
嫉妬しながら生きている
小説を読んでいると、猛烈な嫉妬に襲われる事がある。
その小説が面白ければ面白い程、それは酷い。更に私より年下だったりすると最悪だ。私は若い人に嫉妬し続けている。恥ずかしげもなく!
こういう事は、これまで何度だってあった。ステージに立つ人間を見上げ、「この人と自分の違いはなんだろう」と思う。そして無謀にもステージに上がり、同じ位置に立って、あるいは立った気になってからやっと気付かされるのだ。
自分には才能がない事を。
秀でている人の事を「センスがある」「才能がある」「運がいい」と言うのが、私は好きじゃない。
何かを手にしている人間というのは相応の努力をしてきたという思いがあるからだ。センスや才能や運という言葉は、その人逹の努力や時間を否定する事になると考えている。なのに、自分が何かを目指して壁にぶつかった時に、途方もないその高さに「センスの無さ」「才能の無さ」「運の無さ」を感じてしまうのだ。それを振り払おうとすれば次に「自分の努力が足りないせいだ」という事に至る。
私は努力が得意な方だ。
勉強やダイエットならば、努力の方法が分かりきっているからいい。それに一定の成果も出る。だけど芸能や文筆というのはそうはいかない。ある程度の文章の構成能力や物語を作る上でのノウハウは得られても、人を惹き付けるものをかけるとは限らない。何を頑張れば、何を努力すればいいというのか、それが分からない。あるいはそれに気付けない事こそ、センスの無さと才能の無さなのかもしれない。
そして私は臆病で卑怯でもあった。努力するのが得意でも、成功の確約のない努力は嫌いだった。だから小説を書き続けても、賞に送った事はほとんどない。
何万字も物語を積み重ねた先で、大して読まれる事なく「落選」の山に送られる事への恐怖。
面白いと思って書いたものが、ダメだと否定される事への恐怖。
そんな烙印を押される位なら、賞になんか出さずに自費出版で好きな話を書き続ければいいと思ってきた。
読者はいた。
感想も貰えた。
好きだと言ってくれる人もいた。
だから私は、「賞に落ちる自分」を見なくて済む場所に居続けた。ぬるま湯のような場所で私は十年も執筆を続けた。しかしポキリと何かが折れてしまい、今ここにいる。
私は物語を作る事から逃げたのだ。だけど面白い小説を読んで、悔しいと思っている。勝負に出る事もなく、努力を放棄し続け、醜くも嫉妬している。
何も出来ず無気力になっていた頃よりは、少しだけ人生に張り合いが出てきた証拠だろう。