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南風(まぜ)の海

    【あらすじ】

     海面清掃船「きしゅう」に吉田という若者が新規採用される。彼はきつい仕事ながら船員らに囲まれて徐々に職場にとけ込んでいく。その夏、台風が紀伊水道を直撃した。紀ノ川が大洪水をして河川敷の工場から三百本ものLPガスボンベが海に流れ込む。海面清掃のプロと呼ばれるきしゅうの乗組員達も、経験のない回収物に手を妬く。やっと回収が軌道に乗った時に不運にもマゼ(強い南風)がやってきた。船体が突然傾き吉田はマゼの海に投げ出されてしまう。ガスボンベに翻弄される吉田を救出しようとする船員達。やっと救出のロープをつかんだ吉田は意外な行動に出る。果たしてガスボンベは回収されるのか。


    【本編】

     梅雨入り宣言が出されたばかりなのに、紀伊水道は雲ひとつ無く晴れ渡っていた。

     船長の谷口史郎は、いつものように寡黙に舵を操っている。その横で航海士の杉山基次郎が、双眼鏡を覗きながらゴミの行方を追っていた。

     一昨日の大雨で紀ノ川が出水し、大量のゴミが海域に流れ込んだ。その壮大なゴミの帯は、目映いばかりの朝日を浴びて紺碧の紀伊水道にゆったりと横たわっていた。

    「船長、こりゃ大変な状態やして。どっからとろらァ?」
    「一番遠くやしょ」 
     谷口は表情を変えずに面舵を切った。海面清掃船「きしゅう」の船体が大きく傾くと同時に、杉山の指示が船内放送で響き渡る。

    「一番遠くのあの流木から潮岬や」
     船内放送を聞いた船員らがあわただしく動き始めた。潮岬とは方角を指し南進すると言うことである。北進は大阪。西進は四国、東進は和歌山を意味した。

     きしゅうは和歌山県と徳島県に挟まれた紀伊水道に面する自治体の広域連携事業としてつくられた海面清掃船である。係船場は和歌山港にあり、管理運営は関係自治体の組合方式で行われていた。乗組員は全部で七名で少数だが海面清掃で鍛えられた精鋭部隊である。

     この日は、船体に装備された四十立方メートルのコンテナに三杯のゴミを回収した。ゴミは満杯になると係船場に帰港し、クレーンでコンテナごと陸揚げを行うことになる。陸揚げされたゴミは、しばらくの期間天日干しにされ、塩抜きされた後で近くの焼却場で処分される。

     この日はゴミが浮遊している海域と係船場を三往復もし、最後の陸揚げの頃には日がどっぷりと暮れていた。一日の作業を終え船体をブラシで水洗いする船員達は、皆押し黙ったままであった。

     実は、この日はきしゅうにとって特別な日であった。
     定年を二年後に控えた山元機関長が、持病の難聴の悪化により今日を最後にきしゅうを下船することになったのだ。船員の誰もが、数十年苦楽を共にした仲間との別れを惜しんでいた。

     機関場の仕事は、その日のエンジンの調子を長年養った耳で聞き分ける。
    その耳が悪くなっては、機関長としての職務を全うすることは出来ない。
    誰よりもそのことを知っている山元であればこそ、年度の替わって間もない中途半端な時期に下船を決断したのだった。

     山元の代わりには、機関士の免許を持っている江口が昇格することに決まっていた。しかし、山元が抜けることによって生じる一名の欠員募集は、まだ始まったばかりだった。

     その後十日間ほどの募集期間を経て、大阪市出身の吉田雅彦という若者が採用された。若干二十三歳であったが、海技免許を持っており将来を考えての採用だった。

     彼はその童顔とは不釣り合いな、身長一八五センチ、体重は百キロを裕に超える体格を備えていた。

     初出勤の日、前川課長と中藤係長に連れられた吉田が船員達と向かい合った。大柄な吉田を前にした船員達から、小さなざわめきが起こる。吉田は緊張し、両手を指の先まで伸ばすと気おつけしたまま固まってしまった。蝋人形のように動かない吉田に、船員達から小さな笑いが起こった。

    何とか挨拶を終えた吉田は、事務所で一時間ほど、海面清掃の概要説明を聞かされると早速きしゅうに乗船した。緊張のほぐれない吉田を乗せたきしゅうは、いつもどおり紀伊水道へと出航した。

    「中藤君よ。こりゃあ、今日は昼からマゼかもしれんな」
    「たしかに雲の動きが怪しいですね。吉田君も着任早々にマゼの洗礼ですかね」
     と前川と中藤の二人は、空を見上げながら人ごとのように談笑した。
     マゼとはこの地方で南風のことを言う。瀬戸内海では、四国側の南から吹き下ろす強風を「やまじ風」とか単に「まじ」と言うが、この紀伊水道を挟む和歌山や徳島では、南からの強風を「マゼ」と呼んでいる。

     紀伊水道には太平洋から来る風を直接遮るものがないため、春先や夏場には強烈な南風が海上を吹き荒れる。

     きしゅうはゴミ回収の特殊船のため、小回りがきくように船体はわずか百六十トンしかない。マゼの日には、大洋に浮かぶ木の葉のようにその船体を激しく揺さぶった。揺れるだけなら船乗りの経験があれば、船酔いは避けられるかもしれない。だが、この状態でケンツキを操り、流木などのゴミを長時間回収するとなると、よほど神経を集中し続けなければならない。熟練者であっても、マゼの日の危険度や疲労度は数倍にも跳ね上がる。

