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明日を生きるということー精神科医 楠田博道の記録



    ☆病気になった医師
     医者の不養生。とはいえ、医者だって医者である前に生身の人間だ。

     都内にある桃ケ丘総合病院にて勤める楠田博道は、内科医でありながら統合失調症という精神疾患を患った。医師としてのキャリアを二十年積んできた。白衣のポケットには聴診器とペン、そして患者の不安を和らげるための穏やかな言葉がいつも入っていた。病名を告げるときも、検査結果が芳しくないときも、声の調子ひとつで人の呼吸が深くなることを博道はよく知っていた。 
     博道が崩れたのは、何か劇的な出来事があったからではない。むしろ逆だった。何も起きなかった。大きな医療事故もなかった。患者の急変もなかった。訴訟にもならなかった。

     ただ、ある出来事がじわりと彼の内側を削った。


     三年前のことだった。

     外来で来ていた五十代の女性患者。慢性的な腹痛を訴えていた。検査では明らかな異常はない。

    「機能性でしょう」

     博道は丁寧に説明したつもりだった。

     だが数週間後、その女性は別の病院で早期の膵癌が見つかった。発見は早期だった。予後も比較的良いとされた。医学的には、見逃しと断定されるケースではない。

     それでも家族は言った。

    「最初にもっと詳しく調べてくれていれば」

     病院には苦情が入り、医療安全委員会が開かれた。博道は資料を揃え、説明し、医学的妥当性を示した。

     同僚は言った。

    「だれでもあり得るケースだ」

     院長も言った。

    「問題にはならない」

     だが、博道の中では違った。


    ――自分は見逃した。


     それが、事実のように居座った。

     それ以降、診察は変わった。少しでも可能性があれば検査を追加する。説明は必要以上に長くなる。カルテ記載は過剰なほど詳細に。

     安心するためではない。責められないためだ。それは、医療ではなく、防御だった。


     外来数は増え、書類業務は膨れ上がり、当直は減らない。帰宅は深夜。

     看護師であり妻の未玖が言った。

    「最近、笑ってないよ」

     博道は否定した。

    「そんなことはない」


     だが、自分でも気づいていた。患者の顔を見ている時間より、“間違えない自分”を維持することに神経を使っている時間のほうが長い。

     ある日、診察中に、ふと奇妙な感覚に襲われた。

     目の前の患者が話している。だが、その言葉が遠く感じる。


    ――本当にそれでいいのか。

    ――また見逃すぞ。


     その声は、自分の心の声だった。


     夜、当直室で仮眠をとろうとしたとき、誰かが名前を呼んだ気がした。低く、湿った声だった。

    「……先生」

     目を開けても、部屋には誰もいない。古い蛍光灯の音と、心電図モニターの規則的な電子音だけがある。疲労のせいだ、と博道は自分に言い聞かせた。内科医として、幻聴という言葉が頭をよぎったが、博道はそれを乱暴に追い払った。“医者がそんなものにかかるわけがない”と。


     だが声は、翌日も、その翌日も、彼を追ってきた。

     診察中、患者の訴えの合間に、まるで割り込むように囁きが混じる。

    “間違っている”“お前のせいだ”“医者なんてやめろ”

     博道はカルテから視線を離さず、何事もないふりをした。患者に悟られてはいけない。医師は常に冷静で、正しくなければならない。それが彼の鎧だった。


     幻聴は、突然生まれたわけではない。博道の中で肥大化した“内なる批判”が、境界を越えただけだった。

     彼は弱音を吐かなかった。同僚にも相談しない。未玖にも本音を言わない。


     やがて、抑うつが彼を包み始めた。

     朝、白衣に袖を通すのが辛い。鏡に映る自分の顔が、他人のように見える。患者にかける言葉が、空虚な音として自分の耳に返ってくる。

     “自分は医師として失格なのではないか”――その考えが、頭から離れなくなった。


     皮肉なことに、症状を鑑み、診断名に近づいていったのは博道自身だった。

     統合失調症。この病気の発症は、単一の原因では説明できない。素因があり、ストレスが重なり、限界を超えた。だが核心はそこではない。博道は、自分を人間として扱わなかった。それが最も大きな引き金だった。

     教科書のページが、現実として彼の中に折り重なっていく感覚。知識があるからこそ、恐ろしかった。予後、偏見、キャリアへの影響。医師である前に一人の患者になることへの恐怖。


    医者は時として患者にもなり得る。精神疾患を患った博道はその後をどう生きるのか。


    ☆医師になったわけ
     博道が医者を志した理由は、決して崇高なものではなかった。誰かを救いたい、などという大それた決意を、彼は最初から持っていなかった。

     高校二年の冬、祖父が入院した。糖尿病から腎機能が悪化し、肺炎を併発しての長期入院だった。

     特別に仲が良かったわけではない。無口で、感情をあまり表に出さない人だった。だが、病室で見た祖父は、家で見る姿よりもずっと小さく、弱って見えた。


     内科病棟の一角。白衣を着た医師が、淡々と検査結果を説明していた。

    「数値としては、あまり良くありません。ただ、治療は続けます」

     声は穏やかで、抑揚も少ない。不思議と不安は煽られなかった。祖父は、その医師の話を黙って聞き、最後に一言だけ言った。

    「先生、お願いします」

     その言葉を聞いたとき、博道は奇妙な感覚に襲われた。

     この人は今、自分の命をこの医師に預けたのだ、と。

     病室を出た後、母が小さく言った。

    「お医者さんって、大変な仕事ね」

     博道は聞きながら、心のどこかで思っていた。

     ――でも、あの先生は、逃げなかった。誰かの不安を一身に引き受け、すぐに答えの出ない現実の前に立ち続けていた。ただそこにいる、というだけの存在だったが、それは、英雄のような姿だと博道は思った。

     医者になろうと思ったのは、それからだった。誰かの人生の節目に、黙って立ち会える人間になりたいと思った。そして猛勉強の末、桃ケ丘総合病院に多数の名医を輩出していることで有名な都内の某医学部に入学した。

     臨床実習が始まると、博道は外科にも救急にも惹かれなかった。劇的な手術。瞬時の判断。どれも尊敬はしたが、自分の居場所ではないと感じた。

     内科では、患者はすぐには良くならない。数値は上下し、症状は行きつ戻りつする。博道はその“揺らぎ”に耐えられた。


    「今日はどうですか」

    「昨日より、少し楽ですか」


     その繰り返しが、嫌ではなかった。病気が治る瞬間より、治らない現実と一緒に過ごす時間の方が、彼には重みがあった。

     研修医時代、指導医に言われたことがある。

    「楠田は派手さはないけど、患者が安心する医者だな」

     博道は、その言葉を密かに誇りに思った。

     正しい判断を下すこと、適切な治療を選ぶこと、それと同じくらい、“この人はここにいてくれている”と思われること。それが、彼の医師としての軸だった。


    ☆精神科の門を叩いたとき
     博道が四十五歳になった十二月初旬。寒さが厳しくなってきた折だった。

    診察室の椅子は、内科のそれより少し低かった。博道は無意識に背筋を伸ばし、白衣を着ていないことを一瞬だけ不思議に思った。

     ああ、今日は着ていないんだった。内科医として二十年働いてきた博道にとって、白衣は皮膚の延長だった。それを脱いで精神科の外来に座っている自分を、どこか遠くから眺めている感覚があった。


    「最近、調子はどうだい?」

     そう聞いたのは、精神科医で博道の主治医となった浜岡正雄だ。彼は医学生時代の博道の同期で、一浪したため歳は一つ上だが、研修医時代からここ桃ケ丘総合病院で共に働いている。

     浜岡の声は穏やかだった。博道はその穏やかさを、休職する前の自分が患者に向けていた声と重ねてしまい、わずかに視線を落とした。精神科の診察室は、他の科の診察室に比べ心なしか少しだけ薄暗いような感じがした。


    「……幻聴は、前よりは減っているよ」

     〟減っている〟

     その言葉を選んだ自分に少しだけ安心した。ゼロではない。症状は確実に博道の中にまだある。


     深夜、台所で水を飲もうとすると背後から名前を呼ばれる。妻の未玖も、一〇歳になった息子の春彦もすっかり寝静まっている。振り向いても誰もいない。

     医学的には説明できる。ドーパミン。ストレス。睡眠不足。それでも声は、医学用語ではなく“意味”を伴って迫ってくる。

    “お前は無能だ”“お前は死んだ方が良い”“お前は医者として失格だ”

     そんな声が博道には確かに聞こえるのだ。


     内科医として勤務していて、博道は統合失調症と思われる患者を何人も診てきた。血糖や電解質の相談のついでに、少し様子がおかしいと感じた患者は精神科受診を勧めたこともある。


    「自分がこの側になるとは、思ってもなかったよ」

     ポツリとこぼすと、浜岡は否定も同情もしなかった。ただこう言った。

    「多くの人が、そういう風に言うんだ」

     その一言に、博道は救われた気がした。特別でも、例外でもない。今は、ただの“患者”で良いのだと。

    「楠田、最初に診察に来た日から、今日で一ヶ月になる。休職して、しっかり休めてるか?」

    「ああ。未玖も看護師だから、ある程度の理解はあるし、ゆっくりしていいと言ってくれている。息子の春彦は、まだ俺がなぜここ最近ずっと家にいるのかを理解していないようだけど、忙殺されてあまり家に帰ってこなかった俺が家にいることは嬉しいみたいだ」

    「そうか。睡眠薬の効き目はどうだ? 眠れているか? 今はルネスタを出しているけれど」

    「それがあんまりだよ。入眠はできるんだ。ただ、夜中に何度も起きてしまってな。熟眠感はないよ」

    「わかった。頓服でブロチゾラムを出しておくから、夜中起きてしまったときは使ってみてくれ」

    「助かるよ。ありがとう」

    「向精神薬はレキサルティとエビリファイだったな。幻聴が減っているなら、このままもう少し様子をみよう。また幻聴が激しくなってきたり、眠れない日々が続いたら、教えてくれ。薬剤調整をする」

