く存在している。
けれども、自分を形成するものが何かと考えれば、おそらくは「何を思ったのか」「何を考えたのか」ということが重要になってくる。

だとしたら、許さずに永遠に思い続けている状態は、それを思うがゆえに、あなたの体にも深く刻まれていく。その多くの傷は日々の積み重ねによって、抱えきれないほどの大きな傷になってしまうのだ。

許そう。
いや、許さなければならない。

許した先に何があるのかと言われれば、何もない。
何もないけれど、許さなければならないのだ。
それが僕らに残された唯一の道であるかのように、光り輝いている。

許す心が永遠なのは、きっとそういうことだろう。


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