
あらすじ
貸しボート屋で暮らす「僕」は、夜毎に空を移動する天国から放たれる矢に刺され動けなくなる。矢はかつて天国で神だったエヴェス・サムを執拗に追うカボチャ男の愛の化身だった。
天国でサムは釣り糸を垂らし、カボチャ男の蛆を餌に人々を地上へ釣り上げていた。カボチャ男はサムに一方的な愛を捧げ続けるが、サムは耐えかねて地上へ逃げる。以来、天国はサムを追い、矢を降らせる。
僕は出会った彼女と共に、シンドラーエレベーターの謎を追いながら、自身や友人たちの真実が明らかにしていく。愛の狂気、喪失、再生を描いた、幻想的で詩的な物語なのかどうなのか。
1
凄まじい数の矢が世界に向けて射放たれていた。カストラートの高音を響かせて人々を凍りつかせる飛来物。僕はその内の何本かに刺された為に動けない。同じようにここに磔られた人々は十二時の鐘に呼ばれて眠りについた。日が昇るまでは眼を覚まさない。寝返りをうつこともできない背骨は軋んでいるだろう。どうして僕だけが眺めていなけりゃいけないのか。その矢が射し示したがった本当の獲物。サムは遠くへ行ってしまったのに。もう戻って来やしないだろうに。
サムは神様だった。人々はみな天国にいた彼に棄てられた魚でしかなかった。今夜は満月。まるで天国が並んでいるように白く丸い。静まる月から離れるように。天国は無数の痛みを地面に残す。この世界さら磔た矢は鏃を埋めて見送るのみだ。去勢された愛の叫びはどこへも帰れまい。憎しみよりも哀れに思う。矢はカボチャの放った天使達であり。僕と同じく犠牲者なのだ。盲滅法に望みを果たさんとするカボチャの我侭。彼の愛もまた静止を強要されている。夜明け前にどんな許しも与えられないが。まあしかし天使等には償うべき罪が多過ぎる。
彼等は太陽の熱に溶けて滴る。限りなく冷たい雨に似ている。恐らく救いの時が来れば人々は目を覚ます。僕等はおはようの挨拶を交わす。だが誰も覚えていないあの熱狂した装飾音は僕のものだ。地面に水溜りができている。僕は人々がそこから掬って飲む水が神の矢であり天使であったと教えない。復讐なのかもしれない。まだその時は来ていないのだ。口を半開いた阿呆面を蹴り上げたくても僕はまだ動けないのだ。
天国は逃がした獲物を追って中空を移動している。固定された僕の顎の向こうに空を這う平盆が見える。光線が幾筋か射している。それが降り注ぐ方角に獲物はいる。耳を塞いで凍てつく前に矢を避けて。しかしカボチャは狩りを諦めない。サムはもう神ではないのだ。
この世界で神は悪戯に愛を降らせる。片恋の神は執拗にサムを追い回し。今夜の僕はそのとばっちりを受けているに過ぎない。彼はいつまでも逃れ続ける。何しろかつては神様だった男なのだ。まるで足裏でジェットエンジンが火を吹いている。天国よりも遼に速い。
2
いくつかのことを僕は知っている。いつからかサムは天国にいた。いつからか。それは僕には解らない。シンドラーエレベーターから来た僕にも解らないことは山とある。ただ知っていることも少なからずあり。例えば天国がどのようなものか。
そう。天国はつるりと平らで真白く削られ真円に切り取られていて。円筒状の壁面に螺旋階段を這わせた建物を乗せている。階段を昇ると扉があって入ると丸い部屋が一つだけ。その屋根裏のような部屋の床下は天国を支える螺旋滑り台へ通じている。
部屋には大きな籐編みのバスケットとゴミ箱があり。バスケットにはごちゃごちゃとやくたいもない物が詰められて。ゴミ箱は底が抜けていて何かを放ると床下まで落ちて滑り台を落ちる。西向きの窓に張られた白いカーテンは黄昏のサムを真っ赤に染めて。彼はその光の中で眠るのが好きだった。そう。例えばそういった事柄を僕は知っている。
バスケットの中には色々なものがごっちゃになっていて何が出てくるかわからなかった。無作為に手を突っ込むとある時はゼンマイ仕掛けのロボットが飛び出したり。ある時はぬいぐるみの犬が指を噛んで離さなかったり。ある時は十二連発のゴム鉄砲がすんなり握られていたりもした。
その都度サムを喜ばせるゆかしく楽しいものがバスケットから現れ。彼が飽きるとそれらは部屋の片隅にほっぽらかされた。長い時間をかけてサムはそれらで遊び尽くした。バスケットにはもう何も入っていないようだった。動揺したサムは部屋中を走り回った。足が躓いてバスケットがひっくり返った。中からは透明な長い糸と鋭い針が転がり出てきた。
建物の扉が開かれて冷たい風が頬を触った。サムは針と糸を頭の触覚に結び螺旋階段を不器用に降りた。白く平らな足元の天国に足を滑らせて彼は転んだ。何だかとても愉快だった。淵まで行って下を眺めるとレンゲジーケの緑がかった反射の粒が見えサムはやり方を理解した。建物の中では得られなかった解放を彼は放った。レンゲジーケに長く長く。
常永久に向けて編まれた釣り糸を光線のように射して。彼は天国に腰を下ろした。頭の触覚と両足を空に投げ出しているとサムはシンドラーエレベーターのようなものを思い出せるような気持ちがした。ぽとりと針が水面にあたった音が聞こえるような気持ちがした。
そうして始めに釣り上げられたものがカボチャ男だった。腐りかけのカボチャの蔓が針に絡んで大きなカボチャがぶら下がった。彼はごとりと重く黄色いカボチャを建物へ運んだ。その日の釣果はそれだけだった。当惑した西日に彼はカボチャと共に赤くなった。もはや眠たい彼はカボチャをゴミ箱に放り込み正座してまどろみに船を漕いだ。蔓の先端が頭の触覚に掛かっていたことは忘れられていた。
穴から滑り台へ転がったカボチャは半ば辺りでぽこりと割れて中身がとろりと流れ出て。それがカボチャ男の始まりだ。割れ目は半月に唇を思わせ身はそのまま両手両足となった。何かが足りないと気付いたカボチャは滑りながら固まりきらない二本の指で空っぽの頭に両目を穿つと。蔓がサムの頭をかくんと引いてカボチャは滑り台で静止した。サムはカボチャを引き上げた。
それからというものカボチャ男は一瞬もサムの周りを離れなかった。サムは朝から天国の端に腰を下ろして糸を垂らす。針にカボチャは二度と掛からず彼の触覚を引くものは何も無かった。しかしサムの青い眼はレンゲジーケに注がれるだけで。たまに無関心に遥か地平を眺めやる。僕はそれが何故なのか知っている。僕もまたサムと同じく青い瞳で天国を仰ぎ見させられている。カボチャを真似してにこやかに唇を歪めるまでもない。
3
ある宵。サムは夢を見た。
4
ウクレレを鳴らしている長身の女は麦藁帽子を被っていて。緑色の縦線が顔に描いてある。地肌が酷く黒いためにまるでスイカを思わせた。いや。彼女はスイカだったと言っていた。身体は吊り下げられているかのように張りつめていたが。彼女を吊る糸はどうやら肩から結ばれているらしく。顔だけは真丸に膨れ上がっていた。岸壁に足を組んで座っている彼女の尻はぺたりと横に広がって柔らかだった。どうやら歌っているらしかったが歌詞は聞こえない。海へ行こうぜ。果てしない海へ。と。がなっていたのかもしれないが憶測に過ぎない。和音を押さえる左手は紅に爪を染めて。血なのか塗料なのか。どちらにせよ異様な速さで弦を弾く右手に比べて余りにも悠長に思えた。岸壁に泡を撒く白波の乳汁のような粘着が足を掴むと彼女はまにまに沈んでしまった。水面はやはり乳の濁りを広げていたが気泡のどれかは彼女の口から吹かれたものに違いない。海へ行こうぜ。果てしない海へ。と。ぽこぽこ呟かれた白鳥の歌に違いない。
5