    「ああ。わかった」

    「じゃあまた一週間後の水曜日。午後イチで予約をとっておくよ」

    「ありがとう」

     診察が終わり、待合室に出る。そこには学生、主婦、作業着の男、つまりかつての自分なら“診る側”だと思っていた人たちがいた。


     博道は小さく息を吐いた。白衣を脱いでも、医師であるという自覚と記憶は消えない。だが今はそれを武器ではなく、重さとして抱えている。


     夜にやってくる苦しみはこんなものだ。体は眠っているのに、意識だけが覚醒するのだ。胸の上に重い石を置かれたようで、指一本動かせない。暗闇の中で誰かが立っている気配がするときもあれば、寝室のドアを勢いよく開けて包丁を持った男に刺し殺されそうになったこともある。“助けてくれ”と叫びたくても、喉は凍りついたままだ。金縛り、つまり睡眠麻痺だと理屈ではわかっている。それでも、医学生時代に学んだ説明は、恐怖を薄めてはくれなかった。


    浜岡が出してくれた頓服のおかげで、夜中に起きてもそれを飲むと朝まで眠ることができるようになった。

    だが、博道を苦しめたのは激しい幻聴と引き換えのようにやってきた抑うつ気分だった。とにかく何もやる気が出ない。朝目が覚めて、起き上がろうとしても身体がまるで鉛にでもなったかのように重い。這うようにベッドから出ても、未玖が出勤前に作ってくれた朝食を目の前にすると吐き気がした。

    「パパ、なんか顔色が悪いよ。大丈夫?」

     春彦にまで体調不良を悟られていることが悲しかった。

    「寒くて唇が青くなっているんだ。大丈夫だよ」

     季節は一月になっていた。寒いから、と言い訳ができるほどの寒気が本当に到来していた。

     春彦を学校へ送り出し、同じ病院で働く未玖にも行ってらっしゃいと言う。少し前までは逆だった。定時よりもはるかに早く出勤していた博道に、未玖が毎朝行ってらっしゃいと言ってくれた。

     うつ症状には散歩や適度な運動が効果的だと言われる。しかし、本当に憂鬱なときは外に出るのも、その支度をするのも億劫だ。博道は妻と息子が帰宅するまで、食事も摂らず、ひたすら横になって天井のシミの数を数えていた。

     何かを考えているようで、実は同じ考えが堂々巡りしている。“早く仕事に戻らなきゃ”“でもできない”“なんでできないんだろう”具体的な悩みというより、正体のはっきりしない重さが、大幅に痩せた博道の身体にのしかかった。

     テレビを観ようと思っても、その音はただの雑音だった。画面に映る俳優やお笑いタレントが楽しそうに笑っている。ああ、この人たちも、こんなに能天気に見えるがタレントという仕事を一生懸命こなしている最中なのだ、と思うと急に冷め、自分は何をやっているのだろうと空虚で惨めな感覚に襲われた。


     一週間に一回の浜岡の診察も服薬も続けていたが、治療はすぐに魔法のような解決をもたらしたわけではない。幻聴は波のように引いたり戻ったりし、抑うつも簡単には消えなかった。それでも、博道は少しずつ学んでいった。症状と距離をとること。自分を責めすぎないこと。医師であっても、壊れるときは壊れるのだという事実を受け入れること。


    ☆患者の側
     冬が終わり、気づけば三月になっていた。窓の外では、桃ケ丘総合病院の中庭に植えられた桜の枝が、まだ固い蕾をつけている。

     

     博道は相変わらず休職中だが、浜岡の度重なる薬剤調整のおかげで幻聴は明らかに弱まっていた。声が完全に消えたわけではない。ただ、以前のように命令形や自分を否定するような言葉ではなく、遠くの雑音のように感じられる日が増えていた。


    「今日はどうだ?」

     診察室で浜岡がいつものように尋ねる。

    「昨日は、声が聞こえなかった」

     博道はそう答えてから、少し間をおいた。

    「正確に言うと、『聞こえたけど気にならなかった』かな」

     浜岡は小さく頷いた。

    「それは大きな進歩だ」

     休職前の医師としての博道なら、“主観的改善”という言葉を思い浮かべただろう。数値でも画像でも示せないが、確かに患者の内側では何かが変わっている、あの感じだ。

    「最近、何か考えていることはあるか?」

     浜岡はカルテを書きながら、さりげなく聞いた。

    「……医者に、戻れるのか、って」

     浜岡の手が止まる。

    「内科医に、か?」

    「いや……それも含めて、医者そのものに、かな」

     自分でも意外な言い方だった。だが、嘘ではない。白衣を着て患者を診る自分を思い浮かべると、胸の奥がざわつく。再発したらどうする。誰かを誤診したら。自分はもう“守る側”に立って良い人間なのだろうか。

    「楠田」

     浜岡は、今度は正面から博道を見た。

    「君はもう知っているんだ。患者の側を」

     その言葉は、責めでも慰めでもなかった。ただの事実だった。

    「それを不幸だと思うか、糧だと思うかは、これから決めれば良い」


     帰宅すると、未玖が台所で夕飯の支度をしていた。

    「おかえり。今日はどうだった?」

    「悪くはない」

     それが最近の博道の口癖になっていた。「いい」と言うにはまだ怖いが、「悪い」ばかりでもない。

     春彦はリビングで宿題をしている。

    「パパ、今日ね、理科で心臓の勉強をした!」

    「ほう」

     博道は少しだけ笑った。

    「どんなことを習ったんだ?」

    「心臓はね、一生休まないんだって」

     その言葉に、博道は妙に胸を打たれた。一生休まない臓器。でも、人間は休まないと壊れる。

    「……すごいな」

     そう言うと、春彦は誇らしげに頷いた。


     その夜、博道は久しぶりに夢を見なかった。目覚めたとき、外はもう明るく、胸の重さも少しだけ軽かった。


    ☆再生
     四月。浜岡の診察で、一つの提案が出た。

    「リワーク、やってみないか」

     復職支援プログラム。いきなり現場に戻るのではなく、時短勤務や作業療法を経て少しずつ生活リズムと役割を取り戻すというものだ。

    「ただし」

     浜岡は続けた。

    「内科に戻る、と言う前提でなくても良い」

     博道はその言葉を、何度も頭の中で反芻した。


    ――内科でなくても良い。


     それは逃げなのか、それとも選択なのか。

     

     リワークの一環で、博道は精神科デイケアの見学をすることになった。

     患者たちはそれぞれの精神疾患を抱えている。博道と同じ統合失調症の人もいれば、うつ病、双極性障害、摂食障害、強迫性障害、境界性パーソナリティ障害、自閉スペクトラム症……。患者たちは自分のペースで塗り絵をしたり、簡単な運動をしたりしている。誰も急かさない。誰も正解を押し付けない。

     計算問題に取り組んでいた一人の中年男性が、不安そうに聞いた。

    「先生、これで合ってますかね?」

     その声に、博道は身体が強張るのを感じた。だが同時に、かつての自分が患者に向けていた声のトーンを、自然と思い出していた。

    「……合ってると思いますよ」

     気づけば、そう答えていた。男性はホッとしたように笑った。

     その瞬間、博道の胸の中で、何かが静かに解けた。


     後日、浜岡にその話をすると、彼は少し驚いた顔をしてから、言った。

    「向いてるかもしれないな」

    「精神科医、か?」

     博道は半分冗談のつもりで言った。

    「冗談じゃないさ」

     浜岡は真面目だった。

    「患者だった医者ほど、患者を知っている存在はいない」


     迷いはあった。内科医として積み上げた二十年、周囲の目、年齢、再スタートの不安。

     精神科医になる、という選択肢はむしろ、できるだけ見ないようにしていた。

     内科医として復職できないか。外来だけ、短時間だけ、検査説明だけでもいいのではないか。博道は、何度もその可能性を考えた。

     だが、内科の診察室を思い浮かべるたび、胸の奥がざわついた。患者の前で、白衣を着て、落ち着いた声で説明をする自分。その光景は、以前なら何の違和感もなかったはずなのに、今はまるで他人の人生のようだった。

