
ニセモノ・パンデミック 〜元カノの会社を手伝ったら、うっかり潰しかけた話〜
元カノと妻が、契約を交わしました
「返信、まだ?」
タメ語の業務連絡。その送り主は小さな広告会社の社長であり、僕の元恋人だ。
「ご不便をおかけして申し訳ないが、シフトじゃない日に即レスを求められても厳しいです」
仕事帰りの小田急線でため息をつく。この案件の受託者は妻だ。脳がバグりそうなシチュエーションだが、事のつまり、僕の元カノと妻が業務委託契約を締結し、一緒に仕事をしている。
郊外の住宅街へ辿り着く頃にはヘトヘトだった。中古マイホームの玄関を潜れば、リビングに小さな「川の字」の線たちが思い思いの方角を向いて寝息を立てている。妻は両腕を枕にされて身動きの取れない状態だ。副業の返信など出せるわけがない。
僕はダイニングテーブルに腰掛け、静かにMacBookを開く。母国語なのに理解に苦しむ会話がチャットツールで飛び交い、胃がキリリと痛む。
「ギャラクシー賞を獲った映像ディレクターさんが助けてくれると報告したら、現場は大喜びだったよ」
決め手となったのは、そんな言葉だった。
これは、とある映像クリエイターが元カノの起業した広告会社を軽率に手伝った結果、彼女の会社を潰しかける話だ。
そして、10年前にしっかり終わらせられなかった大恋愛に終止符を打った記録でもある。
独立を目指すクリエイターにとって重大なヒントがあったと感じている。もしもよかったら参考にしてほしい。

成果なき成果物
「もしもし? 久しぶり。あのね、動画制作のアドバイスがほしいのだけど」
遡ること数ヶ月前。震える手で着信をとった自分がバカらしくなり膝から崩れ落ちた。何年も話さなかった元恋人にプロローグ的なトークも一切なく本題から始まったからだ。
仕方がなかった。彼女はそういう人だった。
突然の申し出に驚きながらも、タイミングとしては完璧だった。最近三男が食べ盛りで家計が火の車だったからだ。僕の本業の副業規定に抵触せぬ範囲で対応することになった。結果、個人事業主である妻と契約を結んでもらった。
翌朝、長男と次男を幼稚園バスに乗せてから三男を保育園へ送った。シクシク泣く彼から離れられないでいると、保育士さんが「後はお任せください」と言う。その言葉で踏ん切りがつき、僕はやっと会社へ向かった。
その夜、社長(元カノ)からリモート会議で会社の課題を共有された。僕は今、番組を創るだけでなく利益を生み出すビジネスセクションを兼務している。経営者となった彼女の悩みには大いに共感できた。
共に立ち向かうべき課題があることで、交際していた頃よりも心が通い合っている気がした。
*****
ミッションは、ここ数ヶ月間で何名も担当の変更が相次いだ【SNS動画】の案件をうまく回すことだった。
動画の編集業務に特段高いレベルの要求があるようには見えなかった。だとしたら一体ナゼ、前任者たちは『飛んだ』のか?
やりとりは、間を取り持つプロジェクトマネージャー(元カノの会社の社員)が、妻とクライアントのアカウントをグループチャットに招待して行われた。
チャットを開くと、動画クリエイターたちが仕事を降りた理由がすぐに分かった。
動画の素人であるクライアントとプロジェクトマネージャーが肩を回して『動画チェック』を繰り返してくるのである。プロの世界では、業務フロー効率化の観点から一度か二度にまとめることが常識的とされるが、グループチャットの住人たちは見れば見るほど違う箇所が気になってしまうようだった。
それもそのはず。クライアント企業のイメージアップを図りたいのか、特定のメッセージを届けたいのか、とにかくバズればよいのか。目標設計が全員バラバラで、チームとして目指すべき編集の正解が存在しない。健全な運用体制を構築する為に、コンセプトを共に設計する打ち合わせを開きたいと申し出たが、それは一切行われなかった。
「テロップの色は全体的にもっと可愛い感じだと素敵な気がしますね!」
「効果音を『ジャキーン』というより『シャキーン』でいきましょう」
「すみません、イメージと違ったので、やっぱり全部戻せますか?」
視聴者に向いた健全なコンテンツ制作ではなく、プロジェクト担当の創作欲求を満たす無秩序なアトリエになっていた。耐えるしかない。仕事だから。

