『焔渡り ―玻璃島異聞―』
『焔渡り ―玻璃島異聞―』あらすじ
任務中、裏切りにより死んだ祓い師・燎は、常世庁との契約で蘇生し、諜報機関の偽装家族を組まされる。妻役の凄腕工作員・澪、幽耳を持つ娘役の孤児・灯里と暮らし始めた燎は、大穢「無銘」を崇める新興宗教の内偵に挑む。三十年越しの喪失に囚われた教祖、死者を兵器化する常世庁の闇、そして海を越えた大国との対立——偽りから始まった家族は、数々の悲しみに向き合いながら、本物の絆へと変わっていく。玻璃島の平和を守る、蘇生者と家族の物語。
## 第一章 炎番、堕つ
穢(え)というものは、死んでも死にきれなかった想いが、形を持ったものだ──と、燎(れい)は教わってきた。だが今、目の前で蠢いているそれは、想いというより、悪意そのものの塊だった。
人の形をなぞってはいるが、輪郭は絶えず歪み、顔の位置に大きく裂けた口だけがある。声はない。ただ、周囲の空気が軋むような、耳の奥に直接響く音を立てている。
「格が違う……」
燎は片膝をつき、右腕の焼け爛れた傷を押さえた。送り火衆(おくりびしゅう)、炎番(ほのおばん)の階級を持つ燎にとって、並みの穢に後れを取ることなどなかった。だが、この個体は違う。名もなき大穢──「無銘(むめい)」の眷属だと、上層部は言っていた。
「退け、燎。お前一人でどうにかなる相手じゃない」
背後で叫んだのは、同じ送り火衆の先輩、柊(ひいらぎ)だった。だが退く道はすでに、崩れた社殿の瓦礫で塞がれている。
「先に、行ってください。ここは、俺が」
「馬鹿を言うな!」
柊の声は届かなかった。裂けた口が大きく開き、燎の視界いっぱいに闇が広がる。最後に思ったのは、存外あっさりしたものだった。──ああ、俺はここで終わるのか。誰にも、ちゃんと「行ってきます」も言えないままで。
穢の一撃が、燎の胸を貫いた。痛みよりも先に、体温が抜けていく感覚があった。膝から崩れ落ち、瓦礫の上に仰向けに倒れる。夜空に、見慣れた玻璃島(はりじま)の月が浮かんでいる。ああ、最期に見る景色にしては、悪くない。
そう思った直後、視界が暗転した。
## 目次
- 第一章 炎番、堕つ
- 第二章 偽りの家、灯里という娘
- 第三章 初任務、社交界の穢
- 第四章 柊の忠告
- 第五章 常世の火、目覚める
- 第六章 選抜戦、鴉との邂逅
- 第七章 鴉の過去、届かなかった約束
- 第八章 地下の胎動
- 第九章 焔主就任、そして密命
- 第十章 灯里の初陣
- 第十一章 澪の過去
- 第十二章 慧海の招待状
- 第十三章 鴉の決断
- 第十四章 決行前夜
- 第十五章 私邸強襲
- 第十六章 千の声、一つの願い
- 第十七章 無銘、本性を現す
- 第十八章 千の悲しみとの対話
- 第十九章 最初の犠牲者
- 第二十章 目覚めと、慧海のその後
- 第二十一章 平穏の中の違和感
- 第二十二章 宵、再び
- 第二十三章 招聘の使者
- 第二十四章 拐かし
- 第二十五章 拳と拳、想いと想い
- 第二十六章 組織を超えた協力
- 第二十七章 無底の間
- 第二十八章 御室次官との対峙
- 第二十九章 届いた想い
- 第三十章 束ねた想い、御室を打つ
- 第三十一章 常世庁改革
- 第三十二章 偽りの家族、それから
- 第三十三章 鴉の新しい道
- 第三十四章 柊の縁談
- 第三十五章 澪の任務、燎の心配
- 第三十六章 運動会の穢騒動
- 第三十七章 鴉の縁談、逆転
- 第三十八章 柊の結婚
- 第三十九章 灯里の成長
- 第四十章 慧海の消息
- 第四十一章 新たな穢、旧市街の噂
- 第四十二章 長屋街の記憶
- 第四十三章 燈明学舎の学芸会
- 第四十四章 道玄ならぬ古老、水鏡翁の来訪
- 第四十五章 水鏡翁の稽古
- 第四十六章 燎と澪、正式な婚姻へ
- 第四十七章 灯里、送り火衆入りを決意
- 第四十八章 海の向こうからの報せ
- 第四十九章 玄天国の使者
- 第五十章 結集する仲間たち
- 第五十一章 羅刹との再会
- 第五十二章 灯里、海を渡る
- 第五十三章 和平の調印
- 第五十四章 水鏡翁の大往生
- 第五十五章 契約完済
- 第五十六章 静間、送り火衆への転属
- 第五十七章 万事相談、始めます
- 第五十八章 鴉と柊、それぞれの家庭
- 第五十九章 旧市街の記念碑、その後
- 第六十章 偽装、まだ続いてます
- 第六十一章 六道大会、開催決定
- 第六十二章 灯里、指導役に
- 第六十三章 澪の、隠しごとでもない秘密
- 第六十四章 燈明学舎、新たな入学者
- 第六十五章 もう一つの、家族の形
- 第六十六章 十年後の玻璃島
- 第六十七章 鴉、柊、それぞれの家族
- 第六十八章 灯里の選択
- 第六十九章 宗太の初陣
- 第七十章 灯る家、いつまでも
- 外伝一 宵、渡し方になった日
- 外伝二 柊、見合いの顛末(詳細版)
- 外伝三 澪、変装任務の裏側
- 外伝四 宗太の修行日記
- 外伝五 羅刹、その後の道
- 外伝六 灯里、孤児院への恩返し
- 外伝七 燎、生前の記憶
- 外伝八 ご近所さんの誤解
- 外伝九 慧海と雪乃、遠い日の約束
- 外伝十 灯番の、ある一日
- 外伝十一 鴉、不器用なプロポーズ
- 外伝十二 二つの衆、合同創設の由来
- 外伝十三 灯里と宗太、初めての共同任務
- 外伝十四 総真家の年越し
- 外伝十五 澪の後輩指導
- 外伝十六 新たな胎動
- 外伝十七 静間の贖罪、その先に
- 外伝十八 燎と澪、結婚記念日
- 外伝十九 鴉と柊、酒場での本音
- 外伝二十 灯里、二十歳の誓い
- 外伝二十一 家族写真、それぞれの一枚
- 外伝二十二 受け継がれる灯
- 外伝二十三 灯里、大穢との再会
- 外伝二十四 水鏡翁の墓前にて
- 外伝二十五 総真家、開業十五周年
- 外伝二十六 灯里と宗太、それぞれの誓い
- 外伝二十七 燎、宵との対話、それから
- 外伝二十八 家族会議、これからのこと
- 外伝二十九 継がれゆく灯
- 外伝三十 澪と灯里、母娘の時間
- 外伝三十一 燎、最後に思うこと
- 外伝三十二 柊太、燎太、次の世代へ
- 外伝三十三 燎、初めての父親参観
- 外伝三十四 灯里、初めての一人暮らし
- 外伝三十五 燎、水鏡翁に代わる者として
- 巻末付記 玻璃島三界設定資料
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目が覚めると、燎は闇の中に立っていた。いや、闇ではない。色というものが存在しない、灰色の凪(なぎ)の中だった。足元には水面のようなものが広がり、しかし波紋一つ立たない。
「ようこそ、常世(とこよ)の渡り場へ」
声のした方を見ると、白い狩衣(かりぎぬ)に身を包んだ、年齢不詳の女がそこにいた。長い黒髪、能面のように整いすぎた顔。だが目だけは、ひどく人間くさく、面白がるような光を宿していた。
「あんたは……」
「常世庁(とこよちょう)、渡し方(わたしがた)の司(つかさ)。名は、宵(よい)と申します」
宵と名乗った女は、燎の周りをゆっくりと歩きながら、値踏みするような視線を寄越した。
「総真燎(そうま れい)。二十四歳。送り火衆炎番。……死因、大穢の眷属による貫通創。享年、若すぎますねえ」
「……ここは、あの世か」
「渡り場、です。あの世でも、この世でもない。──どちらへ渡るかは、これから決めていただきます」
宵は指を一本立てた。
「一つ。このまま渡し舟に乗り、常世の奥深くへ渡る。二度と、こちらの世には戻れません」
もう一本、指を立てる。
「二つ。常世庁と契約し、身体を借り受けて、現世(うつしよ)へ戻る。ただし、ただでは戻れません。相応の代償と、相応の仕事が付いてまいります」
燎は、しばらく黙っていた。柊の顔が浮かぶ。まだ何も返せていない恩がある。それに──穢に殺されたまま、指を咥えて見ているのは、性に合わない。
「仕事、というのは」
「察しがよろしい」
宵は、初めて笑ったように見えた。
「玻璃島には、表と裏、二つの顔を持つ機関がございます。表は諜報機関、灰羽衆(はいばしゅう)。裏はあなたのいた、送り火衆。──近ごろ、この両者が同時に追っている一件がございましてね」
「無銘、か」
「ご存知の通り。大穢『無銘』を崇める新興宗教が、島の要人に食い込みつつある。灰羽衆は政治的に、送り火衆は霊的に、それぞれ内偵を進めておりますが……どちらも、決め手を欠いております」
宵は、燎の目の前に立ち止まった。
「そこで、常世庁からのご提案です。──あなたには、蘇生していただいた上で、灰羽衆の潜入工作員として、とある任務に就いていただきます。表向きは、偽りの家族を演じ、標的の懐深くへ入り込む。裏では、送り火衆の技を使い、無銘の気配を探る」
「偽りの、家族……?」
「詳細は、着任後に。──ああ、それと」
宵は、燎の胸のあたりを指差した。ちょうど、致命傷を負った場所だ。
「蘇生の代償として、あなたの身体には、常世の火が灯ります。半分死者、半分生者。──使い方を誤れば、二度目の死は、今度こそ後がございません。それでも、よろしいですか」
燎は、瓦礫の中に倒れた自分の姿を思い出した。まだ、終われない。まだ、何も返せていない。
「……やる」
「結構」
宵は、袖の中から一枚の札を取り出し、燎の額に貼り付けた。
「契約成立。──総真燎、蘇生の代償、常世契約十万灯(とう)。返済完了までの間、常世庁及び灰羽衆の任務に従事すること。以上」
視界が白く染まり、燎は再び、重い瞼を持ち上げた。
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目を開けると、そこは見知らぬ天井だった。清潔な白い部屋、消毒液の匂い。玻璃島総合医院の一室だと、後になって知る。
「気が付いたか」
声のした方を見ると、ベッド脇の椅子に、見覚えのない女が座っていた。年の頃は二十代後半、切れ長の目に、隙のない佇まい。だが、その膝の上に置かれた手は、驚くほど傷だらけだった。
「あんた、は」
「澪(みお)。今日からお前の、偽装上の妻だ」
澪と名乗った女は、感情の読めない声で、淡々と続けた。
「灰羽衆、対内偵一課所属。今回の任務、『無銘信仰』内偵作戦のパートナーだ。──よろしくな、旦那」
「妻、って……」
「文句は聞いてない。上の決定だ」
澪は、懐から一枚の写真を取り出し、燎の目の前に突きつけた。写っていたのは、六、七歳ほどの女の子だった。
「もう一人いる。娘役だ。──名前は灯里(あかり)。孤児院からの引き取りだが……普通の子供じゃない」
「普通じゃない、とは」
澪の声が、わずかに硬くなった。
「──穢の、声が聞こえるらしい」
燎は、天井を見上げた。死んでから、まだ数時間しか経っていないというのに、事態はすでに、燎の理解の速度を追い越して転がり始めていた。
偽りの家族。半分死者の身体。声を聞く娘。そして、その先にいる大穢「無銘」。
──面白くなってきた、と思う自分がいることに、燎は少し呆れた。死んでもなお、性分というのは変わらないものらしい。
## 第二章 偽りの家、灯里という娘
退院した燎が案内されたのは、玻璃島の外れ、霊灯(れいとう)通りに面した一軒家だった。木造二階建て、庭には小さな柿の木が一本。表札には、すでに「総真」の姓が掲げられている。
「今日からここが、お前の家だ」
澪は、鍵を放って寄越した。慣れた手つきで玄関を開け、勝手に上がり込んでいく。まるで、以前からここに住んでいたかのような足取りだった。
「……お前、この家は初めてじゃないのか」
「三日前から、荷物を運び込んでいる。作戦に、準備期間なんてものはない」
澪は振り返らずに答えた。燎はその背中を追いながら、居間に入る。そこには、すでに一人の少女が座っていた。
年の頃は七歳ほど。癖のある黒髪を二つに結び、大きな目でじっとこちらを見つめている。膝の上には、古びた縫いぐるみを抱えていた。
「──おかえりなさい、お父さん」
少女は、澪と同じくらい淡々とした声で、そう言った。だが、その声の奥に、微かな緊張が滲んでいるのを、燎は聞き逃さなかった。
「灯里、だな」
「はい。今日から、よろしくお願いします」
律儀に頭を下げる灯里を見て、燎は少し肩の力を抜いた。事前に聞いていた話では、もっと得体の知れない子供を想像していたが、目の前にいるのは、どこにでもいそうな、少し大人びた女の子だった。
「灰羽衆からの説明は、受けているな」
澪が、燎の隣に腰を下ろしながら言った。
「標的は、『無銘信仰』の主宰、慧海(えかい)。表向きは、島の実業家や政治家に取り入る新興宗教の教祖だが、実際は大穢『無銘』を呼び覚まそうとしている疑いがある。……お前は元・炎番として、霊的な観点から慧海の周辺を探れ。私は、社交界での接点を作る」
「灯里は」
「私の役目は、みんなの話を聞くことです」
澪の代わりに、灯里が答えた。
「──穢の声も、人の声も。この家では、聞こえたことは、全部お父さんとお母さんに教えることになってます」
「なら、これから世話になる」
燎がそう言うと、灯里は初めて、小さく笑った。それは、大人びた口調とは裏腹に、年相応の、少し照れたような笑みだった。
「……本当の家族じゃない、っていうのは、分かってます。でも」
灯里は、縫いぐるみを抱きしめ直した。
「孤児院にいた時より、ずっと、ちゃんとした『家』の匂いがします。だから、いいかな、って」
その言葉に、澪が一瞬、何か言いたげに口を開きかけて、結局黙った。燎は、その微妙な間合いを見て取ったが、あえて何も聞かなかった。
この家には、まだ、それぞれの事情という名の壁がある。それでいい、と燎は思う。──偽りから始まった家族が、いつか本物になるかどうかは、これからの積み重ね次第だ。
「一つ、聞いていいか」
燎は、居間の窓から見える柿の木を眺めながら、澪に尋ねた。
「灯里の能力は、灰羽衆の連中も知っているのか」
「表向きは知らない。──灰羽衆に登録されている書類上は、『情操教育のため引き取った孤児』となっている。灯里の本当の能力は、送り火衆と、常世庁の一部しか把握していない」
「なぜ、隠す」
澪は、初めて燎の目をまっすぐ見た。
「灯里のような『声を聞く』人間は、過去に何人も、道具として扱われてきた。……使い潰された者もいる。私は、あれを二度と繰り返させたくない」
その言葉には、燎の予想以上に、感情が乗っていた。澪という女が、ただの冷徹な工作員ではないことを、燎はそこで初めて知った。
「分かった。俺からも、灯里を『道具』として扱う気はない」
「……そうか」
澪は、それだけ答えると、キッチンへ立って行った。夕餉の支度をする気配がする。包丁の音が、思いのほか手慣れていた。
その夜、三人で囲んだ食卓は、ぎこちなく、静かなものだった。だが燎は、その静けさの中に、悪くない何かが芽生えつつあるのを、確かに感じていた。
## 第三章 初任務、社交界の穢
最初の任務は、慧海主催の慈善パーティーへの潜入だった。玻璃島の名士たちが集う夜会で、澪は流暢な社交辞令を操りながら、燎の腕を取って会場を歩いた。
「肩の力を抜け。お前は今、実業家に成り上がった元・軍人だ。目つきが鋭すぎる」
「これでも、抑えてる方だ」
燎は、慣れない燕尾服の襟を直しながら苦笑した。灰羽衆が用意した偽の経歴によれば、燎は「地方で製材業を営む傍ら、霊灯機関の発明で財を成した男」ということになっている。付け焼き刃の知識を、道すがら澪に叩き込まれていた。
会場の奥、一段高い場所に、慧海が立っていた。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた、穏やかな笑みを絶やさない初老の男。だが燎は、その男に近づくにつれ、肌がぴりぴりと粟立つのを感じた。
「──いる」
「何が」
「穢の気配だ。……薄いが、あの男の周りに、まとわりついてる」
澪が、扇子で口元を隠しながら小声で言う。
「本人が呪われているのか、それとも」
「分からん。だが、この規模の気配を平然と纏っていられる人間は、そう多くない」
その時、慧海がこちらに気付いたように視線を寄越した。作り物めいた笑みを浮かべ、こちらへ歩いてくる。
「ようこそ、総真さんご夫妻。噂の発明家殿とお会いできて光栄です」
「こちらこそ、慧海様。素晴らしい会ですね」
澪が、完璧な社交用の笑みを返す。慧海は、燎の顔をじっと見つめた後、ふと視線を落とした。
「──失礼、少々霊感が働くたちでしてね。総真さんは、少々……『縁起』が変わった方に見える」
燎の背筋に、冷たいものが走った。この男、勘付いている。
「気のせいでしょう。私はただの、しがない実業家です」
燎は、平静を装って答えた。慧海は、しばらく燎を見つめた後、ふっと笑みを深くした。
「そうですか。──では、良い夜を」
慧海が去った後、澪が扇子の陰で囁いた。
「勘のいい男だな」
「ああ。あれは、ただの新興宗教の教祖の器じゃない」
その夜遅く、家に戻った燎たちを、灯里が起きて待っていた。
「お帰りなさい。……あの、変な声を聞きました」
「変な声?」
「今日、パーティーの方角から。──『まだ、足りない』って、ずっと繰り返してる声」
灯里は、不安げに縫いぐるみを抱きしめた。
「男の人の声じゃなくて……もっと、たくさんの声が重なったような。悲しくて、怖い声でした」
燎と澪は、顔を見合わせた。「まだ、足りない」──それが何を指すのか、この時点では分からない。だが、良くない予感だけが、確かに三人の間に広がっていった。
## 第四章 柊の忠告
数日後、燎の元へ、思わぬ来客があった。かつての上司、柊(ひいらぎ)である。
「生きていたのか、じゃない。──もっと早く、顔を出せ」
霊灯通りの家の裏口から、こっそり上がり込んできた柊は、開口一番、燎の胸倉を掴んだ。だが、その目には安堵の色が濃く滲んでいる。
「すみません。色々と、事情がありまして」
「事情は、常世庁から聞いている。……蘇生して、灰羽衆の潜入工作、か。とんでもない星の下に生まれたもんだ、お前は」
柊は、居間の座布団にどっかりと腰を下ろすと、懐から一枚の書類を取り出した。
「送り火衆側から、内密に伝えておく。──『無銘信仰』の教祖、慧海の正体だ」
「正体、というと」
「あの男、元は送り火衆の焔主(えんしゅ)候補だった。三十年前、任務中に大穢との接触実験に関わり、行方をくらませている」
燎は、息を呑んだ。焔主候補といえば、送り火衆の最高幹部に次ぐ実力者だ。
「その男が、今度は大穢を崇める側に回った、と」
「正確には、崇めているんじゃない。──*取り込もうとしている*、が正しい」
柊の声が、低くなった。
「無銘という大穢は、単体の怪異じゃない。無数の、行き場を失った死者の未練が寄り集まってできた、集合体だ。慧海は、あれを己の内に取り込み、常世と現世、両方に干渉できる存在になろうとしている」
「なぜ、そんなことを」
「知らん。……だが、噂では、三十年前の実験で、慧海自身が大切な人間を喪ったらしい。それを、取り戻すためだという話もある」
燎は、しばらく黙った。動機が分からない敵より、動機のある敵の方が、時に厄介だということを、燎は身をもって知っている。
「一つ、頼みがある」
柊は、燎の目をまっすぐ見た。
「近く、送り火衆で選抜戦が行われる。焔主候補を選ぶための、公式の御前試合だ。……お前、出ろ」
「俺は、灰羽衆の潜入任務中だ」
「知っている。だが、これは同時に、慧海への牽制にもなる。──かつての焔主候補の席が、まだ埋まっていないことを、慧海本人に見せつけてやるんだ。それに」
柊は、少し声を落とした。
「お前が選抜戦で焔主になれば、送り火衆の内部から、堂々と無銘の情報にアクセスできるようになる。灰羽衆の裏工作と、送り火衆の表舞台、両方から慧海を追い詰められる」
燎は、澪の方を見た。台所の陰から、話を聞いていたらしい澪が、小さく頷いた。
「灰羽衆側の許可は、私が取る。悪くない話だ」
「……分かった。出る」
燎の返事に、柊はようやく、いつもの不器用な笑みを見せた。
「無理はするなよ。──お前はもう、一度死んでいるんだ。二度目は、洒落にならん」
「肝に銘じます」
柊が帰った後、燎は縁側に座り、月を見上げた。選抜戦、慧海、無銘。まだ見ぬ敵の輪郭が、少しずつ、しかし確実に、闇の中から浮かび上がってきていた。
## 第五章 常世の火、目覚める
選抜戦を前に、燎は自主的な修行を始めた。とはいえ、以前のような炎番としての技は、蘇生した身体には通用しない部分が多かった。
「動きが、鈍い」
庭先で型稽古をする燎を見て、澪が呟いた。
「生前の癖が抜けていない。お前の身体はもう、生きている人間のものじゃない」
「分かってる。……だが、勝手が違いすぎる」
燎は、額の汗を拭った。以前は容易くできた踏み込みが、今は妙に重い。かと思えば、瞬間的に、常人離れした速度が出ることもある。制御が利かないのだ。
「──お父さん」
縁側から、灯里が声をかけてきた。
「さっきから、お父さんの身体、変な音がしてます」
「音?」
「はい。……たき火の音、みたいな。パチパチって。普通の人からは、しない音です」
燎は、自分の胸に手を当てた。宵の言葉を思い出す。──常世の火が灯る、と。
「見せてみろ」
澪が、燎の手首を取り、脈を診るように目を閉じた。しばらくして、驚いたように目を開く。
「……本当だ。お前の中に、二つ、鼓動がある」
「二つ?」
「一つは、蘇生した肉体の鼓動。もう一つは……もっと深いところで、別のリズムを刻んでいる。常世の火、というのは、これのことか」
澪は、送り火衆出身だけあって、こうした霊的な事象にも通じているようだった。
「感覚的には、分かる。……力を引き出そうとすると、二つの鼓動が、無理に合わさろうとする。その瞬間、身体が言うことを聞かなくなる」
「なら、合わせようとするな」
澪は、意外なことを言った。
「二つのリズムを、無理に一つにしようとするから、制御を失う。──むしろ、二つのまま、交互に使い分けろ。生者の技には生者の鼓動を、死者の力には常世の鼓動を」
燎は、澪の言葉を反芻しながら、もう一度、型に入った。今度は、意識を分けてみる。踏み込みは、生きていた頃の身体の記憶に任せ、最後の一撃だけ、胸の奥の、あの冷たい炎のリズムに委ねる。
瞬間、燎の拳から、青白い炎がわずかに立ち上った。生前には決して見たことのない現象だった。
「……これが」
「常世の力、だな」
澪は、腕を組んで燎を見つめた。
「使いこなせれば、大穢相手にも、格上との差を埋められるかもしれない。──だが、諸刃の剣だ。無理に引き出しすぎれば、常世の鼓動が生者の鼓動を呑み込む。……つまり」
「二度目の、本当の死、か」
「そういうことだ」
燎は、拳に残る青白い炎の名残を見つめた。この力は、諸刃の剣であると同時に、今の燎にとって、選抜戦を、そしてその先の慧海との対峙を、生き延びるための唯一の武器でもあった。
「灯里、今の音は」
「さっきより、ずっと落ち着いた音になりました。……お父さんの中の、二つの音が、ちゃんと会話してるみたいです」
燎は、灯里の言葉に、思わず苦笑した。──会話、か。悪くない表現だ。
選抜戦まで、あと十日。燎は、庭の柿の木に向かって、もう一度拳を構えた。
## 第六章 選抜戦、鴉との邂逅
選抜戦の会場は、送り火衆本部の地下に設けられた、円形の闘技場だった。石造りの壁に、無数の霊灯が青白く灯り、独特の緊張感を漂わせている。
出場者は八名。焔主候補の座を争う、送り火衆でも指折りの実力者たちだ。燎はその中で、唯一の「復帰組」だった。
「まさか、本当に戻ってくるとはな」
声をかけてきたのは、燎と同年代の男だった。烏羽色の髪を短く刈り込み、右目に大きな傷跡がある。
「鴉(からす)、か。久しぶりだな」
「久しぶりも何も、お前は死んだと聞いていた。──葬式にも出たんだぞ、俺は」
鴉は、皮肉めいた笑みを浮かべた。かつて、燎と焔主候補の座を争った、因縁の相手である。
「わざわざ蘇ってまで、俺と戦いたかったのか」
「そこまで殊勝な理由じゃない。……色々と、事情があってな」
「事情、ね」
鴉は、燎の全身を値踏みするように見た。
「お前の身体から、変な気配がする。──生きてる人間の気配じゃない」
「勘がいいのは、相変わらずだな」
「勘じゃない。……俺も、似たようなものを、知っている人間がいるからだ」
鴉の表情が、わずかに翳った。だが、それ以上は語らず、踵を返す。
「トーナメント表、見たか。──一回戦、俺とお前だ」
「知ってる」
「手加減はしない。焔主の椅子は、俺が座る」
「望むところだ」
鴉が去った後、燎は控室で、今一度、自分の胸に手を当てた。二つの鼓動。生者の技と、常世の火。使い分けの感覚は、まだ完全に掴めたわけではない。
開戦の銅鑼が鳴った。
燎と鴉は、闘技場の中央で向かい合う。観客席には、送り火衆の幹部たちが居並び、その中に、慧海の姿もあった。招待客として、この選抜戦を見届けているのだ。
「行くぞ」
鴉が地を蹴った。踏み込みの速さは、燎の記憶にあるものより、さらに鋭くなっている。三十年分──いや、燎が死んでいた間の空白の分だけ、鴉は強くなっていた。
燎は、生前の技で応じる。拳と拳がぶつかり合い、火花に似た衝撃が走る。互角、いや、わずかに鴉が押している。
「その程度か。……蘇生の噂も、大したことないな」
鴉の挑発に、燎は奥歯を噛んだ。だが、ここで焦って常世の火を使えば、澪の忠告通り、制御を失いかねない。
「まだ、これからだ」
燎は、呼吸を整えた。生者の技で崩し、隙を作る。その一瞬にだけ、胸の奥の冷たい炎を、拳の先に落とす。
次の交錯で、燎の拳が、青白い光を纏った。
「──それが」
鴉の目が、驚愕に見開かれる。燎の拳が、鴉の防御を紙のように貫き、鳩尾に突き刺さった。
鴉の身体が、闘技場の壁際まで吹き飛ぶ。荒い息を吐きながら、それでも鴉は立ち上がった。
「……なるほど。噂以上、か」
「まだ、終わらない」
燎の額に、汗が滲む。今の一撃で、胸の奥の二つの鼓動が、大きく乱れているのが分かった。長くは、保たない。
「面白い」
鴉は、口の端に薄く血を滲ませながら、笑った。
「その力、もう少し、見せてもらおうか」
二人の男の間に、再び火花が散った。観客席の一角で、慧海が、静かにその光景を見つめている。その目には、興味と、そして、どこか懐かしむような色が浮かんでいた。
## 第七章 鴉の過去、届かなかった約束
激しい打ち合いの末、勝負は燎の辛勝に終わった。最後の一撃で鴉が膝をつき、審判の旗が上がる。
「……参った」
鴉は、闘技場の床に座り込んだまま、荒い息の下で呟いた。
「まさか、死んだ男に負けるとはな」
「お互い様だ。……お前、以前より、明らかに強くなってる」
燎は、鴉の隣にしゃがみ込んだ。控室に戻る前、二人だけの短い会話が許されていた。
「強くならざるを得なかった、だけだ」
鴉は、傷だらけの拳を見つめながら、ぽつりと言った。
「お前が死んだ後、送り火衆の中で、大穢絡みの殉職が増えた。……俺の妹も、その一人だ」
燎は、息を呑んだ。
「妹が、灯番として初任務に出た日、大穢に襲われた。──俺は、間に合わなかった」
「……それは」
「同情はいらない。──ただ、俺は誓ったんだ。二度と、目の前で誰かを喪わないと。だから、強くなった。焔主になって、送り火衆の装備も、対応も、根本から変えてやると思って」
鴉の目に、燎は初めて、単なるライバル心以上のものを見た。
「慧海が、お前の妹の件に、関わっているのか」
「分からない。……だが、あの男が焔主候補だった頃、俺の妹が所属していた部隊の、装備更新を担当していたのは事実だ。因果関係は、証明できないが」
「もし、関わっていたら」
「殺す。……大穢がどうとか、動機がどうとか、俺には関係ない」
鴉の声には、燎も覚えのある、剥き出しの怒りがあった。かつて、澪が背中に負っていた傷だらけの手を思い出す。この島の裏側には、そうした喪失が、無数に積み重なっているのだろう。
「一つ、聞いていいか」
燎は、話題を変えるように尋ねた。
「お前が今、それでも送り火衆に残っているのは、なぜだ。復讐のためだけなら、もっと別のやり方もあったはずだ」
鴉は、しばらく黙った後、意外な答えを返した。