    ――再発したらどうする。

    ――診察中に幻聴が強くなったら。

    ――“医者として正しくあれ”という声が、また自分を追い詰めたら。


     博道は気づいていた。自分はもう、以前のように“完璧な医師”を演じることができない。そして、それを無理に続ければ、再び壊れるだろうということも。


     ある日、浜岡の診察後、博道は病院の屋上に上がった。五月の風は冷たくも暖かくもなかった。

     医学生時代、国家試験前に赤本を前に誓ったことを思い出す。“医者になる”と信じて疑わなかった自分。

     あの頃の自分が、今の自分を見たらどう思うだろう。失格だと思うだろうか。それとも、よく生き延びたと思うだろうか。答えは、すぐには出なかった。


     転機は、リワークプログラムでの出来事だった。精神科デイケアで、博道は“医師”でなはく“見学者”として参加していた。

     作業療法の時間。一人の若い男性が、手を止めて呟いた。

    「……頭の中が、うるさくて」

     その一言に、博道の身体が反応した。心拍が少し早くなり、指先が冷える。

     それでも、彼は逃げなかった。逃げられなかった、と言ったほうが正しい。

    「どんなふうに、うるさいですか?」

     そう問いかけた自分の声は、驚くほど落ち着いていた。

    「責められている感じです。何をしてもダメだって」

     博道は、少しだけ間を置いた。

    「……それは、辛いですね」

     教科書的な返答ではない。だがその男性は涙を浮かべた。

     その瞬間、博道ははっきりと感じた。

     理解できてしまう自分を。

     幻聴の質。否定の言葉の重さ。頭の中で起きているのに、現実よりも現実らしい感覚。

     それは、医学書から得た知識ではなかった。自分の身体と心を通して、嫌というほど知った感覚だった。


     その夜、博道は未玖に言った。

    「……俺、内科には戻らないかもしれない」

     未玖は、驚いた様子も見せず、静かに聞いていた。

    「怖いんだ」

     博道は続けた。

    「また、医者として壊れるのが」

     未玖は、しばらく考えてから言った。

    「じゃあ、壊れないやり方を選べばいい。あなたは、もう一度生き直している途中なんでしょう?」

     その言葉は、博道の中で静かに響いた。


    ☆転身
     数日後、浜岡に告げた。

    「精神科医を目指そうと思う」

     口に出した瞬間、不思議と胸は軽かった。怖さが消えたわけではない。だが、進む方向が定まった感覚があった。

    「理由は?」

     浜岡が聞いた。

     博道は少し考えて、答えた。

    「患者の側を知ってしまったから。知らなかったふりをして、医者を続けることは、もうできない」

     浜岡はゆっくりと頷いた。

    「それは、立派な理由だ」


     精神科医になるという決意は、栄誉でも使命感でもなかった。自分が生き延びるための選択だった。

     博道はその日、初めて思った。医者であるということは、“救う側”に立つことだけではない。一緒に迷い、一緒に立ち止まることも、医療なのだと。


     精神科医への転身を決めたあと、博道が最初に向き合わなければならなかったのは、患者ではなく“組織”だった。

     病院幹部との面談は、六月のある午後に設定された。院長、副院長、医局長、人事担当。内科医として二十年勤めてきた病院の、よく知る顔ぶれだった。

     会議室の椅子に座ると、博道は自然と背筋を伸ばしていた。白衣は着ていない。それでも、かつて何度もこの席に“説明する側”として座った記憶が身体に残っている。


    「今日は、復職についての相談だと聞いています」

     院長が切り出した。

    「はい」

     博道は、一度だけ深く息を吸った。

    「内科への復職ではなく、精神科医として再スタートしたいと考えています」

    「……精神科ですか」

     医局長が言葉を選ぶように繰り返す。

    「内科医としての経験は十分にある。復職支援としては、外来限定や業務軽減という形も考えられるが」

     副院長の口調は、あくまで穏やかだった。

     博道は頷いた。

    「その提案も、何度も考えました」

     そして、続けた。

    「ですが、今の自分には、内科医として“以前と同じ前提”で働くことができません」

    「前提、とは?」

     人事担当が尋ねる。

    「常に正しく、強く、迷わない医師であるという前提です」

     博道はゆっくりと言葉を選んだ。

    「自分はそれを失いました。そして、それを無理に取り戻そうとするとすれば、再び壊れるとわかっています」

     院長が、少しだけ眉をひそめた。

    「精神科であれば、壊れないと?」

    「いいえ」

     博道は首を振った。

    「精神科も、簡単ではない。むしろ、より困難だと思っています」

     沈黙が落ちる。

    「それでも」

     博道は続けた。

    「患者の側を知ってしまった以上、知らなかった頃の医師には戻れません。今の自分にできる医療は、患者と同じ地面に立つことだと考えました」

     それは、決して美しい理由ではなかったかもしれない。使命感を語ることも、理想を掲げることもできたはずだ。だが、博道はそうしなかった。

    「これは、私が生き延びるための選択です」

     その言葉に、会議室の空気がわずかに揺れた。


     最終的に、病院は条件付きで博道の転身を認めた。

     後期研修医としての再スタート。年次はリセット。待遇も、立場も、下がる。

     書類にサインをしたとき、博道の手は少し震えていた。それでも、不思議と後悔はなかった。


    ☆リスタート
     精神科医としての初日。博道は、研修医用の控え室に立っていた。中には、二十代後半から三十代前半の若い医師たちがいた。医学部を出て数年。勢いがあり、言葉も軽い。

    「え、楠田先生って、前は内科だったんですか?」

    「すご……キャリア長いですよね」

     悪意はなかった。だが、その無邪気さが、博道の胸に刺さった。

     自分は今、彼らと同じ“研修医”だ。年齢も、経験も、人生も違うのに。


     症例検討会では、指導医が若手に向けて問いかける。

    「この患者さん、どうアセスメントする?」

     博道は、すぐに答えが浮かぶこともあった。だが、手を挙げることはほとんどなかった。

    ――出しゃばるな。

    ――今のお前は、教える立場ではない。

     といった心の声が博道には聞こえた。


     昼休み。若い研修医たちは、専門医試験や将来の進路の話で盛り上がっている。

    「将来ここの精神科で働きます?」

    「開業もアリっすよね」

     博道は、黙って未玖が作ってくれた弁当を食べていた。自分にはもう、“将来”を軽々しく語れる感覚がない。


     ある日、年下の研修医に言われた。

    「楠田先生って、落ち着いてますよね。全然焦ってない」

     博道は、曖昧に笑った。

    「焦る時期は、もう通り過ぎたからね」

     それは半分、本当だった。

     焦りの向こう側に、絶望があり、病があった。


     勉強は一からだった。DSM、症例検討、精神療法、社会資源。内科のように数値で語れない世界。正解のない問い。

     そして何より、自分自身の症状との共存。

     忙しさが増すと、幻聴が顔を出すこともあった。疲労が溜まると、抑うつが再び身体を重くした。そんな日は、浜岡の診察を受けながら、薬を微調整し、勤務量を減らした。

     以前の博道なら、それを“甘え”だと切り捨てていただろう。だが今は違った。

     壊れないために、立ち止まる。それもまた、医師として必要な判断だと知った。

     未玖は黙って支えてくれていた。

    「今日は顔色がいいね」「今日は早く寝たほうがいいよ」

     春彦は、相変わらず無邪気だった。

    「パパ、今度はどんなお医者さんなの?」

    「人の心を診る医者だよ」

    「ふーん、じゃあ、ぼくの心もわかる?」

    「全部は無理だな」

     そう答えると、春彦は笑った。

    「それでいいよ」 


    ☆声のある朝―統合失調症
     俵屋光。三十三歳。会社員。

     紹介状には簡潔にこう書かれていた。


     主訴――幻聴、被害念慮。

     “本人は精神症状を否認気味”と小さく追記がある。

     博道が精神科専門医として正式に外来を任されてから、最初の新患だった。


     白衣のポケットに手を入れる。指先がわずかに冷たい。


    ――大丈夫だ。


     自分に向けた言葉でもあった。


     ノックのあと、俵屋光は入ってきた。

     細身で、きちんと整えられた髪。スーツ姿。“精神科の患者”という先入観を裏切る外見だった。

    「俵屋さんですね。楠田です」

     光は軽く会釈したが、椅子には浅く腰掛けたまま、部屋の隅に視線を走らせている。

    「紹介状を拝見しましたが、改めて、今日はどうされましたか?」

    「……別に、大したことじゃないです」

     声は硬い。

    「会社に、行けなくなっただけです」

     

     “だけ”


     博道はその言葉の重さを知っている。


    「行けなくなった、というのは?」

    「同僚が……俺のこと、監視してる気がして」

     一瞬、光の視線が博道を射抜いた。

    「先生も、思ってるんですよね。俺がおかしいって」

     その目に、かつての自分を見た。

     否定すれば、“やっぱり隠している”となる。肯定すれば、妄想を補強する。博道はゆっくり息を吸った。

    「俵屋さんが、そう感じていることは本当ですね」

     光は眉をひそめる。

    「でも、私が俵屋さんを監視する理由はありません」

     淡々と、しかし目を逸らさずに言う。光は数秒黙ったあと、視線を落とした。

    「……声も、聞こえるんです」

     小さな声だった。

    「どんな声ですか?」

    「男の声です。“失敗する”“バレてる”って」

     博道の胸の奥が、わずかに疼く。同じ種類の声を、自分も知っている。

     責める声。評価する声。逃げ場のない声。

    「いつ頃からですか?」

    「三ヶ月くらい前」

     聞けば三ヶ月ほど前から仕事は繁忙期で睡眠時間も短く、食欲も落ちているそうだ。

     典型的な経過だった。

     だが光は言う。

    「でも俺、壊れてませんから」

     強い口調。その言葉に、博道は一瞬、言葉を失いそうになる。


    ――自分も、そう言った。


     壊れていない。まだ働ける。自分はおかしくない。

     あの頃の自分に、誰かにどう返して欲しかったか。

     慎重に、しかし逃げずに。

    「俵屋さん」

     博道は静かに言った。

    「壊れていない人は、“壊れていない”と必死に確認しません」

     光の肩が、わずかに揺れた。

    「今、俵屋さんはとても疲れている状態です。脳が、休めていない。休職の診断書を書きますので、しばらく会社は休んでください」

    「……病気だって言うんですか?」

     問いではなく、恐れだった。

    「統合失調症の可能性が高いと思われます」

     診察室に沈黙が落ちる。光は俯いたまま、低く言った。

    「終わりですよね」

     その言葉に、博道の内側で何かがはっきりと動いた。

     違う。

    「終わりではありません」

     はっきりとした声で言う。

    「治療しながら働いている方はたくさんいます」

    「でも、普通じゃない」

    「“普通”の定義は、症状がゼロであることではありません」

     博道は少し身を乗り出した。

    「症状があっても、生活を組み立てられること。それが目標です」

     光は顔を上げた。

    「先生、本当にそう思ってますか?」

     その問いに、逃げ道はない。博道はゆっくり頷いた。

    「ええ。実感として」

     それ以上は言わない。自分の病歴を語る場面ではない。

     だが、その“実感”には、重みがある。


     治療はすぐに順調にはいかなかった。

     向精神薬の導入。眠気、焦燥感。“頭が鈍る”と光は不満を言った。

    「声が減っても、俺が俺じゃなくなるなら意味がない」

     博道は即座に否定しない。

    「どの部分が、自分じゃなくなる感じですか?」

     そう問い返す。

     光は考える。

     言葉にする。

     それ自体が、回復の一歩だった。


     薬剤を調整し、支持的精神療法を続ける。月二回の通院。


     三ヶ月。六ヶ月。


    「最近、声がしても“ああ、またか”って思えるようになりました」

     光が言ったとき、博道は小さく頷いた。

    「それは大事な変化です」

     声が“現実”から“症状”に変わる瞬間。それが、寛解への入り口だ。


     一年後。

     光は時短勤務で職場復帰していた。


    「完全には消えてません」

    「ええ」

    「でも、前ほど怖くない」

     博道はカルテに“寛解状態”と記載する。

     治癒ではない。消失でもない。

     共に生きられる状態。


     診察の終わり、光が言った。

    「先生」

    「はい」

    「俺、壊れてなかったですか?」

     博道は、迷わなかった。

    「ええ。壊れていません」

     そして付け加える。

    「少し、疲れていただけです」

     光は、初めて穏やかに笑った。


     診察室を出ていく背中を見送りながら、博道は静かに息を吐いた。

     自分の原点。

     あの夜、声に追い詰められていた自分。

     もしあのとき、誰かに同じ言葉をかけられていたら。

     壊れていない。終わりではない。

     寛解とは、声が消えることではない。声があっても、朝を迎えられること。

     博道は白衣のポケットに手を入れる。指先は、もう震えていない。


    ☆ただならぬ喪失、そして挫折―うつ病
     精神科専門医として働き始めて三年が過ぎた頃、博道は忘れられない患者を担当することになる。前任の主治医が定年退職を迎えたため、引き継いだ患者だ。

