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Photo bysubaruphoto2002

花筏

    あらすじ
    舞台は長野県松本市。生まれた時から松本でずっと生きてきた櫻井湊と東京から転勤してきた父についてきた転校生の如月結衣の高校三年生の話。二人は共に高校三年生、湊は深志高校、結衣は蟻ケ崎高校と別に県立高校に通っていた。湊の父はエンジニアで、湊は信大医学部を出て、医者になろうと思っていた。一方の結衣は漠然としていて、まだそういう夢はない。地元の各所が散りばめられて、特に女鳥羽川と花筏が物語の主となる。他に湊の両親、結衣の父、結衣の親友百瀬弥生が織りなす青春恋愛小説。結末は、10年を経て訪れる。

    其の壱
     「まつもとぉ〜、まつもとぉ〜」懐かしい駅のアナウンスが聞こえてきた。特急が滑り込む時だけ流れるこのアナウンス。その声を聞きながら、特急からホームに降りた背の高い若者はバッグを肩に掛け直して、改札の方に歩いていた。あのアナウンス、昔は駅員さんの声じゃなかったっけと思いながら、改札を出て、自分の向かうお城口のほうを見た。ガラスの向こうにあの常念岳や連なる北アルプス山々険しい稜線が夕日を浴びて、真っ赤に燃えるように、駅のすぐ近くに見える。こんな駅は他にない。これは、若者の自慢だった。ただ、今の山々は彼を必ずしも歓迎しているようには、彼には思えなかった。「よく帰ってこれたもんだ」と言われている気がした。これから彼を待ついろいろな出来事を何となく感じさせるような、何とも言えない茜色をしていた。(燃えるような茜色の常念岳、あの頃と変わらないのにな。今は、あの色、きついな)と思いながら、(もう、随分経ったな)と、川のほとりにいた女子高生の姿が、頭をよぎった。あの時の景色…。
     今日と同じようなあの春の日。女鳥羽川の辺の千歳橋のたもとで、一人の女子高校生が、ボンヤリとため息をつきながら、川の方に目をやっていた。東京から父の転勤について、この地に初めて降り立った彼女は、明日、初めて行く学校に馴染めるかの不安が心を埋めているなかで、川を眺めているというよりは、ただ、彼女の視界に川が入っているだけであった。突然、後ろの方から「今年は見れたんだ。」と独り言にしては大きめの声が聞こえ、思わず彼女は声のする方へ振り返った。その動きに、自転車にまたがっていた声の主は、戸惑いながら、彼女の方に目をやった。「花筏」彼がボソッと言った。「はないかだ?」彼女は聞き返すように、彼に声をかけた。「知らないのかよ、花筏。ここ何年か、俺は見られなかったんだよ。久しぶりだなぁ。」桜の終わる頃になると花びらが舞い、川の流れに集まっていくように筏のように、流れていく光景だったが、今の結衣にはどうでもよかった。「花筏ねぇ。」結衣がボソッと言うと、「この辺りに住んでるの?」唐突に彼が聞いた。結衣は、個人情報だぞと思いながらも、「一昨日、この近くに越してきたの、それまでは、ずっと東京で…。」「ふーん、あっ、俺は、いや僕は、湊。港じゃない方の湊ね。よろしく。」初対面の同年代の男の人に急に自己紹介をされて、戸惑いながらも、「私は、如月結衣。明日から、新しい学校に転入するの。」と答えた。「僕は、深志高校3年、君は蟻ケ崎高校かな?」「それくらいわかるわ。蜻蛉の校章なんて他にないものそ
    ええ。蟻ケ崎だと何かいけない?」そう言うと結衣は再び川の方に目をやった。流れていく花筏を、漠然と眺めながら。「親父さんの転勤って、この近く?」再び、湊が尋ねた。結衣は、そんなことより明日のほうが心配で、鬱陶しいとしか思えなかった。家に帰って考えようと思い、結衣は湊に「また、いつか会うことがあったらね。」とほとりから立ち上がると、家のある模型屋の看板の方に歩き始めた。「えっ、帰るの?」湊は戸惑いながら、自転車の向きを慌てて変えた。「折角会ったんだから、もう少し話さない?」湊が言った。結衣は、私には今そんな余裕はないのと思いながら、「今度会えたらね。」と振り返りもせず、真っすぐ歩き始めた。湊は、その勢いにその姿を見送るしかなかった。(俺が女子に声をかけるなんて、滅多にないのに、つまんないヤツだな。少し可愛いと思って…)などと独り言を言いながら、湊は自転車を漕ぎ始めた。
     翌日、その日は朝から青い空が広がっていたのに、千歳橋に向かって、頭も心も憂鬱で一杯ですと看板下げて歩いている女子高生がいた。(やっぱり、転校って嫌だなぁ。昔、転校生が来たときも、私、あんな感じでその子のこと見てたのかな?明日が来なければいいのに)と大きなため息をついて、顔を上げたその視界に、学生服を着て、あの模型店の店先をうろついている若者が入った。(嫌だなぁ、避けて通ろう)と結衣が思った途端、その学生服の若者は、突然、「やっぱり、こっちだよな。」大きな声を出した。その声の大きさに、結衣が思わず、「キャッ」と小さな悲鳴を上げた。その声に、若者は初めて気が付いて振り返った。「あっ、このあいだのつまんないヤツ。」と指を差した。結衣は今までの憂鬱な塊もどこかに、カチンと来て、「何で、いつも突然声出すのよ。」と若者、いや湊を睨みつけた。「別に君がいるから声を出しているわけじゃないよ。たまたまでしょ、偶々。」と、少し戸惑いながらも、からかうように、結衣に言った。「小学生みたいにプラモデルなんか、必死に選んでバカみたい。」今度は、湊が少しカチンと来た。「つまんないヤツに、プラモデルの良さは分からない、よ。」と結衣の顔の前で人差し指を左右に振った。結衣は、益々、頭に血が上って、「ガキッ。」と大声で言うと、振り返ることもなく早足で歩いていった。その後ろ姿を見送りながら、湊はため息交じりに「どうしてこうなるかな。」と言いながら、模型店の引き戸を開けて中に入っていった。
    少し歩くと、結衣は頭に上った血も下がって、また憂鬱の塊が顔を出してきた。こっちもため息をつきながら、歩いていった。
     あの模型店での大喧嘩から2週間が経っていた。風薫る5月。松本の5月は、北アルプスからの吹き下ろしの風もあり爽やかな季節のはずなのに、結衣の心はあの空とは裏腹にどんよりと曇ったままだった。通り一辺倒の口を利く子は何人か出来たが、中々、仲良くするとまでは程遠かった。色々、考えていたら、(私、こっちに来てから、口きいたことあるのって、お父さんとあの深志のいけ好かないヤツだけじゃない)何で私がこんな目に遭わなきゃならないのと、ため息しか出ない帰り道、ふと顔を上げると、模型店の前に見慣れたヤツが、またガラスケースの中をあっちからこっちから見つめていた。「げっ、またアイツだ。」と気取られないように、通りの反対にわたり、そっと早足で歩き始めた。湊は相変わらずガラスケースを覗いていたが、ふとガラスケースに見慣れた女子高生が映った。「あっ、つまんないヤツじゃん。何であっち歩いてるんだ?」そう思いながら振り返ると、結衣に声を掛けた。「また、会ったね。久し振り。元気か。」と大きな声で言いながら、結衣の方に向かってきた。結衣は、「ひゃっ、気付かれた。」ローファーの踵を鳴らしながら、慌てて走り出す結衣。「なぁ。」と相変わらずの大声で、追いかける湊。傍から見ると、男子高生が女子高生に追いかけて何かしようとしているようにしか見えない。湊の大きな声で、近くの刃物研ぎの店の親父が、「ガラッ」と引き戸を開けて、何事かと出てきた。「おい、お前何してるんだ。」親父さんの怒声にびっくりして立ち止まった2人。湊は、「いやぁ、知っているヤツだから、声掛けただけですよ。」親父さんは、結衣の方を向いて「こいつの言ってる通りなのかな、何なら神道様のところの交番に突出してもいいんだけど…。」結衣の頭の中に、それもいいかなという気持ちも少しよぎったが、取り敢えず、「顔は、知ってるんで、大丈夫です。」と答えた。親父さんは、二人の顔をまじまじと見ながら、若干怪訝な顔をしながらも、「ここいら、人通り、そんなに多くないから気をつけないと。」と言って、店の方へ歩いていった。結衣は、親父さんの後ろ姿に深々と頭を下げて、すぐさま踵を返し早足で歩き始めた。「待てってば。」さっきよりは、少し小さな声で、湊が慌てて追いかけてきた。「あのさぁ、あんたがあんな遠くから大きな声出さなきゃ、人なんかこなかったのに。」半ば怒ったように、結衣が湊を睨んだ。「お陰でもう少しで交番に連れて行かれるとこだったのよ、最低。」「交番に突き出されたかもしれないのは、こっち。そんな避けるように早足なんかで歩かなきゃいいんだよ。」と湊が言い返した。確かにと思いながらも、結衣は「だから、あなたと私は何の関係もないんだから、私に構わないでいてほしいの。」と湊の顔を睨みながら言った。「えっ、だってこの間、花筏も一緒に見たし、その後もあの模型店で会った。友達じゃん。」と湊が少し微笑みながら言い返した。「はっ?一緒に?偶々、同じ景色を見たり、会っちゃったりしただけでしょ?あんた、同じもの見たらみんな友達になるなら、球場にプロ野球見に行く人、みんな友達だわ。」結衣は、また、頭に血が上ってきた。湊は少し戸惑いながら、「ねぇ、なんでそんなに、いつもイライラしてるの。もう少し落ち着こうよ。」湊が言った。「あとからあとから、イライラさせるの…。」まで言いかけて、結衣は、何でこんなやつとこんなことで言い合いしなきゃいけないんだろという気持ちが湧いてきて、「もう、いいわ。私も避けるようなことしたことは謝るけれど、今後一切、私を見かけても声をかけないで。」と一気に言うと、家の方へ早足で歩いて行った。湊はその後ろ姿を、やれやれといった感じで見送りながら、(東京の子ってわからないなぁ)と帽子を取って、少し汗ばんだ頭を掻いた。
     学校の休みのある日、結衣は大名町通りから少し入ったお店に寄って、その箱を大事そうに持ちながら、家路へ急いでいた。この辺りはスイーツのお店も多く、学校で漸く最近仲良くなってきた友達に、ここのチーズケーキ最高だよと教わったお店のものである。少しずつ、学校に慣れては来たものの、東京からの転校生と親しく口を利く子はまだ多くない。その子はそんな中で結衣にとって大切な存在だった。大好物のチーズケーキを持って、どんな味なんだろうとと、少し心を弾ませながら、通りに出ようとしたとき、目の前をマウンテンバイクが横切った。(危ない!)結衣は思わず箱を落としそうになった。「危ないんですけど!」少し強気に言うと、バイクのほうを見た。「また、あんた?」思わず、結衣は声を上げてしまった。「別に会おうとしてつけているわけじゃないし…。」頭を掻きながら、見慣れた若者は困った顔で結衣を見ていた。結衣は「もう少しで落とすとこだったじゃない。気を付けてよ。」と少し怒ったような目で若者を見ていた。若者、そう湊は結衣の怒っているのそのままに、「その店のケーキ、上手いんだよな。」とケーキを見ていた。「男のくせに甘いものが美味しいとか…。」「その男のくせにって、セクハラなんだよなぁ。」「知らない女の子に絡むほうがよっぽどセクハラよ!」結衣は、湊のことを睨みながらも、冷静に学ラン以外も着るんだと思っていた。その時、湊が「制服以外も着るんだね。割とセンスいいネ。」と微笑みかけた。途端に、結衣は自分思っていたことを先に言われたこともあって、「これは前の学校の。蟻ケ崎、制服ないの知っているでしょ?あんたなんかよりは、まともよ。」と、つい口をついて出ていた。湊はやれやれと思いながらも、「なぁ、何でそんなにいつもカリカリしてるの?学校で嫌なことであった?」と真顔で尋ねた。図星を突かれ、結衣は胸にこみ上げてくるものを懸命に抑えながら、「別に。」と強がった。湊は、その気配を察しながらも、わざと、「天気も良いし、少し歩かない。案内してやるよ。」と遠くを見ながら言った。結衣は(確かにずっと落ち込んでカリカリしているものなぁ。えっ、でも、こいつにまでわかるくらいひどいのかな)などと思いながら、並んで歩き始めた。生命保険のビルを抜けると左手に神道様が厳かに鎮座されている。
    結衣が唐突に「ねぇ、何で四柱神社っていうのに、みんな神道様っていうの。このあいだの親父さんも言っていたし…。」すると、湊は待ってましたとばかり得意そうに「日本は人によって神様にお祈りする人も、仏様にお祈りする人もイエス様にお祈りする人もいるだろ。宗教の制限がないんだよ。ただ、昔、神様か仏様かで論争があって、神様の方の中道院っていうのがここにあったの。神道の拠点だから神道様。」「ふ~ん。じゃあ、四柱は?」
    「神様は一柱二柱って数えるんだ。ここには四柱の神様が鎮座されているから、よ・は・し・ら」
    「凄いんだね。」結衣はさっきの怒りもどこへやら、湊の話に聞き入っていた。だから、ここでお願いごとをすると、ちゃんとしていれば叶うと思うよ。」「そうか…今度、お参りしてお願いごとをしようかな。」「今すれば?」「あなたとなんかとだと叶うものも叶わなくなりそうだから、今度。」結衣は相変わらず憎まれ口を聞きながら、湊の話を素直に聞いていた自分に少し驚いた。(何であんなやつの話ずっと聞いていたんだろう。これも神様のお陰?)と思いながら、湊と別れてケーキの箱を抱えながら家路を急いだ。
    夜、晩御飯のあと、結衣が珍しく鼻歌を歌っていた。父は「どうしたんだ。お前がそんなに機嫌のいいのを見たのは久し振りだよ。」と新聞を片手に少し下にずらしたメガネ越しに結衣のことを見た。「学校の友達がね、ここのチーズケーキ美味しいからって…父さんも食べるでしょ?」「父さんは甘いものはあんまり…」「嘘ばっかり、この間も開運堂のどらやき食べてたでしょ?」「知ってたのか。」「お父さんのやりそうなことなんてお見通しだわ。」と結衣が笑いながら言った。娘の久しぶりの機嫌良さに、少し戸惑いながらも、結衣が切り分けたチーズケーキを一口食べた。「美味しいでしょ?」「そ、そうだな、まぁな。」「どうして美味しいって素直に言わないかな。父さんって昔からそうよね。」結衣は自分の分を口に頬張りながら父に言った。「父さんはケーキより和菓子のほうがいいんだよ。」と言いながら、新聞に目を落としながら、「学校、少しは慣れたか?」と、こちらに来てからずっと気にしていたことを聞いた。結衣は上を向いて少し考えながら、「まだまだたけどね。でも、話する子も出来たし…あっ、このケーキ屋さん、その子に教わったの。明日、弥生に報告しなきゃ。」「弥生さんっていうのか。」「百瀬弥生、すごく明るくて、転校した初日から話しかけてきてくれたわ。」結衣の言葉に父は少し安心しながら、「悪かったな。初めての場所は大変だよな。」と言った。「父さんこそ大丈夫?大学病院でイジメられていない?」「バカ言うな。もう、父さんは人気者だぞ。」「嘘ばっかり、母さんもいつも言ってた。父さんはしんどい時ほど明るいって…。」そう言っている結衣の顔を見て、母さんに似てきたなと、父はふと思った。
     次の日の朝、いつもなら行きたくないのと眠いのとで、布団からなかなか出ない結衣がすぐ起きて弁当を作り始めた。弁当作りは元々結衣の仕事だが、こちらに来てからグタグタしていて、父が作っていた。台所の物音で、父が起きてきて「今朝はどうしたんだ?」「目が覚めちゃったから…ごめんね、お弁当作らせて。」「そんなことは構わないよ。」と言いながら、昨日から明るくなっている結衣の姿が少し嬉しかった。「じゃあ、これ父さんの。行ってくるね。」「ああ、気をつけてな。」結衣は、一刻も早くケーキのことを弥生に話したくて、昨日からソワソワしていた。風は少しずつ湿気も増え、6月の声を聞こうとしていた。結衣は、足取りも軽く5月の風の中を惜しむように、学校へと向かった。転校してもうすぐ2カ月になる。少しずつ学校にもクラスにも慣れ、『弥生』とも、お昼をいつも一緒に食べるようになっていた。学校に着いて、上履きに履き替えようとしたら、前をその弥生が教室に向かっていた。「弥生!」その声で振り返った弥生は、目を丸くしてびっくりした。「どうしたの?最後か最後から2番目しか登校したことない結衣が、この時間…私、傘持ってきてないよ。」そう言って笑いながら、結衣に抱きついてきた。「何かいいことあったでしょ?」結衣の明るい顔やいつもよりとてつもなく早い登校からも、弥生には、容易に想像できたみたいだ。「昨日ね、この間、弥生に教わったケーキ屋さん行ったの。でさ、やっぱり、すごく美味しくて、お父さんにもあげちゃった。」「お父さん、何だって?」「ふにゃふにゃ言っていたけれど、あれは美味しい時の顔。」「良かったね。でも、それだけ?チーズケーキだけにしては、こんな結衣の笑顔見たことないもの。」弥生の鋭さが結衣の心の中を読み始めた。「誰かに会ったでしょ?」弥生の鋭さに結衣はドキッとした。「えっ…ううん。大したことじゃないんだけど、ケーキ持って歩いていたら、目の前をマウンテンバイクが横切って、危うくケーキ落としそうになったのね。それから…」「それで?」弥生の顔にその先を聞きたくて私はしょうがありませんと書いてあるような表情をしている。(どこまで話そうかな……)「さあ、教えて?」と、絶対逃さないぞと言わんばかりに
