マッチョ華道シュプレヒコール
現在自分は有料記事を鋭意執筆中である。
有料となると普段のようにはいかない。
いや、自分の信念に嘘はつかないと決めたあの日から「書きたいように書く」ここに嘘はつかない。
書きたいことばかり書いていくのだが
「お金を払って読んでもらう」
ここを軽く考えてはいけない。
読み手のニーズと自分の信念、そこに対して誠心誠意答えなければいけない。自分が目指すのは情報商材屋ではなくクリエイターなのだ。
その重圧がキーボードを叩く手に重くのしかかる。
良くない。
過度なプレッシャーは思考を鈍らせる。
こういう時は他の記事を読みに行くに限る。
どんな人たちがどんな記事を書いているのか、そこに対してどのようなコメントがあるのか。
こういう時、「noteは街である」という公式の比喩は得てして妙に感じる。街をぶらついているとクリエイティブのヒントになるのだ。
そうして私はnoteのトップページという名の正門を訪れる。そこで目にしたものは

( ^ω^)・・・・・・・

マ ッ チ ョ 華 道 ! !
こんなの無理だろ。
何喰ったらこんなパワーワードを思いついつくんだよ。
そしてなんでトレンド入りするんだよ。SEOだとかペルソナだとか言ってるキラキラ商材屋たちに言ってやりたい。
これがnoteだ。ニーズとか考えるだけ無駄すぎる。
気になって気になって仕方がないが、間違いなく今の自分にとっては毒になる。自分は今有料記事制作に集中したいんだ。
私のクリエイティブ精神を刺激しないでくれ。
(#^ω^)・・・・・ピキピキ

