
錆びたバン
確かこの辺りに喫煙所があったはずだ。大きな積み木を重ねたような建物の東側、別府湾が見えるテラスの隅っこにシルバーのスタンド灰皿がある。煙草を一本取りだして火を点けると、横にいた姉はもうすでに電子タバコを吸い始めていた。いつから電子にしたん? と聞くと、姉は、結構前やな、と言う。風はない。二人して吐き出した青白い煙は形を保ったまま浮いている。僕らは煙草を二本ずつ吸う。
待合室の窓から甥が顔を覗かせて、お母さんー、と呼んでいる。もう焼けたんか? と姉に訊くと、姉は、まだやろ、と煙草を灰皿に捨てて建物の中に入っていった。
父は錆びたバンで火葬場にやって来た。金箔を貼った龍の車とまではいかなくても、黒い商用車みたいな車を想像していた。目を丸くしていると、同じような顔をした姉と目が合って笑いそうになる。錆びたバンが横付けされ、葬儀屋さんがお待たせしました、と丁寧に頭を下げた。バックドアを開け、タンカーを引っ張り出すとそのままガラガラと建物の中に入っていった。葬儀屋名を書いたジャンパーに作業ズボンという姿も相まって、納品みたいやな、と小声で言うと、姉は吹き出したのだった。
三本目の煙草を吸う気になれず、建物の中に入る。自動販売機を見つけて缶コーヒーを買い、姉と甥の分にリンゴジュースを二本買った。
大部屋からドッと笑い声が聞こえる。開けっ放しにされた襖の向こうに何人か喪服が見えた。祖父の時はこの部屋だったか。リンゴジュースを自販機から拾い上げながら考える。あの時は親戚が一堂に会した。子どもだった僕らは和室で走り回っていた。
廊下沿いの部屋のひとつに、アディダスのスニーカーと小さな子供の運動靴が並んでいる。ジュースを三本抱えたまま襖を開ける。さっきの部屋に比べてずいぶん狭い和室を甥が走り回っていた。走らんの、と言いながらリンゴジュースを渡すと、甥は姉の横に座って、あけてー、と甘えた。
低いテーブルをはさんで姉と甥の向かいに座る。なんか似てきたな、と二人に言うと、甥は恥ずかしそうに首を傾げた。何時間かかるん? と部屋に飾ってある大きな時計を見ながら姉に訊く。別府じいちゃんの時は二時間くらいじゃねかったかな? と姉は答え、ペットボトルのキャップで遊び始めた甥に、あんたこぼすなえ、と続けた。
父を運び終えた葬儀屋さんに、清算は後日で、と言われていたことを思い出して安心する。葬儀屋さんは、あとこちらも、と言ってバンの中から遺影と位牌を取り出した。カラープリンタとマジックペンのインクが雨に濡れて滲んでいた。葬儀屋さんは、ではこれで、と頭を下げると錆びたバンに乗って元来た道を帰っていった。風はない。バンから出てくる青白い排気ガスがしつこく浮いたままだった。葬儀屋さんを見送って父が運ばれた火葬炉へ向かうと、もうすでに火が点けられたあとだった。
ペットボトルのキャップに早々に飽きた甥は姉のひざを枕にしてうとうとし始めている。そういやおかんは? と姉に訊くと、来るわけねえやろ、と笑った。そらそうだ、と思いながら、父親のアパートを想像する。一人暮らしの割には部屋が多いアパート。ヘルパーさんが入るようになって幾分かましになったが、山のように積みあがった釣り道具やごみで、床がほとんど見えず、常に磯の臭いが漂っている。
父と母が離婚する前、一度だけ父親と彼の仕事仲間たちと船に乗って釣りに連れて行ってもらったことがある。早朝、釣りに行こうとする父は、たまには遊びに連れて行ってやらんか、と母にひどく怒られた。父は、子どもは危ねえやろうが、と最後まで粘っていたが、母の剣幕に押されて渋々連れていくことになった。広い海や大きな魚が見れるもんだと喜んだが、結局、父から、船の上では危ないからここ入っちょけ、とデッキの魚倉に一日中閉じ込められたのだった。
たまたま一階の部屋やったし良かったわ。駆けつけた病院でそう姉は言った。デイサービスの迎えに来た職員さんが窓の外から倒れている父を見つけ、救急隊と窓を割って入ったらしい。釣り道具をかき分けて運び出されたであろう父を想像し、このあと父のアパートを片付けている姉と自分も想像してぞっとする。
ふいに、あんた結婚せんの? と姉に言われる。そのうち、と答えて白を切ってみたが、子どもを作るなら相手の歳を考えないといけない、という姉のいつもの説教になり、うんうん、と適当に返事をしてスマホを開いた。これから二時間、映画でも見ようかと思ったが、適当なものが見つからず、ニュースを開いたり漫画を開いたりしたが、やはり適当なものは見つからない。試しに『焼き場 待ち時間』とインターネットで検索してみたが、故人をしのぶ思い出話をする、と書いていて途端に面倒くさくなってやめた。壁にかけてある時計を見たが、さっきより少しだけ動いていて壊れているわけではないようだった。
