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金鯱文具 偉人課――        歴史の超人たちが、令和の会社にやってきた

    あらすじ

    名古屋の老舗文具メーカー・金鯱文具は、デジタル化の波に呑まれ、買収か廃業かの瀬戸際にあった。再生プロジェクトを一人で背負わされた係長・結城拓郎は、仕事も家庭も失いかけた、冴えないサラリーマン。藁にもすがる思いで派遣を頼むと、奇妙な派遣会社「クロノス・スタッフ」から、聖徳太子、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、坂本龍馬、渋沢栄一、西郷隆盛——歴史を動かした偉人たちが、次々と送られてくる。大失敗あり、大成功あり、笑いあり、涙あり。彼らとの日々の中で、結城は、潰れかけた会社と、こじれた家族と、自分自身を、取り戻していく。千年を超えて色褪せない“仕事の本質”を描く、痛快お仕事コメディ。


    序章 崖っぷちの再生プロジェクト

    二〇二六年、四月。

    金鯱文具株式会社・経営企画室の片隅で、結城拓郎は、自分の名刺を見つめていた。

    「再生プロジェクト推進室 係長 結城拓郎」

    立派な肩書きだった。問題は、その「室」に、自分しかいないことだった。

    金鯱文具は、名古屋で百年以上続く、老舗の文具メーカーである。看板商品は「金鯱ノート」。名古屋城の金の鯱をあしらった、丈夫で書きやすいノートで、東海地方の小学生なら、誰もが一度は使ったことがある。

    だが、それも、昔の話だった。

    子どもはタブレットで勉強し、大人はスマホでメモを取る。紙のノートも、万年筆も、売れない。この十年、売上は坂道を転げ落ちるように、下がり続けていた。

    先月の役員会で、東京の大手文具メーカーによる買収の話が、正式に持ち上がった。買収されれば、名古屋の工場は閉鎖。「金鯱ノート」のブランドも、消える。

    それに、たった一人で抗えと言われたのが、結城だった。

    買収を、いちばん強く、推し進めているのは、専務の黒田だった。

    「結城くん。きみには、悪いがね」

    役員会のあと、黒田は、廊下で、結城を、呼び止めた。冷たい目をした、痩せた男だった。

    「再生だの、なんだのと、社長は夢を見ているがね。現実を、見たまえ。紙のノートは、もう、終わったんだ。下手に粘って、傷を深くするより、まだ価値のあるうちに、東京に、売る。それが、社員を守る、唯一の道だよ」

    黒田の言葉には、底意地の悪さの中に、奇妙な、真剣さが、あった。だが、結城には、それが、わからなかった。

    ただ、この男が、自分の前に、立ちはだかる、最後の壁なのだ、ということだけは、わかった。

    「半年だ。半年で、何も変えられなければ、買収を、進めさせてもらう。せいぜい、あがいてみたまえ」

    黒田は、そう言い残して、去っていった。

    「結城くん。きみは若いし、企画のセンスがある。会社の最後の望みだ。頼んだよ」

    社長の金田にそう言われたとき、結城は三十一歳だった。

    頼まれても、と思った。

    部下は、一人もいない。予算も、雀の涙。半年で目に見える成果を出さなければ、買収は決定。つまり、勝ち目のない戦に、丸腰で放り込まれたようなものだった。

    「……無理だろ、これ」

    誰もいない室で、結城はつぶやいた。

    入社した頃は、文具が好きだった。新しいノートの企画を出して、それが店頭に並ぶのが、嬉しかった。だが、いつからか、企画は通らなくなった。「前例がない」「予算がない」「今は守りの時期だ」。提案するたびに、上から潰された。

    気がつけば、結城は、ただ会議の議事録を取るだけの男になっていた。

    仕事に、意味を感じなくなっていた。

    そんな男に、会社の運命を背負わせるという。冗談みたいな話だった。

    三年前のことを、結城は、よく覚えている。

    当時、結城は、一つの企画に、情熱を注いでいた。子ども向けの、しかけノート。ページを開くと、名古屋城が、飛び出す。理科の自由研究にも使える、遊び心のあるノートだった。

    試作品を、夜なべして、自分の手で、作った。粘土で鯱の型を取り、何度も、試した。完成したとき、結城は、本気で、これは売れる、と思った。

    役員会で、結城は、その試作品を、掲げた。

    返ってきたのは、ため息だった。

    「前例がないね」「製造コストが合わない」「今は、新しい挑戦をする時期じゃない」

    五分で、終わった。試作品は、結城の机の、引き出しの奥に、しまわれた。今も、そこに、ある。

    それから、結城は、提案を、やめた。出しても、潰されるだけだと、学んだからだ。

    文具が、好きだった。新しいノートを考えるのが、好きだった。その「好き」を、会社が、少しずつ、削っていった。

    気がつけば、結城の情熱は、引き出しの奥の試作品と一緒に、埃を、かぶっていた。

    ——失ったのは、情熱だけでは、なかった。

    同じころ、結城は、家庭でも、少しずつ、何かを、こぼしていた。

    妻の美咲。七歳の娘、ひなた。

    あの飛び出すノートは、もともと、ひなたの誕生日に、贈るために、作り始めたものだった。「これ、パパの会社の、いちばんすごいノートなんだよ」。そう言って、得意げに、渡すはずだった。

    だが、企画が潰れ、結城が塞ぎ込むうちに、ノートは、引き出しの奥へ。そして結城自身も、家にいても、上の空の、父親に、なっていった。

    残業。休日出勤。ひなたの行事を、何度も、すっぽかした。

    美咲は、責めなかった。責めない代わりに、少しずつ、何かを諦めたような、目を、するように、なった。

    仕事も、家庭も。結城は、両手から、こぼし続けていた。

    ——そんな自分に、会社の再生を、託すという。

    笑えない冗談だった。だが、断る理由も、なかった。どうせ、失うものなど、もう、何もない。

    それでも、一人では何もできない。結城は、人手を確保することにした。正社員を増やす予算はない。だから、派遣だ。

    人事に相談すると、聞いたことのない派遣会社の名前を渡された。

    「クロノス・スタッフ……?」

    「最近、取引を始めたところでね。なんでも、どんな難しい案件にも、ぴったりの人材を送ってくれると評判らしい」

    半信半疑で、結城は電話をかけた。

    出たのは、時田と名乗る、やけに落ち着いた声の男だった。

    「金鯱文具の結城様ですね。お困りのようで」

    「ええ、まあ……。実は、会社の再生プロジェクトを、一人でやらされてまして。誰か、優秀な人を……」

    「承知しました」

    時田は、少し間を置いて、こう言った。

    「では、まず、組織をまとめられる方を、お送りします。当社には、時代を超えた人材が、揃っておりますので」

    時代を超えた。

    妙な言い回しだな、と結城は思った。だが、深くは考えなかった。

    その判断が、彼の人生を、大きく変えることになるとは、このときは、知る由もなかった。

    第一話 聖徳太子 ——和を以て貴しとなす

    一度に、十人の話を聞く男

    翌週の月曜日。

    派遣社員が、出社してきた。

    「本日からお世話になります。厩戸(うまやど)と申します」

    そう名乗ったのは、おっとりとした、品のいい男だった。年齢は不詳。物腰が、やけに優雅だった。

    「結城さん、ですね。あなたの“気”が、ここからでも見えておりました。たいそう、お疲れのようだ」

    「は、はあ……」

    変わった人だな、と結城は思った。だが、履歴書を見て、考えを改めた。

    前職:国家体制の設計、人事制度の構築、大規模建築プロジェクトの統括。

    「あの、これ……スケールが、おかしくないですか」

    「気のせいでございましょう」

    厩戸は、にっこり笑った。

    最初の仕事は、社内のヒアリングだった。再生プロジェクトを進めるには、各部署の現状と不満を、把握する必要があった。

    結城は、一人ずつ面談する予定を組んだ。だが、厩戸は言った。

    「一人ずつ? 時間の無駄でございます。まとめて、お聞きしましょう」

    会議室に、十人の社員が集められた。営業、製造、経理、デザイン。普段、仲の悪い部署の人間ばかりだった。案の定、全員が、一斉に不満を言い始めた。

    「営業が安請け合いするから、工場が回らないんだ!」

    「製造の納期が遅いから、客が逃げるんだろうが!」

    「そもそも経理が予算を絞るから、何もできない!」

    収拾がつかない。結城は頭を抱えた。

    ところが、厩戸は、静かに目を閉じて、十人の言葉を、同時に聞いていた。

    そして、すべてが終わると、一人ひとりに、的確に応えた。

    「営業の田中さんは、納期の見通しが立たないことが不安なのですね。製造の佐藤さんは、急な変更が多くて段取りが組めない。経理の鈴木さんは、失敗したときの責任を、自分が問われるのが怖い。——皆さん、言葉は違えど、根っこは同じです。『見通しが立たない不安』でございます」

    会議室が、静まり返った。

    全員が、別々のことを言っていたつもりだった。だが、厩戸は、その奥にある共通の不安を、すくい上げてみせた。

    「あの……今の、全員分、覚えてたんですか」

    「十人くらいなら。昔は、もっと聞きましたが」

    結城は、ぞっとした。この人は、本物かもしれない。

    和を、以て貴しとなす

    問題は、ここからだった。

    部署同士が、いがみ合っている。営業は製造を、製造は経理を、互いに敵だと思っている。これでは、再生プロジェクトどころではない。

    厩戸は、ホワイトボードに、一枚の紙を貼り出した。手書きで、こう書いてあった。

    一に曰く、和を以て貴しとなす。

    「なんですか、これ」

    「私が、その昔、作った決まりごとの、一条目でございます。意味は——『争うな。話し合え』」

    厩戸は、社員たちを見回した。

    「皆さん、勘違いをしておられる。『和を以て貴し』とは、『仲良くしろ』『波風を立てるな』という意味では、ありません」

    「違うんですか」

    「違います。続きが、あるのです。『上和ぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、即ち事理自ら通ず』——上の者も下の者も、心穏やかに、よく話し合えば、物事の道理は、自然に通る、と」

    つまり、と厩戸は言った。

    「黙って我慢することが、和ではない。とことん議論を尽くすことこそが、和なのです。意見をぶつけるのは、よろしい。ただし、相手を敵としてではなく、同じ船に乗る仲間として、ぶつける。そこを、間違えてはなりません」

    社員たちは、顔を見合わせた。

    これまで、彼らは、相手を「敵」だと思って、不満を言っていた。営業の敵は製造、製造の敵は経理。だが、本当の敵は、社内には、いなかった。

    本当の敵は、会社を呑み込もうとしている、外の波だった。

    「皆さんは、味方同士で、戦っておられた。実に、もったいない」

    冠位十二階

    次に、厩戸が手をつけたのは、評価制度だった。

    金鯱文具では、長く働いた者が、自動的に偉くなる仕組みだった。年功序列。実力ではなく、社歴で、ポジションが決まる。

    だから、若手が、どれだけ良い仕事をしても、報われない。優秀な人間ほど、やる気を失い、辞めていった。

    「これでは、いけません」

    厩戸は、新しい評価制度を、提案した。

    「家柄でも、社歴でもなく、その者の“はたらき”で、位を定めるのです。私はかつて、これを冠位十二階と呼びました」

    それは、千四百年前、豪族たちがコネと血筋で役職を独占していた時代に、厩戸が断行した、革命的な制度だった。実力さえあれば、身分の低い者でも、上に行ける。日本で初めての、実力主義の人事制度。

    「結城さん。あなたの再生プロジェクトには、本来、優秀な若手が、何人もいるはずです。ただ、彼らは、年功序列の壁に阻まれて、力を出せずにいる。その壁を、取り払うのです」

    結城は、厩戸の助言に従い、プロジェクトの評価基準を、年功から「成果と挑戦」に変えた。

    すると、これまで埋もれていた若手が、次々と手を挙げ始めた。

    入社二年目のデザイナー。提案ばかり潰されてきた、営業の若手。彼らは、結城のプロジェクトに、自ら志願してきた。

    崖っぷちの「一人だけの室」に、いつの間にか、人が集まり始めていた。

    十一人目の、声

    その夜、残業をしていた結城に、厩戸が、お茶を、差し出した。

    「結城さん。昼間の会議、十人の声を、お聞きしましたが——実は、十一人目の声も、聞こえておりました」

    「十一人目? 十人しか、いませんでしたよ」

    「あなたの、心の声でございます」

    結城は、ぎくりと、した。

    「『早く、帰りたい。だが、帰っても、居場所がない』。そう、聞こえました。……お家で、何か、こじれておられますね」

    図星だった。結城は、思わず、湯飲みを、握りしめた。

    「……どうして、それを」

    「人の気は、隠せません。あなたは、会社の不振より、もっと、近いところで、何かを、失いかけている。違いますか」

    結城は、答えられなかった。スマホには、妻の美咲から、二日前のメッセージが、未読のまま、残っていた。「ひなたが、パパに、見せたいものがあるって」。

    「結城さん。組織の和も、大切です。ですが——」

    厩戸は、静かに、言った。

    「いちばん、和を、結び直さねばならぬのは、案外、職場ではなく、ご自分の、家かもしれませんよ」

    結城は、何も、言えなかった。ただ、ぬるくなったお茶を、見つめていた。

    埋もれていた才能

    厩戸は、社員たちの「気」を、よく見ていた。

    ある日、彼は、結城に、一人の若手を、引き合わせた。

    「この方に、お会いなさい。たいそうな才を、お持ちです。ただ、その才が、ずっと、埋もれている」

    桜井ひかり。入社二年目の、デザイナーだった。

    おとなしく、いつも、うつむいて、仕事をしている。会議でも、ほとんど、発言しない。目立たない、若手だった。

    「彼女が……?」

    「結城さん。あなたは、人を、肩書きや、社歴で、見ておられる。それでは、本当の才は、見えません」

    厩戸に促され、結城は、桜井のデスクを、訪ねた。

    引き出しの中に、何冊もの、スケッチブックが、あった。開いてみて、結城は、息を呑んだ。

    そこには、何十枚もの、ノートのデザイン案が、描かれていた。どれも、瑞々しく、斬新で、今の金鯱文具には、ないものだった。

    「これ……全部、きみが?」

    桜井は、おびえたように、うなずいた。

    「す、すみません。仕事の合間に、勝手に……。どうせ、提案しても、通らないので、出して、いなくて……」

    結城は、胸を、衝かれた。

    それは、かつての、自分だった。提案しても潰されるからと、情熱を、引き出しの奥に、しまい込んでいた、三年前の自分。

    「桜井さん」

    結城は、言った。

    「これ、僕のプロジェクトで、形にしよう。きみのデザインで」

    桜井の目が、見開かれた。そして、見る間に、潤んだ。

    厩戸が、後ろで、静かに、微笑んでいた。

    「埋もれていた才を、掘り起こす。位を、はたらきで、定める。——冠位十二階とは、こういうことでございます。結城さん。あなたは、もう、それが、できる人だ」

    その日から、桜井ひかりは、結城のプロジェクトの、中心メンバーに、なった。

    厩戸が、残したもの

    ひと月後。

    厩戸の派遣期間が、終わった。

    「私の仕事は、ここまででございます」

    「えっ、もう帰っちゃうんですか。これから、なのに」

    「私は、組織の“土台”を整える者。建物を建てるのは、別の者の役目です。じきに、とんでもないのが、参りますよ」

    厩戸は、にっこり笑って、最後に、こう言った。

    「結城さん。仕事とは、一人でするものでは、ありません。違う力を持った者が、それぞれの役目を果たし、和を以て、一つの大きな仕事を、成し遂げる。あなたは、その“まとめ役”です。どうか、その役目を、誇りに思ってください」

