
海鳴りのあとで|第十話 八脚の椅子
6月。
やっと海外出張から戻ったら、
今度は杏奈が忙しい。
なかなかふたりでゆっくり出来ないな…
ベラと由比ヶ浜を散歩しながら、ケンジは考えていた。
杏奈が落ち着いたら、ベラも泊まれる宿でゆっくりするとしよう。
スマホがピコンと鳴った。
あれ?玲奈さん?グループLINEじゃないのか?
「ケンジさん、そっちに遊びに行きたいの」
「いいですけど、今週は杏奈が忙しくて。来週なら杏奈もいますよ」
「ケンジさんはお仕事リモートよね?」
「そうですけど?」
「わかったわ!じゃあまたね」
バイバイと手を振る可愛いキャラクターのスタンプが送られてきた。
———
翌日。
そろそろ、昼飯にするか。
ひとり暮らしが長いから、簡単な料理は得意だ。フライパンひとつで作れるパスタにするかな。
またスマホがピコンと鳴った。
「ケンジさん、今、あのお蕎麦屋さんに来てるの。出てこない?」
「玲奈さん、急にどうしたんですか?」
「ちょっと、碧の事で相談したいことがあるの」
なんだろう。鎌倉まで来るなんて、
碧くんに何かあったのか?
とりあえず、蕎麦屋へ急ぐ。
「ケンジさん、こっち!」
玲奈が満面の笑みで手を振っている。
「急に来るなんて、碧くんに何かあったんですか?」
玲奈がいたずらっぽく笑う。
「それは口実。ケンジさんに会いたくなっちゃって」
なんだって?
びっくりして声も出ない。
「とりあえず注文して。
天ぷらの盛合わせは頼んであるの。
お昼だけど、ビールの一杯くらい、
いいわよね?」
「玲奈さん、僕は…」
「なあに?真面目な顔して。
今日来たのは杏奈には内緒ね!」
困った人だな…
姿勢を正して玲奈さんの目を見る。
「玲奈さん、
僕にとって玲奈さんは大切な人です」
「きゃっ、嬉しい!」
玲奈が嬌声をあげる。
姿勢を崩さず、淡々と続けた。
「でもそれは、杏奈の妹さんだからです。
僕にとって杏奈はかけがえのない、大切な妻です。生涯大切にしたいと思ってる。
杏奈が誤解をするようなことや
悲しむようなことはしたくないし、
玲奈さんご家族ともずっと良い関係でいたいと思っているんです。
剛さんも碧くんも陽葵ちゃんも…
とてもいいご家族じゃないですか。
玲奈さんは本当に幸せだと思いますよ。
今日の事は杏奈には黙っています。
でも金輪際、こういうのはやめて下さい。
玲奈さん、僕が言ってる事わかりますよね?」
玲奈がシュンとしている。
「ごめんなさい、ちょっとね、
杏奈が羨ましかっただけなの…
もうこんな事しないわ」
「分かってくれたらいいんです。
じゃあ蕎麦を食べて帰りましょう。
仕事中ですから、今日は飲みませんよ!」
まったく、困った人だな。
ひらひらと手を振ってタクシーに乗り込む玲奈を見送った。
———
7月。
鎌倉の花火大会まであと一週間。
今年はゲストが多いから、
たくさんお料理を準備しなくちゃ。
葉子は買い物リストのメモと睨めっこしていた。
玲奈さんのご家族は、何がお好きかしら?大学生と高校生の子達はたくさん食べるだろうな。
杏奈さんに聞いてみよう。
最近、頭の中は花火大会の事でいっぱいだわ。
いつもの蕎麦屋。
遠くに見慣れた顔が見え隠れしてる。バイトの石田くん、久しぶりに今日は来てるんだ。
夫がトイレに立った時だった。
「葉子さん、ちょっといいですか?」
「え、西田くん、どうしたの?」
「僕、見ちゃったんです」
「ん?何を?」
「葉子さんと同じマンションのイケメンさんいるじゃないですか」
「杏奈さんのご主人?ケンジさんのこと?」
「あ、その人です」
「ケンジさんがどうかしたの?」
「先々週くらいだったかな?