    ニッコリ笑っている弥生の顔に圧倒されそうになった。「だからね、『あ、危ないじゃない。』」って睨んでやったの。弥生は更に畳み込んでくる。「うんうん、それで?」完全に結衣は押しきられていた。「そしたら、そいつ、ケーキの箱見て『そこのチーズケーキ、上手いんだよな~』って言いながら……また、マウンテンバイクに乗って行っちゃった。」「それだけ?」「そ、それだけだよ。」弥生の笑顔は、まるでそれから先に起こったことを全て知っているかのように、意味深な笑みを浮かべたまま、「ふ〜ん。」と言ってきた。結衣は、(私、顔に出てるかな?赤い?何で赤くなるの?)といろいろ考えながら、精一杯の作り笑顔で、弥生に「本当に、それだけ!」と言って、教室に向かおうとした。すると、弥生が突然、人さし指で結衣の頬を突きながら、「じゃあ、今はそういうことにしておいてあげる……続きはお昼休みかな?」と言ってきた。結衣は、(やっぱり、言わないほうが良かったかな?私、何考えているんだろ)と後悔しながら、前を歩く弥生の背中を追いながら、教室に向かった。結衣は教室に入ってからも、弥生の視線が気になって、午前中は授業どころではなかった。(お昼になんて言おうかな?丸の内ホテルの向かいでの「出来事」を思い出し、ちゃんと言ったら、弥生に、これからからかわれ続けるし、嘘言ってもバレそうだし…)色々考えて頭を掻きむしってため息をついた。担任はそれを見て、「如月、どうした?具合でも悪いのか?」なんて聞いてくるから、結衣は、余計焦って、裏返った声で、「はっ?何でもありません!ちょっと……!」「ちょっと…何だ?」「も、もうすぐお昼かなぁって……。」普段、そんなこと言わず、転校してきてから、静かにしていた結衣の言葉のとんちんかんな言葉に教室中がどっと笑いに包まれた。「まあな、確かにもうすぐ昼休みだもんな。でも、まだ、終わってないぞ。授業はちゃんと聞くようにな。」と少し笑いながら、注意した。すると、丁度、そのタイミングで、四時限の終わりのチャイムが鳴り、「はい、この時間はここまで。如月、ゆっくり味わってな。」と言いながら、担任は出ていった。さあ、弥生が待ちに待った、そして結衣が最もこなければいいと思っていた昼休みである。普段から、2人は結衣の席で向かい合わせになって、お昼は食べていた。転校した当初は、近くのコンビニで買ってきたパンを食べていた結衣に「ちゃんと食べないと、年頃には良くないんだよ。」と説教じみたことを言っていた弥生も、お昼の弁当を持っていかない結衣の姿を見て心配になった父さんが少し経ってから作って持たせてくれるようになったのを見て少し安心した。ただ、慣れない男手の弁当なので、昨日の魚の煮たのや、ご飯のうえに無造作に並べられた海苔と真ん中に梅干し…といった具合で、最初に開けたとき、弥生が「渋~っ」と言って大笑いしていた。ただ、結衣は、父に弁当の心配させて悪いなと思いながらも、その渋い弁当が好きだった。ところが、今日は弁当箱のふたを空けた瞬間、弥生が「げっ!」と目を丸くした。「結衣、お父さん、何かあった?彼女連れてきたとか…。」「違うよ。あたし作ったの。」確かに父の作る渋い弁当とは違い、カラフルだし、可愛いタコさんのウインナーも卵焼きもトマトも入っている、所謂、可愛い感じのお弁当だった。元々、母さんが高校に入る前に脳幹出血で急逝した結衣は、東京の大学病院で日々、遅く帰ってくる父のために、いろいろなものを作っていたので、料理は苦手ではない。今の結衣の姿とは逆に、母が具合が悪いことに医者でありながら、気づいてやれなかった父は、そのことの罪悪感から抜け出せずにいた。脳幹出血は他の脳出血と違い手術も難しい。それでも、父は、苦しんだ。その反動で、まるでそのことを振り払うように、父は毎日、遮二無二働いた。そんな遅く帰ってきては、ほとんど休みも取らず働いていた父の姿を心配して、少しでも何か食べてもらおうと、口当たりの違うものを色々作っていたのが結衣だった。つい一昨日までの結衣に対して、父がしていたのと、逆さの時期があったのだった。このことは、結衣は誰にも話していないことだった。そんなことを、また、思いながら、結衣が弁当を食べ終わると、待ってましたとばかり、弥生が「さてと!」と座り直りて、あの満面の笑みで、結衣の顔を見た。「でさ、ほんとは、そのまんまサヨナラしてないでしょ?」とストレートに突っ込んできた。(なんでわかるの?弥生、もしかして見てたのかな?)と思いながら、「私、チーズケーキも落としそうになってかちんと来てたから、男のくせに甘いもんなんか食べるんだ。」って言ってやったの。「そしたら……。」「そしたら?」「あいつ、男のくせにって、それセクハラだよななんて言ったんだよ。私、もう凄く頭にきて、そうやって知らない女子に絡むのは、もっとセクハラよ。って言ったの。それだけ。」「えっ、それで終わり?」今までニコニコ聞いていた弥生の顔が急にはて?という顔に一変した。「そんな会話の途中で、それだけ言い合いして、サヨナラしたの?」「そ、そうだよ。私、家の方に早足で歩いていったもん。」弥生は、結衣の顔を穴の空くほど眺めて、「ふ〜ん、あっ、結衣、耳赤いよ。」とポツリと言った。結衣は、その言葉で更に顔が熱くなるのがわかった。(どうしよう。もう、誤魔化せない)と目を瞑って思ったとき、弥生が、何を思ったか、「なるほどね、そういうこともあるか。」と言いながら、席に戻っていった。結衣は、弥生がそんな話で納得したような態度を見せたことに、拍子抜けがした。体の力が少し抜ける気がした。と同時に、(弥生、私がちゃんと答えないから怒ったのかな?)少し心配になった。それからの午後の2時限は、結衣の頭の中で色々な考えが渦巻いて、授業なんか見事に頭に入ってこなかった。授業が終わり、普段なら一緒に帰ると寄ってくる弥生は振り向きもしないで、「お先に!」と教室を出ていってしまった。結衣は呆気にとられると同時に、(弥生、怒らせちゃったな、どうしよう……)と思いながらも、(でも、全部話すわけにいかないし……)とぐるぐると考えが頭の中を駆け回りながら、一人家までの道をトボトボと歩いていた。すると、通りの影から、「如月さん!」と呼ぶ声がした。振り向くと、そこには、弥生がいた。弥生が結衣のことを如月さんなどと呼んだのは、転校してきた最初の二、三日だけである。結衣は、(絶対、怒ってる)と思った。すると、弥生は、ローファーを鳴らしながら、結衣の方へ近づいてきて、「如月さん、冷たいですね。私は友達のつもりで居たんですけどねぇ。」と、結衣の顔を舐め回すように見ながら言った。「ゴメンナサイ…。」結衣は消え入りそうな声で謝った。すると、弥生の顔はいつもの顔に戻り、「まぁいいわ。ちゃんと話してくれるなら許してあげる。」と言ってきた。結衣は少し考えていたが、「そのあと、何となく一緒に少しだけ歩いたの。」消え入りそうな声で結衣が話し始めた。「普通、そうだよね~。」弥生が納得したように言った。「それで?」「わたし、うちの近所の人がみんな四柱神社のことを『神道様』って言うからヤツなら知ってるかと思って、『何で』って聞いたの。「そしたら、そいつは、昔、日本の宗教を神道にするか、仏教にするかで揉めたとき、ここに中道院が……。って言い始めたんだよね。」「な、なんでわかるの?」結衣は、弥生が湊が言った通りに言ったのでビックリした。「それで、そいつが誰だか見当がついたわ。そいつ、襟んとこの校章、蜻蛉のマークじゃなかった?」「そう、よくわかるね。」結衣が感心していると、弥生が笑いながら、「ねぇ、ヤツは休みの日に学ラン着ないよ。他の日も会ったでしょ?」と、してやったりという顔をした。結衣は(あちゃぁ)と思ったが、もう遅い。「その辺はまた今度聞くわ。楽しみは少しずつだものね〜。」と言いながら千歳橋の方へ歩き始めた。そして、納得するように、「そうか、結衣は奴にあったんだ。なるほどねぇ。」独り言を言っていた。結衣は、(今度、また、前に会ったことも話さなくちゃいけなくなったわ)と溜息をつきながら、家路を急いだ。結衣は家に着いて、晩御飯の支度をしながら、(でも、私、何も恥ずかしいことしてない。ただ、ぶつかりそうになったヤツと何となく歩いただけだし、今まで神道様のこと、分からずにいたから、たまたま聴いてみただけだもん。それだけじゃん。手繋いだとか、腕組んだとかじゃないし……どこにでもある光景だわ。却って変に隠したら、弥生に余計怪しまれる。……ヨシ!明日そのまんま話そう)などとブツブツ言っていたら、6月が近いというのに朝晩は冷えるのか冷気とともに、父さんが帰ってきた。「結衣、何ブツブツ言ってるんだ。明日のテストかなんかの暗記か?」と見当違いのことを言われたので、「えっ!な、何言ってるのよ。違うもん。」と大きな声を出してしまった。父は、ふーんといった感じで、上着を脱ぎ、キッチンの鍋を覗き込んだ。醤油と生姜の甘辛い湯気が、ふわりと父の顔を包んだ。「おっ、今日はカツオのなまりか、美味そうだな。お前、随分レパートリー増えたんじゃないか?」結衣は、折角、父に褒められたのに、頭の中はどういう言い方が一番普通で怪しまれないか、湊のこと変に思われないかをまだ考えていたので、焦りのあまり「えっ、ビールなら冷えているよ。」と素っ頓狂な答えをした。父は呆れ返ったが、ビールと結衣の顔を順番に見て、(こいつ、熱でもあるのか?)という顔で、結衣の額に手を当てようとして「結衣、具合悪いのか?大丈夫か?」と言われ、父の顔が目の前にあったので、慌てて我に返って、「だ、大丈夫よ。」と言い返した。結衣は背中を冷たいものが流れるれるのを感じた。
     その夜、ベッドに入ったものの、結衣は頭の中がシュミレーションで一杯で、寝付けなかった。(何で悪いことも噂になって困ることもしていないのに、私がこんなに悩むの?やっぱり、みんなアイツのせいだ。アイツが川のところで、そもそも声なんかかけなければ、こんなことにならなかったのに……)とぶつけようのない不満を抱えながら、頭から布団を被った。
    さっきから目覚ましが盛んに枕元で頑張って鳴っているのに、結衣はピクリともしない。あまり起きてこないので、父が心配になって部屋に入ってきた。「やっぱり、具合が悪いのか?」父が聞いても結衣は返事をしない…父は昨日の夜のこともあり、心配になって布団をめくった。結衣は気持ちよさそうに寝息を立てて寝ていた。父は安心すると同時に、「結衣、何時だと思ってるんだ。遅刻するぞ!」と、結衣の体を揺すった。それで、やっと目を空けた結衣は、「あれ、お父さん、どうしたの?」と半分寝ぼけている。「お前、何時だと思ってるんだ?遅刻するぞ!」と言われて、初めて目が覚めた。目覚ましを見る。「げっ!」と声を出すと、「や、ヤバい。」と慌てて着替え始めた。父は娘とはいえ目の前で年ごろの子が着替えを始めたので、ビックリして部屋から出て、ドアを閉めて、「間に合うのか?送ってやろうか?」とドア越しに聞いた。ドアの向こうからドタンバタンという音と同時に「大丈夫、まだ何とかなる。」と声がすると同時にドアが開いた。髪の毛もボウボウの結衣が出てきた。「お前、顔洗って、髪ぐらい整えてから……。」「そんな暇ない!」結衣は叫ぶと、ローファーを突っかけ躓きながら出ていった。父は苦笑いをしながら、(あれが年頃の娘か?まだ子供だな)と思っていた。結衣の家から蟻ケ崎高校までは緩やかな上り坂になっている。その蟻ケ崎までの坂道を、結衣は猛ダッシュで駆けていった。朝晩はまだ冷たい空気も漂ってはいるが、陽が出てくると、6月も真近になると日差しが痛い感じがする。蟻ケ崎高校に制服はないが、結衣は東京の時の制服を何となく着ていた。自由な服装の感覚が今ひとつ掴めなかったからだ。今ほどその制服が鬱陶しいと思ったことはない。ヘロヘロになりながら、結衣が校門まで来ると、当番の先生が「おっ、ラストランナー登場か?ギリギリセーフだな。如月、おはよう!」「お、おはようございます。」息も絶え絶えに校門から校舎に入ると、よろけながら教室まで行き、自分の席に倒れ込んだ。そして、突っ伏してゼイゼイいっていた。その姿を見て、弥生が「どうしたの、結衣?何かあった?」と心配そうに覗き込んできた。結衣は、息が整ってきたので、顔を上げて弥生に笑顔を向けならがら(誰のせいだよ)と思いながら、カバンを開けた(しまった。お昼忘れた……っていうか、私朝も食べていない…。お昼まで持たない……どうしよう)と今度は半べそになった。傍から見ていると、ボウボウ髪の女子が机に突っ伏したり、笑顔を見せたり、途端に半べそになったり、まるで、百面相で結衣がどうかしちゃったのかと、弥生は心配そうな顔で覗き込んだ。その気配を感じた結衣は、精一杯の作り笑顔で、「大丈夫だよ、私。」と言った。(ごはん……)そう思ったとき、弥生が近くに来て小声で「お昼楽しみだね~。」と耳元に囁いた。その弥生の頬のあたりをつまんで、結衣も弥生の顔を近寄せて、「私、お昼ないの。」と言った。弥生は、最初意味が分からず、『へっ?』という顔をしていたが、すぐに、「忘れた?」と聞いた。結衣は大きく頷き、また、半べそになった。『朝も……。』と絶え絶えの声で弥生の顔を見た。弥生は少し考えていたが、「大丈夫、待ってて。」とすごい勢いで教室から出ていった。すると、2分も経たず、手にサンドイッチを持って戻ってきた。「隣のクラスの野球部の子から取ってきちゃった。」と舌を出した。結衣は命をつなぐサンドイッチを凝視しながら、(弥生って何て顔が広いんだ)と驚いていた。「先生が来る前にとりあえず食べて!」と弥生に言われて、慌てて、サンドイッチを口に押し込んだ。ほっぺたがパンパンの時に、不幸にも担任が入ってきた。担任は、パンパン顔の結衣を見て、「お前、大丈夫か?昨日は、突然頭を掻きむしってたし、今日は、口の中が食いもんで一杯だ。転校してきた時のお前とは人が違うみたいだ。何か悪いもんでも食ったか?」と半分心配しながら、半分呆れていた。結衣は、口の中がパンパンなのに、無理して「たいじょぶれす」と答えたので、教室は、昨日のようにまた爆笑になった。担任は続けて、「当校は高校生らしければ何も校則はないが、それにしてもお前の頭すごいな。」と言われて、慌てて手ぐしでなんとか整えた。あんなこんなで朝がバタついたお陰で、結衣はさっき、弥生に言われたことを忘れてしまっていた。四時限目の終わりのチャイムが鳴った。そのチャイムで、どこかに行っていた結衣の頭の中に重大な問題が蘇った。「アチャッ〜」と叫ぶと、弥生を目で探したが、弥生がいない。(あぁ、これは神様の救いか、流石、神道様)と思った途端、視界にパンを両手に持った弥生が入った。「結衣、これだけあればお昼足りるよね。」「どうしたの?こんなに。」「これも私の能力の一つ。色んな友達大事にしないとね。」と言いながら、椅子を寄せていた。(遂に、この時が……。目を瞑ったら、夢に戻れますように)と思いながら、目を瞑って、そっと目を開けると、弥生の笑顔が目の前にはある。(私はなんて不幸な娘だ)と結衣は思いながら、弥生から貰ったパンの一つを開けた。「さてと…。」弥生が更に近寄ってきた。
     結衣は、この間の湊と歩いた神道様のところで、湊が結衣に言ったこと、その言葉で結衣の心は震えた。その震えたことを目の前に弥生に話せるか?そこまで、友達だから話さないといけないのか。そう思う一方で、東京から来て一ヶ月余りの口下手な自分にこんなにしてくれる友達は他にいないし、東京でも、ここまで思ってくれる友達はいなかった。それなのに、その友達に、また、隠していいのか?結衣は、どっちが正しいか分からなくなった。高校生の少女の心は両方の気持ちでどんどん膨らんでいき、やがて溢れた。溢れた心は結衣の大きな目に涙になって、猛烈な速さで溜まっていき、弥生からもらったパンの袋を開け、一口食べた途端、両の目から溢れ出た。弥生や周りの同級生たちは、結衣が弥生からもらったパンを食べるやいなや泣き出したように見えて、特に弥生は慌てた。「結衣、どうしたの?パンなんか入っていた?」結衣は、パンが口に入っているのと、こみ上げてくる嗚咽で話すことはできず、かぶりを振るだけだった。少し経ち、口の中が落ち着くと、嗚咽の混じった声で「大丈夫。焼きそばパンに入っていた紅ショウガが……あたし、辛いのとかだめだから……。」と漸く話した。周りの同級生たちは「ビックリした」とか言いながら、散っていったが、弥生は、その結衣の姿を見て、何が感じたようだった。「結衣、大丈夫?ゴメンね、辛いのダメだって知らなかったから……。」と言いながら、小さな声で結衣の耳元で「あの話、今度にしよ。」と言って、廊下に出ていった。結衣は、弥生が多分気がついているのだと思いながらも、波立った心も落ち着いてきたので、パンをもう一口だけ口に入れた。その日の放課後、みんなが三々五々、部活や家に帰ろうとしているとき、教科書をかばんに仕舞い立ち上がろうとしていた弥生の傍にいき、「今日は朝もお昼もありがと。お陰で飢え死にしないで済んだ。」と少しぎこちない笑顔で、「今度の休み、暇?よかったらうちに来ない?」と続けた。結衣の口から出た想像だにしない言葉に、弥生は少し戸惑いながらも、少し上ずった声で、「いいよ。今度の休みは部活ないし…。」と答えた。「じゃあ、11時に大手橋で待ってる。」と行って、「お疲れ。」と教室をあとにした。弥生は急に結衣が自分のうちに誘ったのにもびっくりしたが、(きっと今日、何で泣いたかとか話してくれるんだろうな)と思っていた。
     その週は特にこれということもなく、結衣と弥生もごく普通の会話をして、明日は休みという日になった。帰り際に、結衣は弥生に「じゃあ、明日、待っているね。」と笑顔で先に帰っていった。弥生は頭の回転も早く感のいい娘だが、明日、結衣が何を言うかは、あの結衣が泣いた日に思ったこと以上に思いつかなかったし、考えようともしなかった。
     当日、結衣はいつもの休みのようにダラダラ寝ているのではなく、学校に行くのと同じ時間に起きて、部屋を少し綺麗にし、朝ごはんを作っていた。休みなのに、朝から早起きして、朝ごはんを作っている娘に父は「今日はどうしたんだ?休みの日なのに珍しいじゃないか?」と新聞に目をやりながら上目遣いに料理をしている娘を見た。「友達が来るんだ、今日。」「この間話していた弥生さんって子か?」「よくわかるね〜お父さん、冴えてる!」「結衣が家で話す友達の名前は弥生さんしか、父さんは知らないからな。今日は、気になる患者さんがいるから、父さんは夕方まで病院だから、ゆっくりするといい。」「えっ、父さん休みじゃないの?」父は、ホントはどうしても行かなければならないの訳ではなかったが、年頃の娘が友達を連れてくるのに、自分がいたら気を遣ったら気の毒だと気を遣ったのだ。「疲れてるんじゃないの?休んだら?」「バカ言え。父さんは、お前なんかより気力体力充実だぞ!」「はいはい、でも、無理はしないでね。」「あぁ、それくらいは、父さんは医者だからよくわかる。」「医者だから心配なんだよ。自分のことは、一番最後なんだもの。」父は、娘のこのひと言が精力剤のようなもんだった。この娘さえいてくれれば、俺は元気百倍だと思いながら、病院に出掛けて行った。
     結衣は、あの日、心が一杯になり涙が止まらなかったそれから幾晩か、色々考えた。自分の心の震えまで吐露するのか、友達にまた嘘をつくのかを。結論は、(湊に言われたことは話す。でも、心が震えたことは、絶対に言わない。いくら友達でも、心が震えた話聞かされても、そこから何を思うだろうか)と思ったら、(これは、私の心の中にしまっておくことことだわ)というのが、結衣の出した結論だった。そう思ったら、結衣は気持ちが落ち着いた。あの泣いた日に家に帰っても頭の中はいろいろなことが、運動会のように駆け回っており、とても、整理がつかなかった。結衣は学校でしていたように、頭を突っ伏していたが、やがて、ふと頭を上げると、(今はあたしは違うわ)そう思いながら、目の前のSNOOPYのノートに何やら書き出した。それは、半分は湊と会ってから、今までに起こったりしたこと、もう半分は、弥生との今までのやり取りであった。結衣は、それをじっと睨んでいた。次の日も学校から帰ってくると、同じように睨んでいた。そして、少し経った結衣は「よし!」と声を出して立ち上がった。(コレがベストだ)と布団に思い切り飛び込んだ。
