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ガラシャ―玉響(たまゆら)の誓い

    玉響(たまゆら)の誓い ――細川ガラシャ、はかなき愛の祈り――
    あらすじ
    明智光秀の娘・玉は、織田信長の主命により、若き武将・細川忠興へ嫁ぐ。研ぎ澄まされた刃のような気性の奥に、不器用なほど一途な愛を秘めた夫と、聡明ゆえに心を閉ざしがちな玉。すれ違い、傷つけ合いながらも、二人は乱世のただなかで、かけがえのない絆を結んでゆく。だが、父が起こした本能寺の変が、すべてを変えた。逆臣の娘となった玉は山里に幽閉され、やがて禁じられた信仰と出会う。権力に咲き誇る女たちとの対比、迫りくる関ヶ原前夜――。愛することも、生き抜くことも許されにくい時代に、のちにガラシャと呼ばれる一人の女が見つめた、はなやかで、はかなく、うつくしい、愛と祈りの物語。


    第一章 花の名を持たぬころ
    春の終わりの風は、まだ少女の頬に冷たかった。
    明智の館の庭では、八重の藤が房を垂れ、その紫は夕映えの名残を吸って、ひそやかに燃えているように見えた。玉は縁先に膝をそろえ、指先で白い懐紙の端をなぞっていた。遠くで誰かが箏を爪弾いている。音は細く、淡く、吹き抜ける風にほどけては消えた。
    父のいる館は、いつも静かだった。人の気配はあるのに、どこか張りつめていて、笑い声ひとつさえ、うかつに響かせてはならぬような空気がある。
    だが玉は、その静けさが嫌いではなかった。
    沈黙のなかには、ことばにならぬものが満ちている。父の背に漂う思慮、母のまなざしの奥に沈む祈り、兄・光慶の若やいだ息づかい。すべてが目には見えぬ糸となって、家というものを織り上げているのだと、まだ幼い玉にも感じられていた。
    「姫さま、またそのように難しいお顔をして」
    声に振り向くと、侍女見習いの琴が、盆に茶を載せて立っていた。年の頃は玉とそう変わらぬはずなのに、彼女の目もとには妙に世慣れた愛嬌があった。くちびるの端にいつも笑みをたたえ、叱られても、しおらしくうなだれるふりをして、次の瞬間にはもう誰かを笑わせている。
    「難しい顔などしていません」
    「しております。藤の花と張り合うほどに憂いを帯びて」
    「それは、ほめているのですか」
    「もちろんでございます。憂いのある姫君は、物語のなかではたいてい美しいのです」
    玉は思わず笑った。琴は、こういうときだけ妙に人の胸を軽くする。
    「物語のなかの姫君になど、なりたくありません」
    「では、どのようなお方になりたいのです」
    「……わかりません」
    そう答えると、琴は不思議そうに首をかしげた。
    「姫さまにも、わからぬことがあるのですね」
    「わたくしを何だと思っているの」
    「何でもご存じで、歌も書もお上手で、黙っていれば近寄りがたく、でも本当は誰より情の深いお方」
    からかいのようでいて、その実、琴のことばには嘘がない。玉は返すことばを失い、茶碗を受け取った。茶の湯気が、夕刻のひんやりした空気のなかでほの白く立ちのぼる。
    「ただ――」
    「ただ、何です」
    「姫さまは、どこか遠くを見ておいでです。ここではない場所を」
    玉は茶碗を持つ手を、かすかに止めた。
    ここではない場所。
    それがどこなのか、玉自身にもわからない。だが、琴のことばが胸の奥に落ちた瞬間、見たこともない広い空、見たこともない川の流れ、そして見たこともない誰かのまなざしが、一瞬だけ心をよぎった。
    そのとき、廊の向こうで足音がした。
    琴がすっと居ずまいを正す。現れたのは、兄の光慶ではなく、叔父のように親しく接してくれる明智秀満だった。戦場にあるときはさぞ峻厳であろう面差しも、玉の前ではいくぶんやわらいで見える。
    「玉さま、殿がお呼びです」
    「父上が?」
    胸が、わずかにざわめいた。
    父・光秀に呼ばれるときは、たいてい何か大切な話がある。玉は懐紙をたたみ、袂にしまった。秀満は一歩退いて道を譲り、その目にひそかな憐れみとも、励ましともつかぬ色をのぞかせた。
    「おそれることはございません」
    「おそれてなど」
    「……ええ。玉さまは、そう申されるでしょうな」
    秀満の言い方が妙に心に残った。
    父の座す部屋の前に至ると、玉は襖の向こうにただならぬ気配を感じた。かすかな沈香の匂い。筆を置いたばかりの墨の匂い。そして、ことばにされる前の決意の匂い。
    「玉にございます」
    声をかけると、間を置いて「入りなさい」と返ってきた。
    襖を開けると、光秀は文机の前に端坐していた。夕日が障子を透かし、その輪郭を金の縁でなぞっている。父はもともと端正な顔立ちをしていたが、近ごろはその端正さのうえに、刃のような鋭さが加わっていた。人の上に立つ者の孤独が、しずかに眉間へ影を落としている。
    「そこへ」
    玉は座した。父の前にいると、自分の呼吸の音まで聞こえそうだった。
    「おまえも、もう幼子ではない」
    前置きなく、光秀は言った。
    「はい」
    「ゆえに、家のことを話しておかねばならぬ」
    玉は視線を伏せたまま、膝の上で指を組んだ。琴ならばここで、いよいよ物語めいてまいりました、などと思うかもしれない。だが玉には、これが自分の人生の向きを変えるひと言になるのだと、はっきりわかっていた。
    「細川家より、縁談が来ている」
    その名を、玉は知っていた。
    細川。古き名門。将軍家に近く、武と文を兼ね備えた家。なかでも当主に近い立場にある若武者、細川忠興は、勇猛にして気性激しく、しかも和歌や茶にも通じると聞く。
    玉は、初めて聞く名であればよかったのに、と一瞬思った。知らぬ相手なら、ただ命に従うだけで済んだ。けれど、人づてに聞くその人の輪郭が、かえって胸を騒がせる。
    「細川……忠興どの、でございますか」
    「そうだ」
    光秀は玉を見た。その目に、父としての情と、武将としての判断とが、複雑に交じり合っている。
    「嫌か」
    玉は息をのんだ。
    嫌か、と問われるとは思わなかった。戦国の娘に、婚姻はまず家のものだ。好き嫌いを差しはさむ余地など、あるはずもない。だからこそ、その問いはかえって残酷だった。
    「父上のお決めになることに、従います」
    「それは答えになっておらぬ」
    光秀の声は低かったが、怒りではなかった。むしろ、試すような、あるいは確かめるような響きがあった。
    玉は唇を結んだ。
    「……わかりません」
    やがて、そう言うほかなかった。
    「まだお目にかかったこともございません。ただ、細川どのが勇ましいお方だと聞けば恐ろしくもあり、教養あるお方だと聞けば、少しだけ安堵もいたします。けれど、それが良い縁か悪い縁か、わたくしには見分けようがございません」
    光秀は、わずかに目を細めた。
    「正直でよい」
    「正直であることが、いつも良いとは限りません」
    「それでも、己の胸に偽り続ければ、いつか顔つきに出る」
    玉は顔を上げた。父は笑ってはいなかったが、そのことばは、どこかあたたかかった。
    「細川藤孝どのは教養深く、見識のある人物だ。家としても申し分ない。忠興も若いが、才気に満ちている。気性の烈しさは難でもあろうが、烈しさは裏を返せば真剣さでもある」
    「……はい」
    「そなたは、おそらく平穏ばかりの道は歩まぬ」
    そのひと言に、玉の胸の奥がひやりとした。
    まるで父は、この先に待つ嵐を、すでに見ているかのようだった。
    「だが、どのような運命に置かれようと、そなたがそなたであることを忘れるな」
    「わたくしが、わたくしであること……」
    「花は風に散る。だが、花が花であったことまで失われはせぬ」
    玉は黙って父を見つめた。
    そのときの光秀の顔を、のちに幾度も思い出すことになる。父として語るまなざしと、時代の裂け目を見つめる武将の目。その両方が、確かにそこにあった。
    父の部屋を辞したあと、外はすでに薄青い宵に沈みはじめていた。庭の藤は色をなくし、かわりに白くほのかな月が、梢の上にかかっている。
    琴が駆け寄ってきた。
    「姫さま、お顔の色が」
    「大げさです」
    「いいえ、大げさではございません。まるで、今しがた物語の一頁をめくってしまったようなお顔です」
    「……そうかもしれません」
    玉がそう言うと、琴は目を丸くした。
    「では、本当に何か」
    「縁談です」
    「まあ!」
    琴は両手で口を押さえ、それから目をきらきらさせた。
    「どちらのお方で?」
    「細川忠興どの」
    「まあまあ!」
    今度は最初の倍ほど驚いた。
    「それはまた、立派なお家ではございませんか。お相手はたしか、武勇すぐれ、しかも歌もおできになるとか」
    「人づての噂ばかりです」
    「噂は噂でも、良い噂なら結構でございます。怖いほど美男だとも」
    「琴」
    「失礼いたしました」
    玉は歩き出した。琴もあわててあとに従う。
    「姫さまは、うれしくはないのですか」
    「うれしい、というものではありません」
    「では、悲しいのですか」
    「それでもありません」
    「難しいことで」
    玉は夜気を吸いこんだ。冷えた空気のなかに、土と草と花の匂いが混じる。自分が今いるこの庭、この館、この家族の気配――そのすべてから、いずれ離れてゆくのだと思うと、胸が痛んだ。
    けれど同時に、まだ見ぬ道の先に何が待つのか知りたいと思う自分もいた。
    それは恐れに似て、しかし恐れだけではない。
    「琴」
    「はい」
    「わたくし、こわいのでしょうか」
    「ええ、たぶん」
    「そう」
    「ですが、こわいと知っておられるのなら、大丈夫です」
    あまりにあっさりした言い方に、玉は思わず足を止めた。
    「なぜ」
    「何もこわくないと思っている人より、ずっと」
    琴は照れくさそうに笑った。
    「それに、姫さまはお一人ではございません。どこへお嫁に行かれても、わたしがついております」
    「そなたが?」
    「ええ。おしゃべりで恋愛経験豊富な侍女が一人いると、何かと便利でございます」
    「恋愛経験豊富とは、誰が言ったの」
    「わたし自身でございます」
    玉はとうとう声を立てて笑った。
    笑ったあとで、ふと気づく。先ほどまで胸を覆っていた重いものが、少しだけ軽くなっている。人は、こうして支えられて生きるのかもしれない。家のために、名のために、運命のために。それでも最後には、ひとりの誰かのことばに救われる。
    宵の空に、細い月がかかっていた。
    玉はその月を見上げ、まだ名も知らぬ未来を思った。これから会う人。これから失うもの。これから得るもの。花ひらく春のように華やかでありながら、指先で触れれば壊れてしまいそうに儚い日々。
    その中心に、ひとりの男が立つのだろう。
    細川忠興。
    その名を心のうちでそっと唱えると、なぜか風がひときわ強く吹いた。藤の房が揺れ、散りかけた花びらがひとひら、玉の袖に落ちる。
    彼女はそれをつまみ上げ、掌にのせた。
    美しいものは、どうしてこんなにも、すぐに壊れてしまうのだろう。
    だが、壊れるからこそ、人はそれを忘れられないのかもしれない。
    玉は花びらを包むように手を閉じた。
    その小さな掌のなかに、やがて燃えあがる恋も、祈りも、別れも、まだ誰にも見えぬまま眠っていた。
    それから幾日か、玉のまわりの空気は、目に見えぬまま少しずつ変わっていった。
    母や侍女たちの声はひそまり、衣の色合わせひとつにも慎重さがにじむ。文机の上には、普段より上等な料紙が置かれ、琴はやけにうきうきと櫛を選び、結い上げた髪をあれこれと眺めては、ひとりでうなずいていた。
    「まだ先のことでしょうに」  玉が言うと、琴は鏡の向こうで口を尖らせた。 「先だからこそ、でございます。姫さまは何事も間際では遅いのです」
    「戦の支度のように言いますね」
    「恋も婚儀も、ある意味では戦でございましょう」
    あまりに平然と言うので、玉は眉をひそめた。 「そなたは何でも恋に結びつけるのね」
    「だって、お相手は細川忠興さまですもの。都でもいろいろ噂がございます」
    「どんな」
    「気性が烈しい、剣が冴える、目つきが鋭い、でもひどく美しい」