    結城は、頭を下げた。

    厩戸が去ったあと、プロジェクトルームには、五人の若手社員が、残っていた。

    一人だった「室」は、もう、一人ではなかった。

    バラバラだった人間たちが、初めて、同じ方向を向き始めていた。

    土台は、できた。

    あとは、その上に、どんな建物を建てるか、だった。

    第二話 織田信長 ——前例がない、だからやる

    「であるか」

    五月。

    新しい派遣社員が、出社してきた。

    ドアを開けて入ってきた瞬間、プロジェクトルームの空気が、変わった。

    長身。鋭い目。何より、全身から放たれる、圧倒的な“圧”。

    「織田だ。よろしく頼む」

    それだけ言って、男は、室内を、ぐるりと見回した。

    そして、結城が出した企画書の山に目を留めると、一枚を手に取り、ぱらりとめくった。

    「……ふん。守りに入った企画ばかりだな。これでは、勝てぬ」

    「い、いや、それは……前例のあるやり方で、堅実に……」

    「前例?」

    織田は、にやりと笑った。

    「結城。なぜ、貴様の会社は、潰れかけている?」

    「それは……時代が、変わったからで」

    「違う。時代が変わったのに、貴様らが、変わらなかったからだ」

    ぐうの音も出なかった。

    「皆が、紙のノートを買わなくなった。ならば、紙のノートに、しがみつくな。誰も使っていない、新しい武器を探せ。前例がない? 上等だ。前例がないということは、まだ誰も、その市場を取っていないということだ」

    織田は、火縄銃を構えるような仕草をして、言った。

    「であるか」

    口癖らしかった。

    であるか、令和

    ところで、織田は、現代のオフィスに、まるで、馴染まなかった。

    まず、コピー機と、戦った。

    紙が詰まるたびに、「おのれ、妖術か!」と、機械を、睨みつけた。一度は、刀を抜く真似をして、桜井に、本気で、止められた。

    オンライン会議も、苦手だった。画面の中の取引先に向かって、「貴様、なぜ、そこにおる! 影武者か!」と、立ち上がった。相手は、ぽかんと、していた。

    自動販売機の前では、三十分、立ち尽くした。

    「結城。この、光る箱は、銭を入れると、茶が出る。……からくり仕掛けか。であるか。であるか!」

    えらく、感心していた。

    極めつけは、スマホだった。誰かがゲームで遊んでいるのを見て、織田は、目を、輝かせた。

    「これは……手のひらの中の、天下だな。皆が、この小さな板に、夢中になっておる。——結城。今の世で、人の“時”を奪う者が、天下を取るのだ。そこに、商いの種が、あるぞ」

    遊んでいるだけかと思いきや、しっかり、本質を、見抜いていた。

    結城は、笑った。久しぶりに、腹の底から、笑った気が、した。

    この破壊者と、いると——なぜか、明日が、少しだけ、楽しみに、なるのだった。

    鉄砲三段撃ちの、商品開発

    織田が目をつけたのは、金鯱文具が長年、倉庫に眠らせていた、ある技術だった。

    特殊なインク。何度書いても消せて、しかも、こすっても滲まない。十年前に開発したものの、「用途がない」と判断され、お蔵入りになっていた。

    「これだ。これを、使う」

    「でも、それ、商品化を断念した技術ですよ。前例が……」

    「また、前例か」

    織田は、結城を、じろりと睨んだ。

    「いいか。長篠で、俺が武田の騎馬隊を破ったとき、世間は、こう言った。『鉄砲など、雨に弱いし、弾込めに時間がかかる。騎馬隊に勝てるわけがない』とな」

    それが、当時の“前例”だった。最強の騎馬隊には、刀と槍で立ち向かう。誰もが、そう信じていた。

    「だが、俺は考えた。弾込めに時間がかかるなら、撃ち手を三列に並べればいい。一列目が撃ったら、二列目が撃つ。その間に、一列目が、弾を込める。途切れることなく、撃ち続けられる」

    「鉄砲三段撃ち……」

    「仕組みで、弱点を、消したのだ。技術そのものではない。技術の“使い方”を、変えたのだ」

    織田は、眠っていたインク技術を、現代の使い方で、よみがえらせた。

    ただのペンではない。タブレットの普及で、紙に書く機会が減った大人たちに向けて——「何度でも書き直せる、繰り返し使えるノート」として、売り出すのだ。

    紙とデジタルの、いいとこ取り。書く感触は紙のまま、デジタルのように、何度でも消して書ける。

    「紙か、デジタルか、ではない。その“間”に、市場がある。誰も、取っていない市場がな」

    楽市楽座

    開発は、進んだ。だが、社内から、横やりが入った。

    製造部のベテランたちが、反対したのだ。

    「そんな新しいもの、作り方が分からん」「失敗したら、誰が責任を取る」「今までのやり方で、いいじゃないか」

    会議は、紛糾した。

    すると、織田は、立ち上がって、こう言い放った。

    「貴様らは、関所だ」

    「は?」

    「俺は、かつて、楽市楽座というものを作った。あちこちに関所を設け、通行料を取り、商売を妨げていた古い決まりを、すべて取り払った。誰でも、自由に、商売ができるようにした。すると、城下は、爆発的に、栄えた」

    織田は、ベテランたちを、見据えた。

    「貴様らの『今までのやり方』は、関所だ。新しいものが通ろうとするたびに、通行料を取り、足を止める。その関所が、この会社を、貧しくしているのだ」

    そして、こう続けた。

    「身分も、年功も、関係ない。良い案を出した者が、偉い。それが、俺のやり方だ」

    実力さえあれば、誰でも引き上げる。織田は、若手のデザイナーが出した、斬新なパッケージ案を、その場で採用した。ベテランが何十年と守ってきた「金鯱ノート」のデザインを、大胆に、刷新したのだ。

    製造部は、青ざめた。だが、結城は、止めなかった。

    止めなかった自分に、結城は、少し驚いていた。

    いつもの自分なら、「前例がない」と言って、潰していた。だが、織田の隣にいると、不思議と、勇気が湧いた。

    試し撃ち

    商品の形が、見えてきた。だが、織田は、いきなり全国で売る、とは、言わなかった。

    「まず、偵察だ」

    「偵察、ですか」

    「戦の前に、物見を出すのは、当然のこと。いきなり全軍で突っ込む将は、愚かだ。小さく試して、敵——いや、客の出方を、見る」

    織田は、桜井のデザインした「リライト・ノート」の試作品を、名古屋市内の、数店舗だけに、置かせた。そして、客の反応を、徹底的に、データで、集めた。

    どんな客が、手に取るか。どの売り文句に、足を止めるか。値段に、どう反応するか。

    「ふん。三十代から、四十代。仕事で使う者が、多いな。『紙の手触りで、何度も書き直せる』——この一言に、皆、目を留めておる」

    織田は、そのデータをもとに、売り方を、研ぎ澄ませた。狙う客を、絞る。刺さる言葉を、選ぶ。無駄な弾は、撃たない。

    「むやみに撃つな。当たるところに、撃て。長篠も、同じだ。ただ鉄砲を並べただけでは、勝てぬ。どこを、いつ、撃つか。それを、見極めるのだ」

    結城は、舌を、巻いた。

    織田は、ただ、勢いだけの男ではなかった。大胆な発想の裏に、冷徹な、計算が、あった。

    「桜井とか言う、あの娘」

    ふいに、織田が、言った。

    「あの娘のデザイン、悪くない。古い頭の連中には、出せぬ発想だ。——結城。良い人材を、見つけたな」

    桜井は、顔を、真っ赤にして、うつむいた。だが、その口元は、たしかに、笑っていた。

    潰されてきた若手が、初めて、自分の仕事を、認められた瞬間だった。

    本能寺の、手前で

    新商品「リライト・ノート」は、完成した。

    発売前のテストマーケティングは、上々だった。社内の空気も、変わってきた。

    だが、織田は、突き進みすぎた。

    スピードを優先するあまり、製造部を置き去りにし、品質チェックの工程を、省きかけたのだ。

    「速さこそ、すべてだ。市場は、待ってくれぬ」

    結城は、ひやりとした。

    このまま、突っ走れば、いつか、足元をすくわれる。歴史の織田信長も、天下統一を目前にして、足元の家臣に、討たれたではないか。

    「織田さん。速さは、大事です。でも、足元を、固めないと」

    織田は、ふっと、笑った。

    「……俺の、最期を、知っているのか」

    「え」

    「いいだろう。貴様の言うことも、一理ある。俺の役目は、ここまでだ。破壊と、創造。新しい武器を、作るところまで。それを、丁寧に、世に届けるのは——次の者の、仕事だ」

    織田の派遣期間が、終わる日。

    彼は、結城の肩を、ぽんと叩いた。

    「結城。覚えておけ。変化を恐れる者から、滅びていく。 前例など、破るためにある。せいぜい、暴れろ」

    「であるか」と、結城は、思わず、返した。

    織田は、声を上げて、笑った。

    破壊者が、去った。

    あとには、新しい商品と、変わり始めた会社と、少しだけ勇気を持った結城が、残された。

    第三話 武田信玄 ——動かざること、山の如し

    動かない男

    織田が去って、すぐのことだった。

    入れ替わりに来た派遣社員は、出社するなり、いちばん奥の席に、どっかりと、腰を下ろした。

    「武田だ。世話になる」

    重々しい、低い声。立派な髭。そして、ひとたび座ると、まったく、動かなくなった。

    昼になっても、動かない。打ち合わせに呼んでも、「ここで聞く」と動かない。外回りに誘っても、「行かぬ」と動かない。

    「あの、武田さん。少しは、現場にも……」

    「動かざること、山の如し」

    武田は、ぴしゃりと、言った。

    「軽々しく動く者は、必ず、足をすくわれる。山は、動かぬ。動かぬからこそ、すべてを、見渡せる」

    なんて、めんどくさい人だ、と結城は思った。

    だが、武田は、ただ、ぐうたらしていたわけでは、なかった。

    彼は、一日中、机に向かって、情報を、集めていた。

    競合の新商品。業界の売上データ。SNSでの、文具の口コミ。小売店の、棚の変化。あらゆる情報を、かき集め、巨大なマップのように、壁に、貼り出していた。

    「これは……?」

    「戦場の絵図だ。敵が、どこにいて、何を考え、次に、どう動くか。それを、知らずに、戦う者は、ただの、愚か者ずら」

    武田の机の周りは、いつの間にか、市場の“地図”で、埋め尽くされていた。

    風林火山

    そのころ、結城のチームは、ある決断を、迫られていた。

    ヒットした「リライト・ノート」を、増産すべきか。工場をフル稼働させ、大量に、作るか。

    営業からは、「売れているうちに、もっと作れ」という声が、上がっていた。結城も、その気に、なっていた。

    だが、武田が、止めた。

    「動くな」

    「で、でも、今、売れてるんですよ。チャンスを逃したら……」

    武田は、貼り出した“地図”の、一点を、指さした。

    「見よ。この口コミの伸びが、先週から、鈍り始めている。客は、もう、ひと通り、買った。ここで増産すれば、在庫の山を、抱えるぞ」

    結城は、ぞっとした。

    たしかに、データは、そう、語っていた。勢いに乗せられて、増産していたら——売れ残りの山で、せっかくの利益が、吹き飛んでいた。

    「では、どうすれば」

    「動くな、とは、何もするな、ということではない」

    武田は、立ち上がった。初めて、動いた。

    「我が軍の旗には、四つの字が、ある。風林火山」

    疾きこと、風の如く。 徐かなること、林の如く。 侵掠すること、火の如く。 動かざること、山の如し。

    「攻めるときは、風のように、速く。待つときは、林のように、静かに。仕掛けるときは、火のように、激しく。動かざるときは、山のように、どっしりと。——大事なのは、“いつ動き、いつ動かぬか”を、見極めることだに」

    武田は、増産ではなく、別の手を、打った。

    集めたデータをもとに、「リライト・ノート」の、次に来る客層——学生や、主婦——に向けた、新しい色とサイズの、追加ラインナップを、静かに、準備させた。

    そして、口コミがちょうど一巡し、市場が「次」を求め始めた、その瞬間。

    風のように、速く、新ラインを、投入した。

    狙いは、ぴたりと、当たった。第二の波が、来た。

    増産という、力任せの一手では、決して、つかめなかった成果だった。

    知るは、力なり

    武田の情報網は、社内でも、役に立った。

    専務・黒田が、まだ、買収を、諦めていないこと。東京の大手が、次に、どんな手で、金鯱文具を、揺さぶろうとしているか。武田は、社内外の動きを、ことごとく、先回りして、つかんでいた。