     そして、今日になった。弥生を誘ってから、数日が経ち、季節は6月へと移っていた。結衣はこの松本での出来事の始まりとも言える女鳥羽川の辺に立っていた。(ここから始まったんだよね)たった2ヶ月あまりの出来事なのに、随分と前のことのように思えた。そんなことをボンヤリ考えていたら、「お待たせ!」と弥生の声がした。「待った?」「ううん、あたしも今来たところ。」2人は、普段通りの会話を笑顔で交わしながら、模型店の看板の前を路地へと入っていった。「すごいマンションだね。やっぱり、家とは大違い!」弥生が結衣の住んでいるマンションを見あげながら、ビックリしていた。「病院の社宅だよ。うちのもんじゃない。」結衣がサラッと言うと、「やっぱり、お医者様はすごいわぁ。」と感心したように言った。オートロックを通ってエレベーターに乗った。弥生は、オートロックなんかも間近で見るのは初めてなので、いちいち感動していた。「そういえば、弥生、いつも着たことないの着てるよね。」結衣がエレベーターのボタンを押しながら言った。弥生は、照れくさそうに、「だって、結衣のお父さんに会うんだもの。いつものジャージってわけにはいかないでしょ。」と言った。結衣は、ボソッと「父さん、いないよ。」「えっ?」「病院で気になる患者さんがいるって、病院行っちゃった。まぁ、女子高校生が二人だから、男親としてどこにいたらいいか分からないんで、そんな理由つけて出かけたんだと思うけど……。」結衣にはしっかりお見通しだった…。結衣は家のドアの前まで来ると、「だから、2人だけ。」と言いながらドアを開けた。部屋の中を一目見て、自分の家との違いに、弥生はただ感嘆していた。「わぁーすごいね。」「あたしの部屋行こ。」あまりうちの中を探検して欲しいと、結衣は思わなかったので、弥生を自分部屋に促した。部屋に入って弥生は、「綺麗にしてるんだ。」と言いながら、窓からの景色、そうあの女鳥羽川を見ていた。結衣は、弥生を家に呼んだ手前、昨日の夜、目につく邪魔なものはクローゼットに投げ込んでいる。「ま、まぁね。」と若干動揺しながら言うと、「お茶持ってくる。」と部屋を出ていった。弥生は、グルっと部屋を見回して、ため息をついていた。そこへ結衣が紅茶を入れて戻ってきた。「どこか適当に座って。」と言いながら、弥生の前に紅茶を出した。結衣は、小さく深呼吸をすると、「今日は、休みなのにありがとうございます。」とお辞儀をした。その杓子定規な結衣の振る舞いに弥生も「こちらこそ、お招き頂きまして…」まで言うと、吹き出してしまった。その笑顔を見ながら、結衣は、弥生の目を正面から見て、「続き話すね。」と唐突に話し始めた。結衣は、心の中にある小さな重しを早く取ってしまいたかったからだ。「あの日、神道様の説明を聞いたあと、夏越の祓(なごしのはらえ)のことを聞いたの。アイツの話は相変わらず観光ガイドの人の話みたいで、ふ〜んって感じだったんだけど、この祓えって6月と12月の末にやるもので、人形で体を拭いて、息を吹きかけて、半年の厄や色々とあった良くないことを祓うんだって。そして、社の正面にもう少しすると、『茅の輪』が置かれて、それを左・右・左ってくぐると祓いは終わり。折角、神道様の近くに住んでいるんだから、やったらって言われたの。あたしも父さんの転勤から、もっと言えば、母さんが急に亡くなったことから、あまり良いことなかったので、それも良いかなって思ったわ。変に理屈っぽく少し自慢げに話すのは、鼻につくけれど色々、勉強になった。」ここまで、一気に喋ると、結衣は紅茶を一口飲んだ。「そうなんだよね。何か自分が頭のいいのを自慢されているみたいに聞こえて、私はちょっと嫌だなぁ。」弥生が口を挟んだ。結衣は、頭がいいかどうかは知らないけれど、そんなに自慢げに言われているようには聞こえなかったし、嫌という感情は湧いていなかった。弥生に「そう思わない?」と同意を求められたので、結衣は、曖昧に「そうだね。」とだけ答えた。「それから…」結衣が続けた。「弥生が言ったように、あたしが最初にアイツに会ったのは、それより少し前、こっちに来てから、中々、友達も出来なかったし、中々、馴染めなくて、どうしようと、ぼんやり、女鳥羽川を見てたら、後からデカい声で『今年は見られたんだ!」っていう人がいて、振り返ったらアイツだった。丁度、女鳥羽川を『花筏』アイツの言うようにが流れていたのね。あたしは、今まで『花筏』なんて気にしたこともなかったから、その景色を眺めていたら、「転校生?」とか話しかけてきて、アイツの方を見たら、学ランの襟に蜻蛉の校章がついていた。東京にいても、深志高校のOBの集まりって、よくあるみたいで、その校章はあたしでも知っていた。「どこに転校してきたのとか?」聞いてきたので、一人で、ただ、川をぼぉーっと見ていたのに、何か気分悪くなって、『会うことがあったらね』って言って、家に帰ったの。それが最初。」と、シュミレーションしていたとおりに話した。弥生は、結衣の顔を見ながら聞いていたが、結衣が目を逸らすこともなく、弥生のことをしっかり見ながら話したので、ちゃんと話してくれたと思った。そこで、弥生の好奇心が芽を出した。「ねぇ、そういうヤツってどう思う?私は知り合いとしては許せるけれど、親友とか恋人とかいうエリアには入らないな。」と聞いてきた。結衣は、(そんなのシュミレーションしてないよ)と思いながら、感のいい弥生に気取られないように、紅茶をまた、口に持っていき、顔を少し隠しながら、「そうだよね。初対面の女子高生にそんなに話しかける?」って、弥生に逆に問いかけるように話して、その場を切り抜けた。弥生は、自分の意見に結衣が同調してくれたので安心したのと、チャンと向き合って話してくれたことが嬉しかった。その嬉しさで弥生の感は鈍った。そこからは、最近のテレビで誰がいいとか、所謂、普通の女子高生の話をして、またたく間に時間は経っていった。弥生が、結衣の机の上のSNOOPYのノートの脇の目覚ましにふと目をやり、「あっ、もうこんな時間だ。帰るね。」と言われ、結衣は、(この魔の休みが終わる…)と思いながらも、「もう、帰るの?もう少し話そうよ。」思ってもいないことを言った。弥生は、「また今度ね。今日はありがと。今度は私がアイツの話とか私の話もするね。じゃあ、また明日ね。」と行って帰って行った。  結衣は、当面の難題は過ぎ去ったというふうに感じたので、弥生を送り出したあと、ベッドに倒れこんだ。こんなに疲れることは、そう無闇にあるものではない。とても、晩御飯を作る元気もなくなったので、『父さんに何か晩御飯買って帰ってきて!』とLINEをした。父は、丁度、病院を出てお城を通り過ぎた辺りだったので、大きな駐車場のあるコンビニにクルマを停めて、適当に買って帰った。「今、帰ったぞ。どうしたんだ?今日、休みだろ?」「起き上がるのも嫌なほど、今日は疲れたの。」「お前、弥生さんと何してたんだ?お城の周りでも走ったか?」結衣は、(こんな微妙な乙女心、説明しても絶対わからないし、まだ、父さんにも知られたくない)と思っていた。父が買ってきたのは、ボリューム一杯の惣菜が3つ…結衣は、「お父さん、数数えられるよね?」「はぁ?」「うちは、父さん彼女をこれから呼ばない限り、2つでいいの!」「お前が食べるかと思って……。」「年頃の乙女が、こんな時間にそんなにカロリー摂るわけないでしょ!」「ゴメンな。」自分の言葉で、予想外に父が落ち込んだので、結衣は慌てた。「別にいいよ。夜中に小腹空くかもしれないから……。」と余った一つを冷蔵庫に入れて、自分の部屋に向かった。(言い過ぎたかな?)自分が頼んで寄り道をして買ってきてもらったこともあり、少し、気になった結衣だった。
     今年の梅雨は空梅雨のようだ。毎日、青空が広がり、あの熱い日差しが肌を刺す日が続いた。弥生は、今度話すねと言っていたことを、まるで忘れているかのように、湊の話も自分のことも話をしようとする気配すら見えなかった。ただ、以前と変わらず、他愛のない話は、いつも通りしてくれる。結衣はもともとの性格もあり、考えを張り巡らせすぎる傾向がある。この間の家での会話が、どこか弥生の癇に障ったのか、それとも家が想像していたのと違って、洒落ていたのが気に入らなかったのか、考えてしまった。或る日、一緒に帰る道すがら、思い切って弥生に訊いてみた。「ねぇ、アタシなんか、弥生の気に障ること言った?アタシ、こう見えて結構鈍いとこあるから、もしかしたら知らないうちに弥生を傷つけているかもしれないから。」そう言われた弥生は目をパチクリさせている。そして、逆に「私、何か結衣にそんな思いをさせることしたなら謝る。」と言った。結衣は、「だってアイツの話とか自分の話するって言ってから、それっきりだから……。」弥生は合点がいったらしく大笑いを始めた。「何よ、まじめに気にしているのに!」結衣は珍しく弥生に文句を言った。「ごめん、ごめん。そうだね、あれから少し経つものね……。私さぁ、この間、ニシヤンに呼ばれたの(ニシヤンとは二人の担任である)、知ってる?」「えっ!」「私さぁ、人との交流は自信あるんだけれど、教科書との交流が苦手でさ、この間の中間テスト悪くて、このままだと進級できないって、脅かされたんだ。流石に進級できないと、結衣の下級生になるわけじゃない?やぁ~こたえたわ。それで、頭一杯で、『結衣先輩』って呼ばないとならなくなる。どうしよう。って考えてたの。」結衣は、元々、そんなに成績は悪くなかったので、進級なんて気にしたこともなかった。「大変だよね。もし、アタシでわかることあったら、わかることもあるかもしれないから、何でも聞いて。」結衣は自分考えていたことが違っているようで、ちょっと安心したが、弥生の勉強のことは気になった。「頼りにしてます。結衣先輩!」とおどけてみせた。「やめてよ!」なんて会話をしているうちに、2人は神道様のところまで来た。弥生は真面目な顔になり、「もうすぐだね、夏越の祓。」「うん。」「早く結衣の心の棘が流されるといいな。」そういう弥生の横顔を見て(この町で、アタシは何て素敵な友達に会えたんだろう)と思い、胸が熱くなった。熱くなった心を、弥生に悟られないように、結衣は突然、目に入ったカエルについて、「ねぇ、前から思っていたんだけど、このカエル、な〜に?」と訊いた。弥生は余りにも突然だったので、少し驚いたが、「『かえる』は、『無事に帰る』とか、『福がかえる』とかの言葉もかけているみたいだけれど、ここのは、女鳥羽川にカジカガエルが帰ってくるようにって願をかけて作ったみたい。」「カジカ?」「あんな川の近くに居ながら、まだ聴いたことないの?静かな夕方に耳を澄ましていると聴こえるよ。」「ふ〜ん、気が付かなかった。窓、閉めているからね。今度、夕方、聴いてみよ。」と、取り留めのない話をして2人は別れた。
     今年の『夏越の祓』は土曜日だ蟻ケ崎高校は、土曜日は休みである。(何時頃、行こうかな?)結衣は、前の晩から考えていた。幸い天気は良さそうである。(朝早いと、地元の人が多いのかな?夜はなわて通りも混むだろうし……。こういうことって、知っている人に見られたくないもんな、特にアイツには!絶対、あっ来たねとか言われそうだし……)結局、色々考えて、午前中で地元の人が一段落つきそうな午前の少し遅めの時間に行くことにした。
     いつもなら、結衣は大名町通りの方へ家を出て出るときは、女鳥羽川の手前で曲がって、川沿いに神道様の方へ行く。ただ、今日は何となく、ちゃんと橋をわたって、なわて通りの方からお社の正面から入ろうと決めていた。市立時計博物館の脇を女鳥羽川に沿って神道様へ向かう。交番とカエルの置物の脇からなわて通りに入り、神道様の正面についた。神道様の方へ向き直ると、お社の前にあの茅の輪が鎮座していた。結衣は、静かに深く息を吸って、深く一礼をして、神道様の中に入っていった。大名町通りの車の音がここまで来ると、ほとんど聞こえることもなく嘘のように静まり返っていた。結衣の思った通り、人もそれほど多くない。梅雨とも思えない強い日差しが境内の大きな木に遮られ、木漏れ日が結衣の足元に揺れていた。結衣は、シナモロールのポシェットから名前、住所、名前の書いてある、人形を出すと、もう一度胸のあたりにゆっくりと当てて、そのあと、口元に持っていき、静かに三度息を吹きかけた。そして、人形をお焚き上げしてもらうために、社務所の巫女さんに渡した。振り返ると、茅の輪が自分が来るのを待っているように思えた。凛とした顔で、その茅の輪を見つめると、一歩ずつその輪に近づいていった。(今まで、あたしはお母さんが亡くなってから、東京を離れ、ここに来るまで、ずっと心に何か棘のように引っ掛かるものがあった。だから、素直でいられなかった。これからは、泣きたい時に泣いて笑いたい時に笑う。そんな日々を送る)そう思いながら、左から右へ、そしてもう一度左へと8の字に輪をくぐり、最後に一礼をした。気のせいだろうが、柔らかな風が結衣の髪を揺らした。その瞬間、結衣の心は何か温かいもので包まれた気がした。(神道様がお母さんを連れてきてくれたんだわ)結衣はふとそう思った。途端に、涙が結衣の目から一筋だけ流れた。結衣は、その涙の跡を隠すこともなく、茅の輪に一礼すると、社務所の前に通りかかり、自分ための内緒のお守りとと弥生が進級できるようにと学業のお守りを買った。(これで、弥生も進級できるわ。四人も神様がついているんだもの)そう思いながら、涙の跡を手の甲でぬぐうと通りの方へ歩き始めた。「やっぱり、来たんだ。」後から声をかけられた。聞き覚えのある声だった。いつもなら、振り返り、「何でアンタがいるのよ!」と噛み付くところだが、今日の結衣は違った。真顔で「来たよ、ちゃんと。」と答えると続けて、「茅の輪のこと、教えてくれてありがとうね。」とだけ言うと、向き直って、通りの方へ歩き始めた。結衣の中でも不思議な気がしていた。アイツに会わないようにこの時間を選んだつもりなのに、結局、会ってしまった。でも、今までのようなカリカリした気持ちにならなかった。(お母さんが止めたのかな?ありがとね)そう心の中で言いながら玉砂利の上から歩道へと歩いていた。湊は、いつもなら、「また、アンタ?何でいつも大事な時にアンタがいるのよ!」とか言って突っかかってくるのに、そんなこともなく、お礼まで言われた……意外な結衣の反応に戸惑いながらも、湊は結衣の後を追った。結衣はその気配を感じてはいたが、気にもせず歩道を郵便局や開運堂のある方向へ歩いていく。結衣は歩道を渡り、開運堂に入ると、父の好きなどら焼きを買うと、店の外に出てきた。湊は、今日はマウンテンバイクではなく歩きのようで、少し汗ばみながら、店の外で結衣の出てくるのを待っていた。結衣は、漸く湊の方を向き、「ねぇ、お腹すいたでしょ?夏越の祓のこと、教えてくれたから、お昼御馳走してあげる……って言っても高いのはだめよ。丸の内ホテルの中のレストランとか。」と、少し日差しが眩しそうに目を細めながら言った。湊はまだ呆気にとられている。目の前にいるのは、確かに結衣なのに、いつもと全然違う。カリカリもしてないし、言葉も穏やかだ。(何があったんだ?縄手のカエルが取り憑いた?)そんなことを考えたが、奢ってもらうのはいいことだ。湊は、「そうだな、この辺で美味い店……ねぇ、こっち来て蕎麦食べた?」結衣に聞いた。結衣は、「コンビニのならね。」と答えると、湊は、また自慢げに、「松本に来て、3ヶ月近くなるのに、蕎麦食ってないの?信じられないな。そもそも、ここの気候はね寒暖差が激しくて、蕎麦の実の栽培に……」結衣は、(また、始まった)と心の中で思うと、少し口元が緩んだ。(いつも、上から目線で講釈垂れるのよね、やれやれ)と思いながら、「そんなに美味しいなら、お気に入りのお店に連れて行ってよ。」と湊に言った。湊は少し考えて、「土曜日だし、もうすぐ昼だから混んでるかな。」と独り言を言いながら、開運堂から更に郵便局の方へ歩き始めた。「遠いの?」結衣が訊いた。「ううん、すぐそこ。やっぱ、混んでるな。少し待つけれどいい?」と湊は結衣に尋ねた。「いいよ、少しくらいなら。あたしは誰かと違ってそこまでお腹すいてないから。」と少し笑いながら言った。湊は、初めて結衣の笑顔を見た。少しの笑顔でも、湊は初めて見た結衣の笑顔を嬉しいと思う自分の気持ちに少し戸惑いを感じた。「ここ並んで。たぶんそんなには待たないと思うから。」さっきの結衣の笑顔が頭にちらつきながらら、何故か結衣に目を合わせないように、一緒に待つように、結衣を促した。結衣は、お店の中を覗きながら、「すぐ近くにこんなお店あったのね。知らなかったなぁ。神道様から駅の方なんて、あまり来ないから。アリオに買い物に行くときは、近くまでお父さんの車で行くし……。」やがて、順番が来て店の中に入った。「お勧めはな〜に?」結衣が聞いた。相変わらず湊は結衣の顔を見ないようにメニューに目を落としていた。自分でも分からないが、何か今、結衣の顔が見られない自分の気持ちに、湊は少し混乱していた。「ホントは、一番は『とうじそば』次がせいろかな?」湊が答えた。「とうじ?どういう字を書くの?」結衣が想像がつかないらしく、少し眉間にシワを寄せて、湊に訊いた。「よくわからないけれど、蕎麦を鍋のなかに投げる=投じるから来たみたいだよ。」と湊が答えた。「ふ〜ん、鍋に入れるのね。美味しそうだけれど、それは、今度にとっておいて、今日はせいろにするわ。」結衣が言った。湊が続けるように「じゃあ、こっちはせいろ大盛りで!」と言って、結衣の顔を漸く見た。結衣はお店の中やほかの人が食べているものを見たりしている。(こんな娘だっただけな?)湊は今日の結衣が余りにもいつもと違うので、頭の中が混乱していた。「お待ちどおさま。」店の人がせいろを二枚運んできてくれた。置かれるやいなや、結衣は自分のせいろに付けてある『山葵』を箸で取ると目にも止まらぬ速さで、湊の山葵の上に足した。「な、何するんだ?」湊が少し驚いて小声で結衣に聴くと、「あたし、からいのダメなの、だからあげる。」と言った。「要らないなら、ただ、使わなければいいじゃない。何でこっちくれるんだよ。」「そんな大盛りだからそれくらい山葵要るでしょ?」結衣は、何かおかしい?という真顔で湊に言った。「からいのダメって、カレーはどうしてるの?砂糖でもかける?」「訳のわからない話だわ。甘口ってあるんだよ。」湊は、思わず小声で「ガキじゃん。」と言った。