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雪明かりの朝に見つめる世界


    2月、岩手の里山、朝5時。外はまだ暗い。
    それでも、深々と降り積もった雪の白さが、世界をかすかに照らしている。かじかんだ手をこすりながら、薪ストーブに火を入れる。火はすぐにはつかない。手に息を吹きかけると、家の中でも空気が白くなる。氷点下に近い部屋が、ゆっくりとあたたまっていく。
    その間、子どもたちの寝息を背に、ストーブの前でしっかり乾いた洗濯物を一枚ずつ畳む。パチ、パチ、と薪がはぜる音だけが、静かに広がっていく。

    ―こんな朝を迎えることになるとは、10年前の私は、想像すらしていなかった。

    都会で生まれ育ち、不自由のない生活を送ってきた。家族に支えられ、自分のやりたいことを尊重してもらいながら進学し、就職し、結婚した。大手企業に勤め、転勤の多い夫とともに日本各地で暮らした。

    生活に、人生に、何も不満などなかった。むしろ満たされていると思っていた。それでも、どこかで
    「このままでいいのだろうか」
    そんな感覚がわずかに残っていた。

    暮らしを大きく変えるきっかけになったのは、
    2021年、コロナ禍の最中、末娘を妊娠していたときだった。

    妊娠5か月目に入ったある日、自宅で突然、大出血した。救急車で運ばれ、近くの総合病院から、大学病院へ転院。そのまま管理入院となった。

    診断は、前置胎盤、癒着胎盤。母子ともに危険な状態で、赤ちゃんは小さく生まれると障害が残る可能性が高いこと、最悪の場合、命を落とすこともあると告げられた。母体も同じだった。

    ある日を境に、当たり前にそばにいた家族と離れて暮らす。あまりに突然で、言葉が、思考が、現実に追いつかなかった。そして人生で初めて「死」を意識した。
    死はもっとずっと先だと思っていた。
    点滴のチューブに繋がれたまま、
    白い天井を見上げる日々が始まった。コロナ禍で面会は禁止。部屋にあるのは、自分の呼吸と、機械の小さな音だけ。ときおり鳴るアラーム音に、心臓が跳ねる。
    「何かあったのかもしれない」
    そう思うたびに、お腹に手を当て、まだそこに命があることを確かめた。

    時計の針は、なぜかひどく遅い。未来のことを考えると怖くなり、過去を振り返れば後悔ばかりが浮かんだ。思考は行き場を失い、同じ場所を何度も回り続けていた。

    落ち込む私に、夫は言った。
    「家事も育児も仕事もしなくていい、こんな機会またとないんだからさ、読みたかった本、読みまくったらいいじゃん!」と。
    一週間に一度、リクエストした大量の本と差し入れが届くようになった。

    不安から逃げるように、本を開いた。
    けれど、ページをめくるうちに、逃げているつもりだった私は、
    むしろ自分の内側へと引き戻されていった。

    知らなかったことばかりだった。食べ物のこと、医療のこと、歴史のこと、経済のこと、社会の仕組み。
    知るほどに、これまで当たり前だと思っていたものが、静かに揺らいでいく。疑うというより、足場が少しずつ崩れていくような感覚だった。
    それでもページを閉じることはできなかった。怖さよりも、「知ってしまった」という実感のほうが、深く残ったからだ。気づけば、起きている時間のほとんどを本に費やしていた。外に出られない代わりに、意識だけがどこまでも遠くへ広がっていく。そして同時に、もう一つの感覚が芽生え始めていた。

    —私は、何も知らないまま生きてきたのかもしれない。
    その気づきは、責めるものではなく、ただ静かに胸の奥に沈んでいった。

    約3か月間の入院の末、緊急大手術になった、
    赤ちゃんは標準より小さく生まれたものの、何の障害もなく、標準体重に達するまで数週間の入院生活をして元気に退院した。私も体の半分ぐらい輸血をしたけれど、無事だった。
    ―私もこの子も、生きていた。

    退院したらあれもやろう、これもやろう、そんな思いばかりが溢れていた。しかしその思いに反して、体が言うことをきいてくれない。
    3か月間、動くことを禁じられた車いす移動で、
    トイレの用足し以外は動いていけなかった生活の影響はあまりにも大きかった。

