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挱石の迷走ず救い近代日本文孊ず聖曞䞊奥山実1994/1/15【読曞ノヌト】

    画像

    挱石の文孊に犏音の光を照射する
    挱石は高い倫理性の故に人間の深い眪ず栌闘し、その文孊は正盎に、正確に人間を描いたが、それは絶望的なものであった。「死か狂気か宗教か」の遞択の前で迷走し、぀いには絶察者ず決別した挱石に救いはあったのか?近代日本文孊に流れる人間芳を鋭い犏音の光で照らす画期的な文芞評論。

    ■プロロヌグ


    1:文孊の䞖代

    本を読みあさる久米正雄ず野球郚山本呚五郎ず奥山家

    2:聖曞ずの出䌚い

    日本文孊の行きづたり絶察の救い絶察者ず日本文孊キリスト教ず聖曞

    日本のキリスト教

      共産䞻矩者ず同じこずをやっお共産䞻矩の厩壊ず共に倱敗し、たたどこかぞ流れお行ったような者たちもいる。このようなずおもキリスト教ずは思えないような者も、䞀応キリスト教の看板をあげおいるのである。
    このように厳密に分析すれば、キリスト教ず聖曞は同じではない。いいかげんなキリスト教、キリスト教埒がいるからである。
    だから重芁なのは、聖曞的キリスト教である。
    もうそろそろ日本人はキリスト教の内情を、もう少し知っおいおも良い頃だず思う。それがわからないず近代日本文孊の分析もできない。

    聖曞的キリスト教ずは

    では聖曞的キリスト教ずは䜕か。
    それは聖曞の䌝えるように䞻む゚ス・キリストを信じ、聖曞党䜓が䌝える神芳、䞖界芳、救枈芳をも぀キリスト教である。䞉䜍䞀䜓の教理なども、党く聖曞のみから聞いお、初めお䞎えられた神芳なのである。
    圓時流行のプラトンやアリストテレスの哲孊新アカデメィア掟が少しでも入ったならば、䞉䜍䞀䜓の真理を埗るこずはできなかった。同じように、キリスト論に぀いおも、䞉二五幎のニケア䌚議においお、「ホモりヌシオス」か「ホモむりヌシオス」か、ギリシャ語むオタι䞀文字をめぐっおの厳密なるミクロの闘いだったのである。
    それはどちらがより聖曞的か、の論争で「ホモりヌシオス」に確定した。そしお我々は聖曞から正しいキリスト芳を埗たのである。いっさいの異教的思想を避けお、ただ聖曞のみから聞いたのである。

    聖曞の䞭に織り蟌たれた神秘的なメッセヌゞは明確である―神の性質、この䞖界ぞの芖点、そしお救枈の道。これを心に受け入れ、聖曞の教えを䜓珟したキリスト教は、時が経぀に぀れおも、囜境を越えおも、その粟髄は揺るがない。パりロ、オヌガスチン、ルヌテル、カルビン―圌らが抱いた信仰ず我々の信仰は、栞心においおは䞀緒だ。䞉䜍䞀䜓の神、キリストの凊女誕生、埩掻、十字架での莖眪、そしお最埌の審刀。これらは党お、聖曞が䌝える氞遠の真実である。

    同じくらい明癜なのは、それが聖曞の教えから逞れた神孊が衰退しおいるこずだ。啓蒙䞻矩や進化論、共産䞻矩に迎合し、聖曞の栞心を歪める者たちは、瀟䌚から信甚を倱い、颚前の灯火ずなっおいる。䞻む゚スが語った良い麊ず毒麊の譬えマタむの犏音曞 13:24-30が、この事実を象城しおいる。

    この信仰は䞀芋するず非珟実的かもしれないが、それは氞遠であり、決しお色あせない。逆に、時代の流れに乗り、受け入れられようずした神孊は、人々に拒絶され、螏みにじられおいる。聖曞の教えから逞れたキリスト教は、たさに「塩の塩味がなくなった」ずいう状態マタむの犏音曞 5:13。

    さらに興味深いのは、近代日本文孊の先駆者たち―囜朚田独歩、北村透谷、島厎藀村―が䞀床は掗瀌を受けながらも信仰を捚おたこずに察し、倏目挱石の芖点が聖曞的な深みを持っおいたこずである。これは癜暺掟のような他の文孊者たちにも芋られる珟象で、日本人が信仰に察しお曖昧であるずいえるだろう。

    しかし、詩人八朚重吉の䜜品を読むず、圌が真のキリスト教埒であるこずが感じられる。それは䜕故か。それは、圌が聖曞的キリスト教の信者だからである。

    ぀たり、䞀軒䞀軒蚪ねお宗教曞を売っおいる「ものみの塔」や、霊感商法で悪名高い「統䞀協䌚」は、キリスト教ず呌ぶにはほど遠い。これらは「新興宗教が䜿う聖曞」ず考えるべきであり、䞻キリスト自身が䞖の終わりに倚くの「停キリスト」が珟れるず予蚀しおいるマタむの犏音曞 24:5, 24。

    このような耇雑な背景を持぀信仰䞖界においお、聖曞的キリスト教はその原点を忠実に保ち、䞖界䞭でその圱響を広げおいるのである。

    本圓のキリスト教埒

    倏目挱石は、軜々しく掗瀌を受けおキリスト教埒などず蚀っおおりながら、間もなくキリスト教から離れおしたうような䜜家たちを鋭いたなざしで睚み぀けおいた。
    そしお極めお残念なこずは、挱石が、掗瀌を受けお間もなくその信仰を捚おおしたうようなキリスト教埒を芋お、キリスト教を刀断しおいるこずである。
    そしおしかも、それらの停キリスト教埒たちが、圓時の文壇にのさばっおいたのであるから、挱石は我慢ならなかったのである。
    挱石の異垞なたでのキリスト教埒嫌いの原因の䞀぀は、この蟺にもあるだ。
    実は名もなき聖曞的な立掟なキリスト教がたくさんいたのに、挱石はそれらの人々にふれる機䌚はあたりなかったようである。それは珟圚も䌌たような状況がある。
    䞀般に日本人がキリスト教にふれる堎合、䞻む゚ス・キリストの凊女降誕や埩掻を聖曞通りたずもに信じおいるキリスト教埒よりも、非聖曞的なキリスト教埒にふれるこずが倚いのである。
    ずいうのは䌝統的教団においおは、その初期の段階で、聖曞的キリスト教だったのに、非聖曞的神孊に毒されお、凊女降誕も埩掻も信じない、異ったキリスト教を぀くり䞊げおいったのである。

    我々人間は眪に眪を重ねながら、審かない神を぀くり䞊げおきた。人間がどんなに眪を犯しおも、絶察に審かない郜合の良い神を぀くっお拝んできたのである。
    しかし聖曞を通しお人類に語りかけおきた神は審く神である。
    そしお人類の歎史は、聖曞の啓瀺どおりに進展し、今や聖曞の啓瀺通りに終りの時を迎えようずしおいる。倩地は間もなく滅びるのであるマタむの犏音曞二四・䞉五参照。
    では人間の救いはどこにあるのであろうか。近代日本文孊を論じながら、読者にそのこずを䌝えたいず思う。挱石がその心のかたくなさの故に逐に聞くこずのできなかった救いの道を瀺したいず願っおいる。

    ■第䞀郚■挱石の迷走ず犏音

    1:人間の本質を描いた挱石

    文孊ずは䜕か

    阿郚知二の『文孊入門』における文孊に察する掞察は倚面的か぀耇雑である。阿郚によれば、文孊ずは簡朔に蚀葉で衚珟するのが困難なもので、その倚面的な性質を象城的に匷調する詊みが過去から続いおいる。もし文孊の本質を䞀蚀で捉えるならば、「人間性の探究」ずでも蚀おうか。その探究は、過去から珟代たで倚くの哲孊者や䜜家が挑戊しおきた。

    明治期においお、そうした「人間の本質」に察する掞察を芋事に衚珟した䜜家ずしおは、倏目挱石が挙げられる。その䜜品は倚くの人々に思玢ず感動を提䟛し、読むたびに新たな発芋がある。筆者自身も若いころから挱石の䜜品に芪しんでおり、その倚面性に䜕床も心を打たれた。

    しかし、最終的に筆者がキリスト教に垰䟝した経緯は、倏目挱石が嫌悪しおいたず蚀われるキリスト教ずいう信仰䜓系に、筆者自身が䜕かを芋出したからである。その信仰によっお私は人生を倉え、䌚瀟を退職しお神孊校で孊び、牧垫ずしお教䌚に赎任する道を遞んだ。文孊が人間の探究であるなら、筆者のこの遞択もたた、人間性ず向き合う別の圢ず蚀えるのかもしれない。

    ある京倧生の質問

    ある京倧生が私に向けた疑問は、挱石文孊ずキリスト教道埳における「眪」の本質を揺るがすものであった。この孊生は、挱石の「こころ」に登堎する「先生」の自責ず悩みを真の倫理ず䜍眮づけおいる。

    先生は、人間䞍信ず自己䞍信によっお苊悩しおいるキャラクタヌであり、その起源は自らの゚ゎむズムず、それによっお匕き起こされた芪友Kの自殺にある。先生自身がその眪の重荷を生涯背負い、最埌に自ら呜を絶぀。

    この孊生に察し私は尋ねた。「先生は最終的にどうなったか」
    圌は即座に「自殺したした」ず答えた。そこで私は蚀った。

    「その通り、぀たりその生き方は滅亡に至る生き方で、䜕の解決もない。もし人間が、自分の犯した眪の䞀぀ひず぀に責任をずり眪責を感じお生きおいったら、正盎で真面目な人ほど自分を苊しめ、遂には自殺する。぀たり滅びる。倫理は立぀が自分は滅びる。
    そこで人間はもう䞀぀の生き方をする、滅びないために。それは、眪なんかどうでもよい、どうせみんな悪いこずをやっおいるんだず図々しく、悩みなく生きるこず。しかしこの時、倫理は倒れる」

    この察話は、眪ず倫理、そしお人の業に察する神の蚱しずいう、深遠なテヌマに觊れるものであった。この孊生は意図せずずも、挱石文孊ずキリスト教の亀点、それらがどのように「人間性」ず「倫理」を問い぀めるのか、その栞心に迫る質問を投げかけたのである。

    人間の二぀の生き方

    このように、䞀般的に人間には二぀の生き方しかない。
    䞀぀は、真面目に倫理を立おお、自分の眪の䞀぀ひず぀に責任をずっおその眪責を背負っお、暗く悲しい人生を送り、最埌に自殺するか。
    もう䞀぀は、倫理を螏み倒しお、悪いこずをしおもいちいち眪意識などもたず、図々しく明るく生きのびおいくか、この二぀しかない。

    もっず端的に蚀えば、倫理を立おお自分が滅びるか、倫理を倒しお自分が生きのびるか、これしかない。぀たりどちらにも解決はない。

    そのように「こころ」に解決はない。そしお挱石が解決できなかったように、誰も解決できない。
    このように挱石は解決䞍可胜な問題を我々に提瀺したのである。
    しかし人間には䞍可胜で神に䞍可胜はない。だからこそ、䞻なる神は党く異なる道を我々に䞎えおくださったのだ。
    それが犏音の道である。

    即ちそれは、䞻む゚ス・キリストが、人間のすべおの眪を背負っおくださり、神の刑眰を身代りに十字架で受けおくださった。それ故に䞻む゚ス・キリストを信じた者は「眪の赊し」を䞎えられ、眪責からの解攟を䞎えられ、倩囜の保蚌が䞎えられる。
    だからこそクリスチャンは喜びず感謝にあふれおいる。
    䞻む゚ス・キリストの十字架の身代りの死の故莖眪に、すでに眪の赊しを埗、すでに救われたからである。
    これを「めぐみの救い」゚ペ゜人ぞの手玙2:8-9ずいう。

    あなたがたは、恵みにより、キリストを信じるこずによっお救われたのです。しかも、そのキリストを信じるこずすらも、あなたがたから自発的に出たこずではありたせん。それもたた、神からの賜物莈り物です。 救いは、私たちの良い行いに察する報酬ではありたせん。ですから、だれ䞀人、それを誇るこずはできたせん。

    我々人間の偎の努力の救いではないからだ。
    人栌を磚きあげお救われるのではない。
    献金額でもない。
    神ぞの奉仕によっおでもない。
    䞻む゚ス・キリストの莖眪によっおである。

    このようにクリスチャンずは、䞻む゚スの十字架の故に眪を赊された者、党生涯の眪を赊された者なのである。だから生涯䞻む゚ス・キリストから離れようずは思わない。このような絶倧な救いは他にないからだ。

    ずころでクリスチャンは眪の赊しをすでに䞎えられたからずいっお、やたら眪を犯すだろうか。珟実にそうではない。クリスチャンぐらい眪に敏感な者はいない。人を少し憎んだだけでも心が痛む。だからクリスチャンは普通の人間よりはるかに眪を犯さない。「赊される」ず癟も承知でも眪を犯さない。䜕故か、眪が嫌いになる「聖霊」が䞎えられおいるからであるコリント人ぞの第䞀の手玙3:16。

    あなたがたは神の宮であるこず、そしお神の霊があなたがたのうちに宿っおいるこずを知らないのか。

    ぀たり䞻なる神は、䞻む゚スを信じた者に「眪の赊し」ず「眪を嫌う聖霊」を同時に䞎えおくださる。 ここに神が䞎えたたう救いの完党さがある。
    だから「眪が赊され぀぀、同時に倫理が立぀」のだ。
    ここに芋事な解決がある。倫理を立おながら、しかも立掟に生きお行けるのである。このように犏音こそが人間の生きる道なのだ。

    挱石の深い悩み

    挱石の内的葛藀は平凡な人々のそれずは次元が異なる。その極端な深みを悟るこずで、圌がどれほど栞心に迫っおいたかが明らかになる。それず䞊行しお、真実の解は聖曞の「犏音」にのみ存圚するこずも理解されるべきだ。

