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『湯の魚』最終話|10-6 温泉の匂い

       10-6

     一体、わたしは何をしているのだろうか。車が迫ってくる度に電柱にさっと隠れるヤヨイさんを見て馬鹿らしく思う。
     旭町温泉から帰ってきたわたしたちは早速衣装に着替えた。ガウン一枚だと寒いし見つかったら本当に変態になってしまうからとジャンバーの上からガウンを羽織ってはその格好に二人して笑い転げ、こんなことで儀式的には大丈夫なのか、と心配するわたしに、外見なんてどうでもいいでしょ、と矛盾したことを言うヤヨイさんとお腹が痛くなるまで笑って楽しくやっていたはずなのに、いざ本当に外に出てみると自分がやっていることの馬鹿らしさに呆れてしまったのだった。
     ヤヨイさんの言う目的の神社はスーパーのすぐ裏手にある。マンションから二百メートルも離れていないことが、儀式のために人に見られてはまずいヤヨイさん的にも、恥ずかしくて見られたくないわたしにとっても幸いだった。
    「てか、それって詐欺だよ。訴えたら勝てるじゃん」
     思い出したようにヤヨイさんが振り向く。静まり返った通りには人の姿はない。スーパーの横を通り過ぎる。窓から中を覗くと薄暗い店内に並ぶ商品棚がひっそりと佇んでいた。
     結局、男は待ち合わせ場所に現れなかった。その後電話も繋がらず、友達だと男を紹介した同僚に訊ねてみても、うちも分からへん、と苦笑いするだけだった。もちろん無責任な男に対して怒りはあったけれど、わたしはどこか安心すらしていた。男に産んでくれと迫られることもなければ、何より結婚を求められることもない。全てわたしの選択に委ねられたことが楽だったのだ。
    「もういいんです。これはわたしの失敗だから」
     ふーん、と間の抜けた声を出し、再び前を向いて歩き始める彼女の後を追う。
     なんとか人に見つからず神社にたどり着く。ヤヨイさんは、まずご神木の様子を見よう、と鳥居をくぐった。境内まで続く石畳に沿って両側に大きな銀杏の木が並んでいる。ご神木は境内向かって右側にあった。人が五人手を繋げても届くか分からないほど立派な銀杏の木だ。回りには白い柵が設けられ、迂闊に入り込めそうになかった。
    「こんな立派な木に釘なんて刺したら逆にこっちが祟られそうだね」
     少し作戦会議をしようということになり、境内の賽銭箱に身を隠すようにして二人で階段に腰かける。寒くない? と訊いてガウンを脱ごうとしたヤヨイさんを制して、大丈夫ですよ、と答える。彼女はタバコに火を点けてわたしの右側、風下に座り直した。
    「それで、ヒーコちゃんはどうしたいの?」
     ガウンの袖を撫でながらヤヨイさんの吐き出す煙を目で追う。 彼女の吐き出した煙はゆっくり立ち昇り、鐘にぶつかって消えていった。
    「どうしましょうかね」
     十二週を過ぎると中絶には入院が必要になるかもしれないという話を女医から聞いたとき、これは期限だと思った。十二週では遅いかもしれない。ならば十一週までは他人事でいよう。
     幸いなことにこの数週間は本当に他人事でいられるくらいに忙しかった。仕事を辞め、祖母の家に荷物を送り、マンションを引き払って新幹線に飛び乗った。祖母の家には弟の嫁だと言う見知らぬ女がいて、彼女は林田の店で働く風俗嬢だった上に、藁人形を打とうとしているような変わった女だった。それだけではない。街や同級生の変化に驚き、弟の成長に寂しくもなった。
     その傍らで手帳に書き込まれる暗号のような数字は容赦なく増えていった。わたしが他人事でいる間、この子は猛スピードで成長し、まるで出世魚のように胎芽から胎児と呼び名が変化もした。それなのに、わたしはまだ選択をできないでいる。もうとっくに日付は「11-1」になっているというのに。
    「どうしましょうかねえ」
     そうわたしの真似をするヤヨイさんはタバコを揉み消すと藁人形の腹の中に吸殻を入れてしまった。
    「何してるんですか?」
    「だって呪う人の何かを入れないといけないんじゃないの?」
     あっけに取られていると、ヤヨイさんは立ち上がって勝手に歩き始めた。慌てて後についていく。
    「それだと自分を呪うってことになっちゃいますよ?」
    「そうだよ」
     当然でしょうというような顔でにっこりと笑ったヤヨイさんは、一本の銀杏の木を指差した。先ほど見たご神木とは違ってヤヨイさんとわたし二人で手を繋げば届くくらいの太さしかない。暗がりの中、眼を凝らしてよく見ると、ちょうどわたしたちの目線の高さに絵馬の形に切った板が針金で固定されていた。板には矢印と「御手洗」という文字が墨で書かれている。ヤヨイさんは木に近づいて藁人形を「手」の文字の上に置くと、五寸釘を左手で支えてコンコンと金槌で軽く打ちつけ始めた。
    「自分を呪わずして誰を呪えというの?」
     ヤヨイさんはそう呟くと金槌をゆっくり頭の上に持ち上げ、勢いよく振り下ろした。金槌は見事に五寸釘の頭を捕らえる。想像していたものに比べるといささか安っぽい音ではあるが、深夜の街に不釣合いなほど大きい音でもある。どこか遠くで犬が鳴き始る。ヤヨイさんの顔を見るのが怖くて、わたしは規則正しく鳴り続ける打音を聞いて誰かが来るのではないだろうかと震えた。
    「ヒーコちゃんもやる?」
     ヤヨイさんは肩で息をしながら金槌を差し出した。
    「いや、わたしは――」
     わたしが呪うべき人間は誰だろうか。わたしを捨てた母だろうか。わたしを孕ませた男だろうか。それとも望んでいなかったお腹の子だろうか。

     いや、違うな。

     わたしは自分の髪の毛を一本引きちぎると五寸釘がめり込んでいる藁人形の腹に無理矢理押し込んだ。ヤヨイさんから受け取った金槌を振りかぶり釘に落す。狙ったはずなのに板を打ってしまう。もう一度。ヤヨイさんは何が面白いのか背後でくすくす笑っている。ゆっくり打ち下ろした金槌が釘の頭に当たる。右手がしびれる感触。安っぽい金属音が耳を刺す。わたしは何をやっているのだろう。そう考えると自然と笑みがこぼれてくる。もう一度、もう一度、もう一度。犬が狂ったように騒いでいる。わたしとヤヨイさんの笑い声も大きくなる。
     面倒だ。両手で金槌を持ち大きく振りかぶる。両腕に上半身の重量を乗せ、釘にめがけて金槌を振り下ろしながら、明日は部屋を片付けようとわたしはすでに決めている。

    了

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

     
     
    働きながら、日々のことを書いています。 無理にがんばらなくても、いっか。 そんな空気が伝われば嬉しいです。

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