【短編小説】琥珀色の不協和音―婚活パーティー自爆物語
恵比寿の路地裏、2階へと続く階段の先にその店はあった。
シンプルながらもお洒落なドアを開けると、そこには昭和の残り香を洗練されたモダンで包み隠したような、琥珀色の空間が広がっている。
今夜はここで「30代40代限定・大人の婚活パーティー」が開かれる。
私は、壁際に置かれたスツールに腰を下ろし、手渡されたジントニックを一口啜った。ライムの苦味が喉を突き、少しだけ人心地つく。
真麻、四十四歳。職業、高校の国語教師。体型は…まあ、控えめに言っても「豊満」という言葉が似合う、ぽっちゃりとした部類に入るだろう。
趣味は読書とアニメ鑑賞、それに美術館巡り。我ながら、いかにも独身の国語教師らしい、地味で堅実な履歴書だ。
これまで何度かこの手のパーティーに足を運んだが、結果は惨敗。
マッチングのマの字もかすったことがない。周囲の女性たちが華やかなワンピースに身を包み、春の蝶のように舞う中で、私はいつも一冊の文庫本を抱えたまま、壁の花ならぬ「壁のシミ」と化していた。
「お隣、よろしいですか?」
低く、落ち着いた声がした。
顔を上げると、そこにはグレーのジャケットをスマートに着こなした男性が立っていた。
眼鏡の奥の瞳は知性的で、少しだけ目尻に刻まれた皺が、彼が歩んできた時間を物語っている。
第一印象は、悪くない。むしろ、かなり好みだ。
『あ、はい。どうぞ』
「ありがとうございます。私は高橋といいます。…あ、その本。内田百閒ですか。渋いですね」
彼は私の手元にある『阿房列車』を指差して微笑んだ。
そこから会話は驚くほどスムーズに滑り出した。
彼はIT系の企業に勤めているらしいが、学生時代は文学部だったという。
共通の話題があるだけで、この砂漠のような婚活会場が、急に潤いを帯びたオアシスに見えてくるから不思議なものだ。
二杯目のウイスキー・ソーダが運ばれてくる頃、話題は自然とアニメの話へと移った。
『実は私、アニメも好きなんです。最近のキラキラしたものより、少し昔の、骨太な人間ドラマがあるような作品が』
私がそう言うと、高橋さんは目を輝かせた。
「奇遇ですね。私もなんです。特に九〇年代初頭の、あのセル画特有の重みがある作品には目がなくて」
その瞬間、私の胸の中で小さな鐘が鳴った。
これだ。
ついに見つけた。
趣味が合い、価値観が共有できる相手。
私たちは、ある伝説的なSFアニメ―九〇年代に一世を風靡し、今なおカルト的な人気を誇る『蒼穹のレクイエム』という作品について語り始めた。
「あの作品の良さは、何と言っても主人公の孤独ですよね」
高橋さんが熱っぽく語る。
私は深く頷いた。
『ええ、本当に。最終話の、あの雨の中での独白シーン。あれこそが救済だと思うんです』
ここまでは良かった。
完璧だった。
しかし、運命の歯車は、ほんの些細な解釈のズレから狂い始める。
「そう、あの独白で彼は『自己の消滅』を選んだ。あれは虚無主義への回帰ですよ。そこが最高にクールだ」
高橋さんの言葉に、私はグラスを持つ手を止めた。
『…消滅、ですか?いえ、あれは[他者との共生]を受け入れた上での、再生の産声ではないでしょうか』
高橋さんの眉がぴくりと動いた。
「再生?あり得ませんよ。あの文脈で再生なんて読み取ったら、作品の持つニヒリズムが台無しだ。彼は絶望の果てに、個としての境界を失うことを選んだんです」
『でも、高橋さん。その前の第十二話で、彼はヒロインの言葉に救いを見出しています。国語の教師として言わせていただければ、あの伏線を無視して消滅と断じるのは、あまりに短絡的です』
つい職業病が出てしまった。
言葉が鋭くなる。
高橋さんの表情から、先ほどまでの穏やかさが消え、代わりに「教え諭してやろう」という傲慢な光が宿った。
「短絡的?失礼な。君は設定資料集の三巻を読んでいないんですか?監督のインタビューでも、あのラストは『終わり』を意図したと明言されている」
『資料集なら暗記するほど読みました。でも、テキストそのものが語っている真実は別です。作者の意図を超えて作品が独り歩きする…それこそが名作の証でしょう?そもそも、あなたが推しているサブキャラの言動だって、矛盾だらけじゃないですか』
「矛盾?あれは葛藤ですよ!君のような、物語の表面しか捉えられない人には分からないかもしれないが…」
そこからは、もう泥沼だった。
婚活パーティーという本来の目的はどこへやら、私たちは狭いカウンターの隅で、アニメの解釈を巡る不毛なマウントの取り合いに没頭した。
周囲の男女が連絡先を交換し、甘い雰囲気で店を後にする中、私たちは「いかに相手の読みが浅いか」を証明することに全神経を注いでいた。
