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LAST ORDER

    第䞀話 再生

    あらすじ

    䞍動産で財を成した久我恒䞀は、䜙呜わずかず知り、10幎絶瞁しおいた息子・拓真に「これから買う䌚瀟を継いでほしい」ず連絡する。
    案内圹の「支配人」に導かれ、犏祉甚具工堎を蚪れた恒䞀は、職人の技術ずAI研究者・真壁の構想に未来を芋出す。
    垰り道の食事で、か぀おの察立の裏に「息子に倢のある䌚瀟を継がせたい」ずいう思いがあったず知り、芪子は少しず぀和解しおいく。
    だが恒䞀の死埌、買収は仕組たれた詐欺だったこずがわかる。
    それでも父が過ごした最埌の3週間だけは、確かに幞犏だった――。
    詐欺ず再生が亀錯するヒュヌマンミステリヌ。

    プロロヌグ

    痕跡は、䞊から順に消されおいく。

    品川のオフィスビル階。
    ロゎが、巊䞊の角からゆっくりず剥がされおいく。
    ガラス扉の内偎には粘着の筋だけが残り、照明の癜い光を鈍く跳ね返しおいた。
    ぀いさっきたで、そこに䌚瀟が実圚しおいた蚌拠だった。

    脚立の䞊の女――リムが、端を少し持ち䞊げおから、䞀息で最埌たで剥がし切る。
    板を保護垃で包み、壁際のケヌスぞ滑らせる。もう、指王も、痕跡も残らない。

    脚立を降りたリムは、受付カりンタヌの匕き出しを順に開けおいく。
    名刺立お、封筒、朱肉、印。
    銀瞁県鏡が、手元が動くたびに小さく光る。

    郚屋の奥では、教授がノヌトパ゜コンを台䞊べおいた。
    濃い色のゞャケットは肘のあたりだけわずかに癜け、緩んだネクタむの䞋から癜いシャツの襟がのぞいおいる。
    䌞びかけた癜髪をそのたたにした暪顔は、これから䜕かを消し去ろうずしおいる人間には芋えなかった。
    むしろ、講矩の前のように萜ち着いおいる。

    片方の画面には送付枈みメヌル。もう片方には説明資料。
    別りィンドりに残っおいる芋出しは぀だけだった。
    フィゞカル制埡モデル。矩肢フィヌドバック蚭蚈。動䜜予枬アルゎリズム。

    「ホタル、固定は」
    支配人が蚊く。
    机の䞊のスマヌトフォンが、答えるように震えた。

    あず5分
    固定は生きおる
    代衚回線は6:00で萜ずす
    䞍圚通知は予玄枈み

    教授が画面を芋たたた蚀う。

    「問題ありたせん」

    支配人は衚瀺を䞀床芋お、

    「そのたたで」

    ずだけ返した。

    すぐに短く返る。

    了解
    5分は持たせる

    リムは受話噚を耳に圓お、無音を確かめおから、コヌドを抜いた。
    これで、この郚屋に぀ながる線は䞀本もなくなった。

    窓際では、䞈の長いコヌトの男がブラむンドの隙間から通りを芋䞋ろしおいる。長い裟が、暗い宀内でも先に目に入った。

    「䞀階の巡回、今抜けた。次は20分埌」

    「トレンチ、通り偎は」

    「静かだ」

    「車は」

    「裏手のたた」

    絊湯宀の前では、シェフが玙コップを束ねお袋ぞ萜ずしおいた。
    流しは也ききっおいる。受け皿にも、シンクにも、人が䜿った圢跡は消えおいる。

    カりンタヌの䞋から、小さな玙袋が出おきた。
    口が少し開いおいお、䞭に子ども向けの図鑑が数冊芋える。

    トレンチが、長いコヌトの裟を敎えながら、目だけ向けた。

    「それも回収か」

    「予備です」

    「䜿わなかったのか」

    「ええ」

    シェフが蚀った。

    教授は画面を䞀぀閉じた。
    閉じる前に、印刷した玙の䜙癜ぞ现い線を䞀本だけ匕く。
    確認ずいうより、癖だった。

    「あなたは情緒で遞ぶ」

    「教授は理屈で盛る」

    「盛っおはいたせん」

    教授は残った画面の蚭蚈図を芋た。

    「歩行詊隓を18䟋。矩手の調敎工皋を8䟋。職人の手元だけ抜いお䞊べれば、癖は芋えたす」

    リムが案内板を拭きながら蚀う。

    「癖で、あそこたで䜜れたすか」

    「癖だけでは無理です」

    教授は答えた。

    「倖骚栌ず産業ロボットの制埡論文を借りたした。そこぞ、あの工堎の職人がやっおいるこずを茉せた」

    シェフが笑う。

    「借りた、で枈たせるんだな」

    「嘘にするには、惜しい珟堎でした」

    支配人はそのやり取りを聞いおいたが、口は挟たなかった。

    「教授、保党は」

    「3件です」

    「原本は」

    「凊理枈みです」

    「控えは」

    「党お消したした。」

    「結構です」

    教授は数行を芋盎し、キヌを叩いた。メヌル停止たで2分

    サヌバヌ萜ずす準備できおる
    ミラヌはい぀でも消せる

    支配人は短く返した。

    実行しお

    間を眮かずに返る。

    萜ずした

    トレンチは小さく蚀った。

    「早いな」

    教授が画面を閉じながら答えた。

    「圌女は、い぀もそうです」

    リムが銀瞁の奥で目を䞊げる。

    「ホタルっお、女の子だったのね」

    スマヌトフォンが、もう䞀床震えた。

    回線も党郚切れた
    ミラヌも消した
    倖からはもう芋えない

    支配人は衚瀺を確認し、画面を䌏せた。

    教授はそこでノヌトパ゜コンを閉じ、USBメモリを1本抜いた。
    ラベルのない黒いものだった。銀色のケヌスぞ収める。

    それから机の端の玙束に目を萜ずし、半端にずれた1枚の角を揃えた。
    指先が、無意識みたいにもう䞀床だけ䜙癜をなぞる。

    リムは案内板をケヌスぞ入れた。

    シェフがもう䞀床、流しの金属面を芗き蟌む。

    トレンチはブラむンドを戻した。

    「通り偎、動きなし」

    䞭倮の机には、玙が1枚だけ残っおいる。着金通知。

    支配人は手を䌞ばし、玙を持ち䞊げた。目を萜ずしたのは䞀瞬だけだった。

    100,000,000円。

    玙を二぀に折る。

    その䞋に、名刺が䞀枚あった。

    癜地に、名前ず肩曞き。

    城南M&A支揎機構株匏䌚瀟
    支配人
    癜井 隆叞

    支配人は名刺を内ポケットぞしたった。

    「時刻」

    トレンチが答える。

    「0:00ちょうど」

    「予定通りです」

    支配人は立ち䞊がった。

    リムが最初の箱を持぀。教授がケヌブルをたずめる。シェフが玙袋の口を折る。トレンチが先に扉を半分だけ開け、廊䞋ず非垞階段の角床を確かめる。誰も、䜙蚈な動きを䞀぀もしない。

    䌚議机の䞊には、薄い茪染みだけが残っおいた。

    シェフが濡れ垃巟を䞀床通すず、それも消えた。
    もう、この郚屋には䜕もない。

    入口ぞ向かう途䞭で、教授が蚀った。

    「次は、元癟貚店䌚長でしたね」

    「ええ」

    「ご家族は」

    リムが箱を抱えたたた答える。

    「長男ず絶瞁䞭です。嚘が1人。こちらも10幎以䞊、接觊がありたせん」

    「資料は」

    「朝たでに揃えたす」

    シェフが玙袋を持ち盎す。

    「甘いものが奜きなら、次は焌き菓子ですね」

    教授は支配人の背䞭を芋た。

    い぀も思う。

    この人は、どこから人生の終わりを迎える人を芋぀けおくるのだろう。

    スマヌトフォンが、䌏せたたた短く震えた。

    支配人が画面だけ芋る。

    駅の南口、工事で少し狭い
    裏手から入った方が早い

    トレンチが扉を抌さえたたた蚀う。

    「南口は避ける。車は裏手だ」

    支配人が頷く。

    「続きは車内で」

    リムが先に出る。そのあずを、支配人、教授、シェフが続く。トレンチは最埌にもう䞀床だけ廊䞋の巊右を芋おから、倖ぞ出た。

    支配人だけが、わずかに足を止めお振り返った。

    「3週間で十分でした」

    独り蚀みたいな声だった。

    誰もそれに応えなかった。

    扉が閉たる。

    斜錠の音は小さく、也いおいた。

    

    被害届取䞋曞。

    その文字が、玙の䞊で劙に敎っお芋えた。

    高瀬誠は机に肘を぀き、曞面を芋䞋ろしおいた。譊芖庁捜査第二課のフロアでは、電話の音が断続的に鳎り、キヌボヌドを叩く音が空調の䜎い唞りに混じっおいる。

    誰かが垭を立ち、コピヌ機が玙を吐き出し、たた別の誰かがそれを受け取る。倜になっおも、音の皮類はほずんど倉わらない。

    高瀬の机の䞊だけが、その流れから少し倖れおいた。

    ファむルには久我恒䞀、78歳ずある。

    䞀代で䞍動産䌚瀟を築いた実業家。買収契玄の成立から22日埌に死亡。死亡そのものに目立った䞍審点はない。売買察象の䌚瀟も実圚し、契玄曞の圢匏にも瑕疵はない。

    父の死埌、長男の久我拓真が譊察を蚪れ、被害届を提出した。それを今になっお、圓の拓真自身が取り䞋げる。

    高瀬は曞面を裏返した。癜玙。もう䞀床、衚に戻す。

    「玍埗しおない顔だな」

    向かいから係長の声がした。

    「ええ」

    「どこが匕っかかる」

    「党郚です」

    係長は䜕も蚀わず、叀い玙ファむルを3冊、机の䞊に眮いた。

    高瀬は1冊目を開く。地方の資産家。倧型契玄。死亡。被害届提出。取䞋げ。

    2冊目も䌌おいた。

    3冊目で、手が止たる。

    いずれの資料にも、遺族から提出された名刺のコピヌか、面談埌の送付状の控えが挟たっおいた。

    1枚目には、

    東郜事業再線パヌトナヌズ株匏䌚瀟
    支配人
    氎島 誠

    2枚目には、

    京倮䌁業投資研究所
    支配人
    吉岡 浩

    3枚目には、

    日本䟡倀創造アドバむザリヌ株匏䌚瀟
    支配人
    黒田 利䞀

    高瀬は3枚を䞊べた。

    名前が違う。䌚瀟名も違う。なのに、肩曞だけが同じだった。

    係長が玙コップのコヌヒヌを机に眮く。

    「行っおこい」

    「久我拓真、ですか」

    「そうだ」

    高瀬は取䞋曞をファむルぞ戻した。

    第䞀章 久我拓真

    久我拓真の家は、東京の西の倖れにあった。

    最寄り駅を出るず、道はすぐに现くなる。

    6月の陜が、䜎い家䞊みの屋根を癜く照らしおいる。䜏宅地に入る手前に小さな公園があり、鉄棒ず滑り台だけが芋えた。ブランコの鎖が、颚に鳎っおいた。

    高瀬は䜏所を芋盎し、坂を䞀぀䞊がった。

    門柱の衚札は、黒い文字で「久我」ずだけあった。

    隣にいた宮䞋が、無蚀で呚囲を芋た。若い刑事だった。
    高瀬よりひず回りほど䞋で、こういう蚪問にはただ慣れおいないのか、それずも気負っおいるだけなのか。衚情は硬く、口数も少なかった。

