
Protocol_3:開封と下処理 開かれた冷蔵庫
Subunit_1:静寂の肉
午前3時を過ぎても、冷蔵庫は開いたままだった。
川島光莉は、床に膝をつき、ただ冷気を浴びていた。
中を覗いているわけでもない。
何かを取り出す気もない。
ただ――そこに口を向けていないと、不安になるのだった。
冷蔵庫の奥。
何も見えない、はずだった。
なのに、たしかに「感じる」のだ。
奥のさらに奥、冷却ファンの向こう。
笑っている“誰か”の吐息のような、濡れた空気。
静かに、
しかし確実に彼女の肌にまとわりつき、
喉の奥へ染み込んでくる。
ピピッ。
自動で冷蔵庫が閉じかけた。
反射的に、光莉は手を差し入れた。
――閉じさせては、いけない。
“誰か”が、閉じられてしまう。
もしくは、“誰か”が――出てこられなくなる。
---
それより数日前――
川島光莉は一人で、新宿警察署・生活安全課の相談窓口に座っていた。
目の前にいる中年の刑事は、終始にこやかだった。
いや、にこやかというよりも、“笑顔を貼りつけている”ような表情だった。
「ええと……何度もご近所さんが、勝手に玄関先に料理や物を置いてくるんです。
断っても続くし、郵便物も何か触られたような跡があって……正直、怖くて……」
光莉の訴えに対し、警官は丁寧にうなずきながら、
しかし一言一言を、薄く切り分けるように返す。
「なるほど、なるほど……それは大変ですねぇ……うーん……」
そして、また笑う。
目は笑っていない。
「でもですね、川島さん。
お話を伺う限り、直接的な暴力行為や器物損壊のような事実がないとなると……
警察としては“民事不介入”の範囲になるんですね」
「……それって、“何か起きてからじゃないと動けない”ってことですか?」
「そうですねぇ、正確に言えば“明確な被害が確認された後”ということになります」
光莉は眉をひそめ、机の上で拳を握った。
「じゃあ……誰かが勝手に家に物を入れても、
笑って見てるしかないんですか?」
「ご近所づきあいって、難しいですよねぇ。
でも“親切心”でやってくれている可能性もありますし……」
また、笑った。
ピクリとも動かない口角。
その歯列の奥で、何かが蠢いた気がした。
「……ありがとうございました」
光莉はそれ以上何も言えず、席を立った。
廊下を出た後も、背中に視線がついてくるような感覚があった。
あの刑事の目。
絶対に、何か“知っている”。
---
部屋に戻ると、隆斗がソファに座ってスマホをいじっていた。
光莉が玄関を開ける音に反応し、顔だけを上げる。
「どこ行ってたんだよ」
帰宅すると、隆斗がソファに座りながら、顔を上げた。
スマホをいじる手は止めない。
「警察に行ってたの」
「は?」
光莉は上着を脱ぎながら答えた。
「相談しようと思って。あの、住人たちの……勝手に物を置かれる件」
隆斗はスマホを置いて、立ち上がった。
「お前、ふざけてんのか? それ、“親切”でやってくれてるんだろ?!」
光莉は、ぐっと拳を握った。
「それ、親切って呼べる!?
鍵閉めても誰か入ってるし、勝手に食べ物置いて、郵便物いじって……!
どう見てもおかしいでしょ!」
「お前さ、最近マジで被害妄想ひどいぞ?
ご近所づきあいもできないのか?」
「“気遣い”って名乗れば、何してもいいの!?
