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ZERO CASE ―事件番号0―

    ZERO CASE ―事件番号0―

    「すべての事件は、"ゼロ"から始まる。」


    序章 二十年前の火

     山が、燃えていた。

     長野県北部、灰嶺(はいれい)山の中腹。夜の九時を回ったばかりの空を、オレンジ色の炎が焦がしている。燃えているのは、全寮制の私立養護学園――灰嶺学園。木造二階建ての本館と、渡り廊下で結ばれた記録棟。乾いた十月の風が、火の粉を天へ天へと巻き上げていく。

     その炎を、雑木林の中から見上げている二つの影があった。

     一つは、十四歳の少年。

     一つは、八歳の少女。

     二人とも裸足だった。少年はパジャマ姿の少女を背負い、枝で頬を切りながら、それでも振り返ることをやめられずにいた。

    「……にいちゃん」

     背中の少女が、掠れた声で言った。

    「みんなは? 十二人、まだ、なかにいる。ミチオも、サキちゃんも」

     少年は答えなかった。

     答えられなかった。

     彼は見てしまったのだ。火の手が上がる三十分前。記録棟の奥の「白い部屋」。並べられた十二台のベッドと、そこに横たわる十二人の子どもたち。みんな、眠っているように静かだった。眠っているのではないことを、少年は知っていた。彼らはもう何ヶ月も前から、名前を呼んでも、頬を叩いても、目を開けなかった。

     ――失敗作、という言葉を、大人たちは使っていた。

     そして少年は見た。灯油の缶を提げて白い部屋に入っていく、園長の背中を。世界でいちばん優しい声で子どもたちに童謡を歌ってやる、あの園長の背中を。

    「にいちゃん、消防車、まだ? ねえ、パパは? パパはどこ?」

     少女――園長の一人娘は、兄と慕う少年の背中で、まだ何も知らずに泣いていた。

     少年は空を見上げた。炎に照らされた煙が、巨大な鴉の翼のように、山の稜線に広がっていく。

     その夜、彼の中で、何かが音を立てて凍りついた。

     ――大人たちは言った。あれは事故だと。漏電による、不幸な火災だと。

     ――新聞は書いた。園長と園児十二名が死亡した、痛ましい事故だと。

     ――そして半年後には、誰も、何も、書かなくなった。

     燃えた学園に、六人の紳士たちが金を出していたことも。

     白い部屋で何が行われていたかも。

     一人の若い刑事だけが「これは事故ではない」と言い続け、そして黙らされたことも。

     すべては記録から消された。

     捜査資料は、ファイル番号すら与えられなかった。

     その若い刑事は、押収を免れた僅かな資料を自宅の机に隠し、表紙にこう記した。

    《事件番号0》

     ――火が鎮まったのは、夜明け前だった。

     焼け跡に、朝の光が差した。立ち上る白い煙の中を、消防と、警察と、そして「関係者」を名乗る背広の男たちが行き交った。背広の男たちは手際がよかった。誰よりも先に記録棟の焼け残りに入り、段ボールを運び出し、黒塗りの車で山を下りていった。彼らの靴だけが、焼け跡に不釣り合いなほど、綺麗だった。

     一人の若い刑事が、その靴を見ていた。

     灰嶺署刑事課、神代恭介、三十一歳。管轄の山火事に叩き起こされて駆けつけた彼は、しかし火よりも先に、妙なものばかりを見つけてしまう質だった。裏山へ抜ける獣道に残った、大人の靴と、裸足の子どもの足跡。施錠されていたはずの正門の、内側から開けられた閂。そして本館の子ども部屋の焼け跡――ベッドの数と、点呼名簿の数の、合わない勘定。

    「……おい。子どもが二人、足りんぞ」

     恭介の声は、朝の現場の喧噪に、掻き消された。

     二人の子どもは、三日後、山向こうの神社の軒下で保護された。十四歳の少年と、八歳の少女。少女は高熱を出しており、少年は、三日間ほとんど飲まず食わずで、少女に自分の上着を着せたまま、壁を背に座っていた。保護した警官が名を訊くと、少年は一言だけ答えたという。

    「――A-00」

     名前を訊いている、と警官が言い直すと、少年は不思議そうな顔をした。まるで、名前という言葉の意味を、思い出すのに時間がかかったかのように。

     その少年と少女がその後どこへ引き取られたのか、恭介が知ることは、ついになかった。児童相談所の記録は途中で途切れ、照会は「個人情報」の壁に阻まれ、上司は言った。「神代。事故は事故だ。子どもは保護された。めでたしめでたしだろうが。……これ以上は、お前のためにならん」

     お前のためにならん、という言葉を、恭介はその後の一年で、十七回聞いた。数えていたのだ。十七回目に、彼は辞表を書いた。

     ――それから、二十年。


    第一部 赤い招待状

    一 血の色の手紙

     その手紙は、血のように赤かった。

     封筒も、便箋も、深い深い紅。宛名の墨だけが黒く、闇のように沈んでいる。

     剣崎宗一郎(けんざき・そういちろう)は、書斎の机の上に置かれたそれを、しばらく開けることができなかった。六十四年の人生で、美術品を巡る脅迫状の類なら何度も受け取ってきた。金の無心も、怪文書も、贋作絡みの逆恨みも。だが、これは違う。理屈ではない。指先が、開けるなと言っている。

     それでも、開けた。

     便箋には、たった二行。

    『十月十日、午後九時。
     あなたの罪を、回収に参ります。』

     署名の代わりに、記されていたのは――

     小さな、円。

     ただの丸ではない。筆で一息に描かれた、始まりも終わりもない輪。

     数字の、「0」。

     老人の手から、便箋が滑り落ちた。

     二十年間、夢に見ないよう酒で塗り潰してきた光景が、一瞬で蘇る。燃える山。煙の匂い。焼け跡に並んだ、小さな、小さな棺。そして、こちらを射抜くように見ていた、若い刑事の目。

    「……来たか」

     剣崎は呻いた。誰に言うともなく、あるいは、二十年前の自分自身に。

    「とうとう……回収に、来たか」

     その夜、剣崎宗一郎は二十年ぶりに、あの雨の焼け跡の夢を見た。夢の中で、小さな棺の一つが、内側から、こつん、こつんと叩かれていた。
     翌朝、剣崎は書斎に、二十年間開けなかった袋戸棚を開けた。

     中には、桐箱がひとつ。箱の中には、絵が一枚。市場に出れば億の値がつく、と言われた南画の小品――ということに、なっている。実際には、値などつかない。つけられない。二十年前、あの山の「会合」の場で、六人の紳士が持ち回りで購ったことにした、金の通り道のための絵だ。絵の裏書きには、六つの雅号が並んでいる。剣崎は美術商として、その偽りの来歴を作文した。あれが、彼の「出資」だった。手を汚した覚えは、ない。汚したのは、筆と、帳簿だけだ。

     ――だがな、剣崎さん。帳簿の向こうには、いつも人間がおるんですよ。

     二十年前、たった一度だけ会った若い刑事の声が、耳の奥で蘇る。あの男は、六人の名前にたどり着く寸前まで来ていた。そして、消えた。刑事を辞めた、と九条は言った。それきり話題にすることも許されなかった。

     剣崎は受話器を取り、覚えのある番号を回した。二十年ぶりの番号は、三度目の呼び出しで繋がった。

    「……わしだ。剣崎だ。赤い手紙が来た。おまえのところには」

     電話の向こうで、老いた声が、長く沈黙した。それから九条誠一郎は、二十年前と寸分違わぬ、あの恫喝と保身の入り混じった声で言った。

    「知らんな。わしのところには何も来とらん。……剣崎。妙な気を起こすなよ。今さら何を言うたところで、あの件は存在せん。存在せんものは、罪にもならん。ええな。手紙は焼け」

     電話は切れた。

     剣崎は、赤い便箋を、暖炉の前まで持っていった。火にかざした。かざしたまま、長いこと動けなかった。結局、焼けなかった。存在しないことにする作業を、この二十年で、もう一度もやりたくないほど、やり尽くしていたからだ。

     代わりに老人は、机に向かい、万年筆を取った。届くあてのない詫び状を書くには、二十年は長すぎ、命日を数えるには、十月は近すぎた。便箋の一行目に、彼はただ、こう書いた。

    『十月十日、客を招く』

     罪の回収人が来るというのなら、せめて証人のいる場所で迎えよう。それが、老いた共犯者に残された、最後の見栄であり――最初の告白の、つもりだった。

    二 神保町の新人探偵

     東京・神保町。

     古書店街の外れに、一軒の小さな古本屋がある。《神代書房》。創業五十年。歴史書と探偵小説だけを扱う偏屈な店として、この街では知られた存在だ。

     その二階へ上がる外階段の途中、曇りガラスの扉には、貼られたばかりのシールが一枚。

    《神代探偵事務所》

    「……ねえ、ゼロ。依頼、来ないね」

     白石ひかりは、来客用ソファに寝転がったまま、天井に向かって言った。セーラー服の胸元でスマホがことんと滑り落ちる。

    「開業して三週間。依頼、ゼロ件。事務所の名前がゼロなだけあるね」

    「僕の名前は零(れい)だ。ゼロじゃない」

     窓際の机で、神代零は顔も上げずに答えた。十八歳。高校の卒業式から半年も経っていない。細身の体に少し大きめの黒いジャケット。机の上には、新聞が四紙、几帳面に折り目を揃えて積まれている。

    「みんなゼロって呼んでるよ。あたしも呼んでる。ヒカとゼロ。語呂いいでしょ」

    「ヒカは学校はどうした」

    「創立記念日。だから今日は助手の日」

    「雇った覚えはない」

    「雇われた覚えもないよ。幼なじみは無給で永久契約なの」

     ひかりは身を起こし、窓の外の古書店街を眺めた。十月の陽が、店先に積まれた古本の背表紙を飴色に染めている。

     白石ひかりが隣の家の「れいちゃん」と出会ったのは、十三年前。五歳のひかりが、祖父の店の前でひとり空を見上げている男の子に、飴玉を差し出した日だ。男の子は両親を亡くしたばかりで、口をきかなかった。名前を訊いても、歳を訊いても、何も。ただ、ひかりが「その雲、犬みたいだね」と言ったとき、初めて空から目を下ろして、ぽつりと言ったのだ。

     ――ちがう。あれは積乱雲になりかけの雄大積雲で、犬なら耳の位置がおかしい。

     変な子、と思った。それから十三年、その印象は一度も変わっていない。

    「ねえ、ゼロ。下でお祖父ちゃんが呼んでたよ。昼ごはん、カレーだって」

    「あとで行く」

     零は新聞をめくった。三面記事の隅。《美術界の重鎮・剣崎宗一郎氏、来月「剣崎コレクション展」開催へ》。西洋絵画と日本の古美術、双方に跨る国内屈指の個人コレクション。その全貌が初めて公開される、と記事は伝えていた。

     零の目が、記事の中の一行で止まる。

    《氏は「人生の店じまいの前に、すべてを白日の下に晒しておきたい」と語った》

    (――白日の下に、か)

     妙な言い回しだ、と零は思った。コレクションの公開に使う言葉ではない。まるで、懺悔のような。

     その時、階段を上る足音がした。

     重い足音だ。一段ごとに、ためらいが混じっている。年配の男。体重は八十キロ前後。革靴は上等だが、踵の外側だけが極端に減っている――長年、人に頭を下げ続けてきた歩き方。

     扉が、控えめにノックされた。

    「どうぞ」

     入ってきたのは、灰色のスーツを着た初老の男だった。ひかりが慌ててソファから跳ね起き、猫のように姿勢を正す。

    「こちらは……神代探偵事務所で、間違いないでしょうか」

    「はい」

    「その、所長さんは」

    「僕です」

     男の顔に、隠しきれない落胆がよぎった。零は慣れていた。開業三週間、扉を開けた人間は三人。三人とも、零の顔を見て回れ右をした。

    「わたくし、剣崎宗一郎の秘書を務めております、氷室(ひむろ)と申します。……失礼ですが、探偵さんは、あなたお一人で?」

    「一人です。ただ――」

     零は初めて顔を上げ、男をまっすぐに見た。

    「氷室さん。あなたがここへ来たのは、警察に相談できない事情があるからだ。持ち込まれたのは脅迫状。予告の日付は近い。そして依頼主の剣崎宗一郎氏は、警察沙汰にすることで過去の何かを掘り返されることを恐れている。違いますか」

     氷室の喉が、ひゅっと鳴った。

    「な……なぜ、それを」

    「あなたの左の内ポケット。部屋に入ってから三度、無意識に手をやっている。中に入っているのは折り畳まれた紙。かさばり方からして封筒ごとだ。つまり手紙。あなた自身の手紙なら胸に抱えては来ない。主人の手紙、それも人目から隠したいもの――脅迫状の類だ。そして剣崎氏ほどの名士が、懇意の警視庁幹部ではなく、開業三週間の無名の事務所を選んだ。理由は一つ。表沙汰にできないからです」

     沈黙。

     ひかりがそっと氷室に椅子を勧め、湯呑みを差し出した。氷室はそれを一口も飲まず、内ポケットから赤い封筒を取り出して、机に置いた。

    「――主人は、こう申しております。『新聞で読んだ。時計塔の宝石盗難を、警察より先に解いた高校生がいたと。その者を呼べ』と」

     時計塔事件。半年前、卒業式の三日後。零の名を初めて新聞に載せた事件だ。銀座の時計塔ビルから消えた三億円のダイヤ。警察が「密室からの持ち出しは不可能」と頭を抱えた盗難を、零は現場写真一枚と新聞記事三本から解いてみせた。ダイヤは最初から盗まれてなどいなかった。保険金目当ての自作自演――「答えは、最初からそこにあった」のだ。

     あの事件の後、匿名の人物から事務所開業資金の融資話が舞い込んだ。零は断った。だが不思議なことに、祖父の書房の二階が、ちょうどその翌週に空いた。

     零は封筒を手に取った。指先で紙質を確かめ、光に透かす。

    (……特注の漉き紙。それも、古い。保存状態はいいが、紙自体の焼けが深い。十年、いや、もっと前の紙だ)

    「予告の日は」

    「明後日。十月十日の夜九時。当日、剣崎邸ではコレクション展の前夜祭として、ごく内輪のパーティーが開かれます。主人は中止を頑なに拒んでおりまして……どうか、その席に」

     零は立ち上がり、コート掛けから黒いジャケットを取った。

    「引き受けます。ただし条件が一つ」

    「は、はい。報酬でしたら――」

    「剣崎氏の『罪』が何なのか。当日までに、本人の口から聞かせてもらう。……脅迫状というのはね、氷室さん」

     零は赤い便箋を机に置き、その署名――小さな「0」を、指先でなぞった。

    「差出人の言葉より、受け取った人間の怯え方の方が、はるかに多くを語るんです」

     氷室が帰ったあと、零は階下に降りた。

     神代書房の店内は、いつも通り、紙とインクと埃の匂いがした。帳場の奥で、白髪の老人が文庫本を読んでいる。祖父の神代宗佑(そうすけ)、七十三歳。零を十三年間、男手ひとつで育てた人だ。

    「カレー、冷めたぞ」

    「ごめん。仕事が入った」

    「ほう」老人は本から目を上げなかった。「どんな筋だ」

    「脅迫状。依頼主は剣崎宗一郎」

     ページをめくる祖父の手が、ほんの一瞬、止まった。

     零はそれを見逃さなかった。だが、祖父は何事もなかったように続きを読み始め、静かに言った。

    「……気をつけて行け。零」

    「うん」

    「それとな」老人は、初めて目を上げた。深い、静かな目だった。「探偵ってのはな、真実を掘り出す商売だ。だがな、掘り出した真実をどうするかまでが、仕事だぞ。……お前の父さんは、そう言っていた」

     父さん。

     その言葉に、零の頭の奥が、鈍く痛んだ。いつもの痛みだ。

     神代零には、五歳より前の記憶がない。

     両親の顔も、声も、覚えていない。十三年前、両親は強盗に殺された――そう聞かされている。現場に零もいたはずだが、何ひとつ思い出せない。医者は心因性の記憶障害だと言った。思い出さない方がいい記憶もある、と。

     残されたのは、たった一つ。

     記憶ではなく、言葉だけが、耳の奥に棲みついている。誰の声かも分からない。低くて、あたたかい、男の人の声。

     ――零、よく見ろ。答えはいつも、最初からそこにあるんだ。

     零が探偵になった理由を訊かれると、いつも困る。憧れた名探偵がいるわけでも、正義感が強いわけでもない。ただ、その声に従っているだけなのだ。よく見ろ、と言われたから、見る。見えてしまったものに、説明をつける。それだけのことを、十三年間、続けてきた。

    「……行ってくる。カレーは夜に食べる」

    「福神漬け、残しとらんぞ」

     零は薄く笑い、店を出た。十月の風が、古書店街を吹き抜けていった。

    三 時計塔の記憶

     剣崎邸に招かれる日の朝、事務所に珍しい客が来た。

     月刊『実話と推理』の記者だという中年の女性で、名刺には副編集長とあった。用件は、零のデビュー事件――半年前に世間を賑わせた「時計塔事件」の回顧記事への取材協力。

    「今さらですか」と蒼が露骨に警戒したが、零は少し考えて、受けた。断る理由が特になかったのと、もう一つ。あの事件について、零自身、一度きちんと言葉にして整理しておきたかったからだ。

     ――時計塔事件。

     舞台は、御茶ノ水の駅からほど近い、大正築の旧い商業ビルだった。屋上に装飾用の時計塔を戴くその建物は、老朽化で取り壊しが決まっており、所有者一族の間で、最後の資産分配が揉めに揉めていた。

     事件の夜、一族の長男・堂島宗吾が、時計塔の機械室で死んでいるのが発見された。時計塔に上る唯一の階段の扉は内側から施錠。鍵は死者のポケットの中。窓は人の通れない明かり取りだけ。警察の見立ては、負債を苦にした自殺。

     ――だが、たった一つ、腑に落ちないことがあった。

    「時計です」

     零は、記者に言った。半年前、所轄の会議室で居並ぶ捜査員に言ったのと、同じ言葉を。

    「あの時計塔の時計は、八年前から止まっていました。文字盤は四時十七分を指したまま。ビルの名物です。近所の人はみんな知ってた。……ところが、遺体発見の朝、時計は四時二十二分を指してたんです。五分、進んでた」

    「五分」と記者が繰り返す。「たったそれだけのことに、よく気づきましたね」

    「気づいたのは僕じゃありません。向かいの喫茶店のマスターです。四十年間、毎朝あの文字盤を見上げてコーヒー豆を挽いてきた人で、『時計が動くわけがねえ、化けて出たんだ』って騒いでた。誰も相手にしなかった。僕は――相手にした。それだけです」

     止まった時計が動く。怪談にすれば一行だ。だが機械の話にすれば、こうなる。誰かが機械室で、時計の巨大な歯車機構に、物理的な力を加えた。

    「堂島宗吾さんの死因は、頭部への打撲でした。機械室の鉄骨に頭をぶつけた痕跡と矛盾しない、と検案書にはあった。自殺説では、彼は遺書代わりに携帯にメモを残し、機械室の梁を使ったことになっていた。……でも、それなら歯車は動かない。歯車を五分ぶん回すほどの力は、どこからも生まれない」

     零があの夜の機械室で見つけたのは、大歯車の歯の一つに残った、ごく新しい欠けと、微量の繊維だった。ロープの繊維。そして歯車の回転方向と、五分という移動量から、逆算できるものがあった。滑車として使われた歯車。荷重の方向。つまり――重いものが、歯車を経由して、吊り上げられ、下ろされた軌跡。

    「犯人は、遺体を明かり取りの真下まで運ぶ必要があった。自殺に見せかける現場の演出のためです。でも大人一人の体は重い。そこで犯人は、時計の歯車機構を、即席のクレーンにした。八年間止まっていた歯車は、その作業で五分ぶんだけ回った。……犯人は完璧に現場を拭いて出ていったけど、時計の針だけは、拭けなかった。針は屋外の、地上二十メートルにあるから」

    「それで、犯人は」

    「次男でした。動機は遺産と、それから、もっと古い、兄弟の間のこと。……ここから先は、記事にしないでください。遺族の問題なので」

     記者はペンを止め、了解の印に頷いた。それから、少し口調を変えて訊いた。

    「神代さん。この事件、そもそもあなたはどうやって関わったんですか。当時あなたは十七歳。探偵の看板もまだ出していない。所轄が高校生を捜査会議に入れるなんて、前代未聞でしょう」

     ――それは、零自身、ずっと引っかかっていることだった。

    「……依頼が、来たんです。堂島家の顧問弁護士から、祖父の書店気付けで、封書が。『お孫さんに、自殺で処理されようとしている事件を見てほしい』と。弁護士に後で訊いたら、『さる筋から、神保町の神代書房の孫が視えると聞いた』と。さる筋が誰かは、弁護士も知らなかった。人づての、そのまた人づてだったそうです」

    「妙な話ですね」

    「妙な話です。デビュー戦の切符が、どこの誰とも知れない人から届いた。……気持ち悪くなかったと言えば、嘘になります。でも」

     零は、窓の外の古書店街を見た。

    「事件は本物だった。死んだ人も、疑われかけた無実の人も、本物だった。切符の出どころがどこでも、乗ってしまえば、やることは一つです」

     取材が終わり、記者を階段の下まで送って戻ると、ひかりが給湯室から顔を出した。幼なじみは、盆を胸に抱えたまま、じっと零を見た。

    「……零。さっきの話、あたし初めて聞いた。依頼の封書のこと」

    「言ってなかったっけ」

    「言ってない。……ねえ、その封書、まだある?」

     あった。零は机の抽斗の奥から、半年前の封書を出した。ひかりはそれを受け取り、電灯に透かし、指先で紙の目をなぞり、封筒の折りに鼻を近づけ――要するに、彼女なりのやり方で「読んだ」。

    「……上等な紙。事務用じゃない。個人の便箋。癖のない印字。差出人の痕跡、ゼロ。ゼロすぎる。普通の人はね、零。こんなに綺麗に自分を消せないの。消せるのは、消し方を知ってる人だけ」

    「つまり?」

    「つまり、零のデビューは、偶然じゃない。誰かが、零を探偵にしたがってた」

     その言葉を、蒼が作業机から振り返って引き取った。

    「付け加えると、この事務所の物件もだ」

    「……どういうこと?」

    「前から少し引っかかってた。この二階、相場より三割安い。じいさんの持ちビルだから当然と思ってたが、先月、登記を調べる用があってな。ビルの改装費――この事務所部分の防音と配線、探偵事務所仕様としか思えない改装が、開業の一年も前に済んでる。施主はじいさんだが、工事の見積もりを持ち込んだのは、外部の経営コンサルタントだ。名前を追ったら、実体のないペーパーだった」

     事務所が、静かになった。

     祖父に訊けば、宗佑は「ああ、あの相談屋か。感じのいい若い男だったよ。零もそろそろ独り立ちだろうから、二階を仕事場になんてどうです、と言われてな。……言われてみればその通りだと思った」と、こともなげに答えるだろう。実際、後日訊いた時、その通りに答えた。感じのいい、若い男。人の背中を、そうと気づかせずに押していく手つき。

    「……気味が悪い、で終わらせてもいいんだけど」

     零は、封書を抽斗に戻して、言った。

    「一つだけ、確かなことがある。その誰かは、僕に事件を解かせたがってる。潰したいなら、切符なんか送らない。……見てるんだ、たぶん。僕が答えに辿り着くところを。観客席から」

    「趣味悪う」とひかりが顔をしかめ、「監視の可能性もある」と蒼が言い、零は頷いて、それきりその話は棚に上げた。目の前に、剣崎邸行きの支度があったからだ。

     ――後になって、零は何度も思い返すことになる。

     この時すでに、盤の上にいたのだと。時計塔も、この事務所も、そしてこれから向かう剣崎邸も。すべては一本の糸で繋がっていて、糸の端を握る誰かは、ずっと昔から、飽きもせずに、一人の子どもの成長を観測し続けていたのだと。

     午後、零は一張羅のジャケットを着て、ひかりと蒼を連れ、成城の剣崎邸へ向かった。

    四 剣崎邸の夜

     十月十日。世田谷の高台に建つ剣崎邸は、要塞のようだった。

     高い塀。門には警備員が二人。庭に三人。玄関に二人。氷室が手配した民間警備会社の精鋭だという。

    「うわぁ……お城じゃん」

     ひかりが門の前で口を開けた。今日の彼女は「助手」らしく、姉から借りたというジャケットを羽織っている。

    「ヒカ。今夜の君の仕事は一つだけだ」

    「知ってる。『人を見ること』でしょ」

     ひかりは、にっと笑った。

    「ゼロは物を見る。あたしは人を見る。適材適所ってやつ」

     軽口の通り、彼女の目は昔から不思議だった。人の顔色、声の揺れ、視線の逃げ方。そういうものを、呼吸をするように読む。零が「現場の観察」で百を知るなら、ひかりは「人間の観察」で残りを埋める。

     パーティーの開始前、零は剣崎邸の書斎に通された。

     二階の東端。樫の一枚板の重い扉。壁一面の書架と、大きな両袖机。窓は二つ、どちらも頑丈なクレセント錠つき。老当主は、机の向こうで零を待っていた。

    「君が、時計塔の」

    「神代零です」

    「……神代」

     剣崎宗一郎は、その姓を口の中で転がすように繰り返した。何かを言いかけ、やめ、そして深い椅子に沈み込んだ。近くで見ると、写真より遥かに痩せている。左手が、何度もタキシードの胸を押さえた。心臓ではない。内ポケットの何かを、確かめる仕草だ。

    「条件の件、氷室から聞いておられますね」零は言った。「あなたの『罪』を伺いたい。差出人が何を『回収』しに来るのか、それが分からなければ守りようがない」

     老人は長いこと黙っていた。やがて、窓の外の暮れていく庭を見ながら、掠れた声で言った。

    「……九時を過ぎたら、この書斎で話す。二十年前のことだ。わしが、この手で……いや」

     老人は言葉を切り、無理に微笑んだ。

    「まずは何も起きんことを祈ろう。君が来てくれた。警備は万全。窓も扉も全て施錠済み。この家は今夜、鉄壁だよ」

    「一つだけ、今、教えてください」零は引かなかった。「この便箋の紙。特注品で、漉かれたのは十年以上前――おそらく二十年近く前のものです。先生には、心当たりがあるはずだ。この紙を使っていた場所に」

     剣崎宗一郎の顔から、音を立てて血の気が引いた。

     零はその一瞬を、まばたきもせずに観察していた。恐怖。それも、漠然とした恐怖ではない。具体的な光景を思い出した人間の顔だ。

    「……九時だ」老人は絞り出した。「九時を過ぎたら、すべて話す。神代くん。君にはその……その資格が、あるのかもしれん」

     資格。妙な言葉だった。だが、それ以上は何を訊いても、老人は首を振るだけだった。

     ――鉄壁。

     書斎を辞しながら、零はその言葉を反芻した。零はこの言葉が嫌いだった。鉄壁と呼ばれた壁ほど、よく崩れる。

     広間には、すでに客が集まっていた。内輪のパーティーと聞いていたが、それでも十数人。零は入口で立ち止まり、三秒で全員を頭に入れた。

     ――剣崎宗一郎。当主。六十四歳。

     ――氷室秘書。五十五歳。主人から目を離さない。忠実。だが、今夜はやけに時計を見る。

     ――剣崎美沙(みさ)。当主の一人娘。三十二歳。画廊経営。父親と目を合わせない。グラスを持つ指に、外したばかりの指輪の跡。

     ――九鬼(くき)画商。四十八歳。剣崎コレクションの取引を一手に担う男。笑顔の回数が多すぎる。

     ――蓮見喬(はすみ・たかし)教授。美術鑑定家。六十歳。今夜の主賓格。銀髪を綺麗に撫でつけ、柔和な笑みを絶やさない。壁の絵ばかり見ている――ように見えるが、零は気づいた。教授の視線は時折、絵ではなく、絵に映り込む広間の人々を追っている。

     他、財界の知人が数名。家政婦が二名。警備員が七名。

     午後八時。晩餐。

     剣崎は上機嫌を装い、ワインを一杯だけ飲んだ。八時二十分、「少し疲れた。九時にまた降りてくる」と言い残し、氷室を伴って二階の書斎へ上がっていった。氷室はすぐに一人で戻ってきた。

    「主人は書斎で休まれます。……零様、書斎の扉は内側から施錠されました。この通り、合鍵はわたくしが」

     氷室は胸ポケットの鍵をちらりと見せた。

     八時四十分。ひかりが零の袖を引いた。

    「ねえ、ゼロ。変なの」

    「何が」

    「美沙さん。さっきからずっと、二階の方をちらちら見てる。それとね……九鬼さん。あの人、笑ってるのに、さっきお皿を持つ手が震えてた。それと氷室さんの時計。今夜だけで十四回見た。数えたもん」

    「……十四回、か」

     零は広間の大時計を見た。八時五十五分。

     予告の時刻まで、あと五分。

     広間の空気が、少しずつ張り詰めていく。誰もが喋りながら、誰も話を聞いていない。九鬼画商が三杯目のブランデーを呷り、美沙が窓の外の闇を見つめ、蓮見教授だけが呑気に――そう、この状況で教授だけが、呑気に――壁の風景画を眺めている。

     八時五十九分。

     九時、ちょうど。

     ――何も、起きなかった。

     柱時計が九つ、鳴り終える。誰かが安堵の息を漏らし、ぎこちない笑いが広がりかけた、

     その時だった。

    「――ぎゃあああああっ!!」

     二階から、絶叫。

     男の声。剣崎宗一郎の声だった。

    「旦那様!!」

     氷室が弾かれたように階段を駆け上がる。零、ひかり、九鬼、美沙、警備員二名がそれに続いた。書斎の重厚な扉の前で、氷室が体当たりをしながら叫ぶ。

    「旦那様! 旦那様!! ――開かない、鍵が!」

    「合鍵を!」零が叫んだ。

    「そ、そうだ――」

     氷室は震える手で胸ポケットから鍵を出し、二度落としかけながら鍵穴に差し込んだ。重い音を立てて、扉が開く。

     書斎の中央。

     剣崎宗一郎が、絨毯の上に俯せに倒れていた。

     背中に、銀色のペーパーナイフが深々と突き立っている。広がる赤黒い染み。駆け寄った氷室が主人を抱き起こし、獣のような声を上げた。

     零は動かなかった。扉の前に立ったまま、部屋全体を――写真を撮るように、目に焼き付けていた。

     窓は二つ。どちらもクレセント錠が下りている。二階、地上六メートル。壁を這う配管はなし。暖炉はなく、換気口は掌より小さい。扉の鍵は、今、氷室が開けた。

     完全な、密室。

     そして零の視線は、机の上で止まった。

     便箋が一枚。今夜届いたばかりのように、真新しい赤。

     そこには、たった一文字。

    「0」

     九時を過ぎたら、すべて話す――老人がそう約束した、その九時に。

     語られるはずだった「二十年前」は、語り手ごと、永遠に封じられた。

    五 鉄壁の密室

     三十分後。剣崎邸は赤色灯に囲まれていた。

    「――おいおいおい。なんでガキがいるんだよ、現場に」

     書斎の入口で、コートの襟を立てた大柄な刑事が顔をしかめた。警視庁捜査一課、黒崎誠。三十八歳。零とは時計塔の一件以来、二度目の顔合わせだった。

    「クロさん、久しぶり!」ひかりが手を振る。

    「クロさん言うな。……で? 神代零。今回はどういう了見だ」

    「依頼です。剣崎氏の護衛と、脅迫状の調査。――結果は、この通りですが」

     零は感情を消した声で言った。だが、ジャケットの下で握られた拳に、ひかりだけは気づいていた。守れなかった。開業して最初の依頼人を、目の前で。

     黒崎はしばらく零の顔を見ていた。時計塔の時もそうだった。この刑事は、零のことを「生意気なガキ」と呼びながら、零の言葉を一度もぞんざいに扱ったことがない。やがて舌打ちを一つして、手帳を開いた。

