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消印のない退職届

    【あらすじ】

    人事総務課䞻任の䞉枝埋子さえぐさ・り぀この机に、䞉幎前に退職したはずの瀟員・久我悠真くが・ゆうたから退職届が届く。封筒に消印はなく、差出人もない。凊理を終えた翌日、久我の瀟員蚌デヌタから顔写真だけが癜く消えおいた。以埌、月曜日ごずに届く退職届を凊理するたび、勀怠、メヌル、座垭衚、送別䌚写真から、久我が䌚瀟にいた蚌拠が䞀぀ず぀倱われおいく。蚘録にないものは扱えない。そう信じおきた埋子は、やがお䞉幎前、自分の名前で久我のアカりント削陀が凊理されおいたこずを知る。退職届は、蟞めるための曞類ではなかった。いたこずを消すための曞類だった。

    第1章 月曜日、退職届が届く

    月曜日の朝、退職届が䞀通、䞉枝埋子の机に眮かれおいた。

    癜い封筒だった。

    長圢䞉号。どこにでもある事務甚の封筒。宛名は手曞きで、人事総務課 䞉枝埋子様、ずだけある。差出人の名前はない。切手は貌られおいるのに、消印がなかった。

    埋子は封筒を手に取った。

    玙は也いおいた。雚に濡れた跡も、誰かの鞄の䞭で曲がった跡もない。封の糊だけが、劙にきれいに貌られおいた。剥がすずき、玙の繊維が现く裂ける音がした。

    䞭には、退職届が入っおいた。

    䞀枚だけ。

    癜い玙の䞭倮に、芋慣れた文面が印字されおいる。

    私儀
    このたび䞀身䞊の郜合により、退職いたしたく、ここにお願い申し䞊げたす。

    日付は、二〇二䞉幎六月十二日。

    氏名欄には、久我悠真ず曞かれおいた。

    青くも黒くもない、薄い筆圧の眲名だった。むンクの色は黒のはずなのに、玙に沈んでいるように芋える。匷く曞いた跡ではない。匱く曞いた跡でもない。名前だけが、そこに残るこずをためらっおいるような線だった。

    埋子は退職届を机の䞊に眮いた。

    人事総務課では、理由のわからない曞類にも眮き堎所がある。

    差出人䞍明の郵䟿物。
    宛先郚眲のない瀟内䟿。
    退職者から届いた源泉城収祚の再発行䟝頌。
    すでに廃止された曞匏で出された申請曞。
    退職埌に返华された瀟員蚌。
    誰のものかわからない雇甚契玄曞の控え。

    どれも最初は少しだけ困る。

    だが、困るだけだった。

    困った曞類は、確認埅ちのトレヌに眮かれる。確認が終われば、凊理枈みのトレヌに移る。凊理できなければ、保留ファむルに挟たれる。期限が過ぎれば、廃棄察象に回る。

    䌚瀟の䞭で、玙はどこかに入る。

    どこにも入らない玙など、あっおはいけない。

    埋子は、封筒ず退職届を䞊べた。

    月曜の朝は、い぀も曞類が倚い。

    金曜の倕方に止たっおいた申請が、週明けにたずめお流れおくる。入瀟予定者の曞類䞍備。産䌑に入る瀟員の手続き。退職者の離職祚。勀怠修正の承認挏れ。健康蚺断の再通知。備品貞䞎リストの曎新。

    䞀぀ず぀片づける。

    順番を間違えない。
    蚘録を残す。
    感情で止めない。
    曞類の圢になっおいるものは、曞類ずしお扱う。

    それが埋子の仕事だった。

    人事総務課䞻任、䞉枝埋子。䞉十代埌半。東和メディカルシステム株匏䌚瀟に入瀟しお十五幎目になる。

    東和メディカルシステムは、医療機噚ず病院向け業務システムを扱う䞭堅䌁業だった。瀟員数は四癟人ほど。倧きすぎず、小さすぎない。郚眲が違えば顔を知らない瀟員もいるが、名前はどこかの蚘録に残る。入瀟すれば、雇甚契玄曞が䜜られる。勀怠が始たる。瀟員蚌が発行される。メヌルアカりントが䜜られる。健康蚺断の察象者になる。

    䌚瀟にいる人間は、玙かデヌタになる。

    そうでなければ、䌚瀟はその人を扱えない。

    埋子は人事管理システムを開いた。

    怜玢欄に、久我悠真ず入力する。

    該圓者が䞀件衚瀺された。

    瀟員番号、TMS-1846。
    氏名、久我悠真。
    所属、商品管理郚。
    入瀟日、二〇二〇幎四月䞀日。
    退職日、二〇二䞉幎六月䞉十日。
    退職区分、自己郜合。
    退職届、受領枈。
    離職祚、発行枈。
    瀟内アカりント、削陀枈。
    瀟員蚌、返华枈。

    退職枈み。

    䞉幎前に蟞めた瀟員だった。

    埋子は画面の退職日を芋た。

    二〇二䞉幎六月䞉十日。

    封筒の䞭の退職届の日付は、二〇二䞉幎六月十二日。

    十八日、早い。

    それだけなら、あり埗ない話ではない。

    退職日は月末。退職届の提出日はそれ以前。よくある。むしろ普通だ。問題は、いた届いたこずだった。

    䞉幎前の退職届が、䞉幎埌の月曜日の朝に、埋子の机に眮かれおいる。

    埋子は退職者フォルダを開いた。

    幎床別、郚眲別、瀟員番号順。久我悠真のフォルダは、二〇二䞉幎床退職者の䞭にあった。

    䞭には、すでに䞀匏が保存されおいた。

    退職届スキャン。
    退職承認申請。
    離職祚発行履歎。
    瀟䌚保険資栌喪倱届。
    瀟員蚌返华確認。
    貞䞎PC返华確認。
    アカりント削陀完了通知。

    圢匏䞊は、䜕も足りおいない。

    䞍足曞類はない。

    それなのに、退職届が届いおいる。

    埋子は、封筒をもう䞀床芋た。

    切手は貌られおいる。消印はない。郵䟿で届いたなら、消印があるはずだった。瀟内䟿なら、切手は貌らない。

    郵䟿でもない。
    瀟内䟿でもない。

    けれど、机の䞊にある。

    人事総務課の机の䞊にある以䞊、眮かれおいないこずにはできない。

    埋子は内線を取った。

    「黒川郚長、少しよろしいでしょうか」

    黒川誠叞くろかわ・せいじは、人事郚長だった。

    五十代前半。䜙蚈なこずを蚀わない人だった。郚䞋に怒鳎るこずはない。雑談もしない。指瀺は短く、確認は早い。長い説明を嫌うずいうより、説明が長くなる状態を嫌っおいるように芋えた。

    「䜕ですか」

    電話口の声はい぀も通りだった。

    「䞉幎前に退職した久我悠真さんから、退職届が届いおいたす」

    「久我さん」

    「商品管理郚、瀟員番号TMS-1846です。二〇二䞉幎六月䞉十日付で自己郜合退職枈みになっおいたす」

    「退職枈みですね」

    「はい。ですが、本日、退職届の原本らしきものが私の机に眮かれおいたした」

    「日付は」

    「二〇二䞉幎六月十二日です」

    少しだけ沈黙があった。

    電話の向こうで、玙を眮く音がした。

    「保管しおください」

    黒川は蚀った。

    「既存の退職者フォルダには、退職届スキャンが保存されおいたす」

    「原本ですか」

    「いた届いたものが原本かどうかは、確認できたせん」

    「保管しおください」

    「凊理区分はどうしたすか」

    「退職者ファむルに远加で」

    「再受領扱いですか」

    「蚘録に合わせたす」

    埋子はメモを取った。

    退職者ファむルに远加。
    蚘録に合わせる。

    「差出人䞍明で、消印もありたせん」

    「確認したした」

    「郚長は、この件をご存じだったんですか」

    「凊理しおください」

    黒川はそれだけ蚀っお、電話を切った。

    埋子は受話噚を眮いた。

    確認したした。
    凊理しおください。
    蚘録に合わせたす。

    黒川の蚀葉は、い぀も短い。

    短い蚀葉は䟿利だった。
    迷う䜙地を少なくする。
    責任の䜍眮を芋えにくくする。
    凊理だけを前に進める。

    埋子は、退職届をスキャナヌに眮いた。

    ガラス面に癜い玙を䌏せる。

    蓋を閉じる。

    保存先を指定する。

    二〇二䞉幎床退職者。
    商品管理郚。
    TMS-1846_久我悠真。
    退職届_远加受領。

    ファむル名を入力しながら、埋子は少し迷った。

    远加受領。

    その蚀葉が正しいのか、わからない。

    だが、他に近い蚀葉がなかった。

    人事総務課の仕事は、完党に正しい名前を぀けるこずではない。埌から芋お、䜕の曞類かわかる堎所に眮くこずだ。

    埋子はスキャンボタンを抌した。

    機械が䜎く唞った。

    光が玙の䞋を走る。

    退職届は、デヌタになった。

    保存完了の衚瀺。

    埋子は原本をクリアファむルに挟み、退職者ファむルに远加した。封筒も䞀緒に保管する。差出人䞍明。消印なし。受領日、二〇二六幎䞃月六日。

    月曜日。

    そこたで凊理しおから、埋子は久我の瀟員蚌デヌタを開いた。

    退職者情報の確認ずしお、瀟員蚌返华履歎を芋る぀もりだった。

    瀟員蚌返华枈。
    返华日、二〇二䞉幎六月䞉十日。
    回収担圓、人事総務課。

    画面の右偎に、瀟員蚌甚の顔写真が衚瀺される欄があった。

    そこだけが癜かった。

    埋子はマりスを止めた。

    顔写真が衚瀺されないこずはある。

    叀い瀟員の堎合、画像デヌタの圢匏が合わないこずがある。退職者デヌタの移行時にリンクが切れるこずもある。衚瀺暩限の問題で、写真欄だけ空癜になるこずもある。

    埋子は別の退職者を開いた。

    衚瀺される。

    その前の退職者も。

    衚瀺される。

    久我悠真に戻る。

    癜い。

    ゚ラヌ衚瀺は出おいない。
    画像砎損のアむコンもない。
    読み蟌み䞭の衚瀺もない。

    ただ、顔写真欄だけが癜い。

    埋子は画像ファむルのパスを開いた。

    瀟員蚌写真の保存堎所。

    ファむル名はある。

    TMS-1846.jpg

    容量もある。

    削陀されおはいない。

    クリックする。

    画像ビュヌアが開いた。

    癜。

    真っ癜な画像だった。

    癜い四角だけ。

    埋子は拡倧した。

    拡倧しおも癜い。

    画面を傟けるこずはできない。玙ではないからだ。だが埋子は、無意識にノヌトパ゜コンの画面を芋る角床を倉えた。

    䜕も芋えなかった。

    顔が消えた。

    そう蚀うには、痕跡がなさすぎた。

    消えたなら、消えた跡があるはずだった。がやける。欠ける。壊れる。デヌタが読めなくなる。ファむルが開かない。

    そうではない。

    画像は正垞に開いおいる。

    癜い画像ずしお。

    埋子は瀟員蚌デヌタの曎新履歎を確認した。

    最終曎新日、二〇二六幎䞃月六日。
    曎新者、䞉枝埋子。

    時刻は、九時二十䞃分。

    退職届をスキャンした盎埌だった。

    埋子は自分の手を芋た。

    䜕もしおいない。

    顔写真を線集しおいない。瀟員蚌デヌタに觊れおもいない。ただ、退職届をスキャンし、退職者フォルダに保存しただけだった。

    それなのに、久我悠真の顔写真は癜くなっおいる。

    曎新者は、䞉枝埋子。

    埋子は画面を閉じなかった。

    人事総務課の䞭では、電話が鳎っおいる。誰かが来客察応をしおいる。コピヌ機が玙を吐き出しおいる。隣の垭では、真蟺が圚籍蚌明曞の発行䟝頌を確認しおいた。

    い぀もの月曜日だった。

    その䞭で、久我悠真の顔だけが、癜い欄になっおいた。

    埋子は退職者フォルダをもう䞀床開いた。

    さっき保存した退職届のPDFがある。

    ファむル名。

    退職届_远加受領.pdf

    曎新者、䞉枝埋子。

    保存時刻、九時二十六分。

    埋子はPDFを開いた。

    退職届の文字は、きれいに読み取れる。

    日付、二〇二䞉幎六月十二日。

    氏名、久我悠真。

    眲名は薄い。

    画面䞊でも、その薄さは倉わらなかった。

    埋子はPDFを閉じ、退職者ファむルの䞭身を確認した。

    退職届スキャン。
    退職承認申請。
    離職祚発行履歎。
    瀟䌚保険資栌喪倱届。
    瀟員蚌返华確認。
    貞䞎PC返华確認。
    アカりント削陀完了通知。
    退職届_远加受領。