    「最後だけ、琴の好みでは」
    「ええ、大いに」
    玉はため息をついたものの、胸のどこかで、その噂のひとつひとつを拾ってしまう自分に気づいていた。
    烈しい人。
    その響きはこわかった。だが、こわいという感情には、時に目をそらせぬ引力が混じる。
    数日後、細川家の人々が明智の館を訪れることになった。
    表向きはあくまで挨拶であり、正式な取り決めは男たちの話し合いに委ねられる。けれど、家と家とが結ばれるとき、女の一瞥が何の意味も持たぬわけではない。玉は朝から落ち着かず、琴に帯を締め直されるたび、指先がわずかに冷えていくのを感じていた。
    「そのように固くなられますと、せっかくのお顔がこわばります」
    「平気です」
    「姫さまの平気は、たいてい平気ではありません」
    「今日はやけに辛辣ですね」
    「侍女の務めでございます」
    選ばれた小袖は、白に近い淡い藤色だった。華やかすぎず、地味すぎず、だが光の加減で花びらの裏のようなやわらかい艶を見せる。鏡に映る自分を見ても、玉にはそれが美しいのかどうか、よくわからなかった。ただ、もう昨日までの少女ではいられぬのだということだけが、妙にはっきりしていた。
    客人は昼過ぎに到着した。
    まず名を取り次がれたのは、細川藤孝。ついで嫡男・忠興、そして弟の興元。玉は御簾越しに、遠くその姿を見た。
    最初に目に入ったのは藤孝だった。噂に聞くとおり、武家の人でありながら、どこか公家めいた端然とした気配がある。ことさらに威を張るでもなく、静かに座しているだけで場の空気が整うような人だった。
    次に興元。兄よりやや柔らかな面差しで、口もとに親しみやすさがある。人の話をよく聞く者の目だった。
    そして――忠興。
    玉は思わず、息を浅くした。
    たしかに、美しい人だった。
    だがそれは、花や月にたとえるような美しさではない。よく研がれた刃のような、冷えた光をはらんだ美しさである。眉は凛として濃く、眼差しは鋭い。まだ若いのに、その全身に、すぐにも前へ踏み出しそうな緊張が宿っている。じっと座していても、心のどこかが常に燃えているような人だった。
    「……あれが」  玉のかすれた声に、そばの琴がうなずく。 「はい。噂どおりのお方で」
    「噂以上かもしれません」  そう言ってから、玉は自分で驚いた。
    忠興は父たちと挨拶を交わしていたが、不意に顔を上げた。御簾のこちらが見えるはずもない。けれどその視線がまっすぐこちらへ向いた気がして、玉は反射のように身を引いた。
    胸がひとつ、大きく鳴った。
    あの人は、人を見るときに容赦がない――そう思った。たとえ一目でも、相手を曖昧なままにはしておかぬ目だ。見られれば、心の奥まで覗きこまれるような気がする。
    「姫さま」  琴が小さく笑った。 「お顔が少し赤うございます」
    「気のせいです」
    「そういうことにしておきましょう」
    その日の対面は、礼を失せぬ範囲でごく短く整えられた。女のいる場へ通される前に、玉は何度も深く息をした。襖の向こうから聞こえる衣擦れ、低い男声、香の匂い。すべてがいつもより鮮明に感じられた。
    やがて、母に促され、玉は静かに座敷へ入った。
    畳の目を見つめ、定められた位置で頭を垂れる。視線を上げるべき時機も、笑むべき加減も、幼い頃から身につけてきた。なのにその日は、何もかもが少しずつ難しかった。
    「明智殿の姫君は、まことにお美しい」
    穏やかな声でそう言ったのは藤孝だった。ことばにいやみがなく、ただ人を安心させる深みがある。玉が礼を返すと、藤孝は満足そうに微笑んだ。
    「お噂どおり、聡明でもいらっしゃると伺っております」
    「そのようなことは」
    「謙遜もまた美徳ですが、過ぎれば惜しい。若い方は、もう少し堂々としていてよいのです」
    父の光秀とは異なる種類のあたたかさに、玉は少しだけ肩の力を抜いた。
    そのとき、忠興の気配が動いた。
    玉は意識するまいとしたのに、どうしてもその存在を感じてしまう。火鉢の火が近くにあると、見ずともぬくみを知るように。
    「和歌をおたしなみとか」  忠興が言った。
    初めて聞く声だった。低く、よく通る声だが、抑えた調子のなかに強い響きがあった。誰かに合わせて和らげることを、本質的には得意としない人の声。
    「少しばかり」
    「少しばかり、で済むお顔には見えぬ」
    玉は、そこで初めて彼を見た。
    真正面から。
    黒々とした瞳が、こちらを見ていた。強い目だった。まっすぐで、鋭くて、どこか危ういほどに熱い。そのくせ、こちらが見返すと、ほんのわずかに相手の出方をうかがうような繊細さもある。
    玉は胸の奥に、細い針が触れたような感覚を覚えた。
    「顔で歌は詠めません」  気づけば、そう答えていた。
    一瞬、座敷の空気が止まる。
    琴ならば青ざめる場面だったが、藤孝はむしろおかしそうに目を細めた。興元も口もとをほころばせている。
    忠興だけが、じっと玉を見ていた。
    怒らせただろうか、と玉は思った。気の強い男と聞く。初対面でこのように返すべきではなかったかもしれない。だが訂正する間もなく、忠興はふいに口の端だけで笑った。
    「それは失礼した。では、顔ではなく、ことばでお聞かせ願いたい」
    「今ここで、ですか」
    「できぬとおっしゃるなら、それでもよい」
    「そのようには申しておりません」
    玉は自分でも呆れるほど、引き下がらなかった。
    不思議だった。相手の強さに押されるどころか、何か別の力がこちらにも芽生える。試されていると思った瞬間、試し返したくなる。そんな気持ちを、玉はこれまで誰に対しても抱いたことがなかった。
    「では」  藤孝が面白そうに言った。 「庭の藤を題に、一首など」
    玉は一度まぶたを伏せた。
    この場で詠むことに難しさはない。難しいのは、誰に向けて詠むかを隠すことだった。庭の藤。夕べの風。散りかけた花。そして今、自分の胸に落ちてくる、名づけがたいざわめき。
    やがて玉は、静かに口を開いた。
    「咲き満ちて なお風を待つ 藤の花    散るを知りつつ 色を深めて」
    言い終えたあと、自分の声が思いのほか澄んでいたことに気づいた。座敷はしばし静まり、次いで藤孝が「見事」と言った。
    「散るを知りつつ、か」  興元がやわらかく繰り返す。
    忠興は何も言わなかった。
    その沈黙が、玉には誰の賞賛よりも気にかかった。失望したのか、それとも。
    しばらくして、忠興が低く口を開いた。
    「美しい歌だ」  それだけ言って、彼は視線を外さなかった。 「だが、散ることを知りながら色を深める花は、危うい」
    「危ういからこそ、美しいのでは」
    「美しさのために散るのは、愚かだ」
    「愚かでも、咲かずにいるよりは」
    そこまで言って、玉ははっとした。まるで歌論ではなく、自分たち自身のことを語っているようだったからだ。
    忠興の目が、わずかに揺れた。
    その揺れを見た瞬間、玉は知った。この人もまた、強いばかりの人ではない。強くあろうとするぶんだけ、内に深い傷を負う人だ。何かを守ろうとして、何かを壊してしまうかもしれない人だ。
    そしておそらく、自分もまた、この人に対して無傷ではいられない。
    対面が終わり、玉が座敷を辞そうとしたときだった。
    廊へ出る折、袖の端が柱の金具にかすかに引っかかった。小さなことだったのに、張りつめていた気持ちのせいで、玉は思ったより大きく体勢を崩した。
    「危ない」
    次の瞬間、腕を取られていた。
    強い手だった。だが乱暴ではない。とっさに支えるためだけに伸ばされた手でありながら、その熱がじかに伝わってくるほど近かった。
    玉は息を呑み、顔を上げた。
    忠興だった。
    あまりに近くて、彼のまつげの影まで見えた。鋭い眼差しの底に、抑えきれない何かが燃えている。玉の腕をつかむ手に、ほんの一瞬だけ力がこもる。離すべきだとわかっていながら、離しがたいとでもいうように。
    「……失礼」  忠興は低く言い、すぐ手を放した。
    だが、その一瞬で十分だった。
    玉の胸は、先ほどまでとは比べものにならぬほど、激しく打っていた。衣の下で脈が乱れ、指先にまで熱が走る。これが羞恥なのか、警戒なのか、それとも――名づけることをためらわせる、もっと甘やかで危ういものなのか、玉自身にも判じがたかった。
    廊の先で、忠興はもう振り返らなかった。背を向けたその肩に、わずかな硬さがある。まるで、自分の手のひらに残った熱を、持てあましているかのように。
    「姫さま」
    琴の声が、遠くから降ってきた。玉はようやく我に返り、乱れた裾をそっと直した。だが、いちど支えられた腕の感触は、衣を通してもなお、ほの温かく残っている。
    ――あの人は。
    言葉にしかけて、やめた。まだ、何ひとつ始まってはいない。なのに、すでに何かが、取り返しのつかぬほど深く、胸の奥に根を下ろしてしまった気がした。
    その夜、玉はなかなか寝つけなかった。
    天井の闇を見つめていると、昼間の声がよみがえる。散ることを知りながら色を深める花は、危うい――そう言った男の、揺れたまなざし。あれは、玉を諫めたのではない。おのれ自身に、言い聞かせていたのだ。
    烈しい人。けれど、その烈しさの底に、壊れることを恐れる繊細な何かが、たしかに息づいていた。
    玉はそっと寝返りを打った。
    恋とは、こういうふうに始まるのだろうか。胸を高鳴らせる甘いものとしてではなく、もっと静かに、もっと取り返しのつかぬものとして。まるで、抜きさしならぬ一手を、知らぬまに指してしまったときのように。
    *
    縁談は、とんとんと運んだ。
    それもそのはず、この婚姻は、二人の父が望んだだけのものではなかった。玉と忠興、双方の主君――織田信長その人の、意であったからだ。
    信長は、家臣の縁組みを、みずからの構想のもとに按配する人であった。明智光秀は、織田家にあって新参であり、外様の立場にある。古き名門・細川の家と血を結べば、丹波・丹後の平定にも、畿内の安定にも益がある。信長の頭のなかでは、玉と忠興は、おそらく一対の駒であった。盤上に置かれ、家と家とを縫い合わせるための、美しい一手。
    玉は、それを知っていた。
    戦国の娘に生まれた以上、おのれの婚姻が政略であることに、いまさら傷つきはしない。ただ、ひとつだけ、ふしぎなことがあった。駒であるはずの自分の胸が、なぜこんなにも、勝手に鳴るのだろう。
    父に呼ばれて縁談を告げられた夜、玉は「父上のお決めになることに従います」と答えた。けれど、いま思えば、あれは半ば嘘だった。従うのではない。みずから、あの人のもとへ行きたいと、もう願いはじめている。
    そのことを、玉は誰にも言わなかった。琴にさえ。
    言葉にすれば、壊れてしまいそうだったからだ。
    *
    天正六年、夏の終わり。
    玉の輿入れの日が来た。
    明智の館は、朝から人の出入りで満ちていた。婚礼の調度が運び出され、女たちは涙ぐみ、男たちはことさらに無口になった。母は玉の髪を結いながら、ただ一度だけ、その指を震わせた。
    「玉」
    「はい」
    「どこへ行こうと、おまえはわたくしの娘です。それだけは、変わりませぬ」
    母のまなざしの奥に沈むものを、玉はこのとき初めて、はっきりと見た気がした。祈りに似て、祈りよりも切ない、女から女へ手渡されるもの。
    輿に付き従う役は、叔父のように親しい明智左馬助秀満がつとめた。戦場にあれば峻厳なその人が、この日ばかりは、まるで実の妹を送り出すように、幾度も輿の簾へ目をやった。
    「玉さま」
    「秀満」
    「細川の家は、武も文も兼ねた、よき家にございます。……されど、もし、いつの日か、心細いことがあれば」
    「あれば」
    「夜空をご覧くだされ。同じ月が、明智の庭にも、かかっておりますゆえ」
    玉は、簾の内で、そっと笑った。
    「武辺の人とも思えぬことを」
    「武辺の者ゆえ、月くらいしか、差し上げるものがございませぬ」
    輿は、ゆるやかに動きはじめた。藤の散った庭が、生まれ育った館が、父の座す部屋の障子が、一つずつ、後ろへ流れて消えていく。玉は振り返らなかった。振り返れば、二度と前を向けぬ気がした。
    行く先は、山城・勝竜寺の城。
    その門前で、細川方の受け取り役・松井康之が、深々と頭を垂れて輿を迎えた。
