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RENEGADE(レネゲイド)

    RENEGADE(レネゲイド) 

    あらすじ

     二〇二六年、名古屋。星野真司は、駅のホームで恋人・美咲の訃報を知った直後、何者かに突き落とされ、意識を失う。目覚めた先は、バブル景気に沸く昭和六十三年の名古屋港――日本の経済成長を狙う世界中の犯罪組織が、兵器とドラッグを求めて群がる、極東最大の無法地帯だった。

     海千山千の狂犬デカ・大滝タカシに拾われ、その「犬」として生きることになった真司は、二挺拳銃の生ける伝説・風間礼二、そして冷徹な参謀・神崎恭弥が率いる新興組織の暗躍を知る。恭弥の野望は、来るべきバブル崩壊を見越し、極東最大の密輸インフラを名古屋港に築き上げること。その帝国は三十七年後、真司の時代にまで生き延び、美咲を死に追いやることになる――。

     狂犬と、伝説と、未来から来た男。三人の連合軍が、香港トライアド、コロンビア・カルテル、ロシアン・マフィアが入り乱れる街の底で、たった一つの盤面をひっくり返す。

     これは、勘定に合わない生き方を選んだ男たちの、挽歌にして、狂詩曲。


    登場人物

    【主人公陣営】

    • 星野真司(ほしの・しんじ) ―― 二四歳。二〇二六年から昭和六十三年へ迷い込んだ、元フリーター。愛車は白いソアラ、愛用の銃は銀色のコルト・ガバメント。煙草は吸わない。

    • 大滝タカシ(おおたき・たかし) ―― 四十過ぎ。愛知県警・組織犯罪対策課の刑事。通称「狂犬デカ」。愛車はクラウン、愛煙草はセブンスター。

    • 風間礼二(かざま・れいじ) ―― 三三歳。九頭龍会・輸入部門の元総責任者にして「生ける伝説」。二挺のベレッタを操る。愛煙草は缶ピース。

    【九頭龍会】

    • 陣内豪(じんない・ごう) ―― 四九歳。広域暴力団・九頭龍会名古屋支部の武闘派古参。愛煙草はゴールデンバット。

    • 桐山菊乃(きりやま・きくの) ―― 六二歳。元置屋の女将にして組の生き証人。懐剣とコルト・ディテクティブスペシャルを隠し持つ。愛車は大和モーターズ・センチュリー。

    【中京黒狼會】

    • 神崎恭弥(かんざき・きょうや) ―― 二一歳。IQ180の冷徹な参謀。バブル崩壊を見越し、密輸インフラの構築を目論む。愛煙草はダンヒル、一日一本のみ。

    • 一ノ瀬蓮(いちのせ・れん) ―― 二〇歳。黒狼會総長。薬と家族の人質で鎖に繋がれた「人形の王」。

    • カナ ―― 一七歳。黒狼會唯一の女兵隊。愛車はカワサキZ400FX、得物は金属バット。

    【国際犯罪シンジケート】

    • 張(チャン) ―― 二九歳。香港・三合会の若き支店長。愛煙草は555。

    • サントス ―― 三八歳。コロンビア・カルテルの東アジア進出責任者。葉巻を愛好。

    • ボリス ―― 五十がらみ。旧ソ連軍崩れの武器商人。PKM軽機関銃を自ら構える。

    • オクサナ ―― 二九歳。ボリス配下の元ソ連軍女性狙撃兵。愛用はAKS-74U。

    • カタリナ・ロッシ ―― キョウヤに雇われた女性狙撃手。愛銃はレミントンM700。

    【警察】

    • 神保武久(じんぼ・たけひさ) ―― 五四歳。県警本部・組織犯罪対策課の管理官。

    • 神谷麻衣(かみや・まい) ―― 三一歳。県警SIT所属。ニューナンブM60を携行。

    • 桜庭志穂(さくらば・しほ) ―― 二三歳。所轄の巡査。

    【街の人々】

    • みなと屋のおばちゃん ―― 大衆食堂の女将。

    • 支倉周平(はせくら・しゅうへい) ―― バー「ノクターン」の常連。三十年、同じ酒を同じ席で。

    • 加藤(本名・金) ―― 鈑金工場の親父。在日コリアン二世。

    • 蘭(ラン) ―― クラブ「オリエンタル」のホステス。

    • 高木由紀(たかぎ・ゆき) ―― 地方紙記者。

    • 小野寺真理子(おのでら・まりこ) ―― 地方銀行員。

    • 一ノ瀬康子(いちのせ・やすこ) ―― レンの母。

    • ロベルト・ヤマシタ ―― 豊田市の日系ブラジル人。

    • 遠野美咲(とおの・みさき) ―― 真司の高校の同級生。二〇二六年で命を落とす。


    序章 二〇二六年、雨のホーム

     訃報というものは、いつも他人の声でやってくる。

     星野真司、二十四歳。深夜のコンビニバイトを上がり、始発を待つ地下鉄のホームで、そのニュースを見た。スマホの画面。ローカルニュースの片隅。《名古屋港・コンテナヤードで女性の遺体 抗争に巻き込まれたか》。

     流し読みするつもりだった。都会の悪意は、いつだって他人事のはずだった。

     だが、記事の中の名前が、真司の指を止めた。

     ――遠野美咲さん(二四)。

     美咲。

     高校の三年間、真司の隣にいた女。卒業式の日、「あんたはさ、真司。逃げ癖さえなければ、いい男なんだけどね」と笑って、真司の胸を拳で軽く叩いた女。真司が専門学校を中退し、バイトを転々とし、連絡を返さなくなってからも、年に一度、誕生日だけはメッセージをくれた女。

     最後のメッセージは、三ヶ月前だった。

    『久しぶり。今、ちょっとやばい仕事の手伝いしてる。やめたいんだけど、やめられない。笑 落ち着いたら、味仙の激辛ラーメン奢って』

     真司は、返信しなかった。

     「やばい仕事」という言葉が重かったからだ。関わったら面倒だと、心のどこかで算盤を弾いたからだ。既読をつけたまま三ヶ月放置して、そして今、駅のホームで、真司は彼女の名前を報道の中に見つけている。

     記事は短かった。中京圏で勢力を広げる犯罪組織――警察が「シンジケート」と呼ぶ多国籍の密輸網。その資金洗浄に使われていた会社で、美咲は経理事務をしていたらしい。抗争。口封じ。捜査は難航の見込み。文末には、組織の淵源についての一行。

    《同シンジケートの原型は、一九八〇年代末の名古屋港で生まれたとされる》

     脳裏に、蘇る場面があった。

     高校三年、文化祭の後夜祭。真司が唯一、逃げずにやり遂げたことと言えば、あの年のクラス劇の裏方仕事くらいだった。舞台袖で照明の合図を待つ間、隣で台本を握っていたのが、美咲だった。

    「真司ってさ」と、美咲は暗闇の中で笑った。「本番になると急に頑張るよね。普段はあんなに、なんでも面倒くさそうにしてるのに」

    「別に、頑張ってねえよ」

    「頑張ってるよ。あたし知ってる。……だから思うんだけどさ。あんたの逃げ癖って、たぶん、面倒くさいんじゃなくて、怖いだけなんだよね。本番の照明係だけは、逃げたら誰かが困るって分かってるから、逃げないだけで」

     その時は、聞き流した。うるさいな、と笑って流した。

     だが今、駅のホームでスマホの画面を見つめながら、真司は思い出す。美咲の言葉は、正しかった。真司が逃げてきたのは面倒事ではなく、いつも、自分が誰かにとって必要かどうか、確かめるのが怖かったのだ。必要とされて、それに応えられなかった時の自分を見るのが、怖かった。

     だから、「やばい仕事」という三文字から、逃げた。

     ――一九八〇年代末。

     真司が生まれるより、ずっと前だ。そんな昔に生まれた化け物が、四十年後の今、美咲を食った。

    「……なんだよ、それ」

     声が漏れた。ホームには誰もいない。誰もいないと、思っていた。

     線路の向こうで、貨物列車の警笛が長く鳴った。始発前の貨物が通過する。黄色い点字ブロックの内側で、真司はスマホを握りしめたまま、動けずにいた。悔しさと、それより何倍も大きい、自分への吐き気。逃げ癖さえなければ、と美咲は言った。その通りだった。真司は今日まで、あらゆるものから逃げてきた。進路から。仕事から。人から。美咲からも。

     だから最初、背中に触れた手のひらを、真司は現実だと思わなかった。

     どん、と。

     世界が傾いた。

     黄色いブロックが視界の端で回転し、レールの銀色が近づいてくる。貨物列車のライトが、闇の奥で膨れ上がる。誰かに突き落とされた――と理解した時にはもう、真司の身体は宙にあった。

     走馬灯というのは本当にあるらしい。ただし流れたのは人生の総集編ではなく、たった一つの記憶だった。高校の屋上。夕暮れ。美咲が笑っている。「逃げ癖さえなければ」。

     ――逃げたく、ない。

     初めてそう思った瞬間、光が真司を飲み込んだ。

     警笛。衝撃。

     そして、闇。


     最初に戻ってきた感覚は、匂いだった。

     潮の匂い。重油の匂い。それから、煙草と、安い酒と、何かが焦げる匂い。

     次に、音。遠くで鳴り続けるクラクション。頭の芯を揺らす重低音のディスコミュージック。男たちの怒鳴り声――日本語ではない。英語。それから、もっと硬い、弾けるような言葉。

     真司は目を開けた。

     ネオンだった。

     視界いっぱいの、ネオン。紫と桃色と金色の光が、夜空を焦がしている。《SAUNA》《純喫茶ローマ》《キャバレー月世界》。パチンコ店《黄金龍》の巨大な龍の電飾看板が、ドラの音を撒き散らしながら回転し、その隣では、質流れ品店《金の草鞋》のシャッターに、閉店セールの貼り紙が何年も貼りっぱなしになっている。ゲームセンター《スペースパレス》の店先では、色褪せた対戦格闘ゲームの筐体が、誰もいないのに一人でデモ画面を回し続けていた。見たこともない書体の看板が、道の両側に何層にも重なり、その下を、肩の張ったスーツの男たちと、原色のワンピースの女たちが歩いていく。道端には、角ばった白いセダンとスポーツカーがずらりと路上駐車され、どの車もワックスでぬらぬらと光っていた。

     真司は、濡れたアスファルトの上に座り込んでいた。

    「……は?」

     ここはどこだ。駅は。ホームは。貨物列車は。

     立ち上がろうとした膝が、震えて笑った。目の前の電柱に、映画のポスターが貼ってある。見知らぬ邦画。その隅の公開日に、真司の目が吸い寄せられた。

     ――昭和六十三年。

    「しょうわ……?」

     昭和六十三年。西暦に直すと。直したくない。直したら、認めることになる。

     その時、路地の奥で、破裂音が連続した。

     花火ではなかった。真司は花火と銃声の区別がつく人生を送ってこなかったが、それでも分かった。空気の質が違う。音のあとに、人間の悲鳴と、ガラスの砕ける音と、英語の怒号が続いたからだ。

    『Move! Move!』
    『撃て! 逃がすな!』

     路地から、男が転がり出てきた。派手なアロハシャツの背中が、赤黒く染まっている。男は真司のすぐ横まで這ってきて、掠れた声で何かを言い、動かなくなった。

     真司の全身から、音を立てて血の気が引いた。

     映画じゃない。ドッキリでもない。目の前の赤は、絵の具ではない。

    「ひ……」

     声にならない声を上げて、真司は尻餅のまま後ずさった。路地の奥から、拳銃を提げた男が二人、ゆっくりと歩いてくる。一人は薄いサングラス。一人は首に龍の刺青。二人の目が、路上の死体と、腰を抜かした真司を、順番に見た。

     サングラスが、面倒くさそうに銃口をこちらへ向けた。

     撃たれる。

     死ぬ。

     二〇二六年の駅のホームで死にかけて、昭和六十三年の路地裏で死ぬ。意味が分からないまま、真司は目をつぶることしかできなかった。逃げ癖の男の、最後まで情けない幕切れ――のはずだった。

     銃声より先に、別の音が割り込んだ。

     車のエンジン音。急ブレーキ。そして、地獄の底から響くような、だみ声。

    「――おうおうおう、待たんかい」

     真司が目を開けると、白いセダンが歩道に乗り上げて停まっていた。運転席から降りてきたのは、熊のような男だった。よれたスーツ。緩んだネクタイ。くわえ煙草。四十を少し過ぎたくらいか、身長は優に百八十を超え、目つきは堅気のそれではない。

     男は、倒れたアロハシャツと、腰を抜かした真司と、銃を構えた二人組を眺め、心底うんざりした顔で、頭を掻いた。

    「よその国から来て、よその国の道端で、ドンパチか。ええ度胸しとるのう、おい」

     サングラスの男が、銃口を熊男に向けて、英語で何かをまくし立てた。消えろ、警察には関係ない――そんな響きだった。

     熊男は、煙草の煙をゆっくり吐いた。

     それから、懐から黒い手帳を出し、開いて見せた。

    「関係、大ありなんだわ。ここはうちの管内でよ」

     次の瞬間、真司は自分の目を疑った。

     熊男の動きが、消えたのだ。

     気づいた時には、サングラスの男の腕が明後日の方向に曲がり、拳銃が路面を滑り、男の顔面が電柱にめり込んでいた。刺青の男が引き金を引くより早く、熊男の靴の先がその膝を横から砕き、倒れたところに肘が落ちた。三秒。かかって、三秒だった。

     熊男は、白目を剥いた二人を無造作に蹴って仰向けにし、手錠を、一つしかないからと言って二人まとめて電柱ごと繋いだ。それから、ようやく真司を見た。

    「おい、坊主」

    「ひっ、ひい」

    「ひいひい言うな。……お前、今の見とったな? 参考人や。乗れ」

    「え、あ、あの、俺、俺は」

    「乗れ言うとるんだがや」

     襟首を掴まれ、真司は荷物のように白いセダンの助手席へ放り込まれた。車内は煙草の匂いが染みつき、ダッシュボードには吸い殻の山と、缶コーヒーの空き缶と、無線機。男は運転席に乗り込むと、アクセルを踏みながら、ジャケットの内側の拳銃を無造作に確かめた。

    「愛知県警の大滝タカシいうもんだがや。……で? お前、名前は」

    「ほ、星野……真司、です」

    「シンジか」

     男――タカシは、ネオンの奔流の中へ車を滑り込ませながら、ニヤリと笑った。それは獲物を見つけた獣の笑いに、よく似ていた。

    「ええ名前だがや。覚えとったるわ。――ようこそ、シンジ」

     フロントガラスの向こうで、一九八八年の名古屋が、燃えるように光っていた。


    第一部 多国籍なる硝煙の街

    一 昭和六十三年の朝飯

     連れて行かれたのは、警察署ではなかった。

     中区の外れ、二十四時間営業の定食屋。《大衆食堂 みなと屋》と、油で曇った看板が出ている。夜明け前だというのに店は半分埋まっていて、客層がまともではないことは、真司にも一目で分かった。港湾作業員。夜の女。そして明らかにそっち側の、開襟シャツの男たち。全員が、入ってきたタカシを見て、一瞬だけ黙り、それから何事もなかったように飯を掻き込み始めた。

    「おばちゃん、いつもの。二人前」

     タカシは奥の席にどっかりと座り、真司を向かいに顎で座らせた。運ばれてきたのは、味噌カツと、どて煮と、山盛りの飯と、赤出汁だった。湯気の向こうで、タカシが割り箸を割る。

    「食え」

    「……いや、あの、俺、それどころだがや」

    「食え。人間、まず食えるかどうかだがや。食えるうちは、大丈夫なんだがや」

     逆らえる雰囲気ではなかった。真司は震える手で箸を持ち、味噌カツを一切れ口に入れた。

     ……うまかった。

     うまい、と感じた瞬間、目の奥が熱くなって、真司は自分でも驚いた。極限の恐怖の後で口にした濃い味噌の味は、暴力的なほど生きている側の味で、さっき路地で動かなくなったアロハシャツの男は、もう二度とこの味を感じないのだと思うと、箸が止まらなくなった。食いながら、真司は泣いた。タカシは何も言わず、どて煮を突きながら、真司が食い終わるのを待った。

    「――で、だがや」

     飯が済み、店のテレビが朝のニュースを流し始めた頃、タカシは、上着の胸ポケットから、青い箱のセブンスターを取り出し、一本、火を点けた。この男が吸う煙草は、いつも決まってこれだった。安物でも、洒落たものでもない。ただ、この街の大抵の刑事と、大抵の極道が吸っている、一番当たり前の銘柄。「――目立たん煙草を吸うんが、目立たん仕事のコツだがや」というのが、タカシの持論だった。

    「シンジ。お前、何モンだがや」

    「な、何モンって……フリーターです」

    「ふりいたあ?」

    「あ、えっと、アルバイトで食ってる、無職みたいな」

    「ほう。住所は」

    「…………」

    「身分証は」

    「…………あの、財布、あるんですけど、見せたら多分、頭おかしいって思われます」

    「わしはマル暴だがや。頭おかしい奴は見飽きとる。出せ」

     真司は、観念して財布を出した。タカシは中身を検めた。見慣れないデザインの千円札。プラスチックのカード類。そして運転免許証。タカシの目が、有効期限の欄で止まった。

     ――令和一〇年〇一月一四日まで有効。

    「……れいわ、いうんは、何だがや」

    「元号、です。昭和の、二つ次の」

     店の喧噪が、二人の席の周りだけ、遠くなった気がした。タカシは免許証を蛍光灯に透かし、指の腹で擦り、匂いまで嗅いだ。偽造カードなら何百枚と見てきた男の目が、細くなっていく。

    「生年月日、平成一四年。……お前、今、何歳だがや」

    「二十四です。……あの、信じてもらえないと思うんですけど、俺、二〇二六年から来たんです。駅のホームで突き落とされて、気づいたらあの路地に……」

     我ながら、頭の病院を紹介されて終わる話だと思った。

     だがタカシは、笑わなかった。灰皿に灰を落とし、長いこと真司の目を見て、それから、まるで天気の話でもするように言った。

    「そうきゃ」

    「……えっ、信じるんですか」

    「信じるかどうかは、あとで決める。わしはの、シンジ。嘘は顔で分かる男だがや。二十何年、取調室で人間の顔だけ見て生きてきた。お前の顔は、嘘をついとる顔やない。頭のおかしい顔でもない。ただの、心底ビビっとるだけの、ガキの顔だがや」

     タカシは免許証を真司に放り返した。

    「それに、の。お前がどこから来た何モンでも、わしには関係あらせん。わしに関係あるんは、一個だけよ。――お前があの路地で、トライアドの鉄砲玉の顔を見たいうことだがや」

    「トライ……アド?」

    「香港の極道だがや。三合会。この半年で、ようけ入り込みよった。ロシアの武器屋、南米の薬屋、フィリピンの偽札屋。……ええか、シンジ。よう覚えとけ」

     タカシは、店の窓の外を顎で示した。夜が明けていく。港の方角、クレーンの群れのシルエットの向こうから、鈍色の朝日が昇り、停泊した貨物船の腹を照らしていた。

    「今、この街はの、日本一――いや、極東一、銭の匂いがする街なんだがや。大和さんのお膝元で、銭が湯水のように湧いとる。銭が湧きゃあ、ハエが湧く。日本のハエだけやない。世界中のハエが、あの港から入ってきよる。銃、薬、女、偽札。何でもありの、無法地帯よ」

    「け、警察は、何やってるんですか」

     訊いてから、しまった、と思った。目の前の男が警察だった。

     だがタカシは、気を悪くした様子もなく、ニヤリと笑った。

    「ええ質問だがや。……警察はの、シンジ。言葉が通じる悪党にしか、勝てんのよ。日本の極道なら、しきたりが分かる。貸し借りが分かる。面子が分かる。せやから均衡が取れる。だけど、海の向こうから来よるハエどもは、しきたりも面子もあらせん。あるんは銭と弾丸だけだがや。県警の上のモンは、まだそれが分かっとらん。『暴力団同士の抗争』いう昭和の帳面に、無理やり書き込んで安心しとる」

     タカシは煙草を灰皿に押し潰し、伝票を掴んで立ち上がった。

    「分かっとるんは、現場で弾の音を聞いとる、わしみたいな狂犬だけよ。――ほれ、行くぞ」

    「い、行くって、どこへ」

    「決まっとろうが」

     タカシは、心底楽しそうに、犬歯を見せた。

    「わしの縄張りの案内だがや。お前は今日から、わしの犬だでね」

     だが、みなと屋を出てすぐ、タカシは律儀に、もう一軒に立ち寄った。

     角を二つ曲がった先、色褪せた庇に《純喫茶ローマ》と書かれた店だった。ドアを開けると、コーヒー豆の匂いと、有線の古い洋楽が、真司を迎えた。みなと屋とは、まるで別の店の顔をしていた。革張りのソファ。年季の入ったサイフォン。壁には、誰の絵とも知れない、色褪せた油絵。

    「ママ、いつもの」

     カウンターの中の、着物姿の老齢の女性が、何も訊かずに、サイフォンの火を点けた。

    「タカシさん、朝から連れ、珍しいねえ」

    「わしの新しい犬だがや」

    「あらそう。……坊や、苦いの平気?」

    「あ、はい、大丈夫です」

     出てきたのは、深く抽出された、苦みの強いコーヒーだった。みなと屋の味噌カツで炭水化物と塩分を叩き込まれた後の、この一杯だけが、タカシの朝の締めくくりだった。

    「シンジ、覚えとけ。飯はみなと屋。頭を醒ますんはローマ。この二軒が、わしの朝のルーティンだがや。……人間、腹が満ちて、頭が醒めてから、初めて、まともに悪党の話ができるんじゃ」

     タカシは、コーヒーを一口すすり、満足そうに息を吐いた。

    「ママの淹れるこの苦さがの、わしにはちょうどええ。甘いコーヒーは、頭がぼんやりする。仕事の話には向かん」

     ママは、カウンターの奥で、静かに笑っていた。この店で交わされる会話の九割が物騒な話だということを、長年の付き合いで、当然のように呑み込んでいるらしかった。

    二 狂犬の縄張り

     わしの犬、という言葉の意味を、真司はその日のうちに、骨の髄まで理解することになった。

     タカシの白いセダン――大和モーターズ製、覆面パトカーですらない、個人の持ち物だという型落ちのクラウン――は、朝の名古屋を縦横に走った。錦三丁目の雑居ビル街。大須の電気街とアーケード。今池の場末。そして、名古屋港。

     行く先々で、タカシは「挨拶」をした。

     挨拶とは、つまり、こうだ。ビルの管理人室に勝手に上がり込んで茶を飲む。パチンコ屋の裏口から入って店長の胸ぐらを掴む。港湾事務所の前で日雇いの列に並ぶ男たちに煙草を配り、代わりに昨夜の貨物船の話を聞き出す。喫茶店のママに花の一本も渡し、ついでに二階に住んどるフィリピンの姉ちゃんらの「店」の景気を訊く。

     情報。情報。情報。この男は、街そのものを取調室にしていた。

    「ええか、シンジ。刑事の商売道具はの、拳銃やない。足と、面の皮だがや」

    「め、面の皮」

    「そうよ。嫌われて、煙たがられて、それでも顔を出す。百回顔を出しゃあ、一回は本音が漏れる。その一回のために、九十九回、茶あ飲むんだがや」

     昼過ぎ、車は港湾地区の外れで停まった。錆びたフェンス。潮風に灼けた倉庫の群れ。その一角の、コンテナを改造した粗末な事務所の前に、若い男たちが屯していた。二十歳前後。改造した単車。特攻服ではないが、それに近い、揃いのスタジャン。背中には、狼の頭の刺繍と、《中京黒狼會》の文字。

    「……暴走族、ですか」

    「元、だがね。今は愚連隊いうか、半グレいうか。黒狼會。頭のレンいうガキが、なかなかの人望での。港の日雇いの口入れやら、ディスコの用心棒やらで、シノギを覚え始めた頃よ」

     タカシが車を降りると、若者たちの空気が張り詰めた。だが、逃げも隠れもしない。やがて事務所の中から、ひときわ目を引く男が出てきた。

     背が高い。金に近い茶髪。整った顔立ちに、真っ直ぐすぎる目。着ているものは他の連中と同じ安いスタジャンなのに、立ち姿だけで、この男が「頭」なのだと分かる。

    「――タカシさん。うちはガサ入れされるようなこと、しとらんですよ」

    「おう、レン。ガサやない。散歩だがや」

    「散歩に狂犬が来たら、うちの若いモンがビビるんですわ」

     一ノ瀬蓮。それが男の名だった。タカシとレンは、フェンス越しの野良猫の話や、単車の音がうるさいという近所の苦情の話を、軽口まじりにしばらく交わした。真司はその間、車の横で借りてきた猫のように立っていたが、やり取りの端々から、二人の間に奇妙な信頼のようなものがあるのを感じ取った。

     帰り際、タカシは思い出したように振り返った。

    「レン。一個だけ、ほんまの用事だがや。……最近、お前んとこの若いのに、妙な仕事回しとる奴がおるらしいの。夜中の港で、荷物の積み替え。時給は、日雇いの十倍」

     レンの表情が、ほんの一瞬、揺れた。

    「……知らんですね」

    「そうきゃ。知らんならええ。だけど、レンよ」

     タカシの声から、軽口の色が消えた。

    「銭には、匂いがある。まともな銭は、汗の匂いがする。あの手の銭は、火薬と薬の匂いがする。お前の鼻なら、嗅ぎ分けられるはずだがや。若いモンの鼻が莫迦になる前に、頭のお前が、よう嗅いどけ」

     車に戻り、走り出してから、真司は訊いた。

    「あの人が、その、悪いことを?」

    「レンか。あれはの、シンジ。この街で一番、悪党になってほしゅうないガキよ」タカシは前を見たまま言った。「親父は死んだ。おかんは病院。弟と妹を、あのガキが食わせとる。ほんまなら、とっくに堅気の道で親方の一人にもなっとる器だがや。だけど、ああいう真っ直ぐな器ほど、悪い銭は、狙って注ぎ込まれよる」

    「狙って……誰にですか」

    「それが分かりゃあ、苦労はせんわい」

     タカシは、フロントガラスの先の港を睨んだ。クレーンが、巨大な鉄の首を、ゆっくりと回している。

    「ただの、勘だがの。……最近、この街の悪党どもの動きに、指し手の匂いがするんだがや。バラバラやったハエどもが、盤の上の駒みたいに、決まった順番で動きよる。トライアドが栄に店を出す。ロシアの船が入る。カルテルの下見が来る。全部、偶然にしては、手際が良すぎるんよ」

     指し手。

     その言葉を、真司は後に、嫌というほど思い知ることになる。

     だがこの時の真司は、まだ何も知らなかった。ただ、昭和六十三年の眩しい西日と、隣で煙草をふかす熊のような男の横顔を、夢の続きのように眺めていただけだった。

    三 犬小屋の夜

     その夜から、真司の「犬小屋」は、タカシの持ちアパートの一室になった。

     中川区の運河沿い。風呂なし、便所共同、六畳一間。窓を開ければ運河の水の匂いと、対岸の町工場のプレス機の音。家賃はタダ。ただし条件付きだった。

    「朝の六時に下に来い。わしの車を磨け。それから一日、わしに付いて歩け。飯は食わしたる。給料は――」タカシは少し考え、「情報一個につき、五百円」

    「じょ、情報って」

    「街で見聞きしたことよ。お前は妙な男だがや。よそから来たけえ、この街のモンには当たり前すぎて見えんもんが、見えるかもしれん。新品の目いうんは、それだけで商売道具になるんだがや」

     こうして真司の、昭和六十三年の日々が始まった。

     最初の一週間、真司は使いものにならなかった。

     文字通り、何一つ、できなかった。

     公衆電話のかけ方が分からず、ダイヤルの穴に指を入れたまま固まった。テレホンカードと十円玉の使い分けが分からなかった。タカシに「地図で車を誘導せい」と言われ、スマホのない世界で紙の地図が読めず、高速の入口を三回連続で間違えさせた。訊き込み先の喫茶店では、灰皿だらけの店内の煙で咳き込み、「兄ちゃん、身体弱いんか」と笑われた。

     何より駄目だったのは、暴力だった。

     三日目の夜、錦のスナックで、酔った組員同士の喧嘩が始まった。ビール瓶が割れ、血が飛んだ。それだけで、真司は腰を抜かした。タカシが仲裁――という名の制圧――をしている間、真司は店の隅で、皿洗いの女の子に介抱されていた。

     五日目、今度は発砲事件の現場検証に連れて行かれた。路上に白いチョークの人型。乾いた血。真司は現場の隅で吐いた。

    「……すんません。すんません……」

    「謝るな」

     タカシは、吐いている真司の背中を、意外なほど静かに見ていた。

    「吐けるうちは、まともなんだがや。この街の血の匂いに慣れきったら、それはそれで、終わりよ。……だけど、シンジ。まともなままだと、この街では、死ぬ。お前はどっちか選ばないかん。まともなまま死ぬか。半分だけ、狂うか」

    「はんぶん……?」

    「そうだがや。全部狂うたら、ハエどもと同じになる。半分だけ狂うて、残り半分で、狂うた自分の首根っこを、押さえとくんだがや。わしはそうやって、二十年やっとる」

     真司には、まだその意味が分からなかった。

     分からないまま、それでも真司は、毎朝六時に車を磨いた。磨きながら、少しずつ、街が見えてきた。

     例えば――港に近い自販機のコーラが、週の半ばだけ売り切れること。夜勤の積み替え作業がある週だ、と分かった。例えば――大須のゲームセンターの両替機に、やたらと新券の万札が入ること。どこかで現金の「洗濯」が行われている兆候だと、タカシが教えてくれた。例えば――錦のディスコの黒服が、ある夜を境に、全員知らない顔に入れ替わったこと。

    「……タカシさん。あの店、変です。黒服の靴が、揃いで新品でした。それも、日本のサイズ表記じゃない箱が、裏口のゴミに」

     それを報告した時、タカシは初めて、真司に五百円玉を二枚くれた。

    「上出来だがや。倍額サービスよ。――あの店はの、先週から経営者が替わった。表向きはな。裏は、香港の銭だがや」

     トライアド。張、という名前を、真司はその時、初めて聞いた。

     夜、犬小屋に戻ると、真司は、天井を見ながら、二〇二六年のことを考えた。

     最初の頃は、帰り方ばかり考えていた。突き落とされたホーム。貨物列車。同じ条件を揃えれば、帰れるのではないか。実際、一度だけ、深夜の貨物線の線路際まで行ってみたことがある。行って、三十分立ち尽くして、帰ってきた。飛び込む勇気がなかったからではない。――もし帰れたとして、と、線路の前で気づいてしまったからだ。帰った先の二〇二六年で、美咲は、もう死んでいる。既読無視の三ヶ月ごと、そっくりそのまま、待っている。

     帰りたい場所が、ないのだった。

     それに気づいた夜から、真司の不眠は、少しずつましになった。奇妙な理屈だが、そうだった。ここで生きるしかない、と観念した人間の眠りは、帰り道を探し続ける人間の眠りより、深い。

     プレス機の音は、慣れると、波の音に似ていた。

    四 夜学

     この街で真司を最初に殺しかけたのは、弾丸ではなく、言葉だった。

     タカシの供回りを始めて三週間目の夜。錦の外れの雑居ビルの前で、真司は「車で待っとれ」の言いつけ通り、クラウンの助手席に座っていた。タカシはビルの三階の麻雀屋に「挨拶」に上がっている。十分で戻る、はずだった。

     窓を、拳が叩いた。

     振り向くと、金髪を刈り上げた白人の大男が、身を屈めて真司を覗き込んでいた。その後ろに、もう一人。二人とも革のジャケットの下に、何かの膨らみがある。大男は早口の英語でまくし立て、駐車位置を指さし、それから真司を指さした。

    「え、あ、す、すいません、日本語で……ジャパニーズ、プリーズ……」

     真司の返事に、大男の眉間の皺が、深くなった。声が一段、低くなる。英語が、さらに速くなる。単語の断片だけが、耳に引っかかった。ムーブ。ナウ。それから、聞き取れたら聞き取れたで血の気の引く単語が、二つ、三つ。

     真司は、凍りついた。何を要求されているのか分からない。車を動かせと言っているのか、降りろと言っているのか、この場所が誰かの縄張りなのか。分からないまま謝り続ける真司の首筋に、大男の手が伸びかけた――ところで、ビルの入口から、だみ声が降ってきた。

    「――おうおう。うちの犬に、何の用だがや」

     タカシは階段を降りてくると、大男の前に立ち、日本語のまま、にっこり笑った。それから、真司が初めて聞く、恐ろしく訛りの強い、しかし恐ろしく通りのいい英語で、三つ、短い文を言った。大男たちの顔色が変わり、二人は何かを吐き捨てて、夜の錦に消えた。

    「……な、何て言ったんですか、今」

    「『ここは警察の駐車場だがや』『お前の顔は覚えた』『今夜は帰って寝え』。……英語なんぞ、それで足りるんだがや」

     車を出してから、タカシは、しばらく黙って煙草を吸っていた。それから、灰を落として、言った。

    「シンジ。おみゃあ、学校で英語、何年やった」

    「え……中高で六年と、専門で少し」

    「ほう。六年もやって、さっきのが聞き取れんか」

    「速すぎて……それに、なんか、教科書と全然違って」

    「当たり前だがや。教科書の英語はの、殴る気のない人間の英語よ」

     タカシは、セブンスターの箱を、真司の方へ、軽く放って寄越した。

    「一本、吸うか」

    「あ、いや……俺、吸わないんで」

    「ふうん」

     タカシは、意外そうな顔もせず、箱を、自分の胸ポケットに戻した。この時代、二十歳そこそこの男が煙草を吸わないというのは、ちょっとした変わり者の部類だった。だが真司には、吸わない理由があった。二〇二六年、周りの友人はほとんど誰も吸わなかった。健康志向とか、金がないとか、そういう以前に、単純に「吸う」という選択肢自体が、真司の育った時代には、もうほとんど残っていなかったのだ。

    「シンジ。おみゃあ、変わっとるの」

    「……そうですかね」

     タカシは、赤信号で車を停め、真司の方に、初めて向き直った。

    「ええか、シンジ。よう覚えとけ。この街に流れ込んどる言葉は、英語も広東語もタガログもロシア語も、全部現場の言葉だがや。文法なんぞ、あってないようなもんよ。だけど、現場の言葉には、教科書にない骨組みが一本、通っとる。――銭の話か、面子の話か、命の話か。まず、それだけ聞き分けえ。単語なんぞ、二割拾えりゃ上等だがや。声の高さ、速さ、間合い、目と手の動き。それで残りの八割は埋まる。……さっきのあれはの、命の話に片足突っ込んどった。おみゃあ、それが分からんかったろう」

    「……分かりませんでした」

    「なら、今夜から夜学だがや」

     夜学、というのは、こういうことだった。

     週に二晩、タカシは真司を、港湾地区の外れの一杯飲み屋に連れて行った。船員相手の店だ。カウンターの中はフィリピン人の姉妹がやっていて、客は夜ごとに国籍が変わった。パナマ船籍の船のギリシャ人機関士。韓国の漁船員。香港の荷役請負。時々、素性を訊いてはいけない顔の白人たち。

    「聞いとるだけでええ。飲んで、笑うて、耳だけ開けとけ」

     最初のひと月、真司の耳は、ただの雑音の壁の前にいた。だが、ふた月目のある夜、壁に、最初の穴が開いた。カウンターの端で飲んでいた香港の男二人の会話の中に、聞き覚えのある単語の並びが、ふっと浮き上がったのだ。オリエンタル。フライデー。それから、数字。

     意味は分からない。だが、声が低くなった。二人の間合いが詰まり、片方が、無意識に出口を確かめた。銭の話が、命の話に変わった瞬間の、あの空気の変質。教科書のどこにも載っていない文法が、真司の耳に、初めて読めた。

    「……タカシさん。カウンターの端の二人。金曜に、オリエンタルで、何かあります。数字は聞き取れませんでした。でも、二人とも、その日は店に近づきたくないって身体でした」

     帰りの車で報告すると、タカシは、口笛を吹いた。

    「ほう。……当たっとったら、五百円の三倍だがや」

     金曜、オリエンタルでは、開店前に「ボヤ」が出た。消防が入り、店は一晩閉まった。ボヤの原因は最後まで「不明」だったが、翌週から店の警備の人数が倍になり、黒服の顔ぶれがまた入れ替わった。誰かが誰かに、何かの警告をしたのだ。それが読めるところまでは、まだ真司の耳は届かない。だが、何かが起きる前の水音だけは、確かに聞こえた。

    「千五百円だがや」

     タカシは、硬貨ではなく千円札と五百円玉を、真司の膝に放った。

    「ええか、シンジ。この街のドンパチはの、始まってから聞こえる音は、全部手遅れの音だがや。銃声、悲鳴、サイレン。あれが聞こえた時にゃ、もう誰かが死んどる。ほんまに銭になる音はの、その前の音よ。声が半音下がる音。グラスを置く位置が変わる音。笑い声から、笑いだけが抜ける音。……お前の耳は、それを拾い始めた。六年の英語より、ふた月の夜学よ」

     夜学には、副産物もあった。

     カウンターのフィリピン人姉妹の姉のほう――ロサという名の、真司の母親くらいの歳の女は、三ヶ月目のある夜、閉店後の店で、真司に皿洗いを手伝わせながら、ぽつりと言った。

    「シンジ。あんた、タカシの新しい犬ね」

    「え、あ、はい。犬です」

    「前の犬はね、死んだよ。五年前。いい子だった」

     皿を拭く真司の手が、止まった。ロサは、グラスを光にかざして曇りを検めながら、何でもないことのように続けた。

    「タカシはね、それから犬を飼わなかった。ずっと一人で歩いてた。この街で一人で歩くのはね、シンジ、早く死にたい人の歩き方よ。……だからあんたが来て、うちらはちょっと、ほっとしてるの。あの馬鹿が、また誰かに飯を食わせてる。人に飯を食わせてる間はね、人間、死なないから」

    「……ロサさん。その、前の人って」

    「訊かない」

     ロサは、グラスを置いて、初めて真司の目を見た。笑っていたが、目は笑っていなかった。

    「この街の夜学でいちばん大事な科目、教えたげる。訊いていいことと、悪いことの聞き分け。さっきのは、悪いほう。……はい、今夜の授業、終わり。残りのビール、飲んでいきな」

     その夜、犬小屋に帰った真司は、天井を見ながら、初めて、大滝タカシという男の背中の側のことを考えた。五年前の犬。一人で歩いていた五年間。「わしの犬にしとくには惜しゅうなってきた」と言った時の、あの顔。

     訊いていいことと、悪いこと。

     訊かないまま、真司は翌朝も六時に、クラウンを磨いた。いつもより、少しだけ、丁寧に。

    五 オリエンタルの張

     大須のクラブ《オリエンタル》。

     かつては場末のディスコだったその店は、改装を経て、この街の夜の新しい心臓になりつつあった。真紅の絨毯。金龍の彫刻。ミラーボールの下で、日本人のホステスと、香港から来た男たちと、羽振りのいい地元の若い衆が踊る。

     張(チャン)は、その店のVIPルームの奥に、いつも座っていた。

     テーブルの上には、抜き身のバタフライナイフと並んで、いつも赤い箱の**555(三五)**が置いてある。香港・広東系の裏社会で、格を示す銘柄として知られる煙草だった。張は、一日に一箱を、他人には勧めず、一人で吸い切る。「――煙草を勧めるんは、弱みを見せるのと同じだ」というのが、彼の流儀だった。