    高瀬がむンタヌホンを抌す。

    返事はすぐだった。

    「はい」

    「譊芖庁の高瀬です」

    短い間があり、応答が切れた。門の向こうで足音が近づく。

    開いた門扉の内偎に立っおいた男は、癜いシャツの袖を肘たでたくっおいた。幎は40代半ばくらいだろうか。頬のあたりに疲れが残っおいる。目は濁っおいなかった。

    高瀬が譊察手垳を芋せるず、拓真はそれを芋お、小さく頷いた。

    「  どうぞ」

    玄関には革靎ず女性もののサンダル、子どもの靎が2足あり、片方は぀た先の泥が也いおいる。
    奥からは、煮物の甘い匂いがしおきた。

    通されたリビングは広くはなかった。テヌブルの端に孊校のプリントが重なり、゜ファの背に黄色い垜子が掛けおある。
    棚の䞊には写真立おがいく぀か䞊んでいお、その手前に小さな動物図鑑が䌏せおあった。

    拓真が湯飲みを぀眮く。

    「被害届の件ずいうこずでしたね」

    「はい」

    宮䞋は䌚釈だけしお、テヌブルの端で手垳を開いた。ペン先はただ玙に萜ちおいない。

    高瀬が蚀う。

    「取り䞋げの理由を、確認させおいただければず思いたしお」

    拓真も向かいに座った。湯飲みの瞁に指を眮き、それから離す。

    「今でも」

    高瀬は黙っおいた。

    「父は、隙されたず思っおいたす」

    遠くから、子どもの声がした。隣家の前か、そのあたりだった。

    「では、なぜ取り䞋げたんですか」

    高瀬が蚀うず、拓真は小さく息を吐いた。

    「刑事さん」

    「はい」

    「䞀぀、聞いおもいいですか」

    「䜕でしょう」

    拓真は高瀬を芋た。

    「人は、お金より倧事なものを取り戻せるず思いたすか」

    宮䞋がペンを持぀手を少し止めた。

    高瀬は湯飲みに手をやったが、飲たなかった。

    「取り戻せるこずも、あるず思いたす」

    拓真は、少しだけ笑った。

    「父なら、昔はそんなこず蚀わなかったでしょうね」

    立ち䞊がっお、棚から写真立おを䞀぀持っおくる。

    「これを」

    高瀬は受け取った。

    食卓だった。

    䞭倮の皿にハンバヌグが䞊んでいる。小孊生くらいの女の子が笑っおいお、その隣に女性。手前に拓真。いちばん奥に、゚プロン姿の老人がいた。

    「  久我恒䞀さんですか」

    「亡くなる少し前です」

    資料で芋た顔ず、同じ茪郭だった。だが印象が違う。肩の力が抜けおいる。うたく笑おうずしお、少し遅れた顔だった。

    「父は料理なんおしたこずがありたせんでした」

    拓真が蚀う。

    「でも、その日はハンバヌグを䜜るっお蚀い出しお」

    少しの間。

    「焊がしたした」

    宮䞋が、写真ず棚の䞊の図鑑を芋比べるように芖線を動かした。

    「10幎、䌚っおいたせんでした」

    拓真の声は平らだった。

    「絶瞁しおいたので」

    拓真は、写真を受け取っおテヌブルに眮いた。

    「経営のこずでぶ぀かっお。最埌は、二床ず顔を芋せるなず蚀われたした」

    「それからずっず」

    「はい」

    「電話も」

    「ありたせん」

    「お子さんは」

    「䌚わせおいたせん」

    玄関の方で、金具が䜕かに圓たる音がした。拓真がそちらを䞀床だけ芋る。

    高瀬は䜕も蚀わなかった。

    「父から電話があったんです」

    「10幎ぶりに」

    宮䞋が、そこで初めおペンを動かした。

    「どんな電話でしたか」

    拓真は湯飲みを持ち䞊げ、ひず口だけ飲んだ。

    「䌚瀟を継いでくれ、ず」

    「久我䞍動産を」

    「いいえ」

    拓真は銖を振った。

    「これから買う䌚瀟を、です」

    宮䞋が顔を䞊げたが、䜕も蚀わなかった。

    郚屋が少し静かになった気がした。

    「それで、䌚いに行った」

    高瀬が蚀う。

    「最初は断ろうず思いたした」

    「でも、行った」

    「ええ」

    「なぜ」

    拓真はすぐには答えなかった。

    「父が、ありがずうず蚀ったんです」

    宮䞋が、その䞀蚀を小さく曞き留める。

    「病気のこずは、その時点で」

    「詳しくは蚀いたせんでした。医者に長くないず蚀われた、ずだけ」

    「䜙呜、ずいう蚀葉は」

    「䜿わなかったず思いたす」

    高瀬はそこで初めお手垳を開いた。二、䞉語だけ曞く。

    「䌚ったのは、どこで」

    「買収した䌚瀟の工堎です」

    「䞀人で」

    「いえ」

    拓真は顔を䞊げた。

    「駅で埅っおいた人がいたした」

    「支配人ですか」

    「はい」

    「どんな人物でしたか」

    「静かな人です」

    「幎霢は」

    「50代くらいに芋えたした」

    「名前は」

    「癜井、だったず思いたす」

    高瀬は曞き留めた。

    宮䞋はその名前を曞かず、肩曞だけを䞞で囲んだ。

    「お父様は、その人を信甚しおいたんですか」

    拓真は、その問いには少し時間をかけた。

    「信甚、ずいう蚀い方が合うのかどうか  」

    「違いたすか」

    「話しおいるず、自分で決めおいる気になるず蚀っおいたした」

    「急がされたりは」

    「なかったず思いたす」

    「契玄を急かされたこずは」

    「それもありたせん」

    廊䞋の方から「ただいた」ず子どもの声がした。続いお女性の声。拓真はそちらを振り向かなかった。

    宮䞋が、気配だけで玄関の方を窺った。

    「刑事さん」

    拓真が蚀った。

    「私は父が隙されたこずを吊定したいわけじゃないんです」

    「はい」

    「億円は戻っおいたせん。説明も違っおいた。工堎の人たちだっお利甚されたず思う」

    「でも、被害届は取り䞋げた」

    「はい」

    「理由は」

    高瀬が蚀うず、拓真は写真立おの方ぞ目をやった。

    「父が、最埌に幞せだったからです」

    玄関の方から、子どもの足音が近づいおきお、途䞭で止たった。知らない男の気配を感じたのだろう。女性が䜕か囁き、足音はたた遠ざかる。

    「父は、亡くなったあずで手玙を残しおいたした」

    高瀬が顔を䞊げる。

    「あなた宛おの」

    「はい」

    「そこに、支配人のこずが」

    「曞いおありたした」

    「芋せおいただけたすか」

    拓真は銖を振った。

    「今日はただ」

    「分かりたした」

    「でも、内容は話したす」

    高瀬は手垳を閉じた。宮䞋も、少し遅れおペンを眮く。

    「父は、自分は最埌の泚文を間違えなかった。ず曞いおいたした。そしお、十分だった、ありがずう。ず。」

    拓真は、蚀葉を探しながら続ける。

    「最埌の泚文  ですか」

    高瀬は黙っお聞いおいた。

    「最初から、詳しく聞かせおください」

    「最初、ずいうず」

    「10幎ぶりの電話からです」

    拓真は目を䌏せ、それから静かに頷いた。

    「あれは、2月の終わりでした」

    第二章 10幎ぶりの電話

    父から電話がかかっおきたのは、2月の終わりだった。

    倜の8時を少し回ったころだったず思う。

    拓真はダむニングテヌブルにノヌトパ゜コンを開き、仕事の資料を芋盎しおいた。
    リビングでは、嚘の玗枝が孊校から持ち垰った図工の工䜜を劻に芋せおいる。
    玙を切る音ず笑い声が、ずきどきこちらたで飛んできた。

    スマヌトフォンが震えた。

    画面に出た名前を芋お、拓真は指を止めた。

    父。

    登録だけが、10幎前のたた残っおいた。

    呌び出し音が続く。

    出る぀もりはなかった。少なくずも、最初の数秒はそう思っおいた。
    だが、切れるのを埅っおいるうちに、意識だけがそこぞ匕かれおいく。

    通話は䞀床、途切れた。

    拓真は小さく息を吐いた。それで終わるず思った。

    すぐに、もう䞀床鳎った。

    同じ名前が、暗い画面の䞊で揺れおいる。

    拓真はしばらく芋おいたが、やがお通話ボタンを抌した。

    「  もしもし」

    少しの沈黙があった。

    そのあずで聞こえた声は、蚘憶の䞭のものより小さかった。

    「拓真か」

    拓真は答えなかった。答えなくおも、向こうは分かっおいるはずだった。

    「久しぶりだな」

    昔の父は、久しぶりだなどず蚀わなかった。必芁なこずだけを蚀った。
    盞手が誰であっおも、甚件の倖ぞ出るこずを奜たない人だった。

    「䜕か甚」

    拓真はできるだけ平らな声で蚀った。

    電話の向こうで、少し間があいた。

    「頌みがある」

    やはり仕事の話か、ず思った。

    「䌚瀟を継いでほしい」

    「断る」

    ほずんど考える間もなかった。

    「俺はもう関係ない」

    父はすぐには䜕も蚀わなかった。
    怒鳎り返しおくるかず思ったが、そうはならなかった。

    「俺の䌚瀟じゃない」

    「  䜕」

    「これから買う䌚瀟だ」

    拓真は怅子の背にもたれた。

    「買う」

    「ああ。地方の小さな䌚瀟だ。それを、お前に継いでほしい」

    意味が぀ながらなかった。぀ながらないたた、父の声だけが耳に残る。

    「久我䞍動産はどうするんだよ」

    「圹員がいる。圓分は回る」

    拓真は無意識にリビングの方を芋た。玗枝が劻に䜕かを蚎えおいる。
    聞き取れないが、声色だけで、きっず倧したこずではないず分かる。
    そんな倜に、10幎ぶりの父芪から、これから買う䌚瀟を継げず蚀われおいる。

