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「怪綺月食、怪人影法師の世紀の大犯罪」by 幻視者

    【あらすじ】
     
    人々を震撼させ、恐怖のどん底に突き落とす大事件が起きた。
    夕日を浴びて急ぎ走る陸軍幹部の専用車が、人々の目の前で忽然と姿を消したのである。
    それは黒マントの男の仕業だった。人呼んで怪人影法師、あやかしの術で物の影をはがすと、なんと物体自体も消えてしまう。
    人も車も建物さえも、怪人が指先でその影をはがすしぐさをするだけで、消失するのである。
    そして今、新たな犯行予告がなされた。
    建築中の巨大な鉄塔、『雷神タワー』を消し去るというのである。
    完成すれば日本一の高さになる電波鉄塔は、帝都防空のかなめとなる軍の要衝施設である。
    警察だけでなく陸軍さえも犯行を阻止すべく、警戒に当たった。
    果たして、怪人をとらえることができるのか。そして、怪人の正体はいったい何者なのか。さらに、殺さず生け捕りにしようとする軍の恐るべき魂胆とは。
    互いの知恵比べが続く中、影法師は、とんでもない新たな犯行を企図していたのである。
     

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    【序 雷神タワー】
     
     満月に照らされ、いぶし銀にそびえたつ巨大な鉄塔、雷神タワー。
     天頂の星々を突き刺す威容をすでに見せているが、いまだ建設途上であった。その上部の鉄骨の梁に、黒い人影が見える。
     香しい春の夜風にマントがはためき、細い足場の上に立つその姿は、見るからに危なっかしく、今にも落っこちそうだ。
     警察車両や陸軍の装甲車から探照灯が点灯されて、人影を照らした。
     世間では、怪人影法師と呼ばれているその男は、まばゆそうに顔をしかめ、一瞬バランスを崩しそうになり、脇の垂直な鉄骨に両腕をからめた。
     ふもとにいる大勢の人々から、悲鳴が上がる。
     影法師は、態勢を整えると不敵な笑みを浮かべた。右腕を地面のほうに伸ばし、指先で何かをつまむ仕草をした。
     その瞬間、包囲しているたくさんの警官や兵隊から、緊張した叫び声が発せられる。
    「いかん、消されるぞ!」
     その言葉通り、装甲車が一瞬にして忽然と姿を消した。
     
     
    【天文画報】
     
     気持ちの良いそよ風に吹かれ、立花良夫は二階建てのおんぼろ長屋の窓を全開にして、のどかな綿雲を見上げていた。
     今日は学友の天城健司君の家に遊びに行く予定だ。
     楽しみで仕方ない。天文画報の最新号を買ったというから、見せにもらいに行くのである。
     立花良夫の家は母一人子一人のつましい家庭であり、そのような雑誌など贅沢で買えない。一方の健司君は陸軍将校の子で、天城家はこのあたりの大地主でもあり、裕福そうであった。
     窓から首を引っ込め、身支度をすると、住まいの長屋を飛び出す。
     そのとたん、「うっ!」と声を出した。近所に住む同い年の柏木陽子と鉢合わせしそうになったのだ。
    「そんなにあわてて、どこ行くの」
     陽子が大きな目玉をくりくりとして聞いてくる。
     十四歳にしては大人びている彼女の目鼻立ちと、最近少し丸くなりつつある体つきを良夫はまともに見られず、目をそらした。この前までガリガリにやせていたのに。
    「天城君のところだよ」
    「ふうん、星の話とかするんでしょ。夢があっていいわよね。わたしも連れてってくださらない?」
    「やだよ、女なんか連れていくもんか」
     そう言うと、ぎろりと睨まれた。
     気の強い女だ、嫁にいけないぞと思うが、口には出さなかった。
    「どうせ、これから兵隊さんの落下傘を縫いに学校へ行かなきゃいけないから、一緒になんか行かないよぉだ」
     陽子は怒ったようにして足早に去っていった。
    「なんだよ、変な女」良夫はつぶやき、天城君の屋敷へと向かった。
     
    「大きな戦争が始まるかもしれないって」
     天城健司のその言葉に、良夫は不安になる。
     陸軍将校の息子だから、親からいろいろと聞いているのだろう。
    「戦争か・・・、ぼくたちも戦いに行かなきゃいけないの?」
     良夫が聞くと、健司は笑みを浮かべた。
    「子どもは行かなくていいさ」
    「でも、そのうち大人になるよ」
    「大人になるころには、戦争は終わっているさ。日本を中心にした亜細亜の共栄圏ができて、みんな平和になるよ」
    「ふうん、そうなんだ」
    「父がそんなことを言ってるからね。あっ、これは誰にも言わないでね。まだ計画中みたい」
    「言わないよ」
    「うん、頼むよ。ほら、新しい天文画報」
     健司は一冊の雑誌を良夫に渡した。
     ページをめくると、細かい字で書かれた記事とともに、様々な天体の絵が描かれていた。
     クレーターが広がる荒涼とした月世界、火星の運河、木星の幻想的な縞模様、土星のきれいな輪っか、アンドロメダ大星雲・・・、いつも記事は読まずに、きれいな宇宙の絵をうっとりとながめる良夫だった。
     一番目を引いたのは、流星雨だった。
     数年前、世間を騒がしたジャコビニ流星群である。
     大空からそれこそ大雨のように降り注ぐ流れ星の光跡。大地には呆けたように口をあんぐりと開けた人々が描かれている。
    「一緒に見たよね」と健司がつぶやく。
     当時、ジャコビニ・チンナー彗星の通過に伴う大流星群は、全世界で観測された。
     ここ帝都でも、この世の終わりのように天から降り続ける流れ星が見られた。
     敵の新兵器による爆弾攻撃かとも噂され、逃げ惑う人々もいた。
     良夫と健司はそれが天体現象であることを知っていたので、夕闇に包まれて、河原の土手でため息をつきながらうっとりといつまでも流星雨に見入っていたのだ。
     しばらく二人で宇宙の話に花を咲かせていると、健司が雑誌の中ほどをひらき、特集記事を見せてくれた。
    「来週、皆既月食だよ」
     健司が嬉しそうに言った
    「ほんと? ぼくはまだ皆既月食は見たことないんだ。部分月食は何回かあったけどね」
     良夫が言うと、健司もうなずく。
    「ぼくもそうだよ。ほら、そこに、夜空のどこの方角に、何時から見え始めるのか詳しく書いてあるよ。その雑誌、しばらく貸すから、家でゆっくりと読んだらいいよ」
     健司がそう言ってきたので、良夫は喜んだ。
     いつもはこの部屋で星々の絵を眺めるだけだったから、ゆっくりと家で記事を読めるとわかり、うれしくなったのだ。
    「ありがとう、そろそろ帰るね」と礼を述べて、玄関のほうに向かう。
     お手伝いの老婆が風呂敷にお菓子をいくつか包み、渡してくれた。
     ここに来ると、いつもなにがしかのお土産をくれるのだった。
     ぺこりとお辞儀し、外に出る。みごとな夕焼けが西の空いっぱいに広がっていた。
     このあと、世間を揺るがすとんでもない事件に遭遇するとは、まだ知る由もなかった。
     