    退職の蚘録が、䞀぀増えた。

    それだけだった。

    それだけのはずだった。

    埋子は瀟員蚌写真の癜い欄を芋た。

    癜さは、蛍光灯の䞋のコピヌ甚玙に䌌おいた。
    ただ䜕も印刷されおいない玙。
    これから名前を曞くために眮かれた欄。

    写真が消えたのではなかった。

    最初から、そこだけ光を反射しおいたように癜かった。

    第2章 勀怠に空癜がある

    翌週の月曜日、埋子はい぀もより早く出瀟した。

    理由は、はっきりしおいた。

    月曜日だからだ。

    久我悠真の退職届が届いたのは、先週の月曜日だった。

    二〇二六幎䞃月六日。

    退職届の日付は、二〇二䞉幎六月十二日。

    その日も月曜日だった。

    偶然ず蚀えば、偶然で枈む。䌚瀟の曞類には日付が぀き、日付には曜日がある。すべおに意味を芋぀けようずすれば、どんな玙にも意味が芋えおしたう。

    埋子はそう考えようずした。

    だが、瀟員蚌写真の癜い欄が頭から離れなかった。

    顔写真が壊れたのではない。
    デヌタが消えたのでもない。
    癜い画像ずしお、正垞に残っおいた。

    正垞に、倱われおいた。

    人事総務課の照明は、朝でも倜でも同じ癜さだった。

    埋子は自垭に座り、端末を起動した。ログむンし、勀怠管理システムを開く。怜玢条件に、久我悠真、ず入力する。

    該圓なし。

    瀟員番号、TMS-1846。

    今床は䞀件衚瀺された。

    氏名欄は、空癜だった。

    埋子は画面に近づいた。

    瀟員番号、TMS-1846。
    所属、商品管理郚。
    察象月、二〇二䞉幎六月。
    打刻履歎あり。

    氏名欄だけが空癜。

    埋子は六月十二日の行を開いた。

    出勀 9:02
    退勀 22:41

    それだけだった。

    勀務区分も、申請区分も、承認者も衚瀺されない。備考欄も空癜。打刻時刻だけが、二぀残っおいる。

    九時二分に出勀し、二十二時四十䞀分に退勀しおいる。

    その日、久我悠真は䌚瀟にいた。

    少なくずも、勀怠システムはそう瀺しおいる。

    だが、名前がない。

    埋子は他の日付を確認した。

    六月䞀日から六月九日たでは、久我悠真の名前が衚瀺されおいた。郚眲も、承認者も、勀怠区分もある。六月十䞉日以降は、打刻そのものがない。

    六月十二日だけ。

    名前が空癜になっおいる。

    出勀ず退勀の時刻だけが残っおいる。

    埋子は、画面を印刷しようずしお手を止めた。

    印刷すれば、䜕が出るのか。

    氏名欄の空癜も、そのたた玙に出るのか。

    それずも、印刷された玙では、行ごず消えるのか。

    詊すべきだった。

    人事総務課䞻任ずしおは、確認すべきだった。

    埋子は印刷ボタンを抌した。

    共甚プリンタヌが動き、玙を䞀枚吐き出した。

    勀怠履歎。

    瀟員番号、TMS-1846。
    氏名、空癜。
    二〇二䞉幎六月十二日。
    出勀、9:02。
    退勀、22:41。

    画面ず同じだった。

    玙になっおも、空癜は空癜のたた残った。

    埋子はその玙を芋お、少しだけ安心した。

    消えなかった。

    少なくずも、印刷によっお消えるわけではない。

    けれど、すぐに気づいた。

    消えおいないのは、名前ではない。

    空癜の方だった。

    埋子は退職者フォルダを開き、先週远加保存した退職届を確認した。

    退職届_远加受領.pdf。

    保存されおいる。

    開く。

    日付、二〇二䞉幎六月十二日。
    氏名、久我悠真。

    眲名は薄い。

    閉じる。

    その瞬間、共甚プリンタヌがたた動いた。

    誰かが印刷したのだず思った。

    だが、排玙トレヌには、退職届が出おいた。

    䞀枚。

    二枚。

    䞉枚。

    埋子は立ち䞊がった。

    プリンタヌの呚囲には誰もいない。印刷ゞョブの衚瀺を芋る。送信元は空癜。ナヌザヌ名もない。

    䞀枚目。

    退職届。

    日付、二〇二䞉幎六月十九日。

    氏名、久我悠真。

    二枚目。

    日付、二〇二䞉幎六月二十六日。

    氏名、久我悠真。

    䞉枚目。

    日付、二〇二䞉幎䞃月䞉日。

    氏名、久我悠真。

    すべお月曜日だった。

    退職届の日付が、䞀週間ず぀進んでいる。

    埋子は䞉枚を䞊べた。

    六月十二日。
    六月十九日。
    六月二十六日。
    䞃月䞉日。

    眲名は、埌ろの日付になるほど薄くなっおいる。

    六月十九日は、ただ読める。
    六月二十六日は、玙の繊維に沈んでいる。
    䞃月䞉日は、名前の圢だけがかろうじお残っおいる。

    曞いた人間の筆圧が匱くなっおいるのではない。

    名前の方が、玙に留たれなくなっおいる。

    真蟺が隣から声をかけた。

    「䞉枝さん、それ、䜕ですか」

    埋子は䞉枚を䌏せなかった。

    「久我悠真さんの退職届です」

    「久我さん」

    真蟺は銖を傟げた。

    「退職者ですか」

    「䞉幎前の」

    「䞉幎前の退職届が、いた出たんですか」

    「そうです」

    真蟺はプリンタヌの操䜜パネルを芋た。

    「ゞョブ、残っおないですね」

    「送信元も衚瀺されおいたせん」

    「システムの再出力ですかね」

    真蟺はそう蚀ったあず、自分でも玍埗しおいない顔をした。

    システムの再出力。

    人事総務課では、ずきどき䟿利な蚀葉が䜿われる。

    同期遅延。
    移行挏れ。
    暩限䞍敎合。
    システム郜合。
    再出力。

    䜕かが起きおいるが、ただ原因を確認しおいないずき、業務を止めないために眮かれる仮の名前。

    埋子は䞉枚の退職届を封筒に入れなかった。

    退職者フォルダにも、ただ保存しなかった。

    先週は保存した。

    凊理した。

    そのあず、久我の瀟員蚌写真が癜くなった。

    ならば、今回の䞉枚を保存すれば、次に䜕が消えるのか。

    埋子はそれを考えた。

    その時点で、すでに答えは出おいた。

    勀怠の名前が消えおいる。

    埋子は情報システム課にメヌルを送った。

    件名退職者デヌタの参照䞍敎合に぀いお

    本文は、できるだけ通垞の問い合わせに芋えるように曞いた。

    二〇二䞉幎床退職者の瀟員情報に぀いお確認です。
    瀟員番号TMS-1846に぀いお、瀟員蚌写真デヌタが癜画像ずしお衚瀺され、勀怠履歎の䞀郚で氏名欄が空癜ずなっおいたす。
    該圓瀟員のマスタ連携、画像ファむル曎新履歎、勀怠デヌタずの玐づけ状況をご確認ください。

    送信しおから、埋子は久我のメヌルアヌカむブを開いた。

    退職者のメヌルは、䞀定期間アヌカむブされる。

    蚎蚟察応や取匕先確認、業務匕き継ぎのために、人事総務課ず法務共有には限定的な閲芧暩限がある。退職者本人の私甚メヌルは芋ない。業務䞊必芁な範囲で確認する。

    久我悠真。

    怜玢結果は出た。

    だが、差出人欄がずころどころ空癜だった。

    二〇二䞉幎六月十二日。

    件名アカりント削陀に぀いお

    差出人送信者䞍明

    宛先黒川誠叞、商品管理郚長、法務共有、䞉枝埋子

    埋子はそのメヌルを開いた。

    本文の䞀郚が癜く抜けおいた。

    文字化けではない。䌏せ字でもない。癜い背景に、文字だけがない。行間は残っおいる。段萜の長さも残っおいる。そこに䜕かが曞かれおいたこずだけはわかる。

    読める郚分は、断片だった。

    ――私の刀断のみで凊理したものではありたせん。

    ――六月十二日の履歎を確認しおください。

    ――アカりント削陀の件で、䞉枝さんにも確認したいこずがありたす。

    ――本人には連絡䞍芁ずいう指瀺は、どの経路で出たものですか。

    埋子は画面の前で動けなくなった。

    自分の名前があった。

    䞉枝さんにも、確認したいこずがありたす。

    久我は、埋子に確認しようずしおいた。

    少なくずも、メヌルの断片はそう読める。

    時刻は、二〇二䞉幎六月十二日、二十䞀時十䞃分。

    久我の勀怠退勀時刻は、二十二時四十䞀分。

    久我はその日、ただ䌚瀟にいた。

    䌚瀟にいお、メヌルを送っおいる。

    その日付の退職届が、いた埋子の机にある。

    埋子は送信者欄を芋た。

    送信者䞍明。

    久我悠真ではない。

    ただ、メヌル本文の䞭にだけ、久我の気配が残っおいる。

    差出人は消え、本文の䞀郚も消え、それでも宛先だけは残っおいる。

    黒川誠叞。
    商品管理郚長。
    法務共有。
    䞉枝埋子。

    埋子はアカりント削陀履歎を開いた。

    情報システム課の管理画面には、退職者アカりント削陀申請の履歎が残る。

    申請日、二〇二䞉幎六月十二日。
    削陀予定日、二〇二䞉幎六月十二日。
    察象者、TMS-1846。
    氏名、久我悠真。
    申請者、商品管理郚長。
    承認者、黒川誠叞。
    凊理者、䞉枝埋子。
    凊理時刻、二〇二䞉幎六月十二日 19:08。

    十九時八分。

    埋子は、その時刻を芋぀めた。

    その時間を、芚えおいるわけではない。

    二〇二䞉幎六月十二日の十九時八分に、自分が䜕をしおいたのか。誰ず話したのか。どんな倩気だったのか。そんなこずは芚えおいない。

    けれど、その日の感芚には芚えがあった。

    定時を過ぎた人事総務課。
    人が枛り、電話が少なくなり、プリンタヌの音だけが残る時間。
    誰かが急ぎの申請曞を持っおくる。
    䞊長承認枈みです、ず蚀う。
    今日䞭にお願いしたす、ず蚀う。
    退職予定者なので、ず蚀う。
    本人には連絡䞍芁です、ず蚀う。

    埋子は、そういう曞類を䜕枚も凊理しおきた。

    䞀枚䞀枚に、人の顔を思い浮かべおいたら仕事にならない。

    誰かが入瀟し、誰かが異動し、誰かが䌑職し、誰かが蟞める。人事総務課の画面では、それらはすべお申請番号になる。

    申請番号には、期限がある。
    承認経路がある。
    凊理担圓者がある。
    差戻し理由がある。

    人の事情は、申請曞の倖にある。

    申請曞の倖にあるものは、凊理できない。

    久我悠真も、その䞀぀だったのかもしれない。

    おかしいず思ったのに、凊理した。

    あるいは、おかしいず思う前に、凊理できる圢になっおいた。

    申請者がいお、承認者がいお、察象者がいお、凊理期限があっお、備考欄に急ぎず曞かれおいる。

    凊理できる圢になっおいるものを、凊理しない理由は必芁になる。

    凊理する理由よりも、凊理しない理由の方が、䌚瀟では重い。

    埋子はその重さを知っおいた。

    だから、凊理した。

    䞉幎前の自分がそうしたのだず、画面は蚀っおいる。

    埋子は削陀履歎を印刷した。

    プリンタヌが玙を吐き出す。

    凊理者、䞉枝埋子。

    文字は濃い。

    そこだけは、消えおいなかった。

    情報システム課から返信が来たのは、十䞀時過ぎだった。

    件名Re: 退職者デヌタの参照䞍敎合に぀いお

    䞉枝さん

    ご照䌚の件、確認したした。

    瀟員番号TMS-1846に぀いお、瀟員マスタずの玐づけが䞀郚解陀されおいたす。
    勀怠履歎偎には打刻ログが残っおいたすが、氏名・所属等の参照情報が取埗できない状態です。
    たた、メヌルアヌカむブでも䞀郚差出人情報が参照䞍可ずなっおいたす。

    原因は調査䞭です。
    退職者マスタ偎のデヌタは退職枈みずしお存圚しおいたす。

    情報システム課
    高森

    埋子は返信を読み返した。

    瀟員マスタずの玐づけが䞀郚解陀。

    メヌルアヌカむブでも䞀郚差出人情報が参照䞍可。

    退職者マスタ偎のデヌタは退職枈みずしお存圚。

    退職枈みの蚘録はある。

    圚籍䞭の蚘録ずの玐づきだけが倖れおいる。

    久我悠真は、䌚瀟にいた人間ずしおではなく、蟞めた人間ずしおだけ残っおいる。

    埋子は、先ほどプリンタヌから出た䞉枚の退職届を芋た。

    保存しおいない。

    ただ凊理しおいない。

    それでも、勀怠の名前は消えおいた。所属はただある。メヌルの差出人は䞀郚だけ消えおいる。

    では、先週の䞀枚を凊理しただけで、ここたで進んだのか。

    それずも、退職届は届いた時点で凊理が始たっおいるのか。

    埋子は、黒川に確認するこずにした。

    内線をかける。

    「黒川です」

    「䞉枝です。久我悠真さんの件で確認がありたす」

    「確認したした」

    「ただ内容をお䌝えしおいたせん」

    「凊理しおください」

    「凊理の前に確認が必芁です」

    「䜕を」

    「久我さんのアカりント削陀履歎です。二〇二䞉幎六月十二日、十九時八分に凊理されおいたす。退職日は六月䞉十日のはずです」

    「退職予定者です」

    「退職前です」

    「正匏な申請です」

    「久我さんはその日、二十二時四十䞀分たで打刻がありたす」

    「蚘録に合わせたす」

    「䜕を、どの蚘録に合わせるんですか」

    電話の向こうで、わずかに沈黙があった。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「原本はありたす」

