
シリーズ「リベラル優生思想」第4話相模原事件は何を露わにしたのか――「役に立たない命」と優生思想の現在
「死を選ぶ権利」と「死を選ばなければならない社会」は別物である。
はじめに 19人が殺されたのは、なぜだったのか
2016年7月26日未明。
神奈川県相模原市にある知的障害者施設「津久井やまゆり園」に、かつてそこで働いていた男が侵入した。
男は刃物を持って施設内を回り、入所者を次々に襲った。
19人が死亡し、26人が負傷した。
殺されたのは女性10人、男性9人だった。国連も後に、この事件を障害者を標的とした大量殺人として取り上げている。 (国連)
19人。
あまりに大きな数字である。
だが、相模原事件を考えるうえで、本当に重いのは人数だけではない。
なぜ、この19人が殺されたのか。
犯人は施設にいた人を無差別に襲ったわけではなかった。
障害者だから襲ったのである。
しかも犯行は衝動的に始まったものでもない。
事件のおよそ5か月前、植松聖は衆議院議長公邸を訪れ、重複障害者の殺害を予告する内容の手紙を渡していた。そこには、重い障害を持つ人を「安楽死」させるという構想まで書かれていた。その後、施設職員に「重度障害者を殺す」と発言し、措置入院となっている。 (厚生労働省)
つまり彼は、誰でもよかったわけではない。
明確な基準を持っていた。
重い障害がある。
意思疎通が難しい。
社会に貢献できない。
家族や社会に負担をかけている。
だから、その生命には価値がない。
その考えを、実際の殺人にまで進めた。
もちろん、ここには大きな飛躍がある。
社会保障費について議論することと、人を殺すことはまったく違う。介護負担を問題にすることと、障害者の生命を否定することも違う。
この線引きは、最初にはっきりさせておきたい。
それでも相模原事件が10年たった今も私たちを不安にさせるのは、植松の言葉を構成していた材料のすべてが、社会にとって未知のものではないからだ。
「家族の負担が大きい」
「社会保障費には限界がある」
「働ける人が働いて社会を支えるべきだ」
「本人にとっても、その人生は苦しいのではないか」
こうした話は、普段の社会でも耳にする。
一つひとつを取り出せば、優生思想とは限らない。むしろ介護、福祉、財政、本人の幸福を考えるうえで、避けて通れない問題でもある。
ところが植松は、それらを一つにつないだ。
そして、
「ならば、存在しない方がよい」
というところまで進んだ。
この事件の不気味さはそこにある。
あまりにも極端な結論なので、私たちは簡単に拒絶できる。
「障害者には生きる価値がない」
そう言われれば、多くの人が間違っていると答えるだろう。
では、少し言葉を変えたらどうだろう。
「限られた社会保障費を誰に使うべきか」
「社会にほとんど貢献できない人を、どこまで社会全体で支えるべきか」
「避けることのできる障害なら、避けた方が本人のためではないか」
途端に答えは簡単ではなくなる。
これまでの「リベラル優生思想」シリーズでは、出生前診断と「産まない自由」、そしてメリトクラシーと自己責任を取り上げてきた。
今回扱う相模原事件は、それらとは性質が違う。
出生前診断を受ける親と、大量殺人を行った犯人を同列に扱うことなどできないし、してはいけない。
それでも両者の奥には、一つの共通する問いがある。
人間の価値を、能力によって測ってよいのか。
働けるか。
自立できるか。
意思を伝えられるか。
社会に利益をもたらせるか。
もし、それらが「生きる価値」の条件になるのなら、その条件を満たせなくなった人はどうなるのだろう。
障害者だけの問題ではない。
人は老いる。
病気になる。
事故に遭う。
認知症になることもある。
そしてこれからAIやロボットが人間の仕事を代替する時代が進めば、健康な人間でさえ「社会に必要とされる能力」を失う可能性がある。
相模原事件を、異常な一人の男が起こした異常な犯罪として終わらせることはできる。
実際、最終的な刑事責任を負うのは犯人本人である。
しかし、それだけでこの事件を理解したことになるのだろうか。
本稿で考えたいのは、植松聖という人物を擁護することでも、その責任を社会へ転嫁することでもない。
もっと厄介な問題である。
植松思想を生み出した論理の一部は、私たちの社会の中にも存在していないか。
そして、その論理が「殺人」という露骨な形ではなく、
自由。
自己決定。
幸福。
合理性。
社会的責任。
そうした、私たちがむしろ大切にしている言葉をまとって現れたとき、同じように拒絶できるのだろうか。
相模原事件から10年。
事件は終わった。
だが、この問いはまだ終わっていない。
第1章 相模原事件――「障害者だから」殺された19人
1 午前2時すぎ、施設に元職員が入った
2016年7月26日未明、神奈川県立の障害者支援施設「津久井やまゆり園」で事件は起きた。
当時、施設内には入所者149人と短期入所利用者8人、合わせて157人がいた。
入所者149人のうち116人が、障害支援区分で最も重い「区分6」だった。さらに31人が区分5。重い支援を必要とする人たちが暮らす施設だったことが分かる。 (厚生労働省)
そこへ元職員だった植松聖が侵入した。
結果として19人が死亡し、26人が負傷した。
45人が殺傷されたことになる。 (国連)
数字だけを見ると、大規模な殺傷事件である。
しかし相模原事件には、一般的な無差別殺人とは決定的に違う点があった。
犯人は、そこにいた人を偶然襲ったのではない。
その人が障害者だったから襲った。
ここを外してしまうと、この事件の性質は見えてこない。
2 「誰でもよかった」事件ではない
大量殺人事件が起きたとき、「誰でもよかった」という犯人の供述を耳にすることがある。
相模原事件は違った。
ターゲットが最初から決まっていた。
重い障害を持つ人だった。
事件前から植松は障害者の大量殺害を構想していた。
2016年2月には衆議院議長公邸を訪れ、重複障害者を大量に殺害する内容の手紙を渡している。
その後、勤務していた施設でも「重度障害者を殺す」という趣旨の発言をしたことから警察に通報され、緊急措置入院、続いて措置入院となった。 (厚生労働省)
つまり、犯行のかなり前から対象は具体化していた。
障害者。
しかも、より重い障害を持つ人である。
国連は2024年に公表した障害者をめぐるガイダンスの中で相模原事件を取り上げた。
そこでは、障害者を「役に立たない」「社会の負担である」「生きるに値しない」とみなす言説を現代にも残る優生的な障害者ヘイトの例として説明し、その文脈で相模原事件を位置づけている。 (国連)
ここは重要である。
植松は、単に障害者が嫌いだっただけではない。
彼なりの理屈を持っていた。
だからこそ、この事件は厄介なのだ。
3 植松聖が作った「生命の序列」
植松の発想を単純化すると、いくつかの段階に分けることができる。
重度障害者は意思疎通が難しい。
働くことも難しい。
長期間の介護を必要とする。
家族にも負担がかかる。
社会にも費用がかかる。
それなら、その生命を維持することは本人にも家族にも社会にも利益にならない。
だから死なせた方がよい。
もちろん、この最後の結論には巨大な論理的飛躍がある。
だが、その飛躍を可能にしている前提に注目したい。
人間の価値には差がある。
そして、その価値は、
意思疎通できるか。
自立できるか。
社会に貢献できるか。
他人にどれだけ負担をかけるか。
といった条件によって測ることができる。
この物差しを受け入れれば、人間は自然に序列化される。
最も上に来るのは、自立し、働き、税を払い、他人の助けをほとんど必要としない人だろう。
反対に、常時介護を必要とし、働くことができず、自分の意思を言葉で伝えることも難しい人は下に置かれる。
これは、第3話で扱ったメリトクラシーの問題とよく似ている。
ただし大きな違いがある。
メリトクラシーでは普通、能力によって所得や地位に差がつく。
植松思想では、その差が生命価値にまで拡張された。
能力が低いから所得が低い、ではない。
能力が低いから、生きている価値も低い。
この一線を越えたのである。
4 本人の幸福と、周囲の負担が混ざっている
もう一つ注意しなければならないことがある。
植松の主張には、複数の異なる問題が混ざっている。
本人が苦しんでいるという話。
家族が大変だという話。
福祉に費用がかかるという話。
社会に貢献できないという話。
本来、この四つは別々の問題である。
本人が苦しんでいるなら、まず必要なのは本人の苦痛を減らすことである。
家族の介護負担が大きいなら、家族への支援を増やすという解決方法がある。
福祉費が増えているなら、社会保障制度として議論すればよい。
働くことが難しいなら、その人が働かなくても生活できる制度をどう設計するかという問題になる。
ところが、これらを一つにまとめてしまうと、
「本人も不幸で、家族も大変で、社会にも負担なのだから、いない方がよい」
という危険な結論を作ることができる。
問題を解決するのではなく、問題を抱えている人そのものを消してしまう。
ここには決定的な違いがある。
「苦しんでいる人を助ける」ことと、
「苦しんでいる人が存在しなくなる」ことは、
同じではない。
この区別は、この連載の後半で安楽死を考えるときにも非常に重要になる。
5 これは優生思想なのか
優生思想という言葉を使うと、多くの人はナチス・ドイツを連想する。
国家が人間を選別し、「優れた人間」を増やし、「劣った人間」を減らそうとする。
典型的な20世紀型の優生思想である。
相模原事件は、それとは違う。
国家政策ではない。
法律でもない。
組織的な計画でもない。
一人の人間が行った犯罪である。
だから、そのままナチスの優生政策と同一視することはできない。
一方で、人間を能力や障害によって序列化し、特定の生命を「存在しない方がよい」と考える部分には、優生思想との明確な接点がある。
国連も現在、相模原事件を、障害者を「社会の負担」「生きる価値がない存在」とみなす現代的な優生言説とヘイトクライムの関係を示す事例として扱っている。 (国連)
相模原事件が歴史的に異様なのは、ここである。
かつて優生思想による生命の選別は、国家や制度によって行われた。
相模原事件では、一個人が生命の価値を判定し、その判定を自ら実行した。
誰を生かし、誰を殺すか。
その基準として使われたのが、障害の重さや意思疎通能力だった。
これは単なる殺人事件では説明し切れない。
6 「19人の障害者」にしてはいけない
そして、ここで忘れてはいけないことがある。
殺された19人は、「19人の障害者」という一つの集団ではない。
それぞれ別の人間だった。
事件後の裁判では多くの被害者が匿名で扱われたが、19歳で亡くなった美帆さんの母親は、娘が「甲」「乙」といった匿名の記号として扱われることに違和感を持ち、実名を公表した。
「生きた証しを残したい」という思いからだった。 (時事ドットコム)
これは、事件の本質を考えるうえで象徴的である。
植松思想が奪おうとしたのは生命だけではない。
その人を一人の個人として見る視点そのものだった。
障害が重い。
言葉で意思を伝えることが難しい。
働くことができない。
それでも、その人には名前がある。
家族がいる。
好きなものがある。
嫌いなものもある。
積み重ねてきた時間がある。
社会から見て何を生産したかという数字だけでは、その人の人生は測れない。
それでも私たちは、人を見るときについ分かりやすい物差しを使う。
何ができるのか。
いくら稼いでいるのか。
一人で生活できるのか。
社会にどれだけ貢献しているのか。
この物差し自体をすべて捨てることはできない。
社会制度を設計する以上、能力や支援の必要度を測らなければならない場面もある。
問題は、その物差しを生命の価値にまで持ち込むことである。
相模原事件では、それが最も露骨な形で現れた。
7 事件を「異常者の犯罪」に閉じ込めれば安心できる
後に植松には死刑判決が確定した。 (時事ドットコム)
刑事責任について言えば、事件を起こしたのは植松聖本人である。
ここを曖昧にする必要はない。
ただ、この事件を一人の異常な犯罪者の問題に閉じ込めれば、私たちは少し安心できる。
「自分とは違う人間が起こした事件だ」
そう考えることができるからだ。
だが事件直後から、障害者団体はそれだけでは不十分だと訴えていた。
厚生労働省の検証の場でも、措置入院や精神医療だけに問題を限定するのではなく、なぜ犯人が「障害者は死ぬべきだ」という思想を持つに至ったのかを検証すべきだという意見が出されている。 (厚生労働省)
ここから、もう一つの問題が始まる。
植松思想は、社会から完全に拒絶されたのだろうか。
事件後、インターネットには彼の考え方に理解を示す書き込みも現れた。
もちろん、それを日本社会全体の意見とみなすことはできない。
だが、なぜ共感する人が現れたのかは考える必要がある。
障害者に使われる社会保障費。
介護する家族の負担。
社会保険料を負担する現役世代の不満。
「働ける人」と「働けない人」。
「支える側」と「支えられる側」。
ここから先は、植松一人の内面を分析するだけでは足りない。
なぜ「人間をコストで見る」という発想が、一部の人には合理的に聞こえてしまうのか。
次章では、その問題に踏み込んでいく。
第2章 「狂った一人の男」で終わらせてよいのか
相模原事件が起きた直後、社会の関心は一つの方向へ向かった。
植松聖は事件前に措置入院していた。
大麻の使用も確認されていた。
「重度障害者を殺す」という発言もしていた。
それなのに、なぜ退院できたのか。
退院後にもっと厳しく監視していれば、事件を防げたのではないか。
こうした疑問が出るのは自然である。
19人が殺された事件である。しかも犯人は数か月前から大量殺人を予告していた。
何かできなかったのか。
そう考えるのは当然だ。
実際、厚生労働省は事件後、「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」を設置した。検討では、措置入院の解除判断、退院後の支援、関係機関の情報共有などが主要な論点になった。 (厚生労働省)
ただ、ここで一つ別の問題が生まれた。
この事件は、本当に「精神障害を持った人への対応が不十分だった事件」なのだろうか。
障害者団体は、事件直後からそこに強い警戒感を示していた。
1 「もっと長く入院させておけばよかった」という答え
大量殺人を予告した人物が精神科病院から退院し、その後、本当に大量殺人を起こした。
結果だけ見れば、
「退院させたのが間違いだった」
と思いたくなる。
そして再発防止策も、
措置入院を厳しくする。
退院後の監視を強める。
警察と医療の情報共有を増やす。
という方向へ進みやすい。
だが、この考え方には慎重さが必要である。
もし、
精神科への入院歴がある人物が重大犯罪を起こした
という事実から、
精神障害者は危険だから監視を強化すべきだ
と話を広げてしまえば、まったく別の人々まで「将来犯罪を起こすかもしれない存在」として扱われるからだ。
事件から約1週間後の2016年8月2日、DPI日本会議は、事件を理由に措置入院制度を安易に強化することへ懸念を表明した。
同団体が問題にしたのは、事件の全容がまだ十分に分かっていない段階で、精神障害者の管理や隔離を強める方向へ政策が進むことだった。
そして、事件で問われるべきなのは、むしろ障害者を「存在してはならない人間」とみなす優生思想と、それを生み出す社会状況ではないかと主張した。 (DPI 日本会議 - 全ての人が希望と尊厳をもって暮らせる社会へ)
この指摘は重い。
なぜなら相模原事件は、精神障害者が無差別に人を襲った事件ではないからだ。
犯人には、明確な標的があった。
障害者である。
しかも、自分より弱い人を偶然選んだのでもない。
重い障害を持ち、意思疎通が難しいと植松自身が判断した人たちを「生きる価値が低い」とみなしていた。
そこには思想があった。
ならば、措置入院制度だけをいくら細かく修正しても、その思想については何も説明していない。
2 精神障害と優生思想は別の問題である
ここは、かなり慎重に書かなければならない。
植松が措置入院していたことも事実である。
精神状態が事件とまったく無関係だった、と筆者が断定することもできない。
一方で、
精神障害があったから優生思想を持った
とも言えない。
そもそも、
「障害者は社会の負担だ」
「働けない人間に多額の税金を使う必要があるのか」
「意思疎通できない人は本人も不幸なのではないか」
といった考えは、精神疾患がなければ思いつかないような特殊な発想ではない。
むしろ社会の中でも、ときおり似た言葉を目にする。
だから障害者団体が警戒した。
事件の原因を、
「危険な精神障害者を退院させたこと」
に置いてしまえば、
植松がなぜ重度障害者の生命を価値の低いものと考えたのか、
という核心が消えてしまうからである。
さらに皮肉なことに、それでは別の障害者――精神障害者――を新たに「危険な存在」として排除することにもなりかねない。
障害者の排除を理由に起きた事件への対応が、別の障害者の排除を強める。
それでは何のための再発防止なのか分からない。
DPI日本会議はその後も、相模原事件を理由に精神保健福祉法を治安対策の方向へ改正することに反対した。
医療は本人の健康の回復や生活を支えるためのものであり、精神障害者を監視する治安装置に変えてはいけない、という立場だった。 (DPI 日本会議 - 全ての人が希望と尊厳をもって暮らせる社会へ)
この議論は、「精神障害と犯罪は無関係だ」と言っているわけではない。
危険な兆候があった人物について、医療、福祉、警察などがどう対応するべきだったかという検証は必要である。
ただし、
個別の危険人物への対応
と、
精神障害者という集団全体を危険視すること
は別である。
この二つを混ぜてはいけない。
3 では、全部「社会のせい」なのか
ここまで読むと、反対方向の疑問も出てくる。
では、相模原事件は社会が生み出した犯罪なのか。
日本社会に障害者差別があるから植松が19人を殺したのか。
そこまで単純でもない。
社会学者の榊原賢二郎は、相模原事件をめぐる議論を分析し、原因の置き方には大きく、
社会に原因を求める見方、
植松個人に原因を求める見方、
精神状態など身体・医学的要因に原因を求める見方、
があったと整理している。
障害者団体の多くは、事件を障害者の生命を否定する社会的な「優生思想」と結びつけた。
一方で榊原は、事件を社会的原因だけで説明することにも注意を促している。
社会に差別が存在するという事実だけで、植松の大量殺人まで当然の結果として説明してしまえば、かえって犯人の行為を「理解可能なもの」にしてしまう危険があるからだ。 (J-STAGE)
これは重要な指摘である。
同じ社会で暮らしていた何千万人もの人が、障害者を殺害したわけではない。
社会保障に不満を持つ人もいる。
介護負担に苦しむ家族もいる。
障害者に偏見を持つ人もいる。
それでも大多数の人は、人を殺さない。
最後に殺害を選択し、実行した責任は植松本人にある。
そこは揺らがない。
だから、
「社会が植松を作った」
と一言で片づけてしまうのも危うい。
それでは今度は、個人の意思決定や責任が見えなくなる。
必要なのは、
個人か、社会か
という二択ではない。
一人の人間がなぜその思想を持ち、なぜそれを大量殺人という行為にまで進めたのか。
その背景に、どのような個人的経験、社会的価値観、環境、思想があったのか。
一つずつ分けて考える必要がある。
4 それでも「社会の側」を見る必要がある理由
それでも筆者は、この事件を植松個人だけの問題として終わらせることにも違和感がある。
理由は単純である。
事件が起きた後にも、彼の思想に共感する声が存在したからだ。
もし植松の考え方が、社会から完全に異質なものだったなら、
「何を言っているのか理解できない」
で終わったはずである。
ところが実際には、
「やったことは間違っているが、言っていることは分かる」
という反応が出た。
この「やったことは間違っているが」という前置きが重要である。
殺人は否定する。
しかし、その前にある考え方には理解を示す。
つまり、
結論には反対するが、前提の一部には同意する。
そういう人がいたということである。
では、その前提とは何だったのか。
障害者は多くの支援を必要とする。
その支援には税金が使われる。
家族にも介護負担がかかる。
働くことが難しい人もいる。
ここまでは事実として語り得る。
問題は、そこから、
だからその生命の価値は低い
へ進むことである。
この間には、本来なら巨大な壁がある。
しかし、その壁を薄くする社会的な考え方があるとすれば、そこは検証しなければならない。
5 「役に立つ人間」の方が価値があるという感覚
現代社会では、能力が評価される。
勉強ができる。
仕事ができる。
多く稼ぐ。
税金を払う。
一人で暮らせる。
人の世話にならない。
こういう人は、一般に「立派な人」と評価されやすい。
逆に、
働けない。
自分だけでは生活できない。
介護が必要。
公的支援を受ける。
となると、どうしても「支えられる側」と見られやすい。
もちろん、福祉制度を運営する以上、誰にどれだけ支援が必要なのかを判断することは避けられない。
問題は、その行政上の区分を、そのまま人間の価値へ持ち込むことである。
社会保障制度上、
年間いくら支援が必要なのか。
何人の介助者が必要なのか。
どの程度就労できるのか。
そうした数字は測れる。
だが、
その人が生きている価値はいくらか
という数字は存在しない。
植松思想は、そこを同じ物差しで測った。
社会にどれだけ貢献するか。
社会からどれだけ受け取るか。
その差額によって、人間の生命価値まで決めようとした。
この発想は極端である。
だが、その最初の部分――
人間を「支える側」と「支えられる側」に分け、前者をより高く評価すること
まで社会から完全に消えているかと言えば、そうとも言い切れない。
第3話で扱ったメリトクラシーは、まさにこの問題だった。
努力し、能力を身につけ、自立した人間が評価される。
それ自体は社会を動かす一つの仕組みである。
しかし、
「能力の高い人が高い報酬を得る」
という話と、
「能力の低い人は人間として価値が低い」
という話は違う。
相模原事件では、その境界線が消えた。
6 犯人を「怪物」にすれば、私たちは安全な側に立てる
大量殺人を行った人間を、普通の社会から完全に切り離された「怪物」と考えたくなる気持ちは分かる。
その方が安心できる。
自分とは違う。
自分の家族とも違う。
自分の社会とも関係ない。
そう思えるからだ。
しかし、そこには一つ問題がある。
怪物には、分析する必要がない。
最初から異常なのだから。
なぜそんなことを考えたのか。
どんな社会的価値観と接続したのか。
なぜ事件後に同調する人が現れたのか。
そうした問いを考えずに済む。
DPI日本会議が事件直後に求めたのは、まさにこの部分だった。
精神科医療の制度だけを直すのではなく、障害者を「存在してはならないもの」と考える思想と、それを可能にする社会状況を検証するべきだと訴えた。 (DPI 日本会議 - 全ての人が希望と尊厳をもって暮らせる社会へ)
もちろん、だからといって日本社会全体が植松思想を共有していたという意味ではない。
むしろ大多数の人は事件に衝撃を受け、犯行を拒絶した。
それでも、社会に存在する価値観と犯罪者の思想がどこで接続したのかを考えることはできる。
個人の責任を認めることと、
社会の問題を調べることは、
両立する。
どちらか一つを選ぶ必要はない。
7 結局、分からなかったこと
事件後、措置入院制度は詳しく検証された。
退院時の情報共有。
医療機関との連携。
警察への通報。
地域での支援。
施設の防犯。
再発防止について、多くの議論が行われた。 (厚生労働省)
必要な検証だったと思う。
だが、それだけでは残る問いがある。
なぜ、植松は「障害者を殺す」という思想を持つようになったのか。
なぜ他の社会的弱者ではなく、重度障害者だったのか。
なぜ「福祉を改善しよう」ではなく、「障害者をいなくしよう」になったのか。
なぜ「家族を支援しよう」ではなく、「介護される人を消そう」になったのか。
そして、
なぜ事件後、その考えの一部に共感する人が現れたのか。
この部分は、措置入院制度を変えるだけでは答えが出ない。
事件から10年がたった今も、相模原事件をめぐって「優生思想」という言葉が繰り返し使われる理由は、おそらくここにある。
植松本人を社会から隔離し、刑事責任を問うことはできる。
しかし思想は刑務所には入らない。
死刑判決でも消えない。
社会の中に同じ価値観の断片が残っているのなら、それは別の形で何度でも現れる。
だから次に考えなければならない。
なぜ植松思想に「わかる」と感じる人が現れたのか。
そこで見えてくるのが、
社会保障費。
現役世代の負担。
介護。
自己責任。
そして、
「支える側」と「支えられる側」という分断である。
次章では、事件そのものから一度離れ、その背景にある社会の感情を見ていく。
第3章 なぜ植松思想に「わかる」という声が現れたのか
相模原事件で、筆者が今も気になっていることがある。
19人を殺した植松聖本人の思想だけではない。
事件の後、その思想に理解を示す人が現れたことである。
2026年、事件から10年を前に開かれた記者会見で、精神障害の当事者は当時を振り返り、
「植松の考え方は真っ当だ」
「理解できる」
といった賛同が数え切れないほどあったと語っている。NHKも事件10年の検証で、事件後のインターネット上に植松の主張へ賛同する声があり、それが障害当事者や家族を傷つけたと振り返っている。 (弁護士JP|法律事務所や弁護士の相談予約・検索)
もちろん、ここは慎重に扱う必要がある。
ネット上で賛同する書き込みが存在したことと、日本人の多くが植松を支持していたことはまったく違う。
少なくとも筆者が確認した範囲では、
「植松思想を支持する日本人は何%いる」
「支持者の中心は現役世代である」
といったことを示す代表性のある世論調査は見当たらない。
SNSや掲示板の投稿から、日本社会全体の意見を推測することもできない。
それでも無視することはできない。
なぜなら、19人を殺した人物の思想を見て、
「やったことは駄目だ。でも言っていることは分かる」
と感じた人がいたからである。
この「でも」の中に、相模原事件を考えるうえで重要なものが隠れている。
1 殺人への支持と、思想への共感は同じではない
まず分けて考えたい。
植松を支持すると言っても、いくつかの段階がある。
最も極端なのは、
「障害者を殺したこと自体が正しかった」
という支持である。
これは明確に犯行そのものへの賛同になる。
しかし、実際の言説にはもう少し曖昧なものもある。
「殺したのは間違っている」
「でも家族の負担は現実に大きい」
「社会保障費にも限界がある」
「意思疎通できない人を何十年も税金で支えることに疑問を感じる」
こうした反応である。
ここでは、殺人そのものは否定している。
それでも植松が事件を正当化するために使った前提の一部には共感している。
この違いは大きい。
なぜなら、
「障害者を殺してよいですか」
と質問すれば、多くの人は「よくない」と答えるだろう。
ところが、
「限られた社会保障費を誰にどこまで使うべきですか」
と質問すれば、議論になる。
後者は民主社会で当然扱うべき政策問題である。
問題は、この二つの間に本来あるはずの線が、どこで消えてしまうのかということだ。
2 現役世代の負担感は、架空の問題ではない
ここで、社会保障への不満をすべて「差別だ」と片づけるのは間違っている。
負担は現実に存在する。
財務省によると、2026年度の国民負担率は45.7%になる見通しである。これは税と社会保障負担を国民所得に対する割合で示したマクロ指標であり、「個人の給料の45.7%がそのまま税金で取られる」という意味ではない。
それでも、日本の税・社会保険負担が家計や企業にとって大きな問題であることは否定できない。 (財務省)
医療保険についても、政府自身が現役世代の負担増を政策課題として認めている。
2026年5月に成立した医療保険制度改正法について、厚生労働省は、
「現役世代を中心に保険料負担の上昇を抑制」
することを改革の目的として明記している。 (厚生労働省)
後期高齢者医療制度を見ると、窓口負担を除く医療費のおよそ4割が現役世代の支援金で賄われている。
厚生労働省によれば、制度導入時と比較した1人当たり負担の伸びは、後期高齢者側の保険料より現役世代側の支援金の方が大きかった。このため制度改正によって負担増の偏りを修正してきた。 (厚生労働省)
つまり、
「現役世代の負担が重い」
という問題意識そのものは、ネット上だけに存在する感情ではない。
政府が制度改正を行うほど現実的な政策課題である。
ここは誤魔化さない方がいい。
むしろ問題なのは、その先である。
3 「負担が重い」から「誰のせいだ」へ
社会保障制度の議論なら、本来考えるべきことは多い。
税と社会保険料の配分は適切なのか。
高所得者や資産を持つ人の負担をどうするか。
医療の効率化は可能か。
予防医療にどこまで投資するか。
高齢者自身の負担をどう考えるか。
福祉制度の重複や無駄はないか。
経済成長によって負担能力を高められないか。
選択肢はいくらでもある。
ところが、制度の話はときどき別の方向へ向かう。
「自分の負担が重いのは、誰かが受け取っているからだ」
という感覚である。
税や社会保険料は複雑な制度を通して再分配されるため、本来なら顔の見えない仕組みである。
しかし、人間は制度そのものには怒りを向けにくい。
制度には顔がないからだ。
代わりに、
高齢者。
生活保護受給者。
障害者。
長期療養患者。
といった「給付を受ける人」が見えてくる。
すると、
制度への不満が、受給者への不満に変わる。
ここが危ない。
4 「支える側」と「支えられる側」という分断
社会保障を語るとき、
「支える現役世代」
という表現がよく使われる。
この言葉自体は間違っていない。
現役世代が社会保険制度の重要な負担者であることは事実である。
しかし、この表現をひっくり返すと、
「支えられている人」
が生まれる。
この二つを完全に別の集団だと考え始めると、妙なことが起きる。
働いて税金や保険料を払う人は、
社会に貢献する側。
障害や病気で給付を受ける人は、
社会から受け取る側。
さらに単純化すると、
プラスを生み出す人間と、コストを発生させる人間。
そんな見方までできてしまう。
だが、本当は人間は一生同じ側にはいない。
子どもの頃は教育や医療を受ける。
大人になれば税金を払う。
失業すれば雇用保険を使うかもしれない。
病気になれば健康保険を使う。
事故で障害を負うこともある。
年を取れば年金や介護保険を使う。
今日「支える側」にいる人が、明日も同じ側にいる保証はない。
社会保障とは、本来その移動を前提として作られた仕組みである。
それでも社会が、
「払っている人」と「もらっている人」
という二つの固定された集団に見え始めると、受給する人に「正当性」を求めるようになる。
本当に困っているのか。
努力しているのか。
働けないのか。
自立する気はあるのか。
そして、
社会が助けるに値する人なのか。
ここから「生命の価値」までは、まだ距離がある。
だが、方向は見え始める。
5 障害者を「いくらかかる人」として見る
福祉政策を考える以上、費用計算は必要である。
障害福祉サービスに年間いくら必要なのか。
介護職員を何人確保する必要があるのか。
医療費はいくらになるのか。
これらを計算しなければ予算は作れない。
だから、
人間を支えるために必要なコストを計算すること
自体は優生思想ではない。
ここを混同すると、まともな社会保障論ができなくなる。
問題は、
「その人にいくら必要か」
から、
「その人はそれだけのお金を使う価値があるか」
へ問いが変わるときである。
数字としては、ほんの少し言葉が変わっただけに見える。
しかし倫理的にはまったく違う。
前者は制度設計の問いである。
後者は人間の価値についての問いになる。
さらに、
「この人がいなければ、この支出は必要なかった」
と考え始めれば、
福祉のコストを削減する最も単純な方法は、
福祉を必要とする人そのものを減らすこと
になってしまう。
旧優生政策が歴史上何度もたどってきた発想でもある。
相模原事件で植松が越えたのは、まさにこの線だった。
