思い出の味は、なぜか地味で無骨 東京多摩編
思い出の味は、
なぜか地味で無骨 東京多摩編
「思い出の味は?」と訊かれて、すっと美しい答えが返せる人を、私はひそかに尊敬している。
祖母の握った塩むすび。父と食べた銀座の寿司。初恋の人と半分こしたクレープ。語尾にうっすらと西日が差すような、あの味。聞いているこちらまで、人生って悪くないな、という温かい気持ちになる。
ところが、いざ自分の番がまわってきて脳内の記憶の引き出しをガサゴソとひっくり返してみると、出てくるものが、どれもこれも、なんとも華のない、地味なルックスのものばかりなのである。
天丼。カレー。すた丼。二郎。
並べてみて、しばらく言葉を失った。私の青春を彩った味には、見事に、ひとつ残らず、キラキラした色彩というものがなかった。彩り(いろどり)という概念が、人生の初期設定においてまるごと欠落している。かろうじて緑があるとすれば二郎の野菜の山くらいだが、あれを「彩り」と呼ぶのは、世のレタスやトマトに対して著しく失礼だと思う。
どうして、こんなことになったのか。話は、十八の春にさかのぼる。
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私は地方で生まれ育ち、大学進学を機に、生まれて初めて東京に出た。住んだのは聖蹟桜ヶ丘という街である。アニメの聖地らしいと知るのはもっと後のことで、当時の私にとっては、ただ「家賃と都心への距離がぎりぎり折り合う場所」でしかなかった。
上京したての私は、とにかく挙動不審だった。
電車の乗り換えひとつで脇汗をかき、自動改札にPASMOをかざすたび「今度こそガチャンと閉じ込められるのでは」と身構えた。人が多い。歩くのが速い。みんな、生まれながらにしてこの街のルールを知っているかのようで、知らないのは自分だけのような気がした。何をするにも、心のどこかが、ずうっと緊張していた。
そういう人間が、何で生き延びるかというと、結局のところ、飯(めし)である。
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最初に私を救ったのは、天丼だった。
「てんや」という店を、私はそれまで見たことがなかった。地元の田舎には、なかった(と思う)。東京に来て初めて暖簾をくぐり、カウンターに座り、特に考えもせず天丼を頼んだ。
ほどなくして運ばれてきたソレは、揚げたての海老やイカがこんもり盛られ、甘辛いタレの湯気をモーモーと立ちのぼらせていた。
一口、ハフハフと食べた瞬間、私はなぜか、肩の力がフッと抜けた。
それまで私にとって、食事とは「空腹を満たすためのエネルギー補給作業」だった。ガソリンを入れる。終わり。ところがそのとき、生まれて初めて、食べるという行為には「心をなだめる力」があることを知った。サクッとした衣、甘辛いタレ、そしてあたたかいご飯。たったそれだけの三位一体が、「お前、ここでも、たぶん大丈夫だぞ」と、背中をポンと押してくれているように感じた。
正直に言えば、天丼に背中を押されてウルウルしている十八歳というのは、客観的に見てなかなか情けない絵面である。だが、当時の私は本気だった。それ以来、不安なことがあると、私の足はオートマチックにてんやへ向かうようになった。頼むのはいつも同じ天丼。芸がない。けれど、その「芸のなさ」が、あの頃の私には、何よりありがたかった。
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聖蹟桜ヶ丘での日常を支えてくれたのは、駅前のカレーショップ「C&C」だった。
学校帰り、特に疲れた日や、わけもなく心がジトッと沈んだ日、私はなぜか決まって、あの店のカレーが食べたくなった。注文はチキンカツカレー一択。これ以外は認めない。
サクサクのカツに、コクのあるルウ。間にらっきょと福神漬をボリボリとはさむと、口の中がさっぱりして、また次の一口がうまい。スプーンが止まらない。
今思えば、あれは味というより、一種の儀式だったのだと思う。
知らない街で、知らない自分を演じていくのは、地味に精神を消耗する。そんな日々の中で、いつ行っても、何があっても変わらない味がそこにあるというのは、想像以上に効くクスリだった。高級でもなんでもない。けれど、「変わらない」というだけで、人はずいぶん救われるものらしい。どんよりしたルウは、その日もちゃんといつも通りの佇まいで、私を待っていてくれた。
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メニューのヘビー級度合いが、ここから一段ギヤを上げる。
友人に「量が多くてヤバい店がある」と勧められ、軽い気持ちで暖簾をくぐったのが、国立の「すた丼」だった。
軽い気持ちは、一口で木端微塵に吹き飛んだ。濃いめに味つけされた豚肉に、これでもかと効いたニンニクのパンチ。食欲という名のアクセルが、いきなり床まで踏み込まれる。気づけば私は、会話もそこそこに、無言で丼に没頭していた。ガツガツ、モグモグ。食べ終えたあとには、確かな満腹感と、お腹の底から湧き上がってくる謎の元気があった。