     出航して半時間もすると、きしゅうは友が島の沖合に達していた。
    「船長、今日はたいしたゴミはないやして」
    「まぁ、吉田君にはちょうどええやしょ」
    「前方の流れ藻にビニールがたくさんついてらしょ」
    「よしゃ、あれにするかして」
     谷口船長の言葉を受けて、杉山はマイクを握った。

    「前方三百メートル。大阪へ」
     船員達がケンツキを持って、各々所定の位置に着いた。
     ケンツキとは、物干し竿ほどの長い柄の先端に十字型に尖った金具がついた道具である。見た感じは、小舟を操るためのハッカーに似ているが、よく見るとゴミ回収専用に作られたケンツキは、ハッカーとは似て非なる道具である。

     初出航の吉田は、船体中央部に装備されている、コンテナの最後尾に配属された。きしゅうの七名の配属は、右舷舳先に石本音吉、左舷舳先に満田巌、コンテナ中央部右舷側に江口良和、左舷側に上本達也、コンテナ最後尾に吉田雅彦である。操船室では船長の谷口史郎が舵をさばき、航海士の杉山基次郎が司令塔となって回収作業のコントロールを行った。

     ゴミに狙いを定めたきしゅうは、減速してゆっくりと前進を開始した。
     きしゅうは双胴船といって二つの船を並列に繋げた構造で、その真ん中にある鉄網でできたコンテナにゴミを誘導し、集積する仕組みとなっている。

     ゴミの帯に合わせて、谷口船長が微妙な舵裁きを行う。舳先に立つ石本と満田のツートップは、腰を落として、巧みにケンツキを操り、次々とコンテナ内にゴミを誘導していく。コンテナ内に流れ込んだゴミを江口と上本が、ケンツキを使って後方に効率よく送り込んでいった。最後尾の吉田の役割は、そのゴミをケンツキで掻き上げてできるだけ高く積み重ねていくことである。

    事前に説明を受けていた吉田は、実際臨場してその大変さに初めて気が付いた。コンテナ内に流れ込むゴミや海水は、川で言うと立っていられないほどの激流であり、誤って落ち込めばただごとではすまない。打ち砕ける海水の飛沫が顔にかかり、生臭い塩の臭いが鼻を突いた。激しくゴミと海水が怒濤するコンテナをのぞき込んだまま、彼は思わず身をすくめ固まってしまう。

    「こら!吉田。はよォゴミ上げっしょ!」
     すかさず江口機関長の怒声が鳴った。

    「は、はい」
     吉田は無我夢中でケンツキを操った。途中揺れる船体に何度も体をぶつけながら、延々と単純な動作を繰り返す。長身の彼は、他者ではぶつかり得ないところにまで頭をぶつけ、二三度はヘルメットが割れる勢いであった。
    二時間ほど経つと、そのあたりのゴミはすっかりと回収された。

    「作業終了。今日は全員でいっぷくやして」
     その放送を聴くと、吉田は周りにはばかることなくその場にドスンとしりもちをついた。

    「なんやしょこれは、全然積み上がってないやして」
     コンテナをのぞき込んだエグチンこと江口機関長の言葉が、うなだれる吉田の頭を更に押さえつけた。

    「す、すいません」
     とっさに、吉田は大きく肩で息をしながら、立ち上がって謝った。
    これが荒天で流木だったらと考えると、彼は一層辟易した。

    「まぁ、エグチン、そう言うても最初からは無理やっしょ」
     みんなから上ヤンと呼ばれている上本が、江口を宥めるように言う。

    「どうやしょ、新米。まいったかして」
     と今度は、いかにも酒でつぶれたというがらがら声が近づいてきた。

    「人間は、こないして体を動かして働くもんやしょ。ばてるから飯がうまい。飯がうまいから健康やしょ。ほやから夜遊びにいけるんや。わかったかぁ、ひよっこ」

     舳先から戻ってきた石本はへたり込んだ吉田を見て大笑いすると、満田とともに船内に入って行った。

     この石本音吉は、みんなから音ヤンと呼ばれている。年齢は五十前後で身長は百六十足らずの小柄だが、体重は百キロを超えている。顔というか丸坊主にした頭の先まで赤銅色で、獅子舞のように小鼻の広がった顔立ちである。年季の入ったヘルメットには、何故かタオルのねじりはちまきが巻かれてあった。

     音やんは毎日みんなの昼飯をつくっている、きしゅうの厨房長だ。
    だが、メニューはひとつしかない。それがきしゅう鍋である。きしゅう鍋は牛のすじ肉のだし汁で、その日によって何が入っているかわ分からないごった煮の料理だ。船員らは、飯だけ弁当箱に詰めて持ってきて、このきしゅう鍋をおかずに毎日昼食をとるのである。

     吉田は、寮のおばさんから渡された大きめの白飯弁当を広げた。落ち込み気味の彼は最初こそ遠慮気味であったが、きしゅう鍋のあまりのおいしさに、いつしか勢いよく箸を動かし始めていた。気が付くと、最後のお汁まですっかり平らげてしまっていた。

    「やっぱり若いもんはくいっぷりが違うわして。見てるだけも気持ちがえいわしょ」
     谷口船長が、食後のたばこに火をつけながら目を細める。
     吉田は恐縮して大きな体を少し丸めた。