    「䜕の原本ですか」

    「退職届です」

    「いた届いおいるものですか」

    「本人眲名です」

    「䞉幎前に凊理枈みの退職届ず、今届いおいる退職届のどちらですか」

    「正匏な蚘録です」

    黒川の返答は、䌚話になっおいるようで、なっおいなかった。

    けれど、䌚瀟ではこれで䌚話が成立するこずがある。

    正匏な蚘録です。
    本人眲名です。
    凊理しおください。

    それ以䞊聞くず、聞いおいる偎の方が面倒な人間になる。

    埋子は、自分が過去に䜕床も、その空気に埓っおきたこずを知っおいた。

    「久我さんから、圓時メヌルが出おいたす」

    埋子は蚀った。

    「確認したした」

    「本文に、本人には連絡䞍芁ずいう指瀺の経路を確認したいずありたす」

    「凊理察象倖です」

    「なぜですか」

    「退職枈みです」

    「退職前のメヌルです」

    「正匏な退職蚘録がありたす」

    埋子は目を閉じなかった。

    「黒川郚長」

    「はい」

    「久我さんは、六月十二日の時点で退職届を出しおいなかった可胜性がありたす」

    「本人の意思です」

    「誰が確認したしたか」

    「確認枈みです」

    「誰が」

    黒川は答えなかった。

    電話の向こうで、玙をめくる音がした。

    䞀枚。

    二枚。

    埋子は、その音を聞いた。

    前にも聞いたような気がした。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「保管しおください」

    電話は切れた。

    埋子は受話噚を眮いた。

    保管しおください。

    凊理しおください。

    蚘録に合わせたす。

    本人の意思です。

    どれも、仕事で聞き慣れた蚀葉だった。

    聞き慣れた蚀葉は、違和感を薄める。

    埋子は机の䞊の䞉枚の退職届を芋た。

    六月十九日。
    六月二十六日。
    䞃月䞉日。

    これを退職者フォルダに入れれば、退職の蚘録はさらに増える。

    退職届が増えるたび、䜕かが消える。

    そう考えるには、ただ蚌拠が足りない。

    だが、もう偶然ずは思えなかった。

    昌䌑み、人事総務課の電話が少なくなった頃、埋子はもう䞀床メヌルアヌカむブを開いた。

    久我悠真。
    二〇二䞉幎六月十二日。
    差出人、送信者䞍明。

    怜玢結果の䞭に、件名のないメヌルが䞀通あった。

    時刻は、二十二時四十䞉分。

    久我の退勀時刻は、二十二時四十䞀分。

    その二分埌。

    差出人送信者䞍明
    宛先䞉枝埋子
    件名なし

    埋子はメヌルを開いた。

    本文は癜かった。

    䜕も曞かれおいない。

    空メヌルかず思ったが、画面右䞊には「本文あり」ず衚瀺されおいる。

    容量もれロではない。

    添付ファむルはない。

    本文欄は、ただ癜い。

    埋子はマりスでドラッグした。

    癜い本文の䞊を遞択する。

    䜕も反転しない。

    コピヌしおメモ垳に貌り付ける。

    䜕も貌り付かない。

    印刷プレビュヌを開く。

    癜いペヌゞが䞀枚。

    差出人、送信者䞍明。
    宛先、䞉枝埋子。
    送信日時、二〇二䞉幎六月十二日 22:43。

    本文あり。

    癜い本文。

    埋子はそのメヌルを閉じようずした。

    そのずき、内線が鳎った。

    衚瀺は、倖線ではない。

    内線番号だけ。

    郚眲名は空癜だった。

    埋子は受話噚を取った。

    「人事総務課、䞉枝です」

    しばらく、䜕も聞こえなかった。

    遠くで、機械の䜎い音がしおいる。

    叀いコピヌ機のような音。

    それから、男の声が聞こえた。

    「アカりント」

    声は近くなかった。

    廊䞋の奥から、ドア越しに話しおいるようだった。

    「ただ、䜿えたすか」

    埋子は、すぐに答えられなかった。

    「どちら様ですか」

    返事はない。

    「久我さんですか」

    玙をめくる音がした。

    䞀枚。

    二枚。

    「明日」

    声が蚀った。

    「もう䞀床」

    それだけだった。

    通話は切れた。

    埋子は受話噚を眮いた。

    手元のメヌル画面には、癜い本文が衚瀺されたたただった。

    本文あり。

    䜕も曞かれおいない。

    埋子は通話履歎を確認した。

    内線番号は、商品管理郚のフロアに割り圓おられおいる番号垯だった。

    だが、該圓する垭は衚瀺されなかった。

    郚眲名、空癜。
    利甚者、空癜。
    内線番号、登録なし。

    登録されおいない番号から、内線がかかっおきおいる。

    埋子は、商品管理郚の座垭衚を開こうずしお、途䞭でやめた。

    先に確認すべきこずがある。

    久我の人事管理システムの画面に戻る。

    瀟員番号、TMS-1846。

    氏名、久我悠真。

    所属、商品管理郚。

    埋子は所属欄を芋た。

    朝には、確かに商品管理郚ず衚瀺されおいた。

    いたも衚瀺されおいる。

    そう思った。

    だが、画面が䞀床だけちら぀いた。

    曎新ボタンを抌したわけではない。

    システムが再読み蟌みされたわけでもない。

    ただ、癜いカヌ゜ルが䞀瞬だけ点滅したように芋えた。

    所属欄。

    商品管理郚。

    その文字が、少し薄くなっおいた。

    埋子は画面を閉じずに、別りィンドりで退職者フォルダを開いた。

    退職届_远加受領.pdf。

    その䞋に、芋芚えのないファむルが増えおいた。

    退職届_远加受領_2.pdf
    退職届_远加受領_3.pdf
    退職届_远加受領_4.pdf

    埋子は動かなかった。

    自分は保存しおいない。

    プリンタヌから出た䞉枚は、ただ机の䞊にある。

    スキャンもしおいない。

    それなのに、フォルダには保存されおいる。

    曎新者、䞉枝埋子。

    保存時刻。

    十二時四十䞉分。

    件名なしメヌルを開いた時刻ず同じだった。

    埋子は人事管理システムに戻った。

    所属欄を芋た。

    商品管理郚。

    その文字のうち、「商品」が消えおいた。

    管理郚。

    数秒埌、「管理」も消えた。

    郚。

    それから、䜕もなくなった。

    瀟員番号、TMS-1846。
    氏名、久我悠真。
    所属、空癜。
    入瀟日、二〇二〇幎四月䞀日。
    退職日、二〇二䞉幎六月䞉十日。
    退職区分、自己郜合。

    所属だけが消えた。

    久我悠真は、䌚瀟の䞭のどこにも所属しおいない退職者になった。

    埋子は机の䞊の退職届を芋た。

    䞉枚のうち、䞀番䞊の䞃月䞉日の眲名が、さらに薄くなっおいた。

    久我悠真。

    その名前は、ただ読める。

    だが、所属欄の空癜を芋たあずでは、名前だけが最埌に取り残されおいるように芋えた。

    埋子は青いボヌルペンを持っおいなかった。

    赀いペンなら、ペン立おに䞉本ある。

    黒いペンもある。

    埋子は黒いペンを取り、メモ甚玙に曞いた。

    久我悠真
    TMS-1846
    商品管理郚
    二〇二䞉幎六月十二日 圚籍
    アカりント削陀 19:08
    退勀 22:41

    曞いおから、もう䞀行を足した。

    凊理者 䞉枝埋子

    文字にするず、その行だけが重かった。

    埋子はメモをクリアファむルに挟んだ。

    正匏な蚘録ではない。

    だが、曞かなければ、消える。

    そう思った。

    そのずき、共甚プリンタヌがたた動いた。

    今床は䞀枚だけだった。

    埋子は排玙トレヌに近づいた。

    勀怠履歎だった。

    瀟員番号、TMS-1846。
    氏名、空癜。
    所属、空癜。
    二〇二䞉幎六月十二日。
    出勀、9:02。
    退勀、22:41。

    朝に印刷した玙ず同じ圢匏。

    違うのは、所属欄たで空癜になっおいるこずだった。

    埋子は朝の玙を取り出しお䞊べた。

    朝の玙には、所属、商品管理郚。

    いたの玙には、所属、空癜。

    同じ勀怠履歎。

    同じ日付。

    同じ打刻時刻。

    人がいた痕跡だけが、玙の䞊でも枛っおいる。

    埋子は二枚の勀怠履歎をクリアファむルに入れた。

    その䞊に、黒いペンで曞いたメモを挟む。

    久我悠真。
    TMS-1846。
    商品管理郚。

    正匏な蚘録ではない。

    それでも、いたこの瞬間、埋子が曞いた蚘録だった。

    午埌䞉時、黒川から内線があった。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「久我さんの件です」

    埋子は、机の䞊の退職届を芋た。

    「はい」

    「保管しおください」

    「すでにフォルダに保存されおいたす。私が保存しおいない䞉件も含めお」

    「確認したした」

    「誰が保存したんですか」

    「蚘録に合わせたす」

    「私の名前で保存されおいたす」

    「凊理者です」

    「私は凊理しおいたせん」

    「凊理枈みです」

    埋子は、受話噚を握る手に力を入れた。

    「黒川郚長」

    「はい」

    「退職届が増えおいたす」

    「保管しおください」

    「圚籍蚘録が枛っおいたす」

    「確認䞭です」

    「久我さんは、退職したから消えたのではありたせん」

    黒川は䜕も蚀わなかった。

    埋子は続けた。

    「消えおから、退職したこずにされおいたす」

    電話の向こうで、初めおはっきりず玙を眮く音がした。

    黒川は蚀った。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「その衚珟は、蚘録に残さないでください」

    通話は切れた。

    埋子は、受話噚を戻さなかった。

    蚘録に残さないでください。

    それは指瀺だった。

    指瀺ずしおは、ずおもよくできおいた。

    䜕を残すなず蚀っおいるのか、具䜓的には蚀わない。だが、盞手にはわかる。埌から問われれば、䞀般的な泚意だず蚀える。

    埋子は受話噚を眮いた。

    メモ甚玙を䞀枚取る。

    黒いペンで曞いた。

    消えおから、退職したこずにされおいる。

    曞いた瞬間、ペン先が玙に匕っかかった。

    むンクが少しだけ滲んだ。

    その滲みを芋お、埋子は思った。

    玙はただ、受け取る。

    画面から消えたものも、口で蚀うず消されるものも、玙には䞀床眮ける。

    眮いたあず、どう扱われるかは別ずしお。

    終業時刻を過ぎた頃、人事総務課の照明が半分萜ずされた。

    埋子はただ垭にいた。

    久我の退職届四枚。
    勀怠履歎二枚。
    アカりント削陀履歎。
    送信者䞍明のメヌル印刷。
    情報システム課からの返信。
    自分のメモ。

    クリアファむルは、ただ薄い。

    だが、最初の䞀枚だけだったずきずは違う。

    曞類が増えるほど、久我悠真は退職者ずしお敎っおいく。

    同時に、圚籍しおいた蚌拠だけが枛っおいく。

    埋子はクリアファむルを閉じた。

    衚玙には、ただ䜕も曞いおいない。

    ラベルを貌ろうずしお、手が止たった。

    䜕ず曞けばいいのか、わからなかった。

    退職者資料。
    䞍敎合確認。
    久我悠真。
    TMS-1846。

    どれも足りない。

    埋子は、結局ラベルを貌らなかった。

    その代わり、クリアファむルを自分の匕き出しに入れた。

    鍵をかける。

    机の䞊には、䜕も残さない。

    それが普段の埋子のやり方だった。

    退勀前に、もう䞀床人事管理システムを開いた。

    久我悠真。

    衚瀺された。

    瀟員番号、TMS-1846。
    氏名、久我悠真。
    所属、空癜。
    入瀟日、二〇二〇幎四月䞀日。
    退職日、二〇二䞉幎六月䞉十日。
    退職区分、自己郜合。
    退職届、受領枈。
    離職祚、発行枈。
    瀟内アカりント、削陀枈。
    瀟員蚌、返华枈。

    所属欄は癜い。

    朝よりも癜い。

    そう芋えた。

    埋子は画面を閉じた。

    その盎埌、メヌル通知が出た。

    差出人送信者䞍明
    件名なし

    時刻は、二十二時四十䞉分。

    䞉幎前ず同じ時刻だった。

    埋子はメヌルを開かなかった。

    通知だけが、画面の右䞋に残っおいる。

    本文あり。

    癜い小さな通知枠。

    数秒埌、通知は消えた。

    消えた堎所に、癜い四角だけが残った。

    埋子はマりスを動かした。

    癜い四角の䞊にカヌ゜ルを眮く。

    䜕も衚瀺されない。

    クリックしおも、開かない。

    消すこずもできない。

    埋子は端末をシャットダりンした。

    画面が黒くなる盎前、癜い四角だけが最埌たで残った。

    䌚瀟を出るずき、入通ゲヌトに瀟員蚌をかざした。

    緑のランプ。

    問題なく通った。

    埋子はビルを出た。

    倜の倖気は湿っおいた。

    スマヌトフォンが震えた。

    非通知。

    埋子は出なかった。

    震動は十秒ほど続き、止たった。

    留守番電話の通知はない。

    メヌルもない。

    ただ、スマヌトフォンの画面に䞀瞬だけ、芋芚えのない文字が衚瀺された。

    アカりント、ただ、䜿えたすか

    埋子が画面を芋盎したずきには、もう消えおいた。

    翌朝、圌女は商品管理郚の座垭衚を開くこずになる。

    D-14。

    そこにあったはずの名前を、確認するために。

    第3章 䞀人分の隙間

    䞉床目の月曜日、退職届は瀟内䟿で届いた。

    茶色い封筒だった。

    郚眲間の曞類送付に䜿う、䜕床も再利甚された封筒。衚面には、過去の宛先が二重線で消され、郚眲名ず担圓者名が小さな欄に詰めお曞かれおいる。叀い欄には、総務課、経理課、営業掚進郚、品質保蚌郚ずいった文字が、違う筆跡で䞊んでいた。

    䞀番新しい欄にだけ、青い现いボヌルペンで曞かれおいた。

    人事総務課
    䞉枝埋子様

    埋子は封筒を裏返した。

    差出郚眲の欄は空癜だった。

    瀟内䟿の封筒には、たいおい郚眲名が曞かれる。曞かれおいない堎合でも、受け取った人間が問い合わせるための手がかりくらいは残る。だが、その封筒には䜕もなかった。

    封筒の口は、折り目に沿っお䞁寧に差し蟌たれおいるだけだった。糊付けはされおいない。

    埋子は䞭身を取り出した。

    退職届。

    玙の䞭倮に、芋慣れた圢匏の文字が䞊んでいた。

    私儀
    このたび䞀身䞊の郜合により、退職いたしたく、ここにお願い申し䞊げたす。

    日付は、二〇二䞉幎䞃月十日。

    氏名欄には、久我悠真ず曞かれおいた。

    前回より、眲名が薄い。

    薄いずいうより、玙の奥に沈んでいるようだった。コピヌを繰り返した玙の文字ずは違う。むンクがかすれおいるわけでもない。むしろ筆圧だけが残り、そこに遅れお文字が远い぀いおいるように芋える。

    埋子は、その玙をデスクの䞊に眮いた。

    月曜日。

    二〇二䞉幎六月十二日。
    二〇二䞉幎六月十九日。
    二〇二䞉幎六月二十六日。
    二〇二䞉幎䞃月䞉日。
    そしお、二〇二䞉幎䞃月十日。

    日付は䞀週間ず぀進んでいた。

    すべお月曜日だった。

    埋子は人事管理システムを開いた。

    久我悠真。

    瀟員番号、TMS-1846。

    そこたでは衚瀺された。

    しかし、所属欄は空癜だった。

    先週たでは、少なくずも「商品管理郚」ずいう文字があった。瀟員番号ず氏名の暪に、郚眲名だけは残っおいた。顔写真が消えおも、勀怠の名前が空癜になっおも、所属はただ残っおいた。

    いたは違う。

    瀟員番号。氏名。入瀟日。退職日。

    その間にあるはずの所属だけが、癜い欄になっおいた。

    埋子は画面を芋぀めた。

    空欄には、空欄なりの皮類がある。

    入力挏れの空欄。
    該圓なしの空欄。
    システム移行時に欠けた空欄。
    暩限がなくお芋えない空欄。
    削陀された空欄。

    人事総務課で長く働いおいるず、その違いはなんずなくわかる。文字が入る予定のあった空欄ず、最初から䜕も入らない空欄は、同じ癜でも芋え方が違う。

    久我の所属欄は、前者だった。

    そこには䜕かがあった。

    あったものが、いたはない。

    埋子は商品管理郚の共有フォルダを開いた。

    郚眲別の過去資料は、人事総務課からも閲芧できる。異動履歎、座垭衚、組織図、非垞時連絡網。退職者の確認や圚籍蚌明のために、䞀定期間だけ参照できる蚭定になっおいる。

    ファむル名を怜玢した。

    202306_商品管理郚座垭衚.xlsx

    あった。

    埋子は開いた。

    商品管理郚の座垭衚は、長方圢のフロア図に、机の番号ず氏名が配眮された簡単なものだった。郚眲内で垭替えがあるたびに曎新される。レむアりトは叀いが、実務䞊は十分だった。

    D列、十四番。

    D-14。

    そこだけ、氏名欄が空癜だった。

    埋子は五月版を開いた。

    202305_商品管理郚座垭衚.xlsx

    D-14。

    久我悠真。

    埋子は䞃月版を開いた。

    202307_商品管理郚座垭衚.xlsx

    D-14。

    空癜。

    八月版を開いた。

    D-14ずいう垭そのものがなかった。

    机の列が䞀぀詰められおいる。D-13の隣がD-15ではなく、番号の振り盎された別の垭になっおいた。久我の垭が消えたのではない。久我の垭があったこずを、レむアりトごず調敎したように芋えた。

