深煎り(1005字)コーヒーショートショート⓪
「ブレンドでよろしいですか?」
店員の決まり文句に、私は小さく息を呑んだ。
濡れたコートを腕に掛けたまま、傘立てから落ちる水滴をぼんやりと眺める。定時で会社を出たはずなのに、鞄の中でスマートフォンが二度震えた。画面を見なくても分かる。上司から、明日の会議で使う資料についての連絡だ。
店内には、挽きたての豆の香りと静かなジャズが流れている。その穏やかさだけが、仕事帰りの私には少し遠かった。
メニューの最上段には、「ブレンド」とだけ書かれている。
無難で、気軽で、いつもの一杯。普段なら何も考えずにそれを選び、コーヒーを待つ間だけ頭を空っぽにしていただろう。
けれど、その日は違った。
視線は、その少し下に並ぶ二つの名前に引き寄せられていた。
エチオピア・イルガチェフェ。
華やかな果実味と、軽やかな酸味。
マンデリン・シナール。
深いコクと、力強い苦味。あとから静かに広がるスパイスの余韻。
光と影。
そんな言葉が、不意に頭をよぎった。
エチオピアを選べば、今日という日を少しだけ忘れられる気がした。柑橘を思わせる酸味が、胸の中に溜まった重苦しさを洗い流してくれるかもしれない。ただ、あと少しだけ仕事から離れていたかった。
けれど、マンデリンという名前は、静かにそこにあった。
逃げるための一杯ではなく、立ち止まるための一杯。
苦味を味わうことは、今日という一日を否定せずに受け入れることなのかもしれない。
苦かった日を、甘いもので塗り替えるのではなく、その苦さごと飲み込むこと。
それが、明日へ向かう力になる気がした。
店員は急かすこともなく、穏やかな笑顔で待っている。
沈黙は、ほんの数秒だった。
それでも私の中では、二つの産地が、今日の私をめぐって静かに向き合っていた。
「……マンデリンを。ホットでお願いします」
ようやく口にした言葉に、店員は小さくうなずく。
「かしこまりました。深煎りですので、少々お時間をいただきます」
その一言が、不思議と胸に残った。
窓の外では、雨が少しだけ強くなっていた。
鞄の中でスマートフォンが、もう一度震える。
私は手を伸ばさなかった。
代わりに、ゆっくりと店内に漂う香りを吸い込む。
やがて運ばれてきた黒い一杯から、湯気が静かに立ち上る。
最初のひと口は、思っていたよりも苦かった。
けれど、その苦味は嫌ではなかった。
舌の上に残る余韻を味わいながら、私はもう一口、静かにカップを傾けた。
鞄の中では、スマートフォンがまた震えていた。