     二十八歳の女性だった。名前は東堂真智。長年うつ病を患い、何度も入退院を繰り返していた。

    「生きている意味がわかりません」

     真智は、診察のたびにそう言った。

     博道は、無理に励まさなかった。

    「意味がわからないままでも、生きてていいんです」

     それは、かつて自分が欲しかった言葉だった。

     真智は少しだけ安心したように頷いた。


     だが、その診察から一週間後に博道は精神科医として大きな挫折をした。

     電話は、外来が始まる十分前に鳴った。

     事務の女性が、「楠田先生」と声をかける。


    「東堂真智さんが、昨夜亡くなったそうです」

    「亡くなった……というのは」

     声が、自分のものではないように聞こえた。

    「自死です」

     聞くところによると、薬をアルコールで大量に飲んで不整脈が起こり、家族が救急車を呼んだが、病院に着いた頃にはもう真智の心臓は止まっていたと言う。

     博道は、しばらく動けなかった。白衣を着ていた。もうすぐ外来の開始時間だ。


    ――兆候は、あっただろうか。


     思考が、医師としての回路に切り替わる。最終診察日。言動。表情。睡眠。カルテの文字が、頭の中で反復される。

     だがどれも決定的ではなかった。それが、いちばん博道を壊した。


     外来が始まった。博道は診察室に座り、患者の話を聞き、処方を出した。

     ただ、自分の中に疑問が一つ増えた。


    ――この人も、失うのではないか。


     それは臨床的な問いではなく、恐怖だった。


     博道は長い間、内科医だった。受け持ちの患者が亡くなることは、決して珍しくなかった。肺炎が悪化し、多臓器不全へと進む。癌が転移を重ね、治療の手立てが尽きる。心不全の波が静かに、しかし確実に心臓を止める。

     死はいつも、曲線を描いて近づいてきた。血液データの推移、酸素飽和度の低下、画像所見の変化。彼はその軌道を読み取ろうとした。できることを積み重ね、できないことを説明し、家族と共に時間を区切る。“覚悟”という言葉が、少しずつ現実味を帯びていく過程があった。

     臨終の場面で、博道は何度も頭を下げてきた。

    「最善は尽くしました」

     その言葉に嘘はなかった。無力感はあっても、医学の射程の中で戦ったという感覚があった。死は病の延長線上にあり、彼自身はその流れの外側に立っていた。悲しみは重かったが、どこか自然の摂理に触れたような静けさもあった。死は“到達点”だった。


     精神科医になって、初めて患者を自死で失ったとき、その構図は崩れた。

     真智は外来で、“眠れています”と言っていた。希死念慮は見受けられたが、次回の予約もとって帰った。当然また会うものだと思っていた。診察室の椅子に座り、物憂げに、ときたま沈黙を挟みながらも言葉を紡いでいた顔が、まだ鮮明に残っている。

     死は、曲線ではなく断崖だった。

     予兆を読み取れなかったのか。あの沈黙は何だったのか。“大丈夫です”という言葉の奥に、何があったのか。

     内科の死は、病理が説明してくれた。しかし自死には、明確な病変がない。検査値も、画像も、最終的な一線を示してはくれない。そこにあるのは、心という曖昧な領域と、医師としての自分の関与だ。

     博道は初めて、死の内部に自分が組み込まれていると感じた。

     「最善を尽くしました」とかつて何度も言ってきた言葉が、喉に引っかかった。

     本当に? もっと聞けたのではないか。もっと踏み込めたのではないか。

     内科では、死は病がもたらしたものだった。精神科でもそれは言えるが、どちらかというと死は“関係”の中で起きた出来事のように感じられた。診察室という小さな空間で交わした言葉、沈黙、視線。その全てが、後から意味を持ち始める。

     後悔は、検査データのように数値化できない。それは夜中に何度も再生される場面となり、博道を責めた。


     内科の死は、深く、静かで、どこか地面に沈んでいく重さ。精神科の自死は、鋭く、跳ね返るような痛み。自分の胸を内側から裂くような感覚。前者は、“間に合わなかった”という無力。後者は“見抜けなかった”という罪責。

     博道はようやく理解した。身体の死を看取る医師と、心の絶望を扱う医師では、背負う影の形が違うのだと。


     それでも時間が経ち、博道は少しずつ言葉を選び直すようになった。

     精神科医は、命を保証する存在ではない。人の自由意志と、病の力と、環境の重なりの中で、ただ寄り添い続ける存在だ。

     それは、免罪ではない。だが、全能でもない。

     博道はずっと、東堂真智という名前を忘れない。内科医として見送った多くの死と同じように、いや、それ以上に。

     違いがあるとすれば、内科の死が“病の終わり”だとすれば、自死は“問いの始まり”だった。


     真智の葬儀に参列し、病院に戻り、博道は医局の椅子にかけた。部屋は静かだった。静かすぎた。

     真智の最期の表情が、まぶたの裏に浮かぶ。あのとき、何か言えただろうか。何か、違う言葉があったのではないか。

     胸の奥で、わずかにざわめきが生まれる。

    ――お前のせいだ。

     かすかな音。空耳だとわかっている。だが、あの感触に似ている。

    ――救えなかった。

     鼓動が速くなる。ここから先に進めば、戻れない。あの夜と同じ場所に、足を踏み入れる。

     博道は両手で顔を覆った。呼吸を整える。

     一、二、三。

     声は、はっきりとはならない。形を持つ前に、ほどけていく。

    ――今日は終わった。

     そう、心の中で言う。

     今日は終わった。明日のことは、明日考える。

     ざわめきは、ゆっくりと遠のいた。


     医師とは何か。治療とは何か。寄り添うとは何か。その問いを抱えたまま、博道はまた診察室で患者を診る。


    ☆異常なしーパニック障害
     勝田康。五十歳。会社役員。

     紹介状は分厚かった。循環器内科、消化器内科、脳神経内科。ホルター心電図、心エコー、頭部MRI、血液検査一式。結語はどれも同じだった。

    “特記すべき異常を認めず”

     博道は、その言葉を指でなぞった。かつて、自分が何度も書いた言葉だった。


     ノックの音は強く。短かった。

     診察室に入ってきた勝田は、体格のいい男だった。スーツは上質で、ネクタイも隙がない。だが、目の奥だけが、落ち着いていない。

    「精神科は初めてです」

     座るなりそう言った。

    「正直、来るつもりはなかった」

    「そうですか」

     博道は穏やかに応じる。

    「心臓が、おかしくなるんです」

     勝田は胸元を押さえた。

    「突然、締め付けられる。息ができない。汗が止まらない」

     机の上に、自身でも持参した検査結果を叩くように置く。

    「でも全部、“異常なし”だ」

     吐き捨てるように。

    「先生も、そう言うんでしょう?」

     その視線は、挑戦的だった。博道は、わずかに息を吸う。


    ――言ったことがある。


    「異常はありません」「命に関わる所見はありません」

     安心させるつもりだった。だが、その言葉で救われなかった人が、目の前にいる。

    「検査で大きな異常が見つからなかったのは事実です」

     勝田の表情が硬くなる。

    「ほらな」

    「でも」

     博道は続ける。

    「症状が“ない”わけではありません」

     勝田の眉がわずかに動く。

    「私は、勝田さんの発作は本物だと思っています」

     沈黙。診察室の空気が、少しだけ変わる。

    「……本物?」

    「ええ。脳と自律神経が、強い警報を鳴らしている状態です」

     勝田は腕を組む。

    「ストレスだと?」

    「引き金の一つかもしれません」

    「私は甘えていません!」

     強い口調だった。

    「仕事では結果を出している。部下もいる。家庭も問題ない」

     だが、声はわずかに震えている。

     博道は問う。

    「最初の発作は、どこで起きましたか?」

    「会議中だ」

     役員会議。決算報告。責任が集中する場。

    「突然、心臓が止まると思った。救急車を呼べと叫びそうになった」

     だが呼ばなかった。役員だから。

    「それ以来、また来るんじゃないかと……」

     そこまで言って、勝田は口を閉ざした。恐怖を言葉にするのは、敗北のように感じるのだろう。

    「発作は、死にません」

     博道ははっきり言った。

    「ですが、“死ぬかもしれない”と脳が誤認します」

    「誤認?」

    「パニック障害の可能性が高いです」

     勝田は目を逸らした・

    「精神の病気だと言うのか」

    「“心が弱い”という意味ではありません」

     博道は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

    「身体と心は分かれていません。脳は臓器です」

     元内科医としての自分が、内側でざわめく。あの頃、自分はどう説明していただろう。

    “異常はありません、様子を見ましょう”。忙しい外来。次の患者。勝田のような男に、どれだけ時間を割いただろう。

    「先生」

     勝田が低く言う。

    「私は、気のせいだと何度も言われた」

     その一言に、博道の胸が重くなる。

    「気のせいではありません」

     即座に答える。

    「発作は身体で起きています」

     膝の上で握りしめていた勝田の拳が、少し緩む。


     治療は、すぐに信頼へは繋がらなかった。

     抗不安薬を少量。SSRIの導入。呼吸法の練習。


    「こんなもので治るのか」


     半信半疑。だが勝田は通院をやめなかった。

     発作が起きるたび、会社のトイレに駆け込み、博道に教わった呼吸法を思い出す。

     四秒吸って、六秒吐く。

    “死なない”と自分に言い聞かす。


     三ヶ月後。

    「最近、発作が来ても少し落ち着けるようになった」

     勝田はそう言った。

    「完全には消えていない」

    「ええ」

    「でも、前ほど恐ろしくない」

     博道は頷く。

    「それが大きな一歩です」


     ある診察の終わり、勝田がポツリと言った。

    「最初に診てもらった内科医、悪い人じゃなかった」

     博道は静かに聞く。

    「でも、“異常なし”と言われるたびに、自分が嘘つきみたいで」

     その言葉は、刃のようだった。

     博道は、過去の自分と向き合う。

     救えなかったかもしれない人たち。時間に追われ、説明を省いた日々。

    「……医師も、未熟です」

     勝田は顔を上げる。

    「私も、内科をしていました」

     初めて、少しだけ過去を打ち明かす。

    「“異常なし”といってきた側でした」

     診察室に、静かな理解が流れる。

    「今は、異常がないことと、苦しみがないことは違うと考えています」

     勝田はゆっくり息を吐いた。

    「先生」

    「はい」

    「私は、壊れていませんか?」

     その問いは、どこか既視感を伴っていた。博道は迷わない。

    「壊れていません。ただ、警報が過敏になっているだけです」

     勝田は小さく笑った。

    「会社では、私が警報を鳴らす側なんだがな」

    「今は、ご自身の警報を整える時期です」


     勝田が退室したあと、博道は椅子に深く腰掛けた。

     身体と心の境界。

     かつて自分は、身体を診ていた。今は、境界を診ている。

     “異常なし”という言葉は、正しいこともある。だが、それだけでは足りない。人は、検査値だけで生きていけない。

     白衣の袖を整えながら、博道は思う。過去は消えない。だが、過去に対して、今の自分は別の言葉を選べる。

     次の患者を呼ぶ。診察室のドアが開く。身体と心の間で揺れる人が、また一人、入ってくる。


    ☆痩せたい理由―摂食障害
     脇田灯、十六歳。高校二年生。

     初診は母親に付き添われて来た。制服のスカートは緩く、脚は細いというより、削げている。だが背筋はまっすぐで、姿勢は崩れない。

    「食べられないわけじゃないんです」

     それが灯の第一声だった。

    「食べようと思えば、食べられます」

     母親が横で小さく息をのむ。

    「でも、食べないだけです」

     “だけ”