体の中にまで勝手に入り込んでくる、そんなの……」

「いい加減にしろよ光莉!!」
隆斗の怒鳴り声が、狭い部屋に響いた。
光莉はその瞬間、何かがプツンと切れた気がした。
目を見開いて、言葉を飲み込んだ。
「……もう、いい」
「……じゃ、好きにすれば」
隆斗のその声は、突き放すようでいて、
どこか冷めた他人のような響きだった。
光莉の胸に、氷の欠片が落ちたような冷たい痛みが残った。
それを最後に、二人は口をきかなくなった。
翌朝も、隆斗は何も言わずに出て行った。
夜になっても戻ってこなかった。
それが一日だけのことだとは、光莉も思っていた。
だが――それが、始まりだった。
それから十日間余り。
冷え切った空気が、澱のように二人の間に重なっていった。
---
隆斗は戻ってこない日が続き、たまに帰ってきても、
光莉とは視線を合わせようともしなかった。
そして、ある夜を境に、完全に姿を消した。
光莉は、戻らない彼を信じたかった。
でも、信じるには、日々の“異物”が多すぎた。
マンションの住人たちの親切は、形を変えて続いた。
ポストに入っていたクッキー。
ドアノブにぶら下げられた煮物の入った袋。
すべてに、“もう渡す側の顔になってますね”というメモが添えられていた。
誰も来たのを見ていない。
しかし、誰かが確実に“部屋の中”まで侵入している。
家の匂いも、わずかに変わってきていた。
あの、冷蔵庫の――奥の奥から漂う、“あの匂い”。
それは“食べ物の匂い”ではなかった。
どこか、鉄と汗が腐ったような、舌の奥で苦く残る匂い。
そして、光莉は気づく。
それは、自分の皮膚の内側にも、残っているのだ。
──自分の“中”にも、入り込んでいる。
午前3時12分。
冷蔵庫の前に、光莉は膝をついていた。
白い光が静かに室内を照らし、
彼女の顔色を死者のように青白く浮かび上がらせていた。
冷蔵庫の扉は開け放たれたまま。
中から漂う冷気に、光莉の髪がわずかに揺れた。
タッパーが置かれていた。
見覚えのない蓋。
赤黒いしみが、縁に指でなぞったようにこびりついている。
そのタッパーの上には、またもやメモ。
《今度はちゃんと味見しました。いつもありがとうございます。》
読んだ瞬間、背中に「コツ……ン」と音が響いた。
光莉は、冷蔵庫の扉を閉めることができなかった。
いや、“閉めてはいけない”と思った。
そこに、“まだ誰かがいる”。
それが“出られなくなる”前に。
それから数日後の22時。
チャイムが鳴った。
こんな時間に、誰が――
光莉は立ち上がると、冷蔵庫の扉を開けたまま、
ンターフォンに向かった。
「新宿警察署の者です。お話、少しよろしいでしょうか。
少しだけ、確認したいことがありまして」
モニターに映っていたのは、二人の刑事。
一人は初めてみる顔。
でも、もう一人は―
あの時に生活安全課で対応した、あの刑事。
(警察?)
光莉は、咄嗟に「出てはいけない」と思った。
身体が強張り、手が扉に伸びかけた。
「どうして……何を……確認するんですか?」
モニター越しに光莉は不穏な気持ちを抑えながら
インターフォンで答えた。
「隆斗さんの職場から通報がありまして。
……お連れ合いの、八束隆斗さんの件です。
まだ、戻っておられませんか?」
隆斗。
その名前を聞いた瞬間、
冷蔵庫の奥で、「コツ……ン」と何かが落ちた音がした。
光莉は玄関に向かい、扉をゆっくりと開いた。
廊下に立っていたのは、あの時対応した中年の刑事と若い巡査だった。
どちらの顔にも笑顔があった。
それは、光莉に不安を与えないようにとする配慮だったかも知れないが
だが、2人の感情は“無音”だった。
そう、目だけが笑っているように見えただけで、顔には表情がなかった。
足音、衣擦れ、呼吸――
全てが抑えられているような不自然な静けさ。
「八束隆斗さん、数日前から職場に姿を見せておらず、
職場から貴方にも連絡を入れたとのことですが、ご存じないですか?」
光莉には身に覚えのない事だった。
そういえば、ここ数日家の電話はなっていない。
「隆斗の実家へは?」
「ご実家にも連絡がつきません。
その前に
そして――最後に目撃されたのが、このマンションの前です」
光莉の視線が揺れた。
「……いえ、あの……数日前までは……一緒に……」
言いかけて、飲み込む。
隆斗がいた記憶。
だが、それがどこまで現実だったか、わからない。
「でも、何で警察が介入するですか?民事不介入ってあの時おっしゃいましたよね?」
「川島さん、失踪者が仕事や親族連絡含め“72時間以上音信不通”で
同居の相手が所在不明であり、かつ“住居を離れた痕跡がない”場合、
≪特異行方不明者≫として対応するんです。」