ところが、こういう声は案外聞こえるもので、結衣は、「模型店の前で散々悩んで帰りに嬉しそうに、プラモデルの箱大事そうに抱えているよりは、ずっといいわ。」と言い返した。さっきまでの静かな穏やかな結衣は、いつもの湊の挑発で、カリカリ娘に戻りつつあった。その気持ちを落ち着かせるように、蕎麦を箸でつまんだ途端、湊が「あっ、蕎麦は最初の……。」まで言いかけると、「なにもつけずにお蕎麦の香りを楽しむんでしょ!そんなこと知ってるわよ!」と小声ながらも、少しイラッとした感じで湊を睨んだ。しかし、結衣は一口蕎麦を口に入れて少し噛むと、「美味しい!こんなお蕎麦初めてかも知れない…。」と満面の笑みに変わった。今までは、いつ会っても言い合いみたいになって、大抵は結衣が帰ってしまうことが多かったのに、やはり、今日の結衣は、そこまで行きかけはするが、もとに戻っていた。そんなやりとりが、湊からすると、勝手な話だがどうもしっくりこない。湊は蕎麦をすすりながら、「じゃあ、担担麺なんて食べたことないんだ?」「ねぇ、折角こんな美味しいお蕎麦食べてるのに、どうして辛いものを思い出させて、あたしのお昼の邪魔するの?あたしのこと、そんなに嫌?……別に嫌ならこのお蕎麦食べたら、サヨナラすればいいことだからいいけど……。」こう口に出した結衣は、心の中で(なんでいつもこうなるんだろう?今日は、穏やかにいようと思っているのに)と思っていた。湊は湊で、この蕎麦が終わったら、またいつもみたいに結衣が帰ってしまうのかと思ったら、少し焦った。「ゴメン。」湊は結衣に謝った。結衣は、4月に女鳥羽川の辺で会ってから3ヶ月あまり、初めて訊く湊のゴメンに少し驚きながらも、それを隠すように、少し上から目線で「わかればいいわ。」と言った。ただ、言葉とは裏腹に結衣の心臓はドキドキしていた。(な〜に、この気持ち?昔、何かこんな気持ちになったことあったような…何だったけかな?)そう思いながら、ふと目をやると、湊はあの大盛りをすっかり平らげていた。自分は、まだあと一口残っている。「早ぁ~。」と言いながら、結衣は最後のひとくちをすすり込んだ。湊は、このみよ田でのやりとりは嫌ではなく、このまま、「じゃあね。」とは言いたくなかった。そこで、湊はそば湯を飲んでいる結衣に、「蕎麦をご馳走してくれたから、お茶奢るよ。少しお城の方に戻ったところに、お茶飲めるところあるから。」と二人の中では初めての言葉を口にした。結衣もその言葉を聴いて危うく「あたしも!行きたい!」と言いそうになるのを堪えて、あらぬ方向に目をやりながら、口にそば湯の入った器をやりながら、「そうね、なんか飲みたいな。」とだけ言った。「すぐ近くに洒落た喫茶店があるから行こうよ。今度は奢るから。」「なら、いいわ。一番高いの食べてやる。」「えっ!」と焦る湊を面白がりながら、結衣はお店を出た。(ホントに何があったんだ?こんな明るい結衣のこと、見たことないよ。)すっかりいつものペースを乱された湊は、あとから続いてお店を出た。「あそこだよ。」と湊が自信たっぷりに紹介したのが、cafe noyieだった。「綺麗なお店ね。」白いビルを上まで見上げて、結衣が言った。「2階はギャラリーになってるんだ。」知らないだろうといった感じで得意気に湊が言った。すると、松本丸の内ホテルの方を見ていた結衣が後ろを向いたまま、「随分詳しいのね。前は誰と来たの?深志の娘とデート?」と、今までの結衣では考えられないようなことを言った。それでなくても、いつもの感じで話のできない湊は、見事に見破られて、汗がいっぺんに噴き出した。「ち、違うよ。前からこの前を通っていて、素敵な喫茶店だなぁと思って……。」「その時に2階にギャラリーがあるのも知ってたんだ…ふ〜ん。」今日は、一度も湊は上に立てない。「まぁ、そんなのどうでもいいわ。喉も乾いたし、入りましょ。」と結衣がドアを開けた。ドアのところについたオルゴールが、『YEEL』を奏でた。テーブにつくと、奥のカウンターから顎髭を生やした優しげな小太りのマスターが声をかけた。結衣は、メニューを見て、「あたし、この松本城ブレンド、あなたは?」テキパキと決めていく結衣に圧倒されていた。慌ててメニューを見て、「チョコバナナ ツーピース。」と慌てて頼んだ。結衣は、(どんな胃袋なの?でも、頼むものが、やっぱりガキだわ。)と少し思うと、笑いがこみ上げてきた。「何だよ!」「別に……。」結衣はニコッとして湊を見た。湊は完全に舞い上がっている。「話したいことがあるんじゃないの?」「っていうより、お互いほとんど何も知らないよね。少し話しして、互いのこと知れればと思って…。」「多分、あたしは、あなたのこと、あなたがあたしのことを知っているより、ずっと知っていると思うよ。」結衣が言った。「深志の3年生で、人にうんちくを垂れるのが好きで、誰にでも簡単に口がきけて、人によっては、それが少し鼻につくけれど、本人はお構いなしで、お父さんは、岡谷で 働いているミクロンの世界を追求する人。あんたは、信大の医学部をを目指していて、意外というかかなり頭のいい人。これくらいかな。」湊はびっくりした。「な、何でそんなに知ってるんだよ?」結衣はニコッとして、あたし、こう見えても、探偵なの。」「探偵?」「嘘よ。あんた、アタシの同級生の弥生、知ってるでしょ?」「アイツか……相変わらずお喋りだな。」湊は、少し悔しそうな顔をした。「弥生はいい娘だよ。あたしに最初に声をかけてくれたし、今も仲良くしてくれてる。この間、会いに来た時、あんたのこといろいろ話してくれたの、だから知っているだけ。」少し間をおいて、結衣は「でも、すごいよね。プラモデルだけやってるガキかと思ったら、医者になろうとしてるなんて。そう言われて県内の模試の順位見たら、全科目、一番か二番だもの。でも、そのギャップがね。」「何で今まで黙っていたんだよ。」「言う機会もなかったし、あたし、すごい人見知りなの。今日は、自分でも驚くくらい、男の人と喋っているけれど、普段は、クラスの男の子ともほとんど口きかないわ。」結衣は、頭の中で(ほんと、何でこんなに今日のあたし、お喋りなんだろう?いつもなら、もう家にいるはずだもの。お母さんが後にいてくれるのかな?)と考えていた。「医者になりたいのは……」湊がボソッと話し始めた。「俺が医者になりたいのは、親父を見ていたから、精密機械をミクロンの世界まで拘って作る。絶対、納得するまでやめない。それを小さい頃から見てたから、自分も大きくなったらそういう仕事がしたいと思っていて、ただ、精密機械は何か冷たい感じがして、それで色々考えていたら、血の通った温かい人間で、親父みたいな拘り持つこと出来ないかなって。丁度、そんな時、ばあちゃんが入院して、見舞いに行ってたら、これかなって思って、それから、見舞いのたびにお医者さんの動きずっと見てて、すごいって圧倒されて、自分もなれるものならなりたいと思ったんだ。」医者になりたいと思った発端を、湊から聞いた結衣は心が締め付けられる気がした。母が急に倒れて入院した時も、短かったせいもあり、あまり見舞いにも行けなかったが、お医者様と看護師の人が母の意識が戻らない中、懸命の治療を昼夜を問わずしていてくれた姿が思い出されたからだった。「そうなんだ……。」と結衣は小さな声でしか言えなかった。今にも泣きそうで、そんな深い思いで自分の将来を考えている湊が果てしなく遠くにいるように思えた。(自分は、まだ何になりたいなんて、3年生なのに考えてもいない。ただ、毎日をため息をつきながら過ごしているだけ。敵わないな)と思った。「あたしは、正直、何になりたいなんて、まだわからない。でも、父さんには、早く心の重しを下ろして楽になってほしい。そんな部分でずっと寄り添っていたい。それくらいしかないな。しょぼいでしょ?」結衣がそう言うと、湊が「そんなことないし、家族に寄り添うのは大切なことだよ。ちゃんと考えているじゃないか。具体的に何になるかはあとでもいいと思うよ。」チョコバナナを口に突っ込みながら、湊が言った。結衣は(こんな話、弥生にも父さんにもしてないわ。何でこいつにしたんだろ?)と思いながら、「あたしがこんな話したの、あんたが初めてだからね。」と言うと、「誰かに言ったら殴るからね!」と付け足した。湊は、「怖っ!」と思いながらも、自分に初めて話してくれたことは嬉しかった。2人はそれから少し取り留めのない話を少しして、店をあとにした。帰りに店の扉を開けたとき、湊が、「二人の夢が叶って、また、『夏越の祓』に来れるといいね。」と言った。結衣は、(ホントにそうしたい)と思いながら、少し歩いて、やがて別れた。家に帰ると、父が「『夏越の祓』はどうだった?東京でもあるのに知らなかったのか?」と訊いた。「どこでよ?」と結衣が少しイラッとした感じで訊くと、「お前、大したことじゃないのに、時々キレるな。だから、もてないんじゃないのか。」と茶化すように父が返した。「父さんが知らないだけよ。あたし、お母さんに似て綺麗だから、結構モテるんだから……。」と結衣に言われ、父は少し心が動揺しながらも、「ホントかね?」と新聞に目を落とした。その時、瞬間、湊の顔が頭をよぎったのを父は知らない。
     信大医学部の受験は、1月中旬に大学共通テストがあり、2月の中旬に足切り、そして、2月の下旬に松本での試験、これに合格して、初めて医学部生になれる。国立大学はどこでもそうだが、長丁場なので、健康と気力を継続しなければならない。その話を聞いた結衣は、大変なんだなぁ。望み通りになるといいけれどと思っていた。テレビでよく『お百度参り』ってあったな、どうやるんだろ?と、PCで調べてみた。結構、やり方に幅あるのね。そうしたら、四人の神様に毎日途切れることなく、お願いすればいいみたいだなと解釈していた。それから、湊は受験勉強が本格化し、予備校にも通ったりしたので、結衣にはそれほど多く会えなくなった。でも、結衣には、二人の願いが叶ったら、来年の夏越の祓に一緒に行ける、それが心の支えだった。結衣は御百度参りを調べた翌日から、必ず、高校からまっすぐ帰らず大名町通りの方を周り。神道様にお願いをしてから帰るようにしていた。雨の日も風の日も、結衣には心に決めたからには必ずやり遂げる。そして、来年夏越の祓に一緒に行く、このためには、1日たりとも欠かすことは出来ないと思っていた。一方で、弥生の勉強も一緒にやることで、進級出来るようにしなければいけない。人に勉強を教えるというのは、自分が結構ちゃんと理解していないと出来ることではない。勿論、自分も、信大に入って、湊と一緒にキャンパスを歩くのを夢見ていた。(あたし、3つも達成しなければならない。頑張らないと!)結衣は、とても充実した秋の日々を送っていた。今年の夏の松本は、夏越の祓のあと、一月余りで梅雨も明け、例年になく暑い日々が続いた。結衣は、それでも、お参りは必ず続けた。四人の神様に3つのお願いをする。それが、結衣の日課だった。秋になると、流石に女鳥羽川からのカジカガエルの声も聞こえなくなった。もう少しすると、山岳盆地特有の寒い冬がやってくる。結衣にも結衣の父親にも、初めての松本の冬である。松本に来る前に、色んな人から松本は空気も水も最高だけれど、冬は寒いからねと言われた。親切な人は、お風呂のお湯は全部抜かないで、下の排出口の上くらいまで残しておかないと、風呂が壊れることを教えてくれもした。ただ、雪は長野と違いあまり雪は降らないこと、松本は中信、飯田の方は南信、長野は北信ということを教えてくれる人もいた。その冬がやってくる。ただ、結衣の心は3つの願いもあり、暖かく燃えていた。結衣は、母親譲りの芯の強さもあり、自らの模試の順位も上がっていった。結衣の目指しているのは、信大の人文学部だった。信大の文系では、中々、ハードルの高いところであるが、結衣には、信大で一緒に学ぶという強い希望があったので、そんな高さは気にしなかった。北アルプスの常念岳あたりから吹き下ろしてくる風は、想像以上に冷たい。父の帰りは相変わらず遅い。結衣は高校が終わると、途中まで弥生の帰ってきて分かれて、神道様にお参りをして帰る。その日課は変わらなかった。家に帰ると、自分と父の晩御飯と明日の2人分弁当の下ごしらえをすると、机に向かった。時々、弥生からLINEが入ってきて、わからないところを訊いてくる。時に電話で時にLINEで弥生に返事をすると、また、机に向かった。遅くに父は帰ってくると、「こんな時間まで起きていて大丈夫か?たまには早く寝たらどうだ。」と結衣の作ったキノコの鍋をつついていた。「あたし、早く寝ちゃうと覚えたこと忘れそうで……ホントは寝ないでこのまま受験したいくらいだわ。」と言うと、父は吹きそうになった。「まぁ、適当にしなさい。受かるときは自然と受かるもんだ。先に寝るな。」と無責任な言葉を残して自分の部屋に行ってしまった。結衣は後片付けをすると、自分の部屋に入ると、ほっぺたを両手で叩いて気合を入れた。「ホントにお父さんはいい加減だわ。何もしないで受かれば苦労しないもの。でも、あたしには四人の神様がついているから……。」ブツブツ独り言を言いながら、参考書を開いた。
     『僕たちの正月は3月だ!』何処かの予備校の謳い文句だったと思うが上手いことを言ったものだ。あと4ヶ月、共通テストまでは、2か月。そろそろみんな追い込みに入り始める時期だ。ここで、中弛みをしそうになるが、何としても自分にそしてライバルに勝つためには、ここでもう1段、ギアを上げなければならない。結衣は雨の日も晴れの日も、そして、アルプスを吹き下ろしてくる風の日も、神道様にお願いし続けた。結衣は、一見おとなしく見えるが、それは極端な人見知りがなせること、ホントは結構気も強いし、こうと決めたらテコでも動かない頑固さも持っている。そんな結衣の心を動かした湊も、また、軟派な学生に一見見えるし、上から目線の語り方は、カチンとくる輩も少なくない。結衣も、あの夏越の祓の1日がなかったら、今も2人は近づくことはなかっただろう。神道様のお力か、将又、結衣の母のちょっとした悪戯か、それは誰も知らない。そんな高校生で進学を目指している人間が机に向かい、目標のために身を削っている時、結衣のスマホが鳴った。(こんな時にLINEしてくるのは、きっと、弥生だ!また、何か分からないのかな、やれやれ)とLINEを見た。それと同時に、心が飛び跳ねた。湊から珍しくLINEが来た。一度目を瞑った結衣は恐る恐るLINEの画面に目を落とした。『元気してる?寒くなったから、体壊さないようにちょっと栄養つけに行かない?』と書いてあった。(ご飯の誘い?何でまた?)そう思った結衣は『何で今頃?なんかあった?』と返事を打った。すぐに返事が来た。『別にこれといった話はないけれど、中々会えないから……たまには。迷惑?』(迷惑?相変わらず可愛くないヤツだなぁ。すごい迷惑なんですけど……って打ってみようかな?)結衣の中に少し悪戯心がむくっと起き上がろうとしたが、(確かに中々会う機会はないものね。さてと何て打つかな。)少し考えた結衣は『迷惑だけど、お腹も空いたから、会ってあげる。あげるんだからね。』と、少しニヤつきながら打った。すると、湊から『じゃあ、5時に女鳥羽川のほとりの開智学校あとの碑の前で……。』と返してきた。(な〜に、私の文章に何も反応していないじゃない。ムカつく!)結衣は、そう思いながらも、何着てこ何て思いながら、5時を心待ちにした。こうなると、5時までは、参考書を見ていても、ただ見てるだけ…脳ミソは別のことを考えるのに一杯で、参考書の活字は脳ミソが要らないと言っているかのようだった。父に『ゴメン。弥生に呼ばれた。ご飯は出来てるか、チンして!』とメモを残して、ローファーを突っかけ家を出た。父に嘘を書くのは、若干、気が引けたが、(ホントのこと書いたら、また、何言われるか分からないもん)と自分に言いきかせていた。言われた場所に行くと、湊は来ていた。結衣は、自分の方が遅かったことを申し訳ないと思いながらも、「よくこの寒いのに、早く来て待っている気になるわね。」と減らず口をきいた。「待たせたら、怒るだろ?」「当たり前じゃない。深志の一応秀才と呼ばれている人間もそんなもんなんだ。もっと、女性の気持ちも勉強したほうがいいよ。ところで、チャンと勉強してるの?また、プラモデルとか作ってんじゃないの?」女鳥羽川のほとりを並んで歩きながら、結衣は湊に言った。「ど、どうしてわかるんだ?受験勉強はずっとやりっ放しだと、何か詰まってくるんだもの。ONとOFFの切り替えは大事だよ。」と必死に妙な言い訳をした。結衣は少し湊を睨むような感じで、「落ちても知らないからね。ミクロンの世界がどうのと言っている割には必死さが感じられないのよね。落ちたら、もう会わないからね。」「そ、そんな…。」「当たり前じゃない。怠け者はあたし好きじゃないの。」そう言いながら、結衣は(今夜は、お母さんも神道様もお休みかしら、あたし怒ってばっかり…)と思いながら、大きなため息を一つつくと、「どこに行くの?」湊に訊いた。「みよ田。」そう言うと、一人で先に歩き始めた。(益々ムカつく!)結衣を怒らすと怖いことは、湊もよく知っている。結衣が文句を言おうと、口を開けかけたとき、湊が「とうじそば。夏越の祓のとき食べなかったじゃない。キノコとか鍋に色々入っていて温まるよ。」と言った。結衣も(そう言えば、みよ田でお蕎麦を食べたことは、あれからもあったけれど、とうじそばはないわ。確かに、こんな寒いときは温まるかもね)と思いながら、湊のあとをついて行った。みよ田は、夜も混んでいるかなと思ったが、湊が早めに行くことにしてくれたので、待つこともなく入れた。「とうじそば二つ!」湊は店員さんにそう告げた。「良かったね、混んでなくて。寒いから外で待つのはしんどいものね。少し早めにして正解だ。俺は流石だね。」と自慢げに言うので、結衣は聞こえないふりをして、また、お店の中を見回していた。「とうじそばってさ、何でとうじそばっていうか……。」「ストップ!投じるから来たんでしょ。それ夏越の祓のとき聞いた。」「そうだっけ?」「そんなとうじそばの由来より、方程式覚えなよ。大体、受験生が手ぶらなんてあり得ない!」「自分だって手ぶらじゃないか!」珍しく湊が言い返した。(確かにそうだ)と結衣は思ったが、そこは結衣なので「あたし、医学部なんか受けないもん。あんたより余裕があるの。」と返した。そうしていると、とうじそばが運ばれてきた。鍋はかなり熱そうだ。「この籠に蕎麦を入れて、鍋のなかに入れて温めて、鍋の出汁の美味さとともに食べるんだよ。」湊は丁寧に教えてくれた。結衣は「ありがと。」と言ったが続けて「お蕎麦のしゃぶしゃぶね。」と突拍子もないことを言った。