    「……状況を整理するぞ。被害者は八時二十分に書斎に入り、内側から施錠。鍵は二本。一本は被害者のズボンのポケットから発見。もう一本の合鍵は、ずっと秘書の氷室が持っていた。九時ちょうどに広間の全員が悲鳴を聞き、駆けつけたが扉は施錠されていて、氷室が合鍵で開けた。窓は二つとも内側からクレセント錠。ガラスに細工の痕なし。糸もテープも残留物ゼロ。天井裏、床下、異常なし。……完璧な密室だ」

    「悲鳴の時、広間には誰が?」

    「それが問題でな。招待客も家政婦も警備員も、全員が広間か玄関ホールにいた。互いに確認が取れてる。つまり容疑者全員に、九時の犯行時刻のアリバイがある。密室で、全員アリバイ持ちで、なのに人がひとり刺し殺されてる。ふざけた話だ」

    「――待って。全員じゃない」

     ひかりが小さく手を挙げた。

    「九鬼さん。八時五十分ごろ、『お手洗いに』って広間を出て、九時五分すぎに戻ってきた。悲鳴のとき、あの人だけいなかったよ」

     黒崎の眉が跳ね上がる。「確かか、嬢ちゃん」

    「十四回……じゃなくて、うん、確か。人を見るのが仕事だから」

     九鬼画商は、応接室で真っ青になっていた。

    「ち、違う! 私じゃない! 確かに手洗いに立ったが、書斎には近づいてもいない!」

    「だが、あんたには動機がある」黒崎が書類を突きつけた。「うちの捜査員が画廊関係者から聞き込んだ。剣崎コレクションの取引で、あんた、ずいぶん危ない橋を渡ってたそうじゃないか。近々、先生に帳簿を洗われる予定だった――違うか」

     九鬼は崩れ落ちるように黙り込んだ。動機、機会、そして不在証明の欠如。

    「クロさん。逮捕するには、一つだけ穴がありますよ」

     零が静かに言った。

    「密室です。九鬼さんが犯人だとして、内側から施錠された部屋で、どうやって刺し、どうやって出たのか。それが説明できない限り、公判は維持できない」

    「……わかってるよ。だからムカつくんだ、この現場は」

     その時、零のスマホが震えた。画面には《綾瀬美玲》の文字。

    『零くん? 司法解剖の所見、速報で送るわね』

     法医学者・綾瀬美玲。三十歳。時計塔事件の際、遺留品の鑑定で知り合って以来、零の数少ない「大人の味方」だった。零の推理を、大人の誰よりも早く「検証に値する仮説」として扱ってくれた人でもある。スピーカーから、彼女の冷静な声が流れる。

    『死因は背部刺創による失血死。それでね、面白いことが二つ。一つ――死亡推定時刻は、二十時十五分から二十時四十五分の間。胃の内容物の消化状態と直腸温から見て、まず動かない』

     空気が凍った。

    「……おい、待て、ミレイ先生」黒崎がスマホに顔を近づける。「悲鳴は九時ちょうどだ。全員が聞いてる。死んだ人間が悲鳴を上げるのか?」

    『上げないわね、普通は。二つ目。刺創の角度と深さから見て、犯人は被害者の真後ろ、しかもかなり密着した位置から刺してる。争った痕は皆無。着衣に乱れなし、防御創なし。つまり被害者は、背後に立たれても振り向きもしないほど信頼している相手に刺された。――以上、続きは正式な報告書で』

     通話が切れる。黒崎とひかりが、同時に零を見た。

     零は書斎の中央に立ち、ゆっくりと部屋を見回していた。机。倒れた場所。窓。扉。そして机の上の、赤い便箋の「0」。

    「……クロさん。一つ、確認させてください。九時の悲鳴の直後、書斎の扉に体当たりしたのは氷室さんだ。でも扉はびくともしなかった。そうでしたね」

    「ああ。樫の一枚板だ。当然だろ」

    「じゃあ、なぜ氷室さんは体当たりしたんでしょうね。自分の胸ポケットに合鍵があるのに。」

     黒崎が、瞬きを止めた。

    「人間は緊急時、最短の手段に飛びつく。合鍵を持つ人間の最短は、鍵です。体当たりじゃない。なのに彼は二度、肩をぶつけて、叫んで、それから、思い出したように、鍵を出した。――まるで」

     零は扉を見つめた。

    「『扉が施錠されていた』ことを、全員に印象づけるみたいに。」

     その夜、零はもう一人の仲間に電話をかけた。

    「アオ。頼みたいことがある」

    『おっ、ゼロちゃんからの依頼とか激レア! 何何、ドローン? ハッキング? 言っとくけど合法の範囲でね俺、留年かかってるから』

     真田蒼。十九歳。工学部の大学生にして、零の「技術班」。出会いは一年前、蒼が自作ドローンを神代書房の看板に墜落させたのがきっかけという、ろくでもないものだ。弁償代わりに店番をさせられていた蒼は、零の観察力に一発で惚れ込み、以来、勝手に押しかけてくる。

    「書斎から回収された遺留品リストに、妙なものがある。壊れたワイヤレススピーカー。剣崎氏の娘によれば、父親は機械嫌いで、書斎にオーディオの類は一切置いていなかったそうだ」

    『……ほほう。つまり?』

    「解析してほしい。そのスピーカーが最後に再生した音声と、再生された正確な時刻を」

     電話の向こうで、蒼が笑う気配がした。

    『了解。朝までにやる。――ねえゼロちゃん、それってさ』

    「ああ」零は夜の剣崎邸を見上げた。「九時の悲鳴は、死者の声じゃない。録音だ。」

    六 答えは、最初からそこにある

     翌日、午後。剣崎邸の広間に、関係者が集められた。

     氷室秘書。娘の美沙。九鬼画商。蓮見教授。家政婦たち。黒崎と捜査員が壁際に立ち、零はその中央に、一人で立った。十八歳の探偵を見る大人たちの目には、疑いと、侮りと、わずかな怯えが混じっていた。

    「昨夜、この家で起きたことを、最初から話します」

     零の声は静かだった。

    「まず、みなさんが信じている『事件』はこうです。――九時ちょうど、施錠された書斎で剣崎先生が刺され、悲鳴を上げた。犯人は密室から消え失せた。九時に全員のアリバイがあり、唯一席を外していた九鬼さんが疑われている」

     九鬼が唇を噛む。零は続けた。

    「でも、この事件には最初から奇妙な点が三つあった。一つ。司法解剖によれば、先生が亡くなったのは八時十五分から八時四十五分の間。九時ではない。二つ。書斎からは、この家に存在しないはずのワイヤレススピーカーの残骸が見つかった。今朝、友人の解析で確定しました。あのスピーカーは九時ちょうどに、遠隔操作で一度だけ音声を再生し、直後に過熱破損するよう細工されていた。再生されたのは――男性の絶叫。つまり」

     零は一同を見渡した。

    「九時の悲鳴は、犯行時刻を偽装するための録音です。本当の犯行は八時台。九時のアリバイには、何の意味もない。」

     広間がざわめいた。九鬼が顔を上げる。「じゃ、じゃあ私は……」

    「あなたのアリバイが無意味になった代わりに、あなたの容疑も消えます。八時二十分から八時四十五分、あなたは広間の中央で蓮見教授とワインの談義をしていた。十人が見ています」

     零は一歩、進み出た。

    「では、八時台に書斎へ入れた人間は誰か。先生は八時二十分に広間を出た。そして書斎まで付き添った人物が、一人だけいる。先生が背後に立たれても振り向きもしない、絶対に信頼していた人物。書斎の合鍵を持つ人物。――氷室さん。あなたです」

     氷室は、動かなかった。蝋人形のように青ざめたまま、立っていた。

    「ば……馬鹿な。わたくしは、すぐに広間へ戻った。皆様が見ておられる」

    「ええ、戻った。先生を刺してから、戻ったんです。所要時間は一分もいらない。あなたは主人を机の前に座らせ、背後から刺し、あらかじめ用意していたスピーカーを本棚の陰に仕掛け、部屋を出て、扉を施錠した。あなたの持つ合鍵で」

    「……っ、では、密室は! 扉の鍵は旦那様のポケットから見つかったのですぞ! 内側から施錠された、完全な密室――」

    「密室なんて、最初から存在しなかったんですよ。」

     零の声が、広間を貫いた。

    「考えてみてください。『書斎が内側から施錠されていた』ことを、直接確かめた人間は誰ですか。悲鳴のあと、真っ先に扉に駆け寄り、ノブを回し、『開かない、鍵が!』と叫んだのは――氷室さん、あなた一人だ。僕らはあなたの後ろにいて、あなたの言葉を聞いただけです。あなたは施錠されてもいない扉に体当たりの芝居を打ち、合鍵を差して回すふりをして、扉を開けた。合鍵を持つ人間が、なぜか体当たりから始めた理由はそれです。『固く施錠された扉』を、僕らの記憶に刻み込むため。」

    「し……しかし、旦那様のポケットの鍵は」

    「事前に入れておけばいい。先生の鍵は、いつも書斎の机の引き出しの中。娘の美沙さんが証言しています。それをあなたが取り出して、遺体のポケットへ移した。――氷室さん。僕が一昨日、事務所で言ったことを覚えていますか。**答えは、最初からそこにある。**この事件の密室は、扉にも窓にもなかった。最初の発見者であるあなたの、証言の中にだけあったんです。」

     長い、長い沈黙のあと。

     氷室の膝が、崩れた。

    「……先生は」

     絨毯に手をついたまま、老秘書は絞り出すように言った。

    「先生は、気づいておられた。わたくしが二十年、コレクションの売買記録を偽り、金を……。展覧会が開かれれば、蓮見教授の鑑定ですべてが明るみに出る。前夜祭が終われば帳簿を検めると仰った。三十年、お仕えした。三十年です。それが、それがすべて……」

     黒崎が静かに歩み寄り、その肩に手を置いた。

    「氷室誠一。署で聞こう」

     連行される間際、氷室はふいに足を止め、振り返った。その目には、罪を認めた人間の虚脱と――それとは別の、混じり気のない恐怖があった。

    「探偵さん。……一つだけ、信じていただきたい」

    「なんですか」

    「あの赤い招待状は――わたくしが出したものではない。」

     零の背筋を、冷たいものが走った。

    「わたくしは、あの手紙に便乗しただけです。『0』を名乗る何者かの犯行に見せかけられると。ですが、考えてもみてください。手紙の予告は十月十日、午後九時。……わたくしが偽装した犯行時刻と、寸分違わず同じだ。わたくしがあの夜九時に細工をすると、なぜ手紙の主は知っていたのです。わたくし自身、計画を固めたのは手紙が届いた後なのに――」

     氷室は、うわ言のように呟いた。

    「あれは……あれは、まるで最初から、すべてを見ていたかのような……」

     関係者が散っていく広間の隅で、蓮見教授が零に歩み寄ってきた。

    「お見事でした、神代くん」

     柔和な声だった。教授は白い手袋をした手で、静かに拍手の形を作った。

    「十八歳とは思えない。いや、実に――実に、よく出来ている」

    「……よく出来ている?」

    「推理が、ですよ」教授は微笑んだ。「ときに神代くん。『神代』というのは、珍しい姓だ。ご出身は東京で?」

    「神保町です。祖父の代から」

    「ほう。お父上も、東京のお生まれかな」

     なぜそんなことを訊くのか。零が問い返すより早く、教授は「いや、失敬。年寄りの癖でね、人の家系が気になる」と笑い、背を向けた。

     その後ろ姿を、零は長いこと見ていた。

     ――この人は昨夜、悲鳴が上がる直前の広間で、ただ一人、時計を見なかった。

    七 鴉の羽根

     一週間後。神代探偵事務所。

    「見て見てゼロ! 新聞! 『18歳の新鋭探偵、密室の虚構を暴く』だって! 写真ちっちゃいけど載ってる!」

     ひかりが新聞を振り回し、蒼が缶コーヒー片手に「事務所のHP作ろうぜ、依頼フォーム付きの」と笑い、黒崎が「調子に乗るなよ小僧ども」と言いながら差し入れのドーナツを机に置く。美玲から届いた祝いの花が、窓辺で揺れていた。

     零だけが、笑っていなかった。

     机の上。証拠品として提出する前に撮っておいた、二枚の写真。赤い招待状と、書斎に残されていた赤い便箋。

     どちらにも記された、「0」の印。

     鑑定に回した紙の分析結果が、今朝届いていた。

    《当該便箋の用紙は特注品。製造元は判明せず。ただし紙の劣化度から、抄造されたのは約二十年前と推定される》

     ――二十年前。

     剣崎宗一郎が死の間際まで語らなかった「罪」。氷室ですら知らないという、二十年前の何か。そして、二十年前の紙に書かれた、すべてを予見していたかのような、赤い招待状。

     なぜだろう。「二十年前」という言葉を目にするたび、頭の奥が鈍く痛む。

    「――なあ、零」

     帰り際、黒崎がドーナツの箱を畳みながら、妙に静かな声で言った。

    「一つ、気になることがある。剣崎宗一郎の身辺を洗ってて出てきた。あの爺さん、二十年前に一度だけ、警察の聴取を受けてる。長野県警だ。だが調書が出てこない。記録ごと、消えてる」

    「消えてる?」

    「保存期限とかそういう話じゃねえ。ファイルの索引には項目があるのに、中身だけがない。俺は長いことこの商売やってるが、あんなもんは初めて見た。……気味が悪い事件だよ、こいつは。深追いするなよ、零。お前はまだガキだ」

     深追いするな、と言う刑事の目が、深追いせずにいられない男の目をしていることに、零は気づいていた。

     その夜、最後に事務所を出た零は、扉の前で足を止めた。

     曇りガラスに、テープで貼りつけられた一枚のカード。黒い、鴉の羽根が添えられている。

     カードには、几帳面な活字でこうあった。

    『初仕事、お見事。
     だが君が解いたのは、盤の隅の一手にすぎない。
     剣崎が二十年前に何を埋めたのか、知りたければ調べるといい。
     ――事件番号0。すべては、そこから始まっている。

                             カラスより』

     零は夜の古書店街を見渡した。人影はない。ただ、どこか遠くの電線で、鴉が一声だけ鳴いた。

     カードを裏返す。

     裏面には、あの筆致で、円がひとつ。

     始まりも、終わりもない輪。

     「0」。

    「……答えは、最初からそこにある――か」

     零は呟き、カードをジャケットの内ポケットにしまうと、街灯の下を歩き出した。

     すべての事件は、"ゼロ"から始まる。

     その言葉の本当の意味を、彼はまだ知らない。


    八 書かれなかった調書

     カラスのカードから、一週間が経った。

     「事件番号0」。零はその一週間、探偵業の合間のすべてを、その五文字に注ぎ込んだ。そして、見事なまでに、何も見つけられなかった。

    「――結論から言う。存在しない」

     蒼が、三台のモニターの前で、椅子を回した。目の下に、徹夜の色が濃い。

    「警察庁の公開資料、判例データベース、国会図書館のデジタルアーカイブ、新聞四紙の縮刷版データ、二十年分。『事件番号0』『ゼロケース』に類する呼称は、公式記録のどこにも存在しない。未解決事件の一覧にも、ない」

    「ないことが、答えってこと?」

    「そうだ。そして、ないことには二種類ある。最初からなかったのか、あったのに消されたのか。……で、後者の痕跡を一つ、見つけた」

     蒼は、一枚の画像を映した。新聞の縮刷版。二十年前の十月十二日、地方面の片隅。

    『長野・私立養護施設で火災 園長ら死亡か』

     わずか数行の記事だった。灰嶺山中の私立施設で夜間に火災、園長と入所児童が巻き込まれた模様、県警は失火とみて調べている――それだけ。

    「妙なのはここからだ。この続報が、一本もない。死者の出た施設火災だぞ。身元、原因、責任、慰霊。普通なら一ヶ月は記事が続く。なのに翌日から、四紙全部、ぴたりと沈黙してる。当時のテレビ欄と週刊誌の目次も当たったが、同じだ。……報道が『飽きた』んじゃない。報道が『止まった』んだ」

     零は、記事の日付を見つめた。二十年前の十月。剣崎の便箋が抄造された時期。剣崎が長野県警の聴取を受け、調書が索引だけ残して消えた事件。

    「……クロさんに、この記事を」

    「もう送った。返信は一言。『こっちでも掘る。だが嫌な予感がする。索引の消し方と、報道の止まり方が、同じ手つきだ』と」

     同じ手つき。個人の犯行ではあり得ない、組織の指が動いた痕跡。

     その夜、零は階下の祖父に、それとなく訊いてみた。二十年前、長野の山の施設で火事があったのを覚えているか、と。

     帳場で古地図の値付けをしていた祖父は、手を止めなかった。ただ、ほんの一瞬、値札を書く万年筆の線が、揺れた。

    「……さてな。二十年も前じゃ。じじいの頭には残っとらんよ」

    「そっか」

    「零」

     階段を上りかけた背中に、声が追ってきた。振り返ると、祖父は老眼鏡を外して、こちらを見ていた。

    「探偵という商売はな、他人の過去を掘る商売だ。それは、ええ。じゃがな、掘っておると、いつか必ず、自分の過去に鶴嘴が当たる日が来る。……その日が来たら、一人で掘るな。わしを呼べ。ええな」

     その時の零には、祖父の言葉の意味が、半分も分かっていなかった。ただ、四十年間本の埃を吸ってきた古書店主の声が、その夜だけ、妙に湿っていたことだけを、覚えていた。

     ――数日後の昼下がり。

     依頼の途切れた事務所で、ひかりは事件のスクラップを整理し、零はホワイトボードの前に立っていた。ボードには、この一週間で書いては消した相関図の、消し跡だけが層になって残っている。

    「ねえ、零。一個、聞いていい?」

    「うん」

    「零はさ、なんで探偵になったの」

     唐突な質問だった。ひかりは、スクラップの手を止めずに続けた。

    「時計塔の時から、ずっと聞きそびれてた。頭がいいだけなら、他にいくらでも道はあるでしょ。学者とか、官僚とか、それこそ一ノ瀬玲司みたいに、華やかにテレビに出る道だって。なのに零が選んだのは、古本屋の二階で、他人の困りごとを引き受ける仕事。……なんで?」

     零は、ホワイトボードの消し跡を見たまま、少し考えた。

    「……分かんない、が半分。残り半分は、たぶん」

    「たぶん?」

    「覚えてないことが、あるからだと思う」

     自分で口にして、初めて輪郭を持った答えだった。

    「僕の五歳より前は、真っ白なんだ。両親のことも、事故のことも、医者は『心因性のもの』って言うけど、とにかく、ない。……ねえヒカ、変な話だけど。覚えてないってことはさ、『問いだけあって、答えのページが破られてる』のと同じなんだよ。僕はたぶん、自分の破られたページの代わりに、他人の事件の答えを探してる。答えがちゃんと見つかる世界なんだって、確かめるみたいに。……我ながら、健全じゃないね」

     ひかりは、スクラップの手を止めた。それから、立ち上がって、ホワイトボードのマーカーを取り、消し跡だらけの盤面の隅に、小さく何かを書いた。

    『答えがちゃんと見つかる世界 → いま実証実験中(担当・神代零)』

    「健全か不健全かは、実験が終わってから判定します。……はい、これ幼なじみ権限による勝手な追記。消すの禁止」

     零が何か言い返そうとした、その時だった。

     事務所の電話が鳴った。ひかりが出て、二言三言、応じ、送話口を押さえて振り返った。その顔から、冗談の色が消えていた。

    「零。クロさんから。……昨日の夜、神田錦町で人が亡くなったって。ビルからの転落で、所轄は自殺で処理しかけてる。でも」

    「でも?」

    「亡くなったの、御堂製薬の元研究員だって。それでね、たった一人だけ、変なことを言ってる目撃者がいるの。――十歳の、男の子」

     零は、ジャケットを掴んだ。

     ホワイトボードの隅の、ひかりの落書きが、窓からの西日に照らされていた。実証実験は、まだ始まったばかりだった。

    幕間 一

     都心のホテルの最上階ラウンジで、男は一人、夜景を見下ろしていた。

     三十代半ば。仕立てのいいジャケット。テーブルの上には、飲みかけのコーヒーと、今日の夕刊。《18歳の新鋭探偵、密室の虚構を暴く》の記事が、開かれたままになっている。

    「――剣崎宗一郎、死亡。実行者は秘書。動機は横領の発覚阻止」

     男は、誰に言うともなく呟いた。

    「予定通り。人間は、真実に殺される。他人の手を借りてでも」

     窓ガラスに映る自分の顔を、男は見た。整った、しかしどこか作り物めいた無表情。その顔が、ゆっくりと記事の写真――若い探偵の小さな顔写真に、焦点を移す。

    「……大きくなったな」

     声に、ほんのわずかだけ、体温のようなものが混じった。

    「神代零。お前は、覚えていない。それでいい。それが、俺がお前にやれた唯一の――」

     言葉は途中で消えた。男はコーヒーを飲み干し、伝票にサインをした。

     サインの筆跡は、流れるように美しかった。

     その最後に、癖のように添えられる、小さな小さな円。

     始まりも終わりもない、輪。

     男は席を立った。エレベーターへ向かう途中、若いホテルマンが深々と頭を下げる。

    「いつもありがとうございます、如月(きさらぎ)様」

    「ああ。世話になるね」

     男――フリージャーナリスト・如月透(きさらぎ・とおる)は、感じのいい笑顔で応えた。誰もが信頼を寄せる、あの物腰の柔らかい記者の顔で。

     エレベーターの扉が閉まる。

     鏡張りの箱の中で、男の顔から、すっと表情が消えた。

     残ったのは、二十年前のあの夜、燃える学園を見上げていた少年と同じ――凍りついた目だけだった。


    第二部 消えた目撃者

    一 空の証言

     十一月。神保町の商店街に、乾いた北風が吹き始めた頃。

     神代書房の店先で、ランドセルを背負った少年が、真剣な顔で百円玉を数えていた。雨宮空(あまみや・そら)、十歳。二軒隣の花屋の一人息子で、書房のワゴンに並ぶ古い図鑑を、小遣いで一冊ずつ買い集めている常連客だ。

    「ソラ。今日は何の図鑑だ」

     店番をしていた零が声をかけると、少年は跳び上がった。

    「れ、零にいちゃん! ……あのね、雲の図鑑。学校の自由研究で、雲の観察やってるんだ」

    「いい趣味だ」

    「でね、あのね」

     空はワゴンの図鑑を胸に抱えたまま、なぜか俯いた。零は待った。この年頃の子どもが言葉を選んでいるときは、急かしてはいけない。ひかりの受け売りだが、正しいと思う。

     やがて空は、意を決したように顔を上げた。

    「にいちゃんはさ……探偵、なんだよね。新聞に載ってた」

    「一応は」

    「……ぼくの話、信じてくれる?」

     その目を見て、零は店の奥に「祖父ちゃん、店番代わって」と声を投げ、少年を二階の事務所に上げた。

     ひかりが出した熱いココアを両手で包み、空はぽつりぽつりと話し始めた。

    「先週の木曜日。夕方の五時ごろ。ぼく、雲の写真を撮ってたんだ。錦華公園の裏の、坂の上から。西の空にね、すごくきれいな飛行機雲が二本あって」

    「木曜日。十一月六日だな」

    「うん。それでね、写真撮ってたら――落ちたんだ。人が。」

     空の声が震えた。

    「公園の裏の、古いビル。七階建ての。その屋上から、人が。……ぼく、見ちゃったんだ。ちゃんと見ちゃったんだ」

     十一月六日、神田錦町の雑居ビルから男性が転落死した事件なら、零も新聞で読んでいた。死亡したのは戸叶昌一(とかの・しょういち)、五十二歳。大手製薬会社「御堂製薬」の元主任研究員。三年前に退職し、最近は心療内科に通院歴があった。遺書はないが、警察は自殺の可能性が高いと見て――そういう小さな記事だった。

    「ソラ。落ちるところを見たのは、辛かったな。でも、君が今日ここに来たのは、それを話すためじゃないだろう」

     少年は、こくりと頷いた。

    「……屋上に、もう一人いたんだ」

     零とひかりは、目を見交わした。

    「落ちる、ちょっと前。屋上のふちに、おじさんが立ってて。その後ろに、もう一人、背の高い人が立ってた。ぼく、ズームで空を撮ってたから、カメラ越しに見えたんだ。ほんの一瞬だけ、そのもう一人の顔が、こっちを向いて」

    「顔を見たのか」

    「見た。……それでね、ここからなんだ。誰も信じてくれないの。お巡りさんも、お母さんも」

     空はココアを机に置き、両手をぎゅっと握った。

    「その人ね。三日前に、死んだ人だったんだ。」

    「……死んだ人?」

    「テレビのニュースでやってた。別荘が火事になって、亡くなりましたって、顔写真が出てた。御堂製薬の、えらい人。さわたり、って人。ぼく、顔をおぼえるの得意なんだ。クラス替えの日に、四十人ぜんぶおぼえられるくらい。ぜったい、あの人だった。死んだはずの人が、屋上に立ってたんだ」

     沢渡恒夫(さわたり・つねお)。御堂製薬専務取締役。十一月三日、伊豆の別荘の火災で死亡。享年五十八。――その三日後の十一月六日に、かつての部下が謎の転落死を遂げたビルの屋上に、立っていた。

    「お巡りさんはね、『見間違いだよ』って。お母さんは『変なこと言うと戸叶さんのご家族に失礼でしょ』って。担任の先生には『空くんは想像力が豊かだから』って言われた。……ぼく、嘘ついてない。想像でもない。見たんだ」

     少年の目に、悔し涙が滲んでいた。

     零は椅子から立ち、空の正面に膝をついて、目の高さを合わせた。

    「ソラ。三つ、質問する。正確に答えてくれ。一つ。その背の高い人は、どんな服を着ていた」

    「……黒っぽいコート。えりを立ててた」

    「二つ。手には何か持っていたか」

    「持ってた! 右手に、傘。降ってないのに、たたんだ傘」

    「三つ。君のカメラに、その瞬間の写真は残っているか」

     空は、しゅんと肩を落とした。

    「……ない。ぼく、びっくりして、カメラ落としちゃって。拾ったら、その前に撮った写真ごと、カードが壊れてた。だから、証拠、ないんだ。だから誰も」

    「証拠なら、今、君が三つくれた」

     零は立ち上がり、ジャケットを取った。

    「十一月六日の夕方五時、東京は快晴。降水確率〇パーセント。なのに畳んだ傘を持っていた。つまりその男は夜まで外にいる予定がなく、車で移動し、傘を『別の用途』のために持っていた可能性が高い。それに、快晴の夕方五時、西向きの屋上のへりだ。君の位置から顔が見えたということは、男は西日を正面から受けていた。人間の目は逆光の顔を覚えられないが、順光の顔は忘れない。――ソラ。君の証言は、この一ヶ月で僕が聞いた中で、いちばん筋がいい」

     空の顔が、ぱっと明るくなった。

    「じゃ、じゃあ、信じてくれるの」

    「信じるかどうかは問題じゃない。検証する。それが探偵の仕事だ」

     零はスマホを取り、黒崎の番号を呼び出した。

    「クロさん。神田錦町の転落死、担当は所轄ですよね。――ええ。自殺で処理される前に、一つだけ調べてほしいことがあるんです。十一月三日の伊豆の火災で死んだ沢渡恒夫の遺体。歯の治療記録以外で、本人確認をした項目はありますか」

    二 錦町の現場

     神田錦町三丁目。戸叶昌一が転落死した雑居ビルは、事務所から歩いて十五分の距離にあった。

     九階建て、築四十年余り。一階は閉店したままの喫茶店、二階から上は小さな事務所と、空室が半分。エレベーターは一基、階段は北側に一本。屋上へは階段の突き当たりの鉄扉からしか出られない。

    「――で、なんでお前がここにいるんだ、ゼロ」

     屋上の鉄扉の前で、黒崎誠は、この世の理不尽を煮詰めたような顔をした。

    「散歩です」

    「散歩で規制線をくぐる奴があるか」

    「くぐってません。管理会社の立ち会いで、遺族側の――正確には、遺族がいないので、勤務先だった検査会社の依頼で、現場の確認に。ほら、委任状」

    「……お前なあ」

     黒崎は書面を検め、盛大に舌打ちし、それから声を落とした。

    「三十分だ。何も動かすな。写真は撮ってもいいが、SNSに上げたら手錠だ。……正直に言やあな、おれも気に入らねえんだ、この件。所轄は自殺で畳む気満々だが、どうにも、絵が綺麗すぎる」

     綺麗すぎる絵。零も、資料を読んだ時から同じことを感じていた。

     屋上は、想像より狭かった。給水タンク、室外機の列、防水シートの床。手すりは腰の高さで、南側の一角だけ、古い転落防止柵が撤去されて低くなっている。戸叶が落ちたのは、その南側だった。

    「携帯のメモに、遺書らしき文面。『疲れた。すまない』。ありがちだ。ありがちすぎる」黒崎が手帳をめくる。「発見は土曜の朝、六時半。向かいの新聞配達が路地で見つけた。死亡推定は金曜の日没後、七時から九時の間」

    「争った痕は?」

    「ない。屋上にも、本人にも。防犯カメラはビルの正面玄関に一基だけ。金曜の映像に、戸叶が一人で入っていくのが映ってる。十八時四十二分。以後、出てくる映像はなし。……他に人の出入りは、十七時台に宅配業者が一人、十九時過ぎに傘を差した人物が一人。ただしこいつは玄関前を通過しただけで、入っちゃいねえ」