    *
    祝言は、簡素なものであった。
    戦国の世である。華美をきわめる暇も、その理由もない。されど、灯火に照らされた婚儀の座には、簡素であればこそ立ちのぼる、ある種の清らかさがあった。
    白無垢の玉と、礼装の忠興が、初めて夫婦として向かいあう。
    盃を交わすあいだ、忠興はほとんど口をきかなかった。鋭い眼差しは、ともすればこちらを射抜くようでありながら、玉と目が合うたび、ほんのわずかに泳ぐ。あの、対面の日に見た繊細さが、今宵はいっそう、隠しきれずにいた。
    夜が更け、二人きりになった。
    灯を落とした部屋に、忠興の気配だけが、近くにあった。火鉢の火を見ずともぬくみを知るように、玉はその存在を、肌で感じていた。
    「……あの日の歌を」
    ふいに、忠興が言った。低い声が、闇のなかで、いつもより幼く聞こえた。
    「咲き満ちて、なお風を待つ藤の花。散るを知りつつ、色を深めて――あれを、幾度も思い返した」
    「お気に召しませんでしたか。散ることを知りながら色を深める花は、危ういと、仰せでした」
    「危うい」
    忠興は、しばし黙った。それから、絞り出すように続けた。
    「危ういものを、美しいと思うてしまう己が、おそろしい。おれは……一度よいと思うたものを、手放すことができぬ性分だ。歌も、刀も、茶碗も。そして」
    そこで言葉が途切れた。
    闇のなかで、玉は息をひそめた。
    「そなたも」
    ようやく、忠興はそう言った。まるで、戦場で名乗りを上げるよりも、なお勇気のいることのように。
    玉は、胸の奥がしんと鎮まるのを感じた。さきほどまでの高鳴りが、温かい確かさに変わっていく。
    「手放せぬのなら」
    玉は、闇に向かって、静かに言った。
    「どうか、握りつぶしてしまわれませぬよう。花は、強く握れば、それだけで散ってしまいますゆえ」
    忠興が、息を呑む気配がした。
    「……肝に銘じよう」
    その夜、玉は知った。この人の愛は、おそらく、世の常のそれとは違う。強く、烈しく、まっすぐで――そして、そのまっすぐさゆえに、いつか、二人ともを傷つけるかもしれない。
    それでも、と玉は思った。
    それでも、わたくしは、この人の妻になった。
    *
    新婚の日々は、玉の生涯のなかで、もっとも華やかな季節であった。
    やがて二人は、丹後の宮津へ移った。海に面した城である。明智の山深い館とは違い、宮津には、潮の匂いと、開けた空があった。玉が幼い日にふと心をよぎった「見たこともない広い空、見たこともない川の流れ」は、もしかすると、この地のことだったのかもしれぬと、ときおり思った。
    忠興は、十八で丹後一国の主となった。若き国主は、政務に戦に忙しく、館を空けることも多かった。だが、帰ればかならず、まっすぐ玉のもとへ来た。
    「留守のあいだ、何をしていた」
    「歌を詠み、書をしたためておりました」
    「見せよ」
    差し出した料紙を、忠興は食い入るように読む。和歌にも書にも通じた人である。玉の一字一句に、ときに唸り、ときに眉をひそめ、そして最後には、決まって少しだけ悔しそうな顔をした。
    「……おれより、うまい」
    「殿は、武がございます」
    「武など、そなたの一首には敵わぬ」
    そう言って横を向く横顔が、あまりに子どもじみていて、玉はそっと笑いをこらえた。
    翌年、玉は長女を産んだ。さらにその翌年には、長男・忠隆が生まれた。
    赤子を抱く忠興の、ぎこちない手つきといったらなかった。刀を握れば天下に並ぶ者なき手が、わが子の前ではただ震えている。
    「落とさぬよう」
    「わかっておる」
    「お顔が、こわばっておいでです」
    「……うるさい」
    そんなやりとりのひとつひとつが、玉にはいとおしかった。華やかでありながら、指先で触れれば壊れてしまいそうに儚い日々。あの夜、掌のなかに包んだ藤の花びらのような日々。
    ただ――幸福の底には、すでに小さな翳りがあった。
    忠興は、玉を、誰の目にも触れさせたがらなかった。
    客が来れば、玉を奥へ退かせた。家臣が玉に言葉をかけることさえ、好まなかった。あるとき、庭の手入れをしていた者が、たまたま縁先の玉を見上げただけで、忠興の顔色が変わったことがある。
    「殿」
    玉は、その夜、静かに諫めた。
    「あの者は、ただ庭を見ていただけにございます」
    「……わかっている」
    「わかっておいでなら」
    「わかっていても、おさえられぬ。それが、おれという男だ」
    忠興は、苦しげに目を伏せた。烈しさは、裏を返せば真剣さである――かつて父・光秀はそう言った。だが、真剣さは、ときに刃となって、いちばん近しい者へ向く。
    玉は、何も言わなかった。ただ、夫の背に手を添えた。
    この人を、愛している。けれど、この愛は、いつか嵐を呼ぶかもしれない。そんな予感が、潮騒のように、胸の奥でひそかに鳴っていた。
    *
    そして、その予感は、思いもよらぬ方角から、現実となって押し寄せた。
    天正十年、初夏。
    都の空が、燃えていた。
    第二章 狂瀾の嵐、天を衝く
    六月二日の未明、その報せは、稲妻のように畿内を駆けめぐった。
    本能寺の変。
    織田信長が、京・本能寺において、家臣の謀反に倒れた。そしてその謀反の張本こそ――明智日向守光秀。玉の、父であった。
    報せが宮津に届いたとき、玉はちょうど、忠隆に乳をふくませていた。近習があわただしく廊を走る音、家臣たちのただならぬ声。やがて忠興が、血の気の失せた顔で、部屋へ入ってきた。
    「玉」
    その一声で、玉は、すべてを悟った。夫が、これほど取り乱した声を出すのを、初めて聞いた。
    「父上が……何かなさいましたか」
    「上様を、討たれた」
    世界が、音を立てて、傾いだ。
    「……まさか」
    「本能寺にて、上様は果てられた。光秀どのが、兵を向けられたのだ」
    玉は、わが子を抱いたまま、動けなかった。父の顔が浮かんだ。あの、刃のように鋭く、それでいてあたたかかったまなざし。「どのような運命に置かれようと、そなたがそなたであることを忘れるな」――別れの夜の、父の声。
    あれは、これを見ていたのか。父は、おのれの行く末を、すでに知っていたのか。
    「父上は、勝てるのですか」
    玉は、かすれた声で問うた。妻としてではなく、ただ、娘として。
    忠興は、答えなかった。その沈黙が、何よりの答えだった。
    *
    明智光秀から、細川家へ、書状が来た。
    ともに起ってほしい。婿どのの力を借りたい――その文面には、いつもの父の沈着はなく、ただ、すがるような切迫だけがあった。玉は、後にそれを伝え聞いて、胸が裂けるかと思った。父は、孤立していた。盟友と頼んだ細川の家にさえ、確かな約束を持たぬまま、賽を投げたのだ。
    細川の館では、夜を徹して評定が続いた。
    父・藤孝と、子・忠興。光秀とは、ともに足利の将軍家に仕え、織田に仕え、茶を点て、歌を詠みあった、年来の友であり、いまや姻戚である。情において、断れるはずもない。
    だが、藤孝は、断った。
    「光秀どのは、主君を弑された。たとえいかなる理由があろうと、その大義は、立たぬ」
    そう言って、藤孝は髪を剃り、名を幽斎と改めた。信長の死に弔意を示し、おのれは隠居して、家督のいっさいを忠興へ譲る。細川の家は、明智には与しない。その意を、天下に向けて、はっきりと示すためであった。
    そして幽斎は、わが子に、もう一つの命を下した。
    「玉どのを、離縁せよ」
    *
    その夜、忠興は、長いあいだ、玉のもとへ来なかった。
    来たのは、月が中天を過ぎたころである。
    灯も入れぬ部屋で、忠興は、玉の前に座った。その顔は、戦場から戻ったときよりも、なお青ざめていた。
    「玉」
    「……はい」
    「おれは、おまえを、離縁せねばならぬ」
    玉は、膝の上で、そっと指を組んだ。あの、父に縁談を告げられた夜と、同じように。あのときは、人生の幕が上がる音だった。今は、幕が引かれる音だった。
    「家のためにございますね」
    「家のためだ。そして」
    忠興は、言葉を切った。喉の奥から、ようやく、それを押し出した。
    「そして、おまえの、命のためだ」
    玉は、顔を上げた。
    「逆臣の娘を、妻として置けば、細川の家は滅ぶ。だが、ただ離縁して放り出せば、おまえは、明智の縁者として、狩られる。煕子どのも――おまえの母上も、もう」
    そこで、忠興の声が、震えた。
    母も、すでにこの世にない。明智に連なる者は、次々と、刃の下に消えていく。父の謀反は、わずか十一日で潰え、光秀は山崎に敗れ、落ち武者狩りの竹槍に、その生涯を閉じた。一族は、滅びた。
    その滅びのなかで、ただ一人、玉だけが、まだ生きている。
    「だから、隠す」
    忠興は言った。
    「丹後の奥、味土野という山里へ、おまえを移す。世の目から、隠す。秀吉どのの世が定まり、ほとぼりが冷めるまで。表向きは、離縁。だが――」
    「だが?」
    「おれは、おまえを、捨てたのではない」
    玉は、しばらく、何も言えなかった。
    夫が、何を選び、何を背負おうとしているのか、痛いほどわかった。妻を山に隠すという、その一事に、細川の家の存亡も、おのれの愛も、すべてを賭けている。烈しいこの人が、これほどの忍耐を、いったいどこから絞り出しているのか。
    それでも――それでも、玉の口からこぼれたのは、聞き分けのよい言葉ではなかった。
    「なぜ、私を、捨てるのですか」
    声が、震えた。
    「家のためとも、命のためとも、わかっております。頭では、わかっております。けれど――」
    抑えていたものが、堰を切った。
    「けれど、私は、あなたの妻になりました。あの夜、握りつぶさぬでくれと申し上げたら、肝に銘じると、仰せになりました。それなのに、いま、あなたは、私を、手放そうとしておいでです。離縁という名で、山の奥へ、ひとり、捨てようとしておいでです」
    「玉」
    「父が、何をしたかは存じませぬ。けれど、私は、何もしておりませぬ。ただ、あの人の娘に生まれた。それだけで――それだけで、なぜ、こんな」
    涙が、頬を伝った。武家の娘として、人前で涙を見せぬよう育てられた。その教えが、いま、音を立てて崩れた。
    忠興は、動かなかった。
    ただ、その手が、膝の上で、固く握りしめられている。爪が掌に食い込むほどに。彼もまた、泣くことを、おのれに許していないのだと、玉は知った。泣く資格すら、いまの自分にはないと、思い定めているのだ。
    「すまぬ」
    やがて、忠興は、それだけ言った。
    「来世が、もしあるなら」
    「来世?」
    「戦のない世に、生まれたい。そのときは、家も、名も、謀反も、何もない。ただ、おまえと、おれと――それだけの世に」
    玉は、涙のなかで、夫を見つめた。
    これが、この人の、精いっぱいの愛の言葉なのだ。烈しく、不器用で、こんなときにしか、本心を口にできない。
    「……約束ですよ」
    玉は、震える声で、言った。
    「来世。戦のない世。きっと、ですよ」
    忠興は、答えなかった。
    ただ、闇のなかで、一度だけ、深くうなずいた。その肩が、声を殺して、かすかに揺れていた。
    *
    味土野は、丹後の、山の奥のさらに奥にあった。
    天をふさぐ杉木立。冬には雪が肩まで積もり、夏でも朝夕は袷が要る。人里からは隔たり、聞こえるものといえば、谷を渡る風と、沢の水音と、まれに鳴く山鳥の声ばかりであった。
    玉が移されたのは、その山中に設けられた、小さな館である。守りの者たちが遠巻きに置かれていたが、その役目は、玉を守ることであると同時に、玉を逃さぬことでもあった。離縁という名の、幽閉。世の目から隠された、囚われの日々が、こうして始まった。
    供を許されたのは、わずかな侍女のみ。そのなかに、琴がいた。
    「琴。そなたは、残らずともよかったのです」
    「何を仰せです」
    琴は、つとめて明るく言った。
    「どこへお嫁に行かれても、わたしがついておりますと、申し上げたではございませぬか。山の奥でも、おなじことでございます。……まあ、思うていたよりは、だいぶ、山深うございますが」
    「都の噂話も、できぬ山ですよ」
    「では、わたしが、こしらえます。山姥が恋をした話などは、いかがでしょう」