    「敵を知り、味方を知り、戦の前に、勝敗を、決しておく。戦場で、慌てて考えるようでは、もう、遅いんだに」

    結城は、唸った。

    織田が「速さ」と「破壊」の人なら、武田は、「情報」と「忍耐」の人だった。

    正反対のようでいて、二人とも、ただ一つの目的のために、動いていた。

    勝つこと。それも、無駄な血を、流さずに。

    「いちばん良い勝ち方はな、結城」

    去り際、武田は、言った。

    「戦わずして、勝つことよ。そのために、情報がある。よく見、よく知れ。動く前に、考え抜いた者だけが、いざという時、誰よりも、速く動ける。」

    山のような男は、最後に、ふっと、笑った。

    「次に来るのは……あの、面倒な男か。せいぜい、酒を、切らさぬことずら」

    第四話 上杉謙信 ——義を見てせざるは、勇なきなり

    酒と、塩

    武田の予言通り、次の派遣社員は、面倒な男だった。

    いや、面倒、というのは、少し違う。

    清廉で、まっすぐで、そして——やたらと、酒を、飲んだ。

    「上杉と申す。よろしく頼む」

    昼休み、上杉は、当然のように、湯飲みに、日本酒を、注いだ。

    「あの、勤務中は、ちょっと……」

    「これは、水である」

    「どう見ても、お酒ですよね」

    「……義の、水である」

    無茶苦茶だった。だが、上杉の飲みっぷりは、見事で、そして、酔っても、一切、仕事の質は、落ちなかった。むしろ、酒が入ると、彼の“筋の通り方”は、いっそう、冴えた。

    ある日、上杉は、武田が残していった“地図”を、じっと、見ていた。

    「武田の、置き土産か。……あやつとは、生涯、戦い続けたのぉ」

    「ライバル、だったんですか」

    「宿敵よ。だが——」

    上杉は、ふっと、目を、細めた。

    「あやつの国が、塩を、断たれて、苦しんだとき。わしは、敵である、あやつに、塩を、送った」

    「敵に、塩を……? なんで、そんなことを」

    「戦は、戦場で、堂々と、決する。敵の、不幸につけ込んで、勝つなど——そんな勝ち方は、義に、反する。」

    結城は、言葉を、失った。

    義か、利か

    そのころ、金鯱文具に、一つの「うまい話」が、舞い込んでいた。

    東京の大手——あの、買収をちらつかせる、競合だった。

    向こうは、こう、持ちかけてきた。「お宅の、取引先の小さな印刷会社を、うちに、紹介してくれないか。その代わり、お宅の商品を、うちの一等地の棚に、置いてやる」と。

    その印刷会社——「丸光印刷」は、金鯱文具と、四十年、付き合ってきた、小さな下請けだった。今、経営が、苦しい。大手に、紹介すれば、丸光は、大口の仕事を得て、助かる。金鯱も、棚を得て、得をする。

    一見、三方良し。だが、裏が、あった。

    大手の狙いは、丸光の、特殊な印刷技術。それを吸い上げたら、用済みで、切る腹づもりだった。長年の付き合いを、踏み台にする話だった。

    営業会議では、「会社のためだ、乗るべきだ」という声が、大勢を、占めた。結城も、迷った。会社の、瀬戸際だ。背に腹は、代えられない。

    そこへ、上杉が、立ち上がった。湯飲みを、置いて。

    「やめておけや」

    「で、でも、これは、会社の利益に……」

    「義を見てせざるは、勇なきなり。」

    上杉の声が、会議室に、響いた。

    「四十年、共に歩んだ相手を、目先の利のために、売る。それは、利では、ない。恥よ。そうして得た棚に、おぬしらは、胸を張って、商品を、並べられるのか」

    会議室が、静まり返った。

    「いいか。一度、義を、捨てた組織は、二度、三度と、捨てる。やがて、誰も、その組織を、信じなくなる。信用とは、義の、積み重ねよ。目先の一勝のために、それを、売り渡すな」

    結城は、深く、息を、吸った。

    そして、断った。大手の、うまい話を。

    塩を、送る

    それどころか、上杉は、逆のことを、結城に、させた。

    苦しんでいる丸光印刷に、金鯱文具の方から、新しい仕事を、回したのだ。「リライト・ノート」の、特別パッケージの印刷。丸光の、特殊技術が、活きる仕事だった。

    敵に塩を送るように。困っている味方を、損得抜きで、助けた。

    丸光の老社長は、涙ぐんで、言った。

    「金鯱さんには、足を向けて、寝られん。この恩は、生涯、忘れません」

    ——この一件は、半年後、思わぬ形で、金鯱文具を、救うことになる。だが、それは、まだ、先の話だ。

    上杉の、派遣期間が、終わる日。

    彼は、最後に、湯飲みの“義の水”を、ぐいと、干して、言った。

    「結城。商売は、勝ち負けだけでは、ない。どう、勝つか。そして、どう、信じられるか。それを、忘れた者は、たとえ勝っても、いずれ、独りになるて」

    そして、にやりと、笑った。

    「武田の地図と、わしの義。二つ揃えば、おぬしのチームは、もう、そう簡単には、負けぬ。……さて、最後の一杯を、やってから、帰るとするかのぉ」

    「いや、もう、勤務時間……」

    「義の、水である」

    清らかな酔っぱらいは、上機嫌で、去っていった。

    第五話 豊臣秀吉 ——気配りは、最強の武器である

    草履を、温める男

    六月。

    その派遣社員は、小柄で、人懐っこい笑顔の男だった。

    入ってくるなり、結城のデスクに駆け寄り、こう言った。

    「結城さんだがや! いやあ、お噂はかねがね! わしは、豊臣と申しますわ! 何でも、やらせてちょー!」

    声が、やたらと大きい。そして、やたらと、腰が低い。

    その日の朝、結城がコーヒーを淹れようとすると、すでに、豊臣が淹れていた。しかも、結城の好みの濃さ、ぴったりだった。

    「なんで、僕の好み、知ってるんですか」

    「昨日、ゴミ箱の缶コーヒーを、拝見しましたわ。微糖の、ブラック寄り。だから、こうかと」

    ぞっとするような、観察眼だった。

    豊臣は、頼まれてもいないのに、室内の備品を補充し、散らかった資料を整理し、結城が次に必要としそうな書類を、先回りして用意していた。

    「草履を、懐で温めるようなもんだがや」

    「は?」

    「昔、お館様……いや、上司の草履を、懐で温めてから、お出ししたんだわ。寒い日に、冷たい草履じゃ、気の毒だがね。そしたら、お館様、大層、喜んでくだすって」

    「ただの、ご機嫌取りじゃ……」

    「とんでもにゃーて」

    豊臣の目が、きらりと光った。

    「気配りってのは、媚びじゃにゃー。相手が、次に何を求めとるかを、誰よりも早く、察すること。 それができりゃ、どんな相手の心も、つかめる。わしは、それだけで、天下を取ったんだがや」

    家での、気配り

    ある晩、豊臣は、結城のスマホの、待ち受け画面を、ちらりと、見た。

    幼い女の子の、写真だった。

    「結城さん。べっぴんな、お嬢さんだなも。おいくつで?」

    「……七歳です。ひなた、っていいます」

    「最近、ちゃんと、遊んでやっとりゃーすか?」

    結城は、言葉に、詰まった。

    豊臣は、にっこり笑って、こう言った。

    「わしの、気配りの極意、家でも、使えるがや。——相手が、次に、何を求めとるかを、察する。お嬢さんは、今、何を、いちばん、欲しがっとると思う?」

    「……おもちゃ、とか」

    「ちがうがや」

    豊臣は、首を、振った。

    「お嬢さんが、欲しいのは、モノじゃにゃー。パパが、自分の方を、向いてくれることだがや。子どもってのは、それが、ぜんぶ、分かるんだわ」

    結城は、胸を、突かれた。

    「わしはね、出世のために、気を配ってきたんじゃ、にゃー。本当は、ただ、目の前の人を、喜ばせるのが、好きだったんだがや。それが、たまたま、天下に、つながっただけで。……結城さん。いちばん、気を配るべき相手を、後回しにしちゃ、いかんて」

    その夜、結城は、二日ぶりに、まっすぐ、家に、帰った。

    ひなたは、もう、眠っていた。枕元に、結城が昔あげた、金鯱ノートが、置いてあった。表紙は、もう、ぼろぼろに、なるまで、使い込まれていた。

    結城は、その寝顔を、長い間、見つめていた。

    コンペという名の、合戦

    そのころ、結城のプロジェクトは、大きな勝負を控えていた。

    全国チェーンの大型雑貨店「ロフティ」が、新しい文具ブランドを、店頭に大々的に並べる、というのだ。採用されれば、新商品「リライト・ノート」は、一気に全国区になる。

    だが、競合は、強かった。あの、金鯱文具を買収しようとしている、東京の大手メーカー。資金力も、ブランド力も、桁違いだった。

    プレゼンの日が、迫っていた。

    結城は、立派な企画書を作った。商品の性能、価格、デザイン。理詰めの、完璧な資料だった。

    それを見て、豊臣は、首をひねった。

    「結城さん。この企画書、ロフティの、誰に、見せるんで?」

    「誰って……バイヤーの、担当者ですけど」

    「その担当の、田所さんって人は、どんな人で? 何を、悩んどる? 何を、欲しがっとる?」

    「……知りません」

    豊臣は、にっこり笑った。

    「そこだがや」

    一夜城

    豊臣は、プレゼンまでの一週間で、驚くべきことをやってのけた。

    ロフティのバイヤー・田所について、徹底的に、調べ上げたのだ。

    田所が、最近、自社の若者離れに悩んでいること。SNSで話題になる商品を、探していること。社内で、新しい挑戦をしたくても、上司が保守的で、なかなか通らないこと。

    その情報を、どこからともなく、かき集めてきた。

    「田所さんはね、ただ良い商品が欲しいんじゃにゃー。自分の手柄になって、SNSでバズって、社内で評価される商品が、欲しいんだわ」

    だから、と豊臣は言った。

    「わしらが売るのは、ノートじゃにゃー。田所さんの、出世だがや」

    豊臣は、プレゼン資料を、根こそぎ作り変えた。

    商品の性能の話は、最小限に。代わりに、「リライト・ノート」が、いかにSNS映えするか。いかに若者に刺さるか。そして、それを採用した田所が、いかに社内で評価されるか。その筋書きを、前面に押し出した。

    田所が、欲しい未来を、絵にして、見せたのだ。

    「これが、墨俣の一夜城だがや」

    「すみまた?」

    「昔、敵地の目の前に、一晩で、城を建てたんだわ。普通は、何ヶ月もかかる。でも、あらかじめ、部材を川上で組み立てておいて、一気に運んで、組み上げた。相手の、度肝を抜いたんだがや」

    「つまり……?」

    「準備だがや。本番の前に、勝負は、八割、決まっとる。相手が何を欲しがっとるかを、徹底的に調べて、ぴったりのものを、用意しておく。あとは、本番で、ぱっと、見せるだけ」

    中国大返し

    プレゼンの、前日だった。

    夜、十時。プロジェクトルームに、悪い知らせが、飛び込んできた。

    競合の大手メーカーが、ロフティへのプレゼン内容を、土壇場で、大幅に、変えてきた、というのだ。値段を、大きく、下げてきた。このままの資料では、価格で、負ける。

    結城は、頭を、抱えた。

    「もう、間に合わない……。明日の朝、なのに」

    すると、豊臣が、にやりと、笑った。

    「結城さん。わしの、いちばんの得意技を、お見せしますわ」

    「得意技?」

    「中国大返し、だがや」

    豊臣は、本能寺で信長が倒れたという報を受けたとき、遠く備中高松城にいた。常識では、何日もかかる距離を、わずか数日で、駆け戻り、誰よりも早く、明智光秀を、討った。

    「ピンチのときに、誰よりも、速く、動く。それが、勝負を、決めるんだがや」

    豊臣は、その夜、チーム全員を、巻き込んだ。

    ただし、力任せでは、なかった。価格で、勝てないなら、価格“以外”で、勝つ。

    「うちのノートは、安売りで、勝負しちゃ、いかんわ。安さは、すぐに、もっと安い相手に、負ける。うちが売るのは、“安さ”じゃにゃー。“価値”だがや」

    豊臣は、桜井に、徹夜で、新しい資料の絵を、描かせた。結城には、客が「これは、ただのノートじゃない」と感じる、物語を、書かせた。自分は、夜通し、ロフティの社内事情を、さらに、調べ直した。

    夜が、明けるころ。

    価格ではなく、「価値」で勝負する、まったく新しいプレゼン資料が、完成していた。

    豊臣は、疲れ切った結城たちに、温かい味噌汁を、配って回った。いつの間に、用意したのか。

    「腹が減っては、戦は、できぬ。さ、食って、食って」

    その心配りに、徹夜で疲れたチームの、目に、力が、戻った。

    「準備さえ、しときゃ、本番は、怖にゃーて。さあ、いざ、出陣だがや!」

    人たらし

    プレゼン当日。

    会議室に、ロフティのバイヤー・田所が、現れた。気難しそうな、中年の男だった。

    結城は、緊張で、声が震えた。

    すると、豊臣が、すっと前に出た。

    「田所さん! お会いできて、光栄だがや! いやあ、田所さんが手がけた、去年の文房具フェア、あれは、見事でしたなあ! あの、棚の見せ方、唸ったがや!」

    田所の、表情が、変わった。

    「……よく、知ってるね。あれ、僕の企画なんだよ」

    「知っとりますて! わしは、田所さんの、ファンだもんで!」

    会議室の空気が、ふっと、緩んだ。

    豊臣は、ただ、おだてているのではなかった。相手の仕事を、本当に、よく調べていた。相手が、いちばん褒められたい部分を、的確に、突いていた。

    田所は、すっかり、上機嫌になった。そして、豊臣が用意した「田所が出世する筋書き」のプレゼンに、深く、頷いた。

    「これは……いける。うちの若手にも、刺さる。よし、うちで、大きく扱おう」

    決まった。

    金鯱文具の「リライト・ノート」は、全国チェーンの店頭に、並ぶことになった。

    帰り道、結城は、興奮を抑えきれなかった。

    「すごい……。豊臣さん、あなた、天才ですよ」

    豊臣は、照れたように、頭をかいた。

    「わしには、信長様みてえな、ひらめきはにゃー。家柄もにゃー。学もにゃー。あるのは、人の心を読んで、気を配ることだけだがや」

    そして、しみじみと、言った。

    「だがね、結城さん。家柄がなくても、工夫次第で、結果は、変えられる。 わしは、それを、証明したくて、生きてきたんだがや」

    百姓から、天下人へ。

    その男の言葉には、重みがあった。

    豊臣の派遣期間が終わる日、結城は、深々と、頭を下げた。

    「ありがとうございました。豊臣さんに、教わったことは、一生、忘れません」

    「水くさいこと、言いっこなしだがや。困ったら、いつでも、呼んでちょー。……まあ、わしも、調子に乗りすぎんように、せんとな」

    豊臣は、最後に、少しだけ、寂しそうに笑った。

    天下を取った男が、最後に、何を失ったか。結城は、歴史を思い出して、何も言えなかった。

    ただ、人の心をつかむ天才が、この会社に、たしかに、福を、置いていった。

    ——コンペでの、大勝利。それは、沈みかけていた社内を、大いに、沸かせた。

    その月、結城は、係長から、課長へと、昇進した。引き出しには、刷り直したばかりの、名刺。「再生プロジェクト推進室 課長 結城拓郎」。かつて、ただ、議事録を取るだけだった男の肩書きが、初めて、前へ、動いた。