     博道はその言葉の置き方に、わずかな緊張を感じる。

    「体重は、ここ半年で十四キロ減っています」

     母親が説明する。

    「学校の成績は問題ありません。陸上部の活動も休んでいません。でも……」

     言葉が続かない。そんな母親を横目に、灯は淡々と言う。

    「太りたくないだけです」

     身長は一六二センチ。体重は三十八キロ。月経は止まっている。

    「自分では、どのくらいが理想だと思っていますか」

    「三十五」

     即答だった。

    「今でも、まだ重い」

     その言葉の確かさが、博道の胸を静かに締める。

     鏡の中の歪みは、外からは修正できない。


     二回目の診察は、灯だけで入った。母親は待合室に残った。

    「お母さんとは、よく話しますか?」

    「普通です」

    「……普通、とは、どんな感じかな?」

     灯は少し考える。

    「勉強のこととか、将来のこととか」

    「食事はお母さんが作ってくれるの?」

    「はい」

     灯の口元が、ほんの少し固くなる。

    「“ちゃんと食べなさい”って言われます」

     その声色には、反発ではなく、疲れが混じっていた。

    「灯さんは、“ちゃんと”している子なんですね」

     灯は顔を上げる。

    「……まあ、はい」

     成績は上位。提出物は必ず期限前。遅刻はない。

    「“ちゃんと”していると、安心しますか?」

     沈黙。

     灯はゆっくり答える。

    「失敗したくないから」

    「失敗するとどうなる?」

    「がっかりされる」

     誰に、と問わなくてもわかる。母親。


     そのあと、灯と交代する形で母親だけを診察室に呼んだ。

    「私は厳しくしているつもりはないんです」

     母親は涙ぐむ。

    「灯はもともと自分に厳しい子で……私は応援してきただけで」

     その言葉に嘘はない。だが、“応援”と“期待”の境界は、時に曖昧だ。

    「灯さんは、お母様にどう思われるか、を気にしているかもしれません」

     博道は慎重に言う。

    「完璧であることが、愛される条件だと」

     母親はハッとする。

    「そんなこと……」

    「無意識に、伝わることがあるんです」


     時が過ぎ、灯の体重はさらに減った。心拍は遅く、血圧も低い。入院も検討するほどだった。

     ある夜、博道は、夕飯を食べながら妻の未玖に相談した。

    「十六歳で、三十キロ代か……」

     未玖は看護師の顔になる。

    「身体が先に限界を迎えそうね」

    「本人は“まだ大丈夫”と言っているんだ」

     未玖は少し考えてから言う。

    「食べないことが、唯一の“自分の決定”なのかもね」

     博道は箸を止める。

    「決定?」

    「親も先生も、全部決めてくれる。勉強も進路も。でも、“食べるかどうか”は自分で決められる」

     その言葉は、静かに腑に落ちた。

     コントロール。体重計の数字だけが、自分の領域。


     次の診察で、博道は言った。この日も灯だけを診察室に呼んだ。

    「灯さんは、何かを自分で決めていますか?」

     灯は戸惑う。

    「……進路は、親がほとんど」

    「部活は?」

    「せっかく陸上の強い高校に入ったのに、やめたらもったいないって」

    「友達は?」

    「普通にいます」

     どの答えも、“普通”。

    「食事は?」

     灯は、わずかに口元を引き締める。

    「自分で決めてます」

     その瞬間、初めて灯の目に、はっきりとした意志が宿った。

    「食べないことが、安心なんですね」

     灯の喉が、小さく動く。

    「……体重が減ると、落ち着きます」

    「どうして?」

    「ちゃんとできてるって思えるから」

     ちゃんと。その言葉が、何度も繰り返される。


     治療は、体重を増やすことだけではない。灯が、“食べない”以外で、自分を感じられる場所を探すこと。

     博道は、母親と合同面接を行なった。

    「灯さんには、“できる子”でいなくてもいい時間が必要です」

     母親は戸惑いながらも頷く。

    「私は、そんなに灯を追い詰めていたでしょうか」

     灯は小さく首を振る。

    「お母さんは、悪くない」

     その一言が、母親をさらに苦しめる。博道は言う。

    「誰が悪い、と言う話ではありません。灯さんが、少しだけ“失敗しても大丈夫”と思える練習です」


     入院は避けられなかった。一時的な栄養管理。

     家で未玖はそっと博道に言った。

    「病棟には、体重だけで見ない看護師がいる」

     それが救いだった。


     三ヶ月後。灯は四十二キロまで回復し、退院した。まだ不安定だが、目の光が違う。

    「最近、少し食べても、そんなに怖くない」

    「なぜだと思いますか?」

     灯は考える。

    「……痩せる以外にも、“ちゃんとできた”ことがあったから」

    「例えば?」

    「部活、やめました」

     意外な言葉だった。

    「自分で決めました」

     母親は最初は驚いたが、最終的に受け入れたという。

     灯は続ける。

    「やめても、家も、お母さんも、自分も、壊れませんでした」

     その事実が、灯の世界を少し広げた。

     