    玉は、思わず噴き出した。
    笑ったあとで、目の奥が熱くなった。この娘は、いつも、こうやって、玉の胸の重みを、ほんの少しだけ軽くしてくれる。家も、名も、父も母も失ったいま、玉に残されたものは、もう、数えるほどしかない。けれど、その数えるほどのなかに、たしかに、琴がいた。
    *
    幽閉の冬、玉は、身ごもっていた。
    宮津を発つ前から、すでに腹に宿っていた、忠興との子であった。父を喪い、母を喪い、一族の滅びのただなかで、それでも、新しい命が、おのれの内に育っている。その事実は、玉にとって、残酷なほどの慰めであった。
    「生まれてくるそなたには、何の咎もない」
    玉は、ふくらんだ腹に手を当て、語りかけた。
    「逆臣の孫だと、世は言うかもしれぬ。けれど、母は、そなたを、恥じはせぬ。命は、めぐる。花は散っても、種は残る。父上は、そう仰せでした」
    雪深い山中で、玉は、男の子を産んだ。後に興秋と名づけられる子である。
    産声を聞いたとき、玉は、声を上げて泣いた。これまで、こらえにこらえてきたものが、その一声で、堰を切った。悲しみではなかった。といって、喜びだけでもなかった。生きている、という、ただそれだけのことの、あまりの重さに、泣いたのだ。
    *
    その夜のことを、玉は、生涯忘れなかった。
    赤子を寝かしつけたあと、玉は、ひとり、縁に出た。
    雪はやみ、山の上に、冴え冴えと、月がかかっていた。
    そのとき、ふいに、別れの日の声がよみがえった。輿に付き添ってくれた、明智左馬助秀満の言葉である。
    ――もし、いつの日か、心細いことがあれば、夜空をご覧くだされ。同じ月が、明智の庭にもかかっておりますゆえ。
    秀満は、もう、この世にいない。明智の庭も、いまはない。
    それでも、月は、変わらず、そこにあった。
    玉は、月を見上げた。あの人も、いま、同じ月を見ているだろうか。戦のいくさの陣のどこかで、あるいは、人知れぬ夜の帳のなかで。
    *
    玉が知らぬことであったが、その同じ夜。
    遠い戦陣で、細川忠興もまた、月を見上げていた。
    信長の死ののち、忠興は、いちはやく羽柴秀吉に従い、各地の戦に明け暮れていた。逆臣の婿という、消えぬ汚名を背負いながら、ただ武功を立てることのみが、細川の家を、そして山に隠した妻を、守る道であった。
    陣中で、忠興は、誰にも本心を漏らさなかった。烈しく、苛烈に、戦った。
    だが、夜がふけ、兵たちが寝静まると、忠興は、決まって陣幕を出た。
    そして、月を見上げた。
    味土野の空にも、いま、この月がかかっているはずだ。あの女は、無事でいるだろうか。寒さに、凍えてはいないか。腹の子は、生まれただろうか。男か、女か。おれに、似ているだろうか。
    問いかけても、月は、何も答えない。
    それでも、忠興は、毎夜、月に向かって、たった一つのことを祈った。
    生きていてくれ。
    ただ、生きていてくれ。
    おれが迎えにゆくその日まで、何があっても、生きていてくれ。
    ――その祈りが、山ひとつ、谷いくつも隔てた味土野の月に、届いているのかどうか。忠興には、知りようもなかった。ただ、同じ月を、二人が見ている。その一事だけが、引き裂かれた夫婦をつなぐ、細い細い、一本の糸であった。
    *
    味土野の歳月は、長かった。
    春が来て、夏が過ぎ、秋が深まり、また雪が降った。そしてまた、春が来た。
    玉は、興秋を育てながら、書を読み、歌を詠んだ。料紙も墨も乏しい山中である。詠んだ歌は、紙に記すよりも、胸のうちに刻むことのほうが多かった。
    不思議なことに、孤独は、玉を弱らせはしなかった。
    むしろ、奪われていくなかで、玉は、おのれの芯のようなものに、初めて触れた気がした。家を奪われ、名を奪われ、父母を奪われ、夫からさえ引き離されてもなお、奪われずに残るもの。父が、別れの夜に言った――「花は風に散る。だが、花が花であったことまで失われはせぬ」。
    その意味が、いま、ようやくわかりかけていた。
    だが、人は、芯だけでは生きられぬ。
    夜ごと、玉の胸を、得体の知れぬ淋しさが訪れた。なぜ、自分だけが生き残ったのか。一族がことごとく滅びたなかで、なぜ、自分だけが。生きていることが、罪のように思える夜が、幾度もあった。
    「父上、母上、姉上」
    玉は、暗闇に向かって、つぶやいた。
    「どうか、私をお許しください。私は、まだ、生きております。生きて、しまっております」
    答える声は、なかった。山の沈黙だけが、玉を包んだ。
    このとき、玉の胸の奥には、まだ名を持たぬ渇きが、芽生えていた。この苦しみに、意味はあるのか。死んだ者と、生き残った者を、ともに赦してくれる何かは、この世のどこかに、あるのか。
    その渇きが、やがて、海の向こうから来た一つの教えへと、玉を導いていくことになる。だが、それは、もう少し先の話である。
    *
    幽閉が二年に及んだころ、山に、一つの報せが届いた。
    天下は、すでに、羽柴秀吉のものとなりつつあった。山崎に光秀を破った秀吉は、賤ヶ岳に柴田勝家を破り、急速に、信長の遺した版図を、おのれのものとしていった。細川父子も、その秀吉に、忠実に従っていた。
    そして、秀吉は、許した。
    逆臣・明智光秀の娘を、細川の家に戻すことを。忠興の、たび重なる武功への、褒賞でもあったろう。あるいは、人心を懐柔せんとする、天下人の度量を示すためでもあったろう。理由が何であれ、玉にとっては、ただ一つの意味しか持たなかった。
    山を、出られる。
    迎えの一行が味土野へ着いた日、玉は、興秋の手を引いて、館の外へ出た。二年ぶりに見る、ふもとへ続く道。木々のあいだから差す、まばゆい光。
    「姫さま」
    琴が、涙ぐんでいた。
    「お迎えにございます。とうとう、お迎えにございます」
    玉は、しばらく、その道を見つめていた。喜びが、すぐには湧いてこなかった。むしろ、胸の奥には、奇妙な静けさがあった。
    山を下りれば、また、あの人がいる。烈しく、不器用で、こんなときにしか本心を言えぬ、あの人が。再び、夫婦になれる。
    けれど――山に入る前の玉と、山を出る玉は、もう、同じ玉ではなかった。
    二年の孤独は、玉のなかに、ひとつの問いを残していった。愛とは、何か。生きるとは、何か。この乱世で、女が、おのれを保つとは、どういうことか。
    その問いを抱いたまま、玉は、ふもとへの道を、一歩、踏み出した。
    第三章 暗闇に灯る十字架
    *
    玉が落ち着いた先は、大坂・玉造の、細川の屋敷であった。
    天下人の城のお膝元である。山里の沈黙とは打って変わって、まわりには人の声があふれ、塀の外には、栄えゆく城下のざわめきがあった。だが、その賑わいは、玉のものではなかった。
    帰坂はかなった。されど、「逆臣の娘」という烙印は、消えはしない。玉は、屋敷の奥深くに置かれ、みだりに外へ出ることを許されなかった。門は、玉のためには開かれない。山を下りたはずなのに、玉は、ふたたび、囲いのなかにいた。味土野の囲いが杉木立であったなら、玉造のそれは、夫の愛そのものであった。
    忠興の、玉を隠そうとする性分は、二年の別離を経て、いっそう烈しくなっていた。
    引き裂かれていたあいだ、忠興は、月に祈り続けた。生きていてくれ、と。そうして取り戻した妻である。もう二度と、何者にも、奪わせはしない。その思いが、度を越して、玉を縛った。
    客があれば、玉は奥へ退く。家臣が言葉をかけることも許されぬ。玉が誰かと笑えば、忠興の目の色が変わる。
    ある日のこと、屋敷の庭を手入れしていた下働きの者が、縁先に立つ玉の姿を、ふと見上げた。ただ、それだけのことであった。だが、その一瞬を、忠興は見ていた。
    その者が、次の日から、屋敷から姿を消したことを、玉は、しばらくして知った。
    真偽は、わからない。世のうわさは、いつも尾ひれをつける。だが、玉の胸には、冷たいものが落ちた。私を見たというだけで、人が、消える。私を愛するという、その同じ心が、人を、傷つける。
    「殿」
    その夜、玉は、夫に問うた。
    「あなたの愛は、なぜ、こんなにも、人を遠ざけるのですか」
    忠興は、答えなかった。ただ、苦しげに、目を伏せた。彼自身、おのれの烈しさを、もてあましていた。愛するほどに、失うことが怖い。失うことが怖いほどに、囲い込む。囲い込むほどに、相手の心は、するりと、こぼれていく。
    二人は、愛しあっていた。それは、まぎれもない。
    なのに、その愛は、どうしてか、互いを幸福にする道を、見つけられずにいた。
    *
    玉造の日々のなかで、玉の心は、少しずつ、翳っていった。
    味土野で芽生えた問いは、消えるどころか、深くなる一方であった。なぜ自分は生かされたのか。この囲いのなかで、ただ歳をかさね、夫の嫉妬に怯え、子を育てるだけが、おのれの生なのか。父も母も姉も、無残に散った。なのに、自分は、いまだ、生きている。生きて、苦しんでいる。
    死んだほうが、楽かもしれぬ。
    そう思う夜が、幾度もあった。
    帯を見つめ、梁を見上げ、おのれの胸に問うた夜が。
    だが、そのたびに、玉を引きとめたものがあった。眠る子らの寝息。琴の、屈託のない笑い声。そして――月に祈っていたという、夫の、不器用な背中。
    死ねなかった。死ぬことすら、玉には、許されていないように思えた。
    生きるにも、理由がいる。死ぬにも、許しがいる。その両方を、玉は、まだ、持たなかった。
    *
    そのころ、城下では、ひとりの女の名が、しきりに人々の口にのぼっていた。
    茶々。近江の浅井長政と、織田信長の妹・市の方とのあいだに生まれた姫である。幼くして父を喪い、やがて母をも戦火に喪い、落城のたびに居場所を変えながら生き延びて、いまや、天下人・羽柴秀吉の、もっとも寵あつい女として、大坂城の奥深くに、咲き誇っているという。
    玉は、その噂を、囲いのなかで、聞いた。
    同じ、戦国の娘であった。同じ、滅びた家の血を引いていた。父を喪い、一族の崩れゆくさまを、目に焼きつけた。そこまでは、玉と、おそろしいほど、よく似ている。
    なのに――かたや、天下人の腕に抱かれ、絢爛たる衣をまとい、権勢の頂で輝いている。かたや、逆臣の娘として屋敷の奥に閉じこめられ、夫の嫉妬に怯えている。
    同じ嵐に投げ込まれた二輪の花が、かくも違う咲き方をする。それを、運命と呼ぶのか、生き方と呼ぶのか、玉には、わからなかった。
    ――あの方は、幸せなのだろうか。
    ふと、玉は思った。権力の光のただなかにいる女は、はたして、囲いのなかの自分より、自由なのだろうか。豪奢な衣も、天下人の寵も、世継ぎを産むという誉れも、煎じつめれば、別の名の囲いではないのか。咲き誇る花ほど、散るときの墜ちようは、深い。
    問うても、答えはなかった。ただ、玉のなかで、ひとつのことだけが、はっきりとした。
    私は、あの方の道は、歩めぬ。
    権力に寄り添い、おのれを飾り立てることで、胸のうろを埋める。そういう生き方は、玉には、できなかった。では、自分は、何によって、この空虚を、満たせばよいのか。家でも、名でも、権勢でも、ないとすれば。
    その問いは、玉を、ますます内へと向かわせた。外の世が華やかであればあるほど、玉は、おのれの内側の、声なき声に、耳を澄ました。乱世のただなかで、女がひとり、おのれを失わずにあるための、たった一つの拠りどころ。それを、玉は、まだ、見つけられずにいた。
    *
    転機は、思いがけぬところから訪れた。
    ある夜、戦から戻った忠興が、めずらしく、おだやかな顔をしていた。
    九州の陣で、旧知の武将と、語り明かしたという。高山右近――茶の湯にも通じた、名高い武将である。だが、その夜、右近が忠興に語ったのは、茶のことでも、戦のことでもなかった。
    「妙な男よ」
    忠興は、半ば呆れ、半ば感じ入ったように言った。
    「あの右近が、おのれの信じる教えのことを、熱く語るのだ。海の向こう、南蛮から渡ってきた、デウスとやらの教えだという」
    「デウス……」
    「天地をつくり、人をつくった、ただ一つの神だと。身分の上下も、勝者も敗者も、その神の前では、みな等しいのだそうだ。罪を犯した者も、悔いあらためれば、赦されると。――戦に明け暮れるおれたちには、まるで、絵空事のような話よ」
    忠興は、笑った。