正座して眠るサムの膝の上にカボチャ男のカボチャ頭が乗っていた。気が付いたサムは立ち上がりカボチャを建物から叩き出した。階段を転げ落ちていくカボチャ頭の旋毛あたりにぽこり小さな穴が空いたが悲鳴もあげられない。カボチャは階段下に夜露を避けて空っぽの頭で考えようとした。何をどうしたらいいだろうかと。両目として開けられた二つの穴を露が湿らせ雫を落した。立ち上がりよく滑る白い床をぺたぺた歩いて彼は天に充たされた星星に語りかけた。割れ目から吐き出された風は湿っていたが凛と冷たくどんな種類の匂いも無かった。傾げるべき問いも無くカボチャ男は俯いて腰を落した。腐った尻が柔らかく天国にはりついた。
ふいに星が流れた。一つ。また一つと。カボチャ男に開けられた旋毛の穴に星が吸い込まれていくようだった。痘痕にも似た星星が消えると天国のように白く丸い満月だけが残された。カボチャを真っ二つに切ってしまうだろう程に端が鋭く砥がれている。眼球も埋められない眼窩に眩しく道が見えた。月世界へ向う光が天国に跳ねている。エヴェス・サムの休む建物の上で月はカボチャを臨んでいた。とろりとした身体を包む緑色のローブがふわりと舞って彼は階段まで戻り考えた。何をどうすればいいだろうか。
旋毛から一匹の蛆が這い出した。腐っている。カボチャ男は腐っていた。腐った身を包んでいた皮もまた腐っていたのだ。どうしようもない。彼は激しく頭を振った。内側に無数の虫が張り付いている。星とは蝿の卵だったのだ。知らなかった。とカボチャは言った。声が階段下に反響した。蛆が三匹這い出した。しかしカボチャ男にとってはどうでもよかった。サムのために何かを捧げたかっただけだ。どうしよう。とカボチャは言った。声はカボチャ頭にも反響した。蛆が五匹這い出した。天国は東雲を切り開いて。エヴェス・サムが扉から現れた。階段を降りる足音がする。カボチャは蹲って隠れたがサムは彼に挨拶をした。おはようと。
サムは当惑するカボチャを連れて天国の端に腰を下ろした。彼は虫をカボチャから受け取った。針に刺して釣り糸をレンゲジーケに垂らした。カボチャはようやく合点がいった。何をどうしたらいいのか。彼は魚の餌として天国にあるのだ。それをエヴェス・サムは知っていたのだ。彼はそれを教えたかったのだ。そうカボチャ男は思った。僕はそれが違うことも知っている。サムは何も知らなかったしこれからも知ることは無い。カボチャがパンプキンな頭から蛆を湧かしたようにサムもまたエヴェスな考えのままに針に餌をつけてみただけだった。そうしてサムは魚を釣り上げることができるようになり世界に人がありふれたのだった。
6
日が昇り窓から光が差し込んだ。仰向けになって跳ね起きると僕はお湯を沸かした。すこし精神の穂先がさばだっている。机に置いた小さな箱に程の良い日差しがカーテンの隙間から伸びている。寄木細工の珍奇な模様。薄い茶色と濃い茶色。中にはチョコレイト色のタバコが整って並んでいる。取り上げて吸い口を切った。じゃきんと薬指がむず痒くなる。タバコから血は流れない。火をつければ煙は流れる。その香りからは幾多の面影も流れ出る。例えば。そう。例えば何だろう。
と。ヤカンが澄んだ金属音を鳴らした。茶色の顆粒にお湯を注ぐと黒い飲み物ができている。それはある種の眠気に似ている。というより世界にある種の眠気が蔓延している。人々は僕を眠らすある種の眠気を抱えながら生きて起きている。彼等は眠るべきだ。磔になった夜にどんな夢が見られるだろう。ある種の眠りを解消しなければいけない。一晩中彼等を眺めていた僕は教えてあげるべきなのかもしれない。そうしないと血液はこの黒い液体のような味になる。
この薄暗く僕を囲んでいる倦怠が疲労と太陽とを防いでくれている。タバコ箱はそれらの光に暖かく匂いを保たせる。灯された煙が部屋を二次的に明るくして。そう例えればそれは潮の香りを思わせる。砂で築いた城にトンネルを掘った指先の湿り気に似ていると思う。唇に寄せた液体は無味なわりに焼け付くほど熱い。タバコはとても良い風合いで乾燥していて舐めるとほんのり猫の味がする。ざらりと猫の舌先の味がする。人の舌ではない。猫かタオル地かどちらかだ。なぜなら人は他人と舌を触れ合う時にかつりとした歯に傷つけられる。そんな恐れを抱いているから。吐息が肺の奥底から濁った空気をさらえる程の口付けは。地上にあまりありふれていない。
そうだ。愛について語ろう。カボチャ男がサムに捧げた愛について。もしくは僕が誰かに捧げたり捧げられたりした愛について。
ーとんとんとん。
ーいらっしゃい。
ーボートを貸して下さいな。
ー一時間でよろしいですか。
ーはい。
と。彼等は代金を差し出した。黙って乗ってもばれやしないのに。律儀な男女の二人連れはレンゲジーケに船を漕ぐ。僕はレンゲジーケの貸しボート屋だって言ったっけ。何を考えていたんだっけ。まあいい。
僕はこの小屋で独り暮らしをしている。タバコ色にねめった壁はそれぞれが曲がり具合を主張する板材に隙間風を呼んで涼しい。人々は魚の頃を偲んでかよく来る。飽きもせずにアヒルや亀の形をしたボートを足で漕ぐ。壁の隙間から覗くと二人連れはボートの上で色々なことをしている。臨時休業の札を出していなかった僕も悪いが本日の営業は終了しましたの札は彼等に見えなかったのかしら。律儀というより傲慢な二人を取り巻く何かもまた愛だ。世界はあらゆる愛で満たされている。愛を降り注ぐカボチャ男の功績だろう。油断すると僕もまた何かを愛してしまっている。
レンゲジーケ。ここから人々は天国に釣り上げられた。いまだ池の中には魚達がうようよしているに違いないけれど。人々はもうすでに繁殖を始めたし釣り上げるエヴェス・サムも天国にいなくなったのだからどうしようもない。魚は魚と触れ合って鱗でもカタカタ鳴らしているしかないだろう。
とんとんと扉が鳴って。埃舞う停滞した長方形を押し開いて風が吹いた。黒長い髪をささらに流して渦巻く潮流を身に纏う。女がそこに立っていた。
ーおはよう。
から絡まる空色の挨拶は擦られていないマッチの軸のように凛としている。吊り下げられて重みをかけられない踵。それ程に彼女の脹脛は細く張りつめている。紙鑢で丁寧に細工された右拳が叩くには荒すぎる扉。ささくれてチョコレイト色に浸された額縁の向こうに彼女はいた。
ーおはよう。
それは地平に隠れた太陽の光に寝ぼける鈴虫の泣き声だ。りりりりりと転がる木製の積み木と彼女とは材質が似ている。愚かしくも美しい古代魚の鱗を思わせる。それは後ろ向きに泳ぐための鰭を持っているらしい。彼女は固い靴底で床を歩いて僕の傍で問い掛けた。
ー聞きたいことがあるんだけど。
ー何。
ーここに黄色いボートがなかったかしら。
ーいまはもうないんだ。
ーどこにあるの。
ーシンドラーエレベータの向こう側さ。
ー何それ。
ー聞きたいかい。
ーうん。
ーじゃあ座って。そして寛いで。
ーはい。
と。僕は彼女を揺り椅子に座らせた。不可思議な黒い汁をカップに注いで手渡すと彼女は少し嫌な顔をした。魚の習性が残っているのだ。この世界に澱んだ水を好む人々はいない。僕の他は誰もこのある種の眠気に似た飲み物を必要としていない。
ーで。君はどう思う。
ーシンドラーエレベーターはエレベーターだと思う。
ーそれは正しい。
ー違う階層へ行く為の乗り物だと思う。
ーどこに行くためのエレベーターだと思うかね。
ー天国へ行くためだと思う。
ー少し違う。
僕は彼女のカップを指さした。飲みたまえと促したつもりの仕草を無視して彼女は椅子を揺らしている。てこの原理を応用した非常に理屈っぽい理屈だ。
ー上手に揺らすね。
ーどこへ行く為のエレベーターなの。
ー飲まないのかい。
ーいらない。
ーシンドラーエレベーターから来た飲み物だぜ。
彼女は鼻先を近づけて顔を顰めた。
ーコーヒーみたいな匂い。
ーコーヒーだもの。
ー嘘。
ーそう。嘘だ。それはインスタントコーヒーと呼ばれているよ。
