メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『Hand on』――触れた物の記憶が見れる不思議な力の意外な真実

    【あらすじ(最後まで)】
    大学生の俊也はある日、触れたものの記憶を見る力を手に入れる。その記憶を辿った結果、その記憶はとある病院で一夜にして老衰死した18人の患者のものであったと判明する。その病院のホスピスで近所の男の子の太一が入院しているのを見つけ、余命残りわずかだと知る。彼のお願いで思い出の場所に俊也は連れていく。到着した矢先、俊也は突然の体調不良に陥り意識を失う。目を覚ますと横で太一が死亡しており、瀕死の俊也に自分の生命力を与えたため、彼の命が尽きたのだと知る。俊也の本来の寿命は幼い時にすでに尽きており、瀕死の彼を生き長らえさせるためにホスピスの患者が自らの命を差し出してのが、かつての事件の真相だった。15年後、俊也は太一にプレゼントとした本を映像化させ、その作品に影響を受けた新人を迎えるのだった。

    【本編】
    「俊也。おはよう」
    大学の講義室でスマホを見ていると、秀樹がやってきた。
    講義室の席は半分以上埋まっているが、いつもこの席に座る。
    窓の外には黄色になったイチョウの葉が落ちるのが見えた。
    「秀樹、今日は2限からだったのか」
    「まあね。おかげでゆっくり眠れたよ」
    彼は肩にかかっていた黒いバッグを机に置き、俺の隣に座った。
    段差のある講義室から見下ろすと、教授がノートパソコンを持って入って来た。
    「いいなぁ。俺なんて今日は5限まで全部埋まってるよ」
    俺はため息をついて、机に突っ伏した。
    教授がパソコンを用意する横で、何も言わずに学生が次々に講義室に入ってくる。
    「それは大変だね。僕はあと4限のゼミで終わりだよ」
    「あーあ、俺も1年のうちにたくさん単位取っておくべきだった」
    「来年からは就活が始まるから、忙しくなるしね」
    秀樹はバッグから教科書を取り出し、きちっと角を揃えた。
    「就活と言えばさ、秀樹は行きたいところとかあるの?」
    「うーん。僕はね、IT関連がいいかな。エンジニアとか気になってる」
    「ちゃんと考えてるなんて偉いな。俺なんて大企業ならどこだっていいよ」
    俺は両手を頭の後ろで組んで、椅子を後ろに傾ける。
    背後の机にコツンと当たり、振り返って後ろの女性に頭を下げた。
    「そういえば今度、企業説明会があるけど一緒に行く?」
    彼は俺にスマホの画面を見せてきた。
    そこには月末の週末にドームで開催されると書いてある。
    「おお、200社も来るのか。暇だし行くか」
    「じゃあ、決まりだね」

    バタン

    教授が講義室のドアを閉めた瞬間、すべての会話が終わった。
    「じゃあ、今日は前回の続きね」
    見下ろす先の教授がマイクで話し始めた。
    頬杖をついて窓の外を見ると、イチョウの葉がまた落ちていった。

    「俊也。あんた、お代わりいる?」
    「うん、お願い」
    俺は空になった茶碗を母に渡す。
    目の前にはまだハンバーグが半分残っている。
    テレビではフリフリな衣装を着たアイドルが歌っている。
    「お父さん、手が止まってますよ」
    「ああ、すまん」
    母の言葉で、父がキャベツの千切りを口いっぱいに頬張った。
    手元に茶碗が戻って来て、白米から白い湯気が上っている。
    「そういえば、俊也。そろそろ就職活動をしないかん時期じゃないのか?」
    父がグイッとビールを飲み、口に白ヒゲを作りながら言った。
    手に握られたグラスには、白い泡がゆっくりと下っていく。
    「本格的に始まるのは、来年から。けど、月末に友達と企業説明会のイベントに行ってくるよ」
    口に含んだハンバーグは若干冷めており、白米の熱がそれを覆っていく。
    肉汁とソースが次第に白米と調和し、ほどよい濃さに落ち着いていく。
    「それならリクルートスーツがいるじゃないの」
    「え?成人式のスーツじゃダメなの?」
    「ダメに決まってるじゃない。あんな柄が入ったものなんて」
    母はテレビに釘付けになった父を肘で小突きながら言った。
    テレビでは先ほどのアイドルが笑顔で話している。
    「次の週末にお父さんにスーツ屋さんに連れて行ってもらいなさい。
    お金は出してあげるから」
    父はチラッと母を見、睨み返されて黙って頷いた。
    「就活かぁ……」
    父と母が目の前で何か言い合っているが、内容が耳に入ってこない。
    俺はただ口を動かしてひたすら味がなくなるまで、米を噛んでいた。

    週末――

    「スーツができるのは来週だって」
    店を出ると、父が外で煙草を吸っていた。
    郊外のスーツ屋のだだっ広い駐車場には、うちのを含めて3台しか停まってない。
    澄んだ青い空には、うろこ雲が浮かんでいた。
    「なんだ、今日できるんじゃないのか。こりゃ来週の休みも出ないかんな」
    父は煙草の火を消し、ため息をついた。
    消えた煙の後から、煙草の匂いがした。
    点々とお店が広い駐車場とともに並び、絶えず車が街道を走っている。
    「ついでだから、そこのファミレスでお昼食べて行こうよ」
    数軒隣の道沿いには、よく見るファミレスの看板が高々と掲げられていた。
    車が通るたびに、葉を落としきった街路樹の枝が揺れる。
    「これじゃあ、お父さんのお小遣いがなくなっちゃうよ」
    「たまにはいいじゃんか。二人での外食も」
    弱々しく話す父に続いて、車のドアを開けると煙草のこもった匂いがした。

    バタン

    車のドアを閉め、シートベルトをしてから顔を上げると、スーツ屋の店員が俺たちを見送るためにずっと入口で立っていた。
    俺は小さく会釈をし、父は車を出した。
    「あの人はなりたくてこの仕事にしたのかな」
    俺の呟きに返事をすることもなく、店員は遠ざかっていく俺たちにずっと頭を下げ続けていた。

    「いらっしゃいませ」
    「すみません。2名で」
    「かしこまりました。それではご案内します」
    ファミレスはお昼手前だったが、すでに人でにぎわっていた。
    ソファのファミリー席では小さな子連れが多い。
    窓の外では絶えず車が走り抜けていく。
    「ご注文が決まりましたら、こちらよりお願いします」
    2人用の席に向かい合わせに座り、タブレットに手を取る。
    「なんだ、今はこれで注文するのか?」
    父が首を伸ばしてこちらを見ようとし、俺はタブレットを二人の間に置く。
    トップ画面には3種のこだわりチーズハンバーグの写真が表示されている。
    父は机に両手をついて、画面を覗き込んでいる。
    俺が画面を変えるたびに、父の首も一緒に左右に動く。
    「そういえば、おしぼりはないのか。顔拭きたいんだが」
    「今はセルフなんだよ。ちょっと取って来るから、先に食べたいものでも選んでおいて」
    「あ、ああ。分かった」
    タブレットを父に渡して立ち上がった。
    彼は人差し指で画面を突っついていた。

    「ここって水もセルフなんだよな」
    おしぼりの横の棚からコップを2つ手に取った。
    水を入れようとすると、先に水を入れている小柄な男の子がいた。
    「太一君?」
    俺は見覚えがあるその子の名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。
    「あっ、俊也お兄ちゃん」
    彼は目を大きく開き、手に持ったコップをギュッと握った。
    赤い生地が厚めの長袖の服の胸元には、黄色い字で何か英語が書かれている。
    「やっぱり太一君か。久しぶりだな。今何歳になった?」
    「11歳……」
    「そうか、大きくなったな。今日はおばあちゃんとご飯を食べに来たのか?」
    「うん、あそこ」
    彼が指を差した方を見ると、丸眼鏡の白髪のおばあさんがこちらを見ていた。
    俺が小さく頭を下げると、彼女はニッコリと笑った。
    窓辺の席には、温かな日が降り注いでいる。
    「最近見かけなかったからな。また遊ぼうな」
    「うん!」
    俺がニッと笑うと、彼はこれまでで一番高いトーンで返事をした。
    彼は水が入ったコップを2つ持って、ゆっくりと自分の席に戻った。