「妹が、灯番になりたいと言い出した時、俺は、反対したんだ。危ないから、やめとけ、と。……でも、あいつは言った。『誰かの声を聞いて、助けてあげたいから』、と」
鴉は、拳を握りしめた。
「あいつの想いを、俺が代わりに、続けてやりたいだけだ。復讐は、ついでだ」
「……そうか」
燎は、それ以上、何も言わなかった。ただ、鴉の肩を軽く叩き、控室へと戻った。
その日、選抜戦の結果、燎は決勝まで勝ち上がった。だが燎の胸には、勝利の喜びよりも、鴉の言葉と、まだ姿を見せぬ大穢「無銘」への、静かな警戒心の方が、色濃く残っていた。
その夜、家に帰ると、灯里が珍しく、真剣な顔で待っていた。
「お父さん。……今日、また『足りない』の声を聞きました。前より、ずっと近くから」
「近く、というと」
「送り火衆の本部の、地下から。──選抜戦の会場の、真下辺りです」
燎と澪は、顔を見合わせた。無銘の気配が、すでに送り火衆本部の足元にまで、忍び寄ってきている。決勝戦は、明日に迫っていた。
## 第八章 地下の胎動
決勝戦当日、燎は試合の前に、灯里の証言を柊に伝えた。
「地下、か。……確かに、本部の地下三階から下は、古い封印区画になっている。三十年前、大穢との接触実験が行われた場所だ」
「慧海が関わっていた、あの実験か」
「そうだ。実験失敗後、区画ごと封印され、以来、立ち入りは禁じられている」
柊は、渋い顔で腕を組んだ。
「決勝戦の後、内密に調べに行く。……お前も、来い」
「灯里は」
「今回は、連れて行かない方がいい。無銘の気配が濃い場所に、幽耳の子供を近づけるのは危険すぎる」
燎も同意した。澪に灯里を任せ、決勝戦へと向かう。
決勝の相手は、送り火衆でも最古参の実力者、老練な焔番(えんばん)候補だった。だが燎の意識は、半分以上、試合後に控える地下探索へと向いていた。
試合は、燎の判定勝ちで終わった。常世の火を無理に使わず、生前の技のみで丁寧に相手を崩す、堅実な勝ち方だった。
「──焔主候補、総真燎」
審判の宣言に、会場がどよめく。慧海も観客席から、静かに拍手を送っていた。その笑みの奥に、燎は何か、値踏みするような色を感じた。
夜、試合の熱気が引いた頃、燎と柊は、密かに本部地下へと降りた。三階から下は、確かに空気が違った。埃と、それ以上に濃い、澱んだ気配が漂っている。
「この先だ」
柊が、錆びついた鉄扉を開ける。その奥に広がっていたのは、無数の古い呪具と、床一面に描かれた巨大な陣だった。中央には、人型の窪みがある。まるで、何かを封じるための鋳型のようだった。
「これは……」
「三十年前の実験の跡だ。……この陣を使って、大穢の力を人間に移し替えようとしたらしい。結果は、失敗。実験の被験者は、行方不明になった」
「まさか」
燎は、慧海の顔を思い浮かべた。三十年前、大切な人間を喪ったという噂。実験の被験者。焔主候補だった過去。すべての点が、一本の線で繋がろうとしていた。
「柊さん。……この陣、まだ生きてますか」
燎が床に触れると、指先に、微かな熱を感じた。長く眠っていたものが、少しずつ、目を覚まそうとしている気配だった。
「生きている。……それも、最近、何者かが手を入れた形跡がある」
柊の声に、緊張が走った。
「慧海だ。……あの男は、この陣を使って、無銘との融合を完成させるつもりだ」
その時、陣の中央から、低い唸り声のようなものが響いた。人の声とも、獣の声ともつかない、無数の声が重なったような音だった。
「『まだ、足りない』」
燎の耳に、灯里が聞いたという声が、初めて直接届いた。
「『足りない、足りない……もっと、悲しみを』」
陣の中央から、黒い霧のようなものが、微かに立ち上り始めていた。柊が、燎の腕を引く。
「退くぞ。これ以上は危険だ」
「……ああ」
二人は、鉄扉を閉め、封印区画を後にした。だが、燎の脳裏には、あの声が、いつまでも残り続けていた。──「もっと、悲しみを」。無銘が求めているものの正体が、少しずつ、輪郭を持ち始めていた。
## 第九章 焔主就任、そして密命
焔主就任の儀は、送り火衆本部の大広間で、簡素に執り行われた。歴代焔主の名を刻んだ石版の前に立ち、燎は正式に、送り火衆最高幹部の一角に名を連ねることとなった。
「総真燎。本日より、焔主として、送り火衆の霊的防衛の全権を委ねる」
式を執り行ったのは、送り火衆の長老格、御館(みたち)という老女だった。齢は八十を超えるというが、目の光は鋭く、燎の内側まで見透かすようだった。
「──ところで」
式の後、御館は燎を人払いした部屋へ呼んだ。
「お前が、常世庁と契約した蘇生者だということは、聞き及んでいる。……普通なら、焔主の座になど、就けさせはせぬ」
「では、なぜ」
「慧海を止められるのは、今の送り火衆では、お前しかおらぬからだ」
御館は、静かにそう言った。
「三十年前、慧海が姿を消した実験の際、儂もその場におった。……あの男が求めていたのは、力ではない。人ひとりの、命だった」
「命、というのは」
「慧海には、許嫁がおった。同じく送り火衆の灯番でな。……大穢との接触実験の最中、暴走した穢に呑まれ、命を落とした。慧海は、それを救おうとして、禁じられた術に手を出したのだ」
燎は、息を呑んだ。慧海の三十年にわたる執念の根源が、そこにあった。
「無銘は、慧海が集め続けた、行き場のない死者の未練の集合体。……あの男は、無銘の中に、許嫁の魂の欠片を見出そうとしておる。だが」
御館の声が、低くなった。
「無銘は、もはや慧海の許嫁ではない。数多の未練が絡み合った末、まったく別の、悪意の塊になり果てておる。慧海は、それに気付いておらぬのか、気付いていながら、目を逸らしておるのか」
「……止めなければ、ならないんですね」
「そうだ。だが、慧海を単に討つだけでは、無銘は残る。無銘を祓うには、慧海の中にある、許嫁への想いそのものを、解いてやらねばならぬ」
御館は、燎に一枚の古い巻物を手渡した。
「これは、送り火衆に伝わる秘術、『渡し火(わたしび)の儀』の伝書だ。……未練を祓うのではなく、正しく渡してやるための術。使いこなせるかどうかは、お前次第だ」
燎は、巻物を受け取りながら、これまでの経緯を思い返した。偽装家族としての潜入、選抜戦、鴉との死闘、そして今、慧海という男の悲しい執念。すべてが、一つの結末に向かって収束しつつあることを、燎は肌で感じていた。
家に戻ると、澪と灯里が、いつものように夕餉の支度をして待っていた。
「焔主就任、おめでとうございます」
灯里が、精一杯の丁寧な口調で祝いの言葉をかけてくる。燎は、その頭を軽く撫でた。
「ありがとう。……だが、まだ終わっちゃいない。むしろ、ここからが本番だ」
「慧海の、正体が分かったのか」
澪の問いに、燎は頷いた。その夜、燎は御館から聞いた話を、澪と灯里に包み隠さず伝えた。話を聞き終えた澪は、しばらく黙り込んだ後、静かに言った。
「……人一人分の悲しみが、こんな大きな災いになるとはな」
「だからこそ、討つだけじゃ、駄目なんだ。……ちゃんと、渡してやらなきゃならない」
燎の言葉に、灯里が、そっと縫いぐるみを抱きしめた。
「慧海さんの、許嫁さんの声も……いつか、聞けるでしょうか」
「聞けるといいな」
燎は、そう答えるしかなかった。だが、その願いが叶うかどうかは、これから燎たちが挑む、大穢「無銘」との対決の結末に、すべてがかかっていた。
## 第十章 灯里の初陣
平穏な日常は、長くは続かなかった。ある夜、霊灯通り近くの小学校で、小規模な穢の出現が報告された。
「私が行く」
「駄目だ。今回は、俺と澪で対応する」
燎が止めるのも聞かず、灯里は玄関で靴を履いていた。
「あの声、聞こえるんです。……子供たちの、怖がってる声が」
灯里の目には、いつもの大人びた冷静さの奥に、譲れない何かが宿っていた。澪が、燎の肩に手を置く。
「連れて行こう。……危険はある。だが、灯里の力がなければ、穢の正確な位置も、正体も掴めない」
燎は、渋々頷いた。三人で、夜の学校へと向かう。
校舎の裏手、用務員小屋の陰に、小さな穢が蹲っていた。人の形にすら至らない、灰色の靄のような存在だ。だが、その靄の中から、微かな啜り泣きの声が漏れている。
「……この子」
灯里が、靄に向かって、そっと手を伸ばした。
「灯里!」
燎が制止する間もなく、灯里の手が靄に触れる。だが、穢は攻撃してこなかった。むしろ、灯里の手に、寄り添うように身を寄せてきた。
「──寂しかったんだね」
灯里の声に、燎と澪は、思わず動きを止めた。
「この子、学校で、いじめられて死んだ子です。……誰にも気付いてもらえなくて、ずっと、ここで泣いてた」
灯里は、澄んだ声で、靄に語りかけ続けた。
「もう、独りじゃないよ。……ちゃんと、送ってあげるから」
燎は、御館から授かった渡し火の伝書を思い出し、簡易な術式を組んだ。生前とは勝手の違う身体だが、常世の力を、慎重に、優しく引き出す。青白い炎が、灯里の手の周りに、そっと灯った。
「行っておいで」
灯里の言葉と共に、靄は、青い炎に包まれながら、静かに空へと立ち昇っていった。夜空に溶けるように、その姿は消えていく。
「……無事に、渡せたか」
澪の問いに、灯里は小さく頷いた。だが、その足元は、ふらついていた。
「灯里!」
燎が抱き止めると、灯里は、安心したように意識を失った。
「疲労だ。……心配ない。初めて、自分の力で穢を渡した反動だろう」
澪が、灯里の額に手を当てながら言った。燎は、灯里を背負い、夜道を歩きながら、複雑な思いを抱えていた。
この子は、まだ七歳だ。それなのに、すでに、死者の悲しみを一身に受け止める力を持っている。守ってやりたいと思う一方で、その力を、無下に閉じ込めることもできない。
「……お前も、悩んでいるのか」
澪が、隣を歩きながら、静かに尋ねた。
「この子の力を、どう扱えばいいのか。……道具にはしたくない。でも、この子自身が、その力を使いたがっている」
「私も、同じ気持ちだ」
澪は、珍しく、素直にそう認めた。
「灯里が望むなら、支えてやるしかない。……ただし、無理はさせない。それが、私たちにできる、精一杯だ」
二人は、それ以上何も言わず、眠る灯里を挟んで、家路を歩いた。玻璃島の夜空には、いつもより多くの霊灯が、静かに瞬いていた。
## 第十一章 澪の過去
ある雨の夜、燎は縁側で、珍しく一人佇む澪を見かけた。灯里はすでに眠り、家の中は静まり返っている。
「眠れないのか」
「……昔のことを、思い出していた」
澪は、珍しく、問わず語りに話し始めた。
「私も昔、灯里のように、幽耳を持つ子供だった」
「お前が?」
「灰羽衆に拾われる前、私は別の組織にいた。……もっと、非情な組織だ。子供の能力を、道具として使い潰す類の」
澪は、月明かりの下、袖をわずかにまくった。腕には、古い、無数の傷跡があった。
「声を聞く力は、便利だ。敵の動きも、死者の未練も、逐一分かる。……だが、使いすぎれば、心が壊れる。私は、何度も壊れかけた」
「それで、灰羽衆に」
「拾われた、というより、寝返った。……あの組織を壊滅させる手助けをする代わりに、灰羽衆に保護してもらった」
澪は、初めて、感情の乗った声で続けた。
「灯里を見ていると、昔の自分を思い出す。……だからこそ、あの子だけは、絶対に、道具にはさせない」
燎は、澪の横顔を見つめた。冷徹に見えるこの女の内側に、これほど深い決意があったことを、初めて知った。
「約束する。……俺も、灯里を守る」
「お前が本気で言っているのは、分かる。……だが、任務が進めば進むほど、灯里の力に頼らざるを得ない場面が増える。それが、怖い」
澪の声に、初めて弱さが滲んだ。燎は、しばらく黙った後、静かに口を開いた。
「なら、俺たちが、その分、盾になればいい。……灯里が前に出なくていいように、俺とお前が、先に立つ」
「……らしい台詞だな。焔主様は」
澪の口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、燎が初めて見る、澪の心からの笑顔だった。
「ありがとう、燎」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。燎は、少し照れくさくなりながら、庭の柿の木を見上げた。
「──なあ、澪」
「何だ」
「この任務が終わったら……この家、どうなるんだろうな」
澪は、しばらく黙った後、静かに答えた。
「分からない。……でも、私は」
澪は、一度言葉を切り、それから、意を決したように続けた。
「この家を、演技のままで終わらせたくない、と思い始めている」
燎は、その言葉に、何も返せなかった。ただ、雨音の中、二人の間に流れる沈黙が、不思議と心地よいものだったことだけは、確かだった。
## 第十二章 慧海の招待状
翌朝、家の郵便受けに、一通の招待状が届いていた。差出人は、慧海。宛名は、「総真燎・澪殿」と、丁寧な筆致で記されている。
「……直々の招待、か」
燎は、封を切りながら眉をひそめた。中身は、慧海の私邸で開かれる、内輪の茶会への招待だった。
「罠、だろうな」
澪が、招待状を覗き込みながら言った。
「だろうな。……だが、断れば、こちらの動きを警戒していると教えるようなものだ」
「行くしかない、か」
「行くしかない」
燎は、招待状を折りたたみながら、灯里の方を見た。
「灯里は、今回は留守番だ」
「……分かってます」
灯里は、素直に頷いた。以前より、少し大人びた表情だった。灯里なりに、自分の力の使いどころと、危険の見極めを、学び始めているのかもしれない。
茶会当日、燎と澪は、慧海の私邸を訪れた。純和風の広大な屋敷で、庭には、季節外れの白い花が咲き乱れていた。
「ようこそ、お二方」
慧海自らが、二人を出迎えた。穏やかな笑みは、いつも通りだが、その奥に、以前よりも濃い影が差しているように、燎には見えた。
「本日は、お招きいただき」
「堅苦しい挨拶は結構。……お二人には、聞いていただきたい話がありましてね」
茶室に通されると、慧海は、静かに茶を点て始めた。手慣れた所作の中に、長年の孤独が滲んでいるように見えた。
「総真さん。……あなた、送り火衆の焔主に就任なさったそうですね」
「……ご存知でしたか」
「この島で、私の耳に入らないことは、そう多くありません」
慧海は、茶碗を燎の前に置いた。
「率直に伺います。──あなたは、私を止めに来られたのですか」
燎は、しばらく答えを選んだ後、正直に言った。
「……あなたの目的次第です」
「私の目的、ですか」
慧海は、薄く笑った。
「三十年前、私は大切な人を喪いました。……以来、私はずっと、あの人を取り戻す方法を探し続けてきました」
「無銘の中に、その人がいると?」
燎の問いに、慧海の笑みが、初めて揺らいだ。
「……いいえ。もう、いないのかもしれません。……ですが、確かめずには、いられないのです」
澪が、静かに口を開いた。
「慧海様。……無銘は、もはやあなたの許嫁ではありません。数多の未練が絡み合った、別の存在です」
「ご存知でしたか」
慧海は、驚いたように澪を見た。
「……分かっています。分かった上で、それでも、私は」
慧海の声が、初めて震えた。
「あの人の魂の欠片が、あの中に残っているかもしれない。……その、わずかな可能性に、賭けずにはいられないのです」
茶室に、重い沈黙が満ちた。燎は、目の前の男の悲しみの深さに、言葉を失った。
「慧海様」
燎は、意を決して言った。
「もし、無銘の中に、本当にその人の欠片が残っているなら……俺たちが、正しく、渡して差し上げます」
「渡す、とは」
「討つのではなく、渡す。……送り火衆に伝わる、渡し火の儀という術があります。使えば、その人の魂だけを、無銘から解き放ち、正しく常世へ送ることができるかもしれません」
慧海は、長い沈黙の後、静かに首を振った。
「──それでは、私の三十年が、無駄になる」
その一言に、燎と澪は、慧海の中に渦巻く執着の深さを、改めて思い知らされた。
「今日のところは、これで。……お二人とも、どうぞお引き取りを」
茶会は、それ以上進展のないまま、終わった。屋敷を出た燎は、重い息を吐いた。
「……厄介だな」
「ああ。……あの人は、無銘を止める気は、微塵もない」
澪の言葉に、燎は頷いた。慧海との対決は、もはや避けられないものになりつつあった。
## 第十三章 鴉の決断
茶会の顛末を、燎は柊を通じて、鴉にも伝えた。話を聞いた鴉は、しばらく黙り込んだ後、意外なことを言った。
「俺も、行かせてくれ」
「危険だぞ。相手は、大穢そのものを取り込もうとしている男だ」
「知ってる。……だが、俺の妹の件が、本当に慧海に関係しているなら、俺は、自分の目で確かめたい」
鴉の目には、以前の剥き出しの怒りとは違う、静かな覚悟があった。
「復讐のためじゃない。……それだけは、誓う」
「なら、何のためだ」
燎の問いに、鴉は少し考えた後、答えた。
「妹が、灯番になった理由を、俺はずっと聞かされていた。──『誰かの声を聞いて、助けてあげたいから』。……その想いを、俺なりに、継ぎたいんだ」
燎は、鴉の言葉に、深く頷いた。
「分かった。……一緒に来てくれ。お前の力は、必要だ」
こうして、燎、澪、鴉、そして柊を加えた四人で、慧海と、その先に潜む大穢「無銘」への対応チームが組まれることとなった。
同じ頃、灰羽衆本部でも、動きがあった。澪の上司にあたる、灰羽衆内偵一課の課長が、燎たちを呼び出したのだ。
「慧海の茶会の件、報告は受けている。……状況は、思ったより深刻だ」
課長は、机上に、一枚の地図を広げた。玻璃島の全域図に、いくつもの赤い印が付けられている。
「これは」
「無銘の気配が観測された地点だ。……この一月で、急速に増えている」
燎は、地図を見つめた。印は、慧海の私邸を中心に、同心円状に広がっている。
「無銘は、もう慧海の私邸の地下に、ほぼ完全に降臨しつつある。……時間の問題だ」
「対応策は」
「送り火衆と灰羽衆、合同での強行作戦を検討している。……総真燎、お前が、その作戦の指揮を執ることになる」
燎は、驚いて課長を見た。
「俺が、ですか」
「焔主として、そして、灰羽衆の潜入工作員として、両方の顔を持つのは、お前しかいない。……この作戦、送り火衆の霊的な対応と、灰羽衆の情報網、両方を活かさねば、成功しない」
燎は、しばらく考えた後、頷いた。
「分かりました。……お引き受けします」
こうして、玻璃島の表と裏、二つの機関を跨いだ、大穢「無銘」討伐、いや──「渡し」の作戦が、正式に動き出すこととなった。
家に帰った燎は、澪と灯里に、作戦の詳細を伝えた。灯里は、真剣な顔で話を聞いた後、静かに言った。
「私も、行きたいです」
「灯里」
「無銘の中に残ってるかもしれない、慧海さんの許嫁さんの声を、聞けるのは、私だけかもしれません」
燎と澪は、顔を見合わせた。灯里の申し出は、危険を伴うが、確かに理に適っていた。
「……分かった。だが、絶対に、俺たちのそばを離れるな」
「はい」
灯里は、力強く頷いた。作戦決行の日は、三日後と決まった。玻璃島に、静かな、しかし確実な緊張が満ちていく。
## 第十四章 決行前夜
作戦決行の前夜、総真家の食卓には、いつもより豪華な料理が並んでいた。澪が、珍しく腕によりをかけて作ったものだった。
「明日のために、精をつけておけ」
「澪の料理、美味しいです」
灯里が、嬉しそうに箸を進める。燎も、久しぶりに、心から美味いと思える食事だった。
「──なあ、二人とも」
食後、燎は、改まった口調で切り出した。
「明日の作戦、必ず全員生きて帰る。……これは、命令だ」
「命令、か。焔主様は」
澪が、からかうように言ったが、その目は真剣だった。
「分かってる。……こっちも、同じ気持ちだ」
「私も、絶対に生きて帰ります」
灯里が、拳を握って宣言する。その様子に、燎と澪は、思わず顔を見合わせて笑った。
夜が更け、灯里が眠りについた後、燎と澪は、縁側で静かに酒を酌み交わした。
「……この家に来て、まだ数ヶ月だが」
燎が、盃を傾けながら言った。
「不思議なもんだな。偽りで始まった家族なのに、いつの間にか、本気で守りたいと思ってる」
「私もだ」
澪は、盃を口に運びながら、静かに頷いた。
「灯里はもちろん、お前のことも」
その言葉に、燎は少し驚いた顔をした。澪は、珍しく、頬をわずかに染めながら、視線を逸らした。
「……勘違いするな。任務仲間としての、信頼の話だ」
「分かってる分かってる」
燎は、笑いながら盃を空けた。だが、その心の内には、澪の言葉が、静かに、確かに、温かく響いていた。
「明日、無事に終わったら」
燎は、月を見上げながら言った。
「三人で、どこか遠出でもするか。灯里が喜びそうな場所に」
「悪くないな」
澪も、月を見上げた。二人の間に、任務のパートナーという以上の、確かな絆が育ちつつあることを、互いに感じていた。
同じ頃、鴉と柊も、それぞれの想いを胸に、決行の時を待っていた。鴉は、妹の位牌に向かって、静かに手を合わせていた。
「──明日、決着をつけてくる。……見ていてくれ」
柊は、送り火衆本部で、渡し火の儀の伝書を、もう一度読み込んでいた。三十年前の実験の記録と照らし合わせ、慧海を止めるための、最善の策を練り続けていた。
玻璃島の夜は、静かに更けていく。だが、その静けさの底に、明日訪れる大きな変化への予感が、確かに満ちていた。
## 第十五章 私邸強襲
作戦決行の朝、燎、澪、灯里、鴉、柊の五人は、慧海の私邸を包囲する形で配置についた。灰羽衆の別動隊が、私邸の周囲を封鎖し、外部への影響を最小限に抑える態勢を敷いている。
「作戦開始」
燎の合図で、五人は私邸の敷地内へと踏み込んだ。庭の白い花々が、以前訪れた時よりも、明らかに色褪せていた。無銘の気配が、屋敷全体を蝕み始めている証だった。
「地下へ向かう」
柊の案内で、一行は屋敷の奥、地下へと続く隠し階段を降りていく。三十年前の実験場と同じ構造の空間が、そこには広がっていた。
「……これは」
地下の広間に足を踏み入れた瞬間、燎たちは、言葉を失った。中央の陣から、巨大な黒い靄が立ち上り、天井近くまで渦を巻いている。無数の顔のようなものが、靄の表面に浮かんでは消えていく。それぞれが、苦悶や悲しみの表情を浮かべていた。
「無銘……」
澪が、緊張した声で呟いた。靄の中心、陣の真上に、慧海が立っていた。両腕を広げ、まるで抱擁するように、黒い靄と向き合っている。
「──来ましたか」
慧海が、こちらを振り返った。その顔は、以前の穏やかさを失い、憔悴しきっていた。
「慧海様。……もう、お止めください」
燎が、一歩前に出た。
「あなたの許嫁は、もう、そこにはいません」
「いいえ」
慧海は、首を振った。
「いる。……感じるのです。あの人の温もりが、まだ、この中に」
「それは、あなたの願望が見せている幻です!」
鴉が、思わず叫んだ。慧海は、鴉の顔をじっと見つめた後、はっとしたように目を見開いた。
「……その顔、まさか」
「知っているのか、俺を」
「あなたの妹さんは……確か、灯番として、殉職された」
「そうだ。あんたが、装備更新を怠ったせいでな」
鴉の言葉に、慧海の顔が、苦渋に歪んだ。
「……申し訳ない。あの時、私はすでに、あの人を喪った悲しみに囚われ、職務を疎かにしていた。……あなたの妹さんの死は、私にも、責任の一端がある」
慧海の謝罪に、鴉は拳を握りしめた。だが、その拳を、燎がそっと抑えた。
「今は、無銘を止めることが先だ」
「……分かってる」
鴉は、深く息を吐き、拳を下ろした。その様子を見て、灯里が、そっと一歩前に出た。
「──慧海さん」
「……その子は」
「私、声が聞こえるんです。……あの靄の中から」
灯里は、黒い靄に向かって、耳を澄ませた。慧海が、驚いたように灯里を見つめる。
「聞かせて、ください。……その声を」
灯里は、目を閉じ、集中した。靄の中の、無数の声が、少しずつ、灯里の耳に届き始めていた。
## 第十六章 千の声、一つの願い
灯里の耳に届いたのは、無数の声が入り乱れる、混沌とした叫びだった。悲しみ、怒り、後悔、寂しさ──それぞれが違う人生を背負った死者たちの、行き場のない想いの奔流だった。
「……すごい数の声です」
灯里は、額に汗を滲ませながら言った。
「みんな、バラバラのことを叫んでる。……でも、一つだけ、他と違う声があります」
「違う声、とは」
慧海が、縋るように尋ねた。
「静かで……優しい声です。『もう、いいのよ』って、繰り返してる」
慧海の顔が、大きく揺らいだ。
「その声は……」
「『ずっと、ここにいちゃ駄目。……行って、幸せになって』って」
灯里の言葉に、慧海は、その場に崩れ落ちた。
「──雪乃(ゆきの)……」
初めて呼ばれた許嫁の名前が、地下の広間に、静かに響いた。
「あの人が……そんな風に」
「はい。……その声、無銘の一番奥から聞こえてきます。他の声に埋もれそうになりながら、それでも、ずっと」
灯里は、目を閉じたまま、慧海に語りかけ続けた。
「その人は、あなたに、恨み言なんて、一つも言ってません。……ただ、あなたが、いつまでも苦しんでいることを、悲しんでます」
「私は……私は、あの人を助けられなかった。ならばせめて、取り戻して」
「取り戻すことは、その人が、望んでないみたいです」
灯里の言葉は、容赦なかった。だが、それは残酷さからではなく、死者の本当の願いを、正確に伝えようとする、幽耳の子供としての誠実さだった。
燎は、御館から授かった巻物を広げた。渡し火の儀の術式を、静かに詠み始める。
「慧海様。……あなたの許嫁を、正しく、常世へお送りします」
「……待ってくれ」
慧海が、震える声で言った。
「せめて……最後に、一目でいい。あの人の姿を、見せてはくれないか」
灯里が、燎を見た。燎は、少し考えた後、頷いた。
「灯里、できるか」
「……やってみます」
灯里は、両手を黒い靄に向かって伸ばした。無数の声の中から、たった一つの声を、丁寧に手繰り寄せていく。
やがて、靄の一部が、ゆっくりと人の形を成し始めた。若い女性の輪郭。優しげな微笑みを浮かべた、生前の面影を宿す姿だった。
「……雪乃」
慧海が、涙を流しながら、その名を呼んだ。姿は、はっきりとした実体を持たない、朧げなものだった。だが、慧海にとっては、三十年間、追い求め続けた、確かな答えだった。
「あなた」
声にならない声が、慧海の耳にだけ、届いたようだった。慧海の表情が、初めて、穏やかなものに変わった。
「──分かった。……分かったよ、雪乃」
慧海は、涙を拭い、燎の方を振り返った。
「総真さん。……渡し火の儀を、お願いします」
「……よろしいのですか」
「三十年間、私は、あの人を苦しめ続けていた。……もう、これ以上は」
慧海の声には、三十年分の執着が、ようやく解けていく音が、確かに滲んでいた。
## 第十七章 無銘、本性を現す
しかし、慧海の決意とは裏腹に、黒い靄──無銘は、激しく脈動し始めた。
「な……!?」
燎が身構える。無銘の表面に浮かぶ無数の顔が、一斉に、絶叫にも似た声を上げた。
「『渡させない』」
声にならない声が、地下の広間全体を震わせた。
「『まだ、足りない。……もっと、悲しみを』」
「まさか、無銘自身に、意思が」
柊が、驚愕の声を上げた。慧海が、青ざめた顔で叫んぶ。
「無銘は……もはや、雪乃の集合体ではない! 三十年の間に取り込んだ、無数の死者の未練が、一つの意思を持ち始めている!」
「渡そうとした瞬間に、抵抗するとはな」
燎は、拳を構えた。無銘の靄が、輪郭を持ち始め、巨大な人型へと変貌していく。以前、燎を殺した眷属とは比較にならない、圧倒的な質量の悪意だった。
「──これが、大穢の本体か」
鴉が、緊張した声で言った。無銘は、咆哮と共に、地下の広間の壁を粉砕しながら、その巨躯を広げた。
「散れ! 各自、連携して対応するぞ!」
燎の号令で、五人は、それぞれの持ち場に散った。柊が、渡し火の儀の術式を維持しながら、慧海を守る。鴉が、無銘の攻撃を正面から受け止め、澪が、側面から鋭い斬撃を叩き込む。
燎は、灯里を背に庇いながら、常世の力を引き出す準備をした。
「灯里、危なくなったら、すぐ離れろ」
「はい……でも」
灯里は、無銘を見つめながら、真剣な表情で言った。
「無銘の中の、みんなの声が、すごく混乱してます。……本当は、みんな、渡りたがってる。でも、無銘っていう一つの意思が、それを許してない」