    「なんで今」

    たた少し間があった。

    「もう時間がない」

    拓真は、そこで初めお声を倱った。

    「  どういうこず」

    「医者に蚀われた」

    父は、それ以䞊は蚀わなかった。病名も、䜙呜も、治療の芋通しも。

    それでも十分だった。

    「䞀床だけでいい。䌚瀟を芋に来おくれ。それで断るなら、それでいい」

    断るなら、それでいい。

    そんな蚀い方を父がするのを、聞いたこずがなかった。

    「堎所は」

    気づくず、そう聞いおいた。

    電話の向こうで、小さく息が動いた。笑ったのかもしれない。

    父は䌚瀟の所圚地を告げた。北関東の地方郜垂だった。
    駅名ず䜏所を二床聞き返し、拓真はメモ甚玙に曞いた。

    「迎えをよこす」

    「いらない」

    「堎所だけ分かれば行ける」

    父は少し黙ったあず、「そうか」ずだけ蚀った。

    それで話は終わるのかず思った。

    だが切れる盎前、父がぜ぀りず付け加えた。

    「ありがずう」

    拓真は䜕も返せなかった。返す前に通話は切れた。

    画面が暗くなる。そこに映った自分の顔が、思っおいたより険しかった。

    「誰だった」

    劻がリビングの方から顔を出した。

    「芪父」

    劻は驚かなかった。

    「そう」

    「  䌚瀟を継げっおさ」

    「久我䞍動産を」

    「違う。これから買う䌚瀟だっお」

    劻は冷蔵庫の扉を閉め、こちらぞ歩いおきた。
    拓真の向かいに立っお、メモ甚玙を芋䞋ろす。

    「䌚うの」

    「ただ分からない」

    そう答えながら、拓真は自分でその蚀葉の匱さに気づいおいた。
    分からないのではなかった。もう半分以䞊、決たっおいた。

    「病気らしい。長くないっお、医者に蚀われたっお」

    劻は驚いた様子で顔色が倉わった。ただ、その埌、目だけが少しやわらいだ。

    「じゃあ、行った方がいいんじゃない」

    「今さら」

    「今さらでも」

    玗枝が工䜜を持ったたた寄っおきた。

    「パパ、誰ず電話しおたの」

    劻が代わりに応える。

    「おじいちゃんよ」

    玗枝は目を䞞くした。

    「さえ、䌚ったこずある」

    拓真が玗枝の顔を芋お蚀う。

    「ない」

    「じゃあ、知らない」

    その蚀い方が、劙に真っ盎ぐだった。

    劻が笑う。

    「そうだよね」

    玗枝はすぐに工䜜の方ぞ気を戻し、たたリビングぞ走っおいった。

    知らない。その通りだった。

    「行くんでしょ」

    劻が蚀った。

    拓真はメモ甚玙を折りたたんだ。

    「  たぶん」

    「うん」

    「ただ、期埅はしおない」

    劻は頷いた。

    「しなくおいいんじゃない」

    その蚀葉に、少し救われた気がした。

    深倜、寝宀に入っおもすぐには眠れなかった。
    隣で劻の寝息が安定しおからも、目だけが冎えおいた。
    倩井の暗がりを芋おいるず、電話の最埌の䞀蚀だけが繰り返し戻っおくる。

    ありがずう。

    蚀われたこずのない蚀葉だった。だから䜙蚈に、気味が悪かった。

    それでも、耳に残った。

    翌朝、拓真は出勀前にもう䞀床メモ甚玙を開いた。
    駅名を芋お、たたみ盎す。

    行くかどうかは、ただ自分の䞭で決めきっおいない぀もりだった。

    だが、その週の金曜には出匵の予定をずらし、土曜の朝に家を出られるよう仕事も前倒しで片づけおいた。
    決めおいない぀もりで、もう決めおいた。

    土曜の朝。

    支床を終え、玄関で靎を履いおいるず、玗枝が駆け寄っおきた。

    「どこ行くの」

    「ちょっず遠くたで。」

    「お仕事」

    拓真は靎ひもを結ぶ手を止め、少しだけ考えた。

    「  いや。」

    「ちょっず人に䌚いに行っおくる。」

    玗枝は銖をかしげたが、それ以䞊は聞かなかった。

    その様子を、劻が台所から芋おいた。

    「気を぀けおね。」

    拓真は振り返る。

    「うん。」

    短く答える。

    玗枝が元気よく手を振る。

    「いっおらっしゃい」

    「いっおきたす。」

    二人に芋送られながら、拓真は家を出た。

    東京駅の䞊越新幹線発着ホヌムに吹く颚は冷たかった。

    発車ベルが鳎り、新幹線はゆっくりず動き出す。

    窓に映る自分の顔は、思っおいたより固かった。

    10幎ぶりに父に䌚う。それだけのこずではあるが、やはり身䜓は重かった。
    ただ、行かなければならないずいう感芚だけは、もう消えなかった。

    窓の倖の景色が、少しず぀知らない色に倉わっおいく。

    電車を乗り継ぎ、駅に着いたずき、改札の向こうに立っおいた男を芋お、足が止たった。

    黒に近い濃玺のスヌツ。人を埅たせるこずにも、埅぀こずにも慣れおいる立ち姿だった。

    男は拓真に気づくず、静かに䞀瀌した。

    「久我拓真様でしょうか」

    迎えはいらない、ず蚀ったはずだった。

    「  そうですが」

    男は胞元から名刺を差し出した。

    癜地に、名前ず肩曞きが印字されおいる。

    肩曞きだけが、劙に蚘憶に残った。

    城南M&A支揎機構株匏䌚瀟
    支配人
    癜井 隆叞

    拓真は名刺から目を䞊げた。

    男は埮笑んだわけでもなく、ただ穏やかに立っおいた。

    「お埅ちしおおりたした」

    第䞉章 支配人

    男は急かさなかった。改札脇の流れの倖で、静かに立っおいた。

    「父は」

    「先に着いおおられたす」

    「ここから遠いんですか」

    「車で少し」

    駅前のロヌタリヌには、黒いセダンが停たっおいた。
    運転垭の男が、こちらを䞀床だけ芋た。長いコヌトの襟が、座ったたたでも目に入った。

    支配人が埌郚座垭のドアを開ける。

    「どうぞ」

    車が動き出しおからもしばらく、誰も口を開かなかった。

    「どうやっお父ず知り合ったんですか」

    支配人は少し間を眮いた。

    「仕事です」

    「M&Aの」

    「はい」

    「父のほうから」

    「最初は別の話でした」

    そこで止たった。

    「どういう䌚瀟なんですか」

    「犏祉甚具や自立支揎甚具党般を制䜜、開発しおいる䌚瀟です」

    垂街地を抜け、川を枡る。癜い護岞が䞀瞬だけ窓に映り、すぐに消えた。

    やがお車は、䜎い建物が䞊ぶ䞀角ぞ入った。

    新しくはない工堎だった。「東和矩肢工業」ずいう看板が芋えた。
    壁の塗装はずころどころ剥げおいる。
    それでも搬入口はきれいに掃かれ、工具䞀぀床には萜ちおいない。

    開いたシャッタヌの奥には、長い䜜業台が䞊んでいた。

    車怅子、矩足、矩手、束葉杖、装具。
    完成品より、調敎途䞭のものが倚い。
    䞀぀ひず぀に利甚者の名前が曞かれた札が付いおいた。

    䞭ぞ入る。

    油の匂いはほずんどしない。代わりに、暹脂を削る甘い匂いず、消毒薬の匂いが挂っおいた。

    流れ䜜業ではない。
    職人が、䞀人の利甚者に付き、䞀぀の道具を仕䞊げおいく。
    同じ圢のものは、䞀぀ずしお芋圓たらなかった。

    少し進んだ先に、父がいた。杖を぀いおいた。
    䜜業着姿の男ず䞊び、矩足を調敎する様子を芋぀めおいる。

    10幎ぶりだった。痩せた。
    そう思ったが、蚀葉にはならなかった。

    父は拓真に気づくず、顔だけを向けた。

    「来たか」

    「  うん」

    それだけだった。

    父はすぐに芖線を戻す。

    拓真も黙っお埌ろに぀いた。

    平行棒の間で、䞀人の男性が歩いおいた。
    右脚には矩足が装着されおいる。
    若い職人が膝の倖偎ぞ指を二本添えた。

    「もう䞀床お願いしたす」

    男性が䞀歩螏み出す。

    職人の指先がわずかに動いた。

    「今、膝が少し倖ぞ流れたした」

    そう蚀うず、矩足の継ぎ目ぞ薄い板を差し蟌み、角床をほんの少しだけ倉える。

    目盛りを芋るこずもない。
    手銖を返す、その感芚だけで合わせおいた。

    「どうぞ」

    もう䞀床歩く。

    今床は足音が倉わった。

    床を擊る音が消えおいる。

    父は䜕も蚀わず、その様子を芋぀めおいた。

    隣の䜜業台では、女の職人が矩手の゜ケットを削っおいた。
    刃先はほずんど動いおいないように芋える。
    それでも削りかすは糞のように现く萜ちおいく。

    受け取った利甚者が矩手を装着する。

    腕を曲げる。

    䌞ばす。

    手銖を返す。

    どこにも匕っ掛かりがなかった。

    さらに奥では、幎配の職人が車怅子を調敎しおいた。
    利甚者を座らせたたた、背もたれの䞭ぞ手を差し蟌む。
    肩甲骚の䜍眮を確かめるず、迷うこずなくパッドを亀換した。

    「深く座っおください」

    利甚者が座り盎す。

    右肩がふっず䞋がった。

    「息はどうですか」

    「楜です」

    職人は頷きもしなかった。
    最初から分かっおいたような顔だった。

    父が静かに蚀う。

    「合わないものはすぐ分かる。」

    少し間を眮く。

    「合うものは、分からんくらい自然に消える。」

    拓真は工堎を芋回した。

    矩足、矩手、車怅子、杖。

    どれも同じ補品ではない。

    人に合わせお、少しず぀圢を倉えおいる。

    父は棚に眮かれた装具ぞ手を䌞ばした。

    「同じものは䞀぀もない。」

    「䜿う人間が違えば、答えも違う。」

    その蚀葉だけが、工堎党䜓を衚しおいるようだった。

    少し離れた堎所で、支配人が二人を芋おいた。

    「ここを父に勧めたんですか」

    拓真が尋ねる。

    支配人は父の背䞭を芋぀めたたた答えた。

    「決められたのは、久我さんです。」

    「私は、そのお手䌝いをしただけです。」

    工堎の奥で、小さな電子音が鳎る。

    誰かが工具を眮く音が続いた。

    開いた窓から颚が入り、䞀枚の図面が静かに揺れた。

    父が振り向いた。

    「拓真」

    「このあず、少し話も聞いおほしい」

    「話」

    「ここだけ芋おも分からん」

    支配人が蚀った。

    「ご案内したす」

    支配人が先に歩き出す。拓真は䞀床だけ父の背䞭を芋おから、その埌を远った。

    现い通路を進むず、䜜業堎の音が少しず぀遠のいた。代わりに、空調の䜎い唞りだけが残る。

    突き圓たりに、曇りガラスのはたった扉があった。

    支配人は立ち止たり、扉を軜く二床叩いた。

    䞭から、声がした。

    「どうぞ」

    第四章 教授

    扉の向こうに、男はもう座っおいた。

    濃い色のゞャケットは、肘のあたりだけ少し癜けお芋えた。
    ネクタむは締めおいるのに、どこか緩んでいる。䌞びかけた癜髪。

    机の䞊には、薄いノヌトパ゜コンが二台ず、玙の束。
    玙の䜙癜には、现い線がいく぀も走っおいた。

    拓真は、その手぀きを芋た。
    曞くずいうより、考えるたびに線が増えおいくような手぀きだった。

    男は立ち䞊がった。

    「真壁です」

    差し出された名刺を受け取る。

    先端技術開発郚 䞻任研究員
    真壁 修

    肩曞は堅かった。だが、立ち方も、玙の持ち方も、名刺より先に別の印象を残した。
    説明するこずに慣れた人間の立ち方だった。

    支配人は扉の脇に䞋がったたた蚀った。

    「技術の話はこちらから」

    真壁は軜く頷いた。

    「珟堎は芋おいただいたようですので、順にお話ししたす」

    父は垭に着き、腕を組んだ。拓真も隣に座る。
    真壁はノヌトパ゜コンをモニタヌに繋ぐ。

    最初の画面には、平行棒のあいだを歩く男の映像が映った。
    右脚に噚具を぀けおいる。
    画面の端には、人の䞋半身を線だけで描いた簡単な図が重なり、腰、膝、足銖に点が打たれおいた。

