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僕たちのNYノートができるまで

    こんなときに、家族4人でニューヨークへ行こうと思った理由

    6歳の頃。生まれて初めて、アメリカの地を踏みました。


    父と母は、大学時代をアメリカで過ごしています。70年代のアメリカ。自由な空気、そこで出会った人々との日々。留学時代は、青春そのものだったのだと思います。

    帰国後の二人を待っていたのは、就職、結婚、そして僕たち兄弟の誕生。
    目まぐるしい日々の中で、アメリカはいつしか遠い場所になっていたのかもしれません。新婚旅行が伊豆だったと聞いたとき、父がどれほど忙しかったかは想像に難くありませんでした。

    結婚10周年。
    母の中に燻っていたアメリカへの想いが、再び熱を帯び始めたと聞きました。

    「もう一度、あの場所へ行きたい。この子たちと、アメリカを体感したい」

    けれど、クライアントワークに追われる父が長い休みを取れるはずもなく。母が諦めかけたその時、父がこう言ったそうです。

    「子供たちと3人で行っておいで」

    この一言が、すべての始まりでした。

    母が描いた旅の地図は、ニューヨーク、オハイオ州クリーブランド、そしてロサンゼルス。
    ニューヨークには留学時代の友人一家が駐在していて、クリーブランドには寮のルームメイトだったケイトがいる。ロサンゼルスでは、偶然にも近所に住む友だち一家が親戚を訪ねているらしく、合流する計画でした。

    仕事の合間をぬって、父は空港まで見送りに来てくれました。
    その時の父と同じ歳となる今、その感情が痛いほどわかります。家族と過ごす時間のかけがえのなさと、仕事に対する責任感。その狭間で揺れる心を押し隠し、笑顔で僕たちを見送ってくれた父の背中を、今なら少しだけ理解できる気がします。

    初めてのアメリカ。鮮明に記憶に残っているのは、クリーブランドでの日々です。日本語が通じない。周りはみんな外国人。観光ではなく、アメリカの家庭の中に飛び込んで過ごした日々は、幼い僕にとって最初の異文化体験でした。

    空港で迎えてくれたのはケイト、そして子どもたちのダニエルとアレックスでした。
    彼らは僕とほぼ同い年。言葉の通じない外国人と、どう接すればいいのか分からず、少しだけ緊張したのを覚えています。

    庭で一緒にボールを追いかけ、ケイトが焼いてくれたお菓子を頬張り、身振り手振りで会話を試みては笑い合う。気づけば、僕たちはすっかり仲良くなっていました。

    心が近づけば近づくほど、もどかしさも大きくなります。

    「もっと彼らのことを知りたい」

    英語が話せたら、どんなにいいだろう。そんな憧れが、静かに芽生え始めた瞬間でした。

    ケイトの家は、消防士の旦那さんが自らの手で建てたという平屋で、温もりに満ちていました。広い庭には大きな木々の間にロープが渡され、手作りのタイヤブランコが揺れています。夕暮れ時になると木製のテーブルに料理が並べられ、21時頃まで明るい空の下で食事をする。それが滞在中の何よりの楽しみでした。

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    滞在中のある日、ケイトの旦那さんが勤める消防署を見学させてもらえることになりました。

    そこで僕の目に飛び込んできたのは、鮮やかな黄色の消防車。

    「消防車は赤い」

    それまで疑いもしなかった常識が、目の前で崩れた瞬間でした。
    驚いて母に伝えると、母はこう言いました。

    「あなたの常識は、他の人にとっては常識ではないのかもしれないね」

    その言葉は、幼い僕の心に深く刺さりました。
    世界には、自分の知らない「当たり前」がたくさんある。
    6歳の夏、身をもってそれを知りました。

    大人になった今、あの旅がいかに特別なものだったかを痛感します。

    父の決意と母の行動力がなければ、僕の世界はきっと、今よりもずっと小さなものだったと思います。
    それは、ふたりがくれた、「世界はこんなにも広いんだ」という贈り物だったのだと。