     
    【黒マントの男】
     
     良夫が家路を急ぐと、正面からまぶしい西日が射し、電柱や街路樹、車、行き交う人々、いろんなものの影が路面に長く伸びていた。
    「あっ!」と思わず大声を出す。
     目の前に柏木陽子が歩いていたからだ。
     早く雑誌を読みたいとわくわくしながら気もそぞろだったので、寸前まで気づかなかった。
     良夫の声に振り向く陽子。
    「良夫君、わたしの後つけてたの!」
     陽子は何やら非難めいた声を出して、良夫をにらみつけた。
    「ま、まさか」と激しく否定するが、陽子はじっと見つめてきた。
     良夫が思わず目をそらすと「なにさ!」とふいに怒り出す。
     やっぱり変な女だ。相手にしないと決め、良夫は駆けだそうとした。
     その時だった、前方から黒いマントを身にまとった怪しい男が、夕日を背にしてこちらに向かって歩いてきた。
     良夫はしげしげとその男を見た。黒マントが印象的だったが、顔はよく見えない。背後の夕日のせいかもしれない。
     陽子も怪しいと思ったのか、良夫の隣に立ったまま、訝しげに男に視線を向けていた。
     四辻のところで男は足を止め、懐中時計に目を落とすと、きょろきょろと見回している。何かを待っているような仕草だ。
     すると、野太いエンジン音が聞こえ、一台の黒塗りの高級車が大きな西日の中から土ぼこりを巻き上げてこちらに向かってくるのが分かった。
     日の丸の小旗を車の右前に付けている。
     陸軍の幹部専用の高級車だ。きっと健司君のお父さんだ。そう思い、良夫は車の中を覗き込んだが、乗っている人の顔はよくわからなかった。
     その時、事件は起きた。
     車両の黒々とした影が、良夫の足元まで伸びてきている。
     車は黒マントの男の横をかすめた。同時に、男が右腕を伸ばし、車の影を指先でつまむような真似をした。
     すると、車の影が道路からはがれた。
    「あれ?」
     良夫はきょとんとする。
     男はそのまま影をつまみ、ぴんと指先ではじいた。
     一瞬の出来事だった。
     はがれた影が消えたかと思うと、走っていた車も跡形もなくその場から消えたのである。
     良夫は真っ青になって陽子を見た。彼女も呆然としている。
     はっとして、黒マントの男を目で追おうとしたが、すでにいなくなっていた。
     
     翌日、学校に健司は来なかった。
     先生たちが健司の名を出してなにやらひそひそと話していたが、健司の父親のことなのかどうかは分からなかった。朝刊にも何も書かれていなかったらしい。
     授業中、突然教室の前方の扉が勢いよく開き、数人の軍人が入ってきた。
     憲兵と書かれた腕章をつけている。
     鬼より怖い憲兵だ。生徒たちみんな緊張した。
    「立花良夫はおるか!」
     憲兵の一人が大声を出したので、良夫はくらっとめまいがした。
     教壇に立っていた成松先生が、良夫を指さし、「彼であります」と教えた。
    「一緒に来たまえ」
     憲兵が良夫に向かってそう言った。
     心臓が口から飛び出すほどどきどきしながら、彼らの後に続く。
     一階の細長い小部屋へと連れていかれた。教員たちの控室であるが、三人の憲兵以外誰もいなかった。
    「君、昨日の出来事を詳しく話してくれ」
     固い木の椅子に座らされ、そう聞かれた。
     昨日、良夫が車の消失を目撃したことをどこでどう知ったのか、憲兵たちは事情を聴き取りにきたのである。
     椅子に小さく座った良夫はがたがたと震え、何もしゃべられずにいた。
     すると、脇に立っている口ひげを生やした憲兵が、楽にしろという風に、ちょっと笑って見せた。
     少し落ち着いた良夫は、昨日の事について、ゆっくりと語った。
     見たことをそのまま一通り話し終えると、黒マントの男について、三人からそれぞれしつこいぐらいにいろいろと聞かれた。
     どんななりだったか、髪型は、年は、背の高さは、痩せ型か太っていたか、いったいぜんたいどんなことをしたのか? などなど。
     良夫は同じことを何度も繰り返し話した。
     三十分ほど聴取は続き、終わりしなに、「このことは一切他言無用」と釘を刺された。
    「健司君のお父さんはどうなったんですか?」
     恐る恐るそう聞くが、何も答えてはくれなかった。
     学校帰りに、健司君のところに行こうかとも考えたが、やはり怖くて、やめた。
     春うららかな天気である。綿雲の間に、お日様が顔を出し、意外とまぶしい日差しを投げかけている。少し寄り道をしようと、川沿いの土手の上を歩いて帰った。
     後ろから陽子が追いかけてきた。
    「憲兵隊の人が来たでしょ?」と言ってくる。
    「なんで知ってるの」
     驚くと、陽子はにやりと笑った。
    「だって、わたしが教えたんですもの。朝、憲兵隊の人がこの辺の家を片っ端からたずねて、昨日の出来事についてなにか知っている者はいないかと聞いて回ってたのよ。わたし、正直に、車が消えるのを見ましたと言うと、尋問みたいにずっといろいろと聞かれて、最後に、ほかに誰か目撃した者はいないかと言うので、良夫君の名前おしえてあげたの」
     得意げに陽子は言う。
    「なんという迷惑な話。授業中に教室に入ってきたんだよ」
     良夫は顔をしかめた。
    「あの黒マントの男、敵の工作員よ、きっと。捜査に協力してあげないとだめなのよ」
    「工作員か・・・、なんか魔法使ったよね」
    「影をはぎとって、車を消すって、魔法なの? 何かの新兵器じゃないの」
    「いや、絶対に魔法だよ。科学的に説明できないよ、あんなの」良夫が言うと、陽子は不満そうに口を尖らせた。
    「魔法なわけないわよ、亜米利加の新兵器よ」
     その時、土手のふもとの道を軍の小型車両が何台も走り抜けていくのが目に入った。全車両がものすごい勢いで角を曲がっていく。その先は、昨日、黒マントの男が事件を起こした四つ辻だ。
     良夫が土手を駆け下りて行くと、軍用車両が到着する前から、大勢の憲兵や兵隊たちがあたりにいて、現場を検証しているようだった。
     陽子も後を追いかけて土手を降りてきた。二人が現場に近づこうとするが、立ち入り禁止と書かれた札が立てられ、ロープを張って中に入られないようにしているのであきらめた。
     学校に来たひげの憲兵が遠くに見えた。白衣を着た科学者か医者の様な男も何人かいた。総勢、四、五十人はいる。かなりの数だ。
    「車には将校のほか何人乗っていたのか?」と太い声が聞こえた。
     丸眼鏡をかけ、やや年老いた軍人だった。この中で一番偉そうな男である。
    「運転手含めて全部で四人であります」と若い兵士が答えた。
     それを聞き、良夫は恐ろしくなった。
     そうか、四人も乗っていて、車ごとみんな消えたのか。
    「新兵器よ、新兵器。亜米利加の新兵器」
     陽子がつぶやく。
     その時、彼女の後ろ、土手の上のほうに誰かたたずんでいるのが見えた。
     こちらを見下ろしている。
    「あっ、あれ!」
     良夫はその人物の正体に気がついた。昨日の黒マントの男である。
     恐怖で顔を引きつらせる良夫を見て、陽子もその視線の先を見た。
     男の頭上には太陽が輝いている。そして、憲兵や軍の関係者、軍用車両、それらの影が、四つ辻のところにくっきりと落ちている。
     黒マントの男が右腕を伸ばす。
    「あ、あ、あ!」良夫は言葉にならない叫びをあげた。
    「みんな、逃げて!」陽子が大声を出した。
     軍人たちがこちらに気づいた瞬間、それは起きた。
     黒マントの男が腕を伸ばすと、昨日と同じように指先で何かをつまむような仕草をした。しかも、次々と何回も。
     丸眼鏡の軍人が消えた。ひげの憲兵も消えた。残りの兵士もどんどん消えていった。車両もなにもかも。最後に白衣の男たちも消えた。
     消失。
     すべて消えてしまった。
     