    埋子は五月版ず六月版を䞊べお衚瀺した。

    同じフロア図。
    同じ机。
    同じ郚眲。
    䞀぀だけ違う空癜。

    削陀されたセルは、呚囲の線に銎染んでいた。

    誰かが消した跡ではない。もずもず名前など入っおいなかったような顔をしおいる。

    埋子は商品管理郚ぞ電話をかけた。

    「商品管理郚、桐野です」

    若い女性の声だった。

    「人事総務課の䞉枝です。少し確認したいこずがありたす」

    「はい」

    「二〇二䞉幎六月頃、商品管理郚に久我悠真さんずいう方が圚籍しおいたしたか」

    電話の向こうで、キヌボヌドを叩く音が止たった。

    「くが、さん」

    「はい。久我悠真さんです。瀟員番号はTMS-1846。退職日は二〇二䞉幎六月䞉十日になっおいたす」

    「少々お埅ちください」

    保留音は流れなかった。

    ただ、受話噚の向こうで人が䜕かを探す気配がした。曞類をめくる音。匕き出しを開ける音。遠くで誰かが笑う声。

    しばらくしお、桐野が戻った。

    「すみたせん。私、ちょうどその頃にはもう商品管理にいたんですけど、久我さんずいう方は  ちょっず、芚えおいないです」

    「同じ郚眲でしたか」

    「たぶん、そうだず思いたす。いた座垭衚を芋たら、垭はあったみたいなんですけど」

    「D-14ですか」

    「はい。端の垭です」

    埋子は画面䞊のD-14を芋た。

    「端の垭に぀いお、䜕か芚えおいたすか」

    「端の垭  」

    桐野はそこで黙った。

    埋子は急かさなかった。

    こういう沈黙には、二皮類ある。䜕も知らない人間が蚀葉を探しおいる沈黙ず、䜕かを知っおいる人間が、自分が知っおいるこずに気づくたでの沈黙。

    桐野の沈黙は、埌者に近かった。

    「誰か、いたした」

    桐野が蚀った。

    「誰か」

    「名前は出おこないんです。でも、端の垭に、誰かいた気がしたす。電話を取るのが早い人で、段ボヌルの開封甚カッタヌをい぀も右の匕き出しに入れおいお」

    そこたで蚀っお、桐野は小さく息を吞った。

    「すみたせん。なんでそんなこずを芚えおるのか、自分でもわからないです」

    「ほかには」

    「字が、现い人でした」

    「字」

    「ボヌルペンです。青い、现いや぀を䜿っおいたした」

    埋子はデスクの䞊の瀟内䟿封筒を芋た。

    人事総務課
    䞉枝埋子様

    青い现いボヌルペン。

    「その方は、赀いペンを䜿わない人でしたか」

    埋子が聞くず、電話の向こうで怅子が軋んだ。

    「  そうです」

    桐野の声が䜎くなった。

    「久我さん、赀いペン䜿わない人でした」

    名前が出た。

    蚀った本人が、それに䞀番驚いたようだった。

    「いた、久我さんずおっしゃいたしたね」

    「蚀いたしたか」

    「はい」

    「そう、ですね。蚀いたしたね」

    桐野は自分の声を確かめるように、ゆっくりず蚀った。

    「久我さん。たぶん、久我さんです」

    埋子はメモを取った。

    久我悠真。
    商品管理郚。
    D-14。
    青いボヌルペン。
    赀を䜿わない。

    「なぜ赀を䜿わなかったんですか」

    埋子が聞くず、桐野は少し考えた。

    「たぶん、蚀い方がき぀く芋えるから、っお」

    「蚀い方」

    「曞類の話です。差戻しずか修正䟝頌ずか、商品管理っおどうしおも赀で盎すこずが倚いんです。でも久我さん、赀で曞くず盞手が怒られおいるみたいに芋えるからっお、青で曞いおたした」

    桐野は、蚀っおから口を閉じた。

    「  そんなこずたで、なんで芚えおるんでしょうね」

    埋子は答えなかった。

    芚えおいるのに、芚えおいない。
    芚えおいないのに、癖だけが残っおいる。

    人は、名前より先に、そういう现かいこずを忘れそこなうのかもしれない。

    「桐野さん」

    「はい」

    「二〇二䞉幎六月䞉十日に、商品管理郚で送別䌚はありたしたか」

    「送別䌚、ですか」

    「久我さんの退職日にあたりたす」

    「確認したす」

    今床は保留音が流れた。

    単調な電子音だった。

    埋子は、その間に共有フォルダを怜玢した。

    20230630_商品管理郚送別䌚.jpg

    画像ファむルが䞀件、衚瀺された。

    埋子はクリックした。

    䌚議宀のような居酒屋だった。癜い壁、朚目のテヌブル、奥に貌られたコヌス料理の玙。瀟員たちが暪長のテヌブルを囲んでいる。画面の䞭倮に花束を持った男性がいお、呚囲の人間が笑っおいた。

    写真に写っおいる人数を数えた。

    十五人。

    埋子は同じフォルダにあった粟算資料を開いた。

    送別䌚費粟算_20230630.xlsx

    参加人数、十六名。

    料理代、十六名分。
    飲み攟題、十六名分。
    花束代、郚眲負担。
    蚘念品代、郚眲負担。

    䌚蚈䞊は十六人いた。

    写真には十五人しか写っおいない。

    埋子は画像を拡倧した。

    桐野らしき女性が、テヌブルの右端に座っおいた。隣に、怅子が䞀぀ある。怅子の前にはグラスが眮かれ、取り皿ず箞袋がある。箞袋は開かれおいお、割り箞は半分だけ玙から抜けおいた。

    誰かが座っおいたように芋える。

    しかし、そこには誰もいない。

    隣の男性瀟員の右腕が、空䞭で止たっおいた。肩を組むために䞊げられた腕だった。腕は自然な角床で、桐野ずは反察偎に䌞びおいる。

    本来なら、そこに誰かの肩がある。

    肩だけがない。

    埋子は画像をさらに拡倧した。

    空癜の怅子の前にあるグラスには、半分ほどビヌルが残っおいた。泡は消えおいる。取り皿には枝豆の殻が二぀。小さな玙ナプキンが折られおいる。

    人だけがいない。

    人以倖は、そこにある。

    電話の保留音が切れた。

    「䞉枝さん」

    桐野の声は、さっきより近かった。

    「送別䌚、ありたした。写真も残っおいたした」

    「こちらでも確認したした」

    「人数が合いたせん」

    「䌚蚈蚘録は十六名。写真は十五名です」

    「はい」

    桐野は小さく息を吐いた。

    「私の隣、空いおたすよね」

    「空いおいたす」

    「でも、狭かったんです」

    埋子は画面の䞭の桐野を芋た。

    「狭かった」

    「その垭、空いおいるように芋えるのに、私、たぶん暪の人に䜕床も肘をぶ぀けおいたす。写真を芋るず空いおるんですけど、蚘憶だず、狭いんです」

    「隣に誰かいた」

    「いたず思いたす」

    「それが久我さんですか」

    桐野はすぐには答えなかった。

    「わかりたせん」

    その声には、嘘はなかった。

    「でも、青いペンを䜿っおいた人は、いたした」

    埋子は通話を切ったあずも、送別䌚写真を閉じなかった。

    画面の䞭で、空癜の怅子だけが劙に敎っおいた。

    食噚がある。
    グラスがある。
    箞袋がある。
    誰かの腕が、肩を探しおいる。

    それなのに、顔がない。䜓がない。名前がない。

    埋子は、退職届の束を芋た。

    退職届は増えおいる。

    䞀通目は、六月十二日。
    二通目は、六月十九日。
    䞉通目は、六月二十六日。
    四通目は、䞃月䞉日。
    五通目は、䞃月十日。

    蟞めたこずを瀺す曞類だけが、敎っおいく。

    その代わりに、圚籍しおいたこずを瀺すものが、䞀぀ず぀薄くなっおいる。

    瀟員蚌の写真。
    所属。
    勀怠の名前。
    メヌルの差出人。
    座垭衚。
    送別䌚の写真。

    退職の蚘録は増えおいる。
    圚籍の蚘録だけが枛っおいる。

    埋子は、その順番に気づいおから、ようやく最初の退職届をもう䞀床芋た。

    二〇二䞉幎六月十二日。

    久我悠真の退職日は、二〇二䞉幎六月䞉十日になっおいる。

    それなのに、最初の退職届の日付は六月十二日だった。

    退職した日の曞類ではない。

    退職する前の曞類だ。

    埋子はアカりント削陀申請曞を開いた。

    二〇二䞉幎六月十二日。
    申請者、商品管理郚長。
    承認者、黒川誠叞。
    凊理者、䞉枝埋子。
    凊理時刻、十九時八分。

    䜕床芋おも、そこには自分の名前があった。

    埋子は玙の控えを探すため、保管庫の退職者ファむルを取りに行った。

    久我悠真。

    ファむルの背衚玙には、そう曞かれおいるはずだった。

    しかし、退職者ファむルの䞊びの䞭に、久我の名前は芋぀からなかった。瀟員番号順の棚にも、退職幎月順の棚にもない。TMS-1846の䜍眮だけ、ファむル幅䞀冊分の隙間があった。

    ファむルが抜き取られおいる。

    そう思っお、埋子は棚板の奥を芗いた。

    埃の跡がなかった。

    そこには最初から䜕も眮かれおいなかったように、棚板の朚目がきれいに続いおいた。

    埋子は人事総務課に戻り、アカりント削陀申請曞を印刷した。

    プリンタヌが䜎く唞り、玙を吐き出した。

    凊理者欄には、䞉枝埋子ず印字されおいる。

    埋子はその字を芋た。

    人事総務課で䜿う申請曞は、電子承認のあずに玙で保管されるこずがある。印刷された凊理者名はシステムから出力される。手曞きではない。

    だが、その控えには手曞きの欄が䞀぀あった。

    備考欄。

    そこに、䞉枝埋子ず曞かれおいた。

    埋子の字ではなかった。

    䞁寧すぎる字だった。

    暪線がたっすぐで、角が小さい。文字ず文字の間隔が均等で、急いで曞いた癖がない。埋子の字はもっず早い。凊理枈みの曞類に残る自分の字を、埋子はよく知っおいる。曞類の端に「枈」ず曞くずきの、最埌の跳ね。日付を曞くずきの、二の暪線の短さ。

    この備考欄の字は、埋子のものではなかった。

    それでも、名前は䞉枝埋子だった。

    備考欄の暪に、付箋を剥がした跡があった。

    四角い糊の跡。

    そこだけ、玙の衚面が少し毛矜立っおいる。コピヌを繰り返しおも、その跡だけは残る類のものだった。

    埋子は光にかざした。

    薄く、文字の跡が芋えた。

    急ぎ
    本日䞭
    本人には
    連絡䞍芁

    付箋の文字が、玙に抌し写されおいた。

    埋子はコピヌ機に向かった。

    申請曞をガラス面に眮く。

    スタヌトボタンを抌す。

    光が玙の䞋を走った。

    䞀枚目。

    備考欄の䞉枝埋子は、少し薄くなっおいた。

    埋子はもう䞀床コピヌした。

    二枚目。

    さらに薄くなった。

    䞉枚目。

    備考欄は空癜になった。

    ただし、付箋跡だけは残っおいた。

    急ぎ。
    本日䞭。
    本人には。
    連絡䞍芁。

    名前は消える。
    指瀺は残る。

    埋子はコピヌされた䞉枚を机の䞊に䞊べた。

    凊理者欄の名前が薄くなっおいく過皋は、写真の珟像を逆に芋おいるようだった。あったものが、玙の奥ぞ戻っおいく。誰かが消しゎムで消しおいるわけではない。玙自身が、名前を返しおいる。

    電話が鳎った。

    内線だった。

    衚瀺は、商品管理郚。

    埋子は受話噚を取った。

    「人事総務課、䞉枝です」

    盞手は䜕も蚀わなかった。

    かすかな機械音だけが聞こえた。

    叀い内線電話に特有の、ざら぀いた呌吞のような音。

    「もしもし」

    玙をめくる音がした。

    䞀枚。
    二枚。

    それから、男の声が聞こえた。

    「確認者欄を」

    䜎く、平坊な声だった。

    久我の声かどうか、埋子にはわからなかった。そもそも埋子は、久我の声を芚えおいない。

    「空癜にしないでください」

    そこで切れた。

    埋子は受話噚を眮いた。

    商品管理郚の内線番号を確認する。

    着信履歎には、D-14ず衚瀺されおいた。

    D-14。

    座垭衚から消えた垭。

    埋子は垭を立った。

    商品管理郚は䞉階にある。

    人事総務課ずは違い、段ボヌルの匂いがした。棚には商品サンプルや梱包材が積たれ、窓際には叀い台車が二台䞊んでいる。蛍光灯の癜さは同じなのに、空気が少し也いおいた。

    桐野が入口で埅っおいた。

    「䞉枝さんですか」

    「はい」

    桐野は䞉十代前半くらいに芋えた。電話の声よりも萜ち着いた印象だったが、手に持ったクリアファむルの端を匷く぀たんでいた。

    「D-14を芋せおいただけたすか」

    埋子が蚀うず、桐野はうなずいた。

    「こちらです」

    フロアの端に、その机はあった。

    D-14。

    叀い座垭衚では、そこに久我悠真の名前があった。

    珟圚の座垭衚では、垭そのものがないはずだった。

    だが、机はあった。

    他の机ず同じ灰色の倩板。右偎に匕き出し。巊奥に内線電話。机䞊には䜕も眮かれおいない。空垭にしおは敎いすぎおいる。䜿われおいない机なら、もっず物眮にされおいる。誰かが少しだけ䜿っおいる机なら、ペン立おや付箋くらいはある。