    「でも、さっきはちとびびっとったんとちゃうかっしょ」
     と横から音ヤンが、にやつきながらコーヒーをズルルとすする。

    「はぁ、きつかったです」
     吉田は頭をかきながら小声で答えた。

    「まあ、慣れやして」
     無口な満田が初めて口を開いた。

     満田は満ヤンと呼ばれ、四十代前半で面長の顔立ちに鋭く切れ上がった目尻が特徴で、長くのばした髪の毛は後ろで結わえられ口には立派な髭を蓄えていた。噂では、和歌山市内にある空手道場で師範代を務めているとのことだが、その腕前を見た者はきしゅうにはいない。ただし、ケンツキを使わせたら、きしゅうで満ヤンの右に出るものは誰一人おらず、回収効率はこの人の腕にかかっていると言っても過言ではない。

    「満ヤンのケンツキは、小次郎のツバメ返しやって呼ばれてらっしょ」
     エグチンが鼈甲の色つきメガネの端を指先でチョンと上げると、すかさず上ヤンが続けた。

    「そうそう、風に舞い上がったゴミまで引っ掻き込むっしょ」
     すると音ヤンが、ケンツキに見立てた箸を一本づつ両手に持って、「満ヤンが小次郎のツバメ返やったら、わいは武蔵の二刀流やして」とへっぴり腰でおどけると、食堂は爆笑に包まれ吉田の口元もやっとゆるんだ。

     その日の午後、幸いにも前川課長の予想は外れマゼにはならなかった。

     それから二週間、吉田は相変わらず仕事では苦労の連続だった。機関長の江口が彼の教育係になっていて、時には大声で叱咤されながらも、根は優しい船員達に囲まれて徐々にとけ込んでいった。

     この日もきしゅうは、ゴミを求めて紀伊水道に滑り出していた。操船室ではいつもどおり、谷口の横で杉山が双眼鏡を覗いている。

    「船長、あれ、なんやしょねぇ?」
    「ああ、あれなぁ・・・」

     谷口は、その得体の知れない物の方向にきしゅうを進めた。やがて双眼鏡でその全容をとらえた杉山は、驚きの声を上げた。

    「船長、でかい!流木やして。おまけに根っこまで付いてらっしょ」
    「前方に流木発見」

     鳴り響く船内放送に、船員らがあわただしく配置に付く。近づいてみると、それは根っこの付いた直径一メートル半、長さ十メートルはあろうかという朽ちた流木であった。これまで流木の回収を何年も行ってきた船員達でさえ、ため息の漏れる大物だ。

    「船長、これかいなぁ。ほんこないだ南海フェリーが大きな流木を見たって電話掛けてきてたっしょ」
    「ああ、おそらくそうやしょ」

    「こないなでかいのが、漁船にでも衝突したらえらいことやして」
    「船長、どう料理しよらぁ。コンテナに入らなっしょ」

    「うーん。ロープで結わんことには何事も始めれんが、こりゃ、結わえれんやして」
    「ケンツキで引っかけて流木を持ち上げることもできんやして・・・」
     杉山航海士も腕組みをしたまま考え込んだ。船員達も集まって流木を眺めながら、操船室の二人と同じように思案をしていた。

     と突然、無口な満ヤンが口を開く。

    「ロープかせ」
     エグチンがロープを渡すと、せかせかと満ヤンは自分の体にロープを結わえた。

    「まさか飛び込む気か?」
     と音ヤンが言った時には、もう満やんの体は宙に舞っていた。みんながアッと言う声と、満ヤンが海に飛び込む音を聴いた杉山が放送で怒鳴った。

    「こらァ、むちゃすなっしょ!」
     両手を掻いて海中から浮き上がってきた満ヤンは、一回大きく息を吸い込むと操船室に向かって叫んだ。
    「他にないっしょ!」
     捨てぜりふを残した満やんは、まるで忍者のように素早く流木の周りを潜ってあっさりとロープを結わえてしまった。結わえ終わると、今度は流木に馬乗りになってカウボーイの投げ縄の体制である。

    「ほら、クレーンに結わえっしょ」
     飛んできたロープを上ヤンがキャッチし、船体に装備されているクレーンに引っかけた。

    「ほな、満ヤン巻き上げるっしょ」
     と、すでに操作リモコンを手にしているエグチンがスイッチを入れる。
     ウィーンというクレーンの巻き上げ音と、ギシギシというロープの軋む音が鼓膜を震わせた。

    「潮岬へ、よーそろぉー、よーそろぉー、はいすと!でっこぉ。よーそろぉー」 
     杉山の変な号令に吉田だけが首を傾げる。やがて恐ろしいほどの巨木が海水を切りながら斜めに持ち上がってきた。流木のもう片方は水面に浮いた状態で、依然満ヤンが馬乗りになったままである。やっと船体に流木の片方が持ち上がると、今度は上ヤンが流木に乗り移りロープを何カ所か結わえた。
    チェーンソーを持って来た音ヤンが、デッキから身を乗り出して、「ナンマンダブ、ナンマンダブ、樹齢二百年の巨木様」
    と冗談を言いながら流木を切り始める。

    ウィーン。ガリガリ。チャチャーン。
    騒々しい音が鳴り響き木くずが風に舞った。

    船員らがてきぱきと動く様子を吉田は唖然と見つめていた。というか自分が何をしていいのか分からず、所在なく見守るしかなかった。

    「ヨシヤン、ケンツキ持ってこいっしょ」
     と、初めて江口からヨシヤンと呼ばれたのと、自分にも仕事が言いつけられたのがうれしくて、「はい」と威勢のいい返事をしてケンツキをかき集めてきた。

    「そんなにもいらんのやして。一本でええんやっしょ」
    「あ、はあ」

    「ええか、この切った木にケンツキをかまして、クレーンにあわせて引っ張り上げるんやっしょ」
     切った流木はクレーンだけでも持ち上がるが、安定させるためにはケンツキをかまして船体に当たらないようにする必要がある。吉田は、巻き上げるたびに腰を落として、ケンツキを持つ手に力を入れた。流木は海水を含んでとにかく重たい。その揺れ動く流木に、吉田の突き刺したケンツキは何度も振り払われた。おまけに、ここにきて風と波がいよいよ強まってきて、船体が激しく揺れ始めた。