    筋力が落ち、自宅の階段すらスムーズに登れない。上の子ども達もまだ「お母さん、抱っこ!」の時期だった。3か月離れ離れに暮らしていた影響もあって、赤ちゃん返りが凄く、彼らと沢山触れ合いたいのに、体力が追い付かない。
    そんなもどかしい時間を過ごした。

    体力が戻り、少しずつ動けるようになった頃、私は焦っていた。
    病室で知ったことを、誰かに伝えなければいけない気がしていた。けれど、言葉にするほど、うまく伝わらなかった。むしろ、伝えた人との間に、
    小さな距離が生まれていくのを感じていた。

    何をどう伝えればいいのか、分からなくなっていった。大人に伝えても、届かない。
    ならば、未来ある子どもに—

    そう思い、当時子どもたちが通っていた「お米の学校」で月に一度、食の話をする時間をもらった。

    毎回、子どもたちは真剣に話を聞いてくれた。
    うなずきながらメモを取る子もいて、
    「伝わっている」と感じる瞬間が何度もあった。
    子どもに伝われば、この国も少しは良くなるかもしれない。そんな手応えのようなものを、私は確かに感じていた。

    —だから、その一言は、あまりにも不意だった。
    「おばちゃん、この前ね、パパが風邪のときアイス買ってきてくれたんだけど、食べないほうがいいやつだったから、パパに怒っておいたよ。」
    教室の空気は、いつもと変わらなかった。
    周りの子たちも、特別なことのようには受け取っていない。でも、私の中だけが、すっと冷えた。

    胸の奥に、小さく、しかしはっきりとした違和感が広がっていく。
    その子にとっては、きっと何気ない報告だった。
    けれど私の耳には、「大切なものがすり替わった」という音のように聞こえた。

    体調が悪いときに、父親が娘のために買ってきたアイス。そこには、本来、心配や優しさや、ささやかな喜びがあったはずだ。それが、「良い・悪い」という基準に置き換わり、“批判するべきこと”へと変わってしまっている。
    私は、その変化を生み出した側にいる。
    言葉が、出なかった。
    教えたつもりだった。
    守るためだと思っていた。
    でも実際に起きていたのは、
    「誰かの優しさを否定する視点」を渡してしまっていた、ということだった。

    —しまった。
    その一言が、遅れて胸に落ちた。
    何かが崩れた、というより自分が立っていた場所が、静かにずれていたことに気づいた感覚だった。その日を境に、子ども達に話すことを止めた。話すことが、怖くなった。

    気づかないうちに、
    不安だけを手渡していたのかもしれない。
    何が正しいのか、分からなかった。
    伝えたいのに、伝わらない。
    どうしたらいいのかも、分からない。

    そんな悩み続けていたある日、私はある女性と出逢った。東日本大震災で津波を経験し、生き延び、里山に移住してきた方だった。 ライフラインの脆さを目の当たりにし、 パーマカルチャーという人と自然が共存して循環する生活を取り入れていた。彼女は今の日本の状況を全て知っていた。
    その上で私にアドバイスしてくれた。
    「まず自分たちの生活を整えること。食だけではなくライフラインも少しずつ自給すること。それを着実にやっていくと、安心感が生まれて
    有事の時には人に手を差し伸べれるようになると思う」と。

    稲妻が落ちたような感覚だった。
    当時、人に不安を話すばかりで、答えがみつからない迷路から抜け出せなかった自分にとっては、
    「これか!まずは自分ができることから一つ一つやっていったらいいんだ!」と気づかせてくれたのだ。

    外を変えようとしていた。
    けれど、揺れていたのは自分の足元だった。
    不安を誰かに伝えることで、何かを変えようとしていた。でも、それでは何も変わらなかった。

    人を変えることはできない。
    けれど自分は変えられる。
    行動しよう、そう思った。
    彼女との出会いを境に、私の行動はこれまでと違う形で一気に加速していった。

    まず最初にやったことは、主食である米を自給すること。入院中に知った日本の自給率の低さ。政府を批判したところで自給率は改善されない。入院中、米の作り方はある程度頭に入った。あとは実践だ。

    「無農薬で米を作りたい」
    農家でもない人間がそんなことを言い出し、
    周りの人は話半分で聞いていたと思う。

    しかし、当時野菜作りの用に畑を貸してくれていた農家さんが「無農薬栽培をしている人が高齢で田んぼの管理が出来なくなったから、1つ田んぼが空いたけど、やってみる?」
    と声をかけてくれ、田んぼと機械を貸してくれることになった。

