
(小説) アンリの遠泳
「遅かったのね」とリリーはささくれた薄い唇をとがらせた。
僕は「ごめん」と謝って、小さなほほにキスの挨拶をした。
彼女の机の上には、十枚余りの塗り絵が広げられている。
「これ、自分で塗ったの?」と聞くと、彼女は曖昧に「ふふ」と笑った。
細い首と華奢な肩のプリンセスが、虹色の鮮やかなドレスをまとっている絵。
リリーは、バラ柄の薄いワンピースの裾を引っ張り、膝を隠した。
ちらりと見ると、長靴下のゴムが緩んで、右膝から少しずり落ちている。彼女は僕の視線を感じたのか、もう一度ワンピースの裾をぴんと伸ばした。
「それにしても、アンリはまだかしら」とリリーは再び唇を突き出した。
彼女は車椅子を器用に操り、僕をサロンに案内した。
「この桟橋から、いつも海に入るのよ」
飾られている白黒写真には、見覚えがない。
「タバコの吸い殻が散らばってる汚らしい桟橋でね、冷たい雨がちらついていた。『ホテルに帰ろう』という私の言葉を無視すると、アンリは脱いだ服を私に手渡して、頭からきれいに飛び込んだ」
「それで?」
「それだけよ。ブルターニュの冷たい海を泳ぐのが、好きなの」
リリーは感嘆と倦怠のどちらとも言えないため息をついた。
「海には、黄色がかった青黒い藻がうっそうと茂っていて……潮臭い、カニの死骸の匂いが漂っていた。嫌な予感で息が詰まって、目を開けていられなかった。『行かないで!』って叫びたかった。なのに……。アンリは、水しぶきの中の小さい粒のように、見えなくなってしまった」
写真の中のアンリは、これから藻の茂る海中で、小さな粟粒のひとつになってしまう喜びに心を震わせていたのだろうか。
「2時間後、何事もなかったかのように戻って来た」とリリーはつぶやいた。
「安堵と怒りのどちらなのか区別がつかない感情で胸が一杯になって、その晩、私は一言も口をきかなかった」
僕はリリーの薄い手を握った。彼女の手は、冷蔵庫から出したばかりのハムのように人工的な色をしていて、冷たかった。
「知ってるでしょ? 新婚旅行中も、アンリには置いてけぼりを食らったのよ」
「新婚旅行?」と僕は驚いてリリーの顔を見た。彼女の瞳がうるみ、皮膚の薄い目頭が赤くなっていた。
「ひまわり畑の真ん中で、スクーターが停まってしまった。アンリはシャツの腕をめくって、機械をいじくり回した後、『君は後ろから押してくれ』と明るく笑った。ドレスに油汚れがつくことを気にしながら、全力で押し続けたの。突然、スクーターはブルブルブルと乱暴な音を立てた。『いいぞ!』と喜んだアンリは、アクセルを踏み込んだ。スクーターとの間に距離が開いていった。あっけに取られているうちに、もうアンリの姿は見えなかった」
「それで、どうなったの?」
「次の町までの40分間、アンリは、私が後ろに乗っていないことに気づかなかった。尖塔が美しい教会の前でスクーターを停めて、初めて異変に気がついた。引き返して来たアンリは、『どうして降りてしまったんだい?』と不思議そうな顔をしていた」
僕は思わず吹き出した。
「そういう人なのよ、アンリは」とリリーは低い声を出し、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それにしても、こんなにずっと戻って来ないと、さすがに心配ね」
リリーは眉間に深いしわを刻み、せかせかと車椅子を回転させ、またサロンの写真の前に移動した。
あごひげの濃い看護師がやって来て、僕に優しく「大丈夫?」と聞いた。僕は黙ってうなずいた。
「さあ、リリー。ベッドに戻りましょう」
リリーはぶつぶつと意味のつかめない言葉を羅列した。
「今日はお孫さんに会えて、良かったですね」
リリーは再び、僕には理解できない言葉を口の中でもごもごとつぶやいた。先ほどまで、あんなに明瞭に話していたのに。あまりにもあっさりと「あちらの世界」に戻ってしまった。
3歳の時に亡くなった祖父のことを、僕は憶えていない。
連載中ですが、ふと気になり、こちらの個人文学賞に参加してみることにしました。
文字数が決まっているので、だいぶ推敲しました。そういうプロセスも含めて、初めて短い作品を書いてみるという作業は、大変面白かったです。