ーコーヒーなの。
ーいいや。君と僕との違いほどにかけ離れたものさ。
ーあたしとあなたとどこが違うの。
ーそれもやっぱり説明はできない。
と僕は黒汁を啜る。人が魚だったことや僕が魚でなかった証明はどうもできそうにない。
ー天国についての話じゃいけないかな。
ーそれでもいいわ。
話の続きを彼女に語ろう。棚から濃い緋色の厚いグラスと錆び色のトリスウィツキーの壜を手元に下ろした。背の高い木製の小テイブルにこざっぱりと並んだ品々。小箱とグラスとトリスウィツキー。黒い液体の入ったマグカップは灰皿として取手に吸い差しを立てかけられる。椅子の女は揺れている。髪もまた霧雨のように揺れている。丁度僕の座る寝床から窓越しに天国が見えている。須く万全だ。始めよう。
7
天国にはね。エヴェス・サムとカボチャ男が住んでいた。丸い天国の端からサムは釣り糸をレンゲジーケに垂らして魚を釣るんだ。カボチャ男の頭に涌いた蛆虫を餌にして。幾匹も幾匹も釣り上げたものさ。日がな一日そうして釣りをするエヴェス・サムの隣でカボチャ男は陶然としていた。カボチャはサムを愛していたからね。サムは浮きが沈む瞬間を見逃さないようにじっと視線をレンゲジーケに止めていたが。カボチャは何を見逃すまいとしたのかサムの目をずっと覗き込んでいたよ。気持ちが悪いね。サムもきっとそう思っていたよ。
釣り上げた魚は魚篭に入れられてサムの食事になったけれど。あんまりよく釣れたものだからいつも幾匹かはゴミ箱に棄てられた。サムは日の暮れに住処へ帰って魚を食べたんだ。カボチャはその建物に入れなかった。一度ね。サムの機嫌を損ねてからはずっと。カボチャ男はサムの住処に寄り添うように横になって眠った。朝がくればサムはまた扉を開けてでてくるから。その時すぐに蛆虫を捧げられるようにって。彼は愛を捧げたかったんだけどね。それがサムを苛立たせた原因だったから。誰だって腐ったカボチャに慕われたら嫌になる。何よりサムに愛は必要でなかった。
サムは時々レンゲジーケから眼を上げる。すると彼にはシンドラーエレベーターが見えた。彼はシンドラーエレベーターから来た。カボチャ男はそうじゃない。サムが初めて釣り上げたカボチャが彼になったんだ。池に浮かんだ腐ったカボチャ。サムの針に掛からなかったらそのまま溶けて魚の餌さ。釣り上げられて人になっても魚の餌には違いないけど。それがカボチャ男の悲劇なのかもしれない。シンドラーエレベーターから来たサムを幾ら愛しても。魚の餌は魚の餌で。サムの青い瞳の中へは入れない。濁ったレンゲジーケに飛び込むくらいが関の山だったろうよ。
それでもカボチャ男は絶望もせずに彼を愛し蛆虫を捧げた。僕はそれが美しい感情だったと思う。でもやっぱりカボチャが蛆虫を捧げてどうなるものでもないでしょう。ただサムはカボチャに優しかった。天国はあんまり白くて一人でいると吸い込まれそうになる。だからカボチャ男でもいないよりはよかった。サムは愛されるままに彼を放っておいた。サムにできるそれが精一杯さ。もし天国がもう少し居心地のいい色をしていたとしたら彼はカボチャを地上に突き落としていたかもしれないね。そうでないとしても滑り台から滑り落していたのは間違いない。
そうだ。君は知ってたかな。ここから少し林の方に入っていくと小高い丘のようなところにでてね。螺旋滑り台の残骸が今でもあるんだよ。その頃の天国はその滑り台で地上と繋がっていたんだ。今みたくふらふら浮かび泳いでなかったのさ。その影をじっとレンゲジーケの上に落していて。水面はトリスのように重くてらてらとしていて。サムの垂らす釣り糸が振り下ろす切っ先の閃きのようにそこに差していてね。綺麗だった。君にも見せたかった。日が傾げると明るく飛び上がった小波が少しずつ広がって。やがて尚暗い夜に沈むまでこのグラスと同じに色々な夢想を与えてくれたものさ。
ところで。どうかね。これから少し散歩をしないか。崩壊した螺旋滑り台を見に行こう。忘れずに臨時休業の札を出して。きっと君も気に入るに違いない。芽吹いて青い芝を踏み駈けていこう。強く反り返った樹の皮を掴んで跳ね登ろう。顎下に潮を滴らせて鎖骨の窪みに溜め零そう。煩わしい蔦を抜ければ爽快な原が上天気にぽっかり抜けている。そこに滑り台がとても静かだ。崩壊時に立てた轟音に凍えた氷山のように滞っている。浮かんでいるとすら言っていい。この空間を超えてシンドラーエレベーターの向こう側。虚空のまにまに浮かんでいる。そこにはインスタントコーヒーのインスタント部分だけがある。滑らせない螺旋滑り台が喧しさも無く崩れ畳まれ。もはや天国から降臨する神もいない。どうだね。行ってみないかね。
8
ー話を続けて。
9
ーはい。
10
天国はね。つまりはそういった所だったんだけどね。今ではカボチャ男が神様として天国を乗り回している。どうしてか。それはエヴェス・サムが天国を降りてしまったからだ。螺旋滑り台が最後に滑らせたものがサムだった。彼が地上に齎されて天国は移動を始めた。弾性に恃んで軋んだ滑り台は天国までも弾き飛ばして。自ずからへたり込んだ。背中でその崩壊を聞いたエヴェス・サムは振り返りもせずに走り去った。頭に触覚は無くなりまるで魚のように人になっていた。すべて世界はその階層に合った姿を与えるものでね。誰が何であろうと構わないらしい。地上に降りれば恐らく殆んどのものが人になる。
サムの釣り上げた魚は陳べ五万匹を超えている。それぞれ。侭に繁殖しもうどれだけになったのか。僕にはいまいち計りかねるけど。このレンゲジーケを中心に彼等は幾つかの集落を成し生活しているらしい。しかし僕には関わりの余りないものについてはもはや興味も持っていない。僕に関わる人々もやはり魚に過ぎないのだし。それでも僕の知るべき少な目の世界は充分な大きさを保証してくれているのだから。何の文句も言う筋合いは無いのだね。エヴェスの釣り上げた魚達の世界。サムが釣りを続けたならもっともっと世界は膨張していたのかもしれない。
しかし。カボチャは蛆虫を捧げるだけの生活に飽きがきた。それに蛆虫は捧げても捧げても溢れかえって無くならない。過剰な餌の供給を防止して彼は蛆虫で愛を形作った。正確には単純にハートマークさ。所謂ね。心臓の形の蛆虫団子をカボチャ頭のカボチャ男はサムに捧げた。どうしろってんだろね。しかも少し精妙な技で大静脈やら何やらまで正確に。どうやったのかな。まるで陶器でできているような硬さだった。真白で天国みたいに綺麗だった。でも蛆虫団子には違いない。
サムは唯一の持ち物であるバスケットにそれを入れて釣り糸を使って硬く縛り上げた。二度と開くことがないように。シンドラーエレベーターを知らないものにはサムの結び目を解くことはできない。寧ろもう誰にも無理かもしれない。特殊な結び方なんだ。虚空に二回。糸を通さないといけない。僕はもうやり方を忘れてしまったしサムも覚えているかどうか。やっぱり誰にも無理だろうね。バスケットは二度と開かれることはないだろう。カボチャの愛は永遠に保存され静かに脈打ち続けるだろう。
とにかく。サムはカボチャ男が怖くなった。このままではカボチャに食われるとさえ思った。彼はまがいなりにも神様だったからカボチャを天国から追放するより自身を地上に齎したいと考えた。少し飽きていたんだよ。釣りをしながら日が暮れるのを待っている。死を待つ老人の日常に嫌気がさしてたんだ。そしてカボチャ男に別れを告げた。君が僕を愛するのなら僕はもうここにはいられないってね。カボチャは泣きながら後悔した。もうしませんから。許して。許して。涙もまた蛆虫だったためにサムはゴミ箱に飛び込んだ。彼が遊んだ玩具達やバスケットも一緒に。