    その次の診察の終わり、灯が言った。

    「先生」

    「はい」

    「私、太ったら嫌われますか?」

     博道は、静かに首を振る。

    「体重で愛情は決まりません」

     灯は少し笑う。

    「頭ではわかってるんです」

    「はい。ただ、頭と心は、時間差があります」

     灯は頷いた。


     灯が診察室を出たあと、博道は窓の外を見た。

     コントロールできない世界で、人はせめて一つの数字にしがみつく。

     体重。成績。役職。

     だが本当に必要なのは、失敗しても、壊れない関係だ。


     夜、帰宅して未玖に言う。

    「灯さん、少し笑ったよ」

     未玖は微笑む。

    「それは大きいね」

     ネクタイを外しながら、博道は思う。摂食障害は、食べ物の問題ではない。

     愛され方と、愛し方の問題だ。

     そして、“ちゃんとしていなくても、生きていい”と知るまでの、長い練習の過程だ。


    ☆波の上の彼女―双極性障害
     今田穂乃果、二十四歳。フリーランスのデザイナー。

     初診の日、彼女は遅刻してきた。だが息を切らすこともなく、診察室の椅子に滑り込むように座った。

    「遅れてすみません、徹夜明けで」

     目は異様に澄んでいる。言葉は早く、途切れない。

    「今、新しいブランドのロゴを任されていて、すごくいいのが浮かんだんです。三日で十案出しました」

     スマートフォンを差し出す。色彩は大胆で、構図は鋭い。確かに、才能はある。

    「あの、寝ていますか?」

    「寝なくても平気です」

     穂乃果は笑う。

    「今、最高なんです」


     紹介元の心療内科の診断は、双極性障害Ⅱ型。過去に重いうつ状態があり、自宅から出られなくなった時期があると書いてあった。だが今は、その面影がない。むしろ、眩しい。

    「前のクリニックで出された薬、やめました」

     穂乃果はさらりと言う。

    「薬飲むと、ぼんやりして、何も浮かばなくなるんです」

    「自己判断でやめたんですか?」

    「だって、あれ飲んだら私じゃなくなる」

     その言葉は、はっきりしていた。

    「薬で私を奪わないで」


     数週間後。穂乃果はさらに高揚していた。

     新規契約を三件同時にとり、ほとんど眠らず、SNSに延々と作品を投稿したと言う。

    「今が一番クリエイティブなんです」

     だが、相変わらず診察の時間は守れない。波は確実に高くなっている。

    「気分が落ちたことはありますか?」

     博道が問う。膝の上でパタパタと動かしていた穂乃果の指が止まる。

    「ありますよ」

     小さく笑う。

    「そういうときは、真っ暗になります。自分の作品が全部ゴミに見える。消えたくなる」

     診察室の空気が静まる。

    「だから、今のほうがいい」

    「どうして?」

    「描けるから」

     即答だった。


     博道は迷っていた。“治す”とは何か。波を平らにすることか。それとも、溺れないようにすることか。

     双極性障害の治療は、気分の振れ幅を小さくする。だが穂乃果は、その振れ幅の中で生きている。


    「先生、正常って何ですか?」

     ある日、穂乃果が聞いた。

    「毎日、同じテンションで働くこと?」

     博道は答えられない。自分も、病を抱えながら白衣を着ている。


     転機は、突然だった。

     穂乃果は診察日に来ず、しばらく待っていると母親から電話が入った。

    「娘が、ベッドから起き上がれません」

     訪問看護師が自宅を訪ねると、彼女は布団の中で動かないでいた。

    「全部、無意味」

     目は虚ろ。

    「私なんか描く価値もない」

     あれほど眩しかった目の光が、消えていた、と訪問看護師から聞いた。躁の波が引いたあと、深い谷が現れていた。


     回復までには時間がかかった。抗うつ薬は慎重に。気分安定薬を少量から。

     穂乃果は、博道が印刷して渡した処方箋を見ながら言った。

    「これで、もうあの高い波は来ない?」

    「小さくなる可能性があります」

    「……なんか、寂しいです」

     博道は正直に言う。

    「完全に波をなくすことは目標ではありません」

     穂乃果が顔を上げる。

    「溺れない高さにすることが目標です」

     沈黙。

    「波は、あなたの一部です。でも、あなたの全部ではない」

     穂乃果の目に、わずかな光が戻る。


     数ヶ月後。

     穂乃果は約束の時間に、穏やかな表情で診察室に座っていた。

    「最近、大きなアイデアは出ません」

    「困っていますか?」

    「少し」

     だが、続ける。

    「でも、締め切りは守れています」

     小さく笑う。

    「クライアントから、“安定した”って言われました」

     その言葉に、皮肉はない。

    「前より、ゆっくり考えられる」

     穂乃果はスマートフォンの画面を見せる。以前のような爆発的な色彩ではない。だが線は丁寧で、余白がある。

    「これも、私ですよね?」

    「ええ」

     博道は頷く。

    「波の上に立ってなくても、あなたは立派なデザイナーさんです」


     診察の終わり、穂乃果が言った。

    「先生」

    「はい」

    「私は、病気ですか。それとも、個性ですか?」

     難しい問いだった。

    「両方です」

     穂乃果は目を細める。

    「病気は治療します。そして、個性は守ります」

     少し考えてから、穂乃果は言う。

    「じゃあ、今の私は?」

    「成熟途中です」

     穂乃果は笑った。

    「それ、いいですね」


     彼女が去ったあと、博道は静かに椅子に背を預けた。

     若い頃の自分なら、“症状を抑えること”だけを考えただろう。だが今は違う。人は、症状だけではない。才能だけでもない。波の高さを計るだけでは、生き方は見えない。精神科医としての成熟とは、正常を押し付けることではなく、その人の波を、一緒に見守ることなのだと。

     窓の外、夕暮れの空は静かな色に変わっていた。高くもなく、低くもない。だが確かに、美しかった。


    ☆忘れていく尊厳―認知症
     泉花子。七十七歳。元中学校教師。

     初診の日、彼女はきちんとした紺色のスーツで来た。

     年金生活になって十年以上経つというのに。背筋は教壇に立っていた頃のままだった。

    「物忘れがひどくなりました」

     はっきりとした声。

    「昨日の夕飯が思い出せないんです。生徒の名前なら何百人も覚えていたのに」

     “生徒”という言葉に、まだ誇りがにじむ。

    「私は、認知症でしょうか」

     真正面からの問いだった。博道は、神経心理検査の結果を見る。

     軽度認知障害。アルツハイマー型認知症の初期が疑われる。だが、その言葉をどう置くかが問題だった。

    「最近、どんなことが不安ですか?」

     花子は少し考える。

    「約束を忘れること、買い物で同じものを二つ買ったこと」

     そして、小さく続ける。

    「娘に心配そうな顔をされること」

     付き添いで来ていた、隣に座る娘は五十代半ば。

    「母は、しっかりしていたんです。少し前までは、所属している地域の読書会の会長でもありましたし」

     その言葉は、励ましでもあり、過去との比較でもあった。

     花子は静かに言う。

    「“しっかりしていた”んです」

     過去形。その響きが、診察室に落ちる。


     検査結果を説明する日。花子はメモ帳を持参した。

    「大事なことは書きます」

     ペン先がわずかに震えている。

    「記憶の力が、少しずつ弱くなっている可能性があります」

     博道はゆっくりと話す。

    「進行を遅らせる薬はありますが、完全に元に戻すことは正直言って難しいです」

     沈黙。

     花子は目を閉じ、深く息を吐いた。

    「治らないのですね」

    「……現時点では、難しいです」

     率直に。

     花子は頷いた。

    「私は、どうなりますか?」

     教師らしい、未来への問い。

    「すぐに何もできなくなるわけではありません。今できることを、続けていくことが大切です」

     花子は小さく笑う。

    「曖昧ですね、先生」

    「ええ」

     博道も微笑む。

    「医療には、限界があります」


     帰り際、花子は立ち止まった。

    「忘れていくのは、仕方がないとして」

     振り向く。

    「私は、私でいられますか?」

     その問いは、静かで、重い。

     博道は答えを探す。治すことはできない。進行を止める保証もない。だが。

    「記憶が薄れても、あなたの価値は消えません」

     花子の目が揺れる。

    「教師だったことも、母であることも。それは、数字で測れるものではありません」

     花子は少しだけ涙をにじませた。


     数ヶ月後。

     花子は、財布をなくしたと訴えた。実際には冷蔵庫の中から見つかった。

     娘は疲れた顔で言う。

    「何度も同じことを聞かれるんです」「さっき答えたのに、また」

     罪悪感と苛立ちが混ざっているように思えた。

     博道は娘に向き直る。

    「忘れるのは、病気の症状です」

    「でも、私はつい強く言ってしまうんです」

    「それも自然な反応です」

     家族もまた、揺れている。

    「“正す”より、“安心させる”ほうが大切です」

     娘は黙り込む。


     花子は、地域の読書会への参加をやめた。“迷惑をかけたくない”そう言って家に閉じこもるようになった。

     博道は提案する。

    「短時間でも、参加してみませんか?」

    「忘れてしまうのに?」

    「忘れても、その場の楽しさは残ります」

     花子は考え込む。

    「私は、情けない姿を見せたくない」

    「完璧でなくても、尊厳は失われませんよ」

     その言葉は、灯のときにも似ていた。

    “ちゃんとしていなくても、生きていい”。


     半年後。花子は再び読書会に顔を出したという。

    「同じ話を二回してしまいました」

     苦笑する。

    「でも、みんな、笑ってくれました」

     口調も笑顔も、以前より柔らかい。

    「最近は、忘れる自分と少し仲良くなりました」

    「どうやったんですか?」

    「メモを増やしました」

     カバンから、びっしり書かれた手帳を見せる。

    「忘れるなら、書けばいい」

     教師らしい対処法だった。


     診察の終わり。

    「先生」

    「はい」

    「私は、だんだん消えていくのではと怖かった」

     花子は続ける。

    「でも、消えるのではなく、形が変わるのかもしれませんね」

     博道は頷く。

    「変わっても、あなたです」


     花子が診察室を出たあと、博道は静かに考えた。

     治せない病。かつての自分なら、無力感に沈んだだろう。

     だが今は違う。医療は、進行を止められなくても、孤独を和らげることはできる。尊厳を守る手伝いはできる。

    “治す”ことが目的だった若い頃から、“支える”ことへ。

     忘れていくのは、記憶だ。だが、誰かと向き合った時間は、確かにそこに残る。それが医療の限界であり、そして可能性なのだ。


    ☆社会に合わない人―発達障害(ASD/ADHD)
     江川浩介、三十二歳。システムエンジニア。

     初診の予約理由は、“職場不適応”。だが紹介状の一文は、少し違っていた。

     ――能力は高いが、協調性に欠ける。


     診察室に入ってきた江川は、姿勢が硬かった。スーツは整っているが、ネクタイは少し曲がっている。目は合うが、長くは続かない。

    「上司に、発達障害じゃないかと言われました」

     前置きなく言った。

    「検査してきてほしい、と言われました」

     声に怒りはない。だが、温度も低い。

    「ご自身では、どう思われていますか?」

    「わかりません」

     即答だった。

    「ただ、仕事はできます」

     そこだけ、わずかに力が入る。


     話を聞くと、こうだった。

     コードを書く速さは部署一。バグを見つける精度も高い。だが会議で空気を読めない。曖昧な指示が理解できない。雑談が苦痛。

    「“適当にやっておいて”と言われても、何を基準に適当なのかわからない」

     江川は真顔で言う。

    「質問すると、“いちいち細かい”と怒られるんです」

     そして、締め切り前になると別案件に手を出す。集中が切り替わると止まらない。

    「気づいたら朝になっていることもあります」

    「それで体調を崩しますか?」

    「はい。でも途中でやめられません」

     ASDの特性と、ADHDの衝動性。

     だが、それは同時に、彼の強みでもあった。


     心理検査の結果は、ASDとADHDの診断基準を満たしていた。

     説明の日、江川は静かに座っていた。

    「診断名をつけることはできます」

     博道は慎重に言う。

    「自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症」

     江川は数秒、黙る。

    「つまり、障害者ですか?」

    「……“障害”と言う言葉は、社会との関係を示します。能力が低い、と言う意味ではありません」

     江川は視線を落とす。

    「診断がついたら、何が変わりますか?」

     核心だった。

     博道は一瞬、言葉を選ぶ。ラベルを貼ることは、救いにも、檻にもなる。

    「まず、ご自身の困りごとの説明ができます。努力不足ではない、と整理できます。そして、職場に合理的配慮を求める材料になります」

    「……配慮」

     江川はその言葉を繰り返す。

    「でも、会社は利益を出す場所です。社会が変わるとは限らない」

    「はい」

     博道は頷く。

    「だからこそ、診断は慎重に扱う必要があります」


     数週間後。江川は診断書を会社に提出した。結果は、半分成功、半分失敗だった。業務内容は、対人調整の少ない設計業務中心に変更。だが評価は“チームワークに難あり”のまま。


    「結局、“変わった人”のままです」

     淡々とした声。

    「診断があっても、なくても」

    「そう感じますか?」

    「はい」

     だが、次の言葉は少し違った。

    「でも、自分を殴らなくて済むようになりました」

     博道は顔を上げる。

    「前は、できない自分を、怠け者だと思っていました。今は、“仕様が違う”と思えます」

     その表現に、微かなユーモアがあった。


     ある日、江川は言った。

    「先生は、僕を病人だと思いますか?」

     まっすぐな問いだった。

    「いいえ」

     博道は即答した。

    「あなたは、社会の平均値から少し外れているだけです」

    「でも、外れている、ということは、問題ですよね?」

    「状況によります」

     博道は続ける。

    「宇宙開発の研究所なら、あなたは“標準”かもしれない」

     江川は初めて、はっきり笑った。

    「確かに」


     ADHDに対しては、少量の薬を試した。集中の切り替えが少し滑らかになる。

    「頭の中のタブが減った感じです」

     江川は言う。

    「ゼロにはならないけど、整理できます」

     ASDの特性は消えない。だが、対処法を学ぶ。

     曖昧な指示は具現化して確認する。会議後に文章でまとめる。疲労が溜まる前に休む。“治す”のではなく“扱い方を知る”。


     診察の終わり。

    「診断を受けて、後悔していますか?」

     博道が問う。江川は少し考える。

    「いいえ。……ラベルは好きじゃない。でも、地図にはなります」

     その言葉は、静かだった。

    「どこが崖で、どこが平地か、少しわかる」

     博道は頷く。

    「診断は、あなたを定義するものではありません。あなたを説明する。一つの道具です」

     江川は立ち上がる。

    「社会が変わるとは思っていません。でも、自分の使い方は、少しわかりました」


     彼が去ったあと、博道は考える。

     ラベルを貼る責任。診断名は、軽くない。それは、制度につながり、支援につながり、同時に偏見にもつながる。だが、名前のない苦しみは、もっと孤立する。

     病気か、特性か。答えは単純ではない。

     社会に合わない人がいるのか。社会が狭すぎるのか。

     博道は思う。精神科医の仕事は、人を“正常”に戻すことではない。その人が、自分の設計図を理解し、世界と折り合う方法を探す手伝いをすること。それが、ラベルを扱う者の責任なのだ。