    繰り返し明確にしたいのは、挱石が倫理の柱を築けば自身が厩壊する、それゆえに「生き延びるためにどう行動すべきか」に独自の深刻な取り組みをしたこずだ。そしお、その解決策を芋い出すこずは叶わなかった。だが皮肉なこずに、答えは聖曞の犏音に隠されおいた。挱石はほずんどキリスト教の粟髄、すなわちキリストによる救いに觊れおいたのだ。
    ノァルドヌ・ノィリ゚ルモ氏は日本文孊の欧米での研究の第䞀線で掻動しおおり、圌が挱石に察しお持っおいる掞察は泚目に倀する。西掋人ずしお驚くべきは、明治維新埌の日本に、すでに救枈ず無力感の問題を深く考察した䜜家が登堎したこずだ。圌によれば、挱石が瀟䌚批刀を行わないのは、圌が問題ずしおいるのは「人間そのもの」であり、人間は「゚ゎむズムの集合䜓」であるず䞻匵しおいるからだ。

    挱石の登堎人物を通しお描かれる゚ゎむズムは、その醜さを総括しお読者に暎露される。もし読者がその事実から目を背ければ、それは自らの内面から目を背ける行為ず同矩である。

    挱石は、圓時の自然䞻矩ず䞀線を画しながらも、人間性を鋭敏に捉える芳察県を持っおいた。谷厎最䞀郎さえも、「圌ほど正確に人間を描写しおいる自然䞻矩の䜜家はいない」ず評した。挱石のこの力量は、聖曞の教えにより密接に接近しおいたものであり、恐らく挱石自身がその事実に気づいおいないのが曎なる皮肉である。

    2:挱石文孊の二面性

    「僕は䞀面においお俳諧的文孊に出入りするず同時に、䞀面においお死ぬか生きるか呜のやりずりをするような維新の志士のごずき烈しい粟神で文孊をやっおみたい」(明治䞉十九幎十月二十六日付)
    これによっお我々は挱石文孊の二面性を知るこずができる。
    ぀たり、プロになる前に、請われるたた『吟茩は猫である』ずか、『坊っちゃん』など、肩の力を抜いお、その倩分の赎くたたに曞きなぐった俳諧的文孊ず、維新の志士のごずく決意しお真剣勝負のような、死ぬか生きるか、文孊に生呜をかけお行ったもの、の二぀である。 そしお文孊に生呜をかけお行った時に暗くなっおきたのである。
    挱石が最も暗い存圚論的な䜜家だずいう芋方が定着しおきたのは、たかだかここ二十幎䜍のこず(柄谷行人)だそうであるが、私は䞉十幎前にその点を䞭心にしお孊生たちに講挔をしたのである。そしおおおかたの孊生がそれを理解した。
    それにしおも䞀䜓䜕がこのような決意を挱石になさしめたのであろうか。それは「自然䞻矩文孊」である。

    3:自然䞻矩文孊の発展

    明治時代の到来は、日本瀟䌚に䞀倧倉革をもたらし、その嚁力は文孊の颚土にも及んだ。埓来別々の存圚であった詩歌、小説、戯曲が「文孊」の包括的な領域に取り蟌たれ、特に小説はその自由床の高さから䞻流ぞず台頭した。

    この文脈においお、十八䞖玀のむギリスに起源を持぀写実䞻矩リアリズムは、明治初頭の日本近代文孊に重芁な圱響を䞎えた。
    坪内逍遥の「小説真髄」や、二葉亭四迷の「浮雲」は、この西掋の芞術思想が日本に浞透し始めた。たた本栌的写実䞻矩小説ずしお高く評䟡されおいる。この写実䞻矩を継承したのが、硯友瀟」であり尟厎玅葉が䞭心人物である。
    このような時に、欧米では写実䞻矩に科孊的方法をずり入れた自然䞻矩文孊が発展しおいた。 十九䞖玀埌半にフランスを䞭心に起こった文芞思朮であっお、日本には明治䞉十幎頃に入った。
    島厎藀村の『砎戒』明治䞉十九幎ず田山花袋の『蒲団』明治四十幎が、日本における自然䞻矩文孊の始たりずされおいる。

    そしおこの自然䞻矩文孊は、日露戊争埌の日本の瀟䌚的芁請にマッチしおいたので、藀村、抱月など自然䞻矩提唱者が続出し、明治四十幎代の文壇は、自然䞻矩党盛時代ずなっおいった。そしおさきの写実䞻矩も、結局同じような傟向であるので、この自然䞻矩の䞭に吞収されおいったのである。このような蚳で、圓時は文壇の䞻流は自然䞻矩文孊であっお、倏目挱石や森鷗倖は、その倩分にもかかわらず、片隅の方に远いやられおいた。

    このように自然䞻矩文孊が華やかなりし頃、挱石は文壇に登堎しおきたのである。そしお挱石は、はじめからこの自然䞻矩文孊に批刀的態床をずっおいた。

    このような文孊的颚朮が支配的であった䞭、倏目挱石は異色の存圚であった。圌のデビュヌ䜜「吟茩は猫である」は、自然䞻矩の重苊しさを払拭する、たさに爜快な䜜品であり、䞀挙に名声を博した。挱石の文孊に察する深遠な掞察は、その教逊ず倫理芳に基づいおいた。特に、その倫理性は圌が自然䞻矩文孊、そしお自身の人間性に察しお厳栌な評䟡を䞋す基盀ずなっおいた。

    そしお䜕よりも重芁なのは、その高い倫理性である。
    この高い倫理性が、自然䞻矩文孊の䞍健康さず䞍道埳性を赊すこずができなかったのである。結局自分をさえ赊すこずができなかったのである。
    私は挱石文孊を理解するには、圌のも぀この倫理性こそが最も重芁な鍵の䞀぀であるず思う。
    これなしに挱石文孊を、挱石をずらえるこずは決しおできない。

    4:自然䞻矩文孊でも曞けなかったもの

    告癜文孊の限界

    䜕故自然䞻矩文孊がしばしば䞍健党、暗鬱、䞍道埳ず芋なされるかずいうず、それはこの文孊が珟実を食り立おず「ありのたた」に描き出すからである。しかし、なぜ「ありのたた」を描く行為が暗い結果を招くのか。その答えは、人間性が本質的に欠陥があり、「眪人」であるからだ。この考え方は聖曞の教矩にも芋お取れる。したがっお、䜜家が人物の内面ず倖面をありのたたに描くず、その描写は暗く、䞍健党になる。資本䞻矩であろうず共産䞻矩であろうず、この「眪人」によっお構築された瀟䌚もたた矛盟ず倱望に満ちおいる。

    最も真実に近い人間の描写を詊みるならば、自己をその材料ずするこずが最も合理的だ。自分自身の本質を誰よりも理解しおいるのは自分自身であるからである。この芳点から、自然䞻矩文孊はしばしば「自己告癜」的性栌を持぀。

    田山花袋の「蒲団」1907幎は、日本においお最初のこの皮の䜜品であり、䜜者自身の官胜的な䞖界芳を遠慮なく衚珟しおいる。だが、このような個々の告癜から読者が䜕を埗られるかずいうず、答えは「䜕も」である。暗くじめじめずした物語は、確かに真実を告げおいるが、それによっお読者をさらに倱望させおしたう。

    実際のずころ、自然䞻矩的なリアリズムでさえ、人間の党䜓像を描くこずは䞍可胜である。その理由は、人間の存圚があたりにも䞍完党で、「眪人」であるからだロヌマ人ぞの手玙3:10-23。

    3:10次のように曞いおある、「矩人はいない、ひずりもいない。
    3:11悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
    3:12すべおの人は迷い出お、こずごずく無益なものになっおいる。
    善を行う者はいない、ひずりもいない。
    3:13圌らののどは、開いた墓であり、圌らは、その舌で人を欺き、圌らのくちびるには、たむしの毒があり、3:14圌らの口は、のろいず苊い蚀葉ずで満ちおいる。
    3:15圌らの足は、血を流すのに速く、3:16圌らの道には、砎壊ず悲惚ずがある。3:17そしお、圌らは平和の道を知らない。
    3:18圌らの目の前には、神に察する恐れがない」。
    3:19さお、わたしたちが知っおいるように、すべお埋法の蚀うずころは、埋法のもずにある者たちに察しお語られおいる。それは、すべおの口がふさがれ、党䞖界が神のさばきに服するためである。 3:20なぜなら、埋法を行うこずによっおは、すべおの人間は神の前に矩ずせられないからである。埋法によっおは、眪の自芚が生じるのみである。
    3:21しかし今や、神の矩が、埋法ずは別に、しかも埋法ず預蚀者ずによっおあかしされお、珟された。 3:22それは、む゚ス・キリストを信じる信仰による神の矩であっお、すべお信じる人に䞎えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 3:23すなわち、すべおの人は眪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっおおり、

    故に、自分を遠慮なく描写する皋、その䞍完党性や䞍玔さが明らかになり、結果ずしお読者に䞍快感を䞎える。どれだけ誠実な告癜文孊であっおも、党おを衚珟するこずは䞍可胜であり、䞀定の限界が存圚する。

    挱石の告癜

    倏目挱石が代衚䜜「こころ」を完成させた埌、䞀皮の心的解攟を感じお1915幎に「硝子戞の䞭」を執筆した。この䜜品は挱石の生涯における唯䞀の自䌝的小説であり、告癜文孊ずしおも類䟋の少ない存圚だ。圌の思考ず感情が忌憚なく開瀺されおおり、挱石を解読する䞊で䞍可欠なテクストである。倧塚楠緒女史ずの埮劙な関係、家庭内の察立など、圌の人栌に圱を萜ずすような事柄たでが赀裞々に綎られおいる。

    挱石は孊習院で行った講挔「私の個人䞻矩」においお、正盎さを党文化に普遍的な倫理芳念ずしお匷調しおいる。挱石のこの芳点は、圌が挢文孊の基盀䞊に英文孊を孊び、たたロンドンでの異文化䜓隓を経お獲埗した囜際的掞察に由来する。その講挔では、圌の卓越性が他の教職員ず比范しおいるわけではなく、圌が皀に登壇するために珍重されおいるこず、さらには孊習院の教職に採甚されなかったこずたで赀裞々に語られおいる。

    挱石のこの皮の謙遜ず食りのなさは、圌の人間性の真摯さを匷調しおおり、停善的な宗教家ずは比范にならないほど尊敬に倀する。特に印象的なのは、文郚省から博士号を授䞎されるこずになった際にこれを䞁寧に断り、自身の平凡性を保持しようずした゚ピ゜ヌドである。

    「  然る凊小生は今日迄ただの倏目なにがしずしお䞖を枡っお参りたしたし、是から先も矢匵りただの倏目なにがしで暮したい垌望を持っお居りたす。埓っお私は博士の孊䜍を頂きたくないのでありたす  」
    ず文郚孊務局長に䞁重な手玙を送っお、きれいサッパリず断わったのである。こんなこずは凡人にできるこずではない。たこずに芋䞊げた人物である。このあたりに挱石の限りない魅力があり、囜民的䜜家ずしお尊敬を集めおいる理由もあるのだ。
    しかし、そのように「正盎」を重んじる、そしお自らを食ろうずしない挱石でも、自分自身の内偎のすべおを告癜するこずはできなかったのである。

    挱石は「硝子戞の䞭』で、忌憚なく自分の匱さを描いおいる。しかし、党郚を描く勇気はなかった。だから最埌に次のように告癜した。

    「私は今たで他人のこずず私のこずをごちゃごちゃに曞いた。 他のこずを曞くずきには、なるべく盞手に迷惑にならないようにずの懞念があった。私の身の䞊を語る時分には、かえっお比范的自由な空気の䞭に呌吞するこずができた。それでも私はただ私に察しお党く色気を取り陀き埗る皋床に達しおいなかった。嘘を吐いお䞖間を欺くほどの気がないにしおも、もっず卑しい所、もっず悪い所、もっず面目を倱するような自分の欠点を、぀い発衚せずにしおしたった」

    挱石は、自分自身の䞭にあるもっず卑しい所、もっず悪い所、もっず面目を倱うようなずころを遂に正盎に描くこずはできなかったず蚀っおいるのだ。実はこれは挱石だけのこずではない。
    人間すべおの問題であるのだ。人間は誰でも、絶察に他人になぞ話すこずのできない醜悪なるものを心の䞭に隠し持っおいるのである。
    挱石は「正盎である」故に、自分の䞭にあるそのこずも描かなければならない。しかしどうしおもできなかったのだ。あたりにも醜悪だからである。
    この挱石の「どうしおも発衚できなかった」ずいう告癜こそ、自然䞻矩リアリズムのどの䜜家よりも、正確に人間を描き埗た蚌拠なのである。

    挱石の匟子たちは、自分たちが぀くり䞊げた挱石先生の虚像しかわからない。挱石自身が、自分の内偎に、自分で描くこずもできない「卑しい、面目を倱うこず」があるのだず告癜しおいるのに、挱石先生に限っおそんなはずはないなどず勝手な虚像を぀くり䞊げるのである。 党然人間がわかっおいないのである。

    加賀乙圊の研究

    加賀乙圊は東倧医孊郚出身の粟神科医ずいう珍しい䜜家であるが、挱石研究を重ね『挱石の神経衰匱』ずいう論文を発衚した。実は挱石自身も自分の神経衰匱に぀いお回想しおいる。
    ずころがである。この発衚を読んだ「さる高名なる挱石研究家から、倧挱石先生を狂人あ぀かいするずは䜕事かず、激しい非難の手玙がきた」ずいう。
    このような正盎でない挱石研究家がいるから困るのである。
    「高名なる  」ずあるので、盞圓数の挱石研究を䞖に出しおいるず思うのであるが、この皮の挱石研究が本圓の挱石像をわからなくしおしたうのである。そしおこの皮の評論家は、䜕床も蚀うが、䜕よりも人間がわかっおいないのである。
    だから挱石のような高床な䜜家を評論できないのだ。
    文孊さえわかっおいるのかどうか心もずない。
    ずいうのは、自然䞻矩リアリズムの䜜家たちが「ありのたた」の人間を描いた時、暗く䞍健康になっおいくずいう珟実を我々は芋おきたのである。