    「右近は、その教えのために、領地さえ捨てかねぬ顔をしていた。武将が、神のために、家を捨てる。正気の沙汰とも思えぬ」
    玉は、何も言わなかった。
    ただ、その胸の奥で、何かが、静かに、鳴った。
    罪を犯した者も、悔いあらためれば、赦される。
    勝者も、敗者も、神の前では、みな、等しい。
    ――では。
    逆臣の娘も、赦されるのか。生き残ってしまった者の、この罪も、赦されるのか。死んでいった父も母も、そして、生きて苦しむ私も、その神の前では、等しいのか。
    玉は、夫が何気なく口にしたその話を、一言も、聞きもらすまいとした。忠興は、ただの土産話のつもりで、語ったにすぎぬ。おのれの言葉が、妻の胸に、どれほど深く落ちたか、知る由もなかった。
    その夜、ひとりになってから、玉は、暗闇に向かって、そっと、その名を繰り返した。
    「デウス」
    聞いたこともない、異国の響き。けれど、その響きのなかに、玉は、生まれて初めて、おのれの渇きを潤すかもしれぬ、一滴の水の気配を、感じた。
    幾日かののち、玉は、琴に、そっと尋ねた。
    「琴。そなた、デウスという教えを、耳にしたことがありますか」
    「でうす、でございますか」
    琴は、めずらしく、首をかしげた。
    「南蛮の、神さまの話だとか。この城下にも、その教えを説く、伴天連という者がおるそうにございます。十字の形を掲げて、貧しい者にも、病める者にも、分け隔てなく、手を差しのべると」
    「分け隔てなく」
    「ええ。身分の高い低いも、罪のあるなしも、問わぬのだとか。……姫さま、何ゆえ、そのようなことを、お尋ねに」
    「いえ」
    玉は、それ以上は、言わなかった。
    だが、その夜から、玉は、少しずつ、変わっていった。書を読むのも、歌を詠むのも、これまでと変わらぬ。けれど、その奥に、ひとつの灯が、ともった。まだ、ごく小さな、息を吹きかければ消え入りそうな灯であった。それでも、それは、味土野の闇のなかでも、玉造の囲いのなかでも、ついぞ見つけられなかったものであった。
    赦されるかもしれない。
    この罪も、この渇きも、生き残ってしまったというこの負い目も。海の向こうから来た、まだ顔も知らぬ神の前でなら。
    玉は、生まれて初めて、明日という日を、待ち遠しく思った。
    味土野の月の下で芽生えた、名を持たぬ渇き。それは、いま、ひとつの名を得ようとしていた。
    いまはまだ、ひとひらの花びらが、掌のなかで、眠っているだけであった。
    *
    天正十五年の春が、来た。
    その年、天下人・羽柴秀吉は、九州の島津を討つべく、大軍を催した。細川忠興も、これに従い、はるか西へと出陣していった。
    夫の留守は、長きにわたる見込みであった。
    玉造の屋敷から、あの烈しいまなざしが消えた。客を退け、家臣を遠ざけ、玉を奥へ奥へと囲い込む、あの監視の目が。屋敷を覆っていた張りつめた糸が、ふと、ゆるんだ。
    ちょうど、彼岸の時節であった。亡き者を弔い、生ける者が来し方行く末に思いをいたす、その数日。
    玉は、決意した。
    「琴」
    「はい」
    「教会へ、まいりたいのです」
    琴は、息を呑んだ。
    「姫さま、それは……あまりに、危のうございます。もし殿のお耳に入れば」
    「殿は、九州です」
    「ですが、見張りの者が」
    「彼岸の供養と申せば、外出の口実も立ちましょう。侍女を幾人か連れ、参詣の体を装えば、城下まで出られます」
    玉の声は、静かであった。だが、その静けさのなかに、もう誰にも止められぬ、芯の固さがあった。
    琴は、しばらく、玉を見つめた。それから、観念したように、にっこりと笑った。
    「では、わたしが、先導いたします。おしゃべりで世慣れた侍女が一人いると、こういうときこそ、便利でございましょう」
    *
    侍女六、七人に取り囲まれるようにして、玉は、屋敷の門を出た。
    何年ぶりであろう。みずからの足で、塀の外の世を歩くのは。
    城下は、まばゆかった。市が立ち、人があふれ、子らが駆け、物売りの声が飛び交う。玉は、その喧噪のなかを、うつむきがちに、しかし一歩ごとに胸を高鳴らせながら、進んだ。囲いのなかで、ただ死を思っていた女が、いま、生きた世のただなかを、歩いている。
    やがて、一行は、城下の一隅にある、その建物の前に立った。
    南蛮寺――伴天連の、教会である。
    なかへ入ると、外の喧噪が、嘘のように消えた。
    天井は高く、薄暗がりのなかに、いくつもの灯がともっていた。正面には、十字に架けられた、痩せたひとりの男の像。そのまわりに、身分も貧富もまちまちの人々が、ひざまずき、頭を垂れている。
    ちょうど、その日は、復活祭であった。
    死して三日ののち、よみがえったという、その教えの主を寿ぐ、最も大切な祝いの日。説教の最中であった。
    玉は、隅にひざまずき、耳を澄ました。
    語っていたのは、コスメと呼ばれる修道士であった。たどたどしくも、ひとつひとつ言葉を選びながら、彼は説いた。人は、みな、罪を負って生まれる。だが、神は、その独り子をこの世に遣わし、人の罪を、ことごとく、その身に引き受けさせた。罪ある者が罰せられるのではない。罪なき者が、罪ある者にかわって、苦しみを引き受けた。それゆえ、いかなる罪人も、悔いあらためて神に立ち返るなら、赦される――と。
    玉の胸を、稲妻のようなものが貫いた。
    赦される。いかなる罪人も。
    味土野の闇で、玉が幾度も問うた問い。なぜ自分だけが生き残ったのか。父を、母を、姉を、一族を喪いながら、なぜ自分だけが、のうのうと生きてしまっているのか。その負い目に、初めて、答えが差し出された気がした。
    おまえの罪も、すでに引き受けられている、と。
    説教が終わると、玉は、進み出た。
    侍女たちが慌てて止めようとしたが、玉は、コスメ修道士の前に、まっすぐに立った。そして、問うた。
    罪とは何か。赦しとは何か。死した者は、どこへ行くのか。生き残った者は、どう生きればよいのか。神は、なぜ、苦しみを、人にお与えになるのか――。
    問いは、次から次へとあふれ、止まらなかった。
    コスメ修道士は、目をみはった。身分ある武家の女と見えるその人の、問いの鋭さ、ひたむきさに、たじろぐほどであった。後に彼は、書き記している。これほど聡明で、果敢な判断力を持つ日本の女に会ったのは、生涯で、この人が初めてであった、と。
    玉は、その場で、洗礼を願い出た。
    いま、ここで、デウスの民にしてほしい、と。
    だが、それは、かなわなかった。
    玉が何者であるかを、修道士は、すぐに察したのだ。逆臣・明智の娘にして、細川忠興の妻。その身分の重さ。そして折しも――天下人・秀吉が、伴天連追放の令を、発しようとしているという、不穏な噂。軽々に洗礼を授ければ、この貴婦人の身に、いかなる災いが降りかかるか、知れぬ。
    「いまは、なりませぬ」
    修道士は、苦しげに、そう告げるほかなかった。
    玉は、深く、うなだれた。
    だが、その胸の灯は、消えなかった。むしろ、いっそう、燃えた。
    *
    その帰り道、玉は、もう、来る前の玉ではなかった。
    囲いのなかへ戻ることに、変わりはない。夫の嫉妬も、逆臣の娘という烙印も、何ひとつ消えはしない。けれど、玉の内側には、何ものにも奪えぬ一点が、灯っていた。
    外がいかに暗くとも、内に灯がある者は、闇に呑まれぬ。
    権力の光のなかに咲く茶々を、玉は、もはや、うらやまなかった。あの華やぎは、外の光だ。外の光は、嵐ひとつで、消える。だが、内なる灯は、消えぬ。たとえ囲いのなかであろうと、たとえ山里の闇であろうと。
    玉は、ようやく、味土野以来の問いに、おのれなりの答えを見いだしつつあった。
    家でも、名でも、権勢でもなく。
    おのれを保つ拠りどころは、ここにあった。
    *
    しかし、世は、玉に味方しなかった。
    玉が教会を訪れて、いくらも経たぬうちに、秀吉は、ついに伴天連追放の令を下した。宣教師たちは、長崎へ集められ、やがて、この国を去らねばならぬという。
    開きかけた扉が、また、閉ざされようとしていた。
    このまま伴天連が去れば、玉は、生涯、洗礼を受けることなく終わるかもしれぬ。せっかく見いだした灯を、名づけることもできぬまま。
    玉は、焦った。だが、みずから動くことは、もはやできぬ。夫の留守も、いつまで続くか知れぬ。屋敷の門は、ふたたび固く閉ざされていた。
    そのとき、動いたのは、玉ではなかった。
    玉に仕える侍女のひとり――清原いと、という女である。
    いとは、すでに、ひそかに洗礼を受け、マリアという霊名を授かっていた。教会と玉とのあいだを、ひそかに行き来し、書物を運び、教えを伝えていたのも、この女であった。
    伴天連が去る前にと、いとは、宣教師セスペデスのもとを訪ねた。そして、ことの次第を、つぶさに伝えた。あの貴婦人の信仰が、いかに深く、いかにひたむきであるか。屋敷を出られぬその人に、いかにして、洗礼を授ければよいか。
    セスペデスは、思案の末、ひとつの道を示した。
    教会へ来られぬのなら、洗礼を、屋敷へ運べばよい。すでに洗礼を受けたいとが、宣教師に代わって、その秘跡を授けるのだ。やむをえぬ場合には、それも許される、と。
    そして、その人に授ける霊名を、セスペデスは、定めた。
    ガラシャ。
    南蛮の言葉で、恩寵――神の、無償の恵み、を意味する名であった。
    *
    その日は、ひそやかに、訪れた。
    人を遠ざけた奥の一間。灯ひとつ。玉は、白い衣に身を包み、いとの前に、静かにひざまずいた。
    「お覚悟は、よろしゅうございますか」
    いとが、震える声で問うた。主に秘跡を授けるなど、本来、あってよいことではない。だが、いまは、これよりほかに、道がなかった。
    「はい」
    玉は、答えた。長い、長い道のりであった。味土野の月の下で芽生えた、名を持たぬ渇き。玉造の囲いのなかで、深まるばかりであった問い。それらが、いま、ひとつの名のもとに、結ばれようとしていた。
    いとは、清めの水を、玉の額に、そそいだ。
    そして、聖なる言葉とともに、その霊名を、告げた。
    「ガラシャ」
    ひと雫の水が、玉の額を伝い、頬を流れて、衣に落ちた。
    その瞬間、玉は、声もなく、泣いた。
    味土野で産声を聞いたとき以来、こらえにこらえてきたものが、また、堰を切った。だが、今度の涙は、あのときとは違った。生きていることの重さに泣いたのではない。生きていることを、初めて、赦された。そのことに、泣いたのだ。
    逆臣の娘。生き残ってしまった者。夫の囲いに閉ざされた女。――その、いずれでもない、もうひとつの名を、玉は、いま、授かった。
    ガラシャ。恩寵。
    神の前では、勝者も敗者も、罪ある者も罪なき者も、みな、等しい。父も、母も、姉も、そして、生きて苦しむ自分も。その同じ神の、ひとしい恵みのもとに、ある。
    玉は――いや、ガラシャは、額の水を、ぬぐおうとしなかった。
    それは、この世のどんな衣よりも、どんな宝玉よりも、おのれを飾る、ただひとつのものであった。
    *
    だが、ガラシャは、知っていた。
    この名を、夫に告げることは、できぬ。
    伴天連追放の令が出されたいま、キリシタンであることは、罪に等しい。それを知れば、烈しいあの人は、どうするか。家を守るために、ふたたび、おのれを引き裂くか。あるいは――その嫉妬を、こんどは、目に見えぬ神に向けるか。
    夫は、これまで、おのれの愛をおびやかすすべてを、囲い、遠ざけ、ときに手にかけてきた。庭師を。家臣を。だが、神は、囲えぬ。遠ざけられぬ。手にかけられぬ。
    それは、忠興が、生涯で初めて出会う、勝てぬ相手であった。
    ガラシャは、額の水の感触を胸に刻みながら、九州の空の下にいるであろう夫を思った。月に祈り、おのれを迎えに来てくれた、不器用な、いとしいあの人。
    その人と自分とのあいだに、いま、ひとつの、深い溝が、生まれた。
    愛がなくなったのではない。愛しているからこそ、その溝は、これから、二人を、最も深いところで、引き裂いていくのだ。
    ガラシャは、灯を見つめた。
    小さな炎が、ひとつ、揺れていた。外の嵐がどれほど吹こうと、この内なる炎だけは、消すまい。たとえ、この名のために、いつか、すべてを失うことになろうとも。
    ――その覚悟が、十数年ののち、燃えさかる屋敷のなかで、世にも気高い最期へと、この人を導いていくことを。