     
    【犯行声明】
     
     軍関係者の集団消失事件、その出来事は隠しようもなく、翌日の朝刊一面に記事が出た。併せて、その前日の陸軍将校の車の消失についても記事が書かれていたが、名前は伏せられていた。
     依然、黒マントの男の正体は謎のままである。多数の目撃情報はあったが、いまだに捕まっていない。
     良夫の家は新聞を取っていなかったので、陽子がその記事をわざわざ見せに来てくれた。
    「消えたのは、全部で四十二人だったんだって」
     陽子が言うと、良夫は悲しげな顔をした。
    「学校に来たひげの憲兵の人も消えたよ。それに、ぼくたちだって、もう少しあの現場に近づいていたら、消されていたかもしれないよ」
    「ほら、見て、ここ」
     陽子が紙面を指さす。
    「なに、これ? 犯人の声明文?」
    「夜中に、新聞社に届いたんだって。封筒に入れて、建物の入口のところに置かれていたんだって」
    「あの黒マントが自分から持ってきたの? 大胆だなぁ」
    「誰かのいたずらかもしれないし、わからないわよ。単独犯じゃないかもしれないしね」
     陽子の言葉を聞きながら、良夫は犯行声明の一文を読んだ。
     
    『是レ、日本國家ニ對スル挑戰状ナリ』
    一、我ガ國ハ一切ノ戰鬪行爲ヲ停止シ、武裝解除ヲ行フベキモノトス。
      同時ニ、陸海軍ノ解散ヲ要求ス。
    二、國家間ノ紛爭ハ、武力ニ依ルベカラズ、外交交涉ニ依リテ之ヲ收ムベキ
      モノナリ。
    三、右ノ條件承認セラレザル限リ、余ハ政治家及ビ軍部要人ヲ逐次排除シ、
      且ツ兵器一切ヲ消滅セシムルモノナリ。
    四、是レ平和ノ爲メノ尊キ戰ニシテ、此ノ決意ハ堅固不拔、何人モ之ヲ妨グ
      ル能ハズ。
     
    ※現代語訳
    『これは日本国家に対する挑戦状である』
    一、我が国はすべての戦闘行為をとりやめ、武装解除を行うこと。同時に、陸海軍の解散を要求する。
    二、国家間の争いごとは、武力ではなく、外交交渉で納めるべきである。
    三、これらの条件が呑まれない限り、私は、政治家や軍部の要人たちを消していく。また、兵器もすべて消していく。
    四、これは、平和のための尊い戦いであり、この決意は固く、何者にも邪魔だてされない。
     
    「平和のために、自らは戦うというのか。どこか矛盾を感じるなあ」
     良夫はつぶやいた。
    「平和は、戦って勝ち取るものなのよ」
     陽子はこともなげに言った。
    「きみは、あいつの味方なのか?」
    「まさかでしょ」
     陽子はさげすんだような物言いをした。
     むろん、政府も軍部もこの挑戦状を相手にはしなかった。
     だが、数日後、さらに国中を震撼させる大事件が勃発したのである。
     横須賀の軍港に停泊中だった高雄型の重巡洋艦一隻が、忽然と姿を消したのだ。しかも九百名の乗組員とともに。
     白昼堂々、この蛮行は執り行われ、たくさんの目撃者がいた。
     黒マントの男が軍港のそばの建物の上から腕を伸ばし、海面に映る軍艦の影をつまんで剥がしたというのである。
     日差しの強い暖かい日だったので、建物の上に立つ黒マント姿は目立ち、異様な怪しさを醸し出していたらしい。なので、目撃者も多かった。
     男が影をつまむような仕草をしたとたん、全長二百メートル、排水量一万トンを超える巨艦が、それこそ影も形もなくなったのだ。
     男は、衆目の中、建物の裏口から外へ飛び出し、用意していたオートバイを飛ばして、素早く逃げて行ったそうである。
     その翌日にはまたしても犯行声明が出された。
     
    『人ノミナラズ、有形ノ物一切ヲ、如何ニ巨大ニシテ且ツ重厚ナルモノト雖モ、瞬時ニシテ消滅セシムルコト能フ。
     (人だけでなく、形あるものすべてを、どんなに大きいものでも重たいものでも瞬時にして消すことができる) 』
     
     声明文ではそう豪語している。
     大胆不敵で神出鬼没、横須賀にも現れて、血も凍る不思議な魔法を使ってみせたのである。
    「悪魔の所業だ」
     良夫は陽子がまた持ってきた新聞に目を通すと、怒りに唇を震わせた。
    「こんな脅しで、日本が武装解除なんてしたら、欧米列強から攻められ、滅ぼされるわよ」と陽子。
    「平和を実現するにしても、やり方があるだろうに」
     良夫と陽子が道端でかんかんがくがくとしゃべっていると、そこへ天城健司が不意に現れた。
     驚く良夫に向かって、健司は「今度の皆既月食、楽しみだね」と言ってきたので、さらに驚いた。
     父親が行方不明になっているかもしれないというのに、月食の話などしてきたからだ。
     何も言えずに良夫が見ていると、健司は笑った。
    「ははっ、消えた陸軍将校というのは、父じゃないよ。父のところに打ち合わせに来た部下たちさ。でも、憲兵から、しばらくはこのことを伏せておくようにって言われている。父がまた狙われるかもしれないからね。ぼくもほんとは家から出ちゃいけないんだ」
     それを聞き、良夫はほっとした。
    「なんだ、てっきりあの車に乗っているのは君のお父さんかと思ってたよ」
    「でも、家から出てきていいの?」
     陽子がくちをはさむ。良夫、健司、陽子の三人は幼いころからの友達であった。
    「うん。だけど、退屈になったから、良夫君と面白い話をしようと思ってね」
    「皆既月食の話かい?」
     良夫が聞くと、健司は首を振った。
    「いいや。あの怪人の、影をはぎ取って実体を消す忍法についてさ」
    「忍法・・・」
     良夫はごくりと生唾を飲み込んだ。
     
     
    【忍法影狩り】
     
    「忍法? おいおい、健司、あたま大丈夫かよ」
     良夫は苦笑いする。
    「まったく、良夫君は魔法と言うし、健司君は忍法だなんて、あなたたちおかしいわよ。あら、これおいしい」
     陽子はあきれた口調で団子をほおばった。
     健二が、立ち話もなんだから自分の家に行こうと言うので、みんなで広い屋敷に上がり、お手伝いのおばあさんの用意したお茶と団子を楽しみながら話していた。
     そして、健二が、こんなことを言い出したのである。
    「いいかい、新聞社に届いた声明文には、もう一文書いてあったんだよ。実は父の書斎の机の上でこれを見つけたんだ」
     それは声明文の写しだった。高級そうな和紙に達筆で書かれている。
     最後に書かれた一文、新聞には載っていなかった一文、それがこれだった。
     
