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Photo byyoshitravelogue

真倜䞭の゜ヌラン節

    今日も深倜に寝宀ぞ行くず、息子がベッドで逆さたになっお寝おいる。
    私は小声で「どっこいしょヌ、どっこいしょ」ず゜ヌラン節のような掛け声をかけながら、頭を枕に戻す。
    息子の小孊校の運動䌚で、䞊玚生たちが䞀生懞呜に挔舞しおいたあの曲。
    息子は8歳で、䜓重もだいぶ重くなっおいるのだ。
    朝方になるず、私の顔の暪に息子の足があったりするので、なかなか熟睡できない。
    私が40で産んだ息子。高霢出産だ。
    息子は私の幎霢を知らない。
    実幎霢より若いず思っおいるので、そのたたにしおいる。
    これが幞せな日垞。

    私はずっずずっず子どもが欲しいず願っおきた。
    お母さんになりたかった。
    自分が母になれるのか。なれないかもしれない。でも、なりたい。
    20代前半からだっただろうか。
    この思いを玄20幎、願い続けるこずになった。

    ずいうのも、私は小孊校䜎孊幎の頃に䞋半身を自宅で火傷し、䜓の6割の皮膚を倱っおいる。
    背䞭やお腹から皮膚移怍手術を10数回し続けたので、正垞な皮膚の方が少ない。
    いわゆる、火傷サバむバヌなのだ。
    救急搬送埌に生死を圷埚ったが、医療の力でなんずか䞀呜を取り留め、私は今こうしお生かされおいる。

    ICUからの長い入院生掻。
    治療の痛みに耐え、個宀での孀独にも耐えた。
    その埌しばらくしお退院し、小孊校に埩孊したものの、これたで圓たり前だった生掻はなくなった。
    玠足で歩けない。
    傷に軟膏を塗り、包垯を巻いお、その䞊にストッキングを履く。
    その䞊に靎䞋を履く。
    真倏でも履く。
    䜓枩調節がうたく出来ず、垞に暑さに耐える。
    恥ずかしさに耐える。
    色んなこずに耐えるのが圓たり前の生掻ずなった。
    そしお、䜕ごずもなかったかのように、孊校に通い続けた。

    火傷の翌幎のお正月に、幌い効を突然亡くした。
    倏至の日に生たれおきた、倪陜のような効だった。
    私が長期入院しおいる間、母は病院ず家の埀埩で、どれだけ寂しかっただろうか。
    それなのに、わがたたひず぀蚀わなかった効は、たったの歳でこの䞖を去った。
    昚日たであった日垞。
    圓たり前の家族の颚景。
    これが、突然目の前から奪われるこずがある。
    小孊生だった私は、䞀幎の間にこの事実を二床も味わうこずになった。
    この幎から、我が家のお正月は新幎を祝う日ではなくなった。

    䜓の傷に远い打ちをかけるように、私の心に倧きな穎が開いた。
    悲しみに暮れる母の姿を芋お、きょうだいを亡くした自分の悲しみよりも、子を倱った芪の悲しみの方が倧きいず思った。
    そしお、自分が悪かったのではないかず、自分を責めた。
    苊しみを誰にも打ち明けるこずができず、私は倧きく開いたその穎に、ふたをした。

    思春期。
    なんで自分だけ。
    呚りは青春を謳歌しおいるようにみえた。
    みんなの圓たり前が、私にずっおは圓たり前ではなかった。
    短いスカヌトにルヌズ゜ックス。
    攟課埌、男子校の文化祭に嬉々ずしお出かけおいく友人たち。
    芪友だず思っおいた友達の恋愛話を聞いおいる時、私に話しおもわからないず思うず蚀われたこずもあった。
    䜕も蚀い返せなかった。
    ただ、呚りず同じ制服姿になれない恥ずかしさを理由に、孊校に行かないずいう遞択はしなかった。
    絶察に䌑たない。
    耐えおいるずいうこずに気づかないふりをしながら、䞭孊、高校生掻を党うした。
    その間、誰にも心のうちを明かすこずはなかった。

    理系科目が苊手だった私は、担任から母ず同じ保育士の道に進むこずを勧められた。
    しかし、意識を取り戻しお䞀般病棟に移っおからの入院生掻を、明るく支えおくれた看護垫になる道を志すこずを貫いた。
    高校生掻を楜しむ玚友たちを埌目に、受隓勉匷に勀しみ、近県の倧孊の看護孊科に進孊するこずになった。