    いまはまだ、誰も、知らなかった。
    *
    その、ひとひらの花びらが、ひらきはじめたのは、翌年の春のことであった。
    天正十五年、正月。天下人となった豊臣秀吉は、九州の島津を討つべく、諸大名に出陣を命じた。細川忠興も、その軍勢のなかにあった。
    夫が、遠い西国へ発つ。
    玉は、見送りながら、胸の奥で、ひとつの思いが、ひそかに頭をもたげるのを感じた。後ろめたさに、頬が熱くなった。夫の身を案じる妻の心と、夫の不在を待ちわびる別の心とが、ひとつの胸のなかで、せめぎあっていた。
    囲いの主が、いなくなる。
    忠興がいるかぎり、玉は、屋敷の奥から一歩も出られぬ。だが、その夫が、何百里も離れた戦場にある今ならば――。
    折しも、季節は、彼岸であった。
    侍女のなかには、ひそかにキリシタンの教えに触れ、すでに洗礼を受けた者もいた。清原いと――洗礼名を、マリアという。物静かで、信の篤いその女は、玉の渇きを、誰よりも深く解していた。
    「姫さま」
    ある夜、いとが、声をひそめて言った。
    「彼岸のこの時節、教会では、ご復活の祭りがございます。デウスの御子が、いちど死して、三日ののちによみがえられた――その喜びを祝う、年に一度の、大切な日にございます」
    「よみがえる……」
    死して、よみがえる。その言葉が、玉の胸を、強く打った。一族が滅び、おのれだけが生き残ってしまった、あの味土野の闇のなかで、玉が、ただ一つ知りたかったこと。散った者は、二度と還らぬのか。それとも――。
    「いと」
    玉は、ふるえる声で言った。
    「私を、そこへ、連れていってくれますか」
    *
    事は、危うかった。
    逆臣の娘であり、嫉妬深い夫に囲われた身である。屋敷を抜け出すなど、露見すれば、何が起こるかわからぬ。それでも、玉の決意は、固かった。
    復活祭の朝、玉は、侍女六、七人に幾重にも取り囲まれ、その身を衣のかげに隠すようにして、ひそやかに屋敷を出た。一人の侍女のなかに紛れた、もう一人の侍女――誰の目にも、そう見えるように。
    向かった先は、大坂の南蛮寺であった。
    門をくぐったとき、玉は、息を呑んだ。
    そこは、玉のこれまで知る、いかなる場所とも違っていた。仏閣の荘厳とも、神社の清謐とも異なる。高い窓から差しこむ光のなかに、十字の形が掲げられ、人々が、身分の隔てなく、肩を並べて、ひざまずいていた。武士も、商人も、貧しい者も、病める者も。みな、同じ一つのものへ向かって、頭を垂れている。
    分け隔てなく。
    琴の言葉が、よみがえった。まことに、ここには、囲いがなかった。
    説教をしていたのは、コスメという名の、年若い修道士であった。彼が語るのは、罪の話であった。人は、みな、罪を負って生まれる。だが、悔いあらため、御子を信じる者は、その罪を、赦される。たとえ、いかなる過ちを犯した者であっても。
    玉は、御簾も几帳もない場所で、その声に、聴き入った。
    そして、説教が終わると、玉は、つと進み出て、修道士に問うた。
    「もし」
    声が、ふるえぬよう、つとめた。
    「もし、その者が、何の罪も犯しておらぬのに、ただ、罪人の血を引いたというだけで、世から呪われ、近しい者をことごとく喪い――そして、なお、生き残ってしまったとしたら。その者の負う、生き残ったという業を、あなたの神は、赦されますか」
    修道士は、おどろいたように、玉を見た。
    ありきたりの問いではなかった。それは、玉が、味土野の闇のなかで、幾夜も幾夜も、おのれの胸に突きつけてきた、血のにじむような問いであった。
    「赦されます」
    修道士は、静かに、しかし、ためらいなく答えた。
    「デウスは、人の犯した罪を裁かれますが、人が背負わされた業を、咎められはしませぬ。生き残ったことは、罪ではございませぬ。それは、まだ果たすべき務めが、その方に残されているという、しるしにございます」
    玉は、しばらく、声を発せなかった。
    果たすべき、務め。
    生きてしまったことに、意味がある。生き残った者には、なすべきことが、残されている――そう言われたのは、玉の生涯で、初めてであった。父も、母も、夫さえも、玉に、それを言ってはくれなかった。
    涙が、こみあげた。
    のちに、この修道士は、書き残したという。これほど聡明で、果敢な判断力をもった日本の女に会ったのは、玉が初めてであった、と。
    *
    玉は、その場で、洗礼を願い出た。
    いま、ここで、デウスの民にしてほしい。この渇きを、いま、潤してほしいと。
    だが、それは、叶わなかった。
    玉の素性を知った神父――グレゴリオ・デ・セスペデスは、慎重であった。逆臣の娘にして、有力大名・細川忠興の妻。その身を軽々しく洗礼に導けば、教会そのものに、どれほどの災いが及ぶか知れぬ。神父は、玉の信を疑ったのではない。むしろ、その篤さを惜しんだからこそ、時を待つよう、諭したのだった。
    玉は、屋敷へ戻った。
    生涯で、ただ一度の、教会行きであった。二度と、その門をくぐることは、できなかった。
    だが、玉は、もう、以前の玉ではなかった。
    いとを通じて、玉は、キリシタンの書物を、むさぼるように読んだ。乏しい灯のもと、夜ごと、異国の教えを、胸に刻んだ。外へは出られずとも、心は、もはや、いかなる囲いにも、囚われてはいなかった。囲いのなかで、玉は、生まれて初めて、自由であった。
    *
    だが、世は、玉の信仰に、味方しなかった。
    その年の夏、九州を平定した秀吉は、突如、伴天連追放令を発した。
    キリシタンの教えを説く宣教師らを、国外へ追放する。神父も、修道士も、二十日のうちに、長崎へ退かねばならぬ。あれほど栄えていた南蛮の灯が、一夜にして、消されようとしていた。
    玉は、報せを聞いて、凍りついた。
    ようやく見つけた、たった一つの拠りどころが、奪われる。神父が去れば、もう、洗礼を授ける者は、誰もいなくなる。あの渇きを、ふたたび、抱えたまま、この囲いのなかで、生きていかねばならぬのか。
    「いと」
    玉は、すがるように言った。
    「神父さまが、行ってしまわれる。私は、もう」
    「姫さま」
    いとは、玉の手を、強く握った。
    「ご案じめさるな。道は、ございます」
    *
    セスペデス神父は、長崎へ発つ前に、ひとつの計らいを残していった。
    洗礼は、かならずしも、神父の手によらずともよい。差し迫った折には、すでに洗礼を受けた信徒が、これを授けることが、許されている――そう、いとに伝えたのである。
    そして、いとは、すでに洗礼を受けた、マリアであった。
    その夜のことを、玉は、生涯、忘れなかった。
    人払いをした奥の一間に、ささやかな灯がともされた。十字の形が、壁に立てかけられている。玉は、髪を解き、いっさいの飾りを捨て、一人の、ただの女として、その前にひざまずいた。逆臣の娘でもなく、細川の妻でもなく、ただ、デウスの前に立つ、一個の魂として。
    いと――マリアが、清らかな水を、玉の額に、そそいだ。
    「われ、汝に洗礼を授く。父と、子と、聖霊の御名において」
    水が、額を伝い、頬を流れた。
    その瞬間、玉は、おのれのなかで、長く重く凝っていた何かが、音もなく、溶けていくのを感じた。逆臣の娘という烙印も、生き残った者の業も、囲いのなかの孤独も――そのすべてが、消えたわけではない。ただ、それらを、もはや一人で背負わずともよいのだと、初めて、知ったのだった。
    「あなたの、洗礼名を」
    マリアが、静かに告げた。
    「ガラシャ、と申します」
    「ガラシャ……」
    「南蛮の言葉で、恩寵――神の、めぐみ、という意味にございます」
    恩寵。神の、めぐみ。
    呪われた娘と、世から指さされ続けた女に、神は、めぐみ、という名を与えた。
    玉の頬を、とめどなく、涙が流れた。今度の涙は、味土野で流したそれとは、まるで違った。あれは、生き残ってしまったことへの、嘆きの涙であった。これは――生かされていることへの、感謝の涙であった。
    明智玉。細川の妻、玉子。
    その女は、この夜、もう一つの名を得た。
    細川ガラシャ。
    のちの世が、その名で、彼女を呼ぶことになる。
    *
    だが、恩寵の名を得たその同じ夜から、玉の胸には、新たな、そして、もっとも深い秘密が、宿ることになった。
    夫には、言えぬ。
    キリシタンを忌み、追放令の世にあって、武家の妻が密かに洗礼を受けたなどと知れれば、何が起こるか。烈しいあの人のことである。怒りは、玉一人にとどまらず、いとへ、侍女たちへ、果ては細川の家そのものへ、火の粉となって降りかかるかもしれぬ。
    玉は、おのれの内に灯った、いちばん大切な光を、夫の前で、隠さねばならなかった。
    愛している。それは、変わらぬ。
    九州から戻る夫を、玉は、これまでどおり、迎えるだろう。歌を見せ、子らのことを語り、その烈しさを、これまでどおり、受けとめるだろう。
    けれど、その胸の奥には、もう、夫の知らぬ世界が、ひそかに、広がっていた。夫が、決して踏みこむことのできぬ、玉だけの、聖なる領分が。
    それは、玉に、かつてない平安を与えると同時に、夫との間に、これまでのどんな別離よりも深い、目に見えぬ溝を、穿ちはじめていた。
    囲いのなかで、玉は、自由を得た。
    だが、その自由は、愛する者と分かちあえぬ、孤独な自由でもあった。
    夫の愛は、依然として、烈しく、玉を縛ろうとするだろう。そして玉は、その腕のなかにありながら、心の最も深いところでは、もう、夫のものではない何かを、抱いて生きていく。
    神と、夫と。
    そのあいだで引き裂かれる日々が、これから始まろうとしていた。玉は、まだ、その苦しみの深さを、知らない。ただ、額に受けた水の冷たさだけが、いつまでも、消えずに残っていた。
    *
    九州の戦が終わり、忠興が、大坂へ戻ってきた。
    玉は、これまでどおり、夫を迎えた。旅装を解く手を取り、戦塵に汚れた具足を労い、子らの育ちを語った。表向きは、何ひとつ、変わらぬ妻であった。
    だが、忠興は、すぐに気づいた。
    妻の、どこかが、変わっている。
    以前の玉には、深いところに、いつも、消えぬ翳りがあった。逆臣の娘という業を背負い、生き残ったことに怯える、あの翳りである。忠興は、それを承知のうえで、玉を囲い、守り、ときに苛んできた。
    ところが、戻ってきてみると、その翳りが、薄れていた。
    玉は、静かであった。これまでと同じように静かでありながら、その静けさの質が、まるで違う。怯えて口を閉ざす静けさではない。何か、確かなものに支えられた者の、満ちた静けさであった。
    「玉」
    ある夜、忠興は、問うた。
    「留守のあいだに、何があった」
    「何も。ただ、殿のお戻りを、待っておりました」
    「嘘をつくな」
    忠興の声が、鋭くなった。
    「おまえは、変わった。おれの知らぬ何かを、抱えている。その目だ。おれを見ていながら、おれの向こうの、どこか遠くを見ている、その目が、おれには、我慢ならぬ」
    玉は、答えなかった。
    答えられなかった。額に受けた水の冷たさを、いまも胸に抱いていると、どうして言えよう。あなたの忌むキリシタンの教えこそが、いま、私を生かしているのだと、どうして。
    忠興は、その沈黙を、別のものと取り違えた。
    *
    その日から、忠興の嫉妬は、ふたたび、烈しさを増していった。
    妻の心が、おのれの手の届かぬどこかへ逃げていく――その焦りが、男を、いっそう狂わせた。捕らえようとすればするほど、するりと逃げる。逃げられぬよう囲えば囲うほど、心は、遠ざかる。
    忠興は、あてつけのように、側室を置いた。
    一人ではない。世のうわさは、その数を、十五人とも言い立てた。真偽はともあれ、玉の前で、忠興は、ことさらに他の女の話をし、玉の反応を、うかがった。妬いてみせよ、と言わんばかりに。狂おしいほどの愛が、裏返り、相手を傷つけることでしか、おのれの存在を確かめられなくなっていた。
    玉は、表向き、何も言わなかった。
    だが、その夜々、ひとりになると、胸が、引き裂かれた。
    愛していないのではない。むしろ、愛しているからこそ、苦しかった。この人と添うかぎり、私は、生涯、この嫉妬の檻のなかで、傷つき続けるのだろうか。子らのため、家のために、ただ耐えて、朽ちていくのだろうか。