「つまり、無銘そのものを、祓わなければならない、ということか」
「はい。……でも、無銘は、みんなの悲しみでできてます。祓うことは、みんなを、もう一度傷つけることになるかもしれません」
燎は、奥歯を噛んだ。討つのではなく、渡す。だが、無銘自身が抵抗する以上、単純な渡し火の術だけでは、事は済まない。
「──なら、力ずくで、意思をこじ開けるしかない」
燎は、常世の力を、拳に込めた。青白い炎が、以前よりも強く、拳全体を包み込む。
「灯里、みんなの声を、聞き続けてくれ。俺が無銘の意思を殴り砕く。その隙間から、みんなの本当の願いを、掬い上げてくれ」
「……分かりました」
灯里は、頷いた。無銘の巨躯が、燎に向かって、太い腕を振り下ろす。燎は、それを紙一重で躱し、拳を突き上げた。
「──いくぞ、無銘!」
青白い炎を纏った拳が、無銘の胴体に、深く突き刺さった。
## 第十八章 千の悲しみとの対話
燎の拳が突き刺さった瞬間、無銘の巨躯が、苦悶するように身をよじった。だが、傷口から溢れ出したのは、血ではなく、無数の小さな光の粒だった。
「これは……」
「みんなの、想いの欠片です!」
灯里が叫んだ。光の粒の一つ一つから、微かな声が漏れ聞こえてくる。
「──母に、一言謝りたかった」
「──約束した花を、届けられなかった」
「──ただ、誰かに、覚えていてほしかった」
燎は、拳を握りしめたまま、無銘の中に渦巻く、無数の悲しみに耳を澄ませた。一つ一つは、決して悪意などではない。ただの、行き場を失った、人間らしい未練の集まりだった。
「渡し火の儀を、今だ!」
柊が叫んだ。慧海が、震える手で印を結び、渡し火の術式を発動させる。青白い炎が、無銘の傷口から溢れる光の粒を、一つずつ、優しく包み込んでいく。
「行きなさい……もう、十分だ」
慧海の声に応えるように、光の粒が、次々と天へと昇っていった。だが、無銘の本体は、なおも激しく抵抗を続けている。
「まだ、終わってない!」
鴉が、無銘の腕を受け止めながら叫んだ。無銘の中心部──最も濃い悪意の塊が、まだ、渡ることを拒み続けていた。
「あの中心部だけは、様子が違います」
灯里が、緊張した声で言った。
「あそこにいるのは……最初に、無銘になった魂です。……一番古くて、一番、深い悲しみを持ってる」
「三十年前の、最初の犠牲者か」
燎は、無銘の中心を見据えた。そこには、他の光よりも遥かに濃い、暗い塊が渦巻いている。
「その魂の願いは、分かるか」
「……分かりません。声が、あまりにも歪んでて」
灯里が、悔しげに首を振った。燎は、拳に、さらに強く常世の力を込めた。
「なら、直接、聞くしかない」
「燎、待て! それは危険すぎる!」
澪が叫んだが、燎はすでに、無銘の中心に向かって、駆け出していた。
「──俺も、一度死んだ身だ。……お前の気持ちが、少しは分かるかもしれない」
燎の拳が、無銘の中心の暗い塊に、深く突き刺さった。その瞬間、燎の意識は、暗い塊の内側──最初の犠牲者の、最後の記憶へと、引きずり込まれていった。
## 第十九章 最初の犠牲者
燎の意識は、暗い記憶の奔流の中にあった。三十年前、この地下で行われた実験。人型の陣の中に横たわる、一人の若い研究者の姿が見える。
──慧海の助手として、実験に参加していた男だった。名は、確か、「宗介(そうすけ)」と呼ばれていたと、後に記録で読んだ記憶がある。
実験は、暴走した。制御を失った穢の力が、宗介の身体に流れ込み、彼はそのまま、意識を保ったまま、穢に変質していった。誰にも助けを求められず、誰にも気付かれず、彼はゆっくりと、人であることを失っていった。
『……誰か』
宗介の最後の想いが、燎の意識に、直接流れ込んでくる。
『誰か、俺がここにいたことを、覚えていてくれ』
『慧海さん。……あんたのせいじゃない。俺が、志願したんだ。……でも、最後に、一言』
『ありがとう、と、伝えたかった』
燎は、その想いの純粋さに、胸を突かれた。三十年間、無数の死者の未練を取り込みながら、無銘という怪物になり果てても、宗介という一人の人間の、最初の願いだけは、消えずに残り続けていたのだ。
「──聞こえた」
燎は、意識を現実に引き戻しながら、叫んだ。
「無銘の中心にいるのは、慧海の実験助手、宗介という男だ! 願いは、ただ一つ──慧海に、感謝を伝えたかった、それだけだ!」
「宗介……」
慧海が、愕然とした表情で呟いた。
「まさか……あの実験を、一番望んだのは……」
「あなたじゃない。宗介自身だ! 彼は、あなたを助けたくて、志願したんだ!」
燎の言葉に、慧海の顔が、大きく歪んだ。三十年間、自分のせいで部下を犠牲にしたと、独り責め続けてきた慧海にとって、それは、想像もしていなかった真実だった。
「宗介!……すまなかった! そして……ありがとう!」
慧海の叫びが、地下の広間に響き渡った。その瞬間、無銘の中心の暗い塊が、初めて、大きく震えた。
「──届いた、みたいです」
灯里が、涙を浮かべながら言った。
「宗介さんの声が……初めて、笑ってます」
暗い塊が、少しずつ、光を帯び始めた。三十年分の孤独と後悔が、慧海の一言によって、ようやく報われた瞬間だった。
「柊さん、今です! 渡し火の儀を!」
燎の合図で、柊が、最後の術式を発動させた。青白い炎が、無銘全体を包み込み、無数の光の粒が、一斉に天へと昇っていく。
「行ってこい、宗介……そして、雪乃も」
慧海の声に見送られながら、無銘という名の怪物は、無数の、それぞれの願いを持った光の粒へと分解され、静かに、玻璃島の夜空へと消えていった。
地下の広間に、静寂が戻った。燎は、膝をつき、大きく息を吐いた。常世の力を使いすぎた反動で、視界が霞んでいる。
「燎!」
澪が、駆け寄ってくる。灯里も、心配そうに燎の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫だ。ちゃんと、渡せた」
燎は、そう言って、崩れるように意識を手放した。
## 第二十章 目覚めと、慧海のその後
燎が目を覚ましたのは、三日後、霊灯通りの自宅の布団の中だった。
「……ここは」
「家だ。……お前を担いで帰るの、大変だったんだぞ」
枕元に座っていた澪が、呆れたように、しかし安堵の滲む声で言った。
「灯里は」
「隣の部屋で寝てる。お前が目を覚ますまで、ずっと看病すると言って聞かなかった」
燎は、身体を起こそうとして、全身の重だるさに顔をしかめた。
「無理はするな。……常世の力を、限界まで使ったんだ。しばらくは、安静にしていろ」
「慧海は、どうなった」
澪の表情が、少し翳った。
「送り火衆と灰羽衆の合同審議で、処分が検討されている。……禁じられた術への関与、大穢の醸成、諸々の罪だ」
「重い処分になるのか」
「本人は、それを望んでいるようだ。……三十年分の罪を、償いたい、と」
澪は、静かに続けた。
「だが、無銘を渡した功績も認められている。……極刑は免れそうだ、というのが、御館様の見立てだ」
燎は、天井を見上げながら、慧海の憔悴した横顔を思い出した。三十年間、一人の男を苛み続けた執着が、宗介と雪乃、二つの魂を渡すことで、ようやく終わりを迎えたのだ。
「一つ、聞いていいか」
「何だ」
「鴉は……あの後、どうしてる」
「あいつなら、心配ない。……妹の件も、慧海本人の直接的な過失ではなかったと分かって、少し憑き物が落ちたような顔をしてたよ」
澪は、燎の額に手を当てながら続けた。
「柊さんからの伝言だ。──『焔主が寝込んでる間、送り火衆の仕事は全部、この俺が回しておいてやる。存分に休め』、だとさ」
「……柊さんらしいな」
燎は、思わず笑った。その笑い声に反応したのか、隣の部屋の襖が、勢いよく開いた。
「お父さん!」
灯里が、目を輝かせて飛び込んできた。
「目、覚めたんですね! よかった……!」
灯里は、燎の布団に飛びつくようにして、涙を浮かべた。
「心配かけたな」
「もう、二度と、あんな無茶しないでください」
「善処する」
燎は、灯里の頭を、優しく撫でた。窓の外には、以前と変わらない、穏やかな玻璃島の空が広がっている。だが、燎の胸には、この数ヶ月の出来事が、確かな重みを持って刻まれていた。
偽りから始まった家族。命がけの任務。そして、悲しみの果てに、ようやく報われた三十年越しの想い。──すべてが、燎という一人の男の中に、新しい何かを、育て始めていた。
## 第二十一章 平穏の中の違和感
無銘の一件から、一月が過ぎた。総真家には、以前よりも穏やかな日常が戻っていた。燎は焔主としての職務をこなしながら、灰羽衆の潜入任務としての体裁も、表向きは維持し続けていた。
「──次の任務、報告書が来てる」
ある朝、澪が、灰羽衆から届いた書類を手に、難しい顔をしていた。
「どうした」
「無銘の一件、灰羽衆内部で、妙な扱いを受けている」
「妙、というと」
「本来なら、大きな功績として報告されるはずの事案が、なぜか、機密指定のまま、詳細な調査資料として、常世庁に直接送られている」
燎は、眉をひそめた。
「常世庁が、無銘の顛末に、そこまで関心を持つ理由があるのか」
「分からない。……だが、送り火衆の御館様も、同じ違和感を覚えているらしい。近々、お前を呼んで話がある、とのことだ」
燎は、書類を受け取り、目を通した。無銘の消滅過程、渡し火の儀の詳細な術式、そして──燎自身の常世の力の発現データが、事細かに記録されている。
「これは、俺個人の観察記録じゃないか」
「そうだ。……常世庁は、お前の力そのものに、興味を持っている可能性がある」
その日の午後、燎は御館に呼ばれ、送り火衆本部の奥座敷へと向かった。
「よく来た。……単刀直入に言おう」
御館は、燎の顔をじっと見つめた。
「常世庁から、正式な照会が来ておる。──お前の常世の力について、より詳細な検証を行いたい、との名目でな」
「検証、というのは」
「表向きは、蘇生者の力の安全性を確認するため、という理由だ。……だが、儂の勘は、それだけではない、と告げておる」
御館は、一枚の古い書物を、燎の前に置いた。
「これは、常世庁の設立に関する、送り火衆側の古い記録だ。……常世庁は、本来、死者の管理と、正当な渡しの手続きを司る、中立の機関のはずだった」
「はず、というのは」
「近年、常世庁内部で、一部の派閥が、蘇生技術と常世の力を、軍事転用しようとしている、という噂がある」
燎は、息を呑んだ。
「軍事転用、というと……蘇生者を、兵器にする、ということですか」
「その通りだ。……お前のような、常世の力を宿した蘇生者は、彼らにとって、絶好の実験対象になり得る」
燎は、宵の、あの能面のような笑みを思い出した。あの女は、どこまで、この件に関与しているのだろうか。
「宵殿には、まだ、この件を確認していない。……だが、常世庁全体を信用しすぎるのは、危険かもしれぬ」
御館の忠告に、燎は小さく頷いた。無銘という一つの脅威を退けた矢先、より根深く、より組織的な影が、燎たちの前に姿を現しつつあった。
## 第二十二章 宵、再び
その夜、燎が縁側で一人考え込んでいると、聞き覚えのある声が、闇の中から響いた。
「──随分、思い詰めた顔をしていますね」
振り返ると、白い狩衣姿の宵が、庭先に佇んでいた。
「あんたか。……勝手に現れるのは、相変わらずだな」
「渡し方の司は、渡り場と現世の境を、自由に行き来できる立場ですので」
宵は、静かに縁側に腰を下ろした。
「単刀直入に聞く。……常世庁の一部が、蘇生者を兵器化しようとしているというのは、本当か」
宵の表情は、変わらなかった。だが、一瞬、目の光が揺れたのを、燎は見逃さなかった。
「……ご存知でしたか」
「否定しないんだな」
「否定できません。……常世庁は、決して一枚岩ではないのです」
宵は、静かに続けた。
「常世庁には、大きく分けて二つの派閥があります。一つは、私のような『渡し方』──死者を正しく渡すことを本分とする者たち。もう一つは、『管理方』──常世の力を、現世の秩序維持に活用しようとする者たちです」
「管理方が、俺を実験対象にしようとしている、と」
「その可能性は、十分にあります」
宵は、燎の目をまっすぐ見た。
「無銘の一件は、常世庁内部でも、大きな話題になっています。……蘇生者が、これほど大規模な大穢を、討伐ではなく渡し切った前例は、これまでにありませんでした」
「それが、注目を集める理由か」
「はい。……管理方は、あなたの力を、常世との干渉能力を持つ『兵器』として、量産化することを検討し始めている、という噂があります」
燎は、拳を握りしめた。
「量産化、というのは……俺のような蘇生者を、意図的に増やす、ということか」
「その通りです。……戦場で命を落とした兵士や、事故で亡くなった人々を、常世庁の管理下で意図的に蘇生させ、常世の力を軍事的に利用する。……そういう構想が、一部で密かに進められています」
燎は、その話の非道さに、怒りを覚えた。
「そんなことを、許していいはずがない」
「私も、同意見です」
宵は、静かに頷いた。
「だからこそ、あなたに、お伝えしておきたかった。……あなたは今、管理方にとって、格好の『成功例』とみなされています。今後、より積極的な接触や、勧誘があるかもしれません」
「勧誘、というのは」
「常世庁の正式な役職への、招聘です。……表向きは栄誉ある地位ですが、実態は、彼らの研究に、あなた自身を差し出すことになるでしょう」
燎は、しばらく黙った後、静かに言った。
「断る。……俺は、俺の意思で、この家族と、この島を守る。誰かの実験道具になるつもりはない」
「その答えを、聞けて安心しました」
宵は、初めて、柔らかな笑みを見せた。
「──ですが、覚悟しておいてください。管理方は、簡単には諦めないでしょう。……これから、あなたたちの前に、新たな試練が訪れます」
宵は、そう言い残すと、闇の中へと溶けるように消えていった。燎は、一人、縁側に残り、これから訪れるであろう困難に、静かに思いを巡らせた。
## 第二十三章 招聘の使者
数日後、総真家に、正式な使者が訪れた。常世庁管理方、第三部局の局長を名乗る男、名を「静間(しずま)」といった。
「総真燎殿。……常世庁より、正式な招聘状を持参いたしました」
静間は、慇懃な態度で、燎に一通の書状を差し出した。中身は、常世庁直属の特殊任務部隊への、正式な就任要請だった。
「お断りする」
燎は、書状を開くことなく、静間に突き返した。
「……理由を、伺っても」
「俺は、送り火衆の焔主だ。この島と、この家族を守ることが、俺の役目だ。……常世庁の兵隊になるつもりはない」
静間の表情は、変わらなかった。だが、その目の奥に、冷ややかな光が宿ったのを、燎は見て取った。
「残念です。……あなたほどの適性を持つ蘇生者は、そうそういません」
「適性、というのは、都合よく使い潰せる、という意味か」
「人聞きの悪いことを。……我々は、ただ、常世の力を、正しく管理し、活用したいだけです」
静間は、そう言いながら、視線を、燎の背後にいる灯里へと向けた。
「──ところで、そちらのお嬢さんは。……幽耳の力をお持ちだとか」
燎の背筋に、冷たいものが走った。
「灯里に、手を出すつもりか」
「まさか。……ただ、幽耳の力も、常世との対話において、非常に貴重な資質だと申し上げているだけです」
静間は、薄い笑みを浮かべながら、燎の反応を、値踏みするように観察していた。
「本日のところは、これで失礼いたします。……ですが、招聘の件、いずれまた、改めてお伺いいたします」
静間が去った後、燎は、澪と灯里を、居間に集めた。
「聞いていたな」
「ああ」
澪の表情は、険しかった。
「灯里にも、狙いを付けている可能性がある。……用心が必要だ」
「私、大丈夫です」
灯里が、気丈に言った。
「お父さんとお母さんが、守ってくれるって、信じてます」
燎は、灯里の頭を撫でながら、静間の冷ややかな目を思い出していた。あの男は、簡単には引き下がらないだろう。宵が警告した通り、新たな試練が、確実に近づいてきていた。
その夜、燎は柊と鴉にも連絡を取り、常世庁管理方の動きを共有した。
「──厄介な相手だな」
柊が、渋い顔で言った。
「常世庁は、送り火衆や灰羽衆とは、管轄が根本から違う。表立って対抗するのは、簡単じゃない」
「だが、灯里を、あんな連中に渡すわけにはいかない」
鴉が、拳を握りしめながら言った。
「俺も、協力する。……妹の分まで、今度こそ、目の前で誰も喪わせない」
燎、澪、柊、鴉、そして灯里。かつて偽りから始まった関係が、今や、確かな絆で結ばれた仲間となっていた。玻璃島に、新たな暗雲が近づく中、この絆こそが、燎たちの、最大の武器となりつつあった。
## 第二十四章 拐かし
静間の訪問から一週間後、事件は起きた。灯里が、学校からの帰り道、忽然と姿を消したのだ。
「灯里が、いない!?」
燎は、学校からの連絡を受け、血の気が引いた。澪が、すぐさま灰羽衆の情報網を使い、周辺の目撃情報を集める。
「……常世庁の紋章が入った馬車が、学校近くで目撃されている」
「静間か!」
燎は、拳を握りしめた。柊と鴉にも、すぐさま連絡が入れられた。
「常世庁の直轄施設は、島の東部、旧灯台跡地にある。……そこが、怪しい」
柊の情報を頼りに、燎たちは、旧灯台跡地へと急いだ。
辿り着いた先には、古い灯台を改装した、無機質な研究施設が建っていた。周囲には、常世庁の紋章を掲げた警備員が、厳重な警備を敷いている。
「正面突破は、無理だな」
澪が、施設を観察しながら言った。
「裏手に、換気口がある。……そこから侵入しよう」
燎、澪、鴉の三人は、柊を外部での連絡係として残し、施設内部への潜入を開始した。灯里の幽耳の力があれば、居場所の特定も容易だったが、今、頼れるのは、燎自身の勘と、経験だけだった。
施設の最奥、研究室らしき部屋に、灯里は囚われていた。無機質な椅子に拘束され、頭部には、奇妙な機械の装置が取り付けられている。
「灯里!」
燎が、扉を蹴破って飛び込んだ。灯里は、意識が朦朧としながらも、燎の姿に気付き、微かに笑みを浮かべた。
「……お父さん」
「今、助ける」
燎が駆け寄ろうとした瞬間、部屋の奥から、静間が姿を現した。
「──さすが、焔主殿。この短時間で、ここまで辿り着かれるとは」
「灯里を離せ!」
「離すわけには参りません。……この子の幽耳の力は、常世との干渉実験に、極めて有用なデータを提供してくれています」
静間は、冷ややかな笑みを浮かべた。
「あなたの常世の力も、そちらの装置に接続すれば、より詳細なデータが取れます。……ご協力、いただけますね?」
「ふざけるな!」
燎は、常世の力を拳に込め、静間へと踏み込んだ。だが、静間は、思いのほか鋭い動きで、燎の一撃を躱した。
「──私も、これでも、元は送り火衆の炎番候補でしてね」
静間の手に、青白い炎が灯った。燎と同じ、常世の力の一種だった。
「あなたほどではありませんが……お相手させていただきます」
施設の研究室で、燎と静間の、静かな、しかし激しい戦いの火蓋が切られた。澪と鴉は、それぞれ、灯里を拘束から解放するべく、装置の解除に取り掛かっていた。
## 第二十五章 拳と拳、想いと想い
「──なぜ、そこまでして、抵抗するのですか」
静間は、燎の連撃を、危なげなく受け流しながら言った。
「常世庁の研究に協力すれば、あなたの力は、より多くの人々を救うことに使えるかもしれません。……戦場で命を落とす兵士を、常世の力で守れるようになれば」
「それは、詭弁だ」
燎は、拳を繰り出しながら言い返した。
「戦場で死んだ人間を、無理やり蘇生させて、また戦わせる。……それのどこが、救いだ」
「理想論ですね」
静間の声に、初めて、感情の色が滲んだ。
「私も、かつては、戦場で仲間を喪った。……あの時、常世の力があれば、と、何度願ったか」
「だからといって、他人の意思を無視して、道具にしていい理由にはならない」
燎は、静間の懐に踏み込み、常世の炎を纏った拳を突き出した。静間は、これを紙一重で躱すが、そのわずかな隙を、燎は見逃さなかった。
「──貰った」
燎の拳が、静間の肩口を捉えた。青白い炎が弾け、静間の身体が、大きく後退する。
「くっ……」
「灯里は、道具じゃない。……一人の、大切な家族だ」
燎の言葉に、静間は、しばらく沈黙した後、意外なことを呟いた。
「……羨ましい」
「何?」
「あなたには、守るべき『大切な家族』がいる。……私には、もう、何も残っていない」
静間の表情に、初めて、深い孤独が滲んだ。
「戦場で喪った仲間たちを、今度こそ守りたい。……それだけを支えに、私はここまで来ました。手段が、多少歪んでいたとしても」
「その気持ちは、分からなくもない」
燎は、拳を構えたまま言った。
「だが、歪んだ手段で救おうとしても、救われるべき本人の意思を無視していたら、本末転倒だ。……灯里は、道具にされることを、望んじゃいない」
その時、部屋の奥から、澪の声が響いた。
「装置、解除できた!」
灯里を拘束していた機械が、鴉の手によって、静かに解体されていく。灯里は、朦朧としながらも、意識を取り戻しつつあった。
「……お父さん」
「灯里、もう大丈夫だ」
燎は、静間から視線を外さないまま、灯里の無事を確認した。静間は、灯里が解放されたのを見て、静かに拳を下ろした。
「……今日のところは、退きましょう」
「逃がすと思うか」
「追ってきても、無駄です。……この施設は、すでに、証拠隠滅の手続きが進んでいます。あなたが、ここで私を討ったところで、管理方の計画そのものは、止まりません」
静間は、そう言い残すと、非常口へと駆け出していった。燎は、追おうとしたが、灯里の様子を優先し、その場に留まった。
「灯里、大丈夫か」
「はい……ちょっと、頭がぼーっとしますけど」
灯里は、燎に支えられながら、弱々しく笑った。澪と鴉も、駆け寄ってくる。
「とにかく、脱出するぞ」
燎の号令で、一同は、灯台跡地の施設を後にした。だが、静間の最後の言葉──「管理方の計画そのものは、止まらない」──が、燎の胸に、重く残り続けていた。
## 第二十六章 組織を超えた協力
灯里の救出後、燎たちは、送り火衆本部の御館の元へと集まった。事の顛末を報告し、常世庁管理方の危険性を、正式に訴えるためだった。
「──なるほど。……ここまで大胆に動くとはな」
御館は、報告を聞き終えると、深い溜息をついた。
「常世庁管理方は、以前から危険視されておったが……ここまで公然と、拐かしまで働くとは」
「御館様、これは、送り火衆単独では、対処できない問題です」
燎は、真剣な表情で訴えた。
「常世庁という組織そのものの、内部の腐敗の問題です。……灰羽衆、送り火衆、そして常世庁内部の良識派、すべてが連携しなければ、止められません」
「言う通りだ」
御館は、頷いた。
「儂から、灰羽衆の上層部、そして常世庁の渡し方筆頭──宵殿とやらに、正式に協力要請を出そう」
その日の夜、燎の元に、再び宵が現れた。
「──話は、聞いています」
「灯里が、拐かされかけた。……あんたら渡し方は、管理方を止める気があるのか」
宵の表情は、いつになく硬かった。
「渡し方としても、看過できない事態です。……常世庁本来の役割を歪める、管理方の暴走を、私たちも問題視しています」
「なら、力を貸してくれ」
燎は、真っ直ぐに宵を見据えた。
「管理方の本部……いや、計画の中枢を突き止めたい。静間は、証拠隠滅が進んでいる、と言っていた。……時間との勝負だ」
宵は、しばらく考えた後、静かに頷いた。
「──常世庁の内部情報を、お伝えします。管理方の計画の中枢は、常世の深部、『無底(むてい)の間』と呼ばれる場所にあります」
「無底の間、というのは」
「常世の中でも、最も深く、最も現世との境界が曖昧な領域です。……そこで、管理方は、蘇生技術の量産化実験を、密かに進めています」
「そこへ、行けるのか」
「渡し方の権限を使えば、限定的にですが……可能です。ただし」
宵の表情が、さらに硬くなった。
「無底の間には、管理方が独自に育成した、蘇生兵士たちが、多数配備されています。……単なる潜入では、済まないでしょう」
燎は、拳を握りしめた。無銘との戦いを超える、より組織的で、より過酷な戦いが、待ち受けていることを、燎は覚悟した。
「──いつでも、行ける」
「明日の夜、常世との境界が最も薄くなる刻限があります。……その時を狙い、渡し方の権限で、皆さんを無底の間へ導きます」
宵の言葉に、燎、澪、鴉、柊は、それぞれ、小さく頷いた。灯里だけは、今回は同行を控え、御館の元で保護されることが決まった。
「灯里、今回だけは、留守番だ」
「……はい。分かってます」
灯里は、以前より、聞き分けの良い声で答えた。だが、その目には、家族の身を案じる、切実な想いが浮かんでいた。
「必ず、みんなで帰ってきてください」
「約束する」
燎は、灯里の頭を撫でながら、そう誓った。最終決戦の時が、静かに、しかし確実に、近づいていた。
## 第二十七章 無底の間
翌夜、宵の導きにより、燎、澪、鴉、柊の四人は、常世の深部、「無底の間」へと足を踏み入れた。そこは、色彩を失った、灰色の広大な空間だった。床も天井も曖昧で、まるで、無限に続く霧の中を歩いているようだった。
「……不気味な場所だな」
鴉が、周囲を警戒しながら呟いた。
「ここが、常世庁の隠された研究拠点、か」
柊が、遠くに見える、無機質な建造物を見据えた。灰色の空間に不釣り合いな、近代的な施設が、そこにそびえ立っている。
「行くぞ」
燎の号令で、四人は、施設へと接近した。入り口付近には、静間の言葉通り、蘇生兵士と思しき者たちが、無表情に警備についていた。
「あれが、蘇生兵士か」
澪が、緊張した声で言った。兵士たちの目は、生気を欠き、まるで機械のように、感情の色がない。
「……哀れだな」
鴉が、拳を握りしめながら呟いた。
「あいつらも、元は、誰かの大切な人間だったはずだ」
燎たちは、正面からの突破を選んだ。もはや、潜入を隠す段階ではない。
「──常世庁管理方に、物申しに来た!」
燎の声に反応し、蘇生兵士たちが、一斉に襲いかかってきた。表情のない兵士たちの動きは、機械的ながらも、常世の力を宿した、恐るべき速さと力を持っていた。
「──っ!」
燎は、常世の力を拳に込め、応戦した。だが、無銘の時とは違い、目の前の敵は、明確な悪意を持たない、ただの「駒」だった。
「殺すな! できる限り、無力化するだけに留めろ!」
燎の指示に、澪と鴉は、頷いた。柊が、渡し火の儀に似た術式で、兵士たちの動きを一時的に鈍らせる補助を行う。
激しい攻防の末、燎たちは、正面の兵士たちを退け、施設の奥へと進んだ。中枢部と思しき部屋の扉の前に、静間が、燎たちを待ち構えるように立っていた。
「──やはり、来ましたか」
「静間。……この施設は、今日で終わりだ」
「終わらせられると、思っているのですか」
静間は、静かに、しかし確固たる意志を込めて言った。
「この奥には、管理方の局長──常世庁次官、御室(みむろ)様がおられます。……あの方の意志は、私如きが、簡単に翻せるものではありません」
「なら、俺たちが、直接、翻してやる」
燎は、拳を構えた。静間は、しばらく燎を見つめた後、ふっと、力を抜いた。
「……分かりました。今回は、私は、道を空けましょう」
「気が変わったのか」
「あなたの言葉を、あれから、何度も思い返していました。……歪んだ手段で救おうとしても、本人の意思を無視していたら、本末転倒だ、と」
静間は、扉の脇へと退いた。
「私の仲間たちは……こんな救われ方を、望んでいなかったのかもしれません」
燎は、静間の変化に、静かに頷いた。
「──ありがとう」
燎たちは、静間の前を通り過ぎ、施設の最奥、御室次官の待つ部屋へと足を踏み入れた。
## 第二十八章 御室次官との対峙
最奥の部屋には、白髪の老人が、静かに椅子に腰掛けていた。常世庁次官、御室。その周囲には、無数の記録装置と、蘇生実験のためと思しき設備が並んでいる。
「──総真燎殿、ですね」
御室は、燎たちを見ても、動じる様子はなかった。
「無銘の一件、見事な手腕でした。……あなたのような蘇生者が、もっといれば」
「あんたが、この島の秩序を守るためと称して、何をしているか、全部知った上で来た」
燎は、御室を睨みつけた。
