メインコンテンツへスキップ
見出し画像

夜風の匂いを独り占めする。

    ふとした時にどうしようもなく、全てを捨てて遠くへ逃げてしまいたい衝動に駆られる時がある。私のことを知っている人が誰もいないくらい遠いところへと、どこまでも遠くに行きたくなる。

    この間もそうだった。いつもはあまりいい顔をされない薄暗くなってからの外出も、家族が出掛けていたおかげで何も気にせずに外に出た。

    1人でショッピングモールに寄った帰り道、最初はただ、気休め程度の遠回りをしようと思って、1本外れた道を通って帰るだけのはずだったのに。夜風に刺激されてしまって、どうしようもなく、どこか遠くへ行きたくなって、家の反対方向へと歩き出し、いつの間にか2本も橋を越えていた。 薄暗かった空はもう真っ暗になっていた。

    先に家に着いた親からの、どこにいるの?いつ帰ってくるの?という心配の電話に、そろそろ帰るよ。と返しながらも足は、家とは反対方向を向いたまま。

    少しの罪悪感を覚えながらもそれ以上の背徳感に包まれて、暗い空と風の匂いを独り占めしているような気分だった。いつもは当たり前の信号の色も、車のライトも、まるで別世界に居るかのようにいつもとは違う色に見える。

    逃避行と言うには小さくて短すぎるけれど、そんな時間だけは、ずっと私を縛り付けている正体の分からない「何か」が私を手放してくれるんだ。頭も体も少し軽くなって、本当にどこまでも行けるんじゃないかと錯覚する。

    「それじゃあ本当にこのまま、すごく遠いところまで逃げ切ってしまおうか」
    なんて。現実味のない思考がふわふわと頭の中を支配しはじめてそんな甘い誘いに少し揺らぎそうになる。
    けれども全てを捨てる勇気なんて始めからなくて、帰るべき場所へと戻って行くんだ。

    折り返し地点に着き、やっと家の方向へと足が動く。ふと、少し先に黒猫を見つける。外が暗いから黒猫に見えたのか、はたまた本当に黒猫なのか...
    車も気にせず道路を渡り、河川敷へと消えていく黒猫に「いいなぁ」だなんてひとりごちる。

    少しずつ近づいてきた家からは僅かに明かりが漏れていて家族の元へと帰るはずなのに、何だか少し寂しい気分になる。最後の悪あがきで、わざと向かいの歩道へと1本余計に信号を渡った。


    家の前へと着くと、ひと呼吸ついて鍵を開ける。中に入ると1時間弱の逃避行で思っていたより体は冷えていたようで、少し寒いくらいのひんやりとした温度が、温かい空気に包まれる。
    鼻腔を掠めていた風の匂いは晩御飯の匂いに変わった。

    逃避行は終わってしまって、結局いつも私を苦しめる「何か」からは逃れることはできない。
    これを書いている今でさえも暗い部屋、布団の中で、どこかへと逃げ出したい衝動に駆られている。真っ暗な外を明るいと感じさせるほどに輝く月明かりに導かれてしまいそうだ。

    布団に入ったばかりで、体はまだ少し冷えている。けれどこの冷たさだけが、あの夜を独り占めした記憶として私の中に漂っている。おかげで少しだけ、優しく眠れるような気がした。

    あなたへのおすすめ