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靴ひもと、嘘の百点

    振り返っても、かなり、いや、ぎゅうぎゅうパツパツにパッキングされた「恥」満載の人生を送ってきた。
    その中でも、奇跡と呼ぶにはパンチが弱く、救いと呼ぶには甘ったるい夜の話をしたい。

    三十歳になった彼は、居酒屋のカウンターで、スニーカーを見せた。
    私は、彼の靴ひもを見て、泣いた。

    ……そんな話だ。

    私は、小学校教師だった。
    なりたくてなったわけじゃない。親に言われるまま進んだ先が、教員養成の大学だっただけだ。入学するまで、先生になる大学だとも知らなかった。
    それ、今、自分でもちょっと笑える。

    流されるがままに、教員免許を取って、そのまま卒業した。
    二十二歳で、小学校教師になった。
    でも、すぐ辞めるつもりだった。
    「みんなで仲良くしましょうね」と言うような先生役を、自分ができるとは思わなかったからだ。

    それでも、子どもたちは「先生、先生」と慕ってくれた。
    その声に押されるように、私は教師になっていった。

    朝は誰よりも早く学校へ行き、子どもたちを迎えた。
    保護者への連絡ノートを書き、テストにはひとりひとりにメッセージを書いた。
    やっと、自分が必要とされる場所を見つけた気がしていた。

    でも、教師になって八年目、高学年を担任した頃から、何もかもが空回りし始めた。
    保護者から怒鳴られ、責められ、休み時間には使われていない教室の隅でうずくまって泣いた。

    恐る恐る扉を開けた心療内科で、うつ病だと言われた。
    「薬を飲んでいれば、半年で治ります」
    そう言った、あの主治医は元気だろうか。
    私は、ぜんぜん元気じゃなかった。

    二度、死のうとした。
    一度目は、処方された薬を、カレー皿いっぱいに盛って飲んだ。
    でも、目が覚めたら集中治療室だった。
    二度目は、山奥で練炭を炊いた。
    それでも、死ねなかった。

    死ぬのって、思ったより難しいんだな、と、そのとき知った。
    できれば、知りたくない種類の知識だった。

    精神科に入院して、私は教師を辞めた。
    それから私は、教師だったことを、なるべく思い出さないようにして生きていた。
    思い出せば、うまくいかなかったことばかりが先に浮かぶからだ。
    子どもたちの顔より先に、怒鳴り声や、眠れなかった夜や、死ねなかった朝が浮かぶ。
    それは、なかなか後味の悪い記憶の再生方法だった。

    そんなある日、友だちに誘われて、人気の居酒屋へ行った。
    店は、混んでいた。
    私たちはカウンターに座った。
    若い店主が、チラチラとこちらを見たあとで、言った。

    「……〇〇先生ですか?」

    胸が、どきっとした。
    私はもう、教師だった自分を忘れたふりをして生きていたからだ。

    「先生じゃないですが、〇〇です」

    そう答えると、店主の顔がぱっと明るくなった。

    「やっぱり。声でハッとして、お顔を見て確信しました。覚えていますか? 〇〇です」

    私は、その顔をまじまじと見た。
    背がひょろっと高くて、髭を生やし、長い髪を後ろで結んでいる。
    でも、くしゃっと笑ったときの、あの少し弱気な笑顔でわかった。

    「〇〇〇〇君だ!」

    一、二年生のとき、私が担任していた子だった。
    あの子が、髭を生やし、人気店の店主になっていた。
    二十三年ぶりに、居酒屋で、偶然再会するなんて、思ってもいなかった。

    でも、私は、自分が恥ずかしかった。
    だから、自虐ネタばかり話した。
    うまくいかなかったことも、教師を辞めたことも、冗談みたいに話した。
    本当は軽くなんてなかったけれど、そのほうが、その場で崩れずに済んだからだ。

    その夜の店は混んでいて、彼も仕事中だった。
    何人ものお客さんが、食べて、飲んで、笑って帰っていった。
    そのたびに彼は忙しく動き回っていた。
    それでも、時々、話しかけてくれた。

    私はなるべく「ただの客です」みたいな顔をして、ノンアルビールを飲んでいた。
    本当は、人前でごはんを食べるのも得意じゃないけど、その夜は、彼が焼いた焼き鳥を食べた。
    あの小さかった子が、焼き鳥を焼いて、店を切り盛りしている。
    しみじみ時間の流れを感じる、焼き鳥の味だった。

    彼は、馴染みの客に「担任の先生が来た」と、自慢げに嬉しそうに話していた。私は、正直「やめてくれ」と思った。
    それでも、もはやヤケクソで、おどけたふりで会話のほうへと、ピースサインを送った。

    でも、まあ、神様ギフトみたいな夜の始まりとしては、なかなか上出来だった。

    そして、彼は、まだ営業時間の途中だったのに、店先のドアを開けて、外をきょろきょろ見た。
    それから行灯の灯りを消し、店を閉めた。
    最後のお客さんが帰るのを待って、カウンターの中から出てきて、私の隣に座った。

    サプライズミニ同窓会の始まりだった。

    彼はビールを飲み、私はお茶を飲んだ。
    彼は、嬉しそうに話し始めた。

    「先生が、僕に、漢字の楽しさを教えてくれました。漢検も取りましたよ」

    私は、へっ?という顔をした。
    あの君が、漢検?