それまでのサムが持っていた姿と地上に降りた姿で共通するものは青い眼だけだ。二つに増えたけどね。カボチャ男も人のような姿を天国でしていたけど。地上に降りたらきっともっと人になったんだろう。神様気取りで天国を好き勝手操って遊んでいるけど。シンドラーエレベーターなんか知りもしない彼に似合いの格好さ。君はカボチャ男を神様なんて呼びたくないだろう。僕もさ。だからエヴェス・サムも彼から逃げたんだ。神様としてカボチャに愛されるなんて真っ平だったんだ。それまで黙って愛されていたサムを追い詰めたカボチャが悪い。
それから先は君も知ってのこと。夜毎に天国はサムを探して彷徨い矢を放つ。しかしサムは避け続けている。いつまでも終わらない鬼ごっこさ。カボチャが早く諦めてくれるといいんだけどね。もうサムに帰る気はないんだから。
11
ーシンドラーエレベーター。
12
ーで。
簡単に言えば。天国へ行くにはシンドラーエレベーターに乗ればいい。
天国がどこを飛んでいても必ずサムの住処の扉に繋がる。
ーサムは何処からシンドラーエレベーターに乗ったの。
ーそれが君に告げられたらいいのにね。
ーへえ。
彼女はつまらなそうな顔をする。その顔を見ると何故か僕は泣きたくなる。どうして。と幾ら疑問を傾げても答えは聞こえてこない。頬が膨らむ。彼女の細々とした人差し指に貫かれたら蛆虫に似た愛がとろりと流れることだろう。赤く塗られた爪先の鋭さは虚空すら切り裂く。彼女もまた青い瞳で世界の余白を見ているのだろうか。もしかしたら。いいやきっとそんなことはありえない。彼女もやっぱり魚の筈だ。
13
僕が貸しボート屋を始めた時。僕が持っていたボートは品の良い黄色で塗られた一艘だけだった。今ではアヒルや亀や下手をするとパンダなんかも揃えようとも思っているけれど。あの頃はその一艘だけが僕のボートだった。彼女はそのボートを探してここに来たらしい。品の良い黄色はとても珍しい。僕は花の王国でそれを与えられた。そこは砂漠の真中にあって半球状の石塀に囲まれている。オアシスを砂から守っているのだと花の王様は教えてくれた。塀は幸いにも天国からの矢も防いでいた。
ーお前がここに来てからというもの夜雨が耐えない。
と。いぶかしむ王様に僕はカボチャ男の話をした。
ーなる程。外では不思議なことがおきる。
ーここは平気のようですね。
ー花の王国は既に時空を超えている。ここは蕾の王国である。
ーええ。
ー咲かずにしかし美しく香る雌蕊を花弁が守っている。そして見るがいい。守られて咲く十二人の花の王子の麗しさを。
ー王様はカボチャ男をどう思いますか。
ー天国が何なのかは知らん。しかしそのカボチャにも花は咲いたのだろう。王としてその愛を認めたい。
ーしかしサムは嫌がっているのです。
ー蛆虫をかね。カボチャをかね。
ーその両方です。
ー蝿もまた花香に集る我々の友だ。
ーええ。
ーしかし私はお前にできる限りのことをしてやらなければならない。この王国にいる花の王子はすべてお前に忠誠を誓うだろう。
ー何故ですか。
ーお前はそれを知っている。そしてそれがまだ語られるべきでないことも。
ーそれは。
ー知らされていないということでもある。お前自身の言葉で語られた時。もしかしたらこの王国は花弁を開いて滅びるだろうかもしれない。
ーはい。
ーその時にこそカボチャ男の想いは果たされ天国は静止し。王子達が咲かせた花束をお前は抱えて墓参りにでも行くがいい。エヴェス・サムの死がそこにある。
王様は召使を呼んでペンキ缶を持ってこさせた。
ーこれは菊の王子を絞ったものだ。ボートを黄色く塗りなさい。
ーありがとうございます。王様。
ー止めたまえ。お前に感謝される謂れは無い。
今ではそのボートはもう沈んでいる。
ーどうして君は僕の所にやってきたの。
ー黄色いものが好きだから。
彼女は揺れながら壁に架けられた写真を見ている。そこには体格の良い男と肩を組んでいる僕が写っている。
そいつは僕が地上に降りて貸しボート屋を始めるにあたって非常な協力をしてくれた奴だ。彼の紹介が無ければ花の王様にも会えなかった。ふらともせずに太いヒノキを肩に担いで。腰に大きな袋を下げて彼は東方より歩き来た。どこか見覚えがあるその唇には髭が大雑把に揃えられていて。髪が角のように強張って仰いでいた。
ーよう。
ーと。搾り出されて枯れた顎が上下した。
ーおはよう。
ー他人行儀な挨拶だな。相棒。
丸い拳骨で肩を叩かれ。痛いな。と僕は顰めた眉で返事を返す。
ー俺を忘れたのかよ。おい。
がらんごろんと地面に叩きつけられた木材を蹴って彼はにやりとした。
ーまあいい。使えよ。虚空に浮かぶ月色のボートを作れば良い。お前の。それが望みなんだよ。
そう。僕はある宵のカボチャ男と同じく途方に暮れて立っていた。
ー何だ。腑抜けた面あしやがって。ちょっと待ってろ。
その素晴らしい仕業で建てられたこの小屋に僕は今も暮らしている。彼は日が高い頃に現れて地平に落ちる前に仕事を終えた。
ーさあ。住めよ。
ーありがとう。
ーよせよせ。お前に感謝の言葉は似合わない。それよりもどうだ。
彼は腰袋からウィツキーを取り出して掲げた。
ー俺に祝杯をあげさせてくれ。遂にお前と話ができるようになったんだ。
ー誰だったっけ。君は。
ーははん。忘れたんならそれもいい。
髭面の男は思案気な振りをして。
ーそう。俺のことはポチとでも呼んでくれ。
ー犬なのか。
ーいや俺は荒野を流離う一匹狼だ。今もまた婦女子に悪さする悪漢をこてんぱんに伸してきたところさ。
ー見栄を張るなよ。
ーそう。お前にはそれが解るんだ。俺の名前もいつかは思い出す。
建てられたばかりの小屋にも隙間風は吹いて。板壁はそれでも今よりは白かった。
ーいつかこの小屋に美しい女が現われる。それまでお前はここで貸しボート屋を開いていないけりゃいけない。
ーレンゲジーケに客は来るのかな。
ーさあな。それでもお前は待たなけりゃならない。この池は何もかもを飲み込む虚空のようなものだ。そこを尋ねる女もまあ似たようなもんだ。
ー?。
ーここから幾千里か東へ向うと俺の友達が住んでいる。ボートに塗るべきペンキはそいつがくれる。
ー?。
ー工夫を凝らして努力を続けろよ。怠ればいざという時に体が動かない。
ー?。
ー地に足をつけて生きるってことはそういうことなんだよ。
のべつまく無しにウィツキーを咥えるポチの言う意味は僕にはよく解らなかった。彼女が揺れている揺り椅子はまだ小屋に無く。呆然と立ち竦む僕にはそれが彼の言う努力なのかとも思われた。
ー虚空に浮かんで腐食しないものはない。ただ一つを除いてはな。
ーそれは。
ー俺の友達が教えてくれるだろ。
日が昇る前にポチは帰った。僕は懸命に考えたけれど何のことやらわからなかった。彼が誰なのか。僕が誰なのか。何が起こり始めているのか。それで。僕は花の王国へ旅立った。
14
ポチの友達であるらしい花の王様は明快にはそれを教えてくれなかった。彼は黄色のペンキを与えてくれた。それはボートを腐食から遠ざける。記憶は爛れて毛穴から沁み出す。無言のままに置いてけぼりの彼女は立ち上がり窓に近づいた。
ー何か見えるの。
ー天国が見える。止まってる。
ーあの下に滑り台。天国への階段が崩れているんだ。
ー悲しそう。
ー朝になるといつもあそこに帰ってくるんだ。自分のいた場所を覚えているんだね。
ー可愛そう。
ーどうして。
ー天国はまた滑り台と繋がりたいのよ。でもじっとしているのも嫌なのよ。それにもう二度と滑り台は立ち上がれない。
ーそんなことないさ。
ーどうすればいいの。
ー愛が必要なんだ。
ー愛。
ー僕はバスケットに入れられたカボチャの愛を探しに行くよ。
ーあたしはシンドラーエレベーターを探しにいくわ。
