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桶ジュースと野キツネ


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    ここが舞台です


    第一章 風の音しか聞こえない


    改修工事は、
    最初から最後まで一人。

    工具箱を抱えて歩く。
    脚立を立てる。
    塗る。
    測る。
    また歩く。

    誰とも話さない日も珍しくない。

    朝早く着くと、
    温泉はまだ眠っている。

    海の向こうでは朝日がゆっくり
    空を明るくしていく。

    誰もいない。
    風だけがいる。

    海が近い。
    風が違う。

    山から吹いてくる風と、
    海から吹いてくる風が、
    この場所で混ざる。

    潮の匂い。
    濡れた木の匂い。
    温泉の匂い。
    どれも強くない。

    工具箱を置き、
    深呼吸する。

    今日も一日、
    一人仕事が始まる。

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    一人で仕事をしていると、
    時間の流れ方まで変わる。

    時計を見る回数も少ない。
    携帯電話も鳴らない。

    聞こえるのは、
    波。
    風。
    自分の足音。

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    時々、
    遠くで鳥が鳴く。

    それだけだった。

    静かだった。
    驚くほど静かだった。

    カサッ。

    葉っぱが動く音。
    振り向く。

    何もいない。

    風だった。

    また仕事へ戻る。
    急に世界が変わる。

    BBQテラスから笑い声が聞こえてくる。

    子どもが走る。
    肉が焼ける。
    煙が立ち上る。

    さっきまで、
    風しかいなかった場所が、
    急に人でいっぱいになる。

    私は相変わらず、
    一人で工具を持って歩いている。

    誰も私を見ていない。
    でも、
    子どもたちの笑い声だけは、
    何故かずっと耳へ入ってくる。

    夜9時過ぎ。
    また静かになる。

    最後のお客様が温泉へ入り、
    テラスから笑い声が消える。

    急に風の音だけになる。

    私は片付けを終え、
    駐車場へ向かって歩いた。

    道路の向こうに、
    茶色い影が見えた。

    犬でもない。
    猫でもない。

    細長い身体。
    白い尻尾。

    立ち止まる。

    向こうも立ち止まる。

    風だけが二人の間を通り抜けた。


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    野キツネだった。

    思っていたより、
    細い。

    思っていたより、
    ずっと悪い顔。

    こちらを見ている。

    見ているというより、
    「また来たんか。」
    そんな顔だった。

    一度だけ耳を動かし、
    何事もなかったように歩き出した。

    最後まで見えていたのは、
    白い尻尾だけだった。

    その日からだった。

    朝、
    風の音を聞く。

    昼、
    子どもの笑い声を聞く。

    夕方、
    また風を聞く。

    そして時々、
    あの野キツネと会うようになった。

    第二章 BBQテラスの夜


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    昼は海しか聞こえない


    朝からペンキを塗り続ける。
    仕上がりを見る。
    また塗る。

    誰とも話さない。
    返事をする相手もいない。

    聞こえるのは、
    微かな刷毛の音。

    遠くで鳴く鳥。
    風が木を揺らす音。
    時々聞こえる波の音だけ。

    何もない音にも、
    少しずつ慣れていく。

    昼を過ぎ、
    潮の匂いが少し濃くなる。

    山から吹いていた風が、
    夕方の訪れと共に、
    海の方からゆっくり戻ってくる。

    時計はほとんど見ない。
    空が、
    風が、
    鳥が教えてくれる。

    工事を早々に切り上げ、
    BBQテラスの準備。

    昼間の静けさが嘘みたいに、
    喧噪が始まる。


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    肉の焼ける音。
    子どもの笑い声。
    乾杯。
    ジョッキが軽く当たる音。