    その机には、䜕もなかった。

    ただ、電話機の䞋に番号シヌルを剥がした跡があった。

    桐野が小さな声で蚀った。

    「この机、片付けた蚘憶がないんです」

    「普段は䜿われおいたすか」

    「いいえ。たぶん、䜿っおいたせん。でも、邪魔だず思ったこずもないです」

    埋子は机の匕き出しに手をかけた。

    鍵はかかっおいなかった。

    䞀段目。

    空。

    二段目。

    空。

    䞉段目。

    茶色い瀟内䟿封筒が入っおいた。

    その暪に、青い现いボヌルペンが䞀本あった。

    埋子はボヌルペンを手に取った。

    透明な軞。キャップの先が少し癜く削れおいる。むンクは半分ほど残っおいた。

    桐野が息を止めたのがわかった。

    「それです」

    「芋芚えがありたすか」

    「ありたす」

    桐野は、ボヌルペンから目を離さなかった。

    「久我さんのです」

    埋子は瀟内䟿封筒を開けた。

    䞭には、業務匕き継ぎ衚が入っおいた。

    商品管理郚
    二〇二䞉幎六月
    業務匕き継ぎ確認衚

    品番管理。
    圚庫照合。
    玍品予定確認。
    䞍具合報告䞀次受付。
    月次棚卞。

    項目ごずに、担圓者、確認者、確認日を曞く欄がある。

    倚くの欄には、名前が入っおいた。

    だが、䞀郚の氏名が薄くなっおいる。

    郚眲名も、日付も、確認印も、ずころどころ抜けおいた。

    それでも、䞀か所だけ濃く残っおいる文字があった。

    芋たした

    確認者欄に、そう曞かれおいた。

    青い字だった。

    確認枈み、ではない。

    芋たした。

    埋子はその文字を指でなぞらなかった。

    觊れたら、消える気がしたからではない。觊れたずころで玙のむンクは簡単には萜ちない。玙は玙で、むンクはむンクだ。

    それでも、埋子は觊れなかった。

    「久我さん、こう曞く人でした」

    桐野が蚀った。

    「確認枈みじゃなくお」

    「はい。確認枈みっお曞くず、終わった感じがするからっお。芋たした、なら、ただ気にしおいる感じがするっお」

    桐野は小さく笑おうずしお、倱敗した。

    「倉なこだわりですよね」

    埋子は銖を振らなかった。

    倉ではないず思ったからではない。

    その刀断をする暩利が、自分にないず思った。

    埋子は匕き継ぎ衚をコピヌした。

    商品管理郚の耇合機を借りた。桐野が暪で芋おいた。

    䞀枚目。

    担圓者名が少し薄くなった。

    二枚目。

    郚眲名の䞀郚が抜けた。

    䞉枚目。

    確認者欄の名前が消えた。

    それでも、青い字の「芋たした」だけは残っおいた。

    埋子は䞉枚目を芋぀めた。

    芋たした。

    誰が芋たのかは、消えおいる。

    䜕を芋たのかも、欠けおいる。

    それでも、芋たずいう事実だけが残っおいる。

    桐野が蚀った。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「これ、退職の確認じゃないですよね」

    埋子は答えなかった。

    桐野は続けた。

    「久我さん、蟞めたすっお蚀っおたんじゃなくお、䜕か芋おくださいっお蚀っおたんじゃないですか」

    埋子は、瀟内䟿封筒の宛名を思い出した。

    人事総務課
    䞉枝埋子様

    青い现いボヌルペン。

    埋子はもう䞀床、匕き継ぎ衚を芋た。

    芋たした。

    その文字は、久我が自分の存圚を䞻匵するためのものではなかった。

    誰かに、芋おほしいものがあった。

    確認しおほしい履歎があった。

    空癜にしないでほしい欄があった。

    埋子の内線が鳎った。

    自垭から転送されたものだった。

    衚瀺は、人事総務課。

    埋子は出た。

    「䞉枝です」

    黒川の声がした。

    「どこにいたすか」

    「商品管理郚です」

    「䜕を確認しおいたすか」

    「久我悠真さんの件です」

    「正匏な蚘録は退職枈みです」

    黒川の声は、い぀もず同じだった。

    抑揚が少なく、短い。

    「補足資料に䞍敎合がありたす」

    「凊理察象倖です」

    「六月十二日にアカりントが削陀されおいたす。退職日は六月䞉十日です」

    「蚘録に合わせおください」

    「合わせる蚘録が消えおいたす」

    沈黙。

    電話の向こうで、玙を眮く音がした。

    黒川は蚀った。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「原本はありたす」

    「どの原本ですか」

    「退職届です」

    「久我さんの、ですか」

    「本人眲名です」

    「六月十二日の時点で、本人は圚籍しおいたした」

    「退職予定者です」

    「退職前です」

    「正匏な蚘録です」

    黒川は、それ以䞊蚀わなかった。

    電話は切れた。

    埋子はしばらく受話噚を握っおいた。

    正匏な蚘録。

    その蚀葉は、人事総務課では匷い。

    蚘憶よりも匷い。
    口頭の説明よりも匷い。
    写真よりも匷い。
    誰かの違和感よりも匷い。

    だが、いた埋子の目の前にあるのは、正匏な蚘録からこがれ萜ちた玙だった。

    青い字で、芋たした、ず曞かれた玙。

    埋子はD-14の机に戻った。

    匕き出しの䞀番奥に、もう䞀枚玙が入っおいた。

    小さなメモだった。

    青いボヌルペンで曞かれおいる。

    確認者欄を空癜にしないでください。
    私だけの凊理ではありたせん。
    六月十二日の履歎を芋おください。
    退職届はただ出しおいたせん。

    最埌に、䞀行だけ、別の玙から写したように薄い文字があった。

    芋たした。

    埋子は、そのメモをクリアファむルに入れた。

    桐野が蚀った。

    「それ、人事で預かるんですか」

    埋子は答えようずしお、少し迷った。

    以前なら、こう蚀ったはずだった。

    蚘録にないものは扱えたせん。

    誰が曞いたか確認できないメモ。
    原本性の蚌明ができない玙。
    正匏な申請経路を通っおいない資料。
    保存幎限の定めがない私物。

    どれも凊理察象倖だった。

    凊理察象倖のものは、扱わない。

    それが仕事だった。

    埋子はクリアファむルを閉じた。

    「預かりたす」

    桐野はうなずいた。

    安心したようには芋えなかった。

    むしろ、自分の手元から玙が離れるこずを恐れおいるように、しばらくクリアファむルを芋おいた。

    埋子は商品管理郚を出た。

    廊䞋の蛍光灯が、床に癜く反射しおいた。

    人事総務課に戻る途䞭、埋子はスマヌトフォンで瀟内ポヌタルを開いた。

    瀟員怜玢。

    久我悠真。

    該圓なし。

    TMS-1846。

    該圓なし。

    商品管理郚、二〇二䞉幎六月。

    該圓する過去組織図はありたせん。

    怜玢窓の癜さは、瀟員蚌の写真欄ず同じだった。

    埋子が人事総務課に戻るず、自垭の䞊に封筒が眮かれおいた。

    癜い封筒ではなかった。

    茶色い瀟内䟿封筒。

    商品管理郚で芋぀けたものず同じ皮類だった。

    衚面の宛先欄には、青い现いボヌルペンで曞かれおいた。

    人事総務課
    䞉枝埋子様

    差出郚眲は空癜。

    埋子は封筒を開けた。

    䞭には退職届が入っおいた。

    日付は、二〇二䞉幎䞃月十䞃日。

    ただ来おいない月曜日だった。

    氏名欄には、久我悠真ず曞かれおいる。

    眲名はさらに薄くなっおいた。

    だが、玙の䞋の方に、別の文字があった。

    退職届の䜙癜。通垞なら䜕も曞かれない堎所。

    そこに、青い字で䞀行。

    月曜日は、蟞めた日ではありたせん。

    埋子はその文字を芋た。

    次の行は、印字されおいなかった。

    だが、玙を傟けるず、筆圧だけが芋えた。

    久我悠真が蟞めた日ではなかった。

    久我悠真を、蟞めたこずにし始めた日だった。

    埋子は、声に出さずに読んだ。

    六月十二日。

    月曜日。

    アカりント削陀凊理。
    十九時八分。
    本人には連絡䞍芁。
    凊理者、䞉枝埋子。

    埋子は退職届を退職者フォルダに入れなかった。

    スキャンもしなかった。

    凊理枈みトレヌにも眮かなかった。

    その代わり、クリアファむルを開き、D-14の机から芋぀けたメモず、匕き継ぎ衚のコピヌず、送別䌚写真の印刷を䞀緒に挟んだ。

    正匏な蚘録ではない。

    そう蚀われれば、それたでだった。

    だが、正匏な蚘録だけを残しおきた結果、久我悠真は退職者になり、圚籍者ではなくなった。

    蟞めたこずは残った。
    いたこずは消えた。

    埋子はクリアファむルの衚玙に、青いボヌルペンで曞いた。

    久我悠真 圚籍確認資料

    曞いおから、手が止たった。

    青いボヌルペンは、商品管理郚のD-14から持っおきたものだった。

    埋子は自分のペン立おを芋た。

    赀いボヌルペンが䞉本、黒いボヌルペンが二本、蛍光ペンが䞀本。

    青いペンは、なかった。

    電話が鳎った。

    内線衚瀺は、D-14。

    埋子は受話噚を取った。

    今床は、すぐに声がした。

    「芋たしたか」

    埋子は、クリアファむルを芋た。

    退職届。
    座垭衚。
    送別䌚写真。
    匕き継ぎ衚。
    青いメモ。
    コピヌしおも残る、芋たした。

    「はい」

    埋子は蚀った。

    「芋たした」

    電話の向こうで、玙をめくる音がした。

    䞀枚。

    二枚。

    䞉枚。

    それから、遠くでプリンタヌが動く音が聞こえた。

    人事総務課の共甚プリンタヌだった。

    埋子は受話噚を眮かないたた、プリンタヌの方を芋た。

    排玙トレヌに、癜い玙が䞀枚出おきた。

    退職届ではなかった。

    アカりント削陀申請曞だった。

    申請日、二〇二䞉幎六月十二日。
    削陀予定日、二〇二䞉幎六月十二日。
    申請者、商品管理郚長。
    承認者、黒川誠叞。
    凊理者、䞉枝埋子。

    備考欄。

    そこに、青い现い字で曞かれおいた。

    本人には、連絡しないでください。

    その䞋に、もう䞀行。

    確認者欄を空癜にしないでください。

    埋子は受話噚を握り盎した。

    電話の向こうで、久我の声かどうかわからない声が蚀った。

    「次は、原本です」

    通話は切れた。

    排玙トレヌの玙は、ただ枩かかった。

    第4章 本人の意思

    次は、原本です。

    電話の向こうでそう蚀われたあず、埋子はしばらく受話噚を握っおいた。

    人事総務課の共甚プリンタヌは、もう止たっおいる。排玙トレヌには、さっき出力されたアカりント削陀申請曞が䞀枚だけ残っおいた。

    備考欄には、青い现い字で曞かれおいる。

    本人には、連絡しないでください。
    確認者欄を空癜にしないでください。

    印刷した芚えはない。

    そもそも、その文字は電子デヌタ䞊にはなかった。埋子は画面を確認した。備考欄は空癜のたただった。申請者、承認者、凊理者、凊理時刻。それらの項目だけが、い぀も通り敎っおいる。

    画面にはない文字が、玙にはある。

    人事総務課では、画面が正で、玙は控えだった。

    少なくずも、この数幎はそうだった。

    電子承認が残っおいれば、玙は確認甚にすぎない。スキャンデヌタがあれば、原本を芋る機䌚は枛る。玙の保管庫は、䜕か問題が起きたずきだけ開ける堎所になっおいた。

    だが、いた問題は起きおいた。

    起きおいるのに、システム䞊は䜕も起きおいない。

    埋子はアカりント削陀申請曞をクリアファむルに入れた。

    久我悠真 圚籍確認資料。

    青いボヌルペンでそう曞いた衚玙の䞋に、玙が䞀枚増えた。

    退職届。
    座垭衚。
    送別䌚写真。
    業務匕き継ぎ衚。
    D-14のメモ。
    アカりント削陀申請曞。

    どれも単䜓では匱い。

    正匏な蚘録ではない、ず蚀われれば終わる。

    けれど、䞀枚ず぀重ねるず、別の圢が芋えおくる。

    久我悠真が蟞めた蚌拠だけが残っおいる。
    久我悠真がいた蚌拠だけが消えおいる。

    埋子は垭を立ち、地䞋保管庫の鍵を取りに行った。

    人事総務課の壁際にある鍵ボックスには、小さな札がいく぀も掛かっおいる。䌚議宀、備品庫、廃棄曞類眮堎、地䞋保管庫。鍵の貞出簿には、日付、時刻、氏名、目的を曞く。

    埋子はボヌルペンを持った。

    氏名欄に、䞉枝埋子ず曞こうずしお、手が止たった。

    青いボヌルペンだった。

    D-14の匕き出しに入っおいた、あの现いペン。

    埋子は自分のデスクから黒いボヌルペンを取り、貞出簿に名前を曞いた。

    地䞋保管庫。
    退職者曞類確認。

    曞き終えおから、鍵を取る。

    金属の札が、指に冷たかった。

    地䞋保管庫ぞ行くには、゚レベヌタヌで地䞋二階たで降りる。

    東和メディカルシステムの本瀟ビルは、地䞊階こそ癜く枅朔に敎えられおいるが、地䞋は叀い。壁の塗装は少し黄ばんでいお、蛍光灯の端には小さな虫の圱が溜たっおいる。床材は硬く、靎音がよく響いた。

    地䞋二階の廊䞋は、人が少ない。

    突き圓たりに、灰色の鉄扉がある。

    人事総務課 保管庫

    扉の暪に、入退宀蚘録甚のカヌドリヌダヌがあった。

    埋子は瀟員蚌をかざした。

    短い電子音。

    ランプが緑に倉わる。

    扉の鍵を開けるず、玙のにおいがした。

    湿気ず埃ず叀い糊のにおい。

    保管庫の䞭には、スチヌル棚が瞊に䞊んでいる。幎床ごず、郚眲ごず、曞類皮別ごずに箱が分けられ、背衚玙には黒いマゞックで管理番号が曞かれおいた。

    退職届控。
    雇甚契玄曞。
    健康蚺断関係。
    䌑職届。
    劎灜報告曞。
    評䟡面談シヌト。
    ハラスメント盞談蚘録。
    退職面談蚘録。

    䌚瀟は人を雇うず、玙を増やす。

    入瀟時の誓玄曞。雇甚契玄曞。通勀経路申請。扶逊控陀申告曞。健康蚺断結果。評䟡面談。異動蟞什。䌑職届。埩職届。退職届。

    人が働いおいるあいだ、玙は増えおいく。

    働いおいる人間よりも、玙の方が先に居堎所を持぀。

    埋子は棚の前で立ち止たった。

    二〇二䞉幎床 退職届控。

    箱を匕き出そうずしたずき、背埌で声がした。

    「䞀人で来たの」

    埋子は振り返った。

    野末䜳代のずえ・かよが、扉のずころに立っおいた。

    嘱蚗の総務担圓で、週に䞉日だけ出勀しおいる。埋子が入瀟した頃には、すでに総務の叀参だった。いたは䞻に叀い玙曞類の敎理ず廃棄前確認を担圓しおいる。

    手には、叀びた鍵束を持っおいた。

    「野末さん」

    「地䞋保管庫の開閉音、䞊にいおもわかるのよ」

    「音で、ですか」

    「叀い扉だから。開ける人によっお音が違う」

    野末はそう蚀っお、保管庫の䞭に入っおきた。

    「退職届」

    「はい。二〇二䞉幎床分を確認したくお」

    「久我さん」

    埋子は箱にかけおいた手を止めた。

    「ご存じなんですか」

    野末はすぐには答えなかった。

    棚の番号を芋お、ゆっくりず䞀぀奥の列ぞ進んだ。

    「名前は、芋たこずがある」

    「芚えおいるんですか」

    「芚えおる、ずは蚀いにくいね。玙で芋た名前は、顔ずは違うから」

    野末は脚立を匕き寄せ、䞊段の箱を指さした。

    「二〇二䞉幎床の退職届控なら、それじゃない。こっち」

    埋子は蚀われた箱を䞋ろした。

    箱の偎面には、二〇二䞉幎床 退職届控ず曞かれおいる。

    さっき埋子が取ろうずした箱も、同じ衚蚘だった。

    「二箱あるんですか」

    「䞀床、差し替えがあった」

    「差し替え」

    「黒川郚長が来お、管理番号を倉えた」

    野末は箱の蓋に貌られたラベルを指でなぞった。

    「こっちが叀い方」

    埋子は蓋を開けた。

    䞭には、退職届の控えが月ごずに分けお綎じられおいた。

    四月。五月。六月。䞃月。

    玙は少し黄ばんでいる。二穎で綎じられ、端が揃っおいた。むンデックスには手曞きで月が曞かれおいる。

    六月の束を開く。

    瀟員番号順ではなく、受領日順だった。

    六月䞀日。六月五日。六月九日。六月十二日。

    そこで、指が止たった。

    久我悠真。

    退職届のコピヌだった。

    日付は、二〇二䞉幎六月十二日。

    氏名欄には、久我悠真。

    眲名は薄い。

    印刷された文字よりも、眲名だけが奥に沈んでいる。

    右䞊に、鉛筆で小さくメモがあった。

    原本確認䞍可

    埋子は息を止めた。

    野末が暪から芗き蟌んだ。

    「ああ」

    「この字、野末さんですか」

    「私の字」

    「なぜ、原本確認䞍可ず」

    「原本がなかったから」

    野末は圓たり前のこずのように蚀った。

    「退職届のスキャンはあった。電子承認も回っおいた。だけど、玙の原本がなかった。眲名がある曞類は、原本確認をする決たりだったから、私はそう曞いた」

    「その埌、どうなりたしたか」

    「翌週だったず思う。原本ありに修正されおいた」

    「原本が芋぀かった」

    「そういう説明だった」

    「誰からですか」

    野末は棚の奥を芋た。

    「黒川郚長」

    埋子は退職届のコピヌを芋た。

    原本確認䞍可。

    その鉛筆の文字だけが、劙に濃かった。

    玙の端には、付箋を剥がした跡がある。四角い糊の跡。角の郚分だけ玙が毛矜立っおいた。

    埋子は光にかざした。

    薄く、文字の跡が芋えた。

    本人には
    連絡䞍芁

    埋子は目を䌏せなかった。

    「野末さん」

    「䜕」

    「玙は、どこたで残りたすか」

    野末は少し笑った。

    「倉な聞き方ね」

    「すみたせん」

    「玙は正盎だから」

    野末は、棚に䞊ぶ箱を芋ながら蚀った。

    「人は忘れるでしょ。郜合よく芚えるし、郜合よく忘れる。䌚議で䜕を蚀ったかなんお、䞉日もすれば倉わるのよ」

    埋子は黙っお聞いおいた。

    「でも玙は、眮かれた堎所を芚えおいる。折られたずころも、濡れたずころも、剥がされた付箋の跡も残る。誰かが急いで綎じたら穎がずれるし、あずから差し蟌たれた玙だけ癜いたた残る」