    「裏口は」

    「北側の非常階段に通用口がある。施錠されてたが、鍵は古いシリンダーで、管理会社いわく『合鍵が何本出回ってるか分からん』。カメラはなし」

     つまり、裏からなら、誰でも記録に残らず出入りできた。

     零は、屋上の南端に立った。ビルの谷間の路地を見下ろし、それから顔を上げた。正面、道路を挟んだ向こうに、歩道橋が見える。距離、五十メートル弱。あそこに金曜の夕方、雲の観察をする小学生がいた。ソラの証言は昨日、黒崎経由で聞いていた。「死んだはずの男が屋上にいた」――所轄が鼻で笑い、黒崎だけが笑わなかった証言。

    「クロさん。戸叶さんの靴、見せてもらえますか。現物が無理なら写真で」

    「靴? ……ああ、遺留品の写真ならある。ほれ」

     タブレットの画面に、革靴が映った。よく磨かれた、古いが手入れのいい黒の内羽根。そして、両足とも、紐が解けていた。

     零は、画面に顔を近づけた。長いこと、黙っていた。

    「……クロさん。この靴紐、変です」

    「解けてることがか? 落ちた衝撃って線もあるぞ」

    「衝撃で紐は解けません。蝶結びは上からの荷重に強い構造です。それに、見てください。右も左も、紐の先端のセルが潰れて、同じ側に――外側に流れてる。それと、ここ。防水シートの写真。二筋、平行の擦り痕」

     黒崎の顔つきが、変わった。冗談の通じない、刑事の顔になった。

    「……引きずられた、ってのか」

    「断定はまだできません。でも、自分の足で歩いてきて自分の意思で飛んだ人の靴としては、おかしい。逆に、意識のない人間を踵側から引きずって運んだと考えると、全部の説明がつく。紐が両方解けて、両方外側に流れて、床に平行痕が残る」

    「意識のない、って、争った痕はねえんだぞ」

    「だから薬物です。解剖と薬毒物検査、正式に回してください。血中から出るはずです。何かが」

     黒崎は、唸った。唸りながら、もう電話を取り出していた。所轄と監察医務院に掛け合う声を背中で聞きながら、零は屋上をもう一周した。給水タンクの陰。ソラの証言で「死んだはずの男」が立っていた位置。そこに立つと、歩道橋が正面に見えた。逆に言えば、歩道橋からは、ここが見える。夕日を正面から受ける向きだ。

     ――ソラは、見たのだ。本当に。

     帰り際、ビルの一階で、蒼が管理会社の担当者から配電盤と鍵の管理台帳を(委任状の効力を最大限に拡大解釈して)写真に収めていた。ひかりはといえば、閉店した喫茶店の前で、向かいの煙草屋の老婆と、なぜかすっかり打ち解けていた。

    「――でね、零。おばあちゃんが面白いこと言ってた」

     合流するなり、ひかりは声を潜めた。

    「金曜の夜七時すぎ、雨も降ってないのに、傘を差した人がビルの前を通ったんだって。『近ごろの若いもんは日傘か』って思ったから覚えてた、って。でも変なの。カメラに映ってた傘の人と、たぶん同じ人なんだけど――おばあちゃん、顔は全然見えなかったって。傘が深くて。顔だけが、綺麗に隠れてたって」

    「……カメラにも、顔は映ってないんだろうね、それ」

    「うん。傘って、雨具じゃなくて、覆面にもなるんだね」

     零は、ビルを振り仰いだ。正面から堂々と「通過」してみせた傘の人物。裏の通用口。合鍵。記録に残らない出入り。絵が綺麗すぎる自殺。給水タンクの陰の、死んだはずの男。

     ――この現場を組んだ人間は、防犯カメラの位置も、鍵の管理状態も、所轄の忙しさも、全部知っていた。知り尽くした上で、「自殺」という絵を、額縁つきで警察に納品したのだ。

    「ねえ、零。いま考えてること、当てようか」

    「……どうぞ」

    「『これは、一人の悪意じゃない。仕組みだ』――でしょ」

     正解だった。零は頷く代わりに、歩き出した。夕暮れの錦町の路地に、三人の影が長く伸びた。仕組みが相手なら、こちらも仕組みで挑むしかない。幸い、こちらには工学部の技術班と、人を読む観察者と、規制線の内側にいる不機嫌な刑事がいる。

     その夜、監察医務院から黒崎に一報が入った。綾瀬美玲監察医、再鑑定を受理。三日後、彼女は零に直接電話をかけてくることになる。「面白いものが出たわよ、探偵くん」という、第一声とともに。

    三 もう一人の探偵

     三日後。伊豆の火災を管轄する静岡県警から、東京へ一つの照会が届いた。差出人は警視庁の黒崎。内容は「沢渡恒夫の遺体の身元確認手続きについて」。

     そして同じ日、神代探偵事務所の扉を、予告なしに開けた男がいた。

    「――ここが、噂の『ゼロ』の巣か。思ったより狭いな」

     仕立てのいい三つ揃い。銀縁の眼鏡。年齢は二十二、三。若いのに、立ち姿に一分の隙もない。ひかりが小声で「うわ、テレビで見たことある」と呟いた。

    「一ノ瀬玲司(いちのせ・れいじ)。職業は、君と同じだ」

     一ノ瀬玲司。二十二歳。大学在学中に難事件を三つ解決し、「令和のホームズ」などと軽薄な二つ名で呼ばれる、日本でいちばん有名な探偵。テレビのコメンテーター席に座る姿しか、零は知らなかった。

    「有名人が何の用ですか。うちはテレビの企画は受けていません」

    「僕もだ。あんな席は営業だよ。……単刀直入に言う。神田錦町の転落死から、手を引け」

     事務所の空気が張り詰めた。玲司は構わず、勝手に来客用の椅子に腰を下ろした。

    「僕は大手損保の依頼で、沢渡恒夫の火災死を調査している。掛けられていた保険金は総額八億。会社は支払いの前に、事故の真正性を確認したい。当然の商売だ。ところが調査の途中で、妙な横槍が入った。警視庁経由で、遺体の身元確認に疑義の照会。出どころを辿れば、開業二ヶ月の子ども探偵ときた」

    「疑義があるのは事実です。沢渡の遺体は歯科治療記録で同定された。でもその歯科医院は、沢渡の会社――御堂製薬の産業医契約先だ。記録の出どころが利害関係者なんですよ。しかも火災の三日後、死んだはずの沢渡を見たという目撃証言がある」

    「十歳の子どもの、写真もない証言だろう」玲司は冷ややかに言った。「法廷では三十秒で潰される」

    「潰されるかどうかは、証言の質じゃなく、扱う人間の質で決まる」

     初めて、玲司の眉がぴくりと動いた。

    「……面白いことを言う。いいだろう、神代零。ならば賭けをしようじゃないか。僕は僕のやり方で、君は君のやり方で、沢渡恒夫の生死を突き止める。先に真実へ辿り着いた方が、この事件の『解決者』を名乗る。負けた方は――」

    「負けた方は?」

    「勝った方の推理を、黙って最後まで聞くこと」

     妙な条件だった。だが零は、この傲岸な同業者の目の奥に、商売とは別の何か――純度の高い、剥き出しの好奇心があるのを見て取った。

    「いいでしょう。受けます」

    「交渉成立だ」玲司は立ち上がり、扉の前で振り返った。「ああ、それと。忠告を一つ。御堂製薬の周辺を嗅ぎ回った人間は、過去に三人、消えている。記録は残っていないがね。……君のところの『目撃者』を、独りにしないことだ」

     その言葉の意味を、零たちは翌日、思い知ることになる。

    四 狙われた少年

     翌日の下校時刻。空は通学路で、見知らぬ男に声をかけられた。

    「雨宮空くんだね。お母さんが事故で病院に運ばれた。おじさんの車で送ってあげよう」

     紺のワンボックス。人当たりのいい笑顔。空は、あと一歩で車に乗るところだった。――ポケットのキッズ携帯が鳴らなければ。

     電話はひかりからだった。零の指示で、ひかりは三日前から、下校時刻に空へ「今日の雲クイズ」の電話を入れる習慣を作っていた。異変があれば、合言葉を言わずに切る。その約束通り、空は「うろこ雲!」とだけ叫んで電話を切り、男の脇をすり抜けて交番へ走った。男は車ごと消えた。

    「――ふざけやがって」

     その夜、事務所で黒崎は珍しく声を荒らげた。

    「十歳のガキに手ぇ出すたぁな。零、お前の読み通りだ。ワンボックスのナンバーは盗難車。だがな、防カメに映った運転手の面が割れた。前科二犯の運び屋だ。そしてこいつの携帯の通信記録に、面白い番号があった。御堂製薬の子会社、御堂物流の資材倉庫。廃止予定で、今は無人のはずの倉庫だ」

    「無人のはずの倉庫に、電話を受ける人間がいる」零は静かに言った。「クロさん。沢渡は生きています。そして戸叶さんは自殺じゃない。口封じです」

    「根拠は」

    「戸叶さんの靴です」

     零は現場写真を机に並べた。転落死した戸叶の遺体。その足元の、拡大写真。

    「戸叶さんは革靴を履いていた。よく磨かれた、しかし靴紐が両方とも解けた革靴です。自殺者は身辺を整える傾向が強い。遺書を書かずとも、靴を揃えて脱ぐ者が多い。百歩譲って着靴のまま飛んだとして、五十二年革靴を履いてきた男の紐が、左右同時に解けますか? 解けません。あれは、抵抗して引きずられた痕です。屋上の防水シートに残っていた二本の擦過痕と、幅が一致する」

     黒崎は写真を長いこと睨み、それから息を吐いた。

    「……所轄に掛け合う。自殺での処理は止めさせる。だがな零、逮捕状を取るには沢渡本人だ。生きてる証拠、それも今どこにいるかだ」

    「それなら、もう絞れています」

     零は東京の地図を広げた。

    「沢渡は死んだことになっている。つまり顔を晒せない。移動は最小限、潜伏先は人目がなく、かつ組織が完全に管理できる場所に限られる。御堂物流の廃止予定倉庫――は、囮でしょう。運び屋に電話を受けさせて、捜査の目をそこに集めるための。本命は逆です。沢渡が火災の夜から一度も移動していないと仮定したら?」

    「移動して、ない……?」

    「伊豆の火災で焼けたのは別荘の母屋です。でも登記簿を調べると、あの土地にはもう一棟ある。戦時中の地下貯蔵庫を改装した艇庫が、崖下の入り江に。母屋とは地下通路で繋がっていた。……クロさん、考えてみてください。替え玉の遺体を用意して、火を放って、自分は野を越え山を越え逃げる? 五十八歳の重役が? 違う。一番安全な隠れ場所は、自分の焼死体が見つかった場所の、真下です。誰も、死者の家をもう一度は捜索しない」

     黒崎が、地図に置いた零の指先を見つめた。

    「……答えは、最初からそこにある、か」

    「ええ。最初から、そこに」

    五 雲の教室

     誘拐未遂事件の夜、警視庁の判断は早かった。

     雨宮空、十歳。転落死事件の唯一の目撃者にして、「死んだはずの男」を見たと証言する少年。その口を塞ごうとする人間が現実にいると判明した以上、放ってはおけない。ソラは母親とともに、捜査一課の手配した都内のマンスリーマンションに移された。世間的には「親戚の家に長期のお泊まり」ということになっている。

     問題は、十歳の少年にとって、警護付きの缶詰生活が退屈の煮凝りだということだった。

    「クロさん。ソラくん、三日で限界だと思います」

     ひかりが真顔で言ったのは、保護二日目のことだ。黒崎は渋い顔をしたが、彼女の「人を読む」目を疑わなかった。事実、その日の夕方には警護担当から「対象児童が非常口の構造に興味を示している」という不穏な報告が上がっていた。

     結果、翌日から奇妙な習慣が始まった。

     午後三時、警護車両がマンションの裏口に着く。ソラが乗る。二十分後、神保町の古書店の裏階段から、少年が事務所に駆け上がってくる。名目は「事情聴取の補助」。実態は――

    「はい、じゃあ今日の一問。この写真の雲、なーんだ」

     ひかりが印刷した空の写真を掲げる。ソラは一秒も迷わない。

    「巻積雲! うろこ雲! 高度五千から一万五千メートル! 氷の粒でできてて、これが出ると天気は下り坂!」

    「正解。……ほんとに一回も間違えないね、この子」

     事務所の隅で、蒼が満足げに頷く。「当然だ。観測と分類は科学の基本。この少年は基本ができている」。蒼はソラを気に入っていた。気に入った証拠に、自作の「雲高度測定器(試作三号)」を貸し与え、ソラはそれを聖剣のように扱った。

     零はといえば、そのにぎやかな「雲の教室」を横目に、事件の資料を睨む日々だった。

     戸叶昌一、五十九歳。御堂製薬中央研究所、元主任研究員。二〇〇八年に退職。以後の職歴は派遣の検査技師を転々。家族なし。交友関係、ほぼなし。趣味は釣り。金曜の夜に神田錦町の雑居ビルの屋上から転落し、警察は自殺と処理しかけた。

     ――遺書はない。だが自殺者の三割に遺書はない。
     ――部屋は整理されていた。だが几帳面な人間の部屋はいつも整理されている。
     ――そして靴紐。左右同時に解けた革靴の紐。あれだけが、声を上げていた。

    「靴紐ねえ」

     その声は、資料の山の向こうから降ってきた。顔を上げると、依頼人用のソファに、いつの間にか長身の男が座っていた。一ノ瀬玲司。橙火(とうか)損害保険調査部特別顧問、二十二歳。テレビが「若き貴公子探偵」と呼ぶ男は、勝手に事務所の茶を飲んでいた。

    「……鍵、かけてたはずだけど」

    「かかっていたよ。実に良い鍵だった」

    「褒めれば済むと思ってるだろ」

    「済まないのか? ――さて神代零。君の言う『靴紐の左右同時脱落』仮説、うちの鑑識コンサルにも検証させた。革靴の紐が歩行中に自然に解ける確率、片方で一日あたり約七パーセント。両方が同日に、しかも屋上までの短い歩行距離内で解ける確率は……まあ、宝くじよりは当たるが、保険金の支払い根拠を覆すには弱い」

    「弱いのは知ってる。だから確率の話はしてない」

     零は立ち上がって、ホワイトボードに靴の絵を描いた。絵心は、ない。ソラが「へたくそー」と笑い、ひかりが「しっ」と口に指を当てる。

    「紐が解けてたことじゃなくて、解けた紐がどうなってたかの話だ。右足の紐は、靴の外側に流れて、先端が擦り切れてた。左足も同じ。つまり両方の紐が、同じ方向に、地面と擦れながら引きずられてる。人間が自分で歩くと、紐は複雑に暴れる。でも――」

    「――踵を持たれて引きずられた場合、爪先は進行方向の逆を向き、紐は二本とも同じ側に流れて路面と擦れる」

     玲司が引き取った。零は頷いた。

    「屋上の防水シートに、微かな平行の擦過痕が二筋。鑑識写真の隅に写ってる。誰も注目してなかったけど」

    「……ふん」

     玲司は長いこと写真を見つめ、それから茶を飲み干して、立ち上がった。

    「いいだろう。橙火損保調査部は本件を『他殺の疑いあり』として再調査する。つまり保険金支払いは保留。つまり僕は堂々とこの事件を調べ続けられる。――そこでだ、神代零。取引をしよう」

    「賭けの次は取引?」

    「賭けは継続中だ。先に真相に到達した方が『解決者』。それとは別枠の、事務レベルの話だよ。僕が持っているのは、企業側の情報網。御堂製薬の内部資料、人事記録、保険契約の履歴。君が持っているのは――」

     玲司の視線が、すっと動いた。雲高度測定器を構えて窓の外を見ているソラの、小さな背中に。

    「――生きた目撃者。それも、とびきり精度のいい観測機だ」

    「ソラは道具じゃない」

     零の声が、自分でも驚くほど硬くなった。玲司は肩をすくめた。

    「言葉の綾だ。訂正しよう。……とびきり優秀な、観測者だ。どうだ、少年。君が屋上で見たという『死んだはずの男』の話、僕にも聞かせてくれないか。ただし条件がある。大人に話す用に整えた話じゃなく、君が見たままを、雲の観察と同じやり方で話してほしい」

     ソラは、測定器を下ろして、玲司をじっと見た。十歳の子どもが大人を値踏みする、まっすぐな目だった。それから、ひかりを見た。ひかりが小さく頷くと、ソラは息を吸った。

    「――金曜日。日没の三十分ぐらい前。西の空に高積雲、ひつじ雲。風は北北西、ビルの屋上の旗がそっち向きにはためいてたから。ぼくは向かいの歩道橋の上にいた。理科の宿題で、夕方の雲の色を記録してたんだ」

     語り口が、変わっていた。たどたどしい子どもの証言ではなく、観測記録の読み上げだった。玲司の目の色が変わるのが、零にも分かった。

    「錦町ビルの屋上に、男の人が二人。一人は灰色の上着。手すりのそばで、ずっと下を見てた。もう一人は――黒っぽい服で、給水タンクの陰から出てきた。ぼく、その人の顔を見て、あれ、って思った。テレビで見た顔だったから。三日前に、別荘の火事で死んだって、お母さんが見てたニュースに写真が出てた人。御堂製薬の、さわたり、って人」

    「顔の確認距離は? 歩道橋からビル屋上まで、五十メートルはあるだろう」

    「四十七メートル。地図で測った。……ぼく、視力二・〇だし、その人、一回だけ、こっちを向いたんだ。夕日が顔に当たって、オレンジ色で。左の眉のところに、ほくろっていうか、傷っていうか、点が二つ縦に並んでるのが見えた」

     玲司が、無言で鞄からタブレットを出し、操作して、画面をソラに向けた。並んだ数枚の男性の顔写真。報道に出ていない、保険契約時の健康診断写真も混ざっている。

    「どれだ」

    「……これ。この人。眉のところ、ほら」

     ソラの指が、迷いなく一枚を指した。沢渡恒夫。焼死したはずの専務の、五年前の契約時写真だった。左眉の下に、小さな母斑が二つ、縦に並んでいた。

     事務所が、静まり返った。

     玲司がゆっくりとタブレットをしまい、それから、ソラに向かって――深々と、頭を下げた。

    「訂正する。君は観測機でも観測者でもない。……一流の証人だ。雨宮空くん。君の証言は、僕の会社の写真照合と完全に一致した。報道写真では母斑は影になって見えない。つまり君は、本物を見ている」

     顔を上げた玲司は、零に向き直った。

    「沢渡恒夫は生きている。焼死体は別人。ここまでは君と僕の見解が一致した。――ならば次の問いはこうだ。『では、焼けた遺体は誰か』。神代零、君はどう考える」

    「行方不明者届に該当なし。歯科記録の照合は"焼損激しく困難"で処理されてる。……都合がよすぎる。身元不明のまま誰も探さない遺体が、あんなにタイミングよく手に入るわけがない。つまり」

    「つまり、最初から『誰でもない遺体』だった」

     二人の探偵の声が、重なった。玲司が薄く笑う。

    「病院だよ。引き取り手のない遺体を合法的に保管できて、火葬記録を操作できて、御堂製薬と縁の深い病院。――灘波総合病院。理事長の灘波義郎は、御堂剛三と大学の同期だ」

    「調べたのか」

    「調べたとも。君が靴紐を眺めている間にね。……ああそれと、これは貸しにしておくが」

     玲司は帰り際、ドアノブに手をかけたまま、振り返らずに言った。

    「灘波病院の霊安室の搬出記録、先月分に一件、行き先の書かれていない『研究検体』の搬出がある。搬出先の欄は空白。運送業者は御堂製薬の物流子会社。――僕の推理では、君は明日、伊豆に行く。焼けた別荘を見に。その時は、崖の下も見るといい。海側からしか見えないものが、あるかもしれないよ」

     ドアが閉まった。

     沈黙のあと、蒼がぼそりと言った。

    「……あいつ、嫌なやつだが、優秀だな」

    「嫌なやつで、優秀なんだよ」

     零は苦笑して、地図を広げた。伊豆。焼けた別荘。崖の下。――死者の家は、二度捜索されない。

     その夜、帰り支度をしたソラが、玄関で振り返って言った。

    「ゼロ兄ちゃん。ぼくの証言、役に立った?」

    「立った。事件の柱が一本、立った」

    「そっか。……あのね、ぼく、怖くないよ。車で連れてかれそうになった時は怖かったけど、今は怖くない。だって、ぼくが見たものをぼくが言わなかったら、死んだ人が、うそのままになっちゃうから。雲だってさ、名前をつけてもらえなかったら、ただの水のつぶだよ。名前をつけて、記録して、はじめて雲になるんだ」

     零は、少しの間、返事ができなかった。

     十歳の観測者は、警護官に手を引かれて、階段を下りていった。ひかりがそっと零の横に立って、囁いた。

    「……いま零が考えてたこと、当ててあげようか」

    「遠慮しとく」

    「『この子は、僕よりよっぽど探偵だ』でしょ」

    「……ノーコメント」

     窓の外、夜の神保町の上に、月が薄い雲をまとっていた。あの雲の名前も、きっとソラなら知っている。名前をつけて、記録して、はじめて世界は世界になる。ならば探偵の仕事も、同じだ。「なかったこと」にされた出来事に、もう一度名前を返すこと。

     翌朝早く、零とひかりと蒼は、伊豆へ向かう始発の電車に乗った。

    六 入り江の男

     伊豆の入り江に、捜査車両が音もなく降りていったのは、二日後の未明だった。

     艇庫の錆びた扉の奥、改装された地下室で、その男は発見された。髭が伸び、頬のこけた顔。だが間違いなく、沢渡恒夫、本人だった。テーブルの上には即席麺の空き容器と、衛星携帯と――そして、一通の赤い封筒。

     男は抵抗しなかった。それどころか、踏み込んだ捜査員の腕に、自分から縋りついたという。

    「た、助けてくれ……閉じ込めてくれ、どこでもいい、鉄格子の中に……あいつが来る前に……!」

     零と玲司が沢渡と対面したのは、その日の午後、警視庁の取調室に隣接するモニター室でだった。黒崎の温情――というより、「お前らの知恵を借りた借りは返す」という不器用な筋の通し方だった。

     マジックミラーの向こうで、沢渡は堰を切ったように喋っていた。

    『――戸叶は、データを持ち出そうとしたんだ。二十年以上前の、臨床データを。会長に報告したら、始末しろと。私が、私がやるしかなかった。火事も、替え玉も、全部、会社の……いや、会長の指示で』

    『替え玉の遺体はどこから調達した』と取調官。

    『そ、それは……病院から。灘波(なんば)総合病院。あそこの理事長は、会長の古い仲間だ。引き取り手のない遺体を、金で……昔から、ああいうことを頼める間柄なんだ、あの六人は……いや、今は五人か。剣崎が死んだから……』

     モニター室の空気が変わった。零は身を乗り出した。

     六人。剣崎。古い仲間。

    『二十年前の臨床データとは何だ。御堂製薬の帳簿にない研究か』

     その問いに、沢渡は初めて口をつぐんだ。顔面は蒼白を通り越して土気色になり、ガタガタと震え始めた。

    『……言えない。それを言ったら、本当に殺される。あんたらは知らないんだ。剣崎の死に方を見ただろう。予告状が来て、その通りに死んだ。私のところにも来たんだ、赤い手紙が。艇庫に隠れてる私の居場所に、だ! 誰にも知られてないはずの場所に、手紙だけが届いたんだ! 分かるか!? あれは人間じゃない。あいつは全部見てる。二十年前から、ずっと全部――』

     沢渡は両手で頭を抱え、それきり、何を訊かれても子どもの様に首を振るだけになった。

     モニター室の隅で、玲司が静かに言った。

    「……神代。賭けは君の勝ちだ。約束通り、君の推理を最後まで聞いた」

    「勝ち負けなんて、どうでもよくなってきたでしょう。あなたも」

    「ふん」玲司は眼鏡を押し上げた。「一つ、僕の調査結果をやろう。祝儀代わりだ。沢渡の別荘から出た替え玉の遺体――司法解剖をやり直させた。綾瀬美玲という法医学者は優秀だな。焼けた大腿骨に古い骨折痕。照合の結果、身元が割れた。三年前に灘波総合病院で病死した、身寄りのない男だ。死亡診断書はある。だが火葬の記録がない。つまりあの病院には、死者を"在庫"にする仕組みがある」

    「……人の死を、在庫に」

    「それだけじゃない。灘波総合病院の理事長・灘波義郎、御堂製薬会長・御堂剛三、そして死んだ剣崎宗一郎。この三人には、公式な接点がほとんどない。だが僕の調べでは、二十数年前、この三人を含む六人の紳士が、年に数回、決まって同じ場所で会っていた。長野の山奥だ。灰嶺山という」

     その山の名を聞いた瞬間。

     零の頭の奥で、何かが疼いた。痛みではない。もっと遠い――焦げた匂いの記憶のようなもの。

    「……灰嶺」

    「知っているのか」

    「いえ。知らない。知らないはずなんです。なのに」

     零は自分の指先が冷たくなっていることに気づいた。玲司は探るように零の顔を見ていたが、それ以上は訊かなかった。

    七 沈黙する男

     沢渡恒夫の身柄は、伊豆の入り江の隠れ家から、警視庁へ移された。

     「死者」の逮捕である。手続きは前例の砂漠を行くようなもので、そもそも戸籍上死んでいる人間をどう勾留するのかで、庁内は丸一日揉めたという。結局、死亡届の職権消除が急がれ、沢渡恒夫は書類の上で三週間ぶりに生き返り、生き返った十五分後に、逮捕された。

     取り調べの内容を、零は黒崎経由で聞いた。正規には教えられない情報だ。だが黒崎は「独り言だ」と断って、事務所のソファで焼き鳥を齧りながら、長い独り言を言った。

    「――沢渡はな、最初の二日、完全黙秘だった。三日目に美玲先生の再鑑定書類、替え玉遺体の身元特定を突きつけたら、堰が切れた。切れたんだが……妙な切れ方だった。あの男、罪を軽くしようとしてねえ。何かに間に合おうとしてやがる」

    「間に合う?」

    「『早く全部話して、早く檻の中に入れてくれ』――取調官に、本気でそう言ったそうだ。檻の外が怖くて仕方ねえんだよ、あの男は」

     沢渡の供述は、概ね次のようなものだった。

     二十年前、彼は御堂製薬の研究企画部門にいて、R-0計画の「事務局」を務めた。金の流れを作り、書類を整え、灰嶺学園との連絡役を担った。子どもたちに何が行われているか、知っていた。知った上で、稟議書に判を押し続けた。

    「『私は注射器に触ってもいない』――沢渡はそう言ったあと、自分で首を振ったそうだ。『いや、違うな。私の判子が、注射器だった』とな」

     火事のあと、隠蔽の実務もまた、彼の仕事だった。報道への圧力の窓口。県警上層部への「ご説明」。消えた調書。十二人の子どもたちの「病死」処理。すべての書類仕事の陰に、彼の几帳面な事務能力があった。

     そして今年。戸叶昌一が、動き始めた。

    「戸叶は末期の病を宣告されてた。余命を知って、二十年の沈黙を悔い始めた。手元に隠し持ってたデータの写しを、週刊誌に持ち込む寸前だった。……で、六人の生き残り――九条と御堂は、慌てた。九条が例の『電話』をかけ、話は沢渡に降りてきた。『おまえの部署の不始末だろう。おまえが畳め』とな」

     沢渡は、戸叶と話し合うつもりだった――と供述している。金曜の夜、錦町のビルの屋上。人目のない、昔なじみの場所。だが戸叶は聞かなかった。「わしらはもう、堕ちるところまで堕ちた。せめて最後に、事実だけでも浮かばせてやろうじゃないか」と。

    「――で、ここからだ、ゼロ。沢渡の供述で、一番ぞっとしたところは」

     黒崎は、焼き鳥の串を置いた。

    「沢渡はな、説得に失敗して、屋上を先に降りたと言ってる。魔法瓶のコーヒーを二人で飲んで、物別れになって、戸叶を屋上に残して。……で、翌朝、戸叶の転落を知った。自分は突き落としてない、と。ただ」

    「ただ?」

    「そのコーヒーはな、沢渡が持参したもんじゃねえんだ。前日、匿名の宅配便で沢渡の自宅に届いた。差出人不明。中身は魔法瓶と、タイプ打ちのカードが一枚。――『説得は失敗する。彼は疲れている。せめて温かいものを』」

     事務所が、静まり返った。ひかりが、両腕を抱くように擦った。

    「沢渡は、中身が何かうすうす察しながら、それでも持って行ったと言ってる。『あれを持って行けば、自分は手を汚さずに済む気がした』と。……戸叶は屋上で、そのコーヒーを飲んで、眠くなった。沢渡は寝入った戸叶を置いて逃げた。あとのこと――現場をあの絵に仕立てた誰かのことは、本当に知らんらしい。傘の人物の顔も、見てない」

    「……つまり、殺意の在庫だけがあって、実行者がいない」

     零は、低く言った。仕組まれていたのだ、何もかも。九条の電話も、沢渡の弱さも、戸叶の絶望も、全部が計算されて、一つの「自殺」に組み上がるように。個々の人間は、自分の弱さの分だけしか、罪を犯していない。なのに全体としては、一人の人間が、確実に殺されている。

    「沢渡の『死』も、同じ手口だった」黒崎が続けた。「戸叶が動き始めた頃、沢渡のもとに、また匿名の連絡が来た。今度は電話だ。若い男の声。『あなたは次に切り捨てられる側だ。消えたくないか』とな。別荘の火事も、替え玉も、入り江の隠れ家も、全部お膳立てされてた。沢渡は乗った。乗って、初めて気づいたんだ。消してもらった人間は、消してくれた誰かに、一生逆らえねえってことにな」

     取調室で、沢渡は最後に、こう言ったという。

    『あの声の主が誰か、私は知りません。ただ、分かることが一つある。あの人は、消したい人間を消すんじゃない。消えたい人間を、消してくれるんです。頼んでもいないのに、こちらが心の底で望んでいることを、先に差し出してくる。悪魔の取引というのは、契約書がないんですよ、刑事さん。気づいた時には、署名が済んでいる』

     ――その供述調書の写しを見る機会は、零にはなかった。ただ、黒崎の「独り言」の最後の一節だけは、正確に伝えられた。伝えるべきだと、黒崎が判断したからだ。

    「沢渡はな、取調官じゃなく、記録係の方を見て言ったそうだ。『神代という若い探偵に、伝えてほしい。あなたはもう、ずっと前から観測されている。私が事務局にいた頃から、報告書の中に、あなたの名前があった。……番号で、ですがね』と」

     番号で。

     零の背筋を、冷たいものが走った。それが何の番号なのか、この時の零はまだ、正確には知らない。知るのは、蒼がUSBの暗号化を破る、数日後のことになる。

     沢渡恒夫の起訴は、粛々と進んだ。ソラは面通しには呼ばれず、証言は書面で採用された。それだけは、零が黒崎に頼み込み、黒崎が上と喧嘩して、勝ち取った配慮だった。十歳の観測者の夏休みの宿題は、「雲の観察」のままでいい。法廷の空気の観察は、大人の仕事だ。