    「ヨシヤン!しっかり固定せいっしょ」
     江口が、ケンツキを突き立てて加勢する。強い南風が船員達の顔や体に、容赦なく飛沫を叩きつけた。満ヤンのまたがっている流木も激しく揺れ動き、まるでロデオの暴れ馬のような状態だ。

    「こら、はよせい。マゼやしょ!」
     満ヤンが鬼の形相になった。

     格闘することおよそ二時間。流木を全て上げ終わると、吉田の軍手は真っ赤な血で染まっていた。ケンツキを強く握り続けたために、手の豆がつぶれたのである。

     作業が終了すると、激しく揺れるデッキに全員がへたり込んだ。疲れ切った船員達は汗とも飛沫とも区別の付かぬボタ濡れ状態で、誰一人ものも言わず肩で息をするのみであった。

     しばらくしてやっと音ヤンが、ぽそっと口を開いた。

    「満ヤン。着替な風邪引くっしょ」
     満ヤンは思い出したように両手をつっかい棒にして体を起こすと、重たい足を引きずるように船室の方に消えていった。長時間、巨木を両足で挟んでバランスを取っていた彼の足は棒のようになっていた。

    「ヨシヤン、後で満ヤンの足揉んだりしょ」
     音ヤンからもヨシヤンと呼ばれて、吉田はいつの間にか吉ヤンになっていた。

     帰港中に、吉田は激しく揺れる船内で、うつむせになった満ヤンの足をさすり続けた。満ヤンの内股は、所々内出血で赤黒く腫れ上がっていた。

     満ヤンの足は、一週間ほどするとすっかり元に戻った。
     しかし、吉田の両手のまめはその後も回収作業の度にはがれて何度も血を吹いた。やがて彼のまめもはがれなくなる頃には、暑い夏も終わりにさしかかっていた。

    「中藤君よ。いよいよ台風シーズンのお出ましやな」
    「ええ、二つも同時に発生してますね」
     気象台からファクシミリで事務所に送られてくる台風情報に目をやりながら、二人は心配そうに会話を続けた。

     紀伊水道に浮かぶゴミは、そのほとんどが台風時に紀ノ川から流れ込んだものである。つまり、この時期がきしゅうにとっては一番忙しく、誰もが台風の動きに目をとがらせていた。日一日と台風は迫ってきた。

    「石本さん、十号の方は近畿に直撃しそうな感じですね」
    「ああ、吉ヤン、覚悟しときやし」

    「はい。しかも、今度のは雨台風やてテレビで言うてましたわ」
    「そら、ようけゴミが出るわしょ。プラスチックやビニール、電化製品。そいつらが海でどんだけ悪さしよると思うやして」

    「確かに、数年前の関西国際空港が開港の日、神戸から出航した高速船がナイロンゴミを吸い込んで、途中でエンジンが停止した騒ぎがありましたね」

     吉田の返答に、「そんなん大したことやあれへんのやしょ」と音ヤンは更に調子を上げた。

    「ええか、吉ヤン。わいらが何でゴミを必死に取らなあかんのかしっとけよし。確かに流木や電化製品に乗り上げて、漁船やレジャーボートが大事故につながることを、未然に防ぐというのも大事なことやして。しかし、それだけや無い、もっと奥の深い深刻さがこのゴミにはあるんやして。自然界で分解されんゴミは永遠にのこるやしょ。出た直後の浮いてるゴミも、やがては水を吸って重たくなって海底に沈むんやしょ。誰もとらんかったら、百年後、二百年後はどうなるんやして。溜まるいっぽうやして」
     音ヤンの話は懇々と続いた。

     海域に流れ込んだ、難分解性のプラスチックのゴミは永遠に残留する。こういったゴミが生態系に与える影響は深刻な状況となっている。打ち砕かれたペレット状のプラスチックを、魚やウミガメが餌と間違って飲み込んだり、ビニール糸に絡まってカモメが飛べなくなったりと、紀伊水道では我々の気が付かないところで、毎日当たり前のようにゴミの弊害が起こっている。

     さらには、そのゴミから溶け出した化学物質も、自然界には多く残留している。これらの問題は、今は生態系の末端での出来事であっても、やがて人間に差し迫ってくることは間違いない。

     そこまで話が及ぶと、横で聞いていたエグチンが苦笑いで口を挟んだ。

    「吉ヤン。音ヤンのこの講義は毎回ネタが同じやしょ、月一は聞かされるんやっしょ」
     すると、すかさず、音ヤンはエグチンの頭を張り手でしばき、「じゃかぁしゃい。ひよっこはすっこんどれ!今、新規採用者の研修しとんのやっしょ」と力づくでエグチンを退け、さらに吉田に対して延々と話を続けた。

     翌日、台風十号は紀伊水道のど真ん中を北上する、最悪のコースをたどることとなった。台風の東側には、発達した雨雲がびっしりと張り付いている。明日朝までの予想雨量は、紀伊半島で六百ミリから七百ミリと、ものすごい雨量だ。今夕から和歌山市内も暴風圏内に突入し、夜中にピークを迎える。

     その夜、吉田はなかなか寝付かれなかった。着任してからの三ヶ月間が走馬燈のように頭の中を駆けめぐった。ひっきりなしに木造の独身寮が、強風で地震のようにガタガタと揺れる。