    ※参考資料
    粟神科医で䜜家の加賀乙圊は、『倏目挱石』矀像日本の䜜家Ⅰ、小孊通の䞭で、《私が自説を発衚したずき、さる高名な挱石研究家から、倧挱石を狂人あ぀かいするずは䜕ごずかず、激しい批難の手玙が来た 》ずしながら、《぀い最近1990幎4月、NHK の教育テレビで、私は『倏目挱石』ずいう30分4回の番組に出挔し、そのなかで、挱石の粟神倉調に぀いお話した。するず、長男の倏目玔䞀氏から電話があり「父の異垞をずばりず蚀っおくれお嬉しかった」ず䌝えられた。匟子たちず鏡子倫人や 子䟛たちずの間に、病気をめぐった確執があった点もはっきりず蚌蚀しおおられた》ず蚘しおいたす。[出兞http://soseki.tokyo/index21.pdf]

    もっず絶望的に

    挱石の文孊は、自然䞻矩リアリズムの䜜家たちが目指した「正盎さ」を䞀歩進め、人間の本質をさらに暗く、絶望的に描いた。『こころ』の先生の人生の絶望は深いが、その先生は、実は挱石自身の反映である。そしお、その挱石の方が実は、先生よりも悲劇的であった。たずえ圌が正盎であったずしおも、その自分自身の「ありのたた」を描くこずはできず、圌自身が自分の内偎に存圚する絶望的で救いがない醜悪なものを告癜しおいる。

    圌が持っおいた深い「眪意識」の理由は、高い倫理性にあった。それは神経過敏ではない。高倫理性の人は、小さな眪さえ芋逃さず、自分の䞭でそれを芋぀けるず、自分を蚱さず、自分を責める。しかし、䜎い倫理性を持぀者は、眪を犯しおも眪意識が薄く、「䜕が悪いんだ」ず倫理を無芖しお無頓着である。

    特に、この皮の「自分の眪がわからない」人間が日本人の䞭に倚い、それも韓囜人や䞭囜人よりも。結局、挱石よりも䜎い倫理性しか持っおいない匟子たちは、挱石の深い苊悩を理解するこずができず、挱石のように自分の醜悪さを認めるこずができなかった。それは、圌らの倫理性が䜎かったからである。

    読者も同じだ。読者が挱石文孊を読んでも、自分の内偎にある「醜悪なもの」に気づかなければ、挱石の匟子たちず同様に、挱石を理解するこずは決しおできない。

    人生を生き抜いおいない、ただの傍芳者や評論家である倚くの日本の文芞評論家も同様だ。圌らは挱石の苊悩を挱石自身のものずだけ考え、自分の内偎にある醜悪なものを認めようずせず、「先生」ず同様の゚ゎむズムに陥りながら䜕も感じず、文芞評論を無頓着に行っおいる。その䜎い倫理性が問題である。

    醜悪なる人間の本質

    どれほど正盎ずされる挱石であっおも、自己の内奥にひそむその䞍条理ず歪な本性に察しおは、最埌たでペンを振るえなかった。圌が「自分に察しお色気を取り陀き埗ない」ず明かすそのゞレンマは、曞く行為に察する深い矞恥心を窺わせる。

    この䞍条理な人間性は、挱石だけの特異な問題ではない。圌が明瞭に描き出しおいるこの普遍的な暗黒面は、倚くの文孊評論家が疎かにしおいる点である。人間の内郚に隠された卑劣で恥ずべき欠点ずの戊いは、勝者を生たない。芥川韍之介も、倪宰治も、最埌には挫折ず砎滅を迎えた。

    この普遍的な「眪」は、聖曞が教える人間の根源的な問題でもある。自然䞻矩リアリズム䜜家に察する挱石の優越性は、その高床な倫理芳に基づいお、より鋭く、より正確に人間を描写できる力にある。圌の䜜品はそのために絶望的なほどに深い。たさにこの点で挱石は、時代を超えお評䟡されるほどの䜜家である。

    挱石がリアリズムにこのように培底できたのは、䜕よりもその正盎さに起因する。自己を詳现に芳察し、客芳的に分析する力は、蚀うたでもなく重芁だが、それ以䞊に「正盎であるこず」が求められる。それは自己を吊定する勇気、自己を乗り越える力が必芁だからだ。

    「問題の䞭心」ずは前述したように聖曞の蚀う「眪」である。
    人間はすべお、䟋倖なしにこの眪ずいう「醜悪なるもの」を心に宿しおいる。奜むず奜たざるずにかかわらず。
    読者よ、あなたも同じだ

    自然䞻矩リアリズムの䜜家たちは、人間を「ありのたた」誀魔化さないで描いたずきに、この眪を「がんやりず」描くこずができた。だからその文孊は暗く、䞍健康で、じめじめしたものになっおいったのである。
    挱石はその高い倫理性の故に、もっず正盎に、もっず正確に、人間を描いたのである。だから暗く䞍健康どころか、絶望的なのである。
    呚知のごずく、『こころ』には䜕の解決もない。䜕の救いもない。
    人間のいずなみの䞭で、最も矎しく芋える「愛」でさえも、眪ずいう癌におかされお正しく機胜せず、゚ゎむズム」ずいう醜悪なる姿になっおいるのである。

    そしお「矩人はいない。ひずりもいない」ロヌマ人ぞの手玙3:10ず聖曞のいうように、玔粋な愛をもっおいる人は誰もいない。
    すべおの人間の愛は腐り果おた゚ゎむズムなのである。぀たり人間は愛し埗ないのである。
    愛など嘘である。そのようなありもしない愛を人間は空しく远いかけおいるのである。これは喜劇である。そしお䞀倧悲劇だ。
    だから倩才芥川韍之介は「゚ゎむズムのない愛なんかあるか」ず叫んで死んでいったのである。
    このすべおの人間の内偎に巣くっおいる「醜悪なるもの―眪」ず闘っお勝おる者は誰もいない。

    䞉぀の行く道

    この解決しがたい難問に盎面した人間には、䞉぀しか行く道がない、ず挱石が考えおいたこずを倚くの評論家は、『行人』の長野䞀郎の蚀葉
    「死ぬか気が違ふか、倫でなければ宗教に入るか。僕の前途には歀䞉぀のものしかない」
    から掚枬しおいる。
    私の持っおいる資料で、最も叀いものは、昭和二幎に挱石の匟子で、挱石研究で著名な小宮豊隆の曞いたもので、
    「さうしお先生は自分を埅っおゐる死か狂気か宗教かの遞択の前にその最埌の「私」を乗り越した。  (äž­ç•¥)  再び比喩的に物蚀えば、『行人』ず『こころ』ずは先生内面の倧震灜の悲痛な報告曞である」
    なのであるが、挱石がずりあげた『行人』や『こころ』の問題を、「先生内面」の問題ずしお、挱石だけのこずに限定しおしたっおいるのである。
    これでは挱石が浮かばれない。
    挱石がずり䞊げた問題は、人類党䜓の問題なのである。
    そのこずを挱石の偎近くにいた匟子たちが党くわかっおいないのだ。
    だから単なる文孊奜きでは挱石をずらえるこずはできないのである。
    挱石の問題が、人類党䜓の問題であり、難問である故に、芥川も倪宰も自殺したのである。「則倩去私」ぐらいでは解決しないのである。

    わからず屋の匟子たち

    囲たれおいた䞍関心な匟子たちによっお、挱石の存圚は事実䞊悲劇的であった。この人々は生きるこずそのものに察しお深刻な関心を持っおいなかった。

    挱石が『こころ』で人間の䞍愛情性を暎露した瞬間、小宮豊隆も自身が゚ゎむストであるこずを自芚する必芁があった。挱石の告癜が特定の個人に限らず、普遍的な人間の䞍郜合な真実を象城しおいるず理解すれば、小宮もたた内に秘めた䞍鮮明な郚分を認識するべきである。

    小宮豊隆にずっおも遞択肢は「死、狂気、たたは宗教」だけである。自死を遞ばず、粟神的に厩壊もしなければ、残された逃げ堎は宗教だけである。しかし、挱石自身が圌の独自の宗教芳「則倩去私」で救枈を芋いだせなかったように、小宮もたた救われる可胜性は䜎い。もし小宮が生きるこずにこのように真剣に取り組んでいたら、もう少し掗緎された挱石研究ができたであろう。

    挱石に仕えた匟子たちが創り出した神栌化された挱石の偶像は、江藀淳の批評によっお厩壊した。それは確かである。しかし、その厩壊が皮肉なこずに、衚面的な挱石批刀の火皮になったこずは吊めない。

    䜎次元の挱石批刀

    䞉枝和子の著䜜『挱石の過誀―恋愛小説の陥穜』は、挱石の恋愛小説における女性像が矛盟しおいるず䞻匵しおいる。谷厎最䞀郎も尊敬の念をふんだんに衚明し぀぀、「挱石はうそを描いおいる」ず断じおいる。いずれも挱石の䜜品の栞心を぀かんでいない、衚面的な批評に過ぎない。

    その根本的な原因は、評論家たちが生きるこず自䜓に真剣ではないからだ。圌らには、怎名麟䞉が䜓隓したような究極的な挑戊や詊緎が欠けおいる。それゆえ、圌らは容易な人生を歩んでいる。

    そのため、挱石のような掗緎された䜜家に察する評論は慎重でなければならない。評論の過皋で評論家自身が暎露される可胜性があるからだ。挱石の䜜品ずその意矩に察する浅薄な評䟡は、結局、評論家自身が挱石によっお評䟡される結果ずなる。このこずは挱石が「明治のみならず、近代日本の文孊党䜓を代衚する巚人」江藀淳である理由を䞀局匷調しおいる。

    救枈の瀬戞際

    挱石の偉倧さは、圌が非の打ちどころなき道埳的完璧さを持っおいたからではなく、むしろ自然䞻矩リアリズムの䜜家たちさえ觊れるこずのなかった人間の奥底に迫ったからである。江藀淳が指摘するように、その偉倧さは「問題を解決しなかったから」にこそある。
    しかし筆者は䞻匵する挱石が問題を解決「できなかった」のだ。

    仮に挱石が『こころ』で䜕らかの解決を芋぀けおいたずしたら、その埌の䜜品は怎名麟䞉の『矎しい女』のように、闇から光ぞず倉貌を遂げただろう。怎名は問題の解決埌、明確にその文孊性が倉わった。挱石が「悟りきっお人生を達芳しおいた」のではなく、むしろ圌は「恐れ、孀独、傷぀きやすい獣」でありたかった――それは圌の匟子たちが理解しなかった点である。

    匟子たちは、倧䜜家挱石の幻想を創造し、その虚像に仕えおいた。圌らの芖点はずれおいた。挱石が人間的愛の絶望を描いたずき、匟子たちはその痛みを自らの䞭に芋぀け、それを深く感じるべきだった。しかし、倚くは人生ず真剣に向き合わず、出䞖や名誉に取り蟌たれおいた圌らは、自分の内郚の醜悪を認識する胜力が欠劂しおいた。

    このような氎準の匟子たちだからこそ、挱石の最埌の蚀葉が䞀時秘匿されたずも蚀われおいる――圌らは挱石の偉倧さに察する誀解を維持するために、政治的な隠蔜工䜜を斜したのだ。この状況に぀いお、江藀淳は「挱石はおそらく救枈の瀬戞際に立っおいる。しかし救枈は珟れない  」ず述べおおり、その蚀葉が䜕局にもわたる意味を持぀こずは蚀うたでもない。

    江藀淳の救枈ずは

    江藀淳による「救枈」ずいう語は、掗緎されたキリスト教ず文孊に察する理解を反映しおいる。圌が評論家ずしお優れおいるこずは疑いようがないが、その解釈には問題が存圚する。圌が甚いるキリスト教甚語—「啓瀺」や「䜿埒」—が、その耇雑な理解を瀺しおいる。これらの甚語を島厎藀村や小宮豊隆ぞの批刀に結び぀ける過皋で、実はキリスト教そのものに察する埮劙な誀解が浮かび䞊がる。

    江藀は、キリスト教の独特な甚語を甚いお挱石ずその匟子、特に小宮豊隆を糟匟する。小宮らが挱石を神聖芖しおいるずしお批刀する䞀方で、それが暗にキリストずその十二䜿埒を貶めるものであるずいう。その栞心は、挱石やキリストが「問題を解決しおいない」にもかかわらず、匟子たちがそうであるず過床に賞賛しおいる点にある。

    しかし、江藀淳のこの解釈は䞍完党である。キリスト教の真髄、すなわち「犏音」に觊れたずき、この脆匱な評論は厩れる。犏音ずは、人間が自らの眪の重荷から解攟される道であり、この解攟が真の「救枈」である。「その名をむ゚スず぀けなさい。この方こそ、ご自分の民をその眪から救っおくださる方です」ずマタむの犏音曞に蚘されおいる通り、この救枈はキリストによっおもたらされる。

    その意味で、江藀淳の蚀う「挱石は救枈の瀬戞際に立っおいる」がもし聖曞の「犏音」を指しおいるならば、その䞻匵は䞀貫しおいるだろう。しかし、圌の文脈はそのように読めない。江藀淳自身が「救枈はあらわれぬ。すでにそのような宿呜を負わされた人間であった」ず指摘するように、挱石の救枈は珟実的なものずは蚀えない。それは挱石が「聡明な頭脳を持ちすぎおいた」ずいう事実によっお、䜙蚈に疑問が投げかけられる。

    結局、江藀淳の「救枈」に察する解釈は、挱石に関する深い理解ず䞊行しお、キリスト教—特にその栞心である「犏音」—に察する理解の欠劂を露呈しおいる。そしお、その欠劂が圌自身を、真の救枈から遠ざけおいるのである。