結衣は3つの願いのために、神道様にお百度を踏んでいたり、ここの中では、湊が体を壊さないように心配している優しい子なのに、会うと、湊に喧嘩ばかり吹っ掛ける。湊もそこら辺は、少しずつ分かってきていて、黙って湯気の向こうの結衣を見ているだけで、ハードな受験勉強の癒しには十分だった。湊も勿論、弥生も結衣がお百度を踏んでいることは知らない。これは、結衣にとっては、誰にも知られてはいけないことだった。結衣はお蕎麦も食べ終わったので、これキノコとか鍋の中の食べていいよね?」「ダメだよ!これからが楽しみなんだから…。」と湊に怒られた。(何よ、こいつ、偉そうに💢)少しカチンと来た。ただ、湊が店員さんに「お願いします。」と言うと、蕎麦の実と卵を持ってきて手際よく雑炊を作ってくれた。結衣は、目を丸くして「わぁ美味しそう!」と言って、早速、器に移し一口食べた。「熱っ、だけど美味しいよ。」この笑顔に湊は満足そうに、「だろ?」と笑いました。結衣は顎の裏側をやけどしながらも、出汁のきいた雑炊を一気に食べていた。(これから、また、参考書と睨めっこだものな。今くらい楽しんでも、神道様はきっと怒らないわ)そう思いながら、結衣は笑顔の湊を上目遣いに時々見ながら、雑炊に夢中だった。結衣は一息つくと、「松本って夏から美味しいもののオンパレードだよね。波田の西瓜、塩尻あたりのナガノパープル、あっナガノパープルが巨峰とリザマートの掛け合わせなのは知ってるからね。それから安曇野のシナノウイートやシナノゴールド、南信の赤梨も美味しいし……それでこの間、アリオに行ったらびっくりしたんだけれど、コーナーからコーナーまでみんなキノコ、あんなにいっぱいのキノコ、あたし初めて見た!空気と水とお蕎麦だけでなく、食べ物も美味しいよね!」と一気に喋った。湊はこんな饒舌な結衣を見たことがなかったので、呆れるやら、驚くやらで、自分の雑炊は、すっかり冷めてしまった。「よく喋るね。」湊が言うと、結衣はすました顔で、「偶にしか会えないんだもの、纏めて喋っておかないとね。」と言った。その言い方と言っていることに湊は胸の奥が少しドキンとした。そして、思い出したように、悪戯そうに、「もう一つ美味しいものがあるよ。」言った。、結衣が目を輝かせて、「なに、なに?』と訊くと、「山葵。」ポツンと言った。「安曇野の大王わさび農場って行ってない?」「行くわけないでしょ!それハラスメントだよ。訴えてやる。」って、結衣が笑いながら言った。二人はまるで示し合わせたように心の中で(こんな日が早く来ないかなぁ)と思っていた。二人は、みよ田を出たあと、少し歩いて、開運堂の向かい側に来た。「何があるの?」結衣が訊いた。「これ、知ってた?」湊が指さしたのは杭のようなもので、文字が何か書いてある。こっちが善光寺、こっちが野麦峠っていう道標。昔、映画があったの知ってる?見たことないけれど、絹を取る女工さんの話でしょ。」「そう、その野麦峠はここをずっと行ったところ、その途中にとうじそばが生まれたところがある。」(出た、講釈魔。こんなに受験勉強してても、まだ言うんだ。)と呆れながらも、「ふ〜ん。」と訊いていた。二人はそれから、もと来た女鳥羽川のほとりを歩き、「もう一人で帰れる。」「うん。」突然、結衣が手を出した。そして、「激励の握手してあげる。湊が希望通り受かりますようにって。」と言った。湊は慌てて手袋を取ると、握手をした。初めて、結衣に触れた。結衣の手は暖かく湊の心まで暖かくなった。「頑張れよ!湊くん!」「お前もな!」そう言うと、二人は手を2回ほどぶんと振って離した。「じゃあね。」「ああ。」2人は別れた。心は二人とも相手の方に向いているのに、それに抗うように、別の方向に歩いていった。
     うちに帰ると父さんが帰っていて、新聞を読みながら、晩御飯をつついていた。「弥生くん、何だって?」「弥生?弥生なんて会ってないわよ。」と言って、自分の部屋に結衣は入ってしまった。メモのこと、すっかり忘れている。父は、一瞬ポカンとしていたが、すぐに(湊くんに会っていたな。そうならそうと言えばいいのに)と少し笑いながら、新聞にまた目を落とした。結衣は結衣で自分の部屋のドアを閉めてから、「あっ!」と叫んだ。(そうだ、弥生と会うことにしてたんだ……あちゃ~!)と頭を掻きむしり、あ(あたし、こういう詰めが時々抜けるんだなぁ。一番、だいじなとこなのに……父さんとは今晩会わないようにしよ。)と机に向かった。ただ、結衣の手はまだ、いや心の中も熱かった。(こんな気持ち、初めて)と思いながら、その手をしばらく見つめていた。

    其の弐
     初めて、お互いの手が触れて、その時は、エールを掛け合っただけのつもりが、帰り道には、互いに指の先から心の底まで、何とも言えない気持ちがぐるぐる回っていた。湊は、彼女がいた時もあるので、そのグルグルの意味は何となく分かった。結衣は、初めての気持ちだった。高校三年生でもそういう娘は少なくない。(この気持ち何?)家に帰るまで、グルグルは止まらず、結衣は悩んでいた。(あいつと手握ったから?まさか)家のドアを開けて、しみじみその手を眺めていた。鍵が開いたのに、誰も入ってこないから、父が出てきた。「ドアノブに何か付いてたか?」父さんは悪気はないけれど、見当違いなことを言うことが多い。結衣は我に返って、「ううん、大丈夫。」ドアを閉めると自分の部屋に入って、また、その手を見ていた。そのうち、何かその手がとても大切なものに思えてきた。(この手のお陰で力が出る気がする、ありがと)結衣は手に話しかけていた。
     あの互いにエールを贈った日から、もう一ヶ月が経とうとしている。二人は会ってない。試験に受かるまで会うのをやめようと言ったわけでもなく、スマホもやめようと言ったわけでもないのに、二人は何のコンタクトも取っていない。二人とも、一日に少なくとも一度はスマホに触りたくなる。でも、二人とも自分にダメだって言い聞かせて触っていない。それでも、二人ともいつもの時間に学校に向かって、大体同じ時間に帰るのに、一度も会わない、見かけもしない。互いに少し時間をずらしたり、わざと遠回りをしたりしても会うことはなかった。やがて、年の暮れも迫り、一月の共通テストまであと2週間と僅かになった。そうなると、二人とも、そこはマジメな受験生、相手のことは頭の片隅にあっても参考書に向かっていた。そんな時も、結衣は必ず、神道様にお参りしていた。結衣は昔からこうと決めたことはテコでも止めない。或る日、結衣は神道様である文字を見つけた『七難即滅七生即成』、家に帰って辞書で調べると信仰を怠らなければ、七つの災難は消え七つの福が生まれるとあった。すてきな言葉だと結衣は思った。平たく言うと災い転じて福となるということだが、この八文字の響きが結衣のこころに残った。それからは、神道様でお参りする時、必ずこの八文字も唱えた。いよいよ、共通テストの日に、相変わらず、父は訳の分からないことを言った。「まぁ何だ、試験なんてある意味、運だから、分かんなかったら、母さんに聞いてみるんだな。」父は、一生懸命、昨日の夜、どう結衣を励まそうと色々考えたみたいだが、結局、口から出てきたのはこの言葉。結衣は思わず「な〜に、それ?」と言って笑ってしまった。でも、ローファーを鳴らしながら歩いている結衣は、凍えるアルプス卸の風を受けながらも、父の温かさを感じていた。(ありがとね、父さん)結衣は試験場へと急いだ。どこでも同じ光景だが、思い思いに参考書やメモ帳を見返したり、何とはなしに時計をいじったり、緊張を解きほぐそうとしている。結衣も自分の席の番号を探し席に着いた。『008』(007なら格好良かったのになぁ)なんて気楽なことを言っている。それでも、手にはびっしょり汗をかいていた。始まりまではまだ少し時間があったので、一応トイレにと立ち上がったときに、007とぶつかった。「すいません。。」「いやぁ、こっちこそすいません。」チラッと相手を見た結衣はトイレに向かいながら、(あれじゃぁ、大相撲の007だわ)と思った。何時間か経って一日目が終わった。みんな、出来たのあそこが今までにない傾向だったのと話をしていたが、結衣は素早く席を立つと、一目散に教室をでた。(同じキャンパスで試験受けているんだから、会ってもよさそうなもんなのに……)湊を見かけられなかったこともあり、大きなため息を一つついて、(あぁ、しんどかった。こんなに緊張するんだ)といつもの結衣には似合わないことを思っていた。結衣は、いつもの中間、期末、模試でも答え合わせはしない。終わったことはどうしょうもない、あとはお母さんと神様だけが知っている…。最近は、ずっと、そう思っている。試験場を出て、家に帰る途中(おっと、大変、大変)と神道様にお参りした。口の中で『七難即滅七生即成』と唱えて、(今日、お参り忘れたらなんにもならないわ。やっぱり、緊張しているのかな)と思いながら、家路についた。このテストの二日間は、父が気を遣って、「俺が晩飯作る。』と一ヶ月も前から言っていた。(湊、出来たかな?)そんなこと思いながら、鉛筆をクルクルと回しながら、参考書を開いた。同じ建物で試験を受けているのに後ろ姿を見かけることもない。世の中はそんなものなのかも知れない。二日目も無事終わり、晩御飯のときに、父が恐る恐る結衣に「どうだった?」と聞いた。「そうね、ニンニクが少し多いかも…。」と晩のおかずの山賊焼きの味のことを、はぐらかして言った。父はイライラしながら、「そうでなくてさ………」と返した。結衣はニッコリ笑いながら、「ケセラセラよ。」と流しに茶碗やなんかを出すと、自分の部屋に行ってしまった。「ケセラセラ……なるようになるか……。」父は満足のいく答えが得られなかったことが少し不満ではあったが、あの笑顔なら大丈夫だろうとも思った。部屋に入った結衣はベッドに横になり、「湊、出来たかな?」と心配していた。そして、突然、ガバっと起き上がると、(お百度って。いつがエンドなのかな?)と思い始めた。「やっぱり、願いが叶った時だよね。」と自分に言い聞かせるように言うと、また、横になった。この数日の緊張もあり、結衣はいつの間にか寝てしまった。夢とも現とも分からない中で、誰かが「そんなところで寝てると風邪引くぞ。」と声がした。「湊?」と結衣が言うと、「残念、父さんだ!」と父さんが笑っていた。「今のあたしの言ったの聞こえた?」父は笑いながら、「はい、しっかり」と言った。「湊くんの夢見ていたのか?」と父に言われ、結衣は耳まで赤くなるのを感じながら、「あ、明日の予習よ。港での港湾作業はってところ」と言ったものの、共通テストは今日で終わっている。「何のための予習だ?」父は笑いながら、部屋をあとにした。試験が終わってから、足切りが分かるまでは、人によっては『死刑の宣告』を待つ被告のような心境だろうが、結衣は相変わらず、答え合わせもせず、(あとはお母さんと神道様がどう思うかだわ)と本を読んだり、個別試験の傾向を見たりして、一日を過ごし、夕刻になると、神道様にお参りに行っていた。(二人とも共通テストで足切りに合いませんように、個別試験に健康なまま臨めますように、弥生も望むところに行かれますように。七難即滅七生即成)と唱えると、バスで駅に出て、アリオで晩ご飯のおかずを買って帰るのが、この時期の日課であった。アリオの食品売り場は、相変わらず、キノコが多い。(毎日キノコって訳にもいかないものね)と、偶にはと鶏肉を買って帰った。晩御飯の支度を始めるには、少し間があった。湊に電話しようかなと思いつつ、(あたしから架けるの、何か癪だな。湊の電話待ってよう)と思っていた。湊の性格から、足切りに合わなければ、必ず、電話してくるといつ、結衣の冷静な分析である。
     そんな過ごし方をしてきた或る日、スマホが鳴った。やっと、架けてきたかとスマホを見ると、久し振りに弥生からLINEが入っていた。『今なら、大丈夫かなと思って……。時間あったら会えるかな?』弥生は、大きな声を出して走り回っていて、みんなの人気者だが、こういう優しい思いやりのある娘でもある。一世一代の試験を二人が受けている時に邪魔をしてはいけないと、じっとしてコンタクトも取らずにいたのだ。今ならと思って、多分LINEをしてきたのだろう。こういう豪放磊落そうに見えて、実は思いやりのある繊細な娘結衣が弥生を好きなのは、こういう部分である。二人は、例の「cafe noyie」で会った。弥生はこんなお洒落な喫茶店入ったことがないので、店の中を見回していた。「いつも来るの?」弥生が聞いた。「ううん、1回だけ。」結衣がそう答えると、弥生がなるほどという感じで口元が笑った。結衣は、それを敢えて気が付かないふりをして、前と同じ松本城ブレンドを頼んだが、弥生がチョコバナナを頼んだ時には吹き出しそうになった。(松本の高校生はみんなチョコバナナが好き?……まさか)結衣の頭の中をよぎった。コーヒーとチョコバナナが運ばれてきた。弥生は嬉しそうな顔でチョコバナナを見ている。おいしそうといただきますが、ほぼ同時に弥生の口から出たかと思うと、次の瞬間には、弥生の口の中にチョコバナナは収まっていた。(すごっ)と思いながら、結衣はコーヒーを一口飲んで、「な〜に、話って?」と切り出した。弥生は、ナプキンで口の周りのチョコを拭くと、座り直して結衣に言った。「私ね、信州リハビリテーション学校に行くことにしたの。塩尻だから、ちょっと、結衣とは離れちゃうけれど、会いたいと思えばいつでも会えるから……。」結衣は、弥生が理学療法士なんて考えていたこと、いつの間にか、自分より先に行く道を固めたこと、二つのことに驚いた。「何で理学療法士なの?」一つは、結衣が勉強しっかり教えてくれたから、ホントにニシヤンが驚くほど成績上がって、丁度推薦が取れたのね。それから、人があまりやらないのに、結構、やる人が求められてるでしょ、私が脇でやいのやいの言ったら、もう少しって頑張ってくれる人がいるかなって。格好いいじゃない。ヘヘ。」弥生の格好いいは照れ隠しだというのはすぐ分かった。結衣は、大好きな弥生が遠くに行くのは嫌だけれど、そんなすごいこと考えていたことに、感動して涙が出てきた。「な、なんで泣くの?会いたい時いつでも会えるよ。」「違うの。弥生、すごいなぁって。あたしみたいなのと違って、ホントにすごい!」「そんなんじゃないよ。みんな結衣のお陰。」弥生は照れくさそうに言っていた。それから、少し話をしての川沿いの帰り道、結衣は一人で夕陽が女鳥羽川に反射して眩しさのあまり目を細めた。川の流れはいつもと変わらないのに、結衣は自分がどこに行くのかどこにいるのかわからず、不安だけが募っていった。ただ、きれいな茜色に染まっている中で、まだ、弥生の考え方に感動していた。(あたしもちゃんとしないと……みんな、しっかりしてる。あたしは、ただ、湊と同じ大学で同じ空気を吸いながら勉強が出来るという漠然としたものしか持っていない。しっかりしろ!結衣!)そう思うと両手でほっぺたを叩いて、ローファーを鳴らしながら、家へと向かっていった。睦月から如月に移り、松本の寒さの底ともいえる季節になった。お母さんと神道様がついていてくれるからと思っていた結衣も、流石に足切りが毎日気になっていた。  神道様への御参りも最近は、かなり力が入っている。  信大では足切りは、10日が決定日である。学校から帰ってきても、家で参考書をめくりながら過ごしていても、バイクの止まる音がすると、部屋を飛び出し、郵便受けを覗く日々が続いた。12日だったろうか、前の日、珍しく勉強にのめり込み、朝になっても結衣は起きなかった。父は起きてこない結衣を心配したが、カレンダーに『不登校』と書いてあるのを見て、安心して病院に出かけた。結衣は、昼過ぎに漸く目を覚ました。結衣は慌てて目覚ましを見る。「げっ!」となんとも言えない声を出し、羽織るものもそこそこに玄関を開け郵便受けを覗いた。封筒が入っている。いよいよ、神様の通知が来た。結衣は唾を飲むと、恐る恐る手紙に手を伸ばした。『中部ガス』そう書いてあった。(うん!もう!)少し、イラッとしたが、よく見ると奥にもう一通入っている。結衣は(どうせ水道かなんかの通知だわ)となんの気になしに引っ張り出すと『信州大学』の文字が目に入った。「やった〜!」誰もいない部屋を飛び回り、大声を出した。信州大学は、足切りで合格したものに郵便がいく。郵便が来たということは足切りされなかったということだ。結衣はインターネットでも、もう少し早く見られるのだが、案外気の小さいところもあるので、怖くてPCの画面が見られなかった。ここ数日は、朝御飯や晩御飯のときに、父が「足切りどうだった?」と軽い気持ちで聞くと、父のことをすごい顔で睨んで「もうすぐわかるから!」と怒鳴っていた。流石に父もこのことに触れなくなった。家の中がここ数日ピリピリしていたのである。突然、スマホが鳴った。(きっと、湊だ🎵)ルンルン気分で、スマホを開けると、やはり湊からだった。『足切りどうだった?今年から信大は不合格の人に試験料の戻し方の説明と不合格通知が一緒に来るんだって…。』と書いてある。(郵便が来たということは……結衣は真っ青になって、郵便を開けた。『合格通知』確かにそう書いてある。スマホを見ると次の文で『うっそー、焦ったでしょ😁』と書いてあった。結衣は完全に頭に血が上り、『今度会ったら、絶対殴る!』と打ち返した。まぁ、こんなLINEをしてくるくらいだから、湊は受かっている。二人とも足切りにかからなかったのは、めでたいことだ。晩御飯の時は父も喜んだ。「流石、俺の娘だな。顔と性格はお母さんだが、頭だけは俺に似た。」とえらくご機嫌だった。「まだ、次が本番だからね。」「大丈夫だ。お前は父さんの娘だ。」と言いながら、頬ずりをしてこようとしたので、結衣はさらっとかわして、「勉強するから、お休み。」と自分の部屋に入った。ドアを閉めると、また顔が緩んだ。「へへへ。」小さな声で言うと、神道様の方に向かい、「ありがとうございます。もう一回、よろしくお願い申し上げます。七難即滅七生即成。」と、手を合わせてお願いした。  ただ、足切り発表から、個別試験までは凡そ二週間しかない。湊も結衣も、全く連絡も取らず、最後の追い込みに全力を注いだ。最後のあがきというか付け焼き刃というか、今さらやってどれ程頭に入るのか?ただ、二人とも今までに経験したこともないほど、真剣に勉強してい。流石の結衣の父が何も声を掛けられないほどだった。互いの個別の試験日が来た。結衣の父は新聞に目をやりながら、珍しく、「まぁ、なんだ。神様はお前の毎日の姿を見てるから。」とだけ言って、結衣の頭をグニグニと撫でた。結衣は、この撫で方が懐かしかった。(いつだったのかな?)何かおまじないを掛けられたような気がした。そう遠い昔、小学校に行くのが嫌で泣いて駄々をこねていた結衣の頭をグニグニと撫でて、父は同じ事を言った。結衣は、神様が見てたなら、あたしは悪い子としてないから平気だ!と思え、母と手を繋いで小学校に行ったのを思い出した。(父さん、ワンパターンだわ)と少し涙目になった。が、すぐに気持ちを切り替えて、「試験、試験。」と独り言を言って、ローファーを履いて鳴らしながら、試験場へと向かった。結衣は、湊と一緒の大学で勉強するという漠然とした考えしか持たていなかったが、やるときはやる娘だ。この個別試験も「はい、時間です。筆記具を置いて。」の試験管の声も落ち着いて聞けた。深く息を吸うと、口から静かに吐き出した。そして、やおら立ち上がると、席を立った。(今日は会えるかな?)と思いつつ。しかしお母さんも神道様も忙しいのか、結衣の願いは叶わなかった。帰り道、神道さんによって御参りを済ませた後、開運堂で父の好きなどら焼きを買って、家路についた。部屋のベッドに寝転がって『試験要領』を見ていたら、医学部は明日も面接がある。そしてそこに『面接で評点の悪いものは落とされることもある』と書いてあった。結衣は、湊の姿を思い浮かべ、(もしかしたら第一印象で落ちるかもな〜)と本気で心配し始めた。明日くらいは、ちゃんとした格好で行くんだろうなと思っていたが、あにはからんや、結衣の感は悪い方に当たった。当日の湊の格好は、いつもと同じ深志の学ランであった。そんな事を結衣は知らない。ただ、今日も神道様にお参りするだけであった。まだまだ松本の冬は続いていた。神道様から帰り、道の脇の小屋の屋根から地面に届きそうな氷柱が何本も下がっているのを見つけた。(道理でここのところ特に寒いわけだ。ここは冬がね〜)と思いながら、湊の面接が終わった頃に家に帰った。湊からのスマホが鳴るかな?結衣は心密かに期待していた。然し、その日、スマホが鳴ることはなかった。