    ――いっそ、離れてしまえば。
    その思いが、初めて、玉の胸をかすめた。
    この家を出る。夫のもとを去る。さすれば、この苦しみから、解き放たれる。教えのもとに、ひとり、静かに生きる道も、あるのではないか。
    *
    玉は、その思いを、いとに――マリアに、打ち明けた。
    「夫のもとを、去りたいのです」
    声は、震えていた。
    「もう、耐えられませぬ。あの人を愛しております。けれど、愛するほどに、傷つけられる。この身を、教えのもとに置きたいのです。それは、許されませぬか」
    いとは、長いあいだ、黙っていた。それから、痛ましげに、しかし、はっきりと、首を振った。
    「姫さま。デウスの教えにおいては……夫婦の縁を、人の力で断つことは、許されておりませぬ」
    「では、私は」
    「神が結ばれたものを、人が、引き離してはならぬ。それが、御教えにございます。たとえ、いかに苦しくとも」
    玉は、目を閉じた。
    逃げ道は、なかった。信仰は、玉に、生きる意味を与えると同時に、苦しみから逃げることをも、禁じた。離縁は、ならぬ。そして――おのれの手で命を絶つことも、いっそう固く、禁じられていた。生きよ、と、教えは言う。この苦しみのただなかで、なお、生きよ、と。
    玉は、悟った。
    逃げてはならぬのなら、向きあうほかない。この結婚も、この苦しみも、おのれに与えられた、ひとつの務めなのだ。あの修道士が言った――生き残った者には、果たすべき務めが残されている、と。ならば、これこそが、その務めなのかもしれぬ。
    その夜、玉は、はじめて、夫のための祈りを、捧げた。
    私を苦しめる、あの人のために。烈しさの底で、誰よりも傷ついている、あの孤独な人のために。
    *
    歳月が、流れた。
    玉は、ひそかな信仰のうちに、おのれを律して生きた。施しを好み、苦しむ者をいたわり、いかなるときも、取り乱さなかった。その立ち居には、人を打つ、静かな気高さが、加わっていった。
    だが、秘密を、永久に隠しおおせるものではない。
    玉がキリシタンであるという噂は、いつしか、屋敷の内に、外に、広がっていった。そしてついに、その噂は、夫の耳にも、届いた。
    忠興は、激高した。
    「まことか」
    抜き身の刃のような声で、夫は、玉に迫った。
    「おまえが、伴天連の教えに、染まったというのは。武家の妻が、よりにもよって、追放令の出た、あの邪教に」
    玉は、もはや、隠さなかった。
    「まことにございます」
    その答えの、あまりの静けさに、忠興は、かえって、たじろいだ。
    「捨てよ」
    忠興は、声を絞った。
    「いますぐ、その教えを、捨てよ。さもなくば」
    その手が、脇差の柄にかかった。
    座敷の空気が、凍りついた。侍女たちは、息を呑み、平伏した。烈しいこの人ならば、まことに、斬りかねぬ。玉の命は、いま、夫の指先一つに、かかっていた。
    それでも、玉は、動じなかった。
    ゆっくりと、夫を見上げた。その目には、怯えも、抗いもなかった。ただ、深い、底知れぬ静けさがあった。
    「この身は」
    玉は、静かに言った。
    「あなたの妻にございます。この身の命は、あなたのもの。お斬りになりたければ、どうぞ、お斬りください。妻として、潔く、果てましょう」
    「ならば」
    「されど」
    玉は、言葉を継いだ。
    「この身は、あなたのものでも――この魂だけは、デウスのものにございます。命は召せても、魂を召すことは、たとえあなたでも、おできになりませぬ。斬られても、私は、信仰を、捨てませぬ」
    忠興の手が、震えた。
    斬れなかった。
    斬れるはずが、なかった。月に祈ってまで、取り戻した女である。この世の何より、惜しいと思う女である。その女が、おのれの刃の前で、これほど美しく、これほど揺るがず、おのれの魂の在処を、言い切っている。
    烈しいこの人が、生まれて初めて、おのれの烈しさで、どうにもならぬものに、出会った。
    力で囲える。命さえ、奪える。だが――この女の、いちばん深いところだけは、どれほど手を伸ばしても、決して、つかめぬ。
    忠興は、脇差から手を離した。
    そして、背を向け、部屋を出ていった。その肩が、怒りにではなく、別の何かに、わなないているのを、玉は、見た。
    敗れたのだ、と玉は思った。この人は、いま、生まれて初めて、何かに、敗れた。そして、その何かを、誰よりも深く愛している――そのことが、この人を、いっそう、打ちのめしている。
    玉の頬を、涙が伝った。勝った、とは、少しも思えなかった。
    *
    その後も、夫婦の溝は、埋まらなかった。
    忠興は、玉の信仰を、認めはしなかった。だが、もはや、捨てよとも、言わなくなった。斬ることも、できぬ。捨てさせることも、できぬ。二人は、愛しあいながら、互いの最も深いところで、永遠に交わらぬまま、同じ屋根の下で、生きていった。
    奇妙なことに、その溝こそが、二人を、つないでもいた。
    つかめぬからこそ、忠興は、玉を求め続けた。交わらぬからこそ、玉は、夫を、祈り続けた。完全には決して手に入らぬ相手を、生涯、求め、祈り、許しあう――それは、世の常の睦まじさとは違う、けれど、たしかに、ひとつの愛の形であった。
    折しも、城下では、淀殿の名が、いよいよ高く、響いていた。
    茶々は、天下人の世継ぎを産み、大坂城の奥に、絢爛と君臨していた。権力の頂で咲き誇る、はなやかな花。だが、その栄華が、秀吉という一人の老人の命の上に、危うく咲いていることを、知る者は、知っていた。
    玉は、囲いのなかで、思った。
    あの方は、外に、すべてを持っている。私は、内に、ただ一つを持っている。どちらが、まことに豊かなのか。それは、いずれ、時が、明かすだろう。
    そして――その時は、思いのほか、早く、訪れた。
    慶長三年、夏。
    天下人・豊臣秀吉が、病に倒れ、この世を去ったのである。
    絢爛たる花を支えていた幹が、枯れた。
    天下は、ふたたび、揺らぎはじめた。徳川家康の野望と、石田三成の意地とが、音もなく、ぶつかりあおうとしていた。
    そして、その大きな地鳴りは、やがて、玉造の囲いのなかで、ひそやかに祈り続ける一人の女の運命をも、根こそぎ、呑みこんでいくことになる。
    来世があるなら、戦のない世で――かつて、別れの夜に、夫が口にした、あの願い。
    その来世へと玉を渡す、最後の橋が、いま、静かに、架けられようとしていた。
    第四章 来世に咲く花
    秀吉が世を去ってから、天下は、目に見えぬ早さで、二つに割れていった。
    亡き太閤の幼い遺児・秀頼を擁する石田三成と、最大の実力者・徳川家康。二人の対立は、もはや、誰の目にも、避けがたい戦として、立ちのぼりつつあった。
    細川忠興は、家康についた。
    聡明な判断であった。だが、それは同時に、玉造の屋敷に、戦の影を、まっすぐに招き寄せることでもあった。
    慶長五年、夏。
    家康が、会津の上杉を討つべく、東国へ下る。忠興も、その軍に従って、大坂を発つことになった。
    そして、大名が大坂を離れるとき――その妻子は、人質として、この地に残される。
    *
    出陣の、前夜であった。
    その夜、忠興は、ひさしぶりに、玉のもとを、訪れた。
    信仰をめぐる確執の日々、二人は、心の最も深いところでは、交わらぬまま過ごしてきた。だが、この夜の忠興には、いつもの烈しさも、嫉妬の険しさも、なかった。ただ、戦場へ発つ前の、静かな男の顔があった。
    「玉」
    「はい」
    「明日、発つ」
    「……存じております」
    灯火が、二人の影を、襖に淡く落としていた。婚儀の夜の、あの闇を、玉は、ふと思い出した。あのとき、闇のなかで、この人は「そなたも」と、手放せぬものの一つに、私を、数えた。
    あれから、二十余年。
    たがいに、若かった。たがいに、不器用だった。すれ違い、傷つけ、引き裂かれ、それでもなお、離れることが、できなかった。
    「玉」
    忠興は、懐から、小さなものを取り出した。
    それは、櫛であった。
    古びた、けれど、丹精こめて作られた、黄楊の櫛。玉は、それを見た瞬間、息が止まった。覚えていた。忘れるはずもなかった。宮津の城で、新婚のころ、忠興が、初めて玉に贈ったものであった。「武辺の者ゆえ、気のきいたものは選べぬ」と、ぶっきらぼうに差し出した、あの櫛。
    「まだ、お持ちでしたか」
    「……肌身、離さなんだ」
    忠興は、目をそらした。
    「戦場でも、ずっと、持っていた。これを見ると、おまえを、思い出せた。月を見上げるよりも、よほど、近くに、おまえがいる気がした」
    玉の胸が、熱くなった。
    この人は、こうなのだ。烈しく、囲い、傷つけ、それでいて――おのれの懐の、いちばん奥に、二十余年、妻の櫛を、忍ばせていた。言葉では、決して言えぬ愛を、こんなところに、隠していた。
    「殿」
    「なんだ」
    「あの夜のことを、覚えておいでですか。婚儀の夜。私は、花は強く握れば散ってしまう、と申し上げました。握りつぶさぬでくれ、と」
    「……覚えている」
    「あなたは、肝に銘じる、と仰せでした」
    玉は、静かに微笑んだ。涙が、その目に、にじんでいた。
    「私たちは、つたない夫婦でございました。あなたは、私を握りつぶしそうになり、私は、あなたから、心の一部を、隠し続けた。けれど――それでも私は、あなたの妻であったことを、ただの一度も、悔いてはおりませぬ」
    忠興は、何も言わなかった。
    ただ、その手が、玉の手を、そっと取った。烈しいこの人にしては、信じられぬほど、やさしい手であった。婚儀の夜、廊で玉の腕を支えた、あの一瞬の熱が、二十余年の歳月を越えて、いま、ふたたび、玉の指先に、伝わってきた。
    「来世」
    ふいに、忠興が、つぶやいた。
    「戦のない世が、もしあるなら」
    「……はい」
    「そのときは」
    そこで、声が、つまった。烈しい武将が、戦場では決して見せぬ顔で、闇のなかに、それを、絞り出した。
    「そのときは、こんな、つたない夫婦には、ならぬ。おれは、おまえを、握りつぶさぬ。おまえも、おれから、何も隠さずともよい。ただ、二人で――花の咲く庭でも、眺めて、暮らそう」
    玉の頬を、涙が、伝った。
    これが、この人の、生涯でいちばん長い、愛の言葉であった。
    「約束ですよ」
    玉は、震える声で、言った。あの味土野の、別れの夜と、そして、今宵。二度、同じ誓いを、交わした。
    「来世。戦のない世。きっと、ですよ」
    「ああ」
    忠興は、深くうなずいた。
    その夜、二人は、長く長く、言葉もなく、手を取りあっていた。神と夫のあいだで引き裂かれてきた玉の心も、嫉妬の檻のなかでもがき続けた忠興の心も、この一夜だけは、ひとつの、しずかな場所で、溶けあっていた。
    二十余年かけて、二人はようやく、たがいの最も柔らかいところに、触れあえた。
    ――けれど、その夜が、二人の、最後の夜になることを、玉は、知っていた。忠興は、知らなかった。
    *
    翌朝。
    忠興は、軍勢を率いて、大坂を発った。
    別れぎわ、玉は、屋敷の門まで、夫を見送った。本来、囲われた身の玉が、人前に立つことなど、許されぬ。だが、この朝ばかりは、忠興は、それを、咎めなかった。
    馬上の夫を、玉は、見上げた。
    何も、言わなかった。言うべきことは、昨夜、すべて、言い尽くした。ただ、たがいの目が、しばし、見つめあった。烈しい男の目は、この朝、おどろくほど、澄んでいた。
    そして、忠興は、馬首をめぐらし、去っていった。
    その背が、朝の光のなかに、小さくなっていく。玉は、それを、いつまでも、見送った。
    *
    玉が知らぬことであったが、出陣に際して、忠興は、屋敷を守る家老・小笠原少斎らに、ひとつの、おそろしい命を、下していた。
    「もし、わが不在の折、妻の名誉に、危難が及ぶことあらば――」
    忠興の声は、低く、揺るぎなかった。
    「日本の習いに従い、まず、妻を討て。しかるのち、おまえたちも、ことごとく腹を切り、妻とともに、死ね」
    それは、非情の命であった。
    だが、その非情の底には、忠興の、ねじれきった愛の、最後の形があった。あの女を、何者にも、辱めさせはせぬ。人質として、嬲られ、おのれの足枷とされるくらいなら――いっそ、潔く。烈しいこの人は、愛する者を守る術を、ついに、この一つしか、知らなかった。