介護を改善する。
家族を支援する。
施設を改善する。
社会保障制度を改革する。
そうではなく、
介護を必要とする人を消せばよい。
問題を抱える人を助けるのではなく、問題の原因とみなした人そのものをなくす。
ここまで来れば、財政論ではない。
生命の選別である。
6 「本人も不幸なのだから」というもう一つの道
植松思想には、単なる財政論だけでは説明できない部分もある。
本人の幸福という話である。
重い障害を持っている。
意思疎通が難しい。
常時介護を必要とする。
そんな人生は本人にとっても不幸なのではないか。
これは、金の話とは違う。
むしろ一見すると、障害者本人を思いやっているように見える。
ここが難しい。
「社会保障費がもったいない」
だけなら、露骨な損得の話である。
しかし、
「本人だってそんな人生を望んでいないだろう」
となると、善意が入ってくる。
社会の負担。
家族の負担。
本人の苦痛。
この三つが一つになると、とても強い論理ができる。
本人も苦しい。
家族も苦しい。
社会にも負担がかかる。
ならば、その人生を続ける意味は何なのか。
だが、この問いには大きな問題がある。
本人の人生を、本人以外の人間が評価している。
言葉による意思表示が難しいからといって、幸福も不幸も感じないとは限らない。
働けないからといって、人生に価値を感じていないとも限らない。
そして何より、
その人生を自分なら選ばないということと、
その人の人生には価値がないということは別である。
この二つが混ざると、善意による優生思想が入り込む余地が生まれる。
7 「自己責任」と結びついたとき
さらに厄介なのは、社会保障への負担感が自己責任論と結びついた場合である。
健康管理を怠った。
十分に働かなかった。
将来への備えをしなかった。
子どもを持つ前に検査しなかった。
障害が分かっていたのに出産した。
そうした選択の結果なのだから、
社会に負担を求めるべきではない。
この考え方が強くなれば、社会保障は単なる権利ではなく、
「本人に落ち度がなかったと認められた人だけが受けられるもの」
へ変わっていく。
ここで第2話で扱った出生前診断の問題とも接続する。
出生前診断が存在しなかった時代には、
「なぜ障害児を産んだのか」
という問いには技術的な限界があった。
しかし検査技術が発達し、
「事前に知ることができた」
となれば、
次に、
「知るべきだった」
が出てくるかもしれない。
そして、
「知っていたのに、なぜ産んだのか」
へ進む可能性もある。
まだ法律は何も強制していない。
それでも、
自由だった選択が、
責任ある人間が選ぶべき行動へ変わる。
後の章で扱う「自発的優生」の問題である。
8 現役世代の不満を悪者にしてはいけない
ここで一度、立ち止まっておきたい。
相模原事件を考えるために、
「社会保障費に不満を持つ現役世代が悪い」
という話にしてしまえば、この章の意味はない。
社会保障負担が重いなら改革すべきである。
世代間の負担が不公平なら直すべきである。
医療や福祉に無駄があるなら減らすべきだ。
制度を持続可能にするための議論は必要である。
むしろ、そういう議論を封じ込めてしまえば、不満は別の場所へ向かう。
大切なのは、
「制度への批判」と「制度を利用する人への攻撃」を分けること
だと思う。
年金制度に問題があるなら年金制度を直す。
医療制度に問題があるなら医療制度を直す。
障害福祉制度に問題があるなら障害福祉制度を直す。
受給者そのものを問題として扱わない。
当たり前に聞こえる。
しかし社会の余裕がなくなれば、この区別は意外なほど簡単に崩れる。
9 10年後にも残った「小さな植松」という言葉
事件から10年となった2026年、日本障害者協議会は国会内で事件を検証するセミナーを開いた。
そこで藤井克徳代表は、植松が重い障害を持つ人の生命を否定する思想へ至った経緯が裁判でも十分に解明されなかったと指摘した。
さらに、SNS上で事件を賛美する人々について、
「小さな植松死刑囚」
という表現を使い、そうした社会的な反応まで含めて事件を総括する必要があると訴えた。 (千葉日報)
かなり強い表現である。
この言葉自体への評価は分かれるだろう。
ネット上で福祉への不満を書いた人を、殺人犯と同一視することはできない。
しかし、この発言が示している懸念は分かる。
植松本人を処罰しても、
「社会に貢献できない人には価値がない」
という考え方まで処罰できるわけではない。
思想は刑務所には入らない。
別の人間の中に残ることができる。
別の言葉にも姿を変えられる。
「優生思想」と名乗る必要すらない。
合理化。
効率化。
自己責任。
財政健全化。
自立。
社会への貢献。
それらは本来、それぞれ別の意味を持つ正当な概念である。
だからこそ、生命価値の序列化と結びついたときに気づきにくい。
10 財政問題が「生命価値」の問題へ変わる瞬間
ここまでの話を整理すると、境界線は比較的はっきりしている。
社会保障制度を持続可能にしたい。
これは政策論である。
↓
無駄な支出を減らしたい。
これも政策論である。
↓
誰にどこまで給付するべきか。
難しいが、これも政策論である。
↓
本当に支援に値する人は誰か。
少し性質が変わってくる。
↓
社会にほとんど貢献できない人へ、そこまで資源を使う必要があるのか。
人間そのものへの評価が入り始める。
↓
その人が存在しなければ、そのコストは必要なかった。
ここまで来ると危うい。
↓
ならば、その生命は存在しない方がよい。
これはもう財政改革ではない。
優生思想である。
相模原事件で起きたのは、この最後の地点だった。
だが、本当に考えなければならないのは最後だけではない。
どこから道を間違えたのか。
それを見る必要がある。
社会保障への不満を持った時点ではない。
制度改革を求めた時点でもない。
「受給者にも努力してほしい」と考えた瞬間ですらない。
おそらく境界線は、
制度の価値を評価することから、人間の価値を評価することへ移った瞬間
にある。
制度には、
高い。
安い。
効率がいい。
無駄がある。
という評価ができる。
人間まで同じ計算式に入れてはいけない。
相模原事件が露わにしたのは、その区別が消えたときに何が起こり得るかだった。
そしてこの問題は、障害者だけで終わらない。
高齢者。
病人。
認知症患者。
生活保護受給者。
失業者。
介護を受ける人。
さらにAIやロボットが人間の仕事を大きく代替する時代が来れば、健康で働く意思のある人でさえ、「社会に十分な価値を生み出せない側」に回るかもしれない。
だからこれは、
「障害者をどこまで支えるのか」
という話ではない。
もっと根本的な問題である。
人間は、社会に役立つことによって生きる価値を得るのか。
次に見るのは海外である。
相模原事件は、日本の外ではどのように受け止められたのか。
そして「障害者は社会の負担だ」という発想は、日本だけに存在するものなのだろうか。
コラム1 「社会保障費が高い」は優生思想なのか
社会保障について書いていると、ときどき話が極端になる。
「高齢者医療に金を使いすぎではないか」
「障害福祉にも限界があるのではないか」
「現役世代の負担が重すぎる」
こうした意見を出しただけで、
「それは優生思想だ」
と批判されることがある。
しかし、これは少し乱暴だと思う。
社会保障制度には、当然ながら予算の制約がある。
医療にも介護にも福祉にも、人と金が必要になる。
どこにどれだけ配分するのか。
どの制度を維持し、どこを改革するのか。
どの負担を誰が引き受けるのか。
これは民主社会なら避けて通れない政策論である。
社会保障費が高いと指摘すること自体は、優生思想ではない。
むしろ制度を持続させるためには、負担について正面から議論した方がいい。
問題は、その話がいつの間にか別のものへ変わるときである。
「制度に金がかかる」と「人間に価値がない」は別である
たとえば、
「ある医療制度に1000億円かかっている」
という話がある。
ここから、
「もっと効率化できないか」
「別の治療法に振り替えられないか」
「所得によって負担割合を変えられないか」
と考える。
これは普通の政策論である。
だが、
「その1000億円を使ってまで、この人たちを支える必要があるのか」
となると、少し話が変わる。
さらに、
「この人たちがいなければ1000億円は必要なかった」
となり、
「そもそも、こういう人は増えない方がいい」
まで進めば、完全に別の領域へ入っている。
最初に問われていたのは、
制度の費用
だった。
最後に問われているのは、
人間の存在価値
である。
この二つは似ているようで、まったく違う。
社会保障には「費用対効果」が必要である
もう一つ誤解しやすいことがある。
医療や福祉で費用対効果を考えることも、それだけで優生思想ではない。
限られた予算の中で、より多くの人の健康を改善するにはどうするか。
どの治療を公的保険の対象にするか。
どこまで介護サービスを提供するか。
こうした判断には、どうしても費用の概念が入る。
一円も計算せず、
「命は無限に尊いのだから、必要なものは全部出せ」
では制度は成り立たない。
むしろ、本当に困っている人を支え続けるためにも、制度設計には冷静な計算が必要である。
だから、
命に値段をつけてはいけない
という言葉も、そのままでは少し足りない。
医療行政では、現実に治療費も人件費も計算しなければならない。
重要なのは、
医療にいくら使うかを計算することと、その患者本人の人間的価値を計算することを分けること
である。
制度には価格がある。
人間に価格をつける必要はない。
「支援に値する人」を選び始めたとき
もっと難しいのが、社会保障には必ず条件があることだ。
生活保護にも条件がある。
障害福祉にも認定がある。
介護保険にも要介護認定がある。
医療保険にも給付範囲がある。
つまり制度はもともと、
「誰が支援を受けられるか」
を選別している。
では、それも優生思想なのか。
もちろん違う。
制度を運営するための資格判定と、人間の価値を判定することは別である。
ただし、ここでも境界線がある。
「制度の条件を満たしているか」
ではなく、
「この人は助けるに値する人か」
という道徳判断が入り始めると、話が変わってくる。
たとえば、
「この人は努力しているから助けたい」
「この人は事故で障害を負ったのだから仕方ない」
「この人は生まれつきだから本人に責任はない」
一見すると温かい言葉である。
しかし裏返せば、
「努力していない人は?」
「本人にも原因がある病気なら?」
「自分で選んだ結果なら?」
という話が出てくる。
社会保障が、
困っている人を支える制度
から、
立派な弱者を選ぶ制度
へ変わり始める。
ここは注意が必要だと思う。
自己責任論との相性
社会保障への不満と自己責任論は、非常に相性がいい。
働けるのに働かなかった。
健康管理をしなかった。
貯金をしなかった。
保険に入らなかった。
検査を受けなかった。
危険を承知で選択した。
こうした事情があると、
「なぜ社会が面倒を見るのか」
という感情が生まれやすい。
もちろん、本人の選択をまったく考えなくてよいという話でもない。
制度によっては、本人負担やモラルハザードを考える必要もある。
だが、ここでも一線がある。
本人にどこまで負担してもらうか
という制度設計と、
その人は助けなくてもよい人間だ
という判断は同じではない。
ところが社会に余裕がなくなると、この二つは混ざりやすい。
制度への怒りが、人間への怒りに変わる。
その瞬間に、社会保障論はかなり危うくなる。
「支える側」も、いつか「支えられる側」になる
社会保障について議論するとき、
「現役世代が高齢者を支えている」
「納税者が生活保護受給者を支えている」
という表現がよく使われる。
間違いではない。
だが、それだけで社会を見ると、自分が永遠に「支える側」にいるような錯覚が生まれる。
実際には違う。
病気になる。
事故に遭う。
失業する。
家族の介護が必要になる。
自分自身が要介護状態になる。
誰でも、かなり簡単に「支えられる側」へ移る。
社会保障は、
善良な納税者が弱者へ一方的に施しを与える仕組み
ではない。
人生のどこかで立場が入れ替わることを前提にした仕組みでもある。
そこを忘れると、
「自分の金を、あの人たちに取られている」
という構図だけが残る。
そして「あの人たち」が、自分とは違う種類の人間に見え始める。
削るべきなのは制度の無駄であって、人間ではない
社会保障改革は必要である。
むしろ今後、日本では避けて通れない。
人口構造は変わる。
医療技術は高額化する。
介護人材も足りない。
働く世代の負担にも限界がある。
だから、どこを効率化するか。
どこまで自己負担を求めるか。
どの給付を優先するか。
厳しい議論も必要になる。
ただし、そのとき守らなければならない線がある。
削る対象は制度の無駄であって、人間そのものではない。
この線を越えると、
「福祉制度をどう改善するか」
という問いが、
「福祉を必要とする人をどう減らすか」
に変わる。
さらに、
「福祉を必要とする人は存在しない方がいい」
まで進めば、そこに優生思想が顔を出す。
だから、
「社会保障費が高い」
と話すことを恐れる必要はない。
むしろ話すべきだと思う。
ただし同時に、
高いのは制度の費用であって、その制度を利用している人間の価値が低いわけではない。
この区別だけは、最後まで残しておかなければならない。
第4章 海外では相模原事件をどう見たのか
相模原事件は、日本だけで報じられた事件ではない。
19人が死亡したという被害の大きさに加え、「障害者だから」という理由で標的にされたことが、海外でも強い衝撃をもって受け止められた。
事件当時の海外報道を見ていると、日本との違いが一つ目につく。
hate crime(ヘイトクライム)
という言葉である。
『The Japan Times』は事件直後、海外の一部では相模原事件をヘイトクライムとして表現していた一方、日本の公的機関や主要メディアでは、この言葉がほとんど使われていなかったと指摘している。
理由は分かりやすい。
被害者は偶然選ばれたわけではない。
障害があるという属性そのものを理由に襲われたからである。 (Japan Times)
ここから、海外では相模原事件が単なる大量殺人事件とは少し違う文脈で語られるようになる。
「一人の異常な犯罪者が起こした事件なのか」
ではなく、
「障害者を価値の低い人間として見る思想が、なぜ殺人にまで発展したのか」
という問いである。
1 米国政府も「障害者施設だったこと」を重く見た
事件直後、米ホワイトハウスは異例ともいえる声明を出している。
オバマ政権の国家安全保障会議報道官は犠牲者への哀悼を表したうえで、事件が障害者施設で起きたことによって、より一層忌まわしく、理不尽なものになったと述べた。 (whitehouse.gov)
重要なのは、単に、
「日本で大きな殺人事件が起きた」
と受け止めたわけではないことだ。
障害者がいる場所を狙ったこと自体
に注目している。
国際障害同盟(International Disability Alliance)も同年8月、相模原事件への連帯声明を出した。
そこで使われていたのは、
憎悪。
隔離。
排除。
という言葉だった。
同団体は事件を悼むだけでなく、障害者が地域社会で暮らし、家族生活を送り、自立して生活する権利を守る必要性まで訴えている。 (国際障害同盟)
ここには、事件を「施設の警備が甘かった」という問題だけでは捉えない視点がある。
なぜ障害者は社会から隔離されるのか。
なぜ障害者を「自分たちとは別の存在」と見るのか。
その距離そのものを問題にしている。
2 海外では「ヘイトクライム」という見方が出た
ヘイトクライムというと、人種差別や宗教差別を思い浮かべる人が多いかもしれない。
しかし対象になり得る属性には、障害も含まれる。
相模原事件の場合、
金品を奪うために施設を襲ったのではない。
職員への恨みだけで19人を殺したのでもない。
障害を持つ人間を、
「社会に必要がない」
「いなくなった方がいい」
と考え、その属性を基準に殺害対象を選んだ。
その意味では、海外から見れば、
「障害者であることを理由に標的とした犯罪」
という理解は自然だった。
『The Japan Times』も当時、日本国内で「hate crime」という表現が広く使われなかったこととの対比を紹介している。 (Japan Times)
もちろん、これをそのまま日本の刑法上の分類に当てはめることはできない。
国によってヘイトクライム法制は違う。
ここで大切なのは法律用語としての分類より、
「なぜその人が被害者に選ばれたのか」
を見る視点である。
相模原事件では、その答えが明確だった。
障害があったからである。
3 「植松を怪物にして終わるな」という海外障害者運動
事件から1年後、米国の障害者権利団体Not Dead Yetは声明を出した。
かなり厳しい内容である。
同団体は、植松聖をただ「精神的に異常な人物」「怪物」として切り離してはいけないと主張した。
彼の行動は極端だった。
しかし、障害者を人間として十分に扱わず、嫌悪し、社会から排除する価値観そのものは、多くの国や文化の中に存在している。
そういう趣旨の主張だった。 (DPI 日本会議 - 全ての人が希望と尊厳をもって暮らせる社会へ)
もちろん、これは障害者運動団体の立場である。
海外社会全体の共通見解ではない。
それでも、第2章で見た日本の議論とかなり似ている。
植松を、
「特殊な一人」
として閉じ込めれば安心できる。
だが、
「障害者は他人より価値が低い」
「社会の負担である」
「普通の人とは違う」
という感覚が社会の中にあるなら、犯人だけを排除しても問題は終わらない。
Not Dead Yetが警戒したのは、そこだった。
これは相模原事件を海外から見るときの重要な視点だと思う。
4 英国にもあった「障害者は税金を食いつぶす」という言葉
では、
「障害者は社会の負担である」
という考え方は日本特有なのだろうか。
そうではない。
分かりやすいのが英国である。
英国では2010年代、福祉改革をめぐる議論の中で、
benefit scrounger
という言葉がしばしば使われた。
scroungerは、日本語にすると「たかり」「他人に寄生して生活する人」に近い、かなり侮蔑的な言葉である。
英国議会に提出された障害者ヘイトクライムに関する証拠資料には、障害者が、
「benefit scrounger」
「fraudster」
つまり、
「福祉にただ乗りしている人」
「不正受給者」
として扱われる言説が増えたという障害者団体側の報告が収められている。 (イギリス議会委員会)
そこでは、グラスゴー大学の2011年の研究も紹介されている。
新聞記事の中で障害者を、
scrounger
cheat
skiver
といった言葉で表現する例が増え、「経済への負担」として描く記事も増加したという内容である。 (イギリス議会委員会)
2012年にScopeが行った調査では、調査対象となった障害者の83%が、福祉受給者を「scrounger」として扱う報道は、障害者への社会的態度に悪影響を与えると答えたと、英国議会資料で紹介されている。 (イギリス議会委員会)
ここで出てくる構造は、日本で見たものとよく似ている。
税金を払う人。
福祉を受け取る人。
その二つが対立する。
そして後者が、
「自分たちの金を奪っている人」
として認識され始める。
制度への不満が、人間への敵意に変わる。
5 「自分たちの金を盗んでいる」と思われる障害者
相模原事件後、『The Japan Times』には英国出身の脳性まひ当事者Michael Gillan Peckitt氏からの投稿が掲載された。
彼は英国で暴行を受けた経験について触れている。
加害者から、
「scrounger」
などと罵られたという。
そして彼らは、障害者が福祉を通じて自分たちの金を奪っていると考えていた、と振り返っている。 (Japan Times)
一個人の体験なので、これだけで英国社会全体を説明することはできない。
しかし、前章で扱った問題との共通点は明らかである。
障害者への敵意が、
単純な「障害者嫌い」だけから生まれているわけではない。
「自分は働いているのに、あの人は税金で暮らしている」
という損得勘定が間に入っている。
これは非常に厄介である。
人種や宗教を理由に相手を嫌う差別なら、
「偏見はいけない」
と比較的言いやすい。
だが、
「税金の使い方として正しいのか」
という形になると、突然、政策論のように見える。
もちろん、社会保障の支出を検証すること自体は正当な政策論である。
問題は、
制度を評価する話と、給付を受ける人間の価値を評価する話が混ざったとき
である。
相模原事件と英国の「benefit scrounger」は同じものではない。
しかし、人間を、
「社会にどれだけ払うか」
「社会からどれだけ受け取るか」
によって評価し始める危険という点では、重なるものがある。
6 ただし「英国人は障害者福祉に冷たい」わけではない
ここは非常に重要なので、反対側のデータも見ておきたい。
英国社会全体が障害者福祉に敵対しているわけではない。
むしろ最新の世論調査を見ると、かなり違う姿が見える。
2026年9月に公表されたBritish Social Attitudes調査では、2025年の調査で、
障害者給付への支出を減らすべきだ
と答えた人は7%だった。
一方で、
増税につながる可能性があっても障害者給付への支出を増やすべきだ
と答えた人は49%だった。 (National Centre for Social Research)
さらにこの調査では、福祉支出全体を増やすことに否定的な人の中でも、働けない障害者への給付削減を支持する人は少数だった。
障害者は、追加的な福祉支出を優先すべき対象としても高く評価されている。 (National Centre for Social Research)
これは大切な事実である。
英国社会には、
「不正受給ではないか」
「働ける人まで給付を受けていないか」
という疑念が存在する。
一方で、
本当に支援を必要とする障害者は社会が支えるべきだ
という意識も強い。
この二つは同時に成立する。
だから、
「欧米でも障害者排除が広がっている」
と単純化することはできない。
むしろ問題は、
誰を「本当に支援が必要な人」と認定するか
というところに移っている。
7 「助けるに値する弱者」と「値しない弱者」
ここで、前の回から何度も出てきた問題が戻ってくる。
誰も、
「弱者を助けるな」
とは言わない。
問題は、
誰が弱者なのか。
さらに、
誰が助けるに値する弱者なのか。
という判断である。
生まれつき重い身体障害がある。
事故で障害を負った。
難病になった。
こういう事情は、「本人に責任がない」と理解されやすい。
しかし、
精神疾患。
依存症。
生活習慣病。
失業。
外から見えにくい障害。
症状が日によって変化する病気。
となると、周囲の評価が変わることがある。
「本当に働けないのか」
「努力が足りないのではないか」
「制度を悪用しているのではないか」
こうした疑いが入り込む。
英国議会に提出された証拠資料にも、車椅子利用者が少し歩いているところを見ただけで「不正受給者だ」と決めつけられ、通報すると脅された事例が記録されている。 (イギリス議会委員会)
つまり、
障害者だから全員排除する、
という単純な優生思想ではない。
もっと細かい選別である。
「この人は本当に助けるに値するか」
を社会が判定する。
これは、現代社会で非常に起こりやすい形なのかもしれない。
8 国連は相模原事件をどう位置づけたのか
相模原事件から6年後の2022年。
国連障害者権利委員会は、日本に対する初めての総括所見を公表した。
その中で相模原事件を明示的に取り上げている。
委員会は、津久井やまゆり園で2016年に起きた刺殺事件について、日本社会に存在する
eugenic and ableist mindset
――優生的かつ能力主義的な考え方――を主な背景とする事件に対し、包括的な対応が不足していることへ懸念を示した。 (人権文書庫)
かなり踏み込んだ表現である。
国連は、
「植松という一人の犯罪者の思想」
だけを問題にしていない。
社会の中にある価値観
まで見ている。
ableismという言葉も重要である。
日本語では「能力主義」「健常者中心主義」などと訳されることがある。
簡単にいえば、
ある能力を持っていることを「普通」とし、
その能力が低い人を劣った存在として扱う考え方である。
自分で移動できる。
働ける。
話せる。
意思を説明できる。
一人で生活できる。
それらの能力を持つこと自体はもちろん悪いことではない。
問題は、
その能力を持たない人間の価値まで低い
と考えることである。
この意味で、国連が相模原事件を「eugenic」と「ableist」の二つの言葉で表現したことは象徴的である。
優生思想と能力主義が、ここでつながる。
9 2024年、相模原事件は国際的な「事例」になった
さらに2024年、国連は障害者を標的とするヘイトスピーチに関するガイダンスを公表した。
そこでも相模原事件が具体例として登場する。
国連は、障害者を、
「役に立たない」
「社会の負担である」
「その生命には生きる価値がない」
と扱う言説が、優生思想と結びついてきた歴史を説明し、その文脈の中で相模原事件を扱っている。
つまり相模原事件は今や、
日本で起きた一つの殺人事件
というだけではない。
障害者への非人間化がどこまで進み得るかを考える、国際的なケースの一つになっている。
この変化は大きい。
事件発生直後、日本では、
施設の防犯。
措置入院。
警察と医療の連携。
といった問題が強く議論された。
もちろん、どれも必要な検証だった。
しかし国際的な障害者権利の議論では、
「なぜ障害者の生命を低く評価する思想が生まれるのか」
という、もっと広い問題へ事件が位置づけられていった。
10 海外にも「植松思想の部品」はある
ここまで見ると、一つのことが分かる。
海外で植松聖本人を支持する大きな運動が存在するわけではない。
むしろ事件そのものは強く非難された。
米国政府も非難した。
国際障害者団体も非難した。
国連も障害者権利の重大な問題として扱っている。
しかし一方で、
植松思想を作っていた「部品」は海外にも存在する。
障害者は社会の負担ではないか。
本当に働けないのか。
福祉を受ける資格があるのか。
税金を使う価値があるのか。
こうした問いである。
英国の「benefit scrounger」をめぐる議論は、その分かりやすい例だろう。
ただし、もう一度強調しておきたい。
こうした問いを持つこと自体を優生思想と呼ぶべきではない。
社会保障には限りがある。
不正受給への対策も必要である。
働ける人に働いてもらう制度を作ることも、普通の政策論である。
問題は、
「制度をどうするか」
という問いが、
「この人は社会に必要なのか」
に変わるときだ。
そこから、
「この人の人生には価値があるのか」
へ進む。
相模原事件では、それが最も極端な形まで進んだ。
11 日本だけの問題ではない。だから安心もできない
相模原事件について、
「日本には昔から優生思想があったから起きた」
とだけ説明するのも十分ではないと思う。
確かに日本には旧優生保護法という歴史がある。
それは次章で詳しく扱う。
しかし、
障害者を社会的負担として見ること。
給付を受ける人を「ただ乗り」と見ること。
自立できる人を高く評価すること。
「助けるに値する弱者」と「そうでない弱者」を分けること。
こうした現象は日本だけに存在するわけではない。
社会保障制度を持つ国なら、程度の差こそあれ似た問題に直面する。
だから相模原事件を、
「日本社会の特殊な病理」
として片づけても、本質は見えない。
反対に、
「どこの国にもあるのだから仕方がない」
でもない。
大切なのは、
どの社会にもある普通の感情が、どこで生命価値の序列化へ変わるのか
を見ることである。
税金を取られすぎている。
制度が不公平だ。
働いている自分が損をしている。
福祉制度に無駄がある。
こういう不満そのものは普通である。
ところが、
「あの人たちがいるから自分が損をしている」
になり、
さらに、
「あの人たちは社会に必要なのか」
へ変わる。
その先にあるものを、相模原事件は極端な形で見せた。
だから海外の反応を見る意味がある。
相模原事件は日本だけの事件だった。
しかし、
相模原事件を生み得る問いは、日本だけの問いではない。
そして次に見なければならないのは、日本自身の歴史である。
いまの日本では、
「優生思想を支持する」
と公言することは強いタブーになっている。
だが、それは昔からそうだったわけではない。
むしろ戦後の日本は、長いあいだ「優生」という言葉を法律の名前に掲げ続けていた。
優生保護法。
廃止されたのは、戦争直後でも、高度成長期でもない。
1996年である。
次章では、日本社会がかつて優生思想を制度として受け入れ、それを否定するまでに何があったのかを見ていく。
第5章 なぜ優生思想は日本でタブーになったのか
相模原事件の後、植松聖が語った「障害者には生きる価値がない」という考えは、強い批判を受けた。
現在の日本で、
「障害のある人間は生まれない方がいい」
「能力の低い人間は子どもを作るべきではない」
と公然と主張すれば、大きな反発を受けるだろう。
優生思想という言葉そのものが、現在では強い否定的意味を持っている。
だが、ここで歴史を振り返ると少し奇妙なことに気づく。
日本では、優生思想は戦前の軍国主義とともに消えたわけではない。
むしろ戦後、日本国憲法が施行された後に、
「優生保護法」
という名前の法律が作られている。
1948年のことである。
しかも、この法律から「優生」という考え方が削除されたのは1996年だった。
戦争が終わってから51年後である。
現在では強いタブーになっている思想が、つい30年前まで法律の名前に堂々と掲げられていた。
まず、この事実から見ていきたい。
1 優生保護法は戦後に作られた
1948年7月、優生保護法が制定された。
戦前の法律がそのまま残ったのではない。
戦後の国会で、新しく成立した法律である。
当時の法律第1条には、その目的がはっきり書かれていた。
「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護する」
今読むと、かなり露骨な表現である。
「不良な子孫」。
つまり国家が、どのような人間の出生を望ましくないと考えるのかを法律の中で示していた。
厚生労働省がまとめた現在の経緯資料でも、優生保護法は人口過剰やヤミ堕胎の増加などを背景に、優生思想の下で「不良な子孫」の出生を防ぐことを目的の一つとして制定されたと整理されている。法案は議員立法で提出され、全会一致で成立した。
ここは重要である。
優生思想は、
「戦前の日本にあった間違った思想」
では終わらない。
民主主義国家として再出発したはずの戦後日本でも、優生政策は制度として続いた。
2 本人が同意しなくても不妊手術ができた
優生保護法の問題は、名前だけではない。
実際に不妊手術が行われた。
一定の遺伝性疾患や障害などを理由として、本人の同意がなくても、都道府県の優生保護審査会の決定などを通じて不妊手術を行う仕組みが存在していた。
厚生労働省の集計では、旧優生保護法4条に基づく、本人の同意によらない不妊手術は1万4566件。
さらに旧12条に基づくものが1909件確認されている。
合わせると1万6475件になる。
そして同法に基づいて行われた優生手術全体では、1949年から1996年までに約2万5000件に上ったと政府資料はまとめている。
数字だけでは実感しにくい。
だが一件ごとに、一人の人間がいる。
子どもを持つかどうかという、人生でも最も私的な領域について、
「あなたは子どもを作らない方がよい」
と国家から判断された人たちである。
しかも、一部については本人が望まなくても手術が可能だった。
これは単に医療制度の問題ではない。
国家が、
「この人の子孫は生まれない方がよい」
と判断していたということである。
3 それでも当時は「異常な法律」とは見られていなかった
ここで考えなければならないことがある。
現在の感覚では、こうした制度は明らかに異常に見える。
しかし当時の社会で、優生保護法は地下に隠された秘密の制度だったわけではない。
