
【土をかぶせて猫を抱く】
『庭と猫と湯気のある暮らし』
2023年秋、家を買った。山からの風が吹きおろす田舎の片隅、リフォームされた築40年の一軒家だ。砂利しかない敷地は庭と呼ぶには味も素っ気もない。しかし窓が大きく日当たりがよかった。水回りは新築同様だ。車が4台駐車できるスペースがあるのが決め手になった。
私は2人の息子、夫、そして7匹の猫とこの家で暮らし始めた。
まずは砂利だけの殺風景な庭をなんとかしようと園芸を始めた。
当時、私は身も心も擦り切れていた。体はいつもずっしり重く、ちょっとしたことでキャパオーバーになる。文章が好きだったのに、創作はおろか読書すらしんどい。人の話し声も我慢できなかった。
そのうち、ひたすらVlogを見るようになった。きっかけは庭に池を作ってみたくて、池作りの動画を漁るように観たことだ。
やがて自分で育てた野菜を収穫し、料理して日々暮らす韓国人女性のVlogに出会う。
BGMと字幕のみのナレーションがない丁寧な暮らしがやたら心に沁み入る。料理やあたたかい飲み物、整然とした収納、そして猫。そのうちVlogのように自分を大切にしたいと思えるようになってきた。
「穏やかな気持ちで布団に入りたい」
「カーテンを開けたとき、気持ちのいい朝だと思いたい」
「この家で落ち着いて寛ぐ時間を過ごしたい」
自分のケアやメンテナンスを始め、それは次第に仕事や時間、他者との向き合い方を見直すことに繋がった。
背中を押してくれたのは、毎日違う顔を見せる庭の花や土だ。
最初は花の成長への感慨だけだった。そこから次第に世界が広がり、気づくことが増えていく。湿った土、群がるメダカ、猫が寄り添う温もり、台所に漂う白い湯気。そういった五感から伝わるぬくもりの切り抜きをひとひら、ひとひら、見つけられるようになる。気をつけないと破れてしまいそうな柔らかいひとひらを、そっとえぐれた心に貼り付ける。
歪だった心は貼り合わせたぬくもりのおかげで、少しは丸みを帯び、『良いところ』を探すのが上手くなったように思う。
庭にはバラや蓮、睡蓮が咲き、それを窓から猫たちが見つめている。キッチンガーデンで野菜を必要なだけ収穫したら、台所で白い湯気を浴びる。
そんな暮らしに馴染んできたあたりから、私の周りに香りと音楽が戻ってきた。時間に追われて辛さに耐えきれなくなったとき真っ先に手放した感覚が、今、私の毎日を彩っている。
1日目『薬品も数字も嘘をつかない』
メッキ工場で働いている。私の仕事は主にメッキ液の分析だ。
工場には大きな槽が並び、工程順に薬品や水で満たされている。槽から採取したサンプルの中に、特定の薬品がどれくらい溶けているか測るのだ。分光光度計や検査キットも使用するが、ほとんどは高校化学で習う中和滴定という方法で測る。
ビーカーにサンプルをホールピペットで加える。そこに必要な薬品を足して決められた滴定液でメスピペットを使い測定する。終点になると液の色が変わるため、そこでメスピペットの目盛りを読む。測定値を計算式に当てはめると、槽の中にその薬品がどれだけ溶け込んでいるかがわかる。
以前の担当者が退職し、派遣を雇ってみたものの数日で誰も来なくなるので、異動願いを出していた私が抜擢された。
しかし私は数字が模様にしか見えないほどの理系音痴だ。高校時代、化学の授業は毎度寝ていたし、薬品はおろか器具の使い方も知らない。
そんな私に業務を根気よく教えてくれたのは6つ年下のノモトさんだった。
ノモトさんは仕事に細かく、厳しいと評判の先輩だ。失敗ばかりの私に、彼は諭すような口調で言った。
「間違えてもいいけど、自分で気づけるようになってください」
私は戦慄した。それは一日も早く違和感を覚えるくらいに基本を習得しろということでは? なぐさめるような言葉だけどナチュラルにスパルタだった。
しばらく後になって、彼は『そういう意味で言ったのではない』と戸惑い気味に否定していたが、私はこのやりとりがあったあたりから家でも分析の勉強を始めた。