    「父さん、さっきそこで太一君に会ったよ」
    「ああ、そうか」
    席に戻ると、父はタブレットを突きながら言った。
    注文画面にはエビピラフが3つ入っている。
    俺はタブレットを取り上げ、ピラフをキャンセルした。
    「太一君って近所のあの男の子だろ?確かご両親が亡くなった」
    「そうそう。それでおじいさんとおばあさんの家に越してきたんだよ」
    俺はタブレットでステーキセットを選び、父に返す。
    父は目を大きくして俺を見つめたが、何も言えずに俯いた。
    「そういえば、うちによく遊びに来ていたな」
    「太一君が留守番しないといけない時は家で預かってたからね」
    俺は父がタップするタブレットの画面を眺めて答えた。
    「お前はゲームをする口実にしてた気もするけどな」
    「いいんだよ、そんなことは」
    父はまたエビピラフを2つ入力し、俺が取り消す。
    オーダーの送信をしたころには、太一君たちはもう店を出ていた。

    一週間後――

    「へぇ。なかなか似合ってるじゃないの」
    「え?そうかな?」
    居間で受け取って来たばかりのリクルートスーツを着て、くるりと回った。
    父はソファで横になってテレビを見ている。
    ピンと張ったスーツからおろしたての生地の匂いが感じられる。
    「それで、バッグとかはベルトは?」
    「え?」
    母の言葉で、俺の回転は止まった。
    テレビからトーク番組の笑い声が聞こえる。
    「え?じゃないわよ。大学に持っていくようなバッグでいいわけないじゃない。お父さん、どうして買ってこなかったのよ」
    「え?だって、リクルートスーツが必要だって言ったから……」
    父の体がビクッと跳ね、頭を上げてこっちに向いた。
    その視線の先で、母が頭に手を乗せて首を横に振った。
    「はぁ。仕方ないわね。お父さんのを貸してもらいなさい。
    ついでに腕時計も」
    「そんな、父さんだって仕事で使うんだよ?」
    父はソファに片手をついて体を起こした。
    「今回の説明会は週末だから、仕事の日じゃないでしょ。
    本格的に就活が始まる前には買わないといけないわね」
    「わ、分かったよ……」
    父はソファから立ち上がり、のそのそとドアに向かう。
    俺はそれに続いて居間を出た。
    歩くたびにスーツの布がこすれ、自然と背筋が伸びた。

    「とりあえず、バッグとベルトはこれね」
    寝室に入りクローゼットを開けると、防腐剤の匂いが立ち込めた。
    ベルトはヨレヨレで、3つ目の穴が横に広げられている。
    バッグは黒のメッシュで、中にはクリアファイルとどこかのレシートが入っていた。
    「それと、腕時計だけど……」
    父は引き出しを開け、ガチャガチャと音を立てる。
    そこから引き出されたのは、金一色の時計だった。
    「父さん、さすがにそれは就活では使えないよ」
    「そうか?それならこっちはどうだ?」
    今度は黒い革のベルトの時計だった。
    ベルトの端はほつれた糸が短くところどころに出ている。
    手に取って顔を近付けた瞬間、思わず顔をしかめた。
    「うわっ。なんか臭いよこれ」
    俺は留め具のところを指で摘まんでゆっくり顔から遠ざけた。
    ぶら下がった時計は、ベルトが勝手に丸まっていく。
    「あぁ、ずっとつけてたからな。汗でも染みついたんだろ」
    「そんなの使いたくないよ。他にないの?」
    「いや、もうないな」
    父に臭い時計を返すと、その手には最初の金の時計がついていた。
    彼は拳を握って文字盤を俺に見せてニカッと笑い、俺は口角をどうにか上げて笑い返した。

    「仕方ない。自分で探すか」
    自分の部屋に戻り、俺はベッドに座ってスマホを手に取った。
    カーテンレールには先ほどまで着ていたスーツがぶら下がっている。
    『腕時計 ビジネス』で検索し、気になるデザインを探す。
    「おっ、これいいかも。……って4万円!?」
    思わず大きな声が出て、小さな部屋に響く。
    他のものを見るも、下にスクロールするほど桁が増えていった。

    バフッ

    「いや、もうこれスーツより高いじゃん。
    母さんは自分のバイト代から出せって言うし、どうすればいいんだよ」
    ベッドに倒れ、横向きになってスマホを待ち受けまで戻す。
    足元に日差しが掛かり、じんわりと温かくなり、足と足でこする。
    「あっ、そうか。別に新品じゃなくてもいいのか」
    俺はフリマアプリを立ち上げ、先ほどと同じ検索ワードを入れた。
    すると先ほどと似たようなデザインの時計もゼロがいくつか少ない。
    「これなら俺でも買えるじゃん!」
    仰向けになり、下へ下へとスクロールしていく。
    900円など格安もあったが、タップして詳細を見る気になれなかった。
    そしてとある時計が目に入って手が止まった。
    多くの時計の写真が並ぶ中、それ以外の見ることができなくなった。
    「いいじゃんこれ。値段も程よいし。メンテナンスもちゃんとしてあるって書いてある」
    俺は迷わず購入ボタンを押した。
    うつ伏せになって枕に顔をうずめ、バタバタと足を動かした。

    数日後――

    「おかえり、俊也。なんかあんた宛てに届いてるよ」
    家に帰ると、母が小さな段ボールを渡してきた。
    片手で受け取ると思ったよりも軽く、必要以上に腕が上がる。
    「ちょっと部屋に行ってるから」
    「もうすぐご飯できるからね」
    母の言葉を背に、俺は駆け足で階段を上っていった。

    「さて、どんなものかな」
    部屋に入って大学のバッグをベッドに投げ捨て、俺は段ボールと向き合った。
    人差し指でガムテープの端をひっかくが剥がれず、結局箱を破って開けた。
    箱の中にはさらにプチプチマットで梱包された小さな白い箱があり、小さな紙が添えられていた。

    『ご購入ありがとうございます。
    大事にしていたものなので、大事に使っていただけると嬉しいです』

    「ふーん。手紙なんて添える人もいるのか」
    プチプチマットを剥がし、手紙と一緒に段ボールに押し込み、白い箱を開けた。
    すると文字盤が白の無地で、銀色の腕時計がこちらを向いていた。
    秒針が一つ一つ隣へとカチカチと飛び移っていく。
    「なかなかシンプルで就活にはいいじゃないか」
    箱に収まっていた時計を手に取った瞬間、
    「ぐっ……。何だこれ?」

    『あなた。誕生日おめでとう。私からのプレゼントよ』
    知らない女性が目の前で微笑んでいる。
    その手前で、俺が買った時計がぶら下がっている。
    『おお、腕時計か。さすが俺の好きなデザインを分かってるな。
    大事に使わせてもらうよ』

    気が付くと目の前には、手に握られた銀の腕時計があった。
    天井の照明で文字盤のガラスが白く反射し、斜めに傷が入っていた。
    耳には自分の速まる鼓動の音がはっきりと聞こえている。
    「今見えたのは一体……」
    時計を一度机に置いて再び人差し指で触れたが、もう何も見えなくなった。

    数日後――

    「おお、俊也。これから講義?」
    廊下を歩いていると、休憩所で雅人たちが四人囲んで何かを見ていた。
    テーブルの上には青い表紙のパンフレットが散らばっている。
    「いや、もう終わったところ。バイトまで時間潰そうかなと」
    「あれ、俊也。その時計どうしたんだよ」
    雅人が体を傾けて俺の腕を見て、顔を上げた。
    俺は左腕を胸の前に持っていく。
    「最近買ったんだけど、いいだろ?」
    秒針が飛び跳ねながら動き続ける。
    「いや、それビジネス用だろ?大学生の私服じゃ合ってないぞ」
    「えぇ。気に入ってるのに……」
    俺は肩を下げ、うな垂れた。
    外ではマフラーを首に巻いて歩く人がちらほらいる。
    「それよりさ、俊也も行くか?スノボ」
    顔を上げると、スノボのパンフレットを他の三人が読みふけっている。
    表紙には青空を背景に、雪の上をこっちにジャンプする人の写真が載せられている。
    「いや、俺はパス。この時計買ってお金ないし」
    銀の時計がキラリと光る。
    廊下では本を抱えた女学生が二人話しながら通り過ぎていく。
    「行くのは年明けの試験が終わった後だよ。それならバイト代も溜まってるだろ?」
    「そうだよ、今のうちにいかないと就活で時間がなくなるぜ」
    パンフレットとから顔を上げた健二と文彦も口々に言う。
    雅人はパンフレットを手に取り、料金を見せつけてくる。
    「いや、悪いがパスするよ。実は激しい運動ができなくてさ」
    「そうなのか?」
    俺は人差し指で髪をポリポリ搔きながら、視線を外した。
    「実は子供の頃に大きな病気になってさ。もう治ったけどスポーツはしないようにしてるんだよ」
    「そうか。ごめんな、無理に誘おうとして」
    雅人が手を合わせて頭を下げた。
    背後の窓が風でガタガタと揺れ、冷たい空気が隙間から音を立てて流れ込む。
    「いや、いいよ。飯とかカラオケとかなら付き合うからさ」
    「それなら、ちょっと買い物に付き合ってくれないか」
    雅人がパンフレットを机に置き、顔を上げた。
    いつものにこやかな顔で俺を見つめる。
    「今からか?」
    「ああ。こいつらこれから講義があるんだけど、俺だけ暇でさ。
    近場だからそんなに時間は取らないよ」
    「まぁ、それくらいなら」
    「じゃあ、決まりだ」
    雅人は立ち上がって、バッグの紐に手を掛けた。
    俺は手に持っていたマフラーを首に回した。
    マフラーの繊維が首にこすれてチクチクする。
    雅人と並んで歩き出すと、残った三人は小さく手を振ってまたパンフレットを覗き込んだ。