吸いたいわけではなかったが、煙草行ってくるわ、と姉に言って和室を出た。三十年前の祖父、十年前の大叔母。これまで二回来ていたが、覚えていたのは喫煙所の場所くらいで、細かい建物のつくりは覚えていなかった。
張り紙もない壁がのっぺりと広がっている。さっきの大家族がいた部屋は湯呑や空き缶が机の一か所にまとめて置かれ、もう誰もいなくなっていた。喪服すら着ていない自分と姉と甥を彼らはどう見えていたのかと思い、なんだか急にジーパンでうろうろしていることが恥ずかしくなって外に出た。
入り口から建物の南側を回って東側まで歩く。振り返って火葬場を見ると煙が昇っている。やはり風はなく、いつまでもそこに貼りついたままだった。遠くに見える別府湾は穏やかで白波も立っていない。晴れていたら四国も見えるんだけど、と思った瞬間、大事なことを思い出して慌てて部屋へ戻った。
建物の中に入ると姉と甥が靴を履いて部屋を出ていこうとしているところだった。もう終わったらしいけん、と姉が言う。甥はあくびをしながら、どこ行くん? と聞いたが、どちらも答えなかった。なんか早くない? と姉の後に続いて歩く。性能が良くなったんやねんな、と姉は言った。
白い壁の四角い部屋へ通される。変な場所だと思ったのは、四方の壁のうち、三方に窓があったからだろう。部屋の真ん中にはステンレスの寝台があり、むっとする熱気を放つ白い骨が横たわっていた。泣き出したりしないかと心配になって甥を見てみると、唇を真一文字に結んでじっと骨を見ていて安心した。
女の係の人から骨壺の中に骨を入れていってほしいと言われる。そこまではやってくれないのかと思いながらトングを持った。続けて係の人は喉のあたりに喉仏があるから、それは最後に入れてほしいと言われた。どれから入れていいのか姉と迷っていると、係の人がコツは大腿骨のような大きな骨を最初に入れることだと教えてくれた。コツだけに、とくだらないことをつぶやくと係の人はぎょっとした顔でこちらを見ていた。
大腿骨は骨壺より大きい。いや、骨壺が大腿骨より小さいのか。折って入れていいと言われて、そうなんですか? と姉が驚いた。全部の骨を入れないといけないと聞いて、ため息が出そうになる。姉と甥と手分けして骨を骨壺にバキバキと押し込めていく。寝台から伝わる熱気に汗だくになりながら骨を入れる僕らを係の人は静かに見守っている。沈黙が居心地悪くて、これは骨が折れる作業ですね、と冗談を言ってみたが誰も何も言わなかった。
頭蓋骨まで来ると姉が裏側を見て、これは血の跡かな、と言った。表面の骨は白かったが、内側の骨は赤みがかっていた。さあ、と答えると、姉は、脳出血やったらしいけんこれがその跡やわ、と決めつけたのだった。
喉仏は誰が入れるか。祖父の時、母は先陣を切って長い箸を手に持ちタイミングを窺っていたことを思い出した。ここは長男だろうと諭された母は後ろへ下がり、伯父が恭しく喉仏を骨壺にしまっていた。そういった喉仏役というのがあるのなら長男の自分がしなければならないのか、と喉仏を探したが、熱い寝台を前に一生懸命骨を押し込めている甥を見て、お前が入れろ、と譲った。
じっと横に立っていた係の人が、そちらですね、と言う。砕けた骨の粉の中に、胡坐をかいているような骨があった。甥は慎重にトングで拾うと静かに骨壺に入れる。分厚い手袋をした係の人が、それでは、と言って壺に蓋をする。バキバキと音を立てて父は壺の中にすべて入った。
壺は木の箱に入れられ、白い布で結ばれた。ありがとうございました、と係の人に言い、布の結び目を握る。あやうく手土産みたいに持ち帰るところだったが、抱えるやろ、と姉に言われ、両手で下から支えた。
建物の外に出ると、雨は止んでいた。姉の車のトランクに遺骨を入れようとして、膝の上やろ、と言われる。助手席に座り膝の上に抱えた木の箱ははまだほんのり温かかった。
駐車場から出ていく車の窓から別府湾が見えた。さっき考えていたことを思い出し、この骨どうするん? と姉に訊く。そりゃお墓に入れるやろ、と答える姉に、愛媛まで誰が持ってくんよ、と訊ねたが、彼女は、うーん、と言ったきり黙ってしまった。
スマホを取り出し『佐賀関 愛媛 フェリー 料金』と調べる。車の大きさによって料金が違うことを知る。この車何メートル? と訊いたが姉は、知らん、とぶっきらぼうに答える。ワゴンだから余裕を見て大きめに見積もって運転者込みで9,800円、甥は学校があるから連れて行かないし、大人一人1,200円。さっきの葬儀代が40万円だったから――とスマホの電卓を叩く。銀行の通帳アプリを開いてため息をついて、これから片付けに行く父のアパートに何か売れそうなものはないかと期待している。