     結衣は、ここ何日間かの受験勉強の疲れと緊張からの解放もあり、湊からのスマホを待ちながら、いつの間にか寝てしまった。夜遅く、帰ってきた父さんにも気付かず、父は、そっと結衣の部屋のドアを開けた。起きていたら話してみたいと思っていたことがあったが、寝息を立てて寝ている娘を見て、微笑みながら、自分の部屋から掛け布団を一枚持ってきて結衣にかけた。「試験が終わっても、まだ、受かったわけではないんだから、風邪でも引いたらいかんからな。」小声で独り言を言いながら、部屋から出ていった。翌朝、結衣が目を覚ますと、父はもう出掛けていた。父のニオイのする掛け布団が掛かっていた。よく父親のニオイを嫌う娘も多いが、結衣は違った。高校の途中から父と二人暮らしの結衣にとって、このニオイは心の落ち着く安心できるものだった。夜中に布団を掛けてくれた父に感謝しながら、大きな欠伸をして、スマホの履歴を見たが、湊からの着信はなかった。結衣は、湊も緊張で寝てしまったんだろうくらいの考えで、仕方がないので、湊にLINEをした。『女性を待たせたうえに、女性から連絡させるなんて、最低だよ!』と打つと、すぐにスマホが鳴った。「ゴメンゴメン、寝てたわ。」「あたし、昨日の夜、連絡待っていたんだからね!」「ゴメン、友達と試験も終わったし、カラオケ行っちゃって、帰っきてそのまま寝落ちしちゃって……。」「ふ〜ん、ソッチのほうが大事だったんだ。いいけど…で、その娘、かわいい子?」結衣が聞いた。湊は慌てた様子で、「バカ言うなよ。女の子となんてカラオケ行かないよ。」湊の嘘はわかりやすい。声が少し裏返るのである。「まぁ、いいや、今日、会えます?」わざと丁寧に聞いた。ところが、意外な答えが帰ってきた。「ゴメン、今日は、親父が試験も終わったから、岡谷で鰻食おうって、なんか『小林』とかいうとこ予約したからって。ごめんね。」意外な答えに結衣も少し動揺しながら、「別にいいですよ。あたしはいつでもお待ちしてますので…。では、失礼いたします。」と言ってスマホを切った。そうしたら、すぐにLINEが来た。『怒った?』『お父様が鰻ご馳走してくれるなら仕方ないわ。ちょっとふざけただけ』と返した。(鰻かぁ、そう、こっちは鰻もおいしいだよね。あたし、食べてないわ。父さん、帰ってきたらねだってみよ)と言いながら、時間が空いたので、神道様によって、駅までバスで行き、駅のところのスタバで、キャラメルマキアートを飲んで、身体を温めてから、アリオで晩御飯のおかずを買って、帰りは歩いて帰った。
     いつ見ても、女鳥羽川の流れに反射する夕陽は美しい。結衣は、いつものように目を細めて、(この景色は冬でないとね)と思っていた。晩御飯の時、新聞を読みながら、おかずをつついている父に、出したこともないような甘い声で、「ねぇ、お父さん、試験も終わったし、お願いがあるんだけど〜。」と切り出した。父は、メガネの上から結衣の顔を見て、「お前がそんな声出すときは、ろくな頼みじゃないな。気をつけないとな。」と座り直して、「何だ?」と聞いた。その父の返事が的を得ていたのだが、少し癇に障って、「じゃぁ、いい。頼まない!」と言って、御飯を口いっぱいかき込んだ。「話してみなさい。何だ?」結衣は首を横に振った。「お前も誰かに似て強情だな。父さんが怒る前に言ったほうがいいぞ。」と言われた。結衣は、首を振るのを止めた。滅多に怒らないが怒った時の父は心底怖い。ほとんど、怒られたことを、結衣は覚えている。「あのね。」小さな声で言い出した。「鰻、一度一緒に食べに行きたいの…。」一瞬怖い顔になりかけていた父の顔が柔和な顔に戻った。「何だ、そんなことか。勿体ぶっていうほどのことないじゃないか。今度の休みに諏訪か、岡谷の美味そうな店聞いとくから、そこに行こう。なんだそんなことか。」結衣は、「何だと思ったの?」と父に聞いた。「何でもないよ。」と言いながら、父は沢庵に手を伸ばした(ただ、父の頭のなかには微かに湊の顔がよぎった)。「『小林』がいい!」結衣は言った。「お前、行ったことあるのか?」「ううん、弥生に聞いたの、美味しいんだって。」こういう時の弥生が都合がいい、あとの辻褄さえ合えばだが…。「俺はどこでもいいよ。じゃあ、入れないと困るから予約しておいてもらっていいかな?」結衣は上機嫌になった。(こういう分かりやすいところはまだ子供だな)その顔を見て、父は思っていた。
     その頃、岡谷の『小林』では、櫻井一家が卓を囲んでいた。「いやぁ、大変だったな。よく頑張った!未成年だが今日くらい少しはいいだろ。」と父がピールを湊にグラスを持たせてついだ。「乾杯〜」いつも、どちらかというと寡黙な湊の父が今日は偉い明るかった。ただ、湊も母もその明るさが逆に怖かった。明るいまま、座は進み、デザートが来た。父は、「さてと…。」と正座をすると、「お前たちに報告がある。実は、今日、人事の内示が部長からあった。」母は嬉しそうな顔をして、「昇進?」と茶化しながら聞いた。「うん?昇進といえば昇進かな?」と父は答えた。湊と母は、漸く父のミクロンまで拘る父の技術が認められたのだと思った。咳払いを一つして、やおら父の発した言葉は、「転勤だ。東京へ。そのかわり社長だぞ!」であった。入社以来、岡谷で働いてきた父が東京に転勤になる。社長になると言っても、子会社の社長だし、父の話だと、東京にある資産管理会社の社長のようである。元々、ミクロンに拘る父の技術は若手の見本だったが、最近は、大量に同じものを作る方が優先される。所謂、生産性の観点から言えば、父のような存在は、逆に疎ましい存在だったのかもしれない。父の技術を見込んで注文する会社も少なくはない。ただ、そういったものは、単価が取れても数が捌けないので収益に繋がらないので、最近の経営者はいい顔をしない。湊の父の上司も、彼の技術力は十分わかっていながら、会社の生き残りのために苦渋の選択をしたのだと思う。それが証拠に子会社とはいえ、自分達の資産管理をする会社の社長に据えたのだから、それなりの配慮なんだと思う。ただ、今まで、技術一筋でやってきた父に不動産の知識などない。一番不安なのは父だろうし、長野から出たことのない母もこの歳になっての初めての土地は心細いだろう。盛大な慰労会のはずが、静かなものとなってしまった。帰りの車の中では、父、母、そして湊もそれぞれの今後を考え無口だった。翌朝、皆、無口のまま、自分ごとを淡々とこなしていた。湊は枕元のスマホが鳴っても出る気はおきなかった。自分は5年間学生寮に入るのかなと漠然と考えていた。
     一方、結衣は試験が終わっても、一向に電話にもLINEにも出ない湊のことが心配でもあり、少しカチンと来ていた。お互い死刑か無罪かの宣告を受けるまでの二週間くらい、羽根伸ばしてもいいじゃない。連絡取れなきゃものの言いようがないと思っていた。学校も違うので、学校に行っても会うことはないし、かといって、深志の校門の前で下校時にずっと待っているのも、ストーカーみたいだし、何か自分ほうが会いたいです…みたいに下になるのも癪だった。かなりの回数スマホを送っているので、会いたいです…話したいです…と言っているのと同じだとは思うが。仕方なく、弥生の顔の広さに賭けることにした。「ごめんね。お願いがあるの。」結衣は突然のスマホで弥生に切り出した。「試験が終わったんだけど、湊が全然スマホに出てくれないの。何でもなきゃいいんたげど、あの身なりでしょ、面接で落とされたとかで落ち込んでいるとかさ………。」最初、弥生は少し茶化しながら応対してた。「成程、お姫様は、王子様にずっと会えてないので、薬が切れてきたのね。会いたくて仕様がないんだ。わかるなぁ、その乙女心。」「怒るよ!あたし、他に頼めるような友達いないから連絡したのに。もういいよ!」結衣は切ろうとした。慌てた弥生は、「ごめんごめん、結衣にしては珍しいと思って、ついね…。わかったわ、ちょっと、深志の知っているのに聞いてみるから、暫く時間頂戴。」こういうと、弥生は電話を切った。「そんなに気になっていないのかと思っていたけど、案外、真剣みたいだな。ちょっと、意外だな。」と独り言を言いながら、弥生はスマホのLINEをクルクルと回していた。(考えたら、あたし、あいつの住所も知らないや。多分、あいつも正確にはうちの場所知らないよね)と今更ながら結衣は思っていた。
     その日は、結局、弥生からの連絡はなかった。神道様にお参りに行っても、そのことが気になって、どこかから、「また、来てんだ。」とか声がしそうでキョロキョロしていたが、参拝の人以外に会うことはなかった。弥生から連絡は来ないし、勿論、湊からの返事は相変わらずない。結衣は怒りより心配の方が圧倒的に強くなり、毎日、神道様の帰りはなわて通りや郵便局の方までも行ってみたりしたが、湊に会うことはなかった。家で朝や晩に父とご飯を食べていても、心ここにあらずで、さっきからもう何分もみそ汁を箸でぐるぐる回していた。流石に何日もこんな状態を目の当たりにしている父は心配になってきた。「結衣。結衣!」「えっ、おかわり?」「お前、どうしたんだ?身体の具合悪いのか?ちょっと診せてみなさい。」と言って、珍しく無理やり結衣のおでこに触ったり、両目であっかんべーをしたり、舌を出させたり、身体で痛いところはないか聞いたが、特にこれといって何もなかった。結衣の父は内科だが所謂、総合診療医でもあるので、かなりささやかな変化でもわかるのだが、そんな父にも見当がつかなかった。「明日、まだそんな感じだったら、父さんに連絡しなさい。」と言った。「大丈夫よ。」と結衣が笑いながら言うと、「大丈夫じゃないから言ってるんだ!わかったね!」こんな大声を出す父は滅多にない。結衣は、びっくりして小さな声で、「はい」とだけ答えた。一方で、弥生に聞いてみたものの、弥生にしては結構時間がかかっている。それも気になっていた。翌日、神道様から帰ってきたら、弥生が玄関ホールに来ていた。珍しいことなので、結衣は「あら珍しい。」と言いながらも、胸騒ぎがしていた。弥生を家に招き入れて部屋に入った。弥生は、難しい顔をして「時間、かかってごめんね。結構な同級生に聞いたんだけれど、誰もよく分かってなくてさ。まぁ、三年生の学校の試験は終わっているから、休んでも大丈夫なんだけれど…もう、五日でしょ。面接、一緒だったやつもいて聞いたんだけど、普段と変わらなかったらしいんだよね。」とすまなそうに言った。「ううん、弥生が悪いんじゃないわ。」と言いながら、(じゃあ何でLINEも返さないのよ!)と言いたい気持ちを懸命に抑えて、「何か家の方であったのよ。それでバタバタしてて…」まで言うと、急に涙が出そうになって、弥生に見られたいと、慌てて立ち上がって女鳥羽川を見るように窓の方に行った。結衣は、窓の方を向いたまま、弥生に、「湊の家って知ってる?」と訊いた。「ごめん、小学校から知ってるヤツなんだけれど知らないんだ。昔は、クラス名簿みたいなの配っていたらしいんだけど、個人情報がどうのって言われるようになって、私が入る少し前になくなっちゃったみたいで…。それも何人か聞いたんだけど、遊ぶときは表なんで知らないらしんだよね。役立たずでごめんね。」弥生は申し訳なさそうに頭を下げた。「弥生のせいじゃないよ。色々ありがとね。」笑顔で弥生にそう言った。(何があったの?何で何も話してくれないの?)そんな言葉が頭の中を渦巻いて離れなかった。
     (弥生にも同級生にも言えない何かって何?あたしにも言えないことなの?)そう思いながら、結衣は朝から神道様にお参りを済ませると、街の中を歩いた。あがたの森の中、お城の周り、旧開智学校の建物の周り、湊の通う深志高校の周り、毎年セイジ・オザワ記念フェスティバル(昔はサイトウ記念フェスティバル)の中心であるキッセイ文化ホールの周り、毎日、雨の日も粉雪の舞う日も歩いて、湊を探した。然し、彼は見つからなかった。明日は、蟻ケ崎高校の卒業式だというのに、娘の様子は変わらない。結衣の父は流石に黙って娘のいうとおりにしておくことは出来なくなった。その日の晩御飯の時、食事にほとんど手もつけず、どこかをボォーっと見つめているだけの娘に父は言った。「明日、父さんと病院に行くから。」「明日は、卒業式だわ!卒業式は行くわよ!」父は答えに窮した。「わかった、では学校の帰りに俺がお前を病院に連れて行く。これは、父さんが決めたことだ。」「いやよ!」「こんな言い方はしたくないが、今のお前はまともじゃない。毎日、街中を歩いて何をしてるんだ?」「つけたのね?最低!」「娘のためなら、俺は何でもする。お前を母さんみたいに失いたくないんだ。」結衣は、父の一言に反応した。「だから、母さんが死んだのは父さんのせいじゃ……。」そこまで言いかけて、自分が一番言ってはいけない言葉を口にしたことを悔いた。父は下を向いたままだった。長い沈黙のあと、結衣は漸く口を開いた。「わかったわ、明日、父さんと病院に行く。ただ、その前にあたしがこの何日か、どうしてこんなことをしているかを聞いて。」結衣の懇願するような目、今までに父は見たことのない目だった。父は、娘の目に、それ以上の追求も何も言えなくなった。「明日の午後、約束だ。今日は、もう寝なさい。」それだけ言った。結衣は頷くと、自分の部屋に入った。父は、娘に何があるのか分からない自分責めた。娘もドアの向こうで父に素直に話せない自分を責めた。そして、二人は(今までこんなことなかったのに…)と同じ思いでいた。朝、結衣か起きると、父からのメモがあった。『病院は明後日にした。今日、卒業式だものなぁ。少しでもいいから、気を晴らしてらっしゃい。話は夜にしよう。』結衣が父に全て話そうとした頃、もう一つの歯車が回り始めていた。
     湊の家である。父は東京での仕事の引継ぎのため、今はいない。家の中には母と二人である。母は長野から出たことがないこと、病弱なこともあり、今回の夫の転勤の話には素直に喜べなかった。湊の家の中は、あの『小林』の宴あと、まるで、冬の重苦しい空のような空気で包まれていた。湊は二日後に、信大の合格発表を控え、本当ならば自分の手応えもあり、期待で満たされているはずであったが、母のことが気になってそれどころではなかった。或る夜、母が珍しく湊の部屋に来て、「入ってもいい?」と聞いた。「勿論、何言ってんだよ。」と言いながらも、湊の心は重かった。「貴方は信大に受かったら、こっちに残るのよね。この家から通うの?」「う〜ん、それが悩みなんだけど、色々と話を聞いていると、信大には一年の時に入る寮と、医学部にはそのあと5年間入れる寮があるんだ。医者になるためには、試験や実習も多いから、寮にいた方が情報なんかも多いみたいなんだ。だから、寮に入ろうかなと思っている。もちろん、週に一回くらいは風を通しに来るつもりだけど…。」「そう、そう考えているのね。」母はそう答えると、「頭が重いから先に寝るわね。」と出ていった。この時の二人の考えは全く逆だった。湊は母の言葉を期待しているものと受け止め、母はこの考えを止めないとと思っていたのだった。明後日、信大の合格発表の日、父が一旦、東京から帰ってくる。合格していたら、中学の頃から言っていた夢が現実になるのだから、両親も喜んでくれるだろう。そこが落ち着けば、結衣にも胸を張って言えるのだから、今までの不義理も心から詫びることも出来る。結衣は自分の夢を知っていたから、きっと分かって喜んでくれるはずだとそう思っていた。翌日の蟻ケ崎高校の卒業式の日、外は快晴だった。(皮肉なもんだわ。あたしの心と真逆だもの)結衣は、そう思いながらローファーを鳴らしながら、学校への坂道を上った。同級生は、卒業式なので、テンションは上がっている。そんな中で、結衣は沈んでいた。事情を知っているのは弥生だけだが、かける言葉も見つからず、結衣を離れたところから見ながら、きっと大丈夫と祈らずにはいられなかった。結衣にとって何の印象も残らない卒業式が終わり、同級生とどこかに行くわけではなく、家に帰った。あれ以降、弥生からの新しい話もない。ベットに横になり天井を見ていたら、急に天井がゆがんだ。涙のせいだ。 結衣は声を出して泣いた。こんなに号泣したのは、母が急逝した時以来かも知れない。温かい人たちがあたしを支えてくれていると思っていたが、あたしの心も身体も、この松本の寒さのように冷え切っている。もう、私には何もないとまで思った。そのうちに心の疲れもあったのだろう、結衣は寝てしまった。昼過ぎに様子を見に来た父に起こされた。結衣の顔には涙の跡がある。父には泣いていたことが一目でわかった。「大丈夫か?」父の顔を見た途端、結衣は父にすがって号泣した。父には、まだ訳がわからず、娘の背中を擦ってやることしか出来なかった。どれくらい経ったであろう。結衣は大分落ち着きを取り戻した。父は再度結衣の顔を見て、「大丈夫か?」と再び訊いた。結衣は、「うん。」と頷き、父をソファーに導いた。「途中でまた泣いたらゴメンなさい。」と言いながら、ポツリポツリと話し始めた。足切りの通知の頃までは、湊と普通に話ができたこと、個別試験のあと、湊が家族で御飯を食べに行ってから、突然、連絡が取れなくなったこと、弥生の手も借りて、色々、探したが連絡も会うこともできなくなったこと、いつでも話せる会えると思っていたものが、突然途切れたら、言いようもなく、心が痛くなって、そのあと何もしたくなくなり、自分なんかどうでもいいと思い始めたことも、すべて父に話した。父は穏やかな表情で、結衣には時々微笑みかけながら、相槌をうち聞いていた。最後に父は、結衣のことを抱きしめ、「よく頑張ったな。苦しかったな。」と、再び背中を擦った。結衣は少し静まっていた感情が再び溢れ出し、父の胸で号泣した。父は、その間も結衣の背中を擦りながら、(この娘は初めてホントに好きな人が出来たのだろう。今までにないことなので、その人に絆を断たれたら、経験のないこの娘は、どうしていいかわからなくなり、深い森に迷い込んでしまったんだ。母さんがいたら、もっと早くに結衣の気持ちも分かったろうに……。結衣、すまない)と思っていた。結衣は一頻り泣いたら、小声で父に「もう大丈夫。」と囁いた。父は結衣の顔を見て、「ああ」と頷くと、結衣の背中から手を離した。結衣は自分の部屋に戻り、机のうえに無造作に投げてあった受験票を見た。『008』自分の受験番号である。湊は『0020』、「これは、二重にいいことがあるって意味だよ。結衣は何番?」「言わない!」「落ちると格好悪いから言えないんだろ。」「嫌な奴!」cafenoyeでのやりとりを思い出した。(あれが普通だと思っていたのに……なんで今は繋がらないの?)二重にいいことがあるなんて。あんなに得意気にに笑っていたあいつの言葉が、今は、結衣の耳から離れない。机の上に放り出した受験票の数字が、2人の未来をつなぐ唯一の糸なのに、その糸の先は手応えを失っていた。もう涙は流れていないが、何を見ても、湊と過ごした日々が僅かだったが、思い出されてしまう。悲しさを通り越した結衣には、何故という大きな疑問符と虚無感しかなかった。