ニセモノ・パンデミック
「現場は順調に回っているみたいね。みんな、作業が速くて的確だと喜んでいるよ」
そんなある日彼女から連絡が届き、事実が歪曲して伝わっていると知る。苦渋の決断を下し、チャット履歴のスクリーンショット画像を送った。彼女の顔が曇るのが、電話越しなのに分かった。
プロジェクトマネージャーがクライアントと結んだ契約書は穴だらけだった。案件は、現場の負担がどれだけ増えても拒絶できないスキームであり、着手する前からビジネスとして破綻していたのである。
*****

プロジェクトマネージャーから疎ましがられただろうが、社長である元カノの指示とあれば逆らえない。この案件の月々の収支を開示してもらった。すると、取り組んでいたプロジェクト自体が会社の負債となっていたことが一目で分かった。クライアントの修正に対応すればするほど、会社から妻への支払いが増し、赤字が膨らむ仕組みになっていたのである。
契約書の結び直しと、業務フローの改善の仕方を提案した。しかし、プロジェクトマネージャーからの返信は厳しいものだった。
「赤字の件は社長に言わなくていいです。それより動画の修正はまだですか?」
このままでは、ニセモノの片棒を担いでしまう。
そう言葉にしかけて引っ込めたのは、あんな人材でも彼女が選んだ人だからだ。好きだった人を起業時から支えた事実に敬意を忘れないよう、言葉を選んでから彼女の電話を鳴らした。
「これからも現場レベルのクライアントやプロジェクトマネージャーの要望に応えることは簡単にできる。うちの家計も助かる。だけどキミの会社は潰れると思う」
僕は、自分に不利にはたらく申告をしていた。
「そうな事があったんだ。正社員をハズすことはどうしても出来なくて」
「だろうね。社員って半永久的に発生する固定費だからね」
「そうなの。起業した頃、不安でたくさん人を入れ過ぎてしまったんだ」
効率的な進行や視聴者の興味を惹く演出は、ギャラクシー賞受賞にも裏打ちされたスキルだった。しかし、現場が利益最大化を目指していないなら、それらはまるで役立たずとなる。
「最近おかずが一品増えた」と妻と子は喜んでいた。最近子どもたちの食べる量が一気に増えて嬉しい反面、戸惑ってもいる。
だけど、ニセモノになりたくなかった。ホンモノが何なのかと聞かれると言葉に詰まってしまうのだけど。

キミで始まり、キミで終わっただけの物語
大学生の頃、僕の銀行口座が100円を切ることはザラにあった。
毎日コンビニで大きなコッペパンを買い、それを三食分に千切って食べてやり過ごしていた。僕は「お金のことを気にしなくて良くなる為に」会社員になったと言っていい。
その数年後、社会に出て知り合い交際した彼女はずっとお金について考える人だった。毎月給料日になれば、明細を見て眉間にシワを寄せる。額面から様々な項目で税金が引かれる理不尽に腹を立てていた。
「それを吠えても、どうにもならんでしょ?」
自分の力で変えようがないものに興味を持てなかった僕には、彼女の言動が摩訶不思議に映った。
彼女の目にもまた、毎日朝方まで映像を編集して愚痴の一つも吐かない僕の姿は不思議に映ったという。
「社会人として滅茶苦茶なアナタが、なぜ楽しそうに生きていられるのか。私はそれに興味がある」
自分とは全く対照的な価値観だけど、リスペクトがあったから批判をしたり衝突したりすることは無かった。
人生で誰と結婚する気もなかったのに、初めて親に会ってほしいと思う人だった。
僕はある日、軽率だった交際の申込みを訂正したくなり、やはり結婚を前提に付き合ってほしいと伝えた。彼女は涙を流して感謝の言葉を返したが、その夜電車に乗る彼女を見送って数日後、突然、一切連絡がつかなくなった。
*****
何の音沙汰も無いまま季節が一つ移ろった。
事件性を疑った僕はクローゼットに眠っておたスーツに袖を通し、小雨のビル群を走った。恋人の職場に押しかけるなんて、人生で初めてだった。数分早まったところで何も変わりやしないのに、心を落ち着かせる為だけに走っていた。

高層ビルに到着したが彼女とのアポがあるはずもなく、受付で何と申し出れば良いのか考えていた。頭が回らず動転していた。息切れはとっくに惰性のはずなのに、心臓は爆竹みたいに不規則に弾けていた。
その瞬間、偶然としか言いようのないタイミングで退社する彼女を人混みの中に見つけた。同僚と思わしき男性の隣を歩いていた。
彼女はすれ違いざま僕に気づくと「今、話しかけないで」と視線で伝えた。睨むでも軽蔑するでもない、ただ光のない瞳から送られる平坦なメッセージだった。久しぶりに見る彼女は顔が少し丸みを帯び、ゆるめのジャケットを羽織っていた。
数時間後、彼女が僕のためにビルへ戻るつもりはないと悟り、その場を後にした。小雨が轟音のスコールに変わっていたのに、それにすら気づかなかった。大した雨じゃないと高を括っていた僕は傘を持っておらず、季節の変わり目の大雨の中をずぶ濡れで歩いた。
その数日後、彼女から連絡が届いた。
僕ではない別の人との間に命を授かったという。
さらに、「連絡がない時は急かしたり押しかけたりせず、察してほしかった」と文面は続いていた。二度と自分から彼女に連絡をとらないと決めた。
少なくとも僕のモノづくりは、長い間、過去に自分を蔑ろにした人たちの存在に支えられていた。傷の痕こそ消えないが、痛みは感じなくなっていた。