測定項目をどの順番で測定すると無駄がないか確認し、分析スケジュールを組む。ノモトさんが分析しているところを動画におさめ、終点の色を繰り返し観た。
そんな中で、ひとつ感心したことがある。
私がミスをしたり、いつもと違うことがあると、ノモトさんにはすぐバレてしまう。どんなに誤魔化しても黙っていてもバレる。
測定値、薬品の色、反応の違い、そういうものから私がどこを間違えたか、それによってどんな反応が起きたから今こうなっている、という流れを当ててしまう。
ノモトさんにしてみれば、至極当然なのだ。薬品の性状も数字も嘘はつかない。なるべくしてなり、あるべくしてある。答えはそこにある。
文系の私は答えがない曖昧なものを好む傾向があるのだが、初めて答えがはっきりしているのも美しいと思った。化学の導き出す答えは、揺るがない真実として凛と立っている。
いつの日かノモトさんが言った『間違いに気づく』という力は、業務のためでもあり、理系の魅力の1つでもあったのだ。
思えば家庭菜園もそうだ。野菜が病気になったり、枯れたり、現象には原因があって、なるべくしてなっている。
数学や化学は答えが決まっていて窮屈だという価値観がぐらりと揺らぐ。世界の礎を紐解くものに見える。心の機微を推し量る毎日に疲れていた私には、移ろい、揺らぐことのない真実が眩かった。
ノモトさんと仕事をするようになってから、暮らしの中にいかに化学が溢れているか気付かされる。そのたびにニヤリとしては、奇妙な親近感を覚える。
ある日、水槽に使うカルキ抜きの成分表を見ると『チオ硫酸ナトリウム』とあった。分析で毎日使う滴定液の1つだ。
かつては分析室の中にあるもの全てが特殊で自分とは縁遠いものに見えた。けれど、意外とちゃっかりそばにいる。馴染み深いを通り越して同胞に似た親しみがある。
「あんた、こんなところにもいたんねぇ」
群馬弁丸出しでカルキ抜きに話しかけた午後であった。
2日目『化学者は何色のバラの夢を見るか』
2024年秋、バラを育てようと思い立った。
20代の頃、いけばなを習っていた。先生は穏やかで上品な女性で、自宅は立派なバラが植えられていることで有名だった。稽古の時は白髪のご主人がいつも出迎えてくれたのだが、彼がバラの手入れをしているようだった。
私がバラの花に感動するたび、先生とご主人はたいそう嬉しそうに微笑んでいた。その2人の笑みに、こんな夫婦でありたいと憧れた。
バラ栽培は難しいのではという躊躇いはあった。剪定や肥料、消毒も欠かせない。『星の王子さま』に登場するバラだって、あんなに矛盾してややこしい。
でも、王子さまのバラは美しく、愛おしかった。育てる責任はいるけれど、愛すべき存在になるはずだ。なにより、先生のように花に囲まれ、ゆるやかな時間を過ごす自分になりたいという願望を無視できなかった。
育てると決めたものの、どの品種にするか決められない。とにかく種類が多い。色だけでなく、花びらの形状も樹形も様々で、こだわり始めたらキリがない。
結局、いろんな色のバラを揃えてみた。苗を赤ちゃんを寝かせるように優しく鉢に植え替え、月に一度は消毒をし、肥料を与える。
蕾が膨らむだけでも胸が高鳴る。蕾と共に私の口元も自然と綻ぶ。1年もたつとたくさんのバラが咲いてくれた。
家の中にバラがあると、流れる時間がスローになる。私のバラは小さくても萎れても美しい。その影にあるのは私の時間、手間、願望、もしかしたら逃避行だ。
翌年秋、鉢を移動させようとした私は驚いた。鉢が動かない。なんと、鉢底から伸びた根が砂利を押し退け庭の地面にまで根付いていた。
掘り出した根は貪欲に伸びていた。苗だった頃は赤ちゃんのように繊細な生き物に見えたのに、いつの間にか逆境に抗った猛者の風格を備えていた。
バラは意外とタフだ。剪定をしなければしないで、そのまま力強く育つ。バラが大口開けて牛丼でも頬張る美女に見えてくる。