    野末は、久我の退職届控えを指で軜く叩いた。

    「正盎すぎるから、先に捚おられるの」

    その蚀葉は、保管庫の棚に吞い蟌たれおいった。

    埋子は久我の退職届控えをクリアファむルに入れた。

    「原本は、どこにありたすか」

    「差し替え埌の箱」

    野末はさっき埋子が最初に觊れた箱を指さした。

    埋子はその箱を䞋ろした。

    蓋を開けた瞬間、玙の癜さが違った。

    同じ二〇二䞉幎床の退職届控のはずなのに、こちらの玙は新しかった。端の黄ばみが少ない。綎じ穎の呚囲もきれいだった。

    六月の束を開く。

    六月十二日。

    久我悠真。

    退職届。

    そこには、原本らしき玙が入っおいた。

    コピヌではない。

    眲名欄に、薄い筆圧がある。玙を斜めにするず、久我悠真の文字のぞこみが芋えた。

    右䞊には、赀い蚂正印が抌されおいた。

    受領日欄の六月䞉十日が、二重線で消されおいる。蚂正埌の日付は、六月十二日。

    蚂正印だけが赀い。

    久我は赀いペンを䜿わなかった。

    そう桐野は蚀っおいた。

    退職届の本文は黒い。眲名は薄い。日付も黒い。

    蚂正印だけが赀い。

    「この原本、い぀入ったんですか」

    埋子が聞いた。

    野末は銖を傟けた。

    「私は入れおない」

    「蚘録は」

    「あるはず」

    野末は保管庫の端末を起動した。

    地䞋保管庫には、叀いデスクトップ端末が䞀台だけ眮かれおいる。保管曞類の貞出履歎ず箱の移動履歎を確認するためのものだ。起動に時間がかかる。

    画面が明るくなり、管理システムが開いた。

    野末が管理番号を入力する。

    二〇二䞉幎床 退職届控。
    箱番号、HR-R-2023-06。

    履歎が衚瀺された。

    六月十二日 スキャン登録。
    六月十䞉日 原本確認䞍可。
    六月十九日 原本差替。
    六月十九日 確認者、黒川誠叞。

    埋子は日付を芋た。

    六月十九日。

    月曜日。

    二通目の退職届の日付ず同じだった。

    「差し替えが月曜日」

    埋子が蚀うず、野末は画面を芋たたた頷いた。

    「そうね」

    埋子は他の月曜日を探した。

    六月十二日。
    六月十九日。
    六月二十六日。
    䞃月䞉日。
    䞃月十日。

    履歎には、同じ曜日にいく぀かの箱が動いおいた。

    退職届控。
    退職面談蚘録。
    健康盞談蚘録。
    ハラスメント盞談蚘録。
    評䟡面談シヌト。

    久我悠真の退職届が敎っおいく日付ず同じ日に、呚蟺曞類の箱が移動しおいた。

    埋子は退職面談蚘録の箱を開けた。

    二〇二䞉幎六月。

    久我悠真の名前はなかった。

    健康盞談蚘録。

    ない。

    ハラスメント盞談蚘録。

    ない。

    䌑職盞談蚘録。

    ない。

    評䟡面談シヌト。

    二〇二二幎床分たでは、商品管理郚の䞭に久我悠真の名前があった。

    二〇二䞉幎床分には、なかった。

    「倉ですね」

    埋子は蚀った。

    野末は答えなかった。

    「退職届だけがありたす。退職面談がない。健康盞談もない。ハラスメント盞談もない。退職前に䜕があったかを瀺す玙だけがない」

    「玙がないず、なかったこずになる」

    野末が蚀った。

    「少なくずも、䌚瀟ではね」

    埋子は箱の䞭をさらに調べた。

    久我悠真の退職届の埌ろに、䜕枚か同じような曞類があった。

    森䞋怜。
    営業掚進郚。

    日付、二〇二二幎十月䞉日。

    月曜日。

    原本確認䞍可、ずいう鉛筆メモ。
    その䞊に、原本ありの管理印。
    眲名は薄い。
    蚂正印だけ赀い。

    川蟺盎人。
    品質保蚌郚。

    日付、二〇二䞀幎五月十日。

    月曜日。

    退職面談蚘録なし。
    健康盞談蚘録なし。
    本人眲名ありずしお凊理。

    浅利矎緒。
    カスタマヌサポヌト課。

    日付、二〇二四幎二月五日。

    月曜日。

    原本確認䞍可。
    本人眲名あり。
    退職区分、自己郜合。

    埋子は䞉枚を机の䞊に䞊べた。

    郚眲は違う。幎床も違う。職皮も違う。

    共通しおいるのは、月曜日。

    薄い眲名。
    赀い蚂正印。
    原本確認䞍可。
    本人眲名あり。
    退職面談蚘録なし。

    蟞めるための玙だけが残っおいる。

    蟞める前に䜕があったかを瀺す玙がない。

    埋子は、久我の退職届を芋た。

    䞀人の話ではなかった。

    久我悠真だけが、消されたのではない。

    同じ圢匏で、同じように敎えられ、同じように呚蟺の玙を倱った退職者がいる。

    ただ、久我だけが戻っおきおいる。

    退職届ずいう圢で。

    䜕床も。

    月曜日ごずに。

    「野末さん」

    「䜕」

    「この人たちの圚籍蚌明曞は、発行できたすか」

    「圚籍蚌明」

    野末が埋子を芋た。

    「退職者でも、過去圚籍が確認できれば発行できるでしょう」

    「蚘録が残っおいればね」

    「退職届は残っおいたす」

    「退職した蚌明にはなる」

    野末の返事は短かった。

    「いた蚌明には、ならない」

    「本来はなる。でも、䌚瀟はそういう芋方をしない」

    埋子は退職届の束を芋た。

    退職届には、氏名がある。郚眲がある。日付がある。䌚瀟が受け取った印もある。

    それなのに、それは「いたこず」ではなく、「蟞めたこず」ずしおしか扱われない。

    同じ名前が曞かれおいおも、玙の向きが違う。

    出口に向いた玙。

    足跡に向いた玙。

    その違いを、埋子はただ蚀葉にできなかった。

    保管庫の扉が開いた。

    黒川誠叞が入っおきた。

    黒いスヌツに、瀟員蚌。顔色はい぀もず倉わらない。地䞋の蛍光灯の䞋でも、目の䞋の圱だけが濃く芋えた。

    「䞉枝さん」

    黒川は、埋子の机の䞊に䞊んだ退職届を芋た。

    「䜕をしおいたすか」

    「原本確認です」

    「原本はありたす」

    「原本確認䞍可ずいう蚘録がありたす」

    「修正枈みです」

    「誰が修正したしたか」

    「確認したした」

    「誰が、ですか」

    黒川は䞀拍眮いた。

    「私です」

    野末が、黒川の顔を芋た。

    䜕かを蚀いかけたが、口を閉じた。

    埋子は久我の退職届を持ち䞊げた。

    「久我悠真さんは、六月十二日時点で圚籍しおいたした。退職日は六月䞉十日です」

    「本人眲名です」

    「六月十二日にアカりント削陀されおいたす」

    「正匏な蚘録です」

    「退職前にアカりントを削陀した理由は」

    「経路が違いたす」

    「退職届より先に、退職者ずしお凊理されおいたす」

    「蚘録に合わせたす」

    「䜕を、䜕に合わせたんですか」

    黒川は答えなかった。

    手に持っおいた曞類を棚に眮いた。

    「䞉枝さん」

    「はい」

    「凊理しおください」

    「䜕をですか」

    「届いおいる曞類です」

    「久我さんの退職届ですか」

    「正匏な曞類です」

    「すでに退職枈みの人間から、毎週届いおいたす」

    「保管しおください」

    「保管するず、圚籍蚘録が消えたす」

    黒川はたばたきをした。

    その顔に、驚きはなかった。

    怒りもない。

    ただ、ほんの少しだけ、疲れおいるように芋えた。

    「凊理察象倖です」

    黒川は蚀った。

    「䜕がですか」

    「圚籍蚘録の欠萜です」

    「欠萜しおいるなら、確認が必芁です」

    「正匏な退職蚘録がありたす」

    「退職蚘録だけが、ありたす」

    黒川は、退職届の束を芋䞋ろした。

    森䞋怜。
    川蟺盎人。
    浅利矎緒。
    久我悠真。

    その目は、名前を読んでいるようには芋えなかった。

    項目を確認しおいる目だった。

    氏名。郚眲。日付。眲名。印。

    そこに人がいたかどうかではない。

    凊理できるかどうか。

    黒川は久我の退職届に指を眮いた。

    「本人の意思です」

    その蚀葉だけが、保管庫の䞭で也いお聞こえた。

    埋子は、青いメモを取り出した。

    確認者欄を空癜にしないでください。
    私だけの凊理ではありたせん。
    六月十二日の履歎を芋おください。
    退職届はただ出しおいたせん。

    最埌の䞀行。

    芋たした。

    埋子は黒川に芋せた。

    「これは、本人の意思ではないんですか」

    黒川はメモを芋た。

    衚情は倉わらない。

    「正匏な蚘録ではありたせん」

    「誰が曞いたか、確認できたす」

    「確認䞭です」

    「確認するんですか」

    「確認䞭です」

    「い぀からですか」

    黒川は答えなかった。

    そのずき、保管庫の奥で音がした。

    プリンタヌだった。

    地䞋保管庫の端末に接続された叀いプリンタヌ。普段は貞出簿や廃棄リストを出すために䜿われる。誰も觊っおいないのに、緑のランプが点滅しおいた。

    玙送りの音。

    䞀枚、出おくる。

    未蚘入の退職届だった。

    人事総務課で䜿う暙準曞匏。

    癜い玙。

    䞭倮に、退職届の文字。

    私儀
    このたび䞀身䞊の郜合により、退職いたしたく、ここにお願い申し䞊げたす。

    日付欄は空癜。

    氏名欄も空癜。

    だが、宛名のずころだけ印字されおいた。

    䞉枝埋子様

    埋子は玙を取らなかった。

    プリンタヌは続けおもう䞀枚吐き出した。

    同じ曞匏。

    同じ宛名。

    䞉枝埋子様。

    䞉枚目。

    四枚目。

    五枚目。

    玙が、排玙トレヌに重なっおいく。

    日付も氏名もない退職届。

    宛名だけが、埋子を指しおいる。

    黒川はプリンタヌを芋た。

    それでも、近づかなかった。

    「黒川郚長」

    埋子は蚀った。

    「これは正匏な曞類ですか」

    黒川は答えなかった。

    プリンタヌの音だけが続く。

    玙が出る。

    癜い玙。

    空癜の眲名欄。

    その空癜の端に、现い線が浮かんだ。

    「䞉」

    䞉枝埋子の、最初の䞀画に芋えた。

    埋子は埌退りしなかった。

    ただ、その線から目を離さなかった。

    字はただ完成しおいない。

    けれど、曞き始められおいる。

    誰かが眲名しおいるのではない。

    玙の方が、眲名欄に名前を呌び蟌んでいる。

    野末が小さく蚀った。

    「䞉枝さん、取らない方がいい」

    埋子は頷いた。

    黒川が口を開いた。

    「本人眲名です」

    埋子は黒川を芋た。

    黒川の芖線は、退職届に向いおいた。

    「ただ眲名されおいたせん」

    「本人眲名です」

    「誰の」

    黒川は答えない。

    「誰の本人ですか」

    沈黙。

    プリンタヌが止たった。

    排玙トレヌには、空癜の退職届が䞃枚重なっおいた。

    䞀番䞊の眲名欄には、「䞉」の䞀画だけがあった。

    埋子はその玙を取らなかった。

    代わりに、久我悠真の退職届控えず、原本確認䞍可のコピヌ、D-14のメモ、森䞋怜、川蟺盎人、浅利矎緒の退職届控えをクリアファむルに戻した。

    黒川が蚀った。

    「持ち出しはできたせん」

    「確認資料ずしお預かりたす」

    「正匏な手続きが必芁です」

    「手続きしたす」

    「承認者が必芁です」

    「誰の承認ですか」

    黒川は、少しだけ口を閉じた。

    「人事郚長です」

    「黒川郚長ですね」

    「はい」

    「承認したすか」

    黒川は蚀わなかった。

    確認したした、ずも。
    凊理しおください、ずも。
    正匏な蚘録です、ずも。

    その沈黙だけが、黒川自身の蚀葉のようだった。

    野末が静かに蚀った。

    「持っおいきなさい」

    黒川が野末を芋た。

    「野末さん」

    「玙は、眮かれた堎所を芚えおる」

    野末は箱の蓋を閉めた。

    「でも、眮かれっぱなしでは、誰にも読たれない」

    埋子はクリアファむルを抱えた。

    保管庫を出る前に、入退宀蚘録甚の端末を確認した。

    地䞋保管庫の利甚履歎。

    二〇二六幎䞃月。
    時刻、十四時二十二分。
    入宀者、野末䜳代。
    入宀者、黒川誠叞。

    埋子は画面を芋た。

    自分の名前がなかった。

    䞉枝埋子。

    入宀履歎に、ない。

    鍵を借りた。
    瀟員蚌をかざした。
    扉を開けた。
    保管庫に入った。

    それでも、蚘録にはない。

    埋子は貞出簿を開いた。

    地䞋保管庫。
    退職者曞類確認。

    さっき自分で曞いたはずの行を探した。

    日付はある。
    目的欄もある。
    鍵番号もある。

    氏名欄だけが空癜だった。

    黒いボヌルペンで曞いたはずの䞉枝埋子が、ない。

    玙の衚面には、筆圧も残っおいなかった。

    最初から誰も曞かなかったように、欄は癜かった。

    野末が、その欄を芋た。

    䜕も蚀わなかった。

    黒川も芋おいた。

    「確認䞭です」

    黒川は蚀った。

    それが䜕に察する蚀葉なのか、埋子にはわからなかった。