ー旅に出よう。僕はここから東に向う。
ーあたしはここから西へ行く。
ー同じ速さで歩いて行けば同じころには戻ってこられる。
ー何せ地球は丸いから。
ーそう。丸いから。
ー明日の朝には別々の道を。
ーだから今夜は楽しく過ごしましょう。
15
空蝉の涙が鳴いている。緑色の縦筋を溶かしてすすり泣いている女の顎に滴る涙も無い。彼女には許されない。嗚咽は弱者の悲鳴であっても落涙に沈む夕日は無い。ウクレレはそう歌っている。僕は鳴いている。雲雀のように焦がれている。旋律は如何わしく艶かしい。甘い塩水を飲んで彼女は沈んでいく。僕の平たい視線が通り抜けて水平を進む。海へいこうぜ。果てしない海へ。浮腫んだ目蓋に浸透しているのは恐らく流されてしまったもの。そのために枯れてしまった彼女の涙。溺れてこぽこぽしていて僕もまた許されていない。すでに流されてしまったものだから。彼女の眼から僕の涙も流されてしまったものだから。僕も水の中へ流れていこう。高波の滑り台を海中へ。これから竜宮へ向います。君もですか。そうですか。誰ですか。
16
東へ。東へと聞こえている。それは横に眠る彼女の口から聞こえる。遠く悲しい歌声のように。誰かの名前が呼ばれる。きっと僕の名前じゃない。聞き覚えがない。そして見覚えも無いこの場所この人。彼女は誰だろう。髪が黒い肌が白い。美しいけれどウクレレを持たない。僕は雑多なものを失っている。東へ行かなければならないという気がする。しかしここはどこだろう。彼女は誰だろう。東へと呟かれた唇も投げ出されたような乳房も不意に開かれた眼にも覚えが無い。
ーおはよう。
の顔を向られてもわからない。
ーおはよう。
と返してみてもやっぱりわからない。いけない。記憶が足りていない。わりに視界は澄んでいる。窓から日が覗いているからには東はその先にあるのだろう。そこへ行かなくちゃあならない。そう言うと彼女は西へ行くと言った。
ーところで。どうして僕は東へ行くのさ。
ー覚えてないの。
ー君が誰かもわからない。
彼女は軽く肩を上げて白目を剥いた。綺麗な色だと僕は思った。
ー気にしないで行きなさい。
ー君は。
ーあたしは西へ。シンドラーエレベーターを探しに。
ーそれはもしかして僕の名前かしら。
ーあはははは。
ー違うの。
ー忘れたのなら仕方ないわよ。隠しごとがあなたからも隠れたのね。
ー隠していたの。
ーそうよ。あたしはシンドラーエレベーターについて聞きたがったし聞きたかったけど。忘れたんじゃあ仕方ないわ。
ー僕は何を探しに行くんだろう。
唇をアヒルのように尖らせて彼女は首を楽しそうに振った。帯だけが腰に結ばれたままで。まるで踊っているみたいだった。実に楽しそうだと僕は思った。僕も真似した。それ程。楽しくも無かった。
ーでも行くよ。君が西へ行くならまたここで会える。
ー何せ地球は丸いから。
ーそう丸いから。
いつのまにか彼女は柔らかく気持ちが良いだろう生地の服を帯に通した。すると裸の時よりも知っている人だという気がした。
ー帯は解かないの。
ーこの帯は誰にも解けないの。
彼女の声が僕を東へ向わせる。僕の記憶は彼女から始まった。そういう考えはとても僕の気に入る。僕はそういうものであると思う。
ーじゃあね。
と。扉から出て行く彼女の背中は額縁に収められた一枚の切手のようだった。
17
東へ向かう爪先に赤い靴が履かれているので。素晴らしい速さで僕は進んでいる。通り過ぎる風景は眼に止まり記憶の一部に刻み込まれる。とても馴染む。忘れられているものはそう遠いところにあるわけじゃない。不自然に親しみ深い池から離れて林にはいる。太陽の向かう先は僕が置いてきた小屋の方角。振り向かずに行こう。口笛でも吹きつつ。世界には音楽が足りていないのだ。
絡まる蔦などが首筋に煩わしい。手の平を傷つける木々のささくれだ。繁る青葉から転がり落ちる光が涼しいけれど。内燃機関が熱を持ってだれる。すっと滑る汗玉の触り方が厭らしい。くすぐったい。聞こえる口笛は確か何という曲だっただろう。僕の唇から吹かれているのにメロディの辿り途がわからない。聞こえてしまえば歌詞すらもおもいだせるのに。
世界にはきっとそのような音楽が満ちている。巨大なステレオマシーンから見えない音符がばら撒かれている。それに合わせて僕は口笛を吹いているんだろう。だから少し遅れて手に入る。その曲の楽譜に書かれた歌詞もまた少し遅れて手に入る。そう。彼女が服を着ているように。世界も柔らかなヴェールを纏う。その向こう側には悲劇の欠片が混ざっている。少しの猶予を与えてあげるから。裸で僕の前に現れないように。
衣擦れの音が聞こえる。落葉を踏む足音に似ている。頭上で枝葉が触れ合っている音かもしれない。少し濁っている。澄んで磨かれた音が聞きたい。彼女の声が聞きたいと思う。東へ。東へと。口笛はいつしか歌声に変わって。東へ。東へ。海へ行こうぜ。果てしない海へ。と繰り返している。東へ。東へ。丁寧に獣道を踏み分けて傾斜を登る。木々を掴んで体を上げる。単調な作業にふさわしい単調な曲調に合わせて。海へ行こうぜ。果てしない海へ。世界が薄く湿っている。この林を抜けたところにはきっと海がある。近づくとそこはより瞳孔を丸めて。
ーいい天気。
と僕は呟いた。雑に広がった芝生が切り取られている。崩れた建造物が逆巻く波のようにうねって横たわる。巨大だ。きらきらと太陽をはじく水面を思わせて輝く。これは。きっと滑り台だったものだ。螺旋を画いて昇る龍のように聳えていたのだ。しかしどこから。いったい誰が滑るために。見上げると白く大きな円盤が静止していた。おそらくそこは僕にとって何か特別なところだ。海ではない。海ではないけれど果てしがない。ここから僕は旅立つのだ。そしてここに向かって帰ってくるのだ。白い円盤。真昼に浮かぶ巨大な満月。あれを僕は天国と呼ぼう。異存はない。
天国に背いて傾斜を下れば上天気に焦がされて遥かに雑な砂漠が広がる。滑り台の横たわる旅立ちの場所に比べて余りにも手が抜けている。もし神様というものが世界を逐一組み立てたのなら。ここはより丁寧に創られるべく忘れさられた最後の楽園に近いところだ。もしくは他のすべてに手をかけすぎた疲れに拠った苛立ちか。それとも材質の名残を止め置こうと眼をつぶったそういうところだ。辺りには漠然とした悲しみの砂が晒されている。非難を浴びせる理由も相手も見出せないで磨耗している。もし僕が神様に出会ったとしたらすぐにでも文句を言ってやろう。あんた最近ちょっと怠慢こいてんねって。だから少し僕に協力してくれ。歩き辛いったらないじゃないか。
親指の先で砂を蹴る。赤い靴はシナモンシュガーが塗されていい香りのするお菓子のようだ。ざらつく足裏は悲しむ砂のささやかな抵抗にすぎない。復讐すべき相手は僕じゃないだろうに。それこそ君達を救うのは僕しかいないだろうに。それでも僕は蹴り進まないといけないし。脹脛は憎しみの熱を篭らせている。僕のせいではないのだけれど。僕の邪魔をする君等にできる言い訳はないね。むしがよすぎるね。
ところどころに削られていない砂岩やサボテンがぽつねんとしている。忘我の境をうろついているようにも見える。そういえば。夢に出てきたあの女。あれはスイカや亀ではないのかもしれない。サボテンの棘が生えていたようにも思い出せる。いいや。わからない。僕の記憶は東へ東へと呟かれた彼女の唇から始まったものだ。そう思っていないと僕はうれしく歩いてられない。夢の女が誰であろうと。シンドラーエレベーターになんの関わりがあるのか。ところでシンドラーエレベーターは。とても。
暑い。しかし暑い。