    「うわぁ。もうすっかり冬だな」
    外に出ると風が吹き抜け、茶色の葉が足元を転がった。
    ポケットに手を突っ込み、肩が震える。
    俯いてマフラーに息を吹きかけると、じんわりとした熱が少し残った。
    「それで、どこまで行くんだよ」
    「ああ、すぐ近くの古着屋。最近ハマっててさ」
    「ふーん」
    横を歩く彼をチラッと見て、再び前を向いて歩き出した。
    昼下がりのファストフード店からハンバーガーの匂いが香る。
    しかし店内はガラガラで、主婦が向かい合っておしゃべりしている。
    「ほら、もう着いた」
    声のする方を見ると、雑居ビルの一階の通りの服のラックが広がっていた。
    狭い入口から店の奥まで服が見える。
    雅人が大股で歩き、俺もそれを追いかけて店内に入った。

    「おっ、この服いい感じだけど、サイズがデカすぎるな」
    雅人がラックにある服を手に取りながら一人でずっと何かを言っている。
    木目調の壁の店内では、洋楽が流れ続けている。
    俺は似たような色ばかりのデニムを手に取った。
    「正直どれも同じに見えるんだよな……」
    一つを掲げ、ラックに戻してはまた掲げていく。
    次に取ったデニムは所々破れており、白い糸が見えてしまっている。
    その瞬間、

    『一樹、今日はどこまで行くの?』
    目の前には黒い服を着た女性が立っている。
    薄暗いガレージに日が差し込む。
    『今日は風も強いし、近場をちょっと走るくらいだな』
    『それじゃ、私も乗せてよ』
    『分かったよ。ほら』
    手からヘルメットが放たれ、女性が両手で受け取る。
    彼女はヘルメットを頭に被りながら、背後に回る。
    男性が大きなバイクにまたがる瞬間、ダメージだらけのデニムが見えた。

    「はぁ、はぁ……」
    気が付くと、今見たデニムと同じ物を持って店に立っていた。
    先ほどとは違う曲にいつの間にか変わっている。
    ラックにデニムを戻し、額に浮かんだ脂汗を袖でぬぐる。
    「今のは一体……」
    浅い呼吸がゆっくりといつものペースに戻っていく。
    俺は再びラックの別の紺のデニムに手を伸ばした。

    『一樹、見て。あそこにハトがいっぱい』
    先ほどの女性が右腕に両腕を絡ませながら、指を差している。
    目を向けると公園の噴水の側にハトの群れがいた。
    小さな女の子がそこに駆けていき、ハトが一斉に飛びだった。
    『……やっぱり、前みたいにバイクに乗りたい?』
    女性の小さな声が聞こえてくる。
    『いや、今はお前とこうして散歩するのも悪くないなって思う』
    『そっか』
    少し俯いた彼女は、小さな声で呟いた。
    『あっ、あそこでアイスクリーム売ってる。行こ!』
    『おい、腕を引っ張るなって』
    明るい顔に戻った彼女に腕を引かれ、つまずきそうになる。
    視線を落としたその先に、紺のデニムが一歩踏み出すところが見えた。

    「おい、俊也。俊也ってば!」
    「あ、え……?」
    振り向くと、この店のロゴの袋を持った雅人が立っていた。
    俺の両手は今見た紺のデニムを掲げている。
    「何ボーッとしてるんだよ。それを買うのか?」
    「あっ、いや。俺はいいよ」
    手に持っていたデニムをラックに戻し、俺は笑顔を向けた。
    「それじゃ、行くか」
    雅人の後に続いて、店の外へと向かった。
    俺は一瞬後ろを振り返り、デニムのラックを見つめた。
    手に視線を落とすと、小さく震えていた。

    数週間後――

    「お、結構人いるじゃん」
    駅の改札を抜けると、駅前の広場でフリーマーケットが開かれていた。
    広場の中央にはクリスマスツリーがあり、下で子供が走り回っている。
    俺はポケットに手を突っ込んで、店をゆっくりと見て回る。
    「こんなの誰が使うんだよ」
    小さなぬいぐるみやバッグが置かれる中、何故か道路標識みたいな看板がある。
    ダウンジャケットを着た少年は屈んで、キャラクターのカードを見つめている。
    人を掻き分けて進むと、少年がおばあさんと手を繋いで歩いていた。
    「太一君!」
    「あ、俊也お兄ちゃん」
    二人は振り返って立ち止まり、俺は白い息を吐きながら追いついた。
    紺のコートを着て、手には分厚い手袋が着けられている。
    「こんにちは。お二人もお買い物ですか?」
    「ええ、そうなの。ちょっと近くまで来たもので」
    おばあさんはにこやかに微笑んだ。
    俺たちの横を子供たちが走っていく。
    「ねえ、俊也お兄ちゃん。一緒に見ようよ」
    彼は俺の袖を掴んで、顔を見上げていた。
    サラサラの前髪が風に吹かれて揺れている。
    「おお、いいぞ。すみません、ちょっと一緒に見て回っていいですか?」
    「ええ、お願いします。私はそこのベンチで休んでますので」
    振り返ると、木の下で影になっているベンチだけ空いていた。
    「よし、じゃあ。見に行くか」
    「うん!!」
    俺がポケットから手を出すと、彼は俺の手を握った。
    手袋のフカフカの厚みから、ちゃんとした熱を感じた。

    「うわぁ。いっぱいお店があるね」
    一緒に顔を上げて遠くを見ても、終わりが見えない。
    頭上のスピーカーからクリスマスっぽい曲が流れている。
    風に乗ってどこからかソースの匂いがしてくる。
    「どこかで出店でもやってるのか。太一君、何か食べたい?」
    「ううん。一緒にフリーマーケットを見て回りたい」
    「よし、分かった」
    その言葉で、俺の手はギュッと握られた。
    隣を歩く彼はきょろきょろと絶えず左右を見ている。
    シートの上にはいろいろなものが並び、客は店員と話し合っている。
    すると彼はずっと左を見たまま歩いていた。
    「なんだ、太一君。あのお店が気になるのか」
    「うん……」
    「じゃあ、行ってみよう」
    彼の手を引いて近くまで行くと、おもちゃや雑貨、服などいろいろなものが売られていた。
    彼は身を屈めて一つずつゆっくり見て行く。
    俺もその隣に屈んで見渡していると、イヌのぬいぐるみが目に留まった。
    「太一君。あのイヌのぬいぐるみとかどう?」
    「え?どれ?」
    どこにでも売ってそうなぬいぐるみだが、妙に目が離せなかった。
    俺は手を伸ばしてそれを手に取った。

    『はい、祥子。プレゼントだ』
    『え~、なんだろう?』
    少女は赤いラッピングされた箱を開けた。
    『わぁ、ワンちゃんのぬいぐるみだ』
    高く掲げたぬいぐるみはフカフカしている。
    抱き寄せて頬をうずめると、温かかった。
    『パパ、ありがとう!!』
    『どういたしまして』
    男性は彼女に微笑んだ。

    「はっ……!!」
    途端にクリスマスの曲が聞こえてきた。
    そしてたくさんの人が話す声が戻り、目の前にイヌのぬいぐるみがあった。
    「それは母の荷物にあったものでして」
    顔を上げると、三十歳くらいの女性が俺を見ていた。
    見下ろすと、カピカピの手触りのぬいぐるみがあった。
    「うーん、僕は可愛いのより、格好いいのが好きだな」
    太一君が隣からぬいぐるみを覗き込んでいた。
    彼の手には本が握られている。
    表紙には『満点の星空』と書かれている。
    「太一君は本を読むのか。将来は学者さんかな」
    「そんな、僕はなれないよ」
    彼は顔を赤くして俯いた。
    その両手に握られた手から、そっと本を引き離す。