     朝方になってやっとまどろんだ彼は、風がたたく音とは違う規則的な音に目が覚めた。寮母さんのノックだった。

     寮母さんは、ドアを少しだけ開けると遠慮がちな声で言った。

    「吉田さん、吉田さん。電話やして」
     飛び起きた吉田が顔をのぞかせると、寮母さんは続けた。

    「杉山さんて方から電話やして。まだ、五時前やいうのになんかあったんかいなあ」
     吉田は寝ぼけ眼で頷くと、寮母さんの言葉を聞き終えない内に電話のある一階へ走り降りた。

     電話の向こうで、やや興奮した杉山の声が響く。

    「吉ヤンか。昨日の台風で紀ノ川が出水して大変なことになったんやっしょ。河川敷の工場からガスボンベが三百本近く流れてしまったらしいんやして。放っといたら大変なことになる。直ぐ来てくれっしょ」 
     吉田の眠気は一気に吹き飛んだ。

     彼は自分の部屋に戻ると瞬時に着替え、また一階に走り降りると玄関の靴を突っかけた。

     背後で寮母さんの声がする。

    「吉田さん。これ持っていきよし」
     寮母さんは、パジャマのままの寝ぼけ眼で、「握っただけやして、何も入ってないけど」と彼の手におにぎりの包みを渡した。

     事務所に到着すると、既にみんな集まって倉庫の方で準備をしていた。
    吉田もあわてて倉庫の方に向かう。
     
     その時、事務所の執務室からけたたましいやりとりが聞こえてきた。

    「係長!ボンベを見つけるには、わかかぜで行くべきやっしょお」
    「しかし、杉山さん、ボンベは三百本も流れてるんですよ。小さいわかかぜが、そのボンベだらけの海に巻き込まれたらどうなります。機雷に囲まれたようなもんですよ」

    「わかかぜに自分が乗り込んで、ボンベを近づく前に発見すればええんやしょ」

    「今の海の状態でそれができるかい、杉山さん!真っ茶色な泥濁りの海の中から、どうやってボンベを見つけられるというのですか」
     中藤係長がそこまで言うと、杉山は拳を握って押し黙った。

    「課長、わかかぜは今出すべきではありません。浮遊物追跡シュミレーションで私が推測します。結果が出るまでにはしばらく時間がかかるでしょうが、それを待ってください」
     前川課長は返事をせず、ずっと腕組みをしたままである。その横から杉山が再び口を挟んだ。

    「待てやん! 当たるかどうかもわからんコンピューターの計算なんかあてになるかよ」
     その言葉に前川課長の眉間のしわが一層深まる。

     それまでずっと黙っていた谷口船長が口を開いた。

    「課長、連中は待てる奴らじゃないやして」
    「うむ」
     前川課長は、吹っ切れたように両腕をほどくと膝において言い放った。

    「直ぐにわかかぜを手配して出航する。わかかぜには、杉山航海士と吉田君の二名が乗船する。残りはきしゅうで出航。その間に中藤係長は全速力でシュミレーションを行うこと。その結果が出ればわかかぜはそれに従うこと。これでどうかな」
    「了解」
     唇をかむ中藤の横で、杉山は威勢よく返事をすると倉庫へ小走りした。

     しばらくすると、わかかぜの秋山船長と内沢機関長が到着した。
     わかかぜは監視船といってゴミの不法投棄を監視する船であり、船体はわずか二十トンしかないが、スピードは最速二十四ノットと早く小回りもきいた。

     杉山と吉田は、出航準備の整った、わかかぜに飛び乗った。

    「杉山さん、生きて帰れるかいねぇ」
    「まあ、運次第やしょ」
     乗船するなり、秋山と杉山の間で、冗談とも付かない会話が交わされる  と、不安げな吉田の顔がより一層曇った。

    「で、どこ向いて行こらぁ?」
    「友が島やしょ」

    「え、大潮やして」
    「いや、友が島やしょ。ボンベはあそこでのたまわってるはずやして」

    「分かったっしょ。ほな行こらぁ」
     秋山は観念した様子で舵を握った。
     わかかぜのエンジン音がひときわ大きくなる。朝凪で風はぴくりとも動いていない。

     ポンツーンの手すりに掻き付いて、前川課長だけが無言で見送った。
    きしゅうの前を通ると船員達が一斉に手を振る。

    「吉ヤン、誤って落ちたらボンベと一緒に回収したらっしょ」
     音ヤンのがらがら声と共に、船員達の笑い声が一斉に響いた。

     わかかぜのスピードが更に上がった。
     船着き場の前ですら紀ノ川の水が混入しコーヒー牛乳の色になっている。

     わかかぜは徐々に一文字堤の外海へと近づいた。そして、その外海の光景をはっきりとらえた瞬間、わかかぜの四人は一様に息をのんだ。

    「な、なんやねこれは。わいら何年も海に出たけど、こんな海見たことないっしょ」
     秋山らの言うように、その光景はいつもの海とはあまりにもかけ離れていた。いや、そこはもはや海ではなかった。あえて言うならば、草木の無い真っ茶色に広がる泥の大地だ。

     その泥の大地の中でうごめくおびただしいゴミ。そのゴミがぶつかり、絡み合いながら浮き沈みを繰り返していた。

     現実的でない光景を前に、四人は、しばし言葉を失った。

     昨夜の紀ノ川の洪水で、和歌山港の入り口付近に、ゴミを含んだ濁流が蔓延したのだ。

    「す、杉山さん。ここは無理やして。プロペラにゴミでも絡んだら難破船やしょ」
    「うむ、遠回りするしかないっしょなぁ」
     わかかぜは左に旋回すると、一文字堤に沿って雑賀崎へと進路を取った。
    この間、杉山は事務所から得たデータをもとに、ボンベの行方を占っていた。