    江藀淳に救枈はあるか

    江藀淳が挱石の「悲惚な姿」ず「救枈」に぀いおの解釈で到達した地点は、人間性の無力性ずその埌の絶望に関する深い認識を暗瀺しおいる。もし挱石が「救枈」を求めるずすれば、それは人間の胜力を越えた「神の救枈」に他ならない。江藀淳によれば、挱石は䜕らかの曖昧な救枈を望たず、その代わりに神の救枈ぞず向かった。ただし、江藀が話題にしおいる「救枈」が聖曞に蚘された神の救枈、すなわち「犏音」ず䞀臎するかどうかは䞍明である。

    江藀淳が考慮に入れおいるのが䜕らかの非神的救枈であるなら、その議論は砎綻する。挱石が既に人間による救枈の無力性を認識しおいるのだから、䜕が残るずいうのか。江藀自身も、挱石が孟子の「則倩去私」に救枈を芋出さなかったず断蚀しおいる。それならば、江藀淳に問いたい。「神の救枈」でなければ、挱石は䞀䜓どのような「救枈」を求めたのか

    はっきり蚀っお、「神による救枈――犏音」しかないのである。
    人間に絶望した故に、挱石は、人間以倖のものにそれを求めたのである。

    人類の哲孊や粟神的探求に䞀石を投じる挱石は、陜明孊や東掋思想においおも救枈の糞口を探ったであろう。しかしこれらも、結局は人間が築き䞊げた思想䜓系に過ぎず、挱石自身がその限界を悟っおいた。西掋哲孊、さらには物理孊たで手を広げたのもその故である。

    挱石の聖曞に察する関心は確かに倚面的であったが、その䜜品『行人』においおは明らかに神的な救枈を暡玢しおいる。これが真実ならば、江藀淳の救枈に察する認識も、人間性の無力性を超越する䞀途は神による救枈以倖にないずいう点で、挱石ず䞀臎する。

    したがっお、もし江藀淳が人生に察しお真剣な考察を行っおいるのであれば、圌自身も救枈の問題に盎面するだろう。その救枈が芋぀からなければ、圌もたた絶望の淵に立぀。そしおもしその絶望から逃れようずしなければ、江藀淳は挱石の倚くの远随者ず同様、ただの生涯を挱石の圱響䞋で送る評論家にすぎないのである。

    5:宗教に救枈はあるか

    挱石はある偏芋からキリスト教を嫌っおいた。
    人間の絶望を知っお、人間以倖に救枈を求めおいたのに、残された唯䞀の神による救枈を拒吊したのである。ずすれば挱石は滅びるしかないのだ。

    挱石は救枈の境界に立っおいたが、救枈そのものは圌に珟れなかった。その原因は挱石自身が神的救枈を拒絶したからだ。

    『こころ』においお自殺する「先生」を創出した挱石は、実生掻においおも、自らの砎滅が䞍可避であるこずを認識しおいた。その根底には神の「犏音」を拒む姿勢があった。

    倧正二幎に挱石が和蟻哲郎ぞの手玙で「私は今道に入ろうず心掛けおいたす」ず蚘したのは、『行人』の䞭の「塵劎」が曞かれおいる時期であった。圌はここで、「死か、狂気か、宗教か」ず語っおいる。自殺する勇気も、狂気に陥る可胜性もない挱石にずっお、遞択肢は「宗教」のみであった。それで、匟子たちず䞀緒に「則倩去私」ず唱えるようになる。

    だが、挱石ずその匟子たちは、臎呜的な誀謬に陥っおいた。圌は絶望の本質を理解しおいたが、神の犏音を拒吊したうえで、人間が創り出した宗教ぞ進んでしたった。それは再び「絶望の淵」ぞの進行であり、党く非論理的な遞択であった。

    人間の考え出した宗教は完党に人を救うこずはできないのである。
    完党者である神のみが、人間を完党に救うこずがおできになるのだ。

    枡蟺照宏の『仏教』は倧倉にわかり易い仏教玹介の本であるが、䞉十幎も昔に読んだのに今でも鮮明に最埌の蚀葉をおがえおいる。こう曞いおある。
    「仏教はキリスト教のように奇跡など必芁のない『人間による、人間のための、人間の宗教である』」
    このように「人間」の宗教であるこずを誇らしげに宣蚀するのである。ずいうこずは、たぎれもなく「仏教は絶望だ」ずいうこずである。挱石が遺憟なく「人間の絶望」を蚌明したからである。
    枡蟺照宏のような著名な仏教孊者も、人間がよくわからないのである。
    挱石もたた、人間の絶望をよく知っおいたのに、人間の造り出した道宗教ぞず力なく歩み始めたのである。

    挱石は、物理的にも粟神的にも限界に達しおおり、人間が創出した宗教に逃げるしかなかった。そこには神の犏音を拒吊した人々の悲劇が朜んでいる。

    圌の生涯は痛々しいほどの珟実を描き出しおおり、その終焉は「ああ、苊しい、ああ苊しい。いた死んじゃ困る」ずいう蚀葉で締めくくられた。その蚀葉は「敗北の蚀葉」ずしお、しばらくの間、公にされなかった。

    人間は絶察者にはなれない。挱石の倱敗、そしおその埌の厩壊は、人々が人間を神栌化する危険性を譊鐘ずしおいる。江藀淳は「則倩去私」ずいう蚀葉を「人生に傷぀き果おた生掻者の、自ら憧れる䞖界ぞの逃避の芁求をこめた、吐息のような蚀葉」ず評した。挱石ずその匟子たちが築き䞊げた祭壇は、これによっお厩壊した。

    6:リアリズムずヒュヌマニズム

    人間をありのたたに描く自然䞻矩リアリズムを培底しおいったら、人間は絶望するこずを挱石は蚌明した。
    このように、ペヌロッパでも同じこずなのだが、リアリズムはペシミズム悲芳䞻矩を生むのである。
    これでは人間どうにもならないので、人間を絶望の淵から救っおやらねばならない。そこで「ありのたた」描かないで、少しごたかすこずにした。これがヒュヌマニズム人道䞻矩である。
    だからヒュヌマニズムは嘘を蚱容する。り゜でも人間を救った方が良いからである実は救い埗ないのに。
    それはちょうど、望みのない癌患者に察しお医者が「癌じゃない、倧䞈倫」ずり゜を぀いお励たすようなものである。そのり゜は間もなく暎かれおしたうのに。
    このようにヒュヌマニズムの医者は嘘が蚱容されおいる。䞇人が認める嘘である。
    しかし、リアリズムの医者は正盎である。ごたかすこずが倧嫌い、「ありのたた」がモットヌである。そこで癌患者に向かっお、ありのたたを蚀う「あなたは癌です」。するず患者は叫ぶ「先生、助かりたすか」しかし、リアリズムの医者はハッキリず蚀う「助かりたせん」。
    この正盎な医者の宣蚀で、患者は絶望の枕に投げ蟌たれるのである。

    このようにヒュヌマニズムにも、リアリズムにも「救枈」はない。
    ヒュヌマニズムは、嘘を぀いお䞀時の慰めを䞎えるに過ぎない。
    リアリアズムは正盎なだけで䜕人の助けも䞎えるこずはできないのである。

    このように人間に救枈のないのは明らかなのである。そこで人は自殺する。
    では人間には、党く救枈がないのであろうか。そこで「犏音」の医者が登堎する。

    リアリズムずヒュヌマニズムの䞭間に「犏音」ず呌ばれる第䞉の芖点が存圚する。この「犏音」の医者は、病患者に真実を告げるが、同時に治癒の可胜性も提䟛する。この芳点は、聖曞においお人間の眪ず堕萜を明確に暎き぀぀、神からの救枈も玄束する。

    圌はリアリズムの医者ず同じように、正盎である。いやリアリズムよりも、もっず正盎である。だから癌患者に察しお明蚀する「あなたは癌です」。
    そこで患者は叫ぶ、「先生、助かりたすか」。その時「犏音」の医者は確信をもっお蚀う「助かりたす。さあ、この薬を飲みなさい」。そしお患者は芋事にいやされる。
    ぀たり「犏音」の医者は、癌をいやすこずができる薬を持っおいる医者なのである。
    だからヒュヌマニズムのような嘘を぀く必芁はないのだ。だから聖曞はリアリズムよりはるかに正確に、はるかに鋭く人間の本䜓を暎露するのである。眪によっお腐り果おた人間の姿を、己れ自己の姿を䜕の遠慮もなく顕わにするのである。聖曞ほど人間の眪を明確にするものはない。それは「犏音」ずいう救枈薬があるからである。

    こうした枠組みを理解した䞊で、倏目挱石の深遠な掞察に぀いお考察するず、挱石自身は神からの救枈を拒吊し、その結果ずしお絶望に陥る。この絶望は䞀般の人々や倚くの文芞評論家が理解できないレベルに達しおいる。しかし、挱石に察する鋭敏な批評で知られる江藀淳は、挱石が決しお「悟っお」いないず指摘する。

    䞀般に人が平気でこの人生をやっおいるのは、幞か䞍幞か、挱石のレベルたで人間を掞察しおいないからである。
    倚くの文芞評論家も、この挱石のレベルに達しおいないので、たいした悩みもなく、挱石を語っおいるのである。そしお、人間のこの絶望をよく知らないので、「挱石先生は悟っおいたのだ」などず的はずれなこずを蚀っお、異なった挱石を人々に䌝えおいるのだ。

    家庭での挱石

    たず第䞀に、実生掻においお二重性があった。あたりにもよく知られおいるこずであるが、挱石の匟子たちは聖人挱石を謡いあげ、挱石先生が時々家庭で問題を起こしたりしたのは、ヒステリヌもちの鏡子倫人のせいである、ず挱石を匁護するが、家族の人々の蚌蚀は、考えられない挱石の凶暎性や異垞な振舞いで、決しお暡範的な倫、父ではなかったこずを明らかにしおいる。

    次男の䌞六氏の曞いた『父・倏目挱石』を読めば家庭における挱石の姿は誰にもよくわかる。そしお長男の玔䞀氏も『父の病気』ず題しお䞀文を曞いおいる。
    「  けれども私は、あくたで父の正垞を䞻匵する人たちが父の神経衰匱的原因をすべお無知で無理解な母のせいにするのは少し酷ではないかず思う。事実、いったん父の機嫌が悪くなり、険悪な状態になった時、家䞭の空気は䞀倉する。そしお毎日が暗く、匵り぀めた、息぀るような緊匵の連続になる。これが䜕か月も続き、長い時には半幎、䞀幎以䞊にもなるこずがあった。こんな時たった䞀人、母は父の盞手をしなければならなかった。それは誰にでも努たるものではない  」

    私はこんな停善的な挱石に察しお、劻子がなおも尊敬をもっお接しおいる姿を芋お、劻子の方が立掟であったず思っおいる。もちろん、挱石が家庭では、い぀も暎君であった、などず蚀っおいるのではない。やさしい時にはずおも良い倫であり、父であったこずは呚知のこずである。しかしそのやさしい倫、父が機嫌をそこねるや䞀挙に暎君に貌倉するのである。その山から谷ぞの倉化があたりにも倧きかったようなので、暡範的人栌ずは蚀いがたいのだ。

    挱石の虚像

    挱石の門䞋生や䞀般の読者が圌を理想化し、誀った像を構築しおいるこずは吊めない。しかし、この過ちは挱石自身にあるわけではなく、その賛矎者や解釈者たちに起因する。挱石が意図的に誀解を招いおいるわけではない。

    圌らが創り出しおいる「理想の挱石像」は、挱石自身が䜕床もその矛盟や欠点を䜜品を通しお「告癜」しおいるのに、未だに根匷く残っおいる。䟋えば、「挱石は極めお優れた日本人である」ずいう皮類の解釈があるが、これは単なる幻想に過ぎない。

    挱石は、確かに優れた思考家であったが、「暡範的な日本人」ではない。圌は䞀皮の二重人栌者であり、その耇雑な性栌は家庭内での暩嚁䞻矩からも窺い知るこずができる。挱石の真の偉倧さは、完璧な人栌者であるこずではなく、人間の匱さや矛盟を率盎に衚珟した点にある。

    その内面のも぀れや、人を真に愛するこずの困難さを自らの䜜品で告癜しおいる。それは倚くの読者自身が抱える普遍的な人間の葛藀を鋭く描いおいるのである。

    にもかかわらず、倚くの人々は自らの欠点や人生の暗郚を挱石の䜜品から読み取るこずなく、空虚な賛矎や誀った解釈で挱石像を再構築しおしたっおいる。結果ずしお、挱石は倚くの人々にずっお、本人も意図しない「人道䞻矩的な䜜家」にされおしたっおいる。

    挱石は、その倚面性に぀いお䜜品で明らかにしおいる。䟋えば、『行人』に登堎する「䞀郎」は、瀟䌚的には暡範的な人物に芋えるが、家庭内での行動はその逆であり、そのギャップが劂実に描かれおいる。この矛盟は挱石自身にも芋られる。

    「兄は孊者であった。たた芋識家であった。その䞊詩人らしい玔粋な気質を持っお生れた奜い男であった。けれども長男だけに䜕凊か我儘なずころを具えおいた。自分から蚀うず、普通の長男よりは、倧分甘やかされお育ったずしか芋えなかった。自分ばかりではない。母や芪に察しおも、機嫌の奜い時は銬鹿に奜いが、䞀旊旋毛぀むじが曲がり出すず、幟日でも苊い顔をしお、わざず口を利かずにいた。それで他人の前ぞ出るず、たた党く人間が倉わったように、倧抵なこずがあっおも滅倚に玳士の態床を厩さない、円満な奜䌎䟶であった。だから圌の朋友はこずごずく圌を穏やかな奜い人物だず信じおいた。父や母はその評刀を聞くたびに案倖な顔をした。けれども矢っ匵り自分の子だず芋えお、䜕凊か嬉しそうな様子が芋えた。兄ず衝突しおいる時にこんな評刀でも耳に入ろうものなら、自分は無闇に腹が立った。䞀々その人の宅たで出掛けお行っお、圌等の誀解を蚂正しお遣りたいような気さえ起こった  」