    『ママ、今日もこの本読んで』
    『もう、明美ってば仕方のない子ね』
    暗くなった部屋で、枕元の明かりだけが灯る。
    女の子がいるベッドの横で、女性が本を広げた。
    『前はどこまで読んだかしら……』
    彼女はページをパラパラとめくる。
    『ママ、また最初からがいい』
    『え?また最初から?』
    女性はページをめくる手を止めた。
    『うん、だって何度聞いても面白いもの』
    『分かったわ……』
    女性はゆっくりと最初のページをめくった。

    「明美、そろそろ交代しようか」
    「うん、お願い」
    顔を上げると、目の前で座っていた女性が立ちあがっていた。
    手元の本と彼女を交互に見返す。
    やがて彼女は立ち去り、眼鏡の別の女性が座った。
    「俊也お兄ちゃん?」
    横を見ると、太一君が大きな目で俺を見つめていた。
    「あ、ああ。ごめん。すみません。これください」
    俺は眼鏡の女性に本を渡し、小銭で支払った。
    「はい、太一君」
    受け取った本を彼に渡すと、口を半開きのまま俺を見上げた。
    「え?いいの?」
    「俺からの少し早いクリスマスプレゼントだ」
    彼の顔はみるみるうちに明るくなり、目が輝く。
    「ありがとう、俊也お兄ちゃん!僕、大事にするね!」
    抱き着いてきた彼の頭をそっと撫でた。
    風が吹いてマフラーがなびいた。
    それと同時に目の前のイヌのぬいぐるみが横に倒れた。

    一月の半ば――

    「まったく、なんで病院なんて来ないといけないんだよ」
    俺は自動ドアを通って、総合病院の中に入った。
    開かれた白い空間はどこかうっすら薬品の匂いがする。
    右手に見えた受付に進む。
    「すみません。インフルエンザの予防接種を受けたいんですけど」
    「かしこまりました。では、保険証をお願いします」
    財布から保険証を渡すと、受付の人はパソコンになにやら打ち込んでいた。
    振り返ると、待合の椅子はところどころ空席がある。
    壁にかかったテレビにはインフルエンザの予防方法が表示されていた。
    「お待たせしました。それでは、あちらの階段を上った先の受付に行ってください」
    「分かりました」
    俺は保険証を受け取り、ロビーにある階段を上った。
    窓の外には弱い光が、葉のない木々を照らしている。
    階段を上り切ると、『受付』と大きく書かれた文字の下にカウンターがあった。
    「すみません。予防接種を受けに来たんですけど」
    「それでは、こちらの書類の米印のところに必要事項を記入してください」
    書類を受け取り振り返ると、何人かの人が立ったままテーブルで何かを書いていた。
    俺もテーブルの一つのところに行くと、記入例がラミネートされて置かれていた。
    テーブルの端にあるボールペンを一つ取った。

    『田島さん。本日はどうされました?』
    『何だか最近寝付けなくてね』
    白髪の男性がそう言って咳込んだ。
    『では診察を受ける前に、こちらの紙に必要事項を書いてきてください。
    体温計も渡しますので、そちらの記入もお願いします』
    受付の人は書類と一緒に体温計とボールペンを渡した。
    『田島 博史』
    男性は問診票に名前を書いた。

    「はっ……!」
    気が付くと俺の正面で知らない人がいつの間にか立っていた。
    その女性は書類の下の部分を書き終えると、立ち去った。
    彼女はボールペンをペン立てに戻さず、床にペンが転がり落ちた。
    俺はテーブルを回り、落ちたペンを拾った。

    『小林様。本日はどうしましたか?』
    『最近やけに頭が痛くて』
    四十歳くらいの男性が、頭を手で押さえている。
    そして受付の人は、先ほどと同じ書類と一緒にペンと体温計を差し出した。
    『小林 道隆』
    男性はペンを取って名前から書き始めた。

    「え?」
    目の前には床があった。
    手には今見たものと同じボールペンが握られていた。
    俺は辺りを見渡した。
    もう誰もテーブルで書類を書いている人はおらず、受付の女性が身を乗り出して俺を見ていた。
    「大丈夫ですか?」
    彼女から声を掛けられ、俺は立ち上がって笑顔を向けた。
    「すみません。何でもありません」
    再び自分のテーブルに戻り、書類を書き上げた。
    受付に持っていくと、女性は書いた内容を一つずつチェックしていた。
    遠くには上へ続く階段と、隣にエレベーターがあった。
    「あっ……」
    エレベーターが上に上るとき、閉まった扉の小さな窓から、太一君のおばあさんが見えた。
    俺は一歩踏み出したが、目の前で受付の女性がいるのを思い出し、その場に踏みとどまった。
    「お待たせいたしました。すぐにご案内できますので、あちらの角を左に曲がった部屋にお進みください」
    「ありがとうございます」
    俺は小さく頭を下げ、受付を離れた。
    突き当りに向かう途中でふとエレベーターを見ると、高いフロアから誰も乗っていないエレベーターが降りてくるところだった。

    数日後――

    「なぁ、秀樹。もうどこかエントリーシート出したか?」
    学食でラーメンを食べている秀樹に向かって言った。
    正午よりもまだ早い時間のため、空席が目立つ。
    彼はコップの水を飲んで、俺の目を見た。
    「うん、まだ出だしだから十社くらいは出したよ。俊也は?」
    「俺はまだ書けてもいないよ……」
    彼と同じ醤油ラーメンをすする。
    口に吸い寄せられる麺が激しく揺れ、絡みついたスープを四方に飛ばす。
    「もう少ししたら本格的に就活が始まるから、早めに動いた方がいいよ。
    インフルエンザの注射とかもう受けた?」
    「ああ、それなら平田総合病院でこの前受けて来たよ」
    「えっ、あの平田総合病院?」
    彼の箸に挟まったラーメンが、彼の口の前で止まった。
    背後では教授がテーブルの上に本を広げた。
    「『あの』ってどういう意味だよ?」
    俺はズズズッと音を立てながらラーメンをすする。
    掴み切れなかったメンマの切れ端がスープの中を漂う。
    「知らないの?あの病院で起きた事故のこと」
    「何だよ事故って」
    彼は箸を置いて周りをぐるっと見渡し、顔を近付けた。
    「あそこって一晩で大量死が発生したって噂なんだよ」
    「な、なんだよそれ……」
    「何でも、とあるフロアで朝、看護師が18人もの患者の死体を見つけたらしい」
    「じょ、冗談だろ、それ……」
    思わず唾を飲みこみ、喉仏が動いた。
    背後の窓が風で軋んだ音を立てた。
    彼はなおも辺りを伺いながら言葉を続ける。
    「医療ミスや感染症の可能性もあったみたいだけど、全員の死因が老衰だったらしいんだ」
    「それって、全員同時に寿命が来たってことか?」
    彼はジッと俺の目を見たまま頷いた。
    近くのテーブルで男女四人組がトレイを持って座って来た。
    明るい声がそこから聞こえてくる。
    「だから、僕はあの病院にだけは行かないようにしてるんだ」
    「な、なるほど……」
    彼は隣の四人組を見て、腰を下ろしてラーメンを再び食べ始めた。
    俺はレンゲでスープをすくったが、それをそのまま見つめていた。
    小さくテカる油の輪が漂う。
    俺の頭には、あの日見た太一君のおばあさんの姿が浮かんでいた。

    「やっぱり大学の図書館は静かだな」
    秀樹と別れてから、俺は図書館に向かった。
    すぐ近くで自分の足音が聞こえ、遠くから時折ページをめくる乾いた音がする。
    印刷された紙の匂いが充満し、俺はエレベーターに乗って最上階へと向かった。
    「ここから新聞のアーカイブが見れるのか」
    下のフロアよりもガラ空きになった資料室のパソコンの前に座った。
    『平田総合病院 事故』
    検索すると、13年前の新聞の記事が出てきた。

    『平田総合病院 一晩にして18名の死亡を確認』

    「ああ、これだ」
    俺はマウスを握って下にスクロールした。
    秀樹が言っていた通り、全員が老衰だったと書かれている。
    「まさかこんなことがあったなんて……」
    さらに下に進んだ時、スクロールが止まった。
    それは18名の名簿だった。

