
Protocol_2:同調の確認 拒絶の代償
Subunit_1:侵蝕の微笑
金曜の朝。
カーテンの隙間から入る陽光が、光莉のまぶたを焼いた。
寝ていたはずなのに、目覚めの感覚がなかった。
意識がずっと浮いたまま、時間だけが勝手に進んでいる――そんな感覚。
布団から身体を起こすと、手足の関節がギシ、と軋んだ。
寒くもないのに、指の先が冷たい。
「……夢……?」
独り言のように呟いても、自分の声が遠い。
洗面台で顔を洗おうとして、鏡を見た。
そこには、自分に似た、でも何かが抜け落ちたような顔が映っていた。
目の奥が乾いている。
笑ってもないのに、口角が上がっているように見えた。
キッチンに入ると、テーブルの上にクッキーの袋が置いてあった。
また、“誰か”が入った。
「隆斗……」
呼んでも返事がない。
LINEを見た。
午前6時に「ちょっと早く出る」とメッセージが来ていた。
袋に貼られたシールには、こう書かれていた。
《甘さ、調整しました。今度こそ、ぴったりだといいな。》
「……味、なんて……言ってないのに……」
包みの中身は4枚。
けれど、一番下の1枚だけ、欠けていた。
――歯型のような跡。
食べかけ?
手が震える。
袋を握る指先に、汗とは違う“ぬめり”がまとわりついてくる。
その日、帰宅した隆斗が、軽く頭を掻きながらこう言った。
「……光莉さぁ、最近、ちょっと神経質すぎじゃね?」
「……は?」
「いやさ、管理人さんとか隣の人とか、親切でやってくれてんじゃん。
盗聴器もさ、まあ古い建物だし、昔の残留物かもとか思わなかった?」
「残留……?」
「俺、今日、エレベーターで503のじいさんに会ってさ。
“いつも仲良さそうで安心してます”って言われたよ。
嬉しいじゃん? 俺たちのこと、ちゃんと見てくれてるって」
光莉は、喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
「見て……くれてる?」
「そう。“見てる”じゃなくて、“見守ってる”って感覚。
俺、ああいうの、結構好きなんだよな。
東京ってさ、冷たいって思ってたけど……
このマンションの人たち、いい人多いと思うぜ?」
……いい人。
その言葉が、刃物のように鋭く響いた。
夜。
風呂から上がってリビングに戻ると、
テーブルの上にメモが置かれていた。
《いつも洗濯してくれてありがとう。洗剤、変えました。香り、どうかな?》
光莉はキッチンの棚を開けた。
そこにあったのは、見覚えのない柔軟剤のボトル。
ラベルに書かれた香りは、
「ミルクティーとピオニーの香り」。
ミルクティー――
光莉が学生時代、母にだけ言った「好きな匂い」。
そんなこと、誰にも話していない。
誰にも、知られていないはずなのに。
光莉は、急いでリビングの照明をすべてつけ、
カーテンを閉め、ドアの鍵を確認した。
玄関のポストには、また袋が差し込まれていた。
《寒くなってきましたね。喉、痛めないように。》
中には、個包装ののど飴が3つ。
一つは、包装が破れていた。
「……いやだ……」
震えながら袋を握りつぶす。
その時、背後から声がした。
「ただの、気遣いじゃんか」
隆斗だった。
立ち尽くす光莉の背中に向けて、
静かに、まるで当たり前のことのように言う。
「それが、悪いことか?
困ってるときに手を差し伸べてくれる人がいて、
気にかけてくれる人がいて、
何が怖いんだよ?」
「だって……私、頼んでない……」
「それはお前が、“声に出してない”だけだよ」
振り返った光莉が見たのは、隆斗の顔だった。
だが、その目は、“あの人たち”と同じ笑みをたたえていた。
そこには怒りも、悲しみもない。
ただ、無償の優しさだけが――冷たい膜のように、彼の表情を覆っていた。
Subunit_2:沈黙の共鳴
金曜の夜。
光莉はリビングでじっと、何もせず座っていた。
テレビはついている。
けれど、音は耳に入ってこない。
画面の中のタレントが
『おすそ分けって、優しさの象徴ですよね』」
と笑っていた。
その言葉に、ふっと背筋が凍った。
「……ねえ、今……聞こえた?」
「ん? 何が?」
「“おすそ分け”って……今、テレビで……」
「そりゃ、言うでしょ」
隆斗が笑って麦茶を飲む。
「普通に日常用語だし。“贈る喜び”っていうか―
誰かのために何かできるって、悪くないよな」
光莉は目を伏せた。
テレビの音は止んでいない。
でも、光莉の中で何かが一つ、確実に“絶縁された”。
翌日、会社のロッカールーム。
光莉が制服をハンガーにかけていた時、
同僚の千尋が声をかけてきた。
「光莉ちゃんって、えらいよね。
彼氏さんのために、ちゃんとご飯とか作ってて」
「……え?」
「この間、SNSで見たんだ。
“光莉が頑張ってくれた唐揚げ”って」
「SNS……?」
「うん! すごい美味しそうだったし、
“支えられてる感”が伝わってきてさぁ〜、いいなぁって思って」
「……私、そんなの……投稿してない……」
千尋はきょとんとした顔でスマホを開く。
「あれ? でもこれ……タグついてたよ。“#光莉のごはん”って」
画面に映っていたのは、
間違いなく、光莉の作った弁当だった。
だが、光莉は一度も撮った覚えがない。
箸の置き方も違う。