『…結局、あなたは自分の見たいものしか見ていないのよ』
私が吐き捨てるように言うと、高橋さんは冷めた目で私を見た。
「それはこちらのセリフです。趣味が合うと思って期待しましたが、これほど解釈が合わない人間とは、一生分かり合える気がしません」
高橋さんは残った酒を一気に煽ると、挨拶もそこそこに席を立った。
背中越しに「これだからオタクの女は…」という呟きが聞こえた気がして、私はカチンときて言い返そうとしたが、もう彼は人混みに消えていた。
一人残された私は、ぬるくなったジントニックを見つめた。
趣味が合う。それは一見、幸福な出会いの条件に見える。
けれど、こだわりが強すぎる者同士が出会うと、それは共鳴ではなく、ただの激しい衝突にしかならないのだ。
ふと我に返ると、周囲の喧騒が耳に戻ってきた。
隣のテーブルでは、二十代後半とおぼしきカップルが、お互いの仕事の愚痴を「大変ですね」と慈しみ合うような甘い声で交換している。
一方の私はどうだ。
四十を過ぎて、婚活の場で、架空のキャラクターの生死や救済について、初対面の男と怒鳴り合いに近い論争を繰り広げてしまった。
滑稽だ。
あまりにも滑稽で、笑い出すことすらできない。
私は残ったジントニックを飲み干し、バッグを掴んで席を立った。
出口へ向かう際、主催者のスタッフが「あ、真麻さん、もうお帰りですか?まだフリータイムが…」と声をかけてきたが、適当な会釈で誤魔化して外に出た。
階段を下り、恵比寿の夜気に触れると、火照った顔が少しだけ冷めた。
九月の夜風は、湿り気を帯びながらもどこか秋の気配を孕んでいる。
私は大通りを避け、街灯の少ない路地を選んで歩いた。
結局のところ、私は「自分」を譲れなかったのだ。
結婚したい、誰かと人生を共にしたい。そう願って高い会費を払い、慣れない化粧をしてここに来たはずなのに。
いざ目の前に「話の合う男」が現れた途端、私は女であることよりも、一人の偏屈な「表現の受け手」であることを選んでしまった。
高橋さんも同じだったのだろう。
彼もまた、孤独を埋めるためのパートナーを探しに来たはずが、自分の聖域であるアニメの解釈を侵されることに耐えられなかった。
私たちは、似た者同士だったのだ。
だからこそ、磁石の同極のように激しく反発し合った。
『再生の産声、なんだけどなぁ』
誰にともなく呟いてみる。
あのラストシーン、主人公が流した涙の意味を、高橋さんは「絶望」だと言った。
けれど私は、あれは「諦念」の先にある「受容」だと信じている。
その解釈を曲げてまで、彼と手を繋いでこの街を歩く未来は、どうしても想像できなかった。
駅へ向かう途中、赤提灯が揺れる古びた居酒屋が目に留まった。
お洒落なバーよりも、今の私にはこんな店の方がお似合いだ。
暖簾をくぐり、カウンターの端に座る。
『瓶ビールと、モツ煮。あと、厚揚げ焼いて』
注文すると、店主が無愛想に頷いた。
運ばれてきたビールの苦味は、先ほどのジントニックよりもずっと素直に喉を通った。
コップに注いだ黄金色の液体を見つめながら、私は思う。
婚活とは、なんと難しい修行なのだろう。
条件が合わなければ論外。
趣味が合わなければ会話が弾まない。
そして、趣味が合いすぎれば、今度は譲れないこだわりが牙を剥く。
他人と分かり合うということは、自分の半分を殺すことなのか。それとも、自分の形を変えてまで相手の凹凸に合わせることなのか。
国語の教師として、多くの物語を読み解いてきたつもりだった。
けれど、自分自身の人生という物語の結末だけは、いつまで経っても書き直しの連続だ。
私はカバンから、先ほどの[阿房列車]を取り出した。
高橋さんが「渋い」と評したその本を、ビールの染みがついたカウンターに置く。
百閒先生なら、この滑稽な夜をどう笑い飛ばしてくれるだろうか。
『…ま、いっか』
私は二杯目のビールを注ぎ、厚揚げにたっぷりと七味を振りかけた。
マッチングは成立しなかった。
明日もまた、一人で学校へ行き、生徒たちに正解のない文学を教える日常が始まる。
けれど、この譲れないこだわりこそが、私という人間を形作っている唯一の骨組みなのだとしたら。
それを捨ててまで手に入れる幸福に、どれほどの価値があるというのか。
琥珀色の液体越しに覗く世界は、少しだけ歪んで、けれど不思議と愛おしく見えた。
今夜は、帰ったらもう一度『蒼穹のレクイエム』の最終話を見よう。
高橋さんの顔を思い出しながら、心の中で盛大に毒づいて、そして私の愛する「再生」のシーンで、思い切り泣くことにしよう。
夜はまだ深い。
私の一人きりの宴は、これからが本番だった。