     二十九歳。仕立てのいい麻のスーツ。物静かな所作。笑うと人懐こい八重歯が覗くが、その笑顔のまま人を刺せる男だということは、香港の九龍城で彼と会ったことのある人間なら、誰でも知っていた。スーツの下、背中と腰には、常に複数の刃物。銃は「うるさいから」という理由で、交渉の席では滅多に抜かない。その代わり、VIPルームの入り口には、いつも黒服の男が二人、ヴァイオリンケースを思わせる細長い鞄を提げて立っていた。中身は、香港から船便で運ばれたトンプソン・サブマシンガン。古い型式だが、手入れは完璧で、張はこの武骨な得物を「祖父の代からの、家業の道具」と呼んで、決して手放そうとしなかった。

     その夜、張の店に、招かれざる客が来た。

    「――おう、邪魔するで」

     タカシだった。後ろには、この一ヶ月で多少は付き人らしくなった真司が、緊張で顔を強張らせて立っている。黒服たちが色めき立つのを、張は指一本で制した。

    「これは、これは。有名な狂犬刑事さん。うちの店に、何のご用ですか」

     入り口近く、ボトルを並べる棚の陰で、一人のホステスが、グラスを拭く手を、一瞬だけ止めた。蘭(ラン)。この店のナンバーワンで、日本人離れした色白の美貌から、客には「どこの生まれか分からない女」で通っている。本当の生まれは、四日市の工業地帯だった。

     蘭がこの店に流れ着いたのは、三年前。水商売の借金を作った父親の穴埋めのためだった。だが、蘭には、この街の誰も知らない特技があった。一度聞いた声と話し方を、二度と忘れない耳だ。誰がどの席で、何語で、何を話したか。蘭の記憶の中では、それがすべて、正確な録音のように残っている。

     タカシが最初に目をつけたのは、その耳だった。半年前、偶然この店で顔を合わせた際、タカシは名刺も見せず、ただ一言だけ、蘭に囁いた。「――お父ちゃんの借金、あと幾ら残っとる」。それだけで、取引は成立した。以来、蘭は、この店で交わされる言葉の断片を、月に一度、タカシにだけ流す、静かな情報源になっていた。

     張の日本語は、流暢だった。わずかな広東語の抑揚が、かえって凄みになっていた。

    「開店祝いよ。景気はどうだがや」

    「おかげさまで。日本のお客さん、お金持ちばかり。素晴らしい国ですね」

    「そうきゃ。そら何よりだがや。……ところで張さんよ。先週、堀川に浮かんだ台湾人な。あれ、お宅の商売敵だったらしいの」

     VIPルームの空気が、一度で凍った。張の背後に控えた男たちの手が、それぞれの懐へ動く。真司は、自分の心臓の音が隣のタカシに聞こえるのではないかと思った。

     張は、笑顔のまま、ワイングラスを回した。

    「刑事さん。証拠、ありますか」

    「あらせん。あったら令状持って来とるわい」

    「では、それはただの世間話ですね」

    「そうよ。世間話だがや」タカシも笑った。獣と獣が、笑い合っていた。「せやからついでに、もう一個だけ世間話をしたるわ。……張さん。あんた、ええ商売人だがや。九龍のやり方をこの街に持ち込まんと、ちゃんと日本の水に合わせて商売しとる。堀川の一件も、身内の不始末の後片付け、いうとこだら。わしはそこは、評価しとる」

    「光栄です」

    「だけど――」

     タカシは一歩、踏み込んだ。黒服たちが動くより早く、その眼光だけで、部屋の温度がさらに下がった。

    「あんたの銭の出どころやない。行き先の話だがや。最近あんた、妙なガキと会うとるらしいの。歳は二十歳そこそこ。眼鏡。日本人。英語ぺらぺら。……そのガキ、何モンだがや」

     真司は見た。

     張の笑顔が、その質問の瞬間だけ、完璧に静止したのを。撃たれても眉一つ動かさないだろうこの男が、「眼鏡のガキ」の一言で、ほんの一瞬、計算する目になったのを。

    「……さあ。お客さんの顔は、いちいち覚えていませんね」

    「そうきゃ。まあええ。思い出したら、教えてくれや。――行くぞ、シンジ」

     店を出て、車に乗り、大須のアーケードを抜けた頃、タカシはぽつりと言った。

    「見たか、シンジ」

    「……はい。あの人、あの質問の時だけ、その、時間が止まったみたいに」

    「そうだがや。よう見とった。五百円――いや、あれは千円の顔だったの」タカシは笑わなかった。「張は、九龍で殺し合いを勝ち抜いてきた男よ。その男が、名前を出しただけで算盤を弾く相手。……眼鏡のガキ。二十歳そこそこの日本人に、だがや」

    「そんな奴が、いるんですか」

    「おる。名前も、だいたい割れとる」

     タカシは、赤信号で車を停め、フロントガラスの向こうの夜を睨んだ。

    「――神崎恭弥。通り名、キョウヤ。黒狼會の、参謀だがや」

    六 眼鏡の参謀

     神崎恭弥という男について、この時点でタカシが掴んでいた情報は、多くなかった。

     二十一歳。県内の進学校を中退。親は堅気の勤め人だが、数年前から絶縁状態。中学時代に知能指数の検査で「測定上限」を叩き出した、という噂。十九の時、黒狼會の前身の暴走族に、なぜか自分から近づいた。喧嘩はからきし駄目で、単車にも乗れない。なのに一年で、レンの隣に座るようになった。

    「喧嘩のできんガキが、愚連隊で参謀に成り上がる。どういう意味か分かるか、シンジ」

    「……頭が、いいから?」

    「半分正解だがや。もう半分はの――銭を持ってきよるからよ。それも、ケタの違う銭をだがや」

     黒狼會のシノギは、この一年で様変わりしていた。以前は用心棒と口入れ稼業の、可愛いものだった。それが今では、深夜の港の「積み替え仕事」を一手に請け負い、若い衆の懐には万札が入り、事務所の前には新車の単車が並ぶ。

     銭の出どころを、キョウヤは誰にも言わない。レンにさえ、全部は言わない。

    「レンは、気づいとらんのですか。その銭が、やばい銭だって」

    「気づいとるよ。気づいとって、目ぇつぶっとるんだがや」タカシは苦い顔で言った。「弟の高校の学費。おかんの入院費。若い衆六十人の飯代。……真っ直ぐな男が目をつぶる時はの、シンジ、自分のためやない。背負っとるもんのためよ。キョウヤいうガキは、それを全部計算した上で、レンの背中に銭を積みよるんだがや」

     真司は、事務所の前で見た、あの真っ直ぐな目の男を思い出した。

     そして初めて、この時代の犯罪の「指し手」の輪郭のようなものに、指先が触れた気がした。

     タカシの手元には、もう一つ、古い紙があった。キョウヤの出身中学の、生活指導の記録の写し。どこから引っ張ったのかは、訊かないのが犬の作法だった。

    「読んでみい。……ぞっとするぞ」

     記録は、二件だけだった。一件目、中学二年。同級生への傷害事件の「関係者」として名前が出ている。ただし、キョウヤは手を出していない。いじめグループ五人が、ある日突然、互いに殴り合いを始め、全員が停学になった。五人はそれぞれ「あいつが俺の秘密をバラした」と主張したが、誰が漏らしたのかは、ついに分からなかった。いじめの標的だった生徒――キョウヤの、当時唯一の友人だったらしい――だけが、無傷だった。

     二件目は、その半年後。当のその友人が、転校している。転校先は、遠方の親戚の家。理由の欄には、担任の細かい字で、こうあった。《本人談・「あいつの近くにいるのが、一番怖い。助けてもらったのに、あいつが何を考えて助けたのか、最後まで分からなかった」》

    「……助けた相手に、逃げられとる」

    「そうよ。ほいでの、シンジ。おそがいんは、ここからだがや。キョウヤはその後、二度と、友達を作っとらん。作り方を忘れたんやない。採算が合わん、と勘定したんだがや。五人を潰す仕事は、面白かった。だが、守った友人からは、気味悪がられて逃げられた。投資対効果、マイナスだがや。……あのガキの中では、たぶん、人間いうもんの決算が、十四の歳に、一遍で終わっとるんよ」

    「……なんか」

     真司は、記録の写しを見つめたまま、言葉を探した。

    「なんか、それ……悪党の経歴っていうより」

    「ん?」

    「迷子の、記録みたいだ」

     タカシは、真司の顔を、しばらく見た。それから、写しを乱暴に折り畳んで、懐に戻した。

    「――そういうことを言うけえの、お前は」

     吐き捨てるような声だったが、怒ってはいなかった。

    「ええか、シンジ。忘れんな。迷子だらが何だらが、あれはこれから、この街の人間を何十人も、盤の上の木っ端に変える。同情は、全部が終わってからにせえ。……ただの」

     タカシは、そこで一度、言葉を切った。

    「ただの、もし、だがや。もしいつか、あれと盤を挟んで口を利く人間が出るとしたらの。それは、わしみたいな古い狂犬でも、九頭龍会の鉄砲玉でもあらせん。……あれの勘定の外から来た、あれの決算を知らん人間だらの」

     その時の真司には、その言葉の意味が、まだ分からなかった。

     だが、本物の輪郭は、真司の想像より、遥かに冷たく、遥かに大きかった。

     その夜、タカシと別れたあと、真司は独りで、市電の通りを歩いた。

     キョウヤの「決算」の話が、頭から離れなかった。友人を守り、そして守った相手に逃げられた十四歳の少年。それ以来、二度と友を作らなかった少年。人間関係を、投資対効果でしか測れなくなった少年。

     ――それは、真司がよく知る「顔」でもあった。

     二〇二六年の自分。既読をつけるだけで、誰にも本気で近づかなかった自分。関わって傷つくくらいなら、最初から関わらない方が「割に合う」と、どこかで勘定していた自分。キョウヤとの違いは、たった一つしかない気がした。真司はただ、勘定を怠けていただけだ。キョウヤは、十四歳のあの夜、本気で勘定し、本気でその答えに従っただけだ。

     ――もし美咲が、あの頃の自分に、一度でも本気で踏み込んでくれていたら。

     考えかけて、真司は首を振った。都合のいい言い訳だ。踏み込まれなかったのではない。踏み込む勇気がなかったのは、自分の方だ。キョウヤと自分を並べて考えるのは、死んだ美咲にも、キョウヤに壊されていく少年兵たちにも、失礼だと思った。

     それでも、その夜以来、真司はキョウヤという人間を、単なる「敵」としてではなく、もう一つあり得た自分の姿として、見るようになっていた。

     それを思い知らされたのは、梅雨入り前の、蒸し暑い夜のことだ。

    七 九頭龍会

     名古屋港の夜を、当時、実質的に支配していたのは、広域暴力団九頭龍会の名古屋支部だった。

     九頭龍会は、全国最大の指定暴力団の傘下にあるわけではない。名古屋を本拠に据えた、独立系の二次団体――だが、その内実は、独立系にはおよそ似つかわしくないほど、統制が取れていた。盃事の作法、上納の透明さ、若い衆への締め付けの厳しさ。荒事はしても、金の流れだけは一分の隙もなく帳簿に残す。**「極道も、突き詰めれば経理業だ」**というのが、初代からの家訓だった。

     その規律の徹底ぶりは、県警内でも半ば伝説になっていた。曰く、「東海地方の企業舎弟のやり口は、名古屋の会に学べ」。荒っぽさと几帳面さが同居する、この土地独特の極道気質――全国最大組織の直系二次団体が持つ、あの「本部より本部らしい」統制と経済観念を、九頭龍会は、系列に属さぬまま、独自に体現していた。それゆえに、進出してきた海外の犯罪組織からも、そして名古屋の警察からも、「一番、話が早い相手」として、一目置かれていた。

     支部の最高幹部は二人。

     一人は、陣内豪(ジンナイ)。四十九歳。武闘派で鳴らした古参で、盃事と仁義に病的なほどうるさい、昔気質の極道。煙草は、今どき珍しいゴールデンバット――フィルターすらない、刻み葉巻きの安煙草――を、若い頃から一切変えていない。「フィルターの付いた煙草は、口当たりだけええ、腰抜けの煙草だがや」というのが、ジンナイの数少ない口癖の一つだった。そしてもう一人が――

    「風間礼二。通り名、レイジ。三十三歳。……こいつがの、シンジ。化けもんなんだがや」

     タカシは、一枚の監視写真を真司に見せた。写っていたのは、恐ろしく姿勢のいい男だった。細身の黒いスーツ。オールバック。歳より若く見える端正な顔に、感情の読めない切れ長の目。

    「九頭龍会の、輸入部門の総責任者よ。港に入る"荷物"の九割は、こいつの帳面を通る。だけど、こいつの本業は帳面やない。――二挺拳銃だがや」

    「二挺……って、映画みたいな?」

    「映画は、あれの真似をしとるんだがや、いう奴もおる」タカシは冗談の顔をしていなかった。「十年前、大阪で東側の組と戦争になった時、単身で敵の本部事務所に入って、五分後に出てきた。中で何があったか、生きて喋った人間がおらん。分かっとるんは、レイジが両手に一挺ずつベレッタを提げて入り、無傷で出てきた、いうことだけよ。以来、こいつは撃ち合いで負けたことがない。生ける伝説いうやつだがや」

    「そんな人が、なんで大阪や東京じゃなくて、名古屋に」

    「ジンナイよ。レイジはガキの頃、ジンナイに拾われた戦災孤児――やない、時代が合わんの、まあ、親なしの捨て猫よ。ジンナイに飯を食わされ、ジンナイに盃をもろうた。義理いう鎖で、この港に繋がれとる犬だがや。……わしと同じよ」

     最後の一言の意味を訊く前に、無線が鳴った。

    『――こちら港湾三号。ガーデンふ頭西、倉庫街で発砲音。連続。継続中。応援求む』

     タカシの車が急発進した。深夜の臨港道路を、クラウンは法定速度の倍で飛んだ。真司は助手席で必死にドアの取っ手を掴みながら、無線の悲鳴のような続報を聞いた。発砲継続中。自動火器の可能性。マル対多数。

     自動火器。

     現場に着く前から、音が聞こえた。

     乾いた連射音が、倉庫街の谷間に反響していた。テレビで聞く銃声とはまるで違う、腹に響く、空気を引き裂く音。倉庫の一つから黒煙が上がり、炎がトタン屋根を舐めていた。

    「シンジ。車から出るな。頭を下げとけ」

     タカシは車を倉庫の陰に停め、トランクから防弾チョッキ――ではなく、なぜか工事現場の鉄板のようなものを引きずり出して運転席のドアに立てかけ、拳銃を抜いて闇へ消えた。

     真司は言いつけを守れなかった。守れないほど、目の前の光景が現実離れしていた。

     燃える倉庫の照り返しの中、コンテナの隙間を、男たちが走り回っていた。日本の極道らしいスーツの男たちが、次々に倒れていく。撃っているのは、目出し帽の一団だった。動きがまるで違う。二人一組で角を制圧し、交互に前進する。あれは喧嘩の動きではない。訓練された、戦争の動きだ。

     そして真司は、見た。

     燃える倉庫を背に、たった一人で目出し帽の一団と撃ち合う、黒いスーツの男を。

     男は、踊っているようだった。右手と左手の銃口が、それぞれ別の生き物のように吠え、目出し帽が二人、三人と崩れ落ちる。コンテナからコンテナへ、影から影へ。無駄のない、恐ろしく静かな動き。写真で見た顔だと、真司は炎の明かりの中で理解した。

     風間礼二。生ける伝説。

     だが、その夜の盤面は、伝説の男の勝ちには、作られていなかった。

     真司の位置から、それが見えた。目出し帽の一人が、撃ち合いにまったく参加せず、倉庫の屋根の上へ、静かに回り込んでいくのが。その手にあるのが、他の連中の自動小銃とは形の違う、細長い銃であるのが。

     狙撃手。

     誰も気づいていない。レイジも、応戦する九頭龍会の男たちも、駆けつけたタカシも。

     真司の身体は、勝手に動いていた。なぜだか、自分でも分からない。恐怖で膝が笑っているのに、気づけば車を飛び出し、燃える倉庫に向かって、喉が裂けるほど叫んでいた。

    「――屋根の上っ!! 右の屋根の上に、いるぞーーッ!!」

     黒いスーツの男が、跳んだ。

     直後、レイジが半瞬前までいた場所のコンテナに、大口径の弾丸が立て続けに突き刺さり、鉄板に穴が咲いた。転がりながらレイジの右手が跳ね上がり、二発。屋根の上の影が、仰け反って落ちた。

     その直後、真司の世界は暗転した。目出し帽の一人に、背後から銃床で殴られたのだ。

     薄れる意識の中で、真司は最後に二つのものを見た。

     こちらへ血相を変えて走ってくる、タカシの顔。

     そして――燃える倉庫の、はるか後方。臨港道路に停まった一台の黒い車の屋根に腰掛け、この地獄を眺めている、眼鏡の男のシルエットを。

     男は、チェスの駒のようなものを、指先で弄んでいた。

    八 病室の伝説

     目が覚めると、白い天井だった。

     消毒液の匂い。頭に巻かれた包帯。窓の外は昼で、遠くに港のクレーンが見えた。ベッドの脇のパイプ椅子に、タカシが座って、りんごを剥いていた。恐ろしく不器用な手つきで、皮より実の方が多く削げていた。

    「……起きたか。三針だがや。石頭に感謝せえ」

    「あの、俺……」

    「二日寝とった。倉庫の一件はの、表向き『暴力団同士の抗争、死者七名』で処理されとる」タカシは削りすぎたりんごを真司に押し付けた。「九頭龍会の荷扱いの若い衆が五人。目出し帽が二人。……目出し帽の身元はな、シンジ。分からんのだがや。指紋、照会かけても、日本の帳面のどこにもあらせん。歯の治療痕から、外国人いうことだけ分かった」

    「外国の、プロ……」

    「そういうことだがや。国内の帳面しか持っとらん警察には、幽霊と同じよ」

     タカシはそこで言葉を切り、珍しく、少しの間、黙った。

    「……シンジ。お前、なんで叫んだ」

    「え?」

    「屋根の上の狙撃手よ。お前が叫ばなんだら、風間礼二は死んどった。だけど、お前も殴られて、下手すりゃ死んどった。あんだけ血ぃ見て吐いとったビビりが、なんで飛び出した」

     真司は、包帯の下の鈍い痛みを感じながら、考えた。答えは、考えるまでもなく、最初からそこにあった。

    「……見えたのに黙ってたら、俺、あの人が死ぬのを見てただけになるから」

    「…………」

    「俺、ずっとそれで生きてきたんです。見てるだけ。既読つけるだけ。関わったら面倒だから、目ぇそらして。……そのせいで、大事な人が死んだ。二〇二六年で。だからもう、見てるだけは、嫌なんです。ビビりは治ってないです。多分一生治らない。でも、見てるだけは、もう」

     タカシは、長いこと真司の顔を見ていた。

     それから、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がり、病室のドアの所で、背中を向けたまま言った。

    「――退院したら、道場に来い」

    「ど、道場?」

    「県警の、やない。わしの個人の伝手だがや。お前に、半分だけ狂う稽古をつけたる。それとの、シンジ」

     タカシはドアを開け、振り返らずに続けた。

    「隣の病室に、見舞い客が一人も来ん男が寝とる。りんご、持っていったれ。……わしが剥いたやつやない方をな」

     隣の病室のネームプレートには、偽名が入っていた。だが、ベッドの上で上体を起こし、文庫本を読んでいた男の顔を、真司は忘れるはずもなかった。

     黒いスーツは、今は患者衣に替わっている。左肩と脇腹に包帯。それでも姿勢は、恐ろしくよかった。

     風間礼二は、文庫本から目を上げ、入口で固まっている真司を、静かに見た。

    「……ああ。あの時の、声か」

     低く、澄んだ声だった。

    「え、あ、はい。星野真司です。あの、これ、りんご」

    「屋根の上に気づいたのは、偶然か」

    「い、いえ。撃ち合いに参加してない人が一人だけいて、動きが違ったから、変だなって」

    「撃ち合いの最中に、撃っていない人間を見ていたのか」

     レイジは、しばらく真司の顔を眺めた。値踏みでもなく、感謝でもない。強いて言えば、珍しい鉱物でも見るような目だった。

    「……変わった目をしているな、君は」

    「よ、よく言われます。最近」

    「礼を言う。命の借りだ」レイジは文庫本を閉じた。「借りは返す主義だ。いつか、君が本当に困った時に、一度だけ、俺を使え」

     それが、星野真司と風間礼二の、最初の会話だった。

     この病室の貸し借りが、やがて名古屋港の歴史を変えることになるとは、二人とも、まだ知らない。

     退院した日の夕方、タカシは真司を、初めて、ある場所へ連れて行った。

     港湾地区の外れ、一見すると古い商事会社にしか見えない、三階建てのビルだった。玄関には、金属製の紋の入った表札が一枚。《九頭龍会 名古屋支部》。

    「――ここは」

    「ジンナイの、本部だがや。挨拶に行くぞ」

    「あ、あの、俺、行っていいんですか、こんな」

    「呼ばれたんじゃ。行かん方が失礼だがや」

     玄関をくぐると、空気が変わった。三和土は塵一つなく磨き上げられ、正面の神棚には榊と塩が絶やされていない。壁には、歴代の代紋と、額装された組員名簿の写真が、行儀よく並んでいた。若い衆が二人、黒服姿で正座し、タカシの姿を見るなり、額が畳につくほど深く頭を下げた。

    「大滝の兄さん、お疲れ様です!」

    「――兄さんはやめえ。わしは警察じゃ」

     タカシは苦笑いしながら、勝手知ったる様子で、奥の座敷へ進んだ。真司は、借りてきた猫のように、その後ろをついていくしかなかった。

     通されたのは、床の間付きの、広い和室だった。上座に、陣内豪が座っていた。今日は開襟シャツではなく、灰色の着物姿。倉庫の炎の中で見た「化けもん」の相棒とは、まるで別人のような、静かな佇まいだった。

    「――待っとったで」

     ジンナイは、真司に、座布団を勧めた。

    「星野、いうたか」

    「は、はい。星野真司です」

    「屋根の上の狙撃手に気づいて、声を上げた小僧が、お前か」

    「……あの、俺、ただ、見えたから叫んだだけで」

    「それが一番、難しいんじゃ」

     ジンナイは、若い衆に目配せをした。すぐに、朱塗りの盆に載った、猪口が二つ、運ばれてきた。

    「レイジは、うちの若い衆にとって、生ける御守りみたいなもんじゃ。あれが死んどったら、若いモンの半分は、腰が抜けとった」ジンナイは、徳利を傾け、自分と真司の猪口に、順に酒を注いだ。「盃事の真似事をする気はない。お前はカタギじゃ。カタギのままでおれ。……ただ、これだけは受け取れ。うちの若い衆は、お前の顔を忘れんいうことじゃ」

    「……ありがとう、ございます」

     真司は、震える手で猪口を持ち上げた。作法など知らない。ただ、タカシが小さく頷くのを見て、一息に呷った。喉が、焼けるように熱かった。

    「――ええ飲みっぷりじゃ」

     ジンナイは、初めて、笑った。武闘派の古参の顔に、不釣り合いなほど、人懐こい皺が寄った。

    「タカシ。この小僧、悪くない目をしとる。……お前の言うとった『時代の外側から来た』いう話、まんざら法螺でもなさそうじゃの」

    「……聞いとったんかい」

    「風の噂よ。街の噂は、いつも本部の耳に先に入る。ここはそういう商売じゃ」

     帰り際、玄関先まで見送りに出たジンナイは、真司にだけ聞こえる声で、一言だけ付け加えた。

    「――星野。この代紋の下は、お前の敵にはならん。それだけは、憶えとけ」

     その言葉の重みを、真司が本当の意味で理解するのは、まだ、ずっと先のことになる。

    九 半分だけ狂う稽古

     タカシの言う「道場」は、道場ではなかった。

     港湾地区の廃倉庫。マットの代わりに古タイヤ。サンドバッグの代わりに、砂を詰めた麻袋。そこで週に三度、タカシは真司を、文字通り叩き上げた。

    「ええか、シンジ。お前に喧嘩の才能はあらせん。断言したる。ゼロだがや」

    「はっきり言いますね……」

    「せやから、勝ち方を教える。才能のない人間の勝ち方はの、三つしかあらせん。一つ、先に気づく。二つ、場所を選ぶ。三つ、躊躇わん。この三つだけで、才能のあるたわけには勝てるんだがや」

     稽古は、殴り方より先に、視線の稽古だった。雑踏で「懐に手を入れそうな人間」を三秒で見つける稽古。部屋に入った瞬間に出口と物陰を数える稽古。相手の目ではなく肩と腰を見る稽古。逃げ道の作り方。壁の使い方。急所と、急所を外す打ち方。そして、最後にようやく、殴り方。

    「痛いのは、ええことだがや。痛みはの、シンジ、生きとる証拠で、あとから来る後悔より、ずっと安いんだがや」

     夏が来た。真司は殴られ続け、吐き続け、それでも通い続けた。

     秋口には、麻袋が揺れるようになった。

     冬の初め、タカシは真司に、初めて拳銃を握らせた。廃倉庫の奥、防音の利いたコンテナの中。的は、ビールの空き缶。

    「撃ってみい」

     五発、全部外れた。反動で手首が跳ね、薬莢が顔に当たって、真司は悲鳴を上げた。タカシは笑い、それから、笑いを消した。

    「シンジ。ようく聞け。わしがお前に鉄砲を教えるんはの、撃たせるためやない。撃たれんためだがや。銃を知らん人間は、銃の前で正しゅう動けん。距離が分からん。物陰の価値が分からん。相手が装弾しとる隙が分からん。……知っとる人間だけが、逃げられるんだがや」

    「逃げるための、稽古……」

    「そうよ。よう覚えとけ。この街でこの先お前が何を見ることになっても――生き延びるんが、一番の勝ちだがや。死んだ正義より、生きとる犬の方が、なんぼか役に立つ」

     稽古には、もう一つ、奇妙な科目があった。

     タカシはそれを「半分だけ狂う稽古」と呼んだ。

    「ええか、シンジ。この街の修羅場でいちばん先に死ぬんはの、正気のまんまの人間だがや。銃声で足が止まる。血ぃ見て吐く。考えんでええことを考える。……ほいでの、二番目に死ぬんが、丸ごと狂うた人間よ。怖いもんが無うなったたわけは、避けるべき弾を避けん。長生きしとる悪党はの、一人残らず、半分だけ狂うとる。半分は獣で、半分は算盤だがや」

    「……どうやって、半分だけ狂うんですか」

    「スイッチを作るんだがや」

     タカシは、自分のこめかみを、指で叩いた。

    「わしの場合はの、ガムだがや。修羅場の前に、ガムを噛む。噛んどる間は、獣でええ、と自分に許しを出す。ガムを吐いたら、人間に戻る。……儀式よ。人間はの、シンジ、儀式に弱い生きもんだがや。せやから、儀式で自分を騙すんが、一番安うつく」

     真司のスイッチは、なかなか決まらなかった。ガムは噛み忘れる。深呼吸は雑踏で目立つ。散々試した末に、決まったのは、拍子抜けするほど簡単なものだった。――上着の襟を、一度、正す。それだけ。

    「ええぞ、それ。目立たん、道具が要らん、両手が空く。三拍子だがや」

     効果のほどが試されたのは、冬の錦三丁目だった。集金帰りの筋者と、酔った半グレの、下らない小競り合い。抜き身の匕首が、街灯の下で光った。半年前の真司なら、間違いなく腰を抜かしていた。この夜の真司は、襟を、一度、正した。

     ――先に気づく。匕首より、後ろの三人。場所を選ぶ。パチンコ屋の裏口まで、七歩。躊躇わない。

     気がつくと、真司は野次馬を二人、店の陰に引っ張り込み、公衆電話で一一〇番を回し終え、タカシの到着まで、揉め事の全員の顔を、頭の中の帳面に写し取っていた。震えは、あとから来た。パチンコ屋の便所で、真司はしっかり吐いた。

    「吐けるうちは、上等だがや」

     迎えに来たタカシは、真司の背中を、乱暴に叩いた。

    「吐かんようになったら、教ええ。その時は、稽古の中身を変えないかん。……人間に戻る方の稽古にの」

     その言葉を、真司は生涯、忘れないことになる。

     なぜならそれから一年半後、この言葉を吐いた男自身が、真司の目の前で、それを裏切るからだ。

     ――生き延びることより、大事なものがあると言わんばかりに。

    十 平成元年

     年が明けて、昭和が終わった。

     テレビは何日も同じ映像を流し続け、街からネオンが消え、そして何事もなかったかのように、また灯った。新しい元号が発表された日、真司は定食屋みなと屋のテレビの前で、奇妙な感慨に打たれていた。この時代の人間にとっては初めて聞く「平成」の二文字を、真司だけが、始まりから終わりまで知っている。

    「平成、か。……どんな時代になるかのう」

     カウンターの隣で、タカシがどて煮を突きながら呟いた。

     真司は、答えられなかった。知っていることが、多すぎた。この狂ったような好景気が、あと二年で音を立てて崩れること。地価が落ち、銀行が潰れ、街のネオンが本当に消えること。その瓦礫の中から、目端の利く悪党だけが、次の時代の利権を拾い上げること。

     そして――その瓦礫の時代に生まれた化け物が、三十七年後、美咲を殺すこと。

    「……タカシさん。もし、なんですけど」

    「おう」

    「この好景気が、あと二、三年で終わるとしたら。……悪党どもは、どう動くと思いますか」

     タカシは箸を止め、横目で真司を見た。この男は、真司の「もし」が、ただの「もし」ではないことを、たぶんもう分かっていた。

    「……終わる、いうんは、どれくらいだがや」

    「株が半分。土地は、もっと。銀行が、何個も飛ぶくらい」

     長い沈黙のあと、タカシは新しい煙草に火を点けた。

    「――そら、シンジ。仕入れ時よ」

    「仕入れ?」

    「悪党の商売はの、人の欲と、人の絶望の、二本柱だがや。好景気は欲で稼げる。だけど、ほんまの書き入れ時は、絶望の方よ。銭に詰まった堅気、飛ぶ寸前の会社、職を失うた若いモン。……全部、買い叩ける。しかも暴落前に現ナマと、値の落ちん商品――つまり銃と薬に換えとった奴だけが、焼け野原で一人勝ちできる。もしお前の言う『もし』が本当なら、それを知っとる悪党は、今ごろ必死で、円をモノに換えとるはずだがや」

     円を、モノに。

     真司の背中を、冷たいものが走った。

     深夜の港の積み替え。ロシアの船。カルテルの下見。トライアドの出店。キョウヤが黒狼會に注ぎ込む、ケタ違いの銭。

     バラバラに見えていた駒が、一つの絵になった。

     誰かが――あの眼鏡のガキが、もう「仕入れ」を始めているのだとしたら。まるで、バブルの崩壊を、知っているかのように。

    「……タカシさん。俺、多分、分かりました。キョウヤの怖さが」

    「言うてみい」

    「あいつ、頭がいいだけじゃない。時代が終わる前提で、動いてるんです。この街の悪党は全員、この好景気が続く前提でシノギを組んでる。九頭龍会も、トライアドも。でもキョウヤだけは、終わったあとの焼け野原の地図を描いてる。……そんなの、勝てるわけない。土俵が違う」

     タカシは、煙をゆっくりと吐き、それから、真司の頭を大きな掌で一度、乱暴に撫でた。

    「五百円、いや」

     男は、初めて見る種類の顔で笑った。誇らしさと、ほんの少しの寂しさの混じった、親方の顔だった。

    「今のは、タダでは買えん情報だがや。……シンジ。お前、わしの犬にしとくには、惜しゅうなってきたの」

     その帰り、タカシは珍しく、みなと屋にも犬小屋にも寄らず、真司を、錦三丁目の裏路地へ連れて行った。

     雑居ビルの地下、階段の下に、小さな看板が一つだけ灯っていた。《Bar ノクターン》。ドアを開けると、煙草の煙より先に、古いジャズのレコードの音が、真司を迎えた。

     カウンターは八席ほど。客は、まばらだった。その一番奥、階段に一番近い止まり木に、痩せた白髪頭の男が一人、微動だにせず座っていた。歳の頃は、八十手前。仕立てのいい背広を着ているが、袖口は擦り切れていた。

    「――シューさん。今夜も、いつもの」

     カウンターの中のマスターが、静かに、グラスを一つ、その老人の前に置いた。琥珀色の酒。氷は入れない。老人は、頷きもせず、ただグラスを取り、一口だけ、含んだ。

    「タカシさん。あの人、誰ですか」

     小声で訊くと、タカシは、笑って答えた。

    「支倉周平。港の荷役の元締めの、三代目だった男よ。もう三十年も前に、耳をやられて、荷役から退いた。それからずっと、あの席で、あの酒を飲んどる」

    「三十年も、同じ酒、同じ席……」

    「ああ。グレンリベット、ストレート。水はチェイサーで別に。それしか、頼まん。夏でも冬でも、正月でも、な」

     老人の傍らの灰皿には、紙巻き煙草の吸い殻ではなく、小さなパイプが置かれていた。刻み煙草を、指先で丁寧に詰め、マッチで、時間をかけて、火を点ける。その一連の所作もまた、三十年、寸分違わないのだという。

    「あれもの、変えたことがないんだがや」タカシが、声を落として言った。「パイプの煙草も、銘柄はいつも同じ。……名前は、わしも知らん。マスターも知らんそうだ。仕入れ先は、シューさんだけの秘密よ」

     タカシは、カウンターの端、老人から三つ離れた席に座り、真司を隣に座らせた。

    「シューさんはの、この店で一番古い、生き証人だがや。港の栄枯盛衰を、あの席から、ずっと眺めとる。訊いても、何も答えんがの」

    「答えない?」

    「答えたことがない。三十年、一遍もだがや。……だけど、シンジ。あの人は、この街の答え合わせの、最後の一枚みたいなもんよ。あの人の前で交わした約束は、誰も、破れん」

     老人は、真司たちの会話が聞こえているのかいないのか、ただ黙って、グラスを傾け続けていた。ジャズのレコードが、A面からB面へ、静かに変わった。

    「シューさん。よかったら、この若いの、覚えといてやってくれんかの。わしの、新しい犬だがや」

     老人は、初めて、視線だけを、真司に向けた。老いた目は、驚くほど澄んでいた。何かを測るように、五秒ほど、真司を見つめ、それから、また、グラスに戻った。答えは、なかった。だが真司には、その沈黙が、何かの査定に、合格したような気がした。

    「……気に入られたみたいだがや」

    「今の、どこがですか」

    「あの人はの、気に入らん相手は、五秒も見ん」

     その夜、真司は、初めてこの店の名を、胸に刻んだ。ノクターン。夜想曲。誰にも急かされず、誰にも問われず、ただ同じ酒を、同じ席で、飲み続ける男がいる場所。

     ――この街の全部が、狂っていく中で、ここだけは、時間が止まっている。

     真司は、その時、そう思った。

    十一 白いソアラ

     その春、真司は生まれて初めて、車を買った。

     中古の、白いソアラだった。大和モーターズの、この時代の看板車種の一つ。皮肉にも、キョウヤが恐喝で毟った、あの大和モーターズの車に、真司は乗り続けることになる。

     バイト代――タカシの「情報料」は、いつの間にか月給めいた額になっていた――を貯めた金に、タカシが黙って不足分を足した。「車は足だがや。犬に足は要る」というのが、表向きの理由だった。

     納車の日、真司は柄にもなく、ワックスを三度がけした。白い車体が、春の陽を跳ね返して光った。この時代に来て、初めて自分のものと呼べる何かだった。

    「ほう。ソアラか」

     冷やかしに来たタカシが、ボンネットを叩いた。

    「ハイソカーいうやつだがや。ナンパにでも行くんか」

    「行きませんよ。……なんか、白がいいなって思ったんです。この街、夜になると、みんな黒い車ばっかりだから」

    「……ふん。ええ理由だがや」

     中古車屋を三軒回って決めた。決め手は、値段でも年式でもなかった。三軒目の店の隅で、その白は、埃を被って、少し不貞腐れたように停まっていた。前の持ち主は羽振りのいい若い衆で、黒に買い替えるから、と手放したのだという。

    「兄さん、目が高いよ。ツインカムターボ、デジタルメーター、足回りも――」

    「あの、俺、車のこと全然分かんないんで。……一個だけ教えてください。この車、ちゃんと走って、ちゃんと止まりますか」

    「そりゃもう。それが車の一番大事なとこだ」

    「じゃあ、それで」

     納車までの一週間、真司は教習所の教本を古本屋で買い直して読んだ。免許は二〇二六年で取ったきり、ほぼペーパーだった。この時代の道は、ナビも案内板も頼りにならない。代わりに真司は、タカシの助手席で三年見てきた街の地図を、頭から引っ張り出した。意外なほど、入っていた。どの筋が一方通行で、どの角のタバコ屋が張り込みの定位置で、どの橋の下で夜に灯りが点くか。

     初めての遠出は、タカシの「挨拶回り」の運転手だった。

    「……お前、運転、下手だがや」

    「すみません」

    「謝るな。下手はええんだがや。下手は、丁寧に化ける。おそがいんは、上手いと思うとるたわけよ」

     港の倉庫街を流していた時、タカシがふいに、窓の外を見たまま言った。

    「シンジ。車を買うたらの、一個だけ、決め事をせえ」

    「決め事?」

    「誰を乗せる車か、決めとくんだがや。車いうんはの、走る部屋よ。部屋には、家風が出る。銭を運ぶ車、女を口説く車、逃げるための車。……お前のこの白は、何を乗せる車にするんだがや」

     真司は、少し考えた。ハンドルの向こうで、クレーンの林が、ゆっくり流れていった。

    「……帰りたい人を、帰す車、ですかね。夜中に、家まで」

     言ってから、柄にもないことを言った、と耳が熱くなった。頭に浮かんでいたのは、終電を逃して笑っていた、二〇二六年の誰かの顔だった。タカシは、しばらく黙っていた。

    「――ふん。ほいじゃあ、後ろの座席は、いっつも空けとかないかんの」

     それきり、その話は二度と出なかった。だが翌週、タカシは何も言わずに、後部座席用の膝掛けを一枚、放り込んでいった。派手な虎柄だった。趣味は、最悪だった。

     納車から一月後、タカシは真司を、もう一箇所に連れて行った。

     港湾地区の外れ、シャッターの半分閉まった、うらぶれた鈑金工場だった。看板は消えかけていて、辛うじて《加藤自動車鈑金》と読めた。

    「シンジ。車を持ったら、次に覚えることが一個だがや。行きつけの修理屋を持て」

    「修理屋、ですか。ディーラーとかじゃなくて?」

    「ディーラーは、書類を残す。ここはの、書類を残さん」

     工場の奥から出てきたのは、油まみれの作業服を着た、六十がらみの寡黙な男だった。片方の耳が潰れている。名前を訊いても、「加藤でええ」としか答えなかった。

    「加藤の親父はの、昔、九頭龍会の輸送車両を、まるごと面倒見とった男よ。今は堅気じゃ。だけど、腕は堅気になっとらん」

    「……よろしく、お願いします」

     加藤は、真司を一瞥し、それから、ソアラのボンネットを、無言で撫でるように触った。

    「……いい個体だ。大事にしろ」

     それだけ言うと、加藤は工場の奥へ引っ込んでいった。会話は、それで終わりだった。

    「愛想は悪いがの、シンジ。腕は本物だがや。それに、加藤の親父は、訊かん」タカシは、工場を出ながら言った。「フロントガラスにひびが入っとろうが、ドアに妙な穴が開いとろうが、『事故った』と言えば、『事故ったんだな』としか言わん。……この街で車に乗るいうことはの、いつかそういう修理屋が要る日が来る、いうことだがや」