    『是レ古來我ガ一族ニ傳ハル秘術ナリ。
     (これはいにしえより我が一族に伝わる秘術である)』
     
    「たぶん報道管制だね。軍部が新聞社に圧力をかけて、この部分を記事から削除させたんだ」
     健司がそう言った。
    「こんな話、してて大丈夫かしら」
     陽子があたりを見回し、声を低めた。心配げな顔だ。
    「父は陸軍省のほうに出かけているし、ここにいるのは、さっきのばあやだけさ」
    「忍法じゃなくて、秘術と書いてあるよ」
     良夫が指摘すると、健司が一冊の古びた書籍を隣の部屋から持ってきた。
    「声明文の写しの横に、この古い本が置いてあったのさ。これは、むかし書かれた兵法の本で、その中に、ほらごらん、忍法影狩りという項目があるんだ。父がこれを見つけたんだよ」
     健司が細長いしおりが挟まった頁を開いてみせると、そこには『忍法影狩り』と書かれていた。
     健司は咳払いし、説明し始める。
     その説明によると、戦国時代、影狩りという忍術があったそうだ。
     当時、各地の戦国大名たちは、万一に備えて、自身にそっくりな影武者を用意していた。表舞台にはすべてその影武者を立たせ、大将本人は安全な場所で過ごしていたのである。
     そこで忍法の出番だ。
     忍法影狩りとは、影武者を消すことで、別の所にいる本物の大将の息の根までも止めることができるという不思議な遠隔忍術。
     秘伝中の秘伝で、死と隣り合わせの過酷な修行に耐えたものだけが習得できるという。それを身につけると、天下無敵、どんな大国をも、大将を抹殺して攻め滅ぼすことができるのだ。
     おそらく、あの時代、信長も秀吉も、家康でさえ、この恐るべき忍術を使う忍びのものを雇っていたのであろう。しかしながら、その忍術に気づいた戦国大名たちは、影武者を用意すること自体が自らの命の危険につながるということで、自身の安全、警護に万全を期して、影武者は立てなくなったという。
     やがて、太平の世になり、いつしかその技は喪われていったはずだった。だが、、、
    「たぶん、その忍法影狩りの術を、例の黒マントの男はあやつっているんだよ」
     健司が最後にそうまとめた。
    「そんな馬鹿な」
     良夫は顔をしかめて見せた。
    「違うわ、亜米利加の新兵器よ。あら、これヨモギだわ」
     陽子はさらに団子に手を伸ばし、ほおばっている
    「だけど、影武者を殺して大将を消すのと、今回の事件、影をはぎ取って、実体を消すというのは、ちょっと違うんじゃないか」
     良夫は冷静に考えてそういった。
    「おそらく、まあ、ぼくの推量だけど、使われなくなって久しいその忍術を、子孫たちが一子相伝、日の当たらないところで代々磨きをかけ、進化させていったんじゃないのかな。たぶん、黒マントの男は忍者の末裔なんだよ」と健司。
    「あまりにも荒唐無稽な話だな」
     良夫が天を仰ぐと、陽子がしつこく亜米利加亜米利加と言いそうだったが、三つ目の団子がその口をふさいでいた。
     
     
    【怪人の正体】
     
     そのあとも、要人たちが次々と消されていった。
     軍や警察は必死になって怪人を探し回った。
     それをあざ笑うかのように怪人は犯行を重ね、やがて、軍需産業の会社の幹部までもが狙われるようになった。
     政府要人や軍幹部たちは、日中、外を出歩くことをやめた。自らの影を映し出さない夜間か、天気の悪い日のみ、行動した。
     街灯など、人工の光に映し出された影ではだめなのであろう、夜間に犯行がなされることは一度もなかったのだ。太陽に照らし出された物の影だけがねらわれるのにちがいない。
     すると、怪人はターゲットを変えた。
     最新鋭の戦闘機が並ぶ成増飛行場で、十数機、消し去っていた。
     駐屯地では戦車が、軍港では艦艇が、次々と消えていった。
     歯止めがきかず、犯行の対象が広範囲であり、警戒のしようもない。もはやお手上げだった。
     そんな中、特高警察が、ある事実をつかんだ。
     犯人の素性が分かったのである。
     
    『大原京治、三十八歳、東京市牛込区出身。母は京治が生まれて間もなく病死、父の俊治は過激な無政府思想を持ち、自宅で爆弾を製造しているところを特高警察が察知して捕縛、逮捕。のち獄死。死因は不明』
     
     新聞にはそう書いてあった。
    「よく調べ上げたね」
     長屋の一階の入口で、陽子が持ってきた新聞に目を通して良夫は感心した。
     いったいどんな捜査をして、犯人を特定したのだろうか。世界中で紛争が勃発している中、日本国内でも憲兵や特高など治安維持のための組織がかなり強化されている。人権は抑圧され、人々は常に国家に監視される世の中となっているのだ。
    「警察も軍も威信をかけて、血眼になって捜査したんだわ」
    「だけど、まだ捕まってはいないんだよね。どこか逃げ回りながら犯行を重ねてるんだ」
     良夫は唇をかんだ。
    「ここまで分かったんだから、捕まるのも時間の問題よね。それにしても、父親の素性まで調べあげるなんて、たいしたもんだわ」
    「でも、死因は不明だって」
    「きっと拷問よ、特高警察ってこわいらしいわよ。拷問なんて、いやん」
    「母ちゃんが言ってたよ。戦争反対と言っただけで特高に捕まり、どこかへ連れていかれるって。だから、外ではあまり変なことを話すなって。そうか、これは平和のための尊い戦いなんかじゃなくて、世の中への復讐だよ。親を殺された社会への仕返しなんだよ」
     良夫が意趣返し説を述べたところへ、健司が息せき切ってやってきた。
    「父が帰ってきたんだ。犯行予告があったんだって!」
     それを聞き、良夫は驚いた。
     犯行予告なんて、初めてじゃないか。これまで、神出鬼没、いつどこで犯行が行われるのかわからなかった。そのことが社会に混乱と恐怖を植え付けてきたはずなのに。なにか違和感を持つ良夫だった。
    「どんな予告?」と陽子が聞く。
    「一週間後、雷神タワーを消すって」
    「あの高い鉄塔? まだ、建設中だよね。そんなのを消して、どうするつもりなんだろ」
     良夫はますます今回の怪人の行動に疑問を感じた。なにかとんでもないことを企んでいるのではないかと思い、そう口にした。
    「雷神タワーは、軍管轄の電信電波塔なんだよ。そして、帝都の空を見張る防空の拠点でもあるんだ。あれが完成すれば、首都の守備は増強される」と健司。
    「でも、どこか変だよ。予告なんてしたら、軍は部隊を出動させるだろうから、怪人は身動きできなくなるかもしれない」
    「それが狙いかもね」
     健司が目を見開いてそう言った。
    「なるほど、集まってきた警察や兵士を片っ端から消すということかい。でも、捕まるよ。いや、狙撃されて殺されちゃうよ。そんな危険な状況になることまで覚悟しての予告なんだろうか」
    「いや、絶対に殺されることはない」
     健司が断言したので、良夫は耳を疑った。
     陽子もきょとんとしている。
    「なに言ってるのよ、あんな悪党、とっとと殺したほうがいいに決まってるわよ」
    「殺さず、捕らえるのさ」と健司。
    「どうして? 犯行の動機を聞くためかい」 
     良夫が聞くと健司は否定した。
    「違う。実はな」
     そのあとの健司の言葉に、良夫も陽子も唖然とするしかなかった。
     
