メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byms_kohn

【先生たちの裏側】お願いだから仲良くして!

    高校時代の担任に振り回されるように入った児童文学の同人は、教員がほとんどでした。

    でも中には、そうでない方もいたんです。

    出版社に勤めていたiさんは、そんな教員じゃない方の少数派の女性。

    iさんは、山登りが趣味でした。

    「山って、登って下りるだけなんです?」

    山登りなんて興味がなかった私の素朴な疑問に、iさんは少々戸惑い気味。

    「そうだけど……。山で食べるご飯は美味しいよ」

    美味しいモノは、どこで食べても美味しいのでは?

    若気の至りで、そんな事を思ったり。

    「でも近頃は、山に行けてないんだ」

    珍しく疲れた笑みのiさん。

    「何でです?」

    「毎週、休日出勤してるの」

    iさん、心底疲れました、って感じで言いました。

    「土日も働くって嫌だな……」

    「あのね。社会人は嫌とか言ってらんないの。学生のあなたには、まだ分からないでしょうけど」

    分かりませんよ。

    iさんが勤めていたのは、教科書とか参考書とかを作ってる会社。

    週刊とか月刊って訳でも無いんでしょうし、土日も働かなきゃいけない程忙しいってイメージがわきません。

    首を傾げる私に、iさんは、ちょっと親切にしようと思ったのか……。

    「わたし、今、地理担当なのね」

    はぁ……。

    「分からない?」

    なにが?

    「ソ連、崩壊しちゃったじゃん!」

    あっ。

    「国、分裂したりして、新しい国、出来ちゃってるじゃん!」

    おぉ……。

    「国が消えたり、出来たりするたびに仕事が増えるのよ」

    テレビで遠い異国の話って眺めてた事が、こんなお隣に座ってる女性に深く深く関係していたとは。

    去年までと国名が変われば、教科書や参考書も、新しい国名にしなきゃいけません。

    でも、あの頃はヨーロッパ中が、なんだかグチャグチャ。

    もうさ、とうんざりした顔でiさんは続けました。

    「民族だか宗教だか知らないけど、昨日までは、それなりにお付き合いしてた訳じゃない?」

    「そう……かもですね」

    「だったら、お願いだから仲良くして! って感じ。分裂とか独立とか止めて、って」

    もしかして、iさんが作る教科書で授業をしていた先生もいたのかも知れません。

    でも皆さん、しゃべるiさんに、なんて声をかけたら良いのか分からない様子。

    そりゃそうですよね。

    先生たちのせいで、ソ連が崩壊した訳じゃありませんし。

    よほどストレスがたまっていたのでしょう。

    iさんは珍しく興奮気味。

    でも、一気にしゃべった後、ふと我にかえった様子のiさん。

    「ま、民族も宗教も関係ないわたしが言うのもアレなんだけどね」

    小声で言いました。

    テレビで話題になってる事で休日出勤。

    社会人って辛いなぁ、って思った瞬間でした。


    翌年、iさんは会社を辞め、長野県に移住しました。

    「もう、山に飢えちゃってさ」

    iさんは言います。

    「山に呼ばれたって感じ?」

    「……呼ぶんです? 山って」

    「呼ぶ呼ぶ。山、呼ぶから」

    山に呼ばれたiさんは、山の麓で農業を始めました。

    退職した社会人を見たのも初めてでした。

    「農業も大変そうじゃないですか?」

    「どうせ振り回されるなら、天気の方が諦めつくよ」

    iさんはスッキリとした顔で笑いました。

    「朝、起きるじゃない」

    はぁ……。

    「目の前に山があるんだよ」

    雪をいただいた山並みを想像しました。

    寒そうですね、って私の言葉をiさんは、遮りました。

    「もう、サイコー」

    iさんの笑顔は、輝いていました。

    なんか強い人だな、って思ったんですよね。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    夫婦と猫と、秘湯と食。 日常の中にある小さな物語を、静かに書いています。

    あなたへのおすすめ