     この時の真司には、まだ、その言葉の重みが分からなかった。

     だが、この春の陽の下では、まだ誰もそれを知らない。

     ――そして、運命の歯車が最初の軋みを上げたのは、その年の、梅雨の終わりだった。

     九頭龍会が仕切る名古屋港の「輸入」の、過去最大の荷が、深夜のふ頭に着くという情報が流れた夜。

     のちに街の悪党どもが**「白い夜」**と呼ぶことになる、あの夜である。


    幕間 一

     ――同じ春。名古屋市内、某所。

     その部屋には、窓が一つしかなかった。

     窓の外には港が見え、部屋の中には、パイプ椅子が二脚と、折り畳みの机と、チェス盤が一つだけあった。壁には何もない。生活の匂いが、まるでない。あるのは、几帳面に積まれた新聞の束と、英語とスペイン語とロシア語の経済誌、そして海図だった。

     神崎恭弥は、チェス盤の前に、一人で座っていた。

     白と黒、両方の駒を、自分で動かす。一人チェスは、彼が十二歳の頃からの習慣だった。対戦相手は、ずっといなかった。正確には、三手先まで読める相手が、周りに一人もいなかった。教師も、親も、警察も、極道も。世界は彼にとって、生まれた時から、詰みの見えている退屈な盤面だった。

     その退屈が終わったのは、二年前。一冊の英語の経済誌の、小さな記事を読んだ夜だ。

     日本の資産価格は、実体から乖離している。この宴は、必ず終わる。

     誰もが読み流したその一行を、キョウヤだけが、正しく恐れ、正しく興奮した。終わる。この国を覆う金色の霧が、数年のうちに晴れる。霧が晴れた朝、地面に残っているのは、現金と、武器と、人間の弱みだけだ。

     ならば、やるべきことは決まっている。

     霧のあるうちに、霧を現金に換える。現金を、価値の落ちないものに換える。すなわち、兵器と、薬物と、そして――人間の支配権に。

    「……クイーンは、まだ出さない」

     キョウヤは、白のクイーンの頭を指先で撫で、盤の隅に置いたままにした。

     代わりに、ポーンを一つ、進めた。

     盤の脇には、写真が数枚、並べてある。九頭龍会・陣内豪。風間礼二。トライアドの張。パナマ経由で来日する予定の、サントスという男。ナホトカの船会社の代理人、ボリス。そして、大滝タカシという名の、狂犬。

     その隣に、もう一枚。

     スタジャンを着て、若い衆に囲まれて笑っている、一ノ瀬蓮の写真。

    「王は、盤上で一番弱い駒だ。知ってたか、レン」

     誰もいない部屋で、キョウヤは静かに言った。

    「一番弱くて、一番動けなくて、でも、そいつが取られたらゲームが終わる。……だからみんな、王を守るために死ぬんだ。便利だよな、王様って」

     窓の外で、貨物船が汽笛を鳴らした。

     キョウヤは、机の抽斗から、銀色の箱を取り出した。ダンヒル。この部屋に、唯一許した、無駄な嗜好品だった。煙草そのものに意味はない。値段でも、格好つけでもない。ただ、火を点けてから灰になるまでの、正確に七分間という時間だけが、彼にとって、盤面を離れて何も考えない、唯一の休符だった。一日一本。それ以上は吸わない。吸う本数まで、几帳面に管理されていた。

     キョウヤは眼鏡を押し上げ、手帳を開いた。几帳面な細かい字で、日付と、船名と、数字が並んでいる。一番新しいページの一番上に、彼は万年筆で、一行を書き足した。

    『七月。九頭龍会の最終入荷。――ここで、盤を返す』


    第二部 白い夜

    一 過去最大の荷

     七月の第二週、名古屋の空は、梅雨の名残の厚い雲に塞がれていた。

    「――シンジ。今夜は、家におれ」

     夕方、タカシは車を磨いていた真司に、前置きなしにそう言った。

    「え? 何かあるんですか」

    「何もあらせん。何もあらせんから、家におれ、言うとるんだがや」

     嘘だった。この一年半で、真司はタカシの嘘が分かるようになっていた。この男は、嘘をつく時、決まって煙草の灰を早く落としすぎる。

     真司が黙って見ていると、タカシは舌打ちして、車のボンネットに地図を広げた。

    「……ええか、一遍しか言わんぞ。今夜、日付が変わる頃、金城ふ頭の沖に、パナマ船籍の貨物船が入る。積み荷は、書類の上じゃ機械部品。中身は、九頭龍会がこの二年で買い集めた"仕入れ"の、総仕上げよ。ロシア筋の武器と、東南アジア筋の白い粉。ケタが違う。九頭龍会は、来るべき焼け野原に備えて、武装しよるんだがや」

    「それ、警察は」

    「県警はの、シンジ、動かん。動けん、が正しいか。……上に、九頭龍会の金庫から盆暮れの届く先生方がおる。今夜の荷の情報は、わしが二年かけて掴んだもんだが、上げた瞬間、握り潰されて、ついでにわしの首が飛ぶ。せやから今夜は、わし個人の張り込みよ。写真だけ押さえる。いつか、上の腐れどもごと吹っ飛ばす日のための、弾込めだがや」

    「……俺も行きます」

    「たわけ。今夜のは、格が違う。九頭龍会の護衛だけやない、荷の売り主側の人間も出てくる。プロの中のプロがだがや。連れてはいけん」

    「タカシさん」

     真司は、雑巾を置いた。この一年半で、初めて、この男の言葉に正面から逆らった。

    「俺の目、五百円じゃないんでしょう。だったら、使ってください。俺は撃ち合いには何の役にも立たない。でも、見てるだけなら、この街の誰より役に立つ。あんたが教えてくれたんだ。先に気づく奴が勝つって」

     タカシは、長いこと真司を睨んだ。

     それから、盛大に舌打ちをして、助手席のドアを顎で示した。

    「……車から一歩も出るな。双眼鏡と無線だけ持て。ほんで、わしが逃げい言うたら、わしを置いてでも逃げえ。約束できんなら、置いていく」

    「約束します」

     出発までの数時間、タカシは、奇妙なほど丁寧に、支度をした。

     双眼鏡のレンズを拭き、無線の電池を新品に替え、カメラに高感度のフィルムを詰めた。それから、押し入れの奥から、油紙の包みを出した。M19。四インチの回転式拳銃。タカシが銃を支度に加えるところを、真司は初めて見た。

    「……張り込みだけ、なんですよね」

    「そうよ。せやから、これは傘だがや」

    「傘?」

    「降らん思うても、持って出る。降ったら差す。降らなんだら、誰にも見せんと持って帰る。……鉄砲いうんはの、シンジ、そういう持ち方をするもんだがや。抜く気で持つ奴から、順番に死ぬ」

     みなと屋で早めの晩飯を食った。タカシは、味噌カツを大盛りで頼み、真司にも同じものを食わせた。

    「戦の前は、食えるだけ食うとけ。腹が減ると、人間、判断が卑しゅうなる」

    「……タカシさんは、怖くないんですか。プロの中のプロが出てくるかも、って自分で言ったのに」

    「怖いよ」

     あっさりと、タカシは言った。どてを箸でつまみながら。

    「二十年やっとっても、毎回怖い。だけどの、シンジ。怖さには、二種類あるんだがや。足の止まる怖さと、目の覚める怖さよ。場数を踏むいうんは、前者を後者に換えていく作業での。今夜のわしのは、目の覚める方だがや。……お前のは、まだ足の止まる方だら。せやから車から出るな、言うとる」

     店を出る時、おばちゃんが、タカシの背中に声を投げた。

    「タカっちゃん。うち、明日も店開けとるでね」

    「おう」

    「開けとるでね、って言っとるの」

    「……分かっとるわい。二人で朝飯、食いに来たるわ」

     それが、この店の、送り出しの作法だった。

     できない約束だと、口にした瞬間から、真司はどこかで分かっていた。

    二 金城ふ頭の白い夜

     深夜零時。金城ふ頭。

     クレーンの林の根元に、九頭龍会の車列が、ライトを消して並んでいた。ベンツが三台、トラックが四台、人員はざっと四十。ふ頭の照明は、あらかじめ「故障」させてあるらしく、あたりは貨物船の舷灯と、男たちの煙草の火だけが、ぽつぽつと浮かんでいた。

     真司とタカシは、五百メートル離れた倉庫の屋上に、腹這いになっていた。

     双眼鏡の中で、接岸した貨物船から、荷が下り始める。木箱。ドラム缶。パレットに積まれた麻袋。指揮を執っているのは、黒いスーツの男――レイジだった。相変わらず姿勢がいい。その隣には、樽のような体格の和服の男。陣内豪。写真より、遥かに迫力があった。

    「……ジンナイまで出とる。ほんまに、総仕上げなんだがや」

     タカシがカメラのシャッターを切る。真司は双眼鏡を、荷ではなく、周囲に向けていた。教えられた通りに。撃ち合いに参加していない者を探す目で。

     最初の違和感は、海だった。

    「……タカシさん。変です。沖に、漁船が三隻。こんな時間に、灯りも点けずに、同じ距離で停まってます」

    「なに?」

     二つ目の違和感は、クレーンだった。

    「それと、二番クレーンの運転席。誰か、います。今夜の荷役、クレーンは使ってないのに」

     タカシの双眼鏡が、素早く動いた。低い呻き声が漏れた。

    「……三つ目だがや、シンジ。ふ頭の入口の詰所。警備員の制服が、昼と違う。……嵌められとる。この荷役は、最初から筒抜けだがや。おい、無線――」

     タカシが無線に手を伸ばした、その瞬間だった。

     夜が、割れた。

     沖の「漁船」から、まず曳光弾が伸びた。赤い光の筋が、ふ頭に並んだベンツの一台目に突き刺さり、車体が浮き上がって炎に包まれた。同時に、二番クレーンの運転席から、機関銃の連射が始まった。上からの銃撃。九頭龍会の男たちが、遮蔽物ごと薙ぎ倒されていく。詰所の「警備員」たちが自動小銃を構え、退路を塞いだ。

     三方向からの、完璧な十字砲火だった。

    「伏せえッ!!」

     タカシが真司の頭を押さえつけた。五百メートル離れた屋上まで、跳弾の唸りが聞こえた。双眼鏡を握る真司の手が、汗で滑った。それでも真司は、見ることをやめなかった。見ているだけしかできないなら、せめて全部見てやると、歯を食いしばった。

     地獄の中で、二人だけが、まともに戦っていた。

     レイジの二挺のベレッタが、闇の中でマズルフラッシュを咲かせ、詰所の「警備員」が二人、崩れた。ジンナイは和服のまま日本刀を抜き、若い衆を船の陰へ逃がしながら、仁王のように怒鳴っていた。

     だが、多勢に無勢、それ以前に、火力の次元が違った。

     トラックの陰に追い詰められたレイジの右足を、クレーンからの銃撃が薙いだ。黒いスーツの男が、初めて、膝から崩れるのを、真司は見た。それでも男は、倒れたまま撃ち続けた。弾が切れた。ジンナイが刀を杖に、義弟のようなその男を庇って立ち――

     そして、真司は見てしまった。

     燃えるベンツの炎に照らされて、ふ頭に、新しい車列が入ってくるのを。先頭のバンから降り立つ、揃いの目出し帽の一団と――その中心を、丸腰で悠然と歩いてくる、眼鏡の男を。

     男は、倒れた極道たちの間を、水たまりを避ける程度の関心で歩き、レイジとジンナイの前で足を止めた。何かを話している。声は届かない。だが、双眼鏡の中で、ジンナイの顔が、怒りから、驚愕へ、そして――絶望へ変わっていくのが、分かった。

     キョウヤの後ろから、スタジャンの一団が、荷を積み替え始めた。

     黒狼會。狼の刺繍が、炎に照らされていた。積み替えの手際は、恐ろしく良かった。深夜の港で、一年かけて仕込まれた手際だった。あの「時給十倍の妙な仕事」は、すべて、今夜このための、予行演習だったのだ。

    「……ガキどもが……ガキどもがァ……ッ」

     タカシの奥歯が、軋る音を立てた。カメラを握る手が、白くなっていた。今、飛び出せば死ぬ。応援を呼んでも、間に合わないどころか、揉み消される。この男が、生涯で一番憎んだはずの「見ているだけ」を、この夜、この男は強いられていた。

     積み替えは、四十分で終わった。

     去り際、キョウヤは、燃える車の炎を背に、一度だけ、こちらを――五百メートル先の闇の中の、倉庫の屋上を、正確に見た。

     見えるはずがない。距離も、暗さも、届くはずがない。

     それでも真司は、眼鏡の奥の目と、目が合ったと感じた。

     まるで、観客席の位置まで、あらかじめ盤面に書き込んであったかのように。

    三 焼け跡の勘定

     「白い夜」の勘定書きは、翌朝までに出揃った。

     死者、九頭龍会側に十一名。売り主側の船員に三名。襲撃側の遺体は――ゼロ。一体も残っていなかった。回収されたのだ。戦場の作法で。

     九頭龍会名古屋支部は、一夜で、心臓と両腕をもがれた。二年がかりの「仕入れ」の全て、時価にして数十億とも言われる武器と薬物を、根こそぎ奪われた。本部への上納も、売り主への支払いも、飛んだ。ロシア筋と東南アジア筋への詫びは、銭では済まない領分に入った。

     陣内豪は、その詫びの全てを、一人で背負った。

     襲撃から三日後、ジンナイは自分から県警に出頭した。過去の別件、銃刀法と傷害。本部が用意した筋書き通りの「けじめ」だった。懲役は、六年と見られた。護送車に乗り込む直前、ジンナイは報道陣の前で一言だけ、口を開いたという。

    「――極道が、ガキに負けた。笑え」

     出頭の前夜、ジンナイは、誰にも告げず、一人で、白い夜の焼け跡――金城ふ頭の岸壁に、立っていた。

     偶然、その姿を見たのは、深夜の見回りの警備員だけだった。ジンナイは、暗い海に向かって、長いこと、動かなかったという。やがて、懐から、古い写真を一枚、取り出し、しばらく眺め、それから、海に向かって、頭を下げた。写真の中身が何だったのか、誰も知らない。ただ、翌朝、岸壁の柵に、小さな造花が一輪、結びつけられていたのを、清掃員が見つけた。

     組の若い衆には、後にこう語り継がれることになる。

    「――親分は、負けを、飲んだ人や。飲んで、それを、若い者に飲ませんかった人や」

     拘置手続きの朝、ジンナイは、迎えに来た県警の車の前で、一度だけ、足を止めた。振り返った先には、レイジの姿は、なかった。まだ、洗車場に落ちる前だ。だが、ジンナイの目は、まるでそこに誰かがいるかのように、しばらく、動かなかった。

    「――礼二。すまんかった。……お前が失うたもんの分は、わしが、償う」

     誰もいない朝の岸壁に、その声だけが、残った。

     そして、風間礼二。

     生ける伝説は、右足の膝から下の自由と、組織の中の全てを失った。

     破門、ではない。もっと残酷な処分だった。九頭龍会は、レイジを「絶縁」も「破門」もせず、ただ、閑職に落とした。系列の中古車センターの、洗車係。生ける伝説を、生かしたまま、飼い殺しにして、見せしめにした。キョウヤ側からの、それが条件だったという噂も流れた。伝説は、殺すより、汚す方が効く。誰の発想かは、考えるまでもなかった。

    「……胸糞の悪い、詰め方だがや」

     捜査資料――正確には、捜査されなかった事件の私的資料――をアパートの卓袱台に広げ、タカシは吐き捨てた。

    「シンジ。今回の一件、何が一番おかしいか、分かるか」

    「……襲撃側の完璧さ、ですか」

    「それもある。だけど、一番おかしいんはの、あと片付けよ。考えてみい。数十億の荷を強奪した。普通なら、翌日から売り先探しで市場が騒がしゅうなる。せやのに、あの荷は、どこにも出とらん。白い粉の末端価格も、ハジキの闇値も、ピクリとも動いとらん。……つまり、だがや」

    「売る気が、ない……?」

    「そうよ。あの荷は、商品やない。軍備なんだがや。キョウヤは、銭を稼ぐために奪ったんやない。……戦争の支度をしとる。誰と、何のための戦争かは知らんがの」

     タカシは、湯呑みの冷めた茶を睨んだ。

    「それとの、シンジ。もう一個。……レンが、消えた」

    「え?」

    「黒狼會の事務所から、頭のレンの姿が消えた。若い衆に聞いても、口を割らん。割らん、いうより――怯えとる。あの、レンに惚れ込んどった連中がだがや。頭の話を振っただけで、全員、目が死による」

     真司の脳裏に、あの真っ直ぐな目の男の顔が浮かんだ。

     悪党になってほしゅうないガキ。タカシがそう呼んだ男。白い夜の積み替え部隊の中に、レンの姿は、なかった。あの几帳面な地獄の采配は、キョウヤの直轄部隊のものだった。では、頭のレンは、あの夜、どこで何をしていた?

     その答えを、真司とタカシが知るのは、まだ先のことになる。

     そして、答えは、二人の想像の中で最悪だったものより、さらに、悪かった。

    四 洗車場の伝説

     夏の終わり、真司は白いソアラで、市外れの中古車センターへ向かった。

     タカシには、言っていなかった。理由を訊かれても、うまく答えられなかったからだ。ただ、病室で聞いた「いつか、君が本当に困った時に、一度だけ、俺を使え」という声が、あの白い夜からずっと、耳の奥に残っていた。

     困っているのは、真司ではない。街の方だった。だが、いてもたってもいられなかった。

     中古車センターの裏手、洗車場に、その男はいた。

     真夏の炎天下。作業着。右足を軽く引きずりながら、黒塗りのベンツを、一人で磨いている。ホースの水が、アスファルトに湯気を立てていた。ベンツの持ち主らしい若い組員が二人、日陰で煙草をふかしながら、聞こえよがしに笑っていた。

    「おうおう、"伝説"さんよォ、ホイールの奥まで頼むわ。……なんべん見ても、ええ眺めやのう。二挺拳銃のレイジさんの、成れの果てや」

     レイジは、何も答えず、ただ磨いていた。

     その横顔には、屈辱も、怒りも、なかった。もっと恐ろしいものが、あった。無だった。感情の栓を、根元から抜いてしまった人間の顔だった。

     組員たちが去った後、真司は洗車場に足を踏み入れた。

    「……あの。覚えてますか。星野です。病院で、りんごを」

     レイジは、スポンジの手を止めず、視線だけを寄越した。

    「……ああ。声の君か」

    「はい。あの、俺……」

    「見ての通りだ。伝説の見物なら、もう済んだだろう。帰れ」

    「違います。俺は」

    「帰れと言った」

     初めて、レイジの声に、感情の欠片が滲んだ。刃物のような、拒絶だった。真司の足が、竦んだ。竦んで、それでも、動かなかった。半分だけ狂う稽古の一年半が、真司の膝を、その場に留めた。

    「……帰りません。俺、あんたに借りを返してもらいに来たんじゃない。貸しを増やしに来たんです」

    「……なんだと?」

    「手伝わせてください、洗車。俺、車磨くの、多分この街で三番目くらいに上手いです。毎朝二年、鬼刑事の車を磨いてるんで」

     レイジは、初めてスポンジの手を止めた。

     炎天下、水音だけが続いた。やがてレイジは、真司の顔を長いこと眺め――あの、珍しい鉱物を見る目で――それから、顎で、バケツを示した。

    「……泡が、甘い。やり直せ」

     それから週に一度、真司は洗車場に通った。

     レイジは、ほとんど喋らなかった。真司も、余計なことは訊かなかった。白い夜のことも、キョウヤのことも、右足のことも。ただ黙って、二人で車を磨いた。時々、レイジがぽつりと、車の話をした。エンジンの音の聞き分け方。尾行される時の癖。防弾ガラスの見分け方。それは雑談の形をした、もう一つの「稽古」だった。

     秋の初めのある日、レイジは磨き上がったボンネットに映る自分の顔を見ながら、独り言のように言った。

    「……君は、なぜ通ってくる。俺はもう、伝説でも何でもない。ただの、終わった男だ」

     真司は、雑巾を絞りながら、少し考えて、答えた。

    「終わってないからです」

    「……何?」

    「終わった人はですね、レイジさん。車をこんなに丁寧に磨きません。あんたの洗車、俺見てて分かるんです。ホイールの奥、下回り、普通の洗車係が絶対手ぇ抜くとこ、一ミリも抜いてない。それって、指先が、まだ死んでないってことでしょう。……俺の師匠が言ってました。人間、まず食えるかどうかだって。俺、それに付け足したいんです。まだ丁寧にやれる奴は、終わってない」

     レイジは、何も言わなかった。

     ただ、その日の帰り際、初めて真司に、缶コーヒーを一本、放って寄越した。

     缶コーヒーは、ぬるかった。だが真司は、その日、それを一気には飲まなかった。半分だけ飲んで、残りを持ち帰り、アパートの冷蔵庫に、大事にしまった。

     タカシに理由を訊かれ、真司は少し照れくさそうに答えた。

    「……なんか、証拠品みたいなもんです。レイジさんが、俺のこと、まだ完全には見放してないっていう」

    「たわけ。缶コーヒー一本で、そがいなもん、証明にならんど」

    「なりますよ。あの人、多分、意味もなく物をやる人じゃないから」

     タカシは鼻で笑ったが、それ以上は何も言わなかった。その晩、タカシが一人で道場の稽古着を畳みながら、珍しく上機嫌に鼻歌を歌っていたことを、真司はあとから聞かされることになる。「わしの犬が、伝説の懐に入り込んだ」というのが、その夜のタカシの唯一の自慢話だったという。

    五 人形の王

     一ノ瀬蓮の消息が掴めたのは、秋も深まった頃だった。

     掴んだのは、真司だった。きっかけは、些細な違和感だ。黒狼會の下っ端が、深夜のコンビニで、栄養ドリンクと氷砂糖を、段ボール単位で買い込んでいくのを見た。行き先を、白いソアラで慎重に追った。港湾地区の外れ、廃業した缶詰工場。窓は全て、内側からベニヤで塞がれていた。

     報告を受けたタカシと二人、翌日の夜、工場を張った。

     深夜二時、裏口から、男が一人、若い衆に両脇を支えられて出てきた。夜気に当たりに出た、という風情だった。街灯の薄明かりが、男の顔を照らした。

     真司は、息を呑んだ。

     レンだった。いや――レンだったものだった。

     頬がこけ、目の下に落ち窪んだ影が刻まれ、あの真っ直ぐだった目は、焦点の合わない濁った光を宿していた。支えられていなければ立てないほど痩せた身体が、時折、感電したように震えた。それでも若い衆は、レンに対して、恭しかった。恭しく、そして、憐れむように、目を伏せていた。

    「……薬漬けだがや」

     双眼鏡を下ろしたタカシの声は、真司が聞いたことのない温度をしていた。

    「それも、素人が遊びで堕ちた漬かり方やない。管理された漬け方よ。切れる時間を計算して、切れる寸前に与える。飴と鞭やない。飴を鞭にしとるんだがや。……ようも、まあ」

     タカシの拳が、車のハンドルを、音もなく握り潰さんばかりに掴んだ。

    「ようも、あの真っ直ぐなガキを……ッ」

     後日、タカシが古い伝手の売人から搾り上げた情報で、経緯の輪郭が見えた。

     始まりは、白い夜の一ヶ月前。レンは、キョウヤの持ち込む銭の出どころを、自分で調べ始めていた。タカシの「よう嗅いどけ」という言葉が、効いていたのだ。そしてレンは、嗅ぎ当ててしまった。銭の川を遡り、武器の倉庫の一つを見つけ、キョウヤを問い詰めた。若い衆を全員集めて、けじめをつけさせる、と。

     その夜、レンは自分の部屋で、意識を失った。差し入れの酒に、何かが入っていた。

     目が覚めた時、レンの腕には注射の痕があり、枕元には写真の束があった。弟が高校の門を出てくる写真。妹が友達と歩く写真。母親の病室の窓の写真。何十枚も、何十枚も。裏には几帳面な字で、日付と時刻だけが書いてあった。

     そして、キョウヤは病んだ王の耳元で、こう囁いたのだという。

    「――レン。あんたは今日から、病気だ。病気の頭を、若い衆は見捨てない。あんたが真っ直ぐな頭でいる限り、みんな、あんたのために死ぬ。だから、真っ直ぐなまま、そこに座っててくれ。動く必要はない。王は、動かない駒だから」

    「……外道が」

     報告書とも呼べない手書きのメモを卓袱台に叩きつけ、タカシは吠えた。

    「シンジ。わしはの、極道が極道を撃つんは、まだ分かる。筋の潰し合いだがや。だけど、これは違う。これは人間を、道具に鋳直すやり口だがや。レンだけやない。黒狼會の若い衆、六十人。頭を人質に取られ、家族を写真に撮られ、逃げ場のないまま、少しずつ、兵隊に変えられよる。……戦争の支度、いうたの、わしは。訂正するわ。あれは軍隊やない。人間工場だがや」

     その週末、真司は一人で、レンの母親が入院している病院を訪ねた。目的は決めていなかった。ただ、写真の中の「母親の病室の窓」が、本当に実在するのか、確かめずにはいられなかった。

     病室の名札には、《一ノ瀬康子》とあった。

     個室のベッドで、痩せた女性が、静かに窓の外を見ていた。レンの面影が、頬のあたりに、かすかに残っている。真司は、名乗るべきか迷い、結局、見舞いの果物だけを置いて帰ろうとした。

    「……蓮の、お友達?」

     声をかけられ、真司は立ち止まった。

    「あ、いえ、その……」

    「いいのよ、隠さなくて」康子は、穏やかに笑った。「あの子の友達は、みんな、そういう顔で入ってくるもの。言葉を選びすぎて、逆に不自然になる顔」

     康子は、ゆっくりと、窓の外を指した。

    「あの子、たまに、こっそり見舞いに来るの。顔色を変えて、痩せて。でも、あたしには何も言わない。……いいのよ、それで。あたしは、あの子が今、何をしているか、本当は、なんとなく分かってる。この歳になると、子供の嘘の匂いくらい、分かるようになるものね」

    「……お母さん」

    「お願いがあるの。あの子の友達なら、誰でもいいから、伝えて」

     康子は、真司の目を、まっすぐに見た。病から来る儚さの奥に、レンと同じ、真っ直ぐな光があった。

    「――あたしのために、無理はしなくていい、って。あたしは、もう十分、生きた。あの子には、あの子の人生の続きを、生きてほしいだけなの。それだけ、伝えて」

     真司は、病室を出てから、しばらく、廊下の長椅子に座り込んでいた。

     キョウヤは、この母親の写真一枚で、レンの魂を、鎖につないでいた。だが、その鎖の元になっている愛情そのものは、キョウヤの計算の外側にある、もっと大きくて、もっと単純な何かだった。

     真司は、あの缶詰工場の塞がれた窓を思い出していた。

     そして、二〇二六年のニュース記事の一行を。中京圏の闇を支配する多国籍シンジケート。その原型は、一九八〇年代末の名古屋港で生まれた――。

     原型。今、目の前で組み上がりつつある、この人間工場のことだ。

     これが完成し、四十年動き続けた先で、美咲が死ぬ。

    「タカシさん。……止められますか、これ」

     タカシは、すぐには答えなかった。煙草を一本、根元まで灰にしてから、ようやく口を開いた。

    「正攻法だと、難しい。キョウヤ本人は、帳面の上じゃ何もしとらん。銃も持たん、薬も触らん、命令は全部、口頭か、人を三人挟んどる。挙げるなら現場ごと、それも上の腐れどもが動かん理由を、先に潰してからだがや。……時間がかかる。かかるが」

     男は、灰皿の中で煙草を、ぐり、と潰した。

    「わしゃあ、諦めの悪さで警察におる男でよ。――シンジ、明日から忙しゅうなるぞ。わしらはの、蟻の巣を掘る。キョウヤいう化けもんの巣をだがや。銭の流れ、荷の流れ、人の流れ。全部、紙に落とす。紙は、いつか必ず、弾になる」

    六 蟻の巣掘り

     それからの一年は、真司の人生で、もっとも地味で、もっとも濃い一年になった。

     張り込み。尾行。ゴミ漁り。登記簿。船舶の入港記録。古紙回収業者への袖の下。潰れかけた運送会社の帳簿。真司は、タカシに叩き込まれた「見る稽古」の全てを、紙の海に注ぎ込んだ。

     そして、二〇二六年から来た男の「新品の目」は、この作業で、初めて本当の牙になった。

     真司には、この時代の人間に見えないものが見えた。ペーパーカンパニーの連鎖の作り方。それは真司の時代のニュースで、腐るほど解説されていた手口の、原型だった。資金洗浄の三段階。真司の時代では中学生でも知っている言葉が、この時代の警察には、まだ概念ごと存在していなかった。

    「……タカシさん。この三つの会社、多分、繋がってます。役員の名前は全部違うけど、登記の日付が三日おきで、資本金が全部同じで、司法書士が同じです。俺の時代じゃ、こういうの、典型的な洗浄トンネルって呼ばれてました」

    「……お前の時代の悪党は、ようそんな面倒なことを」

    「面倒なことをやる方が、勝つ時代になるんですよ。これから」

     紙の海には、作法があった。

     まず、ゴミだ。狙いの会社のゴミ収集日を調べ、回収業者に袖の下を渡し、事務所のゴミ袋を横流ししてもらう。袋の中身を、犬小屋の畳に広げる。シュレッダーは、この時代、まだ高級品だった。破って捨てられた書類は、根気さえあれば、卓袱台の上で復元できた。真司は、夜ごと、破られた伝票のジグソーパズルを組んだ。糊とセロテープの消費量で、タカシに「お前、内職でも始めたんか」と笑われた。

     次が、登記簿だ。法務局に日参し、手書きの閲覧申請を出し、謄本を写す。コピー代が馬鹿にならないので、真司はほとんどを手で書き写した。書き写すうちに、妙なことに気づいた。手で写すと、頭に入るのだ。役員の名前。住所。日付。数字の癖。二〇二六年の真司なら、写真に撮って保存して、二度と見返さなかった情報が、手の痛みと一緒に、頭の抽斗に並んでいく。

    「タカシさん。紙って、すごいですね」

    「今頃気づいたんか。……ええか、シンジ。悪党はの、喋ったことは忘れるが、書いたもんは残る。銭が動く時、紙が必ず一枚、どこかで生まれるんだがや。領収書、送り状、登記、名義。悪党どもは銭の始末は覚えとっても、紙の始末までは、手が回らん。せやから紙を千枚並べたら、銭の通り道が、勝手に浮かんでくる。……地味だら。地味がええんだがや。派手な捜査は破られるが、地味な捜査は、破りようがない」

     紙の山は、少しずつ、一枚の地図になっていった。

     キョウヤの帝国の見取り図だ。表の顔は、港湾荷役の下請け会社と、廃品回収業と、貸しビル業。その地下で、白い夜に奪った「軍備」が眠る倉庫網。黒狼會という名の兵員。そして、海の向こうへ伸びる、三本の腕。香港へ、南米へ、そして北の海へ。

     地図が埋まるほどに、しかし、真司の背筋は冷えていった。

     敵は、こちらが地図を描く速度より、速く育っていた。

     平成二年が明けた頃には、街の力関係は、誰の目にも明らかになっていた。九頭龍会の残党は、キョウヤの下請けに成り下がるか、街を去るかの二択を迫られていた。トライアドの張は、キョウヤと「業務提携」を結んだと噂された。そして年明けの深夜、ナホトカ航路の貨物船から、これまでで最大の「機械部品」が陸揚げされた。

     その荷揚げを仕切りに現れた男の写真を、タカシは望遠レンズで押さえた。

     五十絡みの白人。軍人のような姿勢。感情のない、氷のような目。

    「……ボリス、いう男だがや。素性を洗ったら、とんでもないもんが出た。旧ソ連軍の、輸送将校崩れよ。向こうの軍が今、内側から腐り始めとる。武器庫の帳簿が、なし崩しに溶けよるんだと。こいつは、その溶けた鉄砲を、極東で銭に換える先遣隊だがや」

    「軍隊の武器庫が、そのまま闇市場に……」

    「そうよ。ほんで、その最大のお得意さんが、この名古屋港の眼鏡のガキ、いうわけだがや。……シンジ。おみゃあの言うとった通りになってきよったの。時代が終わる。ソ連も、バブルも。終わる時代の瓦礫の下から、化けもんが、順番に這い出してきよる」

     紙の海に溺れかけていたある晩、レイジが珍しく、洗車場の作業を早めに切り上げて、真司を呼び出した。

    「たまには、頭を空にしろ。蟻の巣は、根を詰めすぎると、逆に見えなくなる」

     連れて行かれたのは、大須の外れの、場末のバッティングセンターだった。金網越しに、錆びたピッチングマシンが並んでいる。

    「レイジさんも、こういうとこ、来るんですね」

    「昔、若い衆の躾に使った。バットの振り方一つで、性根が分かる」

     真司がバットを構えると、剛速球が唸りを上げて飛んできて、あさっての方向に、情けない空振りを晒した。レイジは笑いもせず、フォームだけを、三球ごとに一つずつ直していった。十球目、真司のバットが、ようやく快音を立てて、白球を弾き返した。

    「――悪くない」

     バッティングセンターの後は、二軒隣の、古びたカラオケボックスに寄った。狭い個室で、レイジは一曲だけ、演歌を熱唱した。予想に反して、驚くほど歌がうまかった。

    「レイジさん、歌、上手いですね」

    「洗車場の暇潰しだ。……お前も、一曲歌え。今夜の分の、肩の荷を下ろしていけ」

     真司は、迷った末に、この時代にはまだ存在しない、二〇二六年の曲を歌った。もちろん、カラオケの機械には入っていない。マイクを持たず、ただ、アカペラで。レイジは、腕を組んで、黙って聞いていた。

    「――知らない曲だな」

    「まだ、生まれてない曲なんです。俺の時代の」

    「悪くない曲だ。……その時代に、ちゃんと帰れるといいな」

     その夜だけは、二人とも、キョウヤのことも、蟻の巣のことも、一言も口にしなかった。狭い個室の安っぽい照明の下で、ただの、少し歳の離れた友人同士の夜だった。

    七 味仙の女

     その冬、真司は、二〇二六年を思い出す事件に、一つだけ、出会った。

     事件、というほどのものではない。今池の中華料理屋で、タカシと遅い晩飯を食っていた夜のことだ。隣のテーブルで、若い女が一人、激辛の台湾ラーメンを、汗だくで、鼻水まで垂らしながら、一心不乱に啜っていた。

     その横顔が、美咲に、似ていた。

     似ているだけだった。赤の他人だ。歳の頃も違う。だが真司は、箸が止まって、動けなくなった。

    『落ち着いたら、味仙の激辛ラーメン奢って』

     既読をつけたまま、放置した最後のメッセージ。あの時、たった一行、「いいよ、いつ?」と返してさえいれば。会って、話を聞いてさえいれば。やばい仕事の中身を訊いて、逃げ道を一緒に探してさえいれば。

     女は、丼を空にすると、水を三杯続けて飲み、真っ赤な顔で、ふう、と息をついた。それから、隣のテーブルの視線に気づいて、真司と目が合った。

    「……なんですか。女が激辛食ったら、おかしいですか」

    「あ、いや、違うんです。すんません。……知り合いに、そっくり同じ食い方するやつが、いたもんで」

    「へえ。そのお知り合い、味が分かる人ですね」

     女は、屈託なく笑った。笑い方は、美咲とは、全然違った。それに、真司は少しだけ、救われた。似ているのは横顔と、食い方だけだ。世界は、そういう風にできている。誰かの面影は、いつも、赤の他人の中に、部品ごとに散らばっている。

    「兄さん、食べんの? 伸びるよ、それ」

    「食います。……あの、つかぬこと訊きますけど。ここの激辛って、初めての人間には、きついですかね」

    「きついよ。泣くよ。でも」女は、伝票を掴んで立ち上がりながら、こともなげに言った。「辛いもんはね、一人で食っても美味しくないの。誰かと、ひいひい言いながら食うもんなの。だから兄さんも、今度は誰か連れてきな」

     女は、それだけ言って、冬の夜の今池に出ていった。名前も知らない。二度と会うこともない。だがその夜の真司の胸には、その一言が、変に深く、刺さって残った。

     誰かと、ひいひい言いながら。

     三ヶ月放置したメッセージの向こうで、美咲が誘っていたのは、ラーメンではなかったのだ。たぶん、最初から。

     美咲は、まだ生まれてもいない。あの優しい笑い方も、拳で胸を叩く癖も、この世のどこにもまだ存在しない。なのに真司は、この時代で、彼女の死の「原因」が組み上がっていくのを、毎日見ている。

    「――シンジ」

     タカシの声で、我に返った。

    「お前、時々、そういう顔をするの。万里の遠くを見とるような、顔を」

    「……すんません」

    「謝るな。……お前が最初の朝に言うた話、わしは信じるとも信じんとも言うとらんかったの。だけど、二年見てきて、分かったことがある。お前は、未来から逃げてきた男やない。未来を、追いかけとる男だがや。目ぇが、いつも、ここにない何かを追うとる」

     タカシは、コップの水を呷った。

    「一個だけ、訊いたる。お前の追いかけとるもんは、間に合うもんか」

     真司は、湯気の向こうの、赤の他人の女の横顔を見た。

    「……分かりません。でも、間に合わせたいものです。俺がこの時代で、あの化けもんの巣を潰せたら――三十六年後に、死なずに済む人がいるんです。一人だけ、確実に」

    「そうきゃ」

     タカシは、それ以上、何も訊かなかった。

     ただ、伝票を掴んで立ち上がりざま、真司の背中を、大きな掌で一度、どやしつけた。

    「なら、掘るぞ、蟻の巣。間に合わせたるわい、そのタイムリミットによ」

     この男は、真司の話をどこまで信じていたのだろう。今でも、真司には分からない。ただ、大滝タカシという男は、部下の背負う荷物の中身を検めない男だった。重いか軽いかだけを見て、重ければ黙って半分持つ。それだけの男だった。

     そして、そういう男の寿命は、この街では、長くない。


     その同じ夜、風間礼二は、一人で、錦三丁目の《Bar ノクターン》の扉を開けていた。

     月に一度の、儀式のような習慣だった。組にいた頃からの、数少ない、変わらないもの。

    「――いらっしゃい」

     マスターが、顔も見ずに言った。長い付き合いだ。注文を訊く必要もない。カウンターの端、一番奥の止まり木には、今夜も、支倉周平が座っていた。グレンリベットのグラスが、照明を受けて、静かに光っている。

     レイジは、老人から二つ離れた席に座り、水割りを一杯だけ、頼んだ。組を出てからは、深酒はしないと決めていた。

    「シューさん、お久しぶりです」

     老人は、答えなかった。いつものことだ。だが、視線が一瞬、レイジの右足――装具の膨らみに向いて、また戻った。それだけだった。それだけで、レイジには十分だった。この老人は、何も言わないが、何も見逃さない。