     その夜、事務所の窓から、零は長いこと、暮れた空を見ていた。雲はもう見えない。見えないが、そこにあることは分かっている。証拠も、罪も、二十年前の火も、たぶん同じなのだ。見えないことと、ないことは、違う。

    「――さて」

     零は窓に背を向けた。机の上では、蒼が三晩がかりで挑んでいる、防水ケースのUSBメモリが待っている。戸叶昌一が、命の残り時間と引き換えに守り抜いたもの。

     見えなかった二十年が、そこにある。

    八 戸叶の遺したもの

     戸叶昌一の自宅から、遺品として一冊の手帳と、防水ケースに入ったUSBメモリが発見されたのは、その週の金曜だった。発見場所は、彼が二十年間欠かさず通った釣り堀のロッカー。捜査本部より先にそこへ辿り着いたのは、零だった。

    「なんで釣り堀って分かったのさ」と蒼。

    「手帳の釣行記録。三年分、毎週土曜。でも通院記録と照合すると、体調が最悪だった月も一度も欠かしてない。釣りが目的じゃない。定期的に『確認』しに行く必要のある場所だったんだ」

     USBの中身の解析は、蒼が三晩徹夜でやり遂げた。古い暗号化形式、破損したセクタ。復元されたフォルダの名は、アルファベットで――

    《HAIREI》

    「……ゼロちゃん。これ、やばいよ」

     事務所のモニターに映し出されたのは、二十年前の日付を持つ、大量の実験記録だった。

     治験薬コード《R-0》。正式名称なし。適応も承認申請の記録もなし。効能欄にあるのは、たった一行。

    《選択的記憶処理》

    「記憶を……消す薬?」ひかりが呟いた。

    「消すだけじゃない」蒼がスクロールする。「投与記録を見て。被験者ID、A-01からA-14まで。全員、年齢一桁から十四歳。子どもだよ。投与量、経過観察、副作用……『情動平坦化』『自発性喪失』『遷延性昏睡』……で、途中からこの記録、ほとんどのIDに同じ判が押されてる」

     モニターに、掠れた印影が拡大される。

    《廃棄》

     事務所が、静まり返った。

    「……廃棄って」ひかりの声が震えた。「人間だよ? 子どもだよ、これ」

     零は無言で、記録の末尾を開いた。二十年前の十月十日――剣崎邸の事件と同じ日付だ――を最後に、すべての記録が途絶えている。その最終ページの余白に、戸叶の筆跡で、後年書き込まれたらしいメモがあった。

    『あの火事は事故ではない。私は加担した。データを焼き、記憶を焼き、子どもらを焼いた金で、私は家を建てた。
     もう限界だ。すべてを公表する。
     もし私が死んだら、これを警察ではなく――K刑事の遺族に。彼だけが、最後まで正しかった』

    「K刑事……?」

     ひかりが零を見た。零は動かなかった。動けなかった。

     メモの下に、古い名刺が一枚、スキャンされて添付されていた。

    《長野県警察 灰嶺警察署 刑事課
     巡査部長 神代恭介》

     ――かみしろ、きょうすけ。

     零の視界が、一瞬、白く飛んだ。

     神代。零と同じ姓。名刺の隅に手書きで添えられた連絡先の筆跡は、癖のある右上がり――祖父の店の帳簿に残る、若い頃の書き込みと同じ癖。

    「……ゼロ?」

    「……父さんは」零の声は、自分でも驚くほど平坦だった。「会社員だったと、聞かされてきた。営業マンで、転勤が多くて、僕が五歳のとき、強盗に殺されたと。……刑事だったなんて、一度も」

     誰も、何も言えなかった。

     夜。零は神代書房の帳場の前に立った。

     祖父は、いつものように文庫本を読んでいた。零が差し出した名刺のコピーを一瞥し、老人は長い、長い息を吐いた。そして本を閉じた。

    「……いつか、この日が来るとは思っとった」

    「祖父ちゃん。父さんは、刑事だったんだね」

    「ああ」

    「二十年前、灰嶺学園の火事を調べていた」

    「ああ」

    「そして十三年前に殺された。強盗なんかじゃない」

     祖父はすぐには答えなかった。帳場の奥の金庫を開け、古びた茶封筒を取り出して、零の前に置いた。

    「恭介はな、零。バカな男だった。県警のお偉方に潰され、左遷され、警察を辞めさせられて、東京に流れてきて――それでもまだ、調べとった。お前と、志穂さんを抱えてな。わしは何度も言った。もうやめろ、と。子どもがおるんだぞ、と。あいつは笑って言いおった。『子どもがいるからだよ、父さん。あの学園の子どもらには、誰もいなかったんだ』とな」

     茶封筒の中には、色褪せた写真が数枚。若い父。若い母。そして、赤ん坊の零。

     もう一枚。制服姿の父が、山を背に立っている。看板には《灰嶺警察署》。

    「十三年前のあの夜、あいつは『ついに原本を手に入れる』と電話してきた。それが最後だ。翌朝、恭介と志穂さんは家で死んどった。金目のものが荒らされて、強盗の仕業とされた。……お前は、押し入れの中で見つかった。無傷でな。ただ、それまでのことを、何ひとつ覚えとらんかった」

    「原本って、何の」

    「知らん。あいつは言わなんだ。わしを巻き込まんためだろう。ただ、あいつはその資料をこう呼んどった」

     祖父は、皺だらけの手で、湯呑みを握りしめた。

    「――事件番号0、とな」


    幕間 二

     同じ夜。都心の御堂製薬本社ビル、最上階の会長室。

     御堂剛三は、デスクの上の赤い封筒を、火掻き棒の先でつついていた。素手で触れる気にはなれなかった。

    『十二月二十日。灰嶺島、黒耀灯台にて。
     二十年目の清算を行います。
     御一同の欠席は認めません。
     欠席者から、順に回収いたします。  ――0』

    「……ふざけおって」

     老人は封筒を暖炉に投げ込もうとして、やめた。剣崎は死んだ。沢渡は捕まり、廃人のように怯えている。警察の手が「二十年前」に届くのは時間の問題だ。

     電話が鳴った。灘波総合病院の理事長からだった。受話器の向こうの声は、上ずっていた。

    『御堂さん、届いたか。赤いやつが』

    「……届いた」

    『九条先生のところにも、財前にも、蓮見にもだ。全員だぞ。どうする。警察に? いや駄目だ、警察はもう駄目だ、剣崎の小僧探偵が嗅ぎ回っとる。なあ御堂さん、わしは思うんだが、これはむしろ好機かもしれん。差出人は必ず島に来る。来なけりゃ「回収」とやらができんからな。ならば――』

    「――迎え撃つ、か」

     御堂剛三は、窓の外の夜景を見た。この街の灯りの何割かは、自分が二十年前に焼いたものの上に灯っている。今さら、消させはしない。

    「灘波さん。腕の立つのを、何人搔き集められる」

     ――そしてその会話は、一言一句あまさず、録音されていた。

     都内の古いビルの一室。並んだモニターの前に、フードを被った小柄な影が座っている。傍らのケージで、片羽の傷ついた鴉が一声鳴いた。

    「……はいはい、ご飯はあとでね」

     影――女はヘッドホンを外し、伸びをした。フードの下から、二十代後半の、化粧気のない白い顔がのぞく。左の首筋に、古い火傷の痕。

     女はキーボードを叩き、一件のメッセージを打ち込んだ。宛先は、神保町のちっぽけな探偵事務所。

    『十二月二十日、灰嶺島に役者が揃う。
     狼たちは罠を張るつもりだ。だが盤を作ったのは狼ではない。
     君のお父さんが遺した宿題の、答え合わせの時間だよ、名探偵。
     ――カラスより』

     送信キーに指を置いたまま、女はしばし、迷った。

    「……ごめんね、恭介さん。あの子を、巻き込む」

     それから、モニターの隅に貼られた古い写真に目をやった。日に焼けた若い刑事が、八歳の少女の頭に手を置いて笑っている、二十年前の写真に。

    「でも、あの子しかいないんだ。あの人を止められるのは、もう」

     女は送信キーを、押した。


    第三部 漆黒の灯台

    一 招かれざる同行者

     十二月十九日。熱海港の外れの桟橋に、季節外れの一団が集まっていた。

     灰嶺島。伊豆諸島の外れに浮かぶ、周囲六キロの私有島。二十年前までは灰嶺学園の「臨海研修所」として使われ、学園の閉鎖後は、出資者の一人・財前建設の名義で塩漬けにされてきた島だ。島の南端の断崖に、明治期に建てられた古い灯台が立つ。黒い玄武岩を積んだ、その名も――黒耀(こくよう)灯台。

    「――で、なんでお前らがいるんだよ!」

     桟橋で、黒崎が頭を抱えた。目の前には、ボストンバッグを提げた零、ひかり、蒼、そして白衣の代わりにダウンを着込んだ美玲。

    「招待されたからです」零は一枚の名刺を見せた。《美術鑑定家 蓮見喬》。「蓮見教授から、正式な依頼が来ました。『十二月二十日、灰嶺島で旧知の者たちと会合がある。脅迫状の件で身の危険を感じている。護衛と調査を依頼したい』と。破格の報酬つきで」

    「あの狸爺……自分だけ探偵を盾にする気か」

    「でしょうね。でも、渡りに船です。あの島には、今回の事件の関係者が全員集まる。父の事件の関係者が、です」

     黒崎は零の目を見た。一ヶ月前、零から「事件番号0」の話を聞かされて以来、この刑事は上層部と衝突を繰り返していた。二十年前の記録の閲覧請求はすべて却下され、灰嶺学園の再捜査の上申は「管轄外」の一言で握り潰された。それでも黒崎は退かず、ついには「年末休暇」を強引にもぎ取って、ここにいる。つまり今の黒崎は、警察手帳を持ったただの男だった。

    「ミレイ先生まで、なんでまた」

    「あら。孤島、嵐の予報、脛に傷持つ老人が五人。……何かが起きた時、検案できる人間が現場にいた方がいいでしょう」美玲は事もなげに言った。「それに、零くんのお父さんの事件の資料、私も読んだの。十三年前の検案書。あれを書いた監察医は、私の恩師よ。恩師は退官の日に言ってた。『生涯で一件だけ、書き直させられた検案書がある』って」

     零が、美玲を見た。

    「……つまり、父の死因は」

    「強盗に殺されたにしては、傷が『綺麗すぎた』そうよ。ためらいも、乱れもない、一撃。プロの仕事」

     沖から、チャーター船の汽笛が聞こえた。

    「よし、全員乗れ」黒崎が吠えた。「言っとくが、俺は休暇中の一般人だ。何が起きても職権は使えん。使えんが――ガキどもに何かあったら、休暇明けに全部まとめて逮捕してやる」

     船室には、先客がいた。

    「……遅かったな。船まで推理させる気か」

     一ノ瀬玲司。窓際の席で足を組み、経済誌を広げている。

    「あなたも招待ですか」ひかりが目を丸くした。

    「僕は九条議員の側だ。先生は用心深くてね、私設秘書という肩書きで僕を雇った。……ふん、そういう顔をするな、神代。呉越同舟というやつだ。互いの依頼人は互いに疑心暗鬼。だが乗っている船は同じだ。文字通りな」

     船が岸を離れる。空は鉛色に垂れ込め、西の水平線が不吉に黒い。天気予報は明日夜からの暴風雪を告げていた。

     デッキで一人、海を見ていた零の隣に、玲司が立った。

    「――神代。一つ、確かめておきたい」

    「なんですか」

    「君は、何のためにあの島へ行く。父親の仇討ちか」

     零は答えを探した。海鳥が一羽、船を追い越していく。

    「……仇討ちなら、憎む相手の顔が要る。僕にはそれがない。記憶がないから。父の顔も、声も、死んだ夜のことも。僕にあるのは欠落だけです。だから――埋めに行くんです。空白を、事実で」

    「事実で埋めた空白が、地獄の見取り図だったら?」

    「それでも、白紙よりましだ」

     玲司はしばらく黙り、それから、らしくもなく小さく笑った。

    「……時計塔の事件の後、君の名前を調べた。神代恭介の一人息子だと知って、正直、驚いた。僕が探偵になった理由の一つは、その名前だからだ」

    「え?」

    「僕が九つの頃だ。父が横領の濡れ衣で逮捕されかけた。所轄で誰も話を聞かなかった中で、一人だけ、徹夜で伝票を洗い直して真犯人を挙げた刑事がいた。もう警察を辞める直前だったそうだがな。……名を、神代といった」

     玲司は経済誌を丸めて脇に挟み、船室へ戻りかけ、振り向きもせずに言った。

    「借りは、息子に返す。それだけだ。勘違いするなよ」

    二 航路

     十二月十九日、午前九時。伊豆下田の港は、よく晴れていた。

     チャーターされた小型クルーザーの前で、一行は落ち合った。零、ひかり、蒼。監察医務院の連休を潰して同行してくれた美玲。そして「偶然にも同じ時期に休暇を取っていた」黒崎。偶然という言葉の正しい使い方を、この刑事は絶対に知らない。

    「――おや。役者が揃っているな」

     桟橋の先から声がした。振り返ると、キャメルのコートの襟を立てた玲司が、キャリーケースを引いて立っていた。零は思わず天を仰いだ。

    「……なんで君がいるんだ」

    「仕事だよ。九条誠一郎議員の個人的な法律顧問補佐兼、私設秘書として、島の会合に同行する。三日前に正式契約した。破格の報酬でね」

    「九条の? 君、保険会社は」

    「顧問は兼業可能だ。……おっと、勘違いするな、神代零。僕は君の敵に回ったわけじゃない。依頼人の傍が、一番よく見える席だというだけだ」

     玲司は、すれ違いざま、声を落とした。

    「一つだけ教えておく。この会合、招集をかけたのは老人たちじゃない。老人たちは『招かれた』側だ。つまり僕らはこれから、招待主のいないパーティーに出席する。……精々、互いに背中に気をつけようじゃないか」

     船は、定刻に港を出た。

     黒耀島までは、南南西へ約二時間の航路だという。外海に出ると、冬の海は青黒く、うねりが深くなった。ひかりは船に強く、美玲は船に強く、蒼は――出港十五分で無言になり、三十分で船室の長椅子に横たわった。「三半規管は、工学の敗北だ……」という遺言めいた呟きを残して。

     零は、デッキの手すりに立って、遠ざかる本土を見ていた。隣に、缶コーヒーが二つ、差し出された。黒崎だった。

    「……親父さんの調書の件、あれから一つ、分かったことがある」

     風の音に紛れさせるような声だった。

    「二十年前、灰嶺の火事のあと、長野県警で『事故』の結論に最後まで異を唱えてた刑事が一人いた。灰嶺署刑事課、神代恭介巡査部長。上申書を三度出して、三度潰されて、翌年、依願退職。……ここまでは前に話したな。その先だ。恭介さんの上申書を握り潰した当時の県警本部長、名前を辿ったら、退官後に天下ってた。どこだと思う」

    「……灘波総合病院の、系列ですか」

    「惜しい。御堂製薬の監査役だ。年俸だけもらって会議に出ねえ、典型的な口止め料ポストよ。……ゼロ。おれたちはこれから、そういう連中の巣に入る。二十年かけて、警察と役所と病院に根を張った連中のな。島じゃ、おれの手帳は一枚の紙切れだ。分かってるな」

    「分かってます。……クロさんこそ、休暇中の警察官が事件に首を突っ込んだって、後で処分されませんか」

    「されるかもな」

     黒崎は、コーヒーを一口で半分空けた。

    「十三年前、おれは駆け出しで、何もできなかった。現場の保存を手伝って、五歳のガキに毛布を掛けた。それだけだ。上が『物盗りの居直り』で処理する時も、黙って見てた。……あの時に飲み込んだもんが、まだ、ここに痞えてんだよ」

     刑事は、自分の胸を、拳で軽く叩いた。

    「処分が怖くて痞えが取れるかってんだ。――さ、中に入れ。冷える」

     船室では、意外な組み合わせが向かい合っていた。ひかりと、玲司だ。トランプが一組、テーブルに広げられている。

    「……何してるの」

    「見て分かるだろう。ポーカーだ。白石ひかり嬢がどうしてもと言うから」

    「あたし、ルール覚えたてなんです〜って言ったのに、一ノ瀬さん、大人げなく本気で来るんだもん」

     卓上のチップ代わりの柿の種は、九対一で、ひかりの山になっていた。

     玲司の完璧な無表情に、初めて、ひびが入っていた。

    「……もう一勝負だ」

    「いいですけど、一ノ瀬さん、ブラフの時、左手の親指が人差し指の第二関節を触りますよ。あと、いい手の時は瞬きが一・五倍になる」

    「……………」

    「あ、いま『こいつを敵に回すのはやめよう』って思ったでしょ。正解です」

     美玲が声を上げて笑い、船酔いの蒼まで長椅子の上で微かに肩を揺らした。零は、この光景を記憶に刻んでおこうと思った。この先の島で何が待っていようと、こちら側には、これがある。理屈ではない、この騒がしさが。

     ――正午前。

    「見えたぞ」と、操舵室から船長の声がした。

     全員がデッキに出た。水平線の上に、黒い影が盛り上がっていた。近づくにつれ、それは島の形になった。切り立った黒い岩の崖。頂きに深い常緑の森。そして島の南端、崖の突端に――白亜の灯台が一本、冬空を突いて立っていた。

    「黒耀島。……昔の海図には『烏島』とありますな」船長が言った。「岩が黒曜石みてえに黒いのと、昔から鴉が多いんで。今は財前さんとこの持ち島だ。わしらは近づきませんよ、普段は。あの島は、招かれねえと着けないんでね。桟橋が一本しかねえから」

     招かれないと、着けない島。

     零はコートのポケットの中で、蓮見から預かった招待状の写しに触れた。赤い縁取りの、二十年前の紙。招待主のいないパーティー。デッキの風の中で、ひかりがそっと零の袖を摘んだ。

    「……零。あの灯台」

    「うん」

    「なんだろう。すごく綺麗なのに――お墓みたい」

     船は速度を落とし、黒い島の、たった一本の桟橋へ、舳先を向けた。

     頭上を、鴉が二羽、鳴きながら森の方へ渡っていった。

    三 黒耀灯台

     灰嶺島は、黒い島だった。

     玄武岩の断崖。葉を落とした冬木立。船着き場から島の中央へ、ひび割れた舗道が一本。その先に、二十年前の「臨海研修所」――今は「灰嶺荘」と呼ばれる二階建ての宿泊棟が、灰色の空の下にうずくまっていた。

     そして島の南端、断崖の突端に、それは立っていた。

     黒耀灯台。高さ三十メートル。黒い石積みの塔。既に灯台としての役目を終えて久しいが、財前建設が「観光資源化の検討」名目で内部を改修し、電源と回転灯だけは生きているという。

    「……なんか、お墓みたい」ひかりが呟いた。

     灰嶺荘には、既に「五人」が揃っていた。

     ――御堂剛三。御堂製薬会長。七十一歳。車椅子。目だけがぎらぎらと生きている。

     ――灘波義郎。灘波総合病院理事長。六十八歳。でっぷりと肥え、絶えず汗を拭いている。

     ――九条誠一郎。元法務副大臣、現衆議院議員。六十六歳。鷹のような顔。玲司を「秘書」として従えている。

     ――財前剛。財前建設会長。七十歳。無口な岩のような男。

     ――蓮見喬。美術鑑定家。六十歳。相変わらず柔和に微笑んでいる。

     五人の他に、御堂と灘波が雇った屈強な警備員が六名。灰嶺荘の管理人夫婦が二名。そして零たち六人と玲司。総勢十九人が、この孤島の住人となった。

     夕食の席は、葬式のようだった。

     誰も脅迫状の話をしない。誰も二十年前の話をしない。ただ、互いの箸の上げ下ろしを盗み見ている。口火を切ったのは、車椅子の御堂だった。

    「――探偵くん、とやら」

     老人の声は、砂利のようだった。

    「蓮見が雇ったそうだな。剣崎の件を解いた小僧か。ふん、雁首を見に来てやったわ。……言っておくが、わしらは『0』などという幽霊に呼ばれて来たのではない。呼び出した阿呆の面を拝みに来たのだ。この島は袋の鼠。船は返した。明日、定期連絡船が来るまで、誰も出入りできん。脅迫者が島におれば、それで詰みよ」

    「もし、いなければ?」零は静かに訊いた。

    「いなければ、ただの悪戯だったということ」

    「そうでしょうか。僕は逆だと思います。あなた方をこの島に集めること自体が、目的だとしたら? 袋の鼠になったのは、どちらでしょうね」

     食堂が、しんと静まった。灘波の箸から、里芋が落ちた。

    「こ、小僧、脅すのか、わしらを」

    「事実を言っただけです。……皆さんに一つだけ、お願いがあります。今夜から、一人にならないでください。部屋の施錠を過信しないでください。剣崎さんは、鉄壁の警備の中で死にました」

     その夜、零は仲間を自室に集め、島の見取り図を広げた。

    「アオ。頼んでいた件は」

    「バッチリ。持ち込んだ小型ドローン三機、屋根裏に待機済み。明日の朝から島の上空を交代で回す。人の動きは全部記録する。……ただし、だ。天気図がやばい。明日の夜は風速二十メートル超え。飛ばせるのは日中だけだね」

    「ヒカは」

    「五人のおじいちゃんたち、観察した。一番怯えてるのは灘波さん。汗の量が異常。一番怯えてないのは……蓮見教授。あの人、今夜のご飯、お代わりしてた。命を狙われてる人の食欲じゃないよ」

    「クロさんとミレイ先生は」

    「管理人夫婦から聞き込みした」黒崎が手帳をめくる。「田島夫妻、六十代。この島の管理は五年前から。前の管理人が高齢で辞めた後、財前建設の求人で来たそうだ。悪い印象はねえが……一つだけ妙なことを言ってた。『秋頃から、夜中に灯台の灯りがつくことがある』とさ。回転灯の電源は普段落としてあるのにな」

    「幽霊灯台ってわけ」美玲が肩をすくめた。「素敵。ますます検案医の出番がありそう」

     零は窓の外を見た。闇の中、島の南端に、黒い灯台の輪郭がかろうじて見える。

     ――秋頃から、誰かが灯台を使っている。

     その夜遅く、零のスマホに、圏外表示にもかかわらず一件のメッセージが届いた。送信経路不明。差出人名、カラス。

    『明日の夜九時、最初の駒が落ちる。
     見張るべきは灯台ではない。灯台を見る者たちだ。』

    四 灯室の人影

     十二月二十日。運命の日は、不気味なほど静かに明けた。

     朝のうち、五人の老人たちは互いを牽制しながらも、それぞれの「捜索」を行った。警備員たちが島中を歩き回り、脅迫者の潜伏場所を探す。廃屋、防空壕跡、船着き場、そして灯台。だが、何も見つからなかった。島には十九人以外、猫の子一匹いない――警備責任者はそう報告した。

     午後、風が出始めた。

     夕刻、雪が混じった。

     午後八時、暴風雪が島を呑み込んだ。窓という窓が鳴り、海鳴りが地響きのように床を震わせる。定期連絡船の欠航が無線で告げられ、灰嶺荘は完全に外界から切り離された。

     そして、午後九時。

    「――おい! あれを見ろ!」

     警備員の一人が食堂の窓を指差して叫んだ。

     闇と吹雪の向こう。島の南端で――黒耀灯台に、灯りがともっていた。

     白い光が、ゆっくりと、回っている。二十年間死んでいた灯台が、嵐の夜に目を覚ましたのだ。そして、回る光がガラスの灯室を内側から照らし出すたび、そこに――

    「ひ、人がいる……!」

     灯室の中に、人影があった。窓辺に立ち、じっと灰嶺荘の方角を見下ろしている、長身の影。回転する光が逆光になり、顔は見えない。だが確かに、人だ。

    「馬鹿な、灯台は昼に捜索した! 施錠も確認した!」

    「誰か行け! 押さえろ!」御堂が吠えた。

     警備員四人が防寒具を掴んで嵐の中へ飛び出していく。零も立ち上がった――が、その袖を、ひかりが掴んだ。

    「ゼロ、待って。……灘波さんがいない」

     零は食堂を見回した。御堂、九条、財前、蓮見。四人はいる。だが、あの汗かきの老人の姿だけが、ない。

    「トイレじゃないのか」と黒崎。

    「三十分前に席を立ったきり。あたし、ずっと数えてたから」

     零の背筋が凍った。カラスのメッセージ。――見張るべきは灯台ではない。灯台を見る者たちだ。

    「クロさん! 灘波さんの部屋へ!」

     二階の角部屋。ノックに応答はなく、扉には鍵がかかっていた。管理人のマスターキーで開けた部屋は、もぬけの殻だった。ベッドに乱れはなく、防寒コートと靴だけが消えている。

    「自分から出て行った……? この嵐に? なんで」

    「誘い出されたんです」零は窓の外の灯台を睨んだ。「僕らの目が全員、灯台に釘付けになった、その隙に」

     三十分後、警備員たちが戻ってきた。全員、雪まみれで、蒼白だった。

    「灯台の扉は――施錠されていました。壊して入りましたが、中には誰も。螺旋階段にも、灯室にも、誰もいません。ただ、回転灯の電源だけが入っていて……それと、これが、灯室の床に」

     警備員が差し出したのは、赤い封筒だった。

     中の便箋には、一行。

    『一人目。――0』

     灘波義郎が発見されたのは、翌朝、風が弱まってからだった。

     黒耀灯台の直下、断崖の裾の岩場。三十メートル下の波打ち際に、老人は壊れた人形のように横たわっていた。

    五 衆人環視の密室

    「――整理するぞ」

     灰嶺荘の食堂。青ざめた顔が並ぶ中、黒崎が仕切った。休暇中の一般人という建前は、死者が出た時点で吹き飛んでいた。

    「昨夜九時、灯台に灯りがつき、灯室に人影が確認された。九時五分、警備員四名が灯台へ向かい、九時二十五分に到着。入口は施錠。破壊して突入したが、内部は無人。塔の唯一の出入口は、その正面扉だけだ。窓は灯室のガラスのみ。つまり――人影は、施錠された塔の中から、忽然と消えた」

    「そして今朝」美玲が続けた。「灯台下の岩場で灘波氏の遺体。検案したわ。全身の多発骨折、死因は頭部外傷。三十メートル級の墜落と矛盾しない。死亡推定時刻は昨夜の八時から十時の間。……気になる所見が二つ。一つ、右手掌に真新しい擦過傷と、微細な繊維。ロープを掴んだ痕みたいなのよね。二つ、コートのポケットに、これ」

     証拠品袋の中には、水に濡れた紙片。辛うじて読めるのは、活字の断片だった。

    『……娘の件、話したければ一人で灯台へ……』

    「灘波の娘は、十年前に事故で死んでる」九条が呻いた。「それをネタに呼び出されたか」

    「話が見えんぞ」御堂が苛立たしげに車椅子の肘を叩いた。「灘波は灯台から落ちたのだろう。だが灯台は施錠され、中は無人だった。警備員が着いた時、灯りは点いていて、人影は消えていた。灘波を突き落とした人間は、どこから出て、どこへ消えた!」

    「それにさ」蒼が小声で零に言った。「九時の時点で人影は灯室にいた。でも灘波さんはその時もう死んでた可能性がある。じゃああの人影は誰? 犯人だとして、警備員が来るまでの二十分でどうやって施錠された塔から消えたの? 雪の上に足跡は? 」

    「足跡は駄目だ」警備員長が首を振った。「あの風だ。我々自身の足跡すら、ものの十分で消えた」

     議論が煮詰まった時、零は一人、席を立った。

    「どこへ行く、神代」と玲司。

    「灯台へ。……人影の正体も、消失の方法も、たぶんもう分かっています。確かめたいのは一つだけです」

     吹雪の去った灯台は、朝の光の中で、なお黒かった。

     零は灯室まで螺旋階段を上り、回転灯の機構を調べ、ガラス窓の内側に立った。そこから灰嶺荘がよく見えた。逆もまた然り、だ。それから床に膝をつき、回転灯の台座の陰を、ペンライトで丹念に照らした。

    「……あった」

     台座の陰。ガムテープの剥がし痕が、長方形に二つ。そして、床の埃の上に、細い細い、糸のような擦過痕。

     降りてきた零は、待っていた玲司と黒崎に言った。

    「人影の正体は、誰でもありません」

    「は?」

    「昨夜、灯室には最初から誰もいなかった。僕らが見たのは、影絵です。回転灯の台座の陰に、小型のプロジェクター――正確には、強力なLED光源と、人型に切り抜いた遮光板を仕込んだ装置が、テープで固定されていた。回転灯の白色光が灯室内で乱反射する中、内側からガラスに人型の影を投射すれば、吹雪の夜、三百メートル離れた灰嶺荘からは『窓辺に立つ人影』にしか見えない。装置はタイマーで九時に起動し、おそらく警備員の突入前に、仕込んだ主が回収した――いや」

     零は首を振った。

    「回収の必要すらない。装置は超小型でいい。警備員たちは『人間』を探した。誰も、回転灯の台座の陰の、弁当箱サイズの機械なんて探さない。回収は翌日でも、何日後でもいい。……つまり、この密室もまた、最初から存在しなかった。消えた人影は、最初から『いなかった』んです」

    「じゃあ、灘波さんは」

    「灯台から落ちたんじゃない。灯台の下の崖から、直接突き落とされたんです。手紙で崖沿いの小道に呼び出され、そこで。灯台の灯りと人影は、全員の視線を『灯室』という高さ三十メートルの一点に吊り上げるための、巨大な手品の種です。僕らが上を見ている間に、犯行は下で行われた。……そして」

     零は、拳を握った。

    「この手口には、既視感がある。剣崎邸と同じだ。録音の悲鳴。投影の人影。実体のない現象で時刻と場所を偽装し、その隙に、本命を沈黙させる。手を汚す実行者は毎回別人でも、盤面を描いている頭脳は――同じです」

    六 嵐の夜の証言

     灘波義郎の死が「事故でも自殺でもない」と確定した夜、灰嶺荘の大広間は、即席の取調室になった。

     もっとも、正規の手続きではない。黒崎は休暇中の一警察官に過ぎず、島に司法権を持ち込む手段はまだない。だから形式は、あくまで「屋敷の主催者側による、任意の聞き取り」。仕切り役は九条が買って出ようとしたが、御堂が嗄れた声で一言、「探偵にやらせろ。そのために飼っとるんだろう、蓮見」と言い、話は決まった。飼っている、という言い方に、蓮見は薄く笑っただけだった。

    「では、形式的に、皆さんの昨夜の所在を伺います」

     零は、暖炉を背に立った。ひかりがノートを構え、蒼が(全員の同意を取った上で)録音機を回す。玲司は依頼人・九条の斜め後ろに立ち、値踏みするような目でこちらを見ている。