     と雑賀崎の突端にさしかかったとき、突然、吉田が大声を上げる。

    「あ、あそこに。あそこにすごい流木です」
     気がついた杉山も目を丸くした。

    「ああ、これはすごいやして」
     雑賀崎の突端に流木が寄り集まり、大きな木ぎれの浮島ができていた。

    「吉ヤンあれは間伐材やしょ」
    「え、間伐材」

    「そぉや、木の大きさが同じやしょ」
    「そう言えば確かに」

    「最近、山の手入れができてないんやしょ」
    「山の手入れですか?」

    「そうやして。山の手入れがいきとどかず、間伐材が放置されてるんやしょ。それが大雨の時、一挙に海に流れ込んでくるんやして」
    「なるほど。そしたら、この海の問題は山の問題でもあるわけですね」

    「そうや。自然に境界なんてないんやしょ。だからわいらの仕事も、もっと川の人間とか山の人間と一緒に考えなあかんのやして」
    「なんか石本さんもこの前、そんなこと言ってましたわ」

    「ああ、音ヤンにこの手の話をさせたら長いっしょ。なんせきしゅうの博士やして」
    杉山は、音ヤンを思い出すように笑った。

    そして、口をつぐんで流木群に目をやると、「ま、あれは後回し、今回はボンベが先やしょ」と元の表情に戻った。

     杉山は、ボンベの行方をひたすら考えていた。

     洪水のピークが夜中の一時頃、ボンベが流れたのもそのころであればボンベは友が島沖に達した頃に、明け方の満潮の上げ潮で南から北、つまり大阪よりに運ばれている。

     一方、台風の吹き返しの風は北から南へと上げ潮の向きと正反対に吹いているので、この二つの要素から場所を割り出せばよい。これまでも通常のゴミならば、ほぼ予測を的中させてきた。

     ところが、今回はよく分からない要素がひとつだけあった。
     それはボンベが受ける風の影響である。ボンベがどのような状態でどのぐらい没水しているかが皆目分からなかった。

     吹き返しの風を受けた時、ボンベが北上する表面流と南に吹く風のどちらに支配されるかによって、動く位置は大きく変わってくる。

     杉山は今朝の係長とのやりとりで勢いづいたことを、今更少しだけ後悔していた。

     ところが同じ頃、事務所でパソコンを操っている中藤も同じ事を考えていた。吹き返しの風が、ボンベの移動に与える影響を数値に換算することができず、その条件を少し変えただけでもパソコンは全く違う進路を何ケースも出力してくるのである。

     つまり、二人の入った思考の迷路は、ガスボンベの回収という業務が、海面清掃の業務には最初から想定されていない事を物語っていた。

    「船長、まず沖の島の裏側に行こらぁ」
    「了解。ちょっと間揺れるっしょ」
     友が島とは、地の島と沖の島の二つの島を総称した呼び名だ。

     杉山は、ゴミの引っかかりやすい西側の沖の島に目をつけた。
     ここに行くためには、流速の早い友が島水道を渡らなければならない。ちょうど下げ潮にかかっており、わかかぜの小さな船体は、急流を遡るようにガタガタと激しく揺れた。

     やっと、小さな岬に到達したわかかぜは梶を大きく右にきる。

     風ひとつ無い静穏な入り江が、山の方からゆっくりと開けてきた。

     わかかぜのエンジン音に驚いた海鳥の群れが一斉に飛び立つ。

     次の瞬間、秋山らの歓声が船内に響いた。

    「やったぁ、ボンベや、一発やしょ」
     確かに、均一でおびただしい数の物体が河川水で薄茶色に染められた入り江を覆い尽くしていた。

     しかし、歓喜する三人とは対照的に双眼鏡をのぞく杉山は黙っていた。
    「ちがうっしょ。こらぁボンベやないやして」
     双眼鏡を降ろすと杉山は腕組みをした。

    「え、じゃあ杉山さん、こんなぎょうさん何やして?」
     一転不安な表情で秋山が聞いた。

    「何かはわからんけど。とにかくもう少し寄ってもらえるかのし」
     腕組みをしたまま杉山は首を傾げた。

     わかかぜはゆっくりと、そのおびただしい数の物体に近づいた。
     目前に迫ったその物体群は、水面にぽっかり浮かびまるで満タンに空気を入れた革袋のようであった。

     近づいたわかかぜの航跡波で、裏返ったその革袋の端に、膨れあがって引きつった動物の顔が付いているのを発見した四人は、思わず口を被った。
    「うぐっ」
     杉山が顔を背けるように言った。

    「豚や」
     吉田の体に悪寒が走った。

    「こりゃ、この世じゃないわして。あの世やしょ。この入り江は」
     しかめっ面の秋山船長は、あわてて、わかかぜのユーターンを始めた。

    「そう言うと、紀ノ川の岩出の河川敷にでっかい養豚場があったっしょ。あれが流されたんとちゃうか」
     と機関長の内沢は、おそるおそる入り江の方を振り返った。
     後で分かったことなのだが、内沢の言うとおりであった。
     岩出の河川敷にある養豚場が、洪水で流され、豚二百匹が海域に流出していたのである。