    『新庄 一樹
     中川 晴美
     大西 聡子
     成田 剛志
     大森 祥子
     瀬戸口 真一

     ・
     ・
     ・
     小林 道隆
     田島 博史』

    「こ、この名前って……」
    俺は画面を見つめたまま固まった。
    眼球が激しく揺れたまま、それを見つめる。
    「何であのボールペンで見たのと同じ名前があるんだよ……」

    『小林 道隆』
    『田島 博史』

    病院で見たあの光景が頭の中で蘇った。
    唇は乾き、耳から直接脈を打つのが聞こえた。
    手に握っていたマウスの表面は手汗で湿っていた。

    数日後――

    ガチャ

    「いってきます」
    玄関から外に出ると、風が音を立てて吹き抜けた。
    髪の毛が浮き上がり、あまりの寒さに体が震える。
    「二限目からって早起きしなくていいけど、行く気なくすんだよな」
    目を細め、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。
    角を曲がると、太一君のおばあさんが歩いていた。
    しかしいつもいるはずの太一君が隣にいない。
    「そういえば……」
    俺は病院で彼女を見かけた時のことを思い出した。
    咄嗟に後ろに下がって、建物の陰から彼女を見た。
    彼女は大きな袋を肩から掛けて大通りへと向かっていく。
    その後ろを物陰に隠れながら追いかけた。

    しばらくすると、駅前で彼女は止まった。
    改札に入るでもなく、駅前のバス停で荷物をベンチに降ろした。
    ロータリーでは停まったままのタクシーの中で、ドライバーが欠伸をしていた。
    少しすると青いバスがやって来て、彼女はバスに乗った。
    「あっ、乗ります!!」
    俺は全速力でバスまで走っていき、閉まりかけたドアが再び開いた。
    「俊也くんじゃないの」
    整理券を受け取った彼女が、振り返って目を大きく開いた。
    俺はスマホで精算機にタッチし、肩で息をしたまま笑った。
    「こんにちは。奇遇ですね」
    バスはゆっくりとドアを閉め、静かに走り出した。

    「今日はどこへ行くんですか?」
    乗客が二人しかいない中、俺らは隣に座った。
    窓際のおばあさんは黙ったまま窓の外を見ている。
    膝に乗せた荷物から伸びる肩ひもを両手で握っている。
    「ちょっと、病院まで」
    「そうでしたか。奇遇ですね。俺も実は体調が悪くて」
    息を切らしたまま、俺は満面の笑みで返事をした。
    彼女は一瞬こちらの顔を見て、ギュッと握った肩ひもに力を込めた。
    「その荷物、重そうなので持ちますよ」
    「そんな、病気の方に頼めないわ」
    彼女の手の甲に筋が浮かび、小さく震えている。
    バスは停まり、乗客を乗せる。
    終点の病院まで、彼女の視線は低いままだった。

    「思ったより重たいですね」
    「俊也さん、もう大丈夫よ」
    バスを降りて、平田総合病院に入る。
    無機質なだだっ広いロビーに座っていた受付の女性が立ちあがった。
    「こんにちは、住田さん。太一君なら中庭にいますよ」
    その言葉におばあさんは固まってしまった。
    ゆっくりと震えた目で俺に振り返った。
    俺は手に持っていた荷物の重さが分からなくなっていた。

    中庭に行くと、建物に囲まれて風が入ってこなかった。
    弱い太陽の光からほのかに熱を感じる。
    花壇には何も植わっておらず、茶色の土があるだけだった。
    「あっ、おばあちゃ――」
    ベンチに座っていた太一君は、本から顔を上げた。
    しかしパッと見せた顔は、彼女のすぐ横にいる俺を見て一瞬で消えた。
    「どうして……」
    彼は俯き、おばあさんは砂利に足をこすりつけながらベンチに早足で向かう。
    俺はその後をゆっくりと追いかけた。
    「こんにちは。太一君……」
    「こ、こんにちは……」
    小さく微笑みかけると、彼は一瞬だけ俺の目を見た。
    おばあさんは震える手で彼を抱きしめている。
    彼の足には靴ではなく、スリッパが納まっている。
    「太一君、こんなところ奇遇だね」
    「そうだね、あはは……はは」
    彼は俺に笑顔を見せたが、すぐに視線とともに声のボリュームも落ちていった。
    太陽が薄い雲にかかり、日差しが届かなくなる。
    途端に熱が奪われ、体がブルッと震えた。
    「一度、お部屋に戻りましょう」
    「うん……」
    おばあさんの言葉に導かれ、彼はゆっくりと歩きだした。
    俺の顔を見ないまま横を通り過ぎ、俺は黙って後を歩いた。

    「大丈夫?寒くない?」
    「うん、大丈夫」
    彼の病室に戻ると、彼はベッドに座り足を布団で覆った。
    カーテンが開かれた窓からは、先ほどの中庭が見える。
    「……」
    彼は膝の上に先ほどの本を置いたまま、じっとそれを見つめている。
    おばあさんは俺から袋を受け取ると、中から着替えを取り出して引き出しに入れ始めた。
    「ここには長いんですか?」
    彼女の手がピタッと止まり、ゆっくり振り返った。
    「ええ、もう何年もここにいますよ」
    いつもの笑顔とは違い、何の表情も浮かべていない。
    「ここのフロアに移ったのは、半年前からだけどね」
    彼は窓の外を見つめたまま小さく呟いた。
    ドアの前に立ったままの俺は、視線を合わせない二人を見ているしかなかった。

    「俊也お兄ちゃん。僕、もうすぐ死んじゃうんだって」

    「なっ……」
    俺は窓を見つめながらいつもと同じトーンで話す彼に、言葉を失った。
    おばあさんは引き出しに手を掛けたまま、止まってしまった。
    「もうね、僕の病気は治らないから、何もしないことにしたんだ。
    お薬とか、手術とか、治らないのに痛くて苦しいから」
    彼は窓を見つめながら淡々と語る。
    薄雲は通り過ぎ、弱い光を窓の中にも差し込む。
    しかしベッドには届かず、光は床に降り注ぐ。
    「け、けど。この前会った時は元気だったじゃないか。
    ファミレスで会った時も、フリーマーケットで会った時も!」
    俺は口元を歪ませながら、大きな声を出した。

    ガタッ

    音が鳴った方へ視線を向けると、おばあさんが引き出しから手を引っ込めた。
    そしてその手を口に当てている。
    「それはね、ちょっとだけお家に帰れるようにお医者さんにお願いしていたからだよ」
    「なんだ、じゃあ元気なんじゃないか!心配させないでくれよ」
    俺は肩から力が抜け、弱々しい笑い声が喉からこぼれた。
    「それなら、一緒に俺とどこか出かけようぜ。
    どんなところだって連れて行ってやるよ。
    これでも車の免許は持っているから」
    おばあさんは口元を押さえたまま、こちらに向けた背中が震えている。
    太一君が両手を置いたベッドのシーツは、一気にシワが手から広がった。
    「お、俺は太一君と行きたい場所がいっぱいあるぞ。
    例えば、遊園地とか動物園とか、水族館でもいいな。
    いやぁ、多すぎて迷っちゃなぁ」
    俺は指折り数えながら、必死に彼に言葉を投げつける。
    彼はあれから一度もこちらに振り返っていない。
    横から、おばあさんのすすり泣く声が聞こえてくる。
    「あとは、そうだな……」
    曲がった指が先端から激しく震えている。
    首に巻かれたマフラーで蒸れて、首に痒みを帯びていく。
    瞬きが増え、上がった口角を何度も持ち上げようと繰り返す。
    「俊也お兄ちゃん」
    顔を上げると、彼は俺を見つめていた。
    「おお、なんだ。行きたいところでも思いつい――」