     組にいた頃、レイジは何度も、この店に、若い衆を連れてきた。あの日の老師も、一度だけ、この止まり木の隣に座ったことがある。「――静かでいい店だ」と、老師は言った。「約束を守れなかった夜に来る店じゃない。約束を、まだ守れる夜に来る店だ」

     レイジは、水割りのグラスを、口に運んだ。

     右足を折られてから八ヶ月、レイジはこの店に来ていなかった。落ちぶれた自分を、この老人の前に晒したくなかったからだ。今夜、久しぶりに扉を開けたのは、あの頼りない若者――シンジとの、「新しい約束」のことを、誰かに、報告しておきたかったからかもしれない。誰も訊いてこない相手にだけ、話せることがある。

    「シューさん。……俺は、もう一遍だけ、銃を握ることにしました」

     老人は、答えなかった。ただ、グラスを、ゆっくりと傾けた。

    「今度は、組のためでも、面子のためでもない。……ただ、一人の若い奴が、ちゃんと家に帰れるように。それだけのために、握ります」

     沈黙が、答えだった。だが、老人がグラスを置く時、いつもよりほんの少し、静かに置いたことに、レイジは気づいた。マスターだけが、その微妙な変化に、目を細めていた。

    「――シューさんが、静かに置く時はね」マスターが、後で、レイジにだけ、こっそり教えた。「機嫌がいい時なんですよ」

     レイジは、水割りを飲み干し、代金を置いて、店を出た。

     この店だけは、変わらない。港がどれだけ狂っても、この地下の止まり木だけは、同じ酒を、同じ姿勢で、待ち続けている。それが、レイジにとって、ひどく、安心できることだった。

    幕間 二

     同じ冬。缶詰工場の、塞がれた窓の内側。

     一ノ瀬蓮は、パイプベッドの上で、天井の染みを数えていた。

     染みは、六十三個あった。何度数えても、六十三個だった。数え終わると、また最初から数えた。数えている間だけは、身体の奥の、あの疼きを忘れられた。骨の髄を、内側から蟻が這うような、あの疼きを。

     部屋の隅には、いつも若い衆が一人、座っていた。見張りではない。世話係だ。今日の当番は、十七のガキだった。レンが黒狼會を旗揚げした頃、中学にも行けずに橋の下で寝ていたのを、拾ってやったガキだ。

    「……頭。何か、食いますか」

    「……いらん」

    「頭。あの、俺……」

     ガキが差し出したハイライトの箱から、レンは一本引き抜き、火を点けた。かつて、旗揚げしたばかりの頃、仲間内で回し飲みしていた、一番安い銘柄だった。今のレンには、もっと上等な煙草を買う金など、いくらでもある。だが、この工場に閉じ込められてから、レンは、それしか吸わなくなった。安い煙草の煙は、安かった頃の自分――誰の指図も受けず、ただ仲間と笑っていた頃を、思い出させた。

     ガキは、何かを言いかけて、やめた。もう何度も見たやり取りだった。若い衆は皆、何かを言いかけて、やめる。キョウヤの配った写真の意味を、全員が知っているからだ。レンの家族だけではない。若い衆全員の、家族の写真。この工場の壁の見えない場所に、六十人分の人質が、貼られている。

     レンは、天井の染みを見つめたまま、掠れた声で言った。

    「……なあ。ユウタ」

    「へ、へい」

    「俺はな、まだ、数えとるんだ」

    「……染み、ですか」

    「違う」

     レンの濁った目に、一瞬だけ、昔の光が戻った。ほんの、瞬きほどの間だけ。

    「日にちだ。あいつに負けてから、今日で、五百と十二日。……いつか、この勘定を、耳を揃えて返す日まで、俺は数えるのをやめん。身体がこのザマでも、勘定だけは、狂わさん。……それだけが、俺に残った、頭の仕事だ」

     ユウタと呼ばれたガキは、俯いた。膝の上の拳が、震えていた。

    「……頭。俺ら、いつまで、こんな」

    「泣くな」

     レンは、天井を見たまま言った。

    「泣くな、ユウタ。……王が生きとるうちは、詰みやない。誰かが言っとった。チェスの好きな、どこぞの外道がな」

     その夜遅く、ユウタは、工場の便所の窓から、月を見た。

     鉄格子の間の、細長い月だった。ポケットの中には、昼間、自販機の前で「近所のあんちゃん」に貰った、あったかい缶しるこが、まだ少しだけ、ぬくもりを残していた。妙なあんちゃんだった。何も訊かない。何も探らない。ただ、単車の話と、ラーメンの話と、くだらない話だけをして、笑って帰る。

     鎖の外の世間は、まだ、あるのだ。

     ユウタは、缶のぬくもりを、掌で確かめた。頭は、まだ数えている。なら、俺らも、まだ終わっていない。十七のガキは、鉄格子の月に向かって、生まれて初めて、祈りに似たことをした。神様にではない。もっと近くの、名前も知らない誰かに。

     ――あんちゃん。あんた、何モンか知らんけど。

     ――もし、頭の勘定を手伝える人間なら。……早う。


    幕間 礼二

     ――同じ頃。中古車センターの、休憩室。

     風間礼二は、誰もいない部屋で、油紙に包んだ二挺のベレッタを、分解していた。手入れは、月に一度の儀式だった。組にいた頃からの、二十年変わらない習慣。銃身、遊底、バネの一本一本を、布で拭い、油を差し、また組み上げる。この儀式の間だけ、右足の痛みも、屈辱も、しばらくの間、意識の外へ追いやることができた。

     銃の手入れには、必ず、缶ピースを一本、添えた。丸い缶の蓋を、指の腹で押し開ける、あの独特の抵抗感。中の一本を抜き、火を点ける。この煙草を吸う人間は、この街でも、もう数えるほどしかいない。フィルターもなく、きつく、時代遅れの一本。だが、老師から譲り受けた癖だった。「――強い酒と、強い煙草だけは、安物に逃げるな。それだけは、男の格が出る」老師は、そう言って笑っていた。

     テーブルの上には、古い写真が一枚、置いてあった。

     二十歳の自分。もう一人、細身の中国人の男。香港の裏路地、けばけばしいネオンを背に、二人とも、今では考えられないほど、若い顔で笑っている。

     ――老師、と呼んでいた男だった。

     九龍の暗黒街で、レイジが「日本から来た、生意気な小僧」だった頃、拳の使い方より先に、銃の哲学を叩き込んだ師匠だった。老師は、ある夜、こう言った。広東語混じりの、拙い日本語で。

    「――礼二。銃はな、脅すための道具じゃない。約束を守るための道具だ。俺はお前を守る、という約束。お前は組を裏切らない、という約束。約束が守れなくなった時、初めて、銃は意味を持つ。約束を守るために生きているうちは、銃は、腰の重り以上の何物でもない」

     レイジは、十三年、その言葉を、忘れたことがなかった。

     組を潰され、足を折られ、洗車場に落とされてからの八ヶ月、レイジは、自分がもう、何の約束も守れない男になったと思っていた。組への約束は、組ごと消えた。若い衆への約束は、若い衆ごと散った。だから、銃を捨てた。捨てて、正解だと思っていた。

     その考えを変えたのは、あの頼りない声の若者だった。

     ――あんた、まだ丁寧にやれるじゃないですか。

     レイジは、分解したベレッタのスライドを、光にかざした。傷だらけの、古い鋼鉄。だが、油を差せば、まだ、正確に動く。老師の言葉が、今になって、初めて、腑に落ちた気がした。

     ――守るべき約束は、消えたんじゃない。新しく、結び直せばいいんだ。

     組への忠誠でも、面子でもない。あの、逃げ癖のある若者が、いつか本当に困った時、俺は隣にいる、という約束。それだけを、この八ヶ月、レイジは、洗車場の水音の中で、静かに育てていた。

     銃を、油紙に包み直す。

     窓の外、中古車センターの敷地の隅で、若い組員たちが、また、聞こえよがしの笑い声を上げていた。伝説の成れの果て。生ける屍。好きに言えばいい。

     レイジは、包みを、工具箱の底に、そっと戻した。

     まだ、その時ではない。だが、遠くない。老師の教えの続きを、レイジは、十三年ぶりに、口の中で、静かになぞった。

    「――約束を果たす日には、銃は、軽くなる」

    第三部 五億円のチェス

    一 大和モーターズ

     平成二年の春、キョウヤの盤面は、次の段階へ進んだ。

     狙われたのは、極道でも、警察でもなかった。

     大和モーターズ。中京圏に本社を置く、従業員数万人の、大手自動車メーカー。日本経済の背骨の一本。この時代の名古屋で、その名は「信用」という言葉と同義だった。

     異変の最初の兆候を掴んだのは、例によって、紙の海だった。

    「タカシさん。……変です。大和モーターズの財務子会社が、この半年で、香港とパナマに立て続けにペーパーカンパニーを作ってます。それも、うちらが追いかけてる洗浄トンネルと、同じ司法書士、同じ手口で」

    「……なんだと?」

    「最初は、キョウヤが大和の看板を勝手に使ってるのかと思いました。でも違う。登記の委任状の判子、本物です。大和の財務の、中の人間が絡んでる。……これ、多分あれです。俺の時代で腐るほど見た型です。財テクの失敗隠し。バブルで調子に乗って証券や不動産に突っ込んだ会社の金が、株の下げで焦げて、決算で表に出せなくて、海外の子会社に飛ばす。――飛ばしって呼ばれてました」

    「飛ばし……。ほんで、その焦げた穴は、なんぼだがや」

    「書類から逆算すると――五億。少なくとも」

     五億円。平成二年の五億円である。

     そして、その飛ばしの手口が、キョウヤの洗浄トンネルと同じ型だということの意味は、一つしかなかった。大和の財務担当者は、飛ばしのやり方を、教わったのだ。親切な、誰かに。

    「……嵌めよったんだがや」タカシが唸った。「株が下がる、いうお前の言う未来を、あの眼鏡は読んどった。ほんで、下がり始めた頃合いで、焦げて泣いとる財務の担当者に、悪魔の知恵を貸したんよ。『隠し方、教えましょうか』いうてな。……教わった瞬間、大和の中の人間は、キョウヤと共犯になる。飛ばしの証拠は、全部キョウヤの手の中。あとは」

    「あとは、絞るだけ……恐喝だ」

     大企業の弱みを握る。それは、極道の伝統的なシノギの一つではあった。総会屋。事件屋。だが、キョウヤのやり口は、伝統とは似て非なるものだった。伝統的な恐喝屋は、企業の「面子」を種に、小銭をせびる。キョウヤは、企業の「犯罪」を自ら設計し、その設計図ごと人質に取った。

     要求額は、後の捜査で判明する。

     現金で、五億円。飛ばした穴と、同額。つまり、大和モーターズは、隠した損失と同じ額を、隠した罪の口止め料として、もう一度失うことになった。

     受け渡しの方法が、また、悪魔的だった。現金は、大和系列の中古車オークション会場で、高級車の買い付け代金に化けた。キョウヤ側のダミー会社が、市場価格の倍で大和系の中古高級車を落札し続ける。金は、正規の商取引の顔をして、堂々と海を渡る準備を始めた。

    「……脱帽だがや、と言いとうなるの、敵ながら」

     深夜のアパートで、タカシは資料の山を睨みながら、憎々しげに呟いた。

    「銭の受け渡しの瞬間、いう恐喝事件最大の弱点を、こいつは市場に消しよった。張り込みも、囮も、通用せん。取引はぜんぶ、白昼堂々、合法の顔で行われよる」

    二 オリエンタルの血の交渉

     五億円のジャパン・マネーが動き始めた頃、大須のクラブ《オリエンタル》のVIPルームで、一つの会談が持たれた。

     その中身を、真司とタカシは後日、店のホステスの一人――タカシが三年かけて育てた情報提供者――の震える証言で知ることになる。

     その夜、VIPルームには、二つの陣営が向かい合っていた。

     片側には、張と、トライアドの幹部たち。テーブルの上には、抜き身のバタフライナイフが、これ見よがしに置かれていた。もう片側には、たった二人。眼鏡の若い男と、通訳を装った護衛が一人。

     議題は、白い粉の、東アジアへの販路だった。

     キョウヤが白い夜に手に入れた大量の覚醒剤は、日本国内には、ほとんど流されていなかった。国内で捌けば、警察の本気を呼ぶ。キョウヤはそれを、香港・台湾ルートで海外へ流すことを望み、その航路を握る張に、話を持ちかけた。取り分は、キョウヤが七、張が三。

     張は、笑ったという。それから、笑顔のまま、ナイフをキョウヤの喉元に突きつけた。

    『日本のガキが、九龍の海で商売の講釈か。取り分は逆だ。それでも、お前の命と引き換えなら、安い買い物だろう』

     VIPルームの空気が、血の匂いを先取りして張り詰めた。

     だが、眼鏡の男は、瞬き一つしなかった。喉元のナイフを、まるで出されたおしぼりか何かのように一瞥し、それから、流暢な英語で、静かに言った。

    『張さん。あなたの後ろの壁の向こうに、今、あなたの部下が三人立っている。私を刺せば、あなたは三秒後に、彼らの銃で死ぬ』

    『……ハッタリを』

    『電話を一本、貸しましょうか』

     キョウヤは、卓上の電話をゆっくりと引き寄せ、番号を回し、受話器を張に差し出した。受話器の向こうから聞こえてきた声に、張の顔色が変わった。香港の、彼の本家の老板の声だった。老板は広東語で、短く言った。――その若いのと組め。これは決定だ。

     キョウヤは、凍りついた張から受話器を取り返し、丁寧に置いた。

    『種明かしをしましょう。あなたの本家は今、九七年の返還を前に、資産を海外へ移させたがっている。私はそのための、日本円の洗浄ルートと、ロシア筋の武器の卸値を、本家に直接提示した。あなたを飛ばしてね。……本家にとって、あなたは優秀な支店長だ。でも、支店長の面子と、本店の利益なら、どちらを取るかは、訊くまでもない』

     張の手から、ナイフが、テーブルに落ちた。

    『さて、張さん。改めて。取り分は七対三。ただし、あなた個人には、本家に内緒で、別途一割を差し上げる。……あなたは面子を失った。面子の代わりに、銭を差し上げます。九龍の男が本当に欲しいのは、面子か、銭か――賢い投資家なら、分かりますよね?』

     ホステスの証言によれば、その夜、張は明け方まで一人で酒を飲み、グラスを三つ、握り潰したという。

     だが、翌週から、トライアドの船は、キョウヤの荷を運び始めた。

    「……分かるか、シンジ。この一件の、ほんまの恐ろしさが」

     タカシは、証言のメモを卓袱台に置いて、言った。

    「キョウヤは、張を屈服させるために、張を調べとらんのだがや。張の"上"を調べ、張の上の欲を調べ、上から蓋をした。個人がどれだけ武闘派でも、組織の人間である限り、頭の上の蝶番を握られたら、終わりよ。……こいつのチェスには、盤の外があらせん。相手の家族も、相手の親分も、相手の国の情勢も、ぜんぶ駒だがや」

     真司は、メモの中の一行を、見つめていた。

     九七年の返還。ソ連の崩壊。バブルの崩壊。キョウヤは、未来を知っているわけではない。ただ、公開されている情報から、時代の骨組みだけを正確に読み、誰よりも早く、賭け金を積んでいるだけだ。

     未来を知っている自分と、未来を読んでいるキョウヤ。

     真司は生まれて初めて、自分の持つ「答えを知っている」という卑怯なアドバンテージが、この化け物相手に、どこまで通用するのか、分からなくなった。

    三 サントスの犬

     夏、南米から、最後の腕が伸びてきた。それを追って、もう一人、招かれざる客が、太平洋を渡ってきた。

     アメリカ麻薬取締局、通称DEAの捜査官、フランク・デルガード、四十二歳。コロンビア・カルテルの東アジア進出ルートを追って、正式な捜査協力の名目で、県警本部に乗り込んできた男だった。革のジャケット、崩したネクタイ、サングラスを頭に載せたまま離さない、いかにも「向こう」の刑事という出で立ち。

     最初の顔合わせから、空気は最悪だった。

    「――令状もなしに、対象者に接触して、恫喝紛いの取引をする? そんなやり方が、日本の警察では通用するのか」

     デルガードは、通訳を介さず、片言の日本語と身振りで、タカシに食ってかかった。

    「通用するかいなて、実際、通用しとるんだがや」

     タカシは、悪びれもせずに、答えた。

    「あんたの国のやり方は知らん。だけど、この街ではの、紙の証拠より、人間の弱みを先に押さえた方が、話が早いんだがや」

    「それが違法捜査だと言ってるんだ」

    「違法上等だがや。合法にこだわって、サントスに逃げられたら、あんたの本国のカルテルの荷は、この港から、堂々と入ってくるんだぞ」

     二人は、初めの三日間、口を開けば怒鳴り合った。だが、真司の紙の地図――蟻の巣の全貌を、デルガードに見せた夜、空気が、少しだけ変わった。

    「……これを、三年、素人と、飼い殺しの刑事だけで、作ったのか」

     デルガードは、卓袱台に広げられた紙の山を、長いこと、無言で見ていた。

    「アメリカなら、これをやるのに、予算と人員が、百人月は要る」

    「銭がないから、根性でやったんだがや」

    「――クレイジーだ」

     デルガードは、初めて、笑った。皮肉ではない、素直な笑いだった。

    「だが、嫌いじゃない。そのクレイジーさ」

     以来、デルガードは、正式な報告書には載らない形で、真司たちの「蟻の巣掘り」に、時折、手を貸すようになった。アメリカ側が掴んでいたサントスの過去の逮捕歴、カルテルの内部抗争の情報――本国の規則では出せないはずの資料が、いつの間にか、タカシの机に、匿名で届くようになっていた。

     男の名は、サントス。三十八歳。表向きの肩書は、パナマの貿易会社の極東担当役員。裏の顔は、コロンビアのカルテルの、東アジア進出の総責任者だった。

     男の名は、サントス。三十八歳。表向きの肩書は、パナマの貿易会社の極東担当役員。裏の顔は、コロンビアのカルテルの、東アジア進出の総責任者だった。

     巨漢だった。上等なスーツの上からでも分かる、樽のような胴回り。よく日に灼けた顔に、常に人好きのする笑みを浮かべ、覚えたての日本語で「モウカリマッカ」などと言って、商談相手を笑わせる。口には、いつもキューバ産の葉巻が咥えられていた。値段を訊かれると、サントスは決まって「これは金じゃない、時間を吸ってるんだ」と笑い、太い煙をゆっくりと天井へ向けて吐き出した。そして、その笑顔の男の別荘の裏庭では、時折、獰猛な犬たちの吠え声が、長く、続くことがあった。近隣の住人は、犬の躾だと思っていた。

     サントスの護衛は、常に二人。表向きは「秘書」と「運転手」だが、上着の下には、決まって同じ得物が吊られていた。イングラムM10(マックテン)。片手で構えられるほど軽く、しかし発射速度は毎分千発を超える、南米の裏社会で好んで使われる制圧火器だった。サントス自身は、「銃は部下に持たせるものだ、私は数字を持つ」と公言してはばからなかったが、別荘の書斎の抽斗にも、同じ得物が一挺、油を差されたまま眠っていることを、知る者は少なかった。

     サントスの役目は、二つあった。

     一つは、キョウヤが大和モーターズから毟った五億の洗浄。カルテルが中南米に張り巡らせた洗浄網は、この時代、世界で最も洗練された「金の洗濯機」だった。五億円は、中古車代金としてパナマに渡り、幽霊会社を三つくぐり、数字だけの存在になって、スイスと香港の口座で、綺麗な顔をして眠りについた。

     もう一つの役目は、コカインの、日本市場への「種蒔き」だった。

    「――ここだけはの、シンジ。キョウヤは、サントスと揉めたらしい」

     タカシが情報屋から仕入れてきた話は、意外なものだった。

    「サントスは、日本のバブル紳士どもに、白い粉の上等なやつを売り込みたがっとる。だけど、キョウヤが、首を縦に振らんのだと。『国内市場は、まだ開けない』の一点張りでの。サントスは苛立っとる。『何のために俺たちがお前の銭を洗ってやってると思ってるんだ』とな」

    「……なんでですかね。金儲けが目的なら、断る理由がない」

    「わしも、そこが引っかかっとった。だけど、蟻の巣の地図を眺めとって、一個だけ、筋の通る答えを思いついてしもうたんだがや。……聞いて、笑うなよ」

     タカシは、地図の一点――名古屋港を、指で叩いた。

    「キョウヤの狙いはの、シノギやない。……この港、そのものだがや」

    「港?」

    「そうだがや。考えてみい。あいつのやっとることを、順番に並べてみい。港の荷役の下請けを握った。港を仕切っとった九頭龍会を潰した。港に出入りする外国の悪党どもと、全部、パイプを繋いだ。銭は貯めるだけ貯めて、国内では派手に使わん。……こいつは、商売をしとるんやない。インフラを買収しとるんだがや。名古屋港いう、極東最大の物流の心臓に、誰にも見えん形で、自分の血管を巻きつけよる。それが完成したら、どうなる?」

     真司の背中に、冷たいものが走った。

     分かった。分かってしまった。二〇二六年の記事の文面が、脳裏で正確に再生された。

    「……通行料だ」

    「なに?」

    「そいつが完成させようとしてるのは、密輸組織じゃない。密輸のインフラです。銃でも薬でも人でも金でも、極東で何かを動かしたい世界中の犯罪組織が、全員、そいつの敷いた線路を使う。使うたびに、通行料を払う。……荷物を持つから捕まるんだ。線路だけ持ってれば、捕まらない。三十六年後も」

    「三十六年後、いうんは……お前の時代の、あれか」

    「はい。俺の時代に美咲を殺した組織、警察が全容を掴めないシンジケートって呼ばれてました。全容を掴めないのは、当たり前だったんだ。掴むべき組織なんて、最初からなかったんだから。あるのは、線路と、通行料の集金システムだけ。……その第一期工事が、今、目の前で」

     二人は、しばらく、黙った。

     夜のアパートの窓の外を、運河の水が、黒く流れていた。

    「……のう、シンジ」

     やがてタカシが、妙に静かな声で言った。

    「わしはの、ガキの頃から、頭は良うなかった。腕っぷしと、しつこさだけで、ここまで来た男だがや。だけど、そんなわしでも、一個だけ、はっきり分かることがある。……線路が完成してからでは、もう誰にも、剥がせん。剥がすなら、工事の途中の、今しかあらせん」

     タカシは立ち上がり、押し入れの奥から、埃をかぶった一升瓶を出してきた。湯呑みに二つ、なみなみと注ぎ、一つを真司の前に置いた。

    「シンジ。お前とわしの蟻の巣掘りも、三年目だがや。紙は、もう千枚を超えた。……そろそろ、弾込めの総仕上げといこうかい。わしに、考えがある。上の腐れどもが動かんのなら、腐れどもが動かざるを得ん場所まで、事件を引きずり出したる」

    「……何をする気ですか」

    「大和モーターズよ」

     タカシは、湯呑みの酒を一息に呷って、獣の顔で笑った。

    「キョウヤの帝国の、唯一の急所だがや。あの五億の恐喝だけは、被害者が堅気での。それも、日本経済の看板の堅気だがや。極道同士の潰し合いなら知らん顔の検察も警察上層部も、大企業恐喝となりゃあ、動かんわけにいかん。……大和の中の、飛ばしをやらかした担当者。そいつを、わしらが先に見つけて、割らせる。恐喝の被害届と、証言。それが取れたら、キョウヤの城の一番深い所に、正面から令状が刺さるんだがや」

    四 飛ばしの男

     大和モーターズ財務部・資金二課、課長代理。枝村哲夫、四十六歳。

     それが、飛ばしの実務を担った男の名前だった。紙の海から枝村の名を絞り出したのは、真司だった。海外子会社の登記委任状の判子、社内報の人事欄、ゴルフコンペの成績表。三つの紙を重ねると、一人の男の輪郭が浮かんだ。

     枝村の飛ばしの資金が実際に動いた先を辿ると、必ず一人の女性行員の印鑑にぶつかった。

     東海系の地方銀行、栄支店、外国為替担当。小野寺真理子、二十六歳。真司が取り寄せた送金伝票の束には、判で押したように、彼女の認印が並んでいた。

     最初、真司はそこに、共犯の影を疑った。だが調べるほどに、見えてきたのは違う輪郭だった。小野寺真理子は、上司の命令で、疑問を挟む立場にない一介の担当者に過ぎなかった。ただ、彼女には、他の行員にはない癖が一つあった。怪しいと感じた伝票は、必ず、控えのコピーを個人的に保管しておくという、地味で、几帳面な癖だ。

     規則違反すれすれの、その小さな習慣が、後にキョウヤの資金洗浄ルートを裏付ける、決定的な物証の山になる。

     真司が支店の外で待ち伏せ、思い切って声をかけた時、真理子は、怯えるでも怒るでもなく、ただ静かに言った。

    「――やっと、来たか、と思いました」

    「え……」

    「毎回、変な伝票を承認するたびに、いつか、こういう人が来ると思ってました。来なかったら、あたし、一生、あの伝票たちを、金庫にしまったまま、墓場まで持っていくところでした」

     真理子は、鞄から、色褪せた大学ノートを取り出した。三年分の、几帳面な手書きの控えだった。

    「これ、要りますか」

     その一冊が、後にキョウヤの城の、経済的な土台を崩す、最初の楔の一つになる。社宅住まい。妻と、高校生の娘が一人。趣味は盆栽。財テクの担当に抜擢されたのは四年前で、最初の二年は、社内で「打ち出の小槌」と呼ばれるほどの利益を上げた。歯車が狂ったのは、平成に入ってからだ。

     張り込み三日目の夜、真司とタカシは、枝村が会社を出てから、家に帰るまでを追った。

     枝村は、まっすぐ家に帰らなかった。地下鉄を二度乗り換え、誰もいない公園のベンチに座り、三十分、ただ、じっとしていた。それから公衆便所に入り、出てきて、また少し座り、ようやく重い足で社宅へ向かった。

    「……見たか、シンジ」

    「はい。……あの人、公園のトイレで、吐いてました。出てきた時、口元拭ってた」

    「毎晩、あれをやっとるんだらの。会社の顔と、家の顔の、間でよ」

     タカシが枝村に接触したのは、その週の金曜、例の公園のベンチだった。

     真司は少し離れた場所から見ていた。タカシは警察手帳を見せ、隣に座り、缶コーヒーを一本、枝村の膝に置いた。枝村の顔が、みるみる白くなっていくのが、遠目にも分かった。逃げるか、叫ぶか――だが、枝村はどちらもしなかった。代わりに、両手で顔を覆って、ベンチの上で、声を殺して泣き始めた。

     大の男が、肩を震わせて、子供のように。

     後で聞いた話では、タカシが最初にかけた言葉は、追及でも、取引でもなかったという。

    「――あんた、よう三年も、一人で保ったの」

     その一言で、枝村という男の中の、堤防が切れた。

     枝村の告白は、真司たちの読み筋を、ほぼ裏付けるものだった。財テクの穴。狂ったような重役会の空気。「決算までに、何とかしろ」という、実行の方法だけを部下に丸投げする号令。追い詰められた枝村の前に、ある日、「コンサルタント」を名乗る若い男が現れたこと。男の提案の、悪魔のような精密さ。そして飛ばしが完了した一週間後、同じ男から届いた、飛ばしの全証拠のコピーと、たった一行のメッセージ。

    『御社の秘密は、私の金庫の中に。ご安心を。――利息のご相談は、また後日』

    「……あの男は、悪魔です、刑事さん」

     枝村は、震える声で言ったという。

    「金額じゃ、ないんです。あの男は、私に、恥を、飼わせたんだ。毎朝、家族に行ってきますと言うたびに、娘に頑張ってねと言われるたびに、私の中の恥が、太っていく。あの男は、それを全部、計算して……電話の声が、まだ耳から離れない。『枝村さん、あなたは何も悪くない。悪いのは時代です。だから、時代に払わせましょう』って……」

     被害届と証言。キョウヤの城に刺す刃の、最初の一本が、手に入るかに見えた。

     枝村は、条件を一つだけ出した。家族の安全の保証。タカシは、自分の首を賭けて、県警の中の信頼できる数人だけで保護態勢を組むと約束した。決行は、二週間後。枝村が経理の原簿の写しを持ち出せる、四半期監査の準備日。

     その二週間が、運命の分かれ目になった。

     決行の三日前、枝村哲夫は、社宅の自室で、死んだ。

     遺書があった。筆跡は本人のもの。文面は、会社への謝罪。警察の検視は、自殺と断定した。四半期監査を苦にした、経理課員の過労自殺。新聞の隅に、三行だけ載った。

     タカシは、その三行の記事を、一時間、黙って見ていた。

     それから、おもむろに立ち上がり、アパートの壁を、拳で一度、打った。壁が、抜けた。血の滲む拳のまま、タカシは低く言った。

    「……漏れとったんだがや。県警の中の、どこかからよ」

     枝村の死を「三行」で片付けた新聞記事には、書いた記者がいる。

     中日方面の経済面を担当する、地方紙の記者、高木由紀、二十八歳。真司が枝村の自宅周辺を張っていた際、同じように、社宅の前で粘っていた女性だった。名刺を渡され、真司は最初、警戒した。だが由紀の質問は、意外なほど的を絞っていた。

    「――枝村さんの死、本当に、過労自殺だと思います?」

    「……さあ、俺には」

    「あなた、三日前も、あの公園にいましたよね。今日も、いる。……ただの通行人にしては、熱心すぎませんか」

     由紀は、手帳を閉じながら、独り言のように続けた。

    「この街、去年から、変な自殺と、変な失踪が、多すぎるんです。デスクに何度も企画を出したけど、『暴力団同士の抗争』の一言で、全部、握り潰される。……でも、あたし、諦めが悪い質でね」

     由紀は、名刺の裏に、自分の自宅の電話番号を書き足して、真司に押し付けた。

    「何か摑んだら、警察より先に、あたしに教えて。あたしは、この街の『三行記事』を、いつか、ちゃんとした記事に書き直したいだけなんです」

     この日の出会いを、真司はタカシに報告しなかった。だが、後の展開で、由紀の存在が、思わぬ形で役に立つ日が来ることを、この時の真司は、まだ知らない。

    「そんな……保護態勢は、信頼できる人だけって」

    「わしの人選が、甘かった。……いや、違うの。甘かったんやない。あいつの買収が、わしの想像より、上まで届いとったんだがや」

     枝村の死の一週間後、タカシに、県警本部から呼び出しがかかった。

     監察官室。応対したのは、監察官と、もう一人、本部の警務部の幹部だった。議題は、タカシの「独断による違法性の疑いのある内偵活動」について。誰かが、克明な報告書を上げていた。三年分の蟻の巣掘りの、日付と場所まで正確な報告書を。

     処分は、その場で言い渡された。

     組織犯罪対策の一線から外し、遺失物係へ配置転換。事実上の、飼い殺しだった。

    「……ほう。遺失物係」

     タカシは、辞令を眺め、それから、監察官の顔をまじまじと見て、心底おかしそうに、笑ったという。

    「ええ部署だがや。この街が失くしたもんを、探すには、な」

    五 番犬たちの午後

     サントスの拠点は、意外なほど、のどかな場所にあった。

     知多半島の付け根、海の見える別荘地。パナマの貿易会社の保養所という名目で借り上げられた、白い洋館。庭には、南国の植木が並び、その奥に、犬小屋が三つ、並んでいた。

    「――犬小屋いうても、シンジ。中身は、ペットやないぞ」

     タカシは、双眼鏡越しに、庭を見ながら言った。護送車に偽装した覆面車の中、二人は、道路を挟んだ茂みに、車を寄せていた。

    「品種、ドーベルマン。本国から輸入した、闘犬あがりや。あの犬、可愛がっとるようで、実は、始末の道具やて噂がある」

    「始末って……」

    「言わせるな」

     タカシの声が、珍しく、硬かった。

     その日の午後、白い洋館の門が開き、黒塗りのベンツが二台、入っていった。降りてきたのは、サントス本人と、大和モーターズの、真司たちも見知った顔――財務部の、別の重役だった。枝村の直属の上司にあたる男だ。

    「……あの人も、繋がってたのか」

    「かもしれん。かもしれんが、今日は、見るだけよ。動くな」

     庭のガーデンテーブルで、サントスは、上機嫌に、日本語混じりの会話を続けていた。距離があって、内容までは聞き取れない。だが、身振りだけで分かることもある。サントスは終始、笑っていた。人好きのする、豪快な笑い。その笑顔のまま、時折、庭の犬小屋の方に、視線をやった。

     重役の方は、対照的だった。テーブルの端で、終始、俯き加減。差し出されたグラスに、ろくに口をつけない。

     やがて、話が一段落したのか、サントスが立ち上がり、庭の奥、犬小屋の方へ、重役を促した。重役は、明らかに、行きたがらなかった。だが、サントスの分厚い手が、肩に置かれると、逆らえなかった。

     犬小屋の前で、サントスは、檻の掛け金を、外した。

     三頭のドーベルマンが、勢いよく飛び出し、サントスの周りを、じゃれつくように、跳ね回った。サントスは、笑いながら、犬たちの頭を撫で、それから、重役の手に、生肉の欠片を、握らせた。

     重役の手が、震えているのが、双眼鏡越しにも、分かった。

    「……犬に、餌をやれ、言うとるんだがや」タカシが、低く言った。「サントス流の、踏み絵よ。犬は、素人が餌をやると、指ごと持っていく。震えとる手で、震えとる相手に、餌はやれん。……あの重役、試されとる」

     重役は、長い逡巡の後、震える手で、肉を、放った。

     犬は、跳びかかり、肉を、そして――重役の手の甲を、浅く、掠めた。悲鳴が、風に乗って、二人の隠れる茂みまで、届いた。

     サントスは、大笑いしながら、重役の手当てを部下に命じ、それから、肩を抱き、耳元で、何かを囁いた。距離があっても、その口の動きだけは、真司にも、想像がついた。

     ――次からは、震えるな。

     二人は、夕方まで、洋館を見張り続けた。重役が、傷の手当てをされたガーゼの手のまま、逃げるようにベンツに乗り込むのを、見届けた。

     その夜、タカシは、真司を連れて、みなと屋に寄った。

    「……あの重役も、鎖ですか」

    「鎖だがや。ただ、枝村と、違う種類のな」

     タカシは、焼き鳥の串を、口に運びながら、続けた。

    「枝村は、恥で繋がれとった。あの重役は、恐怖で繋がれとる。恐怖は、恥より、扱いが難しい。恐怖に慣れた人間は、頼れる相手さえ現れれば、簡単に鞍替えする。だけど、恐怖を植え付けた直後の人間は、逆に、一番、動かん。犬に手ぇ噛まれたばかりの男が、明日、警察に駆け込むと思うか?」

    「……思いません」

    「そういうこっちゃ。サントスは、あれで、頭がええ。人間の心を、犬の躾と同じ理屈で、扱いよる。……せやから、あの重役に手を出すんは、まだ早い。傷が癒えて、恐怖が、記憶に変わる頃合いを、待たにゃならん」

    「時間との、勝負ですね」

    「せや。……だけど、シンジ。一個だけ、覚えとけ」

     タカシは、串を置いて、真司の目を、まっすぐに見た。

    「犬に噛まれた男の手当てをしたんが、誰か、見たか」

    「……サントス自身の、部下でした」

    「そうだがや。傷を作ったんも、治すんも、同じ側の人間だがや。……あれがな、シンジ、一番、質の悪い鎖よ。痛みも、優しさも、全部同じ相手から出てくる。人間、そういう相手からは、なかなか、離れられんもんだがや」

     真司は、串を握ったまま、しばらく、動けなかった。

     脳裏に、駅のホームで見た記事の文面が、また、蘇っていた。美咲の勤めていた会社。経理事務。あの「やばい仕事」は、もしかしたら、同じ種類の鎖だったのかもしれない。痛みと優しさを、同じ手から受け取り続けて、動けなくなる鎖。

    「……タカシさん」

    「なんだがや」

    「その鎖、外す方法、あるんですか」

     タカシは、湯呑みの茶を、一口、飲んだ。

    「ある。一個だけな。――外の世界にも、優しい手があると、教えてやることだがや。時間はかかる。信用してもらうまでは、地道な、地味な仕事だがや。……だけどシンジ、それ以外に、方法は、あらせん」

     その週末、デルガードから、耳寄りな情報が入った。

    「カルテルの積み荷を、荷揚げの前に必ず一度、"検品"する場所がある。……製鉄所だ」

     名古屋港の南、東海製鋼の敷地内。夜間操業中の、旧型の転炉工場。サントスの荷は、コンテナのまま港に降ろされるのではなく、一度この製鉄所の裏手を経由し、鉄屑の中に紛れ込ませて、税関の目を晦ますのだという。

     真司、タカシ、デルガードの三人は、夜、工場の外周フェンス沿いに身を潜めた。

     轟音が、絶え間なく、腹の底まで響いていた。転炉から溢れる、橙色の光。真っ赤に溶けた鉄が、巨大な柄杓に注がれるたび、火の粉が、夜空へ噴き上がる。熱気が、フェンス越しにも、肌を炙った。まるで、この世の外側を覗いているような光景だった。

    「――こいつは」

     デルガードが、双眼鏡越しに、呟いた。

    「地獄の見本市だな」

    「日本の景気を、下から支えとる場所だがや」タカシが、乾いた声で言った。「鉄を作る火は、誰かの真面目な仕事の火だがや。……その炎の陰に、こそこそ荷物を隠す奴がおる。それが、一番、腹の立つとこよ」

     溶鉱炉の脇、作業員に紛れた男が二人、台車を押していた。台車の下、鉄屑に混ざって、白い粉のパッケージが、隙間なく詰め込まれているのが、双眼鏡越しに見えた。

    「――押さえるか」

    「いや」タカシが、首を振った。「今、動いたら、末端の運び屋しか捕まらん。写真だけ撮って、引くぞ。この鉄工所ごと、大和モーターズの一件と繋げて、まとめて落とす」

     橙色の炎を背に、三人は、静かにフェンスを離れた。

     熱気の余韻が、しばらく、肌に残っていた。デルガードは、フェンスの外で一度だけ振り返り、燃え盛る転炉を見つめて、低く言った。

    「――こんな景色は、故郷にはない。忘れられそうにないな」

    「忘れんでええ。ほんで、あんたの国の連中にも、伝えといてくれ。……この街の炎は、誰かを焼くためやのうて、誰かの飯を支えるための炎だ、いうことをよ」

    六 波止場のヴォトカ

     枝村哲夫の死から、三日。まだ拳の傷も塞がらないうちに、タカシは真司を連れて、金城ふ頭の外れへ向かった。

    「……どこ行くんですか、タカシさん」

    「息抜きよ」

     嘘だと、真司はもう分かっている。灰の落とし方は、今夜も、いつもより一拍早かった。

     連れて行かれたのは、埠頭倉庫の隙間に隠れるように建つ、看板もない一軒の飲み屋だった。窓は曇りガラス。中から漏れる音楽は、演歌でも歌謡曲でもない、もっと重く、単調な旋律。扉を開けると、煙草の煙と、油の匂いと、聞き慣れない言語が、どっと押し寄せてきた。