国会で成立した法律である。
行政によって運用された。
医療機関も関与した。
地方自治体も関わった。
つまり、多くの人が制度の中でそれぞれの仕事をしていた。
誰か一人の狂信的な独裁者が命令していたわけではない。
むしろ、
「遺伝性疾患を防ぐ」
「本人や家族の負担を減らす」
「母体を保護する」
「社会的な問題を減らす」
といった、その時代なりの合理性を持った政策として実施されていた。
ここに優生思想の怖さの一つがある。
優生思想は必ずしも、
「弱者が憎い」
という感情だけから始まるわけではない。
医療。
福祉。
科学。
家族の幸福。
社会的負担。
そうした一見もっともらしい理由と結びつくことがある。
そして一度、
「この人は子どもを持たない方が本人にも社会にもよい」
という前提を受け入れてしまえば、その後の制度は合理的に組み立てることができる。
審査会を作る。
医師に申請させる。
手術費用を公費で負担する。
記録を残す。
行政としては整った制度になる。
だから危ないのである。
4 1996年まで「優生」という名前が残った
優生保護法が大きく改められたのは1996年である。
この年、法律名は「母体保護法」に変更された。
同時に、遺伝性精神疾患などを理由とした優生手術や、優生的理由による人工妊娠中絶に関する規定が削除された。
厚生労働省は現在、この改正について、
障害者を差別する優生思想を排除するため
に行われたものと整理している。
1996年。
Windows 95が発売された翌年である。
インターネットが一般家庭に広がり始めていた時代だ。
それほど最近まで、「優生」という言葉が日本の法律の正式名称に残っていた。
これは少し驚く。
そして、もう一つ考えさせられる。
法律の名前を変えたからといって、
社会の価値観までその日に変わったわけではない。
制度を削除することはできる。
だが、何十年も制度を支えてきた考え方を一晩で消すことはできない。
5 被害者が声を上げるまで、さらに時間がかかった
1996年に優生規定は削除された。
しかし、それで問題が解決したわけではなかった。
旧優生保護法による不妊手術を受けた人たちが国を相手に国家賠償請求訴訟を起こし始めたのは2018年である。
法律改正から22年後だった。
2019年には、一時金を支給するための法律が成立した。
その前文では、旧優生保護法の下で多くの人が障害や疾病を理由に不妊手術などを強いられ、心身に大きな苦痛を受けたことについて「真摯に反省し、心から深くおわびする」とされた。
ただ、問題はここでも終わらなかった。
国の法的責任をどこまで認めるのか。
損害賠償請求の期間制限をどう扱うのか。
被害を受けた人たちは裁判を続けた。
そして2024年7月3日。
最高裁大法廷が重要な判断を出す。
6 最高裁が否定したもの
2024年7月3日、最高裁大法廷は旧優生保護法をめぐる国家賠償請求訴訟について判決を言い渡した。
旧優生保護法の優生手術に関する規定は、憲法13条と14条1項に違反すると判断された。
さらに、それらの規定に関する国会議員の立法行為について、国家賠償法上違法であることも認められた。
最高裁が否定したのは、単に「手術のやり方が悪かった」という話ではない。
問題の根はもっと深い。
特定の疾病や障害を持つ人を一律に低く評価し、その人たちの子孫が生まれることを防ごうとする。
その発想自体が、個人の尊厳と平等に反する。
裁判所はそこまで踏み込んだ。
つまり、
国家が「生まれてよい人間」と「生まれない方がよい人間」を分けることそのもの
が否定されたのである。
7 2024年、国会と政府が改めて謝罪した
最高裁判決を受けて、2024年10月には新しい補償法が成立した。
法律の前文では、国会と政府が旧優生保護法の下で特定の疾病や障害を持つ人々を差別し、優生手術等を強制してきたことについて、
責任を認め、
深く謝罪し、
障害や疾病を持つ人への偏見と差別を根絶する決意を示している。
新しい補償制度は2025年1月17日に施行された。
ここまで来てようやく、
国家自身が、
優生思想に基づいて人間を選別したことは誤りだった
と、かなり明確な形で認めたことになる。
1948年の法律制定から76年後。
1996年の改正からでも28年後だった。
8 なぜ今では「優生思想」がタブーなのか
こうした歴史をたどれば、現在の日本で「優生思想」という言葉が強い否定的意味を持つようになった理由は分かる。
かつては、
科学的。
合理的。
社会のため。
本人や家族のため。
と説明された政策が、
実際には人間を「生まれるに値する者」と「そうでない者」に分け、多くの人から生殖の自由を奪った。
しかも被害は、後から元に戻すことができない。
不妊手術によって失われた生殖能力を、何十年後に謝罪して返すことはできない。
だから現在の日本では、
国家が人間の生命価値を選別する古典的な優生思想
については、法的にも公的にも明確に否定されている。
ここには長い時間がかかった。
被害者が声を上げた。
裁判が行われた。
社会が過去を見直した。
そうやって、ようやく現在の規範が作られた。
9 しかし、「優生」という言葉を消せば終わりなのか
問題はここからである。
法律から「優生」という言葉を削除した。
強制不妊手術もなくした。
国家が、
「この人は子どもを作るべきではない」
と命令する制度も否定した。
では、優生思想はなくなったのだろうか。
おそらく、そんなに単純ではない。
昔なら、
「不良な子孫を防止する」
と言っていた。
現在、そんな言葉を使う人はほとんどいない。
しかし、
「重い障害を持って生まれるのは本人にとって不幸ではないか」
「家族の負担が大きすぎるのではないか」
「社会保障費には限界がある」
「できるだけ自立するべきだ」
「出生前に分かるのなら、事前に知った方がよい」
という言葉ならどうだろう。
一つひとつは、旧優生保護法とは違う。
正当な問題提起も含まれている。
むしろ現代社会では、ごく普通に議論されている。
だからこそ難しい。
10 古い優生思想は分かりやすかった
古典的な優生思想には、少なくとも現在から見れば分かりやすさがある。
国家が決める。
法律が強制する。
対象となる人間を分類する。
そして、
「望ましくない人間の出生を防ぐ」
と明言する。
これなら何が問題なのか見つけやすい。
法律を廃止すればいい。
強制を禁止すればいい。
責任を負う主体も見える。
しかし現代では、
誰も「優生思想」を名乗らない。
国家も命令しない。
その代わり、
医師が情報を提供する。
親が選択する。
本人が自己決定する。
社会保障制度が自立を促す。
市場が新しい技術を提供する。
一つひとつは、それだけなら優生政策ではない。
ところが、これらの自由な判断がすべて同じ方向へ向かったらどうなるのだろう。
誰も命令していないのに、ある特徴を持つ人だけが「選ばれない存在」になっていく。
ここから先は、旧優生保護法とは別の問題である。
11 相模原事件が不気味なのは、古い言葉を使わなかったこと
相模原事件へ戻ろう。
植松聖は、1948年の優生保護法を復活させようとした政治家ではない。
昔の優生学を研究して、その思想を忠実に実行したわけでもない。
それでも彼は、
障害者は社会に貢献できない。
家族を不幸にする。
社会に大きな負担をかける。
本人にとっても生きることは不幸である。
という論理から、
「いなくなった方がいい」
という結論へ進んだ。
ここには、
「不良な子孫」
という古い言葉は出てこない。
代わりに、
幸福。
家族。
社会的負担。
意思疎通。
社会への貢献。
といった現代的な言葉が並んでいる。
だから相模原事件は不気味なのである。
日本社会は、旧優生保護法を否定した。
「優生」という言葉も捨てた。
それでも、
人間の価値を能力や負担によって測る発想まで消えたとは限らない。
12 タブーになったのは「優生思想」か、それとも「優生」という言葉か
ここで、少し意地の悪い問いを立ててみたい。
現在の日本社会でタブーになったのは、
本当に優生思想なのだろうか。
それとも、
「優生」という言葉なのだろうか。
もちろん、旧優生保護法のような強制政策をそのまま復活させたいという意見は、社会の主流ではない。
法制度上も明確に否定されている。
だが、
能力の高い人。
健康な人。
自立できる人。
働ける人。
社会に貢献する人。
こうした人間を「望ましい」と考える感覚そのものは、今も社会の中にある。
それ自体は必ずしも悪いことではない。
問題は、反対側にいる人をどう見るかだ。
能力が低い。
病気がある。
介護が必要。
働けない。
社会から多くの支援を受ける。
そういう人を、
「望ましくない人間」
へ変換した瞬間、古い優生思想との距離は急に縮まる。
優生保護法の歴史が教えているのは、
「優生思想という言葉を使ってはいけない」
ということだけではない。
もっと根本的なことだ。
社会にとって望ましい人間像を作ったとき、その基準から外れた人をどう扱うのか。
この問いである。
法律から「優生」の二文字を消すことはできた。
だが、人間を選別したくなる誘惑まで法律で消すことはできない。
そして21世紀、その選別は国家の命令ではなく、
自由。
自己決定。
幸福。
合理性。
という、もっと受け入れやすい言葉によって行われる可能性がある。
次章では、
「優生思想を否定する社会」に、なぜ優生的な発想が残り得るのか。
その問題を考えていく。
第6章 「優生思想を否定する社会」に残る優生的発想
日本社会では、少なくとも建前の上では優生思想は否定されている。
旧優生保護法は廃止された。
最高裁も、その根底にあった考え方を個人の尊厳や平等に反するものとして否定した。
障害を理由に、
「生まれない方がいい」
「子どもを作らない方がいい」
と国家が決めることは許されない。
ここまでは、かなり明確になった。
では、人間を選別する発想そのものも消えたのだろうか。
おそらく、そう簡単ではない。
むしろ現代社会では、優生思想という言葉を使わないまま、
「どんな人間が望ましいのか」
という判断が行われている。
健康である。
働ける。
自立できる。
他人に迷惑をかけない。
社会に貢献する。
こうした人物像は、今も強く評価される。
もちろん、それ自体はおかしなことではない。
健康でいたいと思うのも、働ける人が働くのも、一人でできることを増やすのも悪いことではない。
問題は、その裏側にいる人をどう見るかである。
1 「障害者には生きる価値がない」は拒絶できる
試しに、
「重度障害者には生きる価値がない」
と言ってみる。
現在の日本では、かなり強い反発を受けるだろう。
それは差別だ。
人権侵害だ。
誰にも他人の生命価値を決める権利はない。
そう批判されるはずである。
相模原事件の後、社会が植松聖の思想を強く拒絶したのも、この一線を越えていたからだ。
分かりやすい。
だが、少し表現を変えるとどうだろう。
「本人は幸せなのだろうか」
「家族の負担は大きすぎないか」
「社会保障費には限界がある」
「働ける人はできるだけ自立した方がいい」
「周囲に迷惑をかけない生き方をすべきだ」
こうなると、話は急に複雑になる。
どれも、それだけで優生思想ではない。
むしろ多くは、現実の社会で必要な問題提起である。
だからこそ難しい。
露骨な生命否定は拒絶できる。
しかし、
生命否定へつながり得る前提
まで同じように見分けられるとは限らない。
2 植松の「結論」と「途中」を分ける
植松思想を考えるとき、最終的な結論だけを見れば非常に単純である。
「重度障害者はいなくなった方がいい」
明らかに異常である。
だが、そこに至る途中には、もっと普通の言葉が並んでいた。
働けない。
意思疎通が難しい。
家族の介護負担が大きい。
公的な支援が必要である。
社会への貢献が少ない。
ここまでは、場合によっては客観的事実として語ることもできる。
しかし植松は、それらを並べた後に、
「だから生命の価値も低い」
と結論づけた。
ここで飛躍が起きている。
働けないことと、生きる価値がないことは同じではない。
意思疎通が難しいことと、人生に意味がないことも同じではない。
多額の支援が必要なことと、その人間が「赤字」であることも違う。
だが、社会が普段から、
能力が高い人ほど価値がある。
多く稼ぐ人ほど立派である。
自立している人ほど優れている。
という感覚を強く持っていれば、その飛躍は少しだけ見えにくくなる。
3 能力を評価する社会と、能力で人間を評価する社会
ここで一つ区別しておきたい。
能力を評価すること
と、
能力によって人間そのものの価値を決めること
は違う。
たとえば会社が採用するとき、仕事を遂行する能力を見るのは当然である。
スポーツ選手なら競技能力で評価される。
試験なら学力を測る。
そこには目的がある。
問題は、その限定された評価を、人間全体へ広げてしまうことである。
仕事ができる。
だから、人間として優れている。
稼げる。
だから、社会的価値が高い。
働けない。
だから、他人より価値が低い。
この変換が起きると、能力評価は別のものになる。
社会の中で役割を決める物差しだったものが、
人間の価値を決める物差し
になる。
第3話で扱ったメリトクラシーの危うさも、ここにあった。
努力し、能力を身につけ、成果を上げた人が報われる。
それだけなら理解できる。
しかし、
成果を上げられなかった人には、それだけの理由がある。
努力不足だった。
能力が足りなかった。
自己管理ができなかった。
そう説明され続けると、いつの間にか、
下位にいる人は、下位にいるだけの人間である
という見方が生まれる。
その延長線上に、「生きる価値」まで置いてしまえば、相模原事件との距離は急に縮まる。
4 「社会に貢献する人」は、本当に上なのか
社会に貢献する。
とても聞こえのいい言葉である。
筆者も、社会に貢献すること自体を否定したいわけではない。
働く。
税金を払う。
子どもを育てる。
地域活動をする。
研究をする。
介護をする。
人を助ける。
社会は、そういう行動の積み重ねで成り立っている。
ただし、
社会に貢献していることと、生きる価値があることは同じではない。
ここを混ぜると問題が起きる。
たとえば寝たきりの高齢者がいる。
仕事はできない。
税金もほとんど払っていない。
介護や医療には費用がかかる。
それでも、
「社会への貢献が少ないから、生きる価値も少ない」
とは普通は言わない。
なぜなら、人間の価値は現在の生産性だけで決まるものではないと、多くの人が感覚的には理解しているからだ。
だが、社会全体で「貢献」という言葉が強くなりすぎれば、この感覚も少しずつ変わるかもしれない。
何を生み出しているのか。
どれだけ役に立っているのか。
社会に何を返しているのか。
人生のあらゆる場面で、そんな説明を求められるようになる。
そして、
「ただ生きているだけでは不十分」
という空気が生まれる。
ここまで来ると、生存が権利ではなくなる。
何かを提供することへの報酬に近づいてしまう。
5 税金を払う人の方が「偉い」のか
社会保障の議論でも、似た問題がある。
「自分は税金を払っている」
「社会保険料も払っている」
「だから給付を受けている人より社会に貢献している」
こう感じることはあるだろう。
感情として理解できないわけではない。
しかし、税金を多く払っていることは、人間として上位であることを意味しない。
もし納税額が人間の価値なら、
高所得者ほど価値が高い。
低所得者は価値が低い。
子どもはほとんど価値がない。
重度障害者も価値が低い。
高齢者も年金生活に入れば価値が下がる。
そんな社会になる。
おそらく、多くの人はそこまでの結論には賛成しないだろう。
それでも日常では、
「税金を払っている人」
と
「税金で養われている人」
という表現が使われる。
言葉には力がある。
何度もそう表現されれば、
前者が主人公で、後者が負担であるかのような感覚が生まれてくる。
6 「自立できる人」が標準になる社会
現代の福祉政策では、「自立」という言葉が非常に重要になっている。
自立支援。
就労支援。
地域生活。
社会参加。
どれも必要な考え方である。
可能な人が自分でできることを増やし、本人の選択肢を広げる。
これは障害者の権利を守るうえでも重要である。
だが、「自立」という言葉には二つの意味が混ざりやすい。
一つは、
本人が自分の人生を選べるようにすること。
もう一つは、
他人の世話にならずに生きること。
この二つは同じではない。
人の助けを借りながら、自分の人生を決めることもできる。
車椅子を使う。
介助者に手伝ってもらう。
公的サービスを利用する。
家族の支援を受ける。
そうしながら、自分の意思で暮らしている人は大勢いる。
それでも「自立」を、
誰にも頼らないこと
と考えてしまうと、支援を必要とする人は最初から不利になる。
そして、
「いつまで人に頼るのか」
「自分でできる努力をしているのか」
という道徳判断が入り始める。
ここでも、制度の目的だったはずの「自立」が、人間の評価基準へ変わる。
7 依存しない人間など、本当はいない
少し考えれば分かる。
完全に自立した人間など、ほとんど存在しない。
水道がなければ生活できない。
電気がなければ困る。
道路も必要だ。
医療も必要になる。
食料は誰かが作っている。
子どもの頃には親や学校の世話になった。
会社員なら同僚や取引先がいる。
年を取れば、病院や介護サービスを使う可能性がある。
人間は最初から、他人との相互依存の中で生きている。
違うのは、
依存が見えるか、見えないか
である。
会社員が電車に乗り、健康保険を使い、銀行を使い、インターネットを使って働いていても、
「社会に依存している」
とはあまり言われない。
一方、介助者に身体を支えてもらっている人は、
「支援を受けている人」
とすぐに分かる。
目に見える依存だけが、負担として認識されやすい。
これはかなり不公平な見方だと思う。
8 「本人のため」という言葉
もう一つ、優生的な発想を見えにくくする言葉がある。
「本人のため」
である。
重い障害を持って生まれるのはかわいそう。
一生介護を受けるのはかわいそう。
意思疎通できない人生はかわいそう。
こうした言葉には、悪意がないことも多い。
むしろ同情から出てくる。
だが、
「私ならそんな人生は嫌だ」
と、
「その人もそんな人生を望んでいないはずだ」
は違う。
さらに、
「そんな人生なら存在しない方がよかった」
となれば、もう一段大きく飛躍している。
本人の人生を外側から評価し、
生きる価値まで判断することになるからだ。
ここは相模原事件でも重要だった。
植松は単に、
「障害者が嫌いだ」
と言ったのではない。
障害者本人も不幸だ。
家族も不幸だ。
だからいなくなった方がいい。
という形で正当化した。
つまり、
排除が「本人のため」という善意の言葉をまとっていた。
この構造は、露骨な差別よりも気づきにくい。
9 「障害者にも価値がある」と証明しなければならないのか
障害者についての記事やテレビ番組では、
こんな物語が好まれやすい。
障害があっても働いている。
スポーツで結果を出した。
芸術の才能がある。
社会に貢献している。
明るく前向きに生きている。
もちろん、その人たちの努力や成果を否定する理由はない。
むしろ正当に評価されるべきだろう。
ただ、少し気になることがある。
なぜ障害者は、生きる価値を説明するために何かを達成しなければならないのか。
スポーツができなくてもいい。
仕事ができなくてもいい。
特別な才能がなくてもいい。
社会を感動させなくてもいい。
健常者の多くは、何の偉業も達成せずに生きている。
それでも、
「あなたには生きる価値がない」
とは言われない。
障害者だけに、
「こんなに頑張っています」
「こんなに社会に貢献しています」
という証明を求めるなら、そこにはすでに非対称性がある。
役に立つ障害者なら認める。
努力している障害者なら認める。
では、何もできない人はどうなるのか。
相模原事件が突きつけたのは、まさにそこだった。
10 「何もできない人」の生命価値
最も重い問いを考えてみる。
自分で食事ができない。
一人で移動できない。
言葉で意思を伝えることも難しい。
働くことはできない。
税金も払えない。
一生、多くの人の支援を必要とする。
その人に、
「生きる価値はあるのか」
と聞かれたら、何と答えるだろう。
「その人にも社会に貢献できることがある」
と答えることもできる。
「家族に愛されている」
でもいい。
「周囲の人に大切なことを教えてくれる」
という答えもある。
どれも間違いではない。
だが、もう一歩考えると、
それすら必要なのだろうか。
社会に貢献しなくてもいい。
誰かを成長させなくてもいい。
家族に何かを与えなくてもいい。
役に立たなくても、生きていてよい。
そう言えるか。
実は、ここが最も難しい。
なぜなら現代社会は、ほとんどあらゆるものに意味や成果を求めるからだ。
教育にも成果。
仕事にも成果。
福祉にも成果。
医療にも費用対効果。
その考え方自体は必要である。
しかし最後に一つだけ、
成果を求めてはいけないもの
を残しておかなければならない。
人間の生存そのものだ。
11 優生思想は「弱者を憎む思想」だけではない
ここまで考えると、優生思想について少し違った見方ができる。
優生思想というと、
強者が弱者を憎み、
排除し、
支配する思想のように見える。
確かにそういう形もある。
だが、もっと現代的な形では、
合理性。
自立。
幸福。
効率。
社会への貢献。
自己責任。
こうした、一見すると正しい価値の組み合わせからも生まれ得る。
一つ一つは必要な価値である。
だから厄介なのだ。
誰も、
「弱者を排除しよう」
とは言っていない。
ただ、
「できるだけ自立した方がいい」
「本人も健康な方が幸せだ」
「限られた財源は効率よく使うべきだ」
「自分の選択には責任を持つべきだ」
と言っている。
ところが、それらを例外なく徹底すれば、
その基準を満たせない人間はどうなるのか
という問題が必ず残る。
12 優生思想を否定するだけでは足りない
「私は優生思想に反対です」
そう言うのは簡単である。
だが、本当に問われるのは、その先だと思う。
社会に役立たない人も支えるのか。
働けない人も同じ人間として扱うのか。
他人の助けを一生必要とする人にも、自分と同じ生存の権利を認めるのか。
効率が悪くても守るものを残すのか。
ここまで来て初めて、
優生思想を否定するという言葉に中身が入る。
相模原事件では、
最も能力が低いと判断された人たちが殺された。
だからこの事件を考えるということは、
「障害者を差別してはいけません」
というだけでは終わらない。
もっと厄介な問いになる。
能力がなくても、生きる価値は変わらない。
私たちは、本当にそこまで言えるのか。
次章では、その問いを「自立」という言葉からさらに掘り下げてみたい。
なぜ現代社会では、自立する人がこれほど高く評価されるのか。
そして、
自立できないことは、本当に人間としての欠点なのか。
第7章 「自立」は本当に人間の価値を決めるのか
現代社会では、「自立」はほとんど無条件に良い言葉として使われる。
自立した大人。
自立した生活。
経済的自立。
就労による自立。
福祉の世界でも「自立支援」という言葉は頻繁に使われる。
もちろん、自分でできることを増やし、自分の人生について自分で決められるようになることは大切である。
問題は、
「自立できること」と「人間として価値があること」が、いつの間にか同じ意味になっていないか
ということだ。
この二つは、本来まったく別の話である。
1 第3話で見たメリトクラシーの続き
第3話では、メリトクラシーについて考えた。
能力があり、努力し、成果を出した人が評価される。
現代社会ではかなり自然な考え方である。
血筋だけで身分が決まる社会より、公平に見える。
だが、メリトクラシーには裏側がある。
成功した人が、
「自分は努力したから成功した」
と思えば、
成功できなかった人に、
「努力が足りなかったのではないか」
という視線が向く。
障害者にも同じことが起こり得る。
就労できる。
一人暮らしできる。
社会参加できる。
自分で稼げる。
そういう人は、
「障害があっても頑張っている」
と評価される。
反対に、それが難しい人は、
「もっと自立できないのか」
「できることはあるのではないか」
と問われる。
支援する側が悪意を持っているとは限らない。
むしろ善意であることも多い。
本人の可能性を広げたい。
できることを増やしたい。
社会参加してほしい。
その考え自体には意味がある。
しかし、それが強くなりすぎると、
自立できる障害者の方が望ましい
という序列を生みかねない。
2 「自立」には二つの意味がある
自立という言葉は、少なくとも二つに分けて考えた方がいい。
一つは、
自分の人生を自分で決められること。
もう一つは、
他人の助けを借りずに生活できること。
この二つは同じではない。
たとえば重い身体障害があり、24時間の介助を必要とする人がいるとする。
食事にも介助がいる。
着替えにも介助がいる。
移動にも介助がいる。
身体的には、多くの人に依存している。
それでも、
どこに住むか。
何を食べるか。
誰と会うか。
何をしたいか。
そうしたことを本人が決めているなら、その人は自分の人生について自立していると言える。
逆に、身体的には何でも一人でできる人でも、
進路。
仕事。
結婚。
生活。
すべてを周囲に決められているなら、本当に自立しているのかは分からない。
障害者運動で重視されてきた「自立生活」は、必ずしも、
「介助を受けない生活」
という意味ではない。
必要な支援を使いながら、自分の暮らしを自分で選ぶという考え方である。
ここを間違えると、
支援を受けている人=自立できていない人
という見方になってしまう。
3 誰にも頼らない人間などいない
そもそも、「誰にも頼らず生きる」という意味で自立を考えるなら、ほとんどの人は自立していない。
朝、水道を使う。
電気を使う。
電車に乗る。
道路を走る。
スーパーで誰かが作った食べ物を買う。
病気になれば病院へ行く。
会社に行けば同僚や取引先の力を借りる。
インターネットを使えば、世界中の人が作った通信網やソフトウェアを利用する。
それでも私たちは普段、
「社会に依存している」
とは言われない。
むしろ一人前の社会人として扱われる。
では、なぜ介助者を使っている人だけが、
「人に頼っている」
と目立って見えるのか。
違いは、依存の有無ではない。
依存の形が見えやすいかどうか
である。
健常者の依存は巨大な社会システムの中に隠れている。
障害者の依存は、介助者という具体的な人間の姿で見える。
だから後者だけが「依存」として認識されやすい。
しかし人間は、最初から相互依存する生き物である。
完全に自立した個人というイメージの方が、むしろ現実離れしている。
4 「自分でできることを増やす」と「人に頼るな」は違う
ここで誤解してはいけない。
本人ができることを増やす支援には意味がある。
リハビリ。
教育。
就労訓練。
生活訓練。
補助機器。
こうしたものによって、本人の選択肢が広がるなら、それは大きな価値がある。
だが、
「できることを増やす」
と、
「できないことを人に頼ってはいけない」
は違う。
前者の目的は、本人の自由を増やすこと。
後者の目的は、周囲の負担を減らすことになりやすい。
もちろん、両方が一致する場合もある。
だが、いつもそうとは限らない。
本人にとっては介助を受けた方が生活の質が高いのに、
「自立のため」
という理由で何でも自分でやることを求められれば、
自立支援が逆に本人を縛ることもある。
このとき「自立」は、自由を増やす言葉ではなくなる。
社会に迷惑をかけない人間になること
という意味に変わってしまう。
5 「迷惑をかけない人」が理想になりすぎていないか
日本では、
「人に迷惑をかけないように」
と言われて育つことが多い。
大切な考え方ではある。
しかし、この言葉を徹底するとかなり苦しくなる。
高齢者は介護で迷惑をかける。
子どもは親に迷惑をかける。
病人は職場に迷惑をかける。
障害者は介助者に迷惑をかける。
失業した人は社会保障制度に迷惑をかける。
そう考え始めれば、
人間は弱った瞬間に、
「申し訳ない存在」
になる。
そして、
「迷惑をかけてまで生きたくない」
という言葉が出てくる。
これは後の安楽死の議論でも重要になる。
「家族に迷惑をかけたくない」
という言葉は、一見とても自主的に見える。
しかし、
迷惑をかける人間はよくない
という価値観が社会に強く存在しているなら、その選択は本当に完全に自由なのだろうか。
6 「助けたくなる弱者」と「助けたくならない弱者」
弱者支援について考えると、もう一つ難しい問題がある。
社会は、すべての弱者に同じように共感するわけではない。
助けたくなる人と、そうでない人がいる。
たとえば、
一生懸命リハビリしている。
感謝を言葉にする。
笑顔が多い。
努力して働いている。
周囲に迷惑をかけない。
こういう人は「応援したい」と思われやすい。
それ自体は自然な感情である。
一方で、
怒りをぶつける。
コミュニケーションが難しい。
突然大声を出す。
物を壊す。
他人を傷つけてしまう。
感謝を言葉で伝えられない。
こうした人は、支援の必要性が高くても、共感されにくい。
ここに厳しい現実がある。
最も支援を必要としている人が、最も「助けたい」と思わせる姿をしているとは限らない。
7 強度行動障害が突きつけるもの
分かりやすい例が、強度行動障害である。
自傷。
他害。
物を壊す。
大声を出す。
こだわりが非常に強い。
日常生活を送るために、多くの支援を必要とすることがある。
家族や支援者の負担も大きくなる。
こうしたケースでは、
「かわいそうだから助けよう」
だけでは支援を続けるのが難しい。
本人の行動によって、周囲が疲弊することもある。
場合によっては危険もある。
ここで問われるのは、
支援する人に好かれることを、支援を受ける条件にするのか
ということである。
優しくて、感謝して、努力している弱者だけを助けるなら、それはかなり簡単だ。
本当の試金石は、
助けたいと思えない相手でも、必要なら支えることができるか
にある。
この問いは重い。
だが福祉とは、本来そこまで含んだ制度であるはずだ。
8 感謝を要求した瞬間、福祉は施しになる
支援を受けている人に、
「税金で暮らしているのだから感謝しろ」
という言葉が向けられることがある。
気持ちは分からなくもない。
社会保障は多くの人の負担で成り立っている。
だが、この考えを徹底すると、福祉の性格が変わる。
社会保障が権利ではなく、
支える側からの施し
になる。
施しなら、受け取る側は感謝しなければならない。
態度もよくしなければならない。
不満を言ってはいけない。
要求もしづらくなる。
しかし、社会保障制度は本来、
「善良な納税者がかわいそうな人へ好意で分け与える制度」
ではない。
誰でも人生のどこかで支援を必要とする可能性があるという前提で、社会全体が作っている仕組みである。
ならば、
「助けてあげている」
だけでは少し違う。
9 自立できない人ほど価値が低いのか
ここで最初の問いへ戻ろう。
自立できる人と、自立できない人。
どちらが社会にとって負担が小さいかと聞かれれば、自立できる人だろう。
制度設計では、その違いを考える必要がある。
しかし、
どちらの生命価値が高いか
と聞かれれば、話は別である。
一人で暮らせる。
働ける。
意思疎通できる。
それらは能力であって、人間の資格ではない。
相模原事件で殺された人たちの中には、意思を言葉で伝えることが難しい人もいた。
常時支援を必要とする人もいた。
植松は、その事実を生命価値の低さに変換した。
だからこの事件を考えるなら、
「植松のような極端な考えは間違っている」
だけでは足りない。
その一歩手前にある、
自立できる人の方が人間として上である
という感覚についても考える必要がある。
10 「自立」の目的は何なのか
本来、自立支援の目的は、
社会保障費を削減することではない。
支援される人を減らすことでもない。
本人が、
どこで暮らすか。
誰と暮らすか。
何をするか。
どう生きるか。
その選択肢を増やすことにあるはずだ。
だから、自立支援の結果として就労できる人が増えるならよい。
一人暮らしできるならよい。
支援量を減らせる人がいるなら、それもよい。
しかし、
支援を減らせなかった人が失敗したわけではない。