    「フィゞカル制埡モデルです」

    「倧げさな名前ですが、やっおいるこずは、身䜓がどうやっお厩れないようにしおいるかを芋える圢にするこずです」

    男が䞀歩出す。右足が床に぀く瞬間、足銖の点が赀くなり、少し遅れお膝の線が揺れた。

    「本来なら膝で受ける荷重を、先に足銖ぞ逃がしおいる。さらに腰で持ち盎しおいる」

    真壁は画面を止め、玙の䜙癜に䞉本の短い線を匕いた。

    「人は、たっすぐ動いおいるように芋えお、毎回どこかで身䜓の垳尻を合わせおいたす。足りない力は別の筋肉が補う。痛みは重心をずらしお逃がす。転ぶこずぞの恐怖は、小さな癖になっお珟れる。そうした代償動䜜の順番ず配分を、䞀぀のモデルずしお蚘述するんです。」

    「蚘述するっお、数匏で」

    「数匏にもしたす。ただ、それだけでは足りたせん。立ち䞊がるずきに先に肩が䞊がる人もいる。歩き出す前に䞀床呌吞を止める人もいる。膝が折れる前に、芖線だけ䞋ぞ萜ちる人もいる。身䜓の制埡は、骚栌だけで起きおいるわけではないので。」

    「無意識も、経隓も、恐怖も、䞀緒に身䜓を動かしおいる。だから私は、人ではなく"動き"を曞いおいるんです。」

    画面が切り替わる。

    今床は怅子から立ち䞊がる老人だった。
    立぀前に、䜓幹が右ぞ傟く。そこぞ腰の暪の噚具が远埓し、揺れが少し小さくなる。

    「珟堎の職人は、これを芋たす。芋お、その堎で合わせる。けれど芋えたものは消える。担圓が替われば、蚀葉が替わる。別の日になれば、印象がずれる」

    真壁はモニタヌを指した。

    「フィゞカル制埡モデルは、その堎の勘を消えない圢にしお残すためのものです。どこで逃がしたか。どこで持ち盎したか。䜕秒埌に厩れたか。どの代償が続くず、次にどこぞ無理が行くか。そういう身䜓の嘘の぀き方を、埌から誰でも远えるようにする」

    拓真は、工堎で芋た職人の指先を思い出した。
    膝の倖偎に二本の指を圓おただけで、逃げ方を蚀い圓おた男。

    真壁は次の画面を出した。

    手袋のようなものを぀けた女が、机の䞊のコップに手を䌞ばしおいる。
    指先が觊れる前に、画面の暪に现い波圢が立った。

    「矩肢フィヌドバック蚭蚈です」

    コップを持ち䞊げる盎前で、画面に色が出る。人差し指偎が濃く、手銖の倖偎にも小さな倉化が走る。

    「人が道具を䜿うずき、問題になるのは、圢が合うかどうかだけではありたせん。どう感じるかです」

    真壁は玙の䞊に、小さな円をいく぀か描いた。

    「重い。硬い。怖い。遅い。滑る。抌し返される。そういう感芚が少しでも合わないず、人は䜿うのをやめたす。性胜が良くおもです」

    「フィヌドバックっお」

    「戻りです。身䜓が道具に情報を枡し、道具が身䜓ぞ情報を返す。その埀埩です」

    矩手の先で物を぀かむ映像。別画面には、圧力の分垃が色で出おいる。
    赀い郚分が指の腹からずれ、芪指の付け根ぞ偏っおいた。

    「たずえば、握るずきにどこぞ力が偏ったか。どこで滑りそうになったか。どの角床で、䜿甚者が無意識に肩を䞊げたか。その情報を取る」

    「取っお、どうするんですか」

    「蚭蚈ぞ返したす。調敎ぞ返したす。必芁なら、䜿っおいる本人にも返す」

    「本人に」

    「はい。振動でも、音でも、抵抗の倉化でもいい。今の持ち方は無理がある、ここで手銖が逃げおいる、次は少し早く力を抜いた方がいい。そういうこずを、身䜓が芚え盎せる圢で返す」

    「道具が、教えるんですか」

    真壁は少し考えおから蚀った。

    「教える、ずは少し違いたす。道具が、身䜓ず䌚話できるようにする、の方が近いです」

    䞉぀目の画面が開く。

    歩行動画が、時系列で䞊んでいた。同じ男が、1日目、5日目、11日目で少しず぀違う歩き方をしおいる。最初は右脚だけだった逃がしが、11日目には腰たで䞊がっおいる。

    「動䜜予枬アルゎリズムです」

    「次に䜕が起きるかを予枬したす。ただし、未来を圓おる話ではありたせん。厩れ方の前觊れを拟う話です」

    画面の䞀郚を拡倧する。足が出る前の、ほんの短い時間だった。
    重心の揺れ、螏み切りの遅れ、䜓幹の傟きが、色の぀いた線で衚瀺される。

    「転ぶ瞬間より前に、転びやすくなる順番がありたす。足が出ない。出おも荷重を乗せきれない。乗せきれないから腰で逃がす。腰で逃がすから腕が先に固たる。その連鎖が、毎回たったく同じではなくおも、䌌た型で出る」

    「それを機械が読む」

    「読むようにする。歩行だけではありたせん。立ち䞊がりに倱敗する前、手を攟しおしたう前、肘を匷く突っ匵る前、䜿うのをやめる前。その䞀歩手前の倉化を、連続したデヌタから拟う」

    「譊告を出すんですか」

    「それもできたす。ただ、本圓にやりたいのは譊告ではありたせん」

    真壁は、工堎の車怅子の画像を出した。座面角床の違う3台が䞊び、それぞれに圧の分垃が重ねおある。

    「調敎の順番を倉えたいんです。壊れおから盎す。痛くなっおから盎す。䜿わなくなっおから理由を聞く。今は、その順番です」

    真壁は画面を閉じずに蚀った。

    「動䜜予枬アルゎリズムが䜿えれば、その前に入れる。この人は3日埌に腰で逃がし始めるかもしれない。この䜿い方だず1週間埌に肩ぞ負担が䞊がるかもしれない。この座り方だず耥瘡の手前で圧が偏るかもしれない。それなら、その前に盎せる」

    「そんなこずたで分かるんですか」

    「分かるこずもありたす。ただ分からないこずも倚い」

    郚屋が静かになった。

    工堎の奥で䜕かを削る音が、壁越しにかすかに聞こえる。

    真壁はノヌトパ゜コンの脇の玙に、たた䞀本線を匕いた。

    「ここには、身䜓を芋る目がありたす。合わせる手がありたす。その堎で盎せる職人がいる。」

    「足りないのは、その先です。職人が芋たものを、残しお、運んで、次の調敎ぞ぀なげる仕組み。工堎の䞭だけで終わらず、家の䞭、生掻の䞭たで远いかける仕組み」

    拓真は確認する。

    「぀たり、今はただ完成しおない」

    「しおいたせん」

    真壁ははっきり答えた。

    「フィゞカル制埡モデルは、個人差を扱うずころたで来おいたす。ただ、症䟋がただ薄い。矩肢フィヌドバック蚭蚈は、取れるデヌタず返せる感芚が揃いきっおいない。動䜜予枬アルゎリズムは、珟堎の芳察に近いずころたでは行けおも、生掻環境のノむズが倧きすぎる」

    「ノむズ」

    「家の間取り、段差、床材、疲劎、癖、性栌。人は工堎の䞭より、家の䞭でずっず耇雑になりたす」

    「それでも、父さんは買う぀もりなのか」

    父は自分で答えた。

    「だからだ」

    その䞀蚀で、䌚議宀の空気が少し倉わった。

    久我恒䞀は腕をほどき、机の䞊の名刺を指先で抌さえた。

    「出来䞊がったものを買っおも、倀札どおりだ。だが、ここはただ倀段が固たっおいない」

    真壁は䜕も蚀わない。

    父は続けた。

    「技術は未完成だ。だが、人は本物だ。その手が芋おいるものを、仕組みに萜ずせるなら、工堎䞀぀の話じゃ終わらん」

    支配人がそこで初めお口を開いた。

    「芋おいただきたかったのは、この先です」

    拓真はモニタヌの黒い瞁に映った自分の顔を芋る。
    工堎で芋た指先。
    今ここで語られおいる線ず点。別の話のようでいお、切れおはいなかった。

    父が蚀う。

    「どうだ」

    拓真はすぐには答えられなかった。

    䌚議宀の空調が、䜎く鳎り続けおいた。

    拓真はもう䞀床、名刺に芖線を萜ずした。

    真壁 修。
    その名前より先に、さっきから玙の䜙癜に匕かれおいく现い線の方が、なぜか気に掛かった。

    第五章 久我恒䞀

    䌚議宀を出るず、工堎の音がたた近くなった。削る音。台車の車茪。短く呌ぶ声。

    父は䜕も蚀わずにゆっくり歩いた。支配人は半歩遅れお぀いおいく。
    拓真は、その埌ろだった。

    搬入口の前には、黒いセダンが寄せられおいた。
    運転垭には、行きず同じ長いコヌトの男が座っおいる。

    支配人が埌郚座垭のドアを開けた。

    「駅たでお送りしたす」

    父が先に乗る。拓真は少し遅れお、その隣に座った。
    支配人は助手垭に回る。

    車が動き出しおからしばらく、誰も口を開かなかった。

    工堎の䜎い建物が窓の倖ぞ流れおいく。
    癜いシャッタヌ、搬入口、现長い䜜業台。角を曲がるず、もう芋えなくなった。

    支配人が前を向いたたた蚀った。

    「お時間がよろしければ、駅前で少しお食事でも」

    父は窓の倖を芋たたた、少し考えるようだった。

    それから、隣の拓真に目をやる。

    「お前、腹は枛っおいるか」

    「  少しなら」

    支配人は軜く頷いた。

    車は駅前の倧通りぞ入る前に、䞀本脇ぞそれた。
    叀い商店街の裏手で止たる。看板は出おいたが、灯りは控えめだった。

    掋食屋だった。

    衚のショヌケヌスには食品サンプルが䞊んでいる。
    店内は静かだった。
    壁の朚の色が少し叀く、赀いビニヌルの怅子の瞁に现いひびが走っおいる。奥の柱時蚈だけが、店の幎季に芋合わない正確さで時を刻んでいた。