     三人が入り江を恐怖の余韻としている間も、杉山だけはボンベの行方の手がかりとして考えていた。

    「風の影響を強く受ける豚の死骸が、あの入り江か」
     杉山が独り言のようにつぶやくと、それに答えるように船舶電話が鳴った。

    「杉山さん、中藤係長からです」
     内沢が取り次いだ。
     杉山は、出掛けのことがあったので少しバツが悪そうに電話に出た。

    「杉山です。朝は興奮してすんませんでした」
    「いえ、私の方こそ。ところで現地はどうです。見当付きそうですか」

    「いえ、今、沖の島の西裏側ですが豚の死骸だらけでした」
    「ええっ、豚を発見しましたか。その情報がほしかったんです。流れたLPガスボンベの充填工場は養豚場の向かいにあったのです。つまりボンベと豚が流れた時刻はほぼ同じです。そして、ボンベの専門家に聞いたところ、栓が破壊されない限り、ボンベは頭の部分だけ海面に出してほとんどが没水しているとのことです。つまり、ボンベの移動は、ほぼ表面流にのみ支配されていると言うことになります。その入り江に豚の死骸があるということは」

    「そしたら、係長、ボンベはもっと北に移動して」
    「そう、大阪湾の友が島反流に乗って東に回って行くんじゃないでしょうか」

    「そうか分かったっしょ。今は引き潮やして、ボンベは地の島と沖の島の間、中瀬戸を南下してる最中やしょ」
    「うん。杉山さん、間違いない。きっとその通りですよ」
     杉山は電話を切ると、確信するような口調で秋山らに言った。

    「中瀬戸に急行やして」
     わかかぜは艫を沈めて舳先を持ち上げると、勢いよく発進した。

     目的地にさしかかると、杉山の双眼鏡の視界に銀色に煌めく一筋の帯が現れた。

    「あったでぇ。ボンベやして」
     自信たっぷりの笑顔で杉山が体を小揺すりすると、船内は歓喜に包まれた。

    「吉ヤン、直ぐに事務所ときしゅうに連絡いれっしょ」
     言いつけた杉山は、操船室を出てわかかぜの舳先に仁王立ちした。

     近づくにつれて、船内の三人にもガスボンベがはっきりと見て取れるようになった。

     三百本のボンベは、引き潮の激流の中をひしめき合い、ガチン! ゴチン! と鈍い金属音を奏でながら南下していた。

     それは太陽に照らされて、ギラリギラリと不気味に光を反射し、一定間隔で海面への隆起と沈降を繰り返しながら、まるで何か巨大な生き物のように前進していた。

     と、突然、ガスボンベの帯が、わかかぜを威嚇するかのように膨らんだ。

    「あ、危なっ!」

     舳先の杉山が、叫びながらしゃがんだ。
     瞬間、ゴォーと言う唸り声を上げてわかかぜが艫を支点にして急旋回した。

     危機一髪で、衝突は回避された。

     しかし、ガスボンベのぶつかり合う音はどこまでも追いかけてきた。その音は、わかかぜのエンジン音と底重たく共鳴して船内の空気を震わせた。
    そして、それはバランスを失って転んだ、吉田の体をも震わせていた。

    「武者震いや」
     彼は振り返ってガスボンベを睨みつけると、体勢を整えた。

    「今は危険すぎるっしょ。ボンベが全て中ノ瀬をつききって、動きが収まってからやして。それまで後をつけて行くんやして」
     慌てて船内に戻った杉山には、発見したときの笑顔は全く消えていた。

     遠方に知らせを聞きつけたきしゅうの姿が見えると、わかかぜはきしゅうに向かった。

     杉山と吉田は、回収作業のためきしゅうに乗り移った。

     きしゅうの周りに、知らせを聞いた漁船らも続々と結集した。
     激流するガスボンベの群は、中ノ瀬の南沖に達すると取り巻く船団を蹴散すように大きく西に蛇行し、ようやくその動きを止めた。

     万を期したかのように、きしゅうの船内放送が鳴り響く。

    「今や、かかれっ。しばらくするとまた動き出すっしょ」

     杉山の怒鳴るような言い回しに、船員達が雄叫びを上げて奮い立った。
     吉田の武者震いは、いつの間にか止まっていた。
     
     きしゅうは、ゆっくりとボンベの群に近づいた。
     杉山も加勢して、三人一組となってボンベの回収に当たった。

     まず一人がボンベの頭を慎重にケンツキで引っかけて寄せると、残りの二人もケンツキを引っかけ三人でデッキまで持ち上げた。

     他の漁船らが回収を躊躇する中、彼らだけが回収の要領を得て重さ三十キロもあるボンベを次々と引き上げた。
     過酷な作業にもかかわらず誰も弱音を吐かない、荒い息吹とかけ声だけが交錯する時間が黙々と過ぎた。

     二時間程経っただろうか、海上のガスボンベは半分ほど回収された。しかし、その時きしゅうの頭上の旗がバタバタと激しく音を立てて風にあおられ始めた。

    「あかん、マゼやしょ。マゼが来るっしょー」
     音ヤンが、肩で息をしながら、南方に浮かぶ雲を不安げな目で見上げた。

    「急げ。マゼになるやっしょ」
     杉山が、皆に呼びかけるように叫んだ。

     船員達の動きが更に激しさを増す。だが、やがて紀伊水道は凶暴なマゼの海へと化身していった。

     いきなり、強風を受けたきしゅうの船体が大きく傾いた。
     ガッチーン! 強烈な金属音と共に、回収したボンベ二本が床にたたきつけられて転がった。とっさに、エグチンと満ヤンが転がるボンベに飛びつく。
     エグチンの鼈甲のメガネが舞い上がる。
     満ヤンは、ボンベを抱えたまま、船体に体を嫌と言うほど叩きつけられた。

