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約束する、彗星のワイン | 今夜、一杯のワインで。 第十一話

    若い頃、彼は宇宙の話をした。

    付き合い始めたばかりの帰り道だったと思う。
    夜風がまだ軽くて、未来というものがいくらでも伸びていく気がしていた頃。

    「彗星のくる年のワインは美味しいんだ」

    そんなことを言い出して、
    紙袋から覗くシャンパーニュのキャップの星を指でなぞった。

    彗星は僕らが百歳になったらまた戻ってくる。
    そのときも一緒に飲もう。

    私は笑った。
    そんな遠い約束は現実味がなくて、
    気にも留めなかった。

    ただ、嬉しそうに語る横顔が好きだった。

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    夜のリュミエールは、少しだけ静かだった。

    グラスの音も、
    会話の余韻も、
    いつもより遠くにある。

    今夜はカウンターとワインの予約が入っていた。

    予定の時間。
    扉が開く。

    年配の女性と、ふたまわり程年下に見える男性。
    銀色の髪が、店の灯りをやわらかく返していた。

    「こんばんは。ようこそおいでくださいました」

    店長が丁寧に、でも穏やかな笑顔で迎え入れる。

    「今年もありがとうございます。
    息子と話して、
    今年はお店でいただくことにしました」

    店長は、その声に少しだけ頷く。

    毎年、この時期に同じボトルを取り置く。

    本格的な夏が来る、少し手前。
    騒がしさが一度だけ引く、その頃に。

    今年は、ここで開けたいと
    数日前に連絡があった。

    ⸻

    結婚して、子どもが生まれて、
    彼は会社を立ち上げた。

    忙しい日々だった。
    けれど生活は前に進んでいた。

    帳簿をつけ、
    夜遅く仕事を終える彼に食事を出し、
    休日には小さな贅沢のようにワインを開けた。

    それが続くものだと思っていた。

    彼は五十を待たずにいなくなった。


    世界はその日を境に変わったわけではない。
    朝は来て、
    仕事は残り、
    子どもは成長した。

    ただ、隣にいるはずの人がいないというだけで、
    すべての音が少し違って聞こえた。



    「夫の命日にね、好きだったシャンパーニュを飲むことを始めたんです」

    目の前に運ばれた、暖かな色合いのラベルを見ながら、女性は話し始めた。

    「最初は義務だったの、
    彼が好きだったから。」

    味なんて、よく分からない。
    泡が喉を通って、
    静かに消えるだけ。

    「それが十年、十五年と続くうち、
    少しずつ違いが分かるようになってね。
    やっぱり、シャンパーニュって美味しいでしょ」

    女性は柔らかく、視線を少し上げて微笑む。

    泡の細さ
    香りの立ち上がり
    温度のわずかな揺れ
    喉を通り過ぎる液体の冷たさ

    気づけば、好きになっていた。

    途中から息子が同席するようになった。
    何も言わずグラスを持つ。
    彼に似た癖で、少し回してから飲む。

    会社も残った。
    守るつもりで守ったわけではない。
    ただ、その日できることを続けていたら、
    形は消えなかった。

    最近は、任せることも考え始めている。
    まだ口には出していない。
    けれど、時間は自然に次を準備する。

    ⸻

    気づけば私は、
    あの約束を思い出すようになっていた。

    百歳のワイン。

    若い頃は冗談だった。
    彼がいなくなってからは、
    少しだけ棘のように引っかかっていた。

    でも最近は違う。

    私の方は本当に飲むことになるかもしれない、と思うと
    少し面白い。

    自分は半分にも届かずにいなくなったくせに。

    思い出すたび、笑ってしまう。

    ⸻

    女性が何かを思い出すように、口元に少し笑みを浮かべる。
    萌香は、ただその表情を見ていた。

    「35年後、このシャンパーニュまだ取り扱ってる?」

    少しいたずらっぽく、女性は店長に聞いた。

    「ワインは大丈夫です。
    店も、そうなるように」

    店長はうやうやしく、でも笑顔でこたえる。

    「あの、35年後に何があるんですか?」

    萌香の問いに、また優しい笑みを浮かべながら

    「飲む約束をしている人がいるの」

    女性はくちづけるようにグラスを口に運んだ。

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    ⸻

    今夜も泡が立ち上る。

    命日のボトル。
    もう儀式ではない。

    一年ごとに戻ってきて、
    私の中に残っている時間を確かめさせるもの。

    泡がほどけていくのを見ていると、
    過去も未来も同じ場所に置かれている気がする。

    息子が隣に座っている。
    少し神妙な表情。言葉はない。

    それでいい。

    ⸻

    百歳のとき、
    誰とどこで飲むのかは分からない。

    この店かもしれない
    空の上かもしれない
    隣に座るのも息子でないかもしれない

    それでももう怖くない。

    続いていく時間の中で
    失われたものだけでなく
    受け継がれるものが確かにあると知ったから。

    泡をひと口。

    昔より味が分かる。
    昔より静かに飲める。

    再出発という言葉は、
    何かをやり直すことではなく、
    続いている時間の中に
    自分の居場所を見つけ直すことなのだと思う。

    今年もまた一本、終わる。

    そしてまた来年、
    同じように栓を抜くだろう。

    その繰り返しの先に、
    あの約束の夜があったとしても、なくても。

    それでもいい。

    今夜の一杯が、
    確かにここにあるのだから。


    扉が閉まる。

    泡はもう残っていない。

    萌香は、空になったグラスを見る。

    同じワインのはずなのに、
    少しだけ違って見えた。

    理由は、分からない。

     
     

    岳

     
     
    初めての創作に挑戦中(日曜夕方投稿) ワイン、グルメ、スウィーツ、コーヒー 身の丈に合うちょうど良い塩梅の余暇と嗜好を楽しんでます

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