    『行人』兄六

    圌の真の偉倧さは、人間ずしおの䞍完党さや矛盟を勇気をもっお告癜しおいる点にある。そこに挱石の真の倫理的高朔さが存圚する。

    門䞋生や読者は、挱石を単なる理想像ずしお仰ぎ芋おしたうが、挱石自身は「私は完璧ではない、家庭でさえ暎君である」ず告癜しおいる。その自芚ず修正の詊みが、真に尊敬に倀する。

    それに察しお、「䞀郎」の䞡芪のように、瀟䌚的評䟡だけを重芖する姿勢は、倫理的に問題がある。このような人々が創り出す「偶像」こそが、挱石ず圌を理解しようずする人々ずの間に生たれるギャップの原因である。

    7:挱石のごたかし

    挱石の二面性は、その䜜品ず実生掻の間に鋭い裂け目を呈しおいる。挱石は人間の愛の欠劂、愛の䞍可胜性、その絶望的な状態を巧劙に描写しおいるが、それず同時に埮笑んでいる。
    䞀方で、芥川韍之介は自ら呜を断぀道を遞んだ。挱石が埮笑むその背埌には、自己ず他者ぞの欺瞞が暪たわっおいる。
    挱石の倫理感ず透明性にもかかわらず、人生の戊略ずしお「誀魔化し」しか遞択肢がなかったのだ。

    人間の愛の䞍可胜性、人間の絶望を内省した者は、芥川のように呜を絶぀か、あるいは粟神的に厩壊する。最埌の拠り所は宗教だが、人間が創り出した宗教には望みが芋出せない。そのような宗教は、絶望そのものだ。

    それが故に、「その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赎く人のように芋え」たず蚀えるのだ。

    「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの䞉぀のものしかない」
     兄さんははたしおこう云い出したした。その時兄さんの顔は、むしろ絶望の谷に赎く人のように芋えたした。
    「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未緎に食いずめられそうだ。なればたあ気違だな。しかし未来の僕はさおおいお、珟圚の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっおいるんじゃないかしら。僕は怖くおたたらない」

    『行人』塵劎䞉十九

    唯䞀の救枈は、人間を超越した存圚、即ち「神による救枈—犏音」にあるのだろう。しかし挱石はその救枈を偏芋から拒絶した。結果ずしお、自殺する勇気もなく、無望な人間の宗教に䟝存するしかなかった。

    それが䜕ら保蚌のない救いであるこずを知り぀぀、挱石は「きっず䜕ずかなる、䜕ずかなる」ず自己欺瞞にふける。この姿勢は重倧な矛盟を内包しおいる。人間の絶望を理解し぀぀、それでもなお人間に垌望を芋い出すからだ。

    このような局面においお、挱石の悲劇が圢成される。滅亡は既に予定されおいたのである。

    8:挱石の求道

    では挱石は、「神による救枈」を求めおいなかったのであろうか。
    求めたこずはあるのだ。

    圌の宗教的な探求は特に『行人』における「塵劎」〈䞉十四〉以䞋に集玄される。詳しく〈䞉十四〉から〈五十二〉たでを読むず、挱石は確かに絶察者を求めたものの、その远求から逃れ、自らの内面的な宗教に閉じ籠もっおいった。

    『行人』〈䞉十四〉では、圌の探求はこんな颚に始たる
    「君、近頃神ずいうものに぀いお考えたこずはないか」ず。

    「『君近頃神ずいうものに就いお考えたこずはないか』
    私は仕舞にこういう質問を兄さんに掛けたした。私が歀凊でずくに"近頃"ず断わったのは、曞生時代の叀い回想から来たものでありたす。その時分は二人共ただ考えのたずたらない青二才でしたが、それでも私は思玢に耜り勝な兄さんを、よく神の存圚に就いお云々したものでありたす。
    






    二人はそんなこずから神ずか第䞀原因ずかいう蚀葉をよく䜿いたした」

    ここで蚀われおいる「神」は、神道のようなアニミズムの神々ずは䞀線を画す、より高次な存圚である。この点は「神ずか第䞀原因」ずいう衚珟からも明らかで、第䞀原因ずは通垞アリストテレスの神、すなわち「䞍動の第䞀動者」を指す。

    ここでアリストテレスの哲孊を詳述する誘惑はあるが、簡単に蚀えば、圌は経隓䞻矩を基盀に、自然哲孊を築いた。その哲孊は垰玍的で科孊的であり、珟象が単なる人間の解釈によるものではなく、事実ずしお独立しお存圚する「所䞎」ずしお取り扱う。

    このような芳点から、アリストテレスが考えた神は、すべおの存圚を動かすが自らは動かされない「䞍動の第䞀動者」である。この神芳は極端な圢で聖曞に啓瀺された神に近いものがある、ずも蚀えるだろう。

    挱石もこのような高次な神に぀いお語っおいるのだ。か぀おは「神や第䞀原因」ずいう蚀葉を頻繁に䜿甚しおいたが、それは過去の話である。

    「二人はそんなこずから神ずか第䞀原因ずかいう蚀葉をよく䜿いたした。今から考えるず解らずに䜿ったのでした。然し口の先で䜿い慣れた結果、仕舞には神も䜕時か陳腐になりたした。それから二人ずも申し合わせたように黙りたした。黙っおから䜕幎目になるでしょう。私は静かな倏の朝の海ずいう深い色を沈める倧きな噚の前に立っお、兄さんず盞察し぀぀、再び神ずいう蚀葉を口にしたのでありたす。
    然し兄さんはその蚀葉を党く忘れおいたした」『行人』䞉十四

    そしおこの埌挱石は、䞀郎に「そんな意味のない口先ロゞックだけの論理が䜕の圹に立぀ものかね。そんなら神を僕の前に連れお来お芋せおくれるのが奜い」ず蚀わせお、忘れおいた絶察者なる神に察しお敵察する。

    「僕は死んだ神よりも生きた人間の方が奜きだ」ず䞀郎すなわち挱石自身は宣蚀する。この蚀葉によっお、挱石は絶察者ず決別する。しかし、「苊しそうに呌吞をはずたせおいたした」ずいう䞀文から、その決断が圌の粟神を深く揺さぶったこずが䌺える。

    明治時代の倚くの文壇人物が掗瀌を受けた埌、簡単に棄教したのずは察照的に、挱石はその宗教的探求においお遥かに深く、たた西掋的だったのである。

    9:日本人の神芳ず挱石

    神棚ず仏壇

    明治時代の文壇で䞻流を占めた者たちがキリスト教の真髄をほずんど理解せずに掗瀌を受け、埌に背教した行動は、宗教に察する日本独自の浅薄な理解を瀺しおいる。圌らの䞖界芳は盞察性に溺れ、絶察的な䟡倀や存圚ずの真剣な察話を欠いおいる。だからこそ、「神を捚おた」ずの告発にも震えるこずはない。日本の宗教芳は柔軟だが、その柔軟性が時ずしお䞍誠実に映る。䟋えば、むンドネシア人は日本家庭での神棚ず仏壇、神道ず仏教の䞡立が理解できない。唯䞀神を信仰する者にずっお、このような宗教的な曖昧さは信じがたい。

    この宗教に察する曖昧な態床は、アニミズム的背景を持぀日本特有の珟象ずも蚀える。もちろん、日本人には短所だけでなく、倚くの長所もある。それは他のどの民族、囜民ずも共通しおいる。完党に長所しかない民族は存圚しないし、その逆も然り。日本人の努力ず優れた資質は、広く評䟡されおいる。

    宣教垫の日本人芳

    この日本人の本質を芋抜いたのは宣教垫たちであった。その第䞀人者であるフランシスコ・ザビ゚ルは、圓時の西掋人たちが、東掋人を「憐れむべき無智で盲目な野蛮人」であるず思っおいた時に、「圌ら日本人は、文化・颚俗、および習慣においお、倚くの点で、はるかにスペむン人に優る」ず報告した。
    たたむタリア生たれの宣教垫オルガンチヌノも
    「日本人は、党䞖界で、最も賢明な囜民に属しおおり、圌らは喜んで理性に埓うので、我ら䞀同に遥かに勝っおいる。我らの䞻なるデりスが、䜕を人類に䌝えたもうたかを芋たい者は、すべからく日本に来さえすればよい。私たちペヌロッパ人は、互いに賢明に芋えるが、圌ら日本人ず比范するず、はなはだ野蛮であるず思う。私は、ほんずうのずころ、毎日、日本人から教えられるこずを癜状する。私には、党䞖界で、これほど倩賊の才胜をも぀囜民はないず思われる」
    ずべたほめである。
    もちろん、宣教垫の䞭には日本人の短所を数えお報告しおいる者たちもいるが、右の二人のような、日本人に䞎えられた倩賊の才を芋抜いお、限りない尊敬を日本人に払っおいる宣教垫たちがたくさんいた。圌らはあたたかいたなざしで我々日本人を芋぀めお、我々を高く評䟡しおくれた。

    カルチャヌショック

    しかし我々は我々の真の姿を知るために、我々日本人の短所にも目を泚がねばならない。その第䞀は、「文化の差を知らない」ずいうこずで、囜際化時代にあっお、倧問題ずなるのである。

    韓囜人や䞭囜人に比べ日本人はより倚く「文化ショック」を受け、たた䞎える。「文化ショック」ずは「文化による病気」であっお、ノむロヌれ、発狂、自殺、殺人、ず犯眪にたでなる。あたりに倚いので『日本人の海倖䞍適応』皲村博著、NHKブックスずいう本たで出る始末である。

    挱石のロンドンでの「狂人」扱いは、日本人が自囜の文化を普遍的であるず誀認しおいる面からも研究に倀する。山本䞃平が指摘したように、倚くの日本人は自らの文化が囜際的に通甚するず錯芚しおいる。䞭根千枝はこれを日本の地理的環境、即ち島囜であり囜境を陞に持たないこずに起因するず論じおいる。その結果、文化的な他者ずの亀枉がほずんどなく、善意で接觊しおも意図が履行されないずいう状況が生たれる。

    韓囜や䞭囜は異なる。韓囜は叀来から満州ずの囜境を有しおおり、䞭囜は倚様な民族が共存しおいる。これらの囜々では、蚀葉も、人皮も、信仰も異なる人々ずの日垞的な亀流が存圚する。䟋えば、韓囜人の瀌儀や䞭華人民解攟軍内での倚様性は、その異文化䜓隓からくるものであり、それが若い幎霢から身に぀く。

    歎代銖盞の倱敗

    日本の歎代銖盞ず政府は、倖亀ず囜際問題で䞀連の倱敗を犯しおいる。これらの倱敗が日本倖務省の予算䞍足や手抜きによるものである可胜性が高い。さらに、これらの問題点は日本囜内でほずんど報道されおいない。このような状況が日本ず日本人に察する囜際的な誀解や評䟡の悪化を招いおいる。

    難民の受け入れ

    特にベトナムの難民問題で、日本は囜際的に期埅される行動をずらず、ほんのわずかな人々を受け入れただけで、その他は党おアメリカに送っおしたった。これらの問題は、日本囜内でほずんど報道されおいない。その結果、倚くの日本人は「囜際関係オンチ」ずも蚀える状態にあり、囜際的な誀解や評䟡の悪化が進んでいる。

    日本人の神芳

    日本人の神芳は、なぜにこんなにも䜎いのであろうかず思う。いただに、き぀ね、たぬきの類を「神」ずしお瀌拝する奇行をやめないのである。

    神道のアニミズムの圱響であるが、真理ぞの恐れにも䌌た、いやそれ以䞊の、生ける真の神ぞの畏れなどからはほど遠い。
    これは知識階玚の人間もみな同じで、倧孊あたりで圢而䞊孊的神を孊んだずしおも、知識ずしおあるだけで、圌の生掻に盎接圱響を䞎えるようなこずなど極めお垌である。江藀淳もそのこずを明蚀しおいる。

    「西欧人が、『無限の空間の氞遠の沈黙』ず向い合った時、圌らの胞には、反射的に䞀ほずんど条件反射的に――神もしくは神の远憶の芳念が去来する。しかしがくらの胞にはそのような性質のものが䜕も浮かばない。これは決定的な盞違である  」
    ずこのように厇高なる絶察者なる神を知る西欧人ず、それを知らない日本人の「決定的な」盞違を明らかにしおいる。

    日本人にはそのような高床な神のむメヌゞが「䜕も浮かばない」ず匷調しおいる。それくらい日本人の神芳は、他民族ずは比范にならないほどに䜎いこずをしかず知るべきなのである。日本人よりも韓囜人、䞭囜人の方が遥かに高床な神を「肌」で感じおいる。

    䞭囜人の神芳

    八幎にわたっお東ゞャワのむンドネシアで神孊教育に携わり、地元の医者の蚺察を受けたこずがある。その地での医者は倧抵が䞭囜人で、私が圌らに金銭を提䟛したずころ、圌らは決しお受け取らなかった。初めはその慈善心がキリスト教に由来するず考えおいたが、非クリスチャンの医者もたた金銭を受け取らないずいう珟象に出䌚い、理解が倉わった。䞭囜人にずっお、宗教家に善行を斜す行為は「倩に宝を積む」ずいう信念からくるものだず悟った。

    ここで重芁なのは、䞭囜人の「倩」芳が単なるヘブンではなく、人栌的か぀創造䞻なる神に通じる哲孊的深みを持っおいるこずだ。これは䞭囜叀代思想が䜕らかの圢で旧玄聖曞の圱響を受けおいる可胜性を指摘しおいる。この点においお、䞭囜人の神芳は䞀局の高床さを瀺しおいるず蚀えよう。

    䞭囜人に聞いた話では、「矩」は「矊」ず「我」の組合せで、我は矊の犠牲があっおはじめお神の前に矩ずなる蚳で、この思想は党く旧玄聖曞そのものである。このような䞭囜叀代思想ぞの旧玄聖曞の圱響も、道教、儒教、陜明孊などによっお歪められおいくわけであるが、しかしその土台に旧玄聖曞の圱響が歎然ずしお存圚しおいるこずが、䞭囜人ぞの神芳の卓越さを決定づけおいるずいっおも過蚀ではない。
    日本の堎合、倧陞から隔離されおきたので、旧玄聖曞の圱響は、内容的には韓囜たでで、その感化を受けるこずはなかった。
    日本の宗教は南方のゞャングルのアニミズムであるこずは明らかであっお、動物、石、朚、山、川などを拝む粟霊信仰で䜎俗極たりない。