     昨夜、灯台の灯がともったのは午後九時四分。人影が灯室に見えたのは九時四分から七分の間。屋敷から灯台までは、崖沿いの道で徒歩十二分。

    「まず、九時前後に大広間にいた方。――御堂会長、九条議員、財前氏、蓮見教授、田島ご夫妻、警備員の桐山さんと真弓さん。それに僕たち六人。計十四人が、互いを目視できる位置にいた」

    「つまり全員に鉄壁のアリバイがある、というわけだ」九条が鼻を鳴らした。「灯室の人影とやらは、幽霊だったのかね」

    「幽霊の正体の話は、後にします。今は、九時にそこにいなかった人の話を」

     零は、手元のメモを見た。

    「灘波さん本人を除くと、大広間にいなかったのは五人。警備員が三名――正門の井狩さん、裏手巡回の志方さん、船着き場の真壁さん。それから、厨房で片付け中だった料理人の関さん。最後に……一ノ瀬さん、あなたです」

     視線が集まっても、玲司は眉一つ動かさなかった。

    「九時前後、僕は自室で会社に定時報告のメールを書いていた。送信記録は九時十一分。部屋からだとサーバーログに残る。疑うなら照会したまえ。……ただし言っておくが、私が仮に灯台に行っていたとしても、灘波氏を突き落とす動機がない。うちの会社が引き受けているのは灘波総合病院の火災保険でね。理事長に死なれると、率直に言って、書類が増える」

    「動機の話は誰もしてません。所在の話です」

    「ふん。……九時十一分、送信記録。以上だ」

     続いて、警備員たち。正門の井狩は詰所の入退室ログがあり、船着き場の真壁は九時五分に無線の定時連絡を入れていた。残るは巡回担当の志方。三十代の、寡黙な男だった。

    「九時は……北側の遊歩道を回ってました。灯台の方は、灯がついたのは見ました。驚いて、無線で詰所に報告して」

    「報告の記録は九時六分にある」と井狩が補足する。「志方の位置は、GPSの巡回記録で北の遊歩道です。灯台とは島の反対側だ」

     志方の証言で重要だったのは、むしろ別の点だった。

    「……あの、これは関係あるか分からないんですが。八時四十分ごろ、遊歩道から屋敷の方を振り返った時、崖沿いの小道に、人がいた気がします。距離があって、暗くて、誰かまでは。傘みたいなものを差してました。雪なのに、傘。妙だなと」

    「傘、ですか」

    「はい。黒っぽい、大きめの」

     零は、それをメモに三重丸で囲った。八時四十分。灯台の点灯より二十四分前。崖沿いの小道――灘波の遺体が見つかった崖の、上の道だ。

     聞き取りが一巡した後、老人たちの「証言」が始まった。正確には、証言の形をした、腹の探り合いが。

    「……灘波くんは、近ごろ気弱になっとった」

     口火を切ったのは御堂だった。車椅子の老人は、暖炉の火を見たまま、誰にともなく言った。

    「病院の経営も傾いておったし、夜中に妙な電話をしてきよる。『会長、あれはもう時効ですかな』『あれの書類は、ほんとうに全部消えとりますかな』とな。わしは答えてやった。『消えとるよ。おまえさんが消したんだから』と」

    「会長」九条の声に、刃が混じった。「口が過ぎますぞ。若い者らの前だ」

    「かまわんよ。どうせこの島には、招かれた者しかおらん。……のう、探偵さん。あんた、招待状の話をしたな。赤い便箋の。わしらは皆、あれと同じものを、二十年前にも見たことがある」

     大広間の空気が、変わった。蓮見が目を細め、財前が湯呑みを持つ手を止めた。

    「二十年前?」零は静かに問い返した。

    「灰嶺の、山の上の学園でな。あすこの園長が使っとった便箋だ。特注のな。園からの季節の報せは、みんなあの赤い縁取りの紙で来よった。子どもらの絵が添えてあってな。……わしはあれが来るたび、封も切らずに秘書に回した。今にして思えば」

     御堂は、そこで初めて、車椅子ごと零の方に向き直った。老いて濁った目の奥に、測るような光があった。

    「封を切らんかったのは、切れば書いてあることを、読まねばならんからだ。……探偵さん。あんたに一つだけ教えといてやろう。この島に集められた年寄りどもはな、全員、二十年前に『封を切らなかった』人間だよ。そういう招待状だ、あれは。二十年遅れの、開封のな」

    「会長!」

     九条が腰を浮かせた。財前は真っ青になっていた。蓮見だけが、深い椅子の中で、目を閉じてすべてを聞いていた。

     ――その夜の聞き取りで、確定した事実は三つ。

     一つ。九時の点灯時、灯台に物理的に到達できた人間は、把握されている限り一人もいない。

     二つ。八時四十分、崖沿いの小道に「傘を差した誰か」がいた。

     三つ。赤い便箋の出どころは、二十年前の灰嶺学園。そして、この島の老人たちは全員、それが何を意味するかを知っている。

     深夜、割り当てられた部屋に戻る廊下で、玲司が零に並んだ。

    「……食えない爺さんどもだ。特に御堂。あれはわざと喋っている。仲間を疑心暗鬼にさせて、誰が『開封者』側なのか、炙り出す気だ。自分の命を餌にしてな」

    「だろうね。……一ノ瀬。一つ訊いていい? 九時十一分のメール、本文を書くのに何分かかった?」

     玲司は、足を止めた。廊下の薄明かりの中で、貴公子探偵は、初めて防御の表情を見せた。

    「……ほう。そこを突くか」

    「定時報告のメールなんて、雛形があれば三分で書ける。でも君は『九時前後、書いていた』と言った。九時前後の、十分以上を、三分の作業の説明で埋めた。埋め方が、雑だった。君らしくなく」

     しばしの沈黙のあと、玲司は、降参のしるしに両手を軽く上げた。

    「八時半から九時まで、僕は依頼人の部屋の前にいた。九条の部屋だ。中から電話の声がした。盗み聞きは紳士の恥だから内容は言わん――と言いたいところだが、状況が状況だ。一つだけ聞こえた単語を教えよう。『燈台』でも『灘波』でもない。……『原本』だ。九条は電話の相手に、確かめていた。『原本は、本当に存在せんのだな』と」

     原本。

     その二文字が何を指すのか、この時の零はまだ知らない。だが、帳簿でも録音でもなく「原本」と呼ばれる何かが、老人たちの二十年の眠りの中心に、釘のように打ち込まれていることだけは、分かった。

    「……貸し借りの帳尻、これで合わせたぞ、神代零」

     玲司は言い捨てて、自室へ消えた。

     零は自室に戻り、窓辺に立った。嵐はまだ続いていて、闇の向こうで、死者を出した灯台が、今夜は灯を落として黙り込んでいた。

     幽霊の正体。傘の人影。開封されなかった二十年。そして、原本。

     ――答えは、最初からそこにある。

     ならば、この島のどこかに、二十年前から、ずっと。

    七 二人目、三人目

     その夜、灰嶺荘は要塞と化した。

     老人たちは食堂に集まり、警備員が全ての出入口を固めた。一人にならない。それだけを守れば、犯行は不可能なはずだった。

     午後十一時。財前剛が、食堂の椅子に座ったまま、静かに事切れた。

     悲鳴も、争いもなかった。暖炉の前でウイスキーを舐めていた岩のような老人が、グラスを取り落とし、そのまま崩れた。美玲が駆け寄った時には、既に心停止していた。

    「――毒よ」

     蘇生を断念した美玲が、手袋を外しながら言った。その顔からは、普段の余裕が消えていた。

    「痙攣、縮瞳、気道分泌の亢進。有機リン系か……いえ、断定は解剖まで待って。問題は経路よ。このグラスのウイスキーは、みんなと同じボトルから注がれた。同じボトルを九条議員も飲んでる。なのに倒れたのは財前氏だけ」

    「じゃあグラスに?」

    「グラスは食堂の共用棚から、財前氏が自分で取った。誰も触ってない。あたし、見てた」ひかりが震える声で言った。「ほんとに、誰も」

     零は倒れた老人の傍らに膝をつき、遺体を検めた。そして、上着の内ポケットから、銀色のピルケースを抜き出した。

    「……ミレイ先生。これを」

     ケースの中には、白い錠剤。財前が毎食後に飲んでいた、常備の降圧剤だ。夕食後にも、皆の前で一錠飲んでいた。

     美玲は錠剤を光にかざし、表面の刻印を見て、眉を寄せた。

    「刻印は本物の降圧剤と同じ……いえ、待って。角の面取りが甘い。これ、打錠機で複製された偽物だわ。中身をすり替えられてる。服用後、三十分から数時間で効く遅効性の……」

    「島に来る前から、仕込まれていたんです」零は立ち上がった。「この毒は、島の誰の手も必要としない。招待状と同じです。犯人は、僕らが島に来る前から、全ての駒を配置し終えていた」

    「ふ、ふざけるな……!」

     九条議員が立ち上がった。鷹のような顔が、恐怖で歪んでいた。

    「灘波が死に、財前が死んだ。次はわしか、御堂か、蓮見か!? おい探偵ども、貴様ら二人もおって、何をしておる! 守れんのか、わしらを!」

    「守られる側に、まだ隠し事がある間はな」

     玲司が冷ややかに言い放った。

    「先生。そろそろ吐いたらどうです。二十年前、灰嶺学園で何があった。あなた方六人は何に金を出し、何を焼き、何を埋めた。敵はあなた方の罪を知り尽くした上で盤を組んでいる。こちらだけが目隠しで、勝てる道理がない」

    「だ、黙れ、雇われ者の分際で――」

    「――わしが話そう」

     静かな声だった。

     全員が振り返った先で、蓮見喬が、暖炉の火を見つめたまま、座っていた。柔和な微笑みは消えていた。そこにあるのは、六十年の齢を一度に背負ったような、灰色の顔だった。

    「もう、よかろう。灘波も財前も死んだ。剣崎も、沢渡も終わった。九条さん、御堂さん。……潮時だ。わしらは二十年、逃げ切ったのではない。二十年かけて、追い詰められていたのだ」

     暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。

     蓮見喬は語り始めた。吹雪の唸る孤島の夜。それは、二十年間封じられてきた「事件番号0」の、最初の証言だった。

    八 白い部屋

     二人目の死から、一夜が明けた。

     暴風雪は峠を越えたが、海はまだ牙を剥いていた。気象情報によれば、定期船が出せるのは早くて明後日。無線は通じるが、県警のヘリは「人命救助の緊急性なし」――つまり、これ以上死人が出なければ――の判定で、天候回復待ち。

     黒耀島は、あと二日、閉じた箱のままだった。

    「……だからこそ、今のうちに調べたいんです」

     朝食の席で、零は宣言した。大広間に集められた生存者たちの、視線が集まる。九条は不機嫌に黙り、御堂は車椅子の上で目を閉じ、蓮見だけが「ほう」と面白そうに眉を上げた。

    「調べる? 何をだね。犯人探しなら、警備員が邸内を固めておる」

    「邸内じゃありません。島です」

     零は、窓の外を指した。雪をかぶった常緑樹の森が、屋敷の裏手から島の北半分を覆っている。

    「この屋敷は財前建設が三十年前に建てた。でも、蒼が古い地形図と衛星写真を照合したら、島の北側に、屋敷より古い構造物の跡がある。今は森に呑まれてますが、基礎はコンクリートです。……皆さんの誰も、その建物の話をしない。管理人の田島さんに訊いても、『昔の漁業施設』としか」

     田島夫妻は、給仕の手を止めて、俯いていた。

    「漁業施設に、二重フェンスの基礎は要りません」

     沈黙。それを破ったのは、意外にも御堂の嗄れ声だった。

    「……行きたければ行くがいい。雪の森で遭難するのも、若さの特権だ」

    「会長」と九条が咎めるように言ったが、老人は目を開けなかった。それが許可なのか挑発なのか、判別はつかなかった。ただ、蓮見だけが零に近づいて、囁くように言った。

    「北の森には、私も行ったことがない。……だが君、行くなら日のあるうちに。あの森は、日が落ちると、方角が消える」

     ――出発は午前十時。零、蒼、そして黒崎。ひかりは残って屋敷の人間観察、美玲は財前の遺体の検分継続。玲司は「僕は依頼人の傍を離れない主義だ」と言って残ったが、去り際に零へ、折り畳んだ紙を寄越した。開くと、手書きの略図だった。

    『財前建設・一九九三年施工記録より。本邸とは別に「第二施設」の記載あり。用途欄・空白。施工面積・約六百平米。僕の会社は財前建設の保険も引き受けている。役得だ。――借り一つ』

    「……ほんとに嫌なやつだな」

     零は呟いて、略図をポケットにしまった。

     森は、深かった。

     雪が枝から落ちるたび、背後を取られたように三人は振り返った。蒼が方位と歩数を淡々と読み上げ、黒崎が先頭で枝を払う。四十分ほどで、雪の下に硬いものを踏んだ。払うと、ひび割れたアスファルトだった。道だ。森に呑まれた、車の通れる幅の道。

    「……道は、施設に続く。定石ですね」

     道をたどって十分。それは、唐突に現れた。

     二階建てのコンクリートの躯体。窓はすべて塞がれ、蔦と雪に覆われて、遠目には巨大な岩にしか見えない。だが正面に立てば分かる。これは建物で、しかも――

    「病院だ」

     黒崎が唸った。「見りゃ分かる。この搬入口の広さ、スロープの角度。ストレッチャーを入れる造りだ。おれは職業柄、腐るほど見てきた」

     鋼鉄の扉は錆びて歪み、蒼が持参した工具で三十分かけてこじ開けた。懐中電灯の光の中に、埃の粒子が雪のように舞った。

     中は、時間が止まっていた。

     受付らしきカウンター。薬品棚の残骸。壁の案内板の文字は消えかけていたが、蒼がライトを斜めから当てて浮かび上がらせた。

     《第二療養棟 御堂製薬付属・灰嶺学園臨海分校》

    「……分校」

     零の声が、廊下に反響した。灰嶺学園。長野の山の中にあったはずの施設の名前が、なぜ、東京から百キロ離れた孤島にあるのか。

     答えは、二階にあった。

     階段を上がった先の廊下に、扉が六つ。どの扉にも、外側にだけ、閂があった。部屋の中は六畳ほどで、壁も床も天井も、剥げかけた白い塗装。窓はない。照明は天井に埋め込み式。ベッドの枠だけが錆びて残り、壁の低い位置に、子どもの背丈の高さに、無数の細かい引っ掻き傷があった。

     白い部屋。

     蓮見の告白より先に、零たちは、それを見てしまった。

    「……ここで、何をしてやがった」

     黒崎の声は、抑えても抑えても、震えを殺しきれていなかった。刑事として二十年、大抵のものは見てきた男の声が、だ。

     零は答えられなかった。代わりに、廊下の突き当たりの部屋に入った。そこだけは造りが違った。広く、マジックミラーらしき黒い窓が「白い部屋」の一つに面していて、机と、キャビネットの残骸。観察室だ。

     キャビネットは空だった。書類は一枚残らず持ち去られている。だが、蒼が机の裏に潜り込んで、十分後、抽斗のレールの奥から、一枚の紙片を摘み出した。引き抜く時に破れて、奥に落ちて、回収を免れた半端な一枚。

     湿気で波打った、それは、業務日誌の断片だった。

    『――月期・海上輸送分。長野本校より被験――名受け入れ。船酔いによる体調不良――名。A-00のみ経口投与を継続。同被験体、投与後も認知・情動の変化を示さず。灰谷園長より本校への返還要請あり。理由「教育上の必要」。御堂会長裁可待ち――』

    「A-00……」

     零は、その符号を、まだ知らない。だが指先が、紙の上のその三文字をなぞった時、心臓の奥で、何かが軋んだ。理由の分からない既視感。喉の奥に、消毒液の匂いの記憶が、湧いて、消えた。

    「ゼロ。顔色が悪い」

    「……平気だ。それより蒼、この紙、保全を」

     蒼は無言で頷き、持参のチャック袋に日誌の断片を収めた。几帳面な手つきが、いつもより慎重だった。

     帰り道、三人はほとんど口をきかなかった。森を抜ける手前で、黒崎が一度だけ立ち止まり、振り返って、雪の中の白い廃墟を長いこと見ていた。

    「なあ、ゼロ。おれは今夜から、この島の爺さんどもを見る目が変わる。刑事として、それはまずいことだ。予断は目を曇らせる。……だがな」

     黒崎は、拳を固く握っていた。

    「あの壁の傷を見ちまった後で、曇らねえ目があったら、そりゃ人間の目じゃねえよ」

     屋敷に戻ったのは、日没の直前だった。

     玄関で出迎えたひかりは、三人の顔を見るなり、何も訊かずに、まず温かいタオルを持ってきた。それから零の袖を引いて、廊下の陰で囁いた。

    「……何があったか、あとで全部聞く。でも先に、こっちの報告。零たちが出てすぐ、蓮見さんが図書室に一時間こもってた。出てきた時、手ぶら。でもね、入る前と出た後で、上着の左ポケットの膨らみが違った。何かを、図書室に置いてきてる」

    「田島さん夫婦は?」

    「奥さんの方が、お昼に一回、泣いてた。厨房の裏で、一人で。あたしが気づいたのに気づいて、すぐ笑顔を作った。……零。あの人たちの笑顔、作り方が上手すぎる。長い間、毎日作ってきた笑顔だよ」

     零は頷いて、それから、ポケットの中の――蒼に預ける前に撮影した――日誌の断片の画像のことを考えた。長野本校。海上輸送。返還要請。子どもたちは、山と島の間を、荷物のように運ばれていた。

     夕食の席で、零は何も言わなかった。御堂も、九条も、何も訊かなかった。訊かないこと自体が、雄弁な自白のようだった。

     ただ一人、蓮見だけが、食後のコーヒーの席で、零の隣に椅子を寄せてきた。

    「北の森は、どうだった」

    「……白い建物がありました」

    「そうか」

     老鑑定家は、カップの中の黒い液面を、じっと見つめた。

    「君は明日、私に、あれが何かを訊きに来るだろう。私は今夜、それにどう答えるかを、考えることにするよ。……七十年生きてきてね、神代くん。答えを考えるのに一晩必要な質問は、人生にそう何度もない」

     その夜、零は自室の窓から、北の森の方角を見た。

     闇の中に、建物は見えない。だが、あると知ってしまった以上、闇はもう、ただの闇ではなかった。二十年前、あの白い部屋の窓のない闇の中で、子どもたちは何を数えて眠ったのだろう。羊か。波の音か。それとも、帰れる日までの、日数か。

     ――答えは、最初からそこにある。

     口癖が、初めて、重かった。答えが最初からそこにあるのなら、二十年間、誰もそれを見なかったことになる。見ようとしなかった大人たちの数だけ、あの壁の引っ掻き傷は増えたのだ。

     零は、カーテンを閉めた。

     明日、三人目の死が起きることを、この時の彼は、まだ知らない。

    九 告白

    「――話は、二十五年前に遡る」

     蓮見喬は、暖炉の炎を見つめたまま語った。九条が「やめろ」と制し、御堂が「蓮見!」と吠えたが、老鑑定家はもう振り向かなかった。

    「御堂製薬の研究所で、一つの化合物が生まれた。開発コードR-0。当初は、戦争や災害で心に傷を負った人間の、特定の記憶だけを薄れさせる――トラウマ治療の夢の薬になるはずだった。だが動物実験の段階で、開発陣は気づいてしまった。この薬は、調整次第で狙った記憶だけを、狙った深さで消せる。……諸君、この意味が分かるかね。目撃者から犯行の記憶を。兵士から命令の記憶を。政敵から密約の記憶を。売る相手を選ばなければ、一グラムが同じ重さのダイヤより高く売れる」

    「臨床データが要った」蓮見は続けた。「大人では駄目だ。契約も、家族も、失踪すれば騒ぐ社会もある。必要なのは、消えても誰も探さない、白紙に近い脳。……そこで白羽の矢が立ったのが、経営難に喘いでいた私立の養護施設だった。長野の山奥の、灰嶺学園だ」

    「園長の灰谷徹は、最初は突っぱねた。あれは本物の教育者だった。私財を投げ打って、行き場のない子らを育てておった。だが施設は借金まみれで、冬の燃料代にも事欠く有様。そこへ御堂さんが囁いたのだ。『新しい栄養剤の治験に協力してくれるだけでいい。子どもたちの健康状態は最高の医療チームが見守る。謝礼で、施設は生まれ変わる』とな」

     車椅子の御堂は、否定しなかった。ただ、石のように黙っていた。

    「わしら六人は、それぞれの持ち場で『事業』を支えた。御堂さんは薬と研究者を。灘波は医療体制と――万一の際の、後始末を。財前は施設の改修と島の研修所を。九条さんは、監督官庁と警察への、傘を。剣崎とわしは、動く金を美術品取引に紛れ込ませて洗った。……子どもらへの投与が始まったのは、二十三年前だ。最初は本当に、ただの栄養剤程度の量だった。子どもらは肥え、施設は暖かくなり、灰谷は感謝すらしておった」

    「量が増えたのは、いつからですか」零が静かに訊いた。

    「……二年目からだ。データが要る、閾値が要る、と研究側が言い出した。子どもらに『お勉強のテスト』と称して記憶検査を行い、投与し、また検査する。効きすぎた子は、昨日覚えた友達の名前を忘れた。母親の顔を忘れた子もいた。自分の名前を忘れた子も。……それでも、やめられなかった。データは金脈で、金脈には常に、次の出資者が並んでおったからだ」

    「十四人の被験児のうち、十二人が、三年目までに『廃棄』判定になった。遷延性昏睡。人格の崩壊。感情の消失。……ただ二人だけ、例外がおった。一人は八歳の少女――灰谷園長の実の娘だ。父親が、自分の娘だけには、偽薬を飲ませ続けておったのだよ。あの男なりの、ぎりぎりの良心だ」

    「もう一人は?」

     蓮見は、初めて顔を上げた。その目に、恐怖に似た色があった。

    「――A-00(エー・ダブルオー)。最年長の、十四歳の少年だ。あれは、化け物だった。どれだけ投与しても、記憶が消えん。それどころか、検査のたびに成績が上がる。研究者どもは狂喜した。『耐性因子の解明こそ本丸だ』とな。少年は毎週、白い部屋に呼ばれ、採血され、投与され、検査された。……あの子は一度も泣かなんだ。一度も、暴れなんだ。ただ、じっとこちらを見ておった。実験する側のわしらを、まるで観察するように。ゼロ、と研究者らは呼んでおった。被験体ゼロ。何をされても、感情の反応がゼロだから、と」

     ひかりが、口元を押さえた。蒼は蒼白で、黒崎は拳を白くなるまで握っていた。

    「二十年前の十月、戸叶ら若手研究員の間で内部告発の動きが出た。同じ頃、灰谷園長がついに全てを知った。栄養剤の正体を。昏睡した十二人の子らが、もう二度と目覚めんことを。……あの男は、十月十日の夜、記録棟に灯油を撒いた。研究記録と、装置と、そして――ベッドの十二人ごと。自分も、子らの真ん中で焼け死んでおったよ。焼け跡のあの男は、十二の棺の方へ、両手を伸ばした形のまま炭になっておった」

     長い沈黙。暖炉の火の爆ぜる音だけが響いた。

    「わしらは金を撒き、圧力をかけ、すべてを『漏電による火災事故』にした。捜査記録は消させた。抗った所轄の刑事は――」

    「神代恭介」

     零の声に、蓮見はゆっくりと頷いた。

    「……剣崎邸で君の姓を聞いた時から、いや、時計塔の記事で君の顔写真を見た時から、恐れておった。目元が、あの刑事にそっくりだ。……そうだ。神代恭介巡査部長。わしは一度だけ会った。事情聴取でな。あの男はわしの目を見て言った。『先生。真実というのは、埋めても死なない。埋めた場所で、根を張るだけです』と。……その通りになった。二十年経って、根は、わしら全員の足元まで届いておったのだ」

    「十三年前のことも、話してもらいます」零は一歩踏み出した。「警察を辞めた後も父は調べ続け、『原本』に手が届く直前に、母と共に殺された。誰の指示ですか」

     蓮見は答えなかった。代わりに、その視線が、ほんの一瞬――部屋の隅の九条誠一郎に、流れた。

     九条の顔から、表情が消えていた。

    「……知らんな」元法務副大臣は言った。「わしは、何も知らん」

     その夜は、それ以上、誰も口を開かなかった。

    十 三人目の死

     翌朝。蓮見喬は、自室のベッドの中で、冷たくなっていた。

     外傷はない。争った痕もない。枕元のサイドテーブルには、飲みかけの水と、彼が常用していた睡眠薬の瓶。第一発見者は朝食を報せに行った管理人の田島夫人だった。扉は施錠されておらず、老鑑定家は眠るような顔で死んでいた。

    「――致死量の睡眠薬。瓶の中の錠剤は本物。でも」

     検案を終えた美玲は、手袋を外して言った。

    「胃の内容物に、カプセルの溶け残りがある。蓮見氏の睡眠薬は錠剤で、カプセル剤は処方されてない。誰かが、致死量の薬物を詰めたカプセルを、何かに紛れて飲ませた。カプセルは溶けるまで三十分から一時間。飲ませた人間には、その場を離れてアリバイを作る余裕がある」

    「昨夜、告白の後だ」黒崎が唸った。「食堂で、管理人が全員に葛湯を出した。年寄り連中は寝酒代わりに薬と一緒に流し込んでた。あの場にいた誰でも、隙はあった」

    「いいえ、クロさん。誰でも、じゃありません」

     零は静かに言った。

    「昨夜の葛湯の盆から、蓮見教授が取った椀。あれは教授が自分で選んだんじゃない。手渡されたんです。僕は見ていました。『先生、熱いのでお気をつけて』と、椀を両手で渡した人がいた。受け取る側は、両手が塞がる。そのわずかな間に、開いたカプセルの中身を椀に落とすことも――いえ、もっと単純に、最初から仕込んだ椀を『その人にだけ』渡すことも出来る」

    「誰だ、渡したのは」

    「九条議員。あなたです」

     食堂が凍りついた。九条は動じなかった。さすがに、修羅場をくぐった数が違う。

    「……ほう。証拠は? わしが椀を渡した。それだけかね、探偵くん。年長者への労りが、殺人の証明になるのか」

    「なりません。だから、こう考えました。カプセルの薬物を、あなたはどこで手に入れたのか。この島に、皆さんは着の身着のままで来たわけじゃない。特にあなたは用心深い。私設秘書として探偵を雇うほどに。……一ノ瀬さん」

     零は玲司を見た。玲司は嘆息し、ジャケットの内ポケットから、証拠品袋に入った小さなガラス瓶を取り出した。

    「依頼人のカバンの中身を検めるのは、秘書の職掌の内でね。……昨夜、告白の後、先生は僕に妙な指示を出した。『明朝、船が出せるようになり次第、わし一人だけ先に本土へ戻る手配をしろ』と。逃げ足の速さが気になって、荷物を検めさせてもらった。出てきたのがこれだ。空のカプセルの殻と、粉末の瓶。ラベルはないが、成分はそこの先生が分析してくれるだろう」

    「な……!」九条が初めて色を失った。「き、貴様、わしの秘書だろうが!」

    「僕の依頼人は九条誠一郎個人であって、九条誠一郎の犯罪ではない。契約書の第七条を読み返すことだ」

     九条は椅子を蹴って立ち上がり――そして、その足が止まった。食堂の入口に、黒崎が立っていた。休暇中の一般人は、もうどこにもいなかった。そこにいるのは、二十年分の警察官の目をした男だった。

    「九条さん。あんた、昨夜の蓮見の告白で、名指しされる寸前だった。十三年前の神代夫妻殺害。指示したのは、あんただな」

    「……弁護士を呼べ」

    「ああ、呼んでやるよ。本土に着いたらな」

     連行されていく途中、九条は零の前で足を止めた。老政治家は、憎悪とも憐憫ともつかない目で、若い探偵を見下ろした。

    「……神代恭介の小僧か。言っておくがな、わしは指示などしとらん。わしがやったのは、二十年前も十三年前も、電話を一本かけただけだ。『困っている』と、な。すると、いつも誰かが、困りごとを消してくれた。それが世の中というものだ。お前の親父は、その仕組みに素手で挑んで、負けた。それだけのことよ」

    「電話の相手は、誰です」

    「知らんね。顔も知らん。ただ――」

     九条は、ふと遠い目をした。

    「十三年前のあの後、一度だけ、向こうから電話が来た。若い男の声だった。こう言いおった。『子どもには手を出していない。今後も出させない。あの子は、俺の獲物でも、あんたの獲物でもない』と。……妙に、忘れられん声でな」

    十一 火を継ぐ者

     その日の午後、風が凪ぎ、海上保安庁の巡視艇と県警のヘリが灰嶺島に到達した。

     九条は逮捕され、御堂は任意同行を求められ、生き残った老人たちの「二十年」は、音を立てて崩れ始めた。蓮見の告白は零のスマホに録音されており、戸叶のUSBと合わせて、灰嶺学園事件――事件番号0の再捜査は、もはや誰にも止められない流れになった。

     だが、零には最後に一つ、確かめねばならないことが残っていた。

     灰嶺荘の裏手、管理人夫婦の住む離れ。零はひかりと二人で、その戸を叩いた。

     田島夫妻は、荷物をまとめていた。逃げる様子はなかった。ただ、火の消えた囲炉裏の前に、古い写真立てが一つ、置かれていた。日に焼けた写真の中で、坊主頭の少年が、笑っていた。

    「……道夫、といいます」

     田島夫人は、静かに言った。

    「わたしらの一人息子です。わたしが病で臥せって、亭主の事業が潰れて、どうにもならなくなった年に、一年だけのつもりで灰嶺学園に預けました。迎えに行くたびに、あの子は少しずつ、わたしらを忘れていった。最後に会った日、あの子は言いました。『おばちゃん、だあれ?』と。……その半年後に、火事の報せが来ました」

     零は黙って聞いていた。

    「五年前です。あの方が、訪ねてこられたのは」

    「あの方?」

    「お名前は知りません。若い、綺麗な目をした方でした。あの方は、全部ご存知でした。道夫に何がされたのか。火事の本当のこと。誰が金を出し、誰が揉み消したのか。……そして言われたのです。『時が来たら、この島の管理人の職を世話する。あとは、あなたたちが決めればいい。復讐の道具も、忘れるための金も、どちらも用意できる。選ぶのは、あなたたちだ』と」

    「……あなたたちは、復讐を選んだ」

    「はい」老女は、まっすぐに零を見た。「灯台の細工も、灘波を崖へ呼び出したのも、わたしらです。指示はありません。道具と、あの人たちの罪状書きが届いただけです。財前の薬のことは知りません。けれど、恨む心は同じです。お縄になるのは、覚悟の上」

     夫人は深々と頭を下げ、それから、ぽつりと言った。

    「探偵さん。最後にあの方は、こうも言いなさった。『いつか、若い探偵が島に来る。その子にだけは、全部話していい。その子には、真実を知る資格がある』と。……あなたのことだったんですねえ」