     犯行予告はただちに新聞の号外となり、町中に配られた。またラジオでも速報でニュースが流された。人々の口から口へと伝わるのも早かった。
     警察としては、巻き添えにならぬよう、当日は決して雷神タワーに近づいてはならぬとお触れを出し、広い包囲網を敷くことにした。
     鉄塔だけを包囲しても仕方ない。仮に怪人が鉄塔に登ったとして犯行に及んだら、足元の影を消すと自分も消えてしまう。なので、どこか遠くからだろう。しかし、あの高さゆえ、四方八方どこからでも見える。
     ちょっとした高台や、建物の上からでも実行できるので、その包囲網自体、むずかしいものがあった。
     健司の父、陸軍中佐の天城はいかにして怪人を生け捕りにするかを考えていた。
     自分の影が出ることを用心し、早朝、日の出前に市ヶ谷の陸軍省から車でいったん屋敷に戻った。着替えを済ますと、静かな書斎にて、パイプ煙草に火をつけ、沈思黙考していた。
     あの怪人影法師に自分が狙われたのかどうかは分からないが、憲兵の話では、時間を気にして待ち伏せしていたような気配もあったらしい。
     たまたまあの時は先に帰っていて、車には乗っておらず、代わりに、打ち合わせに来ようとしていた部下の若い将校たちが消えてしまった。かわいそうに。
     なぜ、私をねらう。大臣とか、もっと高官がいるではないか。
     もしや、特高に捕まった怪人の父親、大原俊治にからんでいるのか。あいつが獄死した時、自分は陸軍省から異例の出向で内務省警保局に在籍していた。反政府運動を取り締まる特別高等警察の設立にかかわったのである。
     大原俊治のことは覚えている。爆弾を製造した背景を聞き出すため、厳しい取り調べを指示したのは自分である。国家騒乱をたくらむスパイ容疑だった。
     結果、一切、口を割らずに獄死した。特高の係官たちによる撲殺だ。
     まさか特高の者たちが死ぬほどまでひどい拷問をするとは思いもよらず、しばらくは虚しい気分で過ごした。
     そんなことを思い返す。
    「あいつのせがれか・・・・」
     ひとりつぶやき、ため息をついた。
     先ほどまで息子の健司がいろいろと聞いてきたが、曖昧な返事しかしなかった。
     狙撃兵をたくさん用意して撃ち殺せばいいのではないかと言ってくるので、そこは否定した。
     理由は言えないが生け捕りにする。そう答えたものの、余計なことを言ってしまったとすぐに後悔した。
     息子は勘の良いやつだ。今はいない。どこかへ出て行った。
    「どうやって生け捕りにするか」
     天城中佐は紫煙を吐き、つぶやいた。
     
     
    【人間兵器】
     
    「そんなの、嘘だ!」
     どうして怪人を殺さないのか、健司がその理由を言ったとたん、良夫は反発した。
    「それ、お父さんに聞いたの?」
     陽子が聞くと、健司は首を横に振った。
    「いや、はっきりと理由は教えてくれなかったよ。でも、少し考えればわかることだよ」
    「まさかでしょ」
     良夫は納得できないでいる。
    「軍艦や戦車や飛行機を手間かけず、瞬時に消し去れるんだよ。たった一人で。それに、兵隊もまとめてたくさん消せる。軍部が放っておくわけないさ」
    「人間兵器ってわけね。亜米利加の新兵器かと思ったけど、日本の新兵器になるかもしれないのね」
    「そう、だから、殺さない。生け捕りにして、利用するのさ。これで、大きな戦争になっても勝てるよ。いや、怪人のすごさを知らしめたら、抑止力となって、戦争は起きないかもしれない」
     健司が熱く語る。
    「たとえそうだとしても、あの怪人が軍に協力なんてするもんか」
     良夫は強い口調で言い返した。
    「そうだよね、協力なんてしないわよ」と陽子。
    「協力する前に、みんな消されちゃうよ。影が出てれば消せるんだもの、簡単さ」
     良夫が言うと、健司は少し考える仕草をした。
    「目隠しして両腕を縛っておけばいい。それに、手は、鉛か鉄製の箱にでもつっこんでおけば、技は使えないかも」
    「それだと、兵器として使えないよ」
     良夫がため息交じりにつぶやいた。
     健司も陽子も押し黙る。
    「犯行はいつの予告だっけ?」
     良夫が聞くと、健司が「来週の木曜日」と答えた。
    「月食の日だね」
     良夫はそのことを思い出した。
    「まあ昼間だろうけど。夜は影ができないからね」
     健司がうなずきながら言うと、「げっしょくってなに?」と陽子が聞いてきた。
     良夫が、「太陽と地球と月が一直線になってね」とか説明するが、陽子はいまひとつピンと来ていないようだった。
     今度、団子を三個使って説明しようかと考える良夫だった。
     
     毎日のようにおぞましい犯行が続いていたが、犯行予告が出てからここ数日は静かだった。
    「不気味な静けさ、嵐の前のなんとやら」
     天城中佐は特別警戒本部の作戦室で、ひとり呟いていた。
     彼も、今回の犯行予告には違和感を持っていた。いまだにそのざわざわとする落ち着かない感覚はぬぐえない。
     なぜ、わざわざ犯行の日と、消す対象まで予告したのだろうか。
     もしや、これが最後の犯行と考えているのかもしれない。今までにないような世間を大きく揺るがす大事件を起こそうとしているのかも。
     そして、あの反戦と平和の主張、軍の解体を世間に訴えてくるのか。いつもの新聞社への犯行声明のほか、アジ文書をしたためたビラでも撒くのかもしれない。もしくは、派手に腹を斬って自害するのか。
    「解せない・・・」
     怪人の心中などわからないのだ。
     平和のための尊い戦いなどとうそぶき、実は単なる破壊者なのかもしれない。
     仮に生け捕りができたとして、あいつをどう人間兵器として使うことができようか。
     数日前、陸軍参謀本部の城島少将からそれを命じられて以来、ずっと考えてきた。
     扱い方に失敗したら、こちらがやられてしまう。諸刃の刃、それもそうとうな破壊力をもった兵器である。
     敵対する欧米諸国は、この脅威を取り除くことが急務となろう。様々な手段で怪人を抹殺しにかかるかも。いや、もしかすると我々のように、ひっ捕らえて自分たちの兵器とするかもしれない。
     要するに、敵からは守らねばならず、味方にも害を及ぼさないようにし、取り扱いも難しい強力な兵器なのである。あいつを手駒にすることなど不可能というしかない。
     とっとと始末したほうが良いのでは。それがあいつのためかもしれない。
    というのも、城島少将やその周りの過激な急進派たちは、人体実験までやりかねないのだ。
     怪人が手に負えないとなると、あの秘術の謎の解明のために、彼の脳をいじったり、身体を切り刻んだりするかもしれない。あいつらならやりかねない。
     そうまで考える天城中佐だった。
     