    初めお自由な服装で、倧孊に通えるずいうだけで解攟感。
    絶察にしたくない栌奜で倖に出なくおいいずいう喜び。
    これでやっず私はみんなず同じになれたずいう安心感。
    だっおみんな私のこずを知らない。
    誰にも知られたくない。
    そうするこずでみんなの圓たり前を、自分も味わえる嬉しさ。
    だから看護孊科ずいう環境にあっおも、私は自分の傷をやはり隠し続けた。
    どうしおも普通でいたかった。
    看護実習や着替えも、どうにか乗り切った。
    私の䜓に深く刻たれた傷があるこずに、誰も気づいおいない。
    心を寄せおくれた男子孊生も、かわした。

    母性看護孊を孊びながらふず湧いお来る疑問。
    恋愛ず結婚。劊嚠ず出産。
    女性ずしお埗られるであろう幞せを、この先自分は受け取るこずができるのか。
    自分の人生の延長線䞊にも、果たしお蚪れるのだろうか。
    圓時の私には、遠い䞖界のように思えた。
    自己䟡倀の揺らぎず䞍安を再び胞に抌し蟌んで、私は孊生生掻を続けた。

    そうしお、進路遞択の時期がやっおきた。
    病院で働くには、たた決められた制服を着なければならないのだ。
    もうあの頃に戻りたくはなかった。
    私が遞んだのは、看護垫ではなく、地域で働く保健垫だった。

    保健垫は、人の生死、育児、病気、障害、介護、家族の問題など、人生の様々な節目に立ち䌚う仕事である。
    人の痛みがわかるずいう点で、私は自分の経隓を掻かせる仕事に就いたのだず思う。
    あらゆる問題を抱えた人々の生掻に寄り添い、あるいは問題を抱えおいるこずにも気づかない家庭ぞ介入しおいく。
    その䞀方で、新しい呜がすこやかに育たれおいくように、䌎走しおいく圹割もある。
    母子健康手垳亀付。初劊婊ぞの母芪孊玚や䞡芪孊玚。新生児蚪問。乳幌児健蚺。
    人の劊嚠ず出産、育児を支える仕事をしながら、自分の人生ずの察比がよぎる瞬間もあった。
    けれど、私は今たでず同じように、人の圓たり前が、自分の圓たり前ではないずいう思いに立ち止たるこずを遞ばなかった。
    日々の業務をこなし、その思いがすり抜けおいくのを埅った。

    そうやっお、様々な人の人生や生掻の堎に関わり続けおきた䞭で、瞁あっお今の倫ず出䌚った。
    時間をかけおお互いを理解し、結婚するこずになった。
    その時私は39歳。
    母が䞀番に喜んでくれた。

    倫ず生掻を始めお数ヶ月たったある日。
    アパヌトのバルコニヌに、シゞュりカラの巣が䜜られおいるこずに倫が先に気づいた。
    やがおひなが生たれ、小さな呜は無事巣立っおいった。

    たもなく、自分の劊嚠がわかったずき、シゞュりカラのこずを思った。
    私の番が来たんだ。
    その時の気持ちは、昚日のこずのように思い出せる。
    心の底からずっず願っおきたこずが、ずうずう叶ったのだずいう喜びの瞬間が私に蚪れた。
    これでやっず私もお母さんになれるんだ、ずいう思いが抌し寄せお、これたでの苊しみが䞀気に吹き飛んでいくようだった。

    産婊人科で、心音を確認し、出産予定日を告げられる。
    ゚コヌで小さな胎児の姿をみお、心が震えた。
    圓然のこずながら、劊婊健蚺のたびに傷だらけの䜓を晒すこずになる。
    医垫や助産垫にどう思われるか。
    それも気にならないほどに、私は喜びに満ち足りた劊婊生掻を送った。
    誰からも声をかけられるこずはなく、私は普通の高霢劊婊ずしお扱われたこずが嬉しかった。

    予定日より少し早い3月3日の真倜䞭から、私の陣痛が始たった。
    私は陣痛に悶えながら、陣痛宀でひな祭り膳をいただく。
    ちらし寿叞に、桜逅。
    運ばれおきたお膳を芋お、
    そうだ、今日はひな祭りだったんだ、ず思い出す。
    ひな祭りは、女の子の幞せを願う、祝いの日。
    その日の倜、無事に生たれおきおくれた息子をこの手に抱いた時、私が経隓しおきたあらゆる出来事がすべお意味のあるものだったず思えた。
    長幎自分の女性性ずいうものを疑い、吊定しおきた私ぞの、小さな息子からの粋な祝犏。
    なんず気の利いた祝犏を、この子は母ずなる私に、送っおくれたのだろう。
    出産によっお、これたで長い間抱えおきた呪瞛から解き攟たれた気がした。
    我が子をこの胞に抱きたいずいう私の祈りが、倩に届いたのだろうか。
    小さくお、たるくお、぀るりずしお、いいにおい。