    昼間、
    誰もいなかった場所へ、

    人が集まってくる。
    同じ場所なのに、
    まるで違う景色になる。

    少し離れたところから、
    その様子を眺めていた。

    一人で積んだ石。
    汗を流して削った木。
    何度も塗りなおした壁。

    誰も気付かない。
    でも、
    それでいい。

    笑ってくれる人がいるなら、
    それで十分だった。

    夜も更けると、
    少しずつ人が帰っていく。
    BBQの匂いだけが、
    まだ小さく残っている。

    潮風が、
    昼間より少し冷たい。
    静けさが、
    ゆっくり戻ってくる。

    その時だった。

    駐車場の向こうで、
    何かが動いた。

    犬にしては細い。
    猫にしては大きい。
    街灯の明かりの境目で、
    こちらをじっと見ている。

    ……

    気のせいかと思った。

    もう一度見る。
    まだいる。

    細い目だけが、
    こちらを見ていた。

    思わず笑った。

    風だけが、
    何も答えず通り過ぎた。

    第三章 桶ジュースの魔法


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    最初に近づいてきたのは、たぶん、向こうだった。


    最初は、
    お互い距離を測っていた。

    私は作業をしている。

    キツネは少し離れたところから見ている。

    目が合う。
    逃げる。

    ……と思ったら逃げない。

    少し歩いて、
    またこちらを見る。
    「おいおい。」

    人に慣れているのか。
    それとも、
    私が動かなさ過ぎるのか。

    その日からだった。

    夕方になると、
    どこからともなく現れるようになった。

    BBQテラスは、
    今日も賑やかだった。

    肉の焼ける匂い。
    子どもが走り回る声。
    「もう一杯!」
    「乾杯!」

    昼間の静けさなんて、
    誰も知らない。

    裏で片付けをしながら、
    その笑い声を聞いていた。

    それだけで、
    今日も一日終わった気がした。

    宴会が終わる頃になると、
    決まって静けさが戻る。

    紙コップを集める。
    椅子を戻す。

    ジュッ……

    という音だけが、
    夜に溶けていく。

    その時。
    足元で、

    カサッ。

    見ると、
    あいつだった。

    昼間より少し近い。
    逃げる様子もない。

    まるで、
    「今日は終わり?」
    と聞きに来たみたいだった。

    桶を持っていた。
    子どもたちが飲んでいた
    ジュースを冷やしていた桶。

    中には、
    溶けかけた氷が残っていた。

    少しだけ水を入れて、
    桶を置いてみる。

    キツネは動かない。
    しばらくこちらを見る。

    「まぁ、ええわ。」

    少し離れた。
    その言葉が聞こえた訳でもないのに、
    キツネはゆっくり近付いてきた。

    桶を見る。

    私を見る。

    帰っていく。

    何だったのか。
    最後まで分からなかった。

    それからだった。

    夜更けになると、
    桶を置く。

    キツネが来る。

    何となく、
    それが毎日の約束になった。

    誰と約束した訳でもない。

    時間を決めた訳でもない。

    でも、
    どちらかが忘れた日は、
    少しだけ寂しい気がした。

    ある日。
    子どもが聞いた。

    「おっちゃん、
    何で桶置いてるん?」

    私は笑った。
    「何でやろな?」

    本当のことを言っても、
    たぶん誰も信じない。

    この山には、
    夜更けになると、
    桶ジュースを楽しみにしている
    野キツネがいる。

    私と。
    野キツネだけが知っている、
    小さな約束。

    第四章 誰もいなくなったあと


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    何を考えているのかは、最後まで分からなかった。



    夜更け。
    BBQテラスは急に静かになる。

    さっきまで笑っていた人たちは、
    温泉へ向かい、
    やがて寝床へ戻っていく。

    片付けだけが残る。
    テーブルを拭く。
    椅子を戻す。
    桶を洗う。

    子どもたちが群がっていた桶も、
    今は水を切られて、
    静かに逆さまになっている。

    急ぐ必要もない。
    誰かに呼ばれることもない。
    片付けながら、
    ただ音が小さくなっていくのを聞いていた。

    海から風が吹く。
    昼間より少し冷たい。

    その境目が、
    好きだった。

    桶を抱えて歩き出す。
    その時だった。

    何か視線を感じた。
    振り向く。

    ……

    「おいおい(笑)。」

    街灯の下で、
    あいつが座っていた。