    握りつぶしそうになりながら、握りつぶせず。その手が、最後に選んだのは、花を、誰の手にも渡さぬまま、散らせることであった。
    それが、愛なのか、業なのか。
    問う者は、もう、誰もいなかった。
    *
    夫が発って、幾日も経たぬうちに、玉造の屋敷を、不穏な気配が、取り巻きはじめた。
    石田三成が、ついに、兵を挙げたのである。
    家康に従って東国へ下った大名たちの、妻子を、人質に取る。それが、三成の策であった。妻子を押さえれば、東国の大名たちの心を、つなぎとめられる。なかでも、細川忠興の妻――明智の血を引き、その名を都に知られた玉は、格好の的であった。
    三成の使者が、屋敷を訪れた。
    「大坂城へ、お移りいただきたい。御身の安全のため」
    慇懃な言葉の裏に、刃が隠れていた。安全のため、ではない。人質として、城へ差し出せ、という、強要であった。
    玉は、しずかに、その申し出を、退けた。
    「お断り申し上げます」
    「奥方さま。これは、御身のためでもございます。お従いにならねば」
    「武士の妻が、おめおめと、人質に取られ、夫の足を引くなど――そのような恥を、私は、いたしませぬ」
    使者は、青ざめて、引き下がった。
    そして、ほどなく、三成の軍勢が、玉造の細川屋敷を、幾重にも、取り囲んだ。
    逃げ場は、なかった。
    屋敷のなかで、玉は、しずかに、その時を、待った。
    恐れは、なかった。不思議なほど、心は、凪いでいた。味土野の闇のなかで、おのれの命の意味を問うた、あの日々。受洗の夜、額に受けた、冷たい水。神と夫のあいだで引き裂かれた、長い歳月。そのすべてが、いま、この一点に向かって、流れてきたのだと、玉には、わかっていた。
    果たすべき務めが、残されている――かつて、修道士は、そう言った。
    これが、その務めなのだ。
    細川の家の、義を守ること。夫の、足枷とならぬこと。そして――キリシタンとして、おのれの魂を、最後まで、けがさぬこと。
    玉は、侍女たちを、呼び集めた。
    「みな、聞きなさい」
    その声は、囲いのなかにあって、なお、晴れやかであった。
    「これより、私は、この屋敷とともに、果てます。けれど、そなたたちは、生きなさい。生きて、外へ、お逃げなさい」
    侍女たちが、いっせいに、泣き伏した。琴も――もう若くはない、けれど、変わらず玉のそばにあり続けた琴も、その顔を、涙で、ぐしゃぐしゃにしていた。
    「いやでございます」
    琴が、叫んだ。
    「姫さま。どこへお嫁に行かれても、ついてまいると、申し上げました。山の奥にも、ついてまいりました。なのに――なのに、なぜ、ここだけは、置いていかれるのですか」
    玉は、琴のそばへ寄り、その頬の涙を、そっと、ぬぐった。
    「琴。そなたのおかげで、私の人生は、どれほど、軽くなったか知れぬ。山姥の恋の話を、もっと、聞いておけばよかった」
    「姫さま……」
    「生きて。そして、いつか、誰かに、語っておくれ。明智の玉という、つたない女が、たしかに、この世に生きて、愛して、祈ったのだと」
    *
    侍女たちは、泣きながら、屋敷を出ていった。
    琴は、最後まで、行こうとしなかった。何度も振り返り、その目で、玉の姿を、焼きつけようとした。やがて、ほかの者に手を引かれ、門の外へ消えていくとき、琴は、声を限りに、叫んだ。
    「姫さま――! きっと、語り継ぎます! 玉さまのことを、いつまでも、いつまでも――!」
    その声が、塀の向こうに、遠ざかっていく。
    玉は、ひとり、しずかな広間に、残された。
    包囲する軍勢のざわめきが、塀の外から、押し寄せてくる。だが、屋敷のなかは、奇妙なほど、静かであった。まるで、嵐の目のなかに、いるようだった。
    玉は、襟を整え、髪を直し、最後の身支度を、ととのえた。
    そして、懐に、あの黄楊の櫛を、そっと、しのばせた。
    夫が、二十余年、肌身離さなかった櫛。出陣の前夜、ふたたび夫の懐へ戻ったはずの、あの櫛。――いや。あの朝、見送りの門で、夫は、何も言わず、それを、玉の袂に、そっと、返していたのだった。玉が、そうと気づいたのは、夫の背が、朝の光に消えたあとであった。
    握りつぶさぬように。
    夫は、最後に、おのれの最も大切なものを、玉の手に、ゆだねていた。
    玉は、その櫛を、胸に当てた。冷たい黄楊の感触が、まるで、夫の手のひらの温もりのように、伝わってくる。
    「殿」
    玉は、そっと、つぶやいた。
    「私は、あなたの妻で、幸せでございました」
    つたない夫婦であった。すれ違い、傷つけあった。けれど、いま、この最後のときに、玉の胸を満たしているのは、恨みでも、悔いでもなかった。ただ、ひとつの、まぎれもない真実だけが、そこにあった。
    愛していた。
    烈しく、不器用で、囲い、傷つけ、それでも、月に祈り、櫛を抱きしめた、あの人を。生涯をかけて、愛していた。
    *
    家老・小笠原少斎が、広間の襖の前に、控えていた。
    老いた家臣の頬は、涙に濡れていた。主君から託された、あまりに非情な役目。それを、果たさねばならぬ。
    「奥方さま」
    少斎の声は、震えていた。
    「まことに、よろしいのでございますか」
    玉は、しずかに、うなずいた。
    キリシタンの教えは、おのれの手で命を絶つことを、固く禁じている。だからこそ、玉は、みずから死ぬことが、できなかった。けれど、人質となって、夫の足枷となり、細川の家の義を汚すことも、できなかった。
    ならば――武家の妻として、家臣の手を借り、潔く、果てるほかない。
    それは、自害ではない。教えに背くものでもない。これは、戦国の世に生まれた一人の女が、最後まで、おのれの誇りと、おのれの魂とを、ともに守り抜くための、ただ一つの道であった。
    「少斎」
    玉は、おだやかに言った。
    「長きにわたり、よく仕えてくれました。礼を言います。――どうか、ためらわず」
    そして、玉は、両の手を合わせ、目を閉じた。
    胸に、夫の櫛を抱いて。
    唇が、声にならぬ祈りを、紡いだ。デウスよ。生き残ってしまった私に、果たすべき務めを、教えてくださった、あなたよ。いま、その務めを、果たしました。どうか、この魂を、御許へ。そして――どうか、あの人を。私を握りつぶせず、おのれの烈しさに苦しみ続けた、あの哀れな人を、お守りください。
    襖の向こうから、少斎の薙刀が、伸びた。
    玉は、最後まで、目を開かなかった。
    恐れも、苦しみも、その面には、なかった。ただ、ひとすじの涙が、閉じたまぶたを伝い、そして――しずかに、玉の生は、閉じられた。
    享年、三十八。
    明智の玉。細川の妻、玉子。洗礼名、ガラシャ――恩寵。
    乱世に咲いた、一輪の花が、おのれの散るべき時を知って、散った。
    *
    文机の上に、一首の歌が、遺されていた。
    辞世であった。
     散りぬべき 時知りてこそ 世の中の    花も花なれ 人も人なれ
    散るべき時を知ってこそ、花は花として美しく、人もまた、人として美しい。いまこそ、私の、散るべき時――。
    その歌のかたわらに、もう一通、書き置きがあった。
    夫に宛てた、ものであった。
    流麗な仮名の散らし書きで、玉は、最後の言葉を、したためていた。長いものではなかった。恨みごとは、一言もなかった。ただ、これまで言えなかった想いと、そして、二度交わしたあの誓いとが、静かな筆致で、記されていた。
    ――この世では、つたない夫婦にございました。されど、悔いはございませぬ。あなたの妻であったことが、私の生涯の、いちばんの誉れにございました。
    ――来世が、もしあるなら。今度こそ、戦のない世で、出会いとうございます。そのときは、握りつぶさず、隠しごともなく、ただ、二人で、花の咲く庭を、眺めて。
    ――その日まで、どうか、お達者で。玉より。
    書き終えたあと、玉は、その紙を、夫の櫛とともに、残そうとした。だが、櫛だけは、胸に抱いていきたかった。だから、櫛は、おのれの胸に。文だけを、文机に。
    そうして、一人の女の、すべての言葉は、尽きた。
    *
    玉の死を見届けると、屋敷を守っていた家臣たちは、四方に火を放った。
    奥方の亡骸を、敵の手に渡さぬため。そして、主君の命のとおり、おのれもまた、あとを追うために。
    玉造の細川屋敷は、紅蓮の炎に包まれた。
    夏の夜空を、火の粉が、無数の花びらのように、舞い上がっていく。それは、まるで、咲き満ちた花が、いっせいに散っていく光景のようであった。散るを知りつつ、色を深めて――かつて、初対面の座敷で、玉が詠んだ、あの藤の歌の、まことの姿が、いま、ここにあった。
    炎は、夜どおし、燃え続けた。
    そして、夜が明けるころには、栄華も、囲いも、嫉妬も、祈りも、すべてが、白い灰となって、大坂の空に、しずかに、消えていった。
    *
    関ヶ原の戦は、東軍の勝利に終わった。
    細川忠興は、先陣を切り、石田三成の軍と、烈しく戦った。誰よりも勇猛に、誰よりも苛烈に。まるで、何かに憑かれたかのように、刃を振るった。
    戦が終わり、忠興が、大坂へ戻ってきたとき。
    玉造の屋敷は、もう、なかった。
    焼け落ちた屋敷の跡に立ち、忠興は、しばらく、身じろぎひとつ、しなかった。
    家臣が、おそるおそる、玉の最期を、伝えた。人質を拒んだこと。侍女を逃がしたこと。少斎の手を借り、誇り高く、果てたこと。そして――文机に遺された、一通の書き置きのことを。
    忠興は、その文を、受け取った。
    焼け跡の灰のなかで、武将は、妻の最後の言葉を、読んだ。
    つたない夫婦にございました。されど、悔いはございませぬ。あなたの妻であったことが、いちばんの誉れに――。
    来世が、もしあるなら。今度こそ、戦のない世で。握りつぶさず、隠しごともなく、ただ、二人で、花の咲く庭を――。
    そこまで読んで。
    烈しいこの人が、戦場では決して涙を見せなかったこの人が。
    声を上げて、泣いた。
    膝をつき、灰を握りしめ、天を仰いで、男泣きに、泣いた。その慟哭は、焼け跡の空に、いつまでも、いつまでも、響いた。
    握りつぶしそうになりながら、握りつぶせず。月に祈り、櫛を抱き、ついに、おのれの烈しさで、どうにもならぬものを、失った男の。生涯ただ一度の、慟哭であった。
    「玉」
    忠興は、灰のなかに、その名を、呼んだ。
    「来世だ。きっと、来世だ。――次は、おれが、おまえを、握りつぶさぬ。次は、おまえに、何も、隠させぬ。だから……だから」
    声が、嗚咽に、砕けた。
    「だから、待っていてくれ。戦のない世で。花の咲く、庭で」
    *
    のちに、忠興は、宣教師オルガンティノに頼み、焼け跡から、玉の遺骨を拾わせた。
    あれほど忌み嫌ったキリシタンの教えによって、玉を、ねんごろに、葬った。生前、ついぞ認めることのできなかった妻の信仰を、その死をもって、初めて、認めたのである。キリスト教式の、葬儀であった。
    玉の魂が、生涯求めてやまなかった、ただ一つの場所へ。夫の手で、ようやく、送り出された。
    歳月は、流れた。
    明智の玉という女の、はなやかで、はかなく、うつくしい生涯は、やがて、海を越えてまで、語り継がれていった。逆臣の娘として生まれ、烈しい愛に囲われ、禁じられた信仰に救われ、乱世の果てに、おのれの散るべき時を知って、散った一人の女。その気高さは、遠い異国の人々の胸さえ、打った。
    だが、何より――。
    彼女を、生涯、握りつぶせなかった、一人の男の胸のなかで、玉は、いつまでも、散らずに、咲き続けた。
    来世があるなら。戦のない世で。
    その約束を、二人は、まだ、果たしていない。
    けれど、いつか、どこかの、戦のない静かな世の、花の咲く庭で。
    握りつぶさぬ手と、何も隠さぬ心とが、もういちど、めぐりあう日が来ることを――この物語を読むあなたが、そっと、信じてくれるなら。
    玉の祈りは、きっと、まだ、生きている。
    了

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

     
     

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