     離れを出ると、冬の陽が海に落ちかけていた。

     断崖の上、黒耀灯台の根元に、人影が一つ、立っていた。

     黒いフードつきのコート。小柄な、女の影。足元に、片羽の傷ついた鴉が一羽、ちょこんと蹲っている。

    「――やあ。初めまして、になるのかな」

     女はフードを外した。二十代後半。化粧気のない白い顔に、左の首筋の古い火傷痕。その目は、泣いたあとのように赤く、しかし笑っていた。

    「情報屋のカラス。……いや、今日は本名で名乗ろうか。灰谷灯(はいたに・あかり)。二十年前にあの学園で生き残った、二人のうちの一人。放火犯の、娘だよ」

     零は息を呑んだ。ひかりが零の袖を、ぎゅっと掴んだ。

    「あなたが、カラス。……剣崎の事件の夜から、僕を導いていた」

    「導いた、なんて上等なもんじゃない。賭けてたんだ、君に」灯は海を見た。「二十年前、燃える学園からあたしを背負って逃げてくれた人がいる。十四歳の、兄ちゃんみたいな人だった。被験体番号A-00。名前は――橘怜(たちばな・れい)。……偶然だね。君と同じ音の名前だ」

     零の心臓が、一つ、大きく鳴った。

    「あたしたち二人は、施設の出資者の目を逃れて、散り散りに保護された。あたしを匿ってくれたのが、当時の所轄の若い刑事さん。……神代恭介さん。君のお父さんだよ、零くん」

     夕陽が、灯の火傷痕を照らした。

    「恭介さんは左遷されても、辞めさせられても、あたしたち生き残りのことを気にかけ続けてくれた。あたしはあの人を、本当の父より父だと思ってた。……十三年前、あの人が殺された時、あたしは十五だった。何もできなかった。だから決めたんだ。情報屋になって、金と情報を集めて、いつか事件番号0を、あの人の代わりに暴いてやるって」

    「橘怜は――A-00は、どうなったんです」

     灯の顔から、笑みが消えた。

    「……怜にいは、変わってしまった。いや、たぶん、あの白い部屋で、とっくに壊されてたんだ。あたしが気づかなかっただけで。あの人はあたしと違う道を選んだ。名前を変え、顔を作り、経歴を買って、二十年かけて『彼ら』の世界の内側に入り込んだ。そして、狩りを始めた。直接は殺さない。真実を撒く。憎悪に道具を与える。罪に鏡を突きつける。そうやって、標的が標的自身の罪に食い殺されるのを、じっと観察してる。……まるで、白い部屋で自分を観察した大人たちへの、意趣返しみたいに」

    「N……ゼロ・ゴースト」

    「警察の一部で、そう呼ばれ始めてるらしいね。実体のない、ゼロの幽霊。……零くん。あたしが今日、顔を晒したのは、頼みがあるからだ」

     灰谷灯は、零に向き直った。その目は、情報屋のものでも、生存者のものでもなく、ただ、兄を案じる妹のものだった。

    「怜にいを、止めてほしい。殺してでも止めろ、なんて言わない。あの人を、間違いだと証明できる人間は、たぶん世界に君しかいないんだ」

    「なぜ、僕なんですか」

    「――十三年前の夜、君の家にいち早く駆けつけて、実行犯からたった一人で君を守ったのが、怜にいだからだよ」

     世界から、音が消えた。

    「そして君の記憶を消したのも、怜にいだ。……R-0。あの薬で」

     波の音が、遠くで崩れた。零の頭の奥で、何かが軋んだ。赤い扉。畳の冷たさ。誰かの背中。低い声。――忘れろ。それが、いちばん、優しい。

    「怜にいは今、東京にいる。名前も教える。でもね、零くん。会いに行く前に、覚悟して。あの人は君にとって、親の仇の手先を追い払った恩人で、親の記憶を奪った加害者で――そして、たぶん」

     灯は、泣き笑いのような顔で言った。

    「この二十年間、世界でいちばん長く、君を見守ってきた人だ」


    幕間 三

     東京。年の瀬の雑踏。

     大型ビジョンが、ニュース速報を流していた。《元法務副大臣・九条誠一郎容疑者を逮捕》《二十年前の「灰嶺学園火災」再捜査へ》《製薬大手・御堂製薬に強制捜査》。行き交う人々が、足を止めて画面を見上げる。

     その雑踏の中に、男は立っていた。

     如月透。フリージャーナリスト。今や「灰嶺学園事件を最初期から追っていた記者」として、テレビ局が奪い合う男。

     男は画面を見上げ、それから、手の中のスマホに目を落とした。画面には、一件の検索結果。《神代探偵事務所》の小さな地図。

    「……ここまでは、予定通りだ。零」

     男は呟いた。

    「六人は罪に食われた。世間は真実に沸いている。だが、まだ最後の問いが残っている。――真実は、お前を幸せにしたか? 父の死の真相を知り、母の死の意味を知り、これから自分の記憶を掘り返そうとしているお前は、あの何も知らずに雲を見上げていた五歳のお前より、幸せになったのか?」

     スマホの画面が消え、黒い鏡になって、男の顔を映した。

    「答え合わせをしよう。……二十年分の、答え合わせを」

     雑踏の中、男はゆっくりと歩き出した。その足取りは、獲物に向かう獣のようでもあり――ようやく家路につく、迷子のようでもあった。

     ――その足が向かった先は、しかし、神保町ではなかった。

     府中。冬枯れの霊園。

     男は、花も線香も持たずに、一つの墓の前に立った。《神代家之墓》。墓石は綺麗に磨かれ、花立てには、数日と経っていない白い菊が挿してあった。誰が通っているのかは、調べるまでもない。焼き鳥の匂いのする、あの不器用な刑事だろう。十三年間。

     男は、長いこと、黙って立っていた。

     やがて、コートの内から手帳を取り出した。あの手帳だ。観測記録。その最後の方の、まだ白いページを開き、ペンを走らせる。書き終えると、男は初めて、墓石に向かって口を開いた。

    「――報告します。神代さん」

     声は、記者・如月透のものではなかった。もっと硬く、もっと若い。二十年前、調書を取られることのなかった少年の声の、成れの果てだった。

    「六人のうち、二人が死にました。残り四人は、順に法廷へ運ばれています。あなたが二十年前に立てようとした事件は、今、番号を与えられようとしています。……随分、時間がかかりました。あなたのやり方では届かなかったので、私のやり方でやりました。あなたは、怒るでしょうね」

     風が、枯れた枝を鳴らした。

    「あの夜のことを、詫びには来ません。詫びて済む種類のことではないし、済ませる気も、ありません。ただ、一つだけ、報告しなければならないことがある。……零くんは、探偵になりました。あなたの机の前で膝を抱えていた、あの子がです。それも、腹の立つくらい、まっすぐな探偵に」

     男は手帳を閉じ、墓石の一点――「神代」の彫りの窪みを、指の背で、そっと拭った。

    「もうすぐ、あの子が私を捕まえに来ます。私はそれを、二十年、待っていた気がします。……変でしょう。盤面を作った側が、詰まされるのを待っているんですから」

     男は踵を返した。数歩行って、立ち止まり、振り返らずに言った。

    「墓参りは、これで最後です。次に此処へ来る時は――手錠の、外れた後で」

     冬の陽が傾き、男の影が、墓地の白い道に、長く長く伸びていた。

     雑踏を抜けた男は、電車を乗り継ぎ、府中の霊園に来た。

     冬枯れの並木を、記憶を頼りに歩く。十三年前に一度、遠くから見ただけの区画。《神代家之墓》。墓石は綺麗に洗われ、供花は新しかった。孫を連れた古書店主が、月に一度、欠かさず来ていることを、男は知っている。

     男は、花を持っていなかった。線香もない。手を合わせることも、しなかった。合わせる資格の勘定を、この男ほど正確にやれる人間はいなかったから。

     ただ、立っていた。

    「――神代さん」

     男は、墓石に向かって、低く言った。

    「あなたは最後の夜、私に言いましたね。『君は被害者だ。証言台に立て。名前を取り戻せ』と。……私は、逆にしました。名前を捨てて、観測者になった。あなたが遺した原本を、あなたの息子が見つけ出せるかどうか。真実が人を救うというあなたの信念が正しいのかどうか。二十年かけて、検証することにした」

     風が、並木を鳴らした。

    「検証は、最終段階です。あなたの息子は、よく育った。あなたに似て、妙なものばかり見つける。あなたと違って、隣に人がいる。……もうすぐ、答えが出ます。もし私の仮説が棄却されたら――そのときは」

     男はそこで、言葉を切った。この先の一文だけは、二十年間、どの帳面にも書いたことがなかった。観測記録に、観測者の願望を書き込むわけにはいかないからだ。

     男は一礼もせず、踵を返した。

     並木の出口で一度だけ振り返り、囁くように付け加えた。

    「……墓前ですので、一つだけ、私情を。あなたの息子の淹れる番茶は、あなたが拘置所の面会室で私に差し入れようとした缶コーヒーと、同じ温度がします」

     誰にも観測されない声だった。


    第四部 事件番号0

    一 記者

     年が明けた。

     世間は「灰嶺学園事件」一色だった。二十年前に揉み消された孤児たちの人体実験。政財界の大物たちの連続死と逮捕。ワイドショーは連日、灰嶺島の黒い灯台を映し、コメンテーターが「戦後最大級の疑獄」と繰り返した。九条誠一郎は殺人と証拠隠滅教唆で起訴。御堂剛三は入院先で任意聴取が続き、御堂製薬の株価は底が抜けた。

     そして、この報道の中心に、一人の記者がいた。

     如月透。三十四歳。フリージャーナリスト。五年前から灰嶺学園の火災に疑問を持ち、独自に調査を続けていた男――として、彼は一躍、時の人となった。的確で、深く、誰よりも早い記事。誠実な物腰。テレビ局が奪い合う「事件の第一人者」。

     一月七日の昼下がり。その男が、神保町の探偵事務所の扉を、叩いた。

    「――初めまして。神代零さん。如月透といいます。取材を、お願いできませんか」

     零は、扉口に立つ男を見た。

     長身。仕立てのいいコート。柔らかい笑み。名刺を差し出す手は、綺麗な左手だった。

     灰谷灯から聞いていた名前が、頭の中で鳴っていた。――怜にいは今、「如月透」と名乗ってる。でも零くん、証拠は何もない。経歴は完璧。指紋も歯科記録も「如月透」のものが揃ってる。二十年前のあの人に繋がる物証は、この世のどこにもないんだ。

    「……どうぞ。散らかっていますが」

     零は男を招き入れた。ひかりが、零にしか分からない硬さで茶を淹れる。彼女にも、灯の話は伝えてあった。

     取材は、一時間に及んだ。如月の質問は的確だった。剣崎邸の密室。灰嶺島の三つの死。質問の合間に挟まれる相槌は温かく、記事の構成は誠実で、録音の許可の取り方まで折り目正しかった。完璧な記者だった。完璧、すぎた。

    「――最後に、一つだけ」

     ノートを閉じた如月が、ふと、声の調子を変えた。

    「神代さん。あなたは一連の事件で、お父上の死の真相に辿り着いた。二十年前の巨悪を暴く、その糸口を開いた。……率直に伺います。真相を知って、あなたは今、幸せですか?」

     部屋の空気が、一度だけ、細く張り詰めた。

     零は男の目を見た。柔らかい笑みの奥。観察する目が、そこにあった。白い部屋で大人たちを観察し続けたという、少年の目が。

    「……妙な質問をしますね。記事に使うんですか」

    「いえ。個人的な興味です。私はね、神代さん。長くこの仕事をやって、一つの仮説を持つに至ったんです。真実は、人を幸せにするとは限らない。むしろ多くの場合、人は真実に殺される。剣崎氏を殺したのは秘書の刃ですが、秘書を動かしたのは『横領の発覚』という真実だ。九条を破滅させたのも、灘波を崖に立たせたのも、真実だ。……真実とは、この世で最も殺傷力の高い凶器なのではないか、と」

    「面白い仮説です」零は静かに応えた。「でも、一箇所だけ間違っている」

    「ほう。どこです」

    「凶器は、人を選ばない。でも真実は違う。真実に殺されるのは、真実を埋めた人間だけです。剣崎も、九条も、灘波も、殺されたのは真実にじゃない。自分が埋めたものに、足を取られただけだ。……如月さん。埋めなかった人間にとって、真実はただの地面ですよ。その上にしか、立てない場所だ」

     如月透は、瞬きを一つ、した。

     それから、実に感じよく笑って、立ち上がった。

    「――いい答えだ。記事の締めに使わせてもらうかもしれません。それでは」

     扉が閉まる。足音が階段を降りていく。

     ひかりが、詰めていた息を、長く長く吐いた。

    「……ゼロ。あの人、なんだよね。……怖かった。何がって、全然、怖くなかったのが怖かった。優しい、いい人にしか見えなかった。あたしの目、あの人にだけ、ぜんぜん効かなかった」

    「ああ」零は窓から、雑踏に消えていく背中を見下ろした。「あの人はたぶん、二十年間、『感じのいい人間』を演じてきたんじゃない。演じることそのものとして、生きてきたんだ。……ヒカ。今の会話、録れてるか」

    「ばっちり。でも、変なことなんて何も」

    「一つだけ言った。彼は『秘書の刃』と言った。剣崎を刺した凶器がペーパーナイフだったことは、報道されていない。捜査資料の中だけの情報だ」

     零は、机の上の古いカードを手に取った。カラス、と署名された最初のカード。

    「――尻尾は、掴ませてもらう。あなたが二十年かけて消した尻尾を」

    二 ゼロの発見

    「理屈の上では、あり得るわ」

     数日後。監察医務院の一室で、美玲は零のカルテ――十三年前の、五歳の神代零の診療記録の写しを机に広げた。灯が「情報屋の伝手」で入手してきたものだ。

    「当時の診断は『心因性の全生活史健忘に近い状態』。でもね、記録をよく読むと変なの。心因性健忘なら普通、手続き記憶や一般知識は保たれて、エピソード記憶が飛ぶ。零くんの場合もそう。でも一点だけ逸脱がある。発症直後の血液検査で、原因不明の代謝物が検出されて、「解析不能」で処理されてる。心のショックは、血液に代謝物を残さないのよ」

    「R-0の痕跡、ってこと?」と蒼。

    「断定はできない。ただ、もしR-0による薬理性の記憶障害なら、心因性より『戻る』可能性がある。戸叶のデータにあったでしょう。R-0は記憶を『消す』んじゃなく、記憶への『経路を封鎖する』薬だって。封鎖なら、迂回路が開くことがある。強い手がかり刺激――当時と同じ場所、同じ匂い、同じ声。それらが揃えば」

    「……戻るんですね。十三年前の夜が」

    「戻るかもしれない。でも零くん」美玲は、いつになく真剣な目をした。「忠告しておく。封鎖された記憶っていうのは、堤防の内側の水と同じ。一気に決壊したら、心が呑まれる。思い出すなら、一人では駄目。絶対に」

     一月九日。零は、生まれた家の跡地に立った。

     葛飾区の外れ。両親と暮らした借家は十年前に取り壊され、今は月極駐車場になっている。冬の夕暮れ。同行したのは、ひかりと、黒崎と――灰谷灯だった。

    「……この角に、玄関があった」

     灯が、静かに言った。

    「あたし、三回だけ来たことがある。恭介さんが、ご飯を食べさせてくれた。志穂さんの肉じゃが、おいしかったな。君はまだ、よちよち歩きでさ。あたしの膝の上で寝ちゃって」

     零は目を閉じた。

     冬の空気。夕餉の匂いをどこかの家から運んでくる風。遠くの踏切の音。

     ――何も、浮かばない。十三年間そうだったように、頭の中の五歳より前は、白い霧だ。

    「駄目か」黒崎が呟いた、その時。

    「……歌って」

     零が言った。自分でも、なぜその言葉が出たのか分からなかった。

    「灯さん。あの頃、何か……歌が。誰かが、歌を」

     灯は、はっとした顔をした。それから、震える息を一つ吸い、小さな声で歌い始めた。古い、素朴な子守唄だった。灰嶺学園で、園長が子どもたちに歌っていた唄。灯が神代家に来た夜、幼い零をあやすために歌った唄。

     ――ゆき、や、こんこ。

     その旋律が、三小節目に差しかかった時。

     零の中で、堤防が、決壊した。

     ◇

     ――赤い扉だ。

     夕陽が当たって赤く見える、うちの玄関の、緑色の扉。ぼくはその内側の廊下で、父さんの帰りを待っている。五歳のぼく。畳の冷たさ。母さんが台所で、とん、とん、と葱を刻む音。

     父さんが帰ってくる。今日の父さんは、変だ。嬉しくて、怖い顔をしている。

    「零。見ろ。父さんな、宝物を見つけたんだ」

     父さんは、鞄から古い茶封筒を出して、ぼくに見せる。中を見せてはくれない。代わりに、一冊の小さな本を出す。表紙に、まるが書いてある本。

    「『ゼロのはっけん』。……お前の名前はな、零。この本から取ったんだぞ」

    「ぜろって、なんにもない、ってことでしょ。やだよ、ぼく、なんにもないの」

     父さんは笑う。大きな手が、ぼくの頭に乗る。

    「ちがうぞ。いいか、零。ゼロはな、『何もない』を、初めて数えられるようにした発明なんだ。ゼロが見つかるまで、人間は『ない』ものを書けなかった。ゼロがあるから、消されたものも、隠されたものも、『ここに、ないぞ』って指させるようになった。……父さんの仕事もな、それと同じだ。消されたものを、指さす仕事だ」

     父さんは、茶封筒と本を重ねて、鞄に戻す。

    「零、よく見ろ。答えはいつも、最初からそこにあるんだ。隠すやつは、遠くには隠せない。一番いい隠し場所はな――」

     玄関の呼び鈴が、鳴る。

     ◇

     夜。ぼくは、押し入れの中にいる。

     母さんが、ぼくを押し込んだのだ。「静かにしてるのよ。母さんの、宝物だから」って。襖の隙間から、居間が見える。

     知らない男がいる。大きな男。首が太くて、目が死んでいる。男は父さんに、静かな声で何かを言っている。封筒を出せ。原本はどこだ。

     父さんは笑っている。怖いのに、笑っている。

    「あんたの雇い主に伝えろ。原本はもう、俺の手元にはない。誰にも見つからない場所で、時を待ってる。俺を消しても、あれは消えん」

     男の腕が、動く。

     母さんの悲鳴。倒れる音。ぼくは、声が出ない。襖の隙間の世界が、赤い。

     男が、押し入れの方を、見る。

     足音が、近づいてくる。襖に、大きな手が、かかる――

     その時、玄関の緑の扉が、蹴破られた。

     若い男が、飛び込んでくる。細くて、背が高くて、目が凍っている男の人。首の太い男と、揉み合う。若い男は、強い。だけど無茶苦茶だ。自分が切られるのも構わずに、組みつく。首の太い男が舌打ちして、窓から逃げていく。

     若い男の人が、押し入れを開ける。

     血だらけの手が、ぼくに伸びて――ぼくを抱き上げるんじゃなく、ぼくの目を、そっと、塞ぐ。

    「……見るな」

     低い声。凍った目なのに、声だけが、あったかい。

    「もう、見るな。……くそ。遅かった。俺は、また、遅かった……」

     男の人は、ぼくを抱えたまま、長いこと動かなかった。震えていた。泣いていたのかもしれない。それから、小さな瓶と、注射器を出した。

    「痛くない。……いいか、坊主。忘れろ。今夜のことも、父さんの顔も、全部だ。恨むなら俺を恨め。だが、忘れろ。真実ってやつはな――」

     腕に、ちくりと、蜂が刺したみたいな痛み。

     世界の輪郭が、砂糖みたいに、溶けていく。溶けていく世界の最後に、男の人の声だけが、残る。

    「――真実ってやつは、な、坊主。人を、幸せにしないんだ。……せめて、お前だけは」

     ◇

     零は、駐車場のアスファルトに、膝をついていた。

     ひかりが背中をさすっている。黒崎が肩を掴んでいる。灯が、両手で口を覆って泣いている。冬の月が出ていた。頬が濡れていることに、零は遅れて気づいた。十三年分の涙は、思っていたより、静かだった。

    「……思い出した」

     零は、掠れた声で言った。

    「全部。父さんの顔。母さんの、葱を刻む音。……それから、隠し場所も」

    「原本のか!?」黒崎が息を呑む。

    「父さんは言ったんです。『一番いい隠し場所は』――そこで呼び鈴が鳴って、続きは聞けなかった。でも、もう分かる。父さんはあの日、原本と一緒に、一冊の本を鞄に入れていた。あの本ごと、隠したんだ。本を隠すのに、世界で一番いい場所に」

     零は立ち上がり、夜空の下、はっきりと言った。

    「――本屋です。何万冊の背表紙の中。神代書房。僕は十三年間、毎日、その上で暮らしてた。……答えは、最初から、そこにあったんだ」

    三 最初からそこにあった

     深夜の神代書房に、灯りがともった。

     零、ひかり、蒼、黒崎、灯。そして、寝間着の上に褞袍を羽織った祖父・宗佑。六人は、書架の海の前に立った。歴史書と探偵小説、およそ四万冊。

    「……恭介の、馬鹿たれが」

     事情を聞いた祖父は、しばらく天井を仰いでいた。

    「十三年前のあの月、あいつは久しぶりにふらりと店に来てな。『親父、段ボール三箱、買い取ってくれ』と古本を置いていきおった。引っ越しの整理だ、と言うてな。……わしはあの日、倅の顔を見た最後の日に、古本の買い取り伝票を切ったんだ」

    「三箱の中身は、覚えてる?」

    「阿呆。四万冊の店だぞ。とうに棚に散った。……だがな、零。買い取り台帳なら、ある。この店は開闢以来、一冊も欠かさず台帳をつけとる」

    「創業以来、でしょ祖父ちゃん。……台帳を」

     黄ばんだ大学ノートの、十三年前の十月のページ。祖父の几帳面な字で、買い取りの明細が並んでいた。神代恭介、持ち込み点数八十七点。歴史、法律、警察実務、囲碁、そして――

    「あった」

     零の指が、一行で止まった。

    『吉田洋一『零の発見――数学の生い立ち』岩波新書 昭和十四年初版 ※状態難・書き込み多につき値付け不可、棚ざらし』

    「値付け不可の棚ざらし本は、どこへ行く」

    「二階の階段下の、死に筋の箱だ。売れんが捨てられん本の墓場よ」

     全員で階段下の箱をひっくり返した。埃と黴の匂いの中、蒼が「これだ!」と声を上げた。

     小豆色の、古い岩波新書。『零の発見』。表紙は染みだらけで、背は割れかけている。零は、震えそうになる指で、それを開いた。

     ――本文の余白という余白に、父の字があった。

     几帳面で、癖のある右上がり。数学の本の余白を埋め尽くしているのは、数式ではなく、捜査メモだった。日付、人名、金の流れ、灰嶺会の構成、R-0、被験児のイニシャル。そして見返しの遊び紙に、大きく。

    『この本を手に取った者へ。
     巻末の袋綴じを見よ。
     これは俺の遺言であり、十二人の子どもらの墓標であり、
     生き残った二人の、未来のための保険である。
                   元長野県警灰嶺署 神代恭介』

     巻末。数ページ分の袋綴じ加工。刃を入れると、中から、薄い油紙の包みが滑り出た。

     マイクロフィルムが二巻。そして、折り畳まれた手書きの覚書。

    「……これが」灯の声が、掠れた。「これが、原本……」

     翌日、警視庁の科学捜査研究所でフィルムは現像された。内容は、戸叶のUSBの比ではなかった。R-0の治験計画書の完全版。六人の出資者の署名が並ぶ「灰嶺プロジェクト覚書」の写し。資金移動の記録。園長の日記の複写。被験児十四人の、写真つきの完全な個人記録。昏睡した十二人が、その後どこの病院へ移され、いつ、どのように「病死」として処理されたかの一覧。――灘波総合病院の名が、そこにあった。

     そして。

    「……零くん。これ」

     資料をめくっていた美玲が、手を止めた。

     被験児記録の最後の一枚。《A-00 橘怜 十四歳》。痩せた少年の、正面写真。凍った目が、レンズを見ている。二十年後の、あの記者と同じ目が。

     その記録の隅に、赤鉛筆で、恭介の字が書き込まれていた。

    『この子を探せ。生きているなら、この子が最大の証人であり、最大の被害者だ。
     ――そして、間に合うなら。誰か、この子に教えてやってくれ。
     お前のせいじゃない、と』

     零は、長いこと、その一行を見つめていた。

     ――発見の翌朝。

     零は、原本の写しを警視庁に届ける黒崎を見送ったあと、店番をする祖父の隣に、黙って座った。開店前の神代書房は、紙とインクと、微かな黴の匂いがした。零が物心ついてから、世界で一番古くからある匂いだった。

    「……零」

     祖父は、帳場の急須に湯を注ぎながら、前を向いたまま言った。

    「わしはな、十三年間、お前に謝らねばならんことが、二つあった」

    「二つ?」

    「一つは、恭介の仕事のことを、黙っとったこと。あれが刑事だったこと。何を追うて、何に殺されたか。……お前の記憶が消えとると医者に聞かされた時、わしは正直、ほっとしてしもうたんだ。五つの子に、あの晩の記憶は重すぎる。神様のなさることにしては上出来だと、そう思うことにした。思うことにして、十三年、蓋をした」

     湯呑みが、零の前に置かれた。番茶の湯気が、細く立ちのぼった。

    「もう一つは?」

    「……もう一つはな。お前が探偵になると言い出した時、止めなんだことだ」

     祖父は、そこで初めて零を見た。老眼鏡の奥の目が、笑っているような、泣いているような、複雑な形になった。

    「本当なら、全力で止めるべきだった。倅を殺した世界に、孫まで歩いて入っていくんだぞ。じじいとして、正気の沙汰じゃない。……だがな、零。お前が時計塔の一件を解いて帰ってきた晩の顔を、わしは見てしもうた。あれは恭介の顔だった。腹の立つくらい、そっくりだった。ああ、血だなあ、と思ってな。血が答えを探しに行くというなら、じじいに止められるわけがない、と」

     零は、湯呑みを両手で包んだ。熱が、掌にゆっくり移ってきた。

    「……祖父ちゃん。僕、覚えてないんだ。父さんの声も、母さんの顔も、ほんとうは、写真の記憶しかない。この前、思い出したのは、最後の夜のことだけで。……それでも僕、二人の子どもなのかな」

     我ながら、子どもみたいな質問だと思った。祖父は、笑わなかった。代わりに、帳場の下から古い菓子箱を出した。中には、色褪せた写真の束。

    「見てみい。恭介が五つの時の写真だ」

     白黒に近い、古い写真。書店の前で、坊主頭の男の子が、仏頂面で立っている。手には、体に不釣り合いな大きさの本。

    「こいつはな、字が読めるようになってから、寝る時も本を離さん子でな。飯の時に本を読むなと母さんに叱られて、ならばと辞書を丸暗記して食卓で暗唱しおった。可愛げのない餓鬼よ。……零。お前が三つの時、恭介が電話で何と自慢したと思う。『親父、うちの零は、飯の時に本を読むなと叱ったら、本に飯を食わせようとした』とな。わしは受話器の前で、腹を抱えて笑うた」

     零は、写真の中の、父である男の子を見た。記憶は、ない。それでも、胸の奥のどこかが、確かに温かかった。記憶と、繋がりは、別のものなのかもしれなかった。薬で消せるのは、たぶん、前者だけだ。

    「……なあ、零。一つだけ、じじいの願いを聞け」

    「なに」

    「墓参りに行け。今日。原本のことを、恭介と志穂さんに、お前の口から報告してこい。十三年かかった宿題が終わりました、とな。……本当はわしも行きたいが、今日は店を開ける。木曜はな、必ず文庫の棚だけ見て帰る婆さんの客が来る。四十年来のお得意さんだ。休むわけにはいかん」

     零は、少し笑って、頷いた。この店が十三年、一日も欠かさず開き続けたことの意味が、今は少しだけ分かる気がした。世界のどこかが毎日ちゃんと開いていることが、子どもだった自分を、どれだけ支えていたか。

     ――昼過ぎ、零はひかりと二人で、府中の霊園にいた。

     神代家の墓は、よく手入れされていた。祖父が月命日を欠かさないからだ。零も年に数回は来ていた。ただ、これまでの墓参りと今日とでは、決定的に違うことが一つあった。今日の零は、ここに眠る二人が、どんなふうに生きて、何を守ろうとして、どう死んだのかを、知っている。

     線香に火をつけ、手を合わせた。

     報告は、長くなった。声には出さなかったが、胸の中で、順番に話した。時計塔のこと。赤い招待状のこと。島のこと。白い部屋のこと。原本を見つけたこと。袋綴じの遺言を読んだこと。それから――橘怜のこと。

     父さん。あの人を探せって、書いてたよね。生きているなら最大の証人で、最大の被害者だって。……見つけたよ。父さんの言った通りだった。両方だった。それから、父さんの頼んだ伝言、あれは僕が、直接言いに行く。「お前のせいじゃない」って。ちゃんと、本人に。

     風が、霊園の桜の枯れ枝を鳴らした。

     目を開けると、隣で手を合わせていたひかりが、先にこちらを見ていた。

    「……長い報告だったね」

    「十三年分だから」

    「うん。……ね、零。あたしも一個だけ、報告していい? おじさんとおばさんに」

     ひかりは、墓石に向き直って、ぺこりと頭を下げた。

    「――零くんは、ちゃんと、まっすぐ育ちました。ご飯も食べるし、夜も寝るし、たまに無茶するけど、そういう時はあたしと蒼が止めてます。だから、安心してください。……以上、幼なじみからの、定期報告でした」

     零は、噴き出した。墓の前で笑うのは不謹慎かと一瞬思ったが、すぐに思い直した。父さんなら、たぶん、一緒に笑う。飯の時に辞書を暗唱していた男の子なら、絶対に。

     帰り道、霊園の坂を下りながら、ひかりがぽつりと言った。

    「……原本、これからどうするの。あの中身、全部を表に出したら、灯さんのことも、製法のことも」

    「うん。……それを、これからみんなで決める。僕一人で決めていいことじゃない」

    「Nに会いに行くのも?」

    「それは」零は、少しだけ間を置いた。「それは、僕が決めた。僕が行かなきゃいけない。……でも、心配しないで。無茶を止める係が二人いるって、さっき墓前で正式に報告されたから」

    「あ、ずるい。そういうふうに使う?」

     冬の午後の光の中を、二人は駅へ歩いた。ポケットの中で、灯にもらったビスケットの袋が、乾いた音を立てた。宿題は、まだ終わっていない。だが、終わらせ方だけは、もう決まっていた。