    そんなことを思い出していた、2025年の夏。
    僕は8歳の息子と6歳の娘を連れて、家族4人でアメリカへ行く決意をしました。


    ニューヨークへ旅立つ準備

    行き先は、ニューヨーク。

    ハワイの青い海や、ロッキー山脈が連なる雄大な山々も素晴らしい。
    でも、僕が子どもたちに見せたかったのは、単なる美しい景色ではありません。人種、言語、宗教、価値観。あらゆることが「ごちゃ混ぜ」になった世界。自由という名の裏側に潜む厳しさや、圧倒的なパワーを肌で感じて欲しかったのです。

    行き先は決まったものの、次に来るのは現実という名の「予算」との戦いです。

    軽い気持ちでJAL・ANAの予約サイトを覗いてみると、表示された金額を見て思わず「高っ!」と声をあげてしまいました。
    家族4人、ニューヨーク往復。その金額は、ちょっとした軽自動車が新車で買えてしまうのではないかという域に達していました。

    「日系エアラインは、一旦忘れよう…」
    静かにブラウザを閉じ、そこからは比較サイトでひたすら最安値をモニタリングする日々が始まりました。

    そしてついに発見します。
    ユナイテッド航空の羽田ーニューアーク便で、これなら手が届くという金額の航空券を見つけたのです。

    しかし、ここで「慎重派」という名の優柔不断が顔を出しました。支払い総額が画面に表示されると、指が購入ボタンの上で震えます。
    数日探して、これだけ安いのを発見できたのだから、もう少しだけ様子を見れば…。
    結局、「一晩だけ寝かせて、冷静になろう」と自分に言い聞かせ、その日は画面を閉じました。

    これが、痛恨のミスでした。

    妻との相談も終えた翌朝、やっぱり決意を固め、期待に胸を膨らませて購入する気満々でサイトを開くと、あの「価格」は跡形もなく消え去り、そこには冷徹に値上がりした数字が並んでいました。

    一瞬の躊躇で、目の前を泳いでいた魚を逃したような喪失感。
    僕は一体何をやっているのか…。

    その後数日間、落ち込みながらもモニタリングを続けます。
    普段のネット注文なら、秒速でポチっているのに、なぜ人生の勝負どころでこんなにもチキンになってしまったのか。自分への不甲斐なさで、ニューヨークが遠い彼方へと去っていくような気分でした。

    数日後、比較サイトの画面を眺めながら、ふと思いました。

    「何も、直行便である必要はないじゃないか」と。

    むしろ、子どもたちにはアメリカの巨大な空港でのトランジットこそ、良い経験になるはず。
    僕らが過去に経験したような、あの無駄に広大なターミナルを、半ベソをかきながら次のゲートを探して疾走する。
    そんな旅の醍醐味も味わってしまえば良いと想像しました。

    機内のサービスだってそうです。日系エアラインの至れり尽くせりな「おもてなし」も素晴らしいけど、アメリカの航空会社の、あの中途半端に雑な…もとい、フランクすぎるくらいのサービスに放り込まれる方が、彼らのためになる気がします。
    「一度上げた生活レベルは下げられない」なんて生意気なことを言い出す前に、世界の標準的なサービスというものを叩き込んでおかねばなりません。

    自分の中で妙に納得しつつ、検索条件を「乗り継ぎあり」に切り替えて更新ボタンを叩きました。

    すると、そこには一筋の希望が。
    当初狙っていたユナイテッドの直行便よりもさらに安く、デルタ航空のフライトが誇らしげに表示されていました。

    羽田ーデトロイトーニューアーク。悪くない。どころか最高です。

    「もう二度と同じ過ちは犯さない。」

    速攻で妻を呼び出し、鼻息も荒く「これで買うからね!」と宣言しました。しかし、画面の端には「キャンセル・変更不可」という冷酷な文字が。
    一度クリックすれば、もう後戻りはできません。

    妻とじっと目を合わせました。
    言葉はありませんでしたが、互いの目には同じ覚悟が宿っていました。
    「行くしかない」。
    震える指先で、今度は迷わずマウスをクリックしました。

    こうして、僕たちはついに、ニューヨークへの”片道”切符(正確には往復ですが)を手に入れたのです。

    滞在先にも、ひとつこだわりがありました。

    「ニューヨークへ行く」と言いつつ、拠点を構えたのは川を挟んだお隣のニュージャージー州。マンハッタンの高騰する宿泊費を避け、キッチン付きの部屋を確保するための選択です。