僕には何も知らされていない。シンドラーエレベーターは彼女が探せばいい。僕は僕の探すべき何かを探している。太陽が旋毛を焦がして鎖骨どころか靴まで滴る。もう僕は太陽の一部だ。砂岩やサボテンを見習おう。忘我の境を曲芸のように綱渡ろう。東へ。東への声が聞こえれば。
東へ。
東へ。
東へ。
東へ。
東へと。
ふと。地平の彼方に明らかな建物。神様が放っておいた大地において不自然な戸惑いの色をしている。そして僕は耐え難い咽の渇きの音楽を聴く。そう。僕の耳に乾いた砂のメロディだけが聴こえている。どれ程の砂丘を越えただろう。振り返ればきっと天国は遠く。しかし僕は背中でしかそれを見ようとは思わない。東には建物があり僕は渇いている。もう声は聞こえない。サボテンの真似をしてはいられない。悲しむ砂の思いはもはや僕の意思で踏み潰そう。秒読みに腕を振るメトロノームのまだるい刻み。悠長な行進曲を無理やりに聞かされて規律の正しい歩みで近寄る。徐々に形が定まって。灰色の半球に赤茶けて偉大な門。立て看板には花の王国と記されていた。
巨大な天国にも劣らない巨大な半球の花の王国。とんとんとん。ライオンの顎に掛けられた鉄の輪を鳴らす。とんとんとん。渇いた咽に急かされて行進曲は佳境に入る。かかかかかかん。えい煩わしい。だむだむだむ。と殴りつけても返事は無い。気を抜けば忘我の境を反対側に落ちてしまう。きっとそうして砂岩やサボテンはぽつねんと独り。いけない。
ー誰か。助けて。
砂枯れた咽を擦って吐き出される悲鳴。聴こえはしまい。それは余りにも偉大な門だから。卑小な僕に開かれはしないのだ。花の王国は蕾の王国で永遠に咲けない惨めな薔薇だ。僕を救わないすべてのものには世界がいつか復讐するだろう。間抜けめ。僕を何だと思っている。僕は。そう僕は誰だったっけ。どちらにせよ。花の王国よ。僕を救わないのなら枯らすぜ。嫌だというなら花開け。咲き誇って僕を迎い入れろ。それこそシンドラーエレベーターはお前を許さないだろう。開け。偉大な門よ。愚かしい僕のためにこそ百獣の王はその咆哮をあげるのだ。とんとんとん。叫べらいおん。がおおおおん。開け扉よ。ぎいいいいい。誰かと尋ねる隙も無く一歩進んで膝をつく。
18
細かな微生物を呼吸して沈む彼女の吐息は青く。ウクレレの浮力に後ろ髪を引いて柔草の腰付き。より青い海底に沈む彼女に従って竜宮城は近づく。赤くかんざしの香りがする彼女の顔から緑色は溶けて流れて海水に軌跡を残している。乙姫様の現われは近い。潮流が指先から幾らか僕を吸い出して抜け殻がようやく鍵穴に招かれた。いらっしゃいませ。鯛や平目の舞い踊りとはフラダンス。一段高い上座に落ち着いている彼女にはまだウクレレが握られて。ハワイアンが聴こえてくる。アロハオエ。カイマナヒーラ。君は乙姫様だったのかね。そうよ。あたしはあなたをここに誘いたいと願っていました。ありがとう。とてもいいところのようだ。手拍子で興を示すがとても煮凝る。いつまでもいつまでもここにいて。赤茶けて揺れる髪に似て魚達は上手に鰭をさばく。ここには窓がないようだけど。打ち付けられた扉に隠された幾つかがガラス張りなのかもしれない。外から見られたらいけませんから。それに竜宮に流れる水と海水は少し違った組成をしていて。混ざり合うと大変に危険なのです。照明が明滅して艶かしいストリップショーの開幕だ。麦藁帽子はいつの間にか。きっとまにまに漂って。僕を救いに来る誰かの目印になっているだろうと。思いました。
19
華々しく飾られた寝室に横たわって。ここは花の王国だ。桃色と水色と薄黄色の明らかな花柄が眩しい。神聖な力が宿っている。それは少女の下着にも似て触れられるまではそれを拒む。僕はどうやら救われている。丁寧な動作で掛けられたタオル地を払う。ベッドの傍らに立って平らに均す。百合の燭台が壁に掛かっている。暖炉の上に小さな写真立てと一輪挿しが質素に佇んでいる。花は活けられていない。写真には身形の良い若い十二人の男が笑って写っている。金色の髪の男がどうしてか僕を後悔に似た気持ちにさせた。きっと僕は彼のことを知っている。
真鍮のドアノブを冷やりと廻す。廊下にも規則正しい百合の燭台が灯っている。長方形に区切られた床の模様を確かめながら歩く。梅の花。桜の花。菖蒲。牡丹。これはなんだろう。萩。桐。これは藤の花。花なのか。松。紅葉。柳。ススキ。そして寿の盃に菊の花。不揃いに散らばった折々の花々。僕はどうやら怯えている。何処の部屋からか音楽が反響している。蝋燭の灯りが揺れて闇色が蠢く。膝頭が熱い。壁に拠りかかって頬を寄せたら幾分か落ち着いて。遠いメロディに耳を浸らせた。
ー起きたかね。
王様然とした冠と髭を誂えて。
ーあなたはここの王様でしょうか。
ーほうほうほう。また忘れたのか。如何にも左様さ。王様さ。
ー助けて下さってありがとうございます。
ー礼を言われる筋合いは無い。もしライオンが鳴かなければ扉は開かれなかっただろう。
つかつかと赤い毛氈を翻して彼は僕を従えた。踵が床を叩く度に宝石が煌いて威厳というものを発散させる。身が竦む。きっとこの王様はとても恐ろしい。優しい振りをしていてもいつか僕を傷つける。長い廊下を音に誘われて歩く。その間。独りの老人と擦れ違っただけで。この城には人の気配というものがない。嫌な静まりかたをしている。崩壊した滑り台の静けさとは違った。僕を侵食しようと待ち構えている静けさだ。耐え難い。
ーこの床の模様は何ですか。
未だ咲かざる花の王子達の肖像だ。いつかお前はここでペンキを与えられたことがあるのだよ。忘れたかね。
ー忘れましたね。
ーあれは菊の王子を絞ったものだ。蕾の王子を絞るのは苦しかったよ。
ー王子はどうなったのですか。
ーそりゃ。私にはわからん。お前が何に王子を塗ったかなんてな。
ー死んだのですか。
ーそれまではここにいた。そしてもうここにいない。そういう意味では確かに死んでいる。死とは私との別れである。
ーペンキになって塗られたのですか。
ー王子の搾り滓なら。ほれ。その辺をうろついているだろうよ。お前もさっき見ただろう。
ー可愛そうな王子様。寝室の写真は王子達の肖像でしょう。
ーああ。
ー金色の髪の彼が菊の王子様だったのですね。
ーそのとおり。だがお前が気に病むことはない。すべての王子は悲劇を演じるために蕾んでいるのだ。
ーそうなんだ。じゃあよろしいですね。
ほうほうほう。とは王の笑いだ。傲慢に響いて肋骨を圧し折る。肺を貫く。呼気が漏れて胸腔を膨らめる。音楽は近い。ドアが我々に向けて開かれた。
ーさあ。舞踏会はもう始まっておる。存分に楽しむがいい。
20
楽しい部屋で踊りは熱気を。楽しい部屋で。そこでは人生は楽しい夢。人生は楽しい夢。夢ときめく夜。歌声響く夜。なぜ喜びの波間を飛び行く。波間を飛び行く。波間を飛び行く。波間を飛び行く。時を止めて。波間を飛び行く。波間を飛び行く。波間を飛び行く。時を止めて。波間を飛び行く。波間を飛び行く。時を止めて。時を止めて。
21
時の止まった楽団によって舞踏会には無数の人の頭が犇く。それぞれが仮面をつけている。僕には端から彼等が誰なのか知る由もない。宴に招かれた人々達は独楽のように廻る。天井は遥か上方で金のシャンデリラを下げながら薄暗闇を漂わせて。皆一様に酔っている。次々と僕に挨拶に来る。その中には花の王子様達もいたのだろうが仮面のためにわからない。楽しんでいると思われる人々の踊りには近づけない。僕は壁に寄り添ってグラスを弄ぶ。おもしろくもないパーティーだ。
ーどうしたね。
ー王様。この催しはどういったものなんですか。
ー古い友が訪れた祝いの席だ。
ーそれは。
ー君のためでもあり。もう一人の友のためでもある。
22
ー痛い。
髭の生えた男が僕の肩を叩いた。