    四 鴉の巣

     原本の発見から三日後、零は一人で、灯の店を訪ねた。

     場所は谷中。墓地に近い路地の奥の、看板のない古い二階家。一階が「店」だ。何の店かと訊かれれば、灯は「よろず相談」と答える。骨董とも古物ともつかない品が棚に並び、カウンターの奥の止まり木に、片羽の鴉が一羽。

    「……一人で来たのか。命知らずだな、探偵」

     灯は、カウンターの中で湯呑みを磨きながら、目も上げずに言った。

    「情報屋の店に一人で来る客は、二種類だけだ。よほどの馬鹿か、よほどの用がある奴。どっちだ」

    「両方かもしれない」

     零はカウンターの椅子に座った。鴉が、首を傾げてこちらを見た。近くで見ると、右の翼が付け根から不自然に畳まれている。古い傷だ。

    「原本を、見つけた」

     磨く手が、止まった。

    「……そうか」

    「読んだ。全部。二十年前に何があったか。十四人の子どもに何をしたか。……A-07の欄も、読んだ」

     灯は湯呑みを置いた。それから、観念したように、カウンターの中の丸椅子に腰を下ろした。店の奥の暗がりで、古い柱時計が、こち、こち、と鳴っていた。

    「言っとくけどな。同情なら要らないぞ。あたしは自分の過去と、とっくに手打ちを済ませてる」

    「同情しに来たんじゃない。……教えてほしいことがあって来た。原本にも書いてないこと。あなたにしか、訊けないこと」

    「……何だ」

    「橘怜は、どんな子どもだった?」

     灯は、虚を突かれた顔をした。

     Nの現在の顔でも、居場所でも、次の手でもなく――子ども時代。長い沈黙のあと、情報屋は、ふ、と息だけで笑った。

    「……変な探偵だな、ほんとに。……そうだな。れいにいは」

     灯は、止まり木の鴉に目をやった。

    「静かな子だった。施設の他の子が騒いでも泣いても、一人だけ、台風の目みたいに静かだった。大人はそれを『薬のせいで感情がない』って言ってた。でも違う。あたしは知ってる。感情がない奴が、換気口から押し込まれた割れたビスケットを、欠片も残さず食べるもんか。感情がない奴が、あたしが転んで泣いてる時に、ガラスの向こうで、ずっと――ずっと、拳を握ってるもんか」

     こち、こち、と柱時計。

    「れいにいはな、探偵さん。感情がないんじゃない。感情の置き場所を、大人に全部取り上げられたんだ。泣いても無駄、怒っても無駄、怖がってもデータにされるだけ。だったら置き場所ごと捨てちまえって、十四歳の子どもが自分で決めた。……決めさせられた」

    「――あの夜のことも、訊いていい?」

    「火事の夜か」

     灯は、自分の首筋の、襟に隠れた火傷の痕に、無意識に指で触れた。

    「あたしは八つだった。夜中に父さんに起こされて、外に出されて。……父さんはあたしに『先に行きなさい、みんなを起こしてくる』って言った。あたしは信じた。八つだからな。……次にれいにいの部屋の前を通ったら、鍵が開いてて、れいにいが立ってた。あたしの手を引いて、走った。山道を。背負われて。振り返ったら、山が全部、オレンジ色だった」

     声は、乾いていた。二十年かけて、乾かした声だった。

    「麓の神社の軒下で、朝まで二人でいた。れいにいは一言も喋らなかった。あたしはずっと泣いてた。夜明け前に、れいにいが一回だけ口をきいた。何て言ったと思う?」

     零は、首を振った。

    「『寒くないか』だ。……世界で一番信じてた父親に世界ごと燃やされた夜に、あの人が心配したのは、あたしの体温だったんだよ」

     灯は、立ち上がって、鴉の羽を指先で撫でた。鴉は嫌がらなかった。

    「そのあと、大人が来て、あたしたちは引き離された。あたしは母方の遠縁に。れいにいは……書類の上では『保護後、親族に引き渡し』。嘘っぱちだ。橘怜に親族なんかいない。御堂の息のかかった連中が、成功例のデータごと、どこかに囲ったんだ。次にれいにいの気配を見つけるまで、あたしは十年かかった。情報屋になったのは、そのためだ。この稼業なら、消された人間の足跡を、合法非合法の境目で追える」

    「……見つけて、会ったのか」

    「会えるもんか」

     灯は、笑った。泣き笑いに近い形だった。

    「あの人はもう、橘怜じゃなかった。名前を三つ乗り換えて、顔つきまで変えて、世界を盤にしたゲームの真ん中にいた。あたしに気づいてたと思うよ、とっくに。でも接触してこなかった。……一度だけ、この店に、差出人のない荷物が届いた。中身は、こいつだ」

     灯は、鴉を顎で示した。

    「密猟者の罠で羽をやられた雛。添えられてたカードには一言、『飛べないなら、歩かせろ』。……ふざけた男だろ。二十年ぶりの音信が、それだ。でもあたしには分かった。これは、れいにい流の、生存報告で――あたしへの、忠告だ。『お前はもう飛ぶな。地面で生きろ。こっちに来るな』って」

    「……でもあなたは、来た。僕のところに。怜を止めてくれと言いに」

    「ああ」

     灯は、まっすぐに零を見た。

    「地面で生きろって言うなら、そっちも地面に降りてこいって話だ。……なあ、探偵。あたしはあの人に、恩がある。命の恩だ。でも恩と同じだけ、腹が立ってる。二十年だぞ。二十年、独りで、ガラスの向こう側にいやがる。誰にも報告しない観測なんか、独房と同じだ。あの人は白い部屋を出てから二十年、もっとでかい白い部屋を、自分で建てて住んでるんだ」

     その言葉は、零の胸の深いところに、まっすぐ刺さった。

     白い部屋を、自分で建てて住む。記憶を消された自分と、記憶を消されなかった橘怜。二十年後、片方は神保町の二階で仲間と番茶を飲み、片方は名前のない部屋で一人、手帳に数字を書いている。その差を分けたものは、何だったのか。

     ――たぶん、と零は思う。父さんと、母さんと、じいちゃんと、ヒカと、蒼と。名前を呼んでくれる人が、僕の側には、いた。それだけだ。それだけのことが、すべてだった。

    「……灯さん。一つ、約束する」

     零は立ち上がった。

    「僕は怜さんを、論破しに行くんじゃない。逮捕させるために行くのでもない。……報告を聞きに行く。二十年分の観測記録の、報告を。誰かが聞かなきゃ、あの人の二十年は、本当に独房になる」

     灯は、しばらく零の顔を見ていた。それから、ぷいと横を向いて、カウンターの下から小さな紙袋を出し、押し付けるように寄越した。

    「……ビスケットだ。割れてるやつな。それがうちの流儀だ。……行け。閉店だ」

     店を出ると、谷中の路地に、冬の夕暮れが降りていた。紙袋の中で、ビスケットが乾いた音を立てた。振り返ると、看板のない店の二階の窓に、灯りがともるところだった。

     消された子どもが二人。一人は情報屋になり、一人は幽霊になった。そして三人目は――探偵になった。三人の間に横たわる二十年に、答えを返せるのは、たぶん、三人目の仕事だった。

    五 ゼロ・ゴースト

    「――さて、諸君。ここからは詰め将棋だ」

     一月八日の夜。事務所に、異例の顔ぶれが揃った。零、ひかり、蒼、黒崎、美玲、灯。そして、腕組みして窓際に立つ、一ノ瀬玲司。

    「言っておくが、僕は暇じゃない」玲司は言った。「ただ、九条の公判で僕の証言が要る。その打ち合わせのついでだ。ついで、だからな」

    「はいはい、ツンデレ乙」と蒼。「――で、本題。如月透。俺と玲司さんとで、経歴を洗った。結論から言うと、完璧すぎて真っ黒」

     モニターに、時系列が映る。

    「如月透、三十四歳。戸籍は北陸の山村。両親は他界、親族なし。二十二歳で上京、フリーライターに。……ここまで、書類は全部ある。ありすぎる。小学校の卒業アルバム、成人式の写真、賃貸の契約書。でもね、俺、卒アルの現物を古書ルートで取り寄せたの。クラス写真の『如月透』の顔、修整が入ってる。九十年代の集合写真に、二〇〇〇年代のレタッチ痕。つまりこの経歴は、後から作られた」

    「身元の『製造元』も割れた」玲司が引き取った。「戸籍の売買を扱う闇ブローカーが、十二年前に摘発されている。押収リストの中に、『如月透』名義の書類一式の作成記録があった。買い手の記録は消されているがな。……十二年前。橘怜が二十二歳。『如月透』が経歴上『上京』した年と、一致する」

    「状況証拠としては十分だ」黒崎が唸った。「だが、なあ。この男を、何の罪で挙げる? 戸籍の件は時効も絡む。剣崎の件も、島の件も、実行犯は全員別にいる。あの男がやったのは、手紙を出し、情報を撒き、道具を『届く場所に置いた』ことだけだ。教唆で立てるにしても、脅迫で立てるにしても、物証がまるで――」

     その時だった。

     事務所の郵便受けが、ことり、と鳴った。

     階段を駆け降りたひかりが、青い顔で戻ってきた。手には――赤い封筒。

     宛名は、《神代探偵事務所 神代零様》。

     便箋には、あの筆致で。

    『一月十日、午後九時。時計塔にて。
     あなたの記憶を、回収に参ります。
     二十年目の、最後の答え合わせを。
                  ――0』

     事務所が、静まり返った。

    「時計塔……御茶ノ水の?」ひかりが呟いた。「ゼロの、最初の事件の」

    「洒落てるじゃないか」玲司が吐き捨てた。「探偵・神代零が生まれた場所で、幕を引こうという腹か」

    「行っちゃ駄目だ」黒崎が言った。「罠に決まってる。人質もなしに、のこのこ――」

    「クロさん。あの人は、人質は取りません」

     零は、赤い便箋を見つめたまま言った。

    「二十年間、一度も自分の手で殺さなかった人です。あの人の武器は暴力じゃない。問いです。そして僕は、この招待状を断れない。……皆さんに集まってもらったのは、頼みがあるからです」

     零は顔を上げた。

    「明後日の夜、僕は一人で塔に上ります。その代わり――僕の残りの全部を、皆さんに預けます」

    「預ける、というのはね」

     零は、机の抽斗から、古びた手帳を取り出した。父の手帳。そして、真新しい大学ノートを一冊。

    「相手の武器が何か、もう分かっているからです。灯さん」

    「……ああ」窓際の灯が、首筋の傷に触れた。「R-0。あたしたちに使われた薬。飲ませても、打っても、効く。器用な薬だよ。消したい記憶の周りだけ、雪みたいに白くする。……そして怜は、あの薬の在り処を知ってる側の人間だ」

    「つまり最悪の場合、明後日の夜、時計塔から帰ってくる僕は――皆さんを覚えていない僕かもしれない」

     事務所の空気が、一段、冷えた。蒼が何か言いかけて、やめた。代わりに零は、大学ノートの表紙を、全員に見えるように掲げた。表紙には、零の字で、こう書いてある。

    《神代零・復元手順書》

    「あの人の正体に見当がついた日から、少しずつ書き溜めてきました。僕が僕であるために必要な事実の一覧です。両親のこと。祖父ちゃんのこと。事務所のこと。皆さんのこと。……それから、僕がこの十三年、何を考えて、なぜ探偵をやっているのか。もし僕が空っぽになって帰ってきたら、これを使って、僕をもう一度組み立ててください」

    「莫迦野郎」黒崎が、絞り出すように言った。「そんな事態になる前に踏み込むって言ってんだろうが」

    「クロさんの部隊を信じてます。これは保険です。……それに」

     零は、少しだけ笑った。

    「書いてみて、分かったことがあるんです。僕という人間は、思ったより短い。事実だけ並べたら、ノート半分で終わっちゃった。残りの半分は全部、皆さんのことでした。ヒカの番茶の淹れ方が雑なこととか、蒼の徹夜明けの機嫌とか、美玲さんの解剖室のコーヒーが世界一薄いこととか。……つまり僕の後半分は、最初から皆さんの中に保管されてるってことです。だから、大丈夫」

    「……ぜんっぜん、大丈夫じゃない」

     ひかりが、ノートを引ったくった。ぱらぱらとめくり、あるページで手を止め、何かを言おうとして、失敗した。彼女はそのまま後ろを向いて、しばらく戻ってこなかった。戻ってきた時には、目が赤く、そして宣言した。

    「――あたし、これ預かる。預かるけど、絶対に使わない。使わせない。それから神代零、あんたのこの手順書、三ヶ所間違ってる。あたしの誕生日と、初めて事務所に来た日と、番茶の淹れ方。雑なのはあんたの舌。帰ってきたら、赤ペン入れるから」

    「訂正稿を楽しみにしてる」

     役割は、深夜までに決まった。

     蒼は通信と記録の全系統。ひかりは復元手順書と、当日の「地上の目」。美玲は万一の医療待機と、R-0に関する医学的な備え。黒崎は包囲網の指揮。灯は――本人がどれだけ同行を主張しても、全員一致で却下された。

    「あんたが行ったら、あの人は喋ることを全部やめて、ただの兄ちゃんに戻っちまう」と蒼が言い、灯は長いこと黙って、それから「……クソガキが、正論を」と呟いて、折れた。代わりに灯は、零の掌に、小さなものを一つ、押しつけた。缶入りの、ビスケットだった。

    「話が長引いたら食え。あいつは、目の前で誰かがものを食ってると、話を中断できない性分だ。……白い部屋にいた頃からな」

     最後に、玲司が窓際から言った。

    「僕の役割が、まだだが」

    「一ノ瀬さんには、一番大事なことを」零は頭を下げた。「もし僕が推理ごと負けたら――事件番号0の、本当の最後の一行を、あなたが書いてください。この事件の全記録の写しを、あなたにも渡します。ライバルに預けるのが、一番安全だ。あなたは絶対に、途中で読むのをやめられない人だから」

    「……ふん。人を活字中毒みたいに」

     玲司は眼鏡を押し上げ、写しの束を、乱暴に、しかし確実に、鞄へ収めた。

     解散は、午前二時だった。階段を降りていく靴音が一つずつ減っていき、最後に、事務所には零とひかりだけが残った。ひかりは大学ノートを胸に抱えたまま、給湯室で、番茶を淹れた。二人分。湯呑みから立つ湯気の向こうで、彼女は言った。

    「ね、ゼロ。約束の確認。推理で負けてもいいから――」

    「帰ってくる。番茶は三人分。……分かってる」

    「よろしい」

     窓の外を、始発前の貨物列車の音が、遠く通り過ぎていった。
    「預ける、って何よ」蒼が眉を寄せた。「遺言みたいな言い方、やめてくんない?」

    「遺言じゃない。分担だよ」

     零は、ホワイトボードに向かった。書かれていく文字を、六人が黙って見つめた。

    「僕が塔の上で預かるのは、『問い』だけです。それ以外の全部を、地上に置いていく。――クロさん。塔の周辺の警備は、表向きゼロでお願いします。あの人は警察の無線周波数も、覆面車両のナンバーの癖も知っている。囲めば消える。ただし九時十五分を過ぎて僕が窓の照明を点けなかったら、そのときは好きなだけ踏み込んでください」

    「十五分か。……長えな」黒崎は唸ったが、反対はしなかった。

    「アオ。無線が九時の鐘で数十秒死ぬ話、詰めておいて。死んでる間の僕の音声、あとで復元できるように、録音系は多重で」

    「もうやってる。骨伝導と、レーザー窓振動と、あと保険がもう一個。……ゼロちゃんさ」蒼はキーボードから顔を上げずに言った。「録音、いる? あの人、物証になる言い方、絶対しないよ」

    「証拠のためじゃない。記録のため。あの人が二十年やってきたことを、最後は僕らの側が観測し返す。それが多分、いちばん効く」

    「性格悪くなったわね、ゼロ」ひかりが少し笑って、すぐ真顔に戻った。「わたしの分担は?」

    「ヒカには、いちばん重いのを頼む。――僕が塔から降りてきたとき、僕の顔を見て、僕が僕のままかどうか、判定してほしい」

     事務所が、しんとした。記憶を回収に来る、と手紙にはあった。それが比喩なのか、二十年前の技術の残り火なのか、誰にも分からない。分からないまま行くと決めた男が、ただ一人の「人を読む」少女に、帰還後の検品を頼んでいる。

    「……いいわ」ひかりは頷いた。「その代わり、判定基準はわたしが決める。降りてきたあんたに、三つ質問する。一つでも答えを間違えたら、病院に直行。文句なし」

    「文句なし。……美玲さんは、当日、事務所で待機をお願いします。万一のときの、その、いろいろで」

    「『いろいろ』を綺麗に言えるようになったら一人前ね」美玲は肩を竦めた。「いいわ。救急キットと、胃薬と、あと祝杯の準備をしておく。使う順番は、あなた次第」

     最後に、零は窓際の男を見た。

    「玲司さん」

    「断る」玲司は先回りした。「僕はあの男と面識がない。当日の役割もない。ここにいるのは九条公判の打ち合わせの、つい――」

    「時計塔のビルの管理会社、玲司さんの依頼主の系列ですよね。屋上と機械室の鍵、正規の手順で借りられるの、この中であなただけです」

    「…………ふん」玲司は長い沈黙のあと、内ポケットから、もう用意してあった封筒を放って寄越した。中には、鍵が二本。「利子は高いぞ、神代」

    「知ってます」

     解散間際、それまで一言も発さなかった灯が、ぽつりと言った。

    「……零くん。一つだけ」

    「はい」

    「あの人はね、嘘は言わないよ。二十年、嘘だけは一度も言わなかった。ぜんぶ本当のことだけで、人を動かすの。だから――本当のことを言われたときが、いちばん危ない。それだけ、覚えておいて」

     一月九日の会議は、そこで終わった。

     帰り支度の途中、蒼がふと、モニターの隅の時計を見て言った。

    「あと、二十六時間か」

    「二十時間五十三分」と零。

    「……そういうとこだぞ、ゼロちゃん」

    幕間 四

     男には、眠る前に必ずする作業があった。

     その日一日の観測記録をつけること。二十年間、一日も欠かしたことがない。ホテルの部屋でも、海外の空港のベンチでも、必ず。手帳は数字と略号で埋められ、他人が読めば無意味な羅列にしか見えない。それでいい。記録とは本来、読む者のためではなく、あったことを「あった」と固定するためにある。

     だが今夜、万年筆は、白紙の上で止まっていた。

     書くべきことは決まっている。《一月十日、時計塔。A-00に最終試験を実施する》。たった一行だ。二十年の観測の、最終行。それが、書けない。

     男は万年筆を置き、窓の外の東京の灯を見た。

     ――思い出すのは、いつも同じ場面からだった。

     十四歳。白い部屋。週に三度の投与。大人たちは彼を「A-00」と呼び、時々「奇跡」と呼び、一度だけ「化け物」と呼んだ。呼び方が変わっても、やることは変わらなかった。写真を見せる。母親の葬式の写真。投与前と投与後で、涙の量を測る。彼は最初から泣かなかったので、大人たちは測るものがなくて困っていた。困っている大人たちを、彼は観察していた。観察している間だけ、自分がガラスのこちら側にいる気がした。

     施設で、規則を破る人間が一人だけいた。

     園長の娘だ。八つも年下のちびで、職員棟から菓子をくすねてきては、面会室の換気口越しに彼へ押し込んだ。「れいにい、これ、甘いやつ」。名前で呼ぶのも、規則違反だった。A-00ではなく、橘怜。名前を呼ばれるたび、消えたはずの何かが、胸の奥で小さく軋んだ。データに残らない誤差。彼はそれを、誰にも報告しなかった。人生で最初の、隠蔽だった。

     そして、あの十月の夜。

     園長は、最後に彼の部屋に来た。鍵を開け、「逃げなさい」と言った。それから、廊下の奥の――もう目を覚まさない子どもたちの部屋の方を見て、「あの子たちは、私が連れていく。これ以上、実験材料にはさせない」と言った。その目を、男は二十年経っても忘れられない。あれは狂った目ではなかった。追い詰められ、他の道をすべて塞がれ、それでも子どもたちを「モノ」として遺したくなかった人間の、最後の計算の目だった。計算は、間違っていた。間違っていたが、計算させたのは誰だったのか。

     彼は灯を背負って、燃える山を下りた。背中のちびは、泣きながら、何度も彼の名前を呼んだ。れいにい、れいにい。名前を呼ばれるたび、胸の軋みが大きくなった。あの夜、彼の中で何かが決まった。大人たちは子どもの記憶を消して「なかったこと」にした。ならば自分は、すべてを記録して「あったこと」にし続けてやる。世界そのものを、観察対象にしてやる。ガラスのこちら側から。

     ――それから七年後の、雨の夜のことも。

     神代恭介。灰嶺の一件を追い続けた、ただ一人の刑事。男は彼を三年間、観測していた。観測のつもりだった。危険が近づいていると気づいた時、警告の電話を一本入れた。観測者にあるまじき介入だった。間に合わなかった。踏み込んだ部屋には、もう二人分の体温がなく、実行犯がいて、押し入れの隙間から、五歳の子どもの目がこちらを見ていた。

     あの時の自分の行動を、男は二十年間、実験として説明してきた。だが本当は覚えている。震えていたのは、注射器を握る自分の手の方だった。泣いていたのは、記憶を消される子どもではなく、消す側の自分だった。ガラスは、あの夜、確かに割れていた。割れたガラスを、彼は二十年かけて、接着し直してきたのだ。

     ――そのA-00が、育った。

     真実の上にしか人は立てないと言い、埋めた人間から真実に喰われるのだと言い、こちらの理論の急所へ、まっすぐ踏み込んでくる探偵になった。恭介の言葉を、教わってもいないのに、ほとんど同じ形で口にする。記憶は消えても、人は消えない。それが観測結果だとするなら――二十年の仮説は、根本から。

     男は、かぶりを振った。

     万年筆を取り、白紙に、一行を書いた。

    《一月十日、時計塔。A-00に最終試験を実施する》

     それから、少しだけ迷って、二行目を書き足した。二十年の記録の中で、初めての、データではない一行を。

    《同日、橘怜の観測を終了する。結果がどちらであっても》

     手帳を閉じる。灯を消す。

     闇の中で男は、菓子の甘さを、ふいに思い出した。換気口越しの、砕けたビスケットの味。データに残らなかった、あの誤差の味を。

    六 前夜

     一月九日。決戦の前日は、拍子抜けするほど、静かな一日だった。

     午前中、零は警視庁に呼ばれ、黒崎と、捜査一課の管理官と、三人で最後の段取りを詰めた。

     招待状の指定は、一月十日、午後九時、御茶ノ水の時計塔。あのビルは取り壊しが延期され、今は保存運動の対象になって、機械室の時計は半年前に修理が済んでいる。零のデビュー事件の現場であり、たぶん、盤上の最初のマス目だった場所。

    「――で、だ。原則を確認するぞ、ゼロ」

     黒崎は、指を一本立てた。

    「第一に、お前を一人で行かせる。これは相手の指定でもあるが、こっちの判断でもある。N――如月透、本名・橘怜と目される人物には、現時点で逮捕状が出ている。教唆と幇助の疑い。だが物証の柱はまだ細い。奴が自分から喋る場面が要る。奴が喋る相手は、世界にお前しかいねえ」

     二本目の指。

    「第二に、一人で行かせるが、独りにはしねえ。ビルの周辺は九時の三十分前から固める。お前には発信機。機械室の会話は、お前の同意の下で録る。……いいか、ゼロ。これは餌をぶら下げる作戦じゃねえ。お前が危なくなったら、会話の途中だろうが推理の途中だろうが、踏み込む。真相より、命だ。順番を間違えるな」

    「……分かってます」

    「分かってねえ顔だから言ってんだ」

     黒崎は、大きな手で、零の頭をひとつ、乱暴に撫でた。子ども扱いだと抗議しようとして、やめた。この人は十三年前、両親を亡くした五歳の子どもの事件を、所轄の新米として担当していたのだと、先日、灯の調べで知ったからだ。以来ずっと、この不器用な刑事は、事件を離れても神代書房に顔を出し続けてきた。焼き鳥の袋を提げて。十三年間。

     ――午後、事務所には、いつもの顔が揃った。

     蒼は、零のコートの襟に発信機を仕込みながら、珍しく手を二度、縫い直した。「……電波の干渉が」と本人は言ったが、単に手元が狂っただけなのを、その場の全員が知っていて、誰も指摘しなかった。

    「ゼロ。工学的な忠告を一つしておく」

    「うん」

    「時計塔の機械室は、鐘の真下だ。九時になれば、鐘が九回鳴る。あの至近距離だと、音圧で数十秒、会話も無線も機能しない。……つまり九時ちょうどの前後、お前は完全に、独りになる。相手がその数十秒を計算に入れてないはずがない。頭に入れておけ」

    「……了解。九時の鐘は、あの人の持ち時間ってことか」

     美玲は、夕方に寄って、小さな薬瓶を置いていった。「気付け用。それと、これは監察医としてじゃなく、年上の友人としての忠告。――相手が何を言っても、あなたの十三年は、あなたのものよ。過去の解釈権まで、相手に渡さないこと」

     玲司からは、簡潔なメッセージが一通。

    『賭けの決着はまだだが、明日だけは休戦にしてやる。生きて戻れ。君に死なれると、僕が永遠に「解決者」になれない』

     素直じゃない文面を、零は二度読んで、消さずに保存した。

     夜、閉店後の神代書房で、祖父は何も言わず、零の湯呑みに、いつもより濃い茶を淹れた。それから帳場の奥から、古びた文庫本を一冊出して、カバーを掛けた。四十年、本にカバーを掛け続けた手つきだった。

    「餞別だ。持っていけ」

     カバーの下は、見なくても分かった。『ゼロの発見』。父が最後に置いていった八十七冊のうちの、一冊ではない方。祖父が自分の蔵書から出してきた、もっと古い版だった。

    「……重いよ、祖父ちゃん。明日、身軽に行きたいのに」

    「阿呆。本より重い荷物を背負って行くくせに」

     返す言葉がなかった。

     ――そして、最後に残ったのは、ひかりだった。

     皆が帰った後の事務所で、幼なじみは、ストーブの火を落とし、カップを洗い、いつも通りの手順で一日を畳んでいった。零は窓辺で、明日の想定問答を頭の中で繰り返していた。Nの思想。二者択一。真実と凶器。反駁の組み立て。

    「――零」

     流しの水音が止まって、ひかりの声がした。

    「明日、あたしが言うことは一個だけだから、今聞いて」

    「……うん」

    「推理で負けてもいいから、帰ってきて」

     零は、振り返った。ひかりは、布巾で手を拭きながら、まっすぐこちらを見ていた。

    「あのね。零はたぶん明日、二十年分の頭のいい人と、言葉で戦う。それで、もしかしたら、言い負かされるかもしれない。真実がどうとか、幸せがどうとか、あたしには分かんない難しい理屈で。……でも、いい? 言い負かされても、零の負けじゃないからね。論理で答えが出ない問題って、世の中にあるの。そういう問題の答えは、言い返すことじゃなくて、明日も生きて、普通に番茶を飲むことなの。だから」

     ひかりは、布巾をきちんと畳んで、置いた。

    「明後日の朝も、ここで番茶を淹れます。三人分。……以上。ヒカからの、作戦指示でした」

     零は、しばらく黙っていた。それから、笑った。想定問答の束が、頭の中で、少しだけ軽くなった気がした。

    「……了解。作戦指示、受領しました」

    「よろしい」

     その夜、零は久しぶりに、夢を見ずに眠った。

     枕元には、カバーの掛かった古い文庫本と、谷中のビスケットの袋。十三年前に消された記憶と、消されなかった繋がりの、両方が、そこにあった。

    七 時計塔

     一月十日、午後八時五十分。

     銀座の時計塔ビルは、改修工事のため休館していた。工事用の仮囲いの隙間、通用口の鍵は、開いていた。まるで、迎え入れるように。

     零は一人、螺旋階段を上った。八階分。半年前、初めての事件で上ったのと同じ段数を。あの時は無我夢中だった。今は、一段ごとに、心臓の音を数えていた。

     最上階。時計機構室。

     巨大な文字盤の裏側。歯車と振り子の闇の中に、その男は立っていた。

     窓から差し込む街の光が、文字盤の影を、床に落としている。長針が、九時五分前を指していた。

    「――来たか」

     如月透は、いつもの柔らかい笑みを、していなかった。

     そこに立っているのは、記者ではなかった。灰嶺の生き残り、被験体A-00、橘怜。二十年間、ゼロの幽霊と呼ばれた男の、素顔だった。

    「録音機は?」

    「持ってきていません。約束通り」

    「だろうな。お前は、そういう子だ」男は、機構室の中央へ歩み出た。「……近くで見ると、やはり恭介さんに似ている。目元がな」

    「あなたの口から、父の名前を聞くのは、妙な気分です」

    「だろうな」

     二人の間で、巨大な歯車が、こち、こち、と時を刻んだ。

    「単刀直入に訊きます」零は言った。「『記憶を回収に来た』。どういう意味ですか。またR-0で、僕の記憶を消すつもりですか」

    「それも選択肢の一つだ」男は、コートの内から、小さな銀のケースを出した。「最後の一本だ。二十年前の在庫の、最後のな。……だが、決めるのはお前だ。俺は今夜、お前に選ばせに来た」

    「選ぶ?」

    「そうだ。――神代零。お前は原本を見つけた。見事だった。恭介さんの謎かけを、あの人の息子が解いた。出来過ぎなくらいだ。……で、だ。お前は気づいたはずだ。あの原本は、そのままでは公表できない」

     零は、黙った。図星だった。

    「原本には三つのものが入っている。一つ、六人の罪の完全な証拠。二つ、生き残った被験児二人の、顔写真つきの個人記録。三つ――R-0の、完全な製法データ」

     男の声が、機構室に低く響いた。

    「公表すれば、罪は裁かれるだろう。同時に、灯の素性が世界に晒される。放火犯の娘。人体実験の生き残り。メディアは彼女の二十年を食い荒らす。そして製法データは、必ず、写真に撮られ、流出し、どこかの国の、どこかの組織の手に渡る。子どもを十二人壊した薬が、今度は工業規模で製造される。……真実を掘り出せば、そうなる。埋めたままなら、九条の公判は証拠不十分で崩れるかもしれん。御堂は逃げ切るかもしれん。だが灯は守られ、薬は死んだままだ」

    「……それが、あなたの『答え合わせ』ですか」

    「そうだ」男は、初めて、感情らしきものを声に乗せた。「二十年前、白い部屋で、俺は学んだ。大人たちは『真実の解明』と呼んでいたよ、あれを。子どもの脳から記憶を掘り出し、数値にし、記録する。真実を掘る側は、いつも幸福で、掘られる側は、いつも壊れた。十三年前、恭介さんは真実を掘り、殺され、お前は親を失った。俺は見たんだ、押し入れの中のお前を。真実の代金を、五歳の子どもが払わされるのをな。だから消した。だから、ここまでお前を観測してきた。記憶を失い、真実から切り離されたお前は――健やかに育った。じいさんに愛されて、友人を持ち、探偵になった。幸せそうだった」