     天城を部隊長とした陸軍特別警戒本部はあわただしい日を過ごしている。
     今や警察組織も実質的に軍の傘下となり、指示命令系統はすべてこの本部からのものだった。
     市内中心部を走る幹線道路、路面電車や地下鉄の交通規制の準備。
     あわせて、各要所への警備隊の配置。
     鉄塔が見える場所の高い丘や建物の特定と、そこへの兵員配備。
     装甲車などの機動部隊や戦車隊の配置。
     狙撃手も各所に置く予定だった。
    「ここまでやって、当日雨だったらどうなりますかね」
     作戦室にいる天城の脇で、実際の現場を仕切っている若い石川少尉がもの申してきた。昨夜は寝てなかったようで、充血した目の下にはくっきりと隈ができていた。
    「雨なら、怪人も現れないだろう。影ができないからな」
    「晴れを切望するであります。早くつかまえたいであります」
    「しかし、簡単には捕まえられないだろうな」
    「大丈夫であります。狙撃兵には足を狙うように命令してますし、射程は短いですが麻酔銃を持った部隊を展開させます」
     少尉は机の上に広げられた帝都の地図のあちこちを指さした。
    「隊員の影はちゃんと出ないようにできるんだろうな」
     天城が聞くと、石川少尉は大きくうなずいた。
    「強力な探照灯を様々なところに配置し、隊員がいるところに光を照射して、影を消させます」
    「本当にそんなことができるのか。一人たりとも犠牲者を出したくないぞ」
    「はっ、お任せください。隊員みんなの士気は高く、奮闘して準備を進めております」
    「精神論だけではだめだぞ。気合だけで影は隠せないぞ」
    「ははっ、肝に銘じます」
     石川少尉は頬を紅潮させ、敬礼した。
    「よし、それでは、例の準備も進めたまえ。それがうまくいけば、隊員たちの影を隠す一助となろう。物は集まりそうか」
    「はっ、役所や公的機関からの調達、それに民間の施設からも徴用いたしております。工兵隊も各所にて設営の準備をしております」
     それを聞き、天城はうなずいた。
     一つの作戦を思いついていたのである。
     
     
    【愛宕山作戦】
     
     季節は春から初夏へと移行していた。
     雲一つない空には、眩しい太陽が輝いている。
     良夫と健司は、まだ動いている市バスに乗って、雷神タワーの近くまで来ていた。
     犯行予告の日は二日後に迫っている。あたりには兵隊や警官が大勢いて、包囲網を作ろうとしていた。
     もう少し時間が経ったら、ここから追い払われるかもしれない。
    そんなことを考えながら、良夫は鉄塔を見上げていた。
    「高いなあ」
     首を上げて、つぶやいた。
    「日本で一番高い建造物だよ。完成したら、もっと高くなるよ」と健司。
    「あんなでっかいもの、本当に消せるのかな」
     良夫は鉄塔から目を離し、周囲を見回した。
     鉄塔の影がくっきりと、地面や建物の屋根にきざまれている。
    「軍艦を消すぐらいだもの、あれだって消せるさ」
    「どこからどうやって消そうとするんだろうね」
     良夫は背後に目を移した。その時、ぎらりと何かがまぶしく輝いたのに気付いた。
     健司もそのきらめきを知り、目を細めて視ている。
    「愛宕山のほうだね」
     山と言うほど高くはなく、小高い丘ではあるが、天然の山としては大東京三十五区では最高峰である。
     じっと見つめると、光は消えた。と思ったら、また輝く。
     良夫はその光の正体が分かった。
    「鏡だ、太陽光の反射だよ。傾きを変えて、こっちに向けようとしてるんだ」
    「なるほど・・・、はっくしょん」
     健司は大きなくしゃみをした。太陽光を見るとくしゃみが出る体質だった。
     愛宕山には、多くの鏡が立ち並べられている。
     健司の父、天城中尉の発案で、大きな鏡が愛宕山の上にいくつも運ばれてきた。太陽光を反射させてあたりを光り輝かせ、雷神タワーや部隊の影も隠すという作戦だ。
     愛宕山だけでなく、周囲の高い建物の屋上にも鏡が置かれ、光の向きを調整していた。
     これには、民間の鏡もたくさん使われる。それぞれの鏡の台座は工兵隊が急いで作り上げていた。薫風が吹き渡る中、急ごしらえの巨大な鏡台がいたるところに設置されたのである。
    「まぶしいなあ、くしゅん」
     健司はまたくしゃみをした。
    「こんなので、影法師の犯行を防げるのかな」
     良夫は首をひねった。
     大勢の兵士たちがそれぞれ鏡の向きを調整している。
     光の条が、あっちを向いたり、こっちを向いたりしているが、やがてすべてが雷神タワーの周辺に集まり始めた。
     良夫が様子を見ていると、鉄塔の影が薄らいだような気がした。もう少し鏡の光がそろえば、影を完全に隠せるかもしれない。
    「なかなか良い感じだね、健司君」
    「うん、でも、怪人がどこかでこの様子を窺っているよ、きっと」
    「そうかもね。なにか策を講じるかも」
     その時、さらに強い光が襲ってきた。愛宕山とは反対側だ。良夫たちが振り向くと、高いビルの上から大きな鏡に反射した太陽光線がこちらに向かって照射してきた。
     そしてその隣のビル、さらに横のビルと、次々に光が注いでくる。
     あたりに光が拡散し、雷神タワーの影が消えていく。
    「すごい!」
     良夫は単純に感動した。
     しかし、次の瞬間、強い南風が吹き荒れ、あちらこちらで鏡の向きが変わり、中には倒れてしまった鏡もあった。
     
     
    【包囲網】
     
     ついに、その日がやってきた。
     市内の交通機関は全面的に運行休止となった。
     それでも良夫と健司は早起きして待ち合わせ、徒歩で雷神タワーの方角へと向かっていった。
     良夫は天文画報を布のバッグに入れ、肩からタスキ掛けにして下げていた。今日は月食だ。方角や時刻の参考になる。
     後ろから、柏木陽子が走って追いかけてくる。黄色い着物の裾がはだけていた。
    「わたしも、いく!」
    「タワーまで二時間はかかるぞ」
    「へっちゃらよ。あなたたちこそ大丈夫なの? うふふ」
    「途中で、兵隊に追い返されるかもね」
     良夫が言うと、まかせてというように陽子は自分の胸をトンとたたいた。
    「裏道を行きましょう、わたし、道には詳しいのよ」
    「よし、行くぞ」
     みんなは歩き始めた。東の空にはまぶしい朝日が照り輝いている。空には雲一つなかった。
     三人の影が路上にくっきりと刻まれていた。
     
     昼過ぎ、天城中佐は愛宕山に設営された警戒本部の大きなテントの中にいた。
     今のところ、何の気配もない。
     天城は緊張した面持ちで、雷神タワーや周辺を双眼鏡でずっと見回していた。
     初夏の太陽がまぶしい。この愛宕山やあちこちの建物の上に配備された鏡もまばゆく光り輝き、反射光であたりを照らしていた。
     太陽の動きに合わせ、隊員たちが手動で鏡の向きを常に調整している。
    鉄塔麓の戦車隊や装甲車も光の反射に照らされて影を失くし、まるで宙に浮いているようだ。兵士や警官隊も光を浴び、舞台に上がった芝居役者のように輝いていた。
    「思った以上の効果だ」
     天城は満足げに独りごちた。
     あたりに強烈な光が渦を巻いている。太陽が地上に降臨してきたかのようだと言っても大げさではない。
    「中佐! 完璧であります!」
     石川少尉が笑みを浮かべている。
     しかし、怪人影法師はさらにその上を行くのである。
     