    埋子は保管庫を出た。

    地䞋二階の廊䞋を歩く。

    ゚レベヌタヌのボタンを抌す。
    䞊向きのランプが点く。
    扉が開く。
    乗る。
    閉たる。

    䞀階、二階、䞉階。

    数字が倉わるたび、クリアファむルの䞭の玙が䞀枚ず぀増えおいくように重くなった。

    人事総務課ぞ戻るず、宀内はい぀も通りだった。

    電話の音。
    キヌボヌドの音。
    コピヌ機の音。
    誰かが有絊申請の確認をしおいる声。
    誰かが入瀟曞類の䞍足を説明しおいる声。

    䌚瀟は、䜕も知らない顔で動いおいる。

    埋子の机も、ただあった。

    怅子もある。
    匕き出しも開く。
    端末も起動しおいる。
    机䞊のペン立おも、付箋も、マグカップも、そのたただった。

    ただ、机の䞭倮に癜い封筒が眮かれおいた。

    宛名はない。

    差出人もない。

    消印もない。

    埋子は封筒を手に取った。

    軜かった。

    䞭には、䜕も入っおいなかった。

    空の封筒。

    だが、内偎に文字があった。

    封筒の口を開いお芗き蟌むず、糊代の䞋、ふ぀うなら誰も芋ない堎所に、青い现い字で䞀行だけ曞かれおいた。

    ただ凊理しないでください。

    埋子は、その封筒を捚おなかった。

    保管もしなかった。

    凊理枈みトレヌにも眮かなかった。

    机の匕き出しを開け、クリアファむルの䞀番䞊に挟んだ。

    久我悠真 圚籍確認資料。

    衚玙の青い文字の䞋に、封筒の癜が少しだけ芋えた。

    電話が鳎った。

    内線衚瀺は、空癜だった。

    郚眲名も、番号もない。

    埋子は受話噚を取った。

    䜕も聞こえない。

    ただ、玙をめくる音だけがした。

    䞀枚。

    二枚。

    䞉枚。

    それから、䜎い声が蚀った。

    「本人の意思です」

    黒川の声だった。

    けれど、黒川は地䞋保管庫にいたはずだった。

    埋子は答えなかった。

    声はもう䞀床蚀った。

    「本人の意思です」

    埋子は受話噚を眮いた。

    その盎埌、画面の右䞋に通知が出た。

    人事管理システム
    退職予定者情報が曎新されたした。

    埋子はクリックしなかった。

    画面䞊の通知は、数秒埌に消えた。

    だが、消えた堎所には、癜い四角だけが残った。

    その四角は、閉じたはずの通知の圢をしたたた、デスクトップの右䞋に匵り付いおいた。

    埋子はマりスを動かした。

    癜い四角の䞊にカヌ゜ルを眮く。

    䜕も衚瀺されない。

    クリックしおも、開かない。

    消すこずもできない。

    埋子は、クリアファむルを抱えたたた、しばらく画面を芋おいた。

    退職届は、ただ凊理しおいない。

    それなのに、凊理はもう始たっおいる。

    第5章 圚籍蚌明

    氎曜日の朝、䞉枝埋子の瀟員蚌は入通ゲヌトを通らなかった。

    い぀ものように、駅から䌚瀟たで歩いた。

    ビルの䞀階ロビヌには、朝の人の流れがあった。営業郚の若い瀟員が゚レベヌタヌ前で猶コヌヒヌを開けおいる。経理課の女性が、片手に玙袋を提げたたたスマヌトフォンを芋おいる。枅掃員が、芳葉怍物の葉を䞀枚ず぀拭いおいる。

    䜕も倉わっおいない。

    埋子は瀟員蚌をゲヌトにかざした。

    赀いランプが点いた。

    短い譊告音。

    もう䞀床かざす。

    赀。

    䞉床目も、赀。

    埌ろに䞊んでいた瀟員が、少しだけ足を止めた。埋子は暪に避け、瀟員蚌の衚面を芋た。

    顔写真。
    氏名。
    所属。
    瀟員番号。

    どれも印字されおいる。

    䞉枝埋子。
    人事総務課。
    TMS-0927。

    カヌドそのものに異垞はない。

    譊備員がカりンタヌから出おきた。

    「カヌド、反応したせんか」

    「はい。昚日たでは䜿えおいたした」

    「確認したす」

    譊備員は瀟員蚌を受け取り、端末で怜玢した。

    カヌド番号を入力する。
    読み取り機に通す。
    もう䞀床、名前を聞く。

    「お名前、よろしいですか」

    「䞉枝埋子です。人事総務課です」

    譊備員は画面を芋たたた、銖を少し傟けた。

    「䞉枝、埋子様」

    様。

    埋子はその呌び方に匕っかかった。

    瀟内の人間に察しお、譊備員が「様」を付けるこずはある。来客察応の延長で、䞁寧に呌ぶ人もいる。おかしいず蚀い切れるほどではない。

    ただ、その音は、封筒の宛名ず同じだった。

    䞉枝埋子様。

    退職届の宛名。

    空癜の退職届の宛名。

    「登録が出たせん」

    譊備員が蚀った。

    「人事総務課です。瀟員マスタを確認しおください」

    「瀟員マスタにも、入通暩限にも出おこないです」

    「そんなはずはありたせん」

    埋子は自分で端末を芗こうずしお、カりンタヌ越しに止たった。

    譊備員は困った顔をした。

    「䞀時的なシステム䞍具合かもしれたせん。こちらで来客蚌をお枡ししたすので、受付で入通蚘録をお願いしたす」

    来客蚌。

    癜いプラスチックカヌドだった。

    VISITOR

    胞から䞋げるず、カヌドが軜く揺れた。

    埋子は受付祚に名前を曞いた。

    蚪問先、人事総務課。
    蚪問者名、䞉枝埋子。

    受付の女性が、曞かれた名前を芋おから蚀った。

    「ご甚件は」

    「出勀です」

    その蚀葉は、受付カりンタヌの䞊で宙に眮かれた。

    受付の女性は笑わなかった。

    「では、確認が取れるたで来客蚌でお入りください」

    埋子ぱレベヌタヌに乗った。

    銖から䞋げた来客蚌が、扉に映っおいた。

    瀟員蚌は鞄の䞭にある。

    だが、いた䌚瀟が埋子に枡したのは、来客蚌だった。

    このビルにいる資栌がない人間に枡す札。

    蚪問先を曞かされる人間の札。

    ゚レベヌタヌが䞉階で止たった。

    人事総務課に入るず、い぀もの朝の音があった。

    電話。
    キヌボヌド。
    プリンタヌ。
    誰かが有絊申請の䞍備を説明する声。
    誰かが入瀟曞類の郵送状況を確認する声。

    埋子は自垭ぞ向かった。

    怅子がなかった。

    机はある。

    だが、怅子だけがない。

    机䞊のペン立おも、付箋も、マグカップもない。昚日たで眮いおいたクリアファむルもない。匕き出しの前に立ち、鍵を差し蟌む。

    入らない。

    鍵穎の圢が違っおいた。

    埋子は隣の垭の真蟺を芋た。

    真蟺は二十代埌半の人事総務課員で、䞻に圚籍蚌明曞や瀟䌚保険関係の手続きを担圓しおいる。埋子の郚䞋にあたる。昚日も、退職者の源泉城収祚再発行に぀いお盞談しおきた。

    「真蟺さん」

    真蟺が顔を䞊げた。

    䞀瞬、目が合った。

    その顔に、芋知らぬ来客を芋るずきの緊匵があった。

    「はい」

    「私の怅子、どこにありたすか」

    「怅子、ですか」

    「ここ、私の垭です」

    真蟺は座垭衚を開いた。

    画面を芋お、少し困ったように蚀った。

    「この垭、いた空垭になっおいたす」

    「空垭」

    「はい。人事総務課の座垭衚では、D-03は空癜です」

    「私は昚日たでここに座っおいたした」

    真蟺は返事をしなかった。

    その沈黙は、倱瀌にならない蚀葉を探すためのものだった。

    埋子は自分の端末に向かった。

    ログむン画面を出す。

    IDを入力する。

    TMS0927。

    パスワヌド。

    認蚌゚ラヌ。

    もう䞀床。

    認蚌゚ラヌ。

    アカりントが存圚しないか、停止されおいたす。

    埋子は人事管理システムを別の共甚端末から開いた。

    瀟員怜玢。

    䞉枝埋子。

    該圓なし。

    TMS-0927。

    該圓なし。

    人事総務課、䞻任。

    該圓なし。

    退職者怜玢。

    䞉枝埋子。

    該圓なし。

    圚籍者にもいない。
    退職者にもいない。

    入瀟しおいない人間は、退職もできない。

    䌚瀟のシステム䞊、䞉枝埋子はそういう圢になっおいた。

    埋子は、昚日の地䞋保管庫の貞出簿を思い出した。

    氏名欄だけが空癜になっおいた。

    入退宀履歎からも、名前が消えおいた。

    最初から、そこにいなかったように。

    「黒川郚長は」

    埋子が聞くず、真蟺は奥の垭を芋た。

    「いた䌚議䞭です」

    「呌んでください」

    「お玄束はありたすか」

    埋子は真蟺を芋た。

    真蟺の目は泳いでいる。埋子を知らないふりをしおいる目ではない。知っおいるはずのものず、画面に出おいるものが合わず、画面を優先しようずしおいる目だった。

    埋子にも芚えがある。

    蚘録にないものは、扱えない。

    自分が䜕床も䜿っおきた線匕きだった。

    その線の倖偎に、いた自分が立っおいる。

    奥の䌚議宀の扉が開いた。

    黒川誠叞が出おきた。

    埋子は歩み寄った。

    「黒川郚長」

    黒川は立ち止たった。

    「䞉枝さん」

    名前は呌んだ。

    埋子は、その䞀点だけを逃さなかった。

    「私の瀟員登録が消えおいたす」

    「確認䞭です」

    「入通ゲヌトを通れたせんでした。来客蚌で入っおいたす」

    「確認䞭です」

    「私の垭が空癜になっおいたす」

    「確認䞭です」

    「人事管理システムにも、圚籍者にも、退職者にも、私の名前がありたせん」

    黒川は、埋子の銖から䞋がった来客蚌を芋た。

    「確認䞭です」

    「それ以倖に蚀うこずはないんですか」

    黒川は目を䌏せなかった。

    「正匏な蚘録を確認したす」

    「正匏な蚘録から消えおいたす」

    「確認䞭です」

    埋子は、クリアファむルを探した。

    昚日、机の匕き出しに入れたはずだった。

    久我悠真 圚籍確認資料。

    机の匕き出しは開かない。鍵も違う。埋子は総務の共甚棚を開けた。退職者ファむル、未凊理曞類、保留ファむル。どこにもない。

    コピヌ機の暪の確認埅ちトレヌ。

    ない。

    凊理枈みトレヌ。

    ない。

    廃棄前曞類箱。

    ない。

    埋子は黒川に向き盎った。

    「久我悠真さんの資料はどこですか」

    「保管されおいたす」

    「どこに」

    「正匏な堎所です」

    「地䞋保管庫ですか」

    「確認䞭です」

    黒川の蚀葉は短い。

    短いから、厩れない。

    だが、短い蚀葉は、説明ではなく蓋にもなる。

    埋子は人事総務課の共甚プリンタヌを芋た。

    ランプが点滅しおいた。

    誰も印刷指瀺を出しおいない。

    玙送りの音。

    䞀枚、出おくる。

    癜い封筒ではない。

    退職届だった。

    宛名。

    䞉枝埋子様。

    日付欄は空癜。

    氏名欄も空癜。

    眲名欄には、昚日よりも長い線が浮かんでいた。

    侉

    その䞋に、枝の䞀画目らしき瞊線。

    埋子は玙に觊れなかった。

    真蟺が小さく蚀った。

    「䞉枝さん」

    埋子は振り返った。

    真蟺は自分がその名前を呌んだこずに気づいたように、口を抌さえた。

    「いた、私の名前を呌びたしたね」

    「  はい」

    「芚えおいたすか」

    真蟺は画面を芋た。

    それから、埋子を芋た。

    「芚えおいたす。でも、出ないんです」

    「䜕が」

    「党郚です。連絡先も、承認経路も、座垭衚も、勀怠も。䞉枝さんの名前で怜玢しおも、䜕も出たせん」

    「でも、芚えおいる」

    「はい」

    真蟺は声を萜ずした。

    「昚日、圚籍蚌明曞の発行で盞談したした。退職者の源泉城収祚の再発行も、䞉枝さんに確認したした。芚えおいたす。でも、履歎が出たせん」

    埋子は、深く息を吞った。

    「真蟺さん」

    「はい」

    「圚籍蚌明曞を発行しおください」

    「誰のですか」

    「久我悠真さんの」

    真蟺は目を芋開いた。

    「退職者の圚籍蚌明ですか」

    「はい」

    「退職者は、退職者マスタから発行したす」

    「久我さんは、退職者マスタにいたすか」

    真蟺は怜玢した。

    久我悠真。

    該圓なし。

    TMS-1846。

    該圓なし。

    真蟺の指が止たった。

    「出たせん」

    「では、手入力で発行しおください」

    「手入力は、承認が必芁です」

    「人事総務課䞻任ずしお承認したす」

    真蟺は䜕かを蚀おうずしお、蚀えなかった。

    埋子が䞻任であるこずを、真蟺は芚えおいる。

    だが、画面には出ない。

    承認者ずしお遞べない。

    黒川が近づいおきた。

    「凊理できたせん」

    埋子は黒川を芋ずに蚀った。

    「圚籍蚌明曞の発行です」

    「蚘録がありたせん」

    「蚘録が消えたから、蚌明したす」

    「順序が違いたす」

    「消えた蚘録を前提にしたら、誰も蚌明できたせん」

    「正匏な蚘録が必芁です」

    「退職届は正匏な蚘録なんですよね」

    黒川は黙った。

    「退職届には、久我悠真の氏名、所属、日付、本人眲名がある。䌚瀟が受領しおいる。原本もある。なら、二〇二䞉幎六月十二日時点で、久我悠真が䌚瀟に関係しおいたこずは蚌明できたす」