    店の奥にひずり、癜いシャツの男が立っおいた。
    袖を肘たでたくり、黒い゚プロンをしおいる。

    「いらっしゃいたせ」

    窓際の四人垭に通される。父ず拓真が向かい合い、支配人が通路偎に座った。
    癜いシャツの男は、氎だけ眮いお䞋がる。

    拓真はメニュヌを開いた。ラミネヌトの端が少し浮いおいた。
    ハンバヌグ、カニクリヌムコロッケ、オムラむス、ナポリタン。叀い曞䜓で印字されおいる。

    支配人が氎のグラスに軜く手を添えお蚀う。

    「ここのハンバヌグは絶品です」

    「それでは、それにしよう」

    父はメニュヌを閉じた。

    癜いシャツの男が戻っおくる。

    「ご泚文は」

    「ハンバヌグを、お願いしたす」

    拓真は少し遅れお蚀う。

    「同じで」

    「かしこたりたした」

    支配人はコヌヒヌだけ頌んだ。

    厚房の向こうで、肉の焌ける音がした。バタヌの匂いがゆっくり流れおくる。拓真はその音を聞きながら、店の奥を芋た。
    カりンタヌの脇に、叀いカレンダヌが掛かっおいる。

    ハンバヌグが運ばれおきた。

    鉄板の䞊で゜ヌスが鳎っおいる。湯気が立ち、玉ねぎの甘い匂いが䞊がる。添えられたにんじんずいんげんの䜍眮たで、劙に敎っおいた。

    癜いシャツの男はテヌブルに皿を眮くず、䜕も蚀わず䞋がっおいく。

    父がナむフを入れた。拓真も続く。

    最初の䞀口で、父の手が止たった。
    父はしばらく皿を芋぀めたたた、動かなかった。

    遠くを芋るような目をしお蚀った。

    「懐かしい味だな」

    それだけ蚀っお、たた䞀口、口ぞ運んだ。

    支配人がカップを持ち䞊げる。

    「私は、これで倱瀌いたしたす」

    拓真が顔を䞊げる。父も支配人を芋る。

    「お䌚蚈は、枈たせおおきたした」

    「それは、いけたせん」

    「もう枈んでおりたすので」

    支配人は静かに蚀った。

    「どうしおもずおっしゃるなら、次の機䌚に」

    父は小さく息を぀いた。

    「あなたには、敵いたせんね」

    支配人は答えず、テヌブルの脇に立ったたた、父ではなく拓真に向かっお蚀った。

    「味は蚘憶を連れおきたす。」

    意味の分からない蚀い方だった。

    支配人は立ち䞊がり、癜いシャツの男ぞ目を向ける。

    「シェフ、今日も、ありがずうございたした。」

    男は照れたように笑い、

    「たた、お埅ちしおいたす。」

    ずだけ答えた。

    支配人は䞀瀌し、店を出おいく。癜いシャツの男も、厚房の奥ぞ匕いた。

    扉が閉たる。

    換気扇の䜎い唞り。皿の觊れ合う音。ガラスの向こうを暪切る人圱。
    客の気配はなく、店そのものが今日だけ、二人のために開いおいるようだった。

    父が蚀った。

    「この味、芚えおいるか」

    「  どこかで、食べたこずあったか」

    父は少し間を眮いた。

    「䌚瀟近くの掋食屋だ。10幎前、お前ず最埌に飯を食った時も、こんなハンバヌグだった」

    拓真はもう䞀口、口ぞ運んだ。

    玉ねぎの甘さ。少し濃い゜ヌス。焌きすぎる䞀歩手前の焊げ目。
    舌の奥で、思い出がゆっくりほどけおいく。

    「ああ  そうだったかもな 」

    喉の奥で、ようやくそれだけ出た。

    父はナむフを眮いた。

    「あの日、お前は䌚瀟の話しかしなかった。」

    「土地を売る話じゃない。」

    「その土地で䜕を始めるか。」

    「そればかり話しおいた。」

    「そうだったかな。」

    拓真は少し考えた。

    10幎前の掋食屋。

    がんやりずした蚘憶が、少しず぀圢になっおいく。

    「  蚀ったかもしれない。」

    「アトリ゚でもいい、ギャラリヌでもいい。」

    「デザむナヌでも、職人でも、䜕かを䜜る人が集たる堎所にしたいっおな。」

    「倧孊や病院ずも぀ながれば、新しいものが生たれる、ずも。」

    「街は建物じゃなく、人が育おるものだっお。」

    「そんなこずを。」

    父は静かに頷いた。

    「俺はあの頃、数字ばかり芋おいた。」

    父はぜ぀りず蚀う。

    「資産䟡倀、利回り、含み益。」

    「それで䌚瀟は匷くなるず思っおいた。」

    少し間を眮く。

    「だから、お前ずぶ぀かった。」

    拓真は皿の䞊の゜ヌスを芋぀めた。

    「俺は、お前に久我䞍動産を、そのたた継がせる぀もりはなかった。」

    拓真は顔を䞊げる。

    「  䜕」

    父は氎をひず口飲んだ。

    「お前には、䌌合わん。」

    「䜕を蚀っおるんだ。」

    父は少しだけ目を现めた。

    「お前は昔から、土地や建物そのものには興味がなかった。」

    拓真は返せなかった。

    そんなふうに芋られおいた芚えはなかった。

    芋られおいたずしおも、それを父が芚えおいるずは思っおいなかった。

    父は鉄板の端に残った゜ヌスを芋぀めたたた、静かに蚀う。

    「だから、䞍動産屋の看板を、お前に背負わせる気はなかった。」

    「じゃあ、どうする぀もりだった」

    「探しおいたんだ」

    「䜕を」

    「お前が本気で育おたいず思える䌚瀟だ。」

    「倢のある䌚瀟だ。」

    その蚀葉だけが、少し遅れお胞に萜ちた。

    店の奥で、癜いシャツの男が鍋の火を萜ずす音がした。
    匂いだけが、ただゆっくり残っおいる。

    「じゃあ、今回の話は」

    「ただ途䞭だ」

    父は蚀った。

    「もっず早く、芋぀けられるず思っおいた」

    その䞀蚀で、父の病気のこずが、急に別の圢で近づいた。

    早く。
    芋぀かるず思っおいた。
    間に合うず思っおいた。

    「あの時、そう蚀えばよかっただろ」

    拓真が蚀うず、父は少しだけ笑った。

    「蚀えるくらいなら、揉めおいない」

    「  それもそうか」

    父は皿の端のにんじんを寄せた。

    「お前に、倢だの未来だのを、口で蚀うのは奜きではなかった」

    「䜕で」

    父は応えなかった。

    癜いシャツの男が、音も立おずに氎を足しに来た。

    「お味は、いかがでしたでしょうか」

    父が顔を䞊げる。

    「矎味しくいただきたした」

    男は、それだけでわずかに目を䌏せ、たた䞋がっおいった。

    拓真はその背䞭を芋た。

    「味ずいうのは、䞍思議なものだ。」

    父が蚀った。

    その蚀葉に、今床は拓真が黙る番だった。

    しばらくしお父がぜ぀りず蚀う。

    「支配人には、い぀も助けられおばかりだ」

    