     男は、一歩、踏み込んだ。

    「そして真実が戻ってきた今のお前は、どうだ。両親の死に様を思い出し、夜ごとうなされ、それでもなお、原本という爆弾を抱えて、ここに立っている。……なあ、零。答え合わせをしよう。真実は、お前を幸せにしたか?」

     長針が、九時三分前を指した。

     零は、目を閉じた。

     葱を刻む音。緑色の扉。父の大きな手。押し入れの闇。血の匂い。凍った目の若い男の、あたたかい声。十三年分の空白と、この一ヶ月でそこに流れ込んできた、痛みと、痛みと、痛みと――そして。

     零は、目を開けた。

    「――いいえ。幸せには、なっていません」

     男が、わずかに、目を細めた。

    「正直だな」

    「でも、あなたの問いは、最初から設計を間違えている」

     零の声は、静かで、まっすぐだった。

    「あなたは『幸せか』と訊いた。訊くべきは、『選べるようになったか』です。……記憶がなかった十三年間、僕は確かに穏やかだった。でもあれは、幸せじゃない。選択肢のない平和です。誰かが僕の代わりに選んで、僕の見るもの、知ること、悲しむことまで、決めていた平和だ。あなたは十三年前、僕を守ってくれた。それは本当だ。感謝もしている。でも、あなたは同時に、僕から選ぶ権利ごと、奪ったんです」

    「……子どもに、あの夜を背負う選択などできん」

    「できませんよ。五歳だった。だから、あの夜のあなたを、僕は責めない。……でも如月さん。あなたはその後の二十年、世界中を五歳の子ども扱いした。剣崎に、灘波に、九条に、真実を突きつけて回った。彼らは自業自得だ。でも田島夫妻はどうです。あなたは夫婦に『選ばせた』と言うでしょう。復讐の道具と、忘れるための金を並べて。でもね、二十年間、息子の墓の前で立ち尽くしてきた老夫婦の前に毒と罪状書きを置くのは、選択肢を与えたんじゃない。背中を押したんだ。あなたは、人が真実に殺されるところを観測し続けて、自分の仮説を証明した気になっていた。……その姿は」

     零は、はっきりと言った。

    「白い部屋で、あなたを観測していた大人たちと、同じです」

     時計機構が、九時二分前を、刻んだ。

     男は、動かなかった。表情も、変わらなかった。ただ、銀のケースを持つ左手の指が、ほんのわずかに、白くなった。

    「……減らず口を」

    「まだあります。あなたの二者択一――公表か、隠蔽か。あれも、間違いだ。僕は昨日、答えを出しました。真実と凶器は、分けられる」

     零は、コートの内ポケットから、一通の書類を出した。

    「原本のうち、R-0の製法に関わる部分は、昨日、綾瀬美玲監察医と、科捜研の立ち会いのもと、分離しました。製法データは裁判の立証に必須じゃない。『違法な人体実験が行われた』ことの証明には、投与記録と被害記録と覚書があれば足りる。分離した製法部分の扱いは、監察医と検事と、それから――生存被験者二名の同意を条件に、封印か廃棄かを決める。灯さんは昨夜、同意しました。廃棄に。残る一人の同意が、まだです」

     零は、書類を差し出した。

    「被験体A-00、橘怜さん。あなたの体は、この世界でただ一つの、R-0の耐性データそのものだ。あなたが望まない限り、誰にもあなたを『資料』にはさせない。父の遺した原本は、そういう使い方をします。誰かを晒すためでも、薬を蘇らせるためでもなく――十二人の子どもが、いた、ということを、この世界の記録に戻すために。ゼロの発見と同じです。『ない』ことにされたものを、『ここに、いたぞ』と指させるように」

     沈黙が、降りた。

     長針が、動いた。

     午後九時。

     時計塔の鐘が、頭上で、鳴り始めた。八年ぶりに修理を終えたばかりの鐘の音が、九つ。骨まで響く音の洪水の中で、二人は向かい合ったまま、動かなかった。

     九つ目の鐘が、鳴り終わった時。

     橘怜は――笑っていた。

     柔らかい、作られた記者の笑みではなかった。もっとずっと不器用な、顔の筋肉が忘れていた動きを思い出そうとしているような、歪な、けれど本物の笑みだった。

    「……ああ、くそ」

     男は、天井を仰いだ。

    「恭介さんの言った通りだ。『真実は埋めても死なない。埋めた場所で根を張るだけだ』。……あの人の根は、二十年経って、こんな減らず口の花を咲かせたわけか」

     男は銀のケースを、無造作に零へ放った。零は両手で受け止めた。最後のR-0が、掌の中で、小さく冷たかった。

    「回収するはずだった記憶は、持ち主が手放さんと言う。なら、俺の負けだ。……一つだけ、訂正しておく」

     男は、窓の外の、街の灯を見た。

    「十三年前のあの夜。俺はお前を、観測していたんじゃない。……あれだけは、実験じゃなかった。あの夜だけは、俺は」

     言葉は、続かなかった。代わりに男は、コートの懐から分厚い茶封筒を取り出し、時計機構の歯車の脇に、置いた。

    「――俺の二十年の、全記録だ。誰に何を届け、誰の背中を押したか。日付も、手段も、全部書いてある。検察が読めば、教唆なり幇助なり、好きな札を貼れるだろう。……お前は言ったな。真実の上にしか、人は立てないと。なら、証明してみせろ。俺という真実の上に、灯が、お前が、立てるところを。俺は裁判で全部話す。世間は生き残りの化け物の過去を食い荒らすだろう。それでも真実の方がましだと、お前は言い切れるか。――これが、俺からの最後の問いだ。答えは急がなくていい。獄中から、ゆっくり観測させてもらう」

     階下から、複数の足音が階段を駆け上がってきた。時間を計っていた黒崎と、捜査員たち。踏み込んだ黒崎の前で、男は自分から、両手首を差し出した。

    「――ゼロ・ゴースト。いや、橘怜だ。話は署で。長くなるぞ、刑事さん。二十年分だ」

     連行の間際。階段の踊り場で、男は一度だけ、足を止めた。

     そこに、灯が立っていた。

     二十年前、燃える山を一緒に見上げた妹分が、涙も拭かずに、仁王立ちしていた。

    「……怜にい。この、大馬鹿野郎」

    「ああ」

    「二十年も、独りで」

    「ああ」

    「……おかえり」

     男は、何も答えなかった。ただ、連行されていくその横顔が、ほんの一瞬、十四歳の少年のものに見えたと――後になって、ひかりは零に、そう言った。

    八 観測者の涙

     橘怜の取り調べは、年をまたいで続いた。

     警視庁本部の取調室で、男は驚くほど協力的だったという。黒崎が後に語ったところによれば、それは「自白」というより「講義」に近かった。二十年分の記録は日付順に整理され、関係者の名前は正確で、金の流れには領収書の控えまで添えられていた。取調官が追いつけなくなると、男は「そこはもう一度整理しよう」と言って、自分から図を描いた。

    「妙な男だよ」

     一月の終わり、事務所のストーブの前で、黒崎は湯呑みを両手で包みながら言った。

    「普通、あれだけの頭があれば、罪を軽くする方向に使う。だがあいつは逆だ。自分の関与を一件も漏らすまいと必死になってる。まるで――」

    「まるで、自分の犯罪の全貌が正確に記録されないことの方が、罪より恐ろしい、みたいに」

     零が引き取ると、黒崎は苦い顔で頷いた。

    「ミレイ先生が言ってました。あの人は二十年間、白い部屋の続きを生きてたんだって。観察して、記録して、報告する。報告する相手なんか、とっくにいないのに」

     ひかりが、ストーブの上で網に載せた餅をひっくり返しながら、静かに言った。

    「だから最後に、報告書を零に渡したんだよ。……ようやく、報告する相手を見つけたんだ」

     橘怜の起訴は、殺人教唆二件、自殺教唆一件、犯人蔵匿、証拠隠滅、その他多数――罪状の一覧は新聞の一段を埋めた。弁護士は精神鑑定を主張したが、本人が法廷でそれを一蹴した。

    「私は二十年間、一度も正気を失ったことがない。それがこの事件の、一番の恐ろしさだと思いますよ」

     傍聴席の記者たちは、その言葉を翌日の見出しにした。

     ――そして、原本の問題が残っていた。

     神代書房の店の奥、『ゼロの発見』の初版本の隣に、十三年間眠っていた父の茶封筒。中身は三つに分かれていた。灰嶺会六人の犯罪を裏づける治験記録と覚書。R-0の製法と投与プロトコル。そして、生存被験者二名の身元資料。

     二月の初め、零はそれを事務所の机に広げ、全員を集めた。ひかり、蒼、美玲、黒崎、そして――窓際の椅子に、招かれた客として、灰谷灯。

    「これを、どうするか」

     零は言った。

    「全部を検察に出せば、灰嶺事件の立証は完璧になる。でも、製法が公判記録に載れば、いつか必ず、誰かが再現する。人の記憶を選んで消せる薬です。欲しがる人間は、国家から犯罪組織まで、いくらでもいる。そして身元資料が出れば――」

     零は、灯を見た。灯は、膝の上で拳を握って、目を伏せていた。

    「二十年間、名前を捨てて生きてきた人が、生存被験者A-07として、世界中の好奇の目に晒される」

    「あたしのことは、いいんだ」

     灯が、低く言った。

    「証言が要るなら、法廷にだって立つ。今さら――」

    「よくない」

     遮ったのは、零ではなく、ひかりだった。

    「灯さん。あなたはずっと、『真実を知る資格』の話をしてた。零に、真実を知る資格があるって。……だったら、あなたには、真実に喰われない権利がある。証言する勇気と、見世物になる義務は、別のものだよ」

     灯は、何かを言いかけて、やめた。代わりに、袖口で乱暴に目元を拭った。

     美玲が、法医学者の顔で口を開いた。

    「法的に言えばね。製法それ自体は、灰嶺会の量刑にほとんど寄与しないの。児童への投与の事実と、その結果――つまり治験記録と診断書があれば、傷害と監禁と、灰谷園長の件の立証には足りる。製法は科学的な補強にはなるけど、必須じゃない」

    「つまり、分けられる」

     蒼が言った。零は頷いた。

    「真実と、凶器は、分けられる」

     それは、時計塔で橘怜に向けて言った言葉だった。言った本人が、今度は自分でそれを証明する番だった。

     零たちの出した結論は、こうだ。治験記録と覚書は、全文を検察へ。身元資料は、灯本人の同意する範囲だけを、氏名を封じた形で提出。そしてR-0の製法は――

     三月のある晴れた日、神代書房の裏庭で、小さな焚き火が焚かれた。

     祖父の宗佑が、火の始末のためにバケツを提げて立ち会った。零は、父が命懸けで守った紙束のうち、製法にあたる十七枚だけを、一枚ずつ火にくべた。

    「親父さんは、怒ると思うか」

     宗佑が訊いた。零は、首を振った。

    「父さんがこれを盗んだのは、公表するためじゃなくて、あいつらの手から取り上げるためだった。だったら、これが一番正しい続きです。……それに」

     最後の一枚が、火の中で反り返り、灰になった。

    「答えを消すんじゃない。問いごと、なくすんです。『人の記憶を消せるか』なんて問いは、この世になくていい」

     燃え尽きた灰を、宗佑は黙ってバケツの水に沈めた。ゼロの発明とは逆向きの仕事だった。「ある」ものを、正しく「ない」に還す仕事。

     ――四月。

     橘怜の初公判の日、東京地裁の前には、報道の人垣ができた。

     零は行かなかった。行く代わりに、事務所の窓を開けて、神保町の空を見ていた。公判の様子は、夕方、傍聴に行った灯からの長いメッセージで知った。

     怜にいは、全部話した。二十年前のことも、十三年前のことも。
     十三年前のところで、一度だけ、言葉に詰まった。
     「被害者の子どもに薬を投与した動機」を訊かれた時。
     三十秒くらい黙って、それから、こう言った。

    「実験のためだと、二十年間、自分に説明してきました。被験体A-00の対照実験。記憶を消された子どもが、消されないまま育った私と、どう違う人間になるか。……ですが訂正します。あの夜のあれは、実験ではありませんでした。私はただ、五歳の子どもが両親の死体の記憶を抱えて生きていくのが、耐えられなかった。それだけです。私の二十年で、あれが唯一の、動機を説明できない行動です」

     メッセージの最後に、灯はこう書いていた。

     法廷で泣くのは負けだと思ってたから、泣かなかった。
     帰り道で三回泣いた。
     今日は店じまいにする。カラスに餌やっといて、はダメか。遠いか。

     零は、短く返信した。

     ――カラスの名前、まだ聞いてない。

     すぐに返ってきた。

     ――「レイ」。悪いか。

     零は、スマートフォンを置いて、少し笑った。窓の外で、古書店街の屋根の上を、名前も知らない鴉が一羽、ゆっくりと横切っていった。

     判決は、四月の末に出た。懲役十八年。求刑をわずかに下回り、弁護側も検察側も控訴しなかった。

     判決の翌週、零のもとに、拘置所から一通の手紙が届いた。差出人の名は「橘怜」。検閲印の押された封筒の中身は、便箋一枚だけだった。

    『観測記録・最終項。
     被験体A-00は、真実の全量を摂取した後も、正常に食事を取り、正常に眠り、正常に仕事をし、時折笑っていると聞く(情報源は秘匿する。元気そうだった、とのことだ)。
     仮説「真実は人を幸せにするとは限らない」は、棄却されない。真実は確かに、人を幸せにするとは限らない。
     だが対立仮説が、有意に観測された。
     「それでも人は、真実の上にしか、立てない」。
     二十年の観測を、ここに終了する。
     ――追伸。招待状の紙は、まだ十数枚残っている。処分は任せる。学園の子どもたちが最後に触った紙だ。燃やすなら、丁寧に頼む。0』

     零はその手紙を、事務所の一番深い抽斗に、父の手帳と並べてしまった。

     残っていた赤い便箋は、燃やさなかった。灯と二人で相談して、長野の寺に納めた。二十年前の十二人と、園長と、道夫の墓のある寺だった。納経の帳面に、灯は「灰谷灯」と、二十年ぶりに本名を書いた。

    幕間 五

     ――以下は、二十年目の冬から春にかけて、それぞれの場所に残された記録である。


    《週刊文潮》二月十六日号より抜粋

    『灰嶺学園事件は、なぜ二十年間「存在しなかった」のか――。本誌は三ヶ月にわたる取材で、事件を封印した「六人の紳士」の構図と、それを内側から解体した一人の男の軌跡を追った。男の名は橘怜。報道の世界では「如月透」の名で知られた、あの記者である。
     検察関係者は言う。「彼の手口を罪名に落とし込む作業は、法律家として過去最悪の難問だった。彼は嘘をつかない。命令しない。強要しない。ただ、真実を、最も燃えやすい場所に置く。……それを裁く条文を、我々の六法はほとんど持っていない」
     一方で、ある捜査員は声を落とした。「忘れないでほしいのは、彼もまた八歳から二十年間、あの学園の被験者だったということだ。我々が二十年間、彼を保護しなかった。その不作為の上に、この事件の全部が建っている」』


    《週刊文潮 四月第二週号 特集「灰嶺事件・二十年目の決算」より》

     ……こうして「存在しない事件」は、二十年目にして事件番号を与えられた。だが本誌が注目したいのは、法廷の外で起きたことである。判決の翌日、厚労省は児童福祉施設における医学的介入の第三者監査制度の創設を発表した。国会には超党派で、非合法な人体実験の被害者に対する特別補償法案が提出された。立法までの道のりは長いが、審議入りは確実視されている。

     最後に、本誌が入手した検察関係者の証言を引く。「この再捜査には、通常と逆の特徴がある。物証より先に、まず物語が完成していた。誰かが二十年かけて、証拠が眠る場所の地図を描き続けていたとしか思えない」――その「誰か」は今、小菅の拘置所で、公判を待っている。

     十二人の子どもたちは、生き返らない。だが「十二人いた」という事実だけは、もう二度と、燃やすことができない。


    東都大学法医学教室 身元照合プロジェクト 経過報告(三月) 主任・綾瀬美玲

    『灰嶺学園火災犠牲者十二名について、発掘遺骨の再鑑定および縁故者DNA照合を継続中。本日までに七名の氏名が確定。うち四名について縁故者への返還が完了した。
     特記事項。三月九日、犠牲者の一人・佐伯道夫くん(当時十一歳)の遠縁にあたる方が来室された。「名前が戻るなら、うちの墓に入れてやりたい」とのお申し出であった。
     所感の記載は本報告書の様式にないが、一行だけ許されたい。
     ――名前は、遺骨より軽く、どんな棺より深く埋まっている。掘り出す仕事に、定年はない』


    《東京地方検察庁宛 鑑定報告書(写し)綾瀬美玲》

     灰嶺学園跡地より発掘された遺骨十二体の身元復元作業について、最終報告を行う。歯科記録、骨計測、および縁故者DNA照合により、十二体すべての身元が確定した。最後の一体(検体番号12)の照合が成立したのは五月三十日である。

     所見の末尾に、鑑定人としてではなく、一個人としての付記を許されたい。

     検体番号12、当時七歳、女児。彼女の身元確認が最後まで難航したのは、照合すべき縁故者が戸籍上ひとりも存在しなかったためである。最終的に照合を可能にしたのは、当時の学園職員・田島清子氏が二十年間保管していた、女児の乳歯一本であった。氏は「いつか名前を返してやれる日が来る気がして」と証言している。

     法医学は死者の身元を復元する学問だが、保管していたのは科学ではない。人である。記録として残す。


    《綾瀬美玲宛 私信(本人の許可を得て一部掲載)》

     綾瀬先生。先日は、遠いところまでお運びいただき、ありがとうございました。

     あの子の乳歯をお渡しした日の夜は、二十年ぶりに、夢を見ずに眠れました。名前が戻ったと伺ってからは、毎朝、仏壇に名前を呼びかけております。名前を呼ぶというのは、不思議なものですね。二十年間「あの子」としか呼べなかった子が、呼ぶたびに、少しずつ、ただの一人の子どもに戻っていきます。おかっぱで、笑うと右の頬にえくぼが出て、歌が下手で、それでもいちばん大きな声で歌う子でした。

     私は、止められなかった側の人間です。その事実は、名前が戻っても変わりません。ただ、罪と一緒に抱えていくものが、番号から名前に変わりました。それだけのことが、こんなにも違うとは思いませんでした。

     先生のお仕事に、そしてあの探偵さんたちに、老いぼれから、どうか一言。――ありがとうございました、と。

                          田島清子


    区立第四小学校 四年二組「冬の自由研究」講評より

    『雨宮空くん「雲の観察・続」
     夏休みの自由研究の続編として、半年間の雲の観察記録をまとめた労作です。特に「うそをつく雲(飛行機雲が雲のふりをするもの)」と「ほんとうの雲」の見分け方の章は、着眼がすばらしい。
     最後のページの「雲はどんなにこわい形でも、ずっと見ていればかならず形がかわる。だからこわい形のときは、にげないで、あたたかいところから見ていればいい。たんていの人がそう言っていた」という一文に、先生は大切なことを教わりました。
     金賞。廊下に掲示します』


    《保険毎日新聞》コラム「査定の視点」第一四一回 一ノ瀬玲司

    『保険とは、統計の顔をした約束である。約束である以上、破る者が出る。私の仕事は破られた約束の後始末だ――と、長年思ってきた。
     昨年、ある同業者(彼を同業と呼ぶことには医師会が歯科医を同業と呼ぶ程度の抵抗があるが)と仕事をして、考えを一部修正した。後始末の現場には、稀に、約束を破られた側の人間の名誉を掘り出す仕事が落ちている。それは査定表のどの欄にも書けないが、どの欄よりも重い。
     なお当該同業者への貸しは現在、缶コーヒー換算で四百七十本である。利子は複利とする』


    谷中・古物と鳥の店「はいとり」 店頭の貼り紙(三月)

    『しばらく休みます。
     野暮用。裁判所まで。
     カラスは連れて行きます(留守番できない性格のため)。
     ――四月、追記。再開しました。人生初の証言台は、思ったより低かった。
     春物、入荷しています』


    《下町グラフ 五月号 連載「路地の主人」第十七回より》

     谷中の路地裏に、古物と鳥の店がある。店主は灰谷灯さん。この春、テレビや週刊誌が何度もこの店の前に列を作ったが、店主は一度も取材に応じなかった。本連載も断られた。だからこれは取材記事ではなく、単に常連客の一人が書く、店の紹介である。

     店には片羽の鴉がいる。レイという。飛べない。だが店の棚から棚へ、驚くほど器用に歩いて渡る。先日、常連の子どもが「飛べないのに、かわいそう」と言った。店主は煙草に火を点けて、こう答えた。

    「飛べない日のことは、飛べない奴に訊け。歩き方なら、こいつが一番よく知ってる」

     店の奥の柱に、最近、小さな写真立てが増えた。若い男の白黒写真だ。誰かと訊いたら、店主は「兄貴分」とだけ言った。それ以上は、常連でも訊かないのが、この店の流儀である。


    警視庁捜査一課長宛 上申書(再提出) 黒崎誠

    『標記の件、十三年前に提出し受理されなかった上申書を、原文のまま再提出する。
     当時の私は「神代恭介氏殺害事件は強盗ではなく、氏の捜査資料を目的とした計画的犯行の疑いが強い」と具申し、握り潰された。本年、同資料(通称・事件番号0)の存在が公判で立証されたことに伴い、当時の初動捜査の検証を求める。
     付記。握り潰した側の責任追及を求めるものではない。ただ、当時二十五歳の私に「坊主、階級が意見を言うんじゃねえ」と言った先輩諸氏に、一人ずつ、この新聞の切り抜きを郵送する権利だけは行使したい』


    《信州毎朝新聞 読者投稿欄「やまびこ」より》

    『「灰嶺事件」の報道に接し、四十年前に灰嶺署で働いた者として、一筆とらせていただきます。

     当時、署に神代という若い刑事がおりました。学園の火事を「事故ではない」と言い続け、煙たがられ、山向こうの駐在に飛ばされ、それでも通い続けた男です。上の者が「これ以上はお前のためにならん」と言うたび、彼は手帳の隅に「正」の字を書き足しておりました。何の勘定か、当時の私には分かりませんでした。意見を潰された回数を、あの男は数えていたのです。負けた回数ではなく、まだ折れていない回数として。

     彼が本当に何を調べていたのか、私どもは知ろうとしませんでした。知らないでいることが、あの頃の署内では、処世でありました。この歳になって、新聞で「事件番号0」の文字を見るまで、私はその処世を思い出すこともなかった。

     神代刑事はもうこの世にいないと聞きます。せめてこの欄をお借りして、四十年遅れの返事を書かせていただきたい。――神代さん。あんたのためにならんことは、何ひとつ、なかったようです。(元警察職員・八十二歳)』


    神代書房 古書目録(春季号)より

    『吉岡修蔵『ゼロの発見と数学の歩み』(昭和四十九年・三版)
     状態:並下。書き込み多数。見返しに遊び紙の袋綴じ加工(開封済)。
     ――非売品。
     当店には珍しく、値段のつけられない本が一冊だけございます。お尋ねくださっても売りません。店主が死ぬまで、帳場の後ろの棚におきます』


    長野・照遍寺 納経帳より

    『五月吉日
     永代供養料一式 奉納
      灰谷 灯
      神代 零
     備考:施主の希望により、紙一括十四枚を焼納。焼納の間、施主二名、堂内にて黙祷。住職所感、こういう日のためにこの寺はある』


    《東京拘置所 面会記録(抄)》

     四月十六日 面会人・灰谷灯(古物商) 被収容者・橘怜
     面会時間・三十分 差入れ・書籍一冊(『ゼロの発見』)、菓子(ビスケット・検査済)
     特記事項・なし

     ※係官付記 面会の大半、両名に会話なし。終了間際、面会人が「また来る」と述べ、被収容者が一礼した。被収容者は居室に戻ったのち、就寝時まで差入れの書籍を読んでいた。


    《神代探偵事務所 備品購入記録 五月分より》

     湯呑み(一客・客用) 五百二十円 起案・白石
     理由欄・「三人分じゃ足りなくなったので。よく来る保険屋の分」
     承認欄・神代(印) ※押印の横に鉛筆書きで「四人分の茶葉も」とあり



     記録は、以上である。

     なお、これらの記録のうちいくつかの写しが、ある拘置所の独房に差し入れられたことを、付記しておく。差し入れの依頼人欄には、古書店の屋号が記されていた。検閲官の記録によれば、受刑者は写しを長い時間読み、それから便箋を一枚だけ請求したという。

     書かれた文面は、短かった。

    『観測記録・補遺。
     観測者のいない場所でも、世界は正しく動いている。
     これを幸福と呼ぶことに、異議はない。0』


    終章 春

     五月の神保町は、新緑と古書の匂いがする。

     神代書房の二階、「神代探偵事務所」のドアには、最近、新しい真鍮のプレートが付いた。開業一周年の祝いだと言って、依頼人でもないのに玲司が勝手に発注したものだ。プレートの隅には、小さく「監修・一ノ瀬玲司」と彫られていて、蒼が三日かけてそこだけ削り落とした。

    「――で、だ」

     その玲司が、今日も依頼人用のソファに長い脚を組んで座っている。

    「保険業界における僕の沽券に関わるから一応確認するが、神代零。灯台の一件、公式にはどちらの手柄になっている?」

    「共同解決」

    「僕の記憶では、僕が空カプセルを押収した」

    「僕の記憶では、灯台のトリックを解いたのは僕だ」

    「記憶というのは当てにならないな。医学的にも証明済みだろう、君の場合」

    「一言多い」

     ひかりが給湯室から顔を出して、「はいはい、幼稚園児二人、お茶の時間」と湯呑みを三つ、盆に載せて運んでくる。玲司は「僕はダージリン以外――」と言いかけて、ひかりに一睨みされ、素直に番茶を受け取った。この事務所の力関係は、すでに確定している。

     窓際の作業机では、蒼が小さな木箱と格闘している。ソラの誕生日プレゼントだという。蓋を開けると雲の模型がふわりと浮かび上がり、その日の空の雲と同じ形に変形する――という構想らしいが、今のところ蓋を開けるたびに小さな雷が鳴る。

    「アオくん、それ絶対ソラくん喜ぶやつだ。雷のままでいいんじゃない?」

    「駄目だ。積乱雲は雲の王様だが、プレゼントに王様はうるさすぎる」

     ソラは、あれから月に一度、事務所に遊びに来る。この前来た時は、学校の自由研究のノートを見せてくれた。表題は『雲の観察・一年間』。最後のページに、大人の字の講評が貼ってあった。担任ではなく、刑務所の篤志面接委員を通じて届いた、沢渡恒夫からのものだった。巻積雲の観察眼を、元・製薬会社の専務は三行にわたって褒めていた。

     黒崎は相変わらず週に一度、「近くまで来たから」と言って寄る。手土産の焼き鳥の本数で、捜査の進み具合が分かる。灰嶺事件の再捜査本部は長野県警に立ち、九条と御堂の公判は続いている。車椅子の老人は法廷で一度だけ、「あれは医学の進歩のためだった」と言い、翌日から全国の紙面で袋叩きに遭った。真実は、埋めた人間から順に喰っていく。零の言った通りに。

     美玲は、灰嶺事件の被害児童の身元特定作業を、監察医務院の仕事の傍らで続けている。十二人のうち、九人までの名前が戻った。「名前が戻るたびに、役所の記録が一行増えるの」と彼女は言う。「地味でしょう。でもね、これが一番、Nの負けを確定させる仕事なのよ。『なかったこと』が、一つずつ『あったこと』に戻るんだから」

     灯は、今も情報屋だ。ただし店の名義は「灰谷」になった。カウンターの止まり木には、レイと名付けられた片羽の鴉。月に一度、小菅の拘置所に面会に行き、帰りに必ず神保町に寄って、零の淹れる下手なコーヒーに文句を言って帰る。

     階下の神代書房では、祖父が今日も帳場に座っている。先月、店の棚に一つ、小さな変化があった。数学の棚の一番いい場所に、『ゼロの発見』が一冊、面陳で飾られたのだ。値札の代わりに、祖父の達筆で小さな札が付いている。《非売品・当店の家宝につき》。常連客が「珍しい版でも?」と訊くたび、老店主は「いや、ごくありふれた版です」と答え、それ以上は説明しない。ありふれた版であることこそが、あの本の値打ちなのだと知っている人間は、この店の二階に、三人しかいない。

     そして零の机の抽斗には、今、大学ノートが一冊、戻ってきている。《神代零・復元手順書》。結局、使われることのなかった保険。ひかりは宣言通り、赤ペンを入れて返してきた。誕生日の日付の訂正。初めて事務所に来た日の訂正。番茶の淹れ方に関する三行にわたる抗議。そして最後のページ、零が書いた「僕の後半分は皆さんの中に保管されている」の一文の横に、彼女の字で、たった一言。

    《こっちも同じ。よろしく管理人》

     零はまだ、その返事を書けていない。訂正稿は、たぶん一生かけて書くことになる。

    「そういえば」

     番茶をすすりながら、玲司がふと言った。

    「君の探偵としての売り文句、あれはもうやめたのか。『答えは、最初からそこにある』」

    「やめてない。……あれは売り文句じゃなくて、遺言の続きだって分かったから、もっとやめない」

    「ふん。非合理的だが、まあいい。――ところで本題だ。仕事を持ってきた」

     玲司が、鞄から書類を出した。とたんに、事務所の空気が一段、引き締まる。ひかりが盆を置き、蒼が雷の鳴る木箱から顔を上げた。

    「軽井沢の美術館で、開館前の展示室から絵が一枚消えた。警備記録は完璧、窓も扉も施錠、監視カメラには誰も映っていない。保険金は二億。僕の会社は払いたくない。――どうだ、名探偵。密室は好きだろう」

     零は、書類を受け取らず、まず窓の外を見た。

     五月の空。ソラなら一目で名前を言い当てる、薄い雲が高いところに流れている。父と歩いた古書店街を、今日も知らない誰かが歩いていて、世界は事件の前も後も、同じ速さで回っている。

     ――零、よく見ろ。

     答えはいつも、最初からそこにあるんだ。

    「……ああ」

     零は振り向いて、書類を受け取った。新しい事件の、最初の一枚。すべての事件がゼロから始まるのなら、解き明かす側も、何度でもゼロから始めればいい。

    「受けるよ。――答えは、最初からそこにある。あとは僕らが、見つけるだけだ」

     神保町の空の下、古い書店の二階で、若い探偵の二つ目の一年が始まる。

     すべての事件は、"ゼロ"から始まる。

     そして物語は、いつだって――ここから始まる。

    (第一巻・了)

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

     
     
     

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