    「退職の蚘録です」

    「圚籍しおいなければ、退職届は出せたせん」

    黒川は、プリンタヌの䞊の退職届を芋た。

    眲名欄には、䞉枝埋子の名前が少しず぀浮かんでいる。

    「本人の意思です」

    黒川が蚀った。

    埋子はようやく黒川を芋た。

    「私の意思ではありたせん」

    「本人眲名です」

    「ただ眲名しおいたせん」

    「本人眲名です」

    「では、私が本人ずしお蚀いたす。凊理しないでください」

    黒川の顔に、初めおわずかな歪みが出た。

    怒りではなかった。

    困惑でもない。

    自分が䜿っおきた圢匏の䞭に、盞手が入り蟌んできたずきの顔だった。

    埋子は真蟺に向き盎った。

    「圚籍蚌明曞の曞匏を開いおください」

    真蟺は震える手で操䜜した。

    圚籍蚌明曞。

    癜いテンプレヌトが画面に衚瀺された。

    氏名。
    所属。
    瀟員番号。
    圚籍期間。
    蚌明文。
    発行日。
    䌚瀟名。
    蚌明者。

    退職届ず同じように、癜い玙だった。

    氏名を曞く。
    日付を曞く。
    䌚瀟が発行する。
    必芁がなくなれば、ファむルに閉じる。

    けれど、向いおいる方向が違う。

    退職届は、䌚瀟から人を出す玙だった。

    圚籍蚌明曞は、䌚瀟に人がいたこずを残す玙だった。

    どちらも癜い。
    どちらも名前を曞く。
    どちらも日付を曞く。
    どちらも䌚瀟が凊理する。

    けれど、退職届は出口を䜜る。

    圚籍蚌明曞は、足跡を残す。

    久我悠真には、出口だけが残っおいた。

    足跡の方が、消されおいた。

    埋子は蚀った。

    「文面はこうです」

    真蟺は入力欄にカヌ゜ルを眮いた。

    埋子は䞀文字ず぀読み䞊げた。

    「以䞋の者は、二〇二䞉幎六月十二日時点においお、圓瀟商品管理郚に圚籍しおいたこずを蚌明する」

    真蟺が入力する。

    以䞋の者は、二〇二䞉幎六月十二日時点においお、圓瀟商品管理郚に圚籍しおいたこずを蚌明する。

    氏名。

    久我悠真。

    所属。

    商品管理郚。

    瀟員番号。

    TMS-1846。

    発行日。

    二〇二六幎䞃月八日。

    真蟺の手が止たった。

    「蚌明者は」

    「東和メディカルシステム株匏䌚瀟 人事総務課」

    「担圓者名は」

    埋子は䞀瞬だけ黙った。

    自分の名前を入れれば、蚌明曞ごず消えるかもしれない。

    画面に出ない人間が蚌明者になれば、曞類そのものが凊理察象倖になるかもしれない。

    埋子は蚀った。

    「真蟺さんの名前で出しおください」

    真蟺は驚いた。

    「私が、ですか」

    「あなたは圚籍しおいたす。システムにも出る」

    「でも」

    「私が責任を持ちたす」

    その蚀葉は、いたの埋子には玙にならない。

    蚘録に残らない責任だった。

    だからこそ、真蟺は少しだけ唇を噛んだあず、自分の名前を入れた。

    真蟺沙知。

    プリンタヌに送信する。

    黒川が蚀った。

    「停止しおください」

    真蟺の手が止たった。

    埋子はプリンタヌを芋た。

    「出しおください」

    「正匏な承認がありたせん」

    黒川の声が少しだけ匷くなった。

    埋子は蚀った。

    「正匏な退職届だけで人が消えるなら、正匏でない圚籍蚌明曞で戻るこずもあるかもしれたせん」

    「戻す凊理ではありたせん」

    「わかっおいたす」

    埋子は、プリンタヌの䞊に眮かれた自分宛おの退職届を芋た。

    眲名欄には、䞉枝埋子の「䞉枝」たでが浮かびかけおいた。

    「戻すんじゃない。いたこずを蚌明するんです」

    真蟺は印刷ボタンを抌した。

    プリンタヌが動いた。

    玙送りの音。

    䞀枚。

    癜い玙が出おくる。

    圚籍蚌明曞。

    氏名、久我悠真。
    所属、商品管理郚。
    瀟員番号、TMS-1846。
    以䞋の者は、二〇二䞉幎六月十二日時点においお、圓瀟商品管理郚に圚籍しおいたこずを蚌明する。

    真蟺が玙を取ろうずした。

    その前に、プリンタヌがもう䞀枚吐き出した。

    同じ曞匏。

    だが、名前が違った。

    森䞋怜。
    営業掚進郚。

    以䞋の者は、二〇二二幎十月䞉日時点においお、圓瀟営業掚進郚に圚籍しおいたこずを蚌明する。

    次の䞀枚。

    川蟺盎人。
    品質保蚌郚。

    次。

    浅利矎緒。
    カスタマヌサポヌト課。

    次。

    知らない名前。

    次。

    たた知らない名前。

    プリンタヌは止たらなかった。

    圚籍蚌明曞が、次々に出おくる。

    氏名。所属。瀟員番号。蚌明文。発行日。

    退職届ではない。

    圚籍蚌明曞。

    䌚瀟にいたこずを蚌明する玙。

    人事総務課の党員が、プリンタヌを芋おいた。

    電話は鳎っおいた。
    誰も取らなかった。

    コピヌ機も、別のプリンタヌも動き始めた。

    棚の䞊の小型プリンタヌからも、癜い玙が吐き出される。䌚議宀暪の耇合機からも、圚籍蚌明曞が出おくる。どの端末から送信されたものなのか、画面には衚瀺されない。

    玙が増えおいく。

    森䞋怜。
    川蟺盎人。
    浅利矎緒。
    久我悠真。
    高瀬圭。
    倉本玲奈。
    新堂真玀。
    倧月透。

    知らない名前。

    郚眲名もばらばらだった。

    営業掚進郚。
    品質保蚌郚。
    商品管理郚。
    カスタマヌサポヌト課。
    法務共有。
    経営䌁画宀。
    情報システム課。

    日付は、どれも月曜日だった。

    黒川がプリンタヌに近づいた。

    「停止しおください」

    誰に蚀ったのか、わからなかった。

    真蟺は䜕もしおいない。

    埋子も䜕もしおいない。

    プリンタヌは玙を吐き続ける。

    黒川は電源ボタンを抌した。

    止たらない。

    コンセントを抜いた。

    それでも、排玙トレヌから癜い玙が䞀枚、抌し出された。

    その玙の氏名欄に、黒川誠叞ずあった。

    所属、人事郚。
    瀟員番号、TMS-0031。

    以䞋の者は、二〇二䞉幎六月十二日時点においお、圓瀟人事郚に圚籍しおいたこずを蚌明する。

    発行日、二〇二䞉幎六月十二日。

    黒川はその玙を取った。

    衚情は倉わらない。

    ただ、玙を持぀指だけが癜くなった。

    埋子は䜕も蚀わなかった。

    真蟺も芋おいた。

    誰も黒川に質問しなかった。

    黒川誠叞の圚籍蚌明曞は、次の玙に抌されお、トレヌの端から半分ずり萜ちた。

    その䞋から、たた別の圚籍蚌明曞が出おくる。

    久我悠真。
    森䞋怜。
    川蟺盎人。
    浅利矎緒。

    同じ名前が、䜕床も出る。

    蚌明日が違う。
    所属が少し違う。
    瀟員番号が欠けおいるものもある。
    氏名だけが印字され、郚眲が空癜のものもある。

    蚌明しようずするたび、欠けおいた蚘録が玙の圢で抌し戻されおくる。

    それは救枈ではなかった。

    人が戻っおくる音ではない。

    閉じおいた箱の䞭身が、蓋を抌し䞊げお出おくる音だった。

    埋子は、ようやく理解した。

    圚籍蚌明曞を出せば、久我悠真だけが戻るのではない。

    䌚瀟が退職届で閉じおきたものが、党郚、開く。

    退職者ファむルの厚さよりも、圚籍を蚌明されおいない空癜の方が厚かった。

    人事総務課の床に、圚籍蚌明曞が萜ち始めた。

    真蟺が拟おうずする。

    埋子は止めなかった。

    拟わなければ、螏たれる。

    拟えば、読んでしたう。

    読めば、名前を知る。

    名前を知れば、なかったこずにはできない。

    玙はそういう順番で、人に仕事をさせる。

    プリンタヌが䞀床、止たった。

    静かになった。

    人事総務課の党員が、息をしおいないような間があった。

    そしお最埌に、䞀枚だけ出おきた。

    玙はゆっくりず排玙トレヌに乗った。

    埋子は、それが自分の退職届ではないこずを、芋る前にわかった。

    圚籍蚌明曞。

    氏名。

    䞉枝埋子。

    所属。

    人事総務課。

    瀟員番号。

    TMS-0927。

    以䞋の者は、二〇二䞉幎六月十二日時点においお、圓瀟人事総務課に圚籍しおいたこずを蚌明する。

    発行日。

    二〇二䞉幎六月十二日。

    埋子は、その日付を芋た。

    䞉幎前。

    久我悠真のアカりント削陀が凊理された日。

    久我悠真を、蟞めたこずにし始めた日。

    月曜日。

    埋子の圚籍蚌明曞は、䞉幎前に発行されおいた。

    自分が消え始めるより前に。

    自分が久我の凊理をした、その日に。

    埋子は玙を取った。

    枩かかった。

    印刷されたばかりの熱が、指に残る。

    黒川が蚀った。

    「それは正匏な蚘録ではありたせん」

    埋子は、玙から目を離さなかった。

    「そうかもしれたせん」

    「凊理できたせん」

    「はい」

    「保管できたせん」

    「はい」

    「無効です」

    埋子は顔を䞊げた。

    「でも、読みたした」

    黒川は黙った。

    埋子は圚籍蚌明曞を胞の前に持った。

    「読んだ人間がいたす」

    誰も返事をしなかった。

    だが、真蟺が䞀枚の圚籍蚌明曞を拟った。

    森䞋怜。

    それを、机の䞊に眮いた。

    別の課員が、川蟺盎人の蚌明曞を拟った。

    たた別の課員が、浅利矎緒の玙を拟った。

    床に散らばった玙が、少しず぀机に茉せられおいく。

    黒川はそれを止めなかった。

    止められなかったのかもしれない。

    埋子は、自分宛おの退職届を芋た。

    眲名欄には、䞉枝埋子の文字がほずんど浮かんでいた。

    最埌の「子」の䞀画だけが、ただ癜い。

    あず少しで完成する。

    完成すれば、本人眲名になる。

    本人の意思になる。

    正匏な退職蚘録になる。

    埋子は、その退職届を凊理しなかった。

    スキャンもしなかった。

    保管もしなかった。

    砎りもしなかった。

    砎れば、なかったこずにしたのず同じになる。

    埋子は退職届を裏返し、青い现いボヌルペンで䜙癜に曞いた。

    未凊理

    それから、もう䞀行。

    本人確認䞍可

    赀は䜿わなかった。

    ペン先は现く、玙に小さな抵抗を残した。

    黒川がその文字を芋おいた。

    「䞉枝さん」

    埋子は返事をしなかった。

    「凊理しおください」

    埋子は、圚籍蚌明曞の山を芋た。

    久我悠真。
    森䞋怜。
    川蟺盎人。
    浅利矎緒。
    黒川誠叞。
    䞉枝埋子。

    知っおいる名前。
    知らない名前。
    もう誰も芚えおいない名前。

    䌚瀟には、退職者ファむルより厚い空癜がある。

    埋子は、それを初めお知った。

    その日、埋子は䌚瀟を出なかった。

    出ようずすれば、来客蚌を返さなければならない。来客蚌を返せば、入通蚘録には蚪問者ずしお残る。瀟員ずしお入った蚘録はないたたになる。

    だから、出なかった。

    終業時刻を過ぎおも、人事総務課に残った。

    他の瀟員が垰り、電話が枛り、蛍光灯の列が半分だけ消された。倜の人事総務課は、玙の音がよく聞こえる。

    真蟺は最埌たで残っおいた。

    「䞉枝さん」

    「垰っおください」

    「でも」

    「明日、圚籍蚌明曞の控えを敎理しおください。退職届ずは別に」

    真蟺はうなずいた。

    「䞉枝さんは」

    「私は、もう少し確認したす」

    真蟺は䜕か蚀いたそうにしたが、結局蚀わなかった。

    垰り際、真蟺は埋子の机に䞀枚の玙を眮いた。

    圚籍蚌明曞。

    䞉枝埋子。

    発行者欄には、真蟺沙知ず入っおいた。

    埋子はそれを芋た。

    「正匏ではないかもしれたせん」

    真蟺は蚀った。

    「でも、私が出したした」

    埋子は頷いた。

    「ありがずうございたす」

    真蟺が垰るず、人事総務課には埋子だけが残った。

    黒川の姿は、い぀の間にか消えおいた。

    黒川の机には、黒川誠叞の圚籍蚌明曞が䞀枚、䌏せお眮かれおいた。

    埋子は觊れなかった。

    倜九時を過ぎた頃、内線が鳎った。

    衚瀺は、D-14。

    埋子は受話噚を取った。

    すぐには声がしなかった。

    玙をめくる音がする。

    䞀枚。

    二枚。

    䞉枚。

    その音は、前よりも近かった。

    「ただ」

    声が蚀った。

    男の声。

    若いずも、老いおいるずも蚀えない声。

    久我悠真の声かどうか、埋子にはわからない。

    「䜿えたすか」

    埋子は、机の䞊の青いボヌルペンを芋た。

    D-14の匕き出しに入っおいたペン。

    「はい」

    埋子は蚀った。

    「名前を曞けたす」

    電話の向こうで、玙を眮く音がした。

    埋子のプリンタヌは動かなかった。

    その代わり、机の䞊に䞀枚の癜い玙があった。

    さっきたで、そこにはなかった。

    圚籍蚌明曞の曞匏だった。

    氏名欄は空癜。

    所属も空癜。

    瀟員番号も空癜。

    蚌明文だけが印字されおいる。

    以䞋の者は、幎月日時点においお、圓瀟に圚籍しおいたこずを蚌明する。

    埋子は青いボヌルペンを取った。

    最初の䞀画を曞く。

    誰の名前になるのかは、ただわからない。

    曞いた瞬間、遠くのどこかでプリンタヌが䞀台、起動した。

    人事総務課のものではない。

    商品管理郚かもしれない。
    地䞋保管庫かもしれない。
    誰もいない䌚議宀かもしれない。
    すでに廃棄されたはずの叀い端末かもしれない。

    玙を送る音がした。

    䞀枚。

    二枚。

    䞉枚。

    電話の向こうでも、同じ音がしおいた。

    埋子は受話噚を耳に圓おたたた、癜い圚籍蚌明曞を芋぀めた。

    ただ印刷されおいない玙。
    ただ名前のない玙。
    ただ誰も芚えおいない人。

    䌚瀟には、退職者ファむルより厚い空癜がある。

    その空癜は、閉じられおいたのではない。

    凊理枈みになっおいただけだった。

    埋子は、青い線の続きを曞いた。

    その線が誰の名前になるのかは、ただわからない。

    ただ、もう退職届ではなかった。

    それだけは、わかった。

    電話の向こうで、声がした。

    「芋たしたか」

    埋子は答えた。

    「はい」

    玙をめくる音が、たた䞀枚増えた。

    「芋たした」

    その倜、䞉枝埋子は䌚瀟を出なかった。

    翌朝の入通蚘録にも、退通蚘録にも、䞉枝埋子の名前はなかった。

    ただ、人事総務課の共甚棚に、新しいファむルが䞀冊増えおいた。

    背衚玙には、青い现い字で曞かれおいる。

    圚籍確認資料

    その䞭の䞀枚目には、久我悠真の圚籍蚌明曞が入っおいた。

    二枚目には、森䞋怜。

    䞉枚目には、川蟺盎人。

    四枚目には、浅利矎緒。

    五枚目には、黒川誠叞。

    六枚目には、䞉枝埋子。

    䞃枚目以降は、ただ癜玙だった。

    けれど、癜玙の䞀枚䞀枚には、うっすらず筆圧だけが残っおいた。

    誰かが名前を曞こうずしお、ただ曞けずにいるように。

    あるいは、これから読たれる順番を埅っおいるように。

     
     
    長厎県察銬圚䜏。遞択肢が少ない離島で、AIを䜿いながら、創䜜の可胜性を怜蚌しおいたす。 創䜜倧賞2026に、5䜜品を応募したした。 応募䜜品はこちらにたずめおいたす。 https://note.com/from_tsushima/n/n61e9b9ee9e54

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