     カウンターにも、奥のテーブルにも、上背のある白人の男たちが座っていた。ナホトカ航路の船員宿。荷役の合間、船から降りた男たちが、束の間の陸を過ごす場所だった。

    「――ここ、大丈夫なんですか」

    「大丈夫やない。だけど、来にゃならん」

     タカシはカウンターに座り、指を二本立てて、ウォッカを注文した。店主は無言でグラスを二つ、滑らせてよこす。

    「シンジ。ボリスいう男の正体は、割れた。旧ソ連軍の輸送将校崩れ。武器庫の帳簿を、内側から溶かして、極東に横流ししとる先遣隊。……だけど、正体が割れただけでは、あいつは崩せん」

    「なんでですか」

    「あいつには、鎖が、ないからよ」

     タカシは、グラスを一息に呷った。

    「枝村には、恥があった。撮影係には、借金があった。所長には、弱みがあった。レンには、家族があった。……鎖のある人間は、崩せる。鎖を見つけて、外し方を教えたらええ。だがボリスにはそれがあらせん。国は崩れかけとる。帰る家すら、あるかどうか怪しい。あいつが信じとるもんは、たった一つよ。銭と、契約だけ」

    「……契約を破らせればいいんじゃないですか。取引を潰せば」

    「潰せる。だけど、それだけやと、あいつは黙って荷物をまとめて、次の港へ行くだけだがや。名古屋が駄目でも、横浜がある。神戸がある。……わしらが欲しいんは、あいつを追い出すことやない。あいつの口から、キョウヤの名前を、正式な記録に、載せさせることよ」

     その時、店の奥がざわついた。

     入ってきたのは、五十がらみの、岩のような体躯の男だった。軍人上がりの、無駄のない歩き方。感情の読めない、氷の色をした目。店の全員が、わずかに背筋を正すのが、真司にも分かった。

     ボリスだった。

     男は、カウンターの隅、いつもの席に座り、店主が何も言わずに置いたウォッカを、一息に空けた。それから、上着の内から、潰れかけた紙箱を取り出した。ベロモルカナル。フィルターのない、紙巻きの端を指で潰して吸う、ソ連の労働者と兵隊の煙草。銀座でもモスクワでも手に入る代物ではない。ナホトカの船員が、船倉に隠して運んでくる、数少ない「国の匂い」だった。ボリスは、それに火を点け、煙を、長く、長く、吐き出した。それから、視線だけを動かし、カウンターの反対の端に座る、見知らぬ東洋人二人を、値踏みするように見た。

    「……ミリツィヤ」

     低く、誰にともなく、呟いた。警察、という意味の単語だと、後でタカシに教わった。

     タカシは、動じなかった。グラスを掲げ、片言のロシア語で、何かを言った。真司には聞き取れなかったが、店主が一瞬、目を丸くしたところを見ると、相当に古い、あるいは無作法な言い回しだったらしい。

     ボリスの氷の目が、初めて、正面から、タカシを見た。

     長い沈黙のあと、ボリスは、低く、掠れた声で、日本語混じりに言った。

    「――刑事。ここは、お前の国だ。だが、この店は、俺の国だ」

    「知っとる。せやから、令状は持ってこんかった」

    「……賢い」

     ボリスは、店主に何か命じ、二杯目のウォッカが、真司とタカシの前にも置かれた。奢りだった。

    「刑事。何が、欲しい」

     タカシは、グラスを回しながら、目だけで店の奥――キョウヤの手先が座る一角――を示した。

    「あんたが取引しとる、眼鏡のガキの話よ」

    「ビジネスの話は、しない」

    「せんでええ。一個だけ、聞かせてくれ。……あんた、あのガキのこと、どう思っとる」

     ボリスは、しばらく黙って、グラスの中の透明な液体を見つめていた。それから、初めて、氷の目の奥に、何か人間らしい感情の色を、浮かべた。軽蔑に、よく似た何かだった。

    「……あの子供は、賢い。だが、間違えている」

    「何をよ」

    「軍隊にいた頃、俺は、命令だけで動いていた。国のため。同志のため。……国が消えた今、俺は、契約のためだけに動く。それは、寂しいが、正直だ。あの子供は、違う。あの子供は、忠誠も、命令も、契約も、全部、鎖に変える。自分の下にいる人間、全員を。……鎖で繋いだ軍隊は、いつか、必ず、崩れる。俺の国が、そうだったように」

     ボリスは、グラスを空け、席を立った。

    「刑事。忠告を、一つ。あの子供と、最後まで付き合うな。あの子供の帳簿には、いつか、お前の名前も、債権として載る」

     男は、それだけ言って、店の奥へ消えた。

     タカシは、しばらく、空になったグラスを、見つめていた。

    「……なあ、シンジ。聞いたか、今の」

    「はい」

    「ボリスはの、たぶん、この国で一番、まっすぐな悪党だがや。銭で動く。契約で動く。単純明快。……せやから、わしはあいつを、憎めん」

     タカシは、カウンターに、代金を、多めに置いた。

    「憎めん相手を、それでも崩さないかん時が、ある。それが仕事、いうもんだがや。……シンジ、覚えとけ。今夜あいつが言うたことは、たぶん、この事件で一番、値打ちのある情報よ。あいつの契約は、忠誠やのうて、銭だけで結ばれとる。ちゅうことはの――」

    「銭より高い理由さえ作れれば、あいつは、契約を破れるってことですか」

    「……お前、ほんまに成長しよったの」

     タカシは、初めて、少しだけ、優しい顔で笑った。

    「そうよ。あとは、銭より高い理由を、どう仕込むかだがや。時間はある。まだ、時間はある」

     店を出ると、潮風が、二人を迎えた。波止場の向こうで、ナホトカ航路の貨物船が、舷灯を落として、静かに眠っていた。あの船の腹の中に、いずれこの街を白く染める荷が、今も、無数に眠っている。

    七 遺失物係の戦争

     遺失物係の窓口で、タカシは傘の受け取りの書類に判を捺す男になった。

     だが、大滝タカシという男の戦争は、終わっていなかった。むしろ、あの日から、本当の戦争が始まったのだと、真司は思っている。

    「シンジ。ええこと教えたる。遺失物係いうんはの、警察で一番、暇な部署だがや」

     定時で上がったタカシは、毎晩、真司のアパートに来た。卓袱台の上の「蟻の巣」の地図は、もはや押収される危険のある県警には置けない。千枚の紙の帝国は、中川区の風呂なしアパートに、丸ごと引っ越してきていた。

    「暇、いうことはの、時間があるいうことよ。ほんで、窓口いうんはの、人が来る場所だがや。傘を失くした婆ちゃん。財布を落とした学生。……そういう堅気の中に、時々、混じっとるんだがや。堅気の顔をした、街の目がの」

     タカシは左遷されて、しかし、孤立しなかった。

     二十年、この街の泥を這い回った男の人脈は、辞令一枚では切れなかった。港湾の労務係。みなと屋のおばちゃん。オリエンタルのホステス。パトロールを外れたタカシの代わりに、街のあちこちの目が、遺失物係の窓口に、世間話の顔をして情報を落としていった。

     中でも、律儀に通ってきたのが、所轄の交番勤務の巡査、桜庭志穂、二十三歳だった。

     配属されたばかりの頃、タカシの下で二ヶ月だけ研修を受けた「元・部下」だった。他の幹部が距離を置く中、志穂だけは、月に一度、判で押したように遺失物係の窓口に顔を出した。表向きは、拾得物の照合作業の手伝い。実際には、交番に寄せられる、堅気のふりをした街の噂を、律儀に届けに来ているのだった。

    「大滝さん。今月も、傘の忘れ物、多いですね」

     志穂は、書類仕事の体裁を崩さず、伝票の裏に、小さくメモを走らせて置いていく。今月は、栄のディスコで見かけない顔の外国人グループの目撃談。今月は、パトロールの巡回ルートが、なぜか特定の倉庫街だけ、上から手薄にされている件。

    「――志穂ちゃん。なんでまだ、来るんだがや。飼い殺しの上司に付き合うても、おみゃあの出世には、一円にもならんぞ」

    「大滝さんが、研修の時に言ったこと、覚えてます」

     志穂は、伝票を綺麗に整え直しながら、まっすぐタカシを見た。

    「『警察の仕事はの、点数と、人間、どっちを見て働くかで決まる』って。……私、あの時、点数より人間を見る警官になろうと決めたんです。今さら、方針変更はしません」

    「……減らず口だけは、一人前になったの」

     タカシは苦笑いしたが、真司には、その目が、少しだけ潤んでいるのが見えた。志穂が窓口を去った後、タカシはぽつりと言った。

    「ああいう若いのが、下から腐らんうちに、この街をまともにせないかんのだがや。……わしらの世代の宿題を、あの子らに押し付けるわけには、いかんのよ」

     そして――もう一人、静かに戦線に加わった男がいた。

    「……大滝の旦那が飼い殺しになった、と聞いた」

     秋の初め、洗車場で、レイジが手を止めずに言った。

    「枝村という男の一件も、な。……自殺、ということになっているそうだが」

    「……レイジさん。あんた、どこまで知って」

    「洗車場というのは、いい場所だ」レイジはホースの水を止めた。「極道は、車の中では気が緩む。洗車を待つ間の世間話、車内に忘れた書類、灰皿の吸い殻の銘柄。……三年、黙って磨いていれば、嫌でも耳に溜まる」

     レイジは、真司に向き直った。三年前、病室で会った時と同じ、感情の読めない目。だがその奥に、三年前にはなかった、静かな火が点っているのを、真司は見た。

    「シンジ。病室で言った借りの話、覚えているか」

    「……はい」

    「あれを、俺の方から使わせてもらう。虫のいい話だがな。……俺を、お前たちの戦争に、入れろ」

    「え……で、でも、レイジさん、組の目が」

    「九頭龍会は、もう終わっている」レイジの声に、初めて、はっきりとした感情が乗った。侮蔑だった。「本部は、キョウヤの通行料システムの、一番の上客に成り下がった。俺を飼い殺しているのも、キョウヤへの忠誠の証としてだ。……親父が――ジンナイの親父が、あと二年で出てくる。あの人が出てきた時、この港がガキの線路になり果てとりました、では、俺は親父に合わせる顔がない」

     レイジは、作業着の袖をまくった。細い、しかし恐ろしく精緻な筋肉の走る腕が、覗いた。

    「足は、まだ引きずる。だが、腕は錆びさせていない。毎晩、湾岸の廃倉庫で三百発、感覚だけは磨き続けた。……三年間、俺が何のために生き恥を晒して洗車をしてきたと思う。あの夜の借りを、耳を揃えて返す日のためだ」

     こうして、平成二年の秋、名古屋港の片隅で、世界一小さな連合軍が生まれた。

     遺失物係の狂犬。飼い殺しの伝説。そして、未来から来たフリーター。

     三人の最初の作戦会議は、みなと屋の奥の席で、味噌カツを突きながら行われた。

    「――ほんで、だがや。戦争いうても、まともにやりおうたら、万に一つも勝ち目はあらせん」タカシがどて煮の鍋を突きながら言った。「敵さんは、兵隊六十、外国のプロが三十からむ重武装。こっちは三人。うち一人は素人、一人は足が悪い、一人は遺失物係だがや。……笑うとこだぞ、シンジ」

    「笑えませんよ……」

    「だから、正面からはやらない」レイジが、静かに引き取った。「城攻めの基本だ。城が堅いなら、城を攻めない。城の外の、水路を断つ」

     レイジは、卓上に、箸で三本の線を引いた。

    「キョウヤの城は、三本の水路で生きている。香港への販路――張。南米の洗浄網――サントス。北からの武器――ボリス。この三本が、あの城の生命線だ。逆に言えば、三本とも、外様だ。銭の利害だけで繋がった、忠誠心のない水路。……一本ずつ、断つ。あるいは、濁らせる」

    「濁らせる、いうんは?」

    「外様同士は、互いを信用していない」レイジの目が、細くなった。「張は、面子を潰された借りを忘れていない。サントスは、国内市場を開かないキョウヤに苛立っている。ボリスは、銭にしか興味がない。……この三匹の疑心暗鬼に、餌をやる。同盟というのは、外から崩すものじゃない。内側から、腐らせるものだ」

     真司は、鍋の湯気の向こうの二人の男を見た。

     狂犬と、伝説。この時代で真司が出会った、二人の男。この二人がいれば、あるいは――そう思いかけた真司の楽観を、タカシの次の一言が、静かに撃ち抜いた。

    「ほんでの、シンジ。お前にも、一番大事な仕事を頼む。……レンよ」

    「レン……黒狼會の?」

    「そうだがや。水路を三本断っても、城には兵隊が六十おる。薬と写真で縛られた、哀れな兵隊がの。あれを正面から潰せば、死ぬんは、騙されて兵隊にされたガキどもだがや。それだけは、わしは、せん」タカシの目は、真剣だった。「兵隊を城から引き剥がすには、王を取り戻すしかあらせん。一ノ瀬蓮を、人形から、人間に戻す。……薬と、家族の人質。この二重の鎖を、外す算段を、お前が立てえ。お前のその、未来の目でよ」

    八 鎖の外し方

     レンを縛る鎖は、二重だった。薬物への依存と、家族と若い衆を人質に取る、数千枚の隠し撮り写真。

     真司はまず、鎖の仕組みを、徹底的に調べることから始めた。

    「薬の方はの、シンジ。焦ったらいかん」

     協力を仰いだのは、意外な人物だった。タカシの古い知り合いで、今池の外れで小さな内科医院をやっている、老医師。若い頃、更生施設で依存症の患者を診続けた経験のある男だった。表の医療が極道を診ない時代に、裏の世界の人間の身体だけを黙って診てきた、堅気とも極道ともつかない古狸である。

    「ええか。ああいう漬けられ方をした人間はな、身体より先に、心の段取りが要る。切れる恐怖に、独りで向き合わせたら、必ず失敗する。本人が『戻りたい場所がある』と思えること。戻るのを待っとる人間の顔が見えること。それが、薬より効く薬だがや。……環境ごと引っこ抜いて、時間をかけて抜く。近道は、ない」

    「時間って、どれくらい」

    「その男の場合、身体の急場を凌ぐだけでも数週間。人に戻るには、年の単位だがね」

     年の単位。真司は唇を噛んだ。決戦は、そんなに待ってくれない。

    「――待ってくれんでも、ええんだがや」

     相談を受けたタカシは、しかし、あっさりと言った。

    「シンジ。わしらに必要なんはの、レンが完全に治ることやない。レンが、自分の意志で、一回だけ、キョウヤに逆らうことよ。命令の鎖は、一箇所切れたら、全部が疑わしゅうなる。六十人の兵隊が『あれ、頭は本当は、どう思うとるんだがや』と思った瞬間、あの人間工場は、機械やのうて、人間の集まりに戻るんだがや」

     もう一本の鎖――写真の方は、レイジが糸口を見つけた。

    「写真の弱点は、写真であることだ」

     洗車場の休憩室で、レイジは言った。

    「数千枚の写真。ネガ。それは物だ。物は、どこかに保管されている。キョウヤは、あの写真を定期的に更新している。人質の効き目は、写真の新しさで決まるからだ。……つまり、撮影係がいて、現像所があり、保管庫がある。物と、人の、流れがある。流れがあるものは、追える」

     撮影係は、三週間の尾行で割れた。黒狼會の外の人間だった。市内の興信所――浮気調査を看板にする、三人だけの小さな事務所。所長は元カメラマンで、腕は確かだが、博打の借金でキョウヤに首根っこを掴まれていた。

    「……ここでも、そうか」真司は唸った。「キョウヤの組織って、忠誠心で動いてる人間が、ほとんどいないんですね。借金、弱み、家族。全員、鎖で繋がれてるだけだ」

    「そうよ。ほんで、それがあいつの強さであり――唯一の弱さでもあるんだがや」タカシがニヤリと笑った。「鎖の兵隊は、裏切らん。だけど、忠義の兵隊とちごうて、鎖が外れた瞬間、一秒も戦わん。……さて、シンジ、レイジ。ここからが、知恵の絞りどころだがや。興信所の所長の鎖、どうやって外したろうかの」

     答えは、遺失物係が出した。

     タカシは、ある日の午後、窓口に来た所長――偶然を装って呼び出したのだが――に、落とし物の傘を渡しながら、世間話の顔で、二つのことを言った。一つ。あんたの借金の債権は、回り回って、今はキョウヤのダミー会社が持っとる。つまりあんたは、博打の借金やのうて、恐喝組織の共犯として、帳面に載っとる。二つ。近いうちに、その帳面ごと、全部がひっくり返る日が来る。その日、あんたが「脅されて撮らされとりました」の側におるか、「進んで手伝うとりました」の側におるかは――今日からのあんたの、心がけ次第だがや。

     一週間後、興信所の所長から、遺失物係に「落とし物」の届けが出た。

     中身は、ネガの保管場所の見取り図と、更新スケジュールの写しだった。

    九 王への手紙

     レンへの接触は、真司が、一人でやった。

     タカシもレイジも顔が割れすぎている。それに、これは真司の仕事だと、真司自身が決めていた。人形にされた王に、最初に届けるべきものが何か。それを真司は、三年前から――いや、二〇二六年から、ずっと知っていた気がした。

     缶詰工場の世話係の少年、ユウタ。真司は数ヶ月かけて、この少年と顔見知りになった。港近くの自販機で、ラーメン屋で、ゲームセンターで。急がず、脅さず、ただの「近所のあんちゃん」として。少年たちは、飢えていた。銭にではない。鎖の外の人間との、普通の世間話に、だ。

     手紙は、三晩かけて書いた。

     一晩目に書いたものは、レイジに破られた。「情報が多すぎる。ユウタが道中で捕まったら、こちらの手の内が全部割れる」。二晩目のものは、タカシに破られた。「理屈が多すぎる。ヤク漬けの人間はの、シンジ、長い理屈が読めん。読めるんは、勘定と、情だけだがや」。

    「勘定と、情……」

    「そうだがや。ほいで、あの男の勘定いうたら、一個しかなかろうが」

     真司は、幕間の夜にユウタから又聞きした、あの言葉を思い出した。五百と十二日。負けた日から、毎日数え続けている勘定。三晩目、真司は、その数字から書き始めた。書き上がったものを、タカシは黙って二度読み、レイジは一度読んで、二人とも、何も直さなかった。

    「……一個だけ、訊くぞ、シンジ」タカシが言った。「『王は盤の上で生きとってくれ』。これはの、優しい文句に見えて、酷な注文だがや。助けが来ると知らされた人間はの、知らされる前より、一日が長うなる。それでも書くんか」

    「書きます」

     真司は、即答した。

    「希望のない五百日と、希望のある五百日なら、どっちも地獄でも、後の方がいい。……俺、それだけは、確かめたことがあるんです。三ヶ月、既読をつけたまま返事をしなかった側として。あの人には、俺みたいな待ち方を、させたくない」

     タカシとレイジは、顔を見合わせた。二人とも、それ以上は何も訊かなかった。

     そしてある夜、真司はユウタに、一通の手紙を託した。

    「……あんた、何モンなんだよ。これ、頭に渡したら、俺、殺されるかも」

    「読んでから決めていい。宛名も差出人もない。ただの紙だ。やばいと思ったら、捨てろ」

     手紙に、真司はこう書いた。

    『五百と十二日、と数えていた人へ。今日で、何日になりましたか。
     あなたの勘定は、間違っていません。利息をつけて返す相手も、間違っていません。
     ただ、一人で返せる勘定ではない。
     あなたの鎖は、二本とも、外し方が見つかりました。写真の蔵の場所も、分かっています。
     王が動く必要はありません。王は、盤の上で、あと少しだけ、生きていてください。
     詰みの形が見えた日に、もう一度、手紙を出します。
     ――あなたに単車の後ろに乗せてもらったことのある若い衆は、一人残らず、まだあなたの兵隊です。鎖の兵隊ではなく、あなたの兵隊です。それだけは、外から見ていて、はっきり分かる。
     どうか、数え続けていてください。』

     返事は、二週間後、ユウタ経由で届いた。

     皺くちゃの、煙草の箱の裏紙だった。震える字で、たった二行。

    『五百と二十六日。
     まだ、数えとる』

     その二行を、真司は、タカシとレイジに見せた。

     タカシは何度も読み返し、それから、天井を仰いで、太い息を吐いた。

    「……生きとる。王は、まだ、生きとるわ」

     その夜、タカシとレイジが引き上げたあと、真司は一人、アパートの畳に寝転がって、天井の染みを見ていた。

     「五百と二十六日」。レンがそれだけの日数を、一人で数え続けてきたという事実の重さが、今さら胸に落ちてきた。数えるというのは、諦めていない証拠だ。同時に、数えるしかなかったという、絶望の証拠でもある。

     ――俺は、美咲が死んだ日を、数えていただろうか。

     考えて、真司は苦く笑った。数えていない。数える資格すら、自分にはないと思っていたからだ。ただ、日付を見るたびに、心のどこかが軋むだけだった。それは「数える」こととは違う。数えるという行為には、まだ、未来に向かって何かを続ける意志が要る。レンは、絶望の底で、その意志だけは、手放さなかった。

     ――負けるなよ、レン。

     顔も知らない相手に、真司は、暗い天井に向かって、そう呟いた。

     このアパートの畳の上で、真司が何度もそう呟いてきた祈りの一つが、いつか本当に、盤の上の駒を動かすことになる。だが、その夜の真司には、まだ、それを知る術はなかった。

    十 水路を濁す

     冬から春にかけて、三人の連合軍は、三本の水路に、順番に毒を落としていった。

     最初の標的は、サントスだった。

     仕掛けは、単純な餌だ。サントスがかねて苛立っていた「国内市場」の件。タカシの情報網が、南米側の下っ端に、ある噂を吹き込んだ。――キョウヤは国内市場を「開かない」のではない。別の売り主のために、取ってあるのだ。香港の張と、水面下で国内独占の密約がある、と。

     噂には、餌の芯が要る。芯を用意したのは、真司だった。

     張のダミー会社の一つが、名古屋市内の雑居ビルを買っていた。それ自体は、ただの不動産投資だった。だが真司は、その売買記録の写しを、登記簿から合法的に取り寄せ、「販売拠点の準備」という解釈のメモを添えて、サントス側に流れるように仕込んだ。

     紙は、嘘をついていない。嘘をつくのは、紙を読む人間の疑心暗鬼だ。

    「――卑怯なやり口だがやう、我ながら」

    「敵さんに教わったんですよ。悪魔の取引には、契約書がいらないって」

     サントスは、キョウヤに直接、問い質したという。キョウヤは一笑に付した。論理的に、完璧に、疑いを否定した。だが、疑心暗鬼というのは、論理で消えるものではない。むしろ、否定が完璧であるほど、太る。以後、サントスの洗浄網を通る金の流れに、わずかな「保険」――抜き取りが混じり始めたのを、真司の紙の監視網は見逃さなかった。

     二本目の水路、張には、逆のことをした。

     毒ではなく、真実を届けたのだ。

     オリエンタルの蘭経由で、張の耳に、一つの事実が入るようにした。三年前のあの夜、キョウヤが電話一本で張の面子を叩き潰した、あの香港の本家の老板が――キョウヤと直接、新しい取り決めを交わした、という事実。返還後の香港を見据え、キョウヤのインフラに本家が直接出資する。名古屋の「支店長」を、いずれ本家直轄に切り替える。つまり、張は、用済みになる。

     これは、真司たちの創作ではなかった。蟻の巣掘りの紙の中から出てきた、本物の流れだった。キョウヤの側から見れば、合理的な統合に過ぎない。だが、九龍の海で殺し合いを勝ち抜いてきた男にとって、それは、二度目の――そして、我慢のならない――面子の抹殺だった。

     三本目、ボリスは、毒も真実も要らなかった。

    「ロシア人はの、単純で、一番手強い」タカシは言った。「銭で動く男は、もっと大きい銭でしか動かん。わしらに、そんな銭はあらせん。……せやから、ボリスには何もせん。ただ、天気を教えたるだけよ」

     天気とは、真司の持つ「未来」のことだった。

     ソ連という国家の、余命。真司の記憶にある崩壊の順序を、この時代の公開情報――新聞の国際面、経済誌、短波放送の断片――と突き合わせ、「精度の高すぎる分析」として、ボリスの耳に届く筋に流した。本国の混乱は、加速する。武器庫の蛇口は、まもなく誰にも管理できなくなる。つまり、ボリスの商品の卸値は、暴落する。今キョウヤと結んでいる長期の取引条件は、数ヶ月後には、ボリスにとって大損の固定契約になる――。

     ボリスは、動かなかった。表面上は。

     だが春の終わり、ナホトカ航路の「機械部品」の入荷が、初めて、理由なく一便、飛んだ。契約条件の「再交渉」を、氷の目の男が切り出したのだ。

     城の水路は、三本とも、確かに濁り始めていた。

    「……よし。よし、よし」

     みなと屋の奥の席で、タカシは三年ぶりに見るような、晴れた顔で笑った。

    「敵さんの城の中で、今、算盤の音が鳴りっぱなしのはずだがや。外様の綻び、レンの様子、大和ルートの後始末。いかな化けもんでも、盤の全部には手が回らんようになってきよる。……シンジ、レイジ。次の一手で、王手までいくぞ。写真の蔵よ。あれを潰せば、六十人の鎖が外れる。レンが立つ。兵隊が人間に戻る。そこへ、大和の恐喝の証拠を検察に直当てして、正面から令状だがや」

     写真の蔵――ネガの保管庫は、興信所の所長の「落とし物」により、場所が割れていた。市内の貸金庫ではない。キョウヤらしい場所だった。廃業した写真館。表向きは廃屋、実際は、湿度管理の生きた、完璧な保管庫。

     決行日は、六月の第一金曜と決まった。興信所の更新スケジュール上、ネガの全量がその夜、写真館に揃う。

     作戦は、三段構えだった。レイジが保管庫の錠前と警備を無力化する。真司が、ネガの全量を運び出す。タカシは外で、万一の際の「警察」として控える。奪ったネガは、複製を取った上で、現物をレンに届ける。鎖の主導権を、王の手に返すのだ。

    「……一個だけ、気になっとることがある」

     決行前夜、タカシは、珍しく、慎重な顔で言った。

    「ここまでの半年、水路に毒を落として、綻びも出た。だけど、の。キョウヤ本人の手が、一度も、こっちに伸びてきとらんのだがや。枝村の一件では、県警の中の情報網まで使うてわしらの動きを潰した男が、この半年、わしらに指一本、触れてこん。……静かすぎる」

    「気づいてない、ってことは」

    「あるかい。わしらはとっくに、あいつの盤面に載っとる。載っとって、放置されとる。……なんでだがや、と考えると、答えの候補が、一個しか思いつかんのよ」

     タカシは、煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐いた。

    「――わしらの動きが、あいつの盤面の、邪魔になっとらん。あるいは最悪、役に立っとる。そういうことだがや」

     真司の背中を、嫌な汗が伝った。

     半年間の、水路への毒。外様の綻び。あれが全部、キョウヤの盤面の上で「想定の内」だったとしたら。あるいは、もっと悪く――外様の三人を切り捨てる口実として、利用されていたのだとしたら。

    「……タカシさん。決行、延ばしますか」

    「いいや」タカシは、首を振った。「延ばさん。罠でも、行く。……ええか、シンジ。罠かもしれん、で足を止めとったら、敵の思う壺よ。罠なら罠で、罠ごと食い破る。それが狂犬の流儀だがや。ただし、段取りは変える。わしも、中に入る」

    十一 写真館

     六月の第一金曜。深夜一時。

     廃業した写真館《スタジオひかり》は、市の東部、シャッター通りと化しつつある商店街の角にあった。色褪せた看板。埃の積もったショーウィンドウには、日焼けした七五三の見本写真が、まだ飾られていた。

     レイジの仕事は、完璧だった。裏口の錠前は三十秒で沈黙し、警報線は最初から切ってあるのと同じように処理された。三人は、暗い店内を抜け、地下へ降りた。

     そして、地下の保管庫の扉を開けた瞬間、真司は、この作戦の成功と失敗を、同時に理解した。

     ネガは、あった。

     壁一面のスチール棚に、防湿ケースが整然と並び、ラベルには番号と日付。興信所の見取り図の通りだった。だが、部屋の中央の机の上に、それは、置かれていた。

     チェスの駒。白のキング。

     その下に、一枚のメモ。几帳面な、細かい字。

    『どうぞ、お持ちください。
     保管費用が浮いて、助かります。
     ――そのネガは、先月から、ただの紙です』

    「……どういう、ことだがや」

     タカシの声が、低く軋んだ。レイジが素早くケースの一つを開け、ネガをライトに透かし、真司に渡した。真司は、見た。確かに写っている。若い衆の家族。だが、日付は、どれも古い。最新の更新分が、ない。

     真司の頭の中で、半年分の情報が、恐ろしい速度で並び替わった。

     先月から、ただの紙。つまり、人質のシステムは、先月、別のものに置き換わった。写真より強い鎖に。なぜ置き換えた? こちらの動きを読んでいたから、だけではない。写真という「物」の鎖は、奪われうるからだ。では、奪われない鎖とは、何だ。物でない人質。持ち出せない弱み。

    「……まさか」

     真司の口から、掠れた声が漏れた。

    「タカシさん。若い衆自身だ。写真の代わりに、キョウヤは、若い衆一人一人に――罪を、踏ませたんだ。先月から。共犯の記録。それなら、奪えない。本人の中にあるから」

     その時だった。

     地上から、音がした。

     シャッターの降りる音。一つではない。商店街の、四方から。続いて、複数の車のエンジン音が、写真館を、静かに囲んだ。

    「……罠ごと食い破る、いうたの、わしは」

     タカシが、拳銃を抜きながら、犬歯を見せた。

    「有言実行と、いこうかい」

     地上に戻った三人が見たのは、しかし、突入部隊ではなかった。

     写真館の正面、街灯の下に、一台の黒い車が停まり、その前に、男が一人、立っていた。

     眼鏡。細身。両手は、コートのポケットの中。護衛の姿は、少なくとも見える範囲には、ない。

     神崎恭弥は、三人に向かって、丁寧に、頭を下げた。

    「――はじめまして、のはずですね。直接お会いするのは。大滝刑事。風間さん。それから……星野真司さん」

     真司の心臓が、跳ねた。名前を、知られていた。

    「三年半、楽しませていただきました」キョウヤの声は、静かで、礼儀正しく、そして、体温がなかった。「特にこの半年の、水路への工作。見事でした。サントスの抜き取りの誘発。張への真実の投下。ボリスへの……あの天気予報」

     キョウヤは、そこで初めて、真司を、まっすぐに見た。

    「あの天気予報だけは、少し、驚きました。あの精度は、分析では出ない。……あなた、どこで天気を覚えたんですか」

    「…………」

    「まあ、いいでしょう。本題です」キョウヤはポケットから手を出した。武器ではなかった。一枚の、書類だった。「お三方の工作のおかげで、外様の三人を、予定より早く整理する口実ができました。感謝しています。ですが、ここから先は、私の工期に障ります。ですので、ご提案を」

     キョウヤは、書類を、ひらりと掲げた。

    「大滝刑事。あなたの弟さん――失礼、お兄さんでしたか。陣内豪の、仮釈放の査定書類です。私の顧問弁護士が、少し、お手伝いできる。悪い話ではないでしょう。それから風間さん。九頭龍会本部は、あなたの処遇の見直しを検討する用意がある。……そして星野さん。あなたには」

    「――いらん」

     タカシの声が、夜の商店街に、太く響いた。

    「取引はいらん、言うとるんだがや、ガキ。……おみゃあの取引はの、全部、人の一番柔らかいとこに値札を貼る取引だがや。枝村もそうやった。レンもそうやった。ほんでおみゃあは、値札さえ貼れば、人間は必ず売る、と思うとる。……その帳面にの、坊主。一個だけ、載らんもんがあるんだがや」

    「……ほう。何ですか」

    「教えたるかい、たわけ。自分で調べえ。三年半かけてわしらを観察して、まだ分からんのなら、おみゃあの負けは、もう決まっとるわ」

     沈黙が、流れた。

     キョウヤは、しばらくタカシの顔を見ていた。それから、真司が初めて見る表情をした。ほんのわずかに、眉根が寄ったのだ。理解できない数式を前にした、学生のような顔。それは一瞬で消え、いつもの無風の顔に戻った。

    「……そうですか。残念です」

     キョウヤは、車に乗り込みながら、振り返らずに言った。

    「では、盤を進めます。……ああ、それから、大滝刑事。ご忠告を一つ。あなたの部下の情報網の中に、私の駒が三つ、混ざっています。どれか、当ててみてください。当てられるまで、そちらの手番は、来ませんよ」

     黒い車は、静かに走り去った。

     残された三人は、長いこと、無言だった。ネガの束は、腕の中で、ただの紙の重さをしていた。

    十二 三つの駒

    「――三つ、だと」

     その夜、中川区のアパートに戻った三人は、卓袱台を囲んで、長いこと黙っていた。ネガの束は、押し入れの天袋に上げた。奪還は成功した。だが、勝った気のする人間は、一人もいなかった。

    「はったりですよ」と真司は言った。言いながら、自分の声に力がないのが分かった。「俺たちを疑心暗鬼にさせるための」

    「はったりならの、シンジ。数を言わん」

     タカシは、湯呑みの冷めた茶を、一息に飲んだ。

    「『何人か混ざっとる』なら、はったりよ。『三つ』言うたんは、本当に三人おって、しかもその三人が誰か、わしに当てさせたいからだがや。……当てるまで、こっちは網が使えん。網が使えん間に、あっちは盤を進める。ようできとる」

    「情報網って、何人いるんですか」

    「六十と、四人」

     レイジが、静かに口を開いた。壁に背を預け、義足代わりの装具を外した右足を、伸ばしている。

    「大滝さん。絞り方は、一つしかない」

    「分かっとる。餌の色を変えるんだら」

     翌日から、タカシの「遺失物係の戦争」は、陰湿の極みに入った。六十四人の情報提供者を、まず地区と筋で八つの束に分ける。それぞれの束に、微妙に色の違う偽情報を流す。ある束には「ネガは焼いた」。ある束には「ネガは県警の金庫」。ある束には「ネガの他に帳簿も出た」。八色の餌を撒いて、キョウヤ側の動きがどの色に反応するかを、ひたすら待つ。

    「釣りだがや、シンジ。それも、鮒釣りよ。派手なルアーはいらん。いるのは、辛抱だけだがや」

     最初の当たりは、二週間後に来た。

     張のダミー会社の一つが、県警の会計課OBに接触した――「金庫」の色に反応したのだ。金庫の色を流した束は八人。八人を今度は四色に割る。三日で一人に絞れた。錦三丁目の雑居ビルの管理人。タカシが十年使った、古い口だった。

    「……あのおっさんかい」

     タカシは、名簿のその名前を、赤鉛筆で丸く囲った。怒鳴りも殴りもしなかった。ただ、囲った。

    「消すんですか。網から」

    「たわけ。一番ええ口になったんだがや、今。裏切っとると分かっとる口はの、こっちの好きな嘘を、向こうの一番深いとこへ運んでくれる。……鮒が鯉になったんよ」

     二人目は、ひと月かかった。港湾事務所の日雇い頭。三人目は――見つからなかった。夏が来ても、秋が来ても、三人目の駒だけは、どの色にも食いつかなかった。

    「おらんのじゃないですか、三人目なんて」

    「おる」

     タカシは、断言した。

    「食いつかん、いうことはの、シンジ。餌のいらん駒、いうことだがや。銭でも弱みでも動いとらん。……そういう駒が、一番おそがい。ほんで、そういう駒はの、大抵、一番近くにおるんだがや」

     その言葉を、真司は、もっと重く受け取るべきだった。

     後になって、何百回も思い返すことになる。タカシは、たぶん、あの時点で気づき始めていた。三人目の正体にも。それが意味するものにも。だから、あの秋のタカシは、真司に、あれほど急いで、あれほど多くのものを叩き込もうとしたのだ。

    「シンジ。帳簿の読み方、もう一遍さらうぞ」「シンジ。検事に物を持ち込む時はの、順番があるんだがや」「シンジ。わしの網の、束ね方を教えたる」

    「なんか最近、詰め込みますね。試験前ですか」

    「たわけ。……犬もの、いつかは、猟師にならないかんのだがや」

     その横顔を、真司は、覚えている。夕方の遺失物係の窓口で、忘れ物の傘の骨を、意味もなく直しながら、タカシは笑っていた。いつもの、獣の笑いではなかった。もっと静かな、置き土産を確かめるような笑いだった。

     その晩、真司は、眠れないまま、一人で錦三丁目まで歩いた。

     《Bar ノクターン》の扉を開けると、いつもと同じ、古いジャズのレコードが流れていた。カウンターの奥、一番奥の止まり木には、今夜も、支倉周平が座っていた。グレンリベットのグラス。氷なし。水はチェイサー。三年見てきて、真司は、この老人が注文を変えたところを、一度も見たことがなかった。

    「――いらっしゃい」

     マスターが、真司の顔を見て、何も訊かずに、水割りを一杯、出した。すっかり顔なじみになっていた。

     真司は、老人から三つ離れた席に座り、グラスを見つめた。「三人目の駒」の話が、頭から離れなかった。**餌のいらん駒。銭でも弱みでも動いとらん。一番おそがい、一番近くにおる。**タカシの声が、耳の奥で、何度も繰り返された。

    「……あの」

     気づくと、真司は、老人に、話しかけていた。答えが返ってこないことは、分かっていた。それでも、誰かに言葉を置いていきたい夜が、あった。

    「シューさん。三十年、同じ酒を、同じ席で飲んでるって、タカシさんに聞きました。……それって、しんどくないですか。毎日、同じことの繰り返しって」

     老人は、答えなかった。グラスを、静かに、傾けただけだった。

     だが、しばらくして、老人は、初めて、真司の方を向いた。そして、低く、掠れた声で、三十年ぶりに近い言葉を、マスターにだけ聞こえるような小ささで、呟いた。

    「――変わらんもんが一個あるとな、若いの。変わっていくもんの、変わり方が、よう見えるんだがや」

     それだけ言うと、老人は、また、グラスに視線を戻した。マスターが、驚いた顔で、老人を見た。あとで聞いた話では、支倉が客に、自分から言葉を発したのは、この数年で、初めてのことだったという。

     真司は、その一言を、しばらく、噛みしめていた。

     ――変わらんもんがあると、変わっていくもんの、変わり方が見える。

     タカシが言った、「一番近くにおる駒」という言葉と、その一言が、真司の頭の中で、静かに、重なった。近くにいる誰かの、小さな変化。いつもと違う一言。いつもと違う沈黙。それを見分けるためには、自分自身が、何か一つ、変わらないものを、持っていなければならない。

     真司は、水割りを飲み干し、代金を置いて、店を出た。

     冬の錦三丁目は、まだネオンで煌々と光っていたが、その光の底が、真司には、少しだけ、薄く見えるようになった気がした。

    十三 狙撃手

     冬の初め、名古屋港に、一人の男が入った。

     男の入国を、日本の誰も、把握していなかった。パスポートはベルギー発行の偽造。職業欄は「農業機械の技師」。関空から陸路で入り、栄のシティホテルに三泊し、それから消えた。

     男の存在に最初に気づいたのは、皮肉なことに、裏の世界の側だった。

    「――ソアラの兄さん。妙な噂を聞いた」

     オリエンタルのホステス経由で、張からの言伝てが届いたのは、十二月の頭だった。半年前の「水路を濁す」の一件以来、張は、キョウヤへの不信を隠さなくなっていた。敵の敵は、まだ味方ではない。だが、話はする。そういう距離だった。