    「テストの花丸とメッセージ、嬉しかったんです。〇〇も、〇〇も、先生の話をよくしています。学校、楽しかったって」

    漢検の二文字を聞いた瞬間、ひとつの春の日が戻ってきていた。

    私は、毎週、漢字テストをしていた。
    彼は、いつも一生懸命なのに、なかなか百点が取れない子だった。
    百点の子には、私は、イラスト風に目と鼻と口をつけたスペシャル百点と、特大のスペシャルはなまるを書いていた。
    いま思うと、少し浮かれた採点方法だった気もする。
    でも、当時の私はわりと本気だったし、彼は、それが欲しくて、毎週ほんとうに頑張っていた。

    だんだん本人だけじゃなく、家族総出で本気になってきた。
    ある週には、お母さん手作りのお守りまで持参してきた。
    彼は、陰陽師みたいな顔で、お守りを握りしめながら漢字テストに向かっていた。
    小学生の漢字テストにかける熱量としては、かなりのものだった。

    なかなか百点が取れない日が続いていた、あの日。彼は鼻息を荒くして言った。

    「今日、百点取ったら、お母さんが職場に電話してねって。だから、がんばる」

    私は、その時点で、まあまあプレッシャーを感じていた。
    恐る恐る採点してみたら、惜しかった。
    「親」の中の「見る」が、一本足りなかったのだ。

    私は、内心思っていた。
    君の親は、木の上に立って、君の漢字テストをガン見しているというのに。
    「親」を間違えるなんて、と。
    それさえ合っていれば百点だった。

    私は、しばらく赤ペンを持ったまま止まっていた。
    教師としての良心と、今日こそスペシャル百点をあげたい気持ちが、机の上で正面衝突した。

    でも、決めた。
    この怨念に満ちた戦いを終わらせようと。

    私は、誰も見ていないのを確かめて、赤ペンをそっと置き、鉛筆に持ち替えた。
    そして、ドキドキしながら、足りなかった一本を、すっと足した。
    それから何事もなかったみたいに、百点と、特大のスペシャルはなまるを書いた。

    「〇〇君、百点だよ! やったね」

    そう言うと、彼は、目を潤ませながら、そのテストを宝物みたいに抱えて帰っていった。

    ……その話を、店を閉めたあとの居酒屋で、私は笑いながら話した。
    すると彼も笑った。

    「マジっすか? 救いの神じゃないっすか! 俺、漢検取れたのヤバくないっすか?」

    そう言って、うれしそうに笑った。
    私の悪事に、二十三年ぶりに、ずいぶん明るい判決が降りた瞬間だった。

    それから彼は、おもむろに立ち上がって、足元のスニーカーを見せるみたいに、つま先を少し前に出した。

    「先生!」

    そう言って、くしゃっとした笑顔と靴ひもを見せて言った。

    「先生が、僕に、靴ひもの結び方を教えてくれたんです。だから、今、スニーカーを履いて、歩けています」

    あの放課後の教室。
    一年生だったその子と私。

    「くるっと輪っかを作って、その輪にこっちの紐を通して」

    何度もやり直しながら、ちょうちょ結びの練習を続けた、先生として生きていた日々がいっぺんに蘇った。

    私は、靴ひもを見て、泣いた。

    百点にした日も。
    靴ひもを結ぶ練習をした日も。
    私の中では、とっくに遠い昔の、ほどけた記憶になっていた。
    でも、その子の中では、ちゃんと結ばれたまま残っていた。

    壊れたことも、辞めたことも、死ねなかったことも。
    私の人生は、ほどけていくものばかりだと思っていた。

    でも、私には、この手で結べたものがあった。
    この手で書いた百点があった。
    この手で結び方を教えた靴ひもがあった。
    私の手を離れたあとも、ほどけずに残っていたものが、あったのだ。

    私は、泣きながら、彼のスニーカーの靴ひもを見つめ続けた。

    店を出たあとの夜風は、少し冷たかった。
    それでも、帰り道の私は、久しぶりに自分の手がほんの少し誇らしく思えた。

    ほどけたままの人生を、また、この手で結び直せるのかもしれない。
    そんなことを思いながら、私は、履き慣れたスニーカーで、夜の道をゆっくり歩いた。

    #創作大賞2026
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    ことばが好きです。🌱 書き溜めたエッセイが、気づけば100本以上貯金できました。書くたびに、その話に似合う声を探しています。 エッセイ、ミステリー、ファンタジー小説。毎日ことばを掘っています。(TALESにも投稿してます)

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