ーしょぼくれてんな。俺を覚えているだろう。
ー誰だっけ。
ーおい。おい。また忘れてんのか。まだ忘れてんのか。どっちなんだ。
ー両方なんじゃない。
ー紹介した方がよさそうだな。彼はポチ。私の古い友人であり兄弟だ。そしてお前もまた私の古い友人である。再会はめでたく喜ばしい。さあ。グラスを上げたまい。
僕等は高らかに乾杯をあげた。ポチと呼ばれた男はとても濃い色の飲み物に口をつけると太く乾燥した吐息を吹いた。そして彼と王様は肩を抱き合って笑っている。僕もその仲間に入るべきかとも思われたがやめておこう。戸惑ったままで友情を確かめる儀式に及ぶのは誰に対しても失礼じゃないか。どうせ説明はなされるのだ。やはり彼等もまた不自然な速さで僕に馴染んでいる。いつどこで会ったのか。それはわからない。いつかどこかで僕等はともに楽しい思いをした。それが僕にはわかっているのだ。
ーこんなところで何してんだよ。おい。
ーわからない。朝眼が覚めると僕は東へ行かなきゃならなかった。そしてもう一度眼が覚めると僕は王国の寝室に寝かされていた。
ー私の偉大な門の前に倒れていたのだ。
ーそれでまた何もかも忘れちまったっていうわけか。
ーわからない。僕の記憶は彼女の声から始まった。東へ。東へと告げていた。
ー彼女か。
ポチはくすぐった気に首を掻いた。
ーそれで彼女はどうしたんだ。
ー西へ行くって言っていた。シンドラーエレベーターを探すんだって。でもまたすぐに会えるんだ。
王様は髭を引っ張ってぶちぶちと抜いた。
ーしまった。うっかりしていた。
ーもし。あいつ等に会っちまったらお手上げだ。
ーこともあろうにシンドラーエレベーターとは。
ーどうする。もう止められねえぜ。
深く刻まれた皺を寄せ合って王様とポチは何か相談しているようだが。楽団の歌声が喧しくそれを僕に聞かせない。いつの間にかホールで踊る人影は少なく。数えれば十一人の男だけが個々に身体をくねらせている。おそらく花の王子達だろう。胸にそれぞれの紋章のようなものをつけている。壁の花として僕はこの王国に受け入れられたのかしら。とても置いてけぼりを食っている。
ーねえ。
と。僕はポチの肩を殴った。
ー君達は彼女のことを知っているの。
ーちょっと待ってろ。
ーねえねえねえ。
がしがしがしと僕は殴った。
ー僕にも聞かせてよ。
ー少し待ちたまえ。
王様も煙たがったために僕は楽団の指揮者を後ろから蹴飛ばした。演奏は止まった。怪訝に見返す指揮者と楽団。
ー席を外してくれるかな。
十一人の王子達に向けても。
ー君等もだ。この城はたった今。僕の指揮下に入った。
たー。たららららららったららー。たららーたららー。でたらめなボレロをわめき散らして僕は彼等の踊りを見守る。
たー。たららららららったららー。たららーたららー。まるで行進曲のような舞踏曲が舞踏のような行進を促して彼等はホールを出て行く。
たー。たららららららったららー。たららーたららー。指揮棒がやたらに振られてポチの頭で拍子を取る。
たー。たららららららったららー。たららーたららー。王様の耳はロバの耳だ。冠を奪って僕の頭に結わえ付ける。
ーさあ。革命が起きた。この城は僕の城であり僕の王国だ。僕に話を聞かせるんだ。
王様は言った。
ールール違反だが。
ポチは笑った。
ーいいじゃねえか。もう。どうでもな。
23
照明が知らずにやる気をなくしていた。幾つかの蝋燭は倒れて宿命を迎える前に保存され。あたりには空っぽのゴミ箱のような寂寥が残された。清水が沁みて滴る音が聞こえた。癇癪玉の燻りがじゅっと湿され僕は結果としてまた壁の花に掛けられた。廊下に掛かった百合の燭台と同じだ。ポチは花の王国の住民ではないし。王様はその地位を失ってもやはり威厳に僕を竦ませる。二人は語らずに何かを通じ合っている。華やいだパーティーを台無しにして。はしゃいだ僕の疎外がうなだれる。
ーわかった。ごめんなさい。やっぱり僕は王様の器じゃなかった。
冠を返すと王様は。
ーいいや。それはお前が被っていたまえ。よく似合っている。
ー叩いてごめんね。やり返すといい。
指揮棒を渡そうとするとポチは。
ーもっと酷くしたってかまやしなかったぜ。俺は強い子だからな。
と受け取ってくれない。
ー何にせよ。
王様は言った。
ー時間がなくなって来たようだ。
ーどういうこと。
ー聴こえるだろう。天国が近づいてくる。
ポチはかっかっと歯を鳴らして。がおおおおおん。
ーサム2号もどうやら燃料がつきたみたいだな。
偉大な門のライオンが鳴いて三人目の訪れを知らせている。
ー誰が来たの。
ーサム2号だ。あいつにとてもよく似た。な。
じくじくと湿った噴出が聴こえて扉の前でがちゃりと倒れる。
ーやいやい。情けねえ。
ポチはサム2号と呼ばれた客の足首を掴んでホールの中に引っ張りこんだ。どうしてかしら。この顔。とても馴染みが速い。
ー飲めよ。
とても濃い色の飲み物を含ませると三人目の客は目蓋を開いた。青い瞳には彼と同じ姿が映っている。そう。僕だ。
ー僕はサム。
ほうほうほうと王様が頷く。ポチも。もう一人のサムもまた。
そして。
ーそれで。君達は何ものなんだ。
24
僕はサム。エヴェス・サム。レンゲジーケの虚空を見つめシンドラーエレベーターの面影を望んだ。そして身を用無きものと思いなしてゴミ箱に放り込んでから。僕は神としての名を失った。しかしそれを取り戻してしまった今となってはもう。御伽噺は終わってしまう。僕は天国へ帰らなければいけない。そして。
ー何を呆けてるんだ。サム。そんな暇はねえんだぜ。
ー君等は誰だ。
ー細かいことはどうでもよろしい。天国はこの花の王国に狙いを定めている。いつか強靭な花弁も時待たずして咲き乱れるだろう。
御伽噺は終わった。僕は天国へ帰る。カボチャの愛を受け入れよう。それが神として僕の義務だ。
ーそれは愛じゃねえ。
知ってる。何でも知ってる。だからこそ神と呼ばれた釣り師なんだ。
ーじゃあ。俺は誰だ。
君が誰なのか。もっと早くに気付くべきだったんだ。魚もカボチャも滑り台を下りると人になる。君は犬のぬいぐるみだ。
ーいいや。違うね。俺はお前の友達なんだよ。
僕に友達はいなかった。
ー私は誰だ。言ってみたまえ。
ー王よ。いや。十二連発のゴム鉄砲よ。やはり冠は僕にこそふさわしい。
ー違う。王は私だ。戦場に咲く血の徒花を支配する。
彼は僕によく似た彼等の友達を抱き起こした。
ーどうしてカボチャ男がお前を狙わなかったか。危険な時は幾らもあった。その度に誰が助けていたのか。思い出せるかね。
彼等は涙を流して訴えているように見える。できればその友情に答えてあげたい。しかし。シンドラーエレベーターから来た僕には。
ー危険な時はこのサムが全速力で飛んでカボチャ男の注意を逸らした。そうじゃなかったかね。
ーどうせ玩具だ。友達にはなれない。ゼンマイ仕掛けのロボットが疲れる筈が無いじゃないか。
三人は僕を蔑んでいる。僕もまた青い瞳で眺めやるその距離は遠い。半球状の花の王国には硬い天使の矢が刺さる。染み出す愛も床まで垂れて僕が天国へ帰る日も近い。カボチャ男の愛撫に委ねた神の身体から蛆が涌く。餌にもされない虫は成長を遂げて幾つもの繭を作り羽ばたいて去ることだろう。それらは地上に降り注ぎ太陽の熱に溶けるのだ。もっと加速させてしまえばいい。愛を腐らせて空から降らせればよいのだ。
ーもしも。
王が沈黙を破った。
ーもしもこの王国が開いてしまえば。カボチャ男はすべての矢をお前に捧げるだろう。そしてお前自身を虚空そのものに変えてしまう。私達はそれを食い止めたいと思えばこそ努力してきた。
ポチが眉を顰めて微笑した。