育てれば育てるほど、イメージが二転三転する。繊細か、タフか、わがままか、素直なのか。同じ花なのに季節が違うと花びらの色が変わるのも、つかみどころがない。
『ニコチンにホルマリン1滴を加えたのち、濃硝酸1滴加えるとバラ色を呈する』
これはニコチンの鑑別法だ。
私はこの一文にただならぬロマンを感じる。化学者が『バラ色』と定義したのはどんな色なのだろう。
一般的には赤を思い出す人が多いかもしれない。『星の王子さま』の挿絵でも作者自身によって描かれたバラは赤だった。
だが、一口に赤といっても品種により微妙な違いがある。「白って200色あんねん」というなら、赤だってそれくらいあるかもしれない。最初にバラ色と言い出した化学者が思い描いたバラの色を見てみたいではないか。
職場の先輩であるノモトさんにそう話すと、彼は「ふぅん」と唸った。
「ホルマリンも濃硝酸も職場にあるから、ニコチンさえ手に入れば再現できますよ。問題はどうやってニコチンを抽出するか……」
いや、結構ですと私は笑う。大切なことは目には見えない。それでいい。
3日目『沈黙の声の波紋』
メスピペットの目盛りを読むとき、真横から見た薬品の液面は三日月を寝かせたように湾曲する。その部分を0.01単位で読み取るのだが、初めて挑戦したとき何度やってもズレた。
それが私の老眼の自覚だった。嘘でしょ、だって日常生活には何も支障ないのに? と愕然とする。その衝撃たるや、床下をのぞいたらシロアリが天下をとっていたのを知るような驚きと絶望感に似ている。気づかないうちに音もなく忍び寄り、侵食し、乗っ取られるような恐怖。
大急ぎで眼鏡店で遠近両用をあつらえた。その後の世界の変わりっぷりときたら。推しのMVもくっきり顔が見える。ぼやけていたのはカメラの演出ではなく私の目だったのだ。
齢40を過ぎると、そういった老いの認知に出くわすことが急増した。シミ、首のいぼ、シワ、遅れてくる筋肉痛、ケンタッキー2つで胸焼けし、背中が丸くなる。
そこで、私はある決め事を自分に課すことにした。
『体にいいこと、ひとつ』
些細なことでいい。頑張り過ぎず、体にいいと思うことをひとつずつ始め、習慣におとしこむ。
ぐっと背筋を伸ばす。白湯を飲む。それくらいの些細なことだ。「辛いな」「合わないな」と感じたらすぐやめる。
そのうち、不思議と体が反応するのを感じるようになった。音はない。目に見えない。でも、確かに感じる。
顕著だったのは、朝食をオートミールに変えたときだった。オートミール、水、牛乳をレンジで2分加熱する。そこにナッツやメープルシロップ、シナモン、ジャムなどを好みでのせていただく。
オートミールを呑みこんだ途端、安堵で胸を撫で下ろすような、脱力にも近い癒しを感じた。肌寒い秋の朝に温かいものを食べたからか、陶器のような滑らかな舌触りだからか。
よく『体の声を聞く』という表現を見聞きするが、私の場合はその喜びの声が生み出した波紋を感じ取ったようなものだった。捉えどころがない。だけど、確かにそこにあって、優しく私を包みこむ。
家庭菜園でも沈黙の声を聞く。枯れて縮みこまった土に水や肥料をやると声高に喜ぶ。音はない。沈黙だ。だが、声がする。そこから波紋が広がる。私も野菜もその波紋を受け、過ぎ去った後にひとかけらの何かが残る。私の体、土、野菜、水が漂って、清濁も光も影も抱き込んでいく。その境界線は目を凝らせば薄皮一枚だ。
土をいじると、そういうことを教わるでもなく感じ取れた。波紋の先にある未来を見据え、祈りに似た気持ちで種に土をかぶせるようになる。
かつての私は欲望と衝動のまま好き勝手に生きてきた。だが、今は波紋を受け入れ、音のない声を聞く。
先日、スナップエンドウの種が芽を出した。沈黙の産声は土を割り、空を突くように伸びて行く。か弱いのに力強く、矛盾を孕んだ宇宙がそこにあった。波紋は絶え間なく広がり続ける。
4日目『湯気の向こうの午後』
我が家の敷地はいびつな四角だ。南側の境界線が斜めに走り、南東の角が突き出ているのだ。東と北東は開けていて、駐車スペースとなっている。