    毎朝、フェリーや地下鉄に揺られ、現地の通勤客の波に紛れてマンハッタンやブルックリンへ繰り出す。それは観光客としての訪問ではなく、生活者としての移動です。

    現地のスーパーで巨大なパンやハムを買い込み、昼食用のサンドイッチをこしらえてから街へ出る。
    一日中歩き疲れて戻ってきた夜は、日本から持ち込んだお米を炊いたり、うどんを茹でたりして、地元のデリで買ったおかずと一緒に食卓を囲む。

    目指したのは、そんな「暮らすような旅」でした。
    かつて母が、友人の家を渡り歩きながら僕たちにそうしてくれたように。


    機内に響く「アポージュープリーズ」

    「早く寝なさい!絶対に風邪をひけないんだから!」

    ニューヨークへの航空券を決死の覚悟で購入した我が家において、このセリフは出発直前まで何度となく家中に響き渡りました。

    毎朝のオレンジジュースでビタミンCを補給し、寝る前のR1で免疫を高めることは絶対。夜9時前には完全消灯という、とても夏休みの小学生とは思えないストイックな生活を送っていたのです。

    出発にあたり、子どもたちには、少しでもいいから現地の人と交流する準備をして欲しいと話しました。

    僕から伝えたこと。
    「ハロー」「サンキュー」そして、魔法の言葉「プリーズ」。

    何か欲しいとき、お願いするとき、この「プリーズ」をちゃんとつけて言うことを提案しました。言葉が充分に伝わらなくても、これだけで「何か頼んでいるな」と相手は察し、ずっと伝わりやすくなるんだと。

    でも、一番大事なのは、どんなときも相手に伝えたい気持ちをちゃんと持つこと。言葉がうまく出てこなくても、自分の思いを一生懸命に伝えようとすれば、きっと何かが伝わるはずだと思うことも。

    そして、高校生の頃、アメリカに留学していた頃の話をしました。

    ──留学先で体育の授業を受けていた時のことです。

    1時間目の授業だったので、学校に着くとそのまま体育館のロッカールームへ行き、着替えながら友人たちと話すのが日課になっていました。
    留学して間もないある日、一つ年下の男の子が「今日お金を忘れちゃったから、1ドル貸してくれないか?」と話しかけてきました。
    当時はまだ友達も少なく、これをきっかけに仲良くなれればという思いもあり、「明日返してくれればいいよ」と、深く考えずに貸してしまったのです。

    しかし、それが間違いでした。
    次の日になっても、その次の日になっても、彼は知らん顔。

    ついに痺れを切らした僕は、
    「あの時貸した1ドルはどうなったんだ?」
    と問い詰めました。
    すると彼は、
    「え、何のこと? 君の英語、何言ってるか全然わからないよ」
    と、しれっととぼけてきたのです。
    頭に血が上りましたが、相手を言い負かすだけの英語が咄嗟に出てきません。

    悔しい。あまりにも悔しすぎる。

    その時、自分でも何がスイッチになったのか分かりませんが、気づいた時には猛烈な勢いの「日本語」で捲し立てていました。

    僕があまりにも真剣な顔で怒鳴り続けるので、相手は「こいつ、正気か?」とでも言いたげな顔で完全に引いていました。
    そのまま一歩も引かず日本語で詰め寄った結果、彼もすっかり怖気づき、ようやく1ドルを差し出してきたのです。

    そこで問いかけました。

    「お父さんが、この話で一番伝えたいことは何だと思う?」

    「英語が上手に話せるかどうかも、もちろん大切だよ。でも、何より大事なのは、相手に自分の思いを届けようとする強い気持ち。困っているなら困っていると、怒っているならその感情を、真っ直ぐに表現すれば、同じ人間同士、どんな気持ちなのか通じ合える。だから、英語が分からないからって最初から諦めるのだけはやめてほしいんだ」

    魔法の言葉「プリーズ」と、お父さんから伝承された「伝えるための心意気」、そして、いくつか覚えた身近な英単語を武器にして、出発の日を迎えました。

    子どもたちは羽田空港に到着した瞬間からテンション全開。これからはじまる大冒険に、期待で胸を膨らませてウキウキが止まらない様子です。

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    一歩機内へ足を踏み入れると、そこはもうアメリカでした。
    ずらりと並ぶ外国人CAさんたち。響き渡る英語の挨拶。さっきまではしゃいでいた子どもたちの顔に、ほんの少しだけ緊張の色が混じります。