盛り付けも、やや乱れている。
何より――見覚えのない皿だった。
「……これ、私じゃない……」
その場から逃げるように、光莉は会社を飛び出した。
部屋に戻ると、靴が一足――
見慣れない黒いローファーが、玄関に並べてあった。
隆斗のものではない。
冷蔵庫の中のタッパーが一つ、明らかに配置を変えていた。
トイレの蓋が開いていた。
自分が閉めたはずの蓋が。
水道の蛇口が、ほんのわずかに滲んでいた。
一滴の水が、シンクの銀の底に落ちる音が、永遠のように長く響いた。
夜、隆斗が帰ってきた。
光莉は震える手で声をかけた。
「……あのさ、絶対、誰か、この家に入ってる」
「……また、それかよ」
「本当なの。物の位置が変わってる。
タッパーも……靴も……」
隆斗はしばらく黙っていた。
そして、ため息をついた。
「……さ、夕飯、食べよ」
「……ねえ、聞いてる?」
「“おすそ分け”、届いてたぞ。今日」
「……は?」
「ほら、テーブル見てみ」
言われて振り返ると、テーブルの上に紙袋が置かれていた。
中には、温かい煮物。
ごぼう、ちくわ、にんじん、こんにゃく。
匂い――懐かしい。
でも、記憶のどこにも属さない匂い。
「……食べたの?」
「うん。うまかったよ」
「勝手に……! 誰が作ったかもわからないのに!」
「“勝手”じゃねぇよ」
隆斗が、低く言った。
「これは、善意だろ」
「善意……?」
「お前さ、最近ちょっとおかしいよ。
誰かがちょっと気遣ってくれるだけで、
なんでそんなに構えるんだよ?」
光莉は言葉を失った。
胸が、ひどく冷えていく。
「“怖い”って、お前、そんな風にしか物を見れないのかよ……」
その言葉のあと、隆斗は風呂場へ行った。
湯を張る音が、壁の向こうで水音に変わる。
リビングに残された光莉。
目の前の紙袋。
煮物の匂い。
その中に――
一片、髪の毛が絡んでいた。
Subunit_3:孤絶
日曜日。
光莉は、朝から口に何も入れていなかった。
食欲がなかったわけじゃない。
“何かを口にすること”が、もう、怖かったのだ。
洗面台の鏡の中の自分が、
昨日より少し“顔が薄くなった”ような気がしていた。
髪も、肌も、目の輪郭も――
削れている。
現実から、少しずつ削られているような感覚。
「……隆斗」
リビングに声をかける。
返事がない。
彼はいつからか、光莉の声に返事をしなくなっていた。
いる。
確かにそこに“居る”。
だが、反応しない。
まるで、“もう”彼女を認識していないように。
母に電話をかける。
呼び出し音は鳴るが、誰も出ない。
メッセージを送る。
返信は来ない。
LINEのプロフィール画像が、昨日までとは違うものに変わっていた。
見覚えのない、風景写真。
そして――表示された一言。
《登録されていないユーザーです》
「……え?」
連絡帳から、母の名前が消えていた。
検索にも出ない。
会社に行くと、自分のデスクが1メートル後方に移動していた。
「え……なにこれ」
椅子を引いて座ろうとすると、上司がひょいと顔を出した。
「ああ、ごめんね川島さん。少しレイアウト変えたの。
ちょっと後ろの人と近かったから、あなたの席、ひとつ分ずらしたんだ」
「……それなら、普通、連絡……」
「え? 何?」
「……いえ」
声が、小さくなった。
そのあとも、同僚に声をかけたが、
「あれ、今日お休みかと思ってた!」
「……え? いたの?」
そんな言葉ばかりが返ってきた。
昼。
自分のデスクに置いたはずの弁当が、なかった。
机の上には、付箋が一枚。
《食べるより、贈る方が幸せです。》
光莉は、帰った。
夜、シャワーを浴びていると、
排水口からぬるりと何かが浮いてきた。
黒髪。
長く、束になって、ゆらゆらと踊るように湯船に漂った。
光莉は何も言わず、それをすくい取って、
洗面器に押し込んだ。
布団に入る。
深夜2時。
目を閉じたその瞬間、ふと、思った。
「……私、最後に、ちゃんと食べたのって……いつ?」
思い出せない。
昨日?
一昨日?
誰かが持ってきた煮物は……食べた?
いや、それは、私じゃない。
食べたのは――“あれ”だ。
キッチンに立つ。
冷蔵庫の前で足が止まる。
あの音が、聞こえない。
「コン……」も「コトン……」も――何も。
冷蔵庫は、ただ静かに閉じていた。
いや、“閉じている”というより――
“何も入っていないような静けさ”。
光莉は手を伸ばし、冷蔵庫の取っ手に触れた。
そのとき――
背後から、音がした。
“コツ……コツ……コツ……”
玄関の方向から、スリッパの音。
誰かが、部屋の中を歩いている音。
足音は、キッチンへと近づいてくる。
光莉は、振り返れなかった。
「……隆斗?」
呼んだその声に、返事はなかった。
ただ、スリッパの音が、目の前で止まった。
そして――背中に、呼気のようなぬるさを感じた。
「……渡す側になれた?」
耳元で、囁く声。
けれどその声の主は、男でも女でもなかった。
まるで、部屋全体が喋ったかのような、音のない囁きだった。
冷蔵庫のドアが、ひとりでに開いた。
冷気の奥、光莉は見た。
奥に、“誰かの口”があった。
唇だけ。歯だけ。
笑っていた。
冷蔵庫の中に、笑っている口があった。
その口が、言った。
「じゃあ――次は、あなたの番ですね」