中国〜リタイヤと着陸の狭間で〜
十一月二十日、午前五時。
世界がまだ寝ぼけているその時間、KONGは巨大なキャリーケースをガラガラと引きずりながら家を出た。
いや、"引きずらされている"と言った方が正しいかもしれない。
キャリーの中には着替えの他、衣装とシンバルがみっちみちに詰め込まれている。
結果、タイヤは悲鳴をあげ、住宅街に
「ガラガラガラガラァ!」
と遠慮のない咆哮を響かせていた。
近所迷惑?
そんな配慮はこの重量の前では無力だった。
駅に到着した時は早朝なのに、
いや、早朝故かもしれない。
慌ただしく改札を通行する人が多かった。
タイミングを合わせなければ迷惑を掛けてしまう。
意を決して通ろうとしたその時。
キャリーが突然、反抗期の少年のように斜めへ反り返った。
(ガガッ)
改札機に頭突きをかますキャリー。
その直後、背後から早歩きの乗客が猛烈に間合いを詰めてくる。
「これは…巻き込まれる!」
KONGは思わず、進行方向を向いていないタイヤを力ずくで引っ張った。
(ガガガガッ!)
なんとか突破。
しかし、改札を抜けて数歩、KONGは足元の異変に気づいた。
振り返ると――
タイヤのゴムが、もげていた。
『ここでタイヤがリタイヤ…?
ハハハハハ!!! 面白くなってきやがった。』
自分で笑って自分を鼓舞する以外に選択肢はなかった。
こうしてKONGは、残り3つのタイヤをなんとか回転させるため、キャリーを微妙に持ち上げながら、腕をパンパンにして空港へ向かうハメになったのである。
さらに、中国行きの乗り継ぎ空港で事件は連続した。
キャリーのタイヤが、一つ…また一つと脱落。
「え、ちょ…待っ…!?」
止める間もなく転げ落ち、静かに転がるタイヤたち。
まるでヘンゼルとグレーテルのようにKONGの進んだ後ろにタイヤの残骸が置ちていく。
KONGの心の声は、もはやホラー作品の主人公だ。
「これから…いったいどうなってしまうんだ…」
だが幸いなことに、飛行機に乗る時にはキャリーのタイヤのゴム達が全部なくなり"上手に転がす"必要などなかった。
そのため、一周回って笑えてくるほど平和な空の旅が始まる。
本を読んでは眠り、本を読んでは水を飲む。
読む・寝る・飲むという、KONGの三大欲求だけで構成された、至高のルーティン。
これはもう贅沢というより本能だ。
このまま永遠に飛んでいてくれても文句はない。
そんな中、機内アナウンスが鳴り響いた。
(ピン-ポン)
「まもなく当機は着陸体制に入ります。
シートベルト着用サインが点灯する前に、化粧室のご利用はお早めに。」
ちょうど読んでいたページもキリがいい。
KONGはのそりと立ち上がり、やや誇らしげに通路を進んだ。
目指すはダンディールーム、つまり"機内トイレ"である。
客室乗務員がにっこりと微笑む。
その笑顔は、さっきまで読んでいた本のヒロインより眩しい。
「どうぞ」
扉がスッ……と開く。
……王族だ…完全に王族扱いだ。
KONGはその瞬間、KINGへと進化した。

吸い込まれるように便座へ着陸したまさにその時――。
(ピンーポン)
「ただ今より着陸体制に入ります。
シートベルトをお締めください。」
(──はやくね!?!?
こっちはいま別の"着陸体制"に入ったばかりなんですが!?)
しかもこちらにはシートベルトが無い。
あるのは己の握力と、ひたすらの気合いだけである。
(なんで今!?)
と、運命を呪ったその瞬間――
(ズゥゥゥゥン…)
機体が大きく揺れた。
よりにもよって、最も揺れちゃダメなタイミングで揺れる機体。
色々踏ん張りながらチラリと後ろを振り返る。
やはりベルトは無い。
あったら逆に怖い。
いや、欲しい気もする。
葛藤と揺れがKONGを襲う。
すると。
(コンコンコンッ!ドンドンドンッ!!)
『お客様!?大丈夫ですか!?』
(的な外国語)
だが声からして、焦りは伝わってくる。
まさにKONGの精神状態とリンクしている。
「ノープロブレム!」
KONGの英会話Bookの1ページ目がコレだった。
アトラクションを途中退出するようにトイレの扉を開けると、
そこには"カレー屋で冷やし中華を注文してゴネる客"を見るような目で客室乗務員がコチラをみている。
さっきの笑顔はどこへいったのか。
そんな目するんだ……。
人間の表情の可能性って、こんなに広いんだ……。
そのまま何をしにトイレに行ったのかも忘れたKONGは、中国到着と同時に再びトイレへ駆け込んだ。
こうして…。
KONGの中国ツアーは、
華々しく、さわがしく、下腹部に優しくない形で幕を開けたのであった。

それでは!!
また!