    離陸後、しばらくして飲み物の機内サービスが始まりました。
    すると突然、通路を挟んだ僕の耳に、息子の大きな声が飛び込んできました。

    「アポージュープリーズ!」

    それに負けじと、娘も続きます。

    「アポージュープリーズ!」

    CAさんはにっこりと頷き、二人の手元にApple Juiceを差し出しました。
    自分の発した言葉が、目の前の外国人に「英語」として理解され、望んだ通りの結果として返ってきた。

    現地に到着し、飛行機を降りたところで「どうだった?」と尋ねてみました。すると二人は、「え、普通だよ?」と言わんばかりのドヤ顔で、「英語でお願いしたよ」とクールに答えてくれました。

    機内での何気ないやり取り。でもそれは、子どもたちが「伝えることの喜び」を知った、確かな成長の瞬間でした。

    今回の旅程では、デトロイトを経由となるため、入国審査もそこで済ませることになります。

    「いよいよアメリカに来たね」

    僕ら家族のアメリカでの時間が、今まさに始まろうとしていました。

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    旅をすることで完成するノート

    ニューアーク国際空港に到着したのは、すっかり夜も更けた頃でした。その日は移動の疲れもあるため、空港近くのホテルへそのままチェックイン。

    翌日、最初に向かったのは、子どもたちのリクエストがあったタイムズスクエアでした。

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    タイムズスクエアの中心部へ進むには、手製のミッキーやスーパーマンの格好をした人たちをかき分けていかなければなりません。
    「チップを要求されるから気をつけて」とあらかじめ教えていたため、娘は目を合わせないように避けるどころか、少し恐怖に怯えているようでした。
    繋ぐ手が「ギュッ」と力強くなったのを感じました。

    タイムズスクエアに到着し、一通り写真を撮り終えるやいなや、子どもたちは「次、どこ行く!?」と、その圧倒的な切り替えの早さで僕らを驚かせるのでした。

    そこで、僕からの提案です。

    「あそこのギフトショップに行こう」

    着いて早々どこにでもありそうなチープなギフトショップへ行くなんて。普段なら言い出さないような一言に、妻までもが「一体どうしたの?」と言わんばかりの、困惑した表情を浮かべていました。

    実は出発前、僕は二人にあるプレゼントをあげていました。

    「このノートを二人に授けよう!」

    バインダーノートを渡された、子どもたちは不思議そうにキョトンとしていました。

    「ニューヨークに着いたら使うから、リュックに入れて持っていってね」

    そう伝えていた"謎のノート"について、いよいよ種明かしをする時が来たのです。

    「この前のノート。旅の思い出を詰め込んで、自分だけのオリジナルなものに完成させていくと、この旅がもっと楽しくなると思うんだ」

    ギフトショップへ行くと、そこには思った通りニューヨークにまつわるステッカーがいくつも売っていました。

    「まずは表紙に好きなステッカーを貼っていこう」

    訪れた先々で思い出のステッカーを集め、ノートの表紙やページを彩っていくのはどうか。バインダーの中のクリアファイルには、パンフレットやチケットの半券、スタンプなどを挟み込み、その日の出来事を日記として綴っていく。

    そうやって、旅が進むにつれて一冊の「ノートを育てていく」という楽しみ方を提案しました。

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    「それ、最高!」

    その日から子どもたちのノートには、メトロカードや旅行中お気に入りとなったソーダのラベル、ハンバーガーに刺さっていた小さな旗など、旅の「カケラ」が次々と集まってきました。パンフレットの折り目や、ペンで書いた子どもたちの文字、旅先で拾った紙切れひとつひとつ── それらがバインダーの中で重なり合い、単なる記録を超えた、「僕たちだけの物語」として形を持ちはじめました。

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    旅の最後には、蚤の市で見つけたお気に入りのポケモンのアメリカ仕様のポケカや、ゲームセンターで手に入れたマイクラのカード、そして紙の航空券まで。旅の途中で拾い集めたあらゆる思い出がぎっしりと綴じられ、世界にたった一冊しかない、最高に愛おしい旅の記録が完成したのです。