    新幹線のホヌムは、颚が匷かった。

    癜い車䜓が入っおくる前から、空気だけが先に動いおいる。
    アナりンスが流れ、人の列が少しず぀詰たる。

    ホヌムの端で䞊んで立぀。颚に吹かれながら、しばらく䜕も蚀わなかった。

    東京ぞ戻る新幹線の車内は静かだった。

    窓の倖を流れる景色を眺めながら、父は口数が少なかった。

    拓真も同じだった。

    工堎で芋たものが、ただ頭の䞭に残っおいる。

    叀びた建物。

    無口な職人たち。

    説明できないほど自然な矩肢の動き。

    そしお、支配人が芋せた未来。

    「  どう思った。」

    父が窓を芋たたた聞いた。

    拓真は少し考える。

    「䌚瀟ずしおは面癜い。」

    「珟堎も良かった。」

    「でも、ただ刀断できない。」

     父は静かに頷いた。

    「俺もだ。」

     その䞀蚀が意倖だった。

     昔の父なら、自分の考えを抌し通しおいた。

     人の意芋を求めるこずなどなかった。

    「父さん。」

    「ん」

    「どうしお、この䌚瀟なんだ。」

     父はしばらく黙っおいた。

     やがお、小さく笑う。

    「最初は儲かるず思った。」

     拓真も苊笑する。

    「父さんらしい。」

    「だが、芋孊しお考えが倉わった。」

     父は前を向いたたた続ける。

    「人がいた。」

    「人」

    「職人だ。」

    「あい぀らは、自分たちが䜕を持っおいるのか分かっおいない。」

    「だから安く芋られおいる。」

     少し間を眮く。

    「俺も昔はそうだった。」

     拓真は父を芋る。

     父は珍しく、自分の昔話を始めた。

    「若い頃は土地しか芋おいなかった。」

    「人を芋ずに仕事をしおきた。」

    「それで䌚瀟は倧きくなった。」

    「だが  。」

     そこで蚀葉が途切れる。

    「倱ったものも倚かった。」

     その意味を、拓真は聞かなかった。

     聞かなくおも分かっおいた。

     父も分かっおいるのだず思った。

     新幹線が東京駅ぞ滑り蟌む。

     ホヌムぞ降りるず、父は腕時蚈を芋た。

    「今日はありがずう。」

    「いや。」

     拓真が答える。

    「俺も行っおよかった。」

     父は少し照れたように咳払いをした。

    「  今床。」

    「うん」

    「家ぞ行っおもいいか。」

     拓真は䞀瞬、聞き返しそうになった。

     父が、自分からそんなこずを蚀うずは思わなかった。

    「孫にも  䌚っおみたい。」

     その蚀葉は、ずおも小さかった。

     拓真はしばらく黙っおいた。

     10幎間、父を恚んできた。

     䌚瀟を遞び、家族を捚おた人だず思っおいた。

     だが、今日䌚った父は違っおいた。

    「分かった。」

     短く答える。

    「今床の土曜日なら。」

     父は安心したように頷いた。

    「そうか。」

    「ありがずう。」

     改札で別れる。

     父は振り返らずに歩いおいく。

     その背䞭は、以前より少し小さく芋えた。

     垰宅するず、劻が玄関で迎えた。

    「どうだった」

     拓真は靎を脱ぎながら笑う。

    「思っおいたより元気だった。」

    「そう。」

    「それで。」

     少し間を眮く。

    「今床、家ぞ来たいっお。」

     劻は驚かなかった。

    「いいんじゃない」

    「玗枝も喜ぶず思う。」

     リビングから玗枝が駆け寄っおくる。

    「パパ、おじいちゃんに䌚ったの」

    「ああ。」

    「どんな人」

     拓真は少し考えた。

    「昔は怖かったな。」

    「でも今日は  。」

     玗枝ず目を合わせる。

    「優しいおじいちゃんだった。」

     玗枝は嬉しそうに笑った。

    「じゃあ、今床䌚える」

    「ああ。」

     その倜、拓真のスマヌトフォンが震えた。

     父からだった。

     届いたのは、たった䞀行。

    土曜日を楜しみにしおいたす。

     それだけだった。

     拓真は画面を芋぀め、小さく息を吐いた。

     父は本圓に倉わろうずしおいるのかもしれない。

    第六章 ハンバヌグ

    土曜日の午埌。

    父は玄束の時間より20分早く、拓真の家の前に立っおいた。

    むンタヌホン越しに映った姿を芋お、拓真は思わず苊笑した。
    昔からそうだった。䌚議にも、商談にも、父は必ず早く来る。

    ただ、今日の父はスヌツではなかった。
    薄いグレヌのゞャケットに、癜いシャツ。
    手には小さな玙袋を持っおいる。

    玄関を開けるず、父は少しだけ背筋を䌞ばした。

    「早かったかな」

    「少しね」

    拓真がそう蚀うず、父は照れたように咳払いをした。

    「道が空いおいた」

    家の奥から玗枝が顔を出す。

    「おじいちゃん」

    父の衚情が、わずかに揺れた。
    仕事堎で䜕十人もの瀟員を前に話しおきた男が、小孊生の䞀蚀に返事を迷っおいる。

    「ああ」

    父はゆっくり頷いた。

    「おじいちゃんだ」

    玗枝は少しだけ母芪の埌ろに隠れた。

    父は玙袋を差し出す。

    「これを」

    䞭には、児童向けの図鑑が入っおいた。動物図鑑だった。

    「䜕が奜きか分からなかった」

    父は蚀い蚳みたいに蚀う。

    「本屋で、店員に聞いた」

    玗枝は図鑑を受け取るず、衚玙をじっず芋぀めた。

    「ありがずう」

    父はそれだけで、どう返しおいいか分からなくなったようだった。

    劻が笑っお蚀う。

    「せっかくなので、お茶でもどうぞ」

    父はリビングに通された。

    ダむニングテヌブルには、い぀もの䌑日の空気があった。
    掗い物の残った台所。畳みかけの掗濯物。゜ファの䞊に眮かれたぬいぐるみ。

    父はそのすべおを、珍しいものを芋るように眺めおいた。

    「散らかっおるけど」

    「いや」

    父は銖を振った。

    「家らしい」

    その蚀葉に、拓真は返す蚀葉を倱った。

    しばらくしお、玗枝が図鑑を抱えたたた父の隣に座った。

    「おじいちゃん、動物奜き」

    「詳しくはない」

    「じゃあ、教えおあげる」

    玗枝はペヌゞを開く。ラむオン。ゟり。キリン。

    父は䞀぀䞀぀に頷きながら、真剣に聞いおいた。
    拓真はその暪顔を芋おいた。父が子どもの話を途䞭で遮らずに聞いおいる。それだけのこずが、信じられないくらい䞍思議だった。

    倕方が近づいたころ、玗枝が蚀った。

    「今日のお倕飯は䜕」

    劻が冷蔵庫を芋ながら答える。

    「ただ決めおないの」

    するず、父が小さく手を䞊げた。

    「ハンバヌグはどうだ」

    拓真は思わず父を芋る。

    「父さんが食べたいの」

    「いや」

    父は玗枝を芋た。

    「奜きだず聞いた」

    玗枝の顔がぱっず明るくなる。

    「倧奜き」

    父は少しだけ笑った。

    「なら、䜜ろう」

    「䜜ろうっお、誰が」

    「俺が」

    沈黙のあず、玗枝が声を䞊げお笑った。

    「おじいちゃん、料理できるの」

    「できない」

    父は即答した。

    「でも、やっおみる」

    劻が笑いをこらえながら蚀う。

    「では、たず買い物ですね」

    父は立ち䞊がった。

    「行こう」

    玗枝が父の手を取る。

    「スヌパヌ、こっち」

    父は䞀瞬だけ驚き、それからそっずその手を握り返した。

    スヌパヌでは、玗枝が案内圹だった。

    「ひき肉はここ」
    「玉ねぎはこっち」
    「パン粉もいるよ」

    父は蚀われるたたにカゎぞ入れおいく。
    い぀もなら秘曞や瀟員がすべお甚意しおいた男が、真剣に玉ねぎを遞んでいる。

    「これは倧きすぎるか」

    「それでいいよ」

    「そうか」

    そのやり取りを芋ながら、拓真は少し離れた堎所を歩いた。

    䜕かが戻っおいるわけではない。10幎は消えない。
    母が寂しそうにしおいた日も、父ず怒鳎り合った倜も、なかったこずにはならない。

    それでも、いた目の前にある時間を吊定するこずもできなかった。

    家ぞ戻るず、父は新品の゚プロンを枡された。

    「せっかくなので」

    劻に蚀われ、父はそれを黙っお受け取った。
    ゚プロン姿の父を芋お、拓真は笑いをこらえきれなかった。

    「䌌合わないな」

    「分かっおいる」

    父はむっずした顔をする。

    玗枝は手を叩いお笑った。

    「おじいちゃん、かわいい」

    その䞀蚀に、父は完党に蚀葉を倱った。

    調理は予想どおり、難航した。

    玉ねぎを切れば涙が止たらない。ひき肉をこねれば力を入れすぎる。
    圢を敎えれば、䞀぀だけ劙に倧きくなる。

    「これは俺の分だ」

    父が蚀うず、玗枝が笑う。

    「倧きすぎ」

    フラむパンに䞊べたハンバヌグは、最初の䞀枚を危うく焊がしかけた。

    「あっ」

    父が慌おお火を匱める。劻が暪から助け舟を出した。

    「倧䞈倫です。ただ間に合いたす」

    「料理は難しいな」

    父が真顔で蚀う。

    「仕事より難しい」

    玗枝が聞く。

    「ああ」

    父は真剣に頷いた。

    「仕事よりずっず難しい」

    拓真は、その蚀葉を聞いお少しだけ笑った。
    昔の父なら、絶察に蚀わなかった蚀葉だった。

    食卓にハンバヌグが䞊ぶ。圢はいび぀で、ずころどころ焊げおいる。
    だが、湯気だけはたっすぐ立っおいた。

    玗枝が最初に箞を䌞ばす。䞀口食べお、目を倧きくした。

    「おいしい」

    父は動きを止めた。

    「本圓か」

    「うん」

    「䞖界䞀」

    父は笑おうずしお、うたく笑えなかった。代わりに、䜕床も頷いた。

    「そうか」

    「それなら、よかった」

    食卓には、ゆっくりず䌚話が増えおいった。
    孊校の話。奜きな絊食の話。図鑑の動物の話。
    父はその䞀぀䞀぀を、驚くほど䞁寧に聞いた。

    仕事の電話は鳎らなかった。父は携垯電話の電源を切っおいたのかもしれない。

    昔なら、食事䞭でも電話に出た。
    母の誕生日でも、進路盞談の日でも、商談の電話を優先した。
    その父が、いた目の前で、孫の話を黙っお聞いおいる。

    食事が終わるころ、劻が蚀った。

    「写真、撮りたせんか」

    父は少し驚いた顔をした。

    「写真」

    「せっかくですから」

    玗枝が立ち䞊がる。

    「撮る」

    テヌブルの䞭倮には、少し焊げたハンバヌグ。その呚りに、拓真、劻、嚘、そしお父が䞊ぶ。スマヌトフォンのタむマヌをセットする。

    玗枝が父の腕を匕いた。

    「もっずこっち」

    「ああ」

    父がぎこちなく身を寄せる。

    シャッタヌ音が鳎る。

    その瞬間、拓真は父が笑っおいるのを芋た。䌚瀟で芋せる笑みではない。
    商談で盞手を安心させるための笑顔でもない。
    ただ、そこにいおいいず蚱された人間の顔だった。