ただし、重大な代償もあった。翌日の授業である。
ニンニクというやつは、厄介なことに、本人だけが匂いに慣れて、まわりにはきっちり100%届く。あの日、私の半径一メートル以内に着席していた人々には、いまさらながら、深く、深くお詫び申し上げたい。それでも、また数日経つと食べたくなるのだから始末が悪い。すた丼の「力強いルックス」は、不安でへなへなしていた当時の私に、いちばん足りなかった野性を、無理やり外から注入してくれた気がする。
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そして、私の青春の記憶は、ついに最終形態(ファイナルステージ)に到達する。ラーメン二郎である。
「量がとんでもない」「独特の呪文がある」。名前だけは知っていた。友人に連れられ、心臓をバクバクさせながら初めて府中店の列に並び、いざ目の前に出てきた一杯を見て、私は素直に声を失った。
ドーンと山のように盛られたモヤシとキャベツ。分厚い、塊のようなチャーシュー(豚)。底が見えないほど濃いスープ。これまでの人生で見てきたラーメンという概念から、明らかに何かが、いや、すべてがはみ出していた。
おそるおそる、天地返しなどを試みながら食べ進めるうち、豚の旨みと極太の麺とニンニクが口の中で渾然一体となって暴れ狂う。私はまた、無言になった。私の青春は、わりと無言が多い。
食べ終えたときの達成感は、ちょっとした高尾山登山のそれに近かった。以来、二郎は私の大学生活に、しれっとレギュラー入りを果たした。
府中店には、忘れられない事件がある。あるとき、店舗が使えなくなり、なんと雑居ビルの一角を間借りして営業していた時期があったのだ。初めてその「仮住まい」を訪ねたときは、「本当にここで合っているのか」「ヤバい場所に迷い込んだのではないか」と何度も看板を確かめた。あやしい。どう見てもあやしいのである。
だが、おそるおそる頼んだ一杯は、いつもとまったく同じ、堂々たる二郎の味だった。
場所が変わっても、中身は変わらない。あのときの安心感は、妙に胸に残っている。人生の荒波においても、そういう人やものに、できれば一つや二つ、出会いたいものである。たとえそれが、雑居ビルの二郎であったとしても。
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ここまで読んで、私という人間の食生活や栄養バランスを本気で心配してくださった方がいるかもしれない。安心してほしい。一度だけ、ちゃんと「景色のいい、まともな食事」もしている。
上京してしばらく経った頃、家族が東京に遊びに来てくれた。一緒に買い物をして、その途中、新宿京王百貨店の屋上にある中華レストランに入った。
エレベーターの扉がチンと開いた瞬間、目の前に東京の街並みがぱーーっと広がって、私はそこで初めて、しみじみ「ああ、俺, 本当に東京に来たんだなあ」と実感した。
窓の外のビル群を眺めながら、家族とチャーハンや餃子をつついた。料理はもちろんおいしかったけれど、覚えているのは、味そのものより、あのフワフワとした時間のほうだ。一人暮らしに慣れようと必死で、「自分でやっていくこと」ばかり考えて尖っていた私は、そのとき初めて、「ああ、自分はちゃんと支えられているのだ」と気づいた。肩の荷が、すとんと落ちた。
——ちなみに、今になって思い返してみるに、あのチャーハンも餃子も、よく見るとやっぱり、華やかな彩りとは無縁の、どこまでも実用本位なビジュアルをしていた。景色はあんなに彩り豊かなのに、皿の上だけは頑なに頑固一徹、地味。私の人生は、どうやら本当に、こういう気取らない食べ物で構成されているらしい。
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こうして思い出のメニューをひととおりノートに並べてみると、結局のところ、私の「思い出の味」というのは、純粋な舌の記憶だけではないのだと、よくわかる。
天丼のタレの味より、それを食べてホッと肩の力が抜けたあの瞬間を。カレーの味より、いつ行っても変わらない佇まいの安心感を。すた丼や二郎のニンニク臭より、隣で一緒に口のまわりをギトギトにしていた友人の笑顔を。中華の味より、窓の外のパノラマと、家族の懐かしい声を。
私はたぶん、ずっと、味と一緒に、その時の「空気」を食べていた。
思い出の味とは、何を食べたかではなく、誰と、どんな気持ちで食べたか、なのだと思う。だから、それがどれほど地味で洒落っ気がなくたって、一向にかまわない。あの無骨なメニューたちは、不安で頼りなかった十八歳の迷える子羊を、たしかに、毎日、生かしてくれたのだから。
——とはいえ、である。
次の十年くらいは、もう少し、SNS映えするような彩りのある思い出も作ってみたいものだ。赤とか、緑とか、オレンジとか、そういう前向きな、お洒落な色の味を。
そう、固く心に誓ったその日の夜、私はまた、うっかり、駅前のてんやに吸い込まれ、天丼を頼んでいた。
人は、そう簡単には、変われない。 そして私の思い出は、たぶんこれからも、しばらくは、どこまでも素朴で、香ばしい、あの気取らない味のままである。