
第六十六話 ザ・キャット
数日後。
〈吾輩は猫である初版本が発見!〉
〈漱石自筆の礼状とともに漱石記念館へ寄贈〉
そんな見出しが、新聞一面を飾った。
森山由佳さんが、「曽祖母の想いを未来へ伝えてほしい」と語り、
『吾輩は猫である』にちなんで猫の日の二月二十二日、
初版本三冊と漱石の礼状が新宿区立漱石山房記念館に寄贈されたと報じられていた。
その夜。
喫茶・エコーでは、小さなパーティーが始まっていた。
「ちょっと待って、それ俺の皿」
「早い者勝ち」
「餃子は三個ずつな」
「誰が決めた」
「今決めた」
笑い声。
魚幸の握り。
石山ベーカリーの新作パン。
マキさんのグラタン。
紺ちゃんが「余った」と言い張るおにぎり。
三島肉屋のチャーシューが堂々と皿の中央に鎮座し、
中華・麺長の餃子が湯気を立てている。
「新聞見た?」
「一面だぞ」
「でかすぎない?」
「猫の日だからだろ」
「にゃんにゃんにゃん」
「静かにしろ」
「由佳ちゃん、有名人だな」
「やめてください」
「サインくれ」
「いりません」
また笑いが起きる。
そこへ、例の窓際の女性がドアを開けて入ってきた。
「もう終わりですか? 珈琲一杯だけお願いできませんか?」
「もちろん!」
「今日は、こちらへどうぞ。お祝いの日ですから」
誰かが椅子を引いた。
「やっと参加だ」
「いつも電車見てる人だ」
「今日は電車、見ないの?」
「今日は……よくわからないけどこっちを見ています」
小さな笑いが起きる。
チャーシューが切られ、餃子の酢醤油が足りなくなる。
「紺ちゃん、それ三つ目だろ」
「数えるな」
「三島のチャーシュー、やっぱりうまい」
「脂がうまさだ」
「それは言えてる」
そのとき、シンさんがレコード棚に向かった。
「今日はこれだな」
針が落ちる。
流れ出したのは、
ジミー・スミスの『ザ・キャット』。
ハモンドオルガンがうねり、
ジャズのリズムが店内を跳ね回る。
「猫の日だからな」
誰かが指を鳴らす。
「吾輩は猫である、だろ?」
「猫だな」
音楽と笑い声が混ざる。
拓也は、その騒ぎの端で立ち上がった。
「……あの」
「どうした青年」
「しばらく、勉強に専念します」
「今さら?」
「遅い」
「受かるまで戻ってくるなよ」
「それは困る」
笑いが広がる。
「でも、また何かあったら」
「呼ぶよ」
「エコーは逃げないからな」
シンさんが言う。
「ここはな、巡る場所だ」
オルガンが高く鳴る。
外を、池上線の電車が走る。
カタン、カタン。
うるさい夜。
あたたかい夜。
小さな町を、昔も今も、そして今日も、
古い緑色の電車が静かに走っていく。
――完――