    日本人の最倧の欠陥の䞀぀はその宗教性であっお、宗教的には極めお䞍真面目である。韓囜人、䞭囜人の方がずっず真面目である。
    掗瀌を受けお、間もなく棄教し、䜕の痛みも感じない明治の文壇の䞻流掟の宗教的䞍真面目さは、この点で極めお日本人的であったのだ。
    そしおその宗教的䞍真面目ぶりは、今の日本人䜜家も評論家も倉わらない。同じ穎のむじなである。それは日本人であるからである。高床な壮倧な神抂念が「䜕も浮かばない」しろものだからである。
    キリスト教に入信し、たもなくキリスト教を捚お、平気な顔をしおいる明治の䜜家たちは䜕も特別に質の悪い日本人ではなく、日本人なのである。
    この日本人の宗教的䞍真面目さは特筆すべき事柄である。
    だからこそ、そのような䞭で、挱石の絶察者の前での苊闘の蚘録は誠に貎重なものであるのだ。

    10:絶察者ずの決別

    しかしその挱石も、遂に絶察者ず決別したのである。そしおそこから挱石の矛盟に満ちた歩みがはじめる。぀たりダッチロヌル人生である。
    『行人』の「塵劎」〈䞉十四〉で絶察者を吊定した䞀郎挱石は、
    〈䞉十五〉で修善寺ぞ行く。
    そしお山の湯泉で混济しおいる䞀団の男女を芋お、「善男善女」ず蚀った。そしおそれは「雑談半分の圢容詞でなく、党くそう思われたらしいのです」ずHに蚀わせお、「人間賛歌」ずなるのである。぀たり本気になっお人間を賛矎しおいるのである。
    これほどの矛盟があるだろうか、挱石にずっお。実は挱石は「人間の絶望」を知ったはずではなかったのか。それだからこそ「道」を求めたのである。
    ずころがたた再び「人間」にもどっおきたのである。

    どうやら挱石の思玢の流れは「埪環論法」のように巡り巡っお解決がない。
    実はこれは挱石だけでなく、どんな倩才も同じなのだ。絶察者である神からの絶察的救枈を拒吊した者に、どうしお解決があるであろうか。だから倩才は自殺をする。

    こうしお人間のどん底を芋た者が、突然人間賛歌を始めたのだが、リアリズムが突劂ずしおヒュヌマニズムに倉身したわけである。狂っおきたのだ。もうたずもな思玢ではない。
    だから〈䞉十六〉では、茂みの䞭に咲いおいる癟合をみお、䞀郎挱石は、「あれは僕の所有だ」ず䞻匵し、森だの谷だのを指し぀、「あれもこずごずく僕の所有だ」ず蚀うようになっおしたったのである。
    もはやオカルト宗教か新興宗教の教祖の粟神状態である。
    このような危機的状況の䞭で、ダッチロヌルは続く。

    11:「自己本䜍」ず「則倩去私」に解決はない

    挱石の粟神的迷走は、䞀芋、圌の日垞生掻には反映しおいないように思われる。衚面䞊は笑顔を絶やさず、『こころ』や『行人』のような䜜品を執筆し぀぀、孊習院で「私の個人䞻矩」ず題した講挔も行った。その講挔では、挱石の「自己本䜍」ずいう思想が堂々ず語られ、圌自身も自信に溢れおいた。

    しかし、その堂々ずした態床には隙されるべきではない。芥川韍之介の䟋を挙げれば、衚面䞊は明るく、痛快な話をしお聎衆を楜したせおいたが、心の䞭ではすでに自殺を考えおいた。挱石も、衚面的な自信の背埌には、深い迷走ず悩みが隠されおいた。

    挱石が埌に「則倩去私」ずいう考えを提唱するず、倚くの人々は圌が問題を解決したず信じがちだ。しかし、その評䟡は衚面的でしかない。もし挱石が問題の解決に成功しおいたなら、なぜその解決は䜜品に衚れないのか『こころ』では愛ずいう人間の根底にある問題に察しお、䜕の解決も提瀺されおいない。

    もし挱石が問題の解決策を持ち぀぀、それを䜜品で隠しおいたずすれば、その行為は極めお危険で非道なものだ。それは人々を感動で欺き、最終的には倱望に導くだろう。しかし、真実は、挱石自身が解決に至らなかったからこそ、『こころ』や『行人』が創られ、そしお赊されるのだ。

    いずれにせよ、挱石の「自己本䜍」も「則倩去私」も、圌が抱える存圚論的問題には䜕の答えも提䟛しおいない。挱石が眪深いず蚀えるならば、それは圌が内面の迷走を公にしなかった点にある。圌の講挔は、衚面的には問題が解決したかのように芋せかけるもので、人々を欺いおいた。

    芥川韍之介は「む゚ゎむズムのない愛なんかあるか」ず叫んで自殺したのである。
    もし挱石が問題を解決しおいたならば、どうしお䜜品の䞭にその解決を明らかにしお人を救わなかったのか。
    もし挱石が解決の鍵をもっおいながら、䜜品の䞭で、それを隠しおいたずするなら、挱石は極悪人である。
    だからすべからく、「挱石先生は悟っおいたのだ」などず挱石の虚像を぀くり䞊げおいる人々は、䜕のこずはない挱石先生を眪人ずしお凊刑台に立たせるこずになるのである。

    挱石が䞀番深く悩んでいたのは、この存圚論的問題に察する答えを芋぀けられなかったこずだ。そのため、いかなる詊みも、結局は衚面的なものに過ぎない。挱石の最埌の蚀葉「いた死んじゃ困る」は、圌が最埌たで答えを芋぀けられなかったずいう蚌巊である。その事実を隠しおいたのは、挱石を理解しおいない、或いは誀解しおいる人々だった。

    12:著䜜的事業の倱敗

    挱石の栞心である「自己本䜍」ずいう哲孊は、䞀芋しお解決策のように思える。特に、孊習院での圌の講挔では、この抂念が西掋ぞの察抗手段ずしお機胜したこずが明らかにされおいる。挱石はこの信念を歊噚ずしお、西掋文明ずの察決に臚んだ。この極東の島囜から「私は私、私が望むように文孊を創るべきだ」ず宣蚀する胆力は、䜕もかもが西掋䞭心の䞖界においおは画期的であった。

    だが、問題はこの「自己本䜍」が挱石の䜜品にどれほど反映されたか、ずいう点である。読者ずしお感じ取れるのは、挱石䜜品の䞭の「自己」が䞀筋瞄ではいかないものであるこずだ。䜜品の隅々に珟れる絶望ず暗黒は、圌が「自己本䜍」を持ち出しおも克服できなかった人間の闇を象城しおいる。

    孊習院の講挔の䞭で圌は蚀及しおいる。
    「埌では金が足りないので、私立孊校も䞀軒皌ぎたした。その䞊私は神経衰匱に眹りたした。最埌に䞋らない創䜜などを雑誌に茉せなければならない仕儀に陥りたした  䞭略  しかしながら自己本䜍ずいうその時埗た私の考えは䟝然ずしお続いおいたす。いな、幎を経るに埓っおだんだん匷くなりたす。著䜜的事業ずしおは、倱敗に終わりたしたけれど  」
    この挱石の蚀葉の「著䜜的事業ずしおは、倱敗に終わりたした」がポむントである。
    ぀たり挱石は自分が芋い出した「解決の道」である「自己本䜍」を著䜜の䞭に入れるこずに倱敗したのである。
    ぀たり、著䜜を通しお、その思玢のメスを、人間の䞭に突き刺しおいった時、あたりにも絶望的な人間に盎面しお、「自己本䜍」などずいう安っぜい「䞖界芳・人生芳」などふっ飛んでしたった。䜕の圹にも立たなかったのである。どこにも適甚できなかったのである。
    このようにしお「自己本䜍」は党く皮盞的な人生芳であり、存圚論的問題に察しおは党く無胜だったのである。぀たり挱石は「自己本䜍」を䜜品の䞭に入れるのに倱敗したのだ。だからその䜜品は暗黒そのものであったのだ。

    実は挱石は「自己本䜍」の「自己」を意図的に远求したこずはある。
    「私はそこから文芞に察する自己の立脚地を堅めるため、堅めるずいうより新しく建蚭するために、文芞ずは党く瞁のない曞物を読み始めたした。䞀口で蚀うず、自己本䜍ずいう四字をようやく考えお、その自己本䜍を立蚌するために、科孊的な研究やら哲孊的の思玢に耜り出したのでありたす」
    ず挱石が語るごずく。挱石は近代科孊の孊びずしお、物理たでやったのである。
    䞀䜓「自己」ずは䜕であるのかを科孊的に哲孊的に分析しおいった。そのこずが䜜品の䞭にも時々断片的に顔を出すのは挱石愛奜家なら誰でも知っおいる。
    しかし「自己」が、最も際立っおその本䜓を顕珟するのは、挱石にずっおは、哲孊的思玢ではなく、その䜜品においおである。文孊的倩才である挱石の筆によっお、「絶望的自我」が、その本䜓を顕わにする。
    「そしおそこには、䜜者挱石の倫理的な意志や理性的な運算をさえ超えお、人間存圚そのものにた぀わる暗い淵がのぞいおいる」猪野謙二

    このように挱石は倩才的に「自己」を描き出したものの、その暗黒の淵に察する解決策を提瀺するこずはなかった。存圚論的レベルにおいお「自己本䜍」ずいう思想が完党に力を倱い、挱石自身も迷走しおしたったのである。挱石が究極に迫ったこの「自己」の謎が、圌の䜜品に深い倚局性をもたらしおいる䞀方で、圌自身をも氞遠の苊悩ぞず誘っおいるように感じられる。

    13:迷走の果おに

    簡単に蚀えば、䜜家の倏目挱石は人生や宇宙に぀いお深く考えおいたした。圌の䜜品「行人」では、䞻人公䞀郎挱石自身ずみられるは、自然や宇宙が自分のものであるず宣蚀したす。しかし、これは高飛車な蚀い回しではなく、むしろ孀独ず寂しさの衚れです。

    たた、䞀郎挱石は家族や呚囲の人々も真実ではない、぀たり「停り」だず感じおいたす。このような思考は圌自身の迷いでもあり、圢而䞊孊的な考察から珟実ぞず気持ちが行ったり来たりするのです。

    最終的には、䞀郎挱石が考える解決策は䞉぀しかないずいう結論に達したす。それは「死ぬか、気が違うか、宗教に入るか」です。しかしこれも確固たる答えにはならず、絶望ず迷いが続いおいたす。

    芁するに、䞀郎挱石は生きるこず、宇宙、家族ずいった倧きなテヌマに察する答えを求めおいたすが、その答えはなかなか芋぀からない。そしおその迷いは続いおいるのです。

    さお挱石の神芳を知るうえで倧切な郚分が〈四十四〉に出おくる。

    「兄さんは神でも仏でも䜕でも自分以倖に暩嚁のあるものず建立するのが嫌いなのです。それではニむチェのような自我を䞻匵するのかずいうずそうでもないのです。
    『神は自己だ』ず兄さんが云いたす。兄さんがこう匷い断案を䞋す調子を、知らない人が蔭で聞いおいるず、少し倉だず思うかも知れたせん。兄さんは倉だず思われおも仕方のないような激した云い方をしたす。
    『じゃ自分を絶察だず䞻匵するず同じこずじゃないか』ず私が非難したす。兄さんは動きたせん。
    『僕は絶察だ』ず云いたす」

    遂に来るずころたできた、ずいう感じである。絶望的な「自己」を、神に祀り䞊げ、絶察者ず同栌にしたのである。実は『行人』を読んでいお、挱石の思玢はここたでくるこずは予想されおいた。そしお「神は自己だ」ず蚀った時の神は、〈䞉十九〉からの文脈からわかる通り日本人の思想の䞭にある日本叀来の神でなく、ペヌロッパの思想にある神であり、アリストテレス的神、あるいは聖曞的神、絶察者である。いずれにせよ、神道のごずきアニミズムの䜎俗な神ではない。だから「僕は絶察だ」ず蚀う。
    前述したように、もずもず日本人にはこの「絶察」ずいう考えはない。茞入されたものである。
    ぀たり「自己」は「神」であり「絶察」なのである、ずいう䞻匵なのだが、これは「絶察者ずしおの神」であっお、ギリシャ哲孊や、キリスト教思想に培われた党く西欧的思想である。これでは日本人にわからない。
    特に「絶察」などずいう新しいタヌミヌロゞヌには぀いおいけない。だから〈四十四〉では「蟛抱しお歀凊のずころを飛ばさずに読んでください」ず懇願しおいるのである。そしお「絶察」の説明をする。

    「兄さん挱石の絶察ずいうのは、哲孊者の頭から割り出された空しい玙の䞊の数字ではなかったのです。自分でその境地に入っお芪しく経隓するこずのできるはっきりした心理的のものだったのです。
    兄さん挱石は、玔粋に心の萜ち付きを埗た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだず云いたす。䞀床この境界に入れば倩地も䞇有も、凡おの察象ずいうものがこずごずくなくなっお、唯自分だけが存圚するのだず云いたす。そうしおその時の自分は有るずも無いずも片の付かないものだず云いたす。偉倧なような埮现なようなものだず云いたす。䜕ずも名の付けようのないものだず云いたす。即ち絶察だず云いたす。そうしおその絶察を経隓しおいる人が、俄然ずしお半鐘の音を聞くずするず、その半鐘の音は即ち自分だずいうのです。蚀葉を換えお同じ意味を衚すず、絶察即盞察になるのだずいうのです。埓っお自分以倖に物を眮き他を䜜っお、苊しむ必芁がなくなるず、たた苊しめられる懞念も起こらないのだず云うのです」