「戦場で死んだ人間を、無理やり蘇生させて、また戦わせる。……そんなことのために、常世の力を使っていいはずがない」
「理想論ですね、それは」
御室は、静かに首を振った。
「戦争は、いつの時代も、なくならない。……ならば、犠牲を最小限に抑える手段として、蘇生兵士という選択肢があってもいいはずです」
「本人の意思を無視して、か」
「本人の意思など、この島の平和の前では、些細な問題です」
御室の言葉に、燎は、拳を握りしめた。
「あんたの言う『平和』は、誰かの犠牲の上に成り立ってる。……そんなものを、俺は認めない」
「では、力で否定なさいますか」
御室が、静かに立ち上がった。その身体から、燎のものとは比較にならないほど濃密な、常世の力が溢れ出した。
「私もまた、かつて、蘇生者だったのですよ。……常世庁次官として、この地位に至るまでに、何度も、常世の力を極限まで鍛え上げてきました」
「──やはり、そうか」
柊が、緊張した声で言った。
「御室次官が、常世庁内で最も長く、蘇生者としての経験を持つ人物だという噂は、本当だったのか」
「経験だけではありません。……力そのものも、あなた方の想像を、遥かに超えています」
御室の姿が、一瞬にして、燎の目の前に迫った。老人とは思えない速さの踏み込みに、燎は、辛うじて反応する。
「──っ!」
拳同士がぶつかり合い、衝撃波が、部屋全体を震わせた。燎は、自分の常世の力が、御室の圧倒的な力の前に、拮抗すらできていないことを、瞬時に悟った。
「格が違う、と、まだ理解していただけませんか」
「格が違うから、諦めろって言うのか」
燎は、歯を食いしばりながら、常世の力を、さらに引き出そうとした。だが、澪の忠告が、脳裏をよぎる。──無理に引き出しすぎれば、常世の鼓動が生者の鼓動を呑み込む。
「燎、無理をするな! 私たちも共に戦う!」
澪が、鴉と共に、御室へと斬りかかった。だが、御室は、二人の攻撃すらも、涼しい顔で受け流していく。
「──皆さんは、私の敵ではありません」
御室の言葉に、燎たちは、絶望的な戦力差を、思い知らされていた。
## 第二十九章 届いた想い
絶望的な戦況の中、燎の耳に、微かな声が届いた気がした。
『──お父さん』
幻聴か、と燎は思った。だが、その声は、確かに、灯里のものだった。
『私、遠くにいても……お父さんの声、聞こえます』
「灯里……?」
燎は、思わず呟いた。澪も、鴉も、驚いたように燎を見る。
『幽耳の力は、距離を超えて、繋がってる人の声を、拾えることがあるみたいです。……御館様が、教えてくれました』
灯里の声は、微かだが、確かに燎の耳に届いていた。
『お父さん。……無理に、大きな力を出そうとしなくていいです。……お父さんの本当の強さは、常世の力の大きさじゃないと思います』
「じゃあ、何なんだ」
『みんなと、繋がってる心です。……無銘の時も、みんなの力を合わせて、渡せました。今回も、きっと』
燎は、灯里の言葉に、はっとした。御室の圧倒的な力に対し、燎は、単独で対抗しようとしていた。だが、燎には、澪がいる。鴉がいる。柊がいる。そして、遠く離れた場所で、想いを送り続けてくれる、灯里がいる。
「──澪、鴉、柊さん」
燎は、仲間たちを見渡した。
「バラバラに戦うのは、やめよう。……一つになって、御室に当たる」
「一つになる、というのは」
澪が、怪訝な顔をした。燎は、御館から授かった渡し火の伝書の、応用可能な一節を思い出していた。
「渡し火の儀には、複数人の想いを、一つの術式に束ねる応用がある、と聞いた。……それを、攻めの形で使う」
「試したことのない術だぞ」
「今、試すしかない」
柊が、覚悟を決めたように頷いた。
「──分かった。俺が、術式の要になる」
澪と鴉も、それぞれの武器を構え直した。四人は、円陣を組むように位置取り、それぞれの想いを、一つの意志へと束ね始めた。
「送り火衆炎番、鴉」
「灰羽衆内偵一課、澪」
「送り火衆焔番、柊」
「そして、焔主、総真燎」
四人の声が、重なり合う。燎の胸の中で、常世の火と、生者の鼓動が、初めて、無理なく調和し始めるのを感じた。
「──行くぞ、御室次官」
燎の拳に、これまでとは比較にならない、澄んだ青白い炎が、静かに灯った。それは、燎一人の力ではなく、四人の想いが束ねられた、新たな輝きだった。
「ほう……面白い」
御室が、初めて、表情に驚きの色を浮かべた。
「一人一人の力は、私に遠く及ばない。……だが、束ねられた想いは、また別の力を生む、ということですか」
「見せてやる」
燎は、四人の想いを胸に、御室へと踏み込んだ。
## 第三十章 束ねた想い、御室を打つ
燎の拳が、澄んだ青白い炎を纏い、御室へと迫る。御室は、これを迎え撃つべく、自身の常世の力を、最大限に引き出した。
「──まだ、届きませんよ」
拳同士がぶつかり合う。だが、今度は、これまでとは違い、燎の拳が、わずかに押し返さなかった。拮抗する力の中で、燎は、仲間たちの想いを、確かに感じ取っていた。
「柊さん、術式を!」
「──任せろ!」
柊が、渡し火の応用術式を発動させる。燎の常世の炎に、鴉の剛力、澪の精緻な技、そして柊の術式の補助が、重なり合っていく。
「これは……」
御室の表情に、初めて、動揺の色が浮かんだ。四人の力が、単純な足し算ではなく、化学反応のように、新たな威力を生み出していた。
「──想いの、力です」
澪が、鋭い一撃を、御室の脇腹に叩き込んだ。同時に、鴉が、正面から力任せの一撃を放つ。
「ぐ……!」
御室が、初めて、後退する。燎は、この隙を逃さず、拳を握りしめた。
「──あんたに、聞かせてやりたい声がある」
燎の脳裏に、宗介の最期の想い、慧海の三十年の悲しみ、そして無銘の中で渡っていった、無数の未練が蘇る。
「死者にも、意思がある。……その意思を無視して、道具にする権利は、生きてる人間の誰にもない」
燎の拳が、澄んだ炎を纏い、御室の胸へと突き刺さった。
「──っ、あ……」
御室が、大きく仰け反った。その瞬間、御室自身の内側からも、微かな声が漏れ聞こえた気がした。
「──『もう、いい』」
それは、御室自身の中に眠る、かつての、彼が蘇生兵士だった頃の、仲間たちの声だったのかもしれない。
「……なぜ」
御室は、崩れ落ちながら、呆然と呟いた。
「なぜ……ただの、蘇生者の若造ごときに」
「一人の力じゃない」
燎は、荒い息を吐きながら答えた。
「俺一人なら、あんたには、絶対に敵わなかった。……でも、俺には、支えてくれる家族と、仲間がいる」
御室は、床に倒れ伏したまま、しばらく沈黙していた。やがて、その口から、意外な言葉が漏れた。
「……羨ましい、な」
「静間と、同じことを言うんだな」
「あの男も……そう言っていたか」
御室は、力なく笑った。
「私は……戦場で、仲間を、何人も見殺しにした。……その罪悪感から、逃れたくて、こんな計画を」
御室の告白は、静間の孤独と、慧海の執着に重なる、もう一つの悲しい真実だった。強大な力の裏に、この男もまた、癒えない傷を抱えていたのだ。
「あんたの罪は、罪として、裁かれるべきだ」
燎は、静かに、しかし確固たる声で言った。
「だが、それでも……もう、誰かを道具にするのは、終わりにしろ」
御室は、長い沈黙の後、静かに頷いた。玻璃島の運命を左右しかねなかった、常世庁管理方の暴走は、こうして、ようやく終息へと向かい始めた。
## 第三十一章 常世庁改革
御室の失脚を受け、常世庁は、大規模な内部改革を迫られることとなった。渡し方筆頭・宵が、暫定の指揮を執り、管理方の解体と、蘇生技術の厳格な管理体制の構築が進められた。
「──今回の一件、渡し方としても、深く反省しております」
燎の家を訪れた宵は、珍しく、深々と頭を下げた。
「管理方の暴走を、長らく見過ごしていたのは、私たちの怠慢でもありました」
「あんたのせいじゃない」
燎は、ぽつりと言った。
「あんたは、ちゃんと、俺たちに警告してくれた。……それだけで、十分だ」
「──ありがとうございます」
宵は、微かに笑みを見せた。
「改革の一環として、蘇生契約の在り方も、見直すことになりました。……今後、蘇生者本人の意思を、より重視する制度に変更されます」
「灯里のような、幽耳の子供たちも」
「はい。……幽耳や、その他の特殊な資質を持つ者への、道具的な扱いを禁じる規定も、新たに設けられます」
燎は、その報告に、静かに安堵した。無銘の一件、そして御室の一件、二つの大きな戦いを経て、玻璃島の裏側にあった、二つの深い闇が、ようやく正されようとしていた。
「静間は、どうなった」
燎の問いに、宵は、少し表情を曇らせた。
「静間殿は、今回の一件で、管理方への協力を悔い、自ら、常世庁の処分を受け入れる意向を示しています。……ですが、無底の間での、あなた方への最終的な協力も評価され、極刑は免れる見込みです」
「そうか。……よかった」
燎は、静間の孤独な横顔を思い出しながら、小さく頷いた。
「一つ、伝えておきます」
宵は、燎の目をまっすぐ見た。
「あなたの常世契約の残額、十万灯のうち、無銘討伐、そして今回の管理方阻止の功績により、大幅な減額が認められました。……残り、およそ三万灯です」
「三万灯……」
燎は、蘇生の代償として背負った十万灯の重みを思い出した。それが、これまでの戦いで、大きく軽減されたのだ。
「完済すれば、俺は、契約から解放されるのか」
「はい。……完済後は、常世庁との義務関係は消滅します。ただし」
宵は、少し言葉を選ぶように続けた。
「常世の力そのものは、完済後も、あなたの身体に残ります。……それは、あなたが、蘇生者として生き続ける限り、変わらない事実です」
「構わない。……この力は、もう、俺自身の一部だ」
燎は、拳を握りしめながら、そう答えた。玻璃島の平和は、まだ完全に取り戻されたわけではない。だが、確かな一歩を、燎たちは踏み出していた。
## 第三十二章 偽りの家族、それから
常世庁の一件が落ち着いた頃、灰羽衆から、正式な通達が届いた。「無銘信仰」内偵作戦は、事実上の完了とみなされ、燎たちの潜入任務も、区切りを迎えることとなったのだ。
「──任務、完了、か」
通達を読んだ燎は、複雑な表情で呟いた。
「これで、俺たちの『偽装家族』としての立場も、終わり、ということになるんだろうな」
澪は、しばらく黙った後、静かに言った。
「──形式上は、そうだ」
「形式上、というと」
「灰羽衆の記録上、任務は完了。……だが、それで、この家を解散しろとは、誰も言っていない」
澪は、燎の目をまっすぐ見た。
「私は、この家を、続けたい。……お前は、どうだ」
燎は、澪の問いに、しばらく考えた後、答えた。
「──俺も、同じ気持ちだ。灯里を、一人にはできない。……それに」
「それに?」
「お前と、灯里のいる暮らしが……もう、俺の日常になってる」
澪は、珍しく、頬を赤らめながら、視線を逸らした。
「……そうか」
その夜、燎と澪は、灯里に、家族の今後について、正式に話をした。
「灯里。……任務は、終わった。だが、俺たちは、この家を、続けようと思う」
「本当、ですか!?」
灯里の顔が、パッと明るくなった。
「私、ずっと、この家族が、本当の家族になればいいのに、って、思ってました」
「これからは、任務じゃない。……本当の家族として、一緒に暮らそう」
燎の言葉に、灯里は、涙を浮かべながら頷いた。
「はい……! よろしくお願いします、お父さん、お母さん」
その日から、総真家は、偽りの任務ではなく、本物の絆で結ばれた、一つの家族となった。玻璃島の霊灯通りに、以前と変わらない、しかし、以前よりも確かな温もりを持った、日常が戻ってきていた。
柊も、鴉も、時折、総真家を訪れるようになった。かつての敵味方の垣根を超え、送り火衆、灰羽衆、そして常世庁の一部さえも巻き込んだ、大きな縁が、この小さな家を中心に、静かに広がりつつあった。
## 第三十三章 鴉の新しい道
ある日、鴉が、総真家を訪れた。以前とは違う、どこか吹っ切れた表情をしていた。
「──焔主に、報告がある」
「改まって、どうした」
「送り火衆、灯番育成部隊の、新設隊長に任命された」
鴉は、少し照れくさそうに言った。
「妹のような、若い灯番たちが、二度と、俺のような後悔をしないように……ちゃんと、育て上げる部隊を作ることになった」
「それは、いい話だな」
燎は、心から喜んだ。
「妹さんも、きっと、喜んでる」
「……だといいがな」
鴉は、少し照れながら、視線を逸らした。
「一つ、頼みがある。……お前の家の、灯里って子。あの子、幽耳の資質、かなり高いだろう」
「そうだが」
「育成部隊の、特別指導枠に、興味はないか。……もちろん、無理にとは言わない。だが、あの子の力を、正しく、健全に伸ばせる場所を、作ってやりたいんだ」
燎は、灯里の意向も確認する必要があると思いつつ、鴉の申し出に、感謝の意を示した。
「聞いておく。……灯里が望むなら、頼む」
その晩、燎は灯里に、鴉の申し出を伝えた。灯里は、目を輝かせた。
「行きたいです! みんなと一緒に、勉強したり、訓練したり……」
「無理はするなよ。あくまで、灯里が望む範囲で」
「はい! 大丈夫です!」
灯里は、こうして、鴉が新設した灯番育成部隊の、特別指導生として、通うこととなった。かつて孤独に、穢の声を一人で聞いていた少女は、今や、同じ資質を持つ仲間たちと共に、自分の力と向き合う場所を得たのだった。
## 第三十四章 柊の縁談
ある日、柊が、珍しく浮かない顔で、総真家を訪れた。
「どうした、柊さん。らしくない顔してるな」
「……実は、縁談が持ち上がっていてな」
柊は、頭を掻きながら、ぼそぼそと言った。
「送り火衆の、後方支援部隊の女性でな。……前々から、それとなく、気にかけてくれていたらしい」
「へえ。それで、断ったのか」
「断ってはいない。……ただ、どう返事をすればいいのか、分からなくてな」
澪が、呆れたように口を挟んだ。
「柊さん、いい歳して、そんなことも分からないのか」
「うるさい。……お前らみたいに、順調な奴らばかりじゃないんだ」
柊の言葉に、燎と澪は、思わず顔を見合わせた。
「順調、というのは」
「見りゃ分かる。お前ら、もう夫婦みたいなもんだろうが」
澪が、頬を赤らめながら、目を逸らした。燎も、少し気まずそうに、話題を戻した。
「……とにかく、柊さんの縁談だ。相手の女性は、どんな人なんだ」
「真面目で……よく気の利く、いい人だとは思う。だが、俺なんかが、幸せにできるかどうか」
「柊さんらしい、真面目な悩みだな」
燎は、苦笑しながら言った。
「案ずるより産むが易し、って言うだろ。まずは、ちゃんと会って、話してみたらどうだ」
「……そうだな」
柊は、しばらく考えた後、決意したように頷いた。
「よし。……今度の休みに、会ってみる」
こうして、送り火衆の実直な男にも、新しい縁が、静かに芽生えつつあった。玻璃島の日常は、大きな事件の合間に、こうした小さな幸せの種を、少しずつ育んでいた。
## 第三十五章 澪の任務、燎の心配
ある日、澪に、単独での灰羽衆の任務が入った。他国からの密偵の動きを探る、潜入調査だった。
「危険な任務なのか」
燎は、支度をする澪に、心配そうに尋ねた。
「心配するな。……こういう任務は、慣れている」
「だが」
「──らしくないぞ、燎」
澪は、燎の顔を見て、少し驚いたように言った。
「お前が、そんなに心配性だったとはな」
「お前が大事だから、心配するに決まってるだろう」
燎の率直な言葉に、澪は、一瞬、言葉に詰まった。
「……そうか」
澪は、静かに微笑んだ。
「なら、無事に帰ってくることを、約束する」
澪が任務に出発した数日間、燎と灯里は、二人だけの生活を送った。灯里は、澪の不在を、少し寂しそうにしながらも、健気に、家事の手伝いをこなしていた。
「お母さん、大丈夫でしょうか」
「大丈夫だ。……あいつは、俺よりよっぽど、こういうことに慣れてる」
燎は、そう言いながらも、内心では、落ち着かない気持ちを抱えていた。数日後、澪が、無事に任務を終えて帰宅した。
「──ただいま」
「お帰りなさい!」
灯里が、真っ先に駆け寄り、澪に抱きついた。燎も、安堵の表情を浮かべながら、澪を出迎えた。
「無事だったか」
「言った通りだ。……そんなに心配することはない」
澪は、少しくすぐったそうに言いながらも、燎の心配を、まんざらでもなさそうに受け止めていた。
その夜、灯里が眠った後、燎と澪は、久しぶりに、二人だけの時間を過ごした。
「──なあ、澪」
「何だ」
「これからも、ずっと、こうやって、一緒にいたい」
燎の言葉に、澪は、しばらく黙った後、静かに頷いた。
「……私も、同じ気持ちだ」
二人の間に、これまで以上に、確かな絆が育まれつつあった。偽りから始まった関係は、いつしか、本物の想いへと、静かに、しかし確実に、変わり始めていた。
## 第三十六章 運動会の穢騒動
燈明学舎(とうみょうがくしゃ、灯里の通う学校)で、秋の運動会が開催されることとなった。燎と澪も、保護者として参加することになった。
「保護者として、運動会に出るなんて……なんだか、変な感じだな」
燎は、慣れないハチマキを締めながら、苦笑した。
「灯里が、楽しみにしていた。……付き合ってやれ」
澪も、珍しく、動きやすい服装で、燎の隣に立っていた。
運動会は、和やかに進行していたが、燎の焔主としての勘が、微かな違和感を捉えていた。
「──いるな」
「気付いたか」
澪も、同じ違和感を覚えていたようだった。校庭の隅、古い倉庫の陰に、小さな穢の気配がある。
「灯里に、確認させるか」
「いや、今日は、運動会だ。……俺たちだけで、片付けよう」
燎と澪は、それとなく席を外し、倉庫へと向かった。中には、小さな、子供の形をした穢が、蹲っていた。
「──あ」
穢の姿を見て、燎は思わず声を上げた。それは、明らかに、この学校の生徒服を着た、幼い姿をしていた。
「昔、この学校に通っていた子供、か」
澪が、静かに言った。穢は、怯えたように、二人を見上げている。
「怖がらなくていい。……俺たちは、お前を、傷つけに来たんじゃない」
燎は、穏やかな声で語りかけた。穢は、少しずつ、警戒を解いていくように見えた。
「……運動会、参加、したかった、の」
微かな声が、穢の口から漏れた。
「昔、運動会の練習中に、事故で……。ずっと、ここで、みんなが楽しそうにしてるのを、見てた」
「そうか」
燎は、御館から授かった渡し火の伝書を、静かに広げた。
「──なら、最後に、ちゃんと参加させてやろう」
燎は、簡易な術式で、穢の姿を、一時的に、生者にも見える程度まで、実体化させた。
「これから少しの間だけ、運動会に、参加していいぞ」
穢の子供は、目を輝かせた。校庭の隅から、こっそりと、玉入れの練習を見つめる子供たちの輪に、その姿が、静かに混ざっていく。誰も気付かないまま、その子は、束の間、生前叶わなかった、運動会の思い出を、味わうことができた。
「──よかったな」
夕方、運動会が終わった後、燎は、渡し火の術式で、その子を、静かに常世へと送った。子供は、最後に、満足げな笑顔を見せて、消えていった。
「今日の運動会は、灯里の方じゃなく、こっちが本番だったかもな」
燎の言葉に、澪も、静かに頷いた。玻璃島の日常には、こうした、小さな、しかし確かな救いの物語が、至る所に、静かに息づいていた。
## 第三十七章 鴉の縁談、逆転
柊の縁談が進む一方、鴉にも、思わぬ話が舞い込んできた。灯番育成部隊の新設に伴い、部隊運営を手伝う女性事務官と、頻繁に顔を合わせるようになったのだ。
「──最近、よく一緒にいるらしいな、鴉」
燎が、からかうように言うと、鴉は、途端に不機嫌な顔をした。
「仕事の関係だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「本当か? 柊さんから聞いたぞ。お前が、彼女の前だと、妙にそわそわしてるって」
「……余計なことを言うな、あの人は」
鴉は、耳まで赤くしながら、視線を逸らした。
「──認めたようなもんだな」
「うるさい。……そもそも、俺には、そんな資格、あるのか。妹を守れなかった俺が」
鴉の声に、いつもの陰りが滲んだ。燎は、鴉の肩を叩きながら言った。
「妹さんのことは、お前の責任じゃない。……お前は、その分、これから、たくさんの若い灯番を守っていくんだろう」
「……そうだな」
「なら、自分の幸せも、諦めることはない。……妹さんも、お前が幸せになることを、望んでるはずだ」
燎の言葉に、鴉は、しばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。
「……少し、考えてみる」
数週間後、鴉は、その女性事務官に、正式に交際を申し込んだという報告を、照れくさそうに、燎の元へ持ってきた。
「──やったな、鴉!」
「うるさい。……お前らみたいに、浮かれた顔をするつもりはない」
そう言いながらも、鴉の表情は、これまで見たことのないほど、柔らかいものだった。
## 第三十八章 柊の結婚
柊の縁談は、その後、順調に進み、翌年の春、正式な結婚式が執り行われることとなった。総真家の三人も、招待客として参加した。
「柊さん、おめでとうございます」
灯里が、満面の笑みで、柊に花束を渡した。柊は、照れくさそうに、頭を掻きながら受け取った。
「ありがとよ、灯里ちゃん。……お前がいなかったら、俺は今でも、独り身だったかもしれん」
「私、何もしてないですよ?」
「いいや。……お前らの家族を見てて、俺も、こういう暮らしに、憧れるようになったんだ」
柊は、そう言いながら、隣に立つ、新妻を見つめた。彼女もまた、柔らかな笑みを浮かべている。
「幸せそうで、何よりだ」
燎は、心からそう思った。無銘との戦い、常世庁との対峙、そうした大きな出来事の中で結ばれた、この島の人々の縁が、少しずつ、実を結び始めていた。
結婚式の帰り道、澪が、ふと、燎に尋ねた。
「──なあ、燎」
「何だ」
「私たちも……いつか、正式に」
澪は、そこまで言って、言葉を濁した。燎は、その意味を悟り、静かに微笑んだ。
「もちろん、考えてる。……灯里の卒業を待って、な」
「……そうだな」
澪は、少し少し恥ずかしそうに、燎の腕に、そっと触れた。玻璃島の春の陽射しの下、総真家の三人は、静かな、確かな幸せの中を歩いていた。
## 第三十九章 灯里の成長
灯番育成部隊での訓練を通じて、灯里の能力は、着実に成長を続けていた。以前は、無意識に、周囲のあらゆる声を拾ってしまい、疲弊することも多かったが、今では、意識的に、聞くべき声と、そうでない声を、選別できるようになっていた。
「──灯里、随分、上達したな」
訓練の様子を見学していた燎は、感心したように言った。指導していた鴉も、満足げに頷いた。
「筋がいい。……この調子なら、将来は、送り火衆でも指折りの聞き手になるかもしれん」
「私、まだまだです」
灯里は、謙遜しながらも、嬉しそうに笑った。
「でも……いつか、お父さんやお母さんみたいに、誰かを守れる人に、なりたいです」
燎は、灯里の言葉に、胸が熱くなるのを感じた。かつて、孤児院から引き取られた、偽装上の娘だった少女は、今や、自らの意志で、この島を守る一員になろうとしている。
ある日、灯里は、燎に、真剣な相談を持ちかけた。
「お父さん。……私、将来、送り火衆に、正式に入りたいです」
「本気か」
「はい。……穢の声を聞ける私だから、できることがあると思うんです。無銘の時も、御室次官の時も、私の力が、少しは役に立ちました」
「危険な道だぞ。……お前が拐かされかけたことも、忘れちゃいないだろう」
「忘れてません。……でも、だからこそ、自分の力を、ちゃんとコントロールできるようになりたいんです。誰かに悪用される前に」
燎は、灯里の決意の固さに、静かに感銘を受けた。
「──分かった。応援する」
「ありがとうございます、お父さん」
灯里は、その日から、より一層、修行に励むようになった。かつて、幽耳の力に振り回されていた少女は、今や、その力を、自らの意志で、この島のために使おうとしていた。
## 第四十章 慧海の消息
常世庁の改革が進む中、燎は、ふと、慧海のその後が気になっていた。柊を通じて、送り火衆本部に問い合わせたところ、意外な返答が返ってきた。
「──慧海様は、極刑を免れ、常世との境界を守る、渡し場の番人として、余生を送ることになったそうだ」
「渡し場の番人、か」
「無銘討伐、そして雪乃殿の魂を正しく渡した功績が、考慮されたらしい。……今は、静かに、渡し場で、迷える魂たちを、正しい道へと導く仕事をしているそうだ」
燎は、その報告に、静かに安堵した。三十年間、執着に囚われ続けた男が、今は、他の誰かの想いを、正しく渡す側に回っている。それは、一種の、贖罪の形なのかもしれなかった。
数ヶ月後、燎は、渡し場を訪れる機会があった。そこには、以前よりも、随分と穏やかな表情になった慧海が、静かに佇んでいた。
「──総真さん」
「お久しぶりです、慧海様」
「あなたには、返しきれない恩があります。……三十年の執着から、私を解き放ってくださった」
慧海は、深々と頭を下げた。
「今は、この場所で、少しでも、誰かの助けになれればと、思っています」
「──雪乃さんも、宗介さんも、きっと、見守っていますよ」
「そうであれば、嬉しいのですが」
慧海は、静かに微笑んだ。その笑みには、以前の、影を纏った穏やかさではなく、本当の意味での、心の平穏が滲んでいた。
## 第四十一章 新たな穢、旧市街の噂
常世庁の一件から、半年が過ぎた。玻璃島には、以前と変わらぬ日常が戻っていたが、送り火衆の元には、新たな案件が舞い込んでいた。
「──旧市街で、穢の目撃情報が相次いでいる」
柊が、報告書を手に、燎の家を訪れた。
「無銘の残滓か何かか」
「いや、無銘の一件とは、関係なさそうだ。……旧市街の、取り壊し予定の長屋街に、複数の穢が、居着いているらしい」
燎は、報告書に目を通した。目撃情報によれば、穢たちは、攻撃的ではないものの、住民に不安を与えているという。
「灯里を、連れて行っていいか」
「育成部隊としての、実地訓練という名目でなら、問題ない」
燎、澪、灯里の三人は、旧市街の長屋街へと向かった。取り壊しを間近に控えた古い建物群は、どこか物悲しい雰囲気を漂わせている。
「──たくさん、います」
灯里が、耳を澄ませながら言った。
「みんな、悲しそうな声を、出してます。……『壊さないで』って」
「取り壊しに、反対している穢たちか」
燎は、周囲を見渡した。古い長屋の一つ一つに、長い年月を経て積み重なった、住人たちの想いが、染み付いているのかもしれない。
長屋の奥、一際古い建物の前に、一人の老婆が佇んでいた。
「──あんたら、送り火衆の人かい」
「はい。……この辺りの穢について、調査に来ました」
「そうかい。……なら、聞いてほしいことがある」
老婆は、深い皺の刻まれた顔で、静かに語り始めた。
「この長屋街は、もう百年近く前からある。……ここで生まれて、ここで死んでいった人間が、何人もいる。取り壊しの話が出てから、夜な夜な、変な気配がすると、噂になっててね」
「その穢たちは、危害を加えてきますか」
「いいや。……ただ、悲しそうに、うろついてるだけだって話だ。……あたしゃ、あれは、この街そのものの、未練なんじゃないかと思ってる」
燎は、老婆の言葉に、力強く頷いた。灯里が、静かに、長屋の一つ一つに、耳を澄ませていく。
「──分かりました。この街の想いを、ちゃんと聞いて、正しく送ります」
燎たちの、新たな「渡し」の仕事が、静かに始まろうとしていた。
## 第四十二章 長屋街の記憶
灯里は、長屋の一軒一軒を回り、そこに残る想いに、丁寧に耳を傾けていった。
「──この家は、若い夫婦が、初めての子供を授かった喜びを、覚えてます」
「こっちの家は……戦争で、息子さんを亡くしたお母さんの、悲しみが」
灯里の言葉を聞きながら、燎と澪は、長屋の一つ一つに宿る、無数の人生の記憶を、静かに感じ取っていた。
「この街全体が、まるで、大きな一つの記憶みたいです」
灯里が、しみじみと呟いた。
「取り壊されることを、悲しんでるっていうより……ちゃんと、覚えていてほしい、って、みんな思ってるみたいです」
燎は、その言葉に、一つの案を思いついた。
「──なら、覚えている証を、残そう」
「証、というと」