働けなかった人が失敗したわけでもない。
本人の自由が広がったか
を見る必要がある。
ここを忘れると、
「自立支援」が、
社会から支援されなくても済む人間を作る政策
に変わってしまう。
同じ言葉でも、中身はかなり違う。
11 人間は「支えられる側」になっても価値を失わない
相模原事件から考えたいことは、結局ここだと思う。
人は、一生同じ能力を維持できない。
老いる。
病気になる。
怪我をする。
認知能力も落ちる。
働けなくなる。
介護が必要になる。
多くの人が、人生のどこかで「自立できない状態」になる。
そのとき、
「自立できなくなったから、人間としての価値も下がった」
と言われる社会を、本当に望むだろうか。
自立は大切である。
努力も大切だ。
社会参加も大切だ。
だが、それらは、
生きる資格を得るための条件ではない。
できる人はやればいい。
できない人は支援を受ければいい。
それでよい。
そう言える社会でなければ、優生思想を本当に克服したとは言えないのかもしれない。
そして次に考えるのは、
なぜ私たちは、障害者の中でも「頑張っている人」を特に評価したくなるのか。
その気持ち自体は悪意ではない。
むしろ善意である。
だが、善意にも思わぬ裏側がある。
コラム2 「努力している障害者」はなぜ称賛されるのか
障害者を扱う記事やテレビ番組で、よく見る物語がある。
事故や病気で障害を負った。
絶望した。
しかし懸命にリハビリした。
そして仕事へ復帰した。
あるいはスポーツに挑戦した。
大会で結果を残した。
夢をかなえた。
とても分かりやすい。
そして、感動する。
筆者も、こうした人の努力を否定するつもりはまったくない。
努力した人は、その努力を正当に評価されていい。
問題は別のところにある。
なぜ障害者には、こんなに頻繁に「努力の物語」が求められるのだろう。
「障害があるのに頑張っている」
「障害があるのに頑張っている」
この言葉は褒め言葉として使われる。
悪意はない。
だが少し分解すると、妙なところもある。
なぜ、
「障害があるのに」
が必要なのだろう。
健常者が会社へ行って普通に働いていても、
「健常者なのに頑張っている」
とは言わない。
障害者だけが、
日常生活を送ること自体を努力として評価されることがある。
これは肯定的な評価に見える。
しかし裏側には、
障害者は本来、できない存在である
という前提が隠れている場合もある。
できないと思っていた。
それなのにできた。
だから感動する。
そういう構造である。
頑張る障害者は安心できる
もう一つある。
「頑張っている障害者」は、支援する側に安心感を与える。
本人も努力している。
だから応援したい。
税金を使って支援することにも納得できる。
こういう感情は自然である。
しかし逆にすると、
頑張っていないように見える障害者は、助ける価値が低い
という話になりかねない。
リハビリを嫌がる。
就労訓練に行かない。
働くことを希望しない。
支援者に感謝しない。
そういう人は、
「本人にも問題がある」
と判断されやすい。
ここで支援が、
必要性によって決まるのではなく、
努力によって獲得するもの
に変わっていく。
「障害を乗り越える」という言葉
「障害を乗り越えた」
という表現もよく使われる。
分かりやすいし、物語としてきれいである。
だが、障害はいつも乗り越えられるものではない。
なくならない障害もある。
改善しない症状もある。
どれだけ努力しても、できないことはある。
そのとき、
「乗り越えられなかった人」
はどうなるのだろう。
努力不足だったのか。
本人の気持ちが弱かったのか。
そうではない。
努力しても変わらないものはある。
だから、
障害を乗り越えることだけを成功物語にしない
ことも大切だと思う。
障害を残したまま生きる。
支援を受けながら生きる。
できないことをできないままにする。
そういう人生にも価値がある。
パラアスリートだけが障害者ではない
パラスポーツは、多くの人に障害者の可能性を見せた。
素晴らしいことだと思う。
だが、パラアスリートは当然ながら、障害者全体の代表ではない。
世界レベルで競技する人は、障害者の中でも極めて高い身体能力や精神力を持つ人である。
健常者でいえば、オリンピック選手を見て、
「人間なら誰でもこれくらい努力できる」
と言うようなものだ。
それでも、成功した障害者を見て、
「障害があっても、こんなにできる」
という話になることがある。
すると、
できない人が再び置き去りになる。
生きる価値を証明しなくていい
結局、このコラムで言いたいのは単純なことだ。
障害者が努力することは素晴らしい。
成果を出せば評価されるべきだ。
それは健常者と同じである。
しかし、
努力しているから生きる価値があるわけではない。
働いているからでもない。
スポーツができるからでもない。
芸術の才能があるからでもない。
周囲を感動させるからでもない。
何もできなくてもいい。
特別な才能がなくてもいい。
頑張れない日があってもいい。
支援を受け続けてもいい。
健常者の多くは、社会を感動させるような偉業を達成せずに一生を終える。
それでも、生きる価値を証明するよう求められることはない。
ならば障害者にも同じでいいはずだ。
障害者だけが、「私は社会に役立っています」と証明しなければ生存を認められない社会にしてはいけない。
努力は称賛していい。
だが、生きる権利まで努力の成果報酬にしてはいけない。
ここは、相模原事件を考えるうえで忘れたくない線だと思う。
第8章 善意から始まる優生思想
優生思想という言葉には、強い悪意のイメージがある。
弱者を見下す。
障害者を排除する。
「劣った人間」を減らそうとする。
だから、自分はそんな思想とは無関係だと思いやすい。
だが、実際にはもっと厄介な形がある。
本人がかわいそうだから。
家族が大変だから。
苦痛を減らしたいから。
こうした善意から始まるものだ。
むしろ現代社会で注意すべきなのは、こちらかもしれない。
なぜなら、悪意なら警戒できる。
だが善意は、警戒しにくい。
1 「こんな人生はかわいそう」
重い障害を持つ人を見たとき、
「かわいそう」
と感じる人はいる。
悪意ではない。
相手の苦しさを想像した結果、出てくる言葉である。
寝たきり。
意思疎通が難しい。
食事にも介助が必要。
一生、誰かの支援を受ける。
自分なら耐えられない。
そう思うこともある。
ここまでは自然な感情だと思う。
問題は、
「自分なら嫌だ」
と、
「その人も生きたくないはずだ」
を同じにしてしまうことだ。
この二つには大きな距離がある。
自分がその人生を望まないことと、
実際にその人生を生きている人が不幸だということは同じではない。
さらに、
「不幸なら存在しない方がよかった」
まで進めば、もう一段大きな飛躍になる。
本人の苦痛を心配するところから始まり、
本人の存在そのものを否定するところまで行ってしまう。
ここに、善意から優生的な発想へ移る境界線がある。
2 「苦しんでいる人を助ける」と「苦しむ人をなくす」
この違いは、かなり重要である。
苦しんでいる人がいる。
普通なら、
苦痛を減らす。
医療を提供する。
介護を増やす。
生活環境を改善する。
家族を支援する。
そういう方向を考える。
つまり、
人を残して、苦痛を減らす。
ところが優生的な発想では、
苦痛の原因とみなされた人そのものをなくす。
という方向へ進むことがある。
これだけ見ると、とても極端に感じる。
だが、
「本人も苦しい」
「家族も苦しい」
「社会にも負担がかかる」
という三つが重なると、
この飛躍が急に合理的に見えることがある。
問題を解決するより、
問題の主体を消した方が早い。
そんな考え方である。
相模原事件では、それが最も暴力的な形で現れた。
3 家族の負担は現実にある
ここで、家族介護の問題を軽視してはいけない。
重度障害者を家族だけで支えるのは、現実に大きな負担になることがある。
身体的な負担。
経済的な負担。
睡眠不足。
仕事との両立。
きょうだいへの影響。
将来への不安。
「親亡き後」への恐怖。
これはきれいごとでは解決できない。
だから、
「家族が大変だというのは差別だ」
と切り捨てるのも間違っている。
家族が苦しいなら、家族を支える必要がある。
レスパイト。
在宅サービス。
施設。
相談支援。
所得保障。
そうしたものを整えるべきである。
ただし、ここで一つだけ線を引く必要がある。
家族が苦しいことと、介護される本人の存在が悪いことは別である。
この二つを混ぜると、
「家族を救うために、本人をいなくする」
という発想が入り込む。
4 「家族のため」が本人の排除に変わるとき
たとえば、
重度障害児を育てる親が疲れ切っている。
24時間介護が必要。
きょうだいにも負担がかかる。
親も高齢になっている。
こういう状況を見れば、
「家族がかわいそうだ」
と思う人は多いだろう。
では、その解決策は何か。
本来なら、
家族の負担を減らすことである。
しかし、
「この子がいなければ、家族はもっと幸せだった」
という方向へ話が進めば、性質が変わる。
支援制度の不足が原因だったものが、
本人の存在そのものが原因
という話に変わるからだ。
ここは、社会が何を「問題」と見るかという話でもある。
介護制度が足りない。
支援者が足りない。
所得保障が弱い。
その結果、家族が追い詰められている。
そう考えるのか。
それとも、
重度障害者がいること自体が問題だ。
と考えるのか。
同じ現実を見ても、結論はまったく違う。
5 社会保障費という「善意の合理化」
善意だけではない。
合理性も入ってくる。
「限られた社会保障費をどう使うか」
これは正当な問いである。
前の章でも見たように、制度の持続可能性は議論しなければならない。
だが、ここでも一つ境界線がある。
「どの制度を効率化するか」
から、
「どの人への支出を減らすか」
さらに、
「どの人なら支えなくてもいいか」
へ変わると、話の中身が変わってくる。
特に、
「本人も不幸なのだから」
という善意が加わると、
かなり強い論理になる。
社会保障費も減る。
家族の負担も減る。
本人の苦しみも終わる。
一見すると、
全員にとって良いこと
のように見えてしまう。
ここが怖い。
6 誰が「本人の幸福」を決めるのか
結局、最大の問題はここである。
誰がその人の人生を評価するのか。
本人か。
家族か。
医師か。
社会か。
行政か。
周囲の人間が、
「その人生はつらい」
「そんな状態なら自分は耐えられない」
と思うことはできる。
だが、それを、
本人にとっても生きる価値のない人生である
と判断してよいのか。
特に、本人が意思を言葉で伝えることが難しい場合、この問題はさらに重くなる。
意思表示できないから、
「きっと本人も死にたいはずだ」
と推測する。
これは、本人の意思を尊重しているように見えて、
実際には周囲の価値観を本人に投影しているだけかもしれない。
7 「QOL」という言葉の難しさ
現代医療では、QOL――生活の質――という考え方が重視される。
単に長く生きればよいのではない。
本人がどのように生きられるかを見る。
とても重要な考え方である。
だが、QOLも使い方によっては難しい。
誰の視点でQOLを判断するのか。
第三者が見て、
「そんな生活は質が低い」
と評価することがある。
しかし本人が同じように感じているとは限らない。
身体的な制約が大きくても、生活に満足している人はいる。
逆に、健康で働いていても強い苦痛を抱えている人もいる。
外から見た「良い人生」と、
本人が感じる「良い人生」は、
必ずしも一致しない。
QOLを大切にするなら、
第三者が人生の点数をつけるのではなく、
本人が何を大事にしているかを見る
必要がある。
8 善意は、悪意より止めにくい
悪意による差別は分かりやすい。
「障害者が嫌いだ」
と言えば、問題だと分かる。
「障害者を排除しろ」
と言えば、反発も起こる。
しかし、
「本人のためです」
「家族のためです」
「苦しませないためです」
と言われると、反論は難しくなる。
善意だからだ。
しかも言っている本人も、本当に善意であることがある。
だから、優生思想を考えるとき、
悪い人間を探すだけでは足りない。
善意の人間が、
善意のまま、
他人の人生を「存在しない方がよい」と評価してしまう可能性まで考える必要がある。
9 合理性にも同じ問題がある
合理性も同じである。
支援には金がかかる。
介護には人手がかかる。
医療資源にも限界がある。
ここまでは事実である。
だから効率化する。
これも必要である。
だが、
「もっとも効率のいい社会」
を徹底して作ろうとすると、
効率の悪い人間が問題になってくる。
多くの支援を必要とする。
生産性が低い。
経済的なリターンが少ない。
そういう人を、
「非効率な存在」
として見るようになれば、
人間そのものがコスト計算の対象になる。
合理性は便利な道具である。
だが、
何を合理化してよいのか
を先に決めておかなければならない。
社会保障制度は合理化してよい。
事務手続きも合理化してよい。
医療資源の配分も議論しなければならない。
しかし、
誰が存在してよいかまで合理化し始めると、話は別である。
10 「本人のため」と「社会のため」が混ざるとき
さらに危険なのは、
本人の幸福と社会の利益が一致する、
と考えることだ。
「本人も苦しい」
「家族も苦しい」
「社会にも負担」
だったら、
その人がいなくなることは、
本人にも家族にも社会にも良い。
こういう三段論法である。
だが、ここには大きな問題がある。
本人の利益。
家族の利益。
社会の利益。
この三つは、本来別々に考えるべきものだ。
本人のためと言いながら、
実際には家族の負担を減らしたいだけかもしれない。
本人のためと言いながら、
社会保障費を減らしたいだけかもしれない。
目的が混ざると、
誰のための判断なのか分からなくなる。
だから、生命倫理ではこの区別が重要になる。
本人の利益を語るとき、本当に本人の利益を見ているのか。
そこを問い続けなければならない。
11 「かわいそうだから産まない方がいい」
この構造は、出生前診断の議論にもつながる。
重い障害があるかもしれない。
一生苦労するかもしれない。
だったら、
「そんな人生を送らせるより、産まない方が本人のためではないか」
という考えが出てくる。
この考え方を単純に否定することも難しい。
親には現実の負担がある。
子どもの苦痛も考える。
ただし、
「その人生は本人にとって生きる価値がない」
と第三者が先回りして判断していないか。
ここが問題になる。
第2話で扱った「産まない自由」は、まさにこの難しさを含んでいる。
個人の選択は尊重されるべきである。
しかし、その選択が社会全体で、
「障害のある人生は避けるべきもの」
という意味を持ち始めたらどうなるのか。
善意と自由だけでは、答えは出ない。
12 善意と優生思想の境界線
では、どこから優生思想になるのか。
「障害者はかわいそうだ」
と思った瞬間ではない。
家族の負担を心配した瞬間でもない。
社会保障費を考えた瞬間でもない。
境界線は、
本人の人生を、本人の外側から「存在しない方がよい」と評価したとき
に近い。
そして、
その判断を社会の標準にしたとき、
さらに優生的になる。
「自分なら産まない」
は個人の選択である。
「こういう子は産まない方がいい」
となれば、他人の選択への圧力になる。
「産むのは無責任だ」
となれば、道徳的義務になる。
ここから先は、次章で扱う「自発的優生」へつながっていく。
13 悪意のない優生社会
最も怖いのは、誰も悪人ではない社会かもしれない。
医師は患者を思っている。
親は子どもの幸福を考えている。
行政は財政を持続可能にしようとしている。
企業は便利な技術を提供している。
社会は自己決定を尊重している。
誰も、
「弱者を排除しよう」
とは言っていない。
それでも全員が合理的に行動した結果、
ある種類の人生だけが、
「避けるべき人生」
として扱われるようになる可能性がある。
この形の方が、20世紀型の優生思想より見えにくい。
命令する独裁者がいないからだ。
悪い法律もない。
強制もない。
ただ、
「その方が本人のためでしょう」
という選択だけが積み重なる。
そして気づいたときには、
選ばれない人間ができている。
14 善意を疑うのではなく、善意の行き先を見る
ここで言いたいのは、
善意を持つな、
ということではない。
本人の苦しみを心配することも、
家族の負担を考えることも、
社会保障の持続可能性を考えることも必要である。
ただし、
善意だから正しい、
合理的だから正しい、
で止まらない方がいい。
その善意が、
誰のためになっているのか。
その合理性が、
誰を切り捨てるのか。
そこまで見る必要がある。
優生思想が再び現れるとしたら、
おそらく昔と同じ姿では来ない。
「劣等な人間を減らせ」
とは言わない。
もっと優しい言葉で来る。
「本人のためです」
「家族のためです」
「より良い選択です」
「あなたの自由です」
だからこそ、見分けるのが難しい。
そして次に考えるのが、
国家が命令しなくても、
個人の自由な選択だけで優生的な結果が生まれるのか。
いわゆる、
自発的優生
という問題である。
第9章 自発的優生――国家が命令しなくても優生は起こるのか
ここまでの優生思想は、比較的分かりやすかった。
国家が決める。
法律を作る。
対象となる人を分類する。
そして、
「この人は子どもを持つべきではない」
と生殖に介入する。
旧優生保護法がそうだった。
だから何が問題なのかも見えやすい。
強制がある。
権力がある。
被害を受ける人がいる。
責任を負う主体も分かる。
では、国家が何も命令しなければ問題はなくなるのだろうか。
ここで出てくるのが、
「自発的優生」
という考え方である。
日本の優生思想史研究でも、出生前診断などを考える際、国家による強制的な優生政策だけではなく、個人の選択によって進む「自発的優生」という系譜を見る必要があると指摘されている。九州大学の横山尊氏は、日本における出生前診断の歴史を、この「自発的優生」という視点から整理している。
国家は命令しない。
医師も強制しない。
最終的に決めるのは本人である。
それでも、個人が同じ方向を選び続けた結果、
特定の特徴を持つ人間だけが生まれにくくなることはあり得る。
これをどう考えるのか。
20世紀の優生政策より、はるかに答えの難しい問題である。
1 国家が選ぶ優生から、個人が選ぶ優生へ
古典的な優生思想では、主体は国家だった。
誰が望ましいのか。
誰が望ましくないのか。
どのような人間を増やしたいのか。
それを国家が決める。
だから強制不妊手術のような政策が生まれた。
これに対して現代の「リベラル優生学」では、考え方がかなり違う。
国家ではなく、個人の選択を重視する。
親が自分の価値観に基づいて選ぶ。
国家は、
「この子を選びなさい」
とは命令しない。
むしろ、
「あなたが決めてください」
と言う。
Stanford Encyclopedia of Philosophyも、古い権威主義的優生と現代のリベラル優生を分ける重要な違いとして、国家の利益ではなく将来の子どもや家族の利益を重視すること、そして親の生殖の自由を中心に置くことを挙げている。
一見すると、まったく別の思想に見える。
実際、同じものとして扱うべきではない。
強制不妊手術と出生前診断を受ける個人の選択を、同列に並べることはできない。
そこには決定的な違いがある。
強制されているかどうか。
これは大きい。
しかし、それですべての問題が解決するわけでもない。
2 出生前診断は何を変えたのか
出生前診断の技術が発達したことで、親は以前には知ることのできなかった情報を得られるようになった。
胎児に特定の染色体疾患がある可能性。
遺伝性疾患の可能性。
将来の健康に関わる情報。
知ることで準備できることもある。
出産する病院を選ぶ。
必要な医療について学ぶ。
福祉制度を調べる。
家族で話し合う。
あるいは、妊娠を継続するかどうかを考える。
情報が増えることで、選択肢も増える。
だから出生前診断そのものを、
「優生思想だから禁止すべきだ」
と単純に片づけることはできない。
それでは今度は、妊娠している本人の自己決定権を奪うことになる。
問題は、
情報を得られること
ではなく、
その情報を得た後、どんな選択だけが「正しい」とみなされるのか
にある。
3 「自由に選べる」ことと「自由に選んでいる」こと
ここは、この連載の中心的な問いでもある。
選択肢が二つある。
Aを選んでもよい。
Bを選んでもよい。
法律上は完全に自由である。
では、それだけで自由な選択と言えるのだろうか。
たとえば障害の可能性が分かった妊婦に、
「どちらを選んでもかまいません」
と医師が説明する。
ここまでは中立である。
しかし社会の側に、
障害児を育てる支援が足りない。
仕事と介護を両立しにくい。
保育先が見つからない。
親亡き後が不安である。
経済的負担も大きい。
周囲から、
「どうして産んだの?」
と言われる可能性がある。
そういう条件が積み重なっていたらどうだろう。
紙の上では、
産む自由も、産まない自由もある。
しかし実際の選択の重さは、同じではない。
片方だけが圧倒的に大きな負担を伴うなら、
「自由に選んでください」
と言うだけで十分なのか。
ここに自発的優生の難しさがある。
4 誰も強制していない
この問題が厄介なのは、悪役が見つからないことである。
医師は、
「選択肢を説明しただけです」
と言う。
行政は、
「出産する自由は保障しています」
と言う。
社会も、
「本人が決めたことです」
と言う。
親も、
「自分たちで考えて決めました」
と言う。
全部、本当かもしれない。
誰も嘘をついていない。
誰も強制していない。
それでも、多くの人が同じ方向を選ぶことはある。
そのとき、
個人の自由な選択が積み重なった結果として、社会全体では特定の特徴を持つ人が減っていく。
これを、
単なる個人の選択の集積と見るのか。
それとも、
優生的な結果と見るのか。
意見が分かれるところである。
5 個人の選択を「優生思想」と呼んでよいのか
ここは慎重でありたい。
出生前診断を受けること。
障害の可能性を知ること。
妊娠を継続しないこと。
それらを選択した一人ひとりに対して、
「あなたは優生思想の持ち主だ」
と決めつけるのは適切ではない。
人にはそれぞれ事情がある。
経済状況。
健康状態。
すでにいる子ども。
介護できる家族がいるか。
将来への不安。
本人の価値観。
外から簡単に評価できるものではない。
このシリーズで問いたいのも、個々の親を裁くことではない。
見るべきなのは、
個人の選択を取り囲んでいる環境
である。
選ぶ人を責めるのではなく、
なぜその選択が合理的に見えるのかを考える。
この違いは大きい。
6 「障害を避けたい」は差別なのか
ここも簡単ではない。
将来の子どもに重い疾患がないことを願う。
健康に生まれてほしいと思う。
それ自体を差別と呼ぶのは無理がある。
親なら、
できるだけ苦痛の少ない人生を送ってほしい。
健康でいてほしい。
そう願うのは自然である。
リベラル優生学の議論も、ここから始まる。
重篤な病気を避けられるなら、避けた方が将来の子どもの利益になるのではないか。
この主張には、かなり強い説得力がある。
Stanford Encyclopediaが整理するリベラル優生学の議論でも、重い疾患を避けることから出発し、より広い形質の選択や能力向上へ議論が広がっていく。
問題は、
どこまでを「避けるべき不利益」と考えるのか
である。
命に関わる重篤な遺伝病。
慢性疾患。
身体障害。
知的障害。
発達特性。
低身長。
将来病気になる確率。
さらに技術が進めば、
知能。
記憶力。
容姿。
運動能力。
どこまでが治療で、どこからが「望ましい人間」の選択なのか。
境界線は思ったほど明確ではない。
7 「病気を避ける」と「人を避ける」
障害者運動から長く出されてきた批判の一つに、
障害のある胎児を選択的に避けることが、
すでにその障害を持って生きている人に、
「あなたのような人は生まれない方がよい」
という社会的メッセージを送るのではないか、というものがある。
いわゆる表現主義的批判と呼ばれる議論である。リベラル優生学をめぐる生命倫理の議論でも、この問題は主要な批判の一つとして扱われてきた。
もちろん、
「自分には育てることが難しい」
と判断した親が、
「現在生きている障害者には価値がない」
と考えているとは限らない。
ほとんどの場合、そんな意図はないだろう。
それでも社会全体として、
ある障害について、
「分かったら避けるのが普通」
という状態になったらどうなるのか。
実際にその障害を持っている人が、
「自分は本来なら避けられるはずだった存在なのか」
と感じる可能性はある。
個人の意図と、
社会全体が発するメッセージは、
必ずしも同じではない。
8 NIPTが簡単になるほど、選ばないことに説明が必要になる
技術は、選択の意味まで変える。
たとえば検査が、
高額で、
身体的負担があり、
結果が出るまで時間がかかるなら、
受けない選択も理解されやすい。
しかし検査が簡単になる。
安全になる。
精度が上がる。
価格も下がる。
日常的な妊婦健診の延長のようになる。
そうすると次第に、
「なぜ受けなかったのか」
という問いが出てくる可能性がある。
Nuffield Council on BioethicsはNIPTについて、検査へのアクセスを認めながらも、単に選択肢を用意するだけではなく、妊婦やカップルが自律的かつ十分な情報に基づいて選択できる環境を整えること、さらに検査普及が障害や差異をどう捉える社会につながるのかという広い影響まで考えるべきだとしている。
つまり、
技術的に簡単になったことと、倫理的に単純になったことは同じではない。
むしろ簡単になればなるほど、
「受けない自由」
を守ることが難しくなる場合もある。
9 選択肢が増えるほど、責任も増える
技術がなければ、選べない。
選べないことについて、人は普通責任を問われない。
ところが技術によって選択肢ができると、
「選べたはずだ」
という話が出てくる。
さらに、
「知ることができた」
「避けることができた」
となれば、
その結果について本人の責任を問う余地が生まれる。
ここが重要である。
選択肢が増えることは、自由が増えることでもある。
しかし同時に、
「なぜその選択をしなかったのか」と問われる場面も増える。
自由と責任は、しばしば一緒にやってくる。
だからリベラル優生思想には、一つの逆説がある。
人間を自由にするための技術が、
正しい選択をしなかった人への責任追及を強める可能性がある。
10 最初は「選んでもいい」だった
ここから先を、少し未来まで延ばして考えてみよう。
最初は、
「検査を受けてもいい」
だった。
技術が普及すると、
「受けた方が安心ですよ」
になる。
さらに一般化すると、
「責任ある親なら受けた方がいい」
になるかもしれない。
そして最後には、
「なぜ受けなかったのか」
という問いになる。
ここまで来れば、
法律上は最後まで自由である。
検査を受けないことも合法。
障害が分かっても出産することも合法。
誰も禁止していない。
それでも社会的には、
「正しい選択」が一つに絞られている。
これが、自発的優生について考えるときに最も怖い部分である。
11 国家は何もしなくてもよい
20世紀型優生思想では、国家が大きな仕事をしなければならなかった。
法律を作る。
人を分類する。
手術を命令する。
施設を作る。
強制する。
だから権力の暴走を止めればよかった。
しかし自発的優生では、国家はもっと小さな役割でも成立する。
情報を提供する。
技術へのアクセスを認める。
最終判断は本人に委ねる。
それだけでよい。
市場が検査を提供する。
医療が情報を提供する。
社会が「望ましい選択」を示す。
個人が合理的に判断する。
誰も命令しない。
それでも、結果として同じ特徴を持つ人が選ばれ続けることはあり得る。
だから、
「国家が強制していないから優生問題ではない」
だけでは、現代の問題を十分に捉えられない。
12 では、個人の自由を制限すればいいのか
ここで逆方向へ行くのも危険である。
「優生的な結果になる可能性があるから出生前診断を禁止しよう」
「障害を理由とした妊娠中断を認めなければいい」
となれば、
今度は国家が個人の生殖を管理することになる。
これでは、別の形で同じ問題に戻ってしまう。
産まないことを強制する国家も問題だが、
産むことを強制する国家も問題である。
だからこの問題は難しい。
個人の自己決定を守る。
同時に、
特定の選択だけが事実上強制される社会にもさせない。
その両方が必要になる。
Nuffield CouncilがNIPTについて、本人の自律的な選択だけでなく、その選択が行われる「より広い社会環境」を政策上考慮すべきだとしているのは、この問題と重なる。
13 本当の自由には「逆を選んでも生きられること」が必要である
筆者は、ここがかなり大事だと思っている。
自由とは、
紙の上に二つの選択肢が書かれていることではない。
どちらを選んでも、その後の人生を生きていけることが必要だ。
障害児を産む自由があると言いながら、
保育先がない。
介護サービスがない。
仕事を辞めなければならない。
家族だけで支えなければならない。
将来の生活保障も見えない。
そして周囲から、
「分かっていて産んだんでしょう」
と言われる。
それなら、
法的には自由でも、実質的にはかなり狭い自由である。
逆に、
障害があっても必要な支援を受けられる。
親が仕事を続けられる。
教育を受けられる。
本人が地域で暮らせる。
親が亡くなった後も生活できる。
そういう環境があって初めて、
「産む」
と
「産まない」
の両方を、本当に選べるようになる。
つまり、
自由な自己決定を守りたいなら、福祉を削ればよいわけではない。
むしろ選択を自由にするために、福祉が必要になる。
14 自発的優生の怖さは「誰も悪くない」ことにある
ここまで来ると、第8章の話へ戻る。
自発的優生の世界では、誰も悪人ではない。
親は子どもの将来を心配している。
医師は正確な情報を伝えている。
研究者は技術を発達させている。
行政は自己決定を尊重している。
企業はニーズに応えている。
一つひとつを見れば、問題がない。
むしろ良いことも多い。
それでも全体として、
「この特徴を持つ人は、できれば生まれない方がよい」
という方向に社会が動くことはあり得る。
これは、旧優生保護法とはまったく違う。
国家が選別しているのではない。
誰も命令していないのに、社会全体では選別が進む。
だから見えにくい。
15 「自分で選んだ」という言葉の強さ
そして、自発的優生にはもう一つ重要な特徴がある。
結果について、
「あなた自身が選びました」
と言えることである。
これは非常に強い。
国家から強制されたなら、国家に責任を問える。
しかし自分で選んだなら、
責任も自分で負うべきだ、
という話になりやすい。
ここから、
出生前診断。
自己決定。
自己責任。
社会保障。
がつながり始める。
障害があると分かっていた。
それでも産んだ。
ならば、
「その結果を社会に負担させるのはおかしい」
という考えが出てくる可能性がある。
今の日本社会がその状態にある、と言いたいわけではない。
だが、論理としては十分に成立する。
そして、この論理が成立した瞬間、
自由だったはずの選択は性質を変える。
16 「選ぶ自由」から「正しく選ぶ責任」へ
結局、自発的優生の最大の問題は、
個人が選ぶことそのものではない。
社会が「正しい選択」を一つだけ用意してしまうこと
だと思う。
出生前診断を受けてもいい。
受けなくてもいい。
障害が分かっても産んでいい。
産まなくてもいい。
これが自由である。
しかし、
「合理的な人ならこちらを選ぶ」
「責任ある親ならこちらを選ぶ」
「社会に迷惑をかけない人ならこちらを選ぶ」
となれば、自由は形だけ残る。
国家は何も命令しない。
法律も禁止しない。
それでも、
選ばない人だけが説明を求められる。
ここまで来れば、次の問題が見えてくる。
自発的だったはずの優生は、
いつまで「自発的」でいられるのか。
自由な選択は、
いつ「責任」に変わるのか。
そして責任は、
いつ「義務」になるのか。
次章では、その境界線を考えたい。
「できる」が「した方がよい」になり、「するべきだ」へ変わるとき、自由はまだ自由なのだろうか。