    「僕が外に出られるのはあと一回だけなんだ」

    「あ、あぁ……」
    おばあさんが泣き崩れ、床に両手をついた。
    俺は後ろに数歩下がり、背中にドアが当たった。
    そしてそのままドアを背中でなぞり、床に力なく崩れた。
    「じょ、冗談だろ……?」
    「ううん。本当なんだ」
    彼はいつもの顔で淡々と答えた。
    いつの間にか太陽の光は彼の顔にまで届いていた。
    オレンジに染まった彼の顔。
    輝いて見えたその景色に、言葉が出なかった。
    「だから、最後の一回は俊也お兄ちゃんに連れて行ってほしいところがあるんだ」
    「けど、俺なんかが、そんな……」
    俺は床から立ち上がれないまま、彼を見上げていた。
    彼は黙ったまま小さく首を横に振った。
    「そこはちょっと遠いところなんだよ。おばあさん、もう車乗れないから、俊也お兄ちゃんにお願いしたい。これが最後のお願いだから」
    俺は力の入らない指先を無視し、手の甲を床に押し付けてゆっくりと立ち上がった。
    そしてふらつく足取りで彼のベッドにたどり着いた。
    「最後なんて言うなよ。いくらでもお願いくらい聞いてやるから」
    俺は彼に拳を突き出した。
    「ありがとう、俊也お兄ちゃん」
    そう言って、彼は小さく冷たい拳を俺のにぶつけた。

    それから数日後――

    「よし、太一君。シートベルトはちゃんと締めたか?」
    「うん、大丈夫」
    助手席に座った彼はニコッと笑った。
    その横の窓からはおばあさんがジッと彼を見つめている。
    病院前のロータリーには、他に車がない。
    「くれぐれも無理をさせないでください」
    「分かっています。何かあっても大丈夫なように準備はしてありますので」
    後部座席には彼のための荷物がいくつも乗っている。
    俺はナビの画面をタッチして、目的地を入力する。
    「太一君。気持ち悪くなったりしたら、すぐに言うんだぞ」
    「うん、分かった」
    彼ははっきりとした声で大きく頷いた。
    俺は父の車の鍵を回し、エンジンをかけた。
    「それじゃあ、行ってきます」
    「太一をよろしくお願いします」
    おばあさんは頭を下げた。
    俺と太一君は手を振り、ゆっくりと車が走り出した。
    ロータリーを出て突き当りのところでミラーをチラッと覗いた。
    そこにはいつまでも深く頭を下げているおばあさんの姿があった。
    車は曲がり、やがて彼女の姿も見えなくなった。

    「太一君。喉渇いたら言ってね。お水あるから」
    「まだ大丈夫だよ」
    窓の外を眺めていた彼が振り返って微笑んだ。
    住宅街から郊外に抜け、高速道路に入った。
    平日の正午前だからか、あまり車がなくスムーズに進んでいく。
    「うわぁ。もう町が見えないや」
    窓ガラスに両手をべったりと付けて後ろを振り返った。
    大型トラックが横を追い越し、遠くには山が見える。
    すぐ横には知ってるスーパーの巨大倉庫があった。
    「お昼ご飯はサービスエリアで食べるけどいいかな?」
    「うん!サービスエリアなんて久しぶり!」
    スピーカーから流れる曲が次の曲に変わると、彼は鼻歌を歌い出した。
    空はどこまでも青く、飛行機が頭上を飛んでいた。

    バタン

    「とりあえずここでお昼ご飯ね」
    「うわぁ、駐車場広いね」
    車から降りると、彼はくるっと回って辺りを見渡した。
    俺は車外に出た途端、立ちくらみで足がもつれ、ドアに手を置いた。
    「見て!観覧車があるよ!!」
    「そうだろ。他には温泉もあるんだぞ」
    「ええ、すごい!!ここだけでずっと遊べちゃうね」
    彼は観覧車を見上げながら俺の隣まで歩いてきた。
    赤いダウンジャケットが俺の足元にぶつかり、柔らかな感触が伝わる。
    「ここで遊んでいたら目的地に行けなくなるから、また次回に――」
    はっと言葉を飲み、そっと視線を落とした。
    俺の手を握った彼が下を向いている。
    「あっ、ごめ――」
    「ほら、早くご飯にしようよ。お腹空いたよ」
    「あ、ああ」
    彼は俺の手を強く引っ張り、駐車場からレストランへと向かった。

    「いろんなメニューがあるんだね。見て、限定コロッケだって」
    レストランの入口に立って、ショーウィンドウの中のサンプルを見ている。
    店内の席はまだガラガラで、店員が首を伸ばしてこちらの様子を見ている。
    「コロッケかぁ。太一君はコロッケ好きなの?」
    「うん!けど、もう食べちゃいけないんだ……」
    彼は俯き、声が小さくなった。
    握られていた手から力が失われ、落ちそうになったところを掴む。
    「じゃ、じゃあ。食べられるものにしよう。どれならいいの?」
    「うーんとね。これとこれかな」
    そう言って彼はうな重とうどんを指差した。
    「う、ウナギ……」
    食品サンプルの下にある金額を見て、俺は固まった。
    「うーん、どっちにしようかな……」
    彼は首を傾げて二つを交互に見比べる。
    店員は入口までもう来て、手を前に組んで待っている。
    俺は太一君の肩に手をポンと手を置いた。
    「それなら、どっちも頼めばいい。俺が残ったのを食べるから」
    「えっ?本当に?」
    「今日だけ特別だからな」
    「やったぁ!!」
    彼は笑顔で入口に向かい、ニッコリと微笑む店員に導かれて席へと向かった。

    「お待たせしました。うどん定食とうな重です」
    しばらくすると、二つの料理が同時に来た。
    うな重を彼の前に置くと、彼の目が輝いていた。
    窓越しに外を見ると、草原の奥に山が見える。
    「それじゃあ、食べようか」
    「うん!いただきます!!」
    彼は箸を手に持ったまま両手を合わせた。
    俺は割り箸を割って、うどんをすすった。
    温かな汁とうどんが冷えた体に熱をじんわり広げていく。
    顔を上げると、彼は箸でうな重を粉々のミンチにしていた。
    「ちょっと、太一君。お行儀悪いよ」
    彼はハッとした顔で俺を見て、俯いてしまった。
    「ごめんなさい。けどこうして小さくしないと食べられないから……」
    彼は箸の先に付いたウナギをポロポロと米の上に落とした。
    「あっ、いや。太一君の好きなように食べてくれればいいよ。
    ほら、こっちにうどんよそっておいたから」
    「ありがとう」
    先ほどよりもトーンの落ちた声で、彼は微笑んだ。
    店内ではトラックの運転手らしき人が、一人で蕎麦をすすっていた。
    俺はもずく酢を箸で一気に口に入れると、酸っぱさが口いっぱいに広がった。

    「ふぅ。もうお腹いっぱい」
    しばらくすると、太一君は箸を置いてお腹に手を置いた。
    うな重は半分以上残っており、分けたうどんも少し減った程度だった。
    俺はそれを見て、自分のうどんを食べ終わったが、同じく箸を置いてしまった。
    いつの間にか手は小刻みに震えていた。
    「あれ、俊也お兄ちゃん。ウナギ食べないの?」
    「あ、うん。俺もお腹いっぱいだから」
    俺は笑顔を見せたが、うどんの出汁の匂いが先ほどと違って遠ざけたいものになっていた。

    「ねえねえ、お土産もいっぱい売ってるね」
    レストランを出ると、お土産コーナーに進んだ。
    ご当地のクッキーやせんべいなどいろいろな食べ物が並ぶ。
    彼は32枚入りのせんべいを手に取った。
    「これ、おばあちゃん喜ぶかな?」
    「まあ、量は多いけど日持ちするし、買っていこうか」
    「うん!」
    彼はせんべいの箱を持ってレジに向かった。
    その後を追おうとすると、突然右足から力が抜けて倒れそうになった。
    「ぐっ……」
    どうにか踏みとどまり、体勢を整えた。
    「ほら、早くお会計しようよ」
    「ああ、そうだな」
    俺は右足を引きずりながらレジへと向かった。

    「さて、お昼も食べたし出発だ」
    「しゅっぱーつ」
    エンジンをかけると、にぎやかな曲がスピーカーから流れた。
    サービスエリアを出て、高速道路に再び乗った。
    どこまでも青い空が続き、ナビのルートは直進のみを示している。
    「食後に薬とかはないのか?」
    「うん、大丈夫だよ」
    後部座席で彼のためのバッグが少し跳ねる。
    やがて高速を降り、田んぼの道を進む。
    「見て。さっきコンビニがあったのに、同じコンビニがここにもある!!」
    「あれ、本当だな」
    彼の明るい声はずっと続いている。
    俺は目をこすり、何度か瞬きをした。
    ハンドルは汗ばみ、握りしめるとツルツルと滑った。