奥さんじゃない女の人とランチしにきたんです。なんだか声の大きい派手な感じの…」
「派手?玲奈さんかしら?
杏奈さんはいなかったの?」
「あ、その名前だ!
玲奈さん。そう呼んでました。
あの綺麗な奥さんは来なかったんです。
その玲奈さんて人、
杏奈さんのご主人に会いたかったー、
とか言ってて、盗み聞きしようとした訳じゃないですよ。聞こえてきちゃったんです」
「え、そんな事を?…」
夫が戻ってくると、西田くんはすっと厨房へ消えていった。
西田くんナイス。
夫はちょっと空気が読めないところがある。誰に何を言うか分かったもんじゃない。
玲奈さんがひとりでケンジさんに会いに来たの?杏奈さんは知ってる?
杏奈さん、6月は通訳の仕事で都内に通ってるって言ってたわ。
一体何がどうなってるの?
西田くんの話で、買い物リストは進まなくなってしまった。
夕食後、ぼんやりベランダで夜風にあたっていると、マンションからベラを連れて出て行くケンジさんが見えた。
「ちょっと杏奈さんのとこで、花火の打ち合わせしてくる」
夫にそう言って、ケンジさんの後を追った。
おせっかいなのはわかってる。
でも…
「ケンジさーん!ケンジさん待って!」
「あれ?葉子さん?
杏奈なら部屋にいますよ。
最近、仕事で疲れてるみたいだから
今夜は留守番してもらってます」
「ううん、違うの。
ケンジさんにちょっと聞きたいことがあるの。歩きながら話しましょ」
「え?どうしたんですか?」
わたしとしたことが、
鼻息荒く、問い詰めてしまった…
苦笑しながら、ケンジさんが
ことの顛末を話してくれた。
ひとしきり話し終わった後、
「葉子さん、僕はこの相模湾…いや、マリアナ海溝よりも深く杏奈を愛していますからね」
「まあ、ごちそうさま。
でも良かった、安心したわ」
「僕も鎌倉で顔が売れてきたって事ですかね。下手なことは出来ないなぁ」
と、笑っている。
「杏奈に心配かけたくないんで、内緒にしてくださいね。
玲奈さんにも金輪際ダメだって、釘を刺しておきましたから」
そうよね、日頃のケンジさんを見るとよく分かる。杏奈さんをとても大切にしてるもの。
さて、買い物リスト、作らなくちゃ。
結局、買い物リストはあまり役に立たなかった。
「今年はビールもワインもジュースも
こちらで用意します。
軽食やおつまみも持っていきますので、お皿とグラスだけ、すみませんが貸していただけますか?
6人で押しかけるんですから、それくらい、当たり前です!」
ケンジさんと杏奈さんに押し切られてしまった。
「じゃあ、食後のコーヒーとスイーツだけはまかせてね」
スイーツだけになっちゃったけど、
杏奈さんの姪っ子ちゃん、ハワイが好きだって言ってたわよね。
若宮大路のハワイアンドーナツにしようかしら?あそこのマラサダ美味しかったもの。
鎌人割で3個買えばおまけはひとつ、6個買えばちょうど8個になるし。
レ・ザンジュの塩味のクッキーもワインに合うのよね。それから…
おもてなしの準備をあれこれ考えるのは楽しい。
———
花火大会当日。
玲奈さん一家が到着する前に
ケンジさんと杏奈さんが訪ねてきた。
「今日はお世話になります!」
「あれ?ベラちゃんは?」
ベラちゃんが大好きなわたしのために、うちに来るときはいつも連れてきてくれるのだ。
「ベラは花火が怖いんです。
ストレスになると可哀想だから、
今日は横浜のブリーダーさんに預かってもらってて。
そこには兄弟犬もいるからベラも楽しそうだし」
「まあ、ワンちゃんもそうなのね。
うちも猫たちが花火を怖がるから
雨戸を閉めて、奥の部屋で『猫が喜ぶ動画』ってYouTubeを見せてるのよ。
人間はいいけど、花火は動物にはストレスよね」