第10章 「自由」が「責任」に変わるとき
自由な選択には、奇妙なところがある。
選択肢がなければ、人は責任を問われない。
できなかったことについて、
「なぜしなかったのか」
とは普通言われない。
だが、技術が進み、選択肢が増えると事情が変わる。
できる。
知ることができる。
避けることができる。
選ぶことができる。
そうなると次に、
「なぜ選ばなかったのか」
という問いが生まれる。
この変化は、出生前診断だけの話ではない。
予防医療。
健康管理。
教育。
保険。
老後の備え。
現代社会のさまざまな場所で起きている。
そして生殖の領域に入ったとき、この問いはかなり重くなる。
1 最初は「選べる」だけだった
新しい技術が登場するとき、最初は選択肢として紹介される。
検査を受けることができます。
希望する人だけ受けてください。
受けない選択もあります。
ここではまだ、
「自由が増えた」
と素直に言える。
以前なら知ることのできなかった情報を知ることができる。
将来の準備もできる。
選択肢が増えること自体には、大きな価値がある。
だが、その技術が普及していくと空気が少しずつ変わる。
多くの人が受ける。
安全性も高まる。
費用も下がる。
医療機関でも普通に案内される。
すると、
「受ける人」
ではなく、
「受けない人」
の方が珍しくなる。
ここで自由の性質が変わり始める。
2 「受けてもいい」から「受けた方がいい」へ
たとえば出生前診断がまだ珍しい時代なら、
「受けなかった」
と聞いても、多くの人は特に何も思わないだろう。
ところが検査が一般化すると、
「念のため受けておいた方が安心では?」
という言葉が出てくる。
悪意ではない。
むしろ親切である。
病気を早く知る。
準備できる。
不安を減らせる。
だから、
「受けた方がいい」
という助言には合理性がある。
そして合理的であるからこそ、次の段階へ進みやすい。
3 「責任ある親なら」という言葉
子どもを持つ以上、親には責任がある。
これも当然のように聞こえる。
健康を気遣う。
教育を受けさせる。
安全な環境を用意する。
子どもの将来を考える。
では、出生前に重要な情報を得られるのに、
あえて得ないことはどう評価されるのだろう。
技術が十分に普及した社会では、
「責任ある親なら事前に調べるべきだ」
という考えが生まれる可能性がある。
ここで、
自由な選択
だったものが、
親としての責任
へ変わる。
まだ法律ではない。
受けなくても罰せられない。
だが、
「良い親なら受ける」
という道徳的な評価が入り始める。
この変化は小さいようで大きい。
4 次に現れるのは「なぜ避けなかったのか」
さらに技術が進めば、
「知ることができた」
だけではなく、
「避けることができた」
という場面が増えるかもしれない。
すると、
ある病気や障害を持つ子どもが生まれたとき、
周囲がこう考える可能性がある。
なぜ検査しなかったのか。
検査したなら、なぜその選択をしたのか。
将来大変になることは分かっていたのではないか。
ここで重要なのは、
誰も、
「産んではいけない」
とは言っていないことである。
法律上は最後まで自由である。
それでも、
産んだ側だけが説明を求められる。
自由の形式は残っている。
だが、社会的には明らかに一方の選択が標準になっている。
5 「自分で選んだのだから」という強い言葉
そして、その先に自己責任論が入ってくる。
自分で選んだ。
リスクも知っていた。
それでも選んだ。
ならば、
その結果についても自分で責任を負うべきではないか。
この論理は非常に強い。
現代社会では、
「自分で決めた」
という言葉が大きな意味を持つからだ。
自己決定を尊重する。
その代わり、結果も引き受ける。
一見すると公平である。
だが、生殖や障害の問題にそのまま当てはめると、かなり危うい。
たとえば、
「障害があると分かって産んだのだから、その介護費用まで社会に求めるのはおかしい」
という議論が出てきたらどうだろう。
これは単なる自己決定尊重ではなくなる。
産む自由には、社会保障を受けにくくなるという価格が付く。
法的には産める。
だが実際には、
「産むなら自分で面倒を見てください」
となる。
それを本当に自由と呼べるのか。
6 自由は「逆を選んでも不利益を受けないこと」でもある
自由について考えるとき、
選択肢が存在することだけを見てしまいがちである。
Aも選べる。
Bも選べる。
だから自由だ。
しかし現実には、
Aを選ぶと大きな不利益を受ける。
Bを選べばほとんど不利益がない。
という状況がある。
この場合、本当に対等な選択肢なのか。
たとえば、
障害児を産むことは合法である。
だが、
保育園に入れない。
仕事を続けられない。
介護サービスも足りない。
経済的支援も弱い。
周囲から「分かっていて産んだ」と言われる。
こういう社会なら、
「産む自由」は紙の上にはあっても、実際にはかなり重い。
だから自由を守るなら、
少数派の選択をしても生きていける環境
が必要になる。
ここが、自己決定と社会保障が意外な形でつながるところである。
福祉は自己決定の敵ではない。
むしろ、
自己決定を本物にするための条件
でもある。
7 「義務」は法律だけで作られるわけではない
義務というと、
法律。
罰則。
強制。
を想像する。
だが、人間は法律だけで行動しているわけではない。
世間。
家族。
職場。
医療者。
友人。
SNS。
こうした場所から受ける圧力も大きい。
たとえば、
「普通はそうする」
という言葉。
これは意外に強い。
法律ではない。
罰金もない。
それでも、
普通ではない選択をする人には説明が求められる。
「どうして?」
「なぜ?」
「本当に考えたの?」
何度も問われれば、人は疲れる。
そして、
「普通の方を選んだ方が楽だ」
となる。
この段階では国家は何もしていない。
それでも社会的な義務は成立する。
8 「選ばない自由」が最初に消える
選択肢が増えた社会で、最初に失われやすいのは、
選ばない自由
かもしれない。
検査しない。
知ろうとしない。
能力を強化しない。
リスクを完全には避けない。
そういう選択である。
技術がなければ、
「仕方なかった」
で済む。
だが技術があると、
「できたのに、しなかった」
になる。
そして社会は、
「しなかった理由」を求める。
だから技術の進歩は、
自由を増やすと同時に、
責任の範囲も広げる。
ここを見落とすと、
「選択肢が増えた=自由が増えた」
という単純な話になってしまう。
9 予防医療でも同じことは起きている
この構造は、出生前診断だけに存在する特殊なものではない。
健康診断を受ける。
予防接種を受ける。
禁煙する。
運動する。
食事を管理する。
現代医学は、
「病気になってから治す」
だけではなく、
「病気にならないようにする」
方向へ進んできた。
それ自体は非常に良いことである。
だが、予防できる病気が増えるほど、
病気になった人に、
「自己管理が悪かったのでは」
という視線も生まれやすくなる。
健康でいることが、
自由な目標ではなく、
社会への責任
になっていく。
これも同じ構造である。
できる。
↓
した方がいい。
↓
するべきだ。
↓
しなかった人は責任を負うべきだ。
生殖の領域では、その対象が本人だけでなく、まだ生まれていない子どもまで広がる。
だから問題がさらに複雑になる。
10 「最善の子どもを選ぶ義務」はあるのか
生命倫理学には、ここまでの議論をかなり正面から扱った考え方がある。
ジュリアン・サヴレスキュらが論じてきた、
procreative beneficence――生殖的善行
である。
非常に単純化すれば、
複数の子どもの可能性から選べるなら、
利用可能な情報に基づいて、より良い人生を送る可能性の高い子どもを選ぶことには強い道徳的理由がある、
という考え方である。
これは一見、かなり説得力がある。
子どもの幸福を望むことは親として自然だからだ。
重い病気を避けられるなら避けたい。
大きな苦痛を防げるなら防ぎたい。
そこまでは理解しやすい。
だが、問題はその先である。
「選んだ方がよい」ことと、「選ばなければならない」ことは同じなのか。
生命倫理学でも、この点は論争になってきた。
道徳的な理由があることと、
逆を選んだ人を非難できることは別ではないか、
という反論がある。
この違いは非常に重要である。
11 「より良い」の基準は誰が決めるのか
さらに難しい問題もある。
「より良い人生」
とは何なのか。
重篤な痛みを伴う病気を避ける。
ここまでは比較的合意しやすいかもしれない。
では、
聴覚障害は?
低身長は?
発達特性は?
将来の認知能力は?
性格は?
容姿は?
どこまで行けば、
病気を避ける話から、
望ましい人間を選ぶ話
へ変わるのか。
この境界線は、技術が進むほど難しくなる。
そして一度、
「子どものためなら、より良い能力を選ぶべきだ」
という原則を認めると、
選択範囲は病気だけに留まらない可能性がある。
ここから後の章で扱う、
AI。
遺伝子技術。
能力強化。
という問題へつながっていく。
12 社会保障と結びついた瞬間、圧力は強くなる
自発的優生が社会的義務へ変わるうえで、もう一つ重要なのが社会保障である。
もし選択の結果に、
社会全体の費用がかかる、
という議論が入ったらどうなるか。
障害があると分かっていた。
それでも産んだ。
介護サービスが必要になった。
医療費もかかる。
そのとき、
「その費用をなぜ他人が負担するのか」
という問いが出てくる。
ここまで行けば、
個人の選択と社会的負担が直接結びつく。
そして、
「社会に負担をかけない選択をすること」
が、
親の責任として語られる可能性がある。
ここが、相模原事件編で社会保障の話を長く扱ってきた理由でもある。
社会保障費の問題と優生思想は同じではない。
しかし、
「避けられる負担を避けなかった人は自己責任だ」
という考え方を通じて、両者が接続する可能性はある。
13 国家が命令しなくても、結果はかなり強制的になり得る
ここで20世紀型優生思想との違いがはっきりする。
昔は、
国家が命令する。
従わなければ強制する。
だから誰が加害者なのか分かる。
しかし現代型では、
国家は、
「あなたの自由です」
と言う。
医師も、
「最終的に決めるのはあなたです」
と言う。
社会も、
「自己決定を尊重します」
と言う。
そのうえで、
一方の選択だけが合理的。
一方だけが責任ある。
一方だけが社会に迷惑をかけない。
という環境ができる。
これはかなり強い。
命令より強い場合すらある。
なぜなら本人自身が、
「自分で選んだ」
と思うからだ。
14 「自由だから問題ない」は十分な答えではない
リベラル優生思想を考えるとき、
「本人が自由に選んでいるのだから問題ない」
という答えだけでは足りないと思う。
確かに強制の有無は重要である。
旧優生保護法のような国家による強制と、
本人の自己決定を同列にしてはいけない。
しかし、
自由であるかどうかを見るなら、
その選択が行われる環境も見る必要がある。
逆を選んでも、
経済的に生きていけるか。
支援を受けられるか。
社会から責められないか。
「無責任」と呼ばれないか。
そこまで見なければ、本当の自由かどうかは分からない。
15 自発的優生が「義務」になる瞬間
では、自発的優生はどこで義務に変わるのか。
法律で義務化された瞬間ではないと思う。
もっと前である。
おそらく、
選ばなかった人だけが理由を説明しなければならなくなったとき
である。
なぜ検査しなかったのですか。
なぜ分かっていて産んだのですか。
なぜ予防しなかったのですか。
なぜ能力を高めなかったのですか。
なぜ社会に負担の少ない選択をしなかったのですか。
こうした問いに、
少数派の側だけが答え続けなければならない。
その状態になれば、
法律上の自由は残っていても、
社会的にはかなり義務に近い。
16 自由を守るには、「間違える自由」も必要である
現代社会は、
正しい選択を増やそうとしてきた。
病気を予防する。
危険を避ける。
子どもの将来を良くする。
合理的に判断する。
それ自体は悪いことではない。
だが、本当に自由を大切にするなら、
社会が考える「最適解」を選ばない自由
も残さなければならない。
合理的ではない選択。
多数派とは違う選択。
多少リスクのある選択。
社会から見れば理解しにくい選択。
それでも本人が選べる。
そして、その後も社会から排除されない。
そこまで含めて自由である。
もちろん、他人に重大な危害を与える行為まで自由だという意味ではない。
ただ、生命や家族についての私的な選択まで、
「合理的な正解は一つ」
にしてしまえば、
自己決定という言葉はかなり薄くなる。
17 「正しい選択」しか許されない社会
ここまで来ると、一つの逆説が見えてくる。
リベラル優生思想は、
国家の強制を否定する。
個人の自由を尊重する。
自己決定を重視する。
その意味では、20世紀型優生思想とはかなり違う。
だが、
「より良い選択」
を科学的、合理的、倫理的に突き詰めていけば、
最終的には、
正しい選択が一つしかない社会
へ近づく可能性がある。
その社会では、
誰も命令しない。
誰も罰しない。
ただ、
正解以外を選んだ人が、
無責任。
非合理的。
利己的。
社会に迷惑をかける人。
と評価される。
これは強制ではない。
しかし自由とも言い切れない。
18 「産まない自由」と「産まない責任」の間
第2話では、
「産まない自由」
を考えた。
出生前診断を受ける。
結果を知る。
妊娠を継続するかどうかを決める。
ここには本人の自己決定権がある。
その自由は守られるべきだと思う。
しかし、その自由を守るためには、
反対側の自由も守らなければならない。
検査しない。
知っても産む。
障害があっても育てる。
こちらを選んでも、
社会から罰を受けない。
必要な支援を受けられる。
そうでなければ、
「産まない自由」だけが、
いつの間にか、
「産まない責任」
へ変わってしまう。
19 そして「死を選ぶ自由」にも同じ問いが戻ってくる
この構造は、出生だけで終わらない。
後の安楽死の議論でも、ほとんど同じ問題が出てくる。
最初は、
死を選ぶことができる。
次に、
苦痛が強いなら死を選ぶことも合理的だ。
そして、
家族に迷惑をかける。
介護費がかかる。
社会保障費がかかる。
本人もつらい。
となれば、
「なぜ死を選ばないのか」
という問いが生まれる可能性がある。
だから、
「死を選ぶ権利」
と、
「死を選ばなければならない社会」
は、まったく違う。
出生前診断でも安楽死でも、
この違いは同じである。
自由な選択が存在すること。
そして、
その自由を使わない自由まで守られていること。
この二つが揃って初めて、自己決定と言える。
20 リベラル優生思想の最も難しいところ
ここまで来て、リベラル優生思想の難しさが見えてくる。
それは、
自由を否定する思想ではない。
むしろ自由を最大化しようとする。
幸福を増やそうとする。
苦痛を減らそうとする。
より良い人生を選ぼうとする。
どれも、倫理的には非常に強い価値である。
だからこそ危うい。
悪意から始まる思想なら、警戒しやすい。
しかし、
自由と幸福を増やすための思想
が行き過ぎたとき、
どこで止めればよいのか。
これはずっと難しい。
そして、ここから次の問いが始まる。
リベラル優生思想は、
なぜこれほど説得力を持つのか。
そして、
合理的で倫理的な思想であるからこそ、なぜ暴走したときの被害が大きくなり得るのか。
次章では、その問題を考えていく。
第11章 なぜリベラル優生思想は危険になり得るのか
ここまで、かなり慎重に書いてきた。
出生前診断を受けること自体が優生思想なのではない。
社会保障費を議論することも優生思想ではない。
自立を目指すことも悪くない。
子どもの健康を願うことも当然である。
本人の苦痛を減らしたいと考えることも、家族の負担を軽くしたいと考えることも、それ自体はむしろ善意から出ている。
だから難しい。
リベラル優生思想の危うさは、
明らかに間違った価値から始まるわけではない
ところにある。
自由。
自己決定。
幸福。
苦痛の回避。
科学。
合理性。
親の責任。
社会の持続可能性。
一つずつ取り出せば、現代社会が大切にしてきた価値ばかりである。
問題は、それらをどこまで徹底するのかだ。
1 最初の一歩には、ほとんど反対しにくい
たとえば、重い遺伝性疾患を子どもに伝える可能性があるとする。
医療技術によって、それを避けられるかもしれない。
本人が望み、医師が情報を提供し、より健康な子どもが生まれる可能性を高める。
この段階で、
「絶対にやめるべきだ」
と主張するのは簡単ではない。
むしろ、
「使える医療技術があるのなら使いたい」
と思う人の方が多いだろう。
では、対象を少し広げる。
命に関わる病気ではないが、一生治療が必要になる病気。
次に、身体障害。
知的障害。
発達特性。
将来病気になる確率。
さらに技術が進めば、
身長。
記憶力。
知能。
運動能力。
性格。
どこで止めるのか。
最初の一歩が間違っているから危険なのではない。
最初の一歩があまりにも合理的なので、二歩目、三歩目との境界線が見えにくい。
そこに難しさがある。
2 「治療」と「改善」と「強化」の境界
医療には比較的分かりやすい目的がある。
病気を治す。
苦痛を減らす。
失われた機能を取り戻す。
だが技術が発達すると、この境界は曖昧になる。
病気を治す。
↓
病気になりにくくする。
↓
平均より健康にする。
↓
平均より能力を高くする。
どこまでが治療で、どこからが強化なのか。
たとえば視力が悪い人に眼鏡を提供することは治療に近い。
では、健康な視力を持つ人を、さらに遠くまで見えるようにする技術はどうだろう。
認知症を治す薬は医療だろう。
では健康な人の記憶力を2倍にする薬は?
知的障害を生じさせる遺伝的要因を治療することと、
平均的な知能を持つ子どもの知能をさらに高めることの間には、どこに線を引くのか。
技術が存在しない間は考えなくてよかった。
しかし技術ができれば、選ばなければならない。
そして選べるようになれば、
第10章で見たように、
「なぜ選ばなかったのか」
という問いまで生まれる。
3 合理的だから止めにくい
合理性には強い力がある。
Aを選ぶと病気になる可能性が高い。
Bを選べば低い。
ならばBを選ぶ。
普通の判断である。
しかしこの考え方を人間そのものへ広げていくと、
より健康。
より知的。
より自立。
より生産的。
より幸福。
という方向に選択が集まっていく。
一つひとつの選択は合理的である。
誰かが悪意を持っているわけではない。
それでも集団として見ると、
ある種類の人間が「選ばれにくい人間」になっていく
可能性がある。
ここが古典的な優生政策とは大きく違う。
国家が、
「この人間を減らせ」
と命令しなくてもいい。
一人ひとりが自分にとって合理的な選択をする。
それだけで社会全体に方向性が生まれる。
4 倫理的だから、さらに止めにくい
さらに厄介なのが、
合理性だけでなく倫理まで入ってくることだ。
子どもに重い苦痛を与えたくない。
これは倫理的に理解しやすい。
子どもの人生をできるだけ良いものにしたい。
これも分かる。
親なら子どもの幸福を考えるべきだ。
ここまで反対しにくい。
すると、
「より健康な子どもを選ぶ」
ことは単なる好みではなく、
親として良い行動
に見えてくる。
そして良い行動が明確になれば、
逆の選択には疑問が向けられる。
「なぜ、もっと良い選択をしなかったのか」
ここで自由だったはずの選択に、道徳的な評価が入り始める。
5 善人だけでも優生的な社会は成立し得る
20世紀の優生思想を振り返ると、
加害者が見える。
国家。
法律。
行政。
医療機関。
強制する主体が存在する。
だから、そこを批判すればよかった。
しかし現代型では、もっと複雑になる。
医師は患者のためを思っている。
親は子どものためを思っている。
行政は本人の自己決定を尊重している。
企業は求められる技術を提供している。
研究者は病気を治そうとしている。
誰も、
「弱者を排除しよう」
とは考えていないかもしれない。
それでも全体として、
特定の病気。
特定の障害。
特定の能力。
を持つ人間だけが選択されにくくなる可能性がある。
この社会には、
分かりやすい悪人がいない。
だから問題を指摘すると、
「誰が何を強制しているのか」
と言われる。
実際、誰も強制していない。
そこが問題なのである。
6 「誰も強制していない」は万能の免罪符ではない
自由主義社会では、
強制がないことは非常に重要である。
国家が本人の意思に反して生殖を管理することは、明確に問題だ。
だから、
本人が自由に選んだのなら尊重すべきだ、
という原則には意味がある。
ただし、
「強制されていない」
ことと、
「社会的圧力が存在しない」
ことは違う。
法律では自由。
しかし一方を選べば、
家族から責められる。
医療者から疑問を持たれる。
経済的支援を受けにくい。
社会から「無責任」と評価される。
そんな状態なら、形式上の自由だけを見ても十分ではない。
特に、
合理的な選択をしなかった結果は自分で負担すべきだ
という考えが強くなれば、圧力はさらに強くなる。
国家は命令しなくてもよい。
社会保障制度を通じて、
「選ばなかった人だけが高い代償を払う」
状態を作ればいい。
これもまた、事実上の選別圧力になり得る。
7 市場も選別を作る
もう一つ、20世紀には今ほど大きくなかった主体がある。
市場である。
遺伝子検査。
出生前検査。
生殖補助医療。
遺伝子治療。
将来は能力強化技術も入ってくるかもしれない。
国家が利用を義務づけなくても、
企業が商品として提供することはできる。
そして消費者が選ぶ。
より健康な子ども。
より病気になりにくい子ども。
さらに技術が進めば、
より高い能力を持つ子ども。
競争社会では、
「他の家庭が使うなら自分も使わなければ」
という状況も起こり得る。
最初は、
選びたい人が選べる技術
だったものが、
競争によって、
選ばなければ子どもが不利になる技術
へ変わる。
ここでは国家の命令どころか、
道徳的な圧力すら必要ない。
競争だけで十分である。
8 格差が加わると、さらに別の問題が起こる
もし能力強化技術が高額だったらどうなるだろう。
裕福な家庭は利用できる。
そうでない家庭は利用できない。
その結果、
能力の差。
健康の差。
教育格差。
所得格差。
が世代を越えて固定される可能性がある。
これは従来の優生思想とは違う形である。
国家が特定の人種や障害者を排除するのではない。
買える人間が、自分たちの次世代を強化していく。
その差が積み重なれば、
生まれた時点で人間の能力差が社会階層と結びつく可能性もある。
現在はまだ多くが未来の話である。
だから断定してはいけない。
ただ、技術的にできることが増えるほど、
「誰が利用できるか」
という格差の問題は避けられなくなる。
9 「望ましい人間」が定義された瞬間
優生思想には、必ず何らかの「望ましい人間像」がある。
健康。
知能。
身体能力。
精神的安定。
社会性。
生産性。
20世紀には、国家がそれを定義した。
21世紀には、
国家ではなく、
市場。
社会。
家庭。
本人。
それぞれが決めるのかもしれない。
しかし、多くの人が似た価値観を共有していれば、結果は似てくる。
健康な方がいい。
知能が高い方がいい。
自立できる方がいい。
社会に適応できる方がいい。
こういう価値自体は理解できる。
問題は、
その反対側にいる人間をどう見るのかである。
「望ましい」人間を定義すれば、
必ず、
「あまり望ましくない」人間
が生まれる。
そして技術によって後者を避けられるようになったとき、
「なぜ避けないのか」
という話が始まる。
10 優生思想の暴走は、突然始まるとは限らない
「暴走」という言葉を使うと、
独裁者が現れ、
突然法律を変え、
強制的な政策を始めるような光景を想像しやすい。
しかし現代型の暴走は、もっと静かかもしれない。
昨日まで選択だったものが、
今日には推奨される。
そのうち標準になる。
さらに責任になる。
最後に、
選ばない人だけが奇異な目で見られる。
誰も、
「今日から優生社会になります」
とは宣言しない。
法律も劇的には変わらない。
社会の常識だけが少しずつ変わる。
その方がむしろ見えにくい。
11 一つ一つは正しくても、全体として正しいとは限らない
ここで重要なのが、
個人にとって合理的な行動と、
社会全体にとって望ましい結果は同じとは限らない、
ということだ。
一人の親が、
「健康な子どもを望む」
と考える。
理解できる。
別の親も同じように考える。
これも理解できる。
全員がそう考える。
それも一人ずつ見れば理解できる。
しかし結果として、
ある障害を持つ人がほとんど生まれなくなる。
その社会で、その障害を持って生きている人は、
自分の存在をどう見るのだろう。
また、その障害が「避けられるもの」になったことで、
支援への社会的理解が弱くなる可能性はないだろうか。
「今では防げるのだから」
という言葉が出てこないだろうか。
個人の合理性を否定しなくても、
集積した結果について考えることはできる。
12 そして最も怖いのは、成功することである
古典的優生政策の恐ろしさは、
強制と人権侵害だった。
だが現代のリベラル優生思想について、別の意味で怖いことがある。
技術が本当に成功する可能性があることだ。
病気を減らす。
苦痛を減らす。
能力を高める。
平均寿命を延ばす。
健康寿命を延ばす。
もし実際にそれが可能なら、
利用したい人は増える。
そして成果が見えるほど、
「利用しない理由」が説明しにくくなる。
つまり、
技術が役に立たなければ社会的義務にはなりにくい。
技術が本当に役に立つからこそ、義務化する圧力が生まれる。
これは大きな逆説である。
13 「倫理的に正しい」が危険になる瞬間
この章の最初に戻ろう。
子どもの苦痛を避ける。
本人の幸福を考える。
家族の負担を減らす。
社会資源を効率よく使う。
自己決定を尊重する。
どれも倫理的な根拠を持つ。
だから、
リベラル優生思想を単純に、
「悪い思想」
として片づけることはできない。
むしろ問題は逆である。
倫理的な正しさを持つからこそ、限界を設定するのが難しい。
一度、
「より良いものを選ぶことは善である」
という原則を置けば、
では、
「なぜもっと良いものを選ばないのか」
という問いが続く。
どこかで、
「ここから先は、最適化しない」
と言わなければならない。
しかし、それをどこに置くのか。
簡単な答えはない。
14 人間を最適化するという誘惑
現代社会では、
多くのものが最適化されている。
企業経営。
物流。
医療。
教育。
エネルギー。
交通。
コンピューター。
無駄を減らし、成果を増やす。
合理的である。
だからこそ、
人間にも同じ発想を使いたくなる。
病気を減らす。
能力を高める。
社会適応を高める。
介護を必要としにくくする。
生産性を上げる。
個別には理解できる。
しかし、
人間そのものを最適化する
という発想には注意が必要だと思う。
最適化には、必ず評価基準が必要だからである。
何を最大化するのか。
知能か。
健康か。
幸福か。
所得か。
社会への貢献か。
そしてその基準を満たさない人間は、
「改善すべき人」
になる。
さらに改善できない人は、
どうなるのか。
15 相模原事件との距離
ここで相模原事件へ戻る。
植松聖は、
社会に貢献できるか。
意思疎通できるか。
介護を必要とするか。
といった基準で人間を評価した。
そして最も価値が低いと自分が判断した人について、
「いなくなった方がいい」
と結論づけた。
もちろん、
出生前診断を選ぶ親と、
19人を殺した植松を同一視することはできない。
行為も思想も違う。
それでも、
「望ましい人生」と「望ましくない人生」を第三者が評価する
という部分では、共通する問いがある。
どこまでなら評価してよいのか。
誰が評価するのか。
評価した結果、何をしてよいのか。
そこを考えなければならない。
16 優生思想の最も危険な形は、悪意に満ちたものとは限らない
筆者はここまで調べながら、
優生思想について少し考え方が変わった。
一番危険なのは、
障害者への憎悪をむき出しにした思想だけではないのかもしれない。
露骨な差別なら、多くの人が警戒できる。
相模原事件のような暴力なら、社会ははっきり拒絶できる。
むしろ難しいのは、
自由。
幸福。
科学。
合理性。
自己決定。
責任。
そういう、現代社会が大切にしてきた価値から導かれる優生的な選択である。
それは社会に入り込みやすい。
なぜなら、
正しいことをしているように見えるからだ。
17 「正しさ」が例外を許さなくなったとき
倫理には、例外が必要なことがある。
健康でいる方がよい。
しかし病気になった人も支える。
自立できる方がよい。
しかし自立できない人も支える。
能力が高い方が競争では有利。
しかし能力の低い人にも同じ人権がある。
社会に貢献することは大切。
しかし貢献できなくなっても、生きていてよい。
この、
「しかし」
が重要なのだと思う。
合理性だけなら、この「しかし」は無駄に見える。
効率が悪い。
コストがかかる。
例外だからだ。
それでも例外を残す。
そこに人権や福祉の意味がある。
リベラル優生思想が暴走するのは、
合理的で正しい原則そのものではなく、
その原則に例外を認めなくなったとき
なのかもしれない。
18 破局は、悪意ではなく善意から来るかもしれない
20世紀の優生政策を知ると、
「こんなことを二度と繰り返してはいけない」
と思う。
その通りだ。
しかし次の優生思想が、同じ制服を着て現れるとは限らない。
強制不妊手術。
人種政策。
「不良な子孫」という言葉。
そういう分かりやすい姿ではなく、
もっと穏やかな顔で来るかもしれない。
より健康な子どもを。
より幸福な人生を。
より少ない苦痛を。
より効率的な社会を。
より自由な選択を。
どれも魅力的である。
だからこそ、
どこまで行けば人間を選別していることになるのか
を考え続けなければならない。
リベラル優生思想は、合理性を捨てる思想ではない。
むしろ合理性を徹底する思想である。
倫理を捨てる思想でもない。
むしろ倫理的により良い結果を求める。
だから一度方向を誤れば、
「悪いことをしている」
という自覚なしに進み続ける可能性がある。
それが、この思想の最も怖いところだと思う。
コラム3 20世紀型優生思想と21世紀型優生思想
優生思想という言葉を使うと、どうしても20世紀のイメージが強い。
国家。
強制不妊手術。
人種差別。
障害者の隔離。
ナチス・ドイツ。
もちろん、歴史を忘れてはいけない。
だが、昔の姿だけを優生思想だと思っていると、現代的な問題を見落とす可能性がある。
20世紀型と、21世紀に問題となり得る形を並べてみると、違いが見えやすい。

もちろん、この表の右側にあるものがすべて優生思想だという意味ではない。
出生前診断も。
生殖補助医療も。
遺伝子治療も。
能力を高める技術も。
それだけで優生思想になるわけではない。
問題は、それらが、
「どんな人間なら生まれることが望ましいのか」
という選別と結びついたときである。
20世紀は「生ませない」
古典的優生思想では、
国家が、
「この人は子どもを持つべきではない」
と判断した。
本人の希望とは関係ない。
外側から決める。
だから強制不妊手術が成立した。
非常に分かりやすい。
21世紀は「あなたが選ぶ」
現代では、
「あなたの自由です」
という形になる可能性がある。
検査する。
選択する。
治療する。
強化する。
決めるのは本人である。
この違いは大きい。
自由な選択を、国家による強制と同じものとして扱ってはいけない。
ただ、
自由な選択が社会全体で同じ方向へ集まれば、
結果として特定の特徴を持つ人が選ばれなくなることはある。
だから、
手段が自由だから、結果も必ず自由主義的になるとは限らない。
20世紀は「命令」
20世紀型なら、
「産むな」
という。
21世紀型では、
「もちろん自由です」
と言う。
しかしその後に、
「検査できます」
「避けられます」
「子どものためです」
「責任ある親なら考えますよね」
「社会的負担もあります」
と続いたらどうだろう。
最後まで命令はない。
だが結論はほぼ決まっている。
これが、この連載で何度も触れてきた、
自由から義務への反転
である。
20世紀は「劣った人間」
現代社会で、