    だが、結城は、わかっていた。この一歩は、自分ひとりの、力では、ない。あの、福を置いていった人たちが、遺してくれた、置き土産なのだ、と。

    第六話 千利休 ——引き算の、美

    全部、削げ

    豊臣が去って、すぐ。

    次の派遣社員は、痩せて、背筋の伸びた、静かな老人だった。

    「千、と申します」

    声は小さいのに、その一言で、騒がしかったプロジェクトルームが、しんと、静まった。

    千利休は、席に着くなり、机の上を、じっと、見た。そして、結城が散らかしていた、資料の山、ペン立て、付箋、置物——その大半を、すっと、脇へ、よけた。

    机の上に、残ったのは、ペン一本と、ノート一冊だけ。

    「これで、よろしい」

    「え、片付けてくれたんですか」

    「散らかった机からは、散らかった仕事しか、生まれませぬ。いらぬものを、削ぐ。それが、美の、始まりです。」

    そのころ、結城のチームは、新しい悩みを、抱えていた。

    「リライト・ノート」は、売れている。だが、ライバルも、似た商品を、安値で、出してきた。価格競争に、巻き込まれつつあった。安く、安く。利益は、どんどん、薄くなっていく。

    「このままじゃ、ジリ貧です。もっと、機能を、増やして、差をつけないと。色を増やして、ページを増やして、付録もつけて……」

    利休は、静かに、首を、振った。

    「逆でございます」

    「逆?」

    「足すのでは、ない。削ぐのです。」

    一輪の、朝顔

    利休は、一つの、昔話を、した。

    その昔、利休の庭に、見事な朝顔が、咲き乱れていると評判になった。天下人・豊臣秀吉が、「ぜひ見たい」と、茶会に、やってきた。

    ところが、秀吉が庭に来てみると——朝顔は、一輪も、咲いていなかった。利休が、すべて、刈り取って、しまったのだ。

    秀吉が、むっとして、茶室に入ると。

    床の間に、たった一輪だけ、朝顔が、生けてあった。

    その、たった一輪の美しさに、秀吉は、息を、呑んだという。

    「百の花を、見せられても、人の心は、動きませぬ。たった一輪に、すべてを込めるからこそ、人は、心を、奪われる。美しさとは、足すことではなく、削ることで、生まれるのです。」

    結城は、はっと、した。

    利休の助言で、チームは、新商品の方向を、百八十度、変えた。

    機能を増やした、安いノートでは、ない。逆だった。余計なものを、すべて、削ぎ落とした、たった一冊の、極上のノートを、作る。

    最高の紙。最高の書き味。装飾は、一切なし。表紙には、金鯱の刻印が、一つだけ。

    値段は、普及品の、十倍。

    「こんな高い文具、売れるんですか」と、若手が、不安がった。

    利休は、静かに、言った。

    「安さで、買う客は、安さで、去ります。ですが、本物の価値で、買う客は——生涯、離れませぬ。安売りは、客を集める。本物は、客を、育てる。」

    もてなしの、こころ

    利休は、商品だけでなく、「売り方」も、変えさせた。

    その高級ノートを、ただ、棚に置くのでは、ない。

    専用の、静かな売り場を、作らせた。客が、一人、また一人と、ゆっくり、手に取り、その書き味を、試せる空間。茶室のように、研ぎ澄まされた、場所だった。

    「私の茶室の入口は、にじり口と申しまして、大の大人が、頭を下げ、かがんで、ようやく入れるほど、小さく、作ってあります」

    「なんで、そんな、不便に?」

    「そこをくぐるとき、武士も、商人も、身分を、捨てる。皆、ただの一人の、客になる。——もてなしとは、相手のために、こちらが、心を尽くして、しつらえること。 売り場も、同じでございます」

    そのこだわりは、桜井にも、火を、つけた。

    利休のもとで、桜井は、「引き算のデザイン」を、学んだ。これまで、あれもこれもと、盛り込んでいた彼女のデザインは、利休の一言で、見違えるほど、研ぎ澄まされていった。

    「桜井どの。あなたの絵には、才がある。あとは、勇気だけ。いちばん良いものを、一つだけ残し、あとは、捨てる勇気でございます。」

    一期一会

    極上の一冊——「金鯱 真(しん)」は、発売された。

    爆発的には、売れなかった。だが、確実に、選ばれた。

    本物を、求める人々が、静かに、手に取った。一度買った客は、二度、三度と、買い替え、人に、贈った。利益率は、普及品の、比では、なかった。

    そして何より——「金鯱文具は、安かろう悪かろうの会社ではない。本物を作る会社だ」という、ブランドの格が、生まれた。

    価格競争から、抜け出した瞬間だった。

    利休の、派遣期間が、終わる日。

    彼は、結城のために、一服の、茶を、点てた。

    「一期一会、と申します。この一杯は、二度と、巡ってこない。だからこそ、心を、尽くす。——商いも、人生も、同じでございます。目の前の客との、一度きりの出会いに、すべてを、込める。それを、忘れなければ、道を、誤りませぬ」

    利休は、最後に、ふっと、寂しげに、笑った。

    「私は、いっとき、天下人に、重用されました。されど、美意識は、ときに、権力と、ぶつかる。……だが、媚びて、自分の“美”を、曲げるくらいなら、私は、私のままで、散ることを、選びます」

    その背中に、結城は、命がけで「本物」を貫いた者の、凄みを、見た。

    第七話 徳川家康 ——失敗は、宝である

    しかみ像

    七月。

    その派遣社員は、慎重そうな、恰幅のいい中年男だった。

    少し猫背で、入ってくるなり、室内の隅々を、じっくりと観察した。非常口の位置。コンセントの数。窓の鍵。すべてを、確認している。

    「徳川と申します。よろしく、お願いいたします」

    豊臣のような派手さも、織田のような圧もない。だが、どっしりとした、安心感があった。

    徳川は、デスクに着くと、一冊の、古びた手帳を、取り出した。表紙に、こう書いてあった。

    「しくじり帳」

    「それ、なんですか」と結城が尋ねると、徳川は、静かに笑った。

    「私の、失敗の記録です。これまで犯した、すべてのしくじりを、書き留めてあります。読み返すたびに、肝が、冷えます」

    徳川は、一枚の絵を、机に飾った。

    苦々しい顔で、肘をつき、うなだれている、武将の絵だった。

    「これは……?」

    「私です。三方ヶ原という戦で、武田信玄に、コテンパンに、やられたときの、私の顔です。恐怖で、顔が、引きつっておるでしょう」

    結城は、驚いた。

    「なんで、そんな、情けない絵を、わざわざ飾るんですか」

    「忘れないためです」

    徳川は、絵を、じっと見つめた。

    「あのとき、私は、調子に乗って、勝てない相手に、戦を挑みました。そして、命からがら、逃げ帰った。普通なら、隠したい、消したい記憶です。だからこそ、絵に描かせ、生涯、手元に置いた。この情けない顔を、二度と、しないために。」

    品質トラブル

    徳川が来て、間もなく。

    事件が、起きた。

    全国チェーンで売り出した「リライト・ノート」に、不具合が、見つかったのだ。

    特殊なインクが、高温多湿の環境で、まれに、滲んでしまう。夏の、湿気の多い時期。クレームが、ぽつぽつと、入り始めた。

    プロジェクトルームは、凍りついた。

    せっかくの、ヒット商品。せっかくの、再生の足がかり。それが、根本の品質で、つまずいた。

    「どうしよう……回収したら、莫大な損失だ。でも、放置したら、信用が……」

    結城は、パニックになりかけた。

    そんな中、徳川だけが、落ち着いていた。

    「結城さん。慌てては、いけません。慌てた判断が、いちばん、危ない」

    徳川は、まず、事実を、徹底的に、集めさせた。

    どの環境で、どのくらいの確率で、不具合が起きるのか。原因は、インクか、紙か、製造工程か。感情ではなく、数字で、状況を、把握した。

    「敵を知り、己を知れば、百戦して、危うからず。まずは、敵——この不具合の正体を、正確に、知ることです」

    待つ、という戦略

    原因は、特定できた。製造工程の、ある一手間を、省いていたことだった。

    織田が、スピードを優先するあまり、品質チェックの工程を、簡略化した、あの部分だった。

    「やっぱり、あのとき……」

    結城は、青ざめた。自分が、織田の勢いに乗せられて、見過ごした部分だった。

    だが、徳川は、結城を、責めなかった。

    「結城さん。これは、しくじりです。間違いなく。ですが——」

    徳川は、自分の「しくじり帳」を、開いた。

    「しくじりは、宝です。失敗から、何も学ばない者は、同じ失敗を、繰り返す。失敗から学んだ者だけが、二度と、同じ轍を踏まない。」

    徳川は、まず、出荷を、一時停止させた。被害が、これ以上、広がらないように。そして、すでに不具合の出た客には、誠実に、新品と交換し、丁寧に、詫びた。

    「ここで、無理に売り続ければ、目先の損は、防げる。だが、信用を、失う。信用は、一度失えば、取り戻すのに、何十年も、かかる」

    すぐに利益を取りに行く織田なら、強引に売り続けたかもしれない。だが、徳川は、待った。

    損を、覚悟で、いったん、退いた。

    製造工程を、根本から、見直す。省いていた一手間を、戻す。さらに、二度と同じことが起きないよう、チェックの仕組みを、二重、三重に、組み直す。

    時間は、かかった。だが、徳川は、焦らなかった。

    「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス。……これは、私のことを、後世の人が、詠んだ歌だそうです。気が長い、と笑われますがね。なに、三河者は、根っから、辛抱強いもんで」

    徳川は、穏やかに、笑った。

    「待つ、というのは、何もしない、ということでは、ありません。待っている間に、しっかりと、足元を、固めるのです。 機が熟すまで、力を、蓄える。そして、ここぞ、という時に、一気に、動く」

    詫びの作法

    徳川は、ある日、結城を、連れ出した。

    「どこへ、行くんですか」

    「不具合の品を、買ってしまった、お客のところです」

    クレームを入れてきた、小さな文具店。そして、そこで「リライト・ノート」を買い、滲んで困った、一人の客。徳川は、その一軒一軒を、自ら、頭を下げて、回るというのだ。

    「電話やメールで、済むのでは……」

    「済みません」

    徳川は、きっぱりと、言った。

    「人は、誠意を、目で、見たいのです。詫びとは、言葉では、ありません。足を運び、頭を下げ、その姿を、見せること。それでしか、伝わらぬものが、あります」

    小さな文具店の、年老いた店主は、最初、怒っていた。

    「おたくのノート、客に、迷惑かけたんだよ。うちの、信用問題だ」

    徳川は、深々と、頭を、下げた。何も、言い訳しなかった。ただ、非を、認め、詫びた。そして、改良の計画を、誠実に、説明した。

    店主の、態度が、少しずつ、和らいでいった。

    「……あんた、わざわざ、来てくれたのか。最近の会社は、謝るのも、メール一本だってのに」

    帰り道、徳川は、ぽつりと、言った。

    「私は、若いころ、家臣に、何度も、裏切られました。なぜか。私が、彼らの心を、軽んじていたからです。人の心は、損得だけでは、動かない。誠意にしか、動かぬ部分が、ある」

    結城は、その背中に、二百六十年続いた、天下の重みを、見た気が、した。

    頭を下げることを、恥だと思っていた、かつての自分が、恥ずかしかった。

    いちばんの、しくじり

    品質トラブルの対応に、追われていた、ある土曜日。

    結城のスマホが、鳴った。美咲からだった。

    「今日、ひなたの、ピアノの発表会だよ。覚えてる? ひなた、ずっと、パパに、来てほしいって……」

    完全に、忘れていた。

    クレーム対応の、山。出荷停止の、判断。今、抜けるわけには、いかない。

    「……ごめん。今日は、どうしても、行けない」

    電話の向こうで、美咲が、小さく、息を、ついた。

    「……そう。わかった。もう、いいよ」

    その「もう、いいよ」が、結城の、胸に、刺さった。

    電話を切った結城の、ただならぬ様子に、徳川が、気づいた。事情を聞くと、徳川は、しばらく、黙って、自分の「しくじり帳」を、めくっていた。

    「結城さん。私の、いちばん古いしくじりは、何だと思いますか」

    「三方ヶ原、ですか」

    「いいえ」

    徳川は、静かに、首を、振った。

    「人質に出されていた、幼いころ。私は、大切な人たちと、過ごす時を、すべて、奪われました。だから、私は、知っているのです。取り戻せない時間こそが、人生で、いちばんの、しくじりだと」

    徳川は、結城を、まっすぐ、見た。

    「仕事のしくじりは、やり直せます。商品も、信用も、時をかければ、取り戻せる。ですが——お嬢さんの、七歳の、今日という日は、二度と、戻ってきません」

    結城の、目の奥が、熱く、なった。

    「結城さん。ここは、私が、引き受けます。製造の段取りは、もう、目処が立っている。あなたは、行きなさい。今、行かねば、それは、しくじり帳に、書いても、二度と、消せない一行に、なりますぞ。」