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    あらためて旅を振り返ってみると、写真以上に雄弁だったのは、ノートに集まった小さな「カケラ」たちでした。それらは、僕たち家族の記憶を、当時の空気感そのままに鮮やかによみがえらせてくれたのです。


    食欲そそるグリルコーン

    ニューヨーク行きが決まってから、子どもたちと経験したいことを一緒に考えました。せっかくのこの旅です。親が子どものために考えるという構図ではなく、子どもたちにも主体性を持って楽しんで欲しいと思ったからです。

    そして、出てきたのは、「アメリカのお料理を作ってみたい」という言葉でした。

    ネットで探し、親がサポートするものの、子どもたちは全く英語が話せないことなどを事前に説明した上で、快く受け入れてくれたクラスへ参加することとしました。

    土曜日の朝のマンハッタンは、いつもの平日とは違い、少し静かに感じました。

    教室に着くと、若い女性の先生が元気に迎え入れてくれました。
    大きなテーブルが4つ。事前に材料が並べられています。

    テーブルに並べられた材料に目をやると、そこには砂糖や粉類のほかに、プリッツェルなどのスナック菓子も置かれていました。

    すると、先生が近づいてきて言いました。

    「おはよう!みんなが揃うまで、もう少し待っててね。それと、テーブルの上のスナックは待っている間とか、お料理中にも自由に食べてね」

    数日前にアメリカ入りし、僕の頭の中はまだまだ日本仕様でしたが、その瞬間、「そうだ、ここはアメリカだ」と、はっきりと切り替わりました。

    「お料理中に自由に食べてね」なんて、日本の料理教室で聞いたことあったでしょうか。

    日本の料理教室といえば、お菓子を食べながら教えてもらうなんて、まずありえないと思います。むしろ、料理の味見すらも、決められたタイミングで行うような、ある種の「儀式」のような雰囲気が漂っているもの。
    「待っている間も、料理中も、好きな時にどうぞ」この自由さに、僕は思わず「にやっ」としてしまいました。

    「アメリカっぽいなぁ」

    これは自由に食べていいんだよと子どもたちへ伝えると、ふたりは一瞬、何をしていいかわからないような表情を浮かべていました。

    きっと、「ちゃんとやらなければ」という気持ちと、「でも、食べていいって言われた」という気持ちが、頭の中でぶつかっているのでしょう。

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    クッキングを終え、お昼ご飯はブルックリンのSmorgasburgへと向かいました。数十の屋台が出店して多国籍なグルメを青空のもと楽しめる屋外フードマーケットです。

    テントが並ぶ広い会場に到着すると、子どもたちは目を輝かせながら、どれを食べたいか目移りしていました。

    それぞれの屋台で料理を調達するとベンチに集合。
    川沿いの青空のもとで、家族で囲む食事は特別な時間になります。

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    妻が「ちょっと待ってて」と立ち上がり、しばらくして満面の笑顔で戻ってきた手にあったのは、メキシカングリルコーンでした。
    とうもろこしを焼いて、チリパウダーやパルメザンチーズを振りかけた、いわばメキシカンな焼きとうもろこしです。
    妻は、海外に出ると食べ物への嗅覚が一段鋭くなる人で、初めての屋台街でも、迷いのない足取りで本命を見つけてくる。
    「これこれぇ」と頬張る横顔は、もう完全にブルックリンの空気に馴染んでいました。

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    すると、

    「Excuse me.」

    と、現地の人と思われる夫妻から声をかけられました。

    「Where did you get that corn? (そのコーンはどこで買ったんだい?)」

    と尋ねられたのです。

    妻に買った場所を聞き、その屋台まで連れて行ってあげることにしました。屋台まで案内しながら、思いました。

    僕たちは自分たちのことを、観光客丸出しだと思っていたんです。
    でも、この夫妻は、僕たちが日本人だろうが、観光客だろうが、関係なく声をかけてきた。日本にいたら、こんな風に観光客に尋ねるなんてことは、まずしないと思います。

    人種や国籍、ビジターかどうかなんて、そもそも関係ないから声をかけてきたのだと思います。改めて、ニューヨークの多様性や開かれた文化を再認識しました。
    そして、こんなことを、子どもたちにも伝えました。