「劣った人間」
という言葉を使う人は少ない。
代わりに、
健康。
自立。
QOL。
社会適応。
能力。
生産性。
といった言葉が使われる。
これらは本来、必要な概念である。
問題は、それらが人間そのものの順位表になったときだ。
一人で生活できる人。
できない人。
働ける人。
働けない人。
高い能力を持つ人。
そうでない人。
その差を、
「どちらの人間の方が存在する価値が高いか」
へ変換した瞬間、優生的な発想が現れる。
20世紀は国家を止めればよかった
これは少し乱暴な言い方だが、古典的優生政策には対抗方法が見えやすい。
法律を廃止する。
強制を禁止する。
国家権力を制限する。
人権を保障する。
では、
個人の自由な選択が積み重なる21世紀型には、どう対応すればいいのか。
個人の選択を禁止すれば、今度は自由を侵害する。
市場を全面的に禁止するのも難しい。
医療技術の進歩を止めればよいわけでもない。
だから必要になるのは、
選択する自由と、選ばない自由を同時に守ること
になる。
そして少数派の選択をした人も、
その後、社会の中で生きられるようにすることだ。
21世紀型の方が必ず危険、という話ではない
ここも誤解しないでほしい。
国家が強制不妊手術を行った20世紀の優生政策と、
本人の自由意思による出生前診断を比べて、
「現代の方が悪い」
と言いたいわけではない。
強制の有無には決定的な違いがある。
むしろ現在の方が、本人の権利ははるかに強く保障されている。
問題は、
昔の優生思想を否定したから、優生的な選別の問題もすべて解決したと思わないこと
である。
姿が変われば、問題の見つけ方も変えなければならない。
優生思想は、同じ顔で二度やって来ない
歴史を学ぶとき、
昔と同じものが再び現れると思ってしまう。
しかし社会も技術も変わる。
言葉も変わる。
価値観も変わる。
だから、次に似た問題が起きるとしても、
「優生」
とは名乗らないだろう。
むしろ、
自由。
幸福。
自己決定。
科学。
合理性。
責任。
そういう、もっと現代的な言葉を使う可能性が高い。
だから見るべきなのは名前ではない。
何を基準に人間を選び、誰が「望ましくない側」に置かれるのか。
そこを見る必要がある。
そして次章では、この問題をさらに未来へ延ばす。
もしAIやロボットが、人間の能力や労働を大規模に代替するようになったらどうなるのか。
これまで「社会に貢献できない」と見なされてきたのは、主に重い障害などを持つ一部の人だった。
だがAI時代には、
健康で働く意思のある人間まで「能力が足りない側」に回るかもしれない。
そのとき優生思想の基準は、
障害の有無から、
能力そのもの
へ移るのだろうか。
第12章 AI時代、優生思想の基準は「障害」から「能力」へ変わるのか
ここまで、障害と優生思想の関係を見てきた。
相模原事件で植松聖が使った物差しも、かなり明確だった。
働けるか。
意思疎通できるか。
自立できるか。
社会に貢献できるか。
つまり、障害そのものだけではない。
「その人に何ができるのか」
によって生命の価値を測ろうとした。
では、その物差しを本当に採用したらどうなるのだろう。
AIとロボットの時代には、この問いが障害者だけのものではなくなる可能性がある。
なぜなら、
人間の能力そのものが、機械との比較にさらされ始めるからだ。
1 まず、「AIで人間の仕事がなくなる」と決まったわけではない
ここは最初にはっきりさせておきたい。
AIが発達すれば大量失業が起き、人間の大部分が働けなくなる。
そんな未来が確定したわけではない。
むしろ、現時点の研究はもう少し慎重である。
ILOが2025年に公表した分析では、世界の労働者のおよそ4人に1人が、生成AIの影響を受ける職業に就いている。
ただしILOが中心的に想定しているのは、
仕事の消滅ではなく、仕事の内容が変わること
である。
人間の入力が引き続き必要になるため、多くの職業では完全代替より仕事の変容が起きる可能性が高いとしている。
さらに2026年6月のILOによる実証研究のレビューでも、生成AIによる生産性向上は確認されつつある一方、大規模な雇用喪失は今のところ限定的だとされている。
むしろ現時点で見え始めている問題は、
若年層の雇用機会。
所得格差。
仕事の進め方。
労働者の裁量。
といった部分だという。
だから、
「AIによって人間の大半が失業する」
と断定するのは早い。
この章で考えたいのは、その予言ではない。
もっと条件付きの問いである。
もし将来、人間の経済的な有用性が大きく低下したら、私たちは人間の価値を何によって測るのか。
2 仕事はなくならなくても、「人間だけでやる仕事」は減るかもしれない
世界経済フォーラムの2025年版「Future of Jobs Report」では、2030年までにマクロトレンドによって約1億7000万の仕事が生まれる一方、約9200万の仕事が失われるとの企業側予測が示されている。
差し引きでは7800万の雇用増である。
つまり、この予測だけを見れば「仕事がなくなる未来」ではない。
ただ、ここで注目したいのは仕事の総数ではない。
誰がその仕事をできるのか。
という問題である。
新しい仕事が1億件生まれたとしても、失われた仕事に就いていた人が、そのまま新しい仕事へ移れるとは限らない。
必要な技能が違う。
年齢も違う。
教育環境も違う。
AIを使いこなせる人と、そうでない人もいる。
さらに、AIが補助することで一人の労働者が以前より多くの仕事をこなせるなら、
仕事そのものは残っていても、
必要とされる人間の数
は減るかもしれない。
IMFも、AIが高所得労働者を補完する形で導入された場合、労働所得格差だけでなく、資本収益を通じた資産格差まで拡大する可能性を指摘している。
問題は「仕事がゼロになるか」だけではない。
人間の能力が市場でいくらと評価されるのか
なのである。
3 「無用階級」という刺激的な言葉
この問題について、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは以前から、
“useless class”――「無用階級」
という刺激的な言葉を使ってきた。
かなり誤解を招きやすい表現なので、意味を確認しておいた方がいい。
ハラリが言っているのは、
「その人間には生きる価値がない」
ということではない。
本人も、自分がこの言葉を意図的に挑発的な表現として使っていると説明している。
問題にしているのは、
経済や政治のシステムから見て、人間が必要とされなくなる可能性
である。
AIが大量の労働を代替し、人々が仕事を失えば、所得だけでなく政治的な交渉力まで失うかもしれない。
ハラリはこれを未来の確定事項ではなく、AIの使い方を誤った場合に起こり得る最悪のシナリオとして提示している。
この区別は大事だ。
経済的に必要とされないことと、
人間として価値がないことは、
本来まったく別である。
だが、本当に社会はその二つを切り離せるのだろうか。
4 障害者に向けられていた言葉が、健常者へ向かう可能性
ここで相模原事件に戻る。
植松思想では、
働けない。
自立できない。
多くの支援を必要とする。
社会に貢献できない。
という特徴が、生命価値を低く評価する材料にされた。
ではAIが発達し、
普通に働いてきた人間まで、
「AIより生産性が低い」
と評価されるようになったらどうなるのだろう。
これまで、
「能力が足りない」
と言われやすかったのは、障害者など一部の人だった。
しかしAIが基準になれば、
健康な人間の大部分が「能力不足」になる可能性がある。
文章を書く。
翻訳する。
計算する。
プログラムを書く。
資料を調べる。
映像を作る。
診断を補助する。
機械を操作する。
こうした仕事で機械が人間より速く、安く、正確になるほど、
人間同士の小さな能力差は意味を失っていく。
5 メリトクラシーの前提そのものが揺らぐ
これは、第3話で扱ったメリトクラシーにも関係する。
メリトクラシーには、暗黙の約束がある。
努力する。
勉強する。
技能を身につける。
働く。
成果を出す。
そうすれば社会で評価される。
完全に公平ではないとしても、この物語があるから人は努力できる。
だがAIが人間より高い能力を持つ領域が増えると、この約束が崩れる可能性がある。
一生懸命勉強した。
資格も取った。
経験も積んだ。
それでもAIの方が速くて安い。
ここでは、
努力不足
という説明が成り立たない。
努力した人も負ける。
能力が高い人も負ける。
昨日までメリトクラシーの勝者だった人でさえ、技術革新一つで市場価値を失う可能性がある。
そうなると、
「能力が低いから支援される側になる」
という話ではなくなる。
人間だから、機械との競争では不利になる。
という世界が見えてくる。
6 もし「働けること」が人間の価値なら
ここで、かなり単純な問いを置いてみたい。
人間の価値は、働けることにあるのだろうか。
もしそうなら、
AIが人間より働けるようになった瞬間、
人間の価値は下がることになる。
人間の価値は、生産性にあるのだろうか。
それなら、
24時間働き、
休まず、
大量の情報を処理し、
高速で意思決定できる機械に、
人間が生産性で勝つのは難しい。
人間の価値を経済価値と同じものだと考えるなら、
AIの発達はかなり残酷な結論を導く。
ほとんどの人間は、いずれ機械より価値が低くなる。
相模原事件で障害者に向けられた物差しを、
そのまま全人類に適用した結果である。
7 「障害者/健常者」という境界が崩れる
20世紀の優生思想では、
正常。
異常。
健常。
障害。
という分類が大きな意味を持った。
しかしAI時代に能力が基準になれば、この区分は弱くなる可能性がある。
たとえば、
人間Aの認知能力が100。
人間Bが120。
AIが1000。
という世界を考える。
人間同士では20の差がある。
しかしAIとの比較では、どちらも大きく劣っている。
すると、
「健常者だから能力が高い」
という従来の前提まで意味を失う。
新しい境界線は、
障害者/健常者
ではなく、
AIを使って高い価値を生み出せる人/そうでない人
になるかもしれない。
これはかなり違う社会である。
8 新しい「支える側」と「支えられる側」
この連載で何度も出てきた言葉がある。
「支える側」と「支えられる側」。
現在は主に、
働いて税や社会保険料を払う現役世代。
社会保障を受ける高齢者や障害者。
という構図で語られることが多い。
だがAIやロボットが大量の生産を担うようになれば、この構図そのものが変わる可能性がある。
少数の企業。
AI。
ロボット。
資本を所有する人。
そこから大きな富が生まれる。
一方で、多くの人間は労働市場から得られる所得が減る。
そうなれば、
健康な成人まで「支えられる側」になる。
これは、現在とはかなり違う。
そして、そのとき社会保障について、
今の障害者福祉に向けられているのと同じ問いが返ってくる可能性がある。
「働いていない人を、なぜ支えるのか」
だ。
9 その人は働けないのか、それとも「働かせてもらえない」のか
ここでは原因が重要になる。
重い障害によって働くことが難しい。
AIに代替されて仕事がなくなった。
この二つは違う。
後者の場合、本人は働きたいかもしれない。
能力もある。
努力もしている。
しかし市場が、
「人間を雇うよりAIを使った方が安い」
と判断しているだけかもしれない。
それでも、
働いていないという結果だけを見れば同じである。
もし社会が、
所得を得ている=社会に貢献している
という価値観を持ち続ければ、
技術によって仕事を失った人まで、
「社会のお荷物」
と評価される危険がある。
ここで初めて、
相模原事件の問いが健常者自身へ戻ってくる。
10 「努力すればいい」が通用しない社会
メリトクラシーの厳しいところは、
負けた人に努力を求めることだった。
もっと勉強すればいい。
資格を取ればいい。
スキルを身につければいい。
だがAIの能力向上が十分に速ければ、
人間が新しい技能を学んでいる間に、AIもその技能を習得してしまう可能性がある。
すると、
「AIに奪われた仕事の代わりに、AIにはできない仕事を学べ」
という助言が、
何度も繰り返されることになる。
もちろん現実には、新しい仕事も生まれるだろう。
ILOも現在のところ「job apocalypse」ではなく仕事の変容を中心に見ている。
それでも、
適応できなかった人だけに責任を負わせてよいのか
という問題は残る。
技術革新の速度そのものが、人間の適応速度を上回る可能性があるからだ。
11 ここから「能力による優生」へ進む可能性
ここまでは労働政策の話である。
AIに仕事を奪われた人がいる。
再教育する。
所得を保障する。
新しい雇用を作る。
これは優生思想ではない。
では、どこから優生問題になるのか。
たとえば、こんな議論が始まったときである。
AI時代には高い認知能力が必要だ。
適応力の低い人は仕事を得にくい。
社会保障費も増える。
ならば、
最初から高い能力を持つ人間を増やした方がよいのではないか。
ここで労働市場の問題が、生殖の問題へ変わる。
さらに、
遺伝子。
胚選択。
能力強化。
と結びつけば、
「病気を避ける」
だけだったリベラル優生が、
「市場で役立つ能力を選ぶ」
方向へ広がる可能性がある。
12 優生の基準が「健康」から「競争力」へ移る
これはかなり重要な変化である。
従来の生殖倫理では、
主に病気や障害が議論されてきた。
苦痛を避ける。
重篤な疾患を避ける。
そこには医療的な理由があった。
しかしAI時代に、
経済競争で必要とされる能力そのものを選び始めたらどうなるか。
高い知能。
強い集中力。
高いストレス耐性。
社会適応力。
AIとの協働能力。
それらが、
望ましい人間の条件
になる可能性がある。
ここまで来ると、「健康な子どもを」という話とはかなり違う。
社会や市場に適応しやすい人間を選ぶ話になる。
13 ハラリが警戒したもう一つの分断
ハラリが「無用階級」と同時に警戒してきたのが、
AIとバイオテクノロジーによる人間の能力強化である。
一部の人々が技術によって能力を高める一方、多数の人は経済的に必要とされなくなる。
その二つが同時に起きれば、単なる所得格差ではなく、
生物学的な格差
にまで発展する可能性があると警告してきた。
もちろん、これも未来予測であって確定した話ではない。
だが思想実験としては重要である。
なぜなら、
第11章で見た、
「より良い人間を選べるなら、なぜ選ばないのか」
という問題と完全につながるからだ。
14 能力強化が「自由」でいられるのか
もし将来、子どもの認知能力を安全に高める技術ができたとする。
最初は、
使いたい親だけ使う。
これなら自由である。
ところが、能力を高めた子どもが大学入試でも就職でも圧倒的に有利になったらどうだろう。
他の家庭も使い始める。
すると、
「使いたくない」
という選択はだんだん難しくなる。
親が、
「自然のままでいい」
と思っても、
子どもから将来、
「なぜ僕には使ってくれなかったの?」
と言われるかもしれない。
ここで第10章の、
自由→推奨→責任→義務
という流れが再び出てくる。
15 「強化しない人間」が新しい障害者になるのか
かなり極端な思考実験をしてみる。
もし多くの人が認知能力を強化した社会で、
強化していない人が平均より大幅に能力の低い存在になったらどうなるか。
現在なら「正常」とされる能力が、
将来は「不足」とみなされるかもしれない。
つまり、
障害の基準そのものが技術によって動く
可能性がある。
これは現在の障害者がどうこうという話ではない。
「正常」とは固定された自然状態ではなく、社会や技術との関係で決まる部分もあるということだ。
昨日まで平均的だった人が、
明日には能力不足になる。
そう考えると、
優生思想の対象は決して固定されない。
16 そして最も危険なのは「市場価値=人間価値」になること
この章で一番伝えたいのはここである。
AIが仕事を奪うかどうか以上に重要なのは、
仕事を失った人を社会がどう見るか
だと思う。
市場価値を失った。
だから所得保障が必要になった。
ここまでは経済問題である。
しかし、
市場価値を失った。
↓
社会に貢献していない。
↓
社会に支えられている。
↓
社会の負担である。
↓
人間としての価値も低い。
となれば、問題はまったく違う。
相模原事件で見た論理と同じ構造が現れる。
対象が障害者から、AIに代替された普通の労働者へ広がっただけである。
17 AI時代には、私たち全員が「役に立たない側」に回る可能性がある
これは少し皮肉である。
これまで、
「もっと自立しろ」
「働け」
「社会に貢献しろ」
と言ってきた人自身が、
AIによって仕事を失う可能性がある。
高学歴でも。
専門職でも。
健康でも。
真面目に働いていても。
技術革新は、道徳的な人間だけを避けて通ってはくれない。
そのとき社会は、
「努力したのだから支えよう」
と言うだろうか。
それとも、
「もう市場価値がないのだから自己責任だ」
と言うのだろうか。
ここで人間の価値観が試される。
18 「役に立たなくても生きてよい」と言えるか
相模原事件を障害者だけの問題だと思っている間、この問いは他人事にできる。
重度障害者。
知的障害者。
介護を必要とする人。
自分とは違う人の話に見える。
しかしAIが人間の能力を代替する時代には、
この距離がなくなるかもしれない。
そして最終的に残る問いは、とても単純である。
人間は、役に立たなくても生きていてよいのか。
社会に大きな価値を生み出さない。
AIより仕事ができない。
税金より給付を多く受ける。
誰かの支援を必要とする。
それでも、
生きる価値は変わらない。
そう言えるだろうか。
もし言えないなら、
優生思想の対象は障害者だけでは終わらない。
評価基準が上がるたびに、
次の「能力不足の人間」が生まれる。
19 「無用」という言葉を、人間そのものに使わないために
ハラリの「無用階級」という言葉は、あえて不快に作られている。
だから誤解もしやすい。
だが、重要なのは、
経済システムから見て不要であることと、人間として不要であることを絶対に混ぜない
という点だと思う。
AIがどれほど優秀になっても、
人間の生命価値までAIとの生産性競争で決める必要はない。
その二つを分けることができるなら、
AIによって仕事の意味が変わっても、人間の価値まで失われる必要はない。
逆に分けられなければ、
相模原事件で障害者に向けられた物差しが、
やがて多数派自身を測る物差しになる。
20 相模原事件は、未来の私たちにも向けられた問いかもしれない
植松聖は、
意思疎通できない。
働けない。
介護が必要。
社会に貢献できない。
という理由で、人間の生命価値を序列化した。
その思想を否定するのは簡単である。
では、
AIより仕事ができない。
AIより判断が遅い。
AIよりコストが高い。
社会保障を受けなければ生活できない。
そんな人間についても、
同じように生命価値は変わらないと言えるだろうか。
おそらく、これから問われるのはこちらである。
相模原事件は、重度障害者に対する大量殺人事件だった。
しかし事件が突きつけた、
「人間の価値は能力で決まるのか」
という問いは、障害者だけに向けられたものではない。
AI時代には、
私たちの多くがその問いの当事者になる可能性がある。
そして次章では、さらに一歩進めたい。
AIによって人間の能力が相対的に低下する一方で、
遺伝子技術やAIによる認知補助によって、人間自身を「強化」できるようになったらどうなるのか。
そのとき、
強化する自由は、やがて強化しなければならない義務へ変わるのだろうか。
第13章 AI時代の優生思想――「強化しない自由」は残るのか
前章では、AIによって人間の経済的価値が相対的に下がる可能性を考えた。
では、その一方で、
人間自身の能力を高める技術
が進歩したらどうなるのだろう。
遺伝子編集。
胚選択。
脳とコンピューターの接続。
AIによる認知補助。
記憶力や注意力を高める技術。
今はまだ研究段階のものも多い。
だから、すぐに「人間強化社会が来る」と断定するつもりはない。
ただし、技術の方向性としては十分に考えられる。
そして、もし本当に安全で効果的な強化技術が使えるようになったら、問題は一気に変わる。
最初は、
「使いたい人だけ使えばいい」
で済む。
だが、その技術が競争上の大きな利益を生むなら、
使わない自由はいつまで残るのだろう。
1 治療と強化はどこで分かれるのか
病気を治す。
失われた機能を取り戻す。
これは比較的分かりやすい。
視力が低い人に眼鏡を渡す。
聴力が低下した人に補聴器を使う。
認知症の症状を改善する。
こうしたものは治療と考えやすい。
だが、技術が進むと境界が曖昧になる。
普通に見えている人の視力をさらに高める。
平均的な記憶力を持つ人の記憶力を2倍にする。
健康な人の集中力を高める。
学習速度を上げる。
これは治療なのか。
それとも強化なのか。
「正常な状態へ戻す」のではなく、
「正常以上にする」
ところまで行けば、話は変わってくる。
2 最初は自由なアップグレード
仮に、安全に認知能力を高める技術ができたとする。
副作用も小さい。
費用も払える。
法的にも認められている。
最初は、
「興味のある人が使えばいい」
で済むだろう。
使う人もいる。
使わない人もいる。
ここではまだ、自由な選択である。
だが、強化した人が明らかに有利になったらどうなるか。
試験で高得点を取る。
仕事の処理速度が上がる。
AIとの協働もうまい。
高い所得を得る。
そうなれば、
他の人も同じ技術を使い始める。
すると、使わない人が不利になる。
ここで技術の意味が変わる。
3 「使える」が「使った方がいい」に変わる
競争の中では、便利な技術はすぐに標準になる。
スマートフォンがなければ仕事が不便になる。
インターネットを使えなければ情報収集で不利になる。
AIツールを使わない人より、使う人の方が早く仕事を終えられる。
同じことが人間強化でも起きる可能性がある。
最初は、
使える。
次に、
使った方が有利。
その次には、
使わないと不利。
となる。
ここまで来れば、
法律が何も命令しなくても、
事実上の圧力が生まれる。
4 子どもの場合、親の責任になる
大人が自分の能力を強化する場合は、まだ本人の選択と言いやすい。
問題は子どもである。
親が決めることになるからだ。
もし安全な能力強化技術があり、
使えば子どもが将来かなり有利になる。
そんな状況で、
「自然のままでいい」
と親が選んだらどうなるか。
最初は、
個人の価値観として尊重されるだろう。
しかし差が大きくなれば、
次第に、
「子どもの可能性を奪っているのではないか」
と言われるかもしれない。
そして子ども本人からも、
「どうして使ってくれなかったの?」
と問われる可能性がある。
ここで第10章の構造が再び出てくる。
自由だった選択が、
親の責任へ変わる。
5 「強化しない自由」の方が難しくなる
技術が普及すると、
使うことより、
使わないこと
に理由が必要になる。
これは出生前診断と同じ構造である。
検査を受けるのが普通になると、
受けない人が説明を求められる。
能力強化でも同じだ。
周囲がみんな強化している。
自分だけ使わない。
その結果、不利になる。
すると、
「なぜ使わなかったのか」
という問いが出てくる。
自由は残っている。
禁止もされていない。
だが、実質的にはかなり重い選択になる。
6 競争は、国家より強い圧力になることがある
20世紀型の優生思想では、国家が命令した。
だが21世紀型では、国家より市場競争の方が強い圧力を生む可能性がある。
企業が、
「強化した人材の方が生産性が高い」
と判断する。
学校が、
「強化された能力を前提に授業する」
ようになる。
大学入試でも競争が激しくなる。
そうなれば、
強化しない人は合法的に不利になる。
誰も差別しているつもりはない。
ただ、能力の高い人を選んでいるだけ。
しかし結果として、
強化していない人が社会から押し出される
可能性がある。
7 「自然な人間」が能力不足になる
ここで少し奇妙なことが起きる。
今日なら普通の能力を持つ人が、
未来では「能力が足りない人」になるかもしれない。
平均的な記憶力。
平均的な集中力。
平均的な知能。
今なら何の問題もない。
しかし周囲の多くが強化されれば、
平均そのものが上がる。
すると、
昨日まで正常だった人が、
明日には相対的に低能力になる。
つまり、
障害と正常の境界が、技術によって動く。
これは重要だと思う。
「障害者」という固定された集団だけが選別されるわけではない。
技術の進歩によって、誰でも突然「能力不足側」に回る可能性がある。
8 治療が義務になった前例はすでに身近にある
この構造は、完全な未来の話でもない。
たとえば視力が低ければ、眼鏡を使う。
歯が悪ければ治療する。
感染症には予防接種がある。
治療や予防が簡単で効果的になるほど、
「なぜ使わないのか」
という疑問が生まれる。
多くの場合、それ自体は合理的である。
問題は、
能力強化でも同じことが起きたときだ。
視力を正常に戻すのとは違い、
人間の競争力そのものを高める技術
まで社会的標準になったらどうなるか。
そこでは、
「健康になるため」
ではなく、
「負けないため」
に使うことになる。
意味がかなり違う。
9 市場で勝つ能力が「望ましい人間」の条件になる
もし能力強化が普及すれば、
何を強化するのかも社会によって決まる。
高い知能。
集中力。
処理速度。
感情の安定。
長時間働ける体力。
AIとの協働能力。
つまり、
市場で評価される能力
が優先される可能性が高い。
ここで優生思想の基準も変わる。
以前は、
病気がない。
障害がない。
という「健康」が中心だった。
将来は、
高い競争力を持つこと
が望ましい人間の条件になるかもしれない。
それはかなり違う優生である。
10 人間を市場に合わせるのか、市場を人間に合わせるのか
ここで根本的な問いが出てくる。
AI時代に人間が機械より生産性で劣るようになったとする。
そのとき、
人間を強化して機械に追いつかせるのか。
それとも、
人間が機械と競わなくても生きられる社会を作るのか。
どちらを選ぶかで、かなり未来が変わる。
前者を徹底すれば、
人間は常にアップグレードを求められる。
AIが強くなる。
人間も強化する。
さらにAIが強くなる。
また強化する。
競争は終わらない。
そしてついていけない人が、
「非効率な人間」
になる。
11 強化技術を買える人と買えない人
さらに、費用の問題がある。
仮に能力強化技術が高額なら、
最初に利用できるのは裕福な人だろう。
裕福な家庭の子どもは、
良い教育を受けるだけでなく、
身体能力や認知能力そのものまで強化できる。
その結果、
より良い大学。
より良い仕事。
より高い所得。
さらに次世代への投資。
という循環が生まれる可能性がある。
これまでの格差は、
主に環境の格差だった。
教育。
家庭。
所得。
資産。
しかし能力強化まで加われば、
能力そのものが階級と結びつく可能性
が出てくる。
12 格差が「自然」に見える危険
ここにはもう一つ問題がある。
能力差が技術によって作られたものでも、
結果だけを見れば、
「本人の能力差」
に見える。
高い能力を持つ人。
低い能力を持つ人。
社会はそこだけを見る。
すると、
「能力の高い人が成功するのは当然」
となる。
だが、その能力自体が、
親の所得や技術アクセスによって作られているかもしれない。
これはメリトクラシーをさらに複雑にする。
努力だけでなく、
生まれる前や幼少期にどんな強化を受けられたか
で競争が決まる可能性があるからだ。
13 「強化されていない人」は自己責任なのか
さらに時間がたち、能力強化が一般的になったとする。
その社会で、
強化されていない人が失業した。
能力が足りない。
AIにも勝てない。
すると、
「なぜ強化しなかったのか」
という話が出るかもしれない。
本人が子どもの頃なら、選んだのは親だ。
それでも社会から見れば、
「強化できたのに、しなかった家庭」
になる。
ここでも、
「避けられた不利益」
という考え方が出てくる。
そして、
「その結果まで社会が負担するのか」
という議論が始まる。
出生前診断で見た構造とほとんど同じである。
14 自由な強化が、社会保障と結びついたとき
もし社会保障制度が、
「自分で避けられたリスクについては自己負担を大きくする」
という方向へ進めば、
能力強化にも同じ考えが及ぶ可能性がある。
強化技術があった。
使わなかった。
そのため労働市場で不利になった。
ならば、
「社会保障を受ける前に、自分でできることをするべきだった」
という話になる。
ここまで来れば、
強化は完全な自由ではない。
社会保障を受けるための事実上の条件
になる可能性すらある。
もちろん、現在そうなっているわけではない。
これは未来のシナリオである。
だが、論理の流れとしては十分に考えられる。
15 優生思想は「排除」から「アップグレード」へ変わるのか
20世紀型優生思想は、
望ましくない人間を減らす方向だった。
21世紀型は、
人間を望ましい状態へアップグレードする方向へ進むかもしれない。
一見すると、かなり穏健である。
誰も排除しない。
ただ、
「能力を高めればいい」
と言う。
しかし、
強化できない人。
強化したくない人。
強化しても十分な能力に届かない人。
は必ず残る。
そこで、
アップグレードしない人をどう扱うか
という問題が出てくる。
結局、選別そのものは消えない。
形が変わるだけである。
16 「治すべき人」から「改善すべき人」へ
医療の目的が治療である間は、
ある程度、対象が限られている。
病気。
障害。
怪我。
しかし人間強化の対象は、
原理的には全員である。
健康な人にも、
もっと健康になる余地がある。
賢い人にも、
もっと賢くなる余地がある。
能力の高い人にも、
さらに高める余地がある。
ここには終点がない。
つまり、
全人類が「改善すべき対象」になる。
これは従来の優生思想とはかなり違う。
排除される少数者と、
正常な多数者。
という構図ではない。
全員が、
「今のままでは十分ではない」
と言われ続ける社会になる可能性がある。
17 AIは強化を終わらせてくれない
さらにAIが相手なら、競争の終わりが見えない。
人間が記憶力を2倍にする。
AIは10倍になる。
人間が学習速度を上げる。
AIも進歩する。
つまり、
人間を強化すればAIに追いつける、
と単純には言えない。
それでも社会が、
「経済価値を維持するには能力を高め続けるしかない」
と考えれば、
人間は終わりのないアップデート競争に入る。
ここまで来ると、
「能力を高める自由」
ではない。
「能力を高め続けなければ脱落する社会」
である。
18 人間は、最適化され続けなければならないのか
ここで一度、立ち止まりたい。
技術によって能力を高めること自体を否定したいわけではない。
病気が治る。
認知機能が回復する。
AIの補助によって仕事が楽になる。
そういう技術には大きな価値がある。
問題は、
人間の存在価値まで、アップデートの有無によって決めること
である。
強化した人も。
強化しない人も。
強化できない人も。
同じ人権を持つ。
この原則を残せるかどうかが重要になる。
19 「強化しない自由」を本当に守れるのか
自由な社会なら、
能力を強化したい人が強化することも認めるべきだろう。
同時に、
強化したくない人が、
そのままで生きることも認める必要がある。
問題は後者の方が難しい。
なぜなら競争では、
強化した人が勝つ可能性が高いからだ。
だから、
「強化しない自由」を本当に守ろうとするなら、
ただ法律で認めるだけでは足りない。
強化しなくても、
仕事。
教育。
医療。
社会保障。
市民としての権利。
を失わない制度が必要になる。
ここでもまた、
自由を守るために社会制度が必要になる。
20 未来の優生思想は「より優れた人間になれ」と言うかもしれない
旧優生保護法は、
「望ましくない子孫を生ませない」
という発想だった。
未来の優生思想は、
もっと前向きな言葉を使うかもしれない。
可能性を伸ばそう。
能力を高めよう。
健康寿命を延ばそう。
AIに負けない人材になろう。
より良い子どもの未来を作ろう。
どれも、それだけなら悪い言葉ではない。
だからこそ、その裏を見る必要がある。
では、
能力を伸ばせない人は?