    「夕暮れになっちゃったね」
     陽子が西の空に沈む夕日を見ていた。
     何事もなく時は経ち、気づくとやがて日没である。
     良夫たち三人は、軍や警察の包囲網の外、広い公園にいた。
     そこから夕空にそびえる鉄塔が見える。包囲網の中には、たくさんの軍用車両が待機し、大勢の兵員たちが持ち場についていた。狙撃兵らしき者も、あちこちの建物の中に身を隠しているのが分かった。
     愛宕山やビルの上からの鏡による太陽の反射光が周囲をまばゆく照らしていたが、その光も赤みを帯び始めていた。
     公園には大勢のやじ馬たちがいた。夕暮れが近づいてきたと知り、ざわざわと騒ぎだしている。
    「今日は出ないんじゃないか」
    「これだけの包囲網だ、近づけないよ」
    「いや、軍隊をここにおびきよせて、どこかほかで大きなことをやってるのかもな」
     などと口々に言っている。
     良夫もなかばあきらめ、なかばほっとしていた。このまま何事もなく、無事に済めばよいのだ。
     日は傾き始め、薄暮が迫ってきた。鏡からの反射光もおとろえてきた。かわりに、あちこちからの探照灯の光がまばゆさを強めていた。
     隊員たちも、こころなしかほっとしているようだ。午前中からずっと続いていた緊張感が緩み始めている。
     笑い声さえ聞こえてきた。
     西の空に一番星が見える。
    「今日は空振りだったね」
     良夫が笑顔で言った。
     だが、健司がなにやら一生懸命に考えごとをしているような表情だったので、それ以上何も言わなかった。
     陽子は、おなかが減ったと言って、どこからかおはぎを手に入れて、口にしていた。良夫も一つもらい、もぐもぐと口を動かした。
     その時、健司がはっとした顔で、東の空を見た。
     なにやら黄色く巨大な丸いものが浮かび上がったのだ。
    「月が出た・・・」
     健司はつぶやいた。
     大勢の隊員たちは、夜になり、もはや怪人は現れないとそれぞれ勝手に決めつけ、撤収の準備をしようとしている。
    「そうか、月食だから、今夜は満月なんだね」
     良夫が当たり前のことを言うと、陽子がもぐもぐとおはぎを食べながら、「げっしょくってなんなのよ」とまた聞いてきた。
     良夫がもう一度、月食という天体現象を理解させようとバッグから天文画報を取り出す。皆既月食の仕組みが図になっているのだ。
     ページをめくっていると、健司が大声を出した。
    「あっ、そうか!」
     その声に驚いて良夫と陽子は顔を見合わせた。
    「どうした!」
    「怪人だよ、影法師が現れるよ!」
    「もう来ないよ、夜だよ」
    「いや、これからだよ。早く父さんに伝えないと!」
     健司はあわてて駆けだした。
     
     健司を先頭に、良夫と陽子は駆けていく。
     すぐに包囲網のロープのところに着き、付近にいた若い兵士に止められた。
    「立ち入り禁止だ!」
    「怪人だよ、怪人が来るんだよ!」
     健司が叫ぶが、その兵士は薄ら笑いを浮かべた。
    「もう夜だ。今日は現れない。明日になるかもしれん。さあ、早く家に帰りなさい」
     追い立てるように手を振る。
    「お名前は何ですか」
     健司が兵士に向かってそんなことを言うので、良夫は驚いた。
    「なんでそんなことを聞く?」と怪訝そうな兵士。
    「ぼくは天城中佐の息子です。父に緊急で伝えたいことがあるんです。そこを通してください」
    「香川上等兵! どうした」
     上官らしき男が近づいてきた。
    「吉岡軍曹殿! この子が天城中佐に話があるからここを通してくれと。中佐の息子さんらしいです」
    「吉岡さん、香川さん、もし何かあって間に合わなかったら、あなたたちのことを父に言いつけます」
     健司がすごんでそんなことを言うので、二人は一瞬ひるんだ。そのすきだった。健司がロープをくぐり、二人の間をすりぬけて、さっと走り出した。
     すかさず二人が追う。そこががら空きになったので、良夫と陽子も訳が分からないまま、とりあえず健司のあとを追った。
     その時だった、あちこちから大声が上がった。
    「怪人だ!」
    「影法師が出たぞ!」
     なんと、気球に乗って怪人が上空から現れたのである。
     
     
    【怪人影法師参上】
     
     天城中佐は血がにじむほどに下唇をかみしめた。
     鉄塔の上空にふらふらと気球が現れたからだ。熱気球だ。
     ぶらさがった籠には、黒いマントをまとった一人の男がいた。
    「まさか、空から現れるとは」
    「中佐! 気球を撃ち落としましょう!」
     石川少尉が怒鳴る。無線班に迎撃の指令を出そうとした。
    「待て! 生け捕りにするのが参謀本部の命令だ!」
     その時、丘を登って健司が駆けよってくるのが見えた。後ろから数人の兵士がハアハア言いながら追いかけてきている。
    「健司、こんなところで、なにをやってるんだ!」
     天城は目を丸くした。
    「父さん、大変だよ! 怪人が影を消し始めるよ!」
    「影? 日は沈んだぞ! どこに影があるというのだ。おおっ」
     天城は気づいた。
     満月の黄色い光に照らされて、鉄塔の影が長く伸びているのを。
    「月光って、太陽の光が月に反射してできる物なんだよ。だから、昼間の影と同じだよ。怪人は片っ端から消し始めるかも」
     健司が叫ぶように言うと、気球は高度を落とし始めた。
     怪人は籠から身を乗り出すと、器用に鉄塔の梁の上に足を乗せた。
    「あいつ、鉄塔に乗りおったぞ」
     あちこちからどよめきが起きる。
     地面を照らしていた探照灯がいっせいに怪人に向けられた。
     夜風にマントがはためき、狭い足場に立つその姿は、見るからに危なっかしい。今にも落っこちそうだ。
     怪人は、まぶしそうに顔をしかめたが、不敵な笑みを浮かべると、右腕を地面のほうに伸ばした。その先には、装甲車が何台も止まっていた。
    「いかん、消されるぞ!」
     天城が怒鳴る!
    「急ぎ、探照灯で車両を照らせ!」
     石川少尉も叫んだ。
    「早く、はやくっ!」
     健司も怒鳴るが、間に合わない。満月に照らされた装甲車の影がくっきりと地面に出ている。
     怪人は指先で影をつまむ仕草をした。
     そのとたん、装甲車が一瞬にして忽然と姿を消した。
     
     丘の中腹から良夫はそれを見ていた。
     血が凍った。今、目の前で一台の軍用車両が姿を消したのである。それこそ煙になったのだ。きっと、中に兵士もいただろう。生きた人間ごと消し去ったのだ。
     兵士は何を思っただろう。いや、何も考える暇などなかったはずだ。一瞬の出来事であり、苦痛もなかっただろう。
     良夫はそんなことを考えた。
     さらに、もう一両、今度は重量のある戦車が消えた。あたりにいる兵士たちも数名、巻き添えを食らうようにして消えた。
     あわてて良夫は自分の足元を見た。影が伸びている。となりにいる陽子も影が伸びていた。
    「伏せよう!」
     良夫と陽子は土の上に身を横たえた。茂みもあって、二人の影はほとんど出てない。
    「良夫君、こわい」陽子は泣きそうな声を出していた。
    「ここにいれば大丈夫だよ、身を起こさないで」
    「うん」
     陽子がうなずいた。
     