    さらにこのタイミングで有機農家の友人が出来、
    無農薬で米を育てていくコツや外せないポイントなどをアドバイスしてくれた。

    実際に米を作ってみて、
    米づくりの一つ一つの作業にワクワクすると同時に、作業量の多さに愕然としたこともある。

    家族総出プラス友人に手伝ってもらった手植えは、線が曲がりに曲がり、驚くほど不格好な田植えとなった。

    田植えの次は数か月間の除草作業だ。
    ヒエが生え始めた頃、朝はまだ空気がひんやりと残る早朝に田んぼへ向かう。
    6時を過ぎるとお日様が登って暑いので、暑くなる前毎日の小一時間が勝負になる。水の張った田んぼに一歩踏み入れると、ぬるりとした泥が足を包み込む。慣れないその感触に最初は戸惑ったが、数日もすると、それが当たり前になった。

    手動の除草機を稲と稲の間に走らせていく。
    ぬかるんだ田んぼでは一歩足を前に出すだけでも体力を消耗する。先日除草したラインにもうすでにヒエがまた生えてきてげんなりしてしまう。
    コナギや水草も生えてきた。やってもまた次から次へと生え続ける雑草の生命力に驚く。
    除草機では取り切れないほど成長してしまった雑草は、最終的に腰を曲げて手で取り除く。終わりが見えない、完璧が分からない作業だった。

    太陽が高くなる頃には、額から流れた汗が顎を伝い、ぽたぽたと泥の上に落ちる。ふと顔を上げると、風に揺れる田んぼの水面がきらきらと光っていた。近くで鳥の鳴き声が聞こえ、私の作業を応援してくれるような気になった。時間の流れが、街で感じていたものとはまるで違うことに気づく。ただ、今やるべきことを、目の前で一つずつやっていくだけ。気づけば、呼吸が深くなっていた。

    取り切れない雑草を残しながらも、
    稲には穂がしっかりつき、秋には黄金に輝いていた。収穫作業は家族だけではなく、友達にも協力してもらって天日干しにした。
    杭の立て方がしっかりできておらず、数本崩壊してはやり直した。何度も心が折れた。でも、不思議とやめようとは思わなかった。
    お天道様の下で体を動かし、びしょびしょになるほど汗をかく。息が荒く、汗が目に入る。「うまくやらなきゃ」「失敗したくない」という気持ちも、いつの間にか消えていた。ただ手を動かすだけの時間の中で、ふと空を見上げたとき、頭の中のざわざわが、すっと消えた。理由はわからない。ただ「今、生きている」と、体の奥で静かに落ちてきた。

    ビギナーズラックかもしれないが、初めての米作りは、米農家さんが収穫する量とほぼ同じ量の米を収量できた。しかし無農薬で作ったので、
    ヒエは混在するし、カメムシに食われた見栄えが良くない黒い米もあるし、人様が買いたいと思うようなお米ではなかった。

    それでも、こんな農業経験ゼロの自分でもお米が作れるんだという自信になった。そして1年分の家族の米を作り、確保できる。それが何より私自身の安心感につながった。

    初めて家族で作った「無農薬天日干し米」を口に入れた日は忘れられない。口に入れた瞬間、言葉が出なかった。気づいたら、ただ泣いていた。

    次に暮らしを変えることにした。
    田畑を耕せる土地に住み、まずは自分たち家族の食料自給率を上げたいと思った。
    家庭菜園レベルの畑が庭にあれば十分だと思っていたので、土地を探し始めた当初は新築でも中古でも家にはこだわりは無かった。

    そんな時、ある友人と再会した。
    彼女はアメリカ人で日本の古き良き工芸品や伝統を愛する人。久しぶりに会った彼女は古民家を借り、DIYでセルフリノベーションをしていた。
    彼女のお家がとても素敵でカッコよく映ったと同時に、「日本には良いものがたくさんあるのに、日本人はその良さに気付いていないよ。」と外国人の彼女からメッセージを受け取った気がした。

    彼女との再会を機に“畑付きの古民家に住むこと”が次の目標になり、古民家を探し始めた。しかし、思うように見つからない日が続く。

    半ば古民家はあきらめかけていた時、今住んでいる築150年の古民家を紹介してもらった。
    この古民家に出会うために約1年間回り道をしたのではないか?と思えるほど、たくさんの予想外の出来事、試練、失敗、学びが待ち受けていた。