ー俺達はお前の友達なんだよ。もう少しお前にもそれが伝わると思ってたんだがな。残念だ。彼女がシンドラーエレベーターなんか探そうとしなかったらもう少しなんとかなったんだ。
ーさあ。最後の仕上げに取り掛かろう。
ーああ。時間が無い。サム二号はよくやったよ。
王に支えられて彼は床に横たわって僕を見上げた。いったい何が起こっているのか。彼等が何をもくろんでいるのか。神の名において止めさせるべきではないのか。もう何もわからない。半球状には行く筋もの罅が入っている。僕は虚空へ帰る。彼等が苦しむ必要は無いんだ。玩具にはシンドラーエレベーターがどんなものか何て。わかりはしないし関係もない。
ー全部知ってるさ。
ポチが笑った。
ー知らなかったのはお前の方だぜ。
ー?。
ー神様の癖になんだ。その間抜け面はよ。
一段と大きな矢が刺さり天井を貫いた。衝撃でシャンデリラから蝋燭が落ちる。
ーやろうぜ。王様。
ーカボチャに分際を教えてやろう。
十一人の王子達が王を囲んで雄蕊のように。すると城は罅割れに沿って膨らんでいく。石刳れが床に砕けて王子や王は血を流す。ポチは狂喜して彼等の周囲を駈け廻る。真闇に城は百色の光を天国へ向ける。白く浮かんだ天国の隣には一回り程小さな真円の月が寄り添っている。それらとこことの間にはいつかの晩に比べきれない量の矢が尾を引いて。ホールは棘が生えたように痛ましい。カストラートの高音に耳塞ぐ暇も無く。
ーさあ。王の権力に慄くがいい。
彼は王子達を次々と天国に放り投げた。矢の勢いを押し返して王子達は天国に突き刺さる。その度に白い天国にとりどりの色が染まっていく。十一人の王子がすべて放られた頃。抜け殻になった彼等が空から降りてきた。ポチが丁寧に受け止める。王は屹っとして天国の動向を見張っている。ふらともせずに天国からは天使達が降り注いでいる。
ーまずいぜ。思ったよりカボチャ男もやるもんだ。
ーうむ。王子達はもういない。参った。
神である僕をほったらかしてサム二号が立ち上がる。
ー行くのか。
サム二号は頷いた。王は渾身の力を込めて彼を天国へ叩きつける。サム二号の足裏からジェット噴射が加速させる。青い流星が空に上がった。天国はがつりと揺れて平衡を保つ。サム二号の身体は砕けて花開いた王国を真っ赤に染めた。
ー花の王国は薔薇だったんだぜ。知ってたか。
呆然とする僕を抱えて。ポチは恭しく王に跪く。
ーついでだ。打ちあげてしまいましょうや。
鳴り止むことの無い装飾音が僕を凍り付けている。止めてくれ。もう何でもいい。シンドラーエレベーター。いや。王様。君はもしかして。
ー気付くのが遅い。
ーポチ。君もか。
ーははは。残念だったな。景気良く行こうぜ。
美しく開いた薔薇の香りを離れて僕はでたらめに塗られた天国へと飛翔する。
25
襞を浮力に恃んで触手は僕と彼女を結びつける。竜宮の青白い空気が深く沈んで闇色に染まる。赤茶けた海水を混ぜてより暗い乙姫の唇。海へ行こうぜ。果てしない海へ。ウクレレは勝手な演奏を止めて衣擦れだけが喧しい。貪りつく乙姫のびろんと大きな舌べらに舐められて。僕は食べられてしまう。頭蓋が割れる。脳味噌が出てしまう。海水に溶けて僕は果てしがなくなってしまう。海になる。もっと大きな大きな何かになりなさい。海よりも空よりも。鯛や平目は踊りを止めてすでに僕等に食べられた。鱗も残さず食べられた。大きく大きくなりなさい。乙姫が割れて流れた僕の脳味噌を撹拌する。麦藁帽子が僕に浮かんで漂っている。触手は恐ろしい速さで回転し渦を巻く。波が空へと吸い上げられて冷たい雨が地上を凍らす。それは世界そのものの上に。ふわり舞い降りてタンポポは咲くよ。彼女は春の音連れを聞いたんだとさ。潮の香りに眼を覚ますのさ。
26
僕はエヴェス・サム。いつからか僕は天国にいた。いつからか。それは僕にはわからない。シンドラーエレベーターから来た僕にも。解らないことはたくさんある。ただ少なからず知っていることはあり。
ーあたしはね。
瞬くと東雲が彼女の頬を桃色に染めた。迸る光が花柄の天国と同様に白い肌から跳ねている。
ーシンドラーエレベーターを見つけたわ。
風が吹く。柔らかな布地がはためいて髪と絡んで梳けている。薄雲が天国を包んで僕の睫毛を露で湿らす。彼女の睫毛に滴る雫は含羞に温まり鼻梁に伝わる。
ーあなたはカボチャ男の蛆虫団子を見つけたの。
くるりと彼女は背中を向けて。腰を縛った帯の結び目を眼前に差し出した。複雑な結び方がされていた。虚空に二回。通されている。
ーああ。ようやくね。
僕は釣り糸を難なく解く。滑り台。天国への階段はゆっくりのその身を持ち上げ。花柄の天国に彼女の固すぎる肩が白く咲く。
ー花の王国に白い花は無かったな。
西方にレンゲジーケの鉛緑に佇む滑り台が待っている。天国との邂逅は世界に真実の愛を示すだろう。
ー少し寄り道するよ。
天国の東端に駆け臨んで彼女の帯を垂らす。彼女は傍らに寄り添う。花開いた王国へ戻ろう。釣り針は薔薇の花弁に架かり天国を牽引する。
ー悪いな天国。彼女に会わせたい奴等がいるんだ。
赤く咲いた薔薇を囲んで萎びた王子達がマイムマイムを踊っている。楽団は戦火にも生き残り供養の曲を奏でている。ポチと王様が僕の釣り糸に気がついて。ふいに重みが少なくなる。彼等は針にぶら下がる。
ー僕の友達だ。シンドラーエレベーターからやってきた。
ゆっくりと釣り上げる。戸惑いに霞む肩を隠して彼女は優雅に膝を曲げる。王様とポチも丁寧に腰を曲げて。
ーカボチャ男はどうした。
僕は顎先で指し示す。住処に寄り添って刳り貫かれたカボチャが転がっている。彼は笑っているが他の表情を許されなかっただけだ。実はすべて蝿達に食われてしまった。もう何も喋れない。どんな言い訳を聞くこともできない。
ー可愛そうにな。
ポチが合掌して弔意を表す。彼女は細い頚骨を廻す。楽しそうな踊りに似せて。
ーそんなことないわ。彼は笑いたくて笑っているの。黙りたくて黙っているの。
王様がカボチャの首を抱きかかえて花の王国に投げようとした。
ーサム二号への弔いだ。
ーやめてくれ。
僕は言う。
ーカボチャ男を僕は愛している。
27
ポチも彼女も微笑んでいる。王様はほうほうほうと首を優しく放り渡した。ざらついたカボチャは軽かった。カボチャ男はカボチャを愛に捧げた。そしてその愛は僕に捧げられた。この世界はけして下賎な世界ではない。カボチャ男は少し不器用だっただけだ。そして僕が果てしなく卑怯だっただけだ。
ーレンゲジーケだ。
暁に揺れる水面が呼んでいる。
ー僕達はここに残る。君等はどうする。
王様とポチは顔を見合わせた。
ーシンドラーエレベーターに行く。
ーそして**へ帰るよ。
僕はカボチャの首を差し出した。
ー面倒を見てやってくれないか。
ポチは頬を歪めて深く頷いた。
ーそうだな。**はこいつにとっての天国だ。
軽い揺れを伝えて天国は完全に静止を始めた。滑り台は長い休息を終えて再び人々を地上に齎すだろう。天国は代わりに眠りについて。二度とふらつくことはない。
ーじゃあな。
ポチと王様は去っていく。
ー**によろしく伝えておこう。
ゴミ箱に愛しくも三つのゴミが棄てられた。彼等のことは僕も彼女も彼等自身も忘れることはないだろう。甘い別れに暫くのおはようは聞かれてはいない。
28
求めているものはそこかしこに粒子となって呼吸されて。僕等はいつまでも彼等に手を振った。いつかしら。誰かしらが天国に齎され。僕等によって名づけられたら。扉を開いて彼等は招く。それはポチや王様やカボチャ男であるか或いは。いや。もう何も説明してやんない。それぞれのシンドラーエレベーターからそれぞれに。それぞれの天国に昇るのが道理なのだから。未だ踏みしめ得ない**を見下ろして僕は。いたいけな流れから解き放たれるのである。
おしまい。