「取り壊しの前に、この街の記憶を、記録に残す。……写真でも、聞き取りでも。そうすれば、建物がなくなっても、想いは、ちゃんと、残る」
燎は、市の担当者と掛け合い、取り壊し前に、長屋街の記録保存事業を、特別に組み込んでもらうことにした。老いた住人たちへの聞き取り、古い写真の収集、そして、灯里が聞いた、穢たちの想いの記録。
数週間かけて、燎たちは、長屋街の記憶を、丁寧に集めていった。作業が終わる頃には、穢たちの気配も、次第に穏やかなものへと変わっていた。
「──もう、行っても、いいみたいです」
灯里が、最後の長屋の前で、静かに口を開いた。
「ちゃんと、覚えていてもらえたから、みんな、安心して、渡れるって」
燎は、渡し火の術式を、静かに展開した。長屋街の各所から、無数の、優しい光の粒が、静かに立ち昇っていく。
「──ありがとう」
灯里が、光の粒に向かって、そっと呟いた。取り壊し前夜、長屋街は、静かに、しかし確かな安らぎに包まれていた。
翌日、長屋街の取り壊しは、滞りなく行われた。だが、その跡地に建てられた新しい集合住宅の入り口には、燎たちが集めた記録を元にした、小さな記念碑が設置されることとなった。
「──この街を、忘れないために、な」
燎の言葉に、灯里も、満足げに頷いた。玻璃島の片隅で、また一つ、確かな「渡し」の物語が、静かに紡がれていった。
## 第四十三章 燈明学舎の学芸会
燈明学舎で、秋の学芸会が催されることとなった。灯里のクラスは、劇を披露することになり、灯里自身も、大役を任されることになった。
「──主役、やることになりました」
灯里が、少し緊張した面持ちで報告した。
「どんな役だ」
「昔話の……行き場をなくした旅人を、家族として迎え入れる、村の子供の役です」
燎と澪は、思わず顔を見合わせた。まるで、自分たちの境遇を、なぞったような話だった。
「──それは、灯里にぴったりの役だな」
「私も、そう思いました」
灯里は、照れくさそうに笑った。学芸会の練習期間、灯里は、家でも熱心にセリフの練習を重ねていた。
「──『あなたは、独りじゃない。この村に、あなたの居場所は、ちゃんとある』」
燎は、練習に付き合いながら、灯里のセリフに、思わず胸を打たれた。それは、劇の台詞であると同時に、燎自身が、この家に迎え入れられた時に感じた想いと、重なるものだった。
学芸会当日、燎と澪は、他の保護者たちに混じって、灯里の晴れ舞台を見守った。灯里は、堂々とした演技で、劇を見事に演じきった。
「──『あなたは、独りじゃない』」
その台詞が、会場に響いた瞬間、燎は、思わず目頭が熱くなるのを感じた。隣を見ると、澪も、同じように、目元を拭っていた。
「──らしくないな、二人とも」
「うるさい。……お前だって、感動してるくせに」
澪の指摘に、燎は、素直に頷いた。
「感動してる。……灯里が、本当に、立派に育ってる」
学芸会が終わった後、灯里は、興奮した様子で、燎と澪に駆け寄ってきた。
「見てくれましたか!?」
「ああ、立派だったぞ」
「感動して、泣きそうになった」
燎の正直な感想に、灯里は、嬉しそうに笑った。
「──実はあの劇、私、自分たちの家族のことを、思い浮かべながら、演じてました」
「やっぱりな」
燎は、優しく灯里の頭を撫でた。玻璃島の秋空の下、総真家の絆は、また一つ、確かな彩りを重ねていた。
## 第四十四章 道玄ならぬ古老、水鏡翁の来訪
ある日、送り火衆の大長老の一人、水鏡翁(すいきょうおう)という老人が、総真家を訪れた。盲目でありながら、杖一本で、鮮やかに歩を進める、達人の風格を纏った人物だった。
「──総真燎殿の家は、ここか」
「はい、私が、総真燎です」
「──ふむ。噂に違わぬ、良い気を纏っておる」
水鏡翁は、燎の顔を、見えぬ目で、まっすぐ見据えた。
「儂は、そろそろ隠居する身での。……お主に、一つ、伝えておきたいことがあってな」
「どのようなことでしょうか」
「渡し火の儀、その先にある、真の奥義についてじゃ」
水鏡翁は、静かに語り始めた。
「渡し火の儀は、あくまで、死者の想いを、正しく渡すための術。……だが、その先には、まだ誰も到達したことのない、真の境地がある」
「真の境地、とは」
「──渡さずとも、共に在る術、じゃ」
燎は、その言葉に、静かに耳を傾けた。
「死者の想いを、無理に渡すのではなく、生者と死者が、互いに想い合いながら、共に生きていく道。……儂は、生涯をかけても、その境地には至れなんだ。だが、お主になら、あるいは」
「俺に、それができると」
「お主は、蘇生者という、生者と死者の狭間を生きる、稀有な存在じゃ。……その境遇こそが、真の奥義への、道標となるやもしれぬ」
水鏡翁は、そう言い残すと、静かに去っていった。燎は、その言葉の意味を、しばらく、深く考え込んでいた。
## 第四十五章 水鏡翁の稽古
水鏡翁の来訪から、燎は、時折、翁の元へ通い、「渡さずとも、共に在る術」について、教えを乞うようになった。
「──まず、大事なのは、死者を『見送るべき者』として扱わぬことじゃ」
水鏡翁は、燎に、静かに説いた。
「渡し火の儀は、死者の未練を、正しく手放させるための術。……だが、真の境地は、手放すことを、急がぬ」
「では、どうすれば」
「共に、在ればよい。……ただ、それだけじゃ」
禅問答のような教えに、燎は、しばらく困惑した。だが、修行を重ねるうちに、少しずつ、その意味が見えてくるようになった。
ある日、燎は、旧市街で、一人の穢と出会った。老いた男の姿をしたその穢は、攻撃的ではなく、ただ、静かに、道端の花を眺めていた。
「──どうした」
燎が声をかけると、穢は、静かに答えた。
『……この花、女房が好きだった花でな。毎年、この時期になると、見に来てるんじゃ』
「渡りたくは、ないのか」
『渡りたい、というより……もう少しだけ、この花を見ていたい、というだけじゃよ』
燎は、渡し火の術式を、あえて使わなかった。代わりに、その場に腰を下ろし、穢と共に、静かに花を眺めた。
『──若いの、付き合ってくれるのか』
「ああ。……急ぐ理由も、ないからな」
二人は、しばらくの間、無言で、花を眺め続けた。やがて、穢は、満足げに微笑んだ。
『──ありがとう。……もう、十分じゃ』
穢は、自ら望んで、静かに、光の中へと溶けていった。燎は、その様子を見届けながら、水鏡翁の教えの意味を、初めて、体感として理解した。
──渡すことを急がず、共に在ることで、死者自身が、納得して、旅立つ道を選ぶ。それこそが、真の奥義の一端なのかもしれない。
「──面白い境地に、辿り着きつつあるようじゃな」
後日、この話を聞いた水鏡翁は、満足げに笑った。
「その調子で、精進せい。……真の奥義への道は、まだ長いがの」
燎は、深く頭を下げた。常世の力を持つ蘇生者として、燎の道は、まだまだ、続いていくようだった。
## 第四十六章 燎と澪、正式な婚姻へ
灯里が燈明学舎の高等部に進級したのを機に、燎と澪は、正式に婚姻届を提出することを決めた。
「──ようやくか」
柊が、報告を聞いて、感慨深げに言った。
「お前ら、最初は、任務上の偽装夫婦だっただろうに。……随分と、遠回りしたもんだな」
「遠回りした分、確かなものになった、と思ってる」
燎は、そう答えながら、澪の方を見た。澪も、静かに微笑んでいた。
婚姻届の提出は、簡素なものだった。役所の窓口で、二人並んで、書類にサインをするだけの、地味な手続き。だが、その一枚の紙に込められた意味は、二人にとって、何よりも重いものだった。
「──これで、正式に、夫婦だな」
「ああ」
澪は、少し照れくさそうに、燎の手を握った。
「これからも、よろしく頼む」
「こちらこそ」
二人は、役所を出た後、灯里の待つ家へと帰った。灯里は、二人の報告を聞くと、飛び上がって喜んだ。
「本当に、本当に、正式な家族になったんですね!」
「ああ。……灯里も、正式に、俺たちの娘だ」
燎の言葉に、灯里は、涙を浮かべながら、深く頷いた。
「──ずっと、この日を、待ってました」
その夜、総真家では、ささやかながら、心のこもった祝いの席が設けられた。柊、鴉、そして鴉の恋人となった女性事務官も、招かれた。
「──総真家の、末永い幸せを願って」
柊の音頭で、皆が杯を掲げた。玻璃島の霊灯通りに建つ、小さな一軒家に、確かな幸せが、静かに満ちていた。
## 第四十七章 灯里、送り火衆入りを決意
高等部に進級した灯里は、正式に、送り火衆への入衆試験を受けることを決意した。
「──いよいよ、本格的に、この道を進むんだな」
燎は、灯里の決意を、静かに受け止めた。
「はい。……今までの修行の成果を、試してみたいです」
入衆試験は、実技と、霊的資質の検査、そして、実際の穢との対応を審査する、実地試験から成っていた。灯里は、幽耳の力を存分に活かし、見事、優秀な成績で、試験を突破した。
「──総真灯里、正式に、送り火衆、灯番として入衆を認める」
入衆式で、その名を読み上げられた瞬間、灯里は、誇らしげに、家族の方を振り返った。燎と澪、そして、駆けつけた鴉と柊が、温かい拍手を送っていた。
「──おめでとう、灯里」
「ありがとうございます、お父さん、お母さん」
灯里は、深々と頭を下げた。かつて、偽装上の娘として、この家に迎え入れられた少女は、今や、自らの意志で、この島を守る一員として、正式な一歩を踏み出していた。
その日の夜、燎は、灯里の入衆祝いとして、家族水入らずの食事を用意した。
「──これから、どんな灯番になりたい」
燎の問いに、灯里は、しばらく考えた後、答えた。
「──誰の声も、置き去りにしない灯番に、なりたいです。……無銘の時も、御室次官の時も、みんな、本当は、悲しい理由を、抱えてました。そういう声を、ちゃんと、最後まで聞いてあげられる人に」
燎は、その言葉に、深く頷いた。
「──いい目標だ。……お前なら、きっと、なれる」
玻璃島の夜空の下、総真家の新たな一歩が、静かに、しかし確かに、踏み出されていった。
## 第四十八章 海の向こうからの報せ
平穏な日々が続く中、灰羽衆から、燎の元に、一つの緊急報告が届いた。
「──対岸の、玄天国(げんてんこく)から、不穏な情報が入っている」
澪が、深刻な表情で、報告書を燎に見せた。玄天国は、玻璃島から海を隔てた、大陸の大国だった。
「玄天国が、どうかしたのか」
「……常世庁管理方が、密かに進めていた蘇生兵士技術。……その情報の一部が、御室次官の失脚前に、すでに玄天国側に流出していた可能性がある」
燎は、息を呑んだ。
「つまり、玄天国が、独自に、蘇生兵士の量産を進めている、ということか」
「その疑いが強い。……国境の向こうで、大規模な軍事演習が行われている、という情報もある」
燎は、拳を握りしめた。御室の一件は、確かに収束したはずだった。だが、その余波は、まだ、玻璃島の外へと、静かに広がっていたのだ。
「灰羽衆としては、どう対応する」
「情報収集を強化しつつ、送り火衆とも連携し、玻璃島への影響を、最小限に抑える方針だ。……お前にも、協力を要請したい」
「もちろんだ。……灯里や、この島の平和を脅かすものは、放っておけない」
燎は、静かに決意を固めた。無銘との戦い、常世庁管理方との対峙、そして今度は、海の向こうから迫る、新たな影。玻璃島の平和は、常に、こうした脅威と隣り合わせであることを、燎は改めて実感していた。
その夜、燎は、灯里にも、この件を伝えるべきか、迷っていた。
「──灯里にも、話すべきだと思う」
澪が、静かに言った。
「あの子は、もう、正式な灯番だ。……危険から遠ざけるだけでは、あの子自身の意志を、尊重したことにならない」
燎は、澪の言葉に、頷いた。その夜、燎と澪は、灯里に、玄天国の不穏な動きについて、正直に伝えた。灯里は、真剣な表情で話を聞いた後、静かに言った。
「──私も、できることがあれば、力になりたいです」
「危険が伴うかもしれない」
「分かってます。……でも、もう、守られてるだけの子供じゃ、いたくないです」
灯里の決意に、燎と澪は、静かに頷いた。玻璃島の家族は、新たな試練へと、共に向き合う準備を、静かに整え始めていた。
## 第四十九章 玄天国の使者
数週間後、玄天国から、正式な使者が、玻璃島を訪れた。表向きは、友好親善のための訪問だったが、燎たちは、その裏に潜む思惑を、警戒していた。
「──玄天国、軍事顧問、名を、羅刹(らせつ)と申します」
使者として現れたのは、屈強な体躯の男だった。その気配は、静間や御室と同種の、常世の力を宿していることを、燎に感じさせた。
「──あんたも、蘇生者か」
燎の問いに、羅刹は、不敵な笑みを浮かべた。
「ほう。……さすが、玻璃島の焔主殿。勘がいい」
「玄天国は、常世庁管理方の技術を、独自に発展させているのか」
「発展、というより、完成させた、というべきでしょうな」
羅刹の言葉に、燎は、緊張を強めた。
「我が国では、すでに、数百名規模の、蘇生兵士部隊が編成されております。……あなた方の島国とは、比較にならない戦力です」
「その戦力を、どうするつもりだ」
「まずは、友好的な、技術交流を、提案しに参りました」
羅刹は、慇懃な態度で言った。
「玻璃島の、渡し火の儀。……あの技術を、我が国にも、提供いただけないでしょうか」
「──断る」
燎は、即座に答えた。
「渡し火の儀は、死者を正しく送るための術だ。……兵器化するために、渡すつもりはない」
「残念です。……では、致し方ありません」
羅刹の目に、初めて、冷たい光が宿った。
「近く、我が国は、玻璃島との『合同演習』を、提案する予定です。……その内容が、友好的なものになるか、そうでないかは……あなた方次第、ということになりますな」
羅刹は、そう言い残すと、悠然と去っていった。燎は、その後ろ姿を見つめながら、新たな、そして、これまで以上に大きな脅威が、玻璃島に迫りつつあることを、確信した。
「──厄介なことになったな」
澪が、険しい表情で呟いた。
「玄天国が、本気で、玻璃島に武力介入するつもりなら……送り火衆や灰羽衆だけでは、対応しきれないかもしれない」
「それでも、俺たちは、この島を、守り抜く」
燎の決意に、澪も、静かに頷いた。玻璃島の運命を左右する、新たな戦いの足音が、静かに、しかし確実に、近づいていた。
## 第五十章 結集する仲間たち
羅刹の訪問から、玻璃島全体に、緊張が走った。送り火衆、灰羽衆の合同会議が開かれ、燎も、その中心的な立場で、対応策を協議することとなった。
「──玄天国の蘇生兵士部隊、数百名規模というのは、誇張ではなさそうだ」
柊が、集めた情報を元に、報告した。
「正面から戦力で対抗するのは、現実的ではない」
「なら、どうする」
燎の問いに、御館が、静かに口を開いた。
「──外交と、抑止力、両面での対応が必要じゃろう」
御館は、続けた。
「玄天国が、本当に武力侵攻を望んでいるのか、それとも、ただの示威行動なのか。……見極める必要がある」
「羅刹の様子からは、本気で戦争を望んでいるようには、見えなかった」
燎は、羅刹との対話を思い返しながら言った。
「──むしろ、あの男自身も、何か、複雑な事情を抱えているような印象を受けた」
「静間殿や、御室次官と、同じ、か」
柊が、思い当たったように言った。
「蘇生者には、それぞれ、深い喪失や後悔がある。……羅刹という男も、その例に漏れないのかもしれん」
燎は、その可能性に、一縷の望みを見出した。
「──なら、力だけでなく、対話の道も、探るべきだ」
その方針の下、燎たちは、二段構えの準備を進めることとなった。一つは、万が一の武力衝突に備えた、防衛体制の構築。もう一つは、羅刹、そして玄天国そのものとの、対話の糸口を探ることだった。
防衛体制の構築には、鴉率いる灯番育成部隊の若手たちも、動員されることとなった。灯里も、その一員として、実戦に近い訓練に、真剣に取り組んだ。
「──灯里、無理はするなよ」
燎が、訓練の合間に、声をかけた。
「大丈夫です。……私も、この島を守る、送り火衆の一員ですから」
灯里の目には、以前の、守られるだけの少女の面影は、もう、ほとんど残っていなかった。
一方、澪は、灰羽衆の情報網を駆使し、玄天国内部の動向を、詳細に探り始めた。羅刹という男の、個人的な背景についても、密かに調査が進められた。
「──羅刹について、興味深い情報が入った」
数日後、澪が、燎に報告した。
「あの男、かつて、玄天国の内戦で、多くの部下を、目の前で喪っているらしい。……蘇生兵士部隊の編成を、誰よりも強く推進しているのも、その経験が、根底にあるようだ」
「静間や、御室と、同じ道を辿っているのか」
「かもしれない。……なら、力だけでなく、その心にも、訴えかける余地があるはずだ」
燎は、澪の情報に、小さく頷いた。玻璃島の運命をかけた、新たな戦いへの準備が、着々と進められていった。
## 第五十一章 羅刹との再会
燎は、単身、羅刹との非公式な会談を申し入れた。玄天国側も、これに応じ、玻璃島の外れにある、中立地帯の茶屋で、二人だけの対話の場が設けられた。
「──よく、一人で来る気になったな」
羅刹は、燎の姿を見て、意外そうに言った。
「あんたと、腹を割って話したかっただけだ」
燎は、羅刹の対面に腰を下ろした。
「あんたも、蘇生者なんだろう。……かつて、内戦で、多くの部下を喪った、と聞いた」
羅刹の表情が、初めて、大きく揺らいだ。
「……よく調べたものだな」
「静間や、御室次官も、同じような過去を、背負っていた。……あんたも、その延長線上にいるんじゃないのか」
羅刹は、しばらく沈黙した後、静かに語り始めた。
「──あの内戦で、俺は、百人以上の部下を、目の前で喪った。……俺自身も、その戦いで、一度死にかけている」
「それで、蘇生兵士の量産を、推し進めているのか」
「そうだ。……二度と、あんな喪失を、繰り返したくない。……蘇生技術さえあれば、あの部下たちも、救えたはずだ」
「その考えは、御室次官と、同じだ」
燎は、静かに、しかし、はっきりと言った。
「本人の意思を無視して、蘇生させ、また戦わせる。……それは、救いじゃない。ただの、繰り返しだ」
「では、どうしろというのだ!」
羅刹が、初めて、感情を露わにした。
「俺の部下たちは、無念のまま、死んでいったんだ! その無念を、晴らす方法が、他にあるというのか!」
燎は、羅刹の慟哭に、静かに向き合った。
「──晴らす、というのが、間違ってるのかもしれない」
「どういうことだ」
「無念は、晴らすものじゃなく……ちゃんと、聞いて、受け止めて、正しく送るものだ。……俺たちは、それを『渡し』と呼んでる」
燎は、無銘の一件、そして、水鏡翁から学んだ、渡さずとも共に在る術について、静かに語った。
「あんたの部下たちの声を、ちゃんと聞いたことは、あるか」
羅刹は、はっとしたように、言葉を失った。
「……ない。……ずっと、俺自身の、後悔と使命感だけで、突き進んできた」
「なら、一度、聞いてみないか。……彼らが、本当に、望んでいたことを」
燎の提案に、羅刹は、長い沈黙の後、静かに頷いた。
「──分かった。……その方法が、あるというのなら」
燎は、灯里の力を借りることを、提案した。玄天国と玻璃島、二つの国の運命をかけた対話が、思わぬ形で、新たな局面を迎えようとしていた。
## 第五十二章 灯里、海を渡る
羅刹の提案を受け、灯里は、燎、澪と共に、玄天国へと渡ることとなった。かつての内戦の跡地で、羅刹が喪った部下たちの声を、直接聞くためだった。
「──緊張、しますね」
船上で、灯里が、小さく呟いた。
「無理はしなくていい。……できる範囲でいい」
燎の言葉に、灯里は、静かに頷いた。
玄天国に到着した一行は、羅刹の案内で、内戦の激戦地だったという、荒れた平原へと向かった。そこには、無数の、名もなき戦没者の墓標が、並んでいた。
「──ここが、俺の部下たちが、眠る場所だ」
羅刹の声に、悲痛な色が滲んでいた。灯里は、静かに、平原の中央に立ち、耳を澄ませた。
しばらくして、灯里の表情が、大きく変化した。
「……たくさんの、声が、聞こえます」
灯里は、目を閉じたまま、語り始めた。
「──『隊長、俺たちのことは、気にしないでくれ』」
「──『あんたが、生き残ってくれて、よかった』」
「──『復讐なんか、望んでない。……ただ、あんたに、幸せに、生きてほしい』」
羅刹は、灯里の言葉を聞きながら、崩れ落ちるように、その場に膝をついた。
「……そんな、まさか」
「みんな、あんたを、恨んでなんか、いません」
灯里は、涙を浮かべながら、続けた。
「──むしろ、あんたが、自分を責め続けてることを、悲しんでます。……『もう、自分を許してあげてほしい』って、みんな、言ってます」
羅刹は、両手で顔を覆い、長い間、嗚咽を漏らし続けた。三十年近く、内に秘め続けてきた罪悪感が、部下たちの本当の想いによって、ようやく、溶かされていく瞬間だった。
「──俺は……ずっと、間違えていたのか」
「間違いじゃ、ないと思います」
灯里は、優しく言った。
「あんたなりに、部下たちのために、できることを、探してた。……ただ、その方法が、少し、みんなの本当の願いとは、違ってただけです」
羅刹は、長い沈黙の後、静かに立ち上がった。その目には、これまでの、鋭さと苦しさが混ざった光ではなく、静かな、澄んだ決意が宿っていた。
「──蘇生兵士部隊の計画、白紙に戻す」
「本当か」
燎の問いに、羅刹は、大きく頷いた。
「これ以上、部下たちの想いを、踏みにじるわけには、いかない。……総真殿、そして、灯里殿。……ありがとう、ございました」
羅刹は、深々と、頭を下げた。玄天国と玻璃島の間に燻っていた、大きな緊張が、こうして、静かに解けていった。
## 第五十三章 和平の調印
羅刹の決断を受け、玄天国と玻璃島の間で、正式な和平協定の締結に向けた交渉が、急速に進められることとなった。
「──蘇生技術の軍事転用を、両国間で、正式に禁止する」
「常世庁の管理下で、蘇生者の権利と意思を、最大限に尊重する」
「双方の国境地域における、軍事演習の相互通告制度を、新設する」
交渉は、羅刹自身の強い後押しもあり、驚くほど円滑に進んだ。数週間後、玄天国と玻璃島の間で、正式な和平協定が、調印される運びとなった。
調印式には、燎、澪、灯里も、玻璃島側の立会人として、招かれた。羅刹も、玄天国側の代表として、式典に参加していた。
「──総真殿」
式典の後、羅刹が、燎に近づいてきた。
「あなた方のおかげで、俺は、長年の呪縛から、解放された。……この恩は、生涯、忘れません」
「あんた自身が、変わろうとしたからだ。……俺たちは、少し、後押ししただけだ」
燎は、謙虚に答えた。羅刹は、灯里の方にも、深く頭を下げた。
「灯里殿。……あなたの力は、本当に、貴重なものだ。……これからも、その力を、大切にしてほしい」
「はい。……ありがとうございます」
灯里は、はにかむように、微笑んだ。
調印式の帰り道、燎、澪、灯里の三人は、玄天国の港町を、少しだけ観光することにした。
「──こんな風に、家族旅行、初めてですね」
灯里が、嬉しそうに言った。
「そうだな。……任務のついで、ではあるが」
「それでも、嬉しいです」
澪も、珍しく、穏やかな笑みを浮かべていた。
「玄天国との緊張も、ひとまず、解けた。……少しは、ゆっくりできそうだな」
「はい」
三人は、異国の港町の風景を、静かに楽しんだ。玻璃島の平和は、こうして、また一つ、大きな試練を乗り越え、確かなものとなっていった。
## 第五十四章 水鏡翁の大往生
和平協定の締結から、しばらく経ったある日、水鏡翁が、体調を崩したという報せが、燎の元に届いた。
「──翁が」
燎は、急いで、水鏡翁の元へと駆けつけた。老いた身体は、以前よりも、明らかに衰えていた。
「──来たか、燎」
「翁、大丈夫ですか」
「儂の歳を考えれば、そう驚くことでもあるまい」
水鏡翁は、穏やかに笑いながら言った。
「──お主に、伝えておきたいことがあってな」
「何でしょうか」
「『渡さずとも、共に在る術』……お主は、もう、その入り口に、立っておる」
水鏡翁は、静かに続けた。
「無銘の一件、御室次官の一件、玄天国との一件。……すべてにおいて、お主は、力だけでなく、相手の心に、寄り添おうとしてきた。……それこそが、真の奥義の、本質じゃ」
「まだまだ、未熟です」
「未熟で、よい。……その道は、生涯をかけて、極めていくものじゃからな」
水鏡翁は、燎の手を、そっと握った。
「儂は、もう長くない。……だが、悔いはない。お主のような、若者に、この道を、託せたのじゃからな」
「翁……」
「泣くな。……儂が渡る時は、お主が、正しく、送ってくれ。……それが、儂の、最後の望みじゃ」
数日後、水鏡翁は、静かに息を引き取った。燎は、翁の遺言通り、渡し火の儀を執り行った。だが、それは、単なる「渡し」ではなかった。燎は、翁の傍らに座り、しばらくの間、共に、静かな時間を過ごした。
「──翁、ありがとうございました」
燎の言葉に応えるように、水鏡翁の魂は、穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと、光の中へと溶けていった。急かすことなく、無理に渡すこともなく、ただ、共に在ることで、翁は、自らの意志で、旅立っていった。
それは、燎が初めて、水鏡翁の教えを、完全な形で体現できた瞬間だった。
水鏡翁の葬儀には、送り火衆の関係者だけでなく、燎の家族、鴉、柊、そして、羅刹からも、弔電が届いた。玻璃島に、一つの時代の終わりと、新たな時代の始まりが、静かに訪れていた。
## 第五十五章 契約完済
水鏡翁の死から数ヶ月後、燎の元に、常世庁から、一通の通知が届いた。
「──契約完済、だと」
燎は、通知書を読みながら、驚いた声を上げた。宵が、その報告のために、直々に、総真家を訪れていた。
「はい。……無銘討伐、常世庁管理方阻止、そして、玄天国との和平への貢献。……これらの功績により、あなたの常世契約十万灯は、正式に、完済と認められました」
「これで、俺は……」
「常世庁との、義務的な契約関係からは、解放されます。……ただし、以前もお伝えした通り、常世の力そのものは、あなたの身体に、残り続けます」
燎は、静かに、その言葉を噛み締めた。死してから、これまでの日々が、走馬灯のように蘇る。偽装家族としての始まり、無銘との戦い、常世庁の闇との対峙、そして、玄天国との和解。
「──長い、道のりだった」
「はい。……本当に、長い道のりでした」
宵は、珍しく、感慨深げな表情を見せた。
「最初にお会いした時、あなたは、ただ、生き延びることだけを、望んでいるように見えました。……ですが今は」
「今は?」
「守るべきものを持つ、一人の人間に、なられましたね」
宵の言葉に、燎は、小さく頷いた。
「──あんたのおかげでもある。あの時、渡り場で、俺に、選択の機会をくれた」
「選んだのは、あなた自身です。……その選択が、こうして、玻璃島に、多くの平和をもたらした」
宵は、深々と一礼すると、静かに去っていった。燎は、その後ろ姿を見送りながら、澪と灯里の待つ、居間へと戻った。
「──契約、完済したぞ」
「本当ですか!?」
灯里が、目を輝かせて、燎に駆け寄った。澪も、静かに、しかし、確かな安堵の表情を浮かべていた。
「これで、お父さんは、もう、常世庁の義務から、完全に自由なんですね」
「ああ。……これからは、誰の義務でもなく、俺自身の意志で、この島を、そして、この家族を、守っていく」
燎の言葉に、澪と灯里は、静かに、そして、深く頷いた。総真家に、新たな、確かな一区切りが、訪れていた。
## 第五十六章 静間、送り火衆への転属
常世庁の改革が進む中、静間は、自ら志願し、送り火衆への転属を、正式に願い出た。
「──俺のような者を、受け入れてくれるとは、思いませんでした」
転属が認められた日、静間は、燎の元を訪れ、深々と頭を下げた。
「あんたも、部下を喪った過去がある。……その経験を、次の世代のために、活かしてくれ」
燎は、静かに、静間に手を差し伸べた。
「鴉の育成部隊で、指導役を、手伝ってもらえないか」
「──よろしいのですか。私は、かつて、あなた方の敵だった身です」
「過去は、過去だ。……今のあんたが、何をするかが、大事だ」
静間は、燎の言葉に、深く感銘を受けた様子だった。