    垰り際、父は玄関で靎を履きながら蚀った。

    「たた来おもいいか」

    玗枝がすぐに答えた。

    「いいよ」

    父はしゃがんで蚀った。

    「ありがずう」

    拓真は玄関の倖たで芋送った。倜颚が少し冷たかった。

    「今日はありがずう」

    「瀌を蚀うのはこっちだよ」

    父は安心したように笑う。

    「次は、焊がさないようにする」

    父の車が芋えなくなるたで、拓真は門の前に立っおいた。
    家の䞭から、玗枝の声が聞こえる。

    「パパ、たたおじいちゃん来る」

    「ああ」

    拓真は家に入りながら答えた。

    「たた来るよ」

    その蚀葉を口にしたずき、自分でも少し驚いた。
    迎えるこずが、もう嫌ではなくなっおいた。

    第䞃章 週間

    契玄は翌週、品川のオフィスビルで行われた。

    ビルの9階。䌚議宀に長机が䞊んでいた。
    窓の倖には、午埌の癜い空が芋えた。

    机の䞊に、契玄曞がそろえられおいる。

    銀瞁県鏡の女が、最埌の䞀枚を父の前に眮いた。
    灰色のスヌツ。薄いファむル。無駄のない手぀きだった。

    父は座るず、曞類をめくった。支配人は少し離れたずころに立っおいた。

    34億円。

    父は䜕も蚀わず、眲名した。最埌の頁に刀を抌す。也いた音が郚屋に残った。

    銀瞁の女は曞類を匕き取り、父の秘曞に薄い封筒を枡した。

    「本日の控えず、今埌の手続き䞀芧です」

    秘曞が䞭を芋た。

    「これだけですか」

    「契玄に必芁なものだけです」

    「残りは、こちらで敎理しおからお送りしたす」

    父はもう立ち䞊がっおいた。

    「終わりか」

    支配人が頷く。

    父はそのたた郚屋を出た。拓真はあずに続いた。
    振り返るず、銀瞁の女は机の䞊の曞類を静かにそろえおいた。

    その契玄のあず、父は䌚瀟ぞ行く日が枛った。

    そのぶん、拓真の家に来た。

    玗枝ず図鑑を開いた。

    公園ぞ行った。

    歩く速さは、前より少しだけゆっくりになっおいた。

    玗枝が先ぞ走っおいく。

    父は笑いながら远いかけようずする。

    二、䞉歩進いたずころで足を止め、小さく息を敎えた。

    玗枝は気づかず、花壇の前で手を振っおいる。

    父も手を振り返した。

    倕方には台所ぞ立぀日もあった。

    ハンバヌグを焌いた。

    途䞭で䞀床だけ、フラむパンの柄に䞡手を添えた。

    玗枝が心配そうに芋䞊げる。

    「だいじょうぶ」

    父は笑う。

    「ただ負けん。」

    少し焊げた。

    「くろい。」

    玗枝が笑う。

    父は

    「食える。」

    ず蚀った。

    それだけで、たた笑った。

    垰るずき、父は玄関で靎を履くのに少し時間がかかった。

    それでも誰も䜕も蚀わなかった。

    父だけが、

    「幎だな。」

    ず笑っおいた。

    あっずいう間に3週間が過ぎた。

    ある朝、父の䌚瀟の秘曞から電話があった。

    拓真は受話噚を取り、

    「そうですか。すぐに行きたす。」

    ずだけ蚀い、電話を眮いた。

    父は自宅で息を匕き取った。

    苊しんだ様子はなかったようだ。怅子に座ったたた、眠るようだった。

    郚屋には、朝の光が入っおいた。

    通倜ず葬儀の準備が始たるころ、銀瞁県鏡の女が来た。
    黒い鞄を持ち、秘曞ず短く確認し、曞類を分けた。

    「こちらはご家族で」

    「こちらは䌚瀟ぞ」

    「この件は埌日で結構です」

    声は静かだった。

    拓真は少し離れたずころから、その様子を芋おいた。女は最埌たで名前を名乗らなかった。

    垰り際、玄関で䞀瀌した。

    「ご家族のお時間を優先しおください」

    それだけ蚀っお、出おいった。

    父の最埌の3週間を、拓真はあずから䜕床も思い返した。
    短い電話。玗枝の笑い声。少し焊げたハンバヌグ。

    拓真の䞭に残ったのは、それだけだった。

    第八章 消えた未来

    葬儀を終えた翌日、父の家は静かだった。

    拓真は父の曞斎ぞ入った。机の䞊は几垳面に敎理されおいた。
    最埌たで父らしかった。

    怅子に腰を䞋ろす。机の䞭倮には、䞀冊の黒い革衚玙のファむルが眮かれおいた。

    金色の文字。

    城南M&A支揎機構株匏䌚瀟

    衚玙を開く。

    最初に出おきたのは契玄曞だった。34億円。眲名欄には、父の筆跡が残っおいる。

    次に珟れたのは送金明现。買収代金、34億円。
    仲介手数料、1億円。送金先、城南M&A支揎機構株匏䌚瀟。

    その䞋に、別の封筒が挟たれおいた。

    開く。

    䞭から厚い蚭蚈曞が珟れる。

    最初のペヌゞには、フィゞカル制埡モデルずだけ曞かれおいた。

    ペヌゞをめくる。人の骚栌。関節角床。荷重移動。歩行呚期。構想ではなく、実装を前提ずした曞き方だった。

    続くペヌゞ。

    矩肢フィヌドバック蚭蚈。

    さらに読み進める。

    動䜜予枬アルゎリズム。

    拓真はペヌゞをめくる手を止めた。

    完成床が高い資料だった。

    工堎で芋た映像。䞻任研究員の説明。あの日芋た未来。
    そのすべおが、この蚭蚈曞ぞ぀ながっおいるように思えた。

    拓真はスマヌトフォンを取り出した。父から聞いおいた番号を呌び出す。
    登録名は、支配人。

    発信する。

    しばらくしお、機械音声が流れた。

    「おかけになった電話番号は、珟圚䜿われおおりたせん」

    もう䞀床かける。同じだった。

    嫌な予感がした。

    メヌルを送る。゚ラヌが返っおくる。

    䌚瀟の代衚番号ぞ電話する。珟圚䜿われおおりたせん。

    ホヌムペヌゞを開く。昚日たで衚瀺されおいたペヌゞが消えおいる。
    怜玢結果だけが残り、その先は䜕もない。

    蚭蚈曞を持ち出し、拓真は車を走らせた。向かったのは、あの工堎だった。

    

    東和矩肢工業の瀟長は突然の蚪問にも驚かなかった。

    「お父様のこずは残念でした」

    「ありがずうございたす」

    短い挚拶を亀わし、応接宀ぞ案内される。

    「䞀぀確認させおください。先端技術開発郚は、どこにありたすか」

    瀟長は目を䞞くした。

    「先端  ですか」

    「ええ。フィゞカルAIの開発郚眲です」

    瀟長は困ったように銖を振った。

    「申し蚳ありたせん。圓瀟には、そのような郚眲はありたせん」

    拓真は黙っお、蚭蚈曞を机の䞊に眮いた。

    「この資料は」

    瀟長は衚玙を芋る。銖を暪に振る。

    「初めお芋たす」

    ペヌゞをめくる。どのペヌゞにも芋芚えはないようだった。

    「圓瀟で䜜成したものではありたせん」

    拓真は静かに息を吐いた。

    「支配人は、この蚭蚈を埡瀟の技術だず説明したした」

    瀟長はしばらく黙っおいた。

    「  私も、そのような説明をしおいるずは知りたせんでした。䌁業䟡倀を正しく䌝える資料はこちらで甚意したす、ず蚀われただけでした」

    互いに盞手の顔を芋る。

    ようやく分かった。

    隙されたのは父だけではない。この䌚瀟もたた、利甚されおいた。

    瀟長は深く頭を䞋げた。

    「申し蚳ありたせん。結果ずしお、お父様を巻き蟌んでしたったようです」

    「瀟長の責任ではありたせん」

    拓真は少し間を眮いお続けた。

    「この契玄は、䞀床癜玙に戻したしょう」

    瀟長は迷うこずなく頷いた。

    「私も、その方がいいず思いたす。正しい説明のもずで結ばれた契玄ではありたせん。䌚瀟は返しおいただきたす。買収代金も、お返ししたす」

    たもなく、34億円は返還された。

    しかし、仲介手数料ずしお支払われた金は、すでに城南M&A支揎機構ぞ送金されおいた。
    支配人の電話番号は解玄。メヌルは届かない。
    品川のオフィスは、机ず怅子だけが残り、営業しおいた痕跡は䜕も残っおいなかった。

    拓真は近くの譊察眲を蚪れた。

    契玄曞。送金明现。支配人ずのやり取り。消えた䌚瀟。存圚しないAI開発郚門。

    担圓刑事が静かに尋ねた。

    「被害届を提出されたすか」

    拓真は迷わなかった。

    「お願いしたす」

    差し出された曞類に眲名する。

    被害額は、1億円。

    父は隙された。自分も隙された。その事実だけは、もう動かせなかった。

    第九章 未完成の技術

    数日埌、拓真はもう䞀床東和矩肢工業を蚪れた。

    被害届はすでに提出しおいる。
    それでも、どうしおも確かめたいこずがあった。

    あの蚭蚈曞は䜕だったのか。

    瀟長は静かに頷き、補造珟堎ぞ案内した。

    前に芋た景色ず䜕も倉わらない。
    機械の音。暹脂を削る匂い。
    職人たちは黙々ず䜜業を続けおいる。

    違っおいたのは、拓真の芋方だった。

    今回は、手元だけではなく工堎党䜓を芋おいた。

    䞀぀の矩肢が完成するたでに、䜕人もの職人の手を枡っおいく。

    削る者。
    削ったものを確かめる者。

    装着者の歩きを芋る者。
    最埌に仕䞊げる者。

    誰も急がない。
    それでも、誰䞀人ずしお迷っおいなかった。

    拓真は気づく。

    誰も図面を芋おいない

    「図面は䜿わないんですか」

    瀟長は少し笑った。

    「最初だけです。」

    「最埌は、人を芋たす。」

    その蚀葉が胞に残った。

    人を芋る。
    補品ではない。
    装着する人を芋る。

    少し先では、若い職人が矩足を手に立ち尜くしおいた。

    「どう思いたす」

    完成した矩足を、幎配の職人ぞ差し出す。
    幎配の職人は矩足には觊れない。

    装着者が歩く姿だけを芋぀めた。

    10秒ほどしお、䞀蚀だけ告げる。

    「螵が早い。」
    若い職人は䜕も聞き返さなかった。

    工具を取り、静かに削り始める。
    理由を説明する者はいない。
    それでも通じおいる。

    拓真は目を现めた。
    ここには蚀葉になっおいない技術がある。

    さらに奥ぞ進く。

    壁䞀面に写真が貌られおいた。
    完成した矩肢を装着し、歩いおいる人。
    子どもず手を぀ないでいる人。
    山道を歩く人。
    孫を抱いお笑う人。

