
アイツ
アイツの話だ。
誰もが見たことがある、アイツだ。
顔ははっきり覚えていない。
どこにでもいる顔だったように思う。
どこにもいない顔だったかもしれない。
たしかポニーテールの女だったかと思う。
いや、短髪の男だったか。
年齢は知らないが、若かったように思う。
そうだ、学生だ。間違いない。
成績は悪くなさそうだ。
たぶん優等生と言っても間違いではないだろう。
おそらく明るい性格だ。
友人は多そうだ。
アイツの印象的な姿。
走っている。
速い?
遅い?
わからない。
しかし妙にその姿が記憶に残っている。
アイツだ。
保健体育の教科書にいる、ランニングしながら「少しきつい」と言っているアイツ。
保健体育の教科書。人によっては、グラウンドが使えない雨の日の嫌な思い出かもしれない。しかし、私は妙に好きだった。教科書の中でも副教科の教科書は、どこかサブカル的な魅力がある。保健体育の教科書は、一見身近で実用的なようでいて、一方で運動という物理的で身体的なものを理論として紙の上に記すという部分において、子供心に奇妙な印象を受けた。
そんな保健体育の教科書では、体力づくりの方法として効果的なランニングのやり方が紹介されていた。それが、「少しきつい」と感じる程度の強度が良いという話だ。生理学的に言えば、心肺機能に対して持続的に負荷をかけることが、機能の向上に寄与するということである。「負荷がかかる」と「継続できる」という二つの要素を両立した運動の身体的表現が、「少しきつい」なのである。
そんな「少しきつい」を説明するページにいるのが、アイツだ。すなわち、ランニングをしながら、フキダシで「少しきつい」と言っている生徒だ。
ランニングのページに、走る生徒のイラスト、これは自然だ。しかし、そこに「少しきつい」というフキダシがつくと、途端にどことない不自然さが生まれる。ランニング中に話すことは不自然ではない。実際、「少しきつい」の別の言い方として、「会話ができる程度」という表現もある。誰かと一緒に会話をしながらランニングすることは、走り続けることが可能であるという点でも有効である。しかし、「少しきつい」は会話ではない。こんな言い切り型の会話はない。「少しきつくなってきたね~」なら分かる。「少しきついですね」なら試着室だ。イラストとしても、一人で走っている。孤独に走りながら虚空に吐き出される「少しきつい」。教科書にしか作れないファンタジーだ。
そんな印象的なアイツではあるが、私の運動遍歴にとっては悪影響であったと言わざるを得ない。なぜならば、「少しきつい」は「すごくきつい」からだ。
教科書的に言えば、「少しきつい」と感じる運動は効果的だ。息が弾む程度、ギリギリ会話ができるペース。それが理想なのだ。生理学的な観点から見た最適解なのだ。
しかし、よく考えてみてほしい。
「少しきつい」ことを自らやろうと思うか?
「少しきつい」ことを習慣にすることができるか?
難しい。いや、「無理」かもしれない。他人にやられるのはギリギリ我慢できても、それを自分で行うのは、強い勇気が必要だ。一度くらいは可能かもしれないが、それを続けることはできない。自分で行う「少しきつい」。それはちょっとした自傷行為だ。自分へのパワハラだ。そんなことを継続できる方がかえって問題があるかもしれない。保健体育の教科書には、「心の健康」を考えるページがあるのにもかかわらず、同時に自分を傷つけることを推奨しているのだ。
そんな無理難題である「少しきつい」の代表であるランニング。定期的に始めては挫折することの代表であるランニング。授業の人気ランキング最下位のランニング。
私が健康のために何度もランニングを始めては何度も挫折した理由。それは教科書に愚直に従っていたからだ。教科書に「少しきつい」という無理難題を押しつけられていたからだ。「少し」という言葉のレトリックに騙されて、一度やってみて挫折する。その挫折を忘れた頃に再度試みて、同じ挫折を味わう。そして「『少し』ですらできないのか」と自分を責めてしまう。そんな「少しきつい」の被害者が私だ。いや、「少しきつい」の被害者は世の中に大勢いるのだ。
そんな状況の中、私は「少しもきつくない」ランニングを始めた。「少しきつい」ランニングから、少しずつ速度を落としていくと、「少しもきつくない」ランニングになる瞬間がある。ほとんど歩いているのと変わらないスピードの走りだ。もはや縦ノリしているだけと言ってもいい。それでも歩いているわけではない運動だ。
大切なのは、「楽」ではないことだ。ちゃんと「運動」にはするのだ。脈拍は上がる。だけど息は全く弾まない。「少しきつい」と感じる直前で留まるのだ。ランニングだけではない。様々な「少しもきつくない」運動がある。坂道をゆっくり歩くトレッドミル。バタ足をしないクロール。半分手すりに体を預けたスクワット。私の運動習慣は、そんな「少しもきつくない」運動から始まった。
「少しもきつくない」運動は「ウォーミングアップ」とは異なる。ウォーミングアップは、その後に本番があることが前提だ。それは地獄への片道切符だ。しかし、「少しもきつくない」運動はその後の保証をしない。あくまで本番なのだ。ちょっとやってみて気分が乗らなければ、そこでやめても良い。逆に、やっている途中で気分が乗れば、強度を上げても良い。「少しもきつくない」運動は呼び水なのかもしれない。しかし呼び水として始めてはいけないのだ。
ランニングに限らず、様々な「効率的なやり方」を知る機会は多い。そこにいつだってアイツはいる。まるで誰もが実現できるかのように実践している。しかしそれが罠なのだ。「科学的な知見」に満ちた無理難題を差し出しているのだ。
「効率的なやり方」とは、「意味があることをしなければいけない」という強迫観念に繋がる。
意味のある単位。
効果的な強度。
それは、始めるには重すぎる。
本当に必要なことは、「少しもきつくない」を知ることだ。
アイツは、私ではない。
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