    結城は、立ち上がった。

    会社を、飛び出し、駅まで、走った。電車に、飛び乗った。発表会の会場に、駆け込んだとき——ちょうど、ひなたの、出番だった。

    たどたどしい、ピアノ。それでも、一生懸命の、小さな指。

    客席のいちばん後ろで、結城は、肩で、息を、しながら、それを、見ていた。

    演奏を終えたひなたが、ふと、客席を、見回し——結城を、見つけた。

    その顔が、ぱあっと、輝いた。

    結城の頬を、涙が、伝った。仕事では、流したことのない、涙だった。

    改良版

    三か月後。

    徹底的に改良された「リライト・ノート 改」が、再び、店頭に並んだ。

    不具合は、完全に、解消されていた。それどころか、改良の過程で、インクの発色も、書き心地も、以前より、ずっと、良くなっていた。

    一度、つまずいたことで、商品は、むしろ、強くなっていた。

    ロフティのバイヤー・田所は、こう言った。

    「正直、不具合が出たときは、もう駄目かと思った。でも、金鯱文具の、あの誠実な対応と、徹底した改良を見て、見直したよ。むしろ、信頼が、増した」

    ピンチが、信頼に、変わった。

    結城は、徳川に、頭を下げた。

    「徳川さんが、いなかったら、僕は、パニックで、会社を、潰していました」

    徳川は、首を、振った。

    「私は、ただ、待っただけです。そして、しくじりを、宝に、変えただけ。……結城さん。あなたは、もう、気づいとるはずです。失敗を、恐れんでも、ええんだに」

    派遣期間の、最終日。

    徳川は、自分の「しくじり帳」を、結城に、差し出した。

    「これを、あなたに。新しいページは、白紙です。これから、あなたが、たくさん、しくじって、たくさん、学んで、埋めていってください」

    「いいんですか、こんな大事なもの」

    「最後に、勝てば、いいのです」

    徳川は、にっこりと、笑った。

    「派手さは、いりません。長く、続けること。失敗しても、立ち上がること。じっと、待つこと。最後の最後に、生き残った者が、勝つのです。 私は、それで、二百六十年続く、世を、作りました」

    天下を、最後に、手にした男。

    その忍耐の重みを、結城は、白紙の手帳の上に、感じていた。

    第八話 平賀源内 ——本日、ノートの日

    うさんくさい、天才

    家康が去って、次に来た男は——とにかく、うさんくさかった。

    「やあやあ! わしが、平賀源内ぜよ! ……いや、待てよ。“ぜよ”は、土佐の坂本か。わしゃ讃岐じゃけん、“じゃ”でええんじゃ! とにかく、源内じゃ! よろしゅうな!」

    机に、見たこともない、妙な箱を、ドンと、置いた。ハンドルが、ついている。

    「これは、エレキテル! 回すと、電気が、出る! ほら!」

    源内が、ハンドルを、回すと——バチッ。触っていた営業の若手が、「ぎゃっ」と、飛び上がった。

    「あっはっは! 痛いか! 痛いだろう! これぞ、科学じゃ!」

    「……それ、何の役に、立つんですか」

    「分からん!」

    堂々と、言い切った。

    源内は、本草学者であり、発明家であり、画家であり、戯作者であり——とにかく、多才で、そして、やることの、半分は、失敗だった。鉱山開発、毛織物、輸出計画。ぶち上げては、こける。「目論見人、平賀源内、大しくじり」と、記録に、残されたことも、あった。

    だが、結城は、すぐに、気づいた。

    この男の、本当の天才は、発明では、ない。

    人の心を、動かす“言葉”を、作ることだった。

    本日、ノートの日

    そのころ、金鯱文具の悩みは、「認知度」だった。

    良い商品は、できた。高級ラインも、評判だ。だが、全国の人々は、まだ、金鯱文具を、知らない。地方の、小さな老舗。それが、世間の、評価だった。

    「広告を、打つしか、ないか……。でも、大手みたいな、予算は、ない」

    うんうん、唸る結城を見て、源内は、にやりと、笑った。

    「金は、いらん。要るのは、“きっかけ”じゃ」

    源内は、こんな話を、した。

    その昔、夏に、うなぎが、売れずに、困っていた、うなぎ屋が、いた。源内は、たった一枚の、貼り紙を、考えた。

    「本日、土用の丑の日」

    ただ、それだけ。だが、「丑の日に、“う”のつくものを食べると、夏負けしない」という、昔からの言い伝えに、うまく、結びつけた。

    すると、客が、押し寄せた。他のうなぎ屋も、真似をした。そして——二百五十年経った今も、日本人は、夏になると、うなぎを、食べている。

    「たった一行の、言葉が、二百五十年、人を、動かし続けとる。——これが、本当の、発明じゃ」

    源内は、金鯱文具のために、一つの「記念日」を、でっち上げた。

    毎年、九月の、ある日を——「ノートの日」と、名づけた。「新しいノートで、新しい自分を、書き始める日」。語呂と、季節感を、巧みに、絡めた、もっともらしい由来も、つけた。

    そして、SNSで、仕掛けた。

    「#ノートの日 今日から、新しいノートで、なりたい自分を、書き始めよう」

    バズ

    源内の仕掛けは、当たった。

    最初は、小さな、つぶやき。だが、それが、じわじわと、広がった。新学期でも、年明けでもない、九月。「中途半端な時期に、心機一転する」という、その、ちょっと、ひねった感じが、若者の、心に、刺さった。

    「#ノートの日」は、トレンド入りした。

    人々は、こぞって、新しいノートの写真を、投稿した。「なりたい自分」を、書き込んだページを、見せ合った。その、ほとんどに、金鯱ノートが、写っていた。

    金鯱文具の名は、一夜にして、全国に、知れ渡った。

    一枚の貼り紙が、うなぎ屋を、救ったように。一つの「記念日」が、老舗の文具屋を、全国区に、押し上げた。

    「すごい……。一円も、広告費を、かけずに……」

    「言葉は、ただ(タダ)じゃ。じゃが、人を、動かす力は、銭金より、でかいんじゃけんのう」

    もっとも、源内の、すべての企画が、当たったわけでは、ない。

    彼は、調子に乗って、「光るノート」「喋るペン」「空飛ぶ消しゴム」など、次々と、珍発明を、ぶち上げては、ことごとく、こけた。エレキテルも、結局、ただの、見世物で、終わった。

    「いやあ、しくじった! あっはっは!」

    だが、源内は、めげなかった。

    「十、しくじっても、一つ、当たれば、世の中は、変わるじゃ。打席に、立たん奴に、ホームランは、打てん。」

    報われぬ、天才

    派遣期間の、最終日。

    源内は、いつになく、静かだった。

    「結城さん。わしはな、たぶん、世に、認められぬまま、終わる男じゃ」

    「そんな……。あなたは、こんなに、すごいのに」

    「すごい、と、認められるのは、いつも、ずっと、後の世じゃけん。土用の丑の日だって、わしが、生きとるうちは、ただの、うなぎ屋の、貼り紙だった」

    源内は、エレキテルの、ハンドルを、そっと、撫でた。

    「それでも、ええ。わしは、面白いものを、作り続ける。誰かが、いつか、面白がってくれりゃ、それで、ええ。——結城さん。世間の評価なんぞ、二百年、遅れてくる。だから、今、面白いと思うことを、やれ。」

    そう言って、うさんくさい天才は、エレキテルを、小脇に抱え、ふらりと、去っていった。

    残された「ノートの日」は、その後、毎年、金鯱文具の、いちばん大きな、お祭りに、なった。

    第九話 紫式部 ——物語が、人を動かす

    書かない、作家

    九月の終わり。

    その派遣社員は、出社しても、ほとんど、喋らなかった。

    「……紫、と、申します」

    小さな声で、そう名乗ると、部屋の隅の席に、ちょこんと、座り、あとは、ずっと、うつむいて、何かを、観察していた。

    人見知り。引っ込み思案。会議でも、一言も、発しない。

    「あの人、大丈夫かな……」と、若手が、囁いた。

    だが、結城は、ある日、彼女の手帳を、ちらりと、見て、ぞっとした。

    そこには、社内の人間の、観察記録が、びっしりと、書き込まれていた。誰が、誰を、どう思っているか。会議での、表情の機微。言葉の裏の、本音。——恐ろしいほど、的確だった。

    「紫さん……あなた、もしかして」

    「……『源氏物語』を、書きました」

    千年読み継がれる、世界最古の長編小説の、作者だった。

    口は重い。だが、その筆は、人の心の、いちばん奥まで、見透かしていた。

    物語が、ない

    そのころ、金鯱文具は、知名度も、ブランドも、手に入れていた。商品も、売れている。

    だが、紫式部は、静かに、言った。

    「……この会社には、“物語”が、ございませぬ」

    「物語?」

    「人は、商品の、機能では、なく。その背にある、物語に、心を、寄せるのです。なぜ、この会社は、百年も、ノートを、作り続けてきたのか。誰が、どんな思いで、作っているのか。——それが、語られて、おりませぬ」

    紫式部は、会社の、歴史を、掘り起こした。

    百年前、創業者が、子どもたちのために、丈夫で、安いノートを、作りたいと、願ったこと。戦争で、工場が焼けても、職人たちが、手作業で、再建したこと。今も、ベテランの職人が、一冊一冊、紙の手触りを、確かめていること。

    そして——一度、情熱を失いかけた、一人の係長が、偉人たちと出会い、もう一度、立ち上がろうとしていること。引き出しの奥に、しまい込んでいた夢を、もう一度、信じ始めたこと。

    紫式部は、それらを、一つの、物語に、紡いだ。

    「事実を、並べても、人は、泣きませぬ。ですが、そこに、一人の人間の、心の動きを、添えれば——人は、自分のことのように、感じるのです」

    共感という、力

    紫式部が、紡いだ物語は、金鯱文具の、ウェブサイトや、SNSで、少しずつ、語られていった。

    商品の宣伝では、なかった。ただ、人々の、物語だった。

    職人の物語。創業者の物語。そして、結城自身の物語。

    すると、奇妙なことが、起きた。

    読んだ人々が、金鯱文具を、「応援」し始めたのだ。「この会社の、ノートを、使いたい」。「この職人さんの、作ったものが、欲しい」。単なる、客では、ない。ファンが、生まれていった。

    紫式部は、言った。

    「私が、『源氏物語』で、書いたのは、事件では、ありませぬ。人の、心の、移ろいです。喜び、嫉妬、後悔、愛。——千年経っても、人の心は、変わりませぬ。だから、千年、読まれるのです」

    「商品も、同じ?」

    「はい。機能は、すぐ、古びます。ですが、心に、響いた物語は——その人の、一生、残ります。人は、モノでは、なく、物語に、お金を、払うのです。」

    紫式部は、桜井とも、気が、合った。

    二人で、商品に、小さな物語を、添えた。一冊のノートに、「これは、あなたの、最初の一ページを、応援するために、作りました」という、一言を。

    その、ささやかな一言に、客は、心を、動かされた。

    推す、ということ

    紫式部は、一度だけ、ぽつりと、こんなことを、言った。

    「……宮中に、清少納言という、それは、才気煥発な、女房が、おりました。あの方の文は、きらびやかで、明るくて。私には、ない、ものでした」

    「ライバル、だったんですか」

    「……ええ。少し、苦手で、ございました」

    紫式部は、ふっと、笑った。

    「ですが、今、思えば。あの方が、いたから、私は、私の文を、磨けた。光るものを、推す心も、それを、悔しがる心も——どちらも、人を、前に、進ませる。好き、という気持ちこそ、いちばん、人を、動かす力なのです。」

    派遣期間の、終わる日。

    紫式部は、結城に、一冊の、薄い冊子を、手渡した。

    金鯱文具の、百年の物語が、美しい言葉で、綴られていた。

    「これは、あなたと、この会社の、物語です。どうか、これからも、新しいページを、書き継いでください。——物語は、終わらせては、なりませぬ」

    口数の少ない作家は、深々と、頭を下げ、静かに、去っていった。

    あとには、ファンに、愛される会社が、残された。

    第十話 坂本龍馬 ——会社を、洗濯するぜよ

    型破りの男

    秋風が、立ちはじめた、ある日。

    その派遣社員は、出社初日から、遅刻してきた。

    「いやあ、すまんすまん! 道に、迷うてしもうて!」

    ぼさぼさの髪。着崩したシャツ。なのに、なぜか、憎めない。にかっと笑うと、部屋が、明るくなった。

    「坂本ぜよ! よろしゅう、頼みます!」

    坂本は、席に着くなり、結城のチームの資料を、片っ端から、読み始めた。そして、十分後。

    「結城さん。あんたら、まだ、ちまちま、ノートを売りよるがか」

    「ちまちま、って……」

    「だめぜよ、そんなんじゃ。会社ごと、洗濯せにゃ。」

    「洗濯?」

    「古い考えを、ぜんぶ、洗い流すがよ。ノートを、売る会社? 違うぜよ。あんたらが、売っとるのは、“書く、よろこび”ぜよ。だったら、紙にも、デジタルにも、こだわる必要は、ないがじゃ」

    結城は、目を、丸くした。

    これまでの偉人たちは、皆、金鯱文具を「文具会社」として、立て直そうとしてきた。だが、坂本は、その枠ごと、壊そうと、していた。

    大失敗

    坂本が、ぶち上げた新規事業は、途方もないものだった。

    「リライト・ノート」と、スマホの、連携アプリ。手書きのページを、撮るだけで、自動でデジタル化され、クラウドに保存される。紙とデジタルを、地続きに、する。

    「これぜよ! 紙か、デジタルか、なんて、古い喧嘩は、やめにして——両方、手を組ませるがよ!」

    結城は、わくわくした。これは、いける。

    会社の、なけなしの予算を、つぎ込んで、アプリ開発を、外注した。坂本の、勢いに、押されるように。

    そして——大失敗した。

    急ごしらえのアプリは、バグだらけだった。発売直後、「保存したデータが、消える」という、致命的な不具合が、続出。SNSは、炎上した。「金鯱文具、やらかした」。せっかく、家康の代で、取り戻した信用が、また、揺らいだ。

    予算は、溶けた。在庫も、抱えた。専務・黒田が、ここぞとばかりに、攻めてきた。

    「だから言ったんだ! 身の丈に、合わないことを、するからだ! もう、終わりだ。買収を、進めるぞ!」

    プロジェクトルームは、お通夜のように、なった。

    結城は、坂本を、責めかけた。

    「坂本さん……あなたが、急ぐから……」

    だが、坂本は、頭を、かきながら、けろりと、していた。

    「いやあ、しくじったぜよ! はっはっは!」

    「笑い事じゃ、ないですよ!」

    「結城さん」

    坂本は、ふいに、真顔に、なった。

    「しくじったときこそ、でかい飛躍の、チャンスぜよ。」

    薩長同盟

    坂本の、次の一手は、誰も、予想しなかったものだった。

    彼は、結城を連れて、まっすぐ、敵の本陣へ——買収をちらつかせる、東京の大手メーカーへ、乗り込んだのだ。

    「な、なにを、する気ですか!」

    「手を、組むぜよ」

    「敵と、ですか!?」

    「敵? あんなん、ただの、いがみ合うとる、二つの藩ぜよ」

    坂本は、かつて、犬猿の仲だった薩摩と長州を、手を組ませ、薩長同盟を、成し遂げた男だった。誰もが「不可能だ」と笑った、その同盟が、時代を、動かした。

    「金鯱には、百年の、紙とインクの技術がある。あっちには、金と、デジタルの力がある。食い合うんじゃのうて、足りんところを、補い合えば——とんでもなく、強いものが、できるぜよ」