     湊の家は夕刻に父が東京から帰ってきた。父が精一杯の元気さを振りまいているのが、湊には辛かった。ずっと、尊敬してきた父が家に入るのに、こんなふうに振る舞わなければならないことが辛かった。(何で親父をこの歳になって知らない土地の知らない仕事に就けなければならないんだ?湊には大人の社会の複雑な部分はまだ分からないが、今回のことは理不尽だとは分かった。父だって、社長になるからって決して行きたいわけではない。だが、この歳になって、この土地に残ったとしても、技術だけで雇ってくれる企業がないのも事実である。家族が食べていくためには、仕方のない選択だった。そんな父が晩御飯のときに沈んでいる食卓に、湊が想像だにしなかった追い討ちをかけた。「湊、お前が信大の医学部を志して、今日まで頑張ってきたことは、俺も凄いことだと思うし、みんなに誇れることだ。」湊は、父が何を言おうとしているのか分からなかった。父は、静かに箸を置いて、湊の目を見ながら、こう言った。「明日の発表、見なくても、お前は合格していると思う。それくらい、お前は頑張ったからな。」湊には、父から怒鳴られたり、殴られたことはあっても、褒められたことなど、ほとんどなかったので、戸惑うと同時に、嫌な思いが胸をよぎった。「ヤメなよ。気味が悪い。」湊は父にビールを注ぎながら、次に父の口から出る言葉に息を呑んだ。「なぁ、湊、俺と一緒に東京へ行かないか?まだ、仕事の内容もちゃんと掴んでいるわけではないが、東京はそれなりに刺激のある場所だ。東京の大学の医学部を受け直してみてはどうだ?」「何言ってんだよ。今、明日、お前なら受かるって言ったじゃないか。」「傍に居るから言うわけではないけれど、母さん、最近調子が良くないんだ。俺は、接待で遅い日や泊まりの出張もあるみたいだ。一人で置いておくのは不安だからな。」湊は頭を振った。そして、大きくため息をつくと、「何で今日なんだよ。今、そんなこと言われたって……今まで頑張ってきたのは……。」「お前の言いたいことはわかる!」父は、一瞬だけ、かって見せたことのない追い詰められた弱い男の顔をした。だが、すぐに社長就任という仮面で覆い尽くした。「わかってないよ!わかってたらそんなバカなこと言わないだろ。嫌だ!絶対、嫌だ!」脇で二人のやり取りを聞いていた母はすすり泣きをしていた。「母さんが悪いのね。」「母さんが病気なのは母さんのせいじゃないよ。でも、俺は…。」湊は、そこまで言うと言葉が見つからなかった。夢に見た信大に通い医者になるキップを掴みかけているのに、親父がお袋がその手を払おうとしている。そう思えてしまった。湊は感情が抑えきれず、立ち上がり、自分の部屋に駆け上がって、とてつもない大きい音で戸を閉めた。「あいつら何言ってるんだよ!親なら子を応援するもんだろうが。」と言いながら、拳で布団を何回も叩いていた。その音は、諏訪湖の花火のように響いてはいたが、虚しさ以外の何物でもない。(信大医学部が…。医者が…。夢が…。応援してくれていた家族が…最後に壊した。)そう思うとどうしても納得がいかなかった。湊は、その夢が大きすぎて、壊されつつあるショックが大きすぎて、結衣のことが少しも頭に浮かばなかった。湊には結衣のことも大事だが、この夢は大きすぎたんだと、湊はあとで思う。翌日は父は岡谷へ、母は一階から上がってこなかった。ただ、合格発表の時間になっても、パソコンを開ける気も起きなかった。喜んで踊り回るような気持ちになるはずだった今日。谷底に堕ちるっていうのは、こういうことなのかと思っていた。
     その頃、結衣はパソコンを開け、自分の番号があるのを確認して、そのあと、湊の番号も確認した。ただ、そこに何の高揚もなかった。事務的に番号を確認して終わるだけだった。それでも、勇気を出して、久し振りにスマホを出して、湊に、『あんたもあたしもあったからね、番号。『0020も0008』も、あんたもあたしもおめでどう』と打った。そして、スマホをベットに放り投げた。それでも、結衣は、もしかしたらが頭をかすめ、スマホがベッドの上で震えるのではないかと、結構長い時間、自分の投げたスマホを見ていた。ただ、スマホが震えることはなかった。「ダメなんだね、スマホもお休みか。」結衣は、また、机の上に目を落とした。そこには、受験票とPCが重なっていた。合格って、みんなが幸せになるのかと思っていたのに、こんなにどん底に落とされることもあるのね。そして、PCを閉じると、悲しそうに笑った。
    湊はスマホはカバン入れたままで、もう電池も切れている。結衣の虚しさで溢れた微かな希望の糸を繋ごうとした言葉は、湊には届いていなかった。湊は、元々、親孝行な良い青年である。そんな湊に、親孝行の代わりに両親が投げかけたものは、何と残酷なものだろう。湊は、結局、みんな自分さえ良ければいいんだと思いながら、その両親を捨てることのできない葛藤が心の中に渦巻いていた。小一時間も経っただろうか、湊は、窓から外の景色を見た。真っすぐ行けば信大があるのにと、一筋だけ涙がこぼれた。そのあと、湊の目からは明日に向かう光が消えた。酷いようだが、結局、湊には選択肢はなかった。今まで、何一つ不自由なく育ててくれた両親が、こんなに苦しんだ中で、自分に投げかけた残酷な提案。仮にそれが今の湊から全ての夢を奪うものだとしても、両親の苦しみを考えると抗うことは出来ないと思っていた。医学部の夢、医者になる夢、もう一つあの生意気な可愛い夢、そうか、この夢も捨てるのか……。その時、結衣のことを、あの残酷な時間の始まりの中で初めて思った。湊はそのことを心の中で恥じた。あんなに楽しい日々を過ごせたし、しんどい受験勉強も乗り越えられたのは、あの生意気な結衣のおかげだったのに、今、自分の夢を失うことだけを考えていた。(何て情けないヤツだと)自分に嫌悪感すら感じた。夜、父が岡谷から戻ってきた。湊は、意を決したように階下への階段を降り始めた。この階段を降りたら、夢は全部捨てるんだなと思ったら、一瞬だけ足がすくんだ。然し、手すりにつかまりながら、これから起こすことに、絶望を感じながら、一歩一歩降りていった。下では、父は普段着に着替えている最中で、母は背広を掛けるのを手伝っていた。父は、湊の顔ををひと目見て、自分の答えを伝えに来たことは察しがついた。母は、晩御飯のおかずに火を通しに台所へ立とうとした。湊は、母に向かって、「母さんも悪いけど座って。」と言った。湊の声は穏やかではあったが、一言一言が重みを持っているように感じられた。「僕は、今回、信大医学部に合格していたら、この生まれ育った信州で医者になり、医療的に厳しい地方の環境の少しでも役に立ちたいと思っていた。」『思っていた…。』この過去形の言葉尻を父は心の中で逃さなかった。父は、その気持ちを殺しながら、穏やかに聞いた。「それで。」湊は大きく息をついて、天井を見つめながら、「色々、今まで二人が僕にしてくれたことを考えた。色んなことを思い出した。」もう一度大きな息をした。出てきそうな涙を必死に堪えていることは、父も母もわかった。「二人にあれだけ頼まれたら、嫌とは言えない。自分のことだけ考えて進んでいいものではないと思う。」父は、「そうか…。」だけ言って、目を伏せた。「俺は、僕は、生まれ育った故郷も、あれほど憧れていた信大も……。」そこまで言いかけた時、結衣の少し眉を寄せた顔が浮かんだ。「他にも色々、全部捨てていくよ。」母が、「捨てるって、そんな…。」「母さんは、僕がどんな気持ちで二人の願いに沿うようにしたか、わかってないよ。18だって、いろいろあるんだよ。」珍しく母に対して、大きな声を出した。父がおもむろに口を開いた。「東京でも医学部はある。」「やっぱり、父さんもわかってないよ。医者になれれば何でもいいんじゃないんだ!そのことは、もっと時間がないと考えが纏まらない…でもね…まで言いかけて止めた。「引っ越し、決まったら教えて。」それだけ言うと、立ち上がって、後ろを向いた。両親は、子供とはいえ親の自由にならないことを承知のうえで、その子供を地の底に突き落とすような懇願をしたことを理解しながら、その背中を見ていた。父は(俺にはあの子の父だなどという資格はないな)と思った。湊が二階に上がると、母は、「よかったわね、お父さん。」と言った。「お前は何にもわかっていないんだな。」父はため息をつきながら、呆れた顔で、母の顔を見た。母はわからないが、父は自ら大きな重しを背負ったことを実感していた。(このことは、これからどれだけ時間がかかっても、港に返してやらんといかん)そう思っていた。湊は二階に上がると、何気なくスマホを探した。誰にかけるわけでもないが、このくらいの年齢は常にスマホを手にするものだ。湊も、言うだけのことは言ったからか、スマホを探した。スマホはカバンの中にあったが、電池が切れて画面は真っ暗だった。何の考えもなく、充電始めると、画面に出てきたのは、とてつもない件数の未読のLINEだった。名前を見なくても誰かはわかる。湊は、声を殺して泣いた。(俺は、これも捨てた卑怯者だ)そう思うと、生まれてこの方、こんなに自分が嫌な奴に感じたことはなかった。一番最後のLINEを見た。そこに描かれたポップマーク…こんなに放っておいた自分に、言葉はつっけんどんだが、心の通った文章を送るやつは他にいない。信大より医学部より、もっと輝く一番自分が本当は愛しいと思っていたものを捨てたことを、心の底から悟った。ただ、自分は、ここを捨てる決意をした。会ってもしくはLINEででも、(親父たちと東京に行くことになったなんて言うことは出来ない。言えない)と思った。どうすればいいか分からず、頭を掻きむしりながら、纏まらないことを考えていた。そこで、湊はふと気が付く。このLINEを見たことで、『既読』マークが付く。結衣は、切れかけていた糸が繋がったと思うだろう。そんな期待をさせてはいけない。湊の考えは、その方向に向いて、歯を食いしばりながら、スマホの画面が涙で滲む中、画面を消した。残りのLINEを見ることはなく…。二日後、結衣は弥生から連絡を貰った。湊の父の勤め先が分かったというのだ。その時、結衣はスマホにLINEのマークが付いているのを見つけた。慌てて、LINEを開ける。自分が湊に送った最後のメール、ポップマークのついた合格の知らせ、そのメールに『既読』が付いていた。戸惑いながらも、急いで、LINEを返してみた。だが、『既読』はもうつかない。電話もしてみたが、「おかけになった…」と機械音が繰り返されるだけだった。(元と同じだわ。この『既読』は何なの?)結衣は混乱していた。(あんたはどうしたいの?私にはわからない)結衣は頭を振った。再び、スマホが鳴った。『既読』を見て、手に取ったスマホは弥生からだった。どうも、湊の父の勤め先は岡谷のようだ。そんな話を聞きながらも、結衣の頭の中は『何故』という言葉が渦巻いていた。(折角、同じキャンパスに行けるのに、会うことがあったら、どんなことをすればいいの?)と思いながら、一方で、(何故?何故?なぜ?あたしがあいつに何かした?あたしがそれに気が付かないだけなの?)という考えがデス・スパイラルのように回っていた。
     その日の夕方、弥生に詳しいことを聞くために、神道様の前で待ち合わせた。二人の合格、弥生も進路が決まった。そのお礼参りをしなければならない。混乱のなかにも、わずかに冷静な結衣がいた。神道様に二人でお礼参りを済ませると、後ろで、宮司さまが微笑みながら立っていた。結衣たちは自分たちではないと周りを見たが誰もいない。宮司さまはそのまま結衣たちの前に近寄ってきて、「あなただね、ずっと参りを続けていたのは…今どき中々いないからね。ここの中では、あなたのことは巫女たちもみんな知っている。そして、今どき若いのに珍しいとみんなで感心していました。私たちもその姿を見て、どうかこの娘の願いをかなえてほしいと思ったし、四柱様もその姿を微笑ましく見守っていたと思いますよ。」そう言った。「今日はお礼参りかな?」結衣は頷いたが、心から喜べる結果ではない。宮司さまは、結衣の表情を見て満足のいくものではなかったことを悟ったが、「お百度を踏んでも、その場では叶わないことはあるでしょう。でも、四柱様はきっと、あなたのことをずっと見守ってますよ。」と言ってくださった。結衣は「ありがとうございます。」と頭を下げて、大名町通の方へ歩き始めた。弥生は結衣がお百度を踏んでいたことを聞いてびっくりした。「何お願いしてたの?」弥生が聞いたが、結衣は「もう済んだことだわ。」とだけ言って、駅の方へ歩き始めた。「どこへ行くの?」「岡谷に行くんでしょ?」「これから?」「あたしは何が起きたのか、どうしても知りたいの?ごめんね。」「もし何だったら一人で行くからいいよ。」結衣は言った。その目は何としても自分が納得できるようにしたいと、つよい光を放っていた。
     岡谷の湊の父、櫻井和彦が勤めている会社『岡谷精工』までは、特急に乗れれば30分もあれば行ける。夕方だったが、結衣は行った。一緒に行っていいのか、弥生は迷ったが、いつもの放っておけない精神が出て、一緒だった。『岡谷精工』は、岡谷の駅からも歩いていける距離にあった。工場と本社のある広大な敷地の入口には守衛所のようなものがあり、そこで、結衣は「櫻井さん、いらっしゃいますか?」「あなたは?」「櫻井さんの息子の湊さんの友達です。どうしてもお伝えしたいことがあって…。」「なら、息子さんに言えばいいんずら?」守衛はもっともな返事をした。結衣は、「その息子さんと最近、連絡が取れなくて、それで、こちらに伺いました。」丁寧に返事をした。守衛は、「櫻井さんの勤め先はどこで知ったの?」また、もっともな質問をした。結衣が若干答えに窮していると、弥生が脇から、「私、櫻井湊くんと小学生から一緒で、前に聞いたことがあったんです。」と答えた。「ふ〜ん。最近、コンプラ何とかで、個人情報うるさいのよ。繋いであげたいんだけど、俺がクビになっちゃうだじ。」そうしたら、奥にいたもう一人の守衛が、「岡谷さんなら、転勤になったずら。」「うん、そうだ。」「えっ?」結衣と弥生は顔を見合わせて驚いた。「あの連絡先とかは教えてもらえないですか?」「あんた、友達なのに知らんの?」「そしたら、ときに連絡先と名前書いといてや。櫻井さんが教えていいって言いたら、電話してくれるわ。」と言われた。これ以上は聞き出すのは無理なようなので、二人の連絡先と名前を書いて、守衛に渡して、『岡谷精工』をあとにした。帰りの特急の中で、二人は無口だったが、湊の父が転勤する。」ことはわかった。入学手続きの締切の15日まで、あと一週間である。結衣の父、晃之輔は、娘がどうするのかは別にして手続きだけは済ませてある。(あとは結衣が決めることだ)そう思っていた。結衣たちは、松本に着くと、スタバでフラペチーノを頼んで、これからどうするか考えていた。結論は、これ以上は、調べようがないので、『岡谷精工』からの返事を待つことになった。家に帰ってからも、結衣はいつもと変わらなかった。父は、先日以来、さりげなく娘の様子を見ているが、結衣も動きを悟られたいとしている。これは、意地とか隠したいのではなく、父にこれ以上の心配をかけたくないからだった。それから、あっという間に五日が過ぎた。手続きの締め切りまで、あと二日だが、『岡谷精工』からは何も言ってこない。湊の父にそんな人間は知らないから、答えないでほしいと言われたのかもしれないと、二人は考えていた。(あと二日で答えがてなかったら、どうすればいいんだろう)結衣は考えていた結衣の父、晃之輔の勤め先、信大の付属病院の先生は、大学の医学部の教授を兼ねている人も多い。(父さんに聞いたら分かるかな?)そう思ったが、これ以上、父に心配をかけたくない気持ちも強いので、悩んでいた。翌日の夕方、弥生から連絡があった。どうやら、湊の父の和彦は、引き継ぎ等で東京と岡谷の間を行ったり来たりしていて、守衛からのメモを失念していたようだ。湊の家の電話と深志高校の近くで、蟻ケ崎高校からも遠くなかった。(こんな近くにいたのに………)結衣は(気持ちは距離じゃないんだわ)そう思いながら、蟻ケ崎高校への上り坂を二人で走っていた。会ったら、何て言おうなんて、全く考えていなかった。兎に角、『会う』その二文字だけが頭の中を支配していていた。二人は、息を切らしながら、漸く湊の住んでいた家に着いた。辺りはすっかり陽も落ちていた。街灯が所々にあるだけである。二人は、一軒一軒、表札を確かめながら、付近を歩いていた。そうすると、角を曲がったところに、表札がなく家の中に電気も付いていない家が一軒あった。二階が街灯に照らされ、薄ぼんやりと見える。カーテンもないのが分かった。結衣はその光景を凝視していたが、心は凍りついていた。期待していた湊の住んでいた家は、今は、誰もいない真っ暗な固体にすぎない。弥生が他を回って立ち尽くしている結衣のところに来て、目の前の家のような固体を見上げて、息を呑んだ。弥生は、結衣よりは、冷静であった。隣りの電気のついている家に行き、ここに住んでいたのが、櫻井さんであり、ここ何日かで慌てて引っ越しの準備をして、今日引っ越したということだった。「今日……。」そう小さな声で結衣は言うと、その場に座り込んだ。弥生が心配そうに覗き込む。『これを言うのは辛いんだけど……引っ越し先も分からないらしいわ。」弥生がすまなそうに言った。結衣は、少し経って、膝に手をやり立ち上がり、「運命って残酷だわ。」スカートに裾を祓いながら、達観したように言った。「お百度を踏んだ結果がこれ?神様に文句を言ったらバチが当たるって言うけれど…18の娘にこんなことするのは、ただ試練だって言うだけ。バチ当てたければ当てればいいわ。もう何も怖くないわ。」弥生は、ただ、傍いることしかできなかったし、こんな事をいう結衣に驚いた。そして、やがて振り返ると、弥生に「行くよ。ここにいても仕方ないから!」と言って坂を降り始めた、