    『香港の古い伝手から、照会が来た。日本での「一仕事」の相場を訊かれた。訊いてきたのは欧州の口入れ屋。仕事の中身は言わなかったが、口入れ屋の格で分かる。あれは、政治家か、警察の首を獲る時に使う筋だ。……あんたらの街で、誰かが、一番高い弾を買った』

    「一番高い、弾……」

     アパートの卓袱台で、真司は、その言伝てのメモを、何度も読み返した。

    「タカシさん。これ……」

    「わしだらの」

     タカシは、こともなげに言った。どて煮の鍋から、蒟蒻を突きながら。

    「順番から言うて、そうなる。ネガは取り返された。水路は三本とも濁った。レンの検体は質が落ちた。張は疑心暗鬼。サントスは苛立っとる。……盤の上で、あの坊主の駒は、この一年で、ようけ死んだ。ほんでの、シンジ。ああいう頭のええたわけが、盤面で詰まされかけた時、最後にやることは、決まっとるんだがや」

    「……盤の、外から手を出す」

    「そうよ。盤ごと、ひっくり返すんだがや。わしを殺るんは、報復やない。あれの中では、たぶん『工事』なんよ。工程表の遅れを取り戻す、只の工事だがや」

    「なんで、そんな平気な顔してられるんですか」

     真司の声が、裏返った。タカシは、蒟蒻を飲み込んで、湯呑みを置いた。

    「平気なわけ、あるかい」

     静かな声だった。

    「わしはの、シンジ。死ぬんは、そがい怖うない。この稼業を選んだ日から、畳の上は諦めとる。怖いんはの――わしが死んだ後、この街に、わしの代わりがおらんことだった。……だった、よ。過去形だがや」

    「……」

    「気づいとらんのか。この三年半での、お前は」

     タカシは、そこで言葉を切って、照れ隠しのように、鍋の火を強めた。

    「――まあ、ええ。ほれ、食え。冷める」

     警護は、できる限りのことをした。レイジが動線を組み直し、タカシの通勤経路は毎日変わった。車はレイジの旧い伝手で防弾ガラスに換えた。真司は、タカシの行く先々で、半年前より三段階も上がった「見る稽古」の全てを注ぎ込み、屋上を、窓を、路上の車を、舐めるように見張った。

     年が明けた。平成四年。何も起きないまま、一月が過ぎ、二月が過ぎた。

    「……読み違いですかね。弾の買い手は、別の獲物だったのかも」

    「かもしれんの」

     三月の第一金曜。夕方から、冷たい雨が降った。

     その日は、ジンナイの仮釈放の、内示が出た日だった。「兄貴が四月に出る」と、タカシは珍しく、本当に嬉しそうに笑って、みなと屋で真司とレイジに、ビールを一本ずつ奢った。「出たら三人で――いや、レンのたわけも入れて四人での、どて煮で一杯やるんだがや。約束しとるんよ、兄貴と。ガキの頃からの、下らん約束だがや」

     瓶ビールの栓を、レイジが慣れた手つきで開けた。三人分、コップに注ぐ。乾杯の音頭は、意外にもレイジが取った。

    「――兄貴の出所に」

    「兄貴の出所に」

     タカシは、コップを一気に呷った。頬が、少しだけ赤い。この男が酒で頬を染めるのを、真司は初めて見た気がした。

    「なあ、シンジ。兄貴とわしはの、双子みたいなもんだった。片方が極道に、片方が警察に行ったんは、正直、コインの裏表みたいなもんよ。運が半分、選んだんが半分。……だけど、あん時、コインの裏を選んどったら、わしは今頃、兄貴の代わりに、こっち側で誰かを殴っとったかもしれん」

    「後悔、してるんですか」

    「まさか」タカシは笑った。「わしは今の自分が気に入っとる。ただ、兄貴の方も、たぶん今の自分が気に入っとるだら、いうんは分かる。……そういう男よ、あれは」

     レイジは、黙って、二人のやり取りを聞いていた。自分にはもう、そういう風に笑い合える「兄弟分」がいない。組の看板を捨てた日、レイジは、そういう温かさも一緒に手放したつもりだった。だが今、この安っぽい定食屋の卓で、二人の男の隣に座っていることが、思いのほか、悪くなかった。

    「――四月、楽しみだな」

     レイジがぽつりと言うと、タカシは驚いた顔をして、それから、破顔した。

    「おう。おう、レイジ! お前もそう思うか! よっしゃ、もう一本開けようや!」

     その夜、三人が定食屋で交わした約束の温度を、真司は生涯、忘れないことになる。

     その帰り道だった。

    十四 雨の交差点

     みなと屋を出たのが、午後九時十分。

     雨は、上がりかけていた。アーケードの切れ目から覗く夜空に、月が滲んでいた。タカシは機嫌がよく、珍しく鼻歌など歌っていた。古い演歌だった。音程は、絶望的に外れていた。

    「タカシさん、それ、何の歌ですか」

    「知らんのか。ええ歌だぞ。兄貴の十八番での――」

     交差点の信号が、青に変わった。

     真司は、その瞬間のことを、コマ送りで覚えている。

     最初に気づいたのは、水溜まりだった。交差点の向こう、路上駐車の白いバンの下の水溜まりに、一瞬、赤い点が走った。見る稽古で叩き込まれた真司の目が、意味を理解するより速く、身体を動かした。

    「――タカシさんっ!!」

     突き飛ばした。突き飛ばせた、と思った。

     最初の銃声は、聞こえなかった。音より先に、タカシの左肩が弾け、真司の視界に赤い霧が散った。二発目からは、音がした。乾いた、工事現場の杭打ちのような音が、夜の交差点に、正確な間隔で響いた。

     防弾ガラスも、変えた動線も、意味がなかった。狙撃手は、車も家も狙わなかった。三ヶ月かけて、タカシという男の「変えられない習慣」を、ただ一つだけ見つけ出していた。月の頭の金曜、みなと屋。弟分に飯を食わせる夜。それだけは、タカシは、変えなかったのだ。

    「タカシさん! タカシさんっ!!」

     真司は、アスファルトの上で、タカシの身体を抱えた。重かった。人間の身体が、こんなに重いものだと、真司は知らなかった。雨上がりの路面に、黒い血が、恐ろしい速さで広がっていく。

     レイジが、どこかで撃ち返している。ベレッタの銃声が、二挺分、夜を裂いている。バンが急発進し、タイヤの悲鳴が遠ざかる。全部、真司の耳には、水の中の音のように、遠かった。

     ――だが、レイジの耳には、遠くなかった。

     白いバンが、対向車線へ強引に切れ込み、雨に濡れた路面へ、白煙を吐いて消えていく。レイジは、路肩に停めてあった真司の白いソアラへ、右足を引きずりながら跳び乗った。キーは、いつも真司がサンバイザーに挟んでいる。四年の付き合いが、こういう時に役に立った。

     エンジンが咆哮し、タイヤが路面を掴んだ。信号無視。対向車のクラクションが、悲鳴のように重なって、後方へ吹き飛んでいく。

     速度計の針が、みるみる跳ね上がる。八十、百、百二十。

     バンは、環状線を北へ、逃げるように疾走していた。雨に濡れた路面を、ヘッドライトの光が、白く乱反射する。追いつくたび、バンの助手席の窓が下がり、黒い銃口が突き出された。

     パン! パン! パン!

     拳銃の火花が、闇の中に、何度も瞬いた。フロントガラスの右端に、蜘蛛の巣状のひびが、一発ごとに広がっていく。ルームミラーが、弾かれて吹き飛んだ。

    「――安い賭けだ」

     レイジは、独りごちながら、ハンドルを切った。対向車線から歩道へ、歩道から再び車道へ。街路樹の枝が、フロントガラスを掠め、街灯の柱が、紙一重で車体の横を流れていく。バンの死角を、二十年の勘だけで拾っていく。

     パン! ――また、一発。今度は、サイドウィンドウが砕けた。ガラスの破片が、雨と一緒に、車内へ降り注いだ。

     レイジは、片手でハンドルを握ったまま、もう片方の手で、ベレッタを窓の外へ突き出した。

     パン! パン!

     狙わない。リズムだけで、二発。

     バンの後輪の一つが、火花を散らして弾け飛んだ。

     バンは、大きく蛇行し、そのまま速度を殺せず、高架下の支柱に、右前部から、鋼鉄の悲鳴とともに突っ込んだ。鉄と鉄が激突する、途方もない轟音が、雨の夜を一撃で切り裂いた。

     レイジは、ソアラを路肩に寄せ、降りた。右足を庇いながら、煙を上げるバンに近づく。運転席は、もぬけの殻だった。助手席側のドアが開いたまま、雨に打たれている。狙撃手は、衝突の瞬間に、既に飛び降りていたのだ。プロの、最後の判断だけは、速かった。

     車内に残されていたのは、狙撃銃のケースと、灰皿に押しつぶされた煙草の吸い殻が一本。銘柄は、外国製。それだけが、レイジの手に残った、今夜の収穫だった。

    「……逃げ足だけは、一人前か」

     レイジは、煙草の吸い殻を、ハンカチで拾い上げ、上着の内ポケットに収めた。それから、雨の中、来た道を、ソアラで引き返した。交差点には、既に赤色灯が渦を巻き、野次馬の輪が、遠巻きにできていた。

    「……シン、ジ」

     タカシの手が、真司の襟を掴んだ。万力のような、いつもの力だった。それが、真司には、何より恐ろしかった。この期に及んで、この男の手は、まだこんなに強い。

    「喋らないでください、救急車、すぐ――」

    「聞け。……一遍しか、言わん」

     血の泡と一緒に、タカシは言った。

    「三人目の、駒。……分かった。ようやっと、分かったんだがや。ネガの、天袋は、もう割れとる。……動かせ。今夜だがや。ほんで――」

    「タカシさん、いいから……!」

    「ほんで、の。シンジ」

     タカシは、そこで、笑った。

     血だらけの顔で、いつもの、獣の笑いを、した。

    「……ええ犬に、なったのう、お前は。だがの、犬は、もう終いだがや。明日から、お前は――」

     襟を掴んだ手から、ふ、と力が抜けた。

     抜けた手が、真司の胸ポケットに、何かを、押し込んだ。それだけの動作に、この男の最後の全部が使われたのだと、真司は後で知った。

    「タカシさん。……タカシさん!! おい、嘘だろ、おい……!!」

     救急車のサイレンが、遠くで生まれて、近づいてきた。傍らに立つレイジが、無言で、真司の肩に手を置いた。野次馬が、遠巻きに集まり始めた。誰かが「刑事さんだ」と言った。誰かが「大滝さんだ」と言った。みなと屋のおばちゃんが、店から裸足で走ってきて、道の真ん中で、へたり込んだ。

     大滝タカシ、四十五歳。

     愛知県警の記録には、「遺失物係勤務中の警部補、退勤途中に凶弾に倒れる」と、そう残った。

     真司の胸ポケットには、血に染まった警察手帳が、残った。

     翌日、レイジは、ひびの入った白いソアラを、《加藤自動車鈑金》まで運んだ。

     加藤は、フロントガラスの、蜘蛛の巣状のひびを一目見て、それから、運転席のレイジと、その右足の装具を見た。何かを察したような顔をしたが、口には出さなかった。

    「――事故ったのか」

    「事故った」

    「そうか」

     それだけだった。加藤は、ガラスの型番を確かめ、無言で工場の奥へ姿を消した。三日後、ソアラは、傷一つない姿で戻ってきた。伝票には、簡潔に「フロントガラス交換」とだけ書かれていた。事故の状況も、日時も、記載はなかった。

    「――加藤の親父はの、シンジ」レイジは、後日、真司にそう伝えた。「本当に、何も訊かんかった。……大滝さんの言った通りだった」

     白いソアラは、こうして、何事もなかったような顔で、再び名古屋の夜を走れるようになった。もっとも、この車が本当の意味で無傷ではいられなくなる夜は、まだこの先に、もう一度だけ、待っていたのだが。

    幕間 三

     同じ夜。窓が一つしかない、あの部屋。

     神崎恭弥は、チェス盤の前に座っていた。

     盤の上から、白のクイーンを、指で摘み上げる。しばらく眺め、盤の脇に、ことりと横たえた。工程表の遅れは、これで取り戻せる。障害物の除去、完了。数式は、また滑らかに流れ始める。そのはずだった。

     だが、キョウヤの指は、次の駒に、伸びなかった。

     脳裏に、あの夜の商店街が、再生されていた。『その帳面にの、坊主。一個だけ、載らんもんがあるんだがや』。あの男は、結局、答えを言わずに死んだ。人質の効かない男。値札の貼れない男。損得の帳簿の、外側で動く男。

    「……変数が、残った」

     キョウヤは、呟いた。

     大滝タカシは、消えた。だが、あの男が四年かけて作った「損得で動かない何か」は、消えたのか。それとも、あの頼りない顔の若い男の中に、移し替えられたのか。

     キョウヤは、盤の隅の、白いポーンを見た。

     四年、観察してきた。最初は、路地で腰を抜かして泣いていた、ただの雑音。それがいつの間にか、紙の海から枝村を釣り上げ、水路に毒を落とし、レンの鎖に手をかけるまでになった。成長曲線が、彼の知るどのモデルにも、当てはまらない。まるで、この時代の外側から来た人間のように、この街の十年後を知っているかのように、動く。

     ポーンは、盤の最終列に届いた時、何にでも成る。

    「……成る前に、潰すべきか。それとも」

     キョウヤは、しばらく考え、それから、部屋の隅の電話機を見た。

     受話器は、取らなかった。代わりに、白いポーンを摘んで、クイーンの倒れている隣に、そっと、立たせた。

     彼自身、その手の意味を、まだ言語化できていなかった。二十四年の人生で、初めての感覚だった。数式の答えを知りたいという欲求と、よく似た、しかし決定的に別の何か。

     ――対戦相手は、ずっといなかった。

     その事実が、この夜、初めて、空腹に似た音を立てた。

     ――対戦相手が、いなかったわけでは、本当はない。

     キョウヤの脳裏に、めったに開けない抽斗の底から、古い記憶が一枚、滑り出た。中学の、数学の教師。地方の、公立の、何の変哲もない学校。授業の後、黒板に残ったままの、誰も解けなかった発展問題を、一人で解いていた少年に、その教師は言った。

    「神崎。お前、頭がいいな。もったいないよ、こんな学校だがや」

     もったいない、という言葉が、その日から、少年の中の何かを、決定的に変えた。

     もったいない、なら、どこへ行けば、もったいなくないのか。

     答えは、地方には、なかった。家には、なかった。父は工場勤めで、母は早くに家を出た。少年の「もったいなさ」を測る物差しを持つ人間は、あの数学教師以外、周りに一人もいなかった。だから少年は、独りで、その物差しを、育てるしかなかった。本を読み、数字を追い、損得を数え、やがて、損得でしか、世界を測れなくなった。

     高校で、少年は、一度だけ、友人と呼べる相手を作ろうとしたことがある。同じクラスの、成績が良くも悪くもない、ごく平凡な男子だった。少年は、その男子に、自分の解いた数式のノートを見せた。褒めてほしかったわけではない。ただ、見てほしかった。

     男子は、数式を一瞥し、こう言った。

    「お前、頭いいけど、なんか怖いよな」

     それだけだった。悪意はなかった。だからこそ、消えなかった。

     キョウヤは、チェス盤の白いポーンを、もう一度、指先で撫でた。

    「……怖い、か」

     誰もいない部屋に、乾いた呟きが、落ちた。

     あの日以来、キョウヤは、人間を、二種類に分類するようになった。値札の付けられる人間と、そうでない人間。後者は、少数だが、確かにいた。あの馬鹿正直な刑事。焼き鳥の匂いをさせて、それでも来た刑事。値札の付けられない人間は、いつも、キョウヤの数式の外側から、勝手に現れて、勝手に消えていく。彼らは、キョウヤを「怖い」とは言わなかった。ただ、彼を、見なかった。見る価値のあるものとして、扱わなかった。値札より、もっと屈辱的な扱いだった。

     だが今、盤の隅の白いポーンだけは、違う。

     あの雑音は、キョウヤを、見ている。四年間、ずっと。値札を貼るためではなく――キョウヤには、その理由の名前が、まだ、分からない。

    「……お前だけは、解いてから、答えを言え」

     キョウヤは、白いポーンに、そう命じた。返事のあるはずもない、駒に向かって。

    第四部 極東挽歌

    一 骨と、どて煮

     通夜には、雨が降った。葬式には、晴れた。

     警察葬は、行われなかった。遺失物係の警部補の死は、県警にとって、大々的に語りたい死ではなかったからだ。凶弾の背後を掘れば、握り潰された報告書の山と、上層部の「ご説明」の歴史が、芋づるで出てくる。だから葬式は、中川区の小さな寺で、身内だけで行われた。

     身内、の顔ぶれが、真司には忘れられない。

     みなと屋のおばちゃんと、常連の港湾作業員たち。今池の老医師。錦のホステスが数人、サングラスで泣きながら。タカシに恐喝されたはずのパチンコ屋の店長が、なぜか一番大きな花輪を出した。堅気と、堅気でないものが、狭い本堂に、区別なく座った。大滝タカシという男が三十年かけてこの街に張った根の、それが全部だった。

     そして、焼香の列の最後に、その男は現れた。

     濃紺の、囚人服ではないスーツ。両脇に刑務官。手錠は、外されていた。特別許可による、一時外出だった。

     陣内豪は、祭壇の弟の写真の前に立ち、長いこと、動かなかった。五十二歳の武闘派の背中が、真司の目の前で、少しずつ、少しずつ、小さくなっていった。やがてジンナイは、線香を上げ、鈴を鳴らさず、写真に向かって、一言だけ言った。

    「……たわけ。順番が違うだらが」

     それだけだった。

     帰り際、ジンナイは、真司の前で足を止めた。初対面だった。だが、ジンナイは真司の顔を見て、それから胸ポケットの膨らみを見て、全部を了解した顔をした。

    「――お前か。弟の犬いうんは」

    「星野真司です」

    「タカシの手帳、持っとるんか」

    「……はい」

    「そうか」

     ジンナイは、それ以上、何も訊かなかった。ただ、刑務官に挟まれて山門を出る前に、振り返らずに言った。

    「四月に、出る。……それまでに、手前の器を決めとけ、若いの。弔いには、器が要るんだがや」

     寺を出た足で、真司は、一人で《純喫茶ローマ》に入った。

     喪服のまま、カウンターに座る。ママは、何も訊かずに、いつものサイフォンの火を点けた。

    「……タカシさんの、あの席」

     真司は、いつもタカシが座っていた、窓際の一番奥のソファを見ながら、呟いた。

    「あの人、ここで、何を話してたんですか。俺が来る前」

     ママは、コーヒーカップを、静かに真司の前に置いた。

    「大抵、何も話さなかったよ。新聞読んで、コーヒー飲んで、たまに、ため息つくくらい。……でもね」

    「でも?」

    「あんたを連れてきてからは、ここで、よく笑うようになった。あたし、この店を三十年やってるけど、あの人の笑い声を聞くようになったのは、ここ数年だけだよ」

     真司は、コーヒーを、一口飲んだ。苦かった。いつもと同じ、深く抽出された、目の醒めるような苦さだった。だが今日は、その苦さが、喉より先に、目の奥に来た。

    「……ゆっくり飲んでいきな。今日は、代金はいらないから」

    「そういうわけには」

    「いいんだよ。三十年で一回くらい、店のおごりがあってもね」

     ママは、それだけ言うと、カウンターの奥へ引っ込んだ。有線から流れる古い洋楽だけが、静かな店内を満たしていた。真司は、タカシの定位置だった窓際の席を、長いこと、見つめていた。

     初七日が明けるまで、真司は、ほとんど眠らなかった。眠れなかったのではない。眠らなかったのだ。

     アパートの卓袱台に、タカシの手帳を置く。血は、拭かなかった。拭けなかった。ページを、一枚ずつ、めくる。几帳面な、意外なほど小さい字。三十年分の、この街の裏の地図。情報網の束ね方。貸しと借りの帳簿。検事の名前。信用できる記者の名前。信用できない上司の名前。

     そして、最後のページに、それはあった。

     日付は、死の前日。つまりタカシは、書いていたのだ。自分の月命日の習慣が餌になることを、おそらく分かった上で、それでも金曜のみなと屋をやめずに、これを書いていた。

    『シンジへ

     これを読んどるいうことは、わしはしくじったんだら。まあ、ええ。四年、ようもった方だがや。

     三人目の駒の名前を書く。県警本部・組対の管理官、神保。わしの元の上司だがや。銭でも弱みでも動いとらん。あれはの、「秩序」で動いとる。街の暴力が多国籍になった以上、一番強い胴元の下で管理された方が、死人が減る――本気でそう信じとる男だがや。狂っとるが、筋は通っとる。せやから一番おそがい。ネガの件も、警護の穴も、全部あれから漏れた。証拠は帳簿の紙挟みの中。使い方はお前ならわかる。

     それからの、シンジ。

     わしはお前に、半分だけ狂え、と教えた。あれは嘘だがや。すまん。

     ほんとうはの、狂うんは、わし一人で終いにしたかったんだがや。お前には、狂った男の隣で、狂わんまま立っとる稽古をさせとった。四年、ずっとだがや。お前は気づかんかったろうが、お前は一遍も、狂わんかった。倉庫でも、白い夜でも、写真館でも、お前はいっつも、震えながら、人間のまんまだった。

     それがの、わしの、自慢だった。

     わしの代わりは、いらん。狂犬の二代目なんぞ、この街に二匹もいらん。お前はお前の器で、猟師をやれ。お前の器はの、シンジ、犬でも狼でもない。人間だがや。この街で一番めずらしい、上等な器よ。

     最後に一個だけ、頼みだがや。

     兄貴と、レンのたわけと、レイジと、四人で、どて煮を食うてくれ。わしの席にはの、ビールを一本、立てとけ。味仙の激辛でもええぞ。お前、いっつもあの店の話をする時だけ、二〇二六年の顔になっとったけえの。

     達者でな。ええ犬だった。

     大滝タカシ』

     真司は、手帳を閉じた。

     窓の外が、白み始めていた。運河の水面が、鈍く光っていた。対岸の町工場が、プレス機の一日を始める音がした。

     真司は、泣かなかった。涙は、通夜で使い切っていた。代わりに、真司の中で、何かが、静かに、完全に、入れ替わった。二〇二六年の駅のホームで死んだはずの「逃げ癖の男」の残骸が、この朝、本当に死んだ。

     真司は立ち上がり、顔を洗い、飯を炊いた。二人前、炊いた。一人前は食い、一人前は、手帳の前に置いた。

     それから、白いソアラの鍵を掴んだ。

    二 二挺の遺言

     中古車センターの洗車場に、レイジはいた。

     あの葬式の日から、一週間。レイジは一度も、真司の前に現れなかった。だが真司は知っていた。この一週間、夜の港湾地区で、狙撃手の痕跡を追って、灰色の亡霊のように歩き回っていた男がいたことを。

    「――決めたか」

     ホースの水を止めて、レイジは言った。振り返らなかった。

    「決めました」

    「言ってみろ」

    「キョウヤを潰します。張も、サントスも、ボリスも、あの港に群がってる怪物を全部、まとめて。……ただし、タカシさんのやり方で。殺しの帳尻だがねく、証拠と、法と、それで足りない分だけ、暴力で」

     水滴が、アスファルトに落ちる音だけが、しばらく続いた。

    「……ふ」

     レイジは、笑った。真司が初めて見る、レイジの、歯を見せた笑いだった。

    「大滝さんと、同じことを言う。順番まで同じだ。……いいだろう」

     レイジは、洗車場の奥のロッカーを開けた。工具箱の底板を外す。油紙の包みが、二つ。一つは、見慣れた黒いベレッタが二挺。そしてもう一つ――

    「持て」

     押し付けられたそれは、ずしりと重かった。銀色の、大型の自動拳銃。ニッケルの鈍い光が、洗車場の照明を、静かに跳ね返した。

    「コルト・ガバメント。俺が二十歳の時、香港で、最初の師匠に貰った。人の生き死にの一番濃いところを、十三年くぐってきた道具だ。……言っておくが、餞別じゃない。貸すだけだ。この件が終わったら、返せ。返しに来られる生き方をしろ、という意味だ」

    「……重いですね」

    「当たり前だ。軽く作ったら、人間は気軽に抜く」

     レイジは、真司の構えを一瞥し、三時間、みっちりと直した。教え方は、タカシと正反対だった。怒鳴らない。殴らない。ただ、同じことを、正確に、百回言う。

    「いいか、シンジ。おまえは撃ち合いでは、プロの足元にも及ばない。一生、及ばない。だから、おまえの弾は、抜かないための弾だ。抜かずに勝つ段取りを九十九手打って、百手目に、それでも駄目な時だけ抜く。抜いたら、迷うな。迷った半秒で、こっちが死ぬ」

    「……タカシさんと、同じこと言いますね。順番まで」

    「当たり前だ」

     レイジは、二挺のベレッタに、油を差しながら言った。

    「あの人と俺は、二十年、この街の同じ泥の中にいた。警察と極道で、道具は違ったが――磨いてたものは、同じだ」

     その夜、二人は、みなと屋の奥の席で、作戦の骨組みを立てた。おばちゃんが、注文していないどて煮を、黙って三人前置いていった。三人前だった。誰も、何も言わなかった。三つ目の丼は、湯気が消えるまで、誰も箸をつけなかった。

    「敵は、四つの塊だ」レイジが、割り箸の袋で、卓上に配置を作った。「張のトライアド。サントスの南米筋。ボリスのロシア筋。そして本丸、キョウヤの黒狼會。まともにやれば、百人いても足りない」

    「だから、まともにはやりません」

     真司は、タカシの手帳を、卓袱台の中央に置いた。

    「タカシさんの帳簿と、俺の二〇……俺の『紙の海』を合わせると、四つの塊の継ぎ目が全部見えます。奴らは軍隊に見えて、実際は、相互不信の寄り合い所帯だ。継ぎ目に、順番に、楔を打ちます。張には『算盤』を。サントスには『面子』を。ボリスには『もっと高い買い手』を。……で、丸裸になったキョウヤに」

    「――王手、か」

    「いえ」

     真司は、首を振った。

    「王手は、詰みの一手前です。俺が打ちたいのは、その前の手で。……あいつの盤から、駒を全部、降ろします。レンも、少年兵も、枝村さんの娘の写真も、全部。駒のいなくなった盤で、あいつが何を指すのか。それを見届けるのが、たぶん、タカシさんの言ってた『猟師』の仕事です」

     レイジは、しばらく真司の顔を見ていた。

     それから、三つ目の丼を、真司の方へ、す、と押した。

    「食え。冷めた分も、おまえの仕事だ」

    三 王の目覚め

     レンの「治療」は、あの缶詰工場から連れ出して、八ヶ月目に入っていた。

     場所は、今池の老医師の医院の、二階の座敷。ユウタたち世話係の少年三人が、交代で泊まり込んだ。連れ出しは、去年の暮れ、「水路を濁す」の混乱の隙を突いて、レイジが一晩でやり遂げていた。キョウヤ側には、レンは「検体の劣化による廃棄」と、内通者経由で誤情報が流れている。死んだことになった王は、六畳の座敷で、八ヶ月、蟻の這う骨と戦っていた。

    「……よう、ソアラの」

     真司が見舞いに行くと、レンは、縁側で日向ぼっこをしていた。頬に肉が戻り、目に、光が戻っていた。まだ濁りの残る、だが確かに人間の光だった。

    「顔色、いいですね」

    「嘘つけ。鏡くらい見とるわ」レンは笑った。笑うと、二十二歳の顔になった。「……で。話があって来たんだら。タカシの旦那の件からこっち、あんた、遊びに来る顔しとらんもん」

     真司は、縁側に並んで座り、全部、話した。作戦の骨組み。四つの継ぎ目。そして、レンに頼みたいことを。

    「――黒狼會を、返してほしいんです。あなたに」

     レンの顔から、笑いが消えた。

    「六十人の少年兵は、キョウヤの駒です。でも、駒にされてるだけだ。家族の写真と、薬と、恐怖で。写真の原板はもう、こっちの手にあります。薬は、先生の言う通りにやれば、時間はかかっても抜ける。残るのは恐怖だけだ。そして恐怖ってやつは……借り物の恐怖は、本物の頭が一喝すれば、消えるんです」

    「……買い被るなや」

     レンは、自分の両手を見た。まだ細い、震えの残る手を。

    「わしはの、ソアラの。あいつらを鎖に売った張本人だぞ。総長がヤク漬けの人形になっとる間に、ガキどもは戦争の道具にされた。今さらどの面下げて、頭だがねんて――」

    「一ノ瀬さん。ユウタが、なんであなたの世話を八ヶ月、一日も休まず続けてると思いますか」

    「……」

    「あの子たちは、あなたが橋の下から拾った日のことを、覚えてるからですよ。写真で脅されても、薬で狂わされても、そこだけは、キョウヤにも消せなかった。……人の頭ん中から、恩と情だけは、どんな薬でも消えないんです。それを俺は、この時代で、タカシさんに教わりました」

     長い、沈黙があった。

     庭の向こうを、市電の音が通り過ぎた。レンは、震える手を、ゆっくりと、握り込んだ。拳の形を、確かめるように。

    「……どて煮」

    「え?」

    「タカシの旦那と、約束しとったんだがや。缶詰工場から出た夜に、一遍だけ会うた。あの人、わしに言うたんよ。『薬が抜けたら、どて煮を食いに来い。兄貴とわしと、お前と、うちの犬とで、四人での』……たわけだら。マル暴のデカが、愚連隊の総長に、飯の約束だと」

     レンは、立ち上がった。まだ少し、ふらついた。だが、自分の足で、立った。

    「席が一個、空いてしもうた。……なら、残りの三人と、ビール一本で、やるしかなかろうが。その飯のためにはの、ソアラの。わしは頭に戻らないかん。そういうことだら?」

    「そういうことです」

    「よっしゃ」

     人形の王は、王に戻る顔で、笑った。

    「――戦争やない。身内の回収だがや。六十人、一人残らず、鎖の外に連れて帰る。手伝え、ソアラの」

    四 算盤の男

     張への楔は、オリエンタルのVIPルームで打った。

     真司は、一人で行った。レイジは反対したが、真司は譲らなかった。「護衛を連れて行ったら、交渉になる。一人で行くから、商談になるんです」

     真紅の絨毯。金龍の彫刻。テーブルの上には、例によって、抜き身のバタフライナイフ。張は、麻のスーツの脚を組み、八重歯を見せて笑っていた。

    「――ソアラの兄さん。命知らずだね。それとも、命の値段を知らないだけか」

    「知ってますよ。この街じゃ、俺の命は今、結構な高値です。キョウヤが値をつけてますから。……で、今日はその話をしに来ました。張さん。あんた、いつ切られるか、もう計算は済んでるんでしょう」

     八重歯が、引っ込んだ。

     真司は、鞄から、紙の束を出した。銃ではなく、紙。それが真司の流儀だった。

    「三年、紙を読んできました。あんたとキョウヤの取引の外側を、全部です。読めたことを言います。――キョウヤは、あんたに販路を渡す気が、最初からない。香港ルートは、荷が捌けるまでの仮設の水道管だ。その証拠に、あんたに渡してる粉の純度、去年の夏から、少しずつ落ちてるでしょう。分析させたんですか? 落としてるのは末端じゃない。出荷の段階からです。仮設の水道管に、本物の水は流さない。それがあいつの工程表だ」

    「……続けろ」

    「ボリスの船が、来月、過去最大の荷を運んできます。武器だけじゃない。精製設備一式。つまりキョウヤは、輸入から製造に切り替える。製造に切り替えたら、香港の中継は要らなくなる。あんたの組織の使い道は、あと一つだけ残ってる。――手仕舞いの時の、弾除けです。警察と九頭龍会の残党の恨みを、トライアドに引き受けさせて、自分は畳む。張さん。あんた、算盤の男だ。ここまでの手数料と、この先の回収見込みと、弾除けにされる損失。三つ、足し引きしてみてください」

     張は、長いこと、紙の束をめくっていた。広東語で、短く何かを呟いた。それから、バタフライナイフを、くるりと畳んで、しまった。

    「……で? 兄さんの売り物は、情報だけか。それとも」

    「取引です。来月の『過去最大の荷』の夜、あんたは来ない。それだけでいい。手下も、船も、大須から一歩も出さない。代わりに、事が済んだ後、あんたが日本で畳む時間を、三十日、保証します。追いません。その間に、綺麗に、香港へ帰ってください」

    「保証? 誰が。デカが死んだ今、あんたに何の権限が」

    「これが」

     真司は、血の染みた警察手帳を、テーブルに置いた。

     張は、それを見た。手帳そのものではなく、その意味を見た。この街で三十年、海外マフィアからも一目置かれた狂犬の、遺言の在り処を。そして、それを平然と懐に入れて一人で虎の穴に来る、目の前の若い男の目を。

    「……はっ」

     張は、天井を仰いで、短く笑った。

    「九龍城で昔、老人に言われたことがある。『商売の潮時は、水の匂いが変わる時だ』と。……兄さん。この街の水は、匂いが変わったよ。あんたみたいなのが育つ水になった。なら、俺ら回遊魚は、次の海に行くだけだ」

     張は、立ち上がり、手を差し出した。

    「取引成立だ、ソアラの。三十日で消える。……最後に一つ、餞別をやろう。タカシの旦那を撃った男。あれはもう日本にいない。だが、戻ってくる。キョウヤの最後の工程表には、あと二つ、名前が載ってるからだ。誰と誰かは――算盤を弾くまでもないだろう?」

    五 面子の男

     サントスへの楔は、面子で打った。

     南米の男にとって、金より重いものが二つある。面子と、本国の機嫌だ。真司とレイジは、その二つを、同時に撃ち抜いた。

     仕掛けは、二段だった。一段目は、枝村哲夫。あの「飛ばしの男」は、一年前の接触以来、真司たちの側の、静かな協力者になっていた。娘の写真をネガごと取り返してもらった夜、あの生真面目な課長代理は、卓袱台に額をつけて泣き、それから、顔を上げて言ったのだ。「私にできる形で、返させてください。私の武器は、帳簿です」と。

     枝村は、五億円の洗浄経路の「写し」を、一年かけて、社内から完全な形で抜き出していた。パナマ、香港、ケイマン。サントスのネットワークの、日本側の全配管図。

    「これを、国税と地検特捜に、同時に持ち込みます」と真司は言った。「タカシさんの手帳に、信用できる検事の名前があります。大和モーターズは大火傷しますが――枝村さん、いいんですね」

    「会社は、火傷した方がいい」枝村は、静かに言った。「あの五億を『なかったこと』にした瞬間から、うちの会社は病気なんです。膿は、出さないと」

     二段目は、本国の機嫌だった。

     レイジの、香港時代の古い伝手が使われた。南米のカルテル本国に、ある情報が「漏れた」。――日本支部のサントスは、東アジア市場の開拓に失敗しつつある。五億の洗浄は日本の当局に把握され、香港の販路は手仕舞いを始め、肝心の現地パートナー(キョウヤ)は、精製設備を自前で持ち、カルテル抜きの自給体制を組もうとしている。サントスはそれを、一年前から知りながら、本国に報告していない――。

     最後の一行だけが、嘘だった。だが、前段が全部本当の時、最後の嘘は、本当より速く走る。

     効果は、二週間で出た。

     サントスの別荘から、犬の声が消えた。獰猛なドーベルマンたちは、ある朝、業者に引き取られていった。サントス本人は、パナマの「本社」から呼び出しを受け、部下を三人だけ連れて、関空から発った。戻りの便は、予約されなかった。

    「……あっけないもんですね」

     空港の送迎デッキで、飛び立つ機体を見送りながら、真司は呟いた。隣で、レイジが煙草に火を点けた。

    「あっけなくない。おまえが三年、紙を読んだ結果だ。……いいか、シンジ。銃で殺した男は、組織が代わりを送ってくる。だが算盤で殺した男の後任は、来ない。損の出る土地に、カルテルは二度目の投資をしない。おまえは今、この街の未来から、南米ルートを一本、丸ごと引き抜いたんだ」

     レイジは、煙を吐いて、少しだけ笑った。

    「二〇二六年の名古屋は、どうだった。……いや、聞かん約束だったな」

     真司は、答えなかった。ただ、あの日のニュース記事の一行――《同シンジケートの原型は、一九八〇年代末の名古屋港で生まれたとされる》――が、少しずつ、書き換わっていく手応えだけを、確かに感じていた。

     空港からの帰り、レイジの車の中で、真司はふと、隣の男の横顔を見た。窓の外を流れる関空連絡橋の灯りが、レイジの頬に、規則的な光と影を作っていた。

    「レイジさん。……前に言ってましたよね。銃は、約束を守るための道具だって」

    「よく覚えているな」

    「今日の仕事、銃、使ってません。でも、南米ルートを一本、丸ごと消しました。……これも、約束の守り方の一つですか」

     レイジは、少し考えてから、答えた。

    「守り方は、増えていい。減る必要はない」

     それだけ言うと、レイジは、それ以上何も語らなかった。だが真司には、その短い返事だけで、十分だった。あの中古車センターの休憩室で、レイジが一人、油紙にくるんだ銃を磨きながら考えていたことの続きを、今、二人で少しずつ、書き足しているような気がした。

    六 弾除けのいない盤

     ボリスへの楔は、打てなかった。

     正確には、打つ必要が、なくなった。楔より先に、キョウヤが動いたからだ。

     六月最後の週、真司の「紙の海」に、異常な水流が立った。黒狼會のダミー会社が、立て続けに、解散登記を始めたのだ。十二社が、一週間で。資産は全て、パナマの持株会社へ。少年兵たちの寮になっていた借家の賃貸契約が、月末で、一斉に解約された。

    「――手仕舞いだ」

     夜のアパートで、レイジが断言した。

    「張が消え、サントスが飛び、水路は濁ったまま。キョウヤは盤の負けを認めた。認めて、最後の荷で、全部を回収して消える気だ。精製設備も、武器も、洗浄済みの五億も、全部載せて。……行き先は、日本の外だ」

    「少年兵は」

    「置いていく。それどころか――」レイジの目が、冷えた。「レンの言った通りなら、最後に使い潰す。撤収の夜、警察と残党の目を引きつける、生きた煙幕として。薬を限界まで入れて、港で暴れさせる。死のうが捕まろうが、キョウヤの船はその間に出る」

     卓袱台の上の、ボリスの船の入港予定表を、真司は睨んだ。七月第二金曜、深夜。潮見ふ頭。過去最大の荷。三年前の「白い夜」と、同じ月、同じ曜日。偶然ではないだろう。あの男の工程表は、いつも、几帳面で、悪趣味だ。

    「レイジさん。ボリスは、どっちに付きますか」

    「どっちにも付かん。あれは商人だ。金を払う方が客で、客が沈めば、荷はまた別の客に売るだけ。……ただしな、シンジ。商人には商人の掟がある。取引の場を荒らす者は、敵味方に関係なく、撃つ。潮見ふ頭に踏み込んだ瞬間、俺たちはボリスの重機関銃の的だ。そこだけは、楔も算盤も効かん」

    「……つまり、最後の最後は」

    「ああ」

     レイジは、二挺のベレッタを、卓袱台に置いた。

    「泥臭い、撃ち合いだ。大滝さんの言い方を借りれば――ここからは、勘定の外だ」

     作戦会議は、三晩続いた。集まる顔は、夜ごとに増えた。レンと、ユウタたち世話係あがりの三人。枝村。今池の老医師は「野戦病院の院長」を引き受けた。みなと屋のおばちゃんは、握り飯を六十人分、と言われて、値段も理由も訊かなかった。