    坂本は、大手の社長に、こう、持ちかけた。

    買収では、ない。対等の、業務提携。金鯱の技術と、大手のデジタル基盤を、合わせ、共同で、新ブランドを立ち上げる。失敗したアプリも、大手の技術力で、作り直す。

    大手にとっても、悪い話では、なかった。彼らも、紙の温もりという、金鯱の“魂”を、喉から手が出るほど、欲しがっていたのだ。

    「敵だと思うとった相手と、手を組む。——世の中を、動かすのは、いつだって、そういう、無茶ぜよ」

    大成功

    提携は、成立した。

    作り直された連携サービスは、今度は、見事に、動いた。金鯱の書き心地と、大手のデジタル技術。両者の“いいとこ取り”は、文具業界に、衝撃を、与えた。

    「老舗とIT大手の、まさかのタッグ」。今度の炎上は、良い意味での、炎上だった。

    大失敗は、大成功の、母だった。

    そして、何より、大きかったのは——金鯱文具が、もう、ただ「買われるのを待つだけの会社」では、なくなったことだった。対等のパートナーとして、堂々と、テーブルに、着けるように、なっていた。

    もっとも、専務・黒田の、頑なな表情だけは、まだ、晴れなかった。「提携と、買収は、別だ」。彼は、最後まで、そう、つぶやいていた。本当の決着は、もう少し、先に、なる。

    坂本の、派遣期間が、終わる日。

    結城は、深々と、頭を、下げた。

    「坂本さん。あなたは、僕らを、一度、どん底に、突き落として……でも、もっと、高いところへ、連れて行って、くれました」

    坂本は、にっと、笑った。

    「わしは、ただ、面白いことが、好きなだけぜよ。会社が、生き残るとか、潰れるとか——そんなことより、みんなで、見たことのない景色を、見にいく。その方が、ずっと、わくわくするろう?」

    そして、窓の外の、空を、見上げた。

    「名を残すとか、手柄とか、わしは、どうでもええがよ。世の中が、ちっとでも、面白うなりゃ、それで、ええ。……さて、わしは、次の海へ、行くとするか」

    型破りの男は、風のように、去っていった。

    あとには、生まれ変わった会社と、一回り大きくなった結城が、残された。

    その働きが、認められ、結城は、課長から、部長へと、抜擢された。新設された「商品開発部」を、率いることに、なったのだ。

    名刺は、また、刷り直された。気づけば、結城の肩書きは、半年前とは、まるで、別人のように、なっていた。それでも、浮かれは、しなかった。肩書きが、上がるほど、背負うものは、増える。そのこともまた、偉人たちが、教えてくれていた。

    第十一話 渋沢栄一 ——論語と、算盤

    お札の、顔

    坂本が去り、金鯱文具は、かつてない、好調の中に、あった。

    新しい派遣社員は、その追い風の中へ、やってきた。

    折り目正しい、口髭の紳士だった。名刺を、差し出す。その名刺の、肩書きの、多いこと。

    「渋沢、と申します。これまで、五百ほど、会社を、立ち上げてまいりました」

    「五百!?」

    「ええ。銀行、鉄道、紡績、保険、ガス、ホテル……数えるのが、面倒なほどに」

    日本に、近代的な会社というものを、根づかせた、「日本資本主義の父」。後の世で、一万円札の、顔にも、なる男だった。

    渋沢は、絶好調の金鯱文具を、ぐるりと、見回して、しかし、浮かない顔を、した。

    「結城さん。儲かって、おられますな」

    「おかげさまで」

    「では、お尋ねします。——その儲けは、何のため、でございますか」

    結城は、言葉に、詰まった。

    論語と、算盤

    渋沢は、二つのものを、机に、置いた。

    古びた、『論語』。そして、算盤(そろばん)。

    「私が、生涯、大切にしたのは、この二つでございます。論語と、算盤。」

    「道徳と……計算、ですか。正反対のもの、では?」

    「いいえ。両立せねば、ならぬのです」

    渋沢は、静かに、説いた。

    「算盤だけの商売は、強欲に、なる。金のためなら、何をしてもよい、と。やがて、信用を失い、潰れます。——逆に、論語だけでは、食えませぬ。立派なお題目を、唱えても、利益が出なければ、会社は、続かない。社員も、養えない」

    「だから、両方……」

    「正しい道徳の上に、立った商売だけが、長く、栄えるのです。 目先の儲けではなく、世のため、人のためになる事業こそが、巡り巡って、いちばん、大きな利益を、生む。私は、それを、信じて、五百の会社を、興しました」

    そのころ、金鯱文具の中には、危うい空気も、芽生えていた。

    儲かるようになって、一部の社員が、浮かれ始めていた。「もっと、利益を」「もっと、安く作って、もっと、儲けよう」。質を、落としてでも、利益を、追おうという声。かつて、家康の代で、痛い目を見たはずの、過ち。

    渋沢は、そこに、釘を、刺した。

    「目先の利に、目が、くらんでは、なりませぬ。会社は、儲けるためだけに、あるのでは、ない。世の中を、良くするために、あるのです。」

    人を、育てる

    渋沢が、力を入れたのは、意外なことだった。

    「人材の、育成」と、「地域への、還元」。

    増えた利益を、ただ、貯め込むのでも、配るのでも、なく。職人を育てる、研修制度に。若手が、挑戦できる、新規事業の予算に。そして、地元の小学校へ、ノートを、寄贈する、活動に。

    「目先だけ見れば、無駄遣いに、見えましょう。ですが、十年後、二十年後に、効いてくる。人を育て、世の信頼を得た会社だけが、百年、続くのです。」

    結城は、はっと、した。

    紫式部が、掘り起こした、金鯱文具の創業者。あの人もまた、「子どもたちのために、良いノートを」という、志から、始めていた。

    百年前の、創業の心と、渋沢の言葉が、まっすぐ、つながった。

    金鯱文具は、ただ、生き残るだけの会社から——「世の中に、書くよろこびを、届ける」という、理念を持った会社へ、変わっていった。

    その理念は、社員の、背筋を、伸ばした。「自分たちは、ただ、ノートを売っているのではない。人の、人生の、最初の一行を、応援しているのだ」。

    仕事に、誇りが、宿った。

    富は、独り占めしない

    渋沢は、生涯、莫大な富を、築きながら、財閥を、作らなかった。富を、独り占めせず、社会のために、使い続けた。約六百もの、社会公共事業に、関わった。

    「結城さん。ひとりの金持ちより、皆が、そこそこ豊かな、社会の方が、ずっと、良い。 自分だけが、勝つ商売は、長続きしませぬ。関わる、すべての人が、少しずつ、幸せになる。それが、本当の、成功でございます」

    派遣期間の、最終日。

    渋沢は、結城に、『論語と算盤』の精神を、改めて、説いた。

    「あなたは、もう、立派な、経営者でございます。これからは、目の前の、勝ち負けだけでなく、百年後の、金鯱文具を、思いながら、舵を、取りなさい。 そして、儲けたら、必ず、それを、人と、世の中に、返すこと。それが、巡り巡って、あなたと、会社を、守ります」

    そして、にこやかに、付け加えた。

    「では、私は、次の会社を、立ち上げに、まいります。……ええと、五百一社目、でしたかな」

    律儀な紳士は、深々と、礼をして、去っていった。

    金鯱文具は、もう、ただ、再生した会社では、なかった。

    百年、続く覚悟を、持った会社に、なっていた。

    第十二話 北条政子 ——いざ、鎌倉

    尼将軍、来たる

    その派遣社員が、入ってきた瞬間、プロジェクトルームの、空気が、凍りついた。

    背筋の、伸びた、女性だった。年齢は、不詳。だが、その、眼光。その、威厳。誰も、軽口を、叩けなかった。

    「北条政子です。よろしく、お頼み申します」

    物腰は、丁寧だった。だが、有無を言わせぬ、迫力が、あった。

    部屋の隅に、平賀源内が、置き忘れていった、エレキテルが、まだ、あった。政子は、それを、一瞥して、ハンドルに、手を、かけた。

    「あっ、それ、触ると、感電——」

    ぐるん、と、政子が、回した。バチッ、と、火花が、散った。

    だが、政子は、眉ひとつ、動かさなかった。

    「……ふむ。なるほど」

    火花の方が、ひるんだように、見えた。男たちは、震え上がった。

    この人は、本物の、“将軍”だ。誰もが、そう、悟った。かつて、夫を亡くしたあと、御家人たちを束ね、「尼将軍」と呼ばれた、女傑である。

    絶頂の、罠

    そのころ、金鯱文具は、かつてない、好調の中に、あった。

    渋沢の置き土産で、経営は、盤石。全国にブランドは轟き、社員の士気も、高かった。

    だが——絶頂こそが、いちばん、危ない。

    ある朝、事件は、起きた。

    ネット上に、根も葉もない、噂が、流された。「リライト・ノートのインクには、有害物質が、含まれている」。

    真っ赤な、嘘だった。だが、火は、燃え広がった。SNSは、炎上。取引先は、動揺。問い合わせの電話が、鳴り止まなくなった。

    絶好調だった分、落差は、大きかった。

    社員たちの、顔から、見る間に、血の気が、引いていった。あれほど高かった士気が、一夜にして、崩れかけた。

    「もう……ダメかも、しれませんね」

    桜井が、力なく、つぶやいた。

    結城も、頭を、抱えた。噂を、否定する、データは、すぐに、出した。だが、一度、ついた火は、消えない。人々の、心が、折れかけていた。

    順調なときは、誰でも、強い。だが、まさかの一撃を、食らったとき。そこで、崩れるか、踏みとどまるか。組織の、真価が、問われる。

    そのとき。

    政子が、すっと、立ち上がった。

    「皆を、集めなさい」

    演説

    全社員が、大会議室に、集められた。重い、沈んだ、空気。誰もが、うつむいていた。

    政子は、その前に、立った。そして、語り始めた。

    「皆、心を、ひとつにして、聞きなさい」

    凛とした、声が、響いた。

    「私は、かつて、似たような、危機を、見たことが、あります。主を失い、味方は、浮き足立ち、強大な敵が、攻め寄せてくる。誰もが、もう、終わりだと、思った。逃げ出す者も、いました」

    政子の、目が、社員一人ひとりを、射抜いた。

    「あのとき、私は、皆に、こう、言いました。——あなたたちが、受けた恩は、山よりも高く、海よりも、深い。今こそ、その恩に、報いるときである、と」

    会議室が、しん、と、なった。

    「思い出しなさい。この会社が、どん底だったとき。誰が、踏みとどまった? 誰が、夜を徹して、新しいノートを、作った? 誰が、潰れかけた互いを、支え合った? ——あなたたち自身では、ありませんか」

    うつむいていた顔が、少しずつ、上がっていった。

    「たかが、心ない噂、ひとつ。それに、屈するために、あなたたちは、あの苦しい日々を、戦ってきたのですか。違うでしょう」

    政子の、声が、熱を、帯びた。

    「敵は、外にいる、噂では、ありません。敵は、もう、ダメだと、諦めかけている、あなたたち自身の、弱い心です。その心にこそ、勝ちなさい。心を、ひとつにすれば、噂などというものは、霧のように、消える。——いざ、立ちなさい。これは、あなたたちの、会社の、戦いです!」

    静寂。

    そして——誰かが、立ち上がった。次に、また一人。やがて、全員が、立ち上がっていた。

    うつむいていた目に、火が、戻っていた。

    桜井が、涙を、ぬぐいながら、叫んだ。

    「やりましょう! まだ、終わってない!」

    会議室が、地鳴りのような、声で、満たされた。

    結城は、鳥肌が、立っていた。データでも、戦略でも、動かなかった、人々の心が——たった一人の、言葉で、燃え上がった。

    反転

    そこからの、金鯱文具は、強かった。

    社員が、一丸となって、噂と、戦った。第三者機関による、安全性の、検査結果を、公表。社長自らが、顔を出し、誠実に、説明した。家康仕込みの、丁寧な、対応だった。

    そして——丸光印刷の老社長をはじめ、これまで金鯱が、義をもって、助けてきた、取引先たちが、次々と、味方に、ついた。「金鯱さんのノートに、限って、そんなこと、あるはずがない」と、声を、上げてくれたのだ。

    謙信の、遺した「義」が、ここでも、生きた。

    噂は、急速に、鎮火した。それどころか、誠実な対応が、かえって、評価され、金鯱文具の信頼は、騒動の前より、むしろ、高まった。

    ピンチは、最大の、チャンスに、変わった。

    政子の、派遣期間が、終わる日。結城は、深々と、頭を、下げた。

    「政子さん。あなたの言葉が、なかったら、僕らは、あそこで、崩れていました」

    政子は、静かに、微笑んだ。初めて、見せる、笑みだった。

    「リーダーの、いちばん大切な仕事は、戦略を立てることでも、命令することでも、ありません。——人々が、心の底で、諦めかけたとき、もう一度、立ち上がる理由を、思い出させること。それだけです」

    そして、結城を、まっすぐ、見て、言った。

    「あなたには、もう、それが、できます。私が、いなくとも。——よい、大将に、なりましたね」

    尼将軍は、凛とした、足取りで、去っていった。

    第十三話 真田幸村 ——一点を、突け

    赤備えの、男

    次の派遣社員は、出社初日、頭のてっぺんから、つま先まで、真っ赤だった。

    真っ赤な、ジャケット。真っ赤な、ネクタイ。鞄にまで、六文銭の、紋が、入っていた。

    「真田幸村、推参! ……いや、本名は信繁だが、まあ、幸村で、構わん!」

    精悍な、目をしていた。だが、どこか、長く、雌伏してきた者の、静けさも、あった。

    「あの、なんで、そんなに、赤いんですか」

    「赤備え、ずら」

    幸村は、にやりと、笑った。

    「赤一色の、軍装でな。これを見ると、敵の兵は、震え上がる。中身が、同じでも、見せ方ひとつで、相手の心を、挫ける。——まあ、ハッタリも、戦の、うちずら」

    幸村は、九度山という、辺鄙な土地で、十四年も、飼い殺しにされていた、男だった。誰からも、忘れられ、終わったと、思われていた。

    だが、最後の、たった一度の、戦いで——天下の、家康を、あと一歩まで、追い詰め、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と、敵にすら、謳われた。