    まず、リノベーションが全く進まなかった。
    古民家をセルフリノベーションした友人は「素人でもできるよ~!」と軽く言っていたし、YouTubeでは素人がお金をかけずにリノベーションをした動画が出回っていて、自分達にもできる!と思って意気込んでいた。

    しかし、実際には片付けるのに精いっぱい。
    仕事をしながら、子育てをしながら、週末だけ数時間古民家に出入りするだけでは、全く進まなかった。行き詰った結果、プロの大工さんにリフォームをお願いすることにした。

    古民家は人が住まなくなってから7年以上経ち、
    あらゆるところが傷んでいた。古民家リフォームをしたとき、大黒柱がシロアリに侵食され、取り換える必要があると分かった。

    ちょうどそのタイミングで太い丸太が古民家の納屋に置いてあるのを大工さんが見つけてくれた。
    先人はこの家に何かあった時のためにと、木を切り、製材し、腐らないように保管しておいてくれたのだ。

    チェーンソーもない時代に伐採はどれほど大変だっただろう。移動機械が無い時代、山から切った木を運び出すのにどれだけの人数が必要だっただろう。そんなことを想像すると涙が出るほど嬉しかった。

    親族でもない、実際に会ったこともない先人たちであるが、古民家ではこうした先人の動きを感じることができる機会が多々あり、感謝の気持ちで溢れる。

    古民家に家庭菜園レベルの畑がついてきたらいいな、そんな気持ちでいたのにも関わらず、古民家には大きな畑に加え、リンゴ畑までついてきた。

    せっかく無農薬で野菜を栽培しようと思っているのだから、りんごも無農薬でやってみたいと周りの農家さんや知り合いに申し出たところ、
    「絶対無理だからやめた方がいい」
    どの方からも同じ言葉が返ってきた。

    実際に無農薬りんご栽培をしたことのある人に聞いてみよう!やる・やらないは聞いてから決めよう、そう思い、「奇跡のりんご」で有名な木村秋則さんの講演を青森県弘前市まで聞きに行くために新幹線に飛び乗った。

    講演会で話す80歳を過ぎた木村さんからは、優しい弘前弁の口調から想像も出来ないほどのエネルギーをいただいた。
    無農薬りんご栽培がどれだけ難しいことかもよく理解できたと同時に、自然が、地球が、私達人間の手でどれだけ傷つけられているかを知った。迷いは吹っ切れ、帰りの新幹線では「無農薬りんご栽培をやる」という気持ちに変わっていた。

    病害虫にやられ、黒いリンゴになってしまった1年目。急に農薬を絶たれて元気が無くなった上、
    害獣に全てのリンゴを食べつくされた2年目。
    思わずその場にしゃがみ込んでしまうこともあった。3年目の今現在もリンゴ畑では毎回驚くほどの病気や虫を目の前に、自分の悲鳴が響き、失敗の連続中である。

    しかし、岩手に住む木村さんのお弟子さんを紹介してもらい直接指導してもらえたり、定年退職を迎えた庭師の方が我が家に全力サポートをしてくれ、リンゴの管理方法を細やかに教えてくださったり、本当に沢山の人との御縁に恵まれて、失敗しながらも続けることが出来ている。

    実際にりんご栽培をやってみて、想像以上労力がいることを実感し、“古民家にリンゴ畑がついてこなければこんな目には合わなかったのに…”
    と思い心がくじけそうになったことが何度もある。

    しかし、そのたびに木村さんの笑顔と
    「本当に大切なことは見えない部分にある」という言葉を思い出し、また自分を奮い立たせている。

    リンゴ畑に加えて、サッカー場ほどの広さの裏山までついてきた。裏山も整備できるようにならなきゃいけないな、これは大変だ、と思っていたところ、市の広報に「チェーンソー講習会」の案内が書かれていて、夫が通い始めた。

    夫がチェーンソーを使えるようになって分かったことは、里山保全活動は一人で行うのはとても厳しいということ。クマや鹿など獣の恐怖、伐木のときに起こりうるリスクなど、仲間と一緒に作業することがとても大切だということを知った。

    夫任せであったが、私も昨年からチェーンソー講習会に通い、細い木なら伐木できるようになった。裏山の整備をしていると、ここに住んでいた先人たちが様々な木を植樹していておいてくれたことがよく分かる。