敷地は塀で囲まれ、入り口は市道に面した北東にある。だから自然と、我が家を訪れた人は南東の突き出た部分を真っ先に見ることになる。リビングのソファから窓の外を見た視線のたどり着く先もそこだった。
灰色の砂利が広がるだけの敷地をどうやって居心地のいい空間にするか考えたとき、まずは南東の先をどうにかしようと決めた。
庭はソファに座る家族のためにある光景であり、敷地の一歩外にいる人に『こんな庭が好きな人が住んでいます』と会釈をするようなものであってほしかった。
将来的に、北海道に住む老いた母を迎えるかもしれない。母がお茶を飲みながら窓に目をやった時、穏やかな午後を感じられる庭にしたい。そう願った。
母は父の転勤がきっかけで北海道に住み着いたが、元々は山形県で生まれ育った人だ。
「故郷を離れてしまうと、どこに住んでも一緒だよね。結局は住めば都よ」
母とそんな話をしたことがある。遠くにある故郷ほど特別なものはない。時間で研磨された思い出という宝石を散りばめた泡沫の城なのだ。
娘の私も、山形で生まれ、北海道で育ち、群馬に根づこうとしている。母と似たような気持ちを知っている。
母とはもう10年以上会えていない。でも、これから先、2人で同じ時間を慈しむことができるなら、願わくば私の庭を見て目を細める母が見たい。
なんの花を見たいか尋ねたとしても、きっと彼女は「なんでもいいよ」と言うだろう。高望みするわけでもなく、後ろばかり振り返るわけでもなく、そこにあるものを素直にただ愛でることができる人なのだ。
試行錯誤の末、南東の端にはバラのアーチを設置した。その中央にバードバスを置く。
アーチを飾るのは『コフレ』というバラだ。外弁が黄緑色で中は藤色という、複色のロゼット咲き。その名はフランス語で宝石を入れる小箱を意味する。
母が故郷に置いてきた泡沫の宝石を我が家のコフレにおさめてくれたなら。
お茶をいれた午後、白い湯気の向こうに見えるコフレ。雨粒に光るか、空っ風に揺られるか、それとも日差しに映えているだろうか。ただ、彼女はソファやベッドにゆったりと体を預け、あるがままを受け止めて目を細めるだろう。私にいつもそうしてくれたように。
5日目『猫と推し、毎日が更新日』
自分のことを後回しにして、ワンオペ育児とフルタイム勤務をこなした結果、壊れた。
急に壊れたのではなく、知らず知らずのうちにネジが錆びたり、緩んだり、なくなっていた。ちょっとしたことでヒステリックなアラーム音が鳴り響く。誰かを許すには回路が切れすぎていた。
まず音楽が消えた。料理は腹を満たせればなんでも良くなった。メイクは日焼け止めクリームを塗って眉毛を描いて終わり。美容室も億劫で伸ばしっぱなしの髪をまとめるだけ。とにかく毎日をやり過ごせればなんでもよかった。
しまいには日課だった執筆ができなくなった。映画や読書もだ。物語に対して拒否反応が出る。自分のリアルだけでも手一杯なのに、どうして他人の人生まで見届けなくてはならないのか、と。
それが数年続いた頃、たまたま韓国の某7人組アイドルグループのMVを観た。韓国アイドルやコスメが好きな姪がおすすめしてくれたのだ。
ほんの気まぐれだ。どんなもんだろ? くらいの好奇心である。ところが、私はすぐに口をあんぐり開ける。忘れかけていた熱情が時間を奪い去る。
顔とスタイルが異次元だ。歌もいい。ダンスは恐ろしいほど揃って迫力がある。なによりメンバーの仲がよく、人として心根が素晴らしい。
ただ7人もいると誰が誰だかわからない。何度も再生して顔の区別はついてきた気がする。他の曲も聴いてみよう。と、次のMVを観て目を見張る。
「これ、同じ人たち?」
さっきまで観ていたMVのときとはガラリと印象が違うのだ。それも7人全員が衣装はもちろん、髪型も色も全然違う。
K-POP界隈には『準備期間』と『活動期間』がある。アルバム制作やパフォーマンス練習などの準備期間を終えると、『カムバック』して新曲を披露し、活動するサイクルを繰り返す。