    雌伏の、果ての、一閃。それが、幸村という、男だった。

    巨人との、戦

    そのころ、金鯱文具は、新たな、大勝負に、挑もうとしていた。

    文具業界には、長年、揺るがぬ、王者がいた。「帝国ステーショナリー」。業界首位の、超巨大メーカー。資金力も、販路も、金鯱とは、桁が、違った。

    その帝国が、満を持して、リライト・ノートの、対抗商品を、ぶつけてきたのだ。物量に、ものを言わせ、全国の、あらゆる売り場で、安売り攻勢を、かけてきた。

    金鯱の、営業会議は、暗かった。

    「まともに、ぶつかったら、勝てません。向こうは、うちの、十倍の、広告費を、積んでくる……」

    全方位で、張り合おうとすれば、体力で、押し潰される。それは、目に、見えていた。

    すると、幸村が、地図を——いや、全国の、販売データを、広げて、言った。

    「総大将。弱い者が、強い者に勝つには、ただ一つ、道がある。」

    「な、なんですか」

    「一点に、すべてを、集中することだ。」

    真田丸

    幸村の、戦略は、明快だった。

    「広い戦場で、大軍と、ぶつかれば、寡兵は、すり潰される。だから、わしは、大坂で、城の、いちばんの弱点に、小さな出城を、ひとつだけ、築いた。真田丸、という。敵の大軍を、その一点に、おびき寄せ、狭い場所で、徹底的に、叩いた。十倍の敵を、完封したのだ」

    幸村は、金鯱の、データの、一点を、指さした。

    「見ろ。帝国は、確かに、強い。だが、こと“クリエイター”——絵を描く者、手帳に凝る者、文具を、心から愛する者。この、濃い客層に関しては、奴らは、手薄だ。安売りでは、この層の、心は、つかめん」

    幸村は、リライト・ノートの、全方位の安売り対抗を、やめさせた。

    代わりに、その、熱心なクリエイター層、ただ一点に、金鯱の、全戦力を、注ぎ込んだ。最高級の、特別版ノート。クリエイターと組んだ、限定商品。彼らだけのための、イベント。

    巨人が、見向きもしない、狭い「出城」に、金鯱は、すべてを、賭けた。

    その一点で——金鯱は、圧勝した。

    クリエイターたちは、熱狂した。「分かってるのは、金鯱だ」。彼らの、熱い口コミが、SNSで、燃え広がり、やがて、一般の客にまで、波及していった。

    狭い一点での、完全な勝利が、戦場全体の、流れを、変えた。

    本陣を、衝け

    だが、幸村は、それで、満足しなかった。

    「総大将。守りの城で、勝つだけでは、足りん。敵の、いちばん、大事なところ——本陣を、衝くのだ」

    「本陣?」

    「敵が、いちばん、誇りにしている、看板商品。そこに、真正面から、斬り込む」

    それは、無謀にも、思えた。帝国の、長年の、看板である、高級ノートの、市場。そこに、金鯱が、挑む。

    幸村は、ためらわなかった。

    「兵力を、出し惜しみするな。勝負どころでは、すべてを、賭ける。中途半端な突撃は、ただ、死ぬだけだに」

    金鯱は、社運を賭けた、最高級の、新ブランドを、帝国の、牙城へ、ぶつけた。源内のコピー、紫式部の物語、利休の美——これまで、偉人たちが、遺してきた、すべてが、その一本に、結晶していた。

    業界は、騒然と、なった。

    地方の、潰れかけだった、小さな文具メーカーが、業界の王者の、本丸に、斬り込んだのだ。難攻不落と謳われた、帝国の牙城が——大きく、揺らいだ。

    金鯱文具は、ついに、業界の、頂点を、争う一角に、躍り出た。

    かつて、買われるのを、待つだけだった会社が。

    日本一の、兵

    幸村の、派遣期間が、終わる日。

    結城は、聞かずに、いられなかった。

    「幸村さん。あなたは……大坂の陣で、最後は、敗れたんですよね。家康を、あと一歩まで、追い詰めて、それでも」

    「ああ。負けた。討ち取られて、死んだ」

    幸村は、あっさりと、言った。そして、遠くを、見るような、目を、した。

    「九度山で、十四年。誰にも、忘れられて、終わったと、思われていた。だが、わしは、最後の、たった一度の戦で、すべてを、出し切った。勝てはせなんだ。だが——敵すら、わしを、『日本一の兵』と、呼んだ」

    幸村は、結城の、肩を、叩いた。

    「いいか、総大将。人生も、商売も、大事なのは、長さでは、ない。一度でも、すべてを、賭けて、おのれの、いちばん輝く一点を、突き切れるか、だ。それができた者は、たとえ、最後に、敗れても——後の世まで、語り継がれる」

    そして、にっと、笑った。

    「お前さんは、もう、雌伏の時を、抜けた。存分に、暴れろ。赤備えで、な」

    赤い背中が、軽やかに、去っていった。

    その日から、結城の、デスクには、小さな、六文銭の、旗が、飾られている。

    第十四話 西郷隆盛 ——人は、石垣、人は、城

    でかい男

    その年も、秋が、深まったころ。

    最後の派遣社員が、やってきた。

    ドアを、くぐるのも、ひと苦労なほど、大きな男だった。岩のような体躯。太い眉。そして、どこまでも、澄んだ、大きな目。

    「西郷でごわす。よろしゅう、たのんもす」

    訛りの強い、ゆったりとした声。だが、その一言で、室内の全員が、なぜか、背筋を、伸ばした。

    不思議な、人だった。

    何かを、命令するわけではない。怒鳴るわけでも、おだてるわけでもない。ただ、そこに、いる。それだけで、人が、ついていきたくなる。そういう、男だった。

    このころ、結城のプロジェクトは、軌道に乗りつつあった。「リライト・ノート 改」は、ヒットし、会社の売上は、回復し始めていた。

    だが、新しい問題が、持ち上がっていた。

    分裂

    会社の中が、割れていたのだ。

    買収を、推し進めようとする、専務の一派。彼らは、こう主張した。「多少売上が戻っても、焼け石に水だ。今のうちに、東京の会社に、高く売るべきだ」

    一方、自力での再生を、信じる、社長と、結城たち若手。

    社内は、二つに、割れた。会議のたびに、激しく、対立した。せっかく、厩戸が「和」でまとめたチームが、再び、引き裂かれそうに、なっていた。

    結城は、苦しんだ。

    正論を、ぶつけても、専務一派は、動かない。数字を、見せても、響かない。

    「どうすれば、いいんでしょう、西郷さん」

    西郷は、しばらく、黙っていた。そして、ぽつりと、言った。

    「結城どん。おはん、人を、理屈で、動かそうと、しちょりもすな」

    「……はい。だって、こっちが、正しいんですから」

    「正しさだけでは、人は、動かん」

    西郷は、大きな手で、自分の胸を、叩いた。

    「人は、ここで、動くとです。理屈で、納得させても、心が、ついてこねば、人は、動かん。 おはんは、専務どんの、心を、つかもうと、したことが、あるか?」

    敬天愛人

    西郷は、結城に、こう尋ねた。

    「専務どんは、なぜ、会社を、売りたがる?」

    「それは……自分たちの、保身のためですよ。会社が潰れたら、責任を取らされる。だから、その前に、売り逃げたいんだ」

    「ほんとに、それだけか?」

    西郷は、静かに、首を振った。

    「結城どん。おはんは、専務どんを、“敵”と、決めつけちょる。じゃっどん、敵だと思うた相手にも、その人なりの、正義が、あるとです」

    西郷は、自ら、専務のもとへ、足を運んだ。

    そして、対立するのではなく、ただ、話を、聞いた。

    すると、専務にも、専務の、思いがあった。

    専務は、長年、この会社で、働いてきた。社員の生活を、誰よりも、案じていた。会社が、このまま、ずるずると、潰れて、社員が、路頭に迷うくらいなら、まだ体力のあるうちに、大手に身を委ねて、雇用を、守るべきだ——そう、本気で、信じていたのだ。

    保身では、なかった。専務もまた、社員を、守ろうとしていた。

    ただ、その、守り方が、違っただけだった。

    「分かったか、結城どん」

    西郷は、言った。

    「専務どんも、おはんと、同じ、社員を、思うちょる。向いちょる方向は、同じ。ただ、道が、違うだけ。それを、分からんで、ただ、敵と、決めつけても、話は、まとまらん」

    そして、西郷は、こう続けた。

    「敬天愛人。 天を敬い、人を、愛する。わしが、生涯、大事にした、言葉でごわす。人を、動かしたければ、まず、その人を、愛することでごわす。立場が、違うても、憎まず、敬う。そこからしか、本当の、結束は、生まれもはん」

    人は、石垣

    西郷の助言で、結城は、専務に、向き合い方を、変えた。

    専務を、論破するのでは、なく。専務の「社員を守りたい」という思いを、まず、認めた。その上で、こう、提案した。

    「専務。僕たちの、目指すところは、同じです。社員を、守りたい。会社を、残したい。だったら、売るのも、自力で再生するのも、手段の、違いでしか、ありません。一度だけ、僕たちに、賭けて、もらえませんか。半年。半年で、結果が出なければ、そのときは、専務の言う通りに、します」

    専務は、長い間、黙っていた。

    そして、ぽつりと、言った。

    「……お前さんたちが、そこまで、本気だとは、思わなかった。分かった。半年だ。社員のために、命がけで、やってみろ」

    会社が、一つに、なった瞬間だった。

    西郷は、その様子を、後ろで、にこにこと、見ていた。

    「人は、石垣、人は、城でごわす」

    「どういう意味ですか」

    「立派な城を、築いても、人の心が、バラバラなら、すぐに、崩れる。逆に、人の心が、一つになれば、石垣がなくても、城がなくても、どんな敵にも、負けはせん。組織で、いちばん、大事なのは、建物でも、金でも、ない。人の、心でごわす。」

    西郷は、立ち上がり、大きな手で、結城の肩を、包んだ。

    「結城どん。おはんは、もう、立派な、大将でごわす。理屈で、人を、動かす男から、心で、人を、動かす男に、なった。あとは、もう、わしの、出る幕は、なか」

    車座

    専務が、半年の猶予を、認めてくれた。だが、社内には、まだ、わだかまりが、残っていた。

    長く、対立してきたのだ。「売るべきだ」と言った者と、「残すべきだ」と言った者。簡単には、元には、戻れない。

    西郷は、ある夜、社員全員を、集めた。会議室では、なかった。工場の、休憩室の、床に、車座に、なって、座らせた。

    「肩書きは、いらん。今日は、ただの、人として、語り合いもんそ」

    最初は、皆、ぎこちなかった。だが、西郷が、まず、自分の話を、した。

    故郷を、出たときのこと。仲間と、大きな夢を、見たこと。そして、その夢の途中で、つまずいたこと。岩のような大男が、訥々と、語る、その姿に、一人、また一人と、心を、開いていった。

    専務も、語った。三十年、この会社に、捧げてきたこと。社員の顔が、一人ひとり、浮かぶこと。だからこそ、潰したくなくて、売る道を、選ぼうとしたこと。

    結城も、語った。引き出しの奥の、飛び出すノートの試作品のこと。一度、情熱を、失いかけたこと。

    桜井も、ベテランの製造部員も、それぞれの、思いを、語った。

    立場を、超えて、ただ、人として、語り合ううちに。

    いつの間にか、「売る派」も「残す派」も、なくなっていた。

    そこにいたのは、ただ、この会社を、好きな人間たちの、集まりだった。

    「これでよか」

    西郷は、満足そうに、うなずいた。

    「敵だと思うた相手も、車座になって、語り合えば、ただの、同じ夢を見る、仲間でごわす。組織を一つにするのは、命令でも、理屈でもなか。こうして、膝を、突き合わせることでごわす」

    大将の、家

    ある日曜日。西郷は、ひょっこり、結城の家を、訪ねてきた。

    「結城どんの、城を、見に来もした」

    巨大な体が、玄関を、ふさいだ。ひなたは、初めは、おびえて、隠れた。だが、西郷が、どっかり座って、にこにこ笑っていると、やがて、おそるおそる、近づいてきた。

    「おじさん、おっきいね。お相撲さん?」

    「西郷でごわす。よろしゅう、たのんもす」

    ひなたは、きゃっきゃと、笑った。西郷の、大きな手に乗って、肩車をしてもらい、家じゅうを、はしゃぎ回った。

    その様子を、美咲が、台所から、不思議そうに、見ていた。家の中に、こんな笑い声が、響くのは、いつ以来だろう。

    帰り際、西郷は、結城に、ぽつりと、言った。

    「結城どん。会社を、一つにまとめたおはんが、なぜ、いちばん小さな“組織”を、後回しに、しちょったとか」

    「いちばん、小さな組織……?」

    「家族でごわす」

    西郷は、玄関で、靴を、履きながら、言った。

    「西南の戦で、わしは、多くのものを、失いもした。だからこそ、分かる。人が、最後に、帰る場所は、手柄でも、会社でも、なか。共にいてくれる、家族でごわす。 そこを、守れん大将に、ほんとうの意味で、人を率いることは、できもはん」

    そして、にっこり、笑った。

    「もっとも、おはんは、もう、気づいちょるごたる。よか顔に、なりもした」

    西郷が帰ったあと、美咲が、結城に、言った。

    「……ねえ。あなた、最近、ちょっと、変わったね。前の、あなたに、戻ってきたみたい」

    結城は、照れて、頭を、かいた。少しだけ、二人の距離が、近づいた、気がした。

    城山

    西郷の、派遣期間が、終わる日。

    結城は、どうしても、聞きたいことが、あった。

    「西郷さん。あなたは、最後、新政府と、戦って……」

    西郷は、穏やかに、笑って、結城を、制した。

    「結城どん。わしの、最期は、しくじりじゃった。徳川どんの、しくじり帳に、載せても、よかくらいの、な」

    「そんな……」

    「じゃっどん」

    西郷は、窓の外の、空を、見上げた。

    「わしは、最後まで、わしを、慕って、ついてきてくれた者たちと、共に、あった。それだけで、わしの、人生は、報われたとです。金でも、地位でもない。最後に、残るのは、共に、戦ってくれる、仲間でごわす。」

