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はりぼてくん

    男は、小さいころから貧しかった。

    欲しいものは、いつも手を伸ばしても届かない場所にあった。

    店先に並ぶ靴を、ガラス越しに見つめる。

    値札ではなく、履いている誰かの足元ばかりを目で追っていた。

    笑い声がすると、つい振り向く。

    自分に向けられたものではないと分かっていても、反射のように。

    男は母親と生活を共にしていた。

    ひび割れた手でいつも男の頬を撫でてくれた。

    そのぬくもりだけが、泥のような日々の中で男を繋ぎ止める唯一の錨だった。

    ほんの少しでいい。

    雨をしのげて腹が鳴らず、夜に安心して眠れる。

    そんな平凡な暮らしを、ただ願っていた。

    そう思うたびに、なぜか他人の暮らしの輪郭ばかりが、くっきりと浮かんだ。

    男には、ひとつだけ奇妙な能力があった。

    自分が手に入れたいと思ったモノと――

    それを持つ誰かの想いが重なると、空気がかすかに揺れる。

    胸の奥がざわつき、景色の端がぐらりと歪む。

    その歪みの中心へ手を伸ばすと、

    気づけば、それがいつのまにか男の手の中にあった。

    幼少期はそれがただ怖かった。

    その能力を使うと、自分のどこかが欠けていく気がした。

    だが、やがて男はその欠けた場所を探さなくなった。

    ほんの少しの食べ物と、わずかな金があればいい。

    それだけで、昨日よりはましな一日になる。

    男にとってはそれで十分なはずだった。

    しかし、とある出来事で男のこころは変わってしまった。

    ある日、露店で紅茶を飲んでいるときに、隣のテーブルの若者たちの声が聞こえてきた。

    「いつか自分の店を持つんだ」

    そう言いながら、若者の手には民芸品が握られていた。

    男の視線は、若者の手元に吸い寄せられた。

    指先で弄ばれている小さなペンダント。

    その瞬間、空気がわずかに揺らいだ。

    胸の奥がざわつき、視界の端が歪む。

    歪みの中心が、淡くこちらへ開いている。

    気づけば、男はそこに手を伸ばしていた。

    ――途切れた。

    若者の言葉が、不自然に切れる。

    何かを言い足そうとして、口だけが残った。

    やがて、照れたように笑う。

    だが、その目はさっきまでの熱を失っていた。

    男の手の中には、ペンダントがあった。

    握った瞬間、鼓動が一拍ずれる。

    遅れて、呼吸が追いつく。

    世界の輪郭が、急に濃くなる。

    まだ訪れていないはずの光景が、一瞬だけ差し込んだ。

    すぐに消える。

    だが、胸の奥に残ったものは消えていなかった。

    前へ進める気がした。

    理由もなく、どこへでも行ける気がした。

    それは彼が一度も持った事のない快感であった。

    「これが……」

    男は、言葉を飲み込んだ。

    胸の奥に残っているものの正体を、

    口にした瞬間、消えてしまいそうな気がした。

    その日を境に、彼の盗みは変わった。

    物ではなく、誰かが人生を賭けて抱いた感情を求めるようになった。

    奪うたびに、男の欲望が大きく満たされていく感覚はあるが、何かが削れていく感覚もあった。

    次第に他人の熱を貼り付けていかなければ、自分という形を維持できないと感じた。

    この妙な違和感を男は快感と置き換えていた。

    しかし、他人の感情の抜き取りを重ねていくにつれて、

    自分の感情の位置が、少しずつズレている感覚があり、そしてそれは膨れ上がった。

    どこまでが本当の自分で、どれが奪い取った他人の感情なのか。

    境界がぼやけていく。

    男が飼っていた小鳥が死んだ。

    籠を開けたまま、しばらく立っていた。

    何をすればいいのかが、分からなかった。

    男はある日、鏡の前で足を止めた。

    映っている男と、目が合わなかった。

    視線を合わせようとすると、わずかに遅れて動く。

    笑ってみせても、口元だけが形をなぞる。

    自分の輪郭が、背景から切り抜いて貼り付けた画用紙のように浮いて見えた。

    ――誰だ、こいつは。

    しばらく見ているうちに、違和感だけが残った。

    何が違うのかは分からない。

    ただ、自分の顔を見ているはずなのに、確かめる手応えがない。

    胸に手を当てる。

    鼓動はある。

    だが、それを感じているのが自分なのかどうかが、分からなかった。

    男は、息を吐いた。

    全部、戻そうと思った。

    奪った物を返せば、そこに結びついていたものもほどけていく気がした。

    衣服や靴、地位を手放す。

    住んでいた部屋を出る。

    ペンダントを、元の場所へ戻す。

    最後に母親の顔が浮かんだ。

    しかし呼び方が分からなかった。

    目の前にいる女は、こちらを見ている。

    それだけは分かる。

    だが、その視線に覚えがない。

    口が、何かの形を作りかけて止まる。

    名前だったのかもしれない。

    眼前の女が本物の母なのか、それとも誰かから奪った記憶の残骸なのか、判別する術がなかった。

    男は手放した。

    何かが、静かに剥がれ落ちていく。

    周りは、何事もなかったかのように整っていく。

    やがて、男には何も残らなくなった。

    ――これでいい。

    そう思った。

    そう思ったはずだった。

    胸に手を当てる。

    鼓動はある。

    だが、それが自分のものかどうかすでに分からなかった。

    男は、小さいころから貧しかった。

    そして今も何ひとつ、持ってはいない。

    胸の奥で、何かが脈打っている。

    男はそれが何かも気にせずに歩き出す。

    一歩。

    脈がそれに連動して正確に打つ。

    男は歩き続けた。止める理由は思い出せなかった。

    軽く、空っぽのまま。

    まるで、はりぼてくん。

    ――また、同じか

    どこかで、そんな声がした気がした。


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    ハードSF、歴史(日本史、世界史)の長編小説や映画、漫画が好きです。物語の世界感やキャラの背景がしっかりしていると一気にはまっていくタイプです。自分でも、心を動かせられる小説ができたらいいな、と思っています。アドバイスいただけたら幸いです。

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