曲が違うと、コンセプトも魅せ方も違う。推しはあらゆる角度から自分を磨き上げ、毎回ベストの姿を見せようとしてくれる。
推しのかっこよさにはじめは舞い上がっていたが、次第に自分が恥ずかしくなっていった。
推しはどんなに辛く、痛く、苦しくてもおくびにも出さない。だが、ファンに向けるのは凛々しい姿や、輝かんばかりの愛嬌だ。だからこそ、ファンは感嘆と尊みを覚える。
自分のベストを更新し続けるためにどれほどのものを削り落とし、堪えるのだろう。それでも高みを目指して食いしばる。ひけらかすこともせず、謙虚に振る舞い、我々を魅了する。
それにひきかえ、私は嘆いてばかり。鏡を見ていつのまにか増えたシミやシワから目を背け、自分と環境に嫌気がさすだけで何もしない。
嘆く前に、何かできるんじゃないか。そう感じて、しまいこんでいたメイク道具をひっぱり出した。コスメを買い替え、美容室に通い、服と下着を新調する。
私は私のベストを更新し続ける日々に身を置いた。推しのように輝くステージがあるわけではないけれど、少なくとも私の人生は私だけのステージだ。胸を張らねばならない。
ネイルを整える私の足元に愛猫が身を寄せる。背中をなぞると、しなやかな動きが指先から伝わる。
思えば猫は生きているだけで常にベストだ。子猫の時はもちろん『可愛い』の嵐だが、素晴らしいことに成猫になってからも毎日『可愛い』の最高点を更新していく。
推しと猫は自分をどう魅せるか向き合うことの大切さを教えてくれた。
私は今日も車の中で推しの曲を口ずさみながら職場へ行く。彼らを見習い、身綺麗にし、やらねばならぬ試練に立ち向かう。試練をこえたとき初めて自信がつくのだと、推しは全身で語る。ぐずぐず泣く夜は秘めておけば隠し味となり、深みが増すだろう。
自分で自分を推す。大切にして、飾りつけ、優しくする。他人のことはそれから考える。それくらいがいい。だって、ここは私のステージだ。
猫のように気ままに素直でいるのだ。しなやかに動け。嫌な奴を飛び越えろ。ピンと尻尾を立てるように背筋を伸ばせば、風が吹いてくるのがわかるはずだ。
6日目『追い風を生む箱庭』
庭を持ったとき、真っ先に「池を作ろう」と思い立った。昔から水のある風景が好きなのだ。
しかし、池を作る動画を観まくったあと、リアリストの私はこう決断した。
「ビオトープにしよう」
池作りの方法は数あれど、コストと労力がえげつない。濾過装置を設置してもメンテを考えると気が遠くなる。
私が選んだのはトロ舟で作るビオトープだった。
トロ舟とはプラスチック製の浅く四角い容器である。その周りを木枠で目隠しする。中には赤玉土や砂利を敷き、水生植物を植える。自然と昆虫や鳥が寄ってくるし、メダカや金魚を放してもいい。つまり、木枠で閉じ込めた箱庭だ。
なんの予備知識もない私はビオトープにおすすめの植物と銘打たれたものを買い揃えた。その中にはいつかは絶対育てたいと願っていた睡蓮もあった。
私の箱庭がもたらす達成感は恍惚とするほどだった。植物が影を落とす水面はきらめき、メダカや金魚が尾鰭を揺らす。そして睡蓮がその芽をもたげる。
専門家が見れば、配置から私の潜在意識を読み取れたかもしれない。心のままに最も美しい形を創造した。私の理想、欲望、劣等感、そういうものを孕んでいただろう。
しかし、しばらくすると、小さなトロ舟がもっさりしてきた。水生植物の根ははちきれんばかりに赤玉土の中をめぐり、こぢんまりとした箱庭ではおさまりきらなかったのだ。睡蓮を育てるには圧倒的に水位が足りないことも知った。
私の無知で閉じ込められた植物たちは、無言のまま殻を破った。自分の理想に走り、彼らを知ろうとしなかったことに、申し訳ない気持ちになった。そこにあるのは道具ではなく物言わぬ生命だったのに。
結局、トロ舟ビオトープには浅瀬向きの植物を置き、睡蓮は深さのあるタライで育てることにした。咲き誇る睡蓮を見た時、狭いトロ舟から出して良かったと心から安堵した。