呪いが祈りに変わる時
「久しぶりに、ご飯でもどうかな?」
一本映画を作って世の映画館で上映された頃、突然彼女から連絡が届いた。どういう風の吹き回しだったのか、真意は分からない。
その命はこの世界にやってくることはなかった。彼女は僕に最後の連絡をよこしたあの日からさほど遠くない日、バツイチになったと聞いた。
ビル街の交差点の向こうに懐かしい面影が見えた。人混みの中、彼女のいる場所だけがピンスポットで照らされているみたいだった。
信号が青に変わり、色々あった二人の距離がどんどん縮まる。前髪を手で直しながら彼女の目の前に再び立ち、再会の挨拶を交わした。
その時、彼女に対する当時の情熱がもう二度と戻らないと知った。一生かけて見返したかった存在が消えてしまった。

「私、税金を搾り取られるのは不服。自分で会社を作ろうと思うの」
彼女は、随分と更新された僕の肩書きや実績に興味を示したが、コンテンツに関する質問はほとんどしてこなかった。
ーー「社会人として滅茶苦茶なアナタが、なぜ楽しそうに生きていられるのか。私はそれに興味がある」
当初の彼女の問いの答えは、創るものの中身にこそあったのだけど。
*****
そんな彼女が数年後に広告会社の女性経営者として連絡をくれたのだ。
支払いや契約の交渉に追われながら、相変わらず譲れない何かの為にまっすぐに生きていた。
結局、目的不明のエンドレス修正に数ヶ月耐えたところで業務委託契約はあっけなく打ちきりとなった。揉めることなく、両者それを呑んだ。
「この期間、とても頼もしかった。起業当初から入ってほしかったよ」
彼女だから数ヶ月も続いた。でなければとっくに辞めていた。
説明しても無駄だと人を見切る癖がつくのが怖かった。
思考停止して修正する癖がつくのが怖かった。
彼女は「赤字の原因となる動画編集者を切った」と社内に共有した。
僕は「業務フローを改善する気のない労働環境を見切った」と妻に伝えた。
「どうか、真っ直ぐな貴方がニセモノに染まりませんように」
僕はそう祈りながら、彼女とのメッセージ履歴をそっと削除した。
旅立ちのラストピース

「風邪ひきたくないでしょ!カッパ着て〜」
「はーい!」
レインコートの長男と次男が土砂降りの中へと走り出す。黄色い恐竜のトゲを生やす三男がおぼつかな足取りでそれを追いかける。
季節の変わり目を告げるスコールに見舞われても、毎朝の送迎ルーティーンは無情にもやってくる。上二人を幼稚園のバスに乗せたら、その足で三男を保育園へ連れて行く。
この日は天候の不機嫌もあってか、三男は保育園の門を頑なにくぐろうとせず、鉄格子をガシャガシャ揺らすばかりだった。そういえばあの日もこんな土砂降りだったなと、エントランスで泣き叫ぶ小さな背中を見つめる。
傘をさしたまま手を差し出すと、ほんの数秒で肩から先がぐっしょり濡れた。濃い灰色のアスファルトにしゃがみ込む、やけに鮮やかな黄色い恐竜が自分の足で一歩目を踏み出し、帰りたくなるまで待った。
びしょ濡れで玄関をくぐる。泥まみれの長靴で家に上がろうとする三男を慌てて捕まえた。いつ会社を辞めたくなっても良いように、背伸びしてローンを組んだ家だ。来月からまた、家計は火の車に逆戻りだ。
あなたは、誰の為ならヘトヘトになれますか?
きっと思い浮かぶ人物の一人や二人がいるのではないか。
「この人にはホンモノの仕事で応えたい」
ーーそう思えてならない、ときに少し厄介な、人間の姿をした神様みたいな存在が。
「おかえり。めんつゆで良いかな?胡麻ダレが切れちゃって」
台所には、束の間の豊かな食卓に一役買った『動画編集者』がエプロン姿で僕と三男を迎えた。
やったね。今日は、そうめんだ。