「──ありがとうございます。……この機会を、無駄にしないよう、精進します」
こうして、静間は、鴉の育成部隊で、若い灯番たちの指導にあたることとなった。かつて、蘇生兵士計画を推し進めていた男は、今や、若者たちが、正しく、健全に、力を伸ばせるよう、支える立場へと転じていた。
「──静間さん、今日の稽古、お願いします」
灯里も、静間から、直接、指導を受けることが増えていた。
「灯里殿の力は、非常に繊細で、優れています。……ですが、力に頼りすぎず、まず、自分自身の心を、整えることが大切です」
「はい、静間さん」
灯里は、素直に、静間の教えを受け止めていた。かつての敵と味方が、今は、共に、この島の未来のために、力を尽くす仲間となっていた。
## 第五十七章 万事相談、始めます
灯里は、送り火衆での修行の傍ら、地域の人々の、小さな悩みごとにも、耳を傾けるようになっていた。きっかけは、燎の何気ない一言だった。
「──灯里、お前の力は、大きな戦いだけじゃなく、日常の小さな困りごとにも、役立つはずだ」
「日常の、困りごと……」
「穢の声を聞くのは、大きな事件の時だけじゃない。……もっと身近な、ちょっとした未練や、小さな悲しみにも、耳を傾けられるはずだ」
燎の言葉に触発され、灯里は、家の一角に、小さな「よろず相談処」を、開くことにした。
「──穢のこと、聞きたい人のこと、何でも、相談に乗ります」
最初は、近所の子供たちの、他愛のない相談ばかりだった。「なくした人形が、どこにあるか分からない」「亡くなったおばあちゃんに、伝えたいことがある」──そうした、小さな願いに、灯里は、丁寧に応えていった。
「──おばあちゃんは、あなたのこと、ちゃんと見てるよって、言ってます。『元気に、大きくなってね』って」
灯里の言葉に、涙ぐむ子供の姿を見るたびに、灯里自身も、自分の力の意味を、改めて実感していった。
燎と澪も、時折、この「よろず相談処」の運営を手伝った。かつて、任務として始まった総真家の暮らしは、今や、地域に根差した、小さな、しかし確かな役割を、担うようになっていた。
「──いい形に、なってきたな」
燎は、相談処に訪れる人々の姿を見ながら、静かに、満足感を覚えていた。
## 第五十八章 鴉と柊、それぞれの家庭
鴉と、恋人だった女性事務官との交際は、その後、順調に進み、二人は、正式に婚約することとなった。
「──ついに、お前も、身を固めるのか」
燎は、報告を聞いて、感慨深げに言った。
「うるさい。……お前らに、言われたくないな」
鴉は、くすぐったそうに、頭を掻いた。
「妹の分まで……いや、それだけじゃない。俺自身が、彼女と、幸せになりたいと、思うようになった」
「いい変化だな」
燎は、心から、鴉の幸せを喜んだ。
一方、柊の家庭にも、新たな喜びが訪れていた。柊夫婦に、待望の子供が誕生したのだ。
「──男の子だ! 元気な、男の子が生まれた!」
柊が、興奮した様子で、総真家に報告に訪れた。
「おめでとうございます、柊さん!」
灯里が、真っ先に、祝福の言葉をかけた。
「名前は、何と」
燎の問いに、柊は、少し照れくさそうに答えた。
「──『燎』の字を、一字、貰おうと思ってな。『燎太(りょうた)』、と名付けた」
「──俺の名前を?」
「お前が、この島に、多くの平和をもたらしてくれたからな。……その恩を、次の世代にも、繋いでいきたいと思ってな」
燎は、その心遣いに、深く胸を打たれた。
「──大切に、育ててくれ」
「もちろんだ」
柊は、晴れやかに、生まれたばかりの息子の写真を、皆に見せた。玻璃島の日常には、こうした、小さな、しかし確かな幸せが、次々と、積み重なっていった。
## 第五十九章 旧市街の記念碑、その後
取り壊された旧市街の跡地に建てられた記念碑は、その後、地域の人々にとって、大切な場所となっていた。命日や、季節の節目に、多くの人々が、花を手向けに訪れるようになったのだ。
「──あの記念碑、随分と、地域に馴染んだな」
燎は、灯里と共に、記念碑を訪れながら、感慨深げに言った。
「はい。……あの時、みんなの想いを、ちゃんと記録に残せて、よかったです」
灯里は、記念碑に刻まれた、かつての住人たちの名前を、静かに見つめた。
「──たまに、ここから、優しい声が聞こえることがあります」
「優しい声?」
「はい。……『ちゃんと、覚えていてくれて、ありがとう』って。……もう、渡っていった人たちなのに、不思議です」
燎は、その言葉に、静かに頷いた。想いというものは、渡った後も、こうして、生者の記憶の中に、優しい形で、残り続けるものなのかもしれない。
「──いい仕事を、したんだな、俺たちは」
「はい」
燎と灯里は、記念碑に、静かに手を合わせた。玻璃島の各所に、こうした、燎たちの「渡し」の物語が、静かに、しかし確実に、刻まれ続けていた。
## 第六十章 偽装、まだ続いてます
和平協定の締結から一年、燎の元に、思わぬ依頼が舞い込んだ。灰羽衆から、新たな潜入任務の打診があったのだ。
「──また、偽装家族の任務か」
燎は、依頼書を見ながら、苦笑した。
「いや、今回は違う。……今度は、偽装家族じゃなく、『本物の家族による、地域振興大使』という、随分と趣の違う依頼だ」
澪が、書類を読みながら、呆れたように言った。
「地域振興大使、というのは」
「玄天国との和平を記念して、両国の友好を、市民レベルで示す象徴として、俺たちの家族を、広報に使いたい、という話らしい」
燎は、思わず笑ってしまった。
「偽装から始まった俺たちが、今度は、本物の家族として、広報活動、か」
「悪くない話じゃないか」
澪も、珍しく、乗り気な様子だった。
「灯里は、どう思う」
燎が尋ねると、灯里は、明るく答えた。
「面白そうです! それに、今度は、演技じゃなくて、本当の家族として、堂々と、出られますし」
こうして、総真家は、玄天国と玻璃島の友好の象徴として、両国のメディアに、度々登場することとなった。かつて、正体を隠しながら暮らしていた家族が、今度は、本物の絆を、公然と示す立場になったのだ。
「──なんだか、感慨深いな」
燎は、家族写真の撮影の合間に、そっと呟いた。
「最初は、任務のための、偽りの家族だった。……それが今は、こうして、堂々と、家族として、人前に立ってる」
「──いい形の、変化だと思う」
澪が、燎の隣で、静かに微笑んだ。灯里も、二人の間に割り込むように、笑顔で並んだ。
撮影された家族写真は、後に、総真家の居間に、大切に飾られることとなった。偽りから始まり、本物へと至った、一つの家族の軌跡が、その一枚の写真に、確かに刻まれていた。
## 第六十一章 六道大会、開催決定
玄天国と玻璃島の和平を、より確かなものにするため、両国合同で、「六道大会(ろくどうたいかい)」と呼ばれる、祓い師たちの交流試合が、開催されることとなった。
「──羅刹殿が、発案者だそうだ」
柊が、大会の詳細を、燎に伝えた。
「両国の祓い師たちが、技を競い合うことで、互いの理解を深める。……武力による対立ではなく、健全な競技として、力を示し合う場、というのが、趣旨らしい」
「面白い試みだな」
燎は、素直に、感心した。
「灯里も、出場したいと言っている。……玄天国側の若い祓い師たちとの、交流の機会にもなるだろう」
「灯里が、か」
燎は、少し驚いた。
「あの子、随分と、逞しくなったな」
「お前の背中を見て、育ったんだろう」
澪の言葉に、燎は、照れくさそうに笑った。
六道大会当日、玻璃島の闘技場には、両国から集まった、多くの若き祓い師たちが、居並んだ。灯里も、その中に、堂々と立っていた。
「──灯里、頑張ってこい」
燎の声援に、灯里は、力強く頷いた。
灯里の対戦相手は、玄天国側の、若い蘇生兵士出身の少女だった。かつて、羅刹の部隊にいた者の一人だという。
「──よろしくお願いします」
互いに、礼を交わし、試合が始まった。灯里は、幽耳の力を活かし、相手の動きの機微を、的確に読み取っていく。
「──すごい。相手の動きを、まるで、先読みしてるみたいだ」
観客席から、鴉が、感心したように呟いた。
試合は、白熱した攻防の末、灯里の判定勝ちで終わった。試合後、灯里は、対戦相手の少女に、優しく声をかけた。
「──いい試合でした。……あなたの動き、とても、綺麗でした」
「ありがとう、ございます。……あなたのような、幽耳の使い手と、戦えて、光栄でした」
二人の少女は、国境を越えて、静かな友情を、育み始めていた。六道大会は、こうして、両国の若い世代の間に、新たな絆を、着実に築いていった。
## 第六十二章 灯里、指導役に
六道大会から数年が経ち、灯里は、送り火衆の中でも、指折りの実力者として、認められるようになっていた。かつて、鴉から指導を受けていた立場から、今度は、自らが、若い灯番たちを指導する立場へと、成長していた。
「──灯里先生、今日も、よろしくお願いします」
若い灯番の一人が、元気よく挨拶した。灯里は、優しく微笑みながら、頷いた。
「はい。……今日は、声の聞き分け方を、練習しましょう」
灯里の指導は、静間や鴉の教えを受け継ぎながらも、灯里自身の経験に裏打ちされた、独自の温かさを持っていた。
「──穢の声を聞く時、一番大事なのは、怖がらないことです。……あの子たちも、私たちと同じように、悲しかったり、寂しかったりする、想いを持ってるだけですから」
灯里の言葉に、若い灯番たちは、真剣に耳を傾けていた。
ある日、燎は、灯里の指導風景を、こっそりと見学しに訪れた。
「──随分と、立派になったもんだな」
燎は、感慨深げに、その様子を見守った。かつて、孤児院から引き取られた、小さな少女は、今や、多くの若者を導く、立派な指導者へと成長していた。
「お父さん、見てたんですか」
灯里が、燎に気付き、少し少し恥ずかしそうに言った。
「ああ。……いい先生になったな、灯里」
「お父さんと、静間さん、鴉さんの、受け売りですけどね」
灯里は、謙遜しながらも、誇らしげに笑った。
「──それでいい。……受け継いだものを、また次の世代に、渡していく。それも、大事な役目だ」
燎の言葉に、灯里は、深く頷いた。総真家の絆、そして、渡し火の教えは、こうして、確かに、次の世代へと、受け継がれていっていた。
## 第六十三章 澪の、隠しごとでもない秘密
ある日、燎は、澪が、密かに何かを、書き溜めていることに、気付いた。
「──何を、書いてるんだ」
「……見るな」
澪は、慌てて、ノートを隠そうとした。だが、燎は、その一部を、目にしてしまっていた。それは、これまでの、総真家の日々を綴った、日記のようなものだった。
「……日記、書いてたのか」
「……悪いか」
澪は、珍しく、頬を赤らめながら、開き直ったように言った。
「灯里が、大きくなったら、渡そうと思って。……この家族の、始まりから、今までのことを、ちゃんと、記録しておきたくてな」
燎は、その言葉に、静かに胸を打たれた。冷徹に見えて、実は誰よりも、家族を大切に思っている澪の一面を、また一つ、知ることができた瞬間だった。
「──いいことだと思う。……俺にも、少し、読ませてくれないか」
「……仕方ないな」
澪は、少し恥ずかしそうにしながらも、日記の一部を、燎に見せた。そこには、任務としての偽装家族から、本物の家族へと変わっていく、澪自身の心の機微が、丁寧に綴られていた。
「──こんな風に、思ってたのか」
「……悪いか」
「いや。……嬉しい」
燎は、澪の手を、そっと握った。二人の間に、これまで以上に、深い理解と、確かな絆が、静かに育まれていった。
## 第六十四章 燈明学舎、新たな入学者
燈明学舎に、新たな新入生が、入学することとなった。名を、小さな男の子で、名を「宗太(そうた)」といった。両親を早くに亡くし、孤児院からの入学だという。
「──なんだか、昔の私を、見てるみたいです」
灯里は、宗太の入学式を見守りながら、しみじみと呟いた。
「境遇が、似てるからか」
「はい。……孤児院から、この学舎に来て。……あの時の、心細さを、思い出します」
灯里は、宗太に、それとなく、目をかけるようになった。休み時間に、声をかけたり、悩み事を聞いたり。かつて、自分がしてもらったように、灯里は、宗太に接していった。
「──灯里お姉ちゃん、僕にも、あんな風に、家族が、できるかな」
ある日、宗太が、不安そうに尋ねてきた。灯里は、優しく、その頭を撫でた。
「大丈夫。……あなたを大切に思ってくれる人は、きっと、現れる。……私だって、そうだったから」
「本当に?」
「本当。……偽りから始まったって、いいの。大事なのは、その先、ちゃんと、想い合えるかどうか」
灯里の言葉に、宗太は、少し安心したように、笑顔を見せた。
その夜、灯里は、燎と澪に、宗太のことを話した。
「──もし、よかったら……宗太くんのことも、気にかけてあげられたら、と思います」
「里親制度の、里子として、か」
「はい。……まだ、早いかもしれませんが」
燎と澪は、顔を見合わせた。
「──悪くない話だ。ゆっくり、様子を見ながら、考えよう」
総真家に、また一つ、新しい縁が、静かに芽生えようとしていた。かつて、偽りの家族として始まった総真家は、こうして、少しずつ、その温かさの輪を、広げ続けていた。
## 第六十五章 もう一つの、家族の形
数ヶ月の交流期間を経て、総真家は、宗太を、正式に、里子として迎え入れることを決めた。
「──今日から、この家が、お前の家だ」
燎の言葉に、宗太は、緊張した面持ちで、頷いた。
「よろしく、お願いします」
「かしこまらなくていい。……ここは、お前の家でもあるんだから」
澪が、優しく、宗太の頭を撫でた。灯里は、弟のように、宗太に接し始めた。
「──宗太くん、これから、色々、教えてあげるね」
「うん、灯里お姉ちゃん」
総真家に、新しい家族が、また一人、加わった。かつて、燎、澪、灯里の三人で始まった、偽りの家族は、こうして、本物の絆を重ねながら、少しずつ、その輪を広げていった。
宗太は、燈明学舎で、灯里の後を追うように、送り火衆の道を志すようになった。灯里は、時に厳しく、時に優しく、弟弟子として、宗太を指導した。
「──灯里お姉ちゃんみたいに、なりたいな」
宗太の、素直な言葉に、灯里は、少し照れくさそうに笑った。
「──私も、まだまだ、修行中だよ。……でも、一緒に、頑張ろうね」
総真家の食卓は、また一人分、賑やかさを増していった。燎は、その様子を眺めながら、静かな幸せを、噛み締めていた。
「──家族って、こうやって、少しずつ、広がっていくものなのかもな」
燎の呟きに、澪も、静かに頷いた。
「私たちも、最初は、任務として、始まった。……でも今は、こうして、本物の温かさで、満ちている」
二人は、賑やかな食卓を、静かに見つめた。玻璃島の霊灯通りに建つ、小さな一軒家に、確かな、温かい灯りが、絶えることなく、灯り続けていた。
## 第六十六章 十年後の玻璃島
あれから、十年の歳月が流れた。玻璃島は、玄天国との和平が、確かなものとして根付き、かつての緊張は、遠い過去のものとなっていた。
灯里は、二十七歳になり、送り火衆の中でも、屈指の実力者として、若手の指導にあたっていた。宗太も、立派な灯番として、独り立ちしていた。
「──灯里先生、今日の稽古は、これで終わりです」
宗太が、若手の灯番たちに、稽古の終わりを告げた。かつて、指導される側だった宗太は、今や、灯里と共に、次の世代を育てる立場になっていた。
「──立派になったな、二人とも」
燎は、稽古場の隅で、その様子を、静かに見守っていた。四十を超えた燎の身体には、常世の力が、以前よりも、深く、静かに馴染んでいた。
「──お父さん、また、見学してたんですか」
灯里が、燎に気付き、笑いながら言った。
「たまには、いいだろう。……お前らの成長を、見るのが、楽しみなんだ」
「もう、子供扱いしないでくださいよ」
灯里は、苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
その頃、澪は、灰羽衆の要職に就き、内偵一課の課長として、若手の工作員たちを、育成する立場になっていた。
「──今日も、忙しかったか」
燎が、帰宅した澪に、声をかけた。
「ああ。……だが、悪くない忙しさだ」
澪は、以前と変わらぬ、しかし、より柔らかな笑みを浮かべた。
「柊さんの息子、燎太くんも、もう、燈明学舎に通ってるんだったな」
「ああ。……鴉夫婦にも、二人目の子供が、生まれたそうだ」
「──時が経つのは、早いもんだな」
燎は、しみじみと呟いた。無銘との戦い、常世庁管理方との対峙、玄天国との和解──様々な出来事を経て、玻璃島には、確かな平和と、次の世代へと繋がる、豊かな時間が、静かに流れ続けていた。
## 第六十七章 鴉、柊、それぞれの家族
十年の歳月は、鴉と柊、それぞれの家庭にも、豊かな実りをもたらしていた。鴉は、育成部隊の隊長として、多くの若手灯番を育て上げ、二人の子供の父親としても、穏やかな日々を送っていた。
「──俺も、随分と、丸くなったもんだ」
鴉は、休日、子供たちと遊ぶ様子を、燎に見せながら、照れくさそうに笑った。
「妹さんも、きっと、喜んでる」
「──そうだといいがな」
鴉の表情には、かつての、剥き出しの怒りは、もう、跡形もなかった。代わりに、穏やかな、父親としての、確かな温かさが、そこにはあった。
柊もまた、息子の燎太が、燈明学舎で、健やかに成長する姿を、誇らしげに見守っていた。
「──燎太、灯里ちゃんみたいに、なりたいって、言ってるらしいぞ」
柊が、嬉しそうに、燎に報告した。
「──いい目標だ。灯里なら、きっと、いい先輩になってくれる」
「お前の名前も、貰ってるんだ。……立派に、育ってほしいもんだな」
柊の言葉に、燎は、力強く頷いた。総真家を中心に広がった、この十年間の縁は、玻璃島の、多くの家庭に、静かな、しかし確かな幸せを、もたらし続けていた。
## 第六十八章 灯里の選択
二十七歳になった灯里は、送り火衆の中でも、次期焔主候補の一人として、名前が挙がるようになっていた。
「──灯里、お前、焔主を、目指す気はあるか」
柊が、それとなく、灯里の意向を尋ねた。灯里は、しばらく考えた後、静かに答えた。
「──正直、まだ、迷ってます」
「迷い、というのは」
「焔主になれば、もっと、多くの人を、守れるかもしれません。……でも、今の、指導役としての立場も、大切にしたいんです」
灯里は、真剣な表情で続けた。
「──私は、大きな力より、一人一人の声に、ちゃんと耳を傾けられる灯番でいたい、と思ってます」
その言葉を聞いた燎は、静かに、誇らしい気持ちを覚えた。
「──それも、立派な道だ。……焔主になることだけが、正解じゃない」
「お父さんも、そう思いますか」
「ああ。……お前は、お前の道を、選べばいい」
燎の言葉に、灯里は、安心したように微笑んだ。
結局、灯里は、焔主候補の座を辞退し、育成部隊の、主任指導役として、道を極めていくことを選んだ。それは、力による頂点ではなく、次の世代を、丁寧に育てていく道だった。
「──灯里らしい、選択だな」
澪も、静かに、その決断を、支持していた。玻璃島の未来は、こうして、力だけでなく、想いを受け継いでいく、確かな道筋を、着実に築いていた。
## 第六十九章 宗太の初陣
十年の歳月を経て、宗太も、正式な灯番として、初めての実戦任務に就くこととなった。
「──緊張してるか」
燎が、出立前の宗太に、声をかけた。
「はい……少し」
「大丈夫だ。……灯里が、ちゃんと、教えてくれただろう」
「はい。……灯里お姉ちゃんの教え、忘れません」
宗太の初任務は、旧市街近くの、比較的穏やかな穢の対応だった。灯里も、指導役として、同行することとなった。
「──焦らず、まず、相手の声を、聞くこと」
灯里の助言に、宗太は、真剣に頷いた。現場に到着すると、小さな、悲しげな穢が、そこにいた。
「──怖がらなくていい。……俺は、お前の話を、聞きに来た」
宗太は、灯里から教わった通り、穏やかに、穢に語りかけた。緊張しながらも、その声は、確かな誠実さを、宿していた。
「……よくやった、宗太」
任務を終えた後、灯里は、宗太の成長を、誇らしそうに見守った。
「灯里お姉ちゃんの、おかげです」
「ううん。……あなた自身の、頑張りだよ」
総真家から始まった、渡し火の教えは、こうして、また一人、新たな担い手へと、確かに、受け継がれていった。
## 第七十章 灯る家、いつまでも
十年目の、ある秋の夕暮れ。総真家の食卓には、いつものように、燎、澪、灯里、そして、すっかり逞しくなった宗太が、揃っていた。
「──今日は、鴉さんの家族と、柊さんの家族も、呼んでるんだったな」
燎が、賑やかになるであろう夜を、楽しみにしながら言った。
「はい。……燎太くんも、久しぶりに会えます」
灯里が、嬉しそうに答えた。
やがて、鴉一家、柊一家が、次々と、総真家を訪れた。狭い居間は、たちまち、賑やかな声で、満たされていった。
「──賑やかだな、今日は」
柊が、笑いながら言った。
「毎度のことだろう、これが」
鴉が、苦笑しながら返した。
夕餉の席で、燎は、ふと、これまでの日々を、振り返っていた。死んで、蘇生し、偽りの家族を組まされ、無銘との戦いを経て、常世庁の闇と対峙し、玄天国との和解を成し遂げ──そして、今、この賑やかな食卓が、ある。
「──なあ、灯里」
「はい?」
「この家に、拾われて、よかったか」
燎の問いに、灯里は、少し考えた後、悪戯っぽく笑った。
「──拾われたのは、私じゃなくて、お父さんの方だったんじゃないですか?」
「──どういう意味だ」
「だって……死んで、行き場をなくしてたのは、お父さんの方でしたよね。私たちが、お父さんを、この家に、迎え入れたんです」
灯里の言葉に、澪も、思わず笑った。
「──確かに、そうかもしれないな」
「そうですよ。……お父さんこそ、この家に、拾われたんです」
燎は、その言葉に、深く頷いた。誰が誰を拾ったのか、もはや、そんなことは、どうでもよかった。ただ、この場所に、確かな温かさがあり、確かな絆があり、確かな家族がいる。それだけで、十分だった。
「──なら、これからも、よろしく頼む。……この家族に」
燎の言葉に、澪、灯里、宗太、そして、集まった皆が、温かな笑顔で、応えた。
玻璃島の霊灯通りに建つ、小さな一軒家。その窓からは、今夜も、変わらぬ、優しい灯りが、静かに、灯り続けていた。
偽りから始まった家族が、本物の絆へと変わり、そして、次の世代へと、その温もりを、確かに、受け継いでいく。──それこそが、この物語が、辿り着いた、一つの答えだった。
行っておいで、そして、また、帰っておいで。──この灯は、いつまでも、この家で、待っている。
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## 外伝一 宵、渡し方になった日
これは、宵が、まだ、渡し方の司ではなかった頃の話である。
三百年前、常世庁が、まだ、今ほど整った組織ではなかった時代。宵は、ただの、行き場をなくした魂の一人だった。生前の記憶は、ほとんど残っていない。ただ、誰かを、待ち続けていた記憶だけが、朧げに残っていた。
「──お前、ここで、何をしておる」
常世の渡り場で、途方に暮れていた宵に、声をかけたのは、当時の渡し方の司、名を「燈路(とうろ)」という老女だった。
「……分かりません。誰かを、待ってる気がするんですが、それが、誰なのか」
「よくある話じゃ。……未練というのは、時に、その正体すら、曖昧になるものよ」
燈路は、宵を、しばらく、渡り場に留まらせた。宵は、その間、燈路の仕事──迷える魂たちを、正しい道へと導く仕事を、傍らで、見続けることとなった。
「──なあ、婆さん。私にも、その仕事、できるだろうか」
ある日、宵は、燈路に、そう尋ねた。
「なぜ、そう思う」
「私自身が、行き場をなくして、迷ってた。……同じように、迷ってる魂の気持ちが、少しは、分かる気がするから」
燈路は、宵の言葉に、小さく頷いた。
「──よかろう。儂の下で、修行してみるがよい」
こうして、宵は、渡し方としての、長い修行の道を、歩み始めた。三百年という歳月をかけて、宵は、数え切れないほどの魂を、正しく、優しく、送り続けてきた。
「──あんたが待ってた相手、結局、分かったのか」
後の世で、燎が、そう尋ねたことがある。宵は、少し寂しげに、しかし、穏やかに笑って答えた。
「──分かりません。……ですが、今は、それで、いいと思っています。私は、私を待つ誰かではなく、私を必要とする、無数の魂たちのために、この仕事を、続けていますから」
宵の、能面のような笑みの奥には、三百年分の、静かな、しかし確かな、慈しみが、宿り続けていた。
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## 外伝二 柊、見合いの顛末(詳細版)
柊の縁談が持ち上がった時の、詳しい顛末は、実は、燎たちが聞いていたよりも、少々、間の抜けたものだった。
初めての見合いの席で、柊は、緊張のあまり、開口一番、こう言ってしまった。
「──あの、俺は、送り火衆の焔番でして……つまり、その、死者の未練を、祓う……いや、渡す仕事をしております」
相手の女性は、目を丸くした。
「──死者の、未練……ですか」
「あ、いえ、その、決して、怖い仕事ではなく……いや、時には怖いこともありますが」
柊の、しどろもどろな説明に、女性は、思わず、噴き出してしまった。
「──ふふ、すみません。……あなた、随分と、正直な方なんですね」
「……お恥ずかしい限りです」
柊は、真っ赤になって、うつむいた。だが、その様子を見た女性は、むしろ、好感を抱いたようだった。
「──正直で、誠実な方は、好きですよ。……もう少し、お話、聞かせてください」
こうして、ぎこちない出会いから始まった二人の関係は、少しずつ、深まっていった。柊が、後に、燎に語ったところによると──
「──あの人、俺の、不器用なところを、面白がってくれてな。……お前らの家族を見て、俺も、こういう暮らしに、憧れるようになった、というのは、半分本当で、半分は」
「半分は?」
「──彼女が、俺のことを、放っておけない、って言ってくれたのが、一番、嬉しかったんだ」
柊は、くすぐったそうに、そう締めくくった。不器用な男の、不器用な恋は、こうして、確かな幸せへと、辿り着いたのだった。
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## 外伝三 澪、変装任務の裏側
灰羽衆の内偵一課で、澪が「変装の達人」と呼ばれるようになった、きっかけの任務がある。まだ、燎と出会う前、若かりし頃の話だ。
その任務は、玻璃島の裏社会に潜入し、密輸組織の情報を探るというものだった。澪は、老齢の骨董品商に変装し、数週間にわたって、組織の懐に入り込んだ。
「──いやいや、この壺はね、三百年前の、名工の作でしてな」
澪の変装は、完璧だった。声色、仕草、歩き方に至るまで、老齢の商人そのものになりきっていた。だが、ある日、思わぬハプニングが起きた。
組織のボスに、骨董品の真贋を、実際に、その場で鑑定するよう求められたのだ。澪は、骨董品について、専門的な知識を、実は、全く持っていなかった。
「──さて、これは、どう見ても」
澪は、内心、冷や汗をかきながら、それらしい講釈を、即興ででっち上げた。
「──掌の返しの角度、釉薬の照り具合……うむ、これは、間違いなく、本物ですな」
その場しのぎの、根拠のない鑑定だったが、幸い、ボスは、それを信じ込んだ。後に、この壺が、実は、精巧な贋作だったことが判明し、澪の「鑑定」が、結果的に、正しかったことが分かるのだが──それは、また、別の話である。
「──あの時は、本当に、肝を冷やした」
後年、澪は、燎に、この話を、珍しく、楽しそうに語った。
「お前でも、そういう、冷や汗をかくことがあるんだな」
「当たり前だ。……私だって、完璧な人間じゃない」
澪は、少し照れくさそうに、しかし、どこか誇らしげに、笑った。この、変装任務での経験が、後の、無数の潜入工作において、澪の、大きな自信の礎となっていた。
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## 外伝四 宗太の修行日記
