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あの日の子どもたちの輪

    ~子どもって、すごい力を持っている〜

     

    保育の現場には、日々の小さな営みの中に、 大人の価値観を揺さぶり、育て直すような瞬間がある。 それは特別な行事でも、大きな出来事でもなく、 子どもたちの何気ない表情や、ふとした言葉の中に宿っている。
     
    このエッセイは、私が保育者として働く中で経験した、 「子どもに支えられた日」の記録である。 大切な先輩の訃報を受け、心が折れそうになった朝。 私は“保育者としての顔”を保とうと必死だった。 しかしその日、子どもたちは私の変化を瞬時に感じ取り、 言葉にならない気持ちに寄り添ってくれた。

    子どもは、大人が思う以上に人の心を感じ取る力を持っている。 そしてときには、大人を支える力さえ持っている。 その事実に気づいたとき、私は「保育とは何か」を改めて考え直した。

     保育は、子どもだけが育つ場所ではない。 子どもと大人が、ともに育ち合う場所である。 私はこの営みを「朗育(ほいく)」と呼びたい。
     
     本稿では、あの日の子どもたちの輪の中で私が受け取ったもの、 そして保育という営みの本質について綴っていく。

     
    朝の空気は少しひんやりしていて、春の匂いが混じっていた。 私は息子を後ろのチャイルドシートに乗せ、自転車をこぎながら保育園へ向かっていた。 「お母さん、きょうね、○○くんとあそぶんだよ。」 後ろから聞こえる無邪気な声に、「そうなんだ、楽しみだね」と返す。 いつもと変わらない、穏やかな朝だった。
     
    息子を園に預け、靴を履き替えようとしたときだった。 「……ねえ、聞いた?」 声をかけてきたのは、以前の職場で一緒に働いていた元同僚。 たまたま息子の園に勤めている彼女は、いつも明るくて、笑うと目尻が下がる優しい人だ。 けれど、その日の彼女の顔は、泣き出しそうに歪んでいた。

    「……○○先輩、亡くなったって」

    その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が凍りついた。 息が止まるような感覚。 耳鳴りがして、周りの子どもたちの声が遠くなった。

    「ほんとに……?」 なんとか絞り出した声に、同僚は唇を噛んでうなずいた。 その目は赤く、涙をこらえているのが分かった。
     
    園を出て自転車にまたがったとき、頬を伝った涙が風にさらわれていった。 息子を乗せていたときと同じ道なのに、景色はまるで違って見えた。 胸の奥に重たい石が沈んでいるようで、ペダルを踏む足がやけに重かった。

    出勤の自転車、涙は止めようとしても止まらず、 ただ後ろへ流れていった。 それでも私は、園に着くまでに気持ちを整えなければならなかった。 子どもたちの前では、笑顔でいたいと思ったから。

    ○○先輩は、いつでも面白いことを思いつく人だった。 子どもたちと寿限無の早口競争をして、本気で負けて悔しがる。 「ちょっと待って、もう一回!今のは本気じゃなかった!」 そう言って、子どもたちと一緒にお腹を抱えて笑う。 その姿を見るだけで、周りの空気が明るくなるような人だった。

    保育を心の底から楽しんでいた。 子どもたちの小さな発見に本気で驚き、 小さな失敗に本気で寄り添い、 小さな成長に本気で涙を流す。

    そんな先輩の周りには、いつも笑顔があふれていた。

    新人の頃、私は保育がうまくいかず、業務も思うように進められず、 自分の未熟さに押しつぶされそうになっていた。 そんなとき、先輩はいつも言ってくれた。

    「頑張ってるよ。あなたはあなたらしくいればいいんだよ」

    その言葉に、何度救われたか分からない。 そんな人が、もうこの世界にいない。 その事実が、胸に深く突き刺さった。

    園に着くと、子どもたちの元気な声が響いていた。 「せんせい、おはよー!」 その声に救われるような気持ちで、私は笑顔を作った。 「おはよう。今日もいっぱい遊ぼうね」

    散歩に出かけると、子どもたちは春の気配を見つけては嬉しそうに教えてくれた。 「みて!おはな!」 「ちょうちょいたよ!」 その無邪気な声に、私の心は少しずつほぐれていった。

    笑って、話して、走って。 子どもたちと過ごす時間は、いつも私を前へ引っ張ってくれる。

    園に戻り、部屋に入ろうとしたそのときだった。 一人の女の子が、ふと私の顔を見上げて言った。

    「今日、えみ先生なんか元気ないね。なんで?」

    胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 私はいつも通りにしていたつもりだった。 でも、この子には分かってしまったのだ。

    少し迷ったけれど、私は正直に言った。

    「先生が大好きだった先生がね、亡くなっちゃったんだって。先生、ちょっとさみしいな」

    女の子はしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

    「悲しい時には、いっぱい泣いていいんだよ。その人のことね、一緒にいる人と話すといいってママが言ってたよ」

    その瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。 涙がこぼれそうになった。

    気がつくと、クラスの子どもたちが自然と私のまわりに集まっていた。 「どうしたの?」 「かなしいことがあったんだって」 「まだお部屋にはいらないの?」 「もう少しここにいてもいいんじゃない?」

    話を聞いていなかった子も、空気を感じ取ったのだろう。 いつのまにか、みんなが私の周りに輪になっていた。 普段は目が離せない子も、落ち着きが必要な子も、誰一人騒がなかった。 ただ静かに、そこにいてくれた。

    その空気は、言葉では説明できないほど優しかった。 子どもたちの存在そのものが、私を包み込んでくれた。

    涙がこぼれた。 仕事中だから大声で泣くことはできなかったけれど、 あのとき流れた涙は、きっと私の人生でいちばん美しい涙だったと思う。


    朗育(ほいく)という営み

    あの日、私は子どもたちに支えられた。 保育者である私が、子どもに慰められた日だった。

    そして思う。 子どもたちは、日々の保育の中で、私たち大人にたくさんのことを教えてくれている。

    保育の毎日は、特別な出来事ばかりではない。 むしろ、何気ない瞬間の積み重ねだ。 けれど、よく見ていると気づく。

    「生きてるって、すばらしいな」 そう思わせてくれる瞬間が、確かにそこにある。

    子どもが驚くとき。 友だちと笑い合うとき。 悔しくて泣くとき。 また立ち上がるとき。

    その隣で、保育者である私たちもまた考える。 「ああすればよかったかな」 「こうすればよかったかな」 うまくいかない日もある。 子どもに教えられる日もある。

    そうして、ふと気づくのだ。

    保育は、子どもだけが育つ場所ではない。 子どもと大人が、一緒に育っていく場所なのだと。

    子どもと大人が互いに影響し合い、 育ち合うという営みの中心には、 いつも“朗らかさ”がある。

    子どもたちの朗らかさは、 大人の心をほどき、 ときに支え、 ときに育て直してくれる。

    だから私は、この営みを 「朗育(ほいく)」と呼びたい。

    朗らかに育つ。 朗らかに育ち合う。 その循環こそが、保育の本質だと感じている。

    あの日、子どもたちが私に寄り添ってくれたあの輪の中に、 その「朗育」の姿が確かにあった。

    私はこれからも、子どもたちとともに育ち続けたい。 支えるだけではなく、ときには支えられながら。 先輩が教えてくれた保育の喜びと、 あの日の子どもたちの優しさを胸に抱いて。


    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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