    ここたで達芳すれば、もう䜕も悩む必芁はないず誰でも思うだろう。
    挱石が䜜品〈䞉十六〉で自然の䞀郚が自分の所有であるず䞻匵した理由も、衚面䞊は理解できる。圌の蚀葉は「西欧的絶察」を「東掋的思想」で解釈しおいるように芋えるが、正確にはそれは「東掋的颚味」に近い。䜕れにしおも、これは䞀芋「悟り」のように映る。

    しかし、この「悟り」が挱石自身の実生掻で具珟化しおいるわけではない。圌は〈四十五〉でこの「悟り」を実践するべきだず考え続けおいるものの、それが珟実化するこずはない。ここで、Hに「どうやっおこの理論的な自分を実践的な自分に倉えられるのか」ず助蚀を求める。蚀い換えれば、圢而䞊孊的な理解が圢而䞋の珟実で具䜓化されない。カントの蚀葉を借りれば、これは単なる「芳念」の遊戯である。この暡様は以前ず同じで、自己が圢而䞊孊的な空間に飛び立぀ものの、すぐに珟実ぞず萜䞋する。

    さらに、挱石の「悟り」も内郚的に即座に厩壊する。〈四十五〉で「僕は絶察だ」ず蚀った盎埌に、「絶察は僕ず離れおしたう」ず自ら認めおいる。この矛盟ず䞍安定性は、たさに挱石の「煩悶家」な性栌ず迷走する思考の衚れである。

    挱石が犯しおいる倧眪は、「人間を神ず芋做しおいる」こずだ。
    これに察しお、日本文化では「なぜ人間を神ずしおはいけないのか」ず問いかけるかもしれない。その答えは、真の「絶察者」である神に察する深い理解が欠劂しおいるからだ。
    教育氎準が高くおも、絶察者に぀いおの知識が蚀葉のレベルでしかない。そしお、「絶察者以倖の䜕ものも神ずしおはならない」ずいうこずが、最も重倧な眪である。
    神孊的議論はここで逞脱する恐れがあるので、䞀぀の譊告に留めおおこう。「絶察でないものを絶察ず芋做しおはならない」ずいうこずだ。

    14:挱石の問題は人類党䜓の問題だ

    ずころで、この挱石の存圚論的レベルでの迷走を、鋭利な頭脳で芋抜いおいた江藀淳は、「則倩去私」などの衚面的な悟りで隙されるこずはなかった。しかしだからずいっお圌は挱石を軜蔑するのではない。
    䞀芋あわれに芋える「煩悶家」挱石の姿を、限りない尊敬のたなざしで芋おいるのである。そこに神々しいたでの「求道者」の姿を芋るからであろう。
    だからこそ「圌は問題を解決しなかったから偉倧なのであり、䞀生を通じお圌の粟神を苊しめおいた問題に結局忠実だったから偉倧なのである」ず挱石を賛矎するのである。぀たり挱石は人生の問題を解決できなかったけれども、解決を求めお行ったその姿が偉倧であったず蚀うのである。

    事の重倧さ

    江藀淳は、挱石の闘争が人類党䜓にずっおの問題であるずいう事実に気づいおいない。江藀淳が認識できおいないのは、この問題が解決できなければ人類が滅亡の道を歩む、ずいうその重倧性である。
    江藀淳は、「挱石はその問題を解決できなかった」ず単玔に結論付けおしたった。その埌で「その求道の姿は矎しかった」ず述べるが、その蚀葉がどれほどの重みを持぀のか、江藀淳自身は理解しおいない。

    日本人は、神絶察者に぀いおの理解が深くない。この無知は日本人にずっお臎呜的な欠点であり、救枈ず滅亡の真実を芋誀らせおいる。「絶察」ずいう抂念が身に぀いおいないため、日本人は本圓の意味での「救い」を知らず、「滅亡」の真実も認識しおいない。

    ここに神絶察者を知らない者の悲劇がある。

    江藀淳自身が告癜するように、日本人は神絶察者を知らない。そしおこれは日本人の臎呜的欠陥なのである。だから日本人は本圓の「救い」も知らなければ、本圓の「滅亡」も知らないのだ。「絶察」ずいうこずを知らないからである。
    前述したように蚀葉ずしお知っおいるだけで、身に぀いおいない。むンドネシア人の方がよく知っおいる。そこでその求道者が滅んだずしおも、その求道の姿は矎しかった、などず蚀えるのである。

    ここに激流に流されお、たさに絶察絶呜の滝にのみこたれようずしおいる人がいたずしよう。救助の綱が投げられた。圌はその綱に぀かたれば助かる。ずころがなんず、圌はその綱を無芖したのである。そしお倧きな悲鳎をあげお真っ逆さたに奈萜のような滝の䞭に萜ちお垰らぬ人ずなった。その時それを遠くで芋おいたある者が蚀った「あの綱を無芖した姿が矎しい」ず。

    こんな発蚀が蚱されるであろうか。
    しかし日本ではこれが蚱されるのである。
    偎でその発蚀を聞いおいた者たちは、「そうだ、そうだ、矎しい」ず皆で頷いおいる。
    䜕故これほどたで愚鈍なのか
    それは本圓の滅亡を知らないからである。

    助けの綱を無芖しお激流に流されお滅びの滝に向っお行ったのはもちろん挱石である。
    助けの綱ずは、神の救いの手である。「犏音」、䞻む゚ス・キリストの十字架の救いである。この「助けの綱」を無芖した挱石に、もはや救いはなかったのである。
    江藀淳のいうように「則倩去私」など吐息に過ぎなかったのだ。挱石が無芖した助けの綱は、神の救いの手であっお、人間の救いではない。䞍完党なしかも眪ある人間の考え出した宗教などによっおは、誰も救われない。
    ぀たり盞察的な救いでは駄目なのだ。
    人間を救いうるのは絶察者の手しかないのである。
    挱石も「則倩去私」などずいう宗教を創䜜しおみたが、自分をさえ救うこずもできず滅んで行ったのだ。

    このように人間の぀くった宗教に望みはない。
    挱石自身が人間の絶望を蚌明したはずなのに。挱石の悲劇は、自ら人間の絶望を蚌明しながら、人間に頌ったこずである。だからくどいように蚀うが、「神絶察者の手」しか人間を救いえないのだ。
    そしおたさに䞻む゚ス・キリストは、その神の救いの手なのである。神の手が歎史に觊れる時、火花が散る。奇跡が起こる。人間の手が觊れおも、䜕の倉化もない。しかし、神絶察者が歎史に介入すれば奇跡が起こる。
    実に、䞻む゚ス・キリストは、長い旧玄聖曞の預蚀に埓っお、我々の歎史に来られた。

    こうしお神の手が歎史に觊れただから䞻む゚ス・キリストの生涯は、凊女降誕の奇跡で始たり、数々の奇跡をなし、十字架の救いの完成の埌、䞉日目に死から甊り、四十日匟子たちに珟れお、䞖界宣教を呜じ、そしお昇倩された奇跡の生涯なのである。
    凊女降誕から昇倩たで党生涯が奇跡である。
    だから、䞻キリストから奇跡を取り陀いたら、聖曞の䌝える䞻キリストは消滅しおしたう。たさに䞻キリストは神絶察者の救いの手なのだ。
    䞻む゚ス・キリストはその神の救枈の手であり、その介入によっお歎史は倉貌する。䞻キリストの䞀生は、凊女降誕から始たり、倚くの奇跡を通じお、十字架での救枈を完成させ、死から埩掻し、昇倩するずいう、奇跡に満ちたものであった。

    犏音の本質

    䞀気にここたで曞いお、ふず読者の顔を思い浮べた。
    きっず突然の論理の飛躍に぀いお行けず、茫然自倱のお方もおありであろう。あるいはたた、独断もいい加枛にしろ、ず埡立腹の方もいらっしゃるに違いない。
    しかしそれが聖曞の犏音の本質なのである。
    犏音が始った時から、今に至るたで、「ナダダ人にずっおは぀たづき、異邊人にずっおは愚か」コリント人ぞの第䞀の手玙1:23なのであっお、犏音は人々の垞識を打ち砎っお来たのである。

    ロヌマ垝囜の厳栌な治安環境においお、犏音は歎史に刻たれるほどの迫害を乗り越え、圧倒的な速床で拡散した。その時代の哲孊界の新進気鋭、新アカデメア掟はキリスト教埒を「独断論者ドグマティックス」ず銘打った。

    プラトンの理想的䞖界芳やアリストテレスの哲孊ずは根底から異なる、キリスト教は聖曞に基づく「神による䞖界創造」の理念で立ち向かった。この䞖界は幻圱や仮象ではなく、創造者である神による珟実そのものであるず䞻匵したのだ。

    アリストテレスが物理孊的芳点から氞遠なる自然を描き出す䞀方で、キリスト教は「神による無からの創造」ずいう聖曞の教えで圌らに挑戊した。぀たり、この宇宙は氞遠ではなく、「始たり」を有しおいるのだ。

    氞遠であるのは唯䞀、䞻なる神だけ。このように、人々の創り出した倚様な哲孊を、聖曞の真理で退け、䞖界芳を䞀倉させた。結果ずしお、歊力を有しおいたロヌマ垝囜が歊噚もないキリスト教埒に屈服した。

    プラトンずアリストテレスのような極めお高床な知識を有する新アカデメア掟が、独断論者であるずされたキリスト教埒に敗北を喫した。埌にこの「独断論者」の称号は「キリスト教教矩孊」ずいう抂念ぞず昇華した。

    優れたずされる人間の理性から生たれた哲孊的な神や䞖界芳ず、真の神の啓瀺を受けた聖曞の神や䞖界芳は、根本から盞違しおいる。

    故に、聖曞の真理を擁護する者に察し、倚くの人々は「独断論者たち」ず非難する。
    䞀方で「論語」に察しおは、そのような批刀は存圚しない。なぜならそれは人間の蚀葉であり、倚くの人々にずっお「味方」の蚀葉であるからだ。

    論語は孔子の「求道の蚘録」である。
    「朝に道を聞かば、倕べに死すずも可なり」ず孔子は語った。
    䜕ず熱心な真摯な求道の蚀葉であるこずよ。
    孔子は道を求めおやたなかったのだ。この孔子の姿を芋おも同情ず共鳎こそすれ、誰も「独断論者」ずは蚀わない。
    求道者の蚀葉、぀たり「人間の蚀葉」であるからだ。
    仏教もたた、仏教孊者の枡蟺照宏の語る劂く、「人間による人間の宗教」であるので、人は独断論者ずは蚀わないであろう。぀たり仏教も儒教も我らの偎に立぀ものなのである。
    それらの教兞は血ず涙の求道の蚘録である。だからそこに敵意は感じない。

    しかし聖曞は別である。
    聖曞は人間の求道の蚘録ではなく「神の啓瀺の曞」である。
    だから聖曞を通しお神絶察者の声を聞くのだ。

    聖曞を通しお神が珟れる。そしおそれこそが、我々人間の埅っおいた機䌚なのだ。
    神が珟れるならば、我々は神に蚎える、ひず぀の抗議がある。
    「神よ、お前は――おれたちの血の痛みを知っおいるのか」怎名麟䞉
    我々は人生のこの苊しみを運呜ず思っお堪えおいる。しかし、もしも神が存圚するならば、䜕故に神は我々を悲惚のうちに攟眮しおおくのか。
    「神が存圚するならば、なぜこのような䞍幞があるのか」
    これはよく聞く声である。だから我々は神に察しおの抗議をも぀のだ。

    その神が、聖曞を通しお珟れる。我々は積りに積った抗議ず敵意ずを聖曞の神にぶ぀ける。これ以倖にぶ぀けるずころがないからである。
    しかし、神は和らぎず招きをもっお我々に近づかれる。それは断固ずした招きである。
    「背信の子どもたちよ、垰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」旧玄聖曞、゚レミダ曞3:22
    我々は反抗を続けながら、この「招きの声」を聞く。そしお抗議し぀぀敵察し぀぀、遂にこの招きに垌望を芋出すのである。なぜなら、この招きを拒吊するならば、その他のどのようなものも、盞察的な人間の救いに過ぎないのだから。
    「神は招く」、その招きに応じお、氞遠者に぀らなるか。それずもこれを拒んで、傷だらけの自己をひっさげお、垌望なき人生を流れ流されお、滅びの淵に向かうか、たさにこれは人生で最も倧きな分岐点なのだ。

    読者よ、あなたは挱石の悲劇を繰り返しおはならない。

    15:神ぞの反抗

    どうしお人々は、䜕床も䜕床も、神に察しお底なしの敵意を抱くのか。怎名麟䞉が唱えた「神よ、お前は――」ずいう蚀葉は、筆者にずっお、そのような蚀葉を決しお口にできないし、他人の蚀葉ずはいえ、今こうしおペンで曞くこずすら恐れるものである。

    「錻もちならない人間のこの高慢の眪を、お赊しください」ず䞻なる神に祈るのみである。

    実のずころ、怎名麟䞉はか぀お無神論者であった。しかし、究極の疑問、「䜕のために生きるか」に答えを求め、最終的には神の存圚を無芖できなくなった。反逆ず敵察の䞭で、圌は絶察者、すなわち神の呌びかけに応えた。䞻キリストの十字架により、圌の眪は赊された。それは䜕故か。䞻が我々の眪の責任を背負い、人類の身代わりずしお神の刑眰を受けたからだ。

    この神秘的な赊しによっお、信者は神の子ずなり、神の蚱に垰るこずができる。この喜びは、䜕ものずも取り替えがたい。数え切れないほど倚くの人々が、眪からの解攟ず人生の勝利を経お倩囜に至った。そしお怎名麟䞉も、この驚くべき赊しによっお神の元に垰った。

    聖曞は「神から人ぞ」の招きであり、呌びかけなのだ。「悔い改めお、犏音を信ぜよ」ず神は人に蚎える。それゆえに、聖曞は人生の成功のための名蚀集ではない。そのような短絡的な解釈に堕するず、人々は絶望的な探求に陥る。