笑顔をはりつかせたまま無感情のまま答える。
「おや、お怪我ですか?」
若い巡査が言った。
光莉の手が、小さく震えているのに気づいたようだった。
光莉は思わず両手を背中に回すようにして隠した。
左手の薬指の第一関節には、深く、細く、赤い切り傷が走っていた。
「……何でも、ありません……」
「失礼ですが、中を少し見せていただいても……?」
刑事の声は丁寧だった。
だがその一言が、光莉の中の何かを震わせた。
――冷蔵庫。
「あの、少しだけ……整理が……」
刑事は「もちろん」と頷いた。
だが、その視線が一瞬、光莉の背後
――キッチンの方向を盗み見たように感じられた。
まるで、すでに“知っている”ような顔だった。
光莉は、背後の冷蔵庫に目を向けた。
中では、タッパーがひとつ、カタリと揺れていた。
Subunit_2:封じられた出口
警察が帰ったのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。
西日が部屋の隅を斜めに切り裂いていて、
光莉はカーテンを引く気になれなかった。
中年の刑事と若い巡査は、礼儀正しく、丁寧に部屋を見て回った。
だが、冷蔵庫の中だけは、一瞥しただけで何も言わなかった。
むしろ――避けていたようにさえ見えた。
「何かあれば、またこちらからご連絡します」
刑事は最後にそう言い残して、笑顔のまま玄関を閉めた。
ドアの鍵が“カチリ”と音を立てた瞬間、光莉の背中に冷たい汗が伝った。
それは外気の冷たさではない。
“今からまた一人になる”という感覚が、胸を強く締めつけたのだった。
部屋には、何も変化がないように見えた。
だが――気配が、違う。
さっきまでの刑事たちの靴音も、話し声も、まるで嘘のように消えていた。
あの刑事の目――あれは何かを“知っていた”。
けれど、決して“言わなかった”。
冷蔵庫の扉が、ほんのわずかに開いていた。
閉めたはずなのに。
近づくと、中から冷気とともに“生温い何か”が這い出してくる。
光莉は吸い込まれるように、その前に膝をついた。
そして――ようやく気づく。
自分の指が、さっき若い巡査に見られた小さな切り傷から、
まだうっすらと滲んでいることを。
冷蔵庫の中には、いつの間にかタッパーが3つに増えていた。
どれも蓋に赤黒いしみが滲んでいる。
その隣に、小さな付箋が貼られていた。
《ちゃんと届いています。ご協力、感謝します。》
「届いて……る……?」
誰に? どこへ?
そもそも“私が送った”というのか?
光莉は震える手でタッパーに触れようとしたが、
指先に“拒絶”されるような感覚があった。
違う。これは“私のもの”じゃない。
でも、“私の中から来た何か”である気がする。
ふと、リビングの隅に置いていたスマートフォンに手を伸ばす。
圏外。
Wi-Fiも切れていた。
「……また……?」
再起動。無意味。
そして、ルーターのランプがひとつだけ――赤く点滅していた。
通信遮断。孤立。隔絶。
そう言われているようだった。
玄関の鍵をもう一度確認する。
かかっていた。
ドアチェーンも問題ない。
けれど、足元の郵便投函口がわずかに揺れている。
“カタカタ……”という、風とも違う音。
しゃがみこんで覗くと、
向こうから茶色い紙袋が差し込まれてくるのが見えた。
あの、油染みのある袋。
中には、煮物のパックと、名刺が入っていた。
「〇〇マンション共助会 贈与部」
川島光莉 様
『あなたのご協力に、心より感謝申し上げます』
裏返すと、赤い手書き文字で、
《贈ることは、祝福です》
光莉は名刺を破ろうとした。
だが、指が動かなかった。
破ろうとするたびに、胃の奥から突き上げるような吐き気が起きる。
全身が拒絶し、同時に服従している――そんな矛盾を孕んだ感覚。
冷蔵庫が、また“開いて”いた。
開けていないのに、いつの間にか。
そこに、ひときわ大きなタッパーが鎮座していた。
蓋の上には、白い短冊のような紙が貼られていた。
《これで、あなたも立派に渡せます》
冷蔵庫の奥が、笑っていた。
そこに、“口”があった。
唇のような、裂けた空間。
「まだ、足りない……けど、もう、ほとんど“あなた”はできあがってる」
声は、濡れた布を擦るような音に乗って、耳の奥に滑り込む。
「わたし……何を……」
「あなたは、もう“中”に入ってる。
外に出る必要なんて、ないでしょう?」
冷蔵庫の中から、自分自身の声が返ってきたような気がした。
光莉は、とにかく――部屋から出ようとした。
逃げなければ。どこでもいい。ここではない場所へ。
玄関の扉を開ける。
だが、外が“反転”していた。
天井が床に、左右が入れ替わっているように、