    また、たくさんの植物が自生し、木の実やキノコや野草など人間にも食べ物を恵んでくれている。
    山に入ると、感謝の気持ちが溢れると同時に、すでに豊かさは身近にあるという意識に包み込まれるのだ。

    古民家に移り住んでから、ここに住んでいた先人や仲間や自然に感謝する機会が驚くほど増えた。感謝の気持ちを持って日々過ごしていると、自分の心が満たされていると感じる。
    退院直後、不安だらけで誰かに伝えなければ!
    と躍起になっていた自分とは別人のようだ。

    引っ越して最初の年。
    一冬分の薪がどれくらいの量なのかが分からず、
    “これだけあれば一冬持つだろう!”と自信を思って準備した薪は、田舎暮らしをする先輩から「これ1週間分?」と言われた。

    そんな大袈裟な…と笑って返事をしたものの、
    冬を越すために必要な薪の量なんて、考えたこともなかったから、想像すらできなかった。

    さらに「この薪じゃ今年は使えないよ」と教えてもらい、何を言われたのか一瞬分からなかった。
    今年切った木は乾ききっていないので薪にできない。切り倒した木を薪に出来るのは来年以降、
    という薪の常識すら、田舎暮らし初心者の自分は知らなかったからだ。

    その年の冬、薪棚を目の前に先輩が言っていた意味をやっと理解した。
    薪棚にたっぷり並べた薪は、北東北の寒さの中、どんどん無くなってゆく。
    「1週間分?」という言葉は冗談ではなく、
    本格的な冬に入る前に、すぐに薪棚は空っぽになった。このままだと、この家で冬を越せない、と悟った瞬間だ。

    薪を節約しよう。
    そんな安易な考えになり、少ない薪で使用を続けた結果、部屋も寒いわ、薪ストーブの煙突を詰まらせてしまうわ、という大失敗をした。

    部屋は煤だらけ。タンスやピアノの上は触れると指が黒くなる。空気は重く灰色がかって、目がショボショボして涙目になる。息を吸うたびに喉の奥がイガイガした。

    子どもに「煙臭いからこの家は嫌だ」と言われ、
    「人間版燻製できちゃうかもね!」と冗談を言って、ネガティブな空気を無理やり明るく変換しようとする自分。家の中にいるのに、外より息苦しかった。

    寒くて震える夜、全員分の湯たんぽを準備する夜が続いた。氷点下近い朝、一刻も早く温まりたいけれど、着火したら煤だらけになってしまう…。
    薪ストーブをつけるのも億劫になる。

    そして年末年始、家族全員流行りのインフルエンザにかかってしまった。体もきついし、寒いし、煙い。家族全員寝込んだ日の夜、私は布団に入っても眠れなかった。

    元の便利な生活に戻れたらどれだけ楽だろう。
    意識が朦朧とする中、そんなことを考えていた。
    子どもたちの寝息を聞きながら、芯から冷えた体を冷静に感じ、「私は一体ここで何をしているんだろう」と思った。

    家族全員で心が折れていたとき、我が家に薪ストーブの先輩が現れた。「元気?」と何気ないメールをくれた先輩に、「薪ストーブの調子が悪いです。」と返信した。この最悪な状況を知り、一瞬で“煙突に煤が溜まっている”と見抜いて、寒い中一緒に煙突掃除をしにきてくれたのだ。

    薪を節約するのではなく、着火するときはたくさん薪を使って一気に火を安定させることが大切、
    と薪ストーブと上手く付き合う方法も教えてもらった。1年目の冬はリフォームで出た廃材や譲ってもらった薪で何とか冬を越せた。
    先輩には足を向けて寝れないね、と夫とこの日を振り返るたびに話をする。

    2年目の春。
    春になると、次の冬に向けて薪づくりが始まる。
    1年目に体験した同じ失敗はもうしまい、と薪棚の増築と薪づくりに励んだ。
    裏山にある倒木して長年放置された木や、隙間なく生い茂る木々に空間をつくってあげるために間伐し、一定の長さに玉切りし、薪割り機で薪にする。木の繊維の流れを見て、割れやすい場所を探す。割った薪を一つひとつ積み上げていく。
    気の遠くなるような作業だが、これが冬の「暖かさ」になるのだと思うと、手を止める理由はなかった。また、長年手入れされていなかった山に足を踏み入れ、里山に新しい日差しを入れてあげることは山が喜んでくれている気がして、気持ちがよかった。

