
無臭をまとう私たちが、忘れていくもの
太陽は高く昇り、日差しはいつもより強く、あらゆる生き物たちの歓声が聞こえてきます。
私は、冷蔵庫の奥で食べ物が傷んでいく匂いに、
どうにも耐えられません。
だからこそ、消費期限や野菜の顔色を執拗なまでに確認する癖がついてしまっています。
すべての命には、それぞれの匂いがあるものです。(小さな虫たちにも匂いがあるのかといった、細かなツッコミはどうか横に置いておいてください)
匂いとは、一種の遺言のようなものなのかもしれません。
全ての生き物はこの世界に存在し、その名残としての香りを留めていることを、もう少し誇りに思ってもいいような気がします。
もちろん、化学的な成分による匂いは除いての話ですが。
春が来れば、私たちはさまざまな匂いを楽しむことができます。
そして同時に、小さなハエやクモ、ゴキブリたちともうまく付き合っていかなければなりません。
少なくとも、この家においては。
もうすぐ本格的な春がやってきます。
天候や気温は不安定で、春とはそうやって始まるものだったなと思い出します。
気温が上がるにつれて、多くの問題が顔を出し始めます。こう言うと、気候変動の話かと思われるかもしれません。
はい、確かにそれもあります。
ですが、ここ日本では、社会でうまくやっていくために「無臭」の状態でいることが半ば義務づけられているのです。
それはとても些細で、少し奇妙なことだと思いませんか。
私はよく薬局に足を運びます。そこはサプリメントからスキンケア用品まで、あらゆる商品が並ぶ明るい楽園のような場所です。
近頃では、私たちの体から発せられる匂いを消し去ってくれる日焼け止めや、制汗スプレーの陳列にばかり目がいくようになりました。
パンデミック以前、私もまた自分の匂いに気を配ることに少し取り憑かれていたかもしれません。
洗面所の棚にはいくつもの制汗剤が並んでいました。しかし、こうした行動は日本ではごく標準的なものです。
季節の変わり目になれば、テレビ番組はこぞって私たちの「特有の匂い」を消す方法を推奨し始めるのですから。
ですが、あのパンデミックの最中に、私はひとつの転換点に達しました。
この社会において、私たちの多くは無意識のうちにマスクを着け始め、今となってはマスクを着けることのほうを好むようにすらなっています。
理由はいろいろあるのでしょう。スギ花粉を防ぐため、メイクの手間を省くため、あるいは本当の顔を隠すため。マスクを着けることには多くの利点があります。
何よりも、マスク越しでは私たちの嗅覚も鈍ります。
だから私は、人々はもう匂いというものに無関心になったのだと思っていました。
しかしパンデミックが明けても、匂いに対する深く根付いた価値観は変わりませんでした。
確かに、古代から異臭を感知することは生存において不可欠な能力でした。本能が嗅ぎ取る匂いを、マスクのフィルターで完全に抑え込むことなどできないのです。
それでも時折、世の中に漂う様々な匂いのなかに、数え切れないほどの「生きた証」が溶け込んでいるのではないかと考えることがあります。
大半の生き物は、息絶えた後でさえ、土の中の微生物に分解される過程で独自の匂いを放ち続けます。
先に述べたように、私は腐敗臭が嫌いです。確かにその匂いには強く拒絶反応を示してしまいますが、同時に、どうしようもない悲しみや悔恨の念を抱きます。
かつて生命力に満ちていた生き物が、かくも哀れな姿へと変わり果ててしまった事実を突きつけられるからです。
今なら、なぜ私たちには匂いがあるのか、少しわかる気がします。
もちろん、遺伝子を残すために伴侶を惹きつけるというのも理由のひとつでしょう。
ですが私たちは、物理的な機能を失った後でさえ、名残としての遺言を空気に滲ませ、「自分は確かにこの世界を生きていたのだ」と主張したいのではないでしょうか。完全に土へと還る、その時まで。
夏の雨が通り過ぎ、虹が現れては消え、雲でさえもその形を変えていきます。私たちはそうやって、ごく自然に忘れていくのでしょう。まるで、最初から何一つ存在しなかったかのように。