廊下の空間がぐにゃりと内側に折れていた。
ぬるりとした空気。
どこか、内臓の中に立っているような粘つき。
住人たちが並んでいた。
無言で、笑顔だけを浮かべて。
その中央に、あの白いワンピースの少女がいた。
光莉を見上げて、こう囁いた。
「もう、光莉ちゃんは、“受け取る顔”してないもんね」
その瞬間、背後の冷蔵庫がバタンッと閉まる音がした。
振り向くと、リビングの電灯がひとつ、明滅していた。
ポン――という破裂音とともに、ひとつだけ切れた。
“出口は、もうない”。
そう、部屋が言っている気がした。
郵便受けが、再び音を立てた。
今度は、何も入っていないはずの投函口から、“
中”に向かって風が吹き込んできた。
逆風だった。
“外”は、もう存在しない。
この部屋が、“世界の全部”になった。
「わたしは……もう、“渡す側”なの……?」
誰に問いかけたのかわからない。
だが、冷蔵庫の中から、くぐもった嗤いが返ってきた。
やがて、冷蔵庫の奥――その“口”がこう囁いた。
「次は、調理の時間ですね」
Subunit_3:肉の記憶
月曜の朝、目が覚めたとき、光莉は床に横たわっていた。
リビングのど真ん中、ラグの上。
布団の中ではない。記憶もない。
気づくと、両手が油でぬめっていた。
床にぽつぽつと、何かが垂れたような跡。
立ち上がろうとして、違和感に気づいた。
右の手首に、包丁を握っていた感覚だけが、まだ残っていたのだ。
だが、どこを探しても包丁は見当たらない。
シンクの中、調理台、戸棚――
きれいに片づけられすぎていて、逆に不自然だった。
冷蔵庫の扉を開ける。
そこには――空っぽのタッパーがひとつ。
洗われた痕跡があるが、蓋の裏だけ、うっすらと赤黒く滲んでいた。
メモが貼られていた。
《とても美味しかったです。ごちそうさまでした。》
光莉は、何も食べていない。
誰にも渡していない。
だが、誰かが“食べた”という事実だけが、そこにある。
ふと、台所のゴミ箱に目をやる。
開けると、濡れた布巾、割れた小皿の欠片、輪ゴム、ビニール袋。
その中に――見覚えのある黒いTシャツの切れ端があった。
「……隆斗……?」
つぶやいた瞬間、胃の底がぐらりと揺れた。
走って洗面所へ向かい、吐いた。
何も出なかった。
ただ酸っぱい粘液だけが喉に張りついた。
鏡を見た。
そこに映る自分の顔が――どこか変だった。
頬がこけている。
目の下に、深いクマ。
そして――唇が、わずかに笑っている。
「……笑って……ない」
そう思った。
でも、口角がゆっくりと上がっていく。
鏡の中の“それ”が、勝手に笑っている。
歯の隙間に、赤黒い繊維のようなものが挟まっていた。
指でそっとつまむと、それは繊維ではなく、薄い皮膚だった。
「……う、あ……」
また吐き気。
でも、それはもう恐怖ではなかった。
むしろ――どこか懐かしい、記憶のような味がした。
その日の夕方、また郵便受けに封筒が差し込まれていた。
開けると、中には手書きの書状と、紙製の感謝状が入っていた。
《〇〇マンション共助会 贈与部》
このたびは、第一段階の供物をお納めいただき、
深く感謝申し上げます。
次の段階につきましては、改めてご連絡差し上げます。
追伸:お体の変化にご留意ください。
「……変化……?」
光莉は、思わず腹部に手を当てた。
特に異常はなかった。
だが――
背中の真ん中あたりに、何か硬い“しこり”のようなものが触れた。
寝室へ向かい、背中を鏡で確認しようとした。
だが、鏡に映った自分の背中に、“赤い線”が浮かび上がっていた。
真一文字の、切り口のような線。
そして――
その線が、ゆっくりと“開いて”いく錯覚を、光莉は感じた。
「やめて……やめて、やめて……!」
叫んだ。
だが声は、部屋の壁に吸い込まれて消えた。
リビングに戻ると、テーブルの上にタッパーが置かれていた。
さっきまでなかったのに。
中には、柔らかく煮込まれた肉片と、赤く染まった大根、ししとう。
それは、あの“最初の煮物”とまったく同じ構成だった。
ただひとつ違っていたのは――
その中に、銀色のネックレスが沈んでいた。
見覚えのあるもの。
かつて、隆斗が誕生日に光莉へ贈ったものだった。
光莉は、タッパーを持ってキッチンに走った。
蓋を開ける。
肉の匂いが鼻をつく。
「……やだ……やだ、やだ……!!」
涙が止まらなかった。
だが――その涙の底で、胃の奥が蠢くように鳴った。
鳴ったのは、空腹ではなかった。
**何かが“欲している音”**だった。
“食べろ”。
冷蔵庫の中から、声がした。
“食べて、渡す。それがあなたの役割でしょう?”
光莉は、泣きながら叫んだ。
「私、何もしてない!!
