
穴ぼこ
不思議の穴ぼこ。
君は知ってる?
見える人には見えるらしい。
俺はまったく見たことがない。
噂で聞くには、それは宙に浮かんでいて、それほど大きくなく、だいたい拳が入るくらいのサイズなんだとか。
ドラえもんのタイムマシンの出口みたいに、瞬間的に現れては、しばらくしたら自然と消えている、そんな穴らしい。
友人の友人が見たとか、それらしき又聞きはするものの、実際に見た人間には会ったことがない。
それが現れるには条件があるようで、ある人が言うには、月の残業時間が100時間を超えた人間、自死を願ったが叶わなかった人間、ジェイゾロフトを処方されて5年以上経つ人間など、どうも要領を得ないものばかりだ。
仮にそれが条件なら、そろそろ俺の前に現れてもいいはずだろう。
人に自慢できるような人生は送ってこなかった。
その結果いまはやりたくもない仕事に忙殺され、ただでさえ薄っぺらな精神はすり減るばかりだ。
そろそろ超自然的な現象が俺を救ってくれてもいい頃だろう。
世界滅亡までは望むまい、癒しをくれるような陰謀論もそろそろ効果が切れてきた頃だ。
未来の国からはるばるとやってきて救ってくれる人がいるわけでもない、引きこもりを脱却させてくれる女子高生が現れるわけでもないんだ。
現実にそんなことが起こり得ないのは、今まで生きてきてよくわかった。
大前提として、その穴が人々に何をもたらすのかを、俺は知らない。
分かっているのは、その穴が神出鬼没に現れては消えること、それがどうやら限界を迎えている奴らの前に現れる可能性が高いということだけだ。
その穴が俺を救ってくれるとは思っていない。ただ「その穴が俺の前に現れること」は俺を救う一因になるかもしれない。
家族も、友人も、職場の人間も、心療内科のカウンセラーも認めてくれなかった俺の限界を、その穴だけが認めてくれるかもしれない。
感情なんて入る余地のない、一種のシステムとして。条件分岐の天秤にかけてくれるかもしれない。
ーー10年後、39歳を迎える年の春に、俺はそれを見つけた。
なんてことはない、ずっとそこにあったんだ。
俺はそれに今まで気が付かなかっただけなんだ。
視界の右側、手に触れられる位置にそれはある。
噂に聞いていた通りの、小さな黒い穴。
ひとつだけ違うのは、その穴を縁取るように種のような大きさの文字が円を描いて踊っている。
「WELCOME!」
間の抜けた赤色のくだらない文言が、くるくると回っている。
そうだったんだな。ようやく俺は報われたわけだ。
ずっとそばにいるはずのそれに、気が付くことができるかどうか、そんな概念の象徴のようなツラをしてその穴はそこに佇んでいる。
俺はその穴に何を入れるべきか検討しはじめた。
古来より、穴とは何かを入れるために存在するものだ。落とし穴を掘るのはそこに獲物や人間を入れるためだ。山中に深く穴を掘るのも同じ理由だ。
この穴にも何かを入れてやるべきだろう。
入れて初めて、この穴の、穴としての機能が立証されるのだ。
しばらく考えあぐねた挙げ句、俺はそこに右腕を突っ込んでみることにした。
右腕だけでも、せめて右腕だけでもこのくだらない世界から解脱させてあげてくれ。
そんな思いで俺は、穴に右腕を刺し入れた。
穴はみるみるうちに俺の右腕を飲み込み、どういうわけかそのまま俺の全身をその虚空の中に引き摺り込んだ。
これは予想していなかった。
見た目に騙されてはいけない、そういうことか。
ここには、何もない。
ただ黒い空間が広がっているだけだ。
目を開けても、閉じても景色は何も変わらない。
漠然とした闇がただ広がるばかり。
いや、その闇が広がっているのか、眼前に迫り来るものなのかすら測ることは難しい。
でも、どこか温かい。
ずっと求めていた温もりが、ここにはある。
何もないはずのこの空間は、今の俺を満たす。
胎動のように俺を揺り動かしている。
ついに辿り着いた。
この境地に。
消えたいと願いながら、臆病からそれを実行できなかった俺も、ついに無を手にしたんだ。
これこそが俺の望んだ結末だ。