    西郷が、去ったあと。

    プロジェクトルームには、もう、誰も、欠けていなかった。

    バラバラだったチームは、一つに、なっていた。敵だった専務も、今は、力強い、味方だった。

    そして、その真ん中に、結城が、立っていた。

    終章 仕事とは、なんだったのか

    半年後。

    金鯱文具は、買収を、免れた。

    「リライト・ノート」シリーズは、全国で、ヒットし、会社の経営は、黒字に、転じた。古い文具メーカーは、紙とデジタルの“間”を行く、新しい会社として、生まれ変わっていた。

    半年後の、役員会。

    買収の、最終判断が、下される日だった。

    結城は、プロジェクトの成果を、報告した。「リライト・ノート」シリーズの、売上。回復した、利益。生まれ変わった、ブランド。そして何より——一つに、なった、社員たち。

    専務の黒田が、口を、開いた。

    「数字は、認めよう。だが、一過性かもしれん。来年も、この勢いが、続く保証が、どこにある」

    かつての結城なら、ここで、言葉に、詰まっていた。だが、今は、違った。

    「保証は、ありません」

    結城は、まっすぐ、黒田を、見た。

    「ですが、黒田専務。あなたが、いちばん、守りたかったものは、数字ですか。違いますよね。社員の、暮らしだ。社員の、居場所だ。——その社員たちが、今、初めて、自分の会社を、好きだと、言っています。辞めたい、と言っていた若手が、残りたい、と言っています。それは、数字には、出ません。でも、いちばん、大事な“成果”じゃ、ないですか」

    会議室が、静まり返った。

    黒田は、長い間、黙っていた。

    そして、ふっと、肩の力を、抜いた。

    「……結城くん。私はね、この会社が、嫌いで、売ろうとしたんじゃ、ないんだ」

    初めて、黒田の、本心が、こぼれた。

    「好きだったから、こそ、だ。中途半端に、潰れて、社員が、路頭に迷う姿を、見たくなかった。だから、まだ価値のあるうちに、守ってやりたかった。——だが、お前さんたちは、私が、守ろうとした以上のものを、自分たちの手で、守ってみせた」

    黒田は、立ち上がり、深く、頭を下げた。

    「私の、負けだ。この会社の未来を、若い、お前さんたちに、託す」

    買収の話は、白紙に、戻された。

    向いていた方向は、同じだった。ただ、道が、違っただけ。——西郷の、言葉が、結城の胸に、よみがえった。最後の壁だと思っていた男もまた、同じ船に乗る、仲間だったのだ。

    社長の金田が、結城の肩を、叩いた。

    「結城くん。きみが、一人で、ここまで、やり遂げるとは、思わなかったよ。見事だった」

    「いえ、僕は……」

    結城は、言いかけて、口を、つぐんだ。

    僕は、一人では、ありませんでした。

    そう言いたかった。だが、あの、偉人たちのことを、説明できる気は、しなかった。

    派遣会社「クロノス・スタッフ」に、礼の電話をかけると、あの、時田が、出た。

    「お役に、立てたようで、何よりです」

    「あの、時田さん。あの人たちは、いったい……」

    「さあ。当社は、ただ、その時、その会社に、いちばん必要な人材を、お送りしているだけです。時代を、超えて」

    時田は、そう言って、静かに、電話を、切った。

    結城は、自分のデスクを、見回した。

    厩戸が貼った「和を以て貴しとなす」の紙。織田が遺した、攻めの企画書。武田が描いた、市場の地図。豊臣の、こまやかな気配りの跡。利休が点てた、茶の香りの記憶。徳川がくれた、白紙の「しくじり帳」。源内のエレキテル。紫式部が綴った、百年の物語。渋沢が置いていった、論語と算盤。そして、西郷の、大きな手の、温もり。

    それから、金鯱文具は

    それから、金鯱文具は、坂を、駆け上がった。

    普及品の「リライト・ノート」は、全国の店頭で、定番に、なった。高級ラインの「金鯱 真」は、本物を求める人々の、憧れに、なった。「ノートの日」は、毎年、秋の風物詩として、SNSを、賑わせた。商品の一冊一冊に添えられた、小さな物語に、人々は、心を、寄せた。

    そして、ある年。

    「リライト・ノート」は、業界で最も権威ある、その年の文具大賞を、受賞した。授賞式の壇上で、開発を率いた桜井ひかりが、少し、泣いていた。客席のいちばん後ろで、結城は、自分のことのように、誇らしく、それを、見ていた。

    大手との提携は、対等のまま、花開いた。紙とデジタルを地続きにした金鯱の発想は、やがて、海を越え、海外の見本市でも、注目を、集めた。百年、名古屋の片隅で、ノートを作ってきた小さな会社の名が、世界の文具ファンに、知られ始めていた。

    かつて、たった一人だった「室」は、今や、何十人もの、誇りを持った社員が、働く、場所に、なっていた。

    そして、結城自身も、昇り続けた。商品開発部長から、取締役へ。取締役から、専務へ。プロジェクトが、一つ、成功するたびに、その肩書きは、上へ、上へと、書き換えられていった。名刺を、刷り直す印刷を、丸光印刷が、毎度、嬉しそうに、引き受けた。

    そして、ある春のこと。

    創業家の血を引く社長・金田が、会長へ退くにあたり、次の社長として、結城の名を、推した。役員会は、満場一致。かつて、誰よりも激しく買収を唱えた黒田が、誰よりも早く、賛成の手を、挙げた。

    こうして——結城拓郎は、金鯱文具の、社長に、就任した。

    かつて、潰れかけの会社で、たった一人、崖っぷちに、立たされた、冴えない係長が。

    社長室の、大きな机で、結城は、新しい名刺を、そっと、見つめた。「金鯱文具株式会社 代表取締役社長 結城拓郎」。

    三年前、あの日、たった一枚の名刺の、『係長』の二文字を、力なく、見つめていた、あの頃の自分に——いつか、見せてやりたい、と、思った。お前の仕事は、ちゃんと、ここまで、来たぞ、と。

    専務の黒田は、すっかり、結城たちの、いちばんの理解者に、なっていた。「私は、この会社を、売ろうとした男だ。だからこそ、二度と、潰させはせん」。その言葉に、嘘は、なかった。

    丸光印刷は、金鯱との仕事で、息を吹き返し、若い職人を、何人も、雇えるように、なった。老社長は、会うたびに、目を、潤ませた。

    良いものを、良いと言える会社。挑戦を、潰さない会社。失敗を、許す会社。義を、守る会社。物語を、語る会社。儲けを、人と世に、返す会社。

    偉人たちが、一人ずつ、置いていった、その教えが——いつの間にか、金鯱文具という、一つの、大きな「人格」に、なっていた。

    謎の派遣会社「クロノス・スタッフ」からは、もう、誰も、来なくなった。

    きっと、もう、必要が、なくなったのだろう。会社は、自分たちの足で、立てるように、なっていた。それでも結城は、時々、思う。あの時田という男は、いったい、何者だったのか。そして、あの十四人は——本当に、ただの、派遣社員だったのだろうか、と。

    答えは、出ない。だが、彼らが遺したものは、たしかに、ここに、ある。それだけで、十分だった。

    十四人は、それぞれ、まったく違う人間だった。

    実力主義の、聖徳太子。破壊と創造の、織田信長。情報を制する、武田信玄。義を貫く、上杉謙信。気配りの、豊臣秀吉。引き算の、千利休。忍耐の、徳川家康。言葉で人を動かす、平賀源内。物語を紡ぐ、紫式部。世を洗濯する、坂本龍馬。道徳と利益を結ぶ、渋沢栄一。崩れかけた心を束ねる、北条政子。一点を突き抜ける、真田幸村。人望の、西郷隆盛。

    時代も、性格も、得意なことも、何もかも、違った。

    だが、十四人に、共通することが、一つ、あった。

    彼らは皆、自分に、何ができるかを、知っていた。そして、その力を、惜しみなく、組織のために、使った。誰も、欠けては、いけなかった。土台を作る者。新しい武器を生む者。敵を知り尽くす者。義を守る者。人の心をつかむ者。本物の価値を磨く者。失敗を糧にする者。言葉で人を動かす者。物語で心を結ぶ者。古い枠を壊す者。道徳と利益を両立させる者。諦めかけた心を、奮い立たせる者。一点に、すべてを賭ける者。皆を一つにまとめる者。

    全員が、自分の、役目を、果たしたとき。

    潰れかけた会社は、よみがえった。

    そして、結城は、ずっと、引き出しの奥に、しまい込んでいた、あの試作品を、取り出した。

    三年前の、飛び出す、名古屋城のノート。埃を、かぶっていた。

    結城は、それを、企画会議に、もう一度、出した。

    今度は、潰されなかった。

    「面白いじゃないか」と、社長が、言った。かつて反対した黒田すら、腕を組んで、「……まあ、やってみろ」と、うなずいた。桜井ひかりが、そのアイデアを、見違えるほど、洗練されたデザインに、仕上げてくれた。

    子ども向けの、飛び出すノート。それは、デジタルには、決して真似のできない、紙ならではの、よろこびに、満ちていた。

    発売されると、それは、親子に、静かな人気を呼んだ。

    そして、その、いちばん最初の一冊を。

    結城は、ひなたの、八歳の誕生日に、贈った。

    三年、遅れた、約束だった。

    「これ……パパが、作ったの?」

    ページを開くと、金色の鯱をいただいた、名古屋城が、ぴょこんと、飛び出す。ひなたの目が、まんまるに、なった。

    「すごい! すごいよ、パパ! これ、世界で、いちばん、すごいノートだ!」

    結城が、三年前、言うはずだった言葉を——娘の方が、先に、言ってくれた。

    「ごめんな、ひなた。ずっと、遅くなって」

    「ううん」

    ひなたは、ノートを、ぎゅっと、胸に、抱いた。

    「だって、パパ、ちゃんと、作ってくれたもん」

    隣で、美咲が、そっと、目元を、ぬぐっていた。

    引き出しの奥で、埃を、かぶっていたのは、ノートの試作品だけでは、なかった。結城の、いちばん大切なものも、ずっと、そこに、しまわれていた。

    それが、ようやく、光の、当たる場所に、出てきた。

    義は、巡る

    会社の再生には、もう一つ、思わぬ立役者が、いた。

    丸光印刷である。

    かつて、上杉の「義」に従い、損得抜きで、助けた、あの小さな下請け。実は、大手との提携で生まれた新ブランドの、要となる特殊な印刷加工は、その丸光の、長年の技術が、なければ、形に、ならなかった。

    「金鯱さんは、うちが、いちばん苦しいときに、見捨てずに、仕事を、くれた。だから、今度は、うちが、命がけで、応えさせてもらいます」

    老社長は、そう言って、不眠不休で、難しい加工を、やり遂げてくれた。

    目先の利のために、丸光を、売っていたら。あの技術は、競合の手に、渡り、金鯱は、この一手を、打てなかった。

    義は、巡る。

    上杉が遺した、その言葉の意味を、結城は、半年越しに、噛みしめていた。

    引き出しの奥で、三年間、眠っていた情熱が、ようやく、世に、出た瞬間だった。

    結城は、思った。

    あのノートは、ずっと、悪くなかったのだ。悪かったのは、それを、出せなかった、会社と、自分の心の方だった。

    良いものを、良いと言える組織。挑戦を、潰さない組織。失敗を、許す組織。仲間を、信じる組織。

    偉人たちが遺していったのは、商品でも、売上でも、なかった。

    そういう、組織の、空気そのものだった。

    その秋、桜井ひかりが、最年少で、商品開発チームの、リーダーに、抜擢された。

    社歴では、まだ三年目。かつての金鯱文具なら、考えられない、人事だった。だが、もう、誰も、文句を言わなかった。良い仕事をした者が、引き上げられる。それが、当たり前に、なっていた。

    抜擢を告げられた日、桜井は、結城のところへ来て、深々と、頭を下げた。

    「結城さん。あのとき、私のスケッチブックを、見つけてくれて、ありがとうございました。あれがなかったら、私、とっくに、会社を、辞めていました」

    結城は、首を、振った。

    「見つけたのは、僕じゃない。厩戸さん——いや、ある人が、教えてくれたんだ。人を、肩書きで、見るな、って」

    桜井は、企画会議で、堂々と、自分のアイデアを、プレゼンするように、なっていた。うつむいていた、二年目の若手は、もう、どこにも、いなかった。

    その姿を見て、結城は、気づいた。

    聖徳太子が、自分にしてくれたことを、今度は、自分が、桜井に、している。

    受け取ったものを、次へ、渡していく。仕事とは、そういう、リレーでも、あるのだ。八回を投げた者が、九回へ。土台を作った者が、建物を建てる者へ。——役目は、そうやって、引き継がれていく。

    結城は、白紙の「しくじり帳」を、開いた。最初のページに、こう、書き留めた。

    仕事とは、一人で、するものではない。

    違う力を持つ者が、それぞれの役目を、果たし、一つの大きな仕事を、成し遂げること。

    そして、その真ん中で、皆を信じて、まとめること。それが、リーダーの、仕事である。

    書き終えて、結城は、窓の外を、見た。

    名古屋城の、金の鯱が、夕日に、光っていた。

    四百年前、五百年前、千年前。

    あの人たちが、生きた時代と、同じ、空の下で。

    今日も、誰かが、自分の役目を、果たそうと、している。

    時代は、変わる。道具も、変わる。紙が、デジタルに、なるように。

    だが、変わらないものが、ある。

    人が、力を合わせて、何かを成し遂げる。その、よろこび。

    それだけは、千年経っても、色褪せない。

    仕事とは、きっと、そういうものなのだ。

    結城は、ペンを置き、立ち上がった。

    デスクの上には、あの人たちが遺していった、小さな痕跡が、並んでいた。和を説いた紙。攻めの企画書。市場の地図。一輪挿しと、白紙の手帳。隅に置かれた、エレキテル。論語と、算盤。机に立てた、六文銭の、小さな旗。そして、目には見えないが、たしかに残された、大きな手の温もり。

    彼らは、もう、いない。どこから来て、どこへ行ったのかも、わからない。

    だが、彼らが教えてくれたことは、結城の中に、そして、この会社の中に、たしかに、息づいていた。

    窓の外で、金の鯱が、最後の夕日を、受けて、ひときわ、強く、光った。

    さあ、明日も、仕事だ。

    きっと、悪くない、一日になる。

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