宗太が、灯番として、日々の修行の様子を綴っていた、簡素な日記の一部を、ここに記す。
*入学から半年目。灯里お姉ちゃんに、初めて、褒められた。「声の聞き分け、上手になったね」って。嬉しくて、その日は、なかなか眠れなかった。*
*一年目の夏。初めて、一人で、小さな穢に、話しかけられた。怖かったけど、灯里お姉ちゃんの教え通り、ちゃんと、最後まで、話を聞けた。*
*一年半目。静間さんに、稽古をつけてもらった。「心を整えることが大事」って言われた意味が、少し、分かるようになった気がする。*
*二年目。初陣。緊張したけど、無事に、任務を終えられた。灯里お姉ちゃんが、「よくやった」って、褒めてくれた。この一言のために、頑張ってるんだと思う。*
*三年目。焔主の燎さんに、稽古を見てもらった。「筋がいい」って言われた。あの人みたいに、いつか、誰かを、ちゃんと守れる人になりたい。*
*五年目。後輩ができた。灯里お姉ちゃんから教わったことを、今度は、自分が、教える番になった。不思議な気持ちだけど、悪くない。*
*十年目。今日、灯里お姉ちゃんに、聞いてみた。「僕は、ちゃんと、成長できてますか」って。お姉ちゃんは、笑って、こう言った。「うん。……あなたのおかげで、私も、いい先輩になれてるよ」と。*
この日記は、後に、燈明学舎の資料室に、若い灯番たちの、修行の記録として、大切に保管されることとなった。
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## 外伝五 羅刹、その後の道
和平協定の締結後、羅刹は、玄天国内で、蘇生兵士たちの、正しい処遇を巡る改革に、生涯を捧げることとなった。
「──俺のような過ちを、二度と、繰り返させたくない」
羅刹は、かつての部下たちの想いを胸に、玄天国内に、蘇生者の権利を守るための、新たな機関を設立した。玻璃島の送り火衆とも、密接に連携し、両国間で、蘇生技術の適正な運用についての、情報交換が、定期的に行われるようになった。
「──総真殿、こちらの制度、貴国の送り火衆の仕組みを、大いに参考にさせていただいております」
ある年の交流会議で、羅刹は、燎に、そう報告した。
「あんたの国でも、根付いてきてるんだな」
「はい。……あなた方との出会いがなければ、俺は、今も、間違った道を、突き進んでいたことでしょう」
羅刹は、深々と、頭を下げた。
「──一つ、報告があります。……俺も、家庭を持つことになりました」
「──それは、めでたい話だな」
「はい。……もう、失うことばかりを、恐れる人生ではなく、これから、育んでいく人生を、歩んでいきたいと思います」
羅刹の顔には、かつての、鋭く、影を纏った表情ではなく、穏やかな、確かな希望の色が、宿っていた。玻璃島と玄天国、二つの国の架け橋となった、一人の男の、新たな人生が、静かに、しかし確かに、歩み始めていた。
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## 外伝六 灯里、孤児院への恩返し
送り火衆の主任指導役となった灯里は、ある年、かつて自分が過ごした孤児院を、久しぶりに訪れることにした。
「──お久しぶりです」
孤児院の院長は、すっかり立派になった灯里の姿に、驚きと喜びの表情を浮かべた。
「灯里ちゃん……いえ、灯里さん。……立派になりましたね」
「院長先生のおかげです。……今日は、少し、お願いがあって、伺いました」
灯里は、孤児院の子供たちに、定期的に、送り火衆の仕事について、話をする機会を、設けてほしいと、申し出た。
「──幽耳のような、特殊な力を持つ子供が、もし、この中にいたら……その子が、一人で、抱え込まなくていいように。私が、道標になれたら、と思います」
院長は、快く、その申し出を受け入れた。以来、灯里は、月に一度、孤児院を訪れ、子供たちに、優しく、送り火衆の仕事について、語るようになった。
「──みんなの中にも、もしかしたら、特別な力を持ってる子が、いるかもしれない。……もし、そうだったら、いつでも、私に、相談していいからね」
灯里の言葉に、子供たちは、目を輝かせて、耳を傾けた。かつて、孤独に、声を聞いていた少女は、今や、同じ境遇の子供たちにとっての、確かな道標となっていた。
「──宗太くんも、この孤児院の、出身でしたよね」
ある日、院長が、灯里に、そう尋ねた。
「はい。……あの子も、こうして、立派に、育ちました」
「灯里さんが、いてくれたから、でしょうね」
灯里は、少し照れくさそうに、しかし、確かな誇りを胸に、微笑んだ。
「──これからも、この孤児院との縁を、大切にしていきたいと思います」
偽りの家族から始まった、灯里自身の物語は、こうして、また新たな誰かの、希望の物語へと、静かに、繋がり続けていた。
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## 外伝七 燎、生前の記憶
燎が、死ぬ前、どのような人生を送っていたのか。それを、家族の誰かに、詳しく語ったことは、実は、あまりなかった。だが、ある夜、澪に問われ、燎は、珍しく、その過去を、少しだけ、語ったことがある。
「──俺は、元々、孤児だった」
「──お前も、か」
澪が、少し驚いたように言った。
「ああ。……戦災孤児でな。物心ついた頃には、もう、身寄りがなかった。……送り火衆に拾われて、炎番としての、修行を積んだ」
「家族は」
「持ったことが、なかった。……任務が、俺のすべてだった。誰かを愛したり、愛されたりする暇なんて、なかったんだ」
燎は、少し寂しげに、笑った。
「──だから、死んだ時、誰にも、ちゃんと『行ってきます』を、言えなかったことが、一番、心残りだった」
「それが、今は」
「ああ。……今は、ちゃんと、言える。行ってきます、って。そして、ただいま、って、言える場所がある」
澪は、燎の言葉に、静かに、燎の手を握った。
「──私も、似たようなものだった。……家族という言葉の、本当の意味を、知らずに、生きてきた」
「今は、知ってるか」
「ああ。……お前と、灯里が、教えてくれた」
二人は、静かに、寄り添った。偽りから始まった二人が、それぞれの孤独な過去を乗り越え、確かな絆を、築き上げてきた軌跡が、そこには、確かにあった。
「──なあ、澪」
「何だ」
「もし、俺が、死ななかったら……こんな風に、お前や、灯里と、出会うことは、なかったんだろうな」
「──皮肉なもんだな。死んだことが、お前にとって、家族を得るきっかけになったとは」
「ああ。……本当に、皮肉なもんだ」
燎は、静かに、しかし、確かな温かさを込めて、笑った。死という、最大の喪失が、皮肉にも、最大の宝物への、扉となったのだ。
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## 外伝八 ご近所さんの誤解
総真家が、霊灯通りに越してきた当初、近所の住民たちの間では、この一家について、様々な憶測が飛び交っていた。
「──あそこの旦那さん、時々、変な気配を纏ってるのよね」
「奥さんも、なんだか、只者じゃない雰囲気っていうか」
「娘さんは、いつも、誰かと、話してるみたいな素振りを、見せることがあるし……」
実のところ、これらの「憶測」は、ある意味で、すべて正しかった。だが、近所の人々は、これを、もっと平凡な方向で、解釈していた。
「──きっと、何か、大きな商売を、隠れてやってるのよ」
「そうそう、密輸とか、そういう類の」
「もしかしたら、裏社会の、大物一家、なんじゃない?」
こうした噂は、ある夏祭りの席で、思わぬ形で、燎たちの耳に入ることとなった。
「──俺たち、そんな風に、思われてたのか」
燎は、苦笑しながら、澪に言った。
「──否定はしにくいな。……ある意味、当たらずとも遠からず、ではある」
「密輸はしてないが、確かに、只者ではないな、俺たちは」
二人は、顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。灯里も、話を聞いて、楽しそうに笑った。
「──今度、噂の出処の人に、会ったら、なんて答えましょうか」
「──『商売は商売でも、ちょっと変わった、よろず相談業です』とでも、言っておけばいい」
燎の提案に、澪と灯里は、揃って、噴き出した。玻璃島の片隅で、ひっそりと、しかし、確かに、笑いの絶えない、一つの家族の日常が、続いていた。
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## 外伝九 慧海と雪乃、遠い日の約束
これは、三十年以上前、慧海が、まだ、送り火衆の若き焔主候補だった頃の話である。
雪乃(ゆきの)は、同じ部隊に所属する、灯番だった。控えめながらも、芯の強い女性で、慧海は、彼女の、穢に対する接し方に、いつも、感銘を受けていた。
「──慧海さん、穢って、怖いだけの存在じゃ、ないと思うんです」
ある任務の帰り道、雪乃は、静かに、そう語った。
「怖いだけじゃない、というと」
「みんな、悲しい理由があって、あの姿になってる。……祓う前に、ちゃんと、話を聞いてあげたいんです」
慧海は、雪乃の、その優しさに、強く惹かれていった。二人は、いつしか、互いに、想いを通わせるようになっていた。
「──いつか、この仕事から、退いたら」
ある夜、慧海は、雪乃に、そっと、将来の約束を語った。
「小さな家を、持ちたい。……庭に、雪乃の好きな花を、たくさん植えて」
「──楽しみです、その日が」
雪乃は、幸せそうに、微笑んだ。だが、その約束は、叶うことなく、実験の事故によって、無残に、断ち切られてしまった。
「──雪乃……」
慧海は、雪乃を喪った悲しみに、三十年もの間、囚われ続けることとなった。だが、それは、後の物語で、語られた通りである。
「──約束の花、覚えていてくださって、ありがとう」
渡し火の儀によって、雪乃の魂が、正しく渡っていく、あの瞬間。慧海の脳裏には、若き日の、幸せな約束の記憶が、鮮やかに蘇っていた。
「──いつか、そちらで、また会えたら……その時は、ちゃんと、あの庭を、作ろう」
慧海の、静かな呟きは、渡り行く雪乃の魂に、確かに、届いていたのかもしれない。
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## 外伝十 灯番の、ある一日
送り火衆、灯番の日常は、決して、大きな事件ばかりではない。ここに記すのは、灯里が、まだ新米だった頃の、ごく平凡な、ある一日の記録である。
朝、灯里は、燈明学舎への登校前に、まず、送り火衆本部で、その日の担当区域の報告を受ける。
「──今日の担当は、東区の、住宅密集地です」
先輩灯番からの指示を受け、灯里は、地図を片手に、担当区域を、丁寧に見回る。
午前中は、特に、目立った穢の気配はなかった。灯里は、道端の地蔵に、手を合わせる老人や、井戸端で世間話に興じる主婦たちの、何気ない日常を、静かに見守りながら、巡回を続けた。
昼過ぎ、小さな路地裏で、微かな気配を感じた。
「──小さいな。……子猫くらいの、大きさか」
覗き込むと、そこには、小さな、猫の形をした穢が、蹲っていた。
「──お前、飼い主に、会いたいのか」
灯里が問いかけると、穢は、小さく鳴くような声を、返した。近所で聞き込みをしたところ、数ヶ月前に、この路地裏で、老猫が、静かに息を引き取っていたことが分かった。
「──ちゃんと、送ってあげるね」
灯里は、簡易な渡し火の術式で、小さな猫の魂を、優しく、常世へと送った。大きな事件ではない。だが、こうした、小さな「渡し」の積み重ねこそが、灯番の、日々の、確かな仕事だった。
夕方、灯里は、燈明学舎での授業を終え、家路についた。玻璃島の霊灯が、一つ、また一つと、灯り始める時刻。灯里は、その光景を、いつも、少し誇らしい気持ちで、眺めていた。
「──ただいま、帰りました」
「お帰り、灯里」
総真家の玄関先で、燎と澪が、いつものように、灯里を迎える。何気ない、しかし、確かに幸せな、灯里の、ある一日が、こうして、静かに、暮れていった。
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## 外伝十一 鴉、不器用なプロポーズ
鴉が、恋人に、正式に結婚を申し込んだ日の話は、後に、総真家で、何度も、笑い話として語られることとなった。
鴉は、プロポーズの練習を、燎に、密かに手伝ってもらっていた。
「──こう、指輪を差し出しながら、『俺と、一緒になってくれないか』、と」
「──それだけか。もう少し、気の利いた言葉は、ないのか」
「うるさい。……俺には、これが精一杯だ」
燎は、呆れながらも、鴉の練習に、辛抱強く付き合った。
だが、本番の日、鴉は、緊張のあまり、練習とは全く違う言葉を、口走ってしまった。
「──お前がいないと、俺の育成部隊の運営が、成り立たない! だから、結婚してくれ!」
なんとも、色気のない、プロポーズだった。相手の女性は、一瞬、呆気に取られた後、思わず、噴き出してしまった。
「──ふふ、それ、プロポーズの言葉としては、なかなか、酷いですよ」
「……すまん。緊張して、頭が、真っ白になった」
鴉は、真っ赤になって、うつむいた。だが、女性は、優しく、微笑みながら言った。
「──でも、あなたらしくて、いいと思います。……はい。喜んで、お受けします」
こうして、鴉の、なんとも不器用なプロポーズは、無事に、成功を収めることとなった。後日、この顛末を聞いた燎は、腹を抱えて笑った。
「──せっかく、練習に付き合ってやったのに」
「うるさい! 結果が良ければ、それでいいだろう!」
鴉の、照れ隠しの怒鳴り声に、総真家は、また一つ、笑いに包まれた。
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## 外伝十二 二つの衆、合同創設の由来
送り火衆と、灰羽衆──表と裏、二つの顔を持つ、この二つの組織が、どのようにして、生まれたのか。その由来は、玻璃島の、古い記録に、静かに残されている。
今から、およそ二百年前、玻璃島は、まだ、無数の小さな勢力が、争い合う、混沌とした土地だった。当時、島の平和を憂いた、一人の賢人がいた。名を、「初代・燈守(とうもり)」という。
燈守は、島の秩序を守るために、二つの機能を、同時に必要とすると、考えた。一つは、表向きの、政治的、軍事的な安定を保つための、諜報機関。もう一つは、目に見えない、霊的な脅威から、島を守るための、祓い師組織。
「──表と裏、二つの盾があってこそ、この島は、真の平和を、保てるじゃろう」
燈守の理念のもと、灰羽衆と、送り火衆は、同時に、産声を上げた。以来、二百年にわたり、この二つの組織は、時に協力し、時に、独立して、玻璃島の平和を、守り続けてきた。
「──燎、お前が、両方の組織に、同時に籍を置いてる、というのは……ある意味、燈守様の、理想そのものかもしれんな」
御館が、かつて、燎に、そう語ったことがある。
「表と裏、両方の視点から、この島を、見ることができる。……お前のような存在は、二百年の歴史の中でも、そう多くはない」
燎は、その言葉に、静かな誇りと、同時に、重い責任を、感じていた。二百年の歴史が積み重ねてきた、この島の平和を、次の世代へと、確かに、繋いでいく。それもまた、燎に課せられた、大切な役目だった。
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## 外伝十三 灯里と宗太、初めての共同任務
宗太が、灯番として、独り立ちして間もない頃、灯里と共に、少し大きめの、共同任務に挑んだことがある。
依頼は、玻璃島北部の、廃工場地帯に出没する、複数の穢の対応だった。
「──今日は、私が指導役じゃなくて、対等な相棒として、一緒に戦うからね」
灯里の言葉に、宗太は、緊張しながらも、力強く頷いた。
廃工場に足を踏み入れると、そこには、思いのほか、手強い穢の集団が、待ち構えていた。かつて、この工場で、過酷な労働の末に、命を落とした、労働者たちの、集合的な未練だった。
「──数が、多いですね」
宗太が、緊張した声で言った。
「大丈夫。……一体一体、丁寧に、話を聞いていけば、いい」
灯里は、冷静に、宗太を、リードした。二人は、連携しながら、一つ一つの穢に、丁寧に向き合っていった。
「──『もう、休みたい』」
「──『家族に、会いたかった』」
様々な未練の声が、二人の耳に、次々と届く。灯里と宗太は、渡し火の術式を、交互に発動させながら、一体、また一体と、正しく、常世へと送っていった。
だが、集団の中心に、ひときわ強い、抵抗を示す穢がいた。かつての、工場の監督者だったと思しき、大柄な姿をしていた。
「──『渡さない! ここで、まだ、やるべきことがある!』」
「──宗太くん、危ない!」
灯里が、宗太を庇おうとした瞬間、宗太が、意を決したように、前に出た。
「──大丈夫です、灯里お姉ちゃん! 僕にも、やらせてください!」
宗太は、静間から学んだ、心を整える術を使い、穏やかに、しかし、確固たる声で、穢に語りかけた。
「──あなたのやるべきこと、教えてください。……僕が、代わりに、やります」
穢の抵抗が、一瞬、緩んだ。
「──『……若い衆を、守りたかった。……危険な作業を、俺が、代わってやりたかった』」
「──分かりました。……あなたの想い、ちゃんと、受け取りました」
宗太の言葉に、穢は、静かに、涙を流すように、光を帯び始めた。灯里が、最後の渡し火の術式を、そっと添える。
「──よく、頑張ったね、宗太くん」
任務を終えた後、灯里は、宗太の成長を、心から、誇らしく思った。
「──灯里お姉ちゃんの、教えのおかげです」
「ううん。……あなた自身の、心が、ちゃんと届いたんだよ」
二人は、廃工場を後にしながら、静かな、確かな達成感を、分かち合っていた。
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## 外伝十四 総真家の年越し
総真家の、年越しの夜は、毎年、賑やかな行事となっていた。燎、澪、灯里、そして、後に加わった宗太。四人で迎える、年越しの夜は、それぞれの一年を、振り返る、大切な時間だった。
「──今年も、色々、あったな」
燎が、年越し蕎麦を啜りながら、しみじみと言った。
「はい。……大きな事件も、小さな出来事も」
灯里が、頷きながら答えた。
「来年は、どんな一年に、なるでしょうか」
宗太が、少し不安げに尋ねた。
「──分からない。……でも、どんな一年になっても、この家族で、乗り越えていけると思う」
燎の言葉に、澪も、静かに頷いた。
除夜の鐘が、遠くから、静かに響いてくる。総真家の四人は、それぞれの想いを胸に、新しい年の訪れを、静かに待った。
「──行く年も、来る年も、この家に、変わらぬ灯りを」
澪の、珍しく、詩的な言葉に、燎と灯里、宗太は、静かに、微笑んだ。
霊灯通りの、小さな一軒家の窓からは、その夜も、変わらぬ、優しい灯りが、静かに、灯り続けていた。
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## 外伝十五 澪の後輩指導
灰羽衆、内偵一課の課長となった澪は、若手工作員の指導にも、力を注いでいた。かつて、非情な組織で、道具として扱われた過去を持つ澪は、後輩たちに対して、独自の指導方針を、貫いていた。
「──任務は、大事だ。……だが、それ以上に、自分自身を、大切にしろ」
澪の指導は、技術面だけでなく、精神面にも、深く配慮したものだった。
「──課長は、なぜ、そこまで、私たちのことを、気にかけてくださるんですか」
ある若手工作員が、そう尋ねたことがある。澪は、少し考えた後、静かに答えた。
「──私自身が、昔、道具として扱われて、辛い思いをしたことがあるからだ。……お前たちには、同じ思いを、させたくない」
「課長にも、そんな過去が」
「ああ。……だが、今は、いい家族に恵まれて、その過去も、乗り越えられた」
澪の言葉に、若手工作員は、深く感銘を受けた様子だった。
「──課長のような、上司の下で、働けて、光栄です」
「世辞はいい。……ただ、生きて、無事に、任務から帰ってこい。それが、一番の恩返しだ」
澪の、厳しくも温かい指導のもと、灰羽衆の若手工作員たちは、着実に、育っていった。かつて、道具として扱われた経験を持つ澪だからこそ、伝えられる、確かな教えが、そこには、あった。
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## 外伝十六 新たな胎動
総真家の日常が、穏やかに続く、ある夜のこと。燎は、ふと、常世の力を通じて、微かな、しかし、確かな違和感を、感じ取っていた。
「──なんだ、この気配は」
燎は、縁側で、一人、夜空を見上げながら、呟いた。無銘のような、明確な悪意ではない。だが、どこか、遠くの海の向こうから、新たな何かが、静かに、蠢き始めているような、そんな予感だった。
「──気付いたか」
声のした方を見ると、いつの間にか、宵が、庭先に、佇んでいた。
「あんたも、感じてるのか」
「はい。……常世の、さらに深いところで、何かが、動き始めている気配が、あります」
「無銘や、御室次官の一件と、関係があるのか」
「まだ、分かりません。……ですが、あなたのような、常世の力を宿す者が、これからも、必要とされる日が、来るかもしれません」
燎は、静かに、拳を握りしめた。かつての戦いを、乗り越えてきた自信と、家族という、確かな支えが、燎の胸に、静かな決意を、灯していた。
「──何が来ても、構わない。……俺には、守るべき家族と、共に戦う仲間がいる」
「──頼もしい、お言葉です」
宵は、静かに微笑むと、闇の中へと、溶けるように消えていった。燎は、しばらく、夜空を見上げ続けた。玻璃島の、新たな物語の、その先の予感を、静かに、しかし確かに、胸に刻みながら。
──この島の平和は、これからも、続いていく。そして、その平和を守る、新たな戦いの物語も、きっと、これからも、静かに、紡がれ続けていくのだろう。
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## 外伝十七 静間の贖罪、その先に
送り火衆への転属から数年、静間は、育成部隊の指導役として、確かな信頼を、勝ち得ていた。だが、静間自身は、常に、かつての罪を、忘れることなく、胸に刻み続けていた。
「──あなたは、もう、十分に、償っていると思いますよ」
ある日、灯里が、静間に、そう声をかけたことがある。
「──いいや。……俺が、蘇生兵士計画に関わったことで、傷つけた人間は、数え切れない。その罪は、簡単には、消えない」
「消えなくても、いいと思います」
灯里は、静かに、しかし、はっきりと言った。
「消すことより、忘れないで、これからも、その分、誰かのために、力を尽くし続けることの方が、大事だと思うから」
静間は、灯里の言葉に、深く、考え込んだ。
「──灯里殿は、時々、驚くほど、大人びたことを、言いますね」
「──色んな人の、悲しみや、後悔の声を、たくさん聞いてきましたから。……その分、少しは、学べたのかもしれません」
静間は、静かに、微笑んだ。
「──あなたのような、次の世代がいる限り、この島の未来は、明るいでしょうね」
「静間さんたちが、そう育ててくれたんです」
灯里の言葉に、静間は、深い感謝の念を、抱かずにはいられなかった。かつての敵が、今は、確かな師弟として、この島の未来を、共に、支え続けていた。
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## 外伝十八 燎と澪、結婚記念日
毎年、燎と澪の結婚記念日には、二人だけの、ささやかな時間が、設けられることとなっていた。
「──今年も、この日が、来たな」
燎は、庭の柿の木の下で、澪と、静かに語り合っていた。
「──早いもんだな。……もう、何年になる」
「数えるのも、野暮な話だ」
澪は、少し少し恥ずかしそうに、笑った。
「──なあ、澪。……お前と出会って、俺の人生は、本当に、変わった」
「私もだ。……お前と、灯里と出会って、初めて、『家族』という言葉の、本当の意味を、知った」
二人は、静かに、手を取り合った。
「──これからも、ずっと、一緒にいような」
「──当たり前だ。……お前を、一人になんて、させない」
燎の言葉に、澪は、確かな決意を込めて、そう答えた。柿の木の枝には、その年も、たわわに、実がなっていた。偽りから始まった二人の絆は、こうして、毎年、確かな実りを、重ね続けていた。
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## 外伝十九 鴉と柊、酒場での本音
ある夜、鴉と柊は、久しぶりに、二人だけで、酒を酌み交わす機会を持った。
「──お前も、家庭を持って、随分、丸くなったな」
柊が、からかうように言った。
「うるさい。……お前だって、息子を溺愛してる癖に」
「否定はせん」
柊は、素直に認めた。二人は、しばらく、それぞれの家族の、他愛のない話に、花を咲かせた。
「──なあ、柊」
「何だ」
「俺たち、本当に、いい人生を、送れてるよな」
鴉が、しみじみと呟いた。
「妹を、喪って……お前は、奥さんを、大切にできてる。俺も、あんな過去を、抱えながら、それでも、今は、幸せだと、思える」
「──総真のおかげ、だな」
柊が、ぽつりと言った。
「あいつが、あの家族を、この島に、根付かせてくれたから。……俺たちも、こうして、自分の幸せを、見つけられた」
「──違いない」
鴉は、杯を掲げた。
「──総真燎に、乾杯」
「──総真燎に」
二人は、静かに、杯を合わせた。玻璃島の夜は、こうした、男たちの、不器用ながらも、確かな友情を、静かに、見守り続けていた。
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## 外伝二十 灯里、二十歳の誓い
灯里が、二十歳を迎えた年、燎と澪は、ささやかな、成人祝いの席を、設けた。
「──二十歳、おめでとう、灯里」
「ありがとうございます、お父さん、お母さん」
灯里は、少し照れくさそうに、しかし、確かな誇りを胸に、その言葉を、受け取った。
「──この歳になって、改めて、思うことがあります」
灯里は、静かに、語り始めた。
「──この家に、拾われて、本当に、良かった。……偽りから始まった家族だったのに、今は、誰よりも、大切な、本物の家族です」
「俺たちも、同じ気持ちだ」
燎が、静かに、頷いた。
「──これから、私は、送り火衆の一員として、この島を、そして、この家族を、守っていきたいと思います。……お父さんや、お母さんが、してくれたように」
灯里の、確かな誓いに、燎と澪は、深く、頷いた。
「──いい大人に、なったな」
「まだまだ、これからです。……でも、精一杯、頑張ります」
灯里の、二十歳の誓いは、こうして、総真家の、新たな、確かな一頁として、静かに、刻まれていった。
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## 外伝二十一 家族写真、それぞれの一枚
総真家の居間には、これまでの歳月を物語る、何枚もの写真が、丁寧に飾られていた。
一枚目は、燎、澪、灯里、三人だけの、ぎこちない、最初の家族写真。任務のための、偽装家族としての、記念すべき一枚だった。
「──この写真、随分と、みんな、硬い顔してるな」
燎が、懐かしそうに、その写真を見つめながら言った。
「仕方ないだろう。……あの頃は、まだ、本物の家族じゃ、なかったんだから」
澪も、苦笑しながら、頷いた。
二枚目は、無銘の一件が解決した後、少し打ち解けた表情で撮られた、家族写真。三枚目は、婚姻届を提出した日の、記念写真。そして、宗太が加わった後の、四人での写真。
「──こうして並べると、俺たちの歴史が、よく分かるな」
燎は、しみじみと、写真の並びを、見つめた。
一番新しい写真は、十年後の、鴉一家、柊一家も交えた、大勢での、賑やかな集合写真だった。