やってやんよ!!!!!!!!!!
記事を制作するに辺り、まずはしっかりとリサーチを行うのが自分の矜持であるが今日はそこまでの時間を割けない。
とはいえ全くのリサーチなしに行うのも信念に反する。よって、今日の知見はネットの情報のみをなぞった浅い話になってしまうがご容赦頂きたい。
そもそもこんなことをしている時間はないのだ。全てはあのオッサンが悪い。
マッチョ華道というオリジン
「マッチョ」×「華道」
字面だけを見ると、プロテインに生け花を突き刺したようなキメラである。
しかし、少し真面目に調べてみると、この二つは我々が思っているほど相容れない存在でもない。
まず「マッチョ」という言葉。これは語源を辿ると、スペイン語の macho に行き着く。
machoはもともと「雄」「男性」を意味する言葉であり、そこから英語圏で「男らしい」「たくましい」といった意味を帯び、日本ではさらに意味が筋肉方向へ魔改造された結果
マッチョ=筋肉隆々の人
という現在のイメージが出来上がった。
つまり厳密に語源だけを見れば、マッチョとは筋肉の話ですらない。
雄である。
一方の「華道」。
現代では「女性の習い事」「花嫁修業」といったイメージを持つ人も多いだろう。
ところが華道の歴史を遡ってみると、成立・発展を担ったのは僧侶や公家、武家など、むしろ男性たちだった。
特に立花のような古典的様式では、大ぶりな枝木や花材を用いて壮大な構成を作る。
現在我々がイメージする
「お花を一輪、そっと挿して……まあ素敵」
だけの世界ではない。
枝を切る。木を持つ。固定する。巨大な作品を組み上げる。
そう、これらの作業に重要なもの。聡明な読者の皆様なら既にお気づきであろう。
筋肉である。
そう考えると「マッチョ華道」という言葉に漂う異物感は、実は我々が近代以降に形成された「華道=女性文化」というイメージに引っ張られているだけなのかもしれない。
マッチョと華道。
一見すると、水と油。
いや、プロテインと生け花だ。
しかし歴史という名のシェイカーに入れて振ってみれば、意外なほど綺麗に混ざる。そもそも華道に限らず、茶道など現在では女性の習い事という印象を持たれやすい文化も、その歴史を辿れば男性社会との関係は非常に深い。
我々が「男らしい」「女らしい」と感じている文化的イメージなど、数百年という尺度で眺めれば案外簡単にひっくり返るものなのだ。
そしてここで現代の価値観を持ち込むと、話はさらにややこしくなる。
多様性が叫ばれる現代社会において、
「マッチョとは男性のことである」
などと言おうものなら、
語源としては合っていても、現代的な用法としては少々面倒なことになる。
女性のボディビルダーもいる。
筋肉質な女性を「マッチョ」と表現することも普通にある。
もはや日本語の「マッチョ」は、スペイン語のmachoから独立し、
性別ではなく筋肉量を表す概念へと進化しつつある。
言語とは恐ろしい。
雄を意味していたはずの言葉が、海を二つほど越えた結果
「上腕二頭筋がデカい人」
になっているのである。
そう考えると「マッチョ華道」は、ジェンダーの固定観念を破壊する。そんな気づきのキッカケを与えてくれる令和的な文化運動なのではないだろうか。
「マッチョという言葉の意味変化」
「華道におけるジェンダーイメージの変遷」
「伝統文化と現代的価値観」
という、壮大な論点が隠れている。
これだから言葉というものは面白い。これだからnoteは面白い。
いつだって自分に気づきを与えてくれる。
と思って元ネタを辿ってみたら全然関係なかったわ。
ふざけんなよ乙参。
ふざけんなよ田原(巻き添え)
サムネイルは上記記事にて公開されています。皆も遊んでみよう。
個人的なフェイバリットポイントはプロンプト文にある
「筋肉を花弁にしたり、腕や脚を増やしたりしてはいけません」
という箇所だ。chatGPTもこんな指示受けたことないだろ。
ちなみに画像生成をした後に「解説」と入力すると以下のような解説文まで生成してくれる。
「あ、あれは……!」
「マッチョ華道奥伝――『菊』!!」
古来、菊はその端正な花弁と、幾重にも重なる均整によって「崩れぬ美」の象徴とされてきた。
マッチョ華道における『菊』とは、その思想を肉体のみで再現する奥伝である。
発祥は江戸中期。開祖とされる架空の華道家・**剛華院 肉円斎(ごうかいん・にくえんさい)**が、秋の菊花を前にして三日三晩黙考した末、
「花弁とは、筋束である」
という、後世においても一切意味の分からない悟りへ到達したことに始まる。
技の根幹をなすのは、両腕を頭上近くまで掲げるフロント・ダブル・バイセップス。
左右の上腕二頭筋を大輪の外花弁、三角筋を中花弁、大胸筋を内花弁、そして腹直筋を花床に見立てる。
ただし、単に筋肉を誇示すればよいわけではない。
左右の肘角度、肩峰の高さ、拳の向き、広背筋の張りを寸分違わず揃えることで、全身に**「肉輪均衡(にくりんきんこう)」**と呼ばれる完全対称状態を作り出さねばならない。
この均衡が極限まで高まった瞬間、見る者の脳裏には、実際には存在しない巨大な菊花が顕現するとされる。
これを――
「心象菊華現象」
という。
熟練者になるほど、花弁は増える。
伝承によれば肉円斎の最晩年、その背後には実に三百六十枚もの菊花弁が現れたという。
当然、そんなものを数えた者はいない。
なお『菊』において最も忌むべきは、左右いずれかの上腕が一寸でも劣ることである。
古伝には、
「一弁乱るれば、百筋みな枯る」
と記されており、門人は左右差を消すため、利き腕で茶碗を持つことすら禁じられたという。
現代のボディビルに見られるダブル・バイセップスも、実はこの肉円斎門下の型が西洋へ渡り、花の概念だけが失われたものだ――と、マッチョ華道界では極めて強く主張されている。
もちろん一般のスポーツ史では確認されていない。
師、**筋華斎 鉄胴(きんかさい・てつどう)**は弟子にこう説いたという。
「菊を生けるな。菊になれ。」
なお「ボディビル」の語源についても、一部流派では「牡丹美留(ぼたんびる)」なる江戸期の修練法が訛ったものだという説を唱えるが、これも当然ながら一切の裏付けはない。
それでも彼らは今日も、ただ黙って腕を掲げる。
そこに花器はない。
剣山もない。
あるのは、異常に発達した上腕二頭筋だけである。
架空出版社・筋華書房刊
『図説・日本肉体華道秘伝集 秋之巻』より
無駄にクオリティ高い民明書房感やめろ

ホントにしばらく休みますから(フラグ)