    瀟長が蚀う。

    「皆さん、送っおくださるんです。」

    「歩けるようになりたしたっお。」

    拓真は䞀枚䞀枚を芋぀めた。
    この䌚瀟が䜜っおいるのは、矩肢ではない。
    もう䞀床、自分の足で歩く時間だった。

    蚭蚈曞の䞀節が頭をよぎる。

     ――最適化察象は、人間。

    拓真は鞄から蚭蚈曞を取り出した。
    フィゞカル制埡モデル。
    矩肢フィヌドバック蚭蚈。
    動䜜予枬アルゎリズム。

    どれも矩肢を動かすための蚭蚈ではない。
    人の動きを理解するための蚭蚈だった。

    その瞬間、初めお二぀が重なる。
    この䌚瀟にはAIはない。
    だが、人を蚺る目がある。

    蚭蚈曞には、その目をモデル化する方法が曞かれおいる。

    どちらか䞀぀では完成しない。
    職人だけでは、技術は人ずずもに倱われる。
    AIだけでは、人を理解できない。

    だが、この二぀が重なれば。
    職人が䜕十幎も積み重ねおきた感芚を、未来ぞ残せる。

    䞖界䞭のどこにいおも。
    誰が担圓しおも。
    同じ品質で、䞀人ひずりに合った矩肢を届けられる。

    拓真はゆっくり蚭蚈曞を閉じた。

    父は、未来を買おうずしたのではない。
    未来になるはずだった技術を芋抜いおいたのかもしれない。
    そしお、その未来はただ終わっおいない。

    拓真は工堎を芋枡した。
    静かな䜜業堎だった。
    だが、その静けさの䞭に、この䌚瀟の本圓の䟡倀が息づいおいた。

    工堎を出る前、瀟長が蚀った。

    「久我さん。お父様には、本圓に感謝しおいたす。瀟員も、みんな同じ気持ちです。この䌚瀟を、本気で評䟡しおくださった最初の方でした」

    拓真は静かに頭を䞋げた。

    父は隙された。それでも、この䌚瀟の䟡倀だけは芋誀っおいなかった。

    第十章 父が残した䌚瀟

    被害届を提出しおから、ひず月が過ぎた。

    譊察から䜕床か連絡はあったが、進展はなかった。
    城南M&A支揎機構は所圚䞍明。支配人ずも連絡は取れない。

    その䞀方で、拓真は毎週のように工堎ぞ通っおいた。契玄ずは関係なく。
    調査でもない。ただ、もっずこの珟堎を知りたかった。

    組立工皋。調敎宀。詊隓歩行。職人たちの手は、今日も倉わらず動いおいる。

    ある日、瀟長が応接宀で切り出した。

    「実は今、経営的に少し倧倉なんです。」

    「契玄が解陀になっおから、銀行の融資が止たりたした。䞀床、34億円で䌚瀟が売れたずいう話だけが独り歩きしおしたいたした」

    瀟長は苊笑した。

    「瀟員を蟞めさせる぀もりはありたせん。でも、このたたでは新しい蚭備も入れられない。若い技術者も採れたせん」

    窓の倖では、若い職人が矩肢を磚いおいた。その隣では、ベテランが䜕も蚀わず頷いおいる。

    長幎かけお育おた技術。それが、この工堎には残っおいる。

    拓真は静かに蚭蚈曞を机ぞ眮いた。

    「これ、私にも党郚は分かりたせん。でも、䞀぀だけ分かりたす。この蚭蚈曞だけでは補品はできない。逆に、この工堎だけでも䞖界には届きたせん」

    瀟長は黙っおいる。

    「でも、この二぀が出䌚えば」

    少し間を眮いお、拓真は蚀った。

    「䞖界は倉えられるかもしれたせん」

    静かな沈黙が流れた。

    瀟長が小さく笑う。

    「倢がありたすね」

    「ええ。父も、同じ倢を芋たんだず思いたす」

    その日の垰り道、拓真は車を止め、父の写真を芋぀めた。最埌に撮った家族写真。焊げたハンバヌグ。嚘の笑顔。父の照れくさそうな笑顔。

    「34億円は、高すぎたよ」

    少し笑う。

    「でも、この䌚瀟には䟡倀があった。そこだけは、父さんが正しかった」

    翌週。

    拓真は改めお瀟長を蚪ねた。

    「正匏に埡瀟の䌁業䟡倀を評䟡させおください。公認䌚蚈士ず技術評䟡の専門家を入れたす。すべお適正䟡栌で」

    瀟長はゆっくり頷いた。

    「お願いしたす」

    それから䞀か月。資産。蚭備。特蚱。技術。受泚。将来性。そしお、人。

    あらゆる角床から評䟡が行われた。

    最埌に提瀺された䌁業䟡倀は、玄8億円だった。

    拓真は報告曞を静かに閉じた。

    「買いたす」

    瀟長が顔を䞊げる。

    「父の契玄ずは関係ありたせん。私自身の刀断です。この䌚瀟の未来ぞ投資したい」

    瀟長は立ち䞊がり、深く頭を䞋げた。

    「ありがずうございたす」

    契玄曞ぞ眲名する。

    今床の契玄曞には、誇匵された未来は曞かれおいない。存圚しないAIもない。あるのは、目の前の䌚瀟だけだった。

    そしお、その䌚瀟を未来ぞ぀なぐ責任だけが、拓真の手の䞭に残った。

    第十䞀章 最埌の泚文

    拓真は勀めおいた䌚瀟を蟞め、東和矩肢工業の䌚長職に就いた。
    瀟長にはそのたた残っおもらった。

    工堎には少しず぀掻気が戻り始めおいた。若い技術者の採甚も決たり、蚭備曎新の蚈画も動き出しおいる。瀟長は以前よりよく笑うようになった。

    それでも拓真は、答えを芋぀けられずにいた。

    父は隙されたのか。

    それずも――。

    䌑日の午埌、拓真は父の曞斎を蚪れた。机も、本棚も、亡くなった日ず倉わらない。

    匕き出しを開けるず、䞀冊のアルバムが出おきた。䜕気なくペヌゞをめくる。そこには、この䞉週間の写真だけが収められおいた。

    嚘ず公園を歩く父。図鑑を広げお笑う父。焊げたハンバヌグを前に照れ笑いする父。そしお、家族党員で撮った䞀枚。

    父がいちばん楜しそうに笑っおいる写真だった。

    アルバムの最埌に、䞀枚の封筒が挟たれおいた。

    父の字で、拓真ぞ。

    䟿箋は䞀枚だけだった。

    拓真。

    もしこの手玙を読んでいるなら、俺はもういないのだろう。

    お前には迷惑ばかりかけた。
    䌚瀟ばかり芋お、家族を埌回しにした。

    今さら謝っおも遅いこずは分かっおいる。
    それでも、最埌にもう䞀床だけ、お前たちず笑うこずができた。
    あれだけで十分だった。

    支配人は、出䌚ったずき、俺にこう聞いた。
    「人生で、いちばん埌悔しおいるこずは䜕ですか。」

    俺は初めお、䌚瀟ではなく家族のこずを答えた。

    するず支配人は笑っお蚀った。
    「それなら、ただ間に合いたす。」

    そしお、こんなこずも蚀った。
    「これは、人生最埌の泚文です。人は最埌に、本圓に欲しかったものを遞ぶんです。」

    あのずき初めお分かった。
    俺が最埌に欲しかったものは、䌚瀟じゃなかった。

    あの男が䜕者なのか、俺にも分からない。

    だが、あの人がいなければ、お前ずも、あの子ずも䌚えなかった。
    そう思うず、䞍思議ず高い買い物だったずは思えない。

    もし、お前が呆れおいるなら、それでいい。

    ただ、䞀぀だけ忘れないでくれ。

    俺は、自分の最埌の泚文を間違えなかった。

    俺は、幞せだったよ。ありがずう。

                     父

    拓真は手玙を閉じた。

    静かな郚屋に、時蚈の音だけが響いおいる。

    父が最埌たで守りたかったものは、䌚瀟ではなかった。

    翌日、拓真は、被害届取䞋曞をポストぞ投凜した。

    赀い投凜口ぞ吞い蟌たれおいく封筒を、しばらく芋぀めおいた。

    第十二章 答え

    話し終わったあず、しばらく誰も動かなかった。

    湯飲みの茶は冷めおいた。窓の倖で、じょうろの氎が土に萜ちる音がする。

    高瀬は手垳を閉じた。宮䞋も、少し遅れおペンを眮く。

    拓真は䜕も蚀わなかった。蚀うこずはもう残っおいない、ずいう顔だった。

    時蚈の秒針だけが、やけに聞こえた。

    高瀬が写真立おを芋る。焊げたハンバヌグ。笑っおいる少女。その暪で、少しだけ肩の力を抜いた久我恒䞀。

    「  だから」

    高瀬が蚀う。

    「取り䞋げたんですね」

    拓真は小さく頷いた。

    「はい」

    宮䞋が写真のほうを芋たたた蚀う。

    「いい顔しおたすね」

    蚀っおから、自分でも少し驚いたようだった。
    高瀬が暪目で芋るず、宮䞋はすぐに芖線を萜ずした。

    「すみたせん」

    「いや」

    拓真は銖を振った。

    「そうなんです」

    その䞀蚀で、郚屋が少し静かになった。

    高瀬は窓の倖を芋る。庭先で、嚘がしゃがみこんでいた。
    䜕かを芗き蟌んでいる。花か、虫か、そのあたりだろう。
    氎の入ったじょうろが傟いお、靎の先に少しかかる。けれど気にしおいない。

    「刑事さん」

    拓真が蚀った。

    高瀬は顔を戻す。

    「私は、父が隙されたず思っおいたす。1億円は戻っおいたせん。支配人を蚱した぀もりもないです」

    そこで䞀床、蚀葉を切る。

    「でも」

    芖線が、たた写真ぞ行く。

    「最埌の3週間たで、間違いだったずは思いたくありたせん」

    高瀬は返事をしなかった。返事をするず、䜕かが薄くなる気がした。

    高瀬が立ち䞊がる。

    「ありがずうございたした」

    拓真も立った。

    「こちらこそ」

    宮䞋も、慌おおお立ち䞊がる。
    玄関たでの短い廊䞋を歩くあいだ、3人ずも黙っおいた。

    門を出る。午埌の光が、坂の先たで薄く䌞びおいた。

    しばらく歩いおから、宮䞋が蚀う。

    「高瀬さん」

    「䜕だ」

    「これ、事件ずしおは終わっおないですよね」

    高瀬は前を向いたたた答える。

    「終わっおない」

    「でも、久我さんの䞭では、もう終わっおる気もしたした」

    高瀬は公園の前で足を少し緩めた。ブランコの鎖が、颚で鳎っおいる。

    「終わった、ずは違うだろうな」

    「じゃあ」

    「答えが出おるんだろ」

    宮䞋は黙った。

    高瀬が続ける。

    「こっちの答えずは、別に」

    宮䞋は小さく頷く。

    埌ろで、もう䞀床、ブランコの鎖が鳎った。

    ゚ピロヌグ 新しい䟝頌

    譊芖庁捜査第二課。

    倕方のフロアは、昌間より少し静かだった。

    高瀬は机に腰を䞋ろし、被害届取䞋曞をファむルぞ綎じる。

    高瀬の胞には、どうしおも割り切れないものが残っおいた。

    1億円は戻っおいない。支配人の行方も分からない。
    城南M&A支揎機構ずいう䌚瀟も、跡圢もなく消えおいた。

    「終わりたしたか」

    係長がコヌヒヌを片手に立っおいた。

    「はい」

    係長は静かに頷き、自分の机ぞ戻る。
    匕き出しを開け、䞀冊の叀い玙ファむルを取り出した。
    さらに、その䞋から新しいファむルを䞀冊。

    「高瀬」

    「はい」

    机の䞊ぞ、そのファむルが眮かれる。

    衚玙には、ただ事件番号も曞かれおいない。仮綎じのたたの資料だった。

    高瀬は開く。

    最初のペヌゞ。

    被害盞談。82歳。元癟貚店䌚長。䜙呜宣告。遺族からの盞談。高額な事業譲枡契玄。

    その契玄曞の写しが添付されおいた。

    高瀬の芖線が、䞀か所で止たる。

    担圓。支配人。

    「  たたですか」

    係長は腕を組む。

    「今床は盞談だけだ。被害届は、ただ出おいない」

    高瀬は契玄曞を閉じる。

    胞の奥で、䜕かが静かに動き始める。

    「远いたすか」

    係長は少しだけ笑った。

    「終わったず思ったか」

    高瀬も小さく笑う。

    「いいえ。最初から、終わっおいたせんでした」

    係長は頷いた。

    「行っおこい」

    高瀬は新しいファむルを手に取る。

    窓の倖では、倕焌けが譊芖庁の庁舎を赀く染めおいた。

    誰かの人生が終わろうずする頃、たた䞀人、どこかで支配人が静かに珟れる。

    人は、その男を詐欺垫ず呌ぶのか。

    それずも――。

     
     

    ゞタ

     
     
    投資ず日々の思考を、栌蚀や実䜓隓を通しお蚀葉にしおいたす。盞堎ず感情の間で揺れるリアルな芖点を蚘録しおいたす。

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