「──随分と、大所帯に、なったもんですね」
灯里が、その写真を見ながら、嬉しそうに言った。
「──これからも、まだまだ、増えていくかもな」
燎の言葉に、皆が、温かく、笑い合った。
この家族写真の連なりは、後に、総真家を訪れる、誰もが目にする、確かな記録となった。偽りから始まり、本物へと至った、一つの家族の、長く、豊かな軌跡が、その壁一面に、静かに、刻まれ続けていた。
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## 外伝二十二 受け継がれる灯
宗太が、灯番として、一人前になった、数年後。宗太自身も、新たな後輩を、指導する立場になっていた。
「──宗太先生、今日も、よろしくお願いします」
まだあどけなさの残る、新人の灯番が、元気よく、挨拶した。
「──はい。……今日は、まず、声を聞くことの、基本から、始めましょう」
宗太の指導は、灯里から受け継いだ教えを、さらに、自分なりの言葉で、丁寧に、伝えるものだった。
「──怖がらなくて、いいんです。……穢も、私たちと同じように、悲しかったり、寂しかったりする、想いを持ってるだけですから」
その言葉は、かつて、灯里が、宗太に語った言葉と、驚くほど、似通っていた。
「──宗太くんも、すっかり、いい先生に、なったね」
その様子を見学していた灯里が、嬉しそうに言った。
「灯里お姉ちゃんの、受け売りですよ」
「それで、いいんだよ。……受け継いだものを、また、次に渡していく。それが、大事なことなんだから」
燎から、灯里へ。灯里から、宗太へ。そして、宗太から、また、新しい世代へ。総真家から始まった、渡し火の教えは、こうして、確かに、静かに、次の世代へと、受け継がれ続けていった。
玻璃島の霊灯は、今日も、絶えることなく、街を、優しく照らし続けている。その灯りの一つ一つに、こうした、無数の想いが、確かに、宿り続けているのかもしれない。
## 外伝二十三 灯里、大穢との再会
灯里が、三十歳を迎えた年、玻璃島の遠く離れた離島で、小規模ながら、大穢の兆候が、報告された。かつての「無銘」のような、大規模なものではないが、放置すれば、危険な存在へと成長しかねない、未練の集積だった。
「──今回は、私に、任せてもらえませんか」
灯里は、燎に、そう申し出た。
「一人で、大丈夫か」
「はい。……もう、あの頃の、守られるだけの子供じゃ、ありませんから」
燎は、灯里の、確かな成長を、静かに、頷いて、認めた。
「──宗太も、連れて行くといい」
「はい。……あの子も、もう、立派な相棒ですから」
灯里と宗太は、離島へと渡り、大穢の兆候がある、古い神社の跡地へと向かった。そこには、長年、忘れ去られていた、無数の、村人たちの、未練が渦巻いていた。
「──かつて、この村は、飢饉で、多くの人が、亡くなったそうです」
宗太が、事前の調査結果を、灯里に報告した。
「その無念が、長い年月をかけて、集積してしまった、というわけか」
灯里は、静かに、耳を澄ませた。無数の、飢えと、絶望の声が、そこには、渦巻いていた。
「──怖がらなくて、いい。……私たちは、ちゃんと、あなたたちの声を、聞きに来た」
灯里は、燎が、かつて、無銘に対して行ったように、そして、水鏡翁から学んだように、急いで渡そうとするのではなく、まず、静かに、村人たちの声に、耳を傾け続けた。
「──『もう一度、豊かな実りを、見たかった』」
「──『家族に、腹一杯、食べさせてやりたかった』」
灯里は、その一つ一つの願いに、丁寧に、応えていった。
「──あなたたちの想い、ちゃんと、受け取りました。……もう、十分、頑張りましたね」
灯里の言葉と共に、渡し火の術式が、静かに、発動される。無数の光の粒が、長い年月の眠りから覚めるように、ゆっくりと、天へと、昇っていった。
「──見事な、渡しでした」
宗太が、感嘆の声を上げた。
「──あなたのおかげでもあるよ、宗太くん。……一緒に、来てくれて、心強かった」
灯里は、静かに、微笑んだ。かつて、燎の背中を見て育った少女は、今や、自らの力で、確かな「渡し」を、成し遂げられる、立派な灯番へと、成長していた。
帰りの船上で、灯里は、静かに、海の向こうの、玻璃島を、見つめていた。
「──お父さんに、報告しないとですね」
「はい。……きっと、喜んでくれます」
灯里と宗太は、確かな達成感を胸に、家路についた。
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## 外伝二十四 水鏡翁の墓前にて
水鏡翁の墓は、送り火衆本部の裏手、静かな高台に、他の歴代の大長老たちと共に、並んでいた。燎は、季節の節目ごとに、この場所を訪れ、静かに、手を合わせる習慣を、続けていた。
「──翁。……あれから、色々、ありました」
燎は、墓標の前に座り、静かに、語りかけた。
「──玄天国との、和解も、成し遂げました。……あんたが教えてくれた、『渡さずとも、共に在る術』、少しずつですが、体得できてきた、気がします」
燎は、離島での、灯里の「渡し」の話も、静かに、報告した。
「──灯里も、随分と、立派に、なりました。……あんたの教えは、俺だけじゃなく、あの子にも、確かに、受け継がれてます」
風が、静かに、高台を吹き抜けた。まるで、水鏡翁が、穏やかに、頷いているかのような、そんな気配が、そこには、あった。
「──翁が、渡っていった時のこと、今でも、よく覚えてます。……急かさず、無理に渡すこともなく、ただ、共に在ることで、あんたは、自分の意志で、旅立っていった」
燎は、静かに、微笑んだ。
「──俺も、いつか、そんな風に、旅立てたら、と思います。……でも、それは、まだ、随分と、先の話でしょうね」
燎は、墓標に、深々と、頭を下げた。
「──また、来ます。……今度は、澪や、灯里、宗太も、連れて」
高台からは、玻璃島の街並みが、遠く、見渡せた。霊灯の光が、夕暮れの中、一つ、また一つと、灯り始めている。水鏡翁が、生涯をかけて守り続けた、この島の平和な日常が、そこには、確かに、広がっていた。
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## 外伝二十五 総真家、開業十五周年
「よろず相談処」を、灯里が開いてから、十五年の歳月が流れた頃、総真家では、ささやかな、記念の集まりが、催されることとなった。
「──十五年、か。……随分と、長く、続けてきたもんだな」
燎が、感慨深げに言った。
「相談件数も、いつの間にか、五百件を、超えてました」
灯里が、古い相談記録を、めくりながら言った。
「──猫の行方から、大穢との対峙まで、本当に、色々な相談が、ありましたね」
「銃──いや、俺たちの場合は、拳を、構えたことも、何度かあったな」
燎が、苦笑しながら言った。
「でも、ほとんどは、話を聞くだけで、解決しました」
灯里の言葉に、皆が、頷いた。
「──これからも、この相談処、続けていくのか」
澪が、灯里に、尋ねた。
「はい。……宗太くんとも、協力しながら、この場所を、大切に、続けていきたいです」
総真家の「よろず相談処」の看板は、十五年の歳月を経て、少し、色褪せていた。だが、その看板に込められた想いは、開業当初から、少しも、変わっていなかった。
──生者の困りごとから、死者の未練まで。数えて、聞いて、承ります。
この言葉の通り、総真家は、これからも、玻璃島の、静かな、しかし確かな、支えであり続けることだろう。
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## 外伝二十六 灯里と宗太、それぞれの誓い
ある年の、燈明学舎の同窓会に、灯里と宗太は、揃って、招かれることとなった。かつての、恩師や、同級生たちと、久しぶりに顔を合わせる、賑やかな席だった。
「──灯里ちゃん、送り火衆でも、指折りの指導役なんだって?」
「宗太くんも、随分、立派になったよねえ」
同級生たちの言葉に、二人は、照れくさそうに、笑い合った。
「──なあ、灯里お姉ちゃん」
同窓会の帰り道、宗太が、ふと、切り出した。
「──僕、いつか、自分の家族を、持ちたいと思うんです。……総真家みたいな、温かい家族を」
「──いいと思うよ。……宗太くんなら、きっと、いい家族を、築けるよ」
「灯里お姉ちゃんは」
「──私は……まだ、分からないな。今は、送り火衆の仕事と、この家族との日々で、精一杯かな」
灯里は、少しくすぐったそうに、答えた。
「──でも、いつか、私も、自分だけの、大切な人を、見つけられたら、いいなとは、思ってる」
「きっと、見つかりますよ。……灯里お姉ちゃんなら」
宗太の、素直な言葉に、灯里は、静かに、微笑んだ。
「──ありがとう。……お互い、それぞれの、幸せな未来を、目指していこうね」
「はい」
二人は、夕暮れの霊灯通りを、並んで歩きながら、それぞれの、これからの人生に、静かな、確かな希望を、抱いていた。
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## 外伝二十七 燎、宵との対話、それから
常世庁の改革が進み、宵が、正式に、常世庁の長官へと、就任することとなった。就任の報告に、宵は、久しぶりに、総真家を訪れた。
「──長官、就任、おめでとう」
燎の言葉に、宵は、いつもの、能面のような、しかし、どこか温かい笑みを見せた。
「──ありがとうございます。……あなたと出会ってからの、これまでの日々を、思い返すと、随分と、遠くまで、来たものだと、感じます」
「あんたが、この島の、常世庁を、正しい方向に、導いてきたからだろう」
「いいえ。……あなたが、体現してくれた、蘇生者としての、確かな在り方が、常世庁全体の、改革の、大きな指針になりました」
宵は、静かに、続けた。
「──これからも、常世庁は、渡し方としての、本来の役割を、大切にしていきます。……あなたの家族の、これからの、幸せな日々を、心から、願っています」
「ありがとう。……あんたも、末永く、達者でな」
燎の言葉に、宵は、深々と、一礼した。
「──では、また、いつか」
宵は、そう言い残すと、静かに、闇の中へと、姿を消していった。燎は、その後ろ姿を見送りながら、渡り場で初めて出会った、あの日のことを、静かに、思い返していた。
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## 外伝二十八 家族会議、これからのこと
ある年の初め、総真家では、恒例となっていた、家族会議が開かれた。今年一年の目標や、それぞれの近況を、話し合う、大切な時間だった。
「──今年の、俺の目標は、水鏡翁の奥義を、もう少し、極めることだ」
燎が、まず、口を開いた。
「──『渡さずとも、共に在る術』、まだまだ、道半ばだが、少しずつ、形になってきてる気がする」
「私は、灰羽衆の、後進育成を、もっと、充実させたい」
澪が、続けた。
「かつての私のような、辛い思いをする若者を、一人でも減らせるように」
「私は……」
灯里が、少し、考えた後、言った。
「──もっと、多くの離島や、遠方の地域にも、送り火衆の手が、届くように、していきたいです。……都市部だけじゃなく、どこにいても、安心して暮らせるように」
「僕は、灯里お姉ちゃんを、支えられるように、もっと、力をつけたいです」
宗太も、真剣な表情で、目標を語った。
「──みんな、いい目標だな」
燎は、家族それぞれの、確かな決意を、静かに、噛み締めた。
「──来年の、この時期には、また、この目標が、どれだけ、進んだか、振り返ろう」
「はい!」
総真家の、恒例の家族会議は、こうして、毎年、それぞれの成長と、確かな絆を、静かに、確認し合う、大切な時間となっていた。
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## 外伝二十九 継がれゆく灯
燈明学舎の、ある卒業式で、灯里は、卒業生代表として、後輩たちへの、餞の言葉を、贈ることとなった。
「──皆さんは、これから、様々な道を、歩んでいくことでしょう」
灯里は、壇上で、静かに、語り始めた。
「──私自身、この学舎で、多くのことを、学びました。……偽りから始まった家族が、本物の絆になったこと。声を聞くことの、大切さ。そして、想いを、次の世代へと、繋いでいくことの、尊さ」
灯里は、会場を、静かに見渡した。
「──皆さんも、これから、それぞれの、大切な人と出会い、それぞれの、大切な絆を、築いていくことでしょう。……その一つ一つの絆が、きっと、この島の、確かな未来を、支えていくのだと思います」
灯里の言葉は、会場に集まった、多くの若者たちの心に、静かに、しかし確かに、響いていた。
「──最後に、一つだけ。……この島には、いつでも、あなたの声を、聞いてくれる誰かが、いるということを、忘れないでください」
灯里の、餞の言葉が終わると、会場は、温かな拍手に、包まれた。燎、澪、宗太も、来賓席から、灯里の、立派な姿を、誇らしげに、見守っていた。
偽りの家族から始まった、一つの物語は、こうして、確かに、多くの人々の心に、優しい灯を、灯し続けていた。
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## 外伝三十 澪と灯里、母娘の時間
灯里が、まだ、幼かった頃から、澪は、時折、灯里だけを連れて、二人だけの時間を、過ごすようにしていた。
「──今日は、母娘水入らず、だな」
澪は、灯里の手を引きながら、霊灯通りの、市場を、共に歩いた。
「お母さん、この、綺麗な布、見てください!」
灯里が、指差した先には、色とりどりの反物が、並んでいた。
「──気に入ったのか」
「はい! いつか、こういう色の、着物を、着てみたいです」
澪は、静かに、微笑んだ。
「──いつか、お前が、大人になったら、一緒に、誂えよう」
「本当ですか!」
「ああ。……約束だ」
その約束は、灯里が、二十歳を迎えた年、確かに、果たされることとなった。澪は、灯里のために、あの日、市場で見た色に近い、美しい反物を、丁寧に選び、仕立ててあげたのだった。
「──綺麗です、お母さん」
新しい着物に袖を通した灯里は、鏡の前で、嬉しそうに、くるりと、回った。
「──よく似合ってる。……小さい頃から、ずっと、見てきたが、本当に、立派に、育ったな」
澪の目には、微かに、涙が滲んでいた。
「──お母さん、泣いてるんですか」
「……うるさい。歳を取ると、涙もろくなるんだ」
澪は、そう言いながらも、灯里を、そっと、抱きしめた。偽装上の母娘として始まった二人の関係は、こうして、確かな、深い愛情で、結ばれた、本物の母娘へと、育っていた。
「──これからも、よろしくお願いします、お母さん」
「──こちらこそだ、灯里」
二人は、静かに、微笑み合った。総真家の、母と娘の、確かな絆の物語が、そこには、静かに、刻まれていた。
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## 外伝三十一 燎、最後に思うこと
ある静かな夜、燎は、縁側で、一人、これまでの、長い道のりを、振り返っていた。
「──随分と、長い旅路だったな」
死んで、蘇生し、偽りの家族を組まされ、無銘との戦いを経て、常世庁の闇と対峙し、玄天国との和解を成し遂げ、そして、水鏡翁から、真の奥義を学び──燎の人生は、死んだあの日から、確かに、大きく、豊かに、広がり続けていた。
「──お父さん、また、縁側で、考え事ですか」
灯里が、通りかかりに、声をかけてきた。
「ああ。……昔のことを、少し、思い出してた」
「どんな、昔のことですか」
「──お前と、澪と、初めて出会った日のことだ。……あの時は、まさか、こんなに、豊かな人生が、待ってるとは、思わなかった」
灯里は、静かに、燎の隣に、腰を下ろした。
「──お父さんは、あの時、死んで、行き場をなくしてた。……でも、私たちが、お父さんを、この家に、拾ったんですよね」
「──ああ、そうだったな。……お前が、前に、言ってくれたことだ」
燎は、静かに、頷いた。
「──偽りから始まった俺たちが、こうして、本物の家族として、ここまで、来られた。……これ以上の、幸せは、ないと思う」
「──これからも、まだまだ、続きますよ。……この家族の物語」
灯里の言葉に、燎は、深く、頷いた。
「──ああ。……続きから、また、一緒に、歩んでいこう」
玻璃島の夜空には、変わらぬ、優しい月が、静かに、輝いていた。総真家の、小さな一軒家からは、今夜も、確かな、温かい灯りが、絶えることなく、灯り続けていた。
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## 外伝三十二 柊太、燎太、次の世代へ
柊の息子、燎太が、燈明学舎に、正式に入学する日が、やってきた。総真家の面々も、その入学式に、招かれることとなった。
「──燎太くん、おめでとう」
灯里が、真っ先に、祝いの言葉をかけた。燎太は、少し緊張しながらも、元気よく、頭を下げた。
「──灯里お姉さんみたいに、なりたいです。……よろしく、お願いします」
「──任せて。……お父さんの、名前を継いだ、立派な子だもの。きっと、いい灯番に、なれるよ」
灯里の言葉に、燎太は、嬉しそうに、頷いた。
入学式の後、柊は、燎に、しみじみと、語りかけた。
「──お前の名前を、この子に、託して、本当に、良かったと思ってる」
「──光栄なことだ。……燎太くんが、これから、どんな灯番に、育っていくか、楽しみだな」
「灯里ちゃんや、宗太くんのように、しっかり、育ってほしいもんだ」
柊の言葉に、燎は、静かに、頷いた。
こうして、総真家から始まった、渡し火の教えと、確かな絆の物語は、燎太という、新たな世代へも、静かに、その灯を、受け継がせようとしていた。
「──燎、澪、灯里、宗太、そして、燎太。……この島の、これからを、担っていく、たくさんの、大切な灯たちだ」
柊の言葉に、燎は、深く、頷いた。玻璃島の未来は、こうして、確かな、豊かな灯りに、これからも、照らされ続けていくことだろう。
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## 外伝三十三 燎、初めての父親参観
宗太が、燈明学舎に通っていた頃、学舎で、初めての「保護者参観日」が、開かれることとなった。燎にとっても、澪にとっても、これは、初めての経験だった。
「──父親参観、というやつだな」
燎は、慣れない様子で、羽織を整えながら言った。
「緊張してるのか」
澪が、からかうように尋ねた。
「──正直、任務よりも、緊張してる」
燎の、正直な告白に、澪は、思わず、笑ってしまった。
参観日、教室の後方に並んだ、他の保護者たちに混じって、燎と澪は、宗太の授業の様子を、見守った。宗太は、少し緊張しながらも、堂々と、送り火衆の基礎知識について、発表を行っていた。
「──あれが、僕のお父さんと、お母さんです」
発表の合間、宗太が、こっそりと、燎たちの方を指差した。クラスメイトたちが、一斉に、こちらを振り返る。
「──なんだか、こそばゆいな」
燎は、苦笑しながら、小さく、手を振った。
参観日の後、宗太は、少し照れくさそうに、燎たちに、感想を求めた。
「──どうでしたか、僕の発表」
「立派だったぞ。……お前らしい、丁寧な発表だった」
燎の言葉に、宗太は、満面の笑みを浮かべた。総真家の、また一つの、温かい思い出が、こうして、静かに、積み重ねられていった。
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## 外伝三十四 灯里、初めての一人暮らし
灯里が、二十五歳を迎えた頃、送り火衆の職務の都合で、しばらくの間、本部近くの、小さな部屋で、一人暮らしをする機会があった。
「──寂しくなるな、家が」
燎は、荷物をまとめる灯里を見ながら、少し寂しげに言った。
「──近いですから、いつでも、遊びに来てください」
灯里は、笑いながら答えた。
一人暮らしを始めた灯里は、最初の数日、慣れない生活に、戸惑うことも多かった。夕食を、一人で摂る静けさに、思わず、総真家の、賑やかな食卓を、懐かしく思い出すこともあった。
「──やっぱり、みんなと一緒の方が、いいな」
ある夜、灯里は、一人、そう呟いた。だが、その孤独な時間の中で、灯里は、改めて、家族という存在の、大切さを、深く、実感することにもなった。
週末、灯里は、総真家に、久しぶりに、顔を出した。
「──ただいま」
「お帰り、灯里」
澪が、いつものように、温かく、出迎えた。食卓には、灯里の好物が、並んでいる。
「──やっぱり、この家の、ご飯が、一番、美味しいです」
灯里の、素直な言葉に、澪は、嬉しそうに、微笑んだ。
一人暮らしの経験を経て、灯里は、家族との時間の、かけがえのなさを、改めて、噛み締めることとなった。それは、灯里にとって、また一つの、大切な、成長の記憶となった。
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## 外伝三十五 燎、水鏡翁に代わる者として
水鏡翁が渡ってから、十数年の歳月が流れた頃、燎は、送り火衆の若手たちから、次第に、翁と同じような、精神的な支柱として、頼られるようになっていた。
「──焔主様、少し、ご相談が」
ある日、若い焔番候補の一人が、思い詰めた表情で、燎の元を訪れた。
「──どうした」
「──任務で、大穢に近い、強大な穢と対峙した際、恐怖のあまり、動けなくなってしまいました。……焔番候補として、失格ではないかと」
燎は、その若者の告白に、静かに、耳を傾けた。
「──恐怖を感じるのは、当たり前だ。……俺だって、今でも、格上の相手と対峙する時は、足がすくむ」
「焔主様でも、ですか」
「ああ。……大事なのは、恐怖を感じないことじゃない。恐怖を感じながらも、目の前の相手の、本当の声に、耳を傾けられるかどうか、だ」
燎は、水鏡翁から受け継いだ、あの教えを、若者に、丁寧に伝えた。
「──渡すことを、急ぐな。……まず、共に在ることから、始めればいい」
若者は、燎の言葉に、深く、頷いた。
「──ありがとうございます、焔主様。……少し、心が、軽くなりました」
「困った時は、いつでも、来ればいい。……お前だけじゃない。この島の、すべての灯番、焔番が、俺の、大切な仲間だ」
若者が去った後、燎は、静かに、夜空を見上げた。かつて、水鏡翁から受け取った、確かな教えと、温かい導き。それを、今度は、自分が、次の世代へと、渡していく番になっていた。
「──翁、俺は、ちゃんと、あんたの背中を、追えてますかね」
燎の、静かな呟きに、答える声は、もちろん、なかった。だが、夜空に瞬く星々の光が、まるで、翁の、穏やかな笑みのように、燎には、感じられた。
玻璃島の、次の世代を担う、若き灯番、焔番たちの中に、燎という一人の男が積み重ねてきた、確かな教えと、温かい絆が、こうして、静かに、しかし確実に、根付いていっていた。
偽りから始まり、本物の絆へと至った、一つの家族の物語。そして、その家族を中心に、広がり続けた、多くの人々の、赦しと再生の物語。玻璃島の霊灯は、これからも、こうした、無数の、静かな物語を、優しく、照らし続けていくことだろう。
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## 巻末付記 玻璃島三界設定資料
**【世界】** 凪暦(なぎれき)。鎖国と開国のあわいにある、独自の近代化途上の、架空の島国「玻璃島(はりじま)」。電気は普及しているが、銃器は未発達で、代わりに「霊灯文明」と呼ばれる、常世の力を応用した技術体系が発展している。
**【三界観】** 現世(うつしよ)、常世(とこよ)、そして、その狭間にある「渡り場」。死者の未練が形を持ったものを「穢(え)」と呼び、その集合体で、強大な力を持つものを「大穢(おおえ)」と呼ぶ。
**【灰羽衆(はいばしゅう)】** 玻璃島の、表向きの諜報機関。内偵一課は、偽装家族による、潜入工作を専門とする部署。
**【送り火衆(おくりびしゅう)】** 玻璃島の、裏の顔である、公的な祓い師組織。階級は下から、灯番(とうばん)、火番(かばん)、炎番(ほのおばん)、焔主(えんしゅ)。焔主は、組織の最高位、実質的な指揮官である。
**【常世庁(とこよちょう)】** 死者の管理と、蘇生契約を扱う、中立機関。内部に、「渡し方」と「管理方」という、二つの派閥を持つ。渡し方は、死者を正しく渡すことを本分とし、管理方は、常世の力の、現世での活用を志向する。
**【常世契約(とこよけいやく)】** 蘇生の代償として結ばれる契約。単位は「灯(とう)」。総真燎の契約額は、十万灯(完済済み)。
**【常世の力】** 蘇生者の身体に宿る、死者と生者、両方の性質を併せ持つ、特殊な力。青白い炎として、視覚的に現れることが多い。生前の技(生者の鼓動)と、常世の力(死者の鼓動)を、意識的に使い分けることで、真価を発揮する。
**【渡し火の儀(わたしびのぎ)】** 送り火衆に伝わる、秘伝の術式。穢や、大穢を、討伐するのではなく、その未練を、正しく、常世へと渡すための技術。応用として、複数人の想いを、一つの術式に束ねる形も、存在する。
**【渡さずとも、共に在る術】** 水鏡翁が生涯かけても到達できなかった、真の奥義。死者の想いを、無理に渡すのではなく、生者と死者が、互いに想い合いながら、共に在ることを許す境地。
**【幽耳(ゆうじ)】** 死者の声を聞く、生者の特殊な資質。極めて稀。総真灯里は、歴代でも屈指の精度を持つ、幽耳の使い手である。
**【燈明学舎(とうみょうがくしゃ)】** 玻璃島の、子供たちが通う学び舎。幽耳などの特殊な資質を持つ子供への、配慮も行われている。
**【六道大会(ろくどうたいかい)】** 玄天国との和平を記念して開催される、両国合同の、祓い師交流試合。武力ではなく、健全な競技として、互いの技を、示し合う場。
**【総真家(そうまけ)】** 玻璃島、霊灯通りに居を構える、燎、澪、灯里、そして、後に加わった宗太からなる家族。「よろず相談処」を営みながら、地域に根差した、確かな絆を、育んでいる。
**【玄天国(げんてんこく)】** 玻璃島から、海を隔てた、大陸の大国。かつて、蘇生兵士の量産化を進めていたが、羅刹の決断により、その計画は白紙となり、以後、玻璃島との和平を、堅持している。
**【霊灯通り(れいとうどおり)】** 玻璃島の外れに位置する、総真家の暮らす通り。夜になると、独自の霊灯技術による、青白い街灯が、静かに、通りを照らす。
**【焔主(えんしゅ)】** 送り火衆の最高位。総真燎は、蘇生者でありながら、この地位に就いた、稀有な例として知られる。焔主は、霊的防衛の全権を委ねられると同時に、若手灯番、火番、炎番たちの、精神的な支柱としての役割も、担う。
**【よろず相談処】** 灯里が、燈明学舎在学中に、総真家の一角に開いた、地域住民のための相談窓口。生者の日常的な困りごとから、死者の未練にまつわる相談まで、幅広く受け付けている。開業から十五年で、相談実績は五百件を超えた。
**【燈守(とうもり)】** 二百年前、灰羽衆と送り火衆を、同時に創設した、玻璃島の伝説的な賢人。「表と裏、二つの盾があってこそ、真の平和が保てる」という理念のもと、この島の、独自の統治体制の礎を築いた。
**【渡り場】** 現世でも常世でもない、死者が、その先の運命を選ぶ、境界の場所。総真燎が、蘇生の契約を結んだのも、この場所であった。
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**『焔渡り ―玻璃島異聞―』完**
*本作はすべてフィクションであり、登場する人物・団体・地名・世界観・用語・技名は、すべて、架空のオリジナルです。特定の実在作品・実在の人物・団体とは、一切、関係ありません。*
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