    目の前に積み上がっていく薪の山を見ながら、
    “自分たちの手で冬を越す準備をしている”という実感が、少しずつ体の中に染み込んでいった。

    薪棚も増設した。
    しかし、薪棚ひとつ作るのも失敗の連続だった。
    DIYで作った薪棚は水平が保てず数日で崩壊した。
    笑うしかなかった。何度も失敗したが、不思議と笑っていられた。
    一人だったら、とっくに心が折れていたと思う。
    うまくいかないことが続くたびに、夫と顔を見合わせては笑い、また体を動かした。「またやっちゃったね」と言いながら、同じ失敗を繰り返す。
    でもその時間は、どこか心地よかった。

    便利な暮らしの中では気づかなかった。
    同じ方向を向いて人と何かに取り組むということが、こんなにも心を支えてくれるとは。

    作っては倒れる薪棚づくりはセンスが無いと判断し、薪をただ積み上げる“スイス積み”と呼ばれる積み方で薪を乾かすことに切り替えた。

    しかし、これも気付けば崩壊。見なかったことにしたくなった。それでも、また積み直した。
    何度も崩れては、小学生になる子ども達と積み直した。まだまだ手のかかる子どもだと思っていた彼らは古民家暮らしでいつの間にか強力なチームメンバーと化している。そんな彼らの真似をして、
    生まれてくる前、病院で“生まれることができないかもしれない”と言われた末娘も紅葉の様な大きさの手で、一生懸命薪仕事を手伝う。
    彼らの小さな背中から頼もしさを感じた。

    積みなおし中に夜が更けてくると、嫌だという気持ちが吹っ切れて笑いたくなる。しかしそのとき、ふと気づいた。できないことより、できることの方が増えている。このチームメンバーで薪を積んでいる今、この瞬間が奇跡なのだと。

    2年目の冬はたくさん準備した薪のおかげで、
    とても温かい空間で冬を越すことができた。隙間だらけの古民家では、他の部屋は立ち入らなくなる半面、薪ストーブの周りには人が集まってくる。もう、前の生活に戻りたいとは思わなくなっていた。
    一人で過ごしたい思春期の娘も薪ストーブに寄ってきて自然と会話も弾む。下の子達も今日あったこと、週末やりたいことを我先にと薪ストーブの前で体を寄せ合って話す。薪ストーブの前に温かさと笑顔が広がる。自然と私の目じりが下がる瞬間だ。

    私が体験したことや、想いを話してほしいと言われる機会が増えた。
    人に伝えようともがいていた頃が嘘のように、
    自分から発信しなくても、私の話を聞きたいと
    興味を持って寄ってくれる人や旧友なども訪れてくれるようになった。不思議なことだ。

    朝、パチパチと薪がはぜる音を聞きながら、子どもたちの寝息を背に、洗濯物を畳む。
    大手術後あの頃の私が必死になって探していたものは、もしかしたら、ずっとここにあったのかもしれない。そう思いながら、もう一枚、洗濯物を畳んだ。

    断熱のきいた現代住宅でエアコンのボタンをひとつ押せば、部屋はすぐにあたたまる。そんな暮らしを、私は知っている。

    数年前まで、その便利さの中で、何の疑いもなく生きていた。でも今は違う。
    冬を越すために薪を用意し、手を動かし、体を動かしながら、あたたかさをつくる。その時間ごと、私は受け取っている。
    ストーブの前に座ると、冷え切っていた指先が、ゆっくりとほどけていく。凍えていた感覚が、少しずつ戻ってくる。
    ただ、ここにいる、という感覚だけが、確かにある。もう、何かで埋めなくてもいい。足りないものを探さなくてもいい。

    そう思えるとき、外の静けさと、内側の静けさが、同じ温度で重なる。ふと顔を上げる。外はまだ暗い。それでも、雪明かりの中で、世界はかすかに明るんでいる。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    かわぞえ ひとみ 岩手県で里山古民家暮らしを実践中。 便利さの中で忘れかけていた、人と自然とのつながりや心の豊かさを思い出す暮らし。 子育て、半自給自足、里山保全、祖先の知恵、日本人が大切にしてきた精神性を、日々の暮らしとともに綴っています。

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