    「兵士を守れ!」
     天城中佐が怒鳴る。
     石川少尉は、怪人を照らしていた探照灯の向きを下に変えるよう無線で指令を出している。
    「雲だ!」
     天城の横で、息子の健司がつぶやいた。
     満月を覆い隠すように雲が流れてきた。
     すうっと、みんなの影も鉄塔の影も薄れていく。
     怪人もそれに気づき、天を仰いでいた。
    「このすきに、狙撃させましょう、あいつ撃ち殺してやります!」
     石川少尉が中佐に向かって言った。目の前で仲間を大勢消されたので、怒りに顔をゆがめていた。
     天城は首を小さく横に振り、「殺すな、麻酔銃だ」と告げた。
     少尉は不満そうだったが、すぐに指令を出す。
     麻酔銃を持った兵士たちが鉄塔の下にわらわらと集まってきた。しかし、通常の弾とは違い、麻酔銃の射程は短い。何人か、怪人に向けて発射したが、届かなかった。
     風が出る。
     満月を覆っていた雲が千切れた。
     ふたたび、月光があたりを照らす。
     探照灯の光だけでは隊員たち全員の影を隠すことは難しかった。
     すると、怪人がまたもや凶行に出る。
     装甲車が一台、また一台と姿を消す。
    「中佐! 実弾を!」
     石川少尉が悲鳴に近い声を上げた。
     その時、さいわいなことにまた雲が流れてきて、満月を隠す。だが、その雲は小さい。すぐに満月が顔を現しそうだ。
     それを見ていた健司は父に向ってこう言った。
    「もうすぐだよ、あとちょっとの間、なんとかして!」
    「どうしてだ、もうすぐ何が起きる!」
    「月食だよ、今夜は皆既月食だよ。月の光が消えるんだよ!」
    「月食?」
    「もう始まっているよ、あと三、四十分で、皆既食になるよ」
     
     
    【皆既月食】
     
    「月食だ」
     良夫もそれに気がついていた。
     雲に隠される寸前、満月の端が欠けているのが分かったのだ。
    「月食だよ。だんだんと月の明かりが薄まっていくよ」と陽子に言う。
     鉄塔のふもとでは、特殊部隊が鉄塔をよじ登る準備をしていた。麻酔銃を背負っている。
     また、大きな網も用意されようとしていた。大勢の兵士が網の端っこを握り、上空を仰いでいる。怪人が落ちてきたら受け止めるつもりだ。
    「健司君の言った通り、殺さずに生け捕りにするんだね」
    「大丈夫かしら・・・」
     横たわったまま少し顔を上げ、陽子は心配そうに鉄塔の下を見た。
     だが、生け捕りがうまくいかない場合の、次のプランも用意されている。
     強力な長射程の銃を持った狙撃兵たちも大勢いて、怪人のほうに銃口を向けている。明らかに麻酔銃などではなく、実弾で狙い撃ちする気配だ。
     装甲車の大きな機銃の先も向けられていた。
     次々と雲の塊が流れ込んできて、月の光を遮っている。
     しばらくは、もちそうである。その間に、皆既月食が始まれば、あたりはさらに薄暗くなるはずだ。
     良夫は皆既食の時間を調べようと雑誌を開くが、皮肉なことに暗くてよく見えない。
     そうこうしていると、雲が切れて、すっと月が顔を出した。
     月食で半分以上欠けているのが分かった。しかしそれなりに明るい。
    「気をつけろ!」
     あたりから叫び声が起きる。怪人が眼下を見おろして、腕を伸ばしてきたのだ。
     瞬間、煙りがあちこちから湧き上がってきた。
     煙幕だ。
     長続きはしないだろうが、しばらくは隊員たちの影を消せる。そのすきに、怪人をとらえる、もしくは撃ち殺すのかもしれない。
    「おまえに告ぐ! 投降しろ! 命だけは助けてやる」
     煙幕の中、拡声器の声が聞こえる。天城中佐の声だ。
     煙幕はさらに濃くなり、良夫たちのところにも煙が流れてきた。
    「煙たいわ・・」陽子が咳き込んだ。
    「これでなんとか影が消されてるんだよ。ごほん」と立ち上がって良夫がせきをしたとき、恐ろしいことが起きた。
     煙がすうっと消えていくのだ。
     なんと、怪人は、眼下の煙幕の影をも消しているのである。
    「あっ」と言って、良夫たちはあわてて土の上に再び身を横たえた。
     
     煙幕が消えていくのを目にし、天城は愕然とした。
     とっさに思い付いた煙幕作戦だったが、怪人の秘術のもとでは無意味だと気づいたのだ。
     その時、怪人が鉄塔の上から、ビラをまいたのが分かった。
     ひらひと舞い降りてくる無数のビラ。そこには、先の犯行声明と同じく、平和の希求と武装解除、軍の解体などが書かれていた。
     天城中佐のもとにも、隊員の一人がそのビラを持ってきた。
     しばらく、怪人は行動を起こさなかった。みながビラを読む間の猶予であろうか。
     だが、特殊部隊が鉄塔を登りそうになると、威嚇するように腕を伸ばしたので、動きを止めた。
     膠着状態が続く。
     やがて月が赤黒く染まり始めた。
     皆既食だ。皆既月食が始まったのだ。
     みんなの影が薄れていく。
     怪人もそれに気づいた。赤黒い月をにらみつけている。
    「まさかの皆既月食だね。なんという幸運だろう。千載一遇、こんな時に月食だなんて、あいつ、考えてもみなかっただろうね」
     良夫が勝ち誇ったように言う。
    「げっしょくってなに・・・?」
     ぽかんとした顔で陽子が良夫を見、鉄塔の上の怪人を見、そして赤い月を見た。
     血塗られたような不吉な色の月、しかし不吉どころではない。幸運の暗褐色。
     
     怪人のなんの脅しもきかなくなった隊員たちが、鉄塔を登り始める。怪人が腕を伸ばして消そうとするが、もはや影はなかった。
     やがて、怪人が立つ鉄骨にみんなは手をかけた。そして、何人かが麻酔銃の狙いを定めた。
     もはや、怪人になすすべはない。
     がっくりと肩を落とし、抵抗するそぶりさえなかった。
     捕らえるための縄を手にした隊員たちがにじりよる。
     大勝利だ。
    「健司、おまえは今夜が月食だということを知っていたんだな」
     天城は息子を見つめた。
    「うん」
     健司はうなずいた。
    「ふうっ、何という幸運だ。あいつも悪運が尽きたな。まさか月食が起きるとは夢にも思わなかっただろう」
     父のその言葉を聞き、健司ははっとした。
     今夜が皆既月食であることを怪人が知らなかったとは思えない。なんとなく、そんな気がしたのだ。
     そして、健司のつぶらな瞳に恐怖の色が芽生えた。
     
    「良かった、怪人はこれでもう捕まるさ」
     良夫は起き上がり、鉄塔の上で怪人にじりじりと近づいていく兵隊たちを見た。
     もはや、怪人に逃げ場はない。気球もすでに風に乗せられて、どこかへ飛んで行ってしまっている。あとは、落ちるしかない。
    「月が赤いわね」と陽子
     良夫は天文画報をひらき、薄暗い中、皆既月食の仕組みについてのページを開いた。
    「ほら、月食って、月が地球の影に入るんだよ」
     言った瞬間、良夫ははっとした。
     雑誌がばさりと地面に落ちた。
     
     じりじりと兵士たちが近づく中、がっかりとうなだれていた怪人は不意に姿勢を正し、高らかに笑い出した。
     兵隊はおどろいて足を止める。
     怪人影法師の最後の犯罪が、今行われようとしていた。
     腕を月に向かって大きく伸ばす。
     影法師の指先には、巨大な影があった。
     そう、月に映し出された地球の影である。
     
                                         
                                  完
     


    画像
    (天文画報五月号より)

     

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    SF、ファンタジー、幻想、怪奇、奇妙、空想・・・、奇想天外なものが大好物。 日々、幻視に明け暮れ、白昼夢を糧とし、ふらふらとあやかしの世界を歩み続けています。

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