    昨日と同じ場所。
    同じ向き。
    同じ顔。

    まるで
    「今日は遅かったな。」
    と言いたけに。

    桶を置いた。
    中には、
    少しだけ水が残っていた。

    キツネは近付いてくる。

    昨日と同じように、
    一度止まる。

    私を見る。
    桶を見る。
    また私を見る。

    この順番だけは、
    毎日変わらない。

    桶を持ち上げる。
    キツネは動かない。

    歩き出すと、
    少し遅れて歩き出す。

    不思議な距離だった。

    人と野生。

    近くもない。
    遠くもない。

    その距離だけは、
    最後まで変わらなかった。

    ある日、
    今日は桶を置かずに歩いてみる。

    キツネは、
    少しだけこちらを見た。
    それだけだった。

    追いかけてもこない。
    鳴きもしない。
    怒りもしない。

    そのまま、
    草むらへ消えていった。

    白い尻尾だけを残して。

    「そら、そやな。」

    その日から、
    試さなくなった。

    桶があっても。
    なくても。

    会える日も。
    会えない日も。

    全部ひっくるめて、
    この場所なんだと思うようになった。

    夜の露天風呂から、
    湯気がゆっくり空へ上っていく。

    桶を抱えながら、
    その湯気をしばらく見ていた。

    風が吹く。
    湯気がほどける。

    その向こうで、
    白い尻尾だけが、
    一度だけ揺れた。

    第五章 また、風が吹く


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    同じ夕日は、二度とない。


    工事が終わった。
    BBQテラスも。
    温泉も。
    いつもの営業へ戻っていく。

    仕事も終わった。
    工具を片付ける。
    脚立を積む。

    最後にもう一度だけ、
    露天風呂へ向かった。

    誰もいない。
    湯気だけが、
    ゆっくり空へ上っている。

    夜の賑わいが、
    嘘みたいだった。

    海を見る。
    夕日が、
    静かに沈み始めていた。

    潮の匂い。
    温泉の匂い。
    少しだけ残った炭の匂い。

    全部混ざって、
    あの場所の空気になる。

    その空気が好きだった。

    振り返る。

    BBQテラスは静かだった。
    笑い声はもうない。
    桶も洗われ、
    逆さまになっている。

    何もない。
    でも、
    そこだけは、
    まだ誰かが笑っている気がした。

    最後に、
    桶を一つ持ち上げた。
    軽い。

    来た日と同じ桶なのに、
    何となく違う。

    人も、
    道具も、
    風景も、
    何も変わっていない。

    帰ろう。
    そう思った時だった。

    カサッ。

    小さな音がした。
    振り向かなかった。
    振り向かなくても、
    分かった。

    「ほなな。」

    それだけ言って歩き出す。
    返事はない。

    歩きながら、
    ふと思った。

    あの野キツネは、
    明日も来るんだろう。

    その次の日も。
    夕日が沈めば、
    どこかで、
    また道路へ寝転がって
    いるのかもしれない。

    私はもういない。
    でも、
    あの場所の時間は、
    今日までと同じように流れていく。

    海へ、
    一本の光が伸びていた。

    初めて見た日と、
    同じ景色。

    でも、
    初めて見た景色ではない。

    車へ乗り込む。

    エンジンを掛ける。
    窓を少しだけ開ける。

    最後にもう一度、
    潮の匂いが入ってきた。

    深呼吸する。
    ゆっくり窓を閉める。

    バックミラーの中で、
    夕日が少しずつ小さくなる。

    前を見る。
    もう振り返らない。

    それでも時々、
    夕方になると、
    あの場所を思い出す。

    海へ伸びる光。
    誰もいない露天風呂。
    子どもたちの笑い声。
    桶ジュース。
    潮風。

    道路の真ん中で、
    ふてぶてしく寝転がっていた
    野キツネ。

    あの日見ていたのは、
    夕日だったのか。
    キツネだったのか。
    温泉だったのか。

    違う。

    たぶん、
    あの時間に流れていた
    時間を見ていた。


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    ホテル•不動産•改修現場など、実体験をベースで「現場」に起きる構造を観測しています。 RM、属人化、分断、現場崩壊、改修、競売。 数字や仕組みだけでは成立しない、'現場で本当に起きたこと'、'綺麗ごとでは回らない現実'など「現場の温度」を実務目線で書いていきます。

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