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居酒屋いその(#シロクマ文芸部)

    ホシガラス

     風が吹く、ある夜。
     街中ではパトカーのサイレンが鳴り響いていた。

    『居酒屋いその』では下準備が終わり、女将が暖簾を出すところだった。
    「三河屋さん、いつもありがとう」
    「毎度ありがとうございます。今日は活きの良い鰆さわらとホタルイカが入ったので、少しお裾分けしておきます」
    「いつも悪いわねぇ。おまけばかりしていると、儲けがなくなるんじゃないの?」
    「いそのさんにはいつも贔屓にしていただいてますから……」
     忙しそうに頭を下げると、「毎度あり~!」と、三河屋さんは勝手口から出ていった。

     女将はいくつかのお通しの用意を始めた。おまけでもらったホタルイカの酢味噌和えをこしらえる。
    「おまけでホタルイカがもらえるなんて、今日はついてるわ」 
     そう呟いた、その時だった。
     店の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
     暖簾を潜って入ってきたのは、すらりと背が高い一人の男だった。
     
    「いらっしゃいませ~」
     女将が顔を上げ、カウンターの真ん中の席へ促した。
    「うちは狭くてカウンターしかないんですけど、こちらへどうぞ」

     細身のスーツを着た男性は、口元に人懐っこい笑みを浮かべ、促されるがまま椅子に腰を下ろした。
    「ああ、ありがとう。ちょっと人に追われてて……」
     そう言うと、赤いジャケットを背もたれに掛けると、黒いシャツの第一ボタンを外し、赤いネクタイを少し緩めた。

     女将は出来上がったばかりのホタルイカの酢味噌和えと、おしぼり、割り箸を男の前に置いた。
    「人に追われているって、何かあったんですか? さっきパトカーのサイレンがしてましたけど」
    「いえ、大したことではありませんよ。毎度のことで追いかけっこみたいなものです」
     そう言って、おしぼりで手をぬぐった。

    「ホタルイカですか。春ですね~」
     男はひとつ口に運び、ゆっくりと味わう。
    「美味い……熱燗を頂いても良いですか。それと、適当に何か」

     女将が熱燗と、鰆のムニエルをカウンターに置いた。
    「熱燗と鰆のムニエルって、ちょっと合わないかしら? でもお客さんの雰囲気から、洋風の方が良いかなって……お口に合うといいんですけど……」

    「これは美味しそうだ。いただきます」
     男は熱燗を手酌で注ぎながら、鰆のムニエルを口に運ぶ。
    「ボクの愛しい女《ひと》はね、手料理なんて作ってくれないし、いつもどこにいるのかも分からないんですよ」

    「自由な方なんですね。その愛しいお方」
    「ええ、まあ……豪華な宝石とか金銀財宝が大好きで、彼女の気を引くのもなかなか大変です」
     男は柔らかな笑みを浮かべた。

    「金銀財宝なんて……お客さん、どんなお仕事をされてるんです?」 
     女将は少し遠慮がちに続ける。
    「ああ、すみません。よければでいいんですけど……少し、お話し相手になっていただけます?」

    「構いませんよ……そうですね~。人の大事なものを、ちょっと拝借する仕事、といったところかな」

     女将が一瞬きょとんとして、それからふふっと笑う。
    「それって、うちのタマみたいなお仕事かしらね~」
    「タマ?」
    「ええ、タマはうちの猫なんですけどね、大事な魚を咥えて逃げちゃうんですよ」

     男は鰆のムニエルをもう一口頬張りながら、ぽつりと呟いた。
    「今回は、その女性へのプレゼントで、綺麗なルビーのネックレスと、揃いの指輪を手に入れたんですよ。でも、これだけじゃきっと振り向いてはくれないだろうな~」
     