    「大丈夫かァ」
     杉山の声に、満ヤンはボンベに抱きついたまま無表情でこっくりとうなずいた。

     その時、海上のガスボンベが再び鈍い金属音をガチン! ゴチン! と発しながらうごめき始めた。

    「あかん、また、動き始めたっしょ」
     音ヤンがデッキに四つんばいになり、ボンベの群を恨めしそうな目で睨みつける。

    「上げ潮やしょ。上げ潮が始まったんやしょ」
     杉山が首を横に振る。

    「あかん、吉ヤン。もう無理や止めとけ。一時中止やして」
     ボンベにケンツキを掛けて、船体に引き寄せる吉田を上ヤンが止めた。

    「上本さん、せっかく掛けたんで、こ、これだけは上げましょうよ」
    「よっしゃ、これだけや、音ヤン!これで最後にしょうら」
     吉田の引き寄せたボンベの取っ手に、音ヤンと上ヤンのケンツキが引っかけられ、引き上げようとしたその時に再び船体が大きく傾いた。

     同時に音ヤンと上ヤンのケンツキが、ボンベからカシッという音と共にはずれ、二人は後方にドンとしりもちをついた。
     次の瞬間、ガスボンベに引きずり込まれるように、ケンツキを持った吉田の巨体が反対側の海に一回転して弾き飛ばされた。
     ザッバーンという激しい水しぶきと共に、吉田はマゼの海に投げ出されてしまった。

    「吉ヤン! 吉ヤン!」
     音ヤンらの絶叫が、荒くれる波しぶきにかき消される。

     気が付くと吉田は、救命胴衣の浮力を借りて、ガスボンベの群の中に浮いていた。

     目の前で踊り狂う三角波が、きしゅうの船体を見え隠れさせ、近くでボンベが激しくぶつかり合う金属音が鼓膜を刺した。

     だが、彼には不思議と恐怖心は沸いていなかった。
     すぐにきしゅうから、ロープに結わえられた浮き輪が投げられたが、簡単にマゼに押し返された。

     吉田の体が、紀淡海峡の強い上げ潮に翻弄されながら流されていく。
     満ヤンがケンツキにロープを結わえ付け、やり投げの体勢に入った。
     
     誤ったら、吉田の体に突き刺さる。誰もが息をのんだ。
     だが、満ヤンを止める者はいなかった。
     他に方法がなかったのだ。
     
    満ヤンは弓のように大きく体をしならせると、空手の気合いもろともケンツキを投げ飛ばした。

    「セイャーッ」
     マゼを切って放たれたケンツキは、吉田の間近にあるボンベに命中すると、カン、カンと余韻のない乾いた音と共に着水した。

     吉田は、そのケンツキを死にものぐるいで掴んだ。掴むと彼はケンツキから素早くロープをはずして自分の体に結わえた。
     それを見たきしゅうの船員達から、安堵のため息が漏れた。

     しかし、直後彼は意外な動作を始めた。
     ケンツキを持って、ボンベを追いかけ始めたのである。

    「こら、吉ヤン、止めっしょ!」
     とっさに音ヤンが叫んだ。

    「あのバカ」
     満ヤンは、目を点にして呆れると思いっきりロープを引き戻した。
     満ヤンの引っ張るロープに、音ヤンとエグチンと上ヤンも加勢した。
     しかし、吉田は抵抗した。

     激流に流されるボンベの群れの中で、彼は狂ったようにケンツキを振り回した。

    「一本でも多く回収するんや」
     命すら落としかねない状況の中で、何故か使命感だけが彼の大きな体を動かしていた。

    「こぉらぁっ吉ヤン、止めっしょい。命令やして」
     杉山の、雷のような怒鳴り声がきしゅうの拡声器から海上に何度か響き渡った。

     やっと、吉田の動きが止まった。

     激しくぶつかり合うガスボンベだけが、上げ潮の激流にのって遠ざかっていった。

     その様を凝視する彼には、もはや寸分の力も残っていなかった。
     
     船員達によって、運動会の綱引きのように引っ張られる彼の体は、きしゅうに背を向けて何の動作もなく、まるで回収される浮遊ゴミのようであった。

     きしゅうの船体に近づき、みんなの顔がはっきり見て取れるようになってからやっと自分のしたことに気がついた。

     流れ去ったボンベのことで一杯だった頭の中が、今度はみんなに迷惑をかけて申し訳ない気持ちで一杯になった。

     船体にケンツキを引っかけ、海中から顔だけ出した状態で、「すいませんでした」と神妙に吉田が謝ると、飛沫でボタ濡れになったみんなの口元がやっとゆるんだ。

    「ええんやして、吉ヤン」
     はい上がろうとする吉田の腕を、涙声の音ヤンが掴んだ。

     デッキに引き上げらた吉田は、すぐに音ヤンら数人に抱きかかえられるように船室に運ばれ、着替えさせられると蓑虫のように毛布でくるまわれた。

    「吉ヤン、また明日があるんやして、しばらく横になっときやし」
     音ヤンのがらがら声が、今日はやけに優しく響いた。

     激しく揺れる船内から、横になって見上げた丸窓の向こうに、マゼがうなり声を上げて吹き荒れていた。

     吉田の体は、やっと恐怖心を思い出したようにガタガタと震え始めた。

     やがてきしゅうは、小さな船体を振動させながら踵を返すと、いつの間にか和歌浦の天空に浮かんだ満月に誘われるかのように、帰路へと就いた。

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    趣味は鮎釣りで、シーズンオフはエッセイや小説を頭の体操にと思って書いています。何卒よろしくお願いいたします。

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