【掌編小説】練習のつもりでやればいい(2205文字)
「ぜんぶ練習のつもりでやればいいんだよ。ね?」
ベッドの中、彼女はそうささやいて私を抱きしめた。彼女の口からその言葉を聞くのは何回目だろうか。
練習のつもりで本当にいいのか、という思いが脳裏をよぎる。それなのに、彼女の声と抱擁が、身体中に甘く染み込んで。なにも考えられなくなり、すべてがとろけていった。
朝、目が覚めてベッドから起き上がると、彼女は隣にいなかった。すでに仕事に出かけたのだろう。枕元のスマホがピロン、と鳴る。見ると、彼女からメッセージが届いていた。
「きょうも、練習のつもりでやればいいんだよ」
「ありがとう」という文字とクマのスタンプを送ってから、スマホをスリープさせた。ふたたびベッドに寝そべる。シーツの彼女の寝ていた方を、指でするするとなぞった。あのぬくもりがもうそこにないことを確かめると、このままでいいのか、という考えが湧き上がってくる。
ふたりで暮らし始めて数年。彼女から毎日浴びせられる、「練習のつもりでやればいい」という言葉は、心地よい。腕の中に収まり、微笑まれ、優しい声をかけられれば、ぜんぶがどうでもよくなってしまう。しかし、こうして離れたとき、私は正気に戻る。
彼女と出会う前の私は、なんでも本番のつもりで取り組んでいた。学業も趣味も、やるからには全力。結果も出していた。けれどある日、身体を壊した。過労だった。本気でやるのが良いのだと思い続けてきたのに、それは間違いだったのか。信念が揺らいだ。そんなときに目の前に現れたのが彼女だった。
「あなたは本気になりすぎ。もっと気をゆるめて、練習のつもりでやればいいんだよ」
その言葉はあたたかくて、傷ついた私を癒してくれた。私は彼女に溺れた。
それからというもの、彼女からもらった「練習のつもりでやればいい」は私の頭にこびりつき、あらゆる場面で発揮されるようになった。彼女に出会ってから、仕事も趣味も、私は本気になりきれない。失敗しても「練習だったのだから、いいや」と思ってしまう。進歩はなく、ただ停滞している。
頭では理解している。すべて「練習のつもりやればでいい」わけがない。練習と本番のメリハリが大切なのだ。きょうこそ彼女にそう伝えなければ。そう決意するのに、夜が来て抱きしめられたら、また思考は溶けていく。
このままでいいのか。いや、いいわけがない。スマホを手に取り、メッセージアプリの彼女とのトーク画面を表示する。そして、ブロック画面へと移る。深呼吸してから、ボタンを押した。
旅行カバンに当分の衣類や生活用品を詰めていく。部屋を出る前に、書き置きを残した。
「いまの関係は、私たちのためにならないと思います。練習ではなくて、本気で向き合いたい。仕事も趣味も、あなた自身にも。だから一度、あなたから離れます」
それから私は本気になった。仕事も趣味も、その一瞬一瞬をすべて替えのきかない本番のつもりで打ち込む。それでも彼女の声はふとしたときに蘇る。それを振り払いながら過ごすうち、だんだんと周囲の私を見る目が変わってくるのを感じた。
ふたり暮らしの部屋から去って一か月が経った。昼休憩中、オフィスでコーヒーを飲みながら資料に目を通していると、課長から声をかけられた。
「あなた最近、調子良いよね」
「わかりますか」
「ええ。いままで、どこか本気じゃなかったでしょう。でもこのごろは、ぜんぶ全力、ぜんぶ本番! って感じで。とても良いと思うよ」
「ありがとうございます!」
全力の、本番。そうだ、私はついに本気に戻れたのだ。いまの私なら、彼女に向き合える。メッセージアプリのブロックを解除し、彼女へとメッセージを送った。
「今夜、帰ります」
一か月ぶりに部屋の扉の前に立った。本気の全力の本番。この私を彼女にぶつけるのだ。
ダイニングに続く扉を開く。彼女はいつもと変わらない微笑みを浮かべ、そこにいた。
「おかえり」
久しぶりに聞いた優しい声に、決意が溶かされそうになる。いや、だめだ。私は本気だ。彼女の目を見つめる。
「急にいなくなって、ごめん」
「うん」
彼女はうなずく。私は言葉に力を込める。
「このままじゃダメになっちゃうと思ったんだよ。あなたはいつも『練習のつもりでやればいい』って言ってくれる。でも、私は本気になりたいんだ」
「うん」
「ねぇ、なんで『練習のつもりでやればいい』って言うの?」
「あなたは忘れたちゃったのかしら。あなたは全力を出しすぎて、倒れたでしょう? 合っていないんだよ、本当は」
「だけどぜんぶ練習じゃ、いつまで経っても同じ場所で足踏みするだけだよ! 私はあなたと一緒に進んでいきたいんだ!」
力強く言い放った。どうか、届いてほしい。
「そう……」
彼女の瞳が潤む。本気が伝わったのだ。私は彼女に近づき、そっと抱き寄せた。
「分かってくれたんだよね。嬉しい」
「うん。……良い練習だったね」
え? 驚いて身体を離そうとした瞬間、私の背中に腕が回される。力が強い。離れられない。彼女は言葉を続けた。
「本気のセリフの練習。上手だったよ?」
「なに言ってるの。これは練習なんかじゃ……!」
「本気で進みたいのなら、私のところに戻ってこないでしょ? いいんだよ。ずっとここにいよう。ね?」
彼女はそうささやいて私をきつく抱きしめた。その声と抱擁が、身体中に甘く染み込んで。与えられる毒に、なにも考えられなくなり、すべてがとろけていった。