    僕たちは、どこにいても一人の人間で、言葉が通じるかどうか、ビジターかどうか、外国人かどうか。そんなことは関係ないと。

    「日本人と外国人」「観光客と現地の人」という区別が、日本の中に深く根付いていて、その区別が、無意識のうちに自分の行動や考え方を制限しているシーンも多く見られるかもしれません。

    子どもたちには、最初からその壁を持たないでいてほしい。
    どこの国にいても、目の前の人にまっすぐ声をかけられる。あの夫妻が僕たちにそうしたように、それが当たり前の感覚として、子どもたちの中に残ってくれたらと思います。


    自由の女神をもとめて

    子どもたちが熱烈に楽しみにしていた、この旅のイベント。

    American Dreamのウォーターパークを訪れたとき、そのスケールの大きさに圧倒されました。

    天井まで届きそうなウォータースライダー。まるで海のような波のプール。大音量で鳴り響く音楽。

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    日本の感覚からすると「ここまでやるのか」と思うほどのダイナミックさで、テーマパークとプールが融合したような空間が広がっています。

    子どもたちは夢中になってプールを駆け回り、僕たちも一緒になって何時間も遊び続けました。家族みんなで遊びきった充実感と疲労感を、帰りの出口へ向かう足取りの重さで体感しました。

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    普段は仕事や学校に追われ、一週間もの間、家族全員が四六時中同じ体験を分かち合うことは、決して簡単なことではありません。すぐ隣で、子どもたちが何を考え、どんな表情で世界を見つめているのか。その一つひとつを今回の旅では普段の生活以上に感じ取ることができました。

    ──そんななか、旅の終盤、息子のちょっとした異変に気づくこととなります。

    どこへ行くにも、息子の返答はどこか上の空。
    何かを考え込んでいるような、心ここにあらずといった表情が続きます。

    最初は僕も妻も「どうした? どこか行きたい場所でもある?」と優しく気遣っていましたが、はっきりしない態度が続くうちに、僕たちの心にも少しずつトゲが混じり始めました。

    「そんな態度じゃ、せっかくの旅行がつまらなくなるよ」

    気づけば心配は苛立ちへと変わり、ついには若干の険悪な空気になってしまいました。

    息子は意を決したように言いました。

    「自由の女神の置物が記念に欲しいんだ」

    思い返せば、この旅の最中、僕と妻はことあるごとに「円安とインフレですごい値段だね」と顔を見合わせていました。
    子どもたちへは直接お金の話はしていませんでしたが、これほどの体験をさせてもらっているのだからと、彼なりに何かをねだるということに遠慮を感じていたのかもしれません。

    それにしても、なぜ「置物」だったのか。
    僕には一つ、心当たりがありました。

    それは数年前、仕事の都合で家族で大阪へ移り住んだときのことです。見知らぬ土地で支え合った2年間の節目に、妻が記念に買ってきたのが「太陽の塔」の置物でした。

    東京に戻り、その置物は今もダイニングテーブルの脇の戸棚に置かれており、ふとした瞬間に視界に入ります。それを見ては「大阪に住んでた頃に行ったあそこ、楽しかったね」と、家族の会話が自然に弾むことがよくあります。

    きっと、このニューヨークの記憶も同じように、形にして持ち帰りたかったのでしょう。いつまでも家族のそばに置いておける、思い出として。

    そうして、これまで「一体、どんな人が買うのだろう」と不思議に思っていた自由の女神の置物を手に入れるため、僕たちはギフトショップへ向かいました。

    息子は数え切れないほどの種類の中から、自分だけの一体を選び出し、大切にレジへ運びました。箱に収められたそれを受け取る彼の表情は、どこか誇らしげに見えました。

    その日の帰り道、マンハッタンからフェリーに揺られながら、息子は自由の女神が入った袋を「ぎゅっ」と抱きしめていました。

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    「これは、絶対に落としてはいけないから」
    そう宣言し、波の揺れに必死に耐える息子。

    この置物が、これから何度も僕たち家族をニューヨークの記憶へと連れ戻してくれるのかなと考えながら、その小さな背中を見つめていました。




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    Gen

     
     
    都内在住、2児の父。リモートワーク中心の会社員。カルチャーが好き。|音楽|映像|料理|お酒|アメリカ|

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