     その頃、アリオのバスターミナルから新宿行きのバスが出ようとしていた。バスが出る少し前、駅の道を北のほうへ少し戻り、周りの明かりにわずかに浮かび上がる黒漆の烏城とも呼ばれる『松本城』を目に焼き付けた。そして、バスの受付のアナウンスとともに、バスに乗り込んだ。両親は特急で行ったが、自分は、バスで行くと答えた。少しでも、この産まれてからずっと過ごした松本の地を心に目に焼き付けるために…。バスに乗った湊は、初め見慣れた松本の景色を見ていたが、バスは容赦なくインターへと南へ向かっていく。知っている景色がだんだん少なくなっていく。それでも、湊は景色を見ているのがこのうえもなく苦しくなり、歯を食いしばり下を向いた。(俺は、この街を、夢を、そして一番大切なものを、今、捨てている)そう思いながら、スマホを開けて、『生意気なやつ』と書いてある名前を削除した。(これで終わりだ)ただ、また、顔を上げて高速の景色を見ても周囲の山々は、「お前はこの街を捨てていくんだ。」口々に叫んでいるように聞こえ、湊は思わず耳を塞いで、また、下を向いた。バスは、止まることはなく無情にも新宿へと向かっていった。
     結衣は家に帰ると、父にその動揺を気取られないように、台所に立った。晩御飯は、筑前煮である。父が奥から出てきて、「うまそうな匂いがするな。お前、また腕を上げたな。」と一つ肉をつまんだ。「こらっ!」結衣が怒った。二人は、傍から見ると、いつも通りを懸命に演じようとしているかのように見えた。今まで、動いてきた弥生を入れた四人がそれぞれの方向を向いて、知らず知らずのうちに歩き始めていた。結衣が、父から聞かなくても分かる話、即ち、湊が入学手続きをしなかったことを聞いた。そして驚かない娘の姿を見て、父は、「お前、知っていたのか?」と聞かれた。結衣は、「聞かなくても、ここ何日かのことで大方の想像はつくわ。」と普通に答えた。「ケ・セラ・セラよ。」と言って、食卓に御飯、味噌汁、筑前煮と沢庵をおいた。
     四月になって四日は入学式だった。前に、結衣が湊を探して彷徨った『キッセイ文化ホール』である。ただ、あの時の結衣を或る意味、結衣でなかったので、ここの景色は、結衣は、覚えていなかった。松本の春までにはもう少しかかるようで、桜は満開までもう少しかかるようだった。結衣は、人文学部で国語言語文化学科に入った。(自分の国のことや言葉のことを知ることはいいことだわ)と思っていた。入学式は医学部と一緒であったが、席が離れていたこともあり、また、当然ながら、湊のいない医学部は、今の結衣にとってはどうでもよかった。大学が始まり、結衣も大人になったせいか、友達も色々出来たし、勉強も楽しんでいた。もちろん、時々だが、弥生とは会っていて、色んな医学療法の話を聞いている。患者さんのリハビリテーション程度にしか考えいなかったものが、もっと複雑なことを聞き、結構勉強になると同時に、弥生を尊敬していた。「凄いことしてるんだね。弥生、凄いよ。」「そんなことないよ。実習の時なんて、もっと大変みたい。」キラキラした目で将来を期待している弥生が羨ましくもあった。(あたし、国語やって、将来は学校の先生?)と漠然としたことを考えていた。四月も中旬を過ぎると、松本も少しずつ春の声が聞こえ始めている。或る日、晩御飯を買いに行ったアリオの帰りに、大手橋を渡りながら、ふと女鳥羽川を見ると、夕闇に『花筏』が見えた。結衣は、吸い付けられるようにその『花筏』を見つめていた。突然、頭の中に、「今年は見られたんだ」というあの声が蘇った。ここのところ、忘れていた光景だった。夕陽に映えながら流れて行く『花筏』、ただ、『花筏』の行方をずっと見ていた結衣は、あることに気がついて、涙が溢れてきた。(自分の目の前を流れているときしか気が付かなかったけれど、流れに乗ってくうちに、また、バラバラになっていくんだわ。私たちみたい……。綺麗で素敵なのは一瞬ね…)涙を拭うと、家への道を急いだ。父はまだ帰っていなかった。心密かに(よかった)と思うと、顔を洗い、晩御飯の支度を始めた。今夜は、ハンバーグである。きっと、帰ってきておかずを見たら、(俺はガキじゃないぞみたいなことを言うよ、父さんは)と思っていた。タイミングよく、玄関の鍵が開いた。帰ってくるなり、着てるものもカバンもそのままで、父は、キッチンに来ておかずを覗いた。そして、ちょっと残念そうな顔をして、「今日はハンバーガーか。」とがっかりしたように言った。「パンはないよ。」結衣は答えた。父は言っている意味が分からず、「うん?」と聞き返した。「だから、あたしの作っているのはハンバーグ、ハンバーガーはこれをパンに挟むの。」と説明され、(そんなのどっちでもいい)という顔をして、自分部屋に行ってしまった。結衣は、少し笑いながら、(変なところ子供じみてるよね)と思っていた。結衣はその日の夜中、『花筏』の夢を見た。バラバラになる夢を…。

    其の参
     女鳥羽川近くの1階が美容院の建物の隣に小さなクリニックと大きな駐車場があった。松本駅に夕刻近く降り立った若者、言うまでもなく、湊は、小さなメモを見ながら、その建物に向かって歩いていた。決して、軽い足取りではないことは、誰の目にも明らかであった。何か心にも荷物以外のものを背負っているように見えた。やがて、若者は建物の前に建つと、引き戸を開けた。中にいた頭がだいぶ白くなった白衣の医師は、「申し訳ない。今日はもう時間なんで……。」まで言いかけると、湊の方を振り返り、少しすると、それが結衣の写真で見たことのあった、湊だとわかった。その医師の顔はみるみる険しい顔に変わった。「ここに何の用だ。」患者への口の利き方ではない。「おじさんが、信大の付属病院での勤務が終わったあとも東京に戻らず、ここで開院したことを病院で伺いました。」「病院は個人情報をアカの他人に簡単に教えるのかね。困ったものだ。にしても、君がここに来る理由も権利もない。帰ってくれないか。」医師は、高ぶる感情を懸命に抑えているように、低い声で話をした。「ご、ご無沙汰しています。申し訳ないですが、少しだけ話を聞いて頂けませんか?」湊は頭を下げながら、医師にお願いした。医師は、待合室の中を整理しながら、「話?話なんかすることはない。君が、昔、長く住んで愛していた故郷を捨て、遠くに行った理由は、あとから私も大方聞いた。人には、そういう本人にとって、極めて残酷な決断をしなければいけない時もあるだろう。そのことをとやかく言うつもりはない。それは君の家のことだし、君が決めたことだ。」「おじさん、私が言いたいのは…。」そこまで言いかけると、老医師は、その言葉を遮った。「ただ、そのこととこれは全く別の話だ。もうそれ以上、何も話さんでくれ。」老医師の声は段々と大きくなった。「おじさん、私のしたことは十分分かっています。だから、どうしても、お詫びと話がしたくて……。」「お詫び?君は、君のしたことで周りがどうなったかを考えたら、ひよこっと現れ、お詫びに来ましたってことでないことくらいわかるだろう。』老医師は強い眼差しで、続けて言った。「悪いが帰ってくれないか?そして、二度とここにはこないで欲しい。」反論を許さない強い口調だった。「私は…。」遮るように老医師は続けた。「個別の試験が終わり、君が家族で飯を食べに行ってから、娘は君と連絡がつかなくなった。理由も分からず、自分のせいなのかと深く悩み、2人ともに合格したというLINEを君に打ったら、『既読』が付いた。そのことが逆に娘には一筋の光に見えた。また、繋がる。だが、それから、また、何の返事も返ってこなかった。」「そのことは……」「そのことは何だ?両親に懇願されたら、君は何でも捨て、何でも断ち切るのか?」「あの時からの娘は、市内を探したり、人を頼ったり、君の父親の勤め先の岡谷までも行ったそうだ。そして、カーテンも外した真っ暗な君の住んでいた家を見たとき、どう思ったか分かるかね。」と言いながら、咳をした。「あの娘は今までで一番、いや初めてかも知れないくらい、人を想い幸せだったのに、思いやりのない君の浅はかな行動が娘を地獄の底に突き落とした。私は、医者だが、心の中に入り救ってやることは出来なかった。」待合室に掛かっている娘の写真を、震える年老いてしまったその指で指した。湊が目をやると、あの懐かしい結衣が……湊が多くは見たことのない結衣の笑顔こ写真だった。「あの時から、この笑顔はこの娘の心の中から消えてしまった。二度と心の中に芽生えることはなかったのだよ。君に分かるかね。そんな心の中に何もなくなった人間とともに、同じ空間にいる人間の気持ちが…。こういうことに対しては、医者は無力だ。この娘の母親の時も私は無力だったが、今度はそれ以上だった。医者を志して、医者になり懸命に技術や知識を学んでも、たった二人の家族すら救えなかった。」そう言って、老医師は膝から崩れ落ちて、持っていた雑誌を床に落とし、肩を震わせて声を殺して泣いた。湊は、その老医師の言葉と姿から、あることを考えた。(結衣はまさか……えっ、そんな)湊は狼狽し、絞り出すような声を出した。「そんな…」嗚咽とともに。
     少しの沈黙が待合室を支配したあと、クリニックの玄関が開き、信大の封筒を持った一人の女性が入ってきた。「あれ、まだ、患者さんいるの?」そう言うと、湊の方を向き直った。彼女が二度と思い出すまいと思い、二度と会うことはないだろうと思っていた人間が目の前に立っていた。結衣は、「久し振りね。」と無感情のまま言った。彼女は、少女から女性になっていたが、湊がその頑固だが、人を思いやる心で満ち溢れた女性が結衣だと判るのにほとんど時間は要らなかった。(良かった…)湊は自分の頭をよぎった最悪の事態を回避できたことに安堵した。結衣は、「ここで三人でいても埒が明かないわ。父さん、少し出てきていい?」「お前、大丈夫か?」「大丈夫よ。あたしはいつかこういう日が来るかも知れないと、頭の隅で何となく思っていたわ。そういう人よ、この人は。」その言葉に、湊は昔と違う距離を感じずにはいられなかった。結衣が先に玄関を開けて、外へ出た。(4月も終わりに近づいているのに、今年は寒いな)結衣は思っていた。二人は、何となく、お城から、神道様のほうに向かって歩いていた。「結衣、俺は…。」「やめて!」「えっ?」「あんたと連絡が取れなくなって、それでも、発表の日、二人とも合格していることがわかった時、無駄だと思ったけど、LINE打ったの。『既読』ついたから読んだよね。」「ああ。」「それまで、個別試験が終わってから、ずっと繋がらなかったLINEが、あの一本だけ、『既読』になったの。あたしは繋がったと思って、すぐにLINEを返したけれど、『既読』はつかなかったわ。だから、今度は、電話を架けようとした。でも、貴方に電話を架けたら、『ただ今、電話に出られません。』という機械音が何度も返ってきたから、余計あたしは混乱したわ。何故、『既読』なんかしたの?あたしは、まるで天から一筋の光が差すみたいに望みを持ったわ。何で望みを持たせたのよ!でも、それから、あたしのスマホはコトリとも鳴らなかったし光らなかった。あたしには、何が起きているのか分からず、心が壊れていったわ。」父さんは、ずっと、あたしを見ていたから、とても心配して、何度もドアのところに来てた。仕方ないから、ドアを開けて、父さんには、事情を話した。「父さんは最初驚いていたが、わかってくれたわ。父さんはね、母さんを亡くしてから、自分のことなんかより、常にあたしのことを一番に考えてくれた。だから、さっきも貴方にあんなきつい言葉、浴びせたんだと思う。ごめんなさいね、悪気はないのよ。」と結衣は小さく頭を下げた。「当たり前だよ。オレのしたことを考えたら、誰だってそうすると思う。」その言葉に結衣が反応した。「だったら、何故…何故一言話してくれなかったの?あたしって、あなたにとってそんなもの?」今まで我慢に我慢を重ねた言葉が堰を切ったように、結衣の口から溢れた。この言葉に、湊は弁解が出来なかった。結衣の言うとおりだと思った。みんなには言えなくても、せめて結衣には話すべきだったと。ただあの時の湊には、大好きだった故郷や結衣のことを置いて、捨てて、東京へ家族で行くことを選んだ後ろめたさの方が大きく、全てを断ち切ることしか頭には浮かばなかった。アリオの脇から出たバスに乗り、市内を通りながら高速に向かうバスの中で、湊は、LINEから結衣の名前を消した『生意気なやつ』。俺は個々のすべてを捨てた卑怯者だ。このことは、生涯、俺の喉に刺さったまま取れることはないだろうと…。
     それから、結衣に『聞きたくなければ聞かなくてもいい』と言いながら、東京に出て私立の医大に行って、医者になろうとしていた時に、父親が慣れない仕事で苦労をして、成績を上げるため、地面師に騙され、独断で会社の土地を売ってしまったこと、それが元で、家族がほとんどバラバラになったことを話した。結衣は湊の父親のことは新聞などで薄々知っていたので、さして驚きもしなかった。ただ、そんな結果になったことで、湊が故郷や自分まで捨てて、東京に行った決心が水泡に帰したことは、心を揺すった。さっきの結衣の『なぜ自分には話してくれなかったの』という言葉の解が見つからない湊は下を向いていた。いつしか、二人は大名町通りまで来ていた。通りの景色を見ていた結衣が、「貴方、神道様にお礼参りした?」と聞いた。「いや、だって、信大にも行かなかったし、多くの人に迷惑かけたし…。」「でも、医者になって、ここに戻ってきたんでしょ!戻ってきたのに挨拶なしだと神道様のバチが当たるわよ。」と言いながら、湊を神道様に促した。境内は夜ということもあり、ほとんど、人影もない。「チャンとお参りしないと、あたしが、今、あるのは神道様のお陰、間違いないわ。あんたもこれからのことがあるでしょ。」湊は、手を合わせながら、今までの不実を詫びながら、これからのことをお願いした。「さてと、寒いし、帰ろうか?」結衣が言った。湊は拍子抜けがした。これから、色々、結衣に詫びながら話すつもりでいたからである。(もう、俺のことなんかどうでもいいんだろうな)湊は瞬間、そう思った。開智学校の跡地の碑がある大手橋のところに戻ってきた。結衣は女鳥羽川を眺めている。最初の出会いと一緒である。ただ二人の距離も立ち位置も違うと湊は思っていた。「あっ、花筏!」結衣が叫んだ。確かに大きくはないが、女鳥羽川を花筏が流れている。「花筏って、前は、結局、花びらがその時だけ、一緒になって遠くまで流れていく中で、結局、バラバラになってしまうから、ほんとに一瞬の姿なんだと思うわ。綺麗だけどその時だけ、筏のままで、ずっとはいないわ。」結衣の頬に一筋の涙が月の光に照らされているのがわかった。「あたしね、去年、信大の医学部卒業したんだよ。」「えっ、文系だったんじゃ…。」「そうだよ。でも、誰かさんが、受かっていながら逃げちゃったし、父さんも若くないから、この土地で暮らしていくには何かしなきゃと思って…文系の人が理系の勉強に切り替えるって大変なんだよ。同じ大学でも途中から編入出来ないし、最初からやり直し。でも、誰かを見返してやるっていうエネルギーをくれたから。」と言って、湊を見た。その目には強い意志が映っていた。「あたし、産科目指してるの。松本だけではないけれど、松本は産科閉じたところもあって、安心して妊婦さんが産める状況ではないわ。父さんも歳取っていくし、うちのクリニック、駐車場広いでしょ?あそこに、あたしが一人前になったら産科が出来るようにするの。」高校三年生でも、漠然とした夢しかなかった結衣がしっかりとした将来の設計図を持っている。湊は圧倒されていた。そんな湊に向かい、結衣は涙が溢れそうな目を向けて、「あたしもバカね。きっと、湊は帰ってくるって信じて、十年待ったわ。貴方は、私の心を初めて震えさせた人。何があっても、信じたかったもの。でも、会ったらそんな気持ちどうでもよくなっちゃった。湊は湊の道を進んで、あたしはあたしの道を進むから。」続けて「雲外蒼天って知ってる。あたし、国文だから……努力して困難や試練を乗り越えたら、必ず素晴らしい未来や、明るい未来が待っているって意味。私にぴったりかもね。」結衣からの決別であった。或る程度の覚悟はしていたものの、自分のしたことの重さを再度噛み締めながら、湊はただ頷くしかなかった。更に「あたし、最初にあんたに声かけられたときに何て言ったか憶えてる?」湊は思い出せなかった。「『また、いつか会うことがあったらね』、そう言ったんだよ。まさか、そのとおりになるとわね、」結衣は笑った。そして、突然「これから、同じ建物にいるのね、三人。」「三人?」「弥生は今、付属病院で理学療法士しているわ、誰とでも仲良くできるから人気者よ。色んなことは、時間が解決するのよ、きっと。あっ、それから、あたしは研修医で忙しいから、会っても、無闇に声かけないでね。」そう言うと、結衣は又、歩き始めた。湊はその後ろ姿を見送るしかなかった。
    さっき見た花筏は、もう少し先でバラバラになるのだろうか、女鳥羽川を流れていた。
    【完】






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