また、2025年のことだ。
水槽に使っていた流木や石があまったので、横長のプランターにあつらえ、多肉植物の箱庭を作った。
土で高低差を作り、ほんのりと桃色に色づいた多肉植物を数多く植えた。
半年も経つと、多肉植物は生命力を見せつけるように茂った。みずみずしい葉はもっちりとしている。ただ、あんなに桃色で彩られていたはずの箱庭は青緑色と化していた。
翡翠の玉のように艶めき、すっかり逞しくなった多肉植物を見たとき、あのビオトープを飛び出さんばかりに成長した水生植物と同じだと気づいた。
あるがままの姿なのだ。それを私のエゴや無知で囲っただけ。こんな小さな世界におさまるようなものではないのだ、生命のほとばしりというものは。
箱庭は私に問う。「なぜ、自ら枠にはまるのだ」と。
お手軽に満足できるから。未知のものが怖い臆病だから。なにより、無知だから。
知ることは世界を広げる。当たり前だと思っていたはずが、箱庭を通して実感へと変わった。
箱庭から追い風が生まれた。気を抜くと丸まってしまいそうな背筋を伸ばし、風の向かう先を見通そうと目をこらす。
今、箱庭は無駄に生い茂ることなく、花菖蒲が凛と葉を伸ばしている。剣のような葉が追い風に揺れながら、私が箱庭にこめた、ちっぽけな何かを切り捨てている。
7日目『家庭菜園の真ん中で天秤を掲げる』
物価が高騰していた頃、職場の友人が家庭菜園をすすめてきた。
「バラは綺麗だけど、腹は膨れないよ」
最初は乗り気ではなかった私も、そのうちレイズドベッドの魅力に抗えなくなった。家庭菜園の動画を観ていると、レイズドベッドがよく登場するのだ。
レイズドベッドとは木材やレンガなどで枠を作り、そこに土をいれた花壇や菜園である。地面より高く土を盛り上げているので、日当たりや水捌けがよい。
私の場合、気になってしまうとトライしてみなければ気が済まない。思い立ったが吉日女だ。
枠はレンガだと重いし手間がいる。木材は腐敗するのが嫌だ。結局、亜鉛メッキ製にした。枠の中に土を盛ると、思った以上に入る。いくつもの袋をあけながら、「おのれ、絶対元とったる」と意地汚く呟く。こうして私の家庭菜園生活がスタートした。
どの野菜を植えようか。悩んだ私のとった基準は『お弁当に欲しいけど、買おうと思うと意外と高い、買ってもあまらせてしまう』野菜だ。
ミニトマト、きゅうり、パセリ、サニーレタス、ディル、ローリエ、ローズマリー、スナップエンドウ、セリなどである。
ミニトマトやサニーレタスはお弁当の彩りに一役かってくれたし、パセリは冷凍してから粉々にするとサッと使えて助かる。ローリエとローズマリーは市販品を買わなくて済むほど収穫できる。
せめて肥料代だけは安くしようと、家庭から出た生ゴミと、精米所から無料でもらってきた米ヌカを土に混ぜ込んだ。隣家の大量の落ち葉をもらって菜園に埋め込み、腐葉土にする。落ち葉の処理に困っていた隣人とWin-Winである。
きちんと家計簿をつけているわけでもないから、野菜を収穫して元をとったような気になっても実際は赤字だったかもしれない。
ミニトマトが肥大化して中玉くらいの大きさになったり、逆にいつまで経っても小さかったり、虫食いもある。プロの農家が育てた野菜のほうが格段に美味い。
それなのに輝いて見えるのだ。私の時間、そして紫外線を浴びるリスクが捧げられた野菜は、何にも代え難い愛おしさを生む。日々育ちゆく野菜の姿を見ては、言葉はなくても確実に応えてくれる喜びを噛み締める。
コスト、時間、労力、味、達成感、満足感……いろんなものを秤にかけ、私は家庭菜園の真ん中で考え込む。何を大切にすべきで、何を犠牲にするべきかを。
一つに絞る必要もないのではと思うのだ。視点はいくつあってもいい。ただ、あえて言うなら、最後に何かが残るものを。あなたの糧になるものを。あとから思い返したとき、新しい考えの芽生えとなる種のようなものが一つでもあればいいと願う。