強化しない人は?
AIに負けた人は?
支援を必要とする人は?
その人たちも、
今のままで生きていてよい
と言えるだろうか。
ここが、未来の優生思想を考えるときの分岐点になる。
そして次章では、相模原事件へもう一度戻る。
なぜなら植松が人間を評価した物差し――
能力。
自立。
社会への貢献。
負担。
は、AI時代には障害者だけではなく、私たちのほとんどを測る物差しになり得るからだ。
相模原事件は、本当に障害者だけの問題だったのだろうか。
第14章 相模原事件は障害者だけの問題なのか
相模原事件では、重度の知的障害などを持つ人たちが標的になった。
だから、この事件はまず何よりも、
障害者に対する大量殺人事件
として考えなければならない。
そこをぼかしてはいけない。
ただ同時に、植松聖が使った物差しをよく見ると、問題は障害者だけでは終わらない。
意思疎通できるか。
働けるか。
自立できるか。
社会に貢献できるか。
多くの支援を必要とするか。
これらは、障害者だけに当てはまる基準ではない。
高齢者にも。
認知症の人にも。
病気で働けなくなった人にも。
失業した人にも。
そしてAIによって仕事を失った人にも。
同じ物差しを向けることができる。
つまり相模原事件が突きつけたのは、
「障害者をどう扱うか」
だけではない。
もっと広い。
能力を失った人間を、社会はどう扱うのか。
という問いである。
1 生命価値を「能力」で測った瞬間、対象は広がる
植松思想の特徴は、障害そのものを嫌悪したことだけではない。
能力を生命価値へ変換したことにある。
意思疎通できない。
働けない。
介護が必要。
社会的な負担が大きい。
だから、生きる価値も低い。
この論理を認めると、対象は簡単に広がる。
たとえば認知症。
進行すれば、意思疎通が難しくなることがある。
自分で生活できなくなる。
介護も必要になる。
では、その人の生命価値も下がるのか。
寝たきりの高齢者なら?
末期疾患で働けない人なら?
事故で重い障害を負った人なら?
うつ病で仕事ができない人なら?
一度、
能力=人間の価値
という式を認めてしまえば、
対象を障害者だけに限定する理由がなくなる。
2 老化は、誰にでも起きる
障害について考えるとき、健常者は自分とは別の集団の問題だと感じやすい。
自分は歩ける。
話せる。
働ける。
判断できる。
だから関係ない。
だが、老化はほぼすべての人に起きる。
視力は落ちる。
聴力も落ちる。
体力も落ちる。
記憶力も落ちる。
病気にもなる。
一人でできることが減っていく。
つまり多くの人は、長く生きれば、
能力の高い側から低い側へ移動する。
若いときには、
「自立できない人は社会の負担だ」
と言っていた人が、
80歳になれば介護を受ける側になるかもしれない。
そのとき初めて、
人間の価値を能力で決める社会の厳しさが、自分自身へ戻ってくる。
3 認知症と「意思疎通できる人間」
相模原事件では、
「意思疎通ができるか」
という考え方が大きな意味を持った。
だが、意思疎通能力も固定されたものではない。
認知症。
脳卒中。
交通事故。
意識障害。
神経疾患。
人はさまざまな理由で、意思を伝えることが難しくなる。
では、
意思疎通できなくなった瞬間に、
それまで生きてきた人間の価値も下がるのだろうか。
昨日まで家族と話していた。
仕事もしていた。
子どもを育てた。
友人もいた。
それでも、今日から意思表示が難しくなれば、
「社会にとって価値の低い人間」
になるのか。
おそらく、多くの人は違和感を持つだろう。
それなら、
最初から意思疎通の難しい人だけを生命価値の低い存在と考えることにも、同じ問題がある。
4 「過去に貢献した人」なら価値があるのか
ここで別の答えも考えられる。
高齢者は若い頃に働いた。
税金も払った。
家族も支えた。
だから今は支援されてよい。
一見すると公平である。
だが、この考え方にも問題が残る。
では、
最初から働けなかった人はどうなるのか。
重い障害のため、一度も就職できなかった。
多額の税金を払った経験もない。
そういう人は、
「過去の貢献がないから支援に値しない」
ことになるのだろうか。
結局、
過去の貢献を生命価値の根拠にすると、
生きる資格を一生かけて稼ぐ
という考え方になる。
人間の生存が、社会への貢献に対する年金のようになってしまう。
5 子どもは「社会に貢献していない」
さらに単純な例がある。
子どもである。
乳児は働かない。
税金も払わない。
一人で生活できない。
食事も着替えも排泄も、周囲の大人に頼る。
生産性という基準だけで見れば、
極端に「非効率」である。
それでも私たちは、
乳児を社会のお荷物とは普通考えない。
なぜか。
これから働くからだろうか。
それだけではないはずだ。
将来重い障害があり、働くことが難しいと分かっている子どもでも、
人間として扱われるべきだと考えるはずである。
つまり私たちはすでに、
社会への貢献とは無関係に人間を守る
という考え方を、ある程度受け入れている。
問題は、それをどこまで一貫して適用できるかである。
6 病気になった人は「自己責任」なのか
次に病気である。
喫煙。
飲酒。
食生活。
運動不足。
過労。
現代医学では、病気のリスクを下げる方法がかなり分かってきた。
だから、
「予防できたのではないか」
という話も出てくる。
ある程度は必要な議論である。
だが、これを生命価値まで広げると危険である。
生活習慣病になった。
だから自己責任。
自己責任だから、支援の優先度は低い。
さらに、
「自分で招いた病気なのだから仕方ない」
となる。
ここでも、
制度上の自己負担の議論と、
その人が生きるに値するか
という判断を混ぜてはいけない。
7 失業者にも同じ論理は向けられる
働いていない人に対しても、
能力や努力の物差しは使われやすい。
もっと努力すればいい。
資格を取ればいい。
仕事を選ばなければいい。
働けるのに働いていない。
こうした評価である。
場合によっては正しいこともある。
本当に働けるのに働かない人もいるだろう。
だが、社会構造そのものによって仕事が減る場合はどうなるのか。
不況。
産業構造の転換。
工場閉鎖。
自動化。
そしてAI。
本人の努力だけでは解決できない失業は存在する。
それでも結果だけ見て、
「働いていない=社会に貢献していない」
と考えれば、
失業者も簡単に「支えられる側」へ分類される。
8 AI失業が起きたとき、価値観は試される
前章まで見てきたように、
AIが人間の仕事をどこまで代替するかは、まだ分からない。
ただ、仮に大きな労働代替が起きたとしよう。
真面目に働いていた。
専門技能もあった。
努力もしていた。
それでもAIの方が安くて速いため仕事を失った。
この人を、
「社会に貢献できない人」
と呼ぶのだろうか。
もしそうなら、
社会への貢献という概念そのものが、
市場から与えられた賃金だけで決まっていることになる。
しかし、仕事を失っても、
家族を支える。
地域で活動する。
友人を助ける。
子どもを育てる。
介護をする。
そういう営みは残る。
市場価格と社会的価値は同じではない。
まして、
市場価格と人間の生命価値はさらに別である。
9 「役に立つ」の主語は誰なのか
そもそも、
「役に立つ人間」
という言葉にも問題がある。
誰にとって役に立つのか。
会社にとって?
国家にとって?
家族にとって?
市場にとって?
友人にとって?
役に立つという評価は、
立場によって変わる。
大企業では何の利益も生まない人が、
家庭ではかけがえのない存在かもしれない。
市場では価値を生まなくても、
地域で孤独な人の話を聞いているかもしれない。
逆に、非常に高い所得を得ていても、
家族との関係は壊れているかもしれない。
人間の価値を「役に立つか」で測ろうとすると、
まず、
誰にとっての役なのか
という問題が出る。
そして答えは一つではない。
10 それでも「何の役にも立たない人」はいるかもしれない
ここで逃げずに、さらに厳しいケースを考えたい。
社会に貢献しない。
働けない。
家族との意思疎通も難しい。
誰かを励ますこともできない。
芸術的才能もない。
特別な役割もない。
それでも、
生きる価値があると言えるか。
「実は周囲を成長させている」
と説明することもできる。
「存在そのものが家族に意味を与える」
と言うこともできる。
しかし、それすらない人がいたらどうするのか。
ここで、
何かの役に立っているから価値がある
という論理を使うと、最後には必ず詰まる。
だから生命価値を守ろうとするなら、
もっと根本的なところに線を引く必要がある。
役に立つかどうかとは別に、
人間だから生きる価値を認める。
少なくとも、その基礎を置かなければならない。
11 「役に立たなくても生きてよい」は、かなり強い思想である
この言葉は、一見すると簡単に見える。
だが本気で採用すると、かなり強い。
働けなくてもいい。
稼げなくてもいい。
社会に大きな成果を返せなくてもいい。
他人の支援を受け続けてもいい。
それでも生きていてよい。
これは効率だけで社会を考えれば、かなり非合理的に見える。
だからこそ、福祉や人権には、
合理性だけでは説明できない部分がある。
何でも費用対効果で決める社会なら、
最も支援が必要で、最も生産性の低い人から切られていく。
それを止めるために、
人間には効率で測らない領域がある
と決める必要がある。
12 「生産性」と「生命価値」を切り離せるか
ここがこの連載の大きな問いである。
生産性は測ってよい。
仕事では必要である。
企業も、限られた人員で成果を出さなければならない。
能力を評価することも必要だ。
社会保障にも財政計算が必要である。
問題は、
それらの評価を生命価値へ持ち込まないことだ。
仕事ができない。
だから配置を変える。
これはあり得る。
仕事ができない。
だから所得保障が必要になる。
これも制度論である。
仕事ができない。
だから生命価値が低い。
ここで初めて、次元が変わる。
この境界を守れるかどうかが重要になる。
13 支えられる側になることは、敗北ではない
現代社会では、
自立。
自己責任。
自己実現。
という言葉が強い。
そのため、他人の支援を受けること自体を恥ずかしく感じる人もいる。
迷惑をかけたくない。
世話になりたくない。
自分のことは自分でやりたい。
気持ちはよく分かる。
だが、
支援を受けることは、
人間として負けることではない。
赤ん坊の頃は誰もが支えられている。
病気になれば支えられる。
老後にも支えられる可能性が高い。
つまり、
支える側と支えられる側は固定された階級ではない。
人生の中で何度も入れ替わる。
そこを忘れて、
支えられる側を下位の人間として扱えば、
いずれその序列は自分自身にも返ってくる。
14 相模原事件の物差しを、自分に向けてみる
植松思想を批判するのは簡単である。
では、その物差しを自分に向けたらどうなるのか。
もし認知症になったら。
もし寝たきりになったら。
もしAIに仕事を奪われたら。
もし重い事故に遭ったら。
もし他人の介助なしでは生活できなくなったら。
そのとき、
「私はもう社会に貢献していない」
から、
生きる価値も下がるのだろうか。
多くの人は、
自分についてはそう思いたくないだろう。
ならば、他人についても同じ原則を認める必要がある。
ここに一貫性が求められる。
15 障害者だけを守る話ではない
障害者の人権を守る制度や思想を、
一部の少数者のための特別なものだと思うことがある。
しかし実際には、
かなり広い意味を持っている。
能力が低下しても、人間の価値は変わらない。
支援を受けても権利は失わない。
意思疎通が難しくても、人間として扱う。
生産性だけで生命を評価しない。
こうした原則は、
高齢者。
病人。
失業者。
子ども。
そして将来の自分。
全員を守る。
つまり障害者の権利というのは、
極端な言い方をすれば、
「能力を失った人間をどう扱う社会なのか」を試す先端部分
でもある。
16 AI時代には、その意味がさらに大きくなる
もしAIが人間の能力を広く代替するなら、
これまで一部の人にだけ向けられていた問いが、多数派へ広がる。
役に立たない人を支えるのか。
生産性の低い人にも所得を保障するのか。
AIより能力の低い人に、どんな社会参加の場を作るのか。
こうした問いが、
障害福祉という狭い政策分野ではなく、
社会全体の問題になる可能性がある。
そのとき、
障害者運動や福祉が長く考えてきた、
「能力と人間の価値を切り離す」
という考え方が、むしろ社会全体に必要になるかもしれない。
17 誰でも「不要」と言われる側へ回り得る
優生思想の怖さは、
対象が固定されないことである。
ある時代には、
特定の人種。
ある時代には、
遺伝性疾患。
ある時代には、
重度障害者。
しかし評価基準が変われば、対象も変わる。
AI時代なら、
認知能力。
技術適応力。
生産性。
AIとの協働能力。
そうしたものが基準になる可能性がある。
すると、
昨日まで「普通の人」だった人が、
明日には「能力不足」と評価される。
だから、
優生思想は少数者だけの問題ではない。
選別する物差しを社会に認めること自体が、いつか自分を選別する物差しを認めることでもある。
18 「あなたには価値がある」と証明しなくてよい社会
ここまで書いてきて思うのは、
理想は、
「誰もが社会に役立っている」
と証明することではない。
もっと簡単な方がいい。
役に立っていることを証明しなくても生きていてよい。
働いているから。
税金を払っているから。
家族に愛されているから。
才能があるから。
感動を与えているから。
そういう理由を、一つずつ探さなくてもいい。
人間には、
生きる価値を毎日証明する義務はない。
この原則がなければ、
能力競争が激しくなるほど、
脱落した人は自分の存在理由まで失ってしまう。
19 相模原事件が突きつけた、本当の問い
相模原事件は、
「障害者を殺してよいか」
という問いだけを突きつけたわけではない。
そんな問いの答えは明らかである。
もっと厄介なのは、
その一歩手前にある。
人間の価値を、
能力。
意思疎通。
自立。
生産性。
社会への貢献。
によって測ってよいのか。
こちらである。
もし測ってよいなら、
植松と同じ結論に行かなくても、
人間の序列はできる。
上位。
下位。
支える側。
支えられる側。
必要な人。
必要ではない人。
そして、その序列が存在する限り、
どこかで、
「下位の人間にどこまで資源を使うのか」
という問いが出てくる。
20 それでも「全員を無限に支えられる」わけではない
もちろん、ここにも現実的な限界がある。
社会資源は有限である。
医療も。
介護も。
福祉も。
何でも無制限に提供することはできない。
だから、配分は必要である。
優先順位も必要になる。
この連載は、
「命は尊いのだから金の話をするな」
と言いたいわけではない。
むしろ逆である。
厳しい財政議論は必要だ。
ただし、
限られた資源をどう配るか
と、
誰の生命価値が低いか
を分けなければならない。
制度に限界があることと、
支援を受ける人間の価値が低いことは同じではない。
ここを混ぜた瞬間に、危険な方向へ進む。
21 最後に残るのは、人間の価値を何に置くかという問題
では、人間の価値を何に置けばいいのか。
能力ではない。
生産性でもない。
所得でもない。
社会への貢献でもない。
そう言うと、
では何なのか、
という問いが出る。
簡単な答えはない。
宗教なら答えを持っているかもしれない。
哲学にもさまざまな答えがある。
人権思想は、
少なくとも人間であることそのものに一定の尊厳を置こうとしてきた。
この連載で一つだけ言えるのは、
市場価値を生命価値へ変換しない方がよい
ということだ。
市場は人間に値段をつける。
労働力にも値段がつく。
だが、その値段が下がったからといって、
人間そのものの価値まで下げる必要はない。
22 相模原事件は、私たち全員の問題になる
相模原事件で殺されたのは障害者だった。
そこは変わらない。
だが事件を生んだ思想を考えるなら、
障害者だけの話として閉じることはできない。
なぜなら私たちは全員、
能力を失う可能性があるからだ。
老いる。
病気になる。
事故に遭う。
仕事を失う。
技術に追い越される。
いつか、
「支える側」から「支えられる側」へ移る。
そのとき、
社会がどんな言葉を自分に向けてくるのか。
それは、今の私たちが弱い立場の人に向けている言葉によって決まる部分がある。
だから相模原事件は、
障害者だけの問題ではない。
人間は、役に立たなくなった後も人間でいられるのか。
という、私たち全員の問題である。
そして、この問いは次の章でさらに重くなる。
相模原事件では、植松聖自身が「安楽死」という言葉を使っていた。
もちろん、
本人の同意のない大量殺人と、
医療・法制度の下で本人の意思を扱う安楽死を同一視することはできない。
両者は明確に分ける必要がある。
それでも、
「生きる価値のない人生を誰が決めるのか」
という問いは、そこで再び現れる。
次章では、
「死を選ぶ自由」が、
どのような社会では本当の自由になり、
どのような社会では「死を選ぶ責任」へ変わり得るのか。
その入口まで進みたい。
第15章 「死を選ぶ自由」への伏線
相模原事件について調べていると、避けて通れない言葉がある。
「安楽死」
である。
植松聖は事件の約5カ月前、当時の衆議院議長に宛てた手紙の中で、重複障害者について、家族の同意があれば「安楽死」できる世界を目標として掲げていた。
同じ手紙では、多数の障害者を殺害する具体的な計画も書いていたことが、事件後の厚生労働省の検証でも確認されている。
ただし、ここで最初にはっきりさせておかなければならない。
植松が行った大量殺人と、現在世界各国で議論されている安楽死・医師による死の幇助は、同じものではない。
この区別を曖昧にしてはいけない。
1 相模原事件は「安楽死」ではない
相模原事件の被害者は、自分から死を求めたわけではない。
医師による意思能力の確認もない。
耐え難い苦痛について本人が訴えたわけでもない。
治療の可能性を検討したわけでもない。
法的な審査もない。
そして何より、
本人の同意がない。
殺害する側が、
「この人は生きていても不幸だ」
「家族も苦しんでいる」
「社会にも負担だ」
と一方的に判断し、命を奪った。
これは自己決定とは正反対である。
少なくとも現在、医療制度として死の幇助を認めている国では、本人の意思は中心的な要件となる。
たとえばカナダのMAiDでは、本人が自発的に申請していること、医療上の意思決定能力を持つこと、十分な情報に基づいて同意することなどが法制度上の重要な要件になっている。医療者には、家族などからの不当な圧力がないかを確認することも求められる。
植松の行為には、そのどれもない。
したがって、
「相模原事件も安楽死だった」
と書けば事実を誤る。
では、なぜこの章で安楽死を扱うのか。
両者を同じものと考えるためではない。
むしろ逆である。
違うものだからこそ、その境界線がどこにあるのかを考えるためだ。
2 植松はなぜ「殺害」ではなく「安楽死」という言葉を使ったのか
植松の手紙で興味深いのは、自分が目指す社会を単に、
「障害者を殺せる社会」
とは書かなかったことである。
「安楽死」という言葉を使った。
そこには、
本人の苦しみを終わらせる。
家族を苦しみから解放する。
社会の負担を減らす。
という、いくつかの論理が混ざっていた。
つまり殺害を、
「本人や周囲のために行う行為」
として正当化しようとしていた。
第8章で扱った、
「本人のため」
という善意の問題がここでも出てくる。
これは重要だと思う。
人間を排除するとき、
必ずしも、
「嫌いだから排除する」
とは言わない。
むしろ、
「かわいそうだから」
「本人も苦しいから」
という言葉が使われることがある。
3 「苦しんでいる本人」と「苦しそうに見える本人」は違う
安楽死を考えるうえで、ここは非常に大きな違いになる。
本人が「耐え難い」と訴えていること。
そして、
第三者が「こんな人生は耐え難いはずだ」と判断すること。
この二つはまったく違う。
寝たきり。
全身麻痺。
人工呼吸器。
重度障害。
認知機能の低下。
外側から見れば、
「自分なら耐えられない」
と思う状態はある。
だが、
自分なら嫌だということと、
本人も死を望んでいるということは同じではない。
相模原事件では、この区別が消えていた。
植松自身が他人の人生を評価し、
「この人は生きているより死んだ方がよい」
と決めた。
自己決定ではない。
他者決定である。
4 安楽死の議論には、少なくとも三つの問いがある
安楽死について議論すると、さまざまな論点が一つに混ざりやすい。
少なくとも三つに分けた方がいい。
一つ目は、
本人の苦痛。
回復不能な病気などによって、本人が耐え難い身体的・精神的苦痛を抱えている。
二つ目は、
本人の自己決定。
十分な意思能力を持つ本人が、自分の死についてどこまで決定できるのか。
そして三つ目が、
社会や家族にとっての負担。
医療費。
介護費。
家族介護。
社会保障費。
この三つは、同じように見えて性質が違う。
特に三つ目を一つ目や二つ目と混ぜると、危険なことが起きる。
5 「本人が死にたい」と「社会が死んでほしい」の間
安楽死の制度を正当化する中心的な論理は、
「社会にとって不要だから死んでもらう」
ではない。
少なくともそうであってはならない。
本人が耐え難い苦痛を抱え、
本人自身が死を希望する。
ここから議論が始まる。
だが、
家族の介護負担が重い。
社会保障費がかかる。
医療資源を多く使う。
こうした事情が本人の意思に入り込んだら、どうなるのか。
本人は言う。
「死にたい」
しかし、その理由が、
「家族に迷惑をかけたくない」
だったとする。
この言葉を、どこまで純粋な自己決定として扱えるのだろう。
6 「家族に迷惑をかけたくない」は、本当に本人だけの意思なのか
これは日本で安楽死を考えるとき、かなり重要な問題になると思う。
高齢者が、
「子どもに迷惑をかけたくない」
と言う。
介護が必要になった人が、
「家族の人生を壊したくない」
と言う。
病気の人が、
「医療費を使わせたくない」
と言う。
その気持ちは理解できる。
本人の優しさでもある。
だが、少し考えてみたい。
もし社会が普段から、
「人に迷惑をかけるな」
「自分のことは自分で」
「介護で家族を犠牲にするな」
という価値観を強く持っていたらどうだろう。
その人の、
「迷惑をかけたくない」
という意思は、
完全に個人の内側から生まれたものなのか。
それとも社会が作った価値観を、本人が引き受けている部分もあるのか。
人間の意思は、社会から完全に独立して存在するわけではない。
だから難しい。
7 直接命令されなくても、人は圧力を感じる
第10章で、
自由が責任へ変わる過程を考えた。
構造はここでも同じである。
最初は、
死を選んでもよい。
次に、
耐え難い状態なら死を選ぶのも合理的だ。
さらに、
本人も苦しい。
家族も苦しい。
多額の費用もかかる。
となったとき、
「なぜそこまでして生き続けるのか」
という問いが現れる可能性がある。
誰も、
「死ね」
とは言っていない。
法律も強制しない。
それでも本人が、
「生き続ける方が周囲に迷惑なのではないか」
と思い始めれば、自由の性質は変わる。
8 だから現実のMAiD制度は「自発性」を重く見る
この問題があるからこそ、実際の制度では自発性が重要になる。
カナダのMAiDに関する医療者向け基準では、本人の申請が家族、医療者、その他の人からの不当な影響を受けていないことを確認するよう求めている。
必要に応じて本人だけで話をし、依存関係や過去の虐待などが意思決定に影響していないかを見ることも示されている。
これは逆に言えば、
「本人が死にたいと言った」という事実だけでは十分ではない
ということである。
その意思が、
どのような環境で作られたのか。
そこまで考えなければならない。
9 形式上の自由だけでは足りない
この連載で何度も出てきた問題である。
出生前診断でも、
選択肢が二つあるだけでは本当の自由とは限らない。
障害児を産んでも支援がないなら、
「産む自由」はかなり弱い。
同じことが、
死を選ぶ自由にも言える。
死ぬ選択肢はある。
だが、
生きるための介護がない。
住宅がない。
十分な緩和ケアがない。
家族介護しか選択肢がない。
経済的に生活できない。
そんな状態だったらどうだろう。
「死ぬ自由」は存在するが、「生きる選択肢」が十分に存在しない。
その状態を完全な自己決定と呼べるかは、慎重に考える必要がある。
10 選択肢は「死」と「苦しんで生きる」の二つだけではない
安楽死の議論では、
死を選ぶ。
生き続ける。
という二択に見えやすい。
しかし実際には、その間に多くの選択肢がある。
痛みを取る。
緩和ケアを受ける。
介護を増やす。
住環境を変える。
家族以外の支援者を増やす。
経済的な支援を受ける。
治療を中止する。
治療目標を変える。
本人の価値観に合わせて医療を組み直す。
これらを十分に利用できるかどうかで、
「死にたい」という気持ちの意味も変わる可能性がある。
だから、死を選べる制度だけを作って、
生きるための制度を十分に作らないなら、
選択は最初から傾いている。
11 「死ぬ権利」を認めれば、必ず「死ぬ義務」になるのか
ここは冷静に考えたい。
安楽死を合法化したら、
必ず高齢者や障害者が死ぬよう圧力を受ける。
と断定することはできない。
制度設計によっても違う。
文化によっても違う。
利用条件も違う。
実際の運用を検証しなければならない。
だから、
「安楽死を認めた瞬間、必ず優生社会になる」
という話にはしたくない。
それでは議論が粗くなる。
しかし逆に、
「本人が選ぶのだから、社会的圧力は絶対に問題にならない」
とも言えない。
こちらも単純すぎる。
問うべきなのは、
どのような条件なら本人の意思を守れるのか。
どのような社会条件が、その意思を歪め得るのか。
ということだ。
12 権利は、ときどき期待へ変わる
ここまで見てきた出生前診断と同じことが起こる可能性がある。
最初は、
「選んでもいい」
という権利だった。
多くの人が選ぶようになる。
社会に定着する。
すると、
「その状況なら選ぶのが普通」
という規範が生まれる。
そして、
選ばない人に説明が求められる。
なぜ検査しなかったのですか。
なぜ強化しなかったのですか。
そして、
なぜ死を選ばないのですか。
もし最後の問いまで現れたら、かなり危険である。
死を選ぶ権利が、
生き続ける人への説明要求に反転しているからだ。
13 「そこまでして生きたいのか」という問い
想像してみよう。
高齢である。
重い障害がある。
介護が必要。
医療費もかかる。
家族にも負担がある。
しかも安楽死制度が利用できる。
そんな人に対して、
誰かが直接、
「死んだ方がいい」
とは言わない。
ただ、
「選択肢はありますよ」
と言う。
最初は情報提供である。
しかしその後、
「家族も大変ですね」
「今後もっと介護が必要になります」
「本人もつらいでしょう」
という情報が重なったらどうなるか。
最後に本人が、
「生き続けることの方が身勝手なのではないか」
と感じ始めれば、
自由な選択という言葉だけでは説明できなくなる。
14 障害者の自己決定まで否定してはいけない
ただし、反対側にも注意が必要である。
「障害者は社会的圧力を受けやすい」
という理由から、
障害者本人の死に関する意思を、
最初から無効だと扱うのも問題である。
障害者にも自己決定権がある。
意思能力を持つ成人が、
自分の苦痛や治療について意思を示しているなら、
それを、
「あなたは障害者だから本当の意思ではない」
と外側から決めることもまた、本人を一人の人間として扱わないことになる。
つまり問題は、
安楽死を全面的に認めれば解決するわけでも、
全面的に禁止すれば簡単に解決するわけでもない。
本人の自己決定を尊重しながら、その自己決定を歪める圧力からも守る。
この二つを同時に考えなければならない。
難しいのはそこだ。
15 相模原事件との決定的な違い
ここでもう一度、相模原事件との違いを確認したい。
植松聖は、
本人の意思を聞かなかった。
自分で人生の質を評価した。
家族の負担を評価した。
社会的負担を評価した。
そして、
「この人たちはいなくなった方がよい」
と結論づけた。
つまり判断の主体は、
本人ではなく植松だった。
安楽死やMAiDの議論では、少なくとも原則としてこれを反転させなければならない。
本人がどう感じているのか。
本人は何を望んでいるのか。
意思能力はあるのか。
他人から圧力を受けていないか。
苦痛を軽減する別の手段はあるのか。
そこを見る。
この違いを消してはいけない。
16 それでも残る共通の問い
両者は違う。
それでも、同じ場所に戻ってくる問いが一つある。
「生きるに値しない人生」を誰が決めるのか。
相模原事件では、植松が勝手に決めた。
だから明確に間違っている。
では本人が決めるならどうなのか。
さらに、その本人の判断に、
家族への負担感。
貧困。
孤独。
介護不足。
社会保障費への罪悪感。
社会の価値観。
が入り込んでいたらどうするのか。
ここから先は、相模原事件だけでは答えが出ない。
安楽死という別の問題として、本格的に考えなければならない。
17 「迷惑をかけたくない」が危険な言葉になるとき
日本でこの問題を考えるなら、
「迷惑」
という言葉は避けられないと思う。
家族に迷惑をかけたくない。
子どもの人生を介護で潰したくない。
社会のお荷物になりたくない。
こうした感情は、かなり理解できる。
筆者自身、同じ状況になればそう考えるかもしれない。
だからこそ怖い。
明らかな強制なら抵抗できる。
だが、
自分自身が周囲への配慮から死を選ぼうとするとき、誰がそれを圧力だと見抜けるのか。
本人自身ですら、
「自分の自由意思だ」