     そして三晩目、アパートの階段を、ゆっくりと上がってくる足音があった。

     戸が開いた。

     仮釈放の紙切れを胸ポケットに差した、濃紺のスーツの男が、そこに立っていた。

    「――わしの席は、どこだがや」

     陣内豪は、卓袱台の上の海図を一瞥し、それから、壁際に立てかけられた弟の遺影に、目礼した。

    「九頭龍会は、わしの代で畳む。本部にはもう、話をつけた。だがの、畳む前に、一個だけ、組の仕事が残っとる。……三年前の白い夜の落とし前と、弟の弔い合戦だがや。極道の看板の、最後の使い道としては、上等だらが」

    七 秩序の男

     決戦の前に、片付けねばならない駒が、一つ残っていた。

     三人目の駒。県警本部組織犯罪対策課・管理官、神保武久、五十四歳。タカシの元上司にして、警護計画の穴を漏らした男。

    「殺したいか、シンジ」

     出がけに、レイジは訊いた。試すような声だった。真司は、少し考えて、首を振った。

    「殺したいですよ。今でも。……でも、殺したら、あの人の中じゃ『秩序のための殉職』になる。それじゃ駄目なんだ。あの人には、間違った勘定のまま、生きてもらいます。それが一番、重い」

     県警本部の裏、官舎街の外れの喫茶店に、真司は神保を呼び出した。呼び出し状は、一枚の紙。タカシの手帳から写した、神保とキョウヤ側の接触記録の、最初の一行だけ。

     神保は、来た。銀縁の眼鏡の、姿勢のいい、謹厳な男だった。悪党の顔ではなかった。それが、真司には一番、堪えた。

    「――大滝の、犬か」

    「星野真司です。手短に言います。あなたの三年分の記録は、写しが三部あります。一部は検事の金庫。一部は記者の金庫。一部は、あなたが今夜どう動くかで、行き先が決まる」

    「……脅迫か。大滝の犬が、大滝の真似事を」

    「いえ。確認です」

     真司は、コーヒーに手をつけず、神保の目を見た。

    「あなたは、キョウヤの下で暴力を一元管理すれば、街の死人が減ると計算した。訊きます。この三年で、死人は、減りましたか」

     神保の眉が、動いた。

    「白い夜で十四人。抗争の飛び火で、堅気が三人。缶詰工場で人形にされた若者が一人と、鎖に繋がれた少年が六十人。枝村さんの家族は写真で吊るされ、そして三月の雨の交差点で――あなたの部下だった男が一人。管理官。あなたの帳簿では、これは『減った』に入るんですか」

    「……理屈を言うな、若造。おまえに、この街の八十年代が分かるか。組同士の抗争で、年に何人死んだか。流れ弾で死んだ主婦の葬式に、わしが何遍、頭を下げたか。暴力は消えん。消えんのなら、一番賢い胴元の下で――」

    「一番賢い胴元は、来月、逃げますよ」

     真司は、解散登記の一覧の写しを、テーブルに置いた。

    「あなたが三年かけて肩入れした『秩序』は、資産を抜いて、少年兵を煙幕に使い潰して、船で消える。後に残るのは、武器の在庫が流れ込んだ、胴元不在の焼け野原だ。管理官、あなたの計算は、変数を一個、間違えてたんです。――キョウヤは、この街の秩序に、一円も投資してない。あれは最初から、回収して出ていくための盤面だった」

     神保は、長いこと、一覧を見ていた。

     銀縁の眼鏡の奥の目が、書類を読む速度で、左右に動き続けた。三十年、書類で生きてきた男の目だ。だからこそ、その書類の意味は、言い訳の余地なく、読めてしまう。

    「……わしに、どうせいと」

    「二つだけ。第一に、七月第二金曜の夜、港湾地区の県警の動きを、通常配置のままにすること。あなたが漏らさなければ、キョウヤはこちらの動きを読めない。あなたという駒を、今夜から、こちらが使う。第二に――事が済んだら、辞表と一緒に、全部を監察に話してください。タカシさんの警護の件も。それが済むまで、三部目の写しは、動きません」

    「……それで、わしの三十年は終わりだがや」

    「はい。終わらせてください。……タカシさんの手帳に、あなたのことが書いてありました。読みますか」

     神保の喉が、動いた。真司は、手帳を開いた。

    「『神保さんは、狂っとるが、筋は通っとる。ああいう男はの、間違いに気づいた時だけは、誰より正確に動く。わしが死んどったら、最後はあの人を使え。あの人の始末は、あの人にしかつけられん』――以上です」

     神保は、眼鏡を外した。

     外して、目頭を、長いこと、押さえていた。喫茶店のサイフォンが、沸く音だけがしていた。やがて管理官は、眼鏡をかけ直し、三十年分の背筋で、立ち上がった。

    「……第二金曜。通常配置。請け合った」

     伝票を掴み、出口へ向かい、そして、戸口で一度だけ、振り返った。

    「大滝は……あれは、いい刑事だったか」

    「最高の、デカでした」

    「そうか」

     秩序の男は、それだけ言って、雨の官舎街に消えた。

    八 前夜

     七月第二金曜の朝は、嘘のように晴れた。

     真司は、夜明けと共に起き、白いソアラを洗った。三度がけのワックス。納車の日と、同じ手順で。磨きながら、この四年が、水と一緒にボンネットを流れていった。腰を抜かした路地。みなと屋の味噌カツ。犬小屋の夜。倉庫の稽古。白い夜。洗車場の伝説。雨の交差点。

     洗い終える頃、加藤が、一人で工場から歩いてきた。呼んでもいないのに、だった。

    「――下回り、見せろ」

     加藤は、四年間の付き合いで初めて、自分から真司の車に触りに来た。リフトもない路上で、寝板に仰向けに寝転がり、下から足回りを、一つずつ、指で確かめていく。

    「……今夜、山場だな」

     訊いたわけではない。ただの確信の口調だった。

    「……あの、なんで分かるんですか」

    「タカシの旦那が来なくなって、三月経つ。お前らの目つきが、この一月、変わった。……修理屋なんぞ長くやってると、車より先に、乗ってる人間の顔色を見る商売になる」

     加藤は、寝板の下から這い出ると、油の付いた手で、煙草に火を点けた。フィルターのない、安い両切りだった。

    「――シンジ。俺の本当の名は、加藤じゃない」

     真司は、驚いて、加藤の顔を見た。

    「戦後すぐ、こっちに来た親父がな、この国で商売するのに、加藤いう名を借りたんだ。俺も、生まれた時から、二つの名前を持って育った。学校の名簿は加藤。家の仏壇の位牌は、金だ」

    「……金、さん」

    「今さら、どっちでもいい。加藤で三十年やってきた。加藤の腕で、加藤の店の信用で、飯を食ってきた。……ただな、シンジ。お前には、言っておきたかった」

     加藤は、煙を、長く吐いた。

    「二つの名前を使い分けて生きてきた人間には、分かることがある。本当に大事なもんは、名前の方じゃない。名前の下にある、腕と、義理の方だ。お前は、この四年、タカシの旦那とレイジの義理を、ちゃんと背負って生きてきた。……その義理は、加藤の名前だろうが、金の名前だろうが、関係なく、本物だ」

     加藤は、車の屋根を、ぽん、と叩いた。

    「下回り、直しといた。バンパーの裏に、軽い鉄板も足しといた。気休め程度だが、無いよりましだ。……代金は、いらん」

    「そんな、悪いですよ」

    「いいから受け取れ。加藤としても、金としても、世話になった若いのに、餞別くらい出す甲斐性はある」

     加藤は、それだけ言うと、振り返らずに、工場へ戻っていった。

     最後に、真司は、助手席のドアを開け、タカシの警察手帳を、ダッシュボードの上に、そっと置いた。

    「……行きますよ、タカシさん。特等席です」

     その朝、レイジは、一人で、錦三丁目まで足を延ばした。

     《Bar ノクターン》は、開店前だった。だが、通用口を、マスターが、心得たように開けてくれた。

    「――今日だけ、特別ですよ」

     カウンターの奥、一番奥の止まり木には、まだ、誰も座っていなかった。当たり前だ、まだ昼だ。だが、レイジは、その空いた止まり木の隣に、腰を下ろした。

    「シューさんの席、借ります」

     マスターは、何も訊かずに、グラスを二つ、用意した。一つは、レイジのいつもの水割り。もう一つには、迷った末に、グレンリベットを、ストレートで、注いだ。

    「……シューさんの分、ですか」

    「ええ。今夜、いないかもしれないんで。……先に、置いていこうと思って」

     レイジは、グレンリベットのグラスを、空いた止まり木の前に、そっと置いた。

     三十年、同じ酒を、同じ席で飲み続ける男がいる。それを知っているだけで、この四年、レイジは何度も、踏みとどまることができた。狂った街の中で、一つだけ、狂わないものがある。その事実だけで、自分の狂わない部分も、まだ残っている気がした。

    「マスター。……もし今夜、俺が来なかったら」

    「来なかったら?」

    「あのグラスの中身、シューさんに、二杯分、注いでやってください。一杯は俺の分。もう一杯は、俺の連れの分、って言って」

     マスターは、黙って、頷いた。長い付き合いの中で、この店の主人は、こういう頼まれ方をされた客を、他にも何人か見送ってきた。ほとんどが、帰ってきた。ほとんどが、だ。

     レイジは、水割りを、一息に飲み干した。

    「――ごちそうさまでした」

     店を出る時、レイジは、一度だけ、振り返った。誰もいない止まり木の前に、琥珀色のグラスが一つ、静かに、光を受けていた。

     昼、今池の医院で、最終の点呼があった。

     レンは、黒狼會の特攻服を着ていた。八ヶ月ぶりに袖を通したそれは、痩せた身体には少し大きかったが、背中の「黒狼」の刺繍は、微塵も揺らいでいなかった。ユウタたち三人が、同じ服で、後ろに控えた。

    「段取りの確認だがや」レンが言った。「今夜、キョウヤは撤収の煙幕に、うちのガキどもを使う。集合命令はもう出とる。二十三時、潮見ふ頭の北ゲート。薬は、集合時に配られる手筈だがや。――そこへ、配られる前に、わしが行く」

    「一人で、ですか」と真司。

    「一人で、だがや。護衛がおったら、あれは『敵の使い』になる。一人で立っとったら、あれは『帰ってきた頭』だがや。ガキども六十人の目ん玉に、どっちを見せるかで、今夜の勝負の半分が決まる。……違うか、ソアラの」

    「……違いません」

     夕方、みなと屋に、車が三台、静かに着いた。九頭龍会の残党――といっても、ジンナイが選び抜いた、盃より情義で残った古株が、十五人。全員、堅気の作業服姿だった。ジンナイは、店の奥の席で、どて煮を三人前、平らげてから言った。

    「わしらの持ち場は、南の岸壁だがや。ボリスの船の、係留索。船いうもんはの、舫いを握られたら、動けん。三十年、港で飯を食うてきた極道の、最後の腕の見せ所よ」

     その席に、みなと屋のおばちゃんが、最後の差し入れを持って現れた。竹の皮に包んだ、大きなおにぎりの束だった。

    「――全員、一個ずつ持ってきな。腹減らして喧嘩できるかい」

     おばちゃんは、それだけ言って、竹の皮の包みを、一人ずつの手に、押し付けて回った。ジンナイの分。レンの分。ユウタたち三人の分。そして最後に、真司の前に立ち、その手に、一番大きな包みを、握らせた。

    「あんたの分は、大盛りだよ」

    「……ありがとうございます」

    「礼はいらないよ。あたしはね、真司さん。この店で、何百人の、今夜が最後になるかもしれない男を、見送ってきた。……あんたに、初めて味噌カツ食わせた時のこと、覚えてるよ。泣きながら食っただろう。がっつくみたいに」

    「……はい」

    「あの食い方をする子は、大丈夫。あたしの長年の勘だけどね。うまいもんを、うまいと感じられる人間は、最後の最後で、生き汚く粘るんだ。死んだ気になって突っ込む馬鹿とは、そこが違う。……だから、今夜も、ちゃんと食べて、ちゃんと帰っといで」

     おばちゃんは、それだけ言うと、来た時と同じように、さっさと店の奥へ戻っていった。振り返らなかった。振り返ったら、何かが崩れると分かっている背中だった。

     真司は、竹の皮を開いた。中身は、味噌カツのおにぎりだった。四年前、あの夜明けに食べたのと、同じ味だった。

     一口、頬張る。

     うまかった。あの夜と同じくらい、暴力的なほどに、うまかった。

     そして、夜。

     出撃前の、最後の一時間。アパートの卓袱台に、真司とレイジは、向かい合って座っていた。二挺のベレッタと、一挺の銀色のガバメントが、油の匂いをさせて、新聞紙の上に並んでいた。

    「シンジ。最後に、段取りをさらう」

    「……九十九手、ですね」

    「そうだ。今夜の九十九手は、こうだ。張は来ない。サントスはいない。神保の目は塞いだ。舫いはジンナイさんが握る。少年兵はレンが止める。国税と地検は、月曜の朝、大和モーターズと十二社に、一斉に入る。船の荷は、積み地の港で撮られた写真を、税関が既に握っている。つまりキョウヤの盤の駒は、今夜、盤に着く前に、全部死んでいる。残るのは、あの男自身と、護衛のプロが数人と、ボリスの火力だけだ。……ここまでが九十九手。ここから先は」

    「百手目」

    「そうだ」

     レイジは、ガバメントを、真司の前に、す、と押した。

    「抜かずに済むことを祈れ。だが、抜いたら、迷うな。……もう一つ。これが一番大事だ。生きて、帰れ。おまえには、返してもらう銃と、聞かせてもらう話がある。二〇二六年の、名古屋の話だ。長生きの楽しみに取っておく」

    「……それ、聞かない約束だったんだがや」

    「約束は、今夜が終わったら、結び直す」

     二十二時三十分。白いソアラのエンジンが、運河沿いの夜に、低く目覚めた。

     助手席に、レイジ。ダッシュボードに、血染めの手帳。バックミラーの中で、中川区の灯りが遠ざかり、フロントガラスの先に、港のクレーンの影が、黒い森のように迫ってきた。

     臨港道路に入って、五分。

     バックミラーに、ヘッドライトが二対。距離を詰めてくる。速い。

    「レイジさん!」

    「見えてる」

     次の交差点。真司は、わざと右にウインカーを出し、直進した。二対のヘッドライトが、迷わず、同じ動きをした。

    「――尾行、確定!」

     レイジが、弾倉を叩き込んだ。カチリ、と乾いた音。

    「行けるとこまで飛ばせ!」

     真司は、アクセルを、床まで踏み抜いた。

     ソアラのエンジンが咆哮し、雨上がりの路面を、タイヤが悲鳴を上げて掴んだ。時速八十。九十。百。後続の二台――黒塗りの、防弾仕様らしきセダン――も、同時に牙を剥いた。ヘッドライトが、みるみる膨れ上がる。

    「距離、詰まってます!」

    「当然だ! あれは護衛車だ!」

     一台目が、右車線から、真横に並びかけた瞬間だった。

     助手席の窓が下がり、黒い銃口が覗いた。

     パン、パン、パン、パン!

     連射だった。フロントガラスの右端に、蜘蛛の巣状のひびが、一瞬で三つ、咲いた。真司は、悲鳴を飲み込んで、ハンドルにしがみついた。

    「頭下げろ!」

     レイジの腕が、窓の外へ突き出された。

     パン! ――ドアミラーが火花を散らして吹き飛ぶ。

     パン! ――相手のフロントタイヤが、破裂音とともに萎んだ。

     黒いセダンが、大きく傾いだ。真司は、ハンドルを、迷わず右へ切った。金属と金属が擦れ合う、耳障りな悲鳴。火花が、二台の車体の隙間から、雨の路面へ散った。

    「もっと寄せろ!」

    「これ以上は、無理です!」

    「無理でもやれ!」

     真司は、歯を食いしばって、ハンドルを、さらに切り込んだ。黒いセダンの運転手が、ハンドルを取られ、絶叫に近い声を上げる。車体が、大きく揺れた。

     だが、二台目が、後方から、恐ろしい速度で迫っていた。

    「PITだ! 来るぞ!」

    「タカシさんの、あの!」

    「今使う!」

     真司は、ブレーキを、鋭く一瞬だけ踏んだ。後続車が、間合いを潰し切れずに、つんのめる。同時にアクセル全開、ハンドルを大きく切る。ソアラが、雨に濡れた路面の上で、悲鳴じみたタイヤ音を立てながら、尻を振って、隣の脇道へ滑り込んだ。

     背後で、金属が鉄柱に激突する、途方もない轟音。

     バックミラーの中で、追突を狙っていた黒いセダンが、街灯へめり込み、フロントガラスが、粉々に砕け散るのが見えた。

     だが、もう一台――ドアミラーを失った先頭車が、なおも、食らいついてくる。

    「シンジ! 次の角、右だ!」

     真司は、ハンドルを切った。コンテナヤードの入り口。車幅ぎりぎりの隙間。左右のミラーが、鉄壁を擦って、火花を吹いた。

     パン! パン! パン!

     背後から、なおも銃声。真司の耳のすぐ横を、何かが空気を裂いて通り過ぎた感覚があった。当たっていない。当たっていないだけだ。

     追ってきた黒いセダンは、その幅に入りきれず、コンテナの角に、右前部を、鋼鉄の悲鳴とともに深く食い込ませた。エアバッグの破裂音。それきり、動かなくなった。

     バックミラーの中で、二対のヘッドライトが、ようやく、静止した。

     真司は、ハンドルを握ったまま、震える息を吐いた。全身が、汗でびっしょりだった。

    「……止まっていいぞ、シンジ」

     レイジの声で、初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。

    「今の、二台……」

    「キョウヤの見張りだ。俺たちが来ることを、知ってる」

    「読まれてた、ってことですか」

    「読まれてて、上等だ。読まれた上でも勝つのが、今夜の九十九手だ」

     レイジは、割れた窓の外へ、空になった弾倉を、静かに捨てた。

     ラジオを点けると、天気予報が、明日の晴れを告げていた。

    「……行きましょう、レイジさん」

    「ああ。――回収の時間だ」

    九 潮見ふ頭・二十三時

     今夜、この潮見ふ頭で何が起ころうとしているのか。真司たちにとって、その一点だけは、はっきりしていた。

     ボリスの船が、過去最大の「機械部品」――精製前の覚醒剤原料と、軍用火器の最終荷を、この岸壁に陸揚げする。代金は、大和モーターズから毟った五億円。荷を受け取れば、キョウヤの帝国は、資金と武力の両輪を、二度と誰にも止められない規模まで完成させる。水路を三本濁らせ、写真の蔵を潰し、レンを鎖から解いても、この最後の荷揚げ一つを止められなければ、四年間の蟻の巣掘りは、ただの時間稼ぎで終わる。

     だから、今夜、ここで。

     潮見ふ頭という舞台を選んだのも、意味があった。名古屋港の中でも、コンテナの積み替えヤードが最も入り組み、水銀灯の管理が最も杜撰な一角。三年前の「白い夜」と同じ場所、同じ月、同じ曜日。キョウヤにとっては勝手知ったる庭であり、真司たちにとっては、タカシが命と引き換えに描き上げた蟻の巣の地図の、最後の一枚だった。荷が船を離れる前に止める。それが、今夜のただ一つの勝利条件だった。

     潮見ふ頭は、夜の底で、静かに息をしていた。

     水銀灯の白い光。コンテナの山が作る、鉄の峡谷。岸壁には、錆の浮いた中型貨物船が一隻、舷灯を落として係留されていた。船名は塗り潰されている。ボリスの船だ。デリックが、闇の中で、絞首台のような影を作っていた。

     真司とレイジは、ふ頭の南端、廃コンテナの陰にソアラを収め、双眼鏡を分け合った。

    「……見えるか、シンジ」

    「見えます。デリックの根元に、重機の梱包が四つ。あれが精製設備。クレーンの操作室の窓に、人影。岸壁の照明の消え方が、三年前の白い夜と同じだ。……それから、コンテナの峡谷の入り口に、車が」

     黒塗りの、防弾仕様のカスタム車が二台。その脇に、キョウヤの姿があった。四年目で初めて見る、屋外のキョウヤ。眼鏡が、水銀灯を反射して、白く光っていた。傍らには、上背のある白人の護衛が三人。二人は屈強な男。もう一人は、化粧気のない、氷のように動じない目をした女だった。動き方で分かる。素人ではない。護衛――コロンビア筋が引き上げた今、欧州の口入れ屋から買った、プロたちだ。

     そして、船のブリッジの脇、一段高いコンテナの上に、その男はいた。

     ボリス。五十がらみの、岩のような輪郭。その足元に、三脚に据えられたPKM軽機関銃の、長い銃身が突き出している。銃口は、ふ頭の入り口全体を、扇のように舐められる位置にあった。かたわらのコンテナには、円筒形の木箱がいくつも積まれ、蓋の隙間から、RPG-7対戦車ロケットランチャーの擲弾頭が覗いていた。船一杯の武器の中から、ボリスが自分の足元にだけ運ばせた得物――それが、この商人の、今夜の「本気」の証だった。

     ボリスの傍らには、もう一人。オクサナ、二十九歳。元ソ連軍の女性狙撃兵で、軍が崩れて職を失ってから、ボリスの船に拾われた腕利きだった。肩に提げた**AKS-74U(短縮型カラシニコフ)**を、慣れた手つきで抱え、コンテナの陰から、ふ頭全体の死角を、静かに睨んでいた。ボリスが「一番信用できる部下」と呼ぶ数少ない一人であり、船員たちの間でも、彼女に口答えする者はいなかった。

    「……あれが商人の掟、ですか」

    「ああ。あの位置からなら、取引の場に入る者を、敵味方関係なく挽ける。……時間だ。シンジ、北を見ろ」

     二十三時、ちょうど。

     北ゲートの方角から、単車の排気音が、群れになって近づいてきた。六十のヘッドライトが、夜霧の中で、蛍の大群のように揺れる。黒狼會の少年兵たち。集合命令に従って、何も知らずに、煙幕にされるために、集まってくる。

     ゲート前の広場で、単車の群れが停まった。黒狼會の若い幹部が――キョウヤの飼い犬になった数少ない年長組が――台の上に立ち、拡声器を構えた。その足元の段ボール箱の中身を、真司は知っていた。配られる前に止める。それが、今夜の最初の関門だった。

    「――皆、聞け! 今夜は特別な夜だ! 頭からの、餞別が出る! これを決めて、派手に暴れて――」

     拡声器の声が、そこで、途切れた。

     広場の照明の中へ、一人の男が、歩いて入ってきたからだ。

     特攻服。背中に、黒い狼。八ヶ月前より痩せて、しかし、八ヶ月前の誰よりもまっすぐに立った男が、六十人のヘッドライトの真ん中を、ゆっくりと、台に向かって歩いていく。

     最初に気づいたのは、最年少の組だった。ざわめきが、波のように広がった。「……頭?」「頭だがや」「死んだって……」「生きとる」「頭が、生きとる」

     台の上の幹部が、青ざめて、後ずさった。

     レンは、台の下まで歩き、段ボール箱を、一瞥した。それから、六十人を、ゆっくりと見渡した。拡声器は、使わなかった。使う必要が、なかった。

    「――ただいま、だがや。たわけども」

     その一声で、広場が、静まり返った。

    「留守の間に、えらいことになっとったのう。全部、聞いた。全部、わしの責任だがや。頭がヤク漬けの人形になっとる間に、お前らを、鎖に繋がせた。……すまんかった」

     黒い狼の背中が、六十人の前で、深々と、折れた。

     総長が、頭を下げたのだ。橋の下から、補導室から、家出の果ての公園から、自分たちを拾い上げてくれた、あの頭が。

    「今夜、お前らはここで、使い潰される手筈だった。誰にとは言わん。言わんでも、もう分かっとる顔しとるの。……ほんでの、わしは今夜、それを回収に来た。お前ら全員、一人残らず、鎖の外に連れて帰る。ついて来る奴は、単車を降りい。降りて、その箱に、唾吐いて行け。ついて来れん奴は――それでもええ。恨まん。ただ、今夜だけは、家に帰れ。母ちゃんの顔、見て寝え」

     沈黙は、十秒続いた。

     最初に単車を降りたのは、十六のガキだった。次が、その連れ。それから、雪崩だった。六十のエンジンが、一つずつ、止まっていく。ヘッドライトが、一つずつ、消えていく。少年たちは、一列に並んで、段ボール箱に唾を吐き、レンの前で、泣いたり、殴られるのを待つ顔をしたりした。

     ただ一人、単車を降りても、列に並ばなかった娘がいた。

     カナ、十七歳。六十人の中では珍しい紅一点で、喧嘩の強さでは古参の男どもも一目置く、黒狼會の数少ない「女兵隊」だった。愛車は、兄貴分から譲り受けた、赤いカワサキZ400FX。単車の後ろに、いつも金属バットを一本、括り付けている。喧嘩の得物はいつもこれと決めていた。「拳より先に、これが一番、話が早い」というのが、カナの持論だった。カナは、レンの前まで歩み出て、単車のヘルメットを、地面に叩きつけた。

    「――頭。あたしは家に帰らん」

    「カナ。お前も、もう」

    「帰る家がないから、ここにおったんだよ、あたしら全員」カナは、涙目のまま、しかし声だけは、まっすぐだった。「頭が鎖から抜けたんなら、あたしも抜ける。……けど、抜けた先が、ただ家に帰って終わり、やない。頭の隣で、まだ戦う。それが、あたしの抜け方だ」

     レンは、しばらく、カナの顔を見ていた。それから、小さく頷いた。

    「――一人だけ、連れて行く。カナ、お前は、南の岸壁だがや。ジンナイの親父の助っ人に回れ。手が要る」

    「了解」

     カナは、単車の荷台から、金属バットを一本、引き抜いた。かつて、通り魔紛いの喧嘩に使っていたそれを、今夜だけは、老人たちの盾になるために振るうのだと、決めた顔だった。

     残る少年たちは、一列に並んで、段ボール箱に唾を吐き、レンの前で、泣いたり、殴られるのを待つ顔をしたりした。レンは、一人ずつ、頭を小突いた。それが、この一家の、赦しの作法だった。

    「……一人も、乗ってこんかったな」

     双眼鏡を下ろして、レイジが、低く言った。

    「キョウヤの煙幕は、これで消えた。だが――」

     その時、ふ頭の奥で、水銀灯が、一斉に落ちた。

     闇。

     一拍おいて、船のデリックに作業灯が点り、荷役が、始まった。キョウヤは、煙幕の消失を見て、即座に工程を繰り上げたのだ。撤収の、最終段階。

     そして、闇の中で、真司の耳は、聞いた。コンテナの峡谷の奥から響く、複数の足音。等間隔。無駄がない。プロの足音が、三つ。こちらへ、来る。

    「――九十九手、終わりだ」

     レイジが、二挺のベレッタを、静かに抜いた。

    「ここからは、百手目。……シンジ。段取り通り、おまえは峡谷を抜けて、王の所へ行け。プロは、俺の客だ」

    十 白い雪

     真司は、走った。

     コンテナの峡谷は、迷路だった。赤錆と、潮と、重油の匂い。水銀灯の死んだ闇の中を、作業灯の照り返しだけを頼りに、真司は身体を低くして駆けた。

     背後で、銃声が始まった。

     パン、パン! ダダダッ! パパパン!

     ベレッタの高い音が二種類。知らない銃の重い連射音が三種類。乾いた炸裂音が、コンテナの壁という壁に反響し、幾重にも重なって、峡谷全体が、一つの巨大な太鼓のように鳴った。跳弾が、鉄板を掠める甲高い音。悲鳴じみた金属音が、絶え間なく続く。音の数を、耳が勝手に勘定する。四年の稽古が、恐怖を、情報に変換していく。

     ――先に気づく。場所を選ぶ。躊躇わない。

     コンテナの角を折れた瞬間、真司は、灰色の人影と、正面から鉢合わせた。

     護衛の一人だった。プロの目が、一瞬で真司を敵と判断し、腰の得物へ手を伸ばす。速い。だが、真司の身体は、四年間、この一瞬のために、稽古を積んできた。

     考えるより先に、腰の後ろから、銀色のガバメントが、抜かれていた。

     ――抜かずに済むことを祈れ。だが、抜いたら、迷うな。

     レイジの声が、耳の奥で、蘇る。真司は、迷わなかった。

     パン! パン!

     二発。乾いた銃声が、コンテナの壁に反響し、鉄の谷全体を、びりびりと震わせた。相手の得物が、地面に落ちる金属音。真司の放った弾は、相手の利き腕と、肩とを、正確に撃ち抜いていた。殺す必要は、なかった。動きを止めれば、それでよかった。

     真司は、初めて、この時代で、人に向けて、引き金を引いた。

     手のひらに、反動の痺れが残った。想像していたよりも、ずっと軽い感触だった。命を左右するものにしては、あまりにも軽い。その軽さが、逆に、真司の胃の底を、冷たく締めつけた。

     うずくまる相手の脇を抜けながら、真司は、自分の手が、震えていないことに気づいた。震えていいはずの場面で、震えていない自分に、真司は少しだけ、怖くなった。四年前の、駅のホームで泣き叫んでいた自分は、もう、どこにもいない。

     ――それでいい。今夜だけは、それでいい。

     真司は、コルト・ガバメントを握り直し、峡谷の奥へ、再び走り出した。

     峡谷の十字路で、真司は、足を止めた。

     風向きが、変わったのだ。潮の匂いに、別の何かが混ざった。埃のような、薬品のような。見上げると、コンテナの峡谷の上空を、白いものが、流れていた。

     雪、に見えた。

     七月の夜に降る、白い雪。デリックの根元で、梱包の一つが破れていた。流れ弾か、荷役の事故か。精製前の白い粉が、破れ目から潮風に乗り、照明の光の帯の中を、吹雪のように舞っていた。数十億の粉が、誰のものにもならずに、夜の港に散っていく。

     美咲を殺した化け物の、原料が。

     真司は、上着の襟で口元を覆い、白い吹雪の下を、走り抜けた。

     峡谷を抜けた先、岸壁のクレーンの根元に、その男は立っていた。

    「――こんばんは、星野さん」

     神崎恭弥。眼鏡に、作業灯の光。足元には、チェス盤の代わりに、アタッシェケースが一つ。四年、盤の向こうにいた男が、初めて、遮るもののない十メートルの距離に、いた。

    「荷役の音がうるさくて、すみません。じきに終わります。……あなたが来ることは、二十三時十二分の時点で、確率八割で読めていました。レンさんの登場は、見事でしたね。あれは私の計算から、二・三年ほど早い。誰かが検体の状態について、私に嘘の報告を――ああ、これはもう、済んだ話だ」

    「……お前の船は、出ないぞ、キョウヤ」

     真司は、言った。声が、震えなかった。自分でも、驚くほど。

    「舫いは、九頭龍会が握った。荷は、税関が積み地の写真ごと握ってる。金は、月曜の朝、国税と地検が十二社まとめて掘り返す。張は帰った。サントスは呼び戻された。神保管理官は、今夜、こっちの目になってる。……お前の盤の上に、キョウヤ。駒は、もう一個も残ってない」

     キョウヤは、瞬きを、二回した。

     それから、ゆっくりと、周囲を見た。デリックの動きが、止まっていた。船のブリッジで、誰かが怒鳴っている。ロシア語だ。岸壁の南で、ジンナイの太い声が、夜を渡ってきた。峡谷の奥の銃声は、いつの間にか、止んでいた。

    「……なるほど」

     キョウヤは、アタッシェケースを、静かに、足元に置き直した。

    「工程表の、書き直しが必要だ。しかし、その前に――星野さん。一つだけ、教えてください。四年、訊きたかったことです」

     眼鏡の奥の目が、初めて、数式ではないものを映して、真司を見た。

    「あなたは、どこから来たんですか」

     風が、白い粉の吹雪を、二人の間に運んだ。真司は、答えなかった。まだ、答える段階ではない。

    「答える前に、俺からも一つ、訊きたい」

     真司は、言った。

    「なあ、キョウヤ。お前、ボリスと波止場で会って、何て言われたか知ってるか」

     眼鏡の奥の目が、初めて、わずかに、細くなった。

    「……盗聴か」

    「盗聴じゃない。あの人が、自分から教えてくれたんだ。あんたのこと、賢いが、間違えてるって。忠誠も、命令も、契約も、全部、鎖に変える。鎖で繋いだ軍隊は、いつか崩れる。……本人の国が、そうだったみたいに」

    「――旧ソ連の将校の、感傷的な述懐だ。参考にはならない」

    「参考にならないって言い切れるほど、お前は、鎖の外を、知ってるのか」

     真司は、一歩、詰めた。

    「お前の帝国にいる人間、数えたことあるか。枝村さんは恥で繋いだ。所長は借金で繋いだ。レンは家族と薬で繋いだ。少年兵は行き場のなさで繋いだ。……お前はそれを、効率がいいと思ってた。鎖は、命令より速く動くから。だがな、キョウヤ。鎖で繋いだ人間はな、鎖が切れた瞬間、お前のために、一秒も動かない。今夜がそれだ。六十人の兵隊は、お前の煙幕になる前に、レンの一言で、全員、単車を降りた」

    「……変数として、記録している」

    「記録するだけじゃ、足りない」

     真司は、首を振った。

    「お前が四年かけて集めた駒はな、キョウヤ。全部、お前のために死ぬ気がない駒だった。反対に――俺の側の駒を、見てみろ。タカシさんは、金で雇われたわけじゃない。レイジさんも、命令されて銃を持ったわけじゃない。ジンナイさんも、契約で組を割ったわけじゃない。誰も、鎖で繋がれてない。なのに、全員、今夜、命を懸けてる。……なんでだと思う」

     キョウヤは、答えなかった。

    「――惚れた相手のために動く人間は、値札じゃ測れないからだよ」

     真司は、言った。自分の口から出た言葉に、自分で少し、驚いていた。この四年で、真司が本当に学んだのは、蟻の巣の掘り方でも、拳の使い方でもなく、これだったのかもしれない。

    「お前は、四年間、俺のことを『雑音』だと思ってたんだろう。……悪いけど、俺も最初は、自分のことをそう思ってた。逃げてばかりの、価値のない人間だと。でも、タカシさんが、ある日、俺に言ったんだ。お前は、うちの一員だ、って。値札もつけずに、そう言ってくれた。それだけで、俺は、変わった」

     キョウヤの視線が、初めて、真司の顔から逸れた。

     視線の先には、遠く、コンテナの峡谷の方角。銃声の止んだ闇。ジンナイの太い声。そして、警官隊のサイレンが、まだ届かない、この十秒ほどの静寂。

    「あなたは、どこから来たんですか」

    十一 二挺の伝説

     ――時間を、少しだけ巻き戻す。

     コンテナの峡谷の入り口で、風間礼二は、三人のプロを迎え撃っていた。

     最初の三十秒で、レイジは相手の格を測り終えていた。三人とも、一流だ。散開の速度、遮蔽の取り方、撃ち込みの拍子。軍隊上がりの、それも実戦を長くくぐった連中の動きだった。だが、と、レイジはコンテナの陰で弾倉を確かめながら、冷静に勘定した。――一流だが、この峡谷は、俺の庭だ。

     名古屋港の荷役の癖。コンテナの積み方の規則。どの列に隙間ができ、どの角が音を反響させるか。二十年、この港の泥の中で生きてきた男の頭には、この鉄の迷路の図面が、隅々まで入っている。

     レイジは、動いた。

     右足を引きずる音を、わざと、立てて。

     足音は、峡谷の壁に反響し、実際の位置から二列ずれた場所に、レイジの幻を立てた。

     プロの一人が、幻に撃ち込んだ。

     ダダダダダッ!

     自動火器の連射が、コンテナの鉄板を、蜂の巣のように食い破った。マズルフラッシュが、闇に位置を書いた瞬間、二挺のベレッタが、別々の角から、同時に咆えた。

     パン! パン! パパン!

     挟み撃ちの角度。一人でやる、十字砲火だった。銃声が、峡谷の壁という壁に反響し、いくつもの銃口が同時に火を噴いているような、地獄の音響を作り出した。

     一人目が、沈黙した。

     だが、それだけでは終わらなかった。

     崩れ落ちる一人目の襟首を、レイジは走りながら掴み上げ、勢いのまま、コンテナの角の鉄柱へ、叩きつけた。鈍い音。それは、とどめではなく、次の一人への合図だった。倒れる寸前の身体を盾のように担ぎ上げ、二人目の初弾を、その肩で受けさせる。

    「……Che cosa――」

     二人目の押し殺した声が、闇に浮いた。イタリア語。動揺の色。当然だろう、とレイジは思う。彼らの聞いていた情報では、迎撃は「足の悪い、引退した中年」のはずだった。

    「教えてやる」

     レイジは、コンテナの上へ、装具の右足を軋ませて登りながら、静かに言った。誰にともなく。あるいは、二十年前の自分に。

    「足を折られて、組を潰されて、洗車場で三年、俺は考えていた。……引き金を引く資格の話だ。銭のためなら、もう引けない。組のためにも、もう引けない。なら、俺の残りの弾は、何のためにある。――答えをくれたのは、白いソアラに乗った、頼りない顔のガキと」

     二人目のプロが、遮蔽を移った。読み筋どおりの移動だった。

     パン!

     峡谷の上から、ベレッタが一挺、正確に咆えた。銃声が、鉄の壁に反響し、余韻が、長く尾を引いた。

    「――金曜の晩飯を、最後まで変えなかった、馬鹿なデカだ」

     残るは、一人。

     そして、その一人は、他の二人とは、格が違った。銃声の応酬が途絶えた闇の中で、レイジの首筋の産毛が、立った。気配が、消えている。プロの中のプロだけがやる、消え方だった。

     ――ああ、そうか。

     レイジは、コンテナの上で、静かに理解した。

     ――おまえか。三月の雨の交差点の。

     張の餞別の言葉が、蘇る。『あれは、戻ってくる。キョウヤの工程表には、あと二つ、名前が載っている』。二つの名前。星野真司と、風間礼二。撤収の夜に、まとめて消す工程。狙撃手は、最初から、この峡谷のどこかに、潜んでいたのだ。

     月が、雲を抜けた。

     三百メートル先、クレーンの操作室の屋根。月光が、一瞬だけ、長い銃身の輪郭を、闇から彫り出した。

     ズダン!

     同時に、レイジの立つコンテナの天板で、火花が散った。狙撃銃の重い銃声が、半拍遅れて、雷鳴のように港を渡った。

     レイジは、転がりながら、峡谷の谷底へ跳んだ。右足の装具が、着地の衝撃で、悲鳴を上げた。

     拳銃と、狙撃銃。三百メートル。勝負にならない距離だった。まともにやれば。

    「……だがな」

     レイジは、峡谷の底を、走り出した。クレーンに向かって、まっすぐに。二挺のベレッタに、最後の弾倉を叩き込みながら。

    「まともにやらない稽古なら――あの人の犬と、四年、隣で見てきたんだ」

     コンテナの列の陰から陰へ。狙撃手の射線が通らない道筋を、港の図面が頭に入った男だけが選べる最短で。三百が、二百になり、百になる。

     ズダン! ズダン!

     狙撃銃が、二度、コンテナの壁を撃ち抜いた。鉄板が破れる、悲鳴じみた音。二発とも、レイジの残像だった。

     クレーンの根元、五十メートル。狙撃手が、屋根の上で、長物を捨てる音がした。拳銃に切り替える、正しい判断。正しいが――遅い。

     パン! パン! パン! パン! パパン!