    バタン

    「ここからは歩きになるけど、大丈夫か?」
    「うん、行けるよ!」
    駐車場に車を停め、後部座席の荷物を手に取った。
    目の前には神社の鳥居があり、その横の細道を進む。
    日はすでに傾き始め、カラスの鳴き声が空からした。
    「苦しかったら言うんだぞ」
    「うん、まだ大丈夫……」
    彼の口から白い息が頻繁に空に浮かぶ。
    細い坂道を手を繋いで上り続ける。
    曲がりくねった道を進み続け、頭がぐらっと傾きそうになる。
    「喉渇いてないか?」
    「うん、ちょっと」
    俺は荷物から水を取り出し、彼に渡す。
    立ち止まって彼は一気に水を飲み、深い息を吐いた。
    俺も一緒にお茶を飲み、白い息を長く出す。
    「あと少しで着くみたいだからな」
    「心配しなくていいよ。僕は平気だから」
    「分かった。じゃあ、行こうか」
    彼から水を受け取り、再び手を繋いで歩き出した。

    十分ほど歩き、坂道は終わった。
    そこで一度立ち止まり、二人で息をゆっくりと整えた。
    ゆっくりと砂利道を進む。
    「この先みたいだ」
    「うん、そうだね」
    彼が俺の手をギュッと握った。
    周囲を囲っていた雑木林はなくなっていき、やがて開けた景色が見えた。
    「おお、これは綺麗だな」
    俺が言葉を漏らすと、彼は何も言わずにジッと景色を見ていた。
    やがて俺の手から離れ、彼はゆっくりと歩きだした。
    俺は右足を引きずりながらゆっくりと追いかける。
    彼は立ち止まり、じっと景色を眺めていた。
    「本当に、綺麗だね」
    白い息が空に浮かび、彼の顔が夕日に照らされる。
    目の前には大きな湖が広がり、対岸の山のすぐそばに真っ赤な太陽が浮かんでいる。
    湖の水面は光を反射し続け、どこからか鳥の鳴き声がした。
    「やっと来れた……」
    彼から鼻をすする音が聞こえた。
    俺はポケットからスマホを取り出した。
    フォルダを開くと、ここと同じ場所で彼が両親と三人で撮った写真があった。

    「俊也お兄ちゃん」
    「うん?」
    俺はスマホをポケットにしまった。
    「最後にここに連れてきてくれて、ありがとう」
    夕日を背中に向けた彼は輝いて見えた。
    同時に、こんな綺麗な景色の中で、俺の目には彼一人しか映らなかった。
    「お礼なんていらないよ。こっちこそこんな素敵な場所を教えてくれてありがとう」
    俺は彼に近づき、手を彼の頭の上に――
    「うぐっ!!」
    「俊也お兄ちゃん!?」
    俺は突然激しい痛みを感じ、目の前がかき混ぜられたように歪んだ。
    バランスを失って倒れ、自分の胸に爪を立てて搔きむしった。
    呼吸ができず、涙とよだれがとめどなく流れる。
    「俊也お兄ちゃん!!しっかりして!!」
    「が、があっ……」
    俺は横目で、自分の肩を揺する太一君を見た。
    目から涙が零れ続け、声を枯らして叫んでいる。
    俺は口をパクパクと何度も動かすが、声が出なかった。
    そして視界はだんだんと狭まっていき、暗闇の中で意識が途切れた。

    「ごほっ」
    喉から湧き上がる何かを咳で飛ばし、体が跳ねた。
    目を開くと辺り一面真っ暗で、体は冷え切っていた。
    体を起こすと、眼下の湖の畔の明かりが見えた。
    「これは一体……」
    立ち上がろうとして初めて、足に何か重みを感じた。
    手を伸ばしてそれに触れると、サラサラとした髪の毛があった。
    「た、太一君!!」
    彼は返事をせず、俺はその肩に触れた。
    その瞬間――

    『俊也お兄ちゃん!しっかりして!!』
    目の前で俊也お兄ちゃんが、うめきながら胸を掻きむしっている。
    周りを見ても誰も見当たらない。
    お兄ちゃんのポケットからスマホが落ちたが、電波がなかった。
    『がっ、ぐっ……』
    お兄ちゃんの口からは白い泡が溢れていく。
    『そんな、お兄ちゃん……』
    視界が滲み、涙がボロボロと落ちてお兄ちゃんが見えなくなる。
    『このままじゃ、お兄ちゃんが死んじゃうよ……』
    体がピクピクと動き続け、うめき声が止まらない。
    『こうなったら……』
    大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
    手に力を込め、袖で涙を拭い去った。
    そしてお兄ちゃんに抱き着き、力を目いっぱい込めてお兄ちゃんの手を握った。
    『ありがとう、俊也お兄ちゃん』
    全身から光が溢れ、お兄ちゃんに灯った。

    「なっ、何だよ。これ……」
    気が付くと、彼のダウンジャケットを握りしめていた。
    スマホのライトで照らすと、彼はそっと目を閉じていた。
    前髪に触れてその手が頬にまで届くと、この冬の夜と同じくらい冷たくなっていた。
    「嘘だろ、こんなことって……」
    俺は冷え切った彼の身体を抱きしめた。
    穏やかな眠り顔の上に、涙が落ちる。
    俺は体を震わせ、ギュッと彼を抱きしめた。
    「太一君。ごめんな……」
    俺の頭上には満天の星空が広がっていた。

    数日後――

    「すみません。俊也さん。こんなことまでお願いして」
    「いえ、ぜひ手伝わせてください」
    俺はもう使わなくなった病室の引き出しから、服をカバンに詰めていく。
    服に触れるたびに、彼の記憶が頭の中に流れていく。
    中には、ファミレスで再会した時のものもあった。
    「ちょっと、トイレ行ってきます」
    「ええ」
    俺は立ち上がり、廊下に出た。
    病院の最上階のホスピスは、閑散としていて空気がひんやりとしている。
    「あら、その時計って、瀬戸口さんのじゃないかしら」
    すれ違った40代くらいの看護師が立ち止まった。
    俺の顔を見ると、まじまじと顔を眺めながら近寄って来た。
    「もしかして、瀬戸口さんのお孫さん?」
    「いえ、違います」
    「あら、そうなのね。てっきりその時計を着けてるものだからつい」
    彼女は頬に手を当て、首を傾げた。
    小さく笑った頬はうっすらと赤みが差している。
    「この時計の持ち主を知っているんですか?」
    「ええ。そこの病室で昔入院していたわ」
    視線をなぞると、開いた引き戸の先におばあさんがベッドで座っている。
    「ほら、この時計って反射すると傷が文字盤に見えるでしょ?
    これは瀬戸口さんが注射を嫌がったときに出来たものなのよ」
    「は、はあ」
    「あの人、点滴の邪魔になるから腕時計は外してって言っても、亡くなった奥さんのプレゼントだから外さないってうるさくて」
    看護師はどこかを見つめたまま微笑んでいた。
    俺たちの横を、手すりを伝って患者が歩いていく。
    俺は渇いた口の中でどうにか唾液を飲み、看護師を真っ直ぐ見つめた。

    「あの、瀬戸口さんが亡くなった時のことってご存知ですか?」
    「ああ、あの事件のことね。忘れるわけないわよ、あんなこと後にも先にも一回しかなかったんだから」
    彼女は腕組みをし、遠ざかっていく患者を見つめていた。
    患者はペタンペタンとスリッパの音を立てながら、ゆっくりと進んでいく。
    「あれはビックリしたわ。病室を開けたらたくさんの方が亡くなっていたんですもの。しかも、その中に生き残りが一人だけいたのよ」
    「えっ?全員お亡くなりになったんじゃないんですか?」
    俺は背中に冷たい汗が染みていることに気付いた。
    彼女は変わらない明るいトーンで話を続ける。
    「たしか、名前は太田 俊也君だったかしら。あの子も余命少ないホスピスの子だったんだけどね、不思議なことに事件の日に急に元気になっちゃったのよ。今も元気にしているといいのだけど」
    両足に力が入らず、体がぐらつきそうになった。
    「ま、あんなことはもう起きないだろうから安心してね」
    彼女はそう言って笑顔のままナースステーションに戻って行った。
    俺は手すりにつかまり、ゆっくりと歩いて行った。
    そしてどうにか太一君の病室に戻った時には、汗が額から滲み出ていた。