    ☆痛みの置き場所―自傷行為
     真野梨々香、二十歳。大学二年生。

     初診は、夜間救急からの紹介だった。手首に浅い切創。縫合は不要。“自殺企図の明確な意思は否定”と記載されている。


     診察室に入ってきた梨々香は、長袖のパーカーを着ていた。

    「別に、死にたいわけじゃないです」

     椅子に座るなり言う。

    「じゃあ、どうして切ったのか、と先生は聞きますよね?」

     挑むような目。

    「聞いてもいいですか?」

     博道は静かに言う。

     梨々香は少し肩の力を抜いた。

    「……うるさかったから」

    「何がでしょう?」

    「頭の中」


     話は断片的だった。

     彼氏との喧嘩。既読がつかないLINE。ゼミのグループワークでの孤立感。


    「嫌われてる気がする。本当かは、わからないけど」

     感情は、事実よりも速く走る。

    「胸がギュってなって、息ができなくて」

     梨々香は袖口を指でいじる。

    「切ると、静かになるんです」

     その言葉はあまりに率直だった。

     

     境界性パーソナリティ傾向。見捨てられ不安。感情の激しい揺れ。衝動的な行為。

     だが、診断名より先に、目の前に若い患者がいる。

    「切ると、何が変わりますか?」

    「血が出ると、安心する。ここが痛い、ってわかるから」

     胸の曖昧な苦しさが、手首の痛みに置き換わる。

    「痛みの場所が、はっきりする」

     梨々香は言った。

    ――痛みの置き場所。


     二回目の診察。梨々香は、笑顔で来た。

    「最近、元気なんです」

     話すスピードが早く、落ち着きがない。

    「彼氏と仲直りしました。やっぱり運命の人だったみたいで」

     理想化。


     数週間後には、再び絶望。

    「やっぱり私、いらない人間なんです」

     振れ幅が大きい。

     博道は、感情の波に飲まれないよう、椅子に深く座る。

     救いたい、という衝動が、かえって危うい。


     ある日、梨々香は突然言った。

    「先生、私のこと嫌いになりますか?」

    「なぜそう思いますか?」

    「めんどくさいでしょ、私」

     目は笑っていない。博道の胸に、かすかな苛立ちが走る。

    ――試されている。

     来週また来る、と言って結局来ない。夜中に衝動的な電話。“もう来ません”と言った次の日に予約なしで現れる。

     感情が揺さぶられる。それでも、博道は言う。

    「嫌いにはなりません……でも、困ることはあります」

     梨々香は目を見開く。

    「困る?」

    「あなたが傷つくと、私は無力感を感じます」

     正直な言葉だった。梨々香は、少し黙る。

    「先生も何か感じるんだ」

    「感じますよ」

     医師である前に、人間だ。


     リストカットの代替行動を一緒に探す。

     氷を握る。赤いペンで線を引く。感情を紙に書き殴る。

    「そんなの、意味あります?」

    「すぐにはないかもしれないです。でも、選択を増やすことが大事です」

     “切る”しかなかった世界に、もう一つの扉を作る。


     ある雨の日。梨々香は泣きながら来た。

    「またやりました」

     袖の下には新しい傷。

    「止められなかった」

     博道の胸が締めつけられる。

     無力感。治せない。止められない。

    「それでも、ここに来ましたね」

     梨々香は顔を上げる。

    「怒られると思ってた」

    「怒りません」

    「失望も?」

     少し考えてから、博道は言う。

    「心配はします」

     梨々香の目に、涙が溜まる。

    「私、死にたいわけじゃないんです」

    「ええ」

    「でも、生きるのが下手で」

     その声は、かすれていた。


     数ヶ月後。傷の頻度は減っていた。ゼロではない。だが、診察の中で泣く時間が増えた。泣けるようになった。

    「切る前に、ちょっとだけ思い出せるようになりました」

    「何を?」

    「先生の顔」

     照れたように笑う。

    「それで、五分待てる」

     五分。衝動の波は、永遠ではない。その事実を少しずつ身体で覚えていく。


     診察の終わり。

    「先生」

    「はい」

    「私、いつか切らなくなると思いますか?」

     博道は即答しない。

    「完全にゼロになるかは、わかりません」

     梨々香の表情が曇る。

    「でも、切らなくても耐えられる時間は、必ず増えます」

    「……今も、増えています」

     梨々香は小さく笑った。


     彼女が帰ったあと、博道は椅子に深く沈む。

     疲れる、感情が揺さぶられる。救いたい衝動と、救えない現実。医師の無力感。だが、無力を認めることが、この治療の始まりでもある。

    “死にたい”の裏にあるのは、たいてい“生きづらい”。痛みを消すことはできなくても、痛みの置き場所を一緒に探すことはできる。それが、この若者にできること。

     完璧に守れなくても、関係は続く。それだけが、今は確かな希望だった。


    ☆逃げ場―アルコール依存症
     道重悟。六十七歳。元営業職。定年退職して二年。

     紹介状にはこうあった。

     ――退職後、飲酒量増加。家族との口論頻回。内科にて肝機能障害指摘。

     