     二挺のベレッタが、夜空に向かって、交互に、休みなく咆え続けた。銃声が、連打で港に轟き、操作室の窓が、次々と砕け散り、鉄梯子が火花を吹いた。屋根の縁で、黒い影が、大きく、のけぞった。

     影は、三月の雨の夜にタカシの命を奪ったのと同じ重力に引かれて、二十メートル下の岸壁へ、落ちた。

     静寂が、戻った。

     レイジは、空になった二挺を提げたまま、しばらく、動かなかった。それから、夜空を見上げて、誰にも聞こえない声で、言った。

    「……勘定、合ったぞ。大滝さん」

    十二 商人の掟

     南の岸壁では、もう一つの戦争が、終わろうとしていた。

     ジンナイと十五人の古株は、開戦と同時に、係留索の巻き上げ機を三基、押さえていた。古株の中には、紅一点、桐山菊乃、六十二歳の姿もあった。かつて名古屋一の羽振りを誇った芸妓置屋の女将で、二十年前、亭主だった先代幹部の跡目を、女の身で継いだ、九頭龍会きっての生き証人だ。今は隠居の身だが、「わしの葬式の前に、もう一戦くらいはやらせえ」と、この夜、自分から名乗り出た。

     菊乃の帯の間には、亡き亭主の形見である懐剣が一振り、そして着物の下、太腿に括り付けたホルスターには、ニッケルメッキのコルト・ディテクティブスペシャルが、油を差されて眠っていた。「拳銃は、女が一番狙われん場所に隠すもんだがや」というのが、菊乃の持論だった。

     この夜、菊乃を岸壁まで運んだのは、黒塗りの大和モーターズ・センチュリーだった。置屋の女将時代から三十年、代替わりのたびに同じ型を選び続けてきた、菊乃だけの一台。普段は若い衆に運転させるが、今夜だけは、菊乃自身がハンドルを握ってきた。「――この歳になっても、自分の足で来られんような戦は、しとうないんじゃ」

     巻き上げ機の一つは、菊乃が一人で押さえていた。着物の裾を帯に挟み込み、皺だらけの手で、太い鎖を、若い衆にも負けない力で締め上げていく。船は、舫いを握られた。だが、コンテナの上のボリスは、慌てなかった。重機関銃の銃座を、ゆっくりと、南へ旋回させただけだった。

     最初の掃射が、岸壁のボラードを、飴のように削った。

    「――伏せえ!! 顔上げるな!!」

     ジンナイの怒号の上を、曳光弾の赤い糸が、何本も飛んだ。十五人は、岸壁の縁の陰に、釘付けにされた。菊乃だけは、巻き上げ機の陰に伏せながらも、鎖を握った手を、決して離さなかった。「――やかましいのう、この程度で腰引けてどうする」と、古株の若い衆を叱咤する声だけが、銃声の合間に響いていた。

     その菊乃の背中を、遅れて駆けつけた金属バットの娘――カナが、庇うように守っていた。「クロさんとこの姐さんは、下がってて!」と叫ぶカナに、菊乃は鼻を鳴らして言い返した。「小娘が、生意気言うんやない。あんたこそ、頭ぁ低うしとき」。年齢の離れた二人の女が、曳光弾の下で背中合わせになる図は、この夜の岸壁で、誰の目にも焼き付く光景になった。舫いは握った。だが、頭が上げられない。膠着だった。そして膠着は、船側の時間だった。船員たちが、斧で舫いを断ちにかかっている。

     その膠着を破ったのは、白いソアラだった。

     エンジンの咆哮が、ふ頭の夜を切り裂いた。ヘッドライトを消したまま、白い車体が、コンテナの峡谷から、弾丸のように飛び出した。時速百二十。ボリスの銃座の死角へ向かって、まっすぐに、疾走する。運転席には、レイジ。峡谷の始末を終えて、南へ回り込んだのだ。

     ボリスの銃座が、唸りを上げて、旋回した。

     ダダダダダダダッ!

     曳光弾の赤い糸が、幾筋も、白い車体を追った。アスファルトが、点線状に爆ぜ、火花の帯が、ソアラの後ろを追いかける。リアガラスが、一瞬で、粉々に砕け散った。

    「……っ、の……!」

     ソアラは、蛇行した。コンテナの陰から陰へ。急ハンドル、急加速、急ブレーキ。三度がけのワックスの車体に、機銃の火線が迫り、届く寸前で、車体はまた次の鉄の陰に消える。

     ダダダダッ! ――一列のコンテナが、弾痕で穴だらけになった。

     ダダダダダッ! ――ボンネットの端を、火線が掠め、塗装が飛び散った。

     港の図面が頭に入った男の運転だった。ハンドルを切るたび、車体が悲鳴じみたタイヤ音を上げ、アスファルトに黒い弧を描く。そして、その命懸けの鬼ごっこの数十秒が、勝負の全てだった。

     銃座が、ソアラに気を取られた数十秒。

     ジンナイの古株たちが、頭を上げた。巻き上げ機が、三基、同時に唸った。緩められかけていた舫いが、逆に、万力のように締まっていく。船体が、岸壁に、ぎしりと押しつけられた。もう、出られない。

     そして、ボリスのコンテナの真下に、いつの間にか、一人の男が立っていた。

     陣内豪。丸腰だった。両手を、だらりと下げて、コンテナの上の商人を、まっすぐに見上げていた。

    「――ロシアの。取引は、流れたぞ」

     銃座が、真下を向いた。向いたまま、撃たなかった。ボリスは、岩のような顔で、眼下の老極道を、値踏みするように見下ろした。

    「……あんた、九頭龍会の陣内か。荷の代金は、まだ貰ってない。商品はまだ、俺のものだ。俺の商品を、俺の船ごと、どうする気だ」

    「どうもせん。買い手が消えた、言うとるだけだがや。神崎恭弥の金は、月曜の朝に、日本の役所が全部押さえる。あれの手形は、もう紙屑よ。あんたが今夜ここで撃ち尽くして守るもんは、の、ロシアの――金を払わん客の、逃げ足だけだがや。商人の掟に、そがいな項目があるんかい」

     沈黙が、長く、続いた。

     重機関銃の銃口が、ゆっくりと、天を向いた。

     ボリスは、コンテナの上から、港の全景を、ぐるりと見渡した。止まったデリック。締め上げられた舫い。峡谷から立ち上る硝煙。散っていく白い粉の吹雪。五十年、戦争と商売の境目で生きてきた男の目が、この夜の損益計算書を、十秒で読み終えた。

    「……取引は、流れた」

     商人は、無線を取り、ロシア語で、短く三つ、命令を下した。船の作業灯が、一つずつ、消えていった。

    「日本の警察には、俺が自分で話す。荷ごと、な。その方が、まだ、商品の値が残る」ボリスは、最後に、眼下のジンナイに、岩のような顔のまま言った。「……いい港だった。物騒すぎるがな。極東で商売をして三十年、素手で機関銃を止めた男は、あんたが初めてだ」

    「褒めとるんか、それは」

    「悪口だ。長生きせんぞ、そういう男は」

    「知っとるわい。弟にも、よう言われた」

    十三 盤の外

    「あなたは、どこから来たんですか」

     クレーンの根元。作業灯の白い光の輪の中で、キョウヤの問いは、奇妙なほど静かに響いた。ふ頭のあちこちで、彼の帝国が音を立てて沈んでいく、その真ん中で、この男は、まるで喫茶店で相席の相手に尋ねるように、訊いた。

    「四年、観察しました。あなたの成長曲線は、私の知る全てのモデルから外れている。あなたは、この街の人間が誰も知らないことを、知りすぎていた。ペーパーカンパニーの連鎖。洗浄の三段階。バブルというものの、終わり方。……まるで、答え合わせを先に済ませてから、問題を解いているようだった。ずっと考えていました。仮説は三つ。外国の情報機関。どこかの財閥の影。それとも――」

    「――未来だよ」

     真司は、言った。

     隠す理由が、もう、なかった。この男に噓は効かない。効くのは、この男が一度も計算に入れたことのないもの――剥き出しの本当だけだ。

    「二〇二六年。お前が今夜ここから広げようとしたものの、三十七年後の盤面から来た。……お前のシンジケートはな、キョウヤ。俺の時代まで生き残るんだ。名前を変え、形を変えて。ほんで、俺の一番大事な人を、事務員として使い潰して、コンテナヤードに捨てた。……俺は、その報せを駅のホームで読んで、それから、ここに来た」

     キョウヤは、瞬きを、しなかった。

     長い沈黙のあと、眼鏡の男は、ゆっくりと、息を吐いた。それは、ため息ではなかった。もっと奇妙な――数式が解けた瞬間の、放心に近いものだった。

    「……ああ。解けた」

    「……」

    「四年の全ての矛盾が、その一変数で、解ける。美しいですね。信じられない仮説だが、信じられる仮説が他に残っていない以上、それが解だ。……そうか。私は、勝つんですね。この盤では負けても、歴史の盤では」

    「勝たない」

     真司は、一歩、踏み込んだ。

    「お前のシンジケートが生き残った未来はな、キョウヤ。お前がいない未来だ。調べたよ、俺の時代の記録を、頭ん中で何遍も。創業者の名前なんか、どこにも残ってない。組織だけが肥え太って、お前は影も形もない。分かるか? お前は今夜ここで消えても、逃げおおせても、どっちにしろ歴史から消えるんだ。お前の帝国は、お前を覚えてすらいない」

     初めて、キョウヤの顔から、色が動いた。

    「……それは」

    「それがお前の敗着だよ、キョウヤ。お前は人間を全部、値札で管理した。値札で動く組織はな、値札を貼った本人のことも、値札でしか覚えない。用済みになった創業者の値札は、ゼロだ。……タカシさんの謎かけ、覚えてるか。帳面に載らんもの。答えを言ってやる。四年観察して分からなかったろうから」

     真司は、胸ポケットから、血染めの手帳を出した。

    「勘定に合わないと分かっていて、それでもやる。それが人間だ。タカシさんは、撃たれると分かってて金曜のみなと屋を変えなかった。レイジさんは、貸した銃を『返しに来い』と言った。レンは、鎖に繋いだ張本人のくせに、六十人に頭を下げに戻った。ジンナイさんは、組を畳む夜に、丸腰で機関銃の下に立った。枝村さんは、自分の会社に国税を入れた。……全員、勘定はマイナスだ。全員、帳面に載らない。ほんでな、キョウヤ。お前が四年かけても潰せなかったのは、その帳面の外だけなんだよ」

     遠くで、サイレンが、生まれた。

     一つではない。何重にも重なって、ふ頭へ近づいてくる。神保管理官の「通常配置」が、通常ではない速度で、動き出した音だった。

     キョウヤは、サイレンの方角を見、それから、足元のアタッシェケースを見た。中身は、真司にも想像がついた。偽造旅券。無記名の債券。最後の、逃走用の駒。

    「……最後の取引を、提案します」

     キョウヤは、言った。声は、まだ平坦だった。だが、その平坦さが、初めて、努力の産物に見えた。

    「私を見逃す。対価は、情報です。あなたの帰り方。――考えたことがないとは、言わせない。来られたものが、帰れない道理はない。私なら、その仮説を立てられる。あなたが元の時代に帰り、恋人の死の前に立つ方法を、私の頭脳なら――」

    「いらん」

     真司は、遮った。

     自分でも、驚くほど、迷いがなかった。

    「その取引はな、キョウヤ。人の一番柔らかいとこに値札を貼る取引だ。……あの写真館の夜に、俺の師匠が、お前に言ったろ。いらん、って。同じ答えだ。二代目としてな」

     キョウヤは、真司の顔を、長いこと、見ていた。

     それから――笑った。

     真司が初めて見る、神崎恭弥の笑顔だった。それは勝者の笑いでも、負け惜しみでもなく、十三年間ずっと一人でチェスを指してきた男が、ようやく投了の握手の相手を見つけた、そういう種類の、ひどく年相応の笑いだった。

    「……ああ。負けました」

     アタッシェケースが、足元に、置かれたままになった。

     サイレンと、回転灯の赤が、ふ頭に雪崩れ込んでくる。県警の車列は、覆面も、白黒の通常パトカーも、すべて大和モーターズ製で統一されていた。先頭の車から降りてきたのは、銀縁眼鏡の管理官だった。その一歩後ろに続いたのが、県警SIT所属、神谷麻衣、三十一歳。神保が「今夜だけは、現場に女を一人、連れて行かせてくれ」と、上に頭を下げて引っ張り出した、数少ない腹心の一人だった。腰には、県警SIT仕様のニューナンブM60、そして予備に、護身用の特殊警棒。「拳銃は最後の手段。まず、この警棒で会話する」が、神谷の現場哲学だった。

     神谷は、キョウヤの護衛――生き残った白人の男を、警棒の一撃で膝から崩し、防弾ベストの上から手際よく組み伏せ、手錠をかけながら、部下たちに短く指示を飛ばした。「コンテナの峡谷、まだ流れ弾の危険あり。全員伏せて前進!」その声には、迷いも、気負いもなかった。

     神保は、まっすぐにキョウヤの前まで歩き、三十年分の背筋で、逮捕状を読み上げた。手錠の音が、二回、鳴った。

     連行の途中、キョウヤは一度だけ、足を止めた。

     警官の壁の向こうに、特攻服の男が立っていたからだ。レンは、ゆっくりと近づき、手錠の男の顔を、正面から見た。誰もが、殴ると思った。警官たちが身構え、真司すら、止めるべきか迷った。

     レンは、殴らなかった。

     代わりに、キョウヤの頭を、こつん、と小突いた。六十人のガキどもにやったのと、同じ、赦しの作法で。

    「――次は、最初っから仲間に入れて言え。たわけ」

     キョウヤは、何も答えなかった。

     ただ、護送車に乗り込む寸前、その眼鏡が、一瞬だけ曇ったのを、真司は見た。潮風のせいかもしれなかった。白い粉の名残の、吹雪のせいかもしれなかった。

    十四 夜明けの勘定

     朝が、来た。

     潮見ふ頭の夜明けは、真司がこの時代で見た、どの朝より、事務的だった。規制線。押収品の山。青いシートを担いだ鑑識の列。ボリスは宣言通り、船と荷ごと投降し、通訳を三人つぶす勢いで「商品の目録」を係官に講義していた。少年兵たちは、全員、補導という扱いで、体育館に集められた。留置場ではなく体育館。それは、神保が最後の力で通した、書類の上の小さな魔法だった。

     鑑識が、屋根から落ちた狙撃手の身元を、パスポートの偽名からではなく、歯科記録の国際照会で割り出したのは、その日の昼だった。

    「――女、だったのか」

     報告書を渡された真司は、思わず声を漏らした。

     名は、カタリナ・ロッシ。イタリア人の父とユーゴスラビア人の母を持つ、元NATO加盟国特殊部隊出身の、フリーランスの狙撃手。ヨーロッパの裏社会では、「音を立てない女」の異名で知られていたという。三月の雨の交差点で大滝タカシを撃ったのも、彼女だった。

     現場に残された装備からも、身元と符合する痕跡が出た。愛用の得物はレミントンM700――軍用にも民間にも流通する、癖のない、道具に徹した一挺。移動には、常に黒塗りのカワサキGPZ400を使っていたという。国境を越えるたび、銃も車も、現地調達で使い捨てにする主義だったというその中で、この二つの型式だけは、依頼のたびに律儀に同じものを選んでいたらしい。

     レイジは、その報告書を、黙って読んだ。読み終えると、静かに、目を閉じた。

    「……プロの中のプロだと思ったが、道理だ。息の止め方が、教科書通りすぎた」

    「知り合い、だったんですか」

    「いや。だが、ああいう手合いは、何人か見てきた。国と組織を渡り歩いて、最後には、腕そのものが、国籍も性別も、飲み込んでしまう」

     レイジは、立ち上がり、朝日に目を細めた。

    「弔う相手じゃない。だが、覚えておく価値はある。……大滝さんを撃った銃口の持ち主に、俺たちは、ちゃんと名前をつけてやれた。それだけで、あの夜の借りの、半分は返せた気がする」

     真司とレイジは、岸壁の縁に、並んで座っていた。

     白いソアラは、二十メートル後ろで、朝日を浴びていた。リアガラスは砕け、車体には三本の火線の傷。それでも、三度がけのワックスは、傷の間で、まだ白く光っていた。

    「……終わりました、かね」

    「終わってない」

     レイジは、即答した。

    「月曜に国税と地検が入る。裁判が始まる。押収品の目録作りに半年。少年たちの家の再建に、何年かかるか分からん。レンの薬は、まだ完全には抜けてない。……戦争が終わった朝はな、シンジ、いつもこうだ。派手な仕事が終わって、地味な仕事の山が残る。そして本当に街を作り直すのは、地味な仕事の方だ」

    「……タカシさんが言いそうなことを」

    「言いそうじゃない。言ってたんだ。二十年前の俺に」

     背後で、車の停まる音がした。振り返ると、みなと屋の軽バンだった。おばちゃんが、規制線の警官を「あんた誰の許可で飯止めるの」の一喝で黙らせ、荷台から、大鍋を降ろした。どて煮の匂いが、硝煙と潮の匂いの上に、湯気ごと広がった。

     規制線の内と外で、刑事も、極道の残党も、補導待ちの少年も、同じ丼から、同じものを食った。この街の朝の、それが正しい姿だという顔で、おばちゃんは、お玉を振るい続けた。

     規制線の外、報道陣の輪の中に、真司は見覚えのある顔を見つけた。高木由紀だった。他社の記者たちが遠巻きに眺める中、由紀だけは、規制線ぎりぎりまで詰め寄り、手帳にペンを走らせていた。目が合うと、由紀は小さく頷き、声を出さずに、口の形だけで言った。

     ――約束、忘れてないから。

     枝村の死を「三行」で終わらせた記者は、もう、この街にはいなかった。

     体育館に向かう補導の列の中に、真司は、見覚えのある顔を見つけた。

     十七、八の、痩せた少年だった。単車のヘッドライトが一つ消えた、あの夜、真っ先に降りた少年の一人だ。少年は、丼を受け取る順番を待ちながら、真司の方を、じっと見ていた。やがて、意を決したように、列を離れて、近づいてきた。

    「……あんちゃん」

    「?」

    「前に、自販機のとこで、しるこ、くれたよな。ラーメンの話とか、しょうもない話ばっかりしてくれた」

     真司は、記憶を辿った。蟻の巣掘りの三年、真司は情報を集めるため、黒狼會の若い衆に、何十回となく、他愛のない世間話を仕掛けてきた。顔を、いちいち、覚えてはいなかった。

    「……ユウタ、だったか」

     少年の目が、大きく見開かれた。名前を覚えられていたことが、意外だったらしい。

    「あんた、あんちゃん、あの時から、ずっと……知っとったんか。頭のこと。俺らのこと」

     真司は、少し迷って、頷いた。

    「知ってた。ごめんな。すぐには、助けられなかった」

    「……ええよ。別に」

     ユウタは、洟を啜り、それから、はにかむように笑った。

    「頭が言うとった。王が生きとるうちは、詰みやない、って。俺ら、それだけ信じて、待っとったんや。……あんちゃんが、その、王の隣で戦っとった人か」

    「隣、っていうか。……犬、みたいなもんだったよ」

    「ええ犬やん」

     ユウタは、丼を受け取り、列に戻っていった。数歩行って、振り返り、もう一度、頭を下げた。それだけだった。それだけで、十分だった。

     真司は、丼のどて煮を見つめた。湯気の向こうに、鉄格子越しの月を見上げていたはずの、名前も知らなかった少年の顔が、重なった。

     ジンナイが、丼を二つ持って、岸壁の縁に来た。一つを真司に押し付け、自分は立ったまま、食い始めた。

    「……若いの。弟の手帳は、どうする」

    「神保管理官の証言が済んだら、県警に返します。あの手帳は、警察の財産だから。……ただ、最後のページだけは、破って貰っていきます。あれは、俺宛ての私信なんで」

    「そうか」

     ジンナイは、どて煮を、豪快に啜った。

    「四人の飯の約束、聞いとるぞ。レンのたわけと、レイジと、お前と、わし。……秋にせえ。わしの仮釈放の身の上ではの、いろいろ、書類が要るんだがや。極道の足抜けにも、堅気の書類が要る。笑える話だらが」

    「ビールを一本、余分に頼みますね」

    「――当たり前だがや」

     朝日が、クレーンの林を、金色に縁取っていった。

     真司は、丼を持ったまま、その光を見ていた。四年前、腰を抜かした路地で見上げたネオンと、同じ街の光だとは、思えなかった。いや――同じなのだ。街は変わっていない。変わったのは、光の見え方の方だ。

     ポケットの中で、破り取った手帳の最後のページが、かさりと鳴った。

     ――ええ犬だった。

    「……犬は、卒業しましたよ。タカシさん」

     真司は、どて煮を、一口、食った。

     沁みるほど、うまかった。

     その三日後、神保の要請で、県警の家宅捜索班が、九頭龍会本部――あの、真司が四年前に一度だけ盃を交わした、代紋の下の建物へ踏み込んだ。

     名目は、キョウヤの通行料システムに関連する帳簿の押収。ジンナイは既に投降し、任侠の看板は、事実上、キョウヤの下請け機関に堕ちていた組織だ。強制捜査に、抵抗する者は誰もいなかった。

     真司は、神保に頼み込み、立会人としてついていった。タカシの遺した「蟻の巣」の続きを、自分の目で見届けたかったからだ。

     三階、奥の書庫。神棚の裏側に、隠し扉があった。

     開けた瞬間、鑑識係の若い捜査員が、息を呑む音がした。

     壁一面に、写真が貼られていた。何百枚と。几帳面に、ラベルが振られている。見覚えのある構図だった。学校帰りの制服姿。買い物帰りの主婦。庭先で遊ぶ子供。――黒狼會の若い衆の家族を写した、あの手口と、寸分違わない構図。

     だが、貼られていたのは、若い衆の家族の写真だけではなかった。

     ラベルの中に、真司の見知った名前が、いくつも混じっていた。

     所轄の交番勤務員。組織犯罪対策課の、係長クラス。かつてタカシの上司だった監察官。そして――

    「……嘘、だろ」

     真司の声が、掠れた。

     ラベルの一枚に、こうあった。《神保武久・管理官・家族構成》。写真には、神保の妻と、大学生の息子が、写っていた。日付は、つい先月。

     少し離れた棚には、別の一角があった。《桜庭志穂・巡査》。若い婦警の実家、両親らしき二人の姿を写した写真が、数枚。

    「……あの人、これを、盾に使うつもりやったんか」

     立ち会っていた神保が、写真の前で、長いこと、動かなかった。眼鏡の奥の目が、初めて、真司の前で、はっきりと揺れた。

    「……四年、あの男の帳面には、載っとらんはずやった」

    「神保さん……」

    「わしはの、真司さん。県警本部の中に、キョウヤの駒が三つ混ざっとる、いう話を、タカシから聞いた時、正直、半信半疑やった。……だけど、これを見て、分かった。駒は、三つやない。駒にされかけとった人間が、県警の中に、何十人もおったいうことだがや」

     神保は、震える手で、自分の家族の写真の入った袋を、証拠品として、丁寧に、封筒に収めた。

    「――脅されて、動かされた者と、動かされる前に、気づいて踏みとどまった者。その差は、紙一重だったんだろう。……この写真の束は、全部、地検に提出する。誰の家族が写っていようと、例外は作らん。それが、タカシの遺した蟻の巣を、最後まで掘り切る、いうことだがや」

     真司は、壁一面の写真を、もう一度、見渡した。

     キョウヤの帝国は、若者の未来だけでなく、この街を守るはずだった側の人間の家族にまで、値札を貼ろうとしていたのだ。値札を貼られた人間が、値札を貼られたことにすら気づかないまま、少しずつ、鎖に変わっていく。それが、この四年間、真司たちが本当に戦っていたものの、正体だった。

     この日押収された写真の束は、後の裁判で、キョウヤに対する余罪の一つとして、正式に立件されることになる。

    幕間 四

     ――秋。名古屋拘置所。面会室。

     アクリル板の向こうに、眼鏡の男が座った。拘置所の生活は、キョウヤの姿勢を、少しも崩していなかった。

    「……意外な面会人だ。星野さん」

    「差し入れを持ってきた」真司は、係官の検査を通った包みを、示した。「チェスの入門書。対人戦の、だ。中に、通信チェスのやり方が書いてある。俺は弱いから、いい勝負になると思う」

    「……どういうつもりですか」

    「タカシさんの手帳の受け売りだよ。『裏切っとると分かっとる口は、一番ええ口になる』。……お前の頭は、キョウヤ、この国の検察が今、喉から手が出るほど欲しがってる。シンジケートの海外の根っこ。お前しか知らない配管図。全部吐けば、求刑は変わる。吐かせるのは検事の仕事だが、吐く気にさせるのは、たぶん、俺の仕事だ。四年、観察されてきた礼に、今度はこっちが通う」

     キョウヤは、しばらく黙っていた。

    「……一つ、報告があります。あれから、考えていました。あなたの言った、私の消えた未来のことを」

    「ああ」

    「結論から言うと、盤面は既に変わった。あなたという変数が、四年動き続けた時点で、私の知る工程表の未来は、もう来ない。つまり、あなたの二〇二六年も、もう存在しない可能性が高い。……帰る場所が消えたかもしれないのに、あなたは昨夜の取引を、断ったんですよ。分かっていましたか」

    「分かってたよ」

     真司は、即答した。

    「その上で言うがな、キョウヤ。未来ってのは、帰る場所じゃない。届ける場所だ。俺が帰れるかどうかより、あの粉と、あの写真の帳簿が三十七年先に届かないことの方が、俺には大事だ。……勘定に合わないだろ。それでいいんだよ。それが、お前の帳面に載らなかったものの、使い方だ」

     面会時間の終了を、係官が告げた。

     立ち上がった真司の背中に、アクリル板の向こうから、声が届いた。

    「――ポーンの、e4」

     真司は、振り返った。眼鏡の男が、生まれて初めて対局を申し込む顔で、座っていた。

    「最初の手です。次の面会までに、応手を考えておいてください。……言っておきますが、手加減はしません」

    「上等だよ」

    終章 二〇二六年、味仙

     その年の大晦日、真司は、白いソアラで、夜の名古屋港へ行った。

     助手席には、レイジから「今夜だけだ」と念を押されて借りたままの、返しそびれている銀色のガバメント――ではなく、みなと屋の折り詰めが載っていた。年越しどて煮。おばちゃんの発明だった。

     ふ頭の突端に車を停め、真司は、一年を勘定した。

     秋の「四人の飯」は、実現した。ジンナイは書類を通し、レンは薬を抜き、レイジは相変わらず洗車場にいて、しかし洗うのは今や、少年たちの更生施設の送迎バスだった。裁判は続き、地味な仕事の山は、地味に、崩され続けていた。神保は全てを証言して辞め、いまは息子の家で盆栽をやっているという。枝村の娘は、大学に受かった。

     美咲は、まだ、生まれてもいない。

     あと十数年すれば、この街のどこかで生まれる。真司の知る歴史が消えたのなら、あの子は、シンジケートのない名古屋で育ち、真司と出会うことも、たぶん、ない。それでいい、と思えるまでに、一年かかった。

     ――秋の「四人の飯」は、今池の、あの中華料理屋だった。

     味仙の、一番奥のテーブル。ジンナイが、仮釈放の書類仕事をようやく終えた日を選んで、店を丸ごと予約した。おばちゃんは店主ではないのに、なぜか厨房に立って、どて煮を大鍋で炊いた。「味仙で、うちのどて煮を出す」という無茶を、店主は最初渋ったが、おばちゃんの一喝で、渋々、コンロを一つ、貸した。

     レンは、久しぶりに見る顔だった。薬は抜け、頬に、健康な色が戻っていた。だが、目つきだけは、まだ十六の少年たちの前で頭を下げたあの夜のまま、何かを背負う男の目をしていた。

    「――秋やのに、辛ラーメンかい、レン」

     レイジが、あきれた顔で言った。レンは、額の汗を拭いながら、口いっぱいに麺を頬張った顔で、答える。

    「兄貴分の趣味を継いだんですわ。……アオって奴が、味仙が好きやったらしいて」

     アオ。空いた席の隣に置かれた、一本のビール瓶。ジンナイの弟分で、白い夜の交渉で命を落とした男の名だと、真司は後で聞いた。ここにはいない仲間の分の一本を、テーブルの隅に立てておくのが、この街の極道の、供養の作法だった。

    「――アオさんに」

     真司は、瓶に向かって、コップを軽く掲げた。他の三人も、それぞれのやり方で、瓶に向かって、頭を下げたり、乾杯の仕草をしたりした。

    「真司よ」

     ジンナイが、丼を置いて言った。

    「タカシの奴、いっぺんも、わしに礼を言わんかった。生きとる間、一遍もだがや。……せやのに、あいつが死んでから、街のあちこちで、あいつの世話になった話ばっかり聞く。枝村の娘の学費、こっそり工面しとったこと。撮影係の興信所、廃業の際に、退職金がわりの銭を、自腹で立て替えとったこと。……あいつは、勘定に合わんことばっかりしとった」

    「はい」

    「お前も、そうなりよるんか」

     真司は、少し考えて、答えた。

    「――なると思います。もう、勘定合わせる生き方には、戻れないんで」

     その夜、真司はふと、二〇二六年の駅のホームの記憶を、思い出した。いつもと違ったのは、その記憶が、もう痛みだけではなかったことだ。あの夜のことも、美咲を失ったことも、変えられない事実として、真司の中にある。だが今の真司には、その事実の隣に、この街で積み上げてきた勘定が、確かに、並んで置かれていた。

     ――過去は消えない。だが、過去だけが、自分の全部じゃない。

    「そうか」

     ジンナイは、それだけ言って、丼のどて煮を、また啜った。

     レイジが、コップを回しながら、窓の外を見た。

    「――なあ、レン。お前んとこの、更生施設の話やが」

    「はい」

    「洗車のバイト、募集しとるか。俺、右足はこの通りやが、洗車の腕は、まだ落ちとらん」

    「――ちょうど、人手不足だったとこですわ」レンは、箸を置いて言った。「去年の入管法の改正で、豊田の工場に、日系ブラジル人の出稼ぎが、どっと増えたんです。うちの施設にも、親の仕事の都合で流れてきた若いのが、何人か転がり込んできてて。……その中に一人、車いじりが好きな奴がおって。日本語はまだたどたどしいですけど、筋はええですよ」

    「名前は」

    「ロベルト・ヤマシタ。曽祖父さんが、戦前に移民した口だそうで。……あいつ、レイジさんの噂、どこで聞いたんか知らんが、『伝説の洗車、教えてほしい』言うて、しつこいくらい。会うたら気に入りますよ、兄さんも」

    「……ヤマシタ、いうんはの」

    「ポルトガル語と、日本語、両方喋る、いうことです。名前が二つあるんは、あの子らにとっては、普通のことみたいで」

     レイジは、少し黙り、それから、珍しく、口の端を上げた。

    「――面白い。洗車の作法に、国境はない。教えてやる」

    「兄さんに、教えてもらえるんなら、こっちが頭下げたい話です」

    「大袈裟な」

     窓の外を、貨物列車の警笛が、遠く、長く、渡っていった。三十四年後、真司の生まれるはずだった夜と、よく似た音だった。四人は、それぞれ、少しの間、黙って、その音を聞いていた。誰も口にしなかったが、全員が、同じことを考えていた。ここにいない、二人のことを。

    「……なあ、タカシさん。俺、この時代で、生きていきますよ」

     真司は、夜の海に向かって、言った。

    「レイジさんに銃も返さなきゃいけないし、キョウヤとのチェスも、まだ三連敗中だし。レンのたわけが施設の運営で困っとるし。……こっちの勘定が、全然、終わらんのですわ」

     海風が、応えるように、吹いた。

     その夜遅く、アパートへ戻る途中の交差点で、信号待ちのソアラの前を、貨物列車の長い警笛が、遠くから渡ってきた。

     二〇二六年の、始発前のホームの音に、よく似ていた。

     真司は、目を閉じた。

     閉じて、開けた時、そこはまだ、平成四年の交差点だった。信号が青になり、真司は、笑って、アクセルを踏んだ。


     ――ここからは、ずっと後の話だ。

     二〇二六年、七月。

     名古屋市千種区、今池。中華料理屋《味仙》の奥のテーブルで、一人の女が、激辛の台湾ラーメンを、汗だくで啜っていた。

     遠野美咲、二十四歳。市内の物流会社の、経理事務員。堅気の、まっとうな、少し残業の多い会社だった。彼女の勤め先が「やばい仕事」だったことは、この歴史では、一度もない。

     スマホが、鳴った。

     画面には、高校の同級生の名前。星野真司。専門学校を出て、今は港湾関係の会社で調査の仕事をしている、と風の噂で聞いた男。逃げ癖が抜けた、とも聞いた。何があったのかは、知らない。

    『久しぶり。誕生日おめでとう。……今度、味仙奢るわ。激辛の』

     美咲は、麺を咥えたまま、ぷ、と噴き出した。

    『は? 今まさに味仙おるんですけど。てか奢るの早く。卒業から何年待たせる気』

     返信は、すぐに来た。

    『ごめん。ちょっと長い回り道してた。もう逃げん』

     

     少し迷ってから、美咲は、返信を打った。

    『了解。奢られてやる。……で、いつ』

    『来週の金曜、空いてる?』

    『空いてる。あ、でも今度は激辛じゃなくて、普通のにする。喉が持たん』

    『それは残念。俺、実はここ数年、辛いのばっかり食ってて、舌が馬鹿になった説がある』

     美咲は、また噴き出した。テーブルの向かいで、同僚が「彼氏?」と冷やかす。「違う、ただの同級生」と返しながら、美咲は、スマホをテーブルに伏せた。伏せてから、三十秒もしないうちに、また裏返して、画面を確認した。

    『金曜、楽しみにしとく』

     既読が、すぐについた。

     既読だけがついて、しばらく返事がない。そのことに、美咲は苛立つどころか、なぜか少しだけ、安心した。既読をつけてすぐに返さない人は、たぶん、既読の重みを、ちゃんと分かっている人だ。理屈にならない理屈だったが、美咲の中では、それで十分な気がした。

     美咲は、その一文を、何度か、読み返した。

     なぜだか、泣きそうになった。理由は、自分でも分からなかった。ただ、画面の向こうの「もう逃げん」という四文字に、この人はきっと、自分の知らないどこかで、長い長い何かと戦ってきたのだろう、という確信だけが、根拠もなく、胸に降りてきた。

    美咲の同僚が、伝票を覗き込みながら言った。

    「ね、遠野さん。さっきから何、にやにやしてんの」

    「べつに」

    「絶対、何かある顔してる」

    「……ただの、同級生からの、誕生日メッセージ」

     美咲は、そう言って、水のグラスの水滴を、指先でなぞった。同級生、という言葉が、自分の口から出た瞬間、思ったより軽く響いたことに、少しだけ驚いた。四年ぶりの連絡のはずなのに、なぜか、ずっと続いていた会話の続きのような、変な感覚があった。

    「ふうん。まあ、いいけど。ラーメン伸びるよ」

     美咲は、伸びかけの麺を、慌てて啜った。

     彼女は、麺の残りを啜り、水を、もう一杯、頼んだ。

     美咲は、水を一口飲み、それから、少し照れたように、独り言を漏らした。

    「……回り道、か。まあ、いいけど。金曜、遅刻すんなよ」

     誰も聞いていない独り言に、律儀に返事をするように、スマホがもう一度、震えた。

     窓の外、今池の商店街を、七月の夕方の人波が、行き交っていた。物流会社の同僚から聞いた噂では、この街には、四十年近く前、まだ経済成長の名残があった頃、ちょっとした事件があったらしい。港の利権を巡る、暴力団同士の抗争。今ではもう、地元の古老が酒の席で語る昔話の一つに過ぎない。あの頃の名古屋港が、その後、日本でも指折りに治安のいい物流拠点として発展したことを、美咲は知っていたが、それが「なぜ」なのかまでは、考えたこともなかった。

     ――同じ頃。名古屋港の見える古いビルの一室。

     《星野調査事務所》の看板の下で、老人が二人、チェスを指していた。一人は、恐ろしく姿勢のいい、七十過ぎの男。もう一人は、眼鏡の、還暦前の男。傍らの壁には、色褪せた写真が飾ってある。どて煮の鍋を囲む、五人の男たち。若い真司と、レイジと、レンと、ジンナイと――写真の端、席だけが空けられた場所に、ビール瓶が一本と、古い警察手帳が、置かれていた。

    「……チェック」

    「ふん。いくつになっても、その手癖は直らんか」

     窓の外を、七月の風が渡った。

     枝村は、あの事件のあと、興信所を畳んで、今は小さな探偵事務所を、真司と共同で経営している。看板には《星野・枝村調査事務所》と書くべきところを、枝村が「儲かるまでは、お前の名前だけでいい」と言い張って、結局、真司の名だけが残った。看板書きの職人には、代金の代わりに、みなと屋のどて煮を三日分、届けたという。

     ――同じ夜。錦三丁目の、地下の店。

     看板は、少しだけ新しくなっていた。《Bar ノクターン》。先代のマスターの息子が、今は、カウンターの中に立っている。

     店の一番奥、階段に一番近い止まり木は、三十七年前と、寸分違わず、同じ場所にあった。ただし、そこに座る客は、もう誰もいない。

     支倉周平は、平成十一年の冬、九十を待たずに、静かに逝った。この店で最後の一杯を飲んだ晩も、彼はいつもと同じ酒を、同じ姿勢で飲み干し、いつもと同じように、勘定を置いて、帰っていったという。翌朝、部屋で冷たくなっているのが見つかった。まるで、あの止まり木こそが、彼の本当の家であったかのように。

     だが、店には、今も、一つの習慣が、残っている。

     毎晩、閉店の少し前、二代目のマスターは、誰に頼まれるでもなく、グレンリベットを一杯、ストレートで注ぎ、その空いた止まり木の前に、そっと置く。氷は入れない。水はチェイサーで、別に。

     誰も、それを飲まない。夜が更け、店を閉める頃、マスターは、静かにそのグラスを下げ、シンクに流す。それだけの、意味のない、勘定に合わない儀式。父から受け継ぎ、理由も、今となっては半分忘れかけている習慣。

     だが、たまに――本当に、たまにだが――常連の中に、その止まり木の前で、グラスに向かって、小さく頭を下げてから帰る客が、いる。歳の頃は、七十がらみ。右足を、少しだけ引きずっている。名は名乗らない。ただ、「シューさんの分、ありがとうございます」とだけ言って、水割りを一杯だけ飲み、静かに帰っていく。

     マスターは、その客が何者かを、詳しくは知らない。ただ、父の代からの引き継ぎ帳の、最後のページに、たった一行、書き添えられているのを、知っている。

    『――あの止まり木の酒だけは、絶やすな。帳面に載らんもんを、一つくらい、この店に置いといてやらんと』

     名古屋港は、今日も、ただの働き者の港だった。クレーンが荷を吊り、貨物船が汽笛を鳴らし、その音の下で、無数の堅気の勘定が、まっとうに、回り続けていた。

     三十四年前のあの夜、白い粉の吹雪の中で始まった未来は、どこにもない。

     あるのは、この、何でもない港だけだ。

     ――すべての挽歌は、いつか、誰かの応援歌になる。

     極東の、孤狼たちの街で。

    (了)

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門

     
     

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