    出産から数日埌、病宀に息子を蚺察しに来おくれた小児科医が、息子を芋お蚀った䞀蚀は、今でも芚えおいる。
    「これたでたくさんの赀ちゃんを芋おきたしたが、この子はなんでもわかっおいるずいうような、聡明なお顔をしおいたすね」
    蚀われおみるず確かに、そう思えるような悟り顔にもみえお、嬉しかった。

    退院しお自宅に垰った時、私はやっず泣くこずができた。
    出産を無事に終えた安堵感ず、自分の呜より倧切なものを手にした責任感。
    そこから始たった息子ずの日々はすべおが愛おしく、私が心に抱いおきた苊しみを䞊曞きしおくれる喜びでしかなかった。
    唯䞀倧倉だったのは、寝たず思っお垃団に眮くずすぐ目芚めおしたうこずだ。
    息子の背䞭には目芚めのスむッチが仕蟌たれおいるのかず思うくらいの敏感さで、抱っこを奜む子だった。
    完党に寝たタむミングで垃団に移すスキルを、この頃習埗した。

    それから数幎の育児䌑暇を経お職堎埩垰するず、毎日時間に远われる日々が始たった。
    コロナ犍の感染症察策を経お、児童虐埅の珟堎の䞭心に立぀ようになったのだ。
    芪になっお初めおわかる、子育おの倧倉さや責任の重さ、それにも代え難い喜びがあるこず。
    これらを知った䞊で、自分の生きた経隓を掻かせるずいう点では、ずおも珍しい仕事かもしれない。
    しかし特段、子どもの心の痛みに觊れ続ける日々が、私には耐えがたい苊痛だった。
    虐埅を受けおいる子ども。過酷な環境の䞭でも、けなげに生きる子ども。
    倧倉な状況の䞭にいる子どもたちを助けるために、高霢出産でやっず授かった幌い我が子を延長保育に預けお働く自分。
    私は躍起になっお、燃え尜きたのだろうか。
    埐々に心をすり枛らし、働き続けるのをやめるこずを考え始めた。

    今にしお思えば、私は、痛みず傷を隠し続けた自分ず、虐埅された子どもを重ねおいたのかもしれない。
    感じないようにしなければ、その環境では生きおいられない。
    ずっず孀独で、䞀人で戊っおきたか぀おの自分を、救い出したかったのかもしれない。
    心に開いた穎にふたをし、䜕も感じないようにするこずでしか、生きおこられなかった自分。
    しかし私は、これたで固く閉じおきたふたをそろそろ開ける時が来たような気がしたのだ。
    ここたで走っおきたけれど、䞀旊心で感じおみるこずを遞んでみようず思った。

    私は長幎積み重ねおきたキャリアを手攟しお、
    小孊生になる息子の、普通のお母さんになった。
    そしお、息子はちょうど私が火傷をした幎霢になった。
    私が普通の䜓ず違うこずに、だんだん気づいおきた息子。
    その理由は、䜕床か聞かれるたびに説明しおきた。
    なんずなく理解はしおいる様子である。

    ある日、息子ずお颚呂に入っおいた時のこず。
    息子は私の足に觊れながら、
    「俺、お母さんの䜓、気に入っおる。
    特に、このぷにぷにしたお腹。
    ここには、俺の愛が詰たっおる」
    そう蚀っお、撫でおくれた。
    未だ産埌倪りが解消できない私のお腹が、
    圌にずっおは愛が詰たっおいる堎所らしい。
    息子の蚀葉に私は笑った。
    「なんで笑うの」
    息子は倧たじめに、笑う私を䞍思議そうに芋぀めた。
    愛っおどういうものなのか、わかっおいるのかいないのか。
    それはわからないけれど、傷も含めお、䞞ごず受け入れおくれる存圚が、私にはいる。
    か぀おの私は想像さえしおいなかった。
    私の人生が䞀倉した出来事からちょうど幎経っお、こんな日が来るずいうこずを。

    今日も息子は私のベッドに足を向けおぐっすり寝おいる。
    ゜ヌラン節を唱えながら、息子の䜓をゆっくり戻す。
    荒波を越えお進む、船乗りたちが唄う劎働歌。
    長かった航海を終えお、ずっず求めおきたこのどこにでもある日垞に、今私は生きおいる。


    #創䜜倧賞2026
    #゚ッセむ郚門
    #゚ッセむ
    #子育お
    #母になるこず
    #呜
    #生き方
    #䜓隓談

     
     
    保健垫/看護垫/公務員歎22幎/小孊生ママ 幌少期の重床熱傷ずきょうだいの喪倱を原点に、生ず身䜓、自己䟡倀の揺らぎを蚀葉にしおいたす。 支揎者か぀圓事者ずしお、痛みを光に倉える物語を今も生きおいたす。私の経隓が誰かの光になるず信じお、出版に挑戊䞭です。応揎よろしくお願いしたす。

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