     診察室に入ってきた道重は、背の高い男だった。

     声も大きい。

    「私は依存症じゃありません!」

     座るなり言った。

    「長年、酒は飲んできた。でも、仕事も真面目にしてきた」

     胸を張る。

    「営業三十年ですよ。接待も山ほどやった」

     アルコールは、彼の戦友だったのだろう。

    「退職してから、量が増えたと伺っています」

     博道が穏やかに言う。

    「暇なんですよ」

     即答だった。

    「朝起きても、行く場所がない」

     付き添いで来ていた妻が隣で小さく息をつく。

    「最初は、晩酌だけでした。今は、昼から」

     道重は顔をしかめる。

    「家にいると、落ち着かないんです」

    「落ち着かない?」

    「自分が、いらない人間みたいで」

     その声は、思いの外小さかった。


     営業職。常に数字に追われ、常に人と会い、常に評価される。

     退職は、ゴールのはずだった。だがそれは、舞台から降ろされることでもあった。

    「会社では、私は必要とされていた」

     道重は言う。

    「今は、電話も鳴らない。メールも来ない」

     沈黙。

    「酒を飲むと、少しだけ昔に戻れる」

     接待の夜。上司と笑い、部下を励まし、契約を取った日々。アルコールは、時間を巻き戻す。


     検査結果は明らかだった。γ―GTP高値。毎日日本酒一升近く。


    「先生は、私は意志が弱いと思われているでしょう」

     道重が言う。

    「正直に言えば、少しは」

     博道は逃げない。

    「でも、依存症は意志の問題だけではありません。脳の報酬系が変化します」

     道重は黙る。

    「やめようと思っても、身体が求めるんでしょう?」

    「……はい」

     小さく呟く。

    「昼になると、そわそわします」

     妻は疲れていた。

    「隠れて飲むんです。空き瓶を、庭に埋めていたことも」

     怒りと、情けなさと、諦めが混ざる。

    「そして私が注意すると、怒鳴るんです」

     道重は目を逸らす。

    「そんなこと覚えていない」

     家族もまた、消耗している。


     治療は、これもまた簡単ではなかった。

     断酒会への参加を勧める。

    「そんなところへ行ったら、本物のアル中みたいじゃないか!」

    「あなたも、その可能性があるんです」

     はっきり言う。

     道重は膝の上で拳を握る。

    「私は、そこまで落ちていない」

     否認。依存症の壁。


     転機は、ある夜の転倒だった。酩酊して階段から落ち、額を切った。

     縫合後。診察室に現れた道重は、静かだった。

    「……妻が泣いていました」

     ポツリと。

    「初めて、怖くなった」

     死ではなく、孤独が。


     断酒は、一度では成功しなかった。

     三日で再飲酒。

    「情けない」

     道重は言う。

    「営業なら、根性で契約を取ってきたのに」

    「これは根性の問題ではありません」

     博道は繰り返す。

    「習慣と脳の変化の問題です」

     小さな目標を立てる。

     一日飲まない。二日。また一日。

     “完全”ではなく、“今日”。


     数ヶ月後。

     道重は、週に三日の節酒を維持していた。

    「暇は相変わらずです」

     苦笑する。

    「でも、朝の散歩を始めました」

     商店街の顔なじみと、短い会話を交わしているそうだ。

    「名前を呼ばれると、少し嬉しい」

     必要とされる感覚は、酒以外にもある。

     妻も、少し表情が和らいだ。

    「完璧じゃなくていい、と言われて、私も、全部背負わなくていいと思えました」

     家族支援の時間は、診察の半分を占めることもある。

     依存症は、個人の病ではない。関係の病でもある。


     診察の終わり。

    「先生」

     道重が言う。

    「私は、弱いですか?」

     博道は首を振る。

    「あなたは、長年戦ってきた人です。ただ、戦う場所がなくなった」

     道重が静かに頷く。

    「酒が、逃げ場だった」

    「今は?」

    「まだ半分、逃げ場です」

     正直な答え。

    「でも、もう半分は、ここかもしれない」

     診察室を見回す。


    彼が去ったあと、博道は窓の外を眺めた。

    男性の孤立。退職。役割の喪失。語る場所のなさ。

    “意志が弱い”という言葉は簡単だ。だがその裏にあるのは、社会の構造と、沈黙だ。


     精神科医としてできることは、酒を取り上げることだけではない。逃げ場を一つ減らすなら、別の逃げ場を一つ作らなくてはいけない。


     完璧な断酒ではなく、関係の回復。それが、この病の静かな希望だった。


    ☆白衣の内側―燃え尽き症候群
     天野充希。三十五歳。桃ケ丘総合病院の皮膚科医。紹介ではなく、自ら精神科の予約をとってきた。

    「医者が精神科に来るの、変ですよね」

     診察室に入るなり、苦笑した。白衣は着ていない。だが、姿勢は医師のままだった。

    「最近、何も感じないんです」

     淡々とした声。

    「たとえ患者さんが泣いても、心が動かない」

     その言葉に、微かな恐怖が滲む。


     充希は二児の母だ。朝は保育園に送り、外来を回し、夕方は急いで迎えに行く。

    「皮膚科は命に直結しないって思われがちですけど、患者さんにとっては、人生そのものなんです」

     アトピーの子ども。顔の湿疹で外に出られない若者。

    「ちゃんと診たいんです」

     だが時間は足りない。

    「診察室を出た瞬間、次の患者さんのことを考えています。早く外来を回さなきゃって」

     家に帰れば、母親になる。

    「子どもが熱を出しても、明日の外来の心配をしてしまう」

     充希は目を伏せた。

    「どこにも、休む場所がないんです」


     燃え尽き症候群。情緒的消耗。脱人格化。達成感の低下。だが彼女は、診断名を求めてはいなかった。

    「私、甘えてますか?」

     医師がよく口にする言葉だ。

    「同僚はもっと忙しそうにしている。私はまだマシな方なんですかね」

     比較の中で、自分を責める。

    「休みたい、と思うことがありますか?」

    「毎日」

     即答だった。そして、少し遅れて付け足す。

    「でも、休んだら迷惑がかかる」

     博道の胸に、遠い痛みが走る。かつて、自分も白衣の重さに押し潰されかけた。“患者を優先する”ことが、美徳だった。自分の限界は、後回し。

    「医師も、壊れます」

     博道は静かに言う。充希が顔を上げる。

    「壊れてからでは遅い」

    「私は壊れていません!」

     反射的な否定。

    「まだ、診察はできます。でも……最近、涙が出ません」

     それが問題なのだ。


     数回の面談の中で、充希は少しずつ言葉を緩めた。

    「患者さんの湿疹を診ていると、自分の心もただれている気がします」

     初めて比喩を使った。

    「治療薬はあるのに、治せない人もいる。その無力感が、積み重なっていきます」

     医療者の無力感。

     博道は、梨々香や道重の顔を思い浮かべる。

     治せない。止められない。それでも向き合う。


     ある日、充希はポツリと言った。

    「先生は、どうして精神科医になったんですか?」

     唐突な問い。博道は少しだけ、自分の過去に触れる。

    「壊れたことがあるからです」

     充希の目が揺れる。

    「医師でも、患者になります」

    「え?」

    「そして、患者であることは、敗北ではありません」

     診察室に、静かな連帯が生まれる。


     充希は、思い切って有給を取った。最初は罪悪感で眠れなかったという。

    「同僚に申し訳なくて。……でも、子どもと平日に公園に行ったんです」

     少し照れたように笑う。

    「桜が咲いていました」

     季節に気づいたのは、久しぶりだった。


     充希は外来のやり方も少し変えた。

     完璧を目指さない。抱え込みすぎない。困難なケースはチームで共有する。

    「全部、自分で背負わなくていいんですね」

     口に出してみると、少しだけ楽になる。


     診察の終わり、

    「先生」

    「はい」

    「私、医者を続けていいでしょうか?」

     その問いは、重い。

    「続けたいですか?」

     充希は迷わず頷く。

    「なら、続けるための治療をしましょう」

     “やめるか、続けるか”ではなく、“続けられる形を探す”。

    「楠田先生、白衣の内側も、人間ですね」

    「もちろんです」


     彼女が去ったあと、博道は自分の白衣を見る。

     かつては、鎧だった。今は、布だ。

     医者も、弱る。揺らぐ。過程と職業の間で、裂かれる。

     だが、それを認められる場所があれば、壊れきらずに済む。


     患者としても、医師としても歩いてきた道。博道はようやく理解する。

     精神科医の成熟とは、他者を治す力ではなく、弱さを共有できる強さなのだと。


     次の患者を呼ぶ。白衣の内側で、今日もまた、人と人が向き合う。


    ☆明日を生きるということ
     ある日の帰宅後、洗面所の灯りがついたままになっているのに気づいた。覗くと、未玖が鏡の前に立っていた。肩が、わずかに落ちている。

    「どうした?」

    「ううん」

     そう言いながら目を逸らす。

     沈黙が少し続いたあと、彼女は小さく息を吐いた。

    「正直ね、怖いんだよ」

     博道は何も言わない。

    「また、あのときみたいになったらって思うと」

     鏡の中の自分を見つめたまま、未玖は続ける。

    「私、ちゃんと支えられるかなって」

     その言葉に、博道は初めて気づく。自分だけが闘っていたのではないことを。彼女もまた、あの夜を越えてきたのだ。

    「ごめん」

    「謝らないで」

     未玖は首を振る。

    「ただ、ちょっと疲れただけ」

     その“ちょっと”が、どれほどの重さか。

     博道は、彼女の背中を見た。看護師として、何度も人の弱さを見てきた人だ。

     それでも、自分の夫の弱さは、きっと別の重さだったのだろう。

    「未玖」

    「うん?」

    「ありがとう」

     彼女は振り向き、少しだけ困ったように笑った。

    「急にどうしたの?」

    「言ってなかったから」

     未玖は何も言わず、鏡の灯を消した。洗面所は暗くなった。


     目が覚めたとき、まだ部屋は薄暗かった。冬の朝は、光より先に冷たさがやってくる。しばらく天井を見つめていた。何も聞こえない。耳の奥は、静かだった。

     かつては、目覚めの瞬間に世界が傾いた。今日が始まる前から、もう負けていた。胸の奥で、名を呼ぶ声がした。責める声がした。

     今は、ただ静かだ。未玖の作った朝食を食べ、歯磨きをし、水を入れて数錠の薬を口に含む。それは祈りでもなく、儀式でもなく、ただの習慣だった。

     コップの底に、わずかな光が揺れている。今日が始まる。


     外来はいつものように混んでいた。診察室の扉が開き、若い男が入ってくる。

    「明日が怖いんです」

     男はそう言った。視線は足元に落ちたままだった。

     博道は、すぐには答えなかった。沈黙が、部屋の空気を少し柔らかくするのを待った。

    「今日は、どうですか?」

     男は戸惑い、顔を上げる。

    「今日は……なんとかここに、来られました」

     博道は頷いた。

    「それで十分です」

     キーボードから手を離す。窓の外に、淡い午後の光がある。


     明日は、診察室の外にある。けれど今日は、ここにある。


     帰宅すると、居間から声がした。

    「パパ」

     春彦だった。十歳になったばかりの息子は、宿題のノートを広げていた。

    「どうした?」

    「作文」

     ノートを差し出す。

    「“将来の夢”って書くんだけど」

     春彦は少し考えてから言った。

    「まだ決められない」

     博道は隣に座った。

    「決めなくていいよ」

    「でも、みんな書いてる」

     春彦は眉をひそめる。

    「サッカー選手とか、警察とか」

     少し間があいてから、聞いた。

    「パパは?」

    「うん?」

    「どうしてお医者さんになったの?」

     博道は少し笑った。簡単には答えられない質問だった。

    「最初はね、人を治したかった」

    「今は?」

     春彦はすぐ聞く。子どもは、遠慮をしない。

    「今は……」

     少し考える。

    「一緒に生きるためかな」

     春彦は首を傾げる。

    「それ、仕事?」

    「仕事だよ」

     博道は言う。

    「人はね、明日が怖くなることがある」

    「学校とか?」

    「そう。学校とか」

    「大人でも?」

    「大人でも」

     春彦はしばらく黙る。

    「パパは怖い?」

     静かな質問だった。

     博道は少しだけ空を見た。窓の外には、夕方の雲がある。

    「怖い日もある。でもね」

     春彦の頭を軽く撫でる。

    「明日を生きるっていうのは」

     ゆっくり言う。

    「明日のことを全部考えることじゃない」

     春彦は真剣に聞いている。

    「今日一日を、生きること」

    「それだけ?」

    「それだけ」

     博道は笑う。

    「それが、意外と難しい」

     春彦はノートに何かを書き始めた。

    「何書いてるの?」

    「秘密」

     少しして、ノートを閉じる。

    「できた」

     博道が覗くと、そこにはこう書かれていた。

    「人を明日まで生きさせる人」

     博道は、少しだけ目を細めた。


     夕食のあと、未玖が言った。

    「今日、いい顔してるね」

    「そう?」

    「うん」

     春彦はテレビを見て笑っている。その声が、部屋の中に広がる。

     博道は思う。こんな夜が、かつては想像できなかったことを。


     夜。窓の外に、街灯がひとつ。

     布団に横たわり、目を閉じる。声はない。だが、消えたと断言する気もない。なくなったのではなく、遠のいただけかもしれない。

     それでもいい、と思う。

     人は、完全でなくても眠れる。

     今日一日を終えた。それだけで、十分だ。

     

     隣の部屋から、春彦の寝息が聞こえる。未玖が静かに戸を閉める音。


     生活の音が、夜の中に溶けていく。


     明日が来るかどうかは、知らない。再び揺らぐ日があるかもしれない。

     だが今日、彼は生きた。未玖がいて、春彦がいる。朝、目を覚まし、患者の話を聞き、家に帰り、息子の頭を撫でた。

     それだけの一日だった。けれど、それでいい。


     そして、明日を怖がる誰かが、きっとまた診察室に来る。そのとき彼は、同じことを言うだろう。


     今日を、生きましょう。


     明日を生きるということは、特別なことではない。今日一日を、生きるということ。朝が来て、今日という一日を、もう一度始めること。ただ、それだけなのだ。その小さな単位の中で、彼は静かに息をしている。

     やがて、夜が深まる。呼吸は、穏やかだった。

     明日は、まだ来ていない。

     だがきっとーー

     また今日が、始まる。

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

     
     

    洸詩

     
     
    小説投稿していきます。誰かが、今日も、明日も、頑張って生きよう、そう思えますように。 スキ・コメント励みになります。

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