わたしには猫たちが子どもみたいなものだけど、杏奈さん夫婦にもベラちゃんがそうなのね。
ケンジさん、まるでキャンプに行くような大きなクーラーボックス抱えてる。
大量の飲み物、ポテトチップ等のスナック、ワンハンドで食べられるラップサンドや唐揚げ、手毬寿司、肉巻きおにぎりまである。
「杏奈さん、これ全部作ったの?大変だったでしょう?それにしても綺麗な手毬寿司!」
「大学生と高校生にはこれくらいボリュームがないとね!わたしには素敵なお料理の師匠がいるの。いつか葉子さんにお引き合わせしたいわ」
優しい杏奈さんの周りにはやっぱり良い人が集まる。類は友を呼ぶってこの事ね。
ケンジさんと杏奈さんに手伝ってもらって、家のあちこちに置いてあるサイドテーブルとダイニングの椅子を集めた。
いつも夫婦ふたりでは少し持て余すルーフバルコニー。八脚の椅子を並べるとちょうどいい。
ケンジさんと杏奈さんは一旦引き上げていった。
あとはお客様を待つだけだわ。
この家にこんなにたくさんお客様を迎えるなんて初めて。
杏奈さんと出会ってから生活がカラフルに色付いてきたように感じる。
ご縁に感謝しなくちゃ。
19時前に杏奈さんとケンジさん、玲奈さん一家がドヤドヤとやって来た。
玲奈さんのご主人、
「本日はお招きありがとうございます!
本当に図々しく来てしまいました。
玲奈も子ども達も花火大会に行きたいと大騒ぎで…
これは名古屋の地酒とエビせんべい、あまり珍しいものではないんですが、召し上がっていただければ」
「お邪魔しまーす!こんばんは!
めっちゃ楽しみにしてたんですよ〜!嬉しいわぁ」
相変わらずね、玲奈さんは。
「お邪魔しま〜す!今日はありがとうございま〜す」
「ずーっと楽しみにしてました!」
碧くんと陽葵ちゃんがいると
うちの中が急に明るくなったみたい。
「ケンジさん、みんなを座らせて話相手しててくれる?わたし達もすぐいくから」
杏奈さんがテキパキと動いている。
姪の陽葵ちゃんも杏奈さんにちょこちょこくっついて、手伝っている。
可愛い子ね、杏奈さんがお母さんみたいだわ。
「陽葵ちゃん、ハワイが好きって聞いたから、おばさん、マラサダ買って来たんだけど、食べてみる?」
「わあ!マラサダ大好き!食べたいです!」
「じゃあ、もう座って食べててね。
たくさんあるからテーブルに運んでおいてくれる?碧くんも食べるかしら?」
「お兄ちゃん!マラサダ!
美味しそうだよ、どれがいい?」
碧くんもさっそく手を伸ばしてる。
兄妹でマラサダを美味しそうに頬張り始めた。
あれ?玲奈さんは?
ケンジさんが腰をおろしたら、玲奈さんがすぐさま、隣に陣取ってしまった。
「玲奈!イケメンの隣に座りたいんだったら、お父さんの隣に来なさい!そこは杏奈さんの席だ」
渋々、席を移る玲奈さん。
玲奈さんのご主人、良い味出してるわ。
くすっと笑ってしまった。
ドーン!花火が始まったようだ。
花火が上がる度に砂浜の方から歓声と拍手が聞こえる。

ドーン!
「た〜まや〜!」
ドドーン!
「か〜ぎや〜!」
玲奈さんがはしゃいでる。
それをご主人がニコニコして見てる。
大人の男性ってこういう人のことを言うのね。
玲奈さんのご主人とうちの夫が談笑してる。初対面で、ものの30分くらいでこの雰囲気って。
ご主人、コミュ力すごいな。
「杏奈、葉子さん、もう座ってください。一緒に花火を見ましょう」
ケンジさんに呼ばれて席に着いた。
花火に照らされたみんなの笑顔が眩しく見えた。
この夏は賑やかな夏になりそうだわ。

── 海鳴りのあとで Season1 完 ──
🌊ここまで『海鳴りのあとで』を見守ってくださり、ありがとうございました。
また海鳴りが聞こえる頃に、お会いしましょう。