こんなこと……誰が……!!」
すると、リビングの奥――テレビの画面が勝手に点いた。
そこには、自分の姿が映っていた。
台所で包丁を研ぎ、鍋に肉を入れ、煮込み、
タッパーに詰め、メモを貼る“自分”の姿。
映像の中の自分が、振り返って、笑った。
その笑顔は、あの住人たちと同じだった。
「……嘘……」
背中のしこりが、じんわりと熱を持ち始めた。
胸が焼ける。目が霞む。
吐き気と、空腹と、記憶の混濁が交錯していく。
気づくと、テーブルの前に座っていた。
手にはスプーン。
目の前には、煮物。
食べる。
口の中で、肉がほぐれる。
やわらかく、ほんのりと甘い。
「……ああ……」
涙が溢れた。
美味しかった。
本当に、美味しかった。
その夜――光莉は夢を見た。
冷蔵庫の中。
肉と指と目玉が並ぶ中に、隆斗がいた。
微笑んでいた。
そして、こう言った。
「ありがとう。美味しくしてくれて」
光莉は、返した。
「また……作るからね」
自分の声ではなかった。
“渡す側の声”だった。
冷蔵庫の奥が、ぱっくりと開いた。
中に、ひとつ空いたスペースがある。
そこに、自分がすっぽりと入る未来を、
光莉は確かに“知っていた”。
Subunit_4:調理の準備
火曜日の朝。
光莉は、エプロンを着けていた。
前日の“こと”は、すべて夢だったように感じた。
包丁も、ネックレスも、肉片も、どこにもなかった。
でも、匂いだけは残っていた。
キッチンに立つと、シンクの中に、小さなボウルが伏せて置かれていた。
中には、何かを切った断面がべったりと張りついている。
玉ねぎでも、じゃがいもでもない。
――もっと、柔らかく、もっと赤いもの。
冷蔵庫を開けた。
中には、新品のままのラップと、大量の保存袋。
タッパーは一つもなかった。
代わりに、白い短冊のメモがあった。
《これからは、ご自分で保存してくださいね。》
「……わたし……?」
そのとき、チャイムが鳴った。
モニターには、あの少女が映っていた。
白いワンピース。無表情。
しかし、今日は“手に袋を持っていなかった”。
かわりに、首から名札を下げていた。
「贈与訓練生」
と書かれていた。
「おはよう、光莉ちゃん。今日から“指導役”だって」
光莉は、何も考えず、ドアを開けた。
少女はするりと中に入り、玄関で靴を揃えると、
光莉のほうをじっと見上げた。
「今夜はね、来るんだって。“第一の材料”が」
「……第一……?」
少女はにこりともせず、ただ目を細めた。
「冷蔵庫、空けておいてね」
その言葉を残し、出ていった。
ドアが閉まってからの方が、部屋が冷えた気がした。
その夜。
窓の外に、不自然な静けさが漂っていた。
光莉はキッチンに立ち、包丁を研いでいた。
手は震えていない。
調理台には、ラップ、袋、アルミトレー。
そして、白いエプロンの上に、血が染みていた。
リビングの奥、冷蔵庫の前。
床には、養生用のビニールシートが敷かれている。
まるで、最初からそうだったかのように、
部屋は「作業場」と化していた。
そのとき、

玄関のチャイムが鳴る。
「……来た……」
光莉は、エプロンのポケットに手を入れる。
そこに、小さなカッターと輪ゴムが入っていた。
インターフォンを見ないまま、ドアを開ける。
そこには――隆斗に似た人影が立っていた。
「……光莉……」
かすれた声。
だが、その声に感情はなかった。
光莉は、一歩前に出て、彼の手を取った。
「おかえりなさい」
笑顔だった。
誰の顔にも似ていない、**“渡す側の顔”**で。
隆斗は何も言わなかった。
ただ光莉に導かれるまま、部屋の中へ。
冷蔵庫の前に立つと、光莉がそっと尋ねた。
「寒い?」
彼は首を横に振った。
光莉は微笑んだ。
「……じゃあ、大丈夫」
次の瞬間――冷蔵庫のドアが、ひとりでに開いた。
中から、誰かの手が光莉の肩を叩いた。
振り向いても、誰もいない。
でも、わかっていた。
“準備はできた”。
あとは、“切るだけ”。
その夜。
新宿の上空に、奇妙なノイズが走った。
誰も音の正体を知らない。
だが、あのマンションのあたりだけ――風が止まっていた。
そして午前3時すぎ。
501号室の冷蔵庫から、ふたつ分の重さの物音がした。