     女将は熱燗のお酌をしながら、ため息をついた。
    「ああ~羨ましいわねぇ」
    「私なんて、ずっと専業主婦で、三世代同居の理想的な家族を演じ続けているんですよ」
     徳利を傾けたまま、言葉が少しだけ早くなる。
    「いえね、この居酒屋は不定期で開けている、いわば裏稼業みたいなもので……色んな事情を抱えた方のお話を聞く場所にしているんです。まあ、私自身が愚痴を聞いてもらっているようなものなんですけどね」
     そこで、はっとしたように口をつぐむ。
    「ああ……すみません。つい、しゃべりすぎちゃって」

    「いいじゃないですか」
     男は声を上げて笑った。
    「じゃあ、俺も愚痴を聞いてもらおうかな」
     盃を一気に煽ると、男は話し始めた。
    「俺には仲間が二人いてね。一人は腕の立つ銃の名手、もう一人は剣術の達人なんですけど……」
     少し肩をすくめる。
    「そいつらは、彼女のことを放っておけって冷たいんですよ。大仕事がうまくいっても、彼女のせいで儲けがいつもおじゃんになるって……」
     苦笑を浮かべながらも、どこか楽しそうに続ける。
    「でもね、時には協力し合う事だってあるんですよ」
     男は目を細めて、その女を思い浮かべているようだった。
    「世界中を渡り歩いて、誰もが彼女の虜になる。いつかは俺だけの女にしてみせますよ」
     男は徳利を軽く振り、空になったことを確かめると、女将に視線を向けた。
    「もう一本、もらえますか」

     女将は頷き、熱燗を用意する。
    「お友だちがいらっしゃるんですね。私の物語には友だちは登場しません。せいぜい三河屋のサブちゃんくらいかしら? あと井戸端会議をするご近所さんたちとか……狭い世界で暮らしているから、弟の同級生たちとか、夫の同僚くらいしか顔見知りはいないんですよ」
     女将が二本目の熱燗をカウンターに置きながら呟いた。

    「安定した暮らしがあるじゃないですか。俺には縁がないな、そういった平和な日常は……」
     ポツリと男が呟いた、その直後だった。

     パトカーのサイレンが、店先で鋭く鳴り響いた。

    「……やれやれ、とっつぁんのお出ましだ」
     そう言いながら、男は懐から小さな袋を取り出す。
    「すまない、女将。代金はこれで勘弁してくれ!」
     カウンターに置かれたそれは、ずしりと重い音を立てた。
    「ごちそうさん、美味かったよ」
     男は背もたれに掛けていたジャケットを軽く羽織り、振り返りもせずに勝手口から颯爽と去っていった。

     女将が男の食べかけのお皿を片付けていると、店の引き戸が乱暴にガラガラと開いた。

    「インターポールだ!」
     そう叫びながら、大柄な男が肩で息をしながら店内に踏み込んできた。
     コートの裾を揺らし、鋭い目で店内を見渡す。
    「今、ここに男が来なかったか! 赤いジャケットを着た男だ」

     女将は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの調子に戻った。
    「ええ、いらっしゃいましたよ。さっきまで」
    「どこへ行った!」
    「さあ……お帰りになりましたけど」

     男は悔しそうに、カウンターに拳を打ちつけた。
    「何か、盗まれなかったか!」
     
     女将は被りを振る。
    「いいえ、ちゃんとお代も置いて行かれましたよ」

    「あの野郎……! またしても逃げられた」 
     拳を握りしめながらも、その口元には苦笑が浮かんでいた。
    「女将、邪魔したな」
     そう言い残し、男は踵を返した。

     戸が開き、夜の冷たい空気が流れ込む。
     その背中が、闇の中へと消えていく。

     女将はしばらくその戸口を見つめていたが、やがて小さく肩をすくめた。

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    これは2年前に書いた👇『ある居酒屋にて』のエピソード2になります。
    もう2年も経ったんだなと、なんだか感慨深いものがあります。
    居酒屋の店名を『居酒屋いその』に改め、久々に開店してみました。
    女将は、変わらずあの女性です。
    美味しい肴とお酒をご用意しております。
    ぜひ、お立ち寄りくださいね。





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