と感じているかもしれない。
18 「家族の負担」を減らす方法は、本来ほかにもある
ここでも第8章と同じ問題が出てくる。
介護で家族が苦しんでいる。
ならば、
家族を支援する。
介護サービスを増やす。
レスパイトを用意する。
施設を増やす。
所得を保障する。
という方法がある。
ところが、
本人が死ねば家族の負担は確実になくなる。
これは事実である。
だからこそ、
最も安い解決策が、最も倫理的な解決策とは限らない
という原則が必要になる。
「問題を抱えた人を支える」
のと、
「問題を抱えた人がいなくなる」
のは、
同じ問題解決ではない。
19 社会保障費と安楽死を直接結びつけてはいけない
この点は非常に重要なので、明確にしておきたい。
安楽死を、
社会保障費削減策として考えるべきではない。
医療費。
介護費。
年金。
これらの財政問題は、それぞれ別に改革すべきである。
本人が死ねば、将来の医療費や介護費の一部が発生しなくなる。
会計上はそうなる。
しかし、その事実を制度の目的にしてしまえば、
死を選ぶ人と社会の間に利益相反が生まれる。
社会側に、
本人が死んだ方が得をする
という動機ができるからだ。
そうなれば、本人の自己決定を守ることが一気に難しくなる。
20 「死を選べる社会」と「生き続けられる社会」
安楽死について考えるとき、
どうしても、
死を選べるかどうか、
に注目が集まる。
しかし本当に重要なのは、
その反対側かもしれない。
生き続けたい人が、生き続けられる社会なのか。
十分な緩和ケアがある。
介護を受けられる。
住宅がある。
経済的に生活できる。
家族だけに負担を集中させない。
孤独にならない。
「迷惑をかけて申し訳ない」と思わなくてもよい。
そのうえで、
なお本人が耐え難い苦痛の中で死を望む。
ここまで条件を整えて初めて、
「死を選ぶ自由」
を考える土台ができるのではないか。
21 生きる選択肢が弱い社会ほど、「死の自己決定」は疑わしくなる
これは、この連載を通して繰り返してきた話と同じである。
「産まない自由」を守るなら、
障害児を産んでも生きていける社会が必要だ。
「強化する自由」を守るなら、
強化しなくても生きていける社会が必要だ。
そして、
「死を選ぶ自由」を守るなら、
死を選ばなくても生きていける社会
が必要になる。
反対側の選択肢が現実に成立していなければ、
選択は自由に見えても、最初から傾いている。
この構造はすべて同じである。
22 「死ぬ権利」と「死ぬ責任」は違う
最終的に、この問題は一つの言葉に集約できる。
死ぬ権利と、死ぬ責任は違う。
自分の身体と人生について、
本人がどこまで決められるのか。
これは重要な問いである。
だが、
家族に負担をかけるから。
医療費がかかるから。
社会保障を受けているから。
働けないから。
社会に貢献できないから。
という理由で、
本人が死を選ぶことを期待されるようになったら、
それは権利ではない。
社会的な責任に近づいている。
さらに、
「なぜ選ばないのか」
と言われるようになれば、
義務へ近づく。
23 相模原事件から安楽死へ
この第4話では、
相模原事件から出発した。
19人が、
障害があるという理由で殺された。
そこから、
社会保障。
メリトクラシー。
自立。
自己責任。
出生前診断。
自発的優生。
AI。
能力強化。
まで話を広げてきた。
一見すると、かなり遠くまで来たように見える。
しかし、ずっと同じ問いを追っている。
人間の価値を誰が決めるのか。
そして、
自由な選択が、社会的な義務へ変わることはないのか。
という問いである。
その二つが最も直接ぶつかる場所の一つが、
安楽死なのだと思う。
24 次に考えるべきこと
植松聖は、
障害者の人生を外側から評価し、
「死んだ方がよい」
と決めた。
これは自己決定ではない。
だから相模原事件を、
安楽死制度の是非をそのまま証明する材料として使うべきではない。
だが、この事件は一つの警告を残した。
社会が先に「この人生は価値が低い」と決めてしまった状態で、本当の自己決定は可能なのか。
ここである。
死を選ぶ権利を認めるとしても、
その前に、
生きる権利。
支援を受ける権利。
他人に頼る権利。
社会に貢献できなくても存在してよいという権利。
それらが保障されていなければならない。
そうでなければ、
自由だったはずの選択が、
また反転する。
「死んでもいい」から、
「死んだ方がいい」へ。
そして最後には、
「なぜ死なないのか」へ。
この違いを見失わないこと。
それが、相模原事件から安楽死を考えるときに最初に必要な線引きだと思う。
次はいよいよ、この第4話を締めくくる。
植松聖には死刑判決が下された。
しかし、
植松聖という一人の人間を社会から取り除けば、植松思想まで消えるのだろうか。
終章では、そこへ戻りたい。
終章 植松聖を死刑にすれば、植松思想も消えるのか
2020年3月16日、横浜地方裁判所は植松聖に死刑判決を言い渡した。
植松は控訴せず、判決は確定した。 (book.asahi.com)
19人を殺害し、多くの人を傷つけた責任は植松本人にある。
ここを曖昧にしてはいけない。
社会が悪かったから仕方がなかったのでもない。
福祉制度が悪かったから殺人が起きた、と単純化することもできない。
同じ社会に生きていた圧倒的多数の人は、誰も19人を殺していない。
植松は自分で考え、自分で計画し、自分で実行した。
その刑事責任を負うのは植松本人である。
ただ、それでも一つの問いが残る。
植松聖を死刑にすれば、植松思想まで消えるのだろうか。
1 事件を「怪物の犯罪」にすれば安心できる
相模原事件は、あまりにも異常だった。
深夜、障害者施設へ侵入する。
入所者を次々に襲う。
19人を殺害する。
しかも犯人は、
障害者はいなくなった方がいい、
という思想を公然と語っていた。
だから、
「異常な人間が起こした異常な事件」
として処理したくなる。
その方が安心できる。
植松という特殊な人間がいた。
その人間を社会から隔離した。
裁判で責任も問われた。
ならば問題は終わった。
そう考えることができる。
しかし、それでは一つだけ説明できないことがある。
植松が使った言葉の一部は、
社会にとって完全に未知のものではなかった。
2 働けない人は価値が低いのか
植松は、人間を能力によって評価した。
働けるか。
意思疎通できるか。
自立できるか。
社会に貢献できるか。
多くの支援を必要とするか。
この物差し自体は、植松だけが発明したものではない。
私たちも普段から能力を評価している。
学校では成績を見る。
会社では成果を見る。
市場では生産性を見る。
福祉制度では支援の必要度を見る。
それ自体は必要である。
問題は、
能力の評価を、人間そのものの評価へ広げること
だった。
仕事ができない。
だから人間として価値が低い。
介護費がかかる。
だから社会にとって不要だ。
意思疎通できない。
だから生きる意味がない。
この変換こそが危険だった。
3 「結論」に反対するだけでは足りない
多くの人は、
「障害者を殺してよい」
という植松の結論には反対する。
当然である。
しかし難しいのは、その一歩手前だ。
できるだけ自立した方がいい。
社会に貢献した方がいい。
他人に迷惑をかけない方がいい。
健康でいた方がいい。
自分の選択には責任を持った方がいい。
これらは、一つずつ見ればかなり合理的である。
筆者も否定するつもりはない。
しかし、それらがすべて、
「そうできない人は価値が低い」
という結論へ接続されたらどうなるのか。
そこまで行くと、植松の論理との距離は急に縮まる。
4 「優生思想に反対です」だけでは簡単すぎる
日本では現在、
優生思想そのものを正面から肯定することは強いタブーになっている。
旧優生保護法も廃止された。
最高裁もその優生規定を憲法違反と判断した。
国家が障害を理由に生殖を強制的に制限することは、明確に否定されている。
それでも、
健康な方が望ましい。
能力が高い方が望ましい。
自立できる方が望ましい。
社会に多く貢献する人が望ましい。
という価値観まで消えたわけではない。
そして、それらは完全に消すべきものでもない。
だから問題が難しい。
「優生思想に反対です」
と言うだけなら簡単である。
本当に難しいのは、
自分が正しいと思っている価値が、
人間の生命価値を測る物差しへ変わっていないかを見ることだ。
5 自立できない人を、本当に同じ人間として扱えるか
この連載では何度も「自立」という言葉を扱った。
自立できる人。
できない人。
働ける人。
働けない人。
支える人。
支えられる人。
現代社会では、前者の方が高く評価されやすい。
しかし、人生は固定されていない。
病気になる。
事故に遭う。
失業する。
老いる。
認知症になる。
介護が必要になる。
今日まで支える側だった人が、
明日には支えられる側になる。
そのときにも、
人間としての価値は変わらない。
そう言える社会なのか。
相模原事件は、この問いを極端な形で突きつけた。
6 「助けたくなる弱者」だけを助けるのか
さらに難しい問題もあった。
弱者だからといって、
必ずしも人から好かれるとは限らない。
感謝してくれる人。
努力している人。
笑顔の人。
懸命にリハビリする人。
こういう人は支援しやすい。
応援もしやすい。
一方で、
怒る。
暴れる。
コミュニケーションが難しい。
感謝を伝えられない。
支援者を疲弊させる。
そういう人もいる。
そして皮肉なことに、
後者ほど多くの支援を必要としている場合がある。
福祉が本当に試されるのは、
「助けたいと思える人」だけを支援するときではない。
助けたいと思えない人でも、
必要なら支えることができるか。
そこにある。
7 努力しているから価値があるのではない
障害者について語るとき、
社会は成功物語を好む。
障害を乗り越えた。
働いている。
スポーツで活躍した。
芸術の才能がある。
社会に貢献している。
もちろん素晴らしい。
努力した人が評価されることに問題はない。
しかし、
その人に生きる価値がある理由を、
成果に置く必要はない。
もし、
「この障害者は社会に貢献しているから価値がある」
と言うなら、
反対側には、
「貢献できない障害者」
が残る。
何も達成しなくていい。
何も生み出さなくてもいい。
生きる価値を証明しなくてもいい。
この原則がなければ、最も能力の低い人から最後に取り残される。
8 善意も、人を選別することがある
優生思想について調べる前は、
筆者もどこかで、
悪意から生まれるものだと考えていた。
弱者を嫌う。
差別する。
排除する。
そういう思想だと。
だが、調べるほど単純ではなくなった。
本人がかわいそうだから。
家族が大変だから。
苦しみを減らしたいから。
より健康な子どもを。
より良い人生を。
こうした善意からも、選別は生まれ得る。
だからこそ見えにくい。
悪意なら、
「それは差別だ」
と言える。
しかし、
「本人のためです」
と言われたとき、その判断を誰がしているのかまで見なければならない。
9 そして現代では「自由」が選別を担う可能性がある
20世紀型の優生政策は分かりやすかった。
国家が決める。
法律で強制する。
不妊手術を行う。
現代社会は、それを否定した。
代わりに重視されるようになったのが、
自己決定である。
本人が選ぶ。
親が選ぶ。
国家は命令しない。
これは大きな進歩である。
だが同時に、新しい問題も生まれる。
個人が自由に選んだ結果、
社会全体では同じ方向へ選択が集まることがある。
そこで、
「責任ある人ならこちらを選ぶ」
という規範まで生まれれば、
自由だったはずの選択は少しずつ変わる。
10 自由から責任へ、責任から義務へ
この連載で何度も見てきた流れがある。
できる。
↓
した方がいい。
↓
責任ある人ならするべきだ。
↓
なぜしなかったのか。
この変化である。
出生前診断。
健康管理。
能力強化。
いずれにも起こり得る。
法律で強制されていなくても、
選ばない側だけが説明を求められるようになれば、
自由はかなり義務に近づく。
リベラル優生思想の難しさは、
ここにある。
国家が自由を奪うのではない。
自由そのものが、自己責任を通じて圧力へ変わる可能性がある。
11 「誰も悪くない優生社会」
これが、おそらく21世紀型優生思想の最も見えにくい形だと思う。
医師は善意で説明する。
親は子どもの幸福を考える。
行政は自己決定を尊重する。
企業は便利な技術を提供する。
研究者は病気を治そうとする。
誰も、
「弱者を排除しよう」
とは言っていない。
誰も悪人ではない。
それでも、一人ひとりが合理的な選択を積み重ねた結果、
ある特徴を持つ人だけが、
「選ばれない存在」
になっていく可能性がある。
「悪人のいない優生社会」である。
これは、独裁者を倒せば終わる問題ではない。
12 AIはこの問いを障害者だけのものではなくする
さらにAIの問題がある。
現在のところ、
AIが人間の大部分を失業させると決まったわけではない。
むしろ仕事の変容や新しい仕事の誕生も予想されている。
それでも、AIが人間の能力を次々に代替していく可能性はある。
そのとき、
「能力が低い人」
という言葉の意味が変わる。
昨日まで優秀だった人が、
AIより遅い。
AIより高い。
AIより間違える。
という理由で市場価値を失うかもしれない。
そうなれば、
「働けない人」
「社会に支えられる人」
は障害者だけではなくなる。
普通の人間も同じ側へ移る。
13 私たちは全員、いつか「能力不足」になるかもしれない
この点では、AIはかなり残酷な鏡である。
人間の価値を能力で測ってきた社会に、
機械がこう問い返す。
では、
人間より能力の高い機械が現れたとき、人間の価値は下がるのか。
もし答えが「はい」なら、
優生思想の対象は急激に広がる。
障害者だけではない。
高齢者だけでもない。
能力の高い人も。
健康な人も。
努力してきた人も。
機械より能力が低ければ、
同じ物差しの上では「下位」になる。
14 だから相模原事件は、未来の自分の問題でもある
相模原事件を、
障害者という特殊な人々が被害に遭った事件としてだけ理解すると、
自分とは距離を取ることができる。
だが、
植松が使った物差しを見ると、距離は急に縮まる。
能力。
自立。
意思疎通。
生産性。
社会への貢献。
これらはすべて、
自分もいつか失う可能性がある。
そのとき、
社会がどんな態度を取るか。
それは現在、
最も能力の低いとされる人に、私たちがどんな態度を取っているかと無関係ではない。
15 「役に立たない人間」に生きる価値はあるのか
結局、この第4話はここへ戻ってきた。
かなり不快な問いである。
だが、避けない方がいいと思う。
役に立たない人間に、生きる価値はあるのか。
筆者の答えは、
ある、
である。
より正確に言えば、
「役に立つこと」を生命価値の条件にしてはいけない
ということだ。
もちろん社会参加は大切である。
働ける人は働けばいい。
能力を伸ばすこともいい。
技術を使うこともいい。
社会に貢献することも素晴らしい。
ただ、それらは、
生きる資格を得るための試験ではない。
16 人間の価値を市場に決めさせない
市場には人間を評価する役割がある。
この仕事なら時給はいくら。
この技能なら年収はいくら。
この人材なら企業にどれだけ利益をもたらすか。
そういう計算は必要である。
しかし市場が測れるのは、
市場価値
である。
生命価値ではない。
年収がゼロになっても、
生命価値までゼロになるわけではない。
AIに仕事を奪われても同じである。
生産性が落ちても同じである。
介護が必要になっても同じである。
この二つを切り離しておかなければならない。
17 効率で決めない場所を残す
合理性は重要である。
社会保障にも限界がある。
医療資源も有限だ。
介護人材も有限である。
だから、厳しい配分の議論は必要になる。
だが、
すべてを効率で決めてしまえば、
最後には人間そのものが効率化の対象になる。
そのとき最初に切られるのは、
最も多くの支援を必要とし、
最も少ない経済的成果しか返せない人である。
だから社会には、
あえて効率だけでは決めない場所
が必要なのだと思う。
それが人権や福祉の役割でもある。
18 社会保障改革と弱者排除を分ける
ここは、この連載で繰り返してきたことなので最後にもう一度書いておきたい。
社会保障費が高いと議論してよい。
制度改革も必要である。
無駄があれば削るべきだ。
不正受給があるなら対策すればいい。
働ける人への就労支援も必要だ。
しかし、
制度を改革することと、
制度を利用する人の人間的価値を下げることは別である。
削るべきなのは制度の無駄であって、人間ではない。
この区別さえ失わなければ、厳しい財政議論はできる。
逆に、この区別を失えば、
財政問題が生命価値の問題へ変わる。
19 「生きる価値」を他人に証明しなくていい社会
理想論だと言われるかもしれない。
だが、目標としてはかなり単純でいいと思う。
生きる価値を証明しなくていい社会。
働いていなくても。
税金をほとんど払えなくても。
介護が必要でも。
特別な才能がなくても。
社会を感動させなくても。
AIより仕事ができなくても。
「それでも生きていてよい」
と言える。
これは、
何でも無条件に給付しろ、
という話ではない。
制度には条件も予算も必要である。
ただし、
制度の条件から外れることと、
人間としての価値を失うことを混ぜない。
それだけである。
20 そして「死を選ぶ自由」へ
この問いは次の問題へ続く。
安楽死である。
本人が耐え難い苦痛の中にあり、
十分な意思能力を持ち、
自分の死を選びたいと希望している。
その自己決定を社会はどこまで認めるのか。
これは相模原事件とは別の問いである。
本人の同意なく命を奪った植松の行為と、
安楽死制度を同一視してはいけない。
しかし、その社会が、
高齢者は負担だ。
障害者は負担だ。
介護される人は家族に迷惑をかけている。
働けない人は社会に貢献していない。
という価値観を強く持っていたらどうなるのか。
その社会の中で、
「私は死にたい」
という言葉は、
どこまで本人だけの意思なのだろう。
ここから、次の議論が始まる。
21 「死を選ぶ権利」と「死を選ばなければならない社会」は違う
このシリーズ全体で、今後かなり重要になる言葉なので最後に置いておきたい。
「死を選ぶ権利」と、「死を選ばなければならない社会」は別物である。
本人の自由を守ることと、
社会が本人に死を期待することは違う。
だから死の自己決定を考えるなら、
その前に、
生きるための選択肢を十分に用意しておかなければならない。
医療。
介護。
福祉。
住宅。
所得。
孤独への支援。
家族介護者への支援。
それらがなく、
「死ぬ選択肢だけはあります」
という社会なら、
その自由は最初から傾いている。
22 自由を守るために、選ばない自由を守る
出生前診断でも同じだった。
産まない自由を守るなら、
産む自由も現実に守らなければならない。
能力強化でも同じだった。
強化する自由を守るなら、
強化しなくても生きられる社会が必要になる。
安楽死も同じである。
死を選ぶ自由を本当に守りたいなら、
死を選ばない自由
を守らなければならない。
つまり、
生き続けてもいい。
介護を受けてもいい。
人に頼ってもいい。
社会保障を使ってもいい。
それでも申し訳なく思わなくていい。
そういう社会が先に必要になる。
23 植松聖を処罰することと、植松思想を克服すること
植松聖を処罰するのは司法の仕事である。
それは必要だった。
しかし植松思想を克服する仕事は、裁判所だけではできない。
なぜなら思想は刑務所には入らないからだ。
死刑判決でも消えない。
能力が低い人。
自立できない人。
社会に多くを返せない人。
そういう人を、
私たちがどのように見るのか。
そこが変わらなければ、同じ論理は別の姿で現れる。
出生前診断として。
自己責任論として。
社会保障論として。
能力強化として。
そして場合によっては、
安楽死の議論として。
24 相模原事件が残した問い
相模原事件が私たちに突きつけたのは、
障害者を殺してよいかという問いだけではない。
その答えは明らかである。
もっと難しいのは、
人間の価値を、能力、生産性、自立、社会への貢献によって測ってよいのか
という問いだ。
そしてAIが人間の能力を次々に代替する時代、その問いはもはや障害者だけのものではない。
健康な人も。
高学歴の人も。
専門職も。
真面目に努力してきた人も。
機械より「役に立たない人間」になる可能性がある。
そのとき初めて、
私たちは気づくのかもしれない。
能力で人間の価値を決めるという物差しは、
最初から障害者だけを測っていたわけではなかった。
私たち自身も、その上に立っていたのだ。
もし、
「役に立つこと」が生きる価値の条件なら、
機械より役に立たなくなった私たちは、
何によって自分の生きる価値を証明するのだろうか。
おそらく、答えは逆なのだと思う。
そもそも、生きる価値を証明しなくていい。
その原則をどこまで守れるか。
相模原事件から10年を迎えた今、問われているのは植松聖という一人の死刑囚だけではない。
私たちが、
誰かを「役に立たない」と判断したその後に、
なお、
「それでも生きていていい」
と言える社会を作れるのか。
そのことなのだと思う。
主要情報源一覧
政府・国際機関・裁判所・学術論文などの一次資料を優先し、報道記事や解説資料は補助的に使用した。
本文中の倫理的・社会的考察は、以下の資料を基礎にした分析であり、各機関・研究者が本文と同じ結論を示しているという意味ではない。
1 相模原障害者施設殺傷事件
厚生労働省|相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム
津久井やまゆり園事件前の措置入院、退院後の対応、植松聖が衆議院議長宛てに提出した手紙、事件前の行政・医療機関の対応などを確認するために使用。
朝日新聞「好書好日」|相模原障害者施設殺傷事件・植松聖死刑判決をめぐる論考
2020年3月16日の横浜地方裁判所による死刑判決、植松が控訴せず死刑判決が確定した経緯などの確認に使用。
https://book.asahi.com/jinbun/article/13512135?utm_source=chatgpt.com
2 旧優生保護法と日本の優生政策
厚生労働省|旧優生保護法をめぐる経緯・制度概要
1948年の優生保護法制定、法律の目的、「不良な子孫の出生を防止する」という規定、1996年の母体保護法への改正、旧優生保護法に基づく優生手術の歴史などを確認するために使用。
https://www.mhlw.go.jp/content/12300000/001670947.pdf?utm_source=chatgpt.com
厚生労働省|旧優生保護法に基づく優生手術等の件数
本人の同意によらない不妊手術を含む、旧優生保護法下の優生手術件数の確認に使用。
https://www.mhlw.go.jp/content/11925000/000530068.pdf?utm_source=chatgpt.com
衆議院|旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金支給法
2019年に成立した一時金支給法と、旧優生保護法の下で不妊手術等を強いられた人々への反省・謝罪に関する記述の確認に使用。
衆議院|2024年10月7日国会審議
2024年最高裁判決後の国会対応、旧優生保護法被害者への補償と国の責任をめぐる議論の確認に使用。
こども家庭庁|旧優生保護法補償金等支給制度
2024年に成立した新たな補償制度、2025年1月17日の施行、その後の補償手続きの確認に使用。
https://www.cfa.go.jp/kyuyusei-hoshokin?utm_source=chatgpt.com
3 自発的優生・出生前診断・リベラル優生学
横山尊|日本における「自発的優生」と出生前診断の歴史
国家による強制的な優生政策だけでなく、個人の選択を通じて進む「自発的優生」という視点を整理するために参照。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenko/87/4/87_139/_article/-char/en?utm_source=chatgpt.com
Stanford Encyclopedia of Philosophy|Eugenics
20世紀型の国家主導型優生思想と、個人の生殖の自由・子どもの幸福などを重視する現代のliberal eugenicsを区別するために使用。生殖的善行、胚選択、能力強化、表現主義的批判などの論点整理にも参照した。
https://plato.stanford.edu/entries/eugenics/?utm_source=chatgpt.com
Nuffield Council on Bioethics|Non-invasive prenatal testing: ethical issues
NIPTの普及・日常化と、自律的な選択、十分な情報提供、障害に対する社会的態度の関係を考えるために使用。
4 AI・雇用・能力による選別
International Labour Organization|Generative AI and Jobs: A Refined Global Index of Occupational Exposure
生成AIによって世界の労働者の約4人に1人が何らかの影響を受ける職業に就く一方、現時点では多くの仕事について完全な消滅より仕事内容の変容が中心になるとする分析を参照。
https://www.ilo.org/publications/generative-ai-and-jobs-2025-update?utm_source=chatgpt.com
International Labour Organization|The impact of GenAI on jobs, productivity and work organization: A review of the empirical evidence
生成AIによる生産性向上、雇用、若年層の機会、所得格差、労働者の裁量などを整理した実証研究レビューとして参照。
International Labour Organization|Generative AI and work: What it means for jobs
生成AIによる雇用への影響を、単純な「仕事の消滅」ではなく仕事の変容や補完関係として整理するために使用。
World Economic Forum|Future of Jobs Report 2025 ― Jobs outlook
2030年までの雇用創出・雇用消失について、企業側の予測を整理するために使用。本文では確定的予測ではなく、調査対象企業による見通しとして扱った。
International Monetary Fund|Gen-AI: Artificial Intelligence and the Future of Work
AIが高所得労働者を補完する一方、資本収益などを通じて所得・資産格差を拡大させる可能性を考察する際に参照。
5 ユヴァル・ノア・ハラリと「無用階級」
Yuval Noah Harari|Frequently Asked Questions
“useless class”という表現が、人間そのものに価値がないという意味ではなく、経済・政治システムから必要とされなくなる可能性を指すこと、また不可避の予言ではなくシナリオとして提示されている点の確認に使用。
https://www.ynharari.com/faqs/?utm_source=chatgpt.com
Yuval Noah Harari|Homo Deus: The Impact of Digitalization on Society
AIとバイオテクノロジーによって、一部の人間が能力を強化する一方、多数の人が経済的・政治的影響力を失う可能性を考える材料として参照。
https://www.ynharari.com/homo-deus-impact-digitalization-society/?utm_source=chatgpt.com
6 安楽死・MAiDと自己決定
Health Canada|Model Practice Standard for Medical Assistance in Dying
カナダのMAiDについて、本人による自発的申請、意思決定能力、十分な情報に基づく同意、外部からの不当な圧力がないことなどを確認するために使用。
Health Canada|Advice to the Profession: Medical Assistance in Dying
本人の死の希望について、家族その他からの不当な影響、依存関係、虐待などが意思決定に影響していないか確認する必要性を参照。
7 本文で資料から導いた主要な論点
社会保障費を議論すること自体と、人間の生命価値を費用で評価することは別である。
能力、自立、生産性、納税額などを生命価値へ変換すると、選別対象は障害者だけではなくなる。
自己決定には、反対の選択肢を選んでも現実に生きていける環境が必要である。
「選べる」が「選んだ方がよい」へ変わり、「責任ある人なら選ぶべきだ」へ進めば、形式上の自由が社会的義務へ転化する可能性がある。
出生前診断を選ぶ個々の親を「優生思想」と断定することと、社会全体で生じる選別圧力を検討することは別である。
AIによる大量失業や「無用階級」の出現は確定した未来ではなく、条件付きの思想実験として扱うべきである。
市場価値と人間の生命価値を同一視してはならない。
「死を選ぶ権利」と「死を選ばなければならない社会」は別物である。