    「俊也さん、大丈夫?」
    服を詰めていたおばあさんが立ち上がった。
    彼女の顔を見ると、太一君の顔が浮かんでくる。
    「ぐっ……!!」
    唇を強く噛みしめても、涙が溢れて出た。
    ふらついた足取りでベッドまで行き、もう誰もいないそれに顔をうずめる。
    「ごめん。ごめんな、太一君……」
    「俊也さん、どうしました?」
    「俺のせいで、太一君が……」
    俺は葬式の時に出し尽くしたはずの涙でシーツを濡らす。
    おばあさんが俺の肩にそっと手を乗せる。
    「俊也さん、あなたのせいじゃありません。
    もう、あの子は長くなかったんです。
    最後に、あの場所まで連れて行ってくれて、太一も感謝してますよ」
    「そうじゃなくて、俺が彼から、彼から命を……」
    俺は顔をうずめ、こもった泣き声が病室に響いた。
    肩から温もりが消え、ひんやりと寒さを感じる。
    再び足音が近づき、肩に手の温もりが戻った。
    「……俊也さん、これを見てください」
    顔を上げると、子供と大人の人が手を繋いでいる絵があった。
    大人の手には銀の腕時計がある。
    子供の手には本が握られている。
    周りにはお店が並び、二人を取り囲んでいる。
    「あの子が描いた絵です。俊也さんと出かけた日のことがよほど楽しかったみたいで」
    俺はその絵を手に取った。

    『なんだ、坊主。こんなところでお絵かきか』
    『あっ、佐々木さん。今日は元気そうだね』
    談話室でお絵かきをしていると、佐々木さんが来た。
    テレビでは相撲の中継が流れている。
    『俺は毎日元気よ。にしてもよく描けてるな』
    『うん。俊也お兄ちゃんとフリーマーケットに行った時の絵』
    『俊也……。もしかして太田って苗字か?』
    佐々木さんは顎に手を当てて首を曲げた。
    『うん。太田だよ』
    『そうか……あの時の小僧がか……。坊主、この兄ちゃんは特別なんだ。一人じゃ生きていけない』
    『え?お兄ちゃんは立派な大人だから、一人で生きていけるよ』
    口を尖らせると、佐々木さんはそっと目を伏せた。
    『いや、そういうんじゃないんだ。……いいか。もし兄ちゃんが危なくなったら、お前が助けろ。持っている力を全部兄ちゃんに渡すんだ』
    『えー?そんなこと分からないよ』
    首を傾げても、佐々木さんはジッと見つめてくる。
    テレビからはアナウンサーが何かを叫んでいる。
    『やろうと思えばできる。この兄ちゃんは誰かに分けてもらうことで生きる人間だから。』
    『佐々木さん、難しいよ』
    頭がくらくらしても佐々木さんは話すのを止めない。
    テレビでは一方の力士が土俵から押し出されていた。
    『お前が病気じゃなかったら生きたであろう本当の時間を渡すことができる。坊主はまだ小さいから、前のような老いぼれと違って何十年かは伸ばせるはずだ』
    『うーん、よく分かんない』
    『まあ、分からなくてもいい。もしもの時、お前にもまだできることがあることだけを知っていれば』
    『え?もうすぐ死んじゃうのに?』
    『ああ、そうだ。お前にもできることがあるんだ。みんなも兄ちゃんのために自分から命を差し出したんだ』
    『そっか。僕でもお兄ちゃんを助けられるんだ……』
    佐々木さんが温かな手を頭に乗せてきた。
    目を落とすと、笑顔の俊也お兄ちゃんの絵があった。

    ポタッ

    見下ろすと、涙が彼の絵の上に落ちた。
    「あの子は、最後に俊也さんと出掛けられて幸せに違いありません。
    だから、どうかご自分を責めないで」
    顔を上げると、おばあさんが笑顔で頷いた。
    俺は涙を拭き、もう一度絵をじっくりと見た。
    ニッコリとした二人の笑顔が目に焼き付くまで、ずっと見つめた。

    ようやく涙も止まり、俺はおばあさんと一緒に車に荷物を運び始めた。
    「あっ」
    服が入った段ボールを抱えていると、廊下で佐々木という男性に出会った。
    片足を引きずりながら、廊下の手すりを掴んで歩いている。
    「なんだ?俺に何か用か?」
    彼は立ち止まると、視線を下に降ろして俺の持つ段ボールを見た。
    「なるほど。っていうことは、あんたが坊主の言う兄ちゃんか」
    「た、多分そうです」
    段ボールと指がこすれて、ガガッと音が鳴った。
    彼は顎に手を当てて、俺の姿全体をじっくりと見ている。
    「まぁ、元気そうで何よりだ。そうでないとあいつらも浮かばれねぇ」
    「あいつらって言うのは、13年前の18人のことですか」
    「いや、19人だ」
    「あっ……そうですね」
    俯くと、太一君が着ていた服が段ボールの中に見えた。
    佐々木は壁に背中を預け、手すりに両肘を乗せて天井を見上げた。
    長細い蛍光灯が音もなく光っている。
    「あんたは覚えてないかもしれないが、あんたはここじゃみんなにとって癒しの存在だった」
    「すみません。まだ小さかったもので」
    「いや、いい。当時は俺も連れの見舞いで通っていただけだ」
    俺が俯くと、彼は手を軽く振り払った。
    「このホスピスにいるのはな、ほとんどが俺みたいな爺さんか婆さんなんだよ。老い先短い人ばかりだ。そんな時にまだ小さかったあんたがやってきた。それはもう、みんな孫ができたみたいに可愛がったものだ」
    「そうだったんですね」
    「まぁ、俺は子供なんて好きじゃないから関わらなかったけどな。
    それでな、ある日大西っていう婆さんが言ったんだ。
    『この子は人から命を分けてもらうことでしか生きていけないと』と」
    かつて彼が太一君に同じことを話していた時の場面が頭に浮かんだ。
    廊下の奥では、タイル張りガラスから光が漏れている。
    「ある日あんたは急に容体が悪くなってな。偶然泊まっていた俺以外のみんながあんたを少しでも生き長らえさせようと、自ら命を差し出していった。俺はあの日の光景をはっきりと覚えているよ」
    「やっぱり、俺のせいでみんなが……」
    指先に力が入り、段ボールが少しへこんだ。
    彼はチラッと俺を見ると、体を起こし足を引きづって近づいてきた。
    そして俺の肩にポンと手を乗せた。
    「重荷に思うな。前を向け。あの時死んでいった全員が、ここで過ごす時間の中で一番安らかな顔をしていたんだ」
    「……はい」
    冷たくなった太一君の顔を思い出した。
    彼はそのままゆっくりと壁を伝って俺から遠ざかっていった。
    段ボールの上には染み込んだ水滴の跡がいくつも残っていた。

    「最後まで本当にありがとうございました」
    「また何かあったら連絡ください」
    太一君の荷物をおばあさんの家に降ろし、俺は車の中から手を振った。
    玄関前で彼女は深く頭を下げた。
    アクセルを踏むと、車はゆっくりと走り出した。
    目の前には沈みかかった夕日が強い光を車内に届けた。
    「あっ……」
    サンバイザーを下ろしたときにバックミラーを見ると、おばあさんはまだ頭を下げたままだった。
    交差点を左に曲がる瞬間、彼女は顔を上げ、濡れた頬が夕日で反射していた。

    15年後――

    「今日から入社しました、高柳 良樹です。よろしくお願いいたします」
    デスクに座って作業していると、スーツ姿の男性が頭を下げた。
    俺はキーボードから手を離して顔を見上げる。
    体の横に添えられた手は、指先までピンと伸びている。
    「ああ、よろしく。俺はここのチーフの太田だ」
    彼はパッと顔を上げて、俺の顔をまじまじと見ていた。
    視線を逸らすと、みんな自分のデスクに座って電話を掛けていたりする。
    「太田さんって、あの『満天の星空』の太田さんですか?」
    「うん?ああそうだよ。けど、あれは俺が元じゃないぞ」
    俺は後頭部を手で掻いて横目で見ると、彼は目を輝かせている。
    「けど、あの作品を映画にして世の中に広めたのは太田さんじゃないですか。あの映画は小さい頃から何度も見て、本だって何度も読みました。
    あの作品があったから、ここの会社を選んだんですよ」
    彼の声量はどんどん上がっていき、それに合わせて顔が近づいてくる。
    俺は手で遮り、顔を逸らす。
    部下たちがこちらを見ながらニタニタと笑っている。
    「まあ、あれだ」
    俺は椅子から立ち上がり、彼と同じ目線になる。
    彼の前のめりになった体も一緒に上がっていく。
    「これから一緒に、多くの人に夢を届けるために手伝ってくれ」
    俺は彼に手を差し出した。
    「はい!!」
    彼の声がオフィス中に響き、俺の手を強く握った。
    俺の手では、就活の時に買った銀の腕時計が時間を刻んでいた。

    あなたへのおすすめ