
第一章 404号室(第十一節)
神谷は眠れなかった。
いや。
眠ったのかもしれない。
だが目を閉じるたびに夢を見た。
暗闇だった。
果てのない暗闇。
そこに何百人もの人間が立っている。
誰も喋らない。
誰も動かない。
ただ立っている。
その中に。
黒崎タクトがいた。
高瀬ユウがいた。
失踪者たちがいた。
そして。
神谷自身もいた。
夢の中の神谷は動かない。
目も閉じたまま。
まるで人形のようだった。
その列の奥から。
白い仮面が近付いてくる。
管理人だった。
ゆっくり。
ゆっくり。
こちらへ歩いてくる。
そして耳元で囁く。
「もう見つかりましたよ」
神谷は飛び起きた。
午前五時。
全身汗まみれだった。
呼吸が荒い。
喉が痛い。
心臓が暴れている。
「夢だ……」
そう呟く。
だが自分でも信じていなかった。
朝。
神谷は顔を洗うため洗面所へ向かった。
鏡を見る。
顔色は最悪だった。
だが。
その時だった。
違和感。
ほんの一瞬。
鏡に映る自分の顔がぼやけた。
「……?」
神谷は近付く。
元に戻る。
気のせい。
そう思った。
そう思おうとした。
スマートフォンが鳴る。
母親だった。
何年もまともに連絡を取っていない。
だが今は妙に声が聞きたかった。
神谷は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『はい』
母親の声だった。
聞き慣れた声。
だが。
『どちら様ですか?』
神谷は固まった。
「母さん?」
『はい?』
「俺だよ」
『申し訳ありません』
『どなたでしょうか』
神谷の背筋が冷たくなる。
「何言ってるんだよ」
『間違い電話ではありませんか?』
「神谷蓮だよ!」
沈黙。
『すみません』
『その名前に心当たりがありません』
通話終了。
神谷は動けなかった。
スマートフォンを握ったまま。
ただ立ち尽くしていた。
嘘だ。
そんなはずがない。
母親だ。
忘れるはずがない。
だが。
404号室に見つかった方は。
少しずつ忘れられます。
管理人の言葉が蘇る。
神谷は震える手で財布を開いた。
運転免許証。
身分証。
確認する。
そして。
息が止まった。
顔写真。
自分の顔が。
消え始めていた。
輪郭だけ。
目も鼻も口も。
薄くなっている。
まるで消しゴムで擦られたように。
「やめろ……」
神谷は呟いた。
「やめろよ……」
誰に向かって言ったのか分からない。
だが。
恐怖は現実になり始めていた。
その日の夕方。
神谷は再び朝霧荘へ向かう。
管理人室。
白い仮面。
管理人は既に待っていた。
「こんばんは」
神谷は机を叩いた。
「元に戻せ」
管理人は黙っている。
「俺の母親が俺を忘れた」
「身分証の顔も消えてる」
「お前がやったんだろ!」
管理人は静かだった。
怒らない。
焦らない。
悲しまない。
何も変わらない。
そして。
初めて。
管理人は少しだけ話した。
「皆さん勘違いするんです」
神谷は息を呑む。
「404号室が人を消していると」
管理人は首を振る。
「違います」
「では何なんだ」
管理人はゆっくり答えた。
「404号室は」
「帰る場所です」
神谷は理解できなかった。
「帰る?」
「ええ」
「見つからなくなった人たちが」
「帰る場所です」
その瞬間。
管理人室の奥。
暗闇から。
何百人もの足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
コツ。
コツ。
コツ。
神谷の顔から血の気が引く。
大量だった。
何百人。
いや。
何千人かもしれない。
全員が歩いている。
404号室の向こう側で。
そして。
その足音の中に。
一つだけ。
聞き覚えのある声が混じった。
『蓮』
神谷は凍り付く。
母親の声だった。
『帰っておいで』
その声は。
暗闇の奥から聞こえていた――。