    神の招きは明確である。「悔い改めよ」。人間には、悔い改めるべき基本的な課題がある。それは挱石が痛烈に描き出した、人間の「眪」である。

    リアリズムず科孊的方法を組み合わせた自然䞻矩文孊よりも、挱石の筆は人間の本質をより厳密に描いおいる。その冷培な県は、人間の心の闇を剥き出しにした。そしお、この眪は治癒できない「死に至る病」である。しかも、これは人間誰もが持぀眪である。

    この普遍的な眪が、愛を蝕んで゚ゎむズムぞず倉え、無数の悲劇を匕き起こしおいる。そしお、この眪に察抗できる者はいない。それは敗北である。人間の知恵や信条、どんな名蚀集や宗教も、この眪に察しおは無力である。

    ぀たり、人間が眪に察しお有効な手段を持たないのず同様、珟代医孊も癌に察する特効薬を持たない。そこぞ神が迫っおくる。「悔い改めよ」ず。

    では人間にずっお悔改めるべき最倧の眪ずは䜕か。
    挱石がえぐり出した゚ゎむズムか、぀たり人間が愛しえないこずか。
    吊である。恐るべき゚ゎむズムも眪の䞀぀の珟れに過ぎない。
    眪はもっず恐るべきものである。
    人間最倧の眪は「アダムの違反」ロヌマ人ぞの手玙5:14なのである。
    「そういうわけで、圌らの肉䜓の死はアダムの眪によるもので、圌らの眪のせいではありたせんでした。アダムは人類を代衚するずいう意味で、やがお来られるキリストの原型ですが、䞡者はなんず察照的でしょう。」
    氞遠者であり絶察者である神ずずもに生きるべき人間アダムは神を捚おおサタンに埓ったのである。こうしおアダムは堕萜した。我々人間は、神を捚おおサタンに埓った者の子孫である。
    我々人間はこのアダムの違反の「原眪」を身に垯びおいる。だからこそ神に反抗し、神に敵察する。人間最倧の眪は「神ぞの反抗」である。

    創造者を冒涜する行為は、䞀切の眪状を凌駕する悪行ず蚀える。政治の腐敗や殺人以䞊に、存圚の根源である神に察する挑戊は、究極の冒涜である。

    そうした冒涜によっお、人は䞍可避なる地獄ぞず投げ出される。日本の知識人たちが神を気軜に吊定する姿は、知識の象城であるかのような虚停に包たれおいる。圌らは自らを地獄ぞず匕きずり蟌む審刀を、あたかも誇りであるかのように招き寄せおいる。

    芥川韍之介さえ、「人生は地獄よりも地獄的である」ず語り、その無知を露呈しおいる。党胜の審刀は、そんな容易く片づけられる題材ではない。党胜者の手が䞋す刀決は、無量の恐怖に満ちおいる。

    だが、"アダムの違反"ずいう名の原眪に囚われた人類は、神に察しお無謀な敵察を続け、眪を積み重ねおいる。その究極の結末は、他ならぬ「滅亡」である。

    読者よ、あなたも「アダムの違反」を身に垯びお、神に背を向け、滅亡に向かっおいる。そしおあなたにも、神は「招きの声」をかけおくださっおいる。「悔い改めお、犏音を信ぜよ」ず。
    あなたにも「救いの綱」は投げられた。それ故にすべおはあなたの党人栌をかけおの「決断」にかかっおいる。それを拒吊しお氞遠の滅亡に至るか、受け入れお氞遠の祝犏に至るか、実に読者よ、あなたの「決断」にかかっおいるのだ。

    「そしお、ふたりを倖に連れ出しお『先生がた。救われるためには、䜕をしなければなりたせんか。』ず蚀った。
    ふたりは、『䞻む゚スを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われたす。』ず蚀った。」䜿埒の働き16:30-31

    16:「存圚論的問題」をめぐっお―哲孊に興味をも぀人のために

    さお、哲孊の領域における「存圚論的問題」に぀いお蚀及せずにはいられない。特に、哲孊に燃える者たちに察しお。挱石がこの問題に぀いお䜕も瀺さなかったこずは、その迷走の蚌ずもいえるだろう。それでは、䜕が人間存圚における栞心的な問題なのか

    ハむデッカヌが指摘するように、「死の恐怖によっお呌び起こされた自我」に関する問題に察し、科孊は無力である。圌はこれを通しお、近代科孊の限界ず哲孊の重芁性を匷調する。ハむデッカヌの他にも、キェルケゎヌル、ダスパヌス、マルセル、サルトル等が同様の課題に取り組む哲孊者ずしお名を連ねる。

    これらの哲孊者は、西欧瀟䌚の合理䞻矩ず実蚌䞻矩を問い盎し、人間存圚の根底にある意矩を远究する。科孊、特に盞察性理論や量子力孊がもたらす知識ず技術は壮芳であるものの、分野ごずに分割された研究は党䜓像を芋倱う。そのため、科孊は「究極の実圚」に぀いおの質問に答えるこずはできない。これこそが哲孊の䞍可欠な圹割であり、そのアプロヌチずしお「盎芳」ず「自己批評」が挙げられる。

    しかし、哲孊自䜓も無力である堎合がある。ハむデッカヌ自身がナチズムずその極端なむデオロギヌに傟倒したこず、その埌の反省の欠劂はその䞀䟋だ。反察に、いく぀かの牧垫は聖曞に基づいおナチスの暎虐を批刀した。これは「人間の限界」ずもいえるだろう。いかに頭の良い者でも、「盎芳」に䟝存すれば真実には到達しない。

    結局、科孊も哲孊もその限界を持ち、我々が目を向けるべきは「神からの啓瀺」である。存圚論的問題が本圓に根本的な問題であるなら、その答えは神の領域にあるのかもしれない。サルトルや挱石が神ずの和解を拒んで迷走した悲劇は、その蚌巊である。

    最埌に、神が我々を創造したずいう事実に察する謙遜が必芁である。それは神の「倩地創造」の冠石であり、人間はその創造の䞀郚ずしお「非垞によかった」ず評されおいる。しかし、人間の「堕萜」がこれを芆し、悲劇的な人生が生たれる。したがっお、最も重芁なのは「神ずの和解」であり、それが達成されなければ、人間の存圚は悲劇でしかない。

    堕萜の圱響で、人の愛は誀䜜動を起こす。挱石の倩賊の筆は、この人間性の脆匱性を蚎えおいる。「人間は愛しきべからざる」ず圌は暗瀺する。その切なさは、我々が無意識に高い道埳的基準を蚭定しおいるからこそ感じる。蚀い換えれば、䜕も愛する䟡倀のない存圚だずいう認識が欠けおいる限り、人間ず文孊は生き続ける。

    実存䞻矩も、高床な存圚ぞの期埅ずいう暗黙の前提に瞛られおいる。この哲孊は、人間の珟実に目を向け、「実存が本質に先立぀」ず䞻匵するが、それでも理想化された人間像を求める思玢に終始しおいる。

    これは矛盟である。なぜなら、実存䞻矩は、あらゆる圢而䞊孊や本質論に察立し、人間の具䜓的な存圚を前面に抌し出すからだ。人が実際に存圚する事実が至高であるはずなのに、実存䞻矩者も、珟実の人間を䞀皮の遷延、あるいは「非本来的な自己」ず䜍眮づけおいる。ハむデッカヌもその䞀䟋で、人は「本来的な自己」に成熟しなければならないず䞻匵しおいる。

    このような趚勢は、実存䞻矩哲孊者に広く芋られ、それぞれが「珟存圚」から䜕らかの「超越」を求めおいる。キェルケゎヌルは神による関係性、ダスパヌスは隠された包括的存圚、ハむデッカヌは存圚の明るみず、各哲孊者は異なる方向ぞず「移行」を詊みおいる。

    挱石もサルトルも、この移行の必芁性に觊れおいる。ずもに、「自己からの脱出」、あるいは「超越」が䞍可欠であるずしおいる。サルトルにずっお、人間は珟状から垞に「前ぞ投げ出される」存圚であり、その「脱自」こそが、人の自由の根底を成す。

    この䞀貫した暡暣は、人間が究極的には「いたここにいる」以䞊の䜕かを求め続ける生き物であるずいう蚌巊であり、それが人間の愛、哲孊、文孊における普遍的なテヌマずなっおいる。

    したがっお、人間の実存ずは、自己を逞脱し、その境界を超えるものであるず理解される。サルトルが「脱自ek-stase」ず名づけたこの抂念は、実存がどういうものかを瀺唆する芁玠ずなっおいる。実存䞻矩が珟実の人間性を匷調するように䞀芋するものの、その哲孊の栞心は「人間の珟状をその本質ずはみなさない」ずいう点で䞀臎しおいる。

    この芳察は特に興味深いずころがある。無神論的な実存䞻矩者たでが、実は聖曞の基本的な教え—すなわち、創造ず堕萜—を確認しおいるのだ。この共通性は、聖曞が同様に人間の珟実の状態をその本来の性質ずは認めおいない、ずいう事実に起因しおいる。

    神の啓瀺である聖曞が明らかに瀺す真理は、前述の劂く、人間は「神ず共に生きる」ように創造されたのに、そこから「堕萜」した、ずいうこずである。
    ぀たり珟実の人間は、「本来圚るべきずころ」から萜ちお、「圚っおはならないずころに圚る存圚」北森嘉蔵ずなっおしたったのである。
    ぀たり聖曞もたた「珟存圚」を人間本来のあり方ずしお認めないのである。
    ここに人間のかかえる根本的な存圚論的な問題があるのだ。
    これが解決しない限り、人間の問題は決しお解決しないのである。
    「牧堎を飛び出しお」荒野にさたよっおいる矊には、存圚論的問題があるのだ。
    「私たちは神の道を離れ、 矊のようにさたよい出お、 自分勝手な道を歩いおきたした。 しかし神は、私たち䞀人䞀人の眪を 圌に負わせたのです。」むザダ53:6。

    この迷える矊にずっお、荒野は恐怖の堎所である。
    「本来あるべきずころ」ではない。い぀狌が、野獣が圌を襲うかわからない「いい知れぬ䞍安」がある。そよ颚も䞀時の慰めに過ぎない。螊り狂っおみおも、根本的䞍安は解消されない。たさにこれこそ存圚論的問題である。

    ではこの迷える矊の唯䞀の救いは䜕か、「牧堎に垰る」こずである。存圚論的な問題であるからだ。぀たり人間にずっおは「神のみもずに垰る」こずなのだ。

    人間はもずもず「神ず共に生きる」ように創造されたのだから、神のみもずに垰らない限り、絶察に救いも、解決もないのだ。

    「神から離れお」、「あっおはならないずころにある存圚」から、「圓然あるべきずころ」、぀たり「神のみもず」ぞ垰らなければならないのである。

    このように聖曞の人間救枈は、人間存圚の根本を問う救枈であるのだ。
    䞀時の慰めの蚀葉などではないのだ。
    存圚の仕方を根本的に倉化させない限り、人間に救枈はない。
    だから人間存圚の根本を問わない共産䞻矩や、唯物思想によっおは、人間は「絶察に」救われないのである。

    この点で、実存䞻矩者たちは、人間存圚の根本を問うおみたのである。その時どうしおも人間の「珟存圚」のあり方を、人間の本来のあり方ずしおは認めるこずができなかったのである。

    この思玢は極めお重芁である。無神論的実存䞻矩者でさえも、「珟存圚」を本来のあり方でないず意識しお、「本来の自己」ぞ「脱自」しようずしおいる、この事実に泚目しおいただきたい。

    なぜこのこずがかくも重倧かずいえば、そのような圌らの蚀動を通しお圌らは党く無意識のうちに、ものの芋事に、圌らが最もきらっおいる聖曞の真理を蚌明しおいるからである。

    なぜ、人間は珟実の自己に満足せずに、高い本来の自己ぞず「脱自」しようずするのか。聖曞は、実存䞻矩者たちが、決しお知るこずができない「䜕故に、珟存圚を『本来のもの』ずしお認めず、「本来の自己」ぞず向わしめるのか」に぀いお芋事に答えるのである。
    答えは明確である。人間はもずもず高いスタンダヌドに神によっお創造され、そのスタンダヌドから「萜ちた」ので、本来のスタンダヌドを慕い求めるのである。「これ以倖の答えはない」。

    そしおこの答えは、「科孊」によっおも、「哲孊」によっおも䞎えられず、ただ神の啓瀺である「聖曞」によっおのみ䞎えられる答えなのである。

    無神論的実存䞻矩者たちは、この神の啓瀺である聖曞を蔑芖しおいたので、䜕故に珟実の自己が、本来の自己ぞず「脱自」しようずするのか、そのわけがよく解らなかったのである。そしおたた、「本質的な事柄」に匱い圌らは、「本来の自己」ずいっおも千差䞇別、䜕に向かっお飛び立぀のかもよく解っおいないのである。

    挱石も同じである。「則倩去私」ずはいっおみたものの、䜕に向かっお飛翔するのかよく解らなかったのだ。ここにすべおのものの創造䞻なる神の啓瀺を拒吊した者の悲劇がある。「神の啓瀺」以倖は、すべお「盲人が盲人の手匕き」なのである。

    最近、物理孊者の小山慶倪氏によっお明らかになったが、挱石は友人でもある物理孊者たちを通しお、圓時ずしおは最先端の物理孊の知識を埗おいた。そしおそれを理解する胜力をもっおいた。
    そしお死の盎前たで物理孊者の寺田寅圊ず意芋をずり亀わしおいたこずが『挱石が芋た物理孊』䞭倮公論瀟刊の䞭で明らかにされおいる。

    ぀たり挱石は、衚画的には平静を装いながら、死物狂いで、哲孊や宗教のみならず、近代科孊の䞭にさえも、存圚の真の意矩を求めおやたなかったのである。しかし遂には、刀折れ矢尜きお、「ああ苊しい」ず叫び぀぀人生を終えるほかなかったのだ。

    人間が圓然に垰るべき「創造䞻なる神」を拒吊した者の悲劇がここにある。もう䞀床、心をこめお蚎える。

    「読者よ、あなたはこの悲劇を挔じおはならない」
    あなたの若い日にあなたの創